文字サイズ

    東海林の人々と日本近代(十二)昭和篇 ⑦

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2022.12.17

    昭和十八年(一九四三)タツミ四十二歳、祐十八歳、カズ十五歳、利孝十三歳、ミエ十歳、石山皆男四十三歳、鵜沼弥生四十一歳、田中伸三十六歳。


    一月一日、『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』が『毎日新聞』に統一された。谷崎潤一郎「細雪」(『中央公論』)が連載禁止になった。中央公論社はこの「細雪」の件で軍部に睨まれるようになるのだが、今読んで、それほど反軍的な内容だとは思えない。ただ没落したとは言いながら、かなり贅沢な一家の話だから、「ぜいたくは敵だ」のスローガンに反するのである。

    中野正剛が『朝日新聞』に「戦時宰相論」を発表し、暗に東条を批判し発売禁止になった。


    ・・・・ヒンデンブルグ、ルーデンドルフは個人としては固より強かつたに相違ない。されど・・・・全軍の総指揮権を握つた刹那、彼等は半可通の専制政治家に顛落した。独逸の全国民があれだけ愛国心に燃え、最前線の少年兵が虚空をつかんで斃れても、猶ほ巴里の方向ににじり寄らんとした光景、それが彼等の眼には映らなかつたのか。彼等は国民を信頼せずして、之を拘束せんとした。彼等は生産能力に対して何等の認識なく、「補助勤務案」なるものを提出し、「満十五歳より六十歳に至る全男女に労役義務を課する」ことを強行した。これが所謂「ヒンデンブルグの絶望案」である。それは国民の自主的愛国心を蹂躙して、屈従的労務を要求するものであり、忽ち生産力を滅退して、随所に怨嗟の声を招き、遂に思想の悪化による国民的頽廃を誘致したのである。ヒンデンブルグとルーデンドルフとは、戦線の民衆即兵士と共にある時には強いが、国民感情から遊離し、国民から怨嗟せらるるに及びては、忽ち指導者としての腰抜けになつてしまつた。(後略)


    後に中野が自殺を強いられる遠因がここにあった。これを読んで東条批判だと気付いた東条も勘が鈍くはなかった。東条内閣は次第にヒステリックなものになっていく。


    一月八日(金)

    『ジャパン・タイムズ』が『ニッポン・タイムズ』に改名、『東京日日新聞』が『毎日新聞』に改名。バタビアがジャカルタに改名--マレイがマライに。名前をかえることが一番楽な自己満足だ。

    文化は交流により発達するか、それとも純粋を保つことにより発達するか。後者なればナチスは最善の政策だ。ドイツはすでにドストエフスキーの文学などを禁止したとこのことだ。(清沢冽『暗黒日記』)


    改名の例を他に挙げれば、『サンデー毎日』が『週刊毎日』に、『エコノミスト』が『経済毎日』に、『キング』が『富士』に、『オール読物』が『文藝読物』に変わった。そして三月には野球用語が日本語化された。

    一月十三日、米英の音楽の演奏(レコードも含む)が禁止された。演奏だけではなく楽譜の販売も不可になる。


    退廃音楽を追放――決戦下の日本に米英の退廃音楽が普及している事は驚くべきことで、開戦一年余、いまだにジャズのひどいレコードがバーや喫茶店で演奏されている現状にかんがみ、内務省と情報局で協議の結果、此の程ジャズレコードを中心とする約一千種のレコードを演奏不適当のものと発表、各方面の自発的停止を要望した(『音楽之友』)


    敵国の楽譜廃棄――破棄の標準となるものは以下のごときものである。

    ①単行の米英曲譜はジャズたると何たるとを問わず、一切破棄する。

    ②曲集で大部分が米英音楽のものは、曲集全部を破棄する。

    ③曲集中一部米英音楽が含まれているものは、ジャズの場合は切り取るか、または使用不可能なまでに抹消する。ジャズ以外の曲譜の場合は『敵国の楽曲につき演奏を禁ず』の朱印を捺したうえで販売してもよい。(『音楽文化新聞』)


    学校の卒業式で『蛍の光』と『仰げば尊し』までが禁止された。『蛍の光』は英国民謡であり、「仰げば尊し」は感傷的で決戦下に相応しくないという理由である。偶然だが、『仰げば尊し』の原曲はアメリカ曲『Song for the Close of School』であることが、平成二十三年(二〇一一)桜井雅人によって発見された。役人の勘は鋭かったというべきだろうか。ただこれは学校現場のみに出された通達で、一般に禁止されなかった。山中恒が、上山敬三『日本の流行歌』が語るエピソードを紹介していて興味深い。


    そのころのある日、私は東条英機首相に会う機会を持った。(中略)
    雑談のあと、私は米英音楽禁止のことにふれた。
    「総理は〝蛍の光〟をうたってはいけなくなったことをご存知ですか?」
    「知らんね。それはどういうことかね?」
    「英国の曲だから、というのです。」(中略)
    「けしからん、わしは何も知らん」
    と東条氏はしきりと憤慨した。そしてしばらくしていった。
    「ウム、〝蛍の光〟は君、だれでも小学校のときからうたって日本の歌になりきっているじゃないか」
    ――ほんとうに知らなかったのか、おとぼけなのか、私にはわからない。独裁者にはえてして目の届かぬ場がある。日本を不幸におとしいれた最大の責任者東条英機首相との〝蛍の光〟談義をいつまでも私は忘れることが出来ない。あの人の胸にも小さな一つの歌が生きていたのか、と考えるとそぞろもののあわれを感ずる。(山中恒『ボクラ少国民』第三部「撃チテシ止マム」より)


    二十二歳の山田風太郎は上京して沖電気で働き、医専受験の夢を見ながら驚異的な量の本を読み、考えている。満で二十一歳の若者が、この時代に全体主義について疑念を持つのは稀有な知性だと言える。


    戦争は罪悪だと、今は誰も公言さえしなくなったのは勿論、もはや殆ど本気で、狂乱的に殺人を続けているのだ。どちらが負けても、恐るべき不幸が地球上の一角に生ずる。ただそれを自国たらしめない為に、各国は死に物狂いになっているのだ。悲しいことだが、野獣の闘争と同様、疲労と倦怠を以てその終局を待つの外はなかろう。

    しかし、自由主義に対して全体主義を以て挑戦したのもやはり人類である以上、自由主義が今や人間に完全なる満足を与えるものでないことはすでに明白になった。かといって、全体主義も、何処か人間性を無視した脆弱さが見える。共産主義――こいつが案外、戦後の地球を覆うかも知れぬ。が、それも全体主義同様、人間性を無視しているから、永久的なものとは断じて言えない。(『戦中派虫けら日記』)


    東部ニューギニアのポートモレスビー陸路攻略作戦の拠点であるブナ守備隊が全滅した。増援を含む守備隊千五百人と海軍の陸戦隊四百人、非戦闘員中心の設営隊六百人、合計約二千五百人のうち、陸軍の百八十名、海軍の百九十名がブナを脱出、捕虜となったものが五十名。戦死者は二千人を上回った。大本営はいつもの如く、「ブナ付近に挺進せる部隊は寡兵克く敵の執拗なる反撃を撃攘しつつありしがその任務を修了せしにより、一月下旬陣地を撤し他に転進せしめられたり」と発表した。

    二月一日、ガダルカナル撤退が始まった。補給が閉ざされ飢えに苦しみ弾丸も尽きた日本兵に、圧倒的な機械力をもった連合国軍と戦う力はとっくに失われていた。ただ死ぬまでの期間を生きているだけだった。兵士の間では生命判断が流行した。


    立つことの出来る人間は、寿命三十日間。身体を起して座れる人間は、三週間。寝たきり起きれない人間は、一週間。寝たまま小便をするものは、三日間。もの言わなくなったものは、二日間。まばたきしなくなったものは、明日。(亀井宏『ガダルカナル戦記』より)


    転進命令を伝えるため、第八方面軍(司令官今村均中将)参謀井本熊男中佐が十七軍司令部に到着したのは一月十五日深夜、そして十七軍司令官百武晴吉中将が撤退を決意したのが翌日のことである。兵には撤退は告げずに、総攻撃のため一月三十日を目標に集結地エスペランス岬及びカミンボに集まれとの命令が出された。全島に展開している兵への伝達も簡単ではない。基本的には人が歩いて伝えていくのである。撤退作戦は三次に及んで、最後まで残った松田教寛大佐の部隊が乗船したのが、二月七日午後九時半頃であった。帰途、松田大佐、笹川濤平海軍中佐の連名で電報が発信された。


    二月七日二二〇〇、二万ノ英霊ノ加護ニヨリ「ガ」島残留ノ総員一千九百七十二名ノ収容完了シタルヲ報告ス。収容ニ協力セラレタル陸海軍ノ各部隊ニ対シ深く感謝ス。


    しかしジャングルに隠れて撤退を知らなかった者、体力的に集合場所に集まれなかった兵もある。いずれにしても、日本海軍にはこの船を最後に、これ以上救出の船を出す力は残っていなかった。投入された兵員三万二千名、撤退できたのは一万二千余名であった。戦闘での戦死者は五千、飢餓による死者が一万五千と推定されている。


    ・・・・ガダルカナルに直接投入されたのは、・・・・・小作農という半封建的な生産関係にしばられた零細農耕地帯の出身者によって構成された部隊がほとんどである。これら一部の地方は、現在でも、いわゆる‶出稼ぎ〟労働力の供給地であるが、当時は、さらに帝国軍隊の尖兵の供給地だったのである。彼らは生真面目、寡黙、忍耐力、果敢などの特質を買われて、つねに激戦地へやられた。(中略)

    あの時期、対米戦を避けるためには、国民の意識をもふくめた根こそぎの一大変革が必要だったのだが、その実現は不可能であったであろう。いってみれば彼等死者たちは、われわれ日本人が長い迷妄から醒めるために身替りとなったのである。(亀井宏『ガダルカナル戦記』文庫版のあとがき)


    もはや制海権、制空権とも米軍がほぼ掌握したのである。これ以上の戦争は無駄に犠牲を増やすだけになる。戦死者には酷な言い方だが、それは「犬死」でしかない。しかし大本営発表は「目的を達成」「転身」と言うばかりだ。日本軍に「降伏」という観念があったならば、無駄な死は避けられた筈だ。


    ガダルカナルの作戦は、大東亜戦争の陸戦のターニング・ポイントであった。海軍敗北の機縁がミッドウェー海戦であったとすれば、陸軍が陸戦において初めて米国に負けたのがガダルカナルであった。サミュエル・モリソンは、「ガダルカナルとは、島の名ではなく感動そのものである」と述べ、これに対して伊藤正徳は、「それは帝国陸軍の墓地の名である」とそれぞれ書いている。この戦闘以来、日本軍は守勢に立たされ続けるのである。(戸部他『失敗の本質』)


    二月二日、スターリングラードのドイツ軍が降伏した。これ以後、ドイツ軍は局地的な勝利を得ることはあっても、ソ連に勝利する可能性は全くなくなった。そして、北方領土の問題も遡ればこの独ソ戦に行きつくのである。


    (スターリンは)スターリングラードの勝利以後は、ソ連のみが不均衡なほどにドイツの圧力を引受けている、その代償として勢力圏の拡大を認めよと述べるまでになった。その要求は、モスクワにおける連合国外相会談(一九四三年一〇月一九日~三〇日)などで、しだいに具体的になっていく。・・・・・・ソ連という重要な同盟国をつなぎとめる必要から、米英もこれを認めざるを得ない。(大木毅『独ソ戦』)


    二月十八日、出版事業令が公布され即日施行された。国が必要と認めたときは、出版社の廃止まで命令できることになったのである。


    第四条 主務大臣ハ出版事業ノ整備ノ為必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ出版事業主ニ対シ事業ノ譲渡若ハ譲受又ハ会社ノ合併ヲ命ズルコトヲ得

    第五条 左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ主務大臣ハ当該出版事業主ニ対シ其ノ事業ノ廃止又ハ休止ヲ命ズルコトヲ得

    一 前条第一項ノ規定ニ依ル命令又ハ同条第二項ノ規定ニ依ル裁定ニ従ハザルトキ
    二 第六条ノ規定ニ依ル団体ノ定款又ハ統制規程ニ違反シタルトキ
    三 当該新聞事業ノ運営ガ国策ノ遂行ニ重大ナル支障ヲ及ボシ又ハ及ボスノ虞アルトキ


    雑誌統合や出版社統合の動きは、皆男の務めるダイヤモンド社にも影響を及ぼした。ダイヤモンド社と東洋経済の統合買収である。この動きは当然皆男も知っていた筈だ。


    昭和十八年、政府は軍需産業の強化のため企業整備策を決定した。出版社はとくに用紙統制の名のもとに三四〇〇社を二〇〇社程度に統廃合するべく出版事業令が出された。二〇〇誌の経済投資雑誌が一二誌に整理され、さらに四社四誌に統合する案が出た。鮎川義介と情報局がダイヤモンドと東洋経済を買収して研究機関をつくりその社長に就任するという構想が検討されたが、結果的に立ち消えとなった。存続資格は相当の規模と企画力、編集力とを具備するものとされ、ダイヤモンド社は出版部と印刷部の存続認可がおり、ダイヤモンドも産業経済雑誌としての存続が認められた。(ダイヤモンド社「石山賢吉物語」)


    石橋湛山の『東洋経済新報』を潰す意図があったのである。湛山は小日本主義を標榜して植民地主義を徹底的に批判し続けていて、軍部にとっては邪魔な存在であった。湛山の側からみてみよう。


    東洋経済新報社は、戦時中にもかかわらず、依然として自由主義を捨てないという理由で、いわゆる軍部と称するやからから、ひどく睨まれた。軍部とは、どこに実際存在するのか、正体は全くわからぬしろものであったが、しかし、とにかく、彼らは情報局を支配し、言論出版界に絶大の権力をふるった。東洋経済新報は、この権力のもとに、その性格を改めて、彼らの気に入る雑誌社になるか、さもなければ、つぶれるほかはないという危機に立った。社内にも、私にやめてもらって、軍部に協力する態度を取ろうではないかと主張するものが現れた。(『湛山回想』)


    二月二十二日、山田風太郎の住むアパートでガスが止められた。ガスの使用量制限を超えたためだった。いつもなら炭をガスで熾し、部屋の火鉢に移すのである。


    おばさんがバタバタと走り出て来て、声をひそめて、

    「あのね、山田さん、ガスをとめられてしまったの」といった。自分はあっけにとられて、おばさんの顔を見つめていた。

    ガスの使用量が制限され、これを超過した者は以後一ヶ月ガスの孔口をふさがれるということは新聞でみていた。またこのアパートのガスが前月もだいぶ超過したという話もおばさんからきいていた。が、それが現実に襲ってくるとはうかつにも思いがけなかった。自分は「へへえ」といったまま二の句がつげなかった。

    そこでおばさんの部屋に入って、そこの炭火で起こしてもらう。この炭火は七輪で長いことかかっておこしたものだそうである。おばさんにきくと、東京市民の三分の二以上は超過して、近所でもガスをとめられた家庭がぼつぼつあるそうだ。それかといって炊事する薪はもらえず、外出して食堂でたべるには外食券がもらえず、(中略)

    ・・・・国民学校へいっている女の子が、毎朝、朝礼で朗唱させられているのであろう、無心な顔で、

    「われら銃後の国民は現在にたえて未来の希望に生きましょう」

    と唄うようにいっているのは、妙な風景である。(『戦中派虫けら日記』)


    二月二十三日、陸軍省が「撃ちてし止まむ」のポスター五万枚を全国に配布した。銃剣を構えて星条旗とユニオンジャックを踏みながら突進する陸軍兵士と戦車に、「撃ちてし止まむ」と描かれたものである。全国の自治体数を約二千とすれば一自治体当たり二十五枚だから、目抜き通りや繁華街の目立つ場所だけに貼られたのであろう。


    この頃、対独戦では陸軍大尉として戦ったマルク・ブロックがレジスタンスに加入する。ナチス支配下では、ユダヤ人はあらゆる公職に就くことを禁じられていた。大学教授も例外ではない。フランスに住むユダヤ人知識人は、収容所に入るか、アメリカなどに亡命するか、レジスタンスに加わるかの選択を強いられていた。アーレントやトマス・マン等は亡命を選んだ。亡命は無国籍者になることである。無国籍が人間の実存にどう関係するかはアーレントが考察している。

    フランス人のブロックは抵抗を選んだ。ブロックがレジスタンス「自由射手」Franc-Tireurに加入した時の様子を、ジョルジュ・アルトマンが回想している。


    私は地下闘争の若い同志のモーリスが、二十歳の顔を喜びに紅潮させ、かれの「新加入者」を私に紹介した、あのたのしい瞬間をいまでも思い出すのである。それは受勲した五十歳の紳士で、銀鼠色の髪をいただき上品な容貌をしており、眼鏡の裏の眼光は鋭かった。片手に書類入れをかかえ、片手にステッキをもっていた。はじめは多少他人行儀だったが、やがてこの来訪者は私に手をさしのべ、ほほえみながらやさしく言った。

    「そうです、私がモーリス君の『弟子』です。

    このようにして微笑しながら、マルク・ブロック教授はレジスタンスに参加したが、私が最後にわかれた時もおなじ微笑をうかべていた。(マルク・ブロック『奇妙な敗北』の「まえがき」)


    三月二日、兵役法が改正され、朝鮮人にも徴兵制が導入された(施行は八月一日)。

    三月十六日、東京都教育局長名で「学童疎開勧奨方ノ件」が出された。縁故疎開の勧めである。四月一日までの間に十四万二千人が縁故疎開する。疎開先は裕福な親戚ばかりではない。農村の大家族の中に一人投げ込まれ、ひもじさに泣いた子供も多かった。集団疎開と違って一人だから、地元の子どもたちのいじめにもあう。方言に悩んだという証言も多数ある。

    風太郎は昭和医専、東京医専の入学試験に落ちた。

    四月一日、中学校、高等女学校、実業学校の修業年限が一年短縮され、四年制となった。合わせて教科書が国定になる。カズは秋田高女の二年になった。制度が変わる一年前の入学だから五年制のままである。


    四月十三日、ドイツ軍が、ソ連スモレンスク付近のカチンの森で、ソ連軍に殺された四千人以上のポーランド人将校等の遺体を発見したと発表した。ソ連は否定したが、一九九二年十月、ロシア政府が、ポーランド人二万人以上の虐殺をスターリンが署名し指令した文書を公表し、ソ連の犯罪であることが確定した。ソビエト内務人民委員部(NKVD)長官ラヴレンチー・ベリヤが射殺を提案し、スターリンと政治局の決定で行われた虐殺であった。ナチスのホロコーストだけでなく、スターリンの大虐殺も忘れてはならない。


    四月十八日、山本五十六連合艦隊司令長官が、ソロモン諸島上空で米軍に撃墜されて戦死した。山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く計画を立て、その前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電されていた。山本と宇垣が二機に分乗し零戦六機が護衛したが、米軍はその暗号を完全に解読していたのである。襲った米軍機は十六機であった。制海権、制空権を失った連合艦隊が活躍できる場面は既にない。山本は死に場を求めていたのではないか。その死が国民に知らされたのは五月二十一日だった。


    このニュースをはじめて定時近い会社のざわめきの中にきいたとき、みな耳を疑った。デマの傑作だと笑った者があった。

    が、それがほんとうだとわかったとき、みな茫然と立ち上がった。眼に涙をにじませる者もあった。

    何ということだ。いったい何ということだ。

    ああ、山本連合艦隊司令長官戦死!(『戦中派虫けら日記』)


    五月一日、「昭和十八年度国民動因実施計画策定ニ関スル件」が閣議決定された。驚くのは、この中で男子の就労禁止職種が決められたことである。以下に列挙する職種については男子が就くことができない。女子に切り替えなければならなくなったのである。実際の切り替えは翌十九年から実施される。

    内訳は▼事務補助者▼現金出納係▼小使い、給仕、▼物品販売の店員売子▼行商、呼び売り▼外交員、註文取、▼集金人▼電話交換手▼出改札係▼車掌▼踏切手▼昇降機運転係▼番頭、客引き▼給仕人▼料理人▼理髪師、髪結美容師、▼携帯品預かり係、案内係、下足番である。

    五月三十日にはアッツ島守備隊二千六百名の玉砕が報じられた。そもそもアリューシャン列島の誰も知らない小さな島を何故占拠する必要があったのか。十九世紀後半にアメリカがロシアからアラスカを購入した時、たまたまくっついていた島であり、戦略的な意義は全くないと思われる。日本軍上陸時の島民は四十数人だった。


    私たちの学校では山本五十六元帥やアッツ島守備隊長山崎保代中将(二階級特進)の遺影が販売された。両方を机に飾って、「山本元帥、山崎中将に続くを誓え」というわけである。(山中恒『ボクラ少国民と戦争応援歌』)


    五月二十七日から七月二十九日にかけ、キスカ島守備隊五千二百名の撤退作戦が実施された。これは奇跡的に成功し、包囲する連合国軍に全く気付かれずに守備隊のほぼ全員が島から脱出できた。

    六月二十五日、政府は「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定し、学生生徒の勤労動員体制を強化した。要領は、一 有事即応ノ確立、二 勤労動員の強化 である。そして勤労評価が成績に反映されることになった。学生生徒は「学徒」という名で、召集された熟練労働者の代わりに生産現場の下級労働者となるのである。

    昭和十八年九月二十六日の秋田魁新報には「学徒出動(秋田市内各中等学校)大麦播種に奉仕」という記事が載っている。


    増産戦に日夜わかたず奮斗する農村に学業の延長として奉仕する学徒の活躍は農村に感激を与えているが今回はまた市内男女中等学校生徒四〇〇〇名の援軍が、南秋・河辺両郡下の大麦播種に奉仕することになった。奉仕の男子学校は金足農業をはじめ秋田師範男子部、秋中、秋商、女子の学校は聖霊、家政、秋田高女、秋田市立高女である。出動に来る二六日から行われる部隊は主として秋田市近在の農家に出動する。(秋田県立秋田中学校第六〇・六一回卒業同期会記念『戦中戦後』より)


    他に強制的に割り当てられた草刈りもあった。翌十九年七月の秋田地方事業所管内の、各中等学校への割り当てを見ると、秋田高女には飼料用三二五〇貫、堆肥用六〇〇〇貫が割り当てられていた。

    真珠湾軍神の中の一人横山正治少佐をモデルに、獅子文六(岩田豊雄)は『海軍』を書く。十九歳の佐藤佳夫も愛読したに違いないと確信するのは、私の名前が、主人公〈谷眞人〉から採られたことからも間違いない。


    ・・・・私はその年の七月一日から朝日新聞に連載された岩田豊雄(獅子文六)の小説「海軍」に激しくのめりこんでいった。もっとも、この新聞小説は、私に限らず、級友たちのなかにも愛読者が降り、挨拶がわりに「読んだか?」と声を掛け合い、今日のところは面白かったとか、むずかしかったとか感想を述べあうのが習慣になった。

    いくら高学年とは言え、小学生が新聞小説に読みふけるなどということは、今日ではとても想像のつかないことであるが、この小説のむずかしい漢字にはルビがふってあり、読む気になれば、三、四年生でも読めた。(山中恒『子どもたちの太平洋戦争 国民学校の時代』)


    七月二十一日、改正国民徴用令が公布された。国家が必要と認める場合にはいかなる職能の技能・技術者でも指定の職場に徴用可能(「新規徴用」)とし、また特定の企業・業務従事者を事業主以下企業全体を丸ごと徴用することも可能(「現員徴用」)としたのである。

    七月二十五日、イタリアでムッソリーニが失脚して幽閉され、パドリオ(陸軍元帥)内閣が成立した。軍部の一部と王党派によるクーデターで、内閣は連合軍との間で休戦交渉を行っていく。つまり終戦交渉内閣であった。


    ファッシズムが終わりになったのだ。近年十年あまり、ファッシズムというものは永遠のものという感じがしていた。独裁制度は人気とりのために外国と戦争をするが、それが無理を重ねるものとなって崩壊する、というのは戦前民主主義側の批評であった。現実がそのとおりになりつつあるというのはいやなことだ。イタリアが降伏するようなことがなければよいと説に念じる外はない。(伊藤整『太平洋戦争日記』)


    風太郎が『蛍雪時代』に応募した小説「国民徴用令」、「勘右衛門老人の死」が二編とも一等に当選した。二編とも掲載するが、同一人に懸賞金を二つ出すのは旺文社としてできないので、賞金は一篇分だけとされた。戦時中の受験生、学生としては良い小遣い稼ぎになった。

    八月三十一日、大日本婦人会東京支部が「決戦下です。すぐ長袖を切ってください」のカードを配布、長袖切断運動を始めた。六月四日に決定された「戦時衣生活簡素化実施要綱」に基づくものだ。この「要綱」で男性の和服は筒袖、女性の和服は元禄袖と決められたのである。ついでに言えばダブルの背広も禁止された。これは贅沢禁止というより、布が不足してきたためである。既に出来上がっている着物の袖を切っても何にもならない。

    因みに前年、相互に対立していた大日本国防婦人会(陸軍省・海軍省系)、愛国婦人会(内務省系)、大日本連合婦人会(文部省系)が統合して、大日本婦人会となっていた。テレビや映画で見る割烹着に襷掛けの姿は国防婦人会の制服であり、これをきっかけにモンペに変わった。


    九月八日、イタリアが連合国に無条件降伏する。ドイツは直ちに軍を進めて首都ローマに迫り、国王一家とバドリオ政権の閣僚らは南部のブリンディジに逃走した。


    〇イタリア無条件降伏。
    全日本に一瞬の蒼白き風吹きすぎて、蕭と静寂おち来る。
    イタリアへの冷蔑、ドイツへの同情をこめて、一剣天によって寒き森厳の決意、恐怖の色見えず。(『戦中派虫けら日記』)


    十日、ローマはドイツ軍に占領された。十二日、幽閉されていたムッソリーニがドイツ軍に奪還され、ドイツの後ろ盾で、イタリア北中部にファシスト党の強硬派を中心としたイタリア社会共和国(RSI)が樹立される。バドリオは日独伊三国同盟を破棄しドイツに宣戦布告した。軍の半数近い兵力がムッソリーニに呼応してRSI軍に参加した為、イタリアは南北に分断された形となり内戦状態に突入する。


    この頃、配給の米は玄米になったようだ。精米すればそれだけ分量が減る。つまり実質的な配給の減である。


    アパートの管理人のおじさんが、サルマタ一つで柱にもたれかかり、両足投げ出して、とっくりと壺の混血児みたいな容器に棒をさしこんで、何かの運動みたいについている。となりの楊白石君の部屋からも、壁越しに同じ物音がトーントーンと聞こえる。

    これは配給の玄米を精白しているので、これはどこの家庭でもやっているらしい。

    玄米は量が増すのでわざと配給しているのだし、またこの時節に玄米を食うことを敬遠するような輩は、断固罰すべきであるという声もある。(山田風太郎『戦中派虫けら日記』九月十九日)


    九月三十日に閣議、御前会議は「絶対国防圏」を決定した。「千島、小笠原、内南洋(中西部)及西部『ニューギニア』『スンダ』『ビルマ』ヲ含ム圏域トス」と定められたものがこれで、東部(マーシャル群島)を除く内南洋すなわちマリアナ諸島、カロリン諸島、ゲールビング湾以西のニューギニア以西を範囲とする。

    しかしその圏域を守るためには航空兵力が必要なのに、既にそれだけの能力は失われていた。要するに絵に描いた餅である。上野動物園では空襲時の混乱に備え、象四頭、ライオン三頭、豹四頭、虎一頭と毒蛇を毒殺処分にした。

    十月二十一日、明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が開かれた。東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の各大学・高校・専門学校からの出陣学徒(東京帝国大学以下計七十七校)の学生が行進し、動員された観客は理工系学部生(引き続き徴兵猶予)、中等学校生徒、女学徒などが計九十六校、約五万人であった。壮行会は十一月にかけて全国(台北・京城も含む)各地で行われた。東条英機は次のように訓示した。


    ・・・・・若き諸君は今日まで皇国未曾有の一大試練期に直面しながら、なおいまだ学窓に止まり、鬱勃たる報国挺身の決意躍動して抑え難きものがあったことと在ずるのである。しかるに、今や皇国三千年来の国運の決する極めて重大なる時局に直面し、緊迫せる内外の情勢は一日半日を忽せにすることを許さないのである。・・・・・

    諸君のその燃え上がる魂、その若き肉体、その清新なる血潮総てこれ、御国の大御宝なのである。この一切を大君の御為に捧げ奉るは皇国に生を享けたる諸君の進むべきただひとつの途である。諸君が悠久の大義に生きる唯一の道なのである。諸君の門出の尊厳なる所以は、実にここに存するのである。


    出陣学徒代表として「生還を期せず」と答辞を読んだ江橋慎四郎は無事生還した。江橋の軍歴はよく分からない。戦後は体育学の研究者として東大名誉教授、鹿屋体育大学初代学長などを歴任する。


    夜、吉田の学徒出陣を見送るために東京駅にゆく。

    宮城前の広場には、篝火と歌と万歳の怒涛が渦巻き返っている。嵐にもまれるようにゆらめく提灯、吹きなびく幾十条の白い長旗、それに「A君万歳、L大学野球部」とか「祝出征B君、Y専門学校剣道部」などの文字が踊り狂っている。

    右を見ると、長髪弊衣、黒紋付角帽の群が木刀をうちふり、朴歯の下駄を踏み鳴らして、「あゝ玉杯に花うけて」と高唱している。左を見ると、真っ裸に赤ふんどしをつけた若い群が、「弘安四年夏のころ」と乱舞している。

    仰げば満天にこぼれ落ちんばかりの星屑、蒼氓の大銀河、広場をどよもす「赴難の青春」の歌声。――みんな泣いている。みんな笑っている。情熱に酔っぱらって、旗と灯影にゆれ返る無数の若い群像の上を、海の夕風のように渡ってゆく声なき悲哀、絶望の壮観。(山田風太郎『戦中派虫けら日記』)


    この日、中野正剛が倒閣運動の容疑で憲兵隊に逮捕された。東久邇宮稔彦王を首班とする内閣の誕生を画策したことが理由である。二十六日に釈放されたが、深夜、自宅で割腹自殺した。中野については革新右翼、国家社会主義者、反東条英機としてのイメージしかない。


    中野正剛氏が自殺した。中野氏は東宝会を組織して数万という会員を集め、ファッショ党のように制服として黒シャツを着せ、一時は相当の勢力であったが、翼賛会成立後政治結社禁止から次第に政界に影が薄くなった。・・・・・平時ならば中野氏の死は大事件であろう。また平時ならば中野氏は自殺するような羽目に陥らなかったのではないか。直接理由は分らないが、演説の時の印象では、話は上手だが少し神経質で線が細すぎると思われた。(伊藤整『太平洋戦争日記』)


    十一月、近衛文麿の推薦で細川護貞が高松宮の御用掛となった。高松宮が「方々駆けまわって各方面の意見を聞いてくるものが欲しい」と近衛に相談した結果である。母が近衛の次女である関係から、護貞は第二次近衛内閣の首相秘書官であった。高松宮はまだ東条に期待をしているが、近衛と細川の目的はそれを覆して東条内閣を打倒すること、早期に戦争を終結させることであった。集めた情報や行動の詳細は『細川日記』に詳しいが、同郷出身の高木惣吉海軍少将や、旧昭和研究会のメンバーとも協力した。


    お受けはしたものの、此の役目は極めて困難である。それは余の知識や能力の問題を越えて、政治的に実に危い。殿下に報告申し上げた事柄が上聞に達し、夫れが政府の意見と相違する場合には、おそらく政府に対して、御下問あるべく、その際狭量なる政府は、必ずその御下問の拠る処を詮索すべく、而して遂にその出所をつきとめたるときは、おそらく国防保安法、軍機保護法を発動するか、若しくは機密を漏洩したかどによつて、それ等憂国の人々に累を及ぼさないとは云ひ得ない。かくては吾々の目的は水泡に帰すべく、或は逆に、事態は更に悪化しないとも限らない。此の点余は心痛に堪へない。更に深い研究をせねばならぬ。(『細川護貞『細川日記』』


    十二月一日、米英中による対日方針の基礎となるカイロ宣言が発表された。


    「ローズヴェルト」大統領、蔣介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ。


    各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ。

    三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ。

    三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス

    右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ

    日本国ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ

    前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス


    右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ


    十二月二十四日、徴兵適齢臨時特例公布。現役入営年齢を一年引き下げ満十九歳とした。しかし国民には知らされないが、上の方では既に敗戦必至と考えられていた。問題は和平交渉をどうするのかということである。

    この年「青い眼の人形」も被害に遭った。昭和二年にアメリカの世界児童親善協会が日本に贈ってきた人形である。日本側では渋沢栄一が日本児童親善会を作って、文部省を経由して各地に配布したものだ。


    ・・・・この狂気の一九四三(昭和十八)年は、この可憐な人形たちにとっても受難の年であった。この人形使節は鬼畜米国の日本制覇の野望を隠蔽し、日本を油断させるための深慮遠謀の偽装使節で、実は日本の小国民を懐柔せんがための謀略戦の尖兵であったと判断されたのである。悪意を得て観ずれば万象悪意に叶うのである。しかも、国家的規模による悪意である。そのため、かつて全国の小学校、幼稚園で暖かくかなあ迎された一二、七三九体の人形のうち、五指に残るか残らない程度のわずかな例外を除いて、そのほとんどが秘かに焚刑に処せられたか、あるいは敵愾心昂揚のために「撃ちてし止まむ」とばかりに、竹槍で突きこわされてしまったのである。(山中恒『ボクラ少国民』第三部「撃チテシ止マム」より)


    岩田豊雄『海軍』、武田泰淳『司馬遷』、太宰治『右大臣実朝』。小林秀雄「実朝」(『文学界』二月号)。


    あの戦争のころ、できたらその一言一句もききもらすまいとねがっていた文学者のうち、太宰治と小林秀雄とは、もう最後の戦争にかかったころ、それぞれの仕方で実朝をとりあげた。太宰治は『右大臣実朝』をかき、小林秀雄は、のちに『無常といふ事』のなかに収録された「実朝」論をかいた。(吉本隆明『源実朝』)


    平家ハ、アカルイ。

    ともおつしやつて、軍物語の「さる程に大波羅には、五条橋を毀ち寄せ、掻楯に掻いて待つ所に、源氏即ち押し寄せて、鬨を咄と作りければ、清盛、鯢波に驚いて物具せられけるが、冑かぶとを取つて逆様に著給へば、侍共『おん冑逆様に候ふ』と申せば、臆してや見ゆらんと思はれければ『主上渡らせ給へば、敵の方へ向はば、君をうしろになしまゐらせんが恐なる間、逆様には著るぞかし、心すべき事にこそ』と宣ふ」といふ所謂「忠義かぶり」の一節などは、お傍の人に繰返し繰返し音読せさせ、御自身はそれをお聞きになられてそれは楽しさうに微笑んで居られました。また平家琵琶をもお好みになられ、しばしば琵琶法師をお召しになり、壇浦合戦など最もお気にいりの御様子で、「新中納言知盛卿、小船に乗つて、急ぎ御所の御船へ参らせ給ひて『世の中は今はかくと覚え候ふ。見苦しき者どもをば皆海へ入れて、船の掃除召され候へ』とて、掃いたり、拭うたり、塵拾ひ、艫舳に走り廻つて手づから掃除し給ひけり。女房達『やや中納言殿、軍のさまは如何にや、如何に』と問ひ給へば『只今珍らしき吾妻男をこそ、御覧ぜられ候はんずらめ』とて、からからと笑はれければ」などといふところでも、やはり白いお歯をちらと覗かせてお笑ひになり、

    アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。(太宰治『右大臣実朝』)


    箱根の山をうち出でて見れば浪の寄る小島あり、供の者に此のうらの名は知るやと尋ねしかば、伊豆の海となむ申すと答へ侍りしを聞きて  


     箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄るみゆ


    この所謂万葉調と言われる彼の有名な歌を、僕は大変哀しい歌と読む。実朝研究家たちは、この歌が二所詣の途次、読まれたものと推定している。恐らく推定は正しいであろう。彼が箱根権現に何を祈って来た帰りなのか。僕には詞書にさえ彼の孤独が感じられる。悲しい心には、歌は悲しい調べを伝えるのだろうか。(中略)

    大きく開けた伊豆の海があり、その中に遥かに小さな島が見え、又その中に更に小さく白い波が寄せ、又その先に自分の心の形が見えてくるという風に歌は動いている。こういう心に一物も貯えぬ秀抜な叙景が、自ら示す物の見え方というものは、この作者の資質の内省と分析との動かし難い傾向を暗示している様に思われてならぬ。(小林秀雄「実朝」『文学界』二月号)


    黒沢明監督第一回作品『姿三四郎』、木下恵介監督第一回作品『花咲く港』、稲垣浩監督『無法松の一生』。日本初の長編漫画映画『桃太郎の海鷲』。

    小畑実・藤原亮子『勘太郎月夜唄』(佐伯孝夫作詞、清水保雄作曲)、灰田勝彦『加藤隼戦闘隊』(田中林平作詞、朝日六郎作曲)、霧島昇・波平曉男『若鷲の歌』(西條八十作詞、古関裕而作曲)。  他に替え歌「金鵄上がって十五銭、栄えある光三十銭」(『紀元二千六百年』)、「見よ東条の禿げ頭」(『愛国行進曲』)。


    昭和十九年(一九四四)タツミ四十三歳、祐十九歳、カズ十六歳、利孝十四歳、ミエ十一歳、石山皆男四十四歳、鵜沼弥生四十二歳、田中伸三十七歳。


    一月、ソ連軍はレニングラード戦線で大攻勢を開始した。ドイツ軍はこれ以降西に後退するだけだ。


    一月七日、大本営がビルマ防衛の目的で、第一五軍のインパール作戦を認可した。元々大本営はこの作戦に否定的であった。前年に実施された兵棋演習に同席した竹田宮大本営参謀は「一五軍の考えは徹底的というよりむしろ無茶苦茶」とまで判断していたのである。どう考えても認可すべきではない作戦であったが、軍上層部を人情論が覆ったのである。

    二十六日、東京、名古屋に改正防空法による建物強制疎開が命令された。「疎開」と言う名の「取り壊し」である。三月二十日に第二次、四月十七日に第三次、五月四日に第四次迄実施された。


    前年四月に秋田商業を卒業して日本勧業銀行秋田支店に就職した佐藤佳夫は、徴用(改正国民徴用令に基づく)により中島飛行機の前橋工場に勤労動員された。勧銀は休職扱いで月俸五十一円の三分の一支給、中島飛行機からは月俸四十六円が支給された。


    徴集せられし者は初三個月練習中は日給弐円。その後一人前になりても最高百二、三十円がとまりなりといふ。この度の戦争は奴隷制度を復活せしむるに至りしなり。軍人輩はこれを以て大東亜共栄圏の美挙となすなり。(永井荷風『断腸亭日乗』)


    佳夫の勤務が月二十五日とすれば、四十六円は日給二円に満たない。勧銀からの支給が考慮されて減額されたのだと思われる。

    この月、秋田県乗合旅客自動車運送事業組合(バス、ハイヤー、自家用乗用車の組合)設立、弥生は専務理事に就任した。

    二月、利雄の長男利明が海軍に入営した。父は既に亡く、長男が召集されれば残されるのは女子供だけである。既にミッドウェー海戦、ソロモン海戦をはじめとする戦闘で、日本海軍は太平洋の制海権をほぼ失っていた。前年には山本五十六連合艦隊司令長官が戦死しているのである。日本軍の勝利は思いもよらない。当然、利雄も戦死を覚悟していただろう。弥生は、組合の理事として多忙だったが、無理な都合して利明の家に駆け付けた。紅白の餅、小豆、鶏肉など持参してささやかに入営を祝い、翌二月十五日には横須賀海兵団まで見送り、十六日秋田に帰った。海軍に召集されたものは三ヶ月、海兵団で教育を受けるのである。


    二月二十一日、東条英機首相・陸相が参謀総長も兼任し、独裁体制が確立した。

    二月二十三日、『毎日新聞』に新名丈夫が執筆した戦局解説記事が問題になった。見出しは「勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た」「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」であった。新名は海軍省記者クラブの担当キャップであり、航空機用資材供給が拒否された海軍が、東条内閣に不満を抱いているのを知っていた。従ってこの記事は、海軍と同調して航空機生産増強を訴えるものだったのである。海軍省はこの記事を絶賛したと言われている。

    しかし東条首相が激怒した。記事が出てから八日後、新名丈夫(三十九歳)は召集された。明らかに懲罰的召集である。新名は丸亀の重機関銃中隊に入隊し、陸軍中央からは硫黄島への転出の指示が出されたが、海軍がこれに反対した。結局三ヶ月で召集解除となり、再招集を免れるため海軍が報道班員としてフィリピンに送り出した。

    新名は助かったが、しかしとばっちりを受けた者がいる。大正時代に徴兵検査を受けた者を召集するのかと、海軍が批判したため、陸軍は同年代の二百五十人を丸亀連隊に召集した。新名の召集が特殊ではないとの言い訳である。彼らは硫黄島に送られ全員が戦死した。そして竹槍訓練が本格化するのは八月、政府が一億国民総武装化を決定して以後のことである。

    三月七日、「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で、学徒勤労動員の通年実施、学校の種類による学徒の計画的適正配置、教職員の指導と勤労管理が閣議決定され、文部省は詳細な学校別動員基準を決定した。これに基づき中学生も本格的に動員された。秋田中学では、四年生が夏から群馬県太田の中島飛行機へ、五年生は年末から神奈川県川崎の東京芝浦電気へ配属された。『秋高百年史』から、当時の四年生、五年生の回想を見てみる。


    昭和十六年、太平洋戦争勃発の年に入学、二十年敗戦の年に卒業というわれわれ同期生は、まさに戦争に明け暮れた秋中時代であった。まともに一年間を通して勉強したのは一年生の時ぐらいで、二年生になるともう本格的な勤労奉仕の日が続いた。田植え、除草、稲刈り、暗渠排水工事と稲作の殆どフルコースをやったと言える。その他学校所有地の開墾や土崎日石精油所のタンクの防護作業などもやった。

    しかし何といっても最大の奉仕は、昭和十九年、四年生の夏より始まった群馬県太田町中島飛行機製作所における軍用機の製作に携わったことである。(中略)

    落ち着いたところは、大きな工員用の団地の寄宿舎で、荒い粗末な畳の敷かれた四畳半ぐらいの部屋に二、三人ずつ入ったが、たちまち南京虫に襲われ、その特徴の赤い斑点を体のあちこちいつけられた。秋田におればまだ米の飯がどうやら食べられたけれども、関東地方はそうでもなかった。(中略)

    ・・・・作業もまたかなり厳しいものであった。一般工員に混じって、先輩工員の指導を受けながら、当時の陸軍最新鋭戦闘機といわれた『キの八四』(疾風)の製作であった。私はその最前部のエンジンナセルカバーの部分の製作を受け持った。成形されたジュラルミンの板を木の枠にはめこんで形を整え、つなぎ目にリベットを打ち込んで仕上げてゆく作業であった。(久保和郎・昭和二〇年卒)


    中島飛行機は後に空襲によって壊滅的な打撃を受けることになる。幸い動員された生徒に死傷者はでなかったようだ。工場がなくなると、近くの飛行場で整備をする仕事を与えられたが、やがて整備すべき飛行機そのものがなくなってしまった。


    暮も近い十二月六日、われら二百余名の秋中健児は、学徒動員報国隊の名の下に、(中略)神奈川県川崎市東京芝浦電気株式会社堀川工場へ出発した。(中略)

    われわれの宿舎は、川崎市郊外の南加瀬町という緑の田園の中にあった。百戸もあったろうか、平屋建てが軒を並べて団地になっている。急造と思われる六畳、四畳半の二間と、流し、便所、おまけに小さな床の間のあるこの小住宅は、新しい畳の香をさせて、われわれを待っていた。気の合った仲間同士が六人ずつ、その一軒一軒の真所帯を持ったものだ。(中略)

    十二人から成るわが班の雇用先は、特殊ガス工場だった。その名の如く、酸素やアルゴンなどの特殊ガスを製造していた。空気が原料である。建物が半分地下に下がっている部分に、空気を圧縮する巨大ナコンプレッサー唸りをあげて回転していた。われわれの分担はこのガスを充満したボンベの運搬掛である。この脳を必要としない単純作業からの格上げは、最後までなかったのだ。(吉野重厚・昭和二十年卒)


    この時期の中学生は殆ど学習する機会を奪われていた。山田風太郎によれば、東京医専では現役志願者の学力不足から、入学試験は浪人を優先することに決めるのである。


    三月八日、インパール作戦が発起した。現地軍ではその無謀さを懸念する声が多かったが、第十五軍司令官・牟田口廉也中将だけが強硬に主張した。十五軍を統括するビルマ方面軍司令官河辺正三大将と牟田口は、盧溝橋事件の時の旅団長と連隊長であった。この作戦を含め、ビルマ戦線での日本兵死者は十六万を数えることになる。


    ・・・・なぜこのような杜撰な作戦計画がそのまま上級司令部の承認を得、実施に移されたのか、これには特異な使命感に燃え、部下の異論を抑えつけ、上級司令部の幕僚の意見に従わないとする牟田口の個人的性格、またそのような彼の行動を許容した河辺のリーダーシップ・スタイルなどが関連していよう。しかし、それ以上に重要なのは、鵯越作戦計画が上級司令部の同意と許可を得ていくプロセスに示された、「人情」という名の人間関係重視、組織内融和の優先であろう。(『失敗の本質』)


    東条首相(兼陸軍大臣・参謀総長)も敗色濃い戦局の一挙打開に賭ける気になった。作戦に反対していた第十五軍の小畑参謀長、南方総軍の稲田総参謀副長が更迭され、結局牟田口だけが勝手に夢みた作戦は実行に移されるのである。


    支那事変最初の指揮官であったおれは、大東亜戦争最後の指揮官の名誉をにぎらねばならぬという牟田口の野望が、もし実現されれば、それはそのまま、東条が国民の前に提供する一大作戦の捷報ともなったわけである。牟田口中将が、一作戦司令官でありながら、彼の上に直接位置するビルマ方面軍司令官河辺中将も、南方総軍司令官寺内元帥も、そして参謀本部をも半ば黙殺して、日本最高の独裁者である東条に、直接提携する有利な条件を得たのは、このように二人の利害が一致していたからであった。『インパールの悲劇』の第一ページはこのような〝日本の東条〟と、〝ビルマの小東条〟の握手から始まっている。

    ビルマ方面軍『森集団』司令官河辺中将・・・・ビルマ戦場の最高責任者である彼は、インパール作戦が絶対日本軍にとって不利であることを、あらゆる戦略的条件から抽出した公算の上にたって、誰よりもよく知りぬいていた。しかし、強引に作戦を主張する牟田口を押さえてその不満を買うことは、牟田口を通詞でその直系東条の怒りを、そのまま自身に刎ね返すことになるという弱気から、自己の一身を賭してまで、牟田口に反対することを狡く避けた。――三個師八万五千余の日本軍を夥しい鉄量と飢餓と、ジャングルの泥濘に白骨化せしめたインパールの悲劇はこうした軍部の、きわめて少数者の反目や野心の犠牲であったともいえる。(高木俊朗『インパール』)


    作戦準備としてのロジスティクス計画を見れば、十五軍は自動車中隊一五〇を要求したが大本営の命令実施は一八、輜重兵中隊六〇の要求に対し実施は十二、最初から補給は殆ど無視されている。

    作戦発起の数日前に、連合国軍(英国主体)の空挺部隊九千が広範囲に展開していることを報告されていながら、牟田口はそれを無視した。連合国軍は日本軍の行く手に頑強な円筒陣地を構築していたのである。連合国軍の補給は空から行われたが、日本軍の補給路は断たれていた。そして雨期に入る。

    移動手段は徒歩しかないという貧しさのゆえに、兵は必要以上に苦しめられた。自分の体重の六割以上の重さの荷を背負って山岳地帯を歩くのである。


    教育総監部が一九四四年一月に編纂した『山岳地帯行動の参考』は、山岳地帯における作戦行動の指針を示したものだ。「徒歩」を本則として「車馬」は必要最小限度のものにとどめ、「重量物の人力運搬用」として背負子の準備を指示している。そして、兵士の負担量については、小銃手は三五キロ、擲弾筒手は三六キロ、軽機関銃手は四二キロを著しく超過しないことを原則とするとしていた。

    この時期の兵員全体の平均体重を示す史料がほとんど見当たらないが、一九四三年の徴兵検査の記録を見てみると二〇歳の壮丁の平均身長は一六一・三センチ、平均体重は五三・二キロである(「昭和十八年全国徴兵事務状況」)。また、前掲「日本武装軍の健康に関する報告」では兵員の体重は、「戦前平均」で概ね六〇キロ、アジア・太平洋戦争末期で平均五四キロとされている。

    さらに、軍隊内には、「弱兵」や「老兵」が急速に増大していた。そのことを考慮に入れるならば、『山岳地帯行動の参考』で示された五〇パーセントを大きく超える負担量がどれほど過酷なものであるかが理解できる。(吉田裕『日本軍兵士』)


    いずれは食料にもなると期待して牛と羊を大量に引き連れた。牟田口は「ジンギスカン作戦」と称したが、羊の歩行速度は余りに遅く足手まといになり、牛の殆どは崖を転げ落ちて死んでいった。そして凄まじい飢餓が襲ってくる。多くの戦場で人肉食が横行した。その中で、参加した三個師団の師団長(柳田元三中将、佐藤幸徳中将、山内正文中将)が解任、更迭されるという異常事態も起きている。全て牟田口の無謀な作戦のためである。柳田と山内は「臆病者」と牟田口に嫌われ、佐藤は抗命撤退の汚名を着た。佐藤の独断撤退がなければ死者は更に増えていた。


    三月、弥生は秋田合同タクシー株式会社代表取締役を辞任した。乗合旅客自動車運送事業組合の業務に専念したのだろう。


    山田風太郎は召集令状を受け取り(郷里の叔父が、逃げ出さないように上京して同行した)、姫路の連隊に出頭した。


    千人くらいもいたであろうか、ムチャクチャに集合した中で、軍医が台上に立って、最近播州方面の工場にいた者や、家屋中に伝染病が出た者を呼び出して、赤インクをつけたコヨリを渡した。播州方面にはいま腸チフスや赤痢がはやっているそうで、それはすでにこの部隊にも侵入しているおすで、なるほどそこらに立っている兵隊はみんな口に白いマスクをかけていた。(『戦中派虫けら日記』)


    検査の結果、徴兵検査の時より身長は二センチ、体重は四キロ減っていた。内診で二月中旬に肋膜、三月上旬に肺湿潤の診断を受けたと申告すると、結核と診断され即日帰郷となった。かなり好い加減なものだが、レントゲン設備を備えない連隊があったのである。そして東京医専を受験して合格した。沖電気は退職しなければならない。


    (三月三十日)主任とともに部長のところにゆき、退社を請う。まあよろしいでしょう、勤労課長のところへいって話してごらんなさいという。勤労課長のところへゆくと、ニベもなくダメだと拒絶された。学生でさえ工場に狩り出す時代に逆に学校へ戻る奴があるかといった。茫然たり。

    A課長のところへいって話すと、果たして怒ったが、「勝手にしろというほかはない。しかし君の尻を追うようなことはせんから安心して」という、これは黙許の雰囲気である。(『戦中派虫けら日記』)


    三月三十一日、連合艦隊司令長官古賀峯一が、パラオから飛行艇で移動中に消息を絶った。「海軍乙事件」と称する。不時着後にゲリラに捕らえられ、陸軍部隊によって救出されたが、拳銃自殺したと推定されている。連合艦隊司令長官が二人も続いて戦死するのは異常事態である。同じく不時着してゲリラに捕らえられた連合艦隊参謀長福留繁は、機密書類をゲリラに引き渡し疑いがもたれている。救出後には第二航空艦隊司令長官に転じた。これが発表されたのは五月五日のことだった。


    夜六時半戻ると、夕刻のラジオで古賀連合艦隊司令長官戦死の報有。これは重ねての司令長官の戦死にて、暗澹たる気持ちとなる。戦況の我に不利な機から、大打撃にて、国民に悲痛の感を与えること深いものがある。後任は嶋田海相だという。どういう機会に古賀大将が阿戦死したのか知らぬが、或はトラックトラック島を空襲でもされた機のことではないか。(中略)

    古賀元帥の死は飛行機事故ならんという一般の評である。(伊藤整『太平洋戦争日記』)


    海軍軍令部は特攻兵器「回天」と「震洋」の製作に成功した。「回天」は魚雷の中に操縦士を入れるものであり、「震洋」はベニヤ製のモーターボートの先端に爆薬を装置したものである。「回天」による戦果(四十九機発進)は、撃沈三隻(武装タンカー、揚陸艇、護衛駆逐艦)、損傷四隻だった(戦死百八十六名、負傷二百十九名)。そして日本軍は乗員八十名以上が戦死、母艦の潜水艦八隻損失。特攻は割にあわないのである。「震洋」による戦艦の被害は米軍資料では四隻となる。

    日本陸軍は大陸打通作戦を始めた。中国内陸部の連合国軍の航空基地を占領し、日本の勢力下にあるフランス領インドシナへの陸路を開くことであった。作戦距離二千四百キロメートル、投入総兵力五十万人、戦車八百台、騎馬七万を動員した、日本陸軍史上最大規模の作戦であった。


    中国戦線でも、一九四四年に入ると制空権を連合国側に完全に奪われたため、目的地への行軍は夜間となり、兵士をいっそう疲弊させた。

    迫撃第四大隊の一員として、大陸打通作戦の湘桂作戦に参加した中与利雄は、「昼間の戦闘と夜行軍が幾日も続くと、将兵たちは極度な疲労と過激な睡眠不足に陥り、あげくの果ては意識がもうろうとなって行軍の方向すら見失い右や左、後方に向かって進む占有もいたことは事実でございます。特に雨中暗夜の行軍は大変でした・・・・」と語っている。(吉田裕『日本軍兵士』


    四月一日、佐藤佳夫は満十九歳となり徴兵検査を受けて合格。入営したが、当日の検査で結核が見つかり即日帰郷となった。自覚症状は全くなかったようだ。但し秋田に帰るのではなく、前橋の中島飛行機に戻るのである。この結核が戦後の佳夫一家を苦しめる。

    食料不足は農業県の秋田にも及んだ。既に学徒勤労動員は通年実施と決められていた。秋田高女の場合は以下のようである。


    三年になってからは、食糧難の時代になる。勉強の合間にグランドを掘り起こして野菜畑にしたり、近郊の農家に手伝いに行ったりで、食べるための労働が多かった。(カズ)


    夫は軍隊に取られ、あるいはサラリーマンがそれまでの仕事を突然奪われて工場労働者として徴用され、中等学校以上の子どもは勤労動員となる。物価は高騰を続け、配給だけでは到底生きていけない。その中で特に都会の主婦の役割は極めて大きなものになっていった。戦争には主婦の権威を押し上げた面があり、戦後、「女が強くなった」のには理由がある。但し、「女は最初から強かったのよ」と主張する人もいる。


    主婦は、家族全員の生命を守るために、自分たちのなけなしの持てるものを持ち出さなければならず、また田舎に行って新しい知り合いをつくり出さなければなりませんでした。更に、その知り合いの人たちを訪問するためには、そのころにはもうとても困難だった交通機関に便乗する手段を確保しなければならず、さらにまたヤミ値ではなく政府の配給制度によって割り当てられている衣類や食料を求めるために、行列に加わって長いあいだ立っていなければなりませんでした。また近所の協力を必要とする問題と取り組むために隣組の常会に出席しなければならず、さらに空襲から身を守るために庭に穴を掘って防空壕とし、また空から侵入して来る敵機に備えて防空演習に加わらなければなりませんでした。

    主婦たちがなぜそのように万能でなければならなかったかという理由は、単純です。男の大半は、若い人も、すでに中年に達していたものも、体が動くものは、軍隊にとられているか、あるいはまた軍需工場に徴用されていました。(鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』)


    六月六日、ヨーロッパではノルマンディ上陸作戦が始まった。作戦当日だけで約十五万人、オーヴァーロード作戦全体で二百万人の兵員がドーバー海峡を渡って北フランス・コタンタン半島のノルマンディ海岸に上陸したのである。史上最大規模の上陸作戦であった。ドイツ軍、連合国軍ともに大量の死者を出したが、それ以上に連合国軍の空爆によって一般のフランス市民七万人が死んだ。


    教育召集された大岡昇平(三十六歳)は、三ヶ月の教育期間終了後、六月十日、引き続き補充兵として臨時召集に決まった。行き先は教えられないが、渡された新品の被服は南方用のものである。帯革は布製、靴は鮫皮で、「著しくちゃちであった。」


    それはサイパン玉砕頃から、前線行きの兵士に渡り出したゴム底鮫皮の軍靴であった。ゴム底は比島の草によく滑り、鮫皮はよく水を通した。我々は魚類の皮膚がいかに滑らかに見えようとも、決して水を弾くようにはできていず、彼らの体は周囲の水と不断の滲透状態にあるのだという事実を体得した。駐屯中の討伐や出張、米軍が上陸してからの四日の山中の逃避行で、「植物」たる靴底は「動物」たる上皮と永遠の別れを告げた。(大岡昇平「靴の話」)


    靴だけではない。背嚢も、革製から布の背負い袋に代わっていた。末期になれば兵士にとって武器よりも大事な飯盒さえ、金属製がなくなると孟宗竹を切って代用飯盒とした。これではただの食物を入れる容器であって、煮炊きには使えない。

    六月十七日に東京を出発、七月二日、門司で輸送船「第二玉津丸」に乗り込み、十五日にマニラに上陸した。同時に出発した輸送船九隻のうち一隻が沈没した。そして二十八日、ミンドロ島西南のカミナウエに上陸、サンホセに駐屯する。 私は既に日本の勝利を信じていなかった。私は祖国をこんな絶望的な戦に引きずりこんだ軍部を憎んでいたが、私がこれまで彼らを阻止すべく何事も賭さなかった以上、今更彼らによって与えられた運命に抗議する権利はないと思われた。一介の無力な市民と、一国の暴力を行使する組織とを対等に置くこうした考え方に私は滑稽を感じたが、今無意味な死に駆り出されていく自己の愚劣を笑わないためにも、そう考える必要があったのである。(大岡昇平『俘虜記』)


    大岡が後に『レイテ戦記』を書くのはこのためである。マルクス主義者大西巨人(主人公東堂太郎に仮託して)もまた、大岡と似たような決意で入営した。


    ・・・・・私は「聖戦」の本質をほぼ正しく知り、それに反対の考えを持っている。だが、たとえそれがあざむかれ強制せられてのことであるにしても、あるいはたとえそれがそうでないにしても、毎日毎夜前線に戦い、傷付き、死んでいるのは、私と同じ民族おなじ人民から出た無数の兵隊である。この現実この戦争を阻止する何事をも私が実際的に為し能わず現に為していない以上、五体満足な私が実戦への参加から逃げ隠れてただ他人を見殺しにするのは、結局のところ人間としての偸安と怯懦と卑屈と以外の何物でもあり得ないのではないか。太平洋戦争開始の前後、私のこの考えは、虚無主義と共に、決定的になった。「緒戦の勝利」によって将来をどのようにも薔薇色に幻想しなかった私は、民族人民の破局を予想しつつ、入隊を待った。--私は、この戦争に死すべきである。戦場は、「滑稽で悲惨な」私の生に終止符を打つであろう。(大西巨人『神聖喜劇』)


    この戦争は無名(名分の無い)の戦争である。その戦争で非業の死を迎えるのは、結局「犬死」ではないか。東堂太郎(大西巨人『神聖喜劇』の主人公)は日中戦争さ中に、恋人との会話の中で思い悩んでいた。「祖国ないし連合国の現目的現運命が取りも直さず彼ら自身のそれであるという合一感」(第一次大戦に参戦したヨーロッパの知識人たち)を念頭に考える。


    人間には自然死が原則的に望ましいであろう、とはいえこの現実世界でそういう合一感をもって参戦または戦死することができた人はやはり相対的に幸福ではなかったか、今度の戦争(日華事変)で召集せられる日本人たちは果たしてその種の合一感をもって出征または戦死しているであろうか。(大西巨人『神聖喜劇』)


    揚五郎や利明はどうだっただろう。政府の宣伝する「大東亜共栄圏」を信じていたか、それとも「無名の戦争」であることを認識していたか。利穎は愛国主義思想を抱いていたと考えられる。利生は一年志願の後、予備役少尉となった。そういう家庭で育った男は、単純に政府のプロパガンダを信じるものだろうか。揚五郎は戦死し、利明は無事帰還した。


    六月十五日、米軍がサイパン上陸を開始した。つい一ヶ月前の五月十九日の大本営政府連絡会議で、東条が「サイパンの防衛は安泰である」と宣言したばかりである。


    サイパンを中心にして円を描けば、当方に大鳥島、北方に東京、西方に台湾とフィリピン、南方にニューギニアが、ほぼ等距離の円周上にあることとなる。言わばサイパンは大東亜海の中心を占めるような位置にある。この島の奪取は敵にとっても、まさに乾坤一擲の大仕事であり、その太平洋の全艦隊を集中して、日本海軍に決戦を挑みながら、この日本勢力圏の中心を一挙に奪って、西はフィリピンから支那へ、北は日本本土へと迫り、かたがた南方を我が方から遮断しようとする作戦に違いない。決戦である。(伊藤整『太平洋戦争日記』)


    米軍は上陸前に約三千トンの爆撃を行い、上陸後は艦砲射撃だけで十三万八千余発、八千五百トンの弾丸を撃ち込んだ。日本軍の火砲二百十一門に対し、米軍は二千四百十七門と、一桁違うのである。たちまちのうちにサイパンは奪われ、連合艦隊が総力を挙げて決戦に出るが、空母三隻が撃沈され、航空機は三百九十五機ほとんどが撃墜された。

    前年までは、大本営が発表する赫々たる戦果を信じようとしていた伊藤整も、この頃にはもはや日本海軍には航空機がないのではないかと、疑うようになっている。しかしまだサイパンが奪取されるとは思いたくない。大本営は「我軍は敵の後方からサイパンに攻めて戦車を伴って上陸し、敵を猛攻中」と発表した。


    これまでに敵に島を攻められて、我方が取りかえしたことは一度もなく、悉く放棄するか退くかであったが、サイパンではいよいよ我方も積極戦に出ている。一度でいいから、敵を水際に押し戻して全滅させてやりたいものだ。この島の戦いだけは我方に有利に終わってほしいものだ。(伊藤整)


    六月十六日、ナチスに囚われていたマルク・ブロックがドイツ軍により銃殺された。そのときの様子がリュシアン・フェーヴル『歴史のための闘い』に記されている。


    一九四四年六月十六日、モンリュックの独房から出された二十七名のフランスの愛国者はリヨンの北約二十五キロ、トレヴートサン・ディディエ・ド・フォルマンを結ぶ道路上に位置する通称「レ・ルシーユ」の野原に連行された。その中に眼光の鋭い、すでに髪の灰色になった一人の老人がいた。ジョルジュ・アルトマンが、『政治手帖』の感動的な記述でこう書いている――

     彼の近くで十六歳の少年が震えていた。「あれは痛いでしょうか・・・・」。マルク・ブロックは優しく少年の腕をとっていった。「いや、君、痛くなんかないよ」。そして彼は「フランス万歳!」と叫んで一番目に倒れた。


    ブロックの妻シモーヌは、夫の死の連絡がつかぬままに七月二日に病没した。ブロックの遺書の一部を引用しておく。


    ヘブライ語の祈りの旋律は、私の祖先全員のみならず父の最後の休息の時に添えられていたとはいえ、私の墓でその祈りが朗読されることを、私は望みませんでした。全生涯を通じて、私は最善を尽くして表現と精神の完全な真摯さに向かうよう努力してきました。嘘に対する甘さは、それがいかなる口実で飾られていようと、魂の最悪の害と私は見なします。私よりはるかに偉大な人物と同じように、『彼は真実を愛した』という簡潔な言葉だけを私の墓石に銘として刻んでほしいのです。それゆえ、あらゆる人が自分自身を要約しなければならないこの最後の別れのときに、私が信条を認めていないような正統教義[ユダヤ教]への呼びかけが私の名においてなされることを容認することは、私にはできませんでした。


    残された遺著が『歴史のための弁明』だった。「パパ、だから歴史が何の役に立つのか説明してよ」という子供の質問に、真摯な歴史家が回答を試みたものである。


    六月十九日、マリアナ沖海戦で日本軍は大敗北を喫した。空母「大鳳」、「翔鶴」、「飛鷹」の三隻と油槽船「玄洋丸」、「清洋丸」が沈没。潜水艦十七隻、航空機四百七十六機を失った。六月二十四日、陸海軍の両総長が、サイパン奪還は不可能だと天皇に報告したが、天皇は返事もせず二人を睨みつけたまま退室した。七月七日、日本軍守備隊三万人玉砕、住民の死者一万人。「絶対国防圏」構想が崩壊したのである。

    七月四日、大本営はインパール作戦の中止を命令した。しかしインパールは既に地獄の様相を呈していた。兵は飢えに苦しみながら敗走を続けている。そのとき牟田口廉也は何をしていたか。


    インパールの敗戦部隊が、敗走をつづけている時、八月三十日付の命令で、牟田口中将は参謀本部付となって、内地に帰ることになった。

    ビルマ方面軍司令部では、牟田口中将の労をねぎらうために、ラングーンの偕行社で、盛大な宴会を開いた。河辺軍司令官以下、幕僚、幹部の将校が多数出席した。話が、インパール作戦の結果にふれると、牟田口中将が、人々を押さえていった。

    「自分は、インパール作戦は、失敗したとは思っていない。インパールをやったからこそ、ビルマをとられずにすんでいる。自分がもし、無理をしてもやらなかったら、今ごろは大変なことになっておった。」

    将軍は胸をはり、悠々と白い扇を動かした。さすがの方面軍司令部も気をのまれて言葉をつぐ者がなく、一座は、にわかに、白け返ってしまった。(高木俊朗『インパール』)


    七月十八日、東条内閣が総辞職した。サイパン、マリアナの敗北が直接の引金だが、近衛文麿、岡田啓介、米内光政が重臣工作を担当した。東条退場後は、戦争を終結させるため、国体護持の一点は死守して、ソ連に仲介を依頼する旨の合意ができていた。但しすぐに和平内閣とすれば、何も知らない国民が混乱するので、間に中間内閣を置いた方がよいと、近衛は考えていた。

    これまでに複数の東条暗殺計画が並行して練られていた。

    津野田知重陸軍少佐は、鬼と言われた柔道家の牛島辰熊と、その愛弟子木村政彦と共に、東条の車に青酸ガス爆弾を投げつけて暗殺する計画を立てた。石原莞爾も賛同した。しかし「倒閣」については三笠宮の事前了承を得ていたものの、暗殺までは考えていなかった三笠宮が、自ら憲兵隊に通報して未遂に終わった。木村は全日本選手権十三年連続優勝の記録を持つ。戦後、力道山との不可解な負け試合で一般にも知られることになる。

    高木惣吉海軍少将は高松宮や細川護貞の支持を取り付け(それなら近衛も了解していただろう)、海軍中堅軍人を中心に東条暗殺を計画していた。機関銃で東条のオープンカーを狙うというものである。但し実行直前に東条内閣が総辞職したことで実行されなかった。


    嗚呼、遂に東条内閣は倒れたり。我国はじまつて以来の愚劣なる内閣は、我国はじまつて以来の難局に直面せるこの時、遂にのたれ死に足り。恐らく国民が、是程一致して内閣を倒したることなかるべし。日本国民の中に宿れる聡明は、遅かりしと雖も遂に此の愚劣なる内閣を倒したり。官庁の空気は明るくなり、知れる者は皆互ひに慶び合ひたり。(細川護貞『細川日記』)


    前年末から倒閣勢力の拡大に努めてきた細川は、東条内閣打倒の線で様々な人脈を築いていたが、東条後の首相として柳川平助中将の名が挙がっていた。柳川は皇道派の重鎮であり、統制経済に反対していた。人格者としても知られていたらしい。東条の辞任に当たって高松宮や吉田茂が柳川を推薦したが、木戸幸一の拒否にあって実現しなかった。柳川は翌年一月、急な心臓発作で死ぬ。

    後継は陸軍の小磯国昭と海軍の米内光政に大命が下り、米内は副首相格の海軍大臣となった。小磯も米内も予備役から現役に復帰したのである。しかしソ連との交渉をどうするかについては、具体的な方策はまだ見えてこない。和平への道は簡単ではなく、この内閣は当初から短命を予想されていた。東条内閣が使った憲兵による監視体制はまだ続いている。

    八月四日、小磯内閣が「一億国民総武装」を決定し、竹槍訓練が本格化する。この場合、訓練を受けた一般市民は「非戦闘員」であり得るのか。戦闘員の定義は、ハーグ陸戦条約第一条二項で、「遠方より認識得べき固著の特殊徽章を有すること」、三項で「公然兵器を携帯すること」である。従って制服を着用せず、かつ武器を携帯していない市民は非戦闘員と見做すのである。


    アムステルダムの隠れ家に潜んでいたアンネ・フランクの家族がナチス親衛隊SSに発見され、収容所に送られた。九月三日にはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ向かう移送列車に乗せられ、三日後、列車はビルケナウ収容所に到着した。到着と同時に男女が分けられた。この時に移送された千十九人のうち、五百四十九人は労働不能と見なされ、ガス室に送られた。アンネたち家族はガス室送りを免れたが、それは苦しみが延長されることであった。ナチスに捕らえられる数日前で『日記』は終わっている。


    そして、なおも模索し続けるのです。私がこれほどまでに「かくありたい」と願っている、そういう人間にはどうしたらなれるのかを。きっとそうなれるはずなんです。もしも……この世に生きているのが、私一人であったならば。


    この月から、学童集団疎開が始まった。東京では二十万人を宮城、山形、群馬など十二県へ、神奈川県では横浜市の二万四千九百人、川崎市の八千百人、横須賀市の七千人を静岡へ送る計画である。平成上皇(当時五年生)も日光に疎開した。その他、大阪市、神戸市、尼崎市、名古屋市、門司市、小倉市、戸畑市、若松市、八幡市の学童が対象になり、九月の末には全国四十二万の学童が地方に集団疎開した。しかし沖縄から本土を目指した学童を乗せた対馬丸が八月二十二日、魚雷攻撃を受けて沈没した。学童八百人を含む千五百人が死んだ。

    集団疎開の体験者の多くが、その時代の飢餓にも等しい空腹と盗み、力の強い上級生の苛めと暴力、教師の無法な暴力と不正を証言している。山中恒が、『週刊文春』(昭和四十一年八月十二日号「疎開学童特集」からその証言のいくつかを引用している。(山中恒『ボクラ少国民』第四部「欲シガリマセン勝ツマデハ」より)


    小林信彦(作家) ・・・・初めての集団生活のうえに、これが一ヶ月、二ヶ月とたつうちにミニ軍隊化していくんですね。疎開先の埼玉県名栗村は、食糧の少ないところで、畑から野菜を盗んだりしたものですが、これはすべて支配者に供出して、分けてもらわなければなりません。空腹も辛かったが、六年生同士のこういう人間関係ほうがぼくにはもっとやりきれなかった。

    三善晃(作曲家)・・・・週に一度許される外出のときに、農家に物乞いして歩きました。いやがられると、こんどは盗むんです。盗んだ大根を配給の炭で焼いて食べていたのを見つかった、仲間からすごい制裁を受けました。教師も酷かった。親から送って来た品物をネコババしたり、脱走する生徒を川へ突き落したり、雪の中へ縛って放り出したり・・・・。

    黒井千次(作家)・・・・疎開して二週間かそこらで赤痢にかかりましてね。下痢のひどいもの十二、三人と一緒に隔離されたんです。帰ってきたときはすでに疎開集団のヒエラルキーができていました。そのうえ、下痢をしたのは噛み方がたりないからだと先生に叱られ、よく噛むように飯の量を減らされたと、残留組に恨まれました。


    山中はまた別の証言も紹介する。今度は、『学童疎開の記録』(第三文明社)からである。夜尿症でしょっちゅうしくじる生徒がいた。教師はその頭を木琴のスティックでボコボコに殴り、クラスの全員にも殴ることを強制する。果ては氷と雪で一面になった池へ丸裸にして放り込んだ。水分を取るから漏らすのだと、午後は水を一滴も飲ませてもらえない。薄い味噌汁でも一日一回の楽しみも奪われた。仕方がないので雪を食った。その生徒の回想である。


    いきおい疎開の寮にも食指は動いたが、その寮の私たちが盗みを常習する状況からして目ぼしい食料のある道理はない。だが、案に相違する事態があったのだ。このときばかりは私たちも喜ぶというより、まず驚いてしまった。先生の部屋にこっそり侵入すると、どうしたことだ。ある、ある。宝の山ではないか。面会にきた家族が贈った食糧、あるいは子供への差し入れを没収していたのだ。珍しいものではバターや角砂糖まであった。畜生に等しい体罰を私にさんざん重ねた先生だっただけに尊敬の念などもともと持ちあせなかったけれど、この野郎と思うとともに、決定的に裏切られたと感じたのも事実である。


    集団疎開の対象から外され、大都市に残留を強いられた児童もいた。身体障碍児、心身虚弱児、精神薄弱児などは集団疎開に組み入れられることすらなかった。軍国日本では「不要」の存在だった彼らは、空襲下の都会で息をひそめて生きなければならなかった。当然、空襲で命を失った児童も多いだろう。


    当時肢体不自由児の学校は全国にたった一校、一九三二(昭和七)年開校の東京都光明国民学校だけでした。肢体不自由児を受け入れるところがないということで、東京都は疎開先を本気で探そうとしなかったといいます。やむを得ず、教室に畳を入れ、校庭に防空壕を掘って、全校児童が学校に疎開します。現地疎開と称しました。一九四四(昭和一九)年七月一日のことです。(中略)

    一九四五(昭和二〇)年五月一五日、長野県上山田温泉上山田ホテルで光明学校の集団疎開が始まりました。この生活が四年間も続くとはだれも考えませんでした。

    疎開してから十日後の五月二五日、東京は大きな空襲に見舞われ、世田谷の校舎は大部分が焼失、麻布の分校は全焼しました。疎開が後十日遅かったら、全員が寝泊まりしていただけに、大変な惨事になっていたと思われます。

    疎開参加者は、児童五〇数名、訓導(教員)、寮母(児童の姉三人を含む)、看護婦など教職員十数名、生活を共にした付添数名(祖母一人、お手伝い六人くらい)など。児童の障害は、脳性マヒ、ポリオ、脊椎カリエス、股関節脱臼などでした。(松本昌介光「明養護学校の学童疎開」)

    https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n288/n288016.html


    江分利満(山口瞳)は、入学した大学を二ヶ月で辞め、父親の経営する工場で働いていた。


    授業がほとんど行われず、勤労動員と援農だけがあった。それは、まだよい。そのことは許せるが、憧れていた教師が、ゲートルを巻いていない学生をなぐることは許せなかった。それを知っている大学当局も許せなかった。そのうえ、無理に歩兵砲兵研究会に入会させられて、日曜日に特別教練があることは耐えがたかった。サボってムーランルージュへ行ったり、古い仏蘭西映画を漁ったりしたが、それも馬鹿らしくなり、父の経営する工場へ工員として勤務することになった。

    江分利は模範工員だった。無遅刻、無欠勤で、深夜業も平気だった。戦争とはラディゲのいうように「精神の休暇」なのだろうか。江分利は何も考えなかった。何も考えないで旋盤に向かった。(山口瞳『江分利満の華麗な生活』)


    八月二十三日、女子挺身勤労令が公布された。


    ・・・・これについて「婦人倶楽部」一一号に「女子勤労総動員問答」というのがあり厚生次官武井群嗣が回答している。

    記者 次に女子の勤労動員を一層強化するために、女子勤労挺身隊を作らせるといふことですが、これはどういう風に組織されるのでせうか。

    次官 この挺身隊に参加して頂く人は主として新しく学校を卒業する人と一般ということいなつて居ります。伸卒業者といふのは今年末及来春に、国民学校、女学校、女子専門学校を卒業する人で、これは校長や先輩にまとめて貰ひます。・・・・・

    次官 勤労報国隊もよく働いて頂いてお国の役に立つたのですが、何分にも機関が短いのです。今日の急迫した決戦下では、もつと長く働いて頂かなければなりません。それで挺身隊の方は一年から二年といふことになつて居ります。

    記者 女子挺身隊の携はる仕事はどうおいふ仕事でせうか。・・・・

    次官 仕事はさし当り航空機関係の工場、政府作業庁、それから前の男子就職を禁止した方面へも行つて貰ひます。・・・・(山中恒『ボクラ少国民』第五部「勝利ノ日マデ」より)


    八月二十五日、連合国軍がパリに入城した。ヒトラーは「パリは燃えているか?」と叫び、焦土作戦の実施を命じたが、ドイツ軍のパリ防衛司令官コルテッツは命令を無視して降伏した。九月九日、ド・ゴールを首班とする臨時政府が成立した。


    この頃、新京と東京を往復する李香蘭は悩んでいた。


    李香蘭という存在は、いったい何なのだろう。十八歳のとき、はじめて訪れた日本の下関で、日本人から「日本人のくせに」と面罵された。いま北京では、中国人から「中国人のくせに」と批判された。・・・・

    李香蘭を捨てよう、と思った。ともかく満映を退社しよう、と心に決めた。・・・・

    一九四四年(昭和十九年)秋、東京での『野戦軍楽隊』のセット撮影が終わってから、・・・・新京に戻り、甘粕理事長に面会を求めた。・・・・

    「あなたが李香蘭でいることの不自然さはわたしにもわかっていた。満州国や満映はどうなるかわからないが、あなたの将来は長い。どうか自分の思う道を進んでいってください。日本で仕事をされるにしても、つらいことが多いにちがいない。くれぐれもからだを大事にして、自分の道を進んでください。

    「ありがとうございます」と私は頭を下げたとき、李香蘭の書類をもって人事課長が入ってきた。


    この時点で甘粕正彦は既に日本の敗戦、満州国の消滅を予測していたのであろうか。

    十月十日、米軍B29機が沖縄本島を初空襲。那覇市の九割が焼失し、五百四十八人の死者を出した。

    十月十二日、台湾沖航空戦が行われた。大本営海軍部の発表した戦果は、轟撃沈 空母十一、戦艦二、巡洋艦三、巡洋艦若くは駆逐艦一。撃破 空母八、戦艦二、巡洋艦四、巡洋艦若くは駆逐艦一、艦種不詳十三。撃墜 百十二。

    これが本当なら米機動部隊はほぼ壊滅したと考えられる。この大戦果に対して連合艦隊は勅諭を賜り、東京と大阪で国民大会が開かれた。しかし十六日、海軍偵察機は米空母十三隻を発見した。つまり大本営発表の戦果は間違いだったことが分かったのである。米軍の実際の被害は巡洋艦二隻大破、空母一隻と駆逐艦二隻小破だけであった。これだけの戦果を得るために日本軍は三一二機(米軍記録では三五〇機)の航空機を失った。


    大本営海軍部はしかし、敵機動部隊健在の真実を陸軍部に通報しなかった。今日から見れば信じられないことであるが、おそらく海軍としては全国民を湧かせた戦果がいまさら零とは、どの面さげてといったところであったろう。しかしどんなに言いにくくともいわねばならぬ真実というものはある。

    決戦が迫っていた十月十七日、アメリカの機動部隊は健在である。従って比島の飛行場、船舶は一、〇〇〇機以上の艦上機に攻撃される危険がある、ということはこの種類の真実に属する。

    もし陸軍がこれを知っていれば、決戦場を急にレイテ島に切り替えて小磯首相が「レイテは天王山」と絶叫するということは起らなかったかも知れない。三個師団の決戦部隊が危険水域に海上輸送されることはなく、犠牲は十六師団と、ビサヤ、ミンダナオからの増援部隊だけですんだかも知れない。一万以上の敗兵がレイテ島に取り残されて、餓死するという事態は起らなかったかも知れないのである。(大岡昇平『レイテ戦記』)


    海軍上層部は、もはやこの戦争に勝ち目はないと、かなり正確に認識していた。豊田副武連合艦隊司令長官が米内光政海軍大臣に挨拶に行った時、戦局の見通しを訊かれて、「きわめて困難だろう」と答えた。


    ・・・・この質問から見ても米内君が、終戦を第一の任務として海軍大臣に出馬して来たことが判った。・・・・・私は、難しいだろうといったが、連合艦隊長官としては、いくさに勝目がない泥田に中にますます落ち込んでしまうばかりだから、速やかに終戦に導いてくれと、直截に口を切ることは立場上ちょっとできなかった。(豊田副武『最後の帝国海軍』)


    「立場」と面子だけが重要であった。その結果、「乾坤一擲」「起死回生」「九死に一生」をスローガンとする、冒険的、投機的な作戦が立てられた。レイテ沖海戦において連合艦隊は健闘したと言っても良いかもしれないが、ソロモン、マリアナで多数の航空機と搭乗員を失ったことが致命的だった。そしてレイテ湾突入という作戦の目的が共有されず、特に栗田艦隊司令部は伝統的な艦隊決戦に固執し、突入直前に反転離脱という考えられない行動を取った。


    聯合艦隊には機敏な作戦家がいた。捷一号作戦は全体としてみれば、日本的果敢と巧智の傑作といえると思う。ただし四〇〇カイリに及ぶ海域で戦われる海戦を、あまりにミニチュア的に、個人の力闘と類推したような無理があった。広大な海域に統一行動を取るためには、精密な通信組織が必要であった。それが穴だらけだったので、計画通りに動かなかったのである。

    もっとも通信の混乱はアメリカ側にもあり、・・・・アメリカも現代の海戦が情報化されていることに、やって見て気が付いたわけである。この海戦の結果、米海軍も通信改善に乗り出した。

    フィールド(『レイテ湾の日本艦隊』)も日本の作戦を賞賛しているが、ただ全体として、現代戦を戦うために必要な、「高度の平凡さ」がなかった、といっている。巨大化され、組織化された作戦を遂行するには、各味が日常的な思考の延長の範囲で行動出来るのが、錯誤の生じる余地を少なくする。囮とか突入とか、異常な行動で組み立てられていた捷一号作戦には、それがなかったから、うまく動かなかった、という。(大岡昇平『レイテ戦記』)


    十月十九日と二十日の午前中、艦砲射撃を行い、二十日にはマッカーサー率いる米軍がフィリピン・レイテ島に上陸し、レイテの戦いが始まった。


    マッカーサーの目的は、アメリカの面子を救うことであった。三年前、アメリカ兵は日本兵が来ると逃げた。俘虜となって歩かされるところを、フィリピン人に見られていた。やっぱりアメリカ人の方が日本人より偉いのだ、武器もいいし、チョコレートもある。強い、ということを一年後に独立を約束した国民に見せなければならなかった。「アイ・シャル・リターン」の約束は、フィリピン全土をアメリカ軍の手で解放しなければ、完全に果たされたとはいえない、と思い込んでいたのである。(大岡昇平『レイテ戦記』)


    二十四日、二十五日のレイテ沖海戦で、連合艦隊は空母四隻、戦艦三隻他二十六隻と、航空機二百十五機を失い、事実上壊滅状態となった。特に「武蔵」の沈没は心理的にも大きなダメージを与えた。しかしこの時、国内ではこんな風に伝えられていた。


    日本歴史上、永劫に忘るべからざる日、十月二十五日、比島東方方面に連合艦隊ついに燦然として出現、アメリカ艦隊を猛攻撃中なりと。すでに敵空母その他十隻ちかく屠る。――この今も、日米の運命決す大海戦は続けられつつあるなり。(『戦中派虫けら日記』)


    海軍神風特攻隊が登場して護衛空母一隻撃沈、三隻を撃破した。しかし搭乗員からの報告は、空母一に二機命中撃沈確実、空母一に一機命中大火災、巡洋艦一に一機命中撃沈」であり、これが特攻による大戦果だと信じられた。未熟な操縦士が興奮状態のうちにあって、希望的観測から状況を見誤るのである。


    陸海特攻機が出現したのは、この時期である。生き残った参謀たちはこれを現地志願によった、と繰り返しているが、戦術は真珠湾の甲標的に萌芽が見られ、ガダルカナル敗退以後、実験室で研究がすすめられていた。捷号作戦といっしょに実施と決定していたことを示す多くの証拠があるのである。

    この戦術はやがて強制となり、徴募学生を使うことによって一層非人道的になるのであるが、私はそれにも拘わらず、死生の問題を自分の問題として解決して、その死の瞬間、つまり機と自己を目標に命中させる瞬間まで操縦を誤らなかった特攻士に畏敬の念を禁じ得ない。死を前提とする思想は不健全であり煽動であるが、死刑の宣告を受けながら最後まで目的を見失わない人間はやはり偉いのである。

    醜悪なのはさっさと地上に降りて部下をかり立てるのに専念し、戦後いつわりを繰り返している指揮官と参謀である。(大岡昇平『レイテ戦記』)


    海戦の敗北はレイテ島への補給路が完全に断たれたことを意味しているが、地上戦はまだ続くのである。日本兵は飢えに苦しみながら戦わなければならない。やがて戦場には人肉食の噂が流れていく。

    十一月十日、名古屋大学医学部附属病院の病棟で汪兆銘が死んだ。三月七日に入院して脊椎圧迫症と診断され、局部を手術して以来一進一退の状態だったが、ついに快癒しなかった。死因は多発性骨髄腫であった。遺骸は南京に運ばれ孫文陵の隣に埋葬されたが、後に蒋介石によって爆破された。蒋介石にとっても毛沢東にとっても、汪兆銘は許しがたき漢奸の首魁であった。

    十一月二十四日、マリアナ基地を飛び立ったB29 七十機が東京を初空襲した。以後、連日のように日本各地への爆撃が続けられる。

    十二月七日、昭和東南海地震が起きた。震源地は、愛知県三河湾南沖から和歌山県東牟婁郡串本町の南東沖に至る南海トラフと平行した線上で、マグニチュード七・九と推定されている。東海地域の軍需工場(特に三菱や中島の航空機上場)が壊滅的打撃を受けた。死者行方不明千二百二十三人、住家全壊一万八千八戸、半壊三万六千五百五十四戸。非住家全壊一万七千三百四十一戸、半壊二万四千五百十四戸。死者の中には勤労動員されている中学生も多数含まれる。しかし軍が情報統制を行ったので、この被害の詳細は報道されなかった。

    十二月十八日、米軍による漢口大空襲が行われた。焼夷弾五百トン以上が投下され、日本租界の大部分が焼滅、市街地全体の五十パーセント以上が消滅し、市民の二万人以上が死亡、建物は六千九百戸以上が破壊された。米軍はこの「成功」によって、焼夷弾を使用する日本本土空襲の効果を確認したのである。


    辻善之助『日本仏教史』、鈴木大拙『日本的霊性』、三島由紀夫『花ざかりの森』(三島十六歳の執筆)、太宰治『津軽』、竹内好『魯迅』。戦時中は、太宰にとって作品上最も芳醇な時期であり、迎合的な作品は殆ど書くことがなかった。

    山本嘉次郎監督『加藤隼戦闘隊』、島津保次郎監督『日常の戦ひ』、五所平之助監督『五重塔』、木下恵介監督『陸軍』。

    灰田勝彦『ラバウル海軍航空隊』(佐伯孝作詞、古関裕而作曲)、酒井弘・安西愛子『あゝ紅の血は燃ゆる』(野村俊夫作詞、明本京静作曲)、『同期の桜』(帖佐裕作詞、大村能章作曲)、『ラバウル小唄』(若杉雄三郎作詞、島口駒夫作曲)。