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    東海林の人々と日本近代(十三)昭和篇 ⑧

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2022.12.17

    昭和二十年(一九四五)タツミ四十四歳、祐二十歳、カズ十七歳、利孝十五歳、ミエ十二歳、石山皆男四十五歳、鵜沼弥生四十三歳、田中伸三十八歳。


    一月六日

    過去のすべての正月は、個人国民ともにそれぞれ何らの希望ありき。目算ありき。今年こそはあの仕事やらん、身体を鍛えん、怒らざらむ等々。よしそれの成らざるも、一年の計を元旦になすは、元旦の楽しみの一つなりき。しかも今年に限りてかかる目算立つる人一人もあらざるべし。

    連日連夜敵機来襲し、南北東西に突忽として火災あがり、人惨死す。明日の命知れずとは、まさに今の時勢をいうなるべし。ただし人は、他の死するも吾は死なずと理由なき自信を有するものなれば、必ずしも一日一日戦々兢々として暮らしあるものにはあらざれども、ただ――日本の興亡のみは実に理由なき希望のみにては安閑たるを得ざるなり。(山田風太郎『戦中派不戦日記』)


    一月十三日、前年の昭和東南海地震に続き、愛知県を中心とする東海地方に大地震が発生した。三河地震と呼ぶ。マグニチュード六・八。死者一九六一人、家屋全壊一万二千百四十二戸。この地震にもまた報道管制が布かれた。

    一月二十四日、フィリピンのミンドロ島で米軍の攻撃を受け、守備隊は退避することになった。しかし重症のマラリアに罹っていた大岡昇平は退避する分隊から捨てられた。十二月に米軍が上陸して以来、山中に潜んでいたから実戦を経験することはなかった。


    出発の時になった。私が皆に随いて歩き出そうとすると、分隊長が振り向いて、しかし私の顔をみないようにしながら「大岡、残るか」といった。私は咄嗟に私がいかに一行の足手纏いになるべきか、私の状態が職業軍人の眼にどう映るかを了解した。私は「残ります」と答え、銃を下した。(大岡昇平『俘虜記』)


    翌二十五日、自殺を試みたが上手く行かず、昏倒している時に俘虜となった。


    私は眠ったのだろうか、それとも所謂人事不省に陥ったのだろうか。これも明らかでない。腰に連続する衝撃を感じながら私は次第に意識を取り戻しつつあった。そしてやっとそれが私を蹴りつつある靴であると感じることが出来た瞬間、片腕を強くつかまれて、完全に我に返った。

    一人の米兵が私の右腕をとり、他の一人が銃口を近く差向けていた。彼は「動くな。お前は私の俘虜だ」といった。


    第三十五軍司令部がレイテ島を脱出し、日本軍の組織的抵抗が終わるのは三月二十三日である。レイテ島における日本軍の投入兵力は八万四千六人。生還者(俘虜)約二千五百人、転進者概数二千二百四十五人、差し引き戦没者は七万九千二百六十一人であった。実に九十四パーセントの死亡率である。それに対して米軍の戦死者三千五百四人、行方不明八十九人。

    二月四日から十一日、英米ソによるヤルタ会談が開かれた。ソ連の対日参戦の要請、戦後レジームの規定が目的であり、特に日ソ関係では、「樺太の南部及びこれに隣接する一切の島嶼はソ連に返還されること」が決められた。つまり千島列島はソ連が領有すると決められたのである。要するにこの会談は連合国による領土分捕りの合意であった。ロシアが北方四島の領有を主張する根拠がここにある。

    この秘密協定を全く知らない日本は、終戦工作の唯一の頼みの綱として、スターリンの仲介を望んでいた。日ソ中立条約は二十一年四月まで有効だった筈である。しかしスターリンは、ドイツ降伏後、適当な時期に対日参戦すると約束していた。国際条約が簡単に破棄されることは今まで何度も見ていた筈なのに、日本政府は甘かった。


    正確な日時は不明だが、この頃アンネ・フランクがベルゲン・ベルゼン強制収容所で死んだ。収容所では酷く溥傑で食料もほとんど与えられず、餓死者が続出していた。アンネは発疹チフスに罹ったのである。


    ベルゲン・ベルゼンは「休養収容所」などと呼ばれていながら、おびただしい数の死者を出した。死因として最も多かったのは与えられる食料の少なさによる衰弱死であった。また病死も非常に多かった。一九四四年三月から十月ぐらいにかけて収容所では結核が流行していた。ついで十月から一九四五年二月ぐらいにかけて赤痢が流行した。その後収容所が解放されるまでの間チフスが流行していた。最終的にはチフスに罹患していない収容者の方が少数派となっていたという。他にも急性肺疾患、疥癬、丹毒、ジフテリア、ポリオ、脳炎、外科疾患、静脈炎などが流行していた。(ウィキペディアより)


    ナチス政権下で自著を焚書されるのを目撃し、一切の著述を禁じられたエーリッヒ・ケストナーはドイツに留まり続けた。ドイツの運命を見定めるためである。三月六日の日記にこう書いた。


    きょう初めて国防軍報道は、ライン河畔ケルンで戦闘が行われていることを認めた。その他、久し振りで、ドイツ空軍が英国に侵入した、と告げた。「灯火のついている都市で」重要軍事目標を攻撃した、というのだ。つまり二つのことを知らせたわけだ。目標に命中したという希望と、英国は灯火管制をやめているという事実とを! 第一の平凡な推測のために、第二の驚くべき新事実をどうして吹聴することができるのか! それとも、第三に、今日以後ふたたび規則的な報復空襲によって国民の負担を軽くすることができるようになったことを知らせようとしたのか。そんなことはだれももうとっくに信じなくなっている。(『ケストナーの終戦日記』)


    三木清が治安維持法違反で逮捕された。ゾルゲ事件で拘留中のタカクラテルが、家族の葬儀のために数日間の仮釈放中に脱走し三木の家に逃げ込んだ。それを匿い、金を渡して自分のコートを貸し与えたのが悪かった。捕まったタカクラのコートが三木のネーム入りだったために発覚したのである。

    三月十日、東京大空襲(下町空襲)。深夜、B29三百三十四機が襲来した。米軍は日本の家屋を焼き尽くすべく、焼夷弾の研究を重ねており、それが実に効果的だった。警視庁の記録では、焼失家屋二十六万戸以上、罹災者百万人以上、負傷者四万人以上、死者八万三千人程とされているが、おそらく実際の死者は十万を超えると推定されている。


    夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す。火は初長垂坂中ほどより起り西北の風にあふられ、忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す。(中略)

    余は風の方向と火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をもやや知ることを得たれば麻布の地を去るに臨み、二十六年馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心のかぎり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ。巡査兵卒宮家の門を警しめ道行くものを遮り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身をかくし、小径のはづれに立ちわが家の方を眺むる時、隣家のフロイドルスペルゲル氏褞袍ニスリッパをはき帽子もかぶらず逃げ来るに逢ふ。(後略)(永井荷風『断腸亭日乗』)


    焦げた手拭いを頬かむりにした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰を下ろしていた。風邪が吹いて、しょんぼりした二人に、白い砂塵を吐きかけた。そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで

    「ねえ・・・・また、きっといいこともあるよ。・・・・」

    と、呟いたのが聞こえた。

    自分の心を一瞬、電流のようなものが流れ過ぎた。

    数十年の生活を一夜にして失った女ではあるまいか。子供でさえ炎に落してきた女ではあるまいか。あの地獄のような阿鼻叫喚を十二時間までに聞いた女ではあるまいか。

    それでも彼女は生きている。また、きっと、いいことがあると、もう信じようとしている。人間は生きてゆく。命の絶えるまで、望みの灯を見つめている。・・・・この細々とした女の声は、人間なるものの「人間の讃歌」であった。(山田風太郎『戦中派不戦日記』)


    しかし市民に対する無差別の空襲は日本だけではなかった。敗北寸前のドイツでも英軍による空襲は激しさを増していた。本来「非戦闘員」であるはずの一般市民が、空襲によって無差別に殺戮される状況は、第二次世界大戦の特徴でもあった。


    十八世紀にはまだ戦争は夏だけ行われた。きびしい季節には冬営にはいり、続きを春にのばした。それは季節戦争であった。十九世紀には季節をもはや顧慮しなくなった。場所の限定のほうが長く続くことが分かった。全滅戦争は、第一次世界大戦中まで、その時々の前線と近接する後背地に限られた。それは前線戦争であった。この限定も除去されてしまった。飛行機と射程の遠い火器が前線の観念を消滅させてしまった。

    今日の戦争は常にいたるところで行われる。戦闘の犠牲に殺傷の犠牲が加わった。もはや非戦闘員は存在しない。乳飲み子も武装せざる兵士である。(『ケストナーの終戦日記』四月八日)


    実は昭和十八年(一九四三)七月二十七日夜からハンブルグを襲った空襲は、九千トンの爆弾を落とした。これを二十年三月十日に東京に投下された爆弾二千トンと比べれば、その凄まじさが分かるだろう。

    三月二十六日、米軍が沖縄慶良間諸島に、四月一日には沖縄本島に上陸した。ここでもまた中央と現地との間で戦争目的が共有されなかった。大本営海軍部は、特攻により連合国軍に大打撃を与えて有利な条件で講和にもっていく積りだった。しかし現地三十二軍司令部(牛島満中将)は、本土決戦に向けた時間稼ぎの持久戦を考えていた。そして戦力不足を補うために戦闘員として沖縄県民を根こそぎ動員する。仮に大本営の作戦が浸透していたとしても、成功はまず見込めなかっただろう。航空優勢は連合国軍が握っているのである。人の命のことを考えなければ、牛島司令官の作戦は的を得たものであった。


    ・・・・沖縄戦のはじめ、慶良間列島で七百人に及ぶ非戦闘員の島民が、家族ぐるみ強制された集団死をとげ」るという事件があった。二〇〇五年、(中略)大江(健三郎)の一九七〇年の著作『沖縄ノート』と家永三郎の一九六八年の著作『沖縄問題二十年」での記述について、右派団体からの働きかけのもと、「二つの島の旧守備隊長と遺族」が、大江と、家永らの死去を受け三冊の版元である岩波書店とを相手取り、新たに名誉棄損の訴えを起こす。・・・・・「集団自決」を直接命令したことを示す物的な証拠はない。・・・・住民たちは絶望も手伝い、自ら集団自決の挙に及んだのであって、これを愛国心の発露と見る方が自然ではないか。(加藤典洋『敗者の想像力』)


    原告(守備隊長と遺族)が依拠したのは、曽野綾子『ある神話の背景――沖縄・渡嘉敷島の集団自決』であった。曽野は、大江や家永の主張を何とかひっくり返すべく、努力するのである。裁判の最終結果は、二〇一一年四月の最高裁で、原告側の請求が棄却され、集団自決命令が出されたと認定されたのである。

    連合国軍は攻撃初日に十八万二千の兵力を投入した。これはノルマンディ作戦を越える大規模な投入である。ほぼ一カ月程度で収束するとの見込みは、日本軍の抵抗にあって完全に崩れるのだが、ほぼ三ヶ月にわたり、沖縄は「本土防衛」のための無残な死を積み重ねていくのである。

    四月四日、小磯内閣総辞職。四月七日、鈴木貫太郎内閣成立。これは本格的に終戦工作を行う内閣の筈であった。しかし戦争が終わるまでには、まだ国民の無残な死が続く。

    カズは秋田高女四年生になったが、通年での勤労動員が強制されているから授業はない。


    戦局いよいよ厳しくなり、四年生からは、軍衣縫製の学校工場で働くことになる。市内から離れた四つの小学校へ学区ごとに分散し、片道一里以上の所へ毎日通った。空襲のサイレンにおびえながら、来る日も来る日もミシンに向って、勝つまではと頑張り続けた。(カズ)


    四月七日、沖縄への特攻作戦で戦艦「大和」が沈没した。伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀艦長(同中将)以下二千七百四十名が戦死、生存者二百六十九(又は二百七十六名)。「大和」は片道燃料で出航したと信じられていたが、満載時六千五百トンの能力に対して、約四千トンの重油を積んでいたことが判明している。


    本作戦は、沖縄の米上陸地点に対するわが特攻攻撃を不離一体の作戦なり

    特攻機は、過量の炸薬(通常一トン半)を装備せるためいたずらに鈍重にして、優秀なる米迎撃機の好餌となる惧れ多し

    本沖縄作戦においても、米戦闘機の猛反撃は必至にして、特攻攻撃挫折の公算極めて大なり

    しからばその間、米迎撃機群を吸収し、その防備を手薄とする囮の活用こそ良策となる しかも囮としては、多数兵力吸収の魅力と、長時間吸収の対空防備力を兼備するを要す

    「大和」こそかかる諸条件に最適の囮と目され、更にその寿命の延引をはかって、護衛艦九隻を選びたり(吉田満『戦艦大和の最期』)


    この頃、日米開戦直後に糟糠の妻を失っていた荒畑寒村は、姉の疎開先である長野県に行き、上山田駅で出征兵士を見送る一団に遭遇した。


    駅頭には幾人かの出征兵士を送る各地から来た団体が、それぞれ旗や幟をおし立て鼓笛を吹きそうして列車の到着を待っていた。そこへ、遠い村からでも出て来たのでもあろうか、見送りの一本の旗もなく、カーキー服の肩から白布を襷にかけ片手に奉公袋を下げた出征兵士と、赤ん坊を背負い一人の男の子の手をひいた細君らしい婦人と、ただそれだけの寂しい一行がやって来た。だが、この一行の先頭には一人の男の子が他の賑やかな団体に負けるものかといったように、昂然としてハーモニカで軍歌を吹奏しながら停車場をさして進んで来たのである。

    細君と、三人の子どもと、それがおそらくこの出征兵士の家族なのであろう。その家族の外に一人の見送り人もなく、ハーモニカで軍歌を吹奏する一少年の外には、他の団体のように奏楽隊もないところを見れば。彼らは遠隔の地に住んでいるか貧しい暮らしを営んでいるかであろう。その一家の杖とも柱とも頼む稼ぎ手を奪われた家族は、これからどうして生活をたてていくのであろうか。その妻子を後に残して、生還の期すべからざる戦場におもむく老兵の心情はどうであろうか。私はややに遠ざかりゆく幟列車の窓から、彼らの姿を見送りつつその運命を思いめぐらした。あのハーモニカの少年、そのけなげな姿は今もなお私の記憶に灼きつけられている。(『寒村自伝』)


    四月三十日、ヒトラーが自殺した。既に三月七日には米軍がライン河を越え、四月二十二日にはソ連軍がベルリン市内に入っていた。五月七日、ドイツは無条件降伏した。敗れた国の兵士はどんな風だったか。


    五月十日

    足をひきずる兵士たちの列は引きもきらない。ほんのわずかの金を手に入れるために、彼らはタバコを売る。値段は一本につき二マルクか三マルクだ。市民服の需要はいぜん続いている。供給はゼロに等しい。・・・・

    ・・・・敗れた軍隊が退却することと、真人間に立ち返ることとは、まったく同一だとは言えない。もっと正確に言えば、全然似ても似つかぬことである。ある農民の女は好意から三人の兵士に一夜の宿を貸したのであるが、夜が明けると、兵士たちがいなくなっただけでなく、わずかばかりの有り金も、引き出しの中の装身具も消えてしまっていた。(『ケストナーの終戦日記』)


    五月二十五日、山手大空襲。投下された焼夷弾の量は下町大空襲の時よりも多かった。死者三千六百五十一人と下町より少なかったのは、疎開が進んだこと、無駄な消火活動をせずにとにかく避難を優先したことによると言われる。

    永井荷風は偏奇館焼失後、菅原明朗(作曲家)・永井智子(歌手、永井路子の母)夫妻が住む東中野のアパートに転がり込んでいて、三月十日に続いて二度目の空襲にあうことになる。


    余はいはれなく今夜の襲撃はさしたる事もあるまじと思ひ、頗る油断するところあり、日記を入れしボストンバッグのみを提げ他物を顧ず、徐に戸外に出で同宿の男女と共に昭和大橋通路傍らの壕に入りしが、爆音砲声刻々激烈となり空中の怪光壕中に閃き入ること再三、一種の奇臭を帯びたる烟風に従って鼻をつくに至れり。最早壕中にあるべきにあらず。人々先を争ひ路上に這ひ出でむとするとき、爆弾一発余らの頭上に破裂せしかと思はるる大音響あり。無数の火塊路上至るところに燃え出で、人家の垣を焼き始めたり。(永井荷風『断腸亭日乗』)


    六月二十二日、御前会議で「ソ連を仲介とした米英との講和交渉」が決定され、七月上旬に近衛文麿の特使派遣がソ連に対して打診された。しかし前述したようにソ連は、ヤルタの秘密協定で決められた対日参戦のタイミングを図っている最中であり、当然のように拒否される。

    六月二十三日、沖縄守備隊が全滅した。軍人軍属の戦死者十二万、一般人の死者十七万。兵士より一般人の死者が多いのは、一般人を盾にした軍の卑劣な戦略によるのである。連合軍もまた死者行方不明者合計二万を出し、傷病者二万六千を加えると投入兵力の三十九パーセントの損失であった。

    沖縄戦では特攻作戦が積極的に採用された。九州(特に知覧基地)から出撃した部隊は「振武隊」、台湾から出撃した部隊は「誠飛行隊」と呼んだ。しかし大量の特攻戦死者にも関わらず、敵に与えた損害は僅かであった。


    ・・・・・沖縄で失われた陸海軍の特攻機の総数は、服部卓四郎著『大東亜戦争全史』には、二千三百九十三機としてある。これには、四月六日の第一次総攻撃以前の数字がふくまれていないから、実数は、さらにうわまわることになる。

    特攻攻撃によるアメリカ側の損害については、『米国海軍作年誌』の記録がある。私は、そのなかの、昭和二十年三月十八日から六月二十二日までをくぎって、集計してみた。アメリカ軍が沖縄上陸のために、日本本土を攻撃してから、沖縄戦の終わるまでの期間である。アメリカ艦船の損害は、損傷百九十一隻、沈没十一隻である。沈没したのは駆逐艦、上陸用舟艇などの小型艦艇ばかりであった。特講機が制式大型空母に突入したものもあった。また一艦に対し、二機以上が命中したこともあった。一機では撃沈できないとわかっていたから、二機であたれば沈められるだろうという、悲壮な青年の決意であった。だが、太平洋戦争の全期間に、体当り攻撃で、制式航空母艦、戦艦、巡洋艦は沈んでいない。(高木俊朗『特攻基地 知覧』)


    六月三十日、秋田県花岡町に強制連行され、花岡川改修工事に従事していた中国人労働者九百八十六人が集団脱走した。鹿島組の作業所で、過小な食糧、過酷な労働を強いられ、更に虐殺迄行われていたのが原因である。警察や憲兵隊が鎮圧したが、事件後の拷問もあって、約四百人が死んだ。

    東条内閣が昭和十七年十一月に「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定し、八月以降、二十年五月まで三次にわたって三万八千九百三十五人の中国人を強制連行し、鉱山やダム建設現場に送り込んでいた。

    事件の調査に当たった仙台俘虜収容所所長の報告には、劣悪というより惨酷な状況が詳しく記されている。


    元来十時間作業ナルモ六月二十日ヨリ縣下一斉突撃作業ト称シ二時間延長ヲナシ十二時間トシタルモ之ニ対スル食糧ノ加配ナシ、

    食糧逼迫シ配給量必ズシモ満腹感ヲ得ルニ足ラザルニ拘ラズ組幹部ハ主食ノ一部ヲ着服シアリシモノノ如シ、

    華人労務者ニ対シテ一般ノ購入ヲ禁ジアルタメ個人トシテノ所持金ノ必要ナシト称シ昨年ノ八月以降労銀ノ支払イヲナシアラズ


    華人ヲ取扱フコト牛馬ヲ取扱フ如クニシテ作業中停止セバ撲タレ部隊行進中他ニ遅レレバ撲レ彼等ノ生活ハ極少量ノ食糧ヲ与エラレ最大ノ要求ト撲ラレルコトノミト言フモ過言ニアラズ

    戦後、GHQが介入して調査した結果、事件後の七月から十月まで、二百十八人が死亡しているのも判明した。鹿島組の後身・鹿島建設との間で賠償交渉が行われ、最終和解に達したのは半世紀以上たった平成十二年(二〇〇〇)のことである。九八六人全員が保証を受けられるよう、鹿島建設が五億円を中国紅十字会に信託、「花岡平和友好基金」として被害者の慰霊と支援を目的に管理し運用することが決まった。 これは後に西松建設の中国人強制連行損害賠償請求訴訟(三百六十人)の和解、三菱鉱業(三菱マテリアル)の元労働者三千七百六十五人全員への和解金支出、に大きな影響を与えた。


    七月二十六日、ポツダム宣言が発表された。戦後レジームからの脱却を主張した安倍晋三が、「詳らかに読んでいない」と言ったものである。それなら私たちは読まなければならない。


    千九百四十五年七月二十六日
    米、英、支三国宣言
    (千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ)


    一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ

    二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ

    三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ

    四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ

    五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ
    吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス

    六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス

    七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ

    八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ

    九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ

    十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ

    十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ

    十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ

    十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス


    日本政府が「国体護持」に固執して宣言受諾を逡巡している間、八月六日に広島に原爆が落とされ、八日にはソ連が日本に宣戦布告し、満州への進撃を開始した。

    八月九日、夜十時頃、新田次郎・藤原ていの家に観象台の職員が「非常招集」だと呼び出しに来た。直ぐに出られるよう準備しろと言い残して新田は出ていく。やがて夫は戻り、一時までに新京駅に行かねばならないと命じた。


    関東軍の家族がすでに移動を始めている。政府の家族もこれについで同じ行動をとるように上部からの命令である。新疆が戦禍の巷になった場合を考慮して急いで立ち退くとのことだった。(中略)

    夫はまだ仕事が残っている。自分の立場としてもう少し後始末をつけてからでないと動けないという風なことを私にいっているようだったが、私の言葉に圧倒されてやがて黙って私の眼を見つめていた。(藤原てい『流れる星は生きている』)


    新田次郎はいったん家族の元に帰って来たが、すぐにソ連軍に連行される。ていは幼い子供三人を連れて逃げなければならない。ソ連軍が新京に進入してきたのは八月二十日であった。

    そして九日には長崎に原爆が落とされた。八月に入ってすぐにでも受諾していれば、原爆による死者も、満州での悲劇も生まれなかった筈である。このことについて、日本政府には大きな罪がある。

    八月十四日の夜十時半頃から十五日の未明にかけて、米軍は南秋田郡土崎港を爆撃した。投下されたのは百キロ爆弾が七千三百六十発、五十キロ爆弾が四千六百八十七発に及ぶ。この空襲での死者は二百五十余人と言われているが、被害は主に港湾部分に集中し本山町の佐藤家は無事だった。

    同じように大阪府大阪市、山口県岩国市、山口県光市、埼玉県熊谷市、群馬県伊勢崎市、神奈川県小田原市がこの日空襲を受けた。既にポツダム宣言を受諾することは通告しており、実に卑劣な行為だったと言わなければならない。

    八月十五日、玉音放送。日本の敗戦をいち早く知らされたのは米軍の俘虜収容所にいた俘虜たちである。大岡昇平は十日に知らされた。


    私はひとりになった。静かに涙が溢れて来た。反応が遅くいつも人よりあとで泣くのが私の癖である。私は蠟燭を吹き消し、暗闇に坐って、涙が自然に頬に伝うに任せた。

    では祖国は敗けてしまったのだ。偉大であった明治の先人達の仕事を、三代目が台無しにしてしまったのである。歴史に暗い私は文化の繁栄は国家のそれに随伴すると思っている。あの狂人共がいない日本ではすべてが合理的に、望めれば民主的に行われるだろうが、われわれは何事につけ、小さく小さくなるであろう。偉大、豪壮、崇高等の形容詞は我々とは縁がなくなるであろう。(中略)

    しかし慌てるのはよそう。五十年以来わが国が専ら戦争によって繁栄に赴いたのは疑いを容れぬ。してみれば軍人は我々に与えたものを取り上げただけの話である。明治十年代の偉人達は我々とは比較にならぬ低い文化水準の中で、刻苦して自己を鍛えていた。これから我々がそこへ戻るのに何の差支えがあろう。(大岡昇平『俘虜記』)


    李香蘭は八月十日に上海で聞いた。前日、上海競馬場の大公園を野外音楽堂に見立てサマー・コンサートを開いたばかりだった。


    その日、八月十日の夜、FENのニュースは日本降伏を何度もくりかえし放送していた。日本政府は国体維持という条件つきでポツダム宣言を受諾する用意がある旨を中立国のスウェーデンとスイスの二国を通じて連合国側に伝えた。両国の上海領事館がその情報を確認した--というキメの細かいニュースまでFENは放送していたのだった。

    旧租界の雰囲気は一転した。街はにわかに明るくなった。日本人居留地の虹口や閘北だけが暗く静まり返り、東京からの情報がすっかりとだえた日本人社会はいらだっていた。(中略)

    (八月十五日)街は湧き立っていた。中国人の表情は明るく、歓喜に満ち、興奮で紅潮していた。私は辻から辻へと洋車を走らせ、人々の踊りまくる行列を、爆竹を鳴らし銅鑼を鳴らすお祭り騒ぎを、しっかりと眼におさめた。ある街角では、人々は中国国旗の小旗を振りかざしながら、日の丸の旗を大地に踏みつけて踊っていた。(『李香蘭 私の半生』)


    高見順は、十日に鶴岡八幡宮鳥居近くの鎌倉文庫で、川端康成から「戦争はおしまい」と聞いた。この店は鎌倉在住の文士が蔵書を集めて五月に開いた貸本屋である。久米正雄と川端康成が発案し、小林秀雄、高見順、久米正雄、里見弴、中山義秀たちが夫人共々協力した。


    店へ行くと、久米さんの奥さんと川端さんがいて、

    「戦争はもうおしまい--」

    という。表を閉じて計算していたところへ、中年の客が入ってきて、今日、御前会議があって、休戦の申し入れをすることに決定したそうだと、そう言ったというのだ。明日発表があるとひどく確信的な語調で言ったとか。

    あの話し振りでは、まんざらでたらめでもなさそうだと川端さんがいう。

    「浴衣がけでしたけど、何だか軍人さんのようでしたよ」

    と久米さんの奥さんはいう。

    「休戦。ふーん、戦争はおしまいですか」

    「おしまいですね」

    と川端さんはいう。

    あんなに戦争終結を望んでいたのに、いざとなると、なんだかポカンとした気持だった。どんなに嬉しいだろうとかねて思っていたのに、別に湧き立つ感情はなかった。(高見順『敗戦日記』)


    大佛次郎も別の線から十一日にはポツダム宣言受諾を聞かされていた。情報のルートというものはあるのである。おそらく大政翼賛会の支部「鎌倉文化聯盟」の線であろう。大佛はこの文学部長であった。


    ・・・・夕方、門田君が東京からの帰りに寄り作朝七時に瑞西(スイス)瑞典(スウェーデン)公使を介し皇室を動かさざるものと了解のもとにポツダムの提議に応ずると回答を発したと知らせてくれる。結局無条件降伏なのである。嘘に嘘をかさねて国民を瞞着し来った後に竟に投げだしたというより他はない。国史始まって以来の悲痛な瞬間が来たり、しかも人が何となくほっと安心を感じざるを得ぬということ! 卑劣でしかも傲慢だった闇の好意が、これをもたらしたのである。(大佛次郎『終戦日記』)


    大政翼賛会発足時点で既に絶望していた林達夫はこう書いた。林ほどの人がそれまで何の情報も得ていないとは思えないが、それでも敗戦は衝撃だった。


    ・・・・・私はあの八月十五日全面降伏の報をきいたとき、文字通り滂沱として涙をとどめ得なかった。わが身のどこにそんなにもたくさんの涙がひそんでいるかと思われるほど、あとからあとから涙がこぼれ落ちた。恐らくそれまでの半生に私の流した涙の全量にも匹敵する量であったであろう。複雑な、しかも単純な遣り場のない無念さであった。私の心眼は日本の全過去と全未来とをありありと見てとってしまったのである。「日本よ、さらば」、それが私の感想であり、心の心棒がそのとき音もなく真二つに折れてしまった。

    嫌悪に充ち満ちた古い日本ではあったが、さてこれが永遠の訣別となると、惻隠の情のやみ難きもののあることは、コスモポリタンの我ながら驚いた人情の自然である。(中略)

    あの八月十五日の晩、私はドーデの『月曜物語』のなかにある『最後の授業』を呼んでそこでまたこんどは嗚咽したことを想い起こす。戦前、戦中、私はある大学でアメリカ合衆国史を講じていて、当時としては公平至極に歪曲しないアメリカのすがたの闡明に務めたものだが、その日以来私はぴったりアメリカについて語るのをやめてしまった。もはや私如きものの出る幕ではなくなったのである。日本のアメリカ化は必至なものに思われた。新しき日本とはアメリカ化される日本のことであろう--そういうこれからの日本に私は何の興味も期待も持つことはできなかった。私は良かれ悪しかれ昔気質の明治の子である。西洋に追いつき、追い越すということが、志ある我々「洋学派」の気概であった。「洋服乞食」に成り下がることは、私の矜持が許さない。(林達夫「新しき幕明き」)


    山田風太郎は、医専ごと信州に疎開していて、授業から寮に帰る途中に立ち寄った食堂で、同級生とともに玉音放送を聞いた。


    「・・・・その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。・・・・」

    真っ先に聞こえたのはこの声である。

    その一瞬、僕は全身の毛穴がそそけ立った気がした。万事は休した!

    額が白み、唇から血がひいて、顔がチアノーズ症状を呈したのが自分でも分かった。(中略)

    喉が詰まり、涙が眼に盛り上がって来た。腸がちぎれる思いであった。(山田風太郎『戦中派不戦日記』)


    荒畑寒村は数日前に、戦争終結が決まったらしいと小堀甚二に聞いたもの半信半疑だった。


    わが家のラジオは毀れていて役に立たなかったので、十五日の正午、私たち三人は内藤(民治)家を訪い、内藤氏とともにラジオの前に坐って天皇の放送に耳を傾けた。それは予期したように、連合国側のポツダム宣言の受諾、無条件降伏による終戦の声明であった。聞き終わった時、内藤氏は深く頭を垂れ、岡田(宗司)君はソッと眼をぬぐい、小堀(甚二)も粛然としていた。私は第一次世界大戦の休戦が発表された時、交戦国の住民が街上に飛び出して、知るも知らぬも相擁して欣喜乱舞したありさまを、当時の新聞記事や写真で見た覚えがあるので、この戦争が終結を告げる日の興奮をひそかに想像していたのである。それだのに今、天皇の放送を聞いても、「ああ、これでやっと戦争は終わったのか」と、むしろあっけないような空虚な感じより受けない、自分の心のアマノジャクに驚くのである。(『寒村自伝』)


    戦時中、徹底的に軍国教育を受けた「小国民」山中恒の反応はこの当時の子供の普通の感覚だったかも知れない。


    比較的食糧に恵まれた地方の農村で、直截悲惨な被爆を知らなかったから、この降ってわいたような〈敗戦〉という事態をどう理解して良いのか、わからなかった。その日の夕刻から夜にかけて、僕は同宿の旧友と激論した。ぼくは自決して天皇陛下にお詫び申し上げるべきだと主張して譲らなかった。真に忠良なる臣民であるなら、陛下にかつてない辱めを蒙らせるような事態を招いてしまったことに対して、当然、死を以て責任をとるべきであり、いずれ自分もそうする積りだと決意表明した。(山中恒『ボクラ少国民』第五部「勝利ノ日マデ」)


    荷風は菅原明朗・永井智子夫妻とともに岡山に疎開していた。前日谷崎潤一郎に招かれて勝山(岡山県真庭市)の旅館で牛肉をご馳走になり、この日は弁当を貰って十一時二十分発の汽車に乗って午後二時に岡山に到着した。正午に重大発表があるということには、ハナから関心がない。


    S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に尽きぬ。


    高峰秀子は千葉県館山で撮影中、この日は館山航空隊、洲崎航空隊の慰問に行っていた。


    天皇陛下のラジオ放送があったのは、『洲の空』の慰問が終わった直後の正十二時だった。広い飛行場の据えられた一個のラジオを前にして、全航空隊員が整列し、私たち慰問団もそのうしろに並んだ。(中略)

    天皇陛下の放送が終わり、ラジオのスイッチが切られたとたん、一人の将校が台の上に飛び上がった。そして叫んだ。

    「という次第であるから、われわれ軍、官民はァ、いっそう心を一つにして、必勝の精神を固めなければならない。分ったか!」

    というような演説をした。なにがなにやらチンプンカンプンのまま、私たち慰問団は昼食をご馳走になり、のんびり記念写真など写して、暑い盛りの午後二時、帰途に着いた。航空隊前の広い道に待機させていたトラックにたどりつくかつかないうちに、後ろから、「オーイ! オーイ」と叫ぶ声がして一台の自転車が走って来た。帽子なしの軍服にスリッパをつっかけた、乱れた姿の将校だった。私たちに追いついた将校が自転車を放り出すと、目をむいて叫んだ。「負けたんだ、負けたんだ、日本は無条件降伏だ!」(高峰秀子『わたしの渡世日記』)


    花巻に疎開していた高村光太郎は衝撃を受けて「一億の号泣」を『朝日新聞』に寄稿した。


    綸言一たび出でて一億号泣す
    昭和二十年八月十五日正午
    われ岩手花巻町の鎮守
    島谷崎とやがさき神社社務所の畳に両手をつきて
    天上はるかに流れ来きたる
    玉音の低きとどろきに五体をうたる
    五体わななきてとどめあへず
    玉音ひびき終りて又音なし
    この時無声の号泣国土に起り
    普天の一億ひとしく
    宸極に向つてひれ伏せるを知る
    微臣恐惶ほとんど失語す
    ただ眼を凝らしてこの事実に直接し
    苟も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
    鋼鉄の武器を失へる時
    精神の武器おのづから強からんとす
    真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
    必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん
    (昭和二十年八月十六日午前花巻にて)


    光太郎は十月に花巻郊外の稗貫郡太田村山口に粗末な小屋を建てて移り住み、七年間独居自炊の生活を送る。戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念であった。戦争責任をこれだけ深く感じたものは多くない。

    停戦を否定して徹底抗戦を叫ぶものもいたが、国民はおおむね平静を保った。

    日中戦争からここまで日本の軍人・軍属の戦没者は二百三十万、民間人が八十万、合計三百十万人に上った。そして戦争が終わっても満州からの逃避行中に死んだ者、ソ連のラーゲリで死んだ者など、まだ多数の犠牲者が生まれるのである。


    八月十六日、東京都は学童集団疎開を翌二十一年三月まで延長すると決定した。学童たちは家族の安否も分らぬまま、戦時中よりひどくなる食糧難を更に耐えなければならなかった。但し十月には第一陣が、そして大部分は十一月中には東京に戻った。

    同じ日、南京の国民政府は解散し、蒋介石の国民党第七四軍が汪兆銘の墓を被覆したコンクリートの外壁を爆破した。南京政府の要人は反逆罪で処刑された。

    八月十七日、東久邇宮内閣が成立した。就任後の記者会見で「全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」と述べた。これが「一億総懺悔」の始まりである。東久邇宮は、これから始まるであろう戦争犯罪裁判を念頭にしていたのではないか。

    ハンナ・アーレントは、道徳感情としての「責任」と、裁かれる「罪」とは峻拒しなければならず、実行責任者としての個人の罪は裁かれなければならないと言う。


    「わたしたちの誰にも罪がある」という叫びは、初めはとても高貴な姿勢に見えて、誘惑的なものでした。しかしこの叫びは実際に罪を負っていた人々の罪を軽くする役割を果たしただけだったのです。わたしたちのすべてに罪があるのだとしたら、誰にも罪はないということになってしまうからです。

    罪は責任とはちがって、つねに単独の個人を対象とします。どこまでも個人の問題なのです。罪とは意図や潜在的な可能性ではなく、行為にかかわるものです。わたしたちが、父親や、国民や、人類の罪に対して、まとめて言えば自分で実行していない行為について罪を感じると言うことができるのは、比喩的な意味においてだけです。(ハンナ・アレント『責任と判断』)


    北海道では、ソ連軍が北海道を占領するらしいとのデマが流れた。七月から疎開中の伊藤整も一瞬、それを信じた。


    ・・・・・今日(十七日)ソ連兵が函館に上陸、汽車でここを通過北上する由。いよいよ、われわれはソ連治下に生活することとなる。・・・・

    私と田上氏とは米軍が占領に来るものとばかり思っていたのである。

    それで私と田上氏と江口と総務課長の木島君など集って、ロシア軍がこの工場の管理にやって来たらどうするか、ロシア語を話せるものはいないか、・・・・(伊藤整『太平洋戦争日記』)


    敗戦からわずか十日後の八月二十日、新宿の尾津組が新宿駅東口に新宿マーケットを開店した。尾津組は戦前から新宿の露天商(テキヤ)の貸元で、飯島一家小倉二代目関東尾津組が正式名称、親分は尾津喜之助である。建物疎開や空襲の跡地を不法占拠したものであるが、戦後闇市の始まりである。


    新宿駅を中心にした焼け跡を空から見ると、東には、「二幸」と「武蔵野館」、そして「三越」と「伊勢丹」などのコンクリートの建物がポツンポツンとあって、新宿通りがヤケに広い。・・・・そして、東口のヤミ市としては、まず駅前広場角の一角には、尾津組の「竜宮マート」がある。大通りを新宿三丁目まで続く日用雑貨の店や露店、「三越」横手にできた生鮮食料品の店や露店も、すべて尾津組が管理していた。「聚楽」の周辺は野原組が呑み屋のカスバをつくっており、その南側、「武蔵野館」西側から駅南口にいたる空間を占拠していたのは和田組で、バラックづくりのマーケットが四〇〇謙軒から並んでいる。

    西口は戦前は未開発の駅裏である。焼け野原の線路際から「民衆市場」と名付けるヤミ市が広がっている。ヤミ市の規模としては、二六〇〇からの店があったという説もあるが、明らかではない。そして、これを管理していたのは安田組である。いまも西口線路沿いにわずかに残る飲食店群は、その名残である。(松平誠『東京のヤミ市』)


    空襲や建物疎開で焼失、破壊された家屋は全国で二百三十万戸、罹災人口は九百七十万人に上った。東京だけを見ると、破壊された住宅七十七万戸に対し、残された住宅は六十一万戸である。疎開から戻る人たちに、これから復員するであろう兵士を加えればその全部を収容できる余裕はなかった。

    空き地がある所、どこでも勝手に占拠してヤミ市は作られた。勿論ヤミは戦後初めて登場した訳ではない。戦争中から配給の遅配、欠配を補うため、人々は高額であってもヤミに手を出さざるを得なかった。

    戦後のヤミ市には何でもあった。最初に最も大きな仕入先となったのが、陸海軍の隠匿物資の横流しである。本土決戦に備えて蓄えていたものだが、これが不法に持ち出されてヤミに出回った。敗戦前後に持ち出された物資は、当時の公定価格で約八億円相当だったとされる。冬衣は四百二十二万着、夏衣は三百三十七万着、靴下・足袋は七百三十九万六千足、綿布は二万二千キロメートル、羊毛は七千二十四トン、米は五万五千三百四十トン、麦は一〇〇〇〇六百二十四トン、乾パンは一万四千五百四トン、その他である。(紀平梯子「着物が雑炊に化けて」『戦後史ノート』より)

    新宿についで池袋、渋谷、新橋、神田、上野、錦糸町など、都心近くの主要駅周辺に続々と開かれ、やがて郊外の駅前、道路沿いにも出現する。新宿と対比して、松平は新橋を挙げる。


    新宿がヤミ市発祥の地だとすれば、新橋は「盛り場としてのヤミ市」をいち早くつくり出した町である。・・・・・新橋には一三〇〇の露店があったという説もあるが、正確には分らない。その理由は、渋谷、上野と並んで、ここのヤミ市が再三解散命令を受け、散っては集まり、散っては集まりを繰り返しているからである。・・・・・

    新橋ヤミ市の取引には大きな特徴が二つあると言われる。その一つは、敗戦直後から一九四六年夏までの初期ヤミ物資流通段階で、新橋が一種の卸市場の役割を果たしているというのである。・・・・

    もう一つの特徴は、新橋ヤミ市のもつ独特の明るさとシャレた感じである。ここが占領軍の総司令部をはじめ、さまざまな軍施設の近くにあることによるのだろう。・・・・新橋には、飲食店、呑み屋のカストリの匂いとともに、それまでみたことのまかった外国製の食料品や生活用品、衣類などが氾濫し、一種バタ臭いシャレ他匂いが漂っていた。(松平・同書)


    渋谷のヤミ市は怖いところだったようだ。


    ヤミ市の時代、渋谷は池袋西口と並んで、はなはだ物騒な街とみられていた。ヤミ市の広がる三角地帯が、売春と暴力で恐れられていた宇田川町、円山町のど真ん中にあるからである。(中略)

    新宿、池袋などのヤミ市が、かなり統制のとれた「組」組織のもとで運営されているのに対し、渋谷は「組」の勢力が入り乱れ、まとまりがないままにヤミ市が出現している。安藤組がこの街を席巻するのは、一九五〇年代になってからのことである。そしてこのほか、渋谷には新宿にみられない特殊なヤミ商人の一団がある。新宿では、「組」組織の中に組み込まれ、勢力としてはみるべきもののなかった華僑の人びとである。(中略)

    金銭も身分保障もなしに、いきなり無警察に近い東京の街頭に放り出された彼らは、占領下の日本での法的規制をほとんど受けることがなかったから、物資統制の厳しかった敗戦直後の一時期、禁制の品じなを売買しても警察の咎めを受けることは余りなかった。(中略)

    ・・・・渋谷のように「組」の統制の充分でないところでは、「組」の支配を拒否する「第三国人」と、ヤミ市を支配しようとする「組」の組員との間で、縄張り争いから殺傷事件がくり返し起こる。(松平・同書)


    日本統治下の旧植民地出身者は、日本支配下にあっては差別を強いられ、戦後は連合国には属さないがそれに準ずる「第三国人」と呼ばれた。ここでは「華僑の人びと」と言っているが、朝鮮人も当然これに含まれる。

    「第三国人」とは石原慎太郎の常套句の一つであったが、在日朝鮮人の問題も、日本近代史の闇である。関東大震災時の虐殺については既に記した。併合以来、朝鮮の産業は日本への資源輸出のために構造変化を余儀なくされていた。荒廃した農地から仕事を求めて来日する者が多くなっていく。


    初めの十年程度は、朝鮮からの移住者の数は少なかった。一九二一年の時点で、四万人程度であった。八年後に在日朝鮮人の数は二七万人を超えた。移住者の半分は日雇労働者あるいは炭坑労働者として働き、工場に勤める者はほんのわずかであった。(中略)終戦時には、二三〇万人の朝鮮人が、日本およびサハリン(そのうち三万六〇〇〇人が、残留を余儀なくされた)などの領土に存在していた。(中略)

    移住者の運命は、人が羨むものからは程遠かった。仕事はうまく行かず、惨めな暮らし向き(多くは、旧被差別部落に程近い「ゲットー」に住んでいた)で、政府からの援助もない上に、他の人のあからさまな敵意の対象になっていた――

    朝鮮人のほうもまた日本人に対し同じような感情を抱いていたのである。「ルサンチマン」が、日本人に対する朝鮮人のライトモチーフである。(中略)

    一九三九年から移住は強制となった。一九三九年から一九四五年の終戦までに八二万二〇〇〇人が、労働者あるいは兵士として強制的に連行された。戦争末期に、朝鮮人労働者は北海道の炭鉱労働者の四三パーセントを占め、きびしい仕事をあてがわれていた。(フィリップ・ポンス『裏社会の日本史』)


    安本末子『にあんちゃん』の長兄・東石(喜一)が佐賀県唐津の臨時雇いの炭坑労働者だったのは、理由がある。父は全羅南道の両班の出である。昭和二年に家族で日本に渡り、唐津の杵島炭鉱大鶴鉱業所で臨時雇いの炭鉱夫となって生涯を終えた。故郷で充分に食え家族を養えるなら、誰が好き好んで差別されるのを承知で異国に移民するものか。しかも東石はその炭坑さえ解雇されるのである。

    そして令和の現在でも朝鮮人への不当な差別は続いている。ヘイトスピーチやSNS上での誹謗中傷が後を絶たない。日本人の民度の低さによるのだろうか。

    併合以来、朝鮮人は日本人として生きざるを得なかったが、サンフランシスコ講和条約によって、日本国籍を剝奪された。殆どが朝鮮へ帰国するだろうとの勝手読みであるが、既に朝鮮半島は南北に分断されている。どちらに帰国するのか。更に朝鮮戦争が始まってしまえば簡単に帰国できる筈がない。

    敗戦は同時に戦災孤児の問題でもあった。集団疎開の対象外とされた小学二年生以下で、空襲で親を失い孤児になった者も多い。加えて疎開中に空襲で家や親を失った者が七万人いたという。親戚に引き取られる者はまだ運が良かった。親戚もいず、引き取り手のない子供は浮浪児になった。彼らの多くは上野の地下道で暮らした。


    かれらはヤミ市を歩き回って、かっぱらい、モク拾いで稼ぎ、マーケットの店で、共同井戸や共同水道からバケツで水を汲んで小銭を貰っていた。(中略)

    一九四七年の記録だが、一時間に拾えるタバコの吸い殻は三〇から四〇、これで巻き煙草一〇本ができた。洋モク(アメリカ煙草)なら四五円、和モク(日本煙草)なら一二円で売れた。国家公務員の給与ベースが一八〇〇円という時代のことである。(松平誠『東京のヤミ市』)


    政府は「戦災孤児等保護対策要綱」を出して対策に乗り出したことになっているが、実際に行われたのは浮浪児狩りであった。国は浮浪児=非行児童とみなし、片端から捕らえて施設に送り込んだ。養育施設は圧倒的に不足しているから、収容されたのは少年院や刑務所である。脱走して再び捕まる者も多かった。

    勿論大人も同じことだった。上野駅や新宿駅などには家も家族も仕事も失った無数の男女が存在した。食もなく飢え、病んだ彼らが寝泊まりするのは不潔極まる場所だった。


    昭和二十年八月十五日、午後一時になると、すでに新宿の街では〝戦後〟がはじまっていた。(中略)

    駅の構内は人の波で埋まっており、たまに空間があると、そこには便所から溢れ出した大小便の汚物が溜まっていた。焼け野原となった都会の住民は、すでに羞恥心を失っており、不潔なものにも麻痺していたが、毀れた敷石の上を大量の汚物がだぶだぶと押し流れてくるのを見ると、精も根も尽き果てて床石にべたりと腰を下ろしていた人たちも、飛び上がるようにしてその場を逃げ出した。(安岡章太郎『僕の昭和史』)


    二十三日、スターリンは「秘密指令九八九八号「によって、五十万人の日本人をシベリアへ連行するよう命じた。これはポツダム宣言に違反するソ連の犯罪である。同時に満州と北朝鮮の施設と物資を戦利品として略奪して移送するように命じた。


    ソ連がなぜこれほど大量の日本人を抑留したのか、もまだ確定的なことは言えない。

    ただ確かなことは、戦争で二五〇〇万人ともいわれる膨大な犠牲者を出し、国土が荒廃したソ連が、国民経済復興のために咽喉から手が出るほど「若い男性の労働力」を必要としていたことだ。スターリンは、すでにヤルタ協定を根拠にして大量のドイツ軍捕虜をソ連に連行して使役し、捕虜は使えると味を占めていたから、日本兵をソ連に連行することも当然と考えたであろう。(長勢了治「シベリア抑留」『昭和史講義 戦後篇』)


    シベリアに抑留された日本人は五十七万五千人、酷寒の地で過酷な労働と食糧不足により約五万八千人が死んだ。死亡率十パーセントに上る。これは厚生労働省発表だが、実際には七十万人以上が抑留され、十万人以上が死んだと推定されている。抑留者の帰国は二十二年から三十一年までかかる。


    戦争のドサクサ紛れにバルト三国を併合し、ナチスと共謀してポーランドを分割したソ連の侵略政策に対する私の憤怒は、ドイツの侵略に当面したソ連の運命を危惧し、国民の勇敢な防衛戦に対する同情のために抹消されていた。だが、ソ連が資本主義国から引出物を約束されて日本に宣戦し、南千島を占領した上、スターリンが戦勝を祝賀して日露戦役敗北の雪辱と誇示したのを聞くと、私の反感はふたたび燃え上がらざるを得なかった。

    レーニンは日露戦役におけるロシアの敗北を、欧州反動勢力の支柱であるツァーリズムに対する打撃として、「ロシア国民は歓喜しなければならぬ」と論じた。然るにスターリンはその敗北を、対日宣戦と国土の占領をもって雪がなければならぬ国辱と称するのだ。(『寒村自伝』)


    高杉一郎は丸四年の間シベリアに抑留され帰国した。満州で捕らえられてからラーゲリに到着するまでの屈辱をこう書いた。


    ・・・・一九四五年の夏に満州で経験したすべての記憶がよみがえり、私の胸は屈辱感でいっぱいになるのだった。

    「明朝六時までにこの街を退去しない日本将兵はことごとく俘虜とみなす」

    という意味のマリノフスキイ元帥署名の布告が、ロシア語と中国語の両方で電柱という電柱に貼り付けてあったハルビンの町、大隊本部の窓際にいつまでも聞こえていたタイピストの嗚咽、豪雨のなかで武装解除を受けた香坊、時計を奪われ防雨外套を奪われながら幾日も幾日も雨のなかを足を引きずって歩いた行軍、夫を連れ去られた開拓団の女たちが毎夜の悪魔から救い出していっしょに連れて行ってくれと泣き叫ぶのに耳をふさいで通りすぎた横道河子、朝鮮人たちが手に手に小旗をもって「ソヴィエト万歳」を叫んでいるなかを行進させられた海林、海林へ落ち付いてから穿いていた長靴をソヴィエト兵に要求されたのを拒否したために即座に射殺された日本の下士官。(高杉一郎『極光のかげに シベリア俘虜記』)


    またラーゲリから、「戦犯」として「逮捕」され獄に繋がれた者はもっと長く抑留された。「捕虜」ではなく「犯罪者」として扱われるのである。何をしたか、ではなく、ソ連軍は過去の職業や能力によって「反革命」と断定した。


    「あなたは逮捕されました」――ひどく事務的にそう言われた。

    逮捕されたとはどういうことなのか。捕虜ラーゲリでの抑留、抑留者の禁足――それはまだ逮捕ではなかったわけか。いつも監視され、強いられていることにかわりはない。ところがそれはまだ「逮捕」ではなかった。(内村剛介『スターリン獄の日本人』)


    内村剛介はロシア語ができるというだけでスパイと認定され、一年以上の独房での拘束の後、二十五年の禁固刑を宣言された。訴因は、「積極的、組織的反ソ諜報活動、ならびに国際ブルジョアジー幇助」であった。収監八年目の昭和二十八年三月五日、スターリンが死んでもまだ解放されない。昭和二十八年、日本赤十字社とソ連赤十字社がモスクワで協議し、彼等『反革命犯罪者』の釈放が合意され、帰国が始まるのだが、内村の帰国は昭和三十一年末、ソ連からの最後の帰還船であった。


    当局の審問は判決があったのちもつづく。それは拘禁の全期間にわたる。この審問は精神の糧をも奪い、かくしてついにみずから進んで隷従するところの「奴隷の心性」をつちかうことを目的としている。だから囚人はみずからの精神の糧を守りやしない、これを当局に向けざるをえない。この精神の糧をめぐるたたかいはことばにはじまり、ことばに終わる。(内村・同書)


    ソ連だけではなかった。ビルマ戦線で降伏した日本兵は英国の捕虜となって、強制労働に従事させられた。ジュネーブ条約に規定される「捕虜」ではなく、「降伏日本軍人」という新しいカテゴリーをでっち上げたものであった。会田雄次はラングーンのアーロン収容所に移された。


    作業は、食糧・衣類の運搬整理、自動車その他工場や物資集積地の雑役、英軍弊社の掃除や建設といいような英印軍を対象としたもの、と、戦禍に荒れたラングーン市の清掃復興作業、ラングーン民間事業会社の労働などであった。(会田雄次『アーロン収容所』)


    「運搬整理」とか「雑役」と言っても、炎天下での重労働である。糞便処理や死体処理も含まれる。スターリンのラーゲリほどではなかったにしても、夜は床もない掘っ立て小屋にドンゴロス(麻袋)を敷いて寝る。食料は乏しく、労働はきつかった。食について不満を述べると、英軍将校は「我々の家畜に食わせて問題ないものだ」と真顔で答えた。

    会田雄次にとって最も屈辱的だったのは英軍兵舎、とりわけ女性兵士の兵舎の清掃であった。日本人は兵舎に入る時、ノックは不要と言われていた。最初、それだけ日本人は信用されているのかと思ったのは間違いだった。


    その日、私は部屋に入り掃除をしようとして驚いた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしですき始めた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない。私はそのまま部屋を掃除し、床を拭いた。裸の女は髪をすき終わると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた。

    入ってきたのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女たちはまったくその存在を無視していたのである。(中略)

    ・・・・・彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに人間では無かったのである。それは家畜に等しいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要は無いのだ、そうとしか思えない。


    トルーマンが、日本中の都市を焼き払い、原爆を落とすことに躊躇しなかったのは、深層心理にこれと同じものがあったためだろうか。ジョン・ダワーは、米国のジャーナリストのパイルの言葉を引いている。


    ・・・・・「ヨーロッパでの敵はたしかに恐ろしかったし、また死に物狂いであったが、それでも人間だった」と、パイルは太平洋戦線からの最初の記事で述べた。「しかし当地では、日本人がヒトより下等で嫌悪感をもよおすものとして、ゴキブリやネズミのように見なされていることを間もなく知った」。これはパイル自身にとって、完全に正常な反応のように思われた。というのは、到着後ほどなく柵に囲われた日本人捕虜を目にして、次のように記しているからである。「彼らはレスリングをしたり笑ったり話したり、まさに普通の人間のようだった。にもかかわらず、連中は私をぞっとさせ、連中を見たあとは、精神的な沐浴をしたいと思ったほどだった。(ダワー『容赦なき戦争』)


    それにしては、大岡昇平が俘虜収容所で出会ったアメリカ人の反応は違う。少し違う観点で、昭和四十年代に五木寛之は「差別」と「区別」について考えた。彼の感想が正しいかどうかは分らないが、会田が感じた屈辱は正にこれだったのではないか。


    ・・・・・私はヨーロッパで、白人の婦人たちが、黒人の青年たちと腕を組んで街を歩いている風景をしばしば見た。道路にはみ出したカフェで白人女たちは、黒人の胸に頬をすりよせ、周囲の人びとは微笑してそれを見ていた。それは私にとって、恐ろしい風景だった。私はその美しい白人の女と、それを見ている群衆の中に、黒人に人種差別をしないヨーロッパの眼を感じたのだった。彼らは、黒人を差別して見てはいなかった。彼らは、黒人を区別していた。人間と、テリヤや、九官鳥が違うように。(中略)

    アメリカの男たちは、白人の女の入浴を盗み見た黒人に、激しい怒りを爆発させるだろう。彼らは、その黒人に嫉妬し得るからだ。つまり、黒人を同じ人間として感じているに違いない。アメリカにおける人種差別の背後に、私は白人種の黒人に対する不安と嫌悪の葛藤を感じる。(五木寛之『風に吹かれて』)


    八月二十六日、内務省の指令で占領軍兵士向けの特殊慰安施設協会(RAA:Recreation and Amusement Association)が発足した。警視総監の坂信弥は、「東久邇宮さんは南京に入城されたときの日本の兵隊のしたことを覚えておられる。それで、アメリカにやられたら大変だろうなという頭はあっただろうと思います」と当時を証言している。連合国軍(特に米軍)からも要請があった。資本金一億円のうち半分は大蔵省が保証して日本勧業銀行が融資した。コンドームは東京都と警視庁が現物提供した。政府主導で五万五千人の売春婦が集められ、最盛時には七万人の女性が働いていたという。次のような募集広告が連日掲載された。


    急告――特別女子従業員募集、衣食住及高給支給、前借ニモ応ズ、地方ヨリノ応募者ニハ旅費ヲ支給ス

    東京都京橋区銀座七ノ一 特殊慰安施設協会(『毎日新聞』九月四日)


    キャバレー・カフェー・バー ダンサーヲ求ム 経験の有無ヲ問ハズ国家的事業ニ挺身セントスル大和撫子ノ奮起ヲ確ム最高収入

    特殊慰安施設協会キャバレー部(『東京新聞』九月四日)


    第一号は大森海岸に開設された〈小町園〉で、次いで立川〈キャバレー富士〉、調布〈調布園〉、福生〈福生営業所〉、北多摩〈ニューキャッスル〉、築地〈宮川〉、人形町〈花家〉、向島〈迎賓館大蔵〉、若林〈R・A・Aクラブ〉などが次々にオープンした。同様の施設は民間によっても作られた。九月十八日には、笹川良一の国粋同盟が、〈連合軍慰安所アメリカン倶楽部〉を大阪に設立した。

    日本女性の「防波堤」として作られたが、RAA開始後も全国各地で米兵による強姦事件は頻発した。新聞報道では犯罪容疑者を「米兵」と表現できず「大男」と称した。

    RAAでは、一日ひとり当たり三十人から五十人の客を取ったという。しかしエレノア・ルーズベルトの反対もあって翌年三月には廃止される。しかし五万五千から七万人の娼婦も生きていかなければならない。失業した娼婦は、看板を替えて赤線に鞍替えした施設に移り、あるいはパンパンやオンリーになった。ただパンパンはRAAが営業している間にも出現した。


    世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間がいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るという例が--。支那ではなかった。南方でもなかった。懐柔策が巧みとされている支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、淫売婦にし、占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥かしい真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなし得ることではないか。

    日本軍は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと「慰安所」の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の下にかかる残虐が行われた。(高見順『敗戦日記』)


    八月三十日、マッカーサーが厚木に到着した。九月二日、ミズーリ号艦上で降伏文書に調印、そして八日には占領軍が東京に到着し、すぐに全国に展開する。占領軍とは言わず、進駐軍と言った。最初の十日間で、神奈川県下では占領軍兵士による強姦事件が千三百三十六件発生した。


    横浜に米兵の強姦事件があったという噂。
    「敗けたんだ。殺されないだけましだ。」
    「日本兵が支那でやったことを考えれば・・・・・」
    こういう日本人の考え方は、ここに書き記しておく「価値」がある。(高見順『敗戦日記』)


    九月六日、佐藤佳夫は勧銀秋田支店に復帰した。四月には勧銀から求職者に対して、給与が増額されていた。そして六月二十五日には書記に昇格していた。


    九月九日、第一騎兵師団が東京都内に入る二日前、狂信的な日本軍が何をしでかすか分らないと、師団は警戒中だった。


    日が暮れてやがて夜もふけた頃、GIたちはトラックが近づいてくる音を聞いた。呼べば応えるくらいの近さまで来たとき、歩哨の一人が大声で「止まれ!」と叫んだ。トラックはとまり、日本人の男が一人で降りて来た。彼につづいて若い女の一群もおりてきた。彼らは待ち構えたGIたちのほうへ用心深い足取りで近づいてきた。

    すぐそばまできて、その男は立ち止まり鄭重にお辞儀をした。そしてうしろに従う女たちを大きな身振りで引き合わせながら言った。

    「レクリエーション・アンド・アミューズメント・アッソシエーションからのご挨拶です!」(マーク・ゲイン『ニッポン日記』)


    秋田では占領軍宿舎として秋田中学、秋田鉱山専門学校、旭北国民小学校は接収された。秋田高女は運よく免れ、カズは学校に戻った。女学校では、米兵はトイレが使いにくいのかも知れない。秋田中学は帝石鉱山学校、繭検定所、高清水道場に分散することに決まった。当時二年生の阿部正路(後、國學院大學教授)は回想する。


    ・・・・やがて私たちの学校は占領軍に接収され、私たちは市内の各地に分散した。寒い北風に吹かれながら私たちの机を手形から将軍のまで運んだ。つらく冷たい日だった。もはや秋田中学校は、まとまった一つの校舎としては存在せず、秋田中学校という〈観念〉としてのみ存在した。そのことで、母校は外形的な建物としてではなく、精神御内部に確固として存在した。やがて、手形の〈母校〉は、占領軍の失火によって焼けた。夜空を焦がす炎に、私たちの青春もまた滅んでゆくのだと思った。(『秋高百年史』)


    当初、連合軍は軍政を布く計画だったが、重光葵外務大臣(東久邇宮内閣)はマッカーサーに面会し、「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを要求し、これを撤回させた。その結果、占領政策は日本政府を通した間接統治となった。但しGHQは超法規的な存在として政府の上に君臨している。

    GHQの指令による戦後の改革の詳細については一々記す必要はないだろう。現在の私たちの生活している基盤は、殆どすべてGHQによって実現されたものだと言って良い。安倍晋三が頑なに否定しようとした「戦後日本」である。日本政府があくまで拘った「国体」は、天皇制が維持された以上「護持」されたことになるだろうか。

    日本は、ドイツや朝鮮のように分割統治されることがなかった、という議論があるが、これは明らかに間違いである。沖縄はサンフランシスコ講和条約締結後もアメリカの支配下にあり、南樺太、千島列島はソ連に統治され現在まで続いている。


    九月十一日、GHQが戦争犯罪人三十九人を逮捕した。逮捕に向かったGHQの眼をかすめて、東条英機が拳銃で自殺を図ったが命はとりとめた。世間の評判は最悪だった。


    期するところあって今まで自決しなかったのならば、なぜ忍び難きを忍んで連行されなかったのだろう。なぜ今になってあわてて取り乱して自殺したりするのだろう。そのくらいなら、御詔勅のあった日に自決すべきだ。生きていたくらいなら裁判に立って初心を述べるべきだ。

    醜態この上なし。しかも取り乱して死に損なっている。恥の上塗り。(高見順『敗戦日記』)


    なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は、阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか。

    逮捕状の出ることが明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損なっている。日本人は苦い笑いを浮かべずにはいられない。(山田風太郎『戦中派不戦日記』)


    昨日、東条は米兵に抑留せられんとして、拳銃自殺を図り失敗、そのまま米司令部に連行さる。傷つきたる後の談話といひ、今日に至りたる態度といひ、人間の出来損なひたること明瞭なり。かかる馬鹿者に指導されたる日本は不幸なり。(細川護貞『細川日記』)


    九月十五日、誠文堂新光社の小川菊松が企画した『日米英会話手帳』が発売された。四六半截判、全三十二ページ、定価八十銭の小冊子が、年内に三百六十万部を売る大ベストセラーになった。

    九月二十六日、三木清が豊多摩刑務所内(東京拘置所)で獄死した。衛生状態が最悪で、疥癬患者の使った毛布を消毒もせずに宛がわれた結果疥癬に罹り、腎臓病が悪化したためである。独房のベッドから転がり落ちて死んでいるのが発見された。

    三木の死の第一報は、府立一中生の速水融(歴史人口学)によってもたらされた。速水は伯父の東畑精一(農業経済学・植民政策)の家に寄宿していた。速水の父速水敬二(哲学者)が東畑の弟である。


    九月二十六日の夜だっただろうか。東畑の伯父から「三木清が獄死したらしい。お前明日、豊多摩刑務所へ行って確かめてくれないか」と言われた。翌二十七日木曜日は前日と違い曇天だったが、午前中に東畑宅を出て中野通りを駅から北へ向かい、途中の焼け跡を三〇分ばかり歩いただろうか、豊多摩刑務所(現・中野区新井三丁目)についた。門衛が威張っていて、「何しに来た」と言わんばかりの態度である。伯父の名前を告げ「三木清氏の死亡について確認しに来た」と言うと、「ちょっと待っていろ」と事務室の方へ行き、やがて戻ってきて、三木が昨日死亡したと伝えた。私はその回答をもって東畑邸へ帰り、伯父に報告した。たったこれだけのことなのだが、これが三木清氏獄死を一般に知らせる第一報になったのである。(速水融『歴史人口学事始め』)


    三木の先妻(死別)は東畑の妹喜美子だったから、近親者として拘置所から連絡があったのだろう。喜美子は速水敬二にとっても妹であるが、敬二は疎開中で東京にいなかった。因みに三木と喜美子との間の子に日本近世史の永積洋子がいるから、融の従妹になる。


    彼の死んだのは昭和二十年九月二十六日、終戦後四十日のことである。時勢は革命的大転換を遂げて、将来のことが深思される時である。吾々は三木の活動に最も大きな期待を持った。彼は常に華かな存在だったし、偏狭な軍国主義者等から眼の敵にされていたので、戦争中、まあ当分静かにしているようにと周囲の者も勧め、彼自身もそのつもりでいた。そこへ豁然と自由主義の時代が開けたのだ。彼は今や四十九歳、思想もますます円熟してきたに違いない。心ある人々は彼のことを考えた。そういう時に、彼は突然に死んだ。

    彼が獄死しようなどと、吾々は夢にも思わなかった。彼が捕えられることになった事件そのものが、実につまらないものだった。彼の友人高倉テル君が、これも殆んど冤罪で、治安維持法にひっかかり、警視庁に留置されているうち、何故か逃亡した。当時、三木は埼玉県の鷺宮に疎開し、東京の自宅との間を往復していた。その鷺宮の仮宮へ、高倉テル君が罹災者の姿で訪れてきた。これを三木は一晩世話してやった。人情として当然のことである。其後、高倉君は再び捕えられ、その足取りによって、三木のところで一夜世話になったことが官憲に知られた。かねて自由主義者として睨まれていた三木は、警視庁に連行され、その思想傾向や余罪を洗いたてるという官憲一流のやり方で、長く留置されることになった。警視庁に連行されたのが三月二十八日で、次に巣鴨の東京拘置所へ移され、それから豊多摩刑務所内の拘置所へ移され、九月二十六日に急死し、死体は二十八日に自宅へ帰った。(豊島与志雄「三木清を憶う」)


    林達夫は京都帝大時代からの三木の友人である。三木が、後に谷川徹三夫人になる女性に恋をし、失恋する現場にも立ち会った。


    三木清は私から見ると実に運のわるい男であった。運がひらけそうな瀬戸際に来るといつもへまばかりやる廻り合わせになっていた。あの最後の、死を招いた原因になった事件などもその例外ではなかった。人は警視庁の拘置所を脱走した高倉テルさんが三木の埼玉の実家に立ち廻りさえしなかったらと残念がっている。しかしあれも結局運なのだ。現に私なども既に十何年も前にちょっと同じような経験をしたことがあるのに、ついに何事もなく平凡な生活を今もこうして続けている。(中略)

    私は運が良かった。私が多少とも交渉をもった非合法時代の共産党員は、野呂栄太郎にしろ、島誠にしろ、亡妹にしろ、そしてこのTにしろ、何度もつかまりながら、ついに一度も私に累の及ぶような口供をしたことはなかった。これは逆に言えば、私はこれなら信用するに足ると確信することのできない人々には、一切どんな因縁があっても心を許そうとしなかったためでもある。三木の寛宏な温かさと私の狭量な冷たさは、こんなところにもあらわれているといえるだろう。――だが、それにしても。やはり運であった。(林達夫「三木清の思い出」)


    GHQは、まだ治安維持法が生きていて、政治犯が獄中で抑圧されていることに愕然とするのである。GHQがいわゆる「人権指令」(治安維持法、宗教団体法などの廃止や政治犯・思想犯の釈放、特別高等警察の解体)を出したのは十月四日であったが、東久邇宮内閣はこれを実行不可能だと拒否して九日に総辞職した。

    東久邇宮内閣には書記官長(元朝日新聞副社長・尾形竹虎)、文部大臣(元朝日新聞社論説委員・前田多門)、首相秘書官(朝日新聞社論説委員・太田照彦)、緒方の秘書官(朝日新聞記者・中村正吾)、内閣参与(元朝日新聞記者・田村真作)等多くの朝日新聞出身者が参加していた。とすれば、「人権指令」拒否は『朝日新聞』の意見でもあっただろう。

    後継は幣原内閣に決まった。その間、米国のジャーナリストが刑務所を訪れ、政治犯にインタビューを行って刑務所内の過酷な状況、拷問などの実態を報道し、米国内でも政治犯釈放への輿論が高まった。駐日カナダ代表部のE・H・ノーマンも力を尽くした。その結果、十月九日には網走刑務所の宮本顕治、十日には府中刑務所の徳田球一、志賀義雄等が釈放される。治安維持法も十五日には廃止された。獄中にあった共産党員にとって、占領軍は正に解放軍であった。


    とまれ、一九四五年一〇月二二付日本政府からGHQに提出された報告書によると、この日までに、拘禁中の者四三九名、保護観察中の者二〇二六名、合計二四六五名の政治犯が釈放された。(竹前栄治『占領戦後史』)


    特高(特別高等警察)も廃止になった。しかし地方では特攻係を警察署長に異動させたり、単なる異動ですませる例が多く、実態は殆ど変わっていない。

    九月二十日、 文部次官通牒「終戦ニ伴フ教科用図書取扱方ニ関スル件」(第一回指令)が出された。国民学校、中等学校及び青年学校の教科書は終戦後も継続使用するが、次の観点から問題がある部分は削除せよというものだ。(イ)国防軍備等ヲ強調セル教材、(ロ)戦意昂揚ニ関スル教材、(ハ)国際ノ和親ヲ妨グル虞アル教材、(ニ) 戦争終結ニ伴フ現実ノ事態ト著ク遊離シ又ハ今後ニ於ケル児童生徒ノ生活体験ト甚シク遠ザカ教材トシテノ価値ヲ減損セル教材、(ホ)其ノ他承詔必謹ノ点ニ鑑ミ適当ナラザル教材。これはGHQの指令ではなく、文部省が独自に決定したものだった。生徒児童は教室で該当箇所を墨で塗りつぶした。


    神宮寺町国民学校(現神岡町神宮寺小学校〉の四年生のときに終戦をむかえた一児童は、当時のスミ塗りの状況をつぎのように述べている。(中学生も同様だった・・・・・)


     家にある教科書を毎日学校へ抱えていって、朝からまっ黒になってスミをすり、先生の指示に従って、戦争のことを書いたところ、アメリカ、イギリスの悪口を書いたところだの一生懸命消した。先生は時々教室をまわって、スミが薄いとか、ここも消さなければいけないとか、もう少しスミを塗った方がいいとか注意した。たしか「ににぎのみこと」の降臨のところだと思うが、そこはみんな真黒にしなければいけなかった。

     雲に乗って「ににぎのみこと」一行が降りてくる図は、うっすらと見えてもいけなかった。何度も何度も塗りたくった。本よりも手や顔の方が黒くなるほどだった。

     どっかの中学校の先生を通訳にしたアメリカ人がニチャニチャとガムをかまいながら、神妙に、微動だにしないで坐っている私たちの間をニタニタ歩き回り、スミで真黒になった本を見て満足げに帰って行った。(『秋高百年史』)


    九月二十七日、天皇がマッカーサーを訪問した。開襟シャツ、ノーネクタイで腰に手を当てるマッカーサーと、モーニング姿で直立不動の天皇が並んだ写真は、国民に衝撃を与えた。


    昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、赤坂霊南坂下米軍の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり。敗戦国の運命も天子蒙塵の悲報をきくに至つてはその悲惨もまた極まれりと云ふべし。南宋趙氏の滅ぶる時、その天子金の陣営に至り和を請はむとしてそのまま俘虜となりし支那歴史の一頁も思ひ出されて哀れなり。(中略)

    吾らは今日まで夢にだに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請ひ罪を謝罪するが如き事のあり得べきを知らざりしなり。これを思へば幕府滅亡の際、将軍徳川慶喜の取り得たる態度は今日の陛下よりも遥に名誉ありしものならずや。(永井荷風『断腸亭日乗』)


    餓死寸前に陥っていたメレヨン島の陸軍独立混成第五〇旅団を収容した復員船〈高砂丸〉が、別府に着いたのが十月二日である。メレヨン島に投入された兵員四千五百のうち、復員したのは陸軍七百八十六名、海軍約八百四十名、生存率三割である。在外邦人六百万の帰還第一陣であった。

    十月七日には、釜山からの引揚者二千百人を乗せた、大陸から最初の引揚げ船〈雲仙丸〉が舞鶴港に帰港した。

    敗戦時、海外在住の日本人は軍人、民間人合計六百万人以上である。このうち、満州在住民間人は百五十五万人と推定される。特に満州からの引揚げ者は、特にソ連兵による虐殺、強奪、強姦などから逃れるため、言語に絶する苦労を強いられた。

    藤原ていが満州を脱出するため新京駅に着いたのは八月十日だった。しかし汽車にはなかなか乗れない。その間に夫の新田次郎は新京でソ連軍の捕虜となって、中国共産軍に抑留された。漸く無蓋貨車に乗って到着したのは宣川(センセン)であった。ここから南下して平壌に行くつもりだったが、二十四日、平壌行きの汽車はなくなった。三十八度線を境に南へ行くことが出来ないのである。それからの苦労は並大抵ではなかった。


    「開城だあ! 開城だぞう!」

    と声をふりしぼった。そしてまっしぐらにその灯の海の中にころがり込んで行った。

    ごつんと足が平地につかえた。大きな道に出たのであった。もろくも私は中心を失ってよろよろと前にのめり、しいんと頭に快い疼痛を感じ、そのまま板のように広い大地に倒れてしまった。

    何か頭の中でじんじん鳴っている。その音が規則正しい調律を以ているようだ。自分の身体が宙に浮こう浮こうとしながら、しっかり大地にとりすがっている。その大地の深い処からあの音が聞こえて来るのだ。遠くの方から正弘と正彦の私を呼ぶ声が聞こえて来る。

    「あ! 子供は!」

    私ははっと眼を開いた。

    正弘と正彦が私に取りすがって呼んでいたのだった。子供の間に太いズボンが見えている。それを下から見上げていくと、そこには確かにソ連兵ではない外国人がにゅっと突っ立っていた。「あ! アメリカ人だ!」

    私の身体がぐらりっと前にかしがった。初めて自分はトラックの上に乗っていることを知った。私たちはアメリカ軍のトラックに救助されたのだ。(藤原てい『流れる星は生きている』)


    赤ん坊の咲は、ていが背中にくくりつけていた。こうして母と三人の子は助かった。ていが幼い子供とともに博多に上陸したのは新京を出てから一年後、昭和二十一年九月十二日のことである。勿論、満州から帰還した数多くの人は、同じような辛い経験をした。ていは幸い子供三人を連れ帰ることが出来たが、子供を失った悲劇も少なくなく、数多くの体験談が残されている。

    佐藤達夫(佳夫の次兄)・タノ夫妻は引揚げの途中、赤ん坊を死なせた。体験談を聞いておくべきだったと思った時は既に遅かった。


    十月十一日、佐々木康監督による松竹大船作品『そよ風』が公開された。戦後初の日本映画である。この映画は『朝日新聞』、『キネマ旬報』等各紙で酷評されたという。企画から公開まで僅か一ヶ月で作った映画であった。高見順は全線座で見た。


    「どういう映画なのかね」というと、

    「ひどいものらしい。日本映画はもうダメだとQ(津村秀夫)が憤慨していた」

    「どのくらいひどいものか、ためしに見てみよう」(中略)


    いや全くひどいものだった。レビュー劇場の三人の楽手が照明係の娘に音楽的才能のあるのを見て、これをスターに育てあげるという筋。筋も愚劣なら、映画技術も愚劣の極。いつの間に日本映画はこう退化したのだろう。(高見順『敗戦日記』)


    ただ作中の『リンゴの唄』(サトウハチロー作詞、万城目正作曲)はラジオ放送でも再三流され、ヒットを予感した霧島昇が並木路子とのデュエットでのレコード化を申し込んだ。レコードは翌年一月に発売され、二十二年末までの二年間で十二万五千枚売れたという。並木がソロで歌うレコードが発売されるのは昭和二十四年のことである。それならば、終戦直後の映像として並木のソロの歌声が流されているのは誤りである。

    この頃、高峰秀子はアーニーパイル劇場(日比谷の東宝劇場)のホールで米兵を前に歌って居た。


    つい昨日までの私は、日本軍の兵士のために軍歌を歌い、士気を鼓舞し一億玉砕と叫び、日本軍の食糧に養われていた。いや、食糧ばかりではない。私の来ていた上衣やズボンも日本ン陸軍将校から贈られた軍服の布地で仕立てた洋服だったのである。色はカーキ色だが布地は民間では到底手に入らぬ立派なウールで、裏地からボタンまでが一揃いになっていた。私はその布地を貰った時、文字通り飛び上がって喜んだものだった。

    それが、戦争が終わってまだ半年も経たないいま、今度は米軍の将兵のためにアメリカのポピュラーソングを歌い、PXのチョコレートやクッキーに食傷し、オマケニアメリカ・マリーンの将校服地で仕立てた美しいグレーのコートを羽織って、テンとして恥じない。

    「昨日までの自分」と「今日の自分」のつじつまは絶対に合わないはずなのに、私はそれに眼をつぶり、過去という頁をふせて見ようともしないのである。何という現金さ、なんという変わり身の速さ。人気商売とはいいながら、こんなことが許されていいのだろうか・・・・・。人には言えない、妙なうしろめたさが、私の背後に忍び寄って、夜となく昼となく、とがった爪の先で、チョイ、チョイと私をつつくのだ。(高峰秀子『わたしの渡世日記』)


    この頃の魚闇相場を荷風が記録している。鰺小一尾 二円五十銭、ムロ鰺一尾 二円、鯖一尾 五円、このしろ一尾 二円五十銭、鰺大干物一尾 四円五十銭、鰹小一尾 十二円。また日用品では罫引西洋紙一枚 二十銭、板草履一足 四円、竹皮草履一足 二円二十銭。銀座の喫茶店ランチ(紙の如く薄く切りたる怪しげなソーセージ数片に馬鈴薯少し添えたる)四円税二円。

    十月二十四日、国際連合が発足した。この時、安全保障理事会の米英仏ソ中に拒否権を与えたのが、将来大きな問題になる。

    十月二十九日、第一回宝くじが発売された。臨時資金調整法に基づく戦災復興の資金調達のためのものである。一枚十円は高いが、外れくじ四枚で煙草〈金鵄〉十本がもらえた。賞金は一等十万円が百本、二等一万円、三等千円、四等五十円、五等二十円で、副賞として四等まではカナキン(インド産の平織りの綿布)が付いた。

    実は敗戦の一ヶ月前、七月十六日に戦費調達のために「勝ち札」という籤が発売されていた。やはり一枚十円、一等十万円であったが、売り出し最終日が八月十五日で「敗け札」になってしまった。但し抽選は行われ賞金も支払われた。


    十月末に警視庁経済三課が発表したヤミの価格を、半藤一利が紹介している。白米一升が七十円(公定価格は五十三銭)、薩摩芋一貫目が五十円(八銭)、砂糖一貫目千円(三円七十銭)、ビール一本二十円(二円八十五銭)、清酒二級一升三百五十円(八円)、冬のオーバー一着百六十円(十八円)などである。公定価格なんて全く話にならない。これは以後もどんどん上がって行くのである。

    十一月一日、餓死対策国民大会が日比谷公園で開かれた。主催は児玉誉士夫の日本国民党である。食料不足は戦時中よりもひどい状況で配給は遅延、欠配が続き、国の施策だけでは食っていけない。上野駅周辺では毎日平均二・五人の餓死者がでている。山田風太郎によれば、医専での解剖実収で上野の餓死者の遺体が使われた。

    主食の一日一人当たりの配給は七月から二合一勺に減らされていた。それも米だけでは間に合わず、芋、麦、小豆等を含んだ総量である。紀平梯子の証言がある。


    たしか昭和二一年の七月だったと思いますけれども、さらに配給が減って、二合になってしまったのです。二合というのは、一、〇二〇カロリー。それから副食物といえば、大都市で平均二〇匁、そのすべてが配給です。・・・・ですから、二〇年から二一年にかけ、※、みそ、しょうゆ、それに油や野菜など、全部を入れて、当時の一人当たりのカロリー計算が一、二六〇カロリー、蛋白質約三四グラムの配給量子化内、一、二六〇カロリーといいますと、体重四四キロの男子--あまり屈強ではないのですが--が絶対安静で横になっている熱量なのです。(紀平梯子「着物が雑炊に化けて」『戦後史ノート』)


    紀平は「カロリー」と言っているが「キロカロリー」の誤りであろう。現在、農林水産省が目安としているのは、男子平均二、二〇〇キロカロリー、女子で一、四〇〇から二、〇〇〇キロカロリーである。餓死者はでたとしても、これで大多数の日本人が生きのびたことが信じられない。買い出し、ヤミ市を利用して、人は何とか生き延びた。

    頑としてヤミを拒否し、配給だけで暮らして死んだ人もいる。昭和二十二年十月十一日の山口良忠判事は有名だが、二十年十月二十八日、東京高校ドイツ語教授の亀尾英四郎が栄養失調で死んだ。この人たちを殺したのは日本政府である。


    〝闇を食はない〟犠牲、亀尾東京高校教授の死

    過日、静岡県下で三食外食者が栄養失調で死亡したが、再びここに一学者の栄養失調死がある。東京高校ドイツ語教授亀尾英四郎氏の死である。この度は知名人の死であるだけに社会に大きな波紋を巻き起こしつつある。

    大東亜戦争が勃発して食糧が統制され、配給されるやうになった時、政府は〝政府を信頼して買出しをするな。闇をするものは国賊だ〟と国民に呼びかけた。同教授は政府のこの態度を尤もだと支持し、いやしくも教育家たるものは表裏があってはならない。どんなに苦しくとも国策をしっかり守っていくといふ固い信念の下に生活を続けてゐた。家庭には操夫人との間に東京高校文乙二年の長男利夫君以下、四歳の覚君まで六人の子を配給物で養ってゐた。

    だが、庭に作った二坪の農園では如何ともすることが出来なかった。六人が三日間で食べる野菜の配給が葱(ねぎ)二本。発育盛りの子供たちに少しでも多く食はせんとする親心は、自己の食糧をさいて行くほかに方法はなかった。遂に八月末、同教授は病床にたふれた。近所に住むかつての教へ子の一人が最近にこのことを知って牛乳などを運んでゐたが既に遅く、去る十一日、遂に教授は死んでしまった。」(十月二十八日付『毎日新聞』)


    十一月二日に労農系・社民系・日労系が合同して日本社会党(書記長片山哲)、六日に旧政友会久原派が日本自由党(総裁鳩山一郎)、十六日に旧政友会中島派・旧民政党等が日本進歩党(総裁町田忠治、幹事長鶴見祐輔)を結成した。日本共産党は十月十日の幹部釈放によって徳田球一を書記長として再建していた。


    社会党が社会主義とはまるで縁のない分子と、情実と、便宜のために作られたに過ぎないことは、その後の党内事情が立証したところである。それだから、結成懇談会には名古屋の「忠孝労働組合」の山崎某(常吉)も出ていれば、右翼の津久井某(龍雄)も来ており、浅沼稲次郎が開会の挨拶の中で堂々と国体擁護を主張するやら、最後には賀川豊彦が天皇万歳の音頭をとるやら、遺憾なくその本質を暴露し、私たちの一団は天皇陛下万歳の唱和に憤慨して退場したほどであった。(『寒村日記』)


    十一月六日、GHQは、持ち株会社の解体に関する覚書を発表した。実行されるのは翌二十一年になる。

    十二月九日から毎週日曜日、GHQの占領政策の一環として、夜八時からの三十分番組『真相はかうだ』が、十回に渡り放送された。目的は、「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に対する罪、現在及び将来の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」であった。つまり「正義の国」アメリカが、日本「軍国主義者」の戦争犯罪を糾弾するものである。戦時中、大本営発表しか知らされなかった日本人には初めて聞くことばかりだが、要するにGHQのプロパガンダである。マーク・ゲインは、「次の日曜日から始まる連続放送の『真相はこうだ』」の稽古を見学する機会を得た。


    日本人の語り手がアメリカ式の最大の芝居口調で語り出した。

    「われわれ国民は、誰が犯罪を犯したかを今こそ知った」

    「誰だ? それは誰だ?」別の声がきく。

    「ちょっと待ってもらいたい」語り手は答える。「今教えてあげる。その名前も教えてあげる。だが、それよりもあなた方が自分で自分の結論を出すことができるように、まずいろいろな事実を語ろう」

    そこで、彼は日本の侵略史上の事実に移った。(中略)この連続放送は、満州侵略に始まる日本侵略史の不快きわまる荒筋を、日本の国民に物語ろう、というのだ。

    ラジオ放送や、また明日から二十回にわたって連載される予定の新聞の続き物(『太平洋戦争史』のことなら、八日から十回連続)について、私が困惑するのは、その政治性である。たとえば、あの臆病な総理大臣幣原喜重郎が、軍国主義の果敢な敵として描写される。攻撃は、主として軍人に集中され、天皇や財閥の首脳のような歴然たる戦争犯罪人は除外されている。最近の日本史のある部分は素朴に解釈され、ある場合にはゆがめられきっている。(マーク・ゲイン『ニッポン日記』)


    十二月十六日未明、近衛文麿が服毒自殺した。八日に近衛、木戸に戦犯容疑で逮捕状が出され、近衛は十六日に出頭する予定であった。近衛は、マッカーサーから憲法策定に協力を求められたことから(マッカーサーは否定している)、逮捕状が出されるなど夢にも思っていなかった。十五日には側近が近衛邸に集まったが、午前一時頃、牛場友彦、松本重治を残して辞去した。二時頃、近衛は次男通隆に「僕の心境を書こうか」と便箋に次のように書いた。


    僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を犯した。之に対し深く責任を感じて居るが、所謂、戦争犯罪人として、米国の法廷に於て、裁判を受けることは、堪へ難いことである。殊に僕は、支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そしてこの解決の唯一の途は、米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から、今、犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思ふ。

    しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへ、そこに多少の知己が存することを確信する。

    戦争に伴ふ昂奮と激情と、勝てる者の行き過ぎた増長と、敗れたる者の過度の卑屈と、故意の中傷と、誤解に本づく流言飛語と、是等一切の所謂輿論なるものも、いつかは冷静を取戻し、正常に復する時も来よう。其の時初めて、神の法廷に於て、正義の判決が下されよう。


    朝六時頃、夫人が寝室を見に行くと近衛はこと切れていた。青酸カリを飲んだのである。近親者は昨夜のうちに毒薬の有無を調査しようとしたが、夫人が「近衛の望むままに」と希望していた。近衛の「志」がどうあれ、あらゆることが失敗の連続で、全て中途半端に投げ出した為政者に大きな責任があるのは間違いない。

    十二月二十日の午後、大岡昇平は博多港に着いた。上陸は翌日である。


    米軍の検査があったが、われわれは俘虜の習慣によって、予めかさばらない被服は全部の上衣の袖やズボンの下に押し込んだので、まるで元満州国の要人のようにぶくぶくふくれ上った姿で、米兵の前に出た。検査は形式的なものであった。

    その他われわれはそれぞれ雑多な私物と、特に船中で副食として配給されたCレーションの食い残しを持っていた。それを各人各様の袋に入れて担いで行く我々を見て、通行人は、

    「持ってる、持ってる」

    と囁き合った。これが終戦後どっと氾濫した重荷を負える復員者に対する人民の反感の残滓であることを後で知った。(大岡昇平『わが復員わが戦後』)


    事務所で未払いの給与を受け取った。支払いが滞った月(米軍上陸のため山へ入った月)から現在までの分が、申告する階級によって支払われる。大岡は一年分の給料二百円たらずと、外食券十枚、乾パン一袋を貰った。それと蓄えていた二百円程が全財産だった。


    妻は貧乏していたが、元気であった。私はもう帰ってこないと諦めていた。そして五歳と三歳の二人の子供は、どうしても自分で育てていかなければならない、と覚悟してしまった。今は主食の補いだけの闇類似行為であるが、将来は本格的な闇行為に出なければならないと決め、予め岡山の米の買い入れ先の農家と梨や桃の仕入について、交渉したりしていた。

    出征前に私のしっていた妻は、ままごとのように料理を作り、人形と遊ぶように子供と遊んでいた二十六歳の少女であった。それが二年の留守の間に、どうやら一人前の女になっていたのには、私は感服してしまった。(大岡昇平『わが復員わが戦後』)


    年末になりGHQ本部(第一生命館)はクリスマスモードに入ったが、日本はまだ闇の中である。既にパンパンの姿が見られた。


    夜、総司令部の前を車で通り過ぎたが、べらぼうな数の豆電灯でえがきだされた「メリー・クリスマス」の看板があかあかと光を投げていた。その光は皇居の石垣を照らし、ひろいお濠の水はさざ波を立てながらこれをうつし返していた。・・・・・またその光は、かつては金融日本の心臓部をなしていた敷地の上に、まるで何かの記念塔のようにうず高く積み上げられている崩れた建物の堆積の上を照らし、ひっきりなしに通るアメリカ軍のジープやトラックを照らし、それからまた、日比谷公園の入口でGIたちを誘惑する女たちをも照らしていた。彼女たちは、寒さにふるえながら、GIたちによびかける、「ヴェリ・グッド・ジョー! ヴェリイ・チープ」(マーク・ゲイン『ニッポン日記』)


    ところでパンパンの語源は明らかではない。パンパンは主に米兵を相手とする街娼である。一説に、彼女たちの話す片言英語をJapan Englishの省略でパングリッシュと呼び、パングリッシュを話す女をパンパンと呼んだと言う。又、性交渉を意味するpompom、インドネシア語のプルンプァン(女)から来たなど様々だ。

    この年は全国的に冷夏で、北海道の作況指教が四二、北陸から北海道にかけて深刻な冷害被害がでた。更に西日本でも、九月の枕崎台風、十月の阿久根台風で大きな被害が出て、日本中が凶作であった。つまり翌年にかけて食糧難に追い打ちをかける状況である。澁澤敬三大蔵大臣は「一千万人が餓死するかもしれぬ」と明言した。

    マーク・ゲインは十二月二十九日には秋田にいた。空襲の無かった地方都市は、同じような風景だったのだろうか。


    秋田は見た目に美しかった。--賑やかで破壊もされていず、クリスマスの贈物のように厚い雪の綿に大事に包まれていた。氷に縁どられた飾り窓の中には、東京で見かけたよりは上等な品物がたくさん飾られ、どの店もいっぱい人が入っているようだった。子供たちも丈夫そうで快活だった。(マーク・ゲイン『ニッポン日記』)


    また、この頃から翌年一杯、全国的に天然痘や発疹チフスが流行した。原因はシラミであり、風呂にも入れない不衛生な生活環境だった。それに外地からの復員兵が持ち込む病原菌である。これを鎮静化したのが占領軍によるDDT散布だった。GHQにすれば、日本人の感染はともかく、連合国軍兵士の感染を防がなければならなかったのである。


    これはおそらくたくさんの人が記憶している、むしろ屈辱的な思いで覚えている方が多いと思うのですけれども、電車の中で、街頭や家庭で、あるいは学校や職場や寮で、このDDTを強制的に撒いて歩いたわけですね。ヘリコプターで空から撒いたこともありました。(中略)

    このとき散布されたDDTは、総司令部が使え使えというから無料だと思って使ったのですけれども、じつはそれから二年後に総司令部から請求書が日本政府に回ってきまして、現在にすると何十億という金額になると思われるのですが、大蔵省が支払ったということです。(川村善二郎「シラミとノミの日々--DDTの威力」『戦後史ノート』)


    太宰治『お伽草子』、高村光太郎「一億の号泣」、宮本百合子「新日本文学の端緒』、森正蔵『旋風二十年――解禁昭和裏面史』。

    成瀬巳喜男監督『勝利の日まで』、佐々木康監督『そよ風』、黒澤明監督『続・姿三四郎』。

    安西愛子『お山の杉の子』(吉田テフ子作詞、サトウハチロー補作、佐々木すぐる作曲)、霧島昇・近江俊郎『男散るなら』(米山忠雄作詞、鈴木静一作曲)、伊藤武雄『フィリピン沖の海戦』、(伊藤武雄・日蓄合唱團作詞、藤浦洸作曲)、伊藤武雄・安西愛子『神風特別攻撃隊の歌』(西條八十作詞、古関裕而作曲)。

    この年、早川書房(早川清)、角川書店(角川源義)、光文社(講談社の別会社)が創業した。