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    東海林の人々と日本近代(十四)戦後篇(1)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2023.02.17

    昭和二十一年(一九四六)タツミ四十五歳、祐二十一歳、カズ十八歳(秋田高女五年)、利孝十六歳、ミエ十三歳、石山皆男四十六歳、鵜沼弥生四十四歳、田中伸三十九歳


    (去年は)色々な言葉が流行った。亜細亜の盟主、大東亜共栄圏建設、八紘一宇、高度国防国家体制、新体制、一億総親和、米英撃滅、神話創造、神機(ここらへんから曖昧な、あやしげなものになったと互いに苦笑)、そして新日本建設はうたかたのごとく一瞬に消えて、今は、今の流行り言葉は「栄養失調」と「特攻くずれ」!(山田風太郎『戦中派焼け跡日記』)


    一月一日、天皇が「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)を発した。原案はCIE(民間情報教育局)局長ケン・ダイク准将、教育課長ハロルド・ヘンダーソン陸軍中佐、学習院大学教授レジナルド・ブライスが作成し、日本側の翻訳を経由して幣原喜重郎によって書き上げられた。それに天皇の強い希望で、冒頭に五か条の御誓文が掲げられた。民主主義は明治天皇の意思であり、近代日本の伝統であったと示すことが、天皇には必要だったのである。マッカーサーとしては、新憲法と天皇の戦争犯罪免責への布石だった。


    茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
    一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
    一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
    一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
    一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
    一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
    叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。
    大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
    夫レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努カヲ効スベキノ秋ナリ。
    惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰へ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。
    然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。
    朕ノ政府ハ国民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱ニ蹶起シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往センコトヲ希念ス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ。
    一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。
    御名 御璽


    これを「人間宣言」と呼ぶべきなのか。『朝日新聞』の見出しは、「年頭、国運振興の詔書渙発 平和に徹し民生向上、思想の混乱を御軫念」であり、『毎日新聞』は、「新年に詔書を賜ふ 紐帯は信頼と敬愛、朕、国民と共にあり」だった。「人間宣言」なんてどこにもないのである。

    これについて永井荷風は一言も触れていないし、山田風太郎も「詔書発布。悲壮の御声」と記すだけだった。当時の日本人の間ではあまり問題にならなかったのではないか。


    私は今でも記憶によく残っていて、一月一日に天皇人間宣言の詔勅が発表されて新聞に載ったのは、読んでもさっぱり分かりませんし、気になりませんでしたが、同時にGHQの指令による修身と日本歴史と地理の三課目をただちに廃止するという記事がどーんと出た時、「えっ! じゃあ日本人はこの先、歴史というものを教えてもらえないのか。自分の国の歴史を全否定されて、それを教わらないまま学校を卒業する生徒が出てくるのか」とびっくりした覚えがあります。(半藤一利『昭和史 戦後編』)


      半藤が驚いた「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(連合国軍最高司令官総司令部参謀副官第八号民間情報教育部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府宛覚書)は前日の大晦日に出されていた。


    (イ)文部省ハ曩ニ官公私立学校ヲ含ム一切ノ教育施設ニ於イテ使用スベキ修身日本歴史及ビ地理ノ教科書及ビ教師用参考書ヲ発行シ又ハ認可セルモコレラ修身、日本歴史及ビ地理ノ総テノ課程ヲ直チニ中止シ司令部ノ許可アル迄再ビ開始セザルコト

    (ロ)文部省ハ修身、日本歴史及ビ地理夫々特定ノ学科ノ教授法ヲ指令スル所ノ一切ノ法令、規則又ハ訓令ヲ直チニ停止スルコト

    (ハ)文部省ハ本覚書附則(イ)ニ摘要セル方法ニ依リテ設置スル為メニ(一)(イ)ニ依リ影響ヲ受クベキアラユル課程及ビ教育機関ニ於テ用ヒル一切ノ教科書及ビ教師用参考書ヲ蒐集スルコト


    しかし半藤が嘆いても、縄文時代も弥生時代もなく、アマテラスと天孫降臨から始まる国史は歴史ではない。禁止された『初等科国史』の最初のページはこれである。


       神勅
    豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は是吾が子孫(ウミノコ)の王(キミ)たるべき地なり。宜しく爾(イマシ)皇孫(スメミマ)就(ユ)きて治(シラ)せ。さきくませ。寶祚(アマツヒツギ)の隆(サカ)えまさんこと、當に天壌(アメツチ)と窮りなかるべし。


    次は四ページにわたって神武・綏靖・安寧に始まる「御歴代表」を掲げ、目次の後の本文はこんな風に始まる。国民学校の生徒はこんなものを読まされていたのである。


    第一 神国
    一 高千穂の峯

    大内山の松のみどりは、大御代の御栄えをことほぎ、五十鈴川の清らかな流れは、日本の古い姿をそのままに伝へています。

    遠い遠い御代の昔、伊弉諾尊・伊弉冉尊は、山川の眺めも美しい八つの島をお生みになりました。これを大八州といひます。島々は黒潮たぎる大海原に、浮城のやうに並んでゐました。つづいて多くの神々をお生みになりました。最後に天照大神が、天下の君としてお生まれになり、日本の國の基をお定めになりました。(後略)


    この後はニニギの降臨から、「二 橿原の宮居」(神武即位、日向から大和へ)、「三 五十鈴川」(崇神即位、伊勢神宮、ヤマトタケル、神功皇后の三韓征伐)と続いて「第一 神国」(神話の時代)が終わる。「第二 大和の国原」、「第三 奈良の都」、「第四 京都と地方」、「第五 鎌倉武士」、「第六 吉野山」、「第七 八重の潮路」(金閣・銀閣、八幡船、南蛮船、戦国時代)までが上巻の範囲である。

    櫻井よし子は二〇一九年に復刻された『初等科国史』を読んで、予想通り感激している。右派の感覚とはこうである。


    日本の子供たちは昭和十八年四月からこの教科書を使っていたはずだ。大東亜戦争の最中に作られた教科書は、しかし、日本の敗戦、米軍による占領で教育の現場から追放された。

    それが令和元年の今、復刻されたのは何と時宜を得たことか。国際情勢が大変化する中で、我が国はおよそすべての面で日本らしい力を発揮しなければ生き残れない。大事なのは一人ひとりの日本人の心構えだ。(中略)

    開いた最初のページから、不思議な懐かしさが胸を満たす。丁寧な言葉遣い、優しさがにじみ出ている表現、日本の歴史や古い物語にまつわる描写の美しさ、祖国への感謝と素直な憧憬が、日本の歴史を織りなす事柄毎に窺えるような記述だ。(櫻井よし子オフィシャル・サイト)https://yoshiko-sakurai.jp/2019/10/31/8388


    皇国史観の本家本元であった平泉澄(キヨシ)東京帝大国史科主任教授は追放以前に辞職して、生家である越前勝山の白山神社の宮司になる(昭和二十三年追放)が、彼の弟子たちはその後も教科書検定官として生き残った。筆頭弟子の村井次郎は最初の主任調査官として、家永三郎の教科書を不認可にする。

    本郷和人によって知ったのだが、学問的には息の根を止められた筈の平泉の説が、七〇年代以降、中世史で主流になった黒田俊雄の「権門体制論」の元(あるいはパクリ)ではないかと、今谷明「平泉澄と権門体制論」が指摘している。権門体制論とは簡単に言えば、いずれも荘園を経済基盤とする公家権門、武家権門、寺社権門の三者が相互補完的に鼎立し、その頂点に王家(院・天皇)が君臨したのが中世であるとする説である。もしこれが平泉説そのままだとすれば、皇国史観の権化と思われている平泉に、意外に唯物史観の発想も含まれていたことになる。


    君臨する天皇、そのもとで政治を行う公家、軍事の武家、祭事の寺社家とイメージしていって、思い当たることがあった。この構図は、太平洋戦争への道を突き進む時代の支配者層と、きわめて似通っているではない。すなわち現人神の天皇。政治と外交を行う政府。海外進出を目論む軍部。軍事行動を正当化する国家神道、である。政務・軍事・宗教のうち、もっとも勢いのあるのが軍事部門であることも共通している。そうすると黒田は、まず、関東から勢力を急速に伸長させる幕府を、膨張を続ける日本帝国の軍部に準えた。次いで、その軍部主導の政情と武力を支える信仰を観察し、そこから権門体制論を発想したのだろうか。(本郷和人『暴力と武力の日本中世史』)


    権門体制論に対抗するのが、佐藤進一の東国国家論、五味文彦の二つの王権論(東の王と西の王)である。論争の決着は今現在ついていないが、本郷和人は権門体制論に批判的である。

    それにしても、「天皇」という装置が現在まで生き延びているのは世界史上最大の謎である。それを断ち切る可能性は何度もあった筈だ。承久の乱に勝利して後鳥羽院を隠岐に流した時、北条義時は何故朝廷をそのままにしたのだろう。後醍醐が吉野に逃亡した時、足利尊氏は何故北朝という傀儡政権をでっち上げなければならなかったのか。足利義満が、明の建文帝から日本国王の冊封を受けた時、既に天皇は不要であった筈だ。信長が比叡山を焼き討ちした時、御所を襲ってもよかっただろう。それぞれの時に天皇を廃することはできたと思われるのに、何故彼らは天皇という装置を必要としたのか。天皇教とも言うべきこの謎が解き明かされない限り、私たちは未だに皇国史観の呪縛に囚われ続けるのではないか。網野善彦は被差別民と天皇の関係を追求して、却って天皇の権威を過大評価してしまったのかも知れない。


    一月四日、軍国主義者の公職追放、超国家主義団体二十七の解散が命じられた。対象は、A戦争犯罪人、B職業軍人・軍の特別警察職員・官吏等、C秘密結社の指導者、D大政翼賛会などの政治団体の指導者、E満鉄など特殊会社の役員、F植民地・占領地の行政官、G軍国主義者・極端な国家主義者であった。膨大な人数になり、該当者は戦々兢々とした。

    十三日には煙草の「ピース」が発売された。一箱十本入り七円で、日曜祝日のみ、一人一箱だけ販売した。これが二十二年には二十円、二十三年には三十円、二十四年には五十円になっていく。私が高校を卒業する昭和四十五年でも五十円だから、当時いかに高価であったかが分る。

    一月十九日、NHKラジオ番組「のど自慢素人演芸会」が始まった。プロデューサーの三枝健三は、戦時中の軍隊の余興大会からヒントを得たと言っている。当初は、合格者だけの発表会だったが、半年後からは、予選の光景も放送するようになる。


    ・・・・三枝さんのお話の中で印象に残っているのは、「合格した人よりも、鐘は一つで落ちた人が、あの番組を支えたのではないか」とおっしゃっていた点です。つまりどういうことかと言うと、お客は鐘が一つで落ちると笑います。へたな人が出てくると笑う、その笑いの要素が歌謡番組の中に入っていった最初が、この「のど自慢」ではないだろうかということです。(恩地日出夫「マイクに託した庶民の夢」『戦後史ノート』)


    軍隊の演芸大会では芝居も重要な演目であった。フィリピンの俘虜収容所では女形も出現し、彼らは普段でも女装で暮らすようになったし(『俘虜記』)、ニューギニアのマノクワリでは特殊な例だが専用の芝居小屋を作り、加東大介が演出して雪を降らせた(『南の島に雪が降る』)。

    戦後の農村でも、青年たちによる演劇活動が盛んに行われた。「演劇」と言ってもヤクザを主人公とする素人芝居である。のど自慢と同じように、青年たちの間に何事かを表現したいという欲求が充満していた。


    ・・・・青年団をはじめとする農村青年の集まりにおいて、(中略)むしろ当初、際立っていたのは「やくざ踊り」と呼ばれた素人演劇であった。これは主として、やくざの親分の国定忠治や清水次郎長、武家からやくざの用心棒に零落した剣豪・平手造酒などを主人公とした任侠劇で、全国各地の青年団で広く行われた。『栃木県連合青年団十五年史』(一九六一)では、終戦に伴う「虚脱感と解放感」や「これまで耐え忍んできたどん底生活の不満と戦争への憎悪」が背景となって「やくざ踊り」が流行したことを、以下のように綴っている--「軍隊生活の余暇に覚えてきたものだろう、「またたびもの」のしろうと芝居や踊りが、若者たちの心をとらえて、燎原の火のように流行し始めた。「青年しろうと演芸会」が、きょうもあすもと、部落から部落へ波及していった。娯楽に飢えていた青年たちは、一時に解放されて、このしろうと演芸会や盆踊り、お祭りばやしなどにとびついていったのであった」。(福間良明『「勤労青年」の教養文化史』)


    一月二十五日、「国民学校後期使用図書中ノ削除修正箇所ノ件」が出された。これが第二次指令で、「連合国軍最高司令部ノ承認ヲ得決定致シタル」ものである。


    この削除修正箇所は大変な量である。

    教科書によっては、削除該当のページを切りとったために、厚さが半分以下になってしまったものさえあった。ということは、とりもなおさず、国策としてそれだけの大量の軍国主義的、超国家主義的な教材が、国語教科書等に盛り込まれていたということである。特に国語教科書に関していえば、集団疎開の子どもたちが読む本がなくで、国語教科書ばかり、すみからすみまでくり返し読んで、暗記してしまったという回想があるくらい、文芸的な、あるいは読み物的な装いがこらされていた。その意味からすれば、最初から徳目を提示している修身教科書や、皇国史観による国体学習の歴史教科書よりも、子どもに対する影響力が強かった。(山中恒『ボクラ少国民』第五部「勝利ノ日マデ」)


    一月二十七日、日比谷公園で野坂参三歓迎国民大会が開かれた。野坂は昭和六年に妻の龍とともにソ連に逃れ、二十年には延安に入り、日本人捕虜への思想教育や投降呼びかけを行っていた。帰国したのは十二日である。大会委員長は山川均、司会は荒畑寒村、ほかに日本社会党委員長片山哲が演説し、尾崎行雄がメッセージを託す等、社会党主催ともいうべき集会だった。三万人の聴衆が集まったという。野坂(戦時中は岡野進を名乗っていた)は、徳田球一等(三二年テーゼ信奉者)の共産党幹部とは違って、天皇制に融和的な立場をとっていた。


    共産主義者でない人たちのあいだになぜこんなに野坂が人気があるのか、その理由に対する満足な説明はまだきいたことがない。地下に潜った闘士としての彼の名声が戦時中の日本にさえ聞こえていたからかもしれない。今の日本は極端な指導者の貧困で、日本人たちは、政治的色彩などおかまいなしにどんな指導者にでもくっついて行こうというのかもしれない。その説明はどうであるにせよ、これは超党派的な会合で右翼の連中が共産党の連中の隣に坐っていた。(マーク・ゲイン『ニッポン日記』)


    野坂は「愛される共産党」を標榜して昭和三十三年に共産党書記長、その後は議長、名誉議長として共産党に君臨したが、平成四年(一九九二)野坂がコミンテルン内務人民委員部(NKVD)のスパイであり、スターリンの大粛清時代、山本懸蔵をNKVDに讒言密告して死に追いやったことが明らかになり、党を除名された。共産党の歴史は対立抗争、スパイ査問の繰り返しである。しかしこの当時の野坂の国民的人気は今では想像できない程である。マーク・ゲインは「野坂はやせて物静かな男で、大学教授の風格があった。演説屋の気取りもなく静かに語った」と書いている。ガサツで(ある意味で率直で)親分肌の徳田球一と比べると、野坂のインテリ振りは際立っていただろう。ただ、吉田茂は徳田球一とはウマが合った。


    この月、秋田県乗合旅客自動車運送事業組合からバス、ハイヤー、自家用各組合が各々独立する事となり、秋田県乗合自動車株式会社を設立、鵜沼弥生は専務理事に就任する。


    岩波書店『世界』が創刊された。重光葵、加瀬俊一、山本有三、志賀直哉、和辻哲郎、田中耕太郎、谷川徹三、安倍能成、柳宗悦らの同心会が、岩波茂雄に雑誌創刊を持ちかけたのが始まりである。ただ同心会では自分たちの機関誌だと思い、岩波側は岩波の雑誌に同心会が協力してくれると思い、双方の思惑は微妙に違っていた。創刊当時はオールド・リベラリストによる保守的な雑誌だったが、四月五日に岩波茂雄が死ぬと、編集長吉野源三郎が左方向へ方針転換を進める。排除された保守派(大正の教養派)は二十三年に『心』を創刊する。

    『中央公論』、『改造』、『文藝春秋』等もほぼ同じ頃に再興された。


    ちなみに私のいました「文藝春秋」は戦前からの雑誌で、いち早く昭和二十年十月から復刊していました。ところが当時は紙がなく、雑誌を毎月出してゆくのはたいへんなことでした。なにせ配給ですから、毎号の分を確保するだけで必死、しかも紙を押さえる団体ができ、そこに睨まれると紙が手に入りません。(半藤一利『昭和史 戦後篇』)


    二月一日、平川唯一の『英語会話』が始まった。毎日午後六時から十五分の番組である。放送の人気が高まると、全国各地で自発的に「カムカムクラブ」支部が作られた。


    「カムカム英会話」放送はマス・メデイアを通しての単なる英会話の伝授ではなく、一つの文化運動として評価されてもよいのではあるまいか。なぜなら、それは、一〇〇万人以上の聴取者を背景に、全国いたるところに自主的に結成され、民主的に運営された支部一〇〇〇を擁し、新生日本の再建を夢み、戦後日本の基本原理たる民主主義を英会話を通して体得するという無意識的な「意識革命」運動ないし静かなるデモクラシーのための文化・教育運動であったと思われるからである。(竹前栄治『占領戦後史』)


    NHKでの放送は昭和二十六年二月まで続き、十二月からはラジオ東京が『カムカム英語』と改め一年間放送、二十八年からは文化放送に移り三十年七月まで続くことになる。ただ竹前が言うようには、この番組がデモクラシーに寄与したかどうかは分らない。それにその後日本人の英会話力は一向に上達しないから、一時的な流行だったと思わざるを得ない。

    この間、日本政府は松本烝治国務大臣(憲法問題調査委員会委員長)が中心となって、憲法改正案を練っていた。マッカーサーからは、天皇制存続、戦争放棄、封建制度廃止の三原則が示されていた。


    二月一日、『毎日新聞』が、松本委員会案(憲法草案)の一つをスクープした。ホイットニーは、天皇が統治権を総攬する「きわめて保守的な性格のもの」で、マッカーサーが「同意を与えることができるような線からはるかに離れた所にいる」と報告している。(中略)

    ついでながら、この頃でそろった政党や民間の憲法改正案を見ると、主権在民を唱えたのは共産党のみで、政府・進歩党は天皇に、自由・社会両党は「国家」にあるとした。三党とも天皇制存続において違いはなかった。また天皇大権については、進自社三党とも議会権限の強化の主張と相まって、縮小もしくは廃止を唱え、天皇の「非政治化」を主張している。そのなかで民間の憲法研究会案が、統治権は「日本国民より発す」「天皇は祭祀のみを司る」と国民主権と象徴天皇を明らかにしていたことは異彩をはなっていた。(福永文夫「天皇・マッカーサー会談から象徴天皇まで」筒井清忠編『昭和史講義 戦後篇』)


    但し『毎日新聞』がスクープしたのは、調査委員会メンバーの宮沢俊義による憲法案だったという。GHQは日本側の草案の受け取りを拒否。二月三日、マッカーサーとホイットニーは、翌日から十二日までの間に、民政局で草案を作るように指示した。マッカーサーは、四月五日に予定されている対日理事会の初会合を前に、憲法草案を確定しておきたかったのである。

    ケーディス大佐を中心に民政局全員が召集され、実際に二月十二日深夜には完成した。要した時間は僅かに八日間である。殆ど素人ばかりの民政局のニューディーラーは理想に燃えていた。象徴天皇制については、おそらくバジョット『英国憲法論』の影響だというのが定説である。皇太子時代の昭和天皇がイギリス留学中、ジョージ五世に教えられたものであり、昭和天皇にも馴染みのある考え方だった。


    この「国民統合の象徴」という言葉を見たとき、最も喜び勇気づけられた日本人は、実は昭和天皇であったかもしれない。バジョット、ジョージ五世という形で信奉してきた君主のあり方が憲法に明記されていると読めたのだから。まして追放により多くの戦前の政治指導者が入れ替わった占領中は、〝為政者は入れ替わるが君主は代わらない〟として君主の〝長期的視野〟の意義を説いたバジョット説に確信を深めていたのではないかとすら思われる。(筒井清忠『天皇・コロナ・ポピュリズム』)


    そして二月十三日、草案が日本側に提示され、象徴天皇制は「天皇制護持のため」と説得された。天皇も喜んで了承した。日本側では天皇護持が最重要課題であった。戦争放棄については各政党ともに自衛のための戦争は許されるべきだと主張したが、GHQは強硬だった。

    加藤典洋『可能性としての戦後以後』によれば、戦争放棄条項には三つの先行事例がある。その三つとは、①一九二八年のパリ不戦条約の第一条、②一九三五年のフィリピン憲法の第二条第三節、③一九四五年の国連憲章の第二条四である。


    ① 条約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス。

    ② フィリピンは、国策遂行の手段としての戦争を放棄し、一般に確立された国際法の諸原則を国家の法の一部として採用する。

    ③ すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇または武力の行使を、いかなる国の領土保全または政治的独立に対するものも、また国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。


    加藤は、日本国憲法第九条は「西洋近代が自分のイニシアティヴでその数次の戦争経験を教訓に祈念をこめて作った最終的条項にほかならないのである。」とする。理想として正しいことは言うまでもないが、①のパリ不戦条約があったにも拘らず戦争を回避できなかった。②のフィリピンでは第二次世界大戦中、それは理想を抱くことの栄光と悲惨として現れた。令和五年現在、ロシアのウクライナ侵略戦争の有様を見ている私たちは、どう考えていくべきか。

    加藤の立場は、内容の当否を越えて、日本国憲法は日本人によって作られねばならないという改憲論である。九十六条改正規定について、GHQメンバーの当初案では、十年間は改正不可、その後の国民投票に際しても四分の三を必要としたが、ケーディスが反対して、現行の「過半数」に決定したという。


    ここでわたしは、わたし自身の考えをケーディスに投影することになるが、彼は、たぶん作成メンバーの中にあってただ一人、一つの国民は、自分の決めたのでないよい憲法をもつより、やはりよくないものであれ、自分の決めた憲法をもつのが正しい、と考えているのである。なぜなら、「憲法の効力」はその「国民に由来する」ので、どんなものであれ「普遍的道徳」からくるのではないからだ。(加藤典洋『可能性としての戦後以後』)


    二月六日、山口淑子は上海で漢奸裁判の法廷に立った。それまでに何度も取り調べがあり、新聞には「銃殺刑に処せられるだろう」との予測記事もでた。しかし川喜田長政の支援もあって、日本人であることが証明されれば無罪判決が出ることは分っていた。


    ・・・・書記官が、これまでの取り調べについて説明し、戸籍謄本とその信憑性について報告した。それを受けて裁判長が「これで漢奸の疑いは晴れた。無罪」と宣言して、小さな木槌をトンと打った。それから「ただし全然、問題がなかったわけではない」とつけ加えた。「この裁判の目的は、中国人でありながら中国を裏切った漢奸罪を裁くことにあるのだから、日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。しかし、一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。それは中国人の芸名で『支那の夜』など一連の映画に出演したことだ。法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える」(『李香蘭 私の半生』)


    国外退去の手続きが取られ、山口淑子は帰国できることになった。二月二十九日に乗船と決まったが、現場の係官は「聞いていない」の一点張りで船に乗せてくれない。結局乗船できたのは一ヶ月後のことだった。船内のラジオから、李香蘭の歌う『夜来香」が流れていた。

    川島芳子は翌年十月に死刑判決が出て、二十三年三月二十五日、北京で銃殺された。銃殺後、獄衣のポケットから出てきたという「辞世の詩」が残されている。


    家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず
    法あれども正しきを得ず 冤あれども誰にか訴えん


    二月十七日、金融緊急措置令。新円切り替え、預金封鎖が行われた。新円への切り替えが発表され三月二日限りで旧円は使用不可とされたため、多くの人が銀行に金を預けた。あるいは、この際現物に替えておこうとヤミ市に殺到し、そのためヤミの価格も高騰した。そして預金封鎖である。目的は銀行預金への課税とインフレ対策である。封鎖された預金からの新円での引き出し可能な月額は、世帯主で三百円円、世帯員は一人各百円円であった。そして月給は五百円までは新円で、それを超過した分は封鎖預金(使えない)で支給されることになった。つまりこの範囲で一ヶ月を暮らせということである。五百円生活が標準とされたのである。

    この年、小学校教員の初任給は三百円から五百円、巡査四百五十円、公務員五百四十円。中小企業労働者や日雇からしてみれば、五百円で生活出来るのは中より上の階層である。

    しかし政府の目論見は外れ、インフレは一向に収まらなかった。前年十月に十キロ六円だった白米は、この三月に十九円五十銭に上がり、十一月には三十六円三十五銭になる。


    インフレを阻止するという目的で行われた金融緊急措置令でしたけれども、実際には大衆の持っているなけなしのお金を強制的に銀行にすい集めて、結局は銀行とか企業などを喜ばせてしまった。実感として、そういう結果に終わったように思わざるをえないのです。(川村善二郎「新十円札の値打ちは軽く」『戦後史ノート』)


    そして配給は頼みにできない。山田風太郎が、この年一月から五月までの主食の配給実態を記している。これは同居する高須さん(後に岳父となる)との二人分である。


    一月 米十五キロ
    二月 米十キロ、麦二キロ、パン六個
    三月 米五キロ、小麦粉六キロ、パン十個
    四月 米十一キロ、小麦粉一キロ、パン二十四個、馬鈴薯四キロ
    五月 米十キロ、麦二キロ、小麦粉四キロ、パン一四個、乾パン二袋、缶詰二ポンド
    ※缶詰は、椰子油から採った進駐軍のバターである。


    米のみ食わば三斗五升七合、一ヶ月に七升一合四勺なり。これ二人分なれば一人一月三升五合七勺、一日一合二勺未満、一回分四勺未満なり。如何に他に桑の葉やサナギの粉にせるもの即ち雑粉入りの小麦粉やパンを加うればとて、これで生きてゆけるものに非ず。因みに月を追うに従って次第に米以外の代替品、甚だしきは馬鈴薯までも主食に組み入れて配給するを見る。日本の苦悶見るが如し。(『戦中派焼け跡日記』)


    二月十九日、天皇が神奈川県を巡幸した。初日の昭和電工川崎工場での視察の際に、工場関係者の説明に納得するように「あっ、そう」と繰り返したことが、新聞報道で広まった。初めて一般国民と対面して説明を受け、反応の仕方が分からなかったのであろう。マーク・ゲインは三月二十六日、天皇の群馬・埼玉行幸に同行した。


    事の次第にいっこう無関心なアメリカ人たちは、みんなこの人間離れした「あ、そう」という声を待ち構え、お互いに肘でつっつきあったり、笑ったり、真似をしたりした。が、そのうちにふざけた気持も消えうせ、私たちはありのままの天皇を見ることができるようになった。いやな仕事を無理やりやらされている疲れた悲愴な男、そして自分に服従しない声音や顔面や四肢を何とか支配しようと絶望的にもがいている男。これが天皇のありのままの姿だった。(マーク・ゲイン『ニッポン日記』)


    三月五日、チャーチルがアメリカのトルーマン大統領に招かれて訪米し、ミズーリ州フルトンのウェストミンスター大学で行った演説に、「鉄のカーテン」という言葉を使った。冷戦時代に入ったことを宣言したのである。


    バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある。


    街にはパンパンが目立つようになって、警察とMPによる「狩り込み」も頻繁に行われた。検挙の主な目的は米兵を性病から守るためであり、拘束された女性たちはすぐに病院に連行され、性病検査を受けさせられた。ただしきちんと調べずに闇雲に検挙したから、間違いで拘束され性病検査を強制される女性も少なくなかった。余りの屈辱に、性病検査の前に自殺した女性もいる。死後は解剖して、処女であることを証明してくれとの遺書を残して。


    ・・・・銀座はGIの天下になり、夜ともなれば、この辺りから新橋にかけて、また有楽町のガード下や駅付近、それに品川駅の近辺などに女たちは集まって客を探していた。警察はしばしば一斉検挙をおこなった。この検挙を俗に「狩り込み」と呼んだが、一回の「狩り込み」で三百人ぐらい逮捕されることも少なくなかった。

    一九四六年(昭和二十一年)三月九日夜から翌十日朝にかけての品川駅付近のホテルを中心とした「狩り込み」では三百人以上が検挙されたが、十六歳を最年少に最高は三十六歳。女給、ダンサー、女工、タイピストなどあらゆる職業を網羅。なんと専門学校(今日の大学、女子大学に相当)卒業者もおり、女学校(高等学校)卒業者が半数、女の貞操どこへやら。(赤塚行雄『戦後欲望史 混乱の四、五〇年代』


    赤塚は茶化しているが、空襲で家や家族を失い、あるいは軍需工場廃止のために失業した若い女性はどうやって生きればよいか。住む家もなく、働こうにも働く場所がない。生きるためには何でもやらなければならない。

    GIの語源はよく分からない。一説に兵士が自嘲気味にGovernment issue(官給品)と自称したことによるとも言う。「銀座がGIの天下」になったのは、服部時計店が進駐軍のPX(酒保)になっていたからである。日本人には手の入らない品物が多く、GIはそれをパンパンに与えることができた。

    GHQが報道(二十年十月九日開始)や映画(二十一年一月二十八日開始)の検閲を行ったのは知られているが、一般庶民の私信まで検閲していたことは、各種戦後史を見ても余り書いていない。占領直後から行われていた。


    昨年末以来、田舎より来る手紙類悉く米軍の為検閲せられあり。封を切り、あとにOpened by Army Examinerと黒字をもって印せるセロファン紙を貼らる。既に敗れたり、また別に国家の機密を書いているわけにもあらざれば、御苦労千万と笑いたいけれど不愉快なる事夥し。ために一週、十日、甚だしきは月余も通信遅る。これが「自由」なりや。然り与えられる自由なり! 圧制と痛撃さるる戦争時代の検閲もかほどには非ざりき。(戦中派焼け跡日記』三月十八日)


    印字については、各人の記憶が様々で、安岡章太郎は、セロファンのテープには「OPENED BY CCD」と書かれていたという(『僕の昭和史』)。


    ・・・・・もっとも検閲をするのは大部分が学生のアルバイトで、ハウス・ガードをクビになったり、やめたりした連中が、よく中央郵便局で手紙の検閲係に雇われていたから、彼らの仕事振りの実情を知っている僕らは、それほど恐ろしいことがおこなわれているという気はしなかったけれども・・・・・。


    CCD(Civil Censorship Detachment)はCIS(民間諜報部)の下部機関で「民間検閲隊」「民間検閲局」とも言われた。

    研究者代表梅森直之(早稲田大学)「占領期日本の情報空間-検閲とインテリジェンス」「検閲研究WEBサイト」がある。その中の山本武利「日本人検閲者名簿解説」から引用する。


    CCDの職員は当初は一千人にも達しなかったが、その後は急増し、一九四七年のピーク時には八七〇〇名にもなった。他のGHQの部局よりも人員が抜きんでて多かったのは、一九四五年十二月に日本政府の情報局を廃止し、それに代わってCCD自身が幅広くマス・メディアやパ-ソナル・メディアの検閲や統治を直接担うようになったからである。

    CCDはその存在が日本人にほとんど知られていなかった。しかもCCDの廃局と同時に検閲関係の重要文書は廃棄処分となった。とくに電話や電信の検閲の証拠はほとんど抹消された。郵便関係資料はまずまず残ってはいるが。人員資料となると僅少だ。一九四九年五月の資料によると、郵便検閲ではその一カ月間で国内郵便物の十三%の二千三百万通をCCDに集め、その中から選び出した二%の三百五十万通,電信は国内電信の十五%の五百万通、電話は全電話の〇・一以下であったが、七十台の盗聴機を使って六十三人の日本人が対応していた。https://www.waseda.jp/prj-Kennetsu/explain.html


    四月、カズは秋田高女の五年生になった。この年度は特例で、四年修了で卒業する者もいた。漸くまともな授業が受けられるようになった。


    四月十日、婦人参政権を盛り込んだ新選挙法による、戦後初の衆議院議員選挙が実施された。有権者数は、男が百六十三万二千七百五十二人、女が二百五万七千六百六十八人。投票率は男が七八・五二パーセント、女が六六・九七パーセント。大選挙区制で、投票は今回限り三名又は二名連記する方式である。結果は自由党一四一、進歩党九四、社会党九三、協同党一四、共産党五、諸派三八、無所属八一。うち女性は七九人が立候補し三九議席を得た。連記制が女性候補者に有利に働いたのは間違いない。荒畑寒村も社会党公認で立候補し当選した。


    この選挙運動がまた、占領軍の治下にあるとはいいながら、当時は実に煩瑣な形式に束縛されていた。まず、候補者がGHQに提出する調査票には、おもな点だけ挙げても氏名、生年月日、出生地、身長、及び体重。逮捕された事例、理由、及び有罪の判決を受けた犯罪。職業及び軍務の履歴。大政翼賛会や類似団体との関係の外、社交・政治・軍事・愛国・職業・文化・体育等の団体との関係。各種団体に対する寄附。各種団体から受けた栄誉。著述及び演説の梗概、目的、発行かたは演説の場所、発行部数と聴衆の数。海外旅行の地域、年月、及び日数、その他。およそ十四頁二十四項目にわたって、和英両文で詳記しなければならなかった。(『寒村自伝』)


    その上、NHKのラジオで政見放送をする際には、同じ原稿を三通提出し、アナウンサー立会の下に、一字一句違わないよう原稿を読まなければならなかった。選挙の結果、幣原内閣は倒れた。後継首相には第一党の党首鳩山一郎がなる筈だったが、鳩山に公職追放が出された。マッカーサーは鳩山を嫌っていた。

    雑誌『寶石』(岩谷書店)が創刊された。戦後の大衆文化史にとって重要な雑誌である。中川右介は、山村正夫『推理文壇戦後史』や小林信彦『小説世界のロビンソン』では三月二十五日創刊としているが、実際に店頭に並んだのは四月下旬だろうと推定している。

    編集主幹は「若さま侍捕物帳」シリーズの城昌幸(詩人としては城左門)で、江戸川乱歩が顧問格で協力した。創刊号には江戸川乱歩の旧作『人間椅子』を今村恒美による絵物語にしたもの、丘丘十郎(海野十三)『密林荘事件』、そして横溝正史『本陣殺人事件』の第一回が掲載され十二月号まで続く。


    午後三間茶屋マーケットにて〈サンデー毎日〉と、〈東京タイムズ〉と、探偵小説雑誌〈寶石〉創刊号を買ってくる。乱歩がもう大先生扱いにされている。確かに乱歩には異常の才がある。しかし彼の有名なのは初期の本格的探偵小説よりも後のエログロの病的世界描写なので、その中には『鏡地獄』とか『蟲』とかいうような名作も少なくないが、しかし余りに絢爛大規模の情景になると筆づかいに息の切れるのが認められるようである。(『戦中派焼け跡日記』五月八日)


    四月二十二日、『夕刊フクニチ』に長谷川町子『サザエさん』の連載が開始した。町子は昭和十九年から福岡に疎開し、西日本新聞社の絵画部に所属していた。西日本新聞社が『夕刊フクニチ』を発行するに当たり、連載漫画を依頼されたのである。連載開始時にはサザエさんは独身だったが、町子が上京する八月にはフグタマスオと結婚し、連載は一時終了した。

    四月二十七日、警視庁で初の女性警察官六十二名が採用された。応募資格は二十から三十歳の女学校卒業者で、身長百五十センチ以上の都内在住者である。応募総数千六百七十三人というから狭き門であった。逮捕権はなく、主に風紀取締りに当った。初任給は二百七十九円五十銭。対して男性警察官の初任給は四百円であった。

    五月三日、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷した。インド、オランダ、カナダ、イギリス、アメリカ、オーストラリア、中国、ソ連、フランス、ニュージーランド、フィリピンの十一ヶ国が、裁判官と検察官を提供した。容疑は、平和に対する罪(A級犯罪)、通常の戦争犯罪(B級犯罪)及び人道に対する罪(C級犯罪)である。

    裁判には様々な問題があり二十三年十一月までかかるのだが、最も大きな問題は「平和に対する罪」であろう。ニュルンベルグ裁判で初めて持ち出された罪であるが、これは「事後法」であり、法の不遡及原則に反している。そして天皇の責任問題をどうするかである。

    米国は日本統治の利便性のために天皇の責任を問わない方針を堅持し、他国との間での綱引きが行われたが、最終的には東條を首魁とする「共同謀議」をでっち上げることで決着した。


    ・・・・共同謀議の観念は、わが国や、大陸法系の共同正犯、教唆犯、または従犯等とは全く考え方を異にした法理である。

    これを国際裁判における「法」の一部として採用するについては大いに議論がある。現にハーバート・ロウ・スクールのフランシス・B・セイヤー教授は、共同謀議の理論は変則的、地方敵の理論であると指摘されたのである(『東京裁判の正体』)

    私の論は、仮に共同謀議の理論を借用するとするも、わが国の場合、本件の事案にこれを通用するのは前提をあやまっているというのである。(清瀬一郎『秘録東京裁判』)


    ナチスやムッソリーニのイタリアとは違い、日本には「共同謀議」をするような体制はなかった。アメリカ人でさえ、それを知っていた。


    今私の眼前にいるこれらの二十六人の男たちは、しかし、一つの卓を囲んで十四年間の行程――制服、ヒステリイ、国家の専制権力の掌握――を計画したのではなかった。スパイの大川は東條と同じテーブルに坐ったことは一度もなかった。彼らはお互いに積年の怨恨をいだいていた。木戸は酒と享楽好きの将軍土肥原とは何の関りもなかった。この中には今度逮捕されるまで、お互いに顔をあわせたことのないものも何人かいる。またこの中のあるものは、決して政策樹立者ではなく、その単なる実施者にすぎなかった。(マーク・ゲイン『ニッポン日記』)


    予定通りの裁判ではあったが、ただし危機はあった。東條へは、天皇に不利なことを言わぬよう何度も念をおしていたのが、キーナン検事の質問に答えて、「日本国の臣民が、陛下の御意思に反してかれこれするということはあり得ぬことであります」と言明したのである。それなら東條の行動は全て天皇の意思に従ったことになる。日を改めてキーナンは東條に問う。


    キーナン 二、三日前にあなたは、日本臣民たるものは何人たりとも、天皇の命令に従わないというようなことを考えるものは、ないということを言いましたが、正しいですか。

    東條 それは私の国民としての感情を申上げておったのです。責任問題とは別です。

    キーナン 戦争を行えというのは裕仁天皇の意思でありましたか。

    東條 私の進言--統帥部その他責任者の進言によって、しぶしぶ御同意になったというのが事実でしょう。


    被告たちは天皇を守るために必死で答弁した。天皇免責を前提にする限り、論理は無茶苦茶になる。当然インドのラダ・ビノード・パール判事の判決書(反対意見書)が出てくる余地はあるが、結局筋書き通りの結果になる。しかし天皇個人の意思はどうあれ、現実に日米戦争を(遡って満州事変以降)裁可したのは天皇である。最低限でも、道義的な責任がある。


    連合国対枢軸国という対決構図は、このうち、枢軸国側の劣化を激しく強調し、「悪」と断罪することで米英の劣化とソ連の劣化を見えにくくする効果をもっていました。国際軍事裁判は、たとえばニュルンベルクでは、ドイツ軍の悪を強調することでカチンの森のソ連軍の犯罪を隠すのに役立ち、東京では、日本軍の残虐非道さを強調することで原爆投下の「大量殺戮」を見えにくくするのに力を発揮しました。

    然しそれ以上に重要だったのは、この裁判が、第二次世界大戦の構図を、自由主義陣営とファシズム陣営というこの二つのイデオロギー間の世界戦争として「再定義」することで、先のならず者国家群を戦後国際秩序内に――旧敵国という名の禁治産者的国家として--回収すると同時に、戦後新たに進行していた米ソ間のイデオロギー対立が戦前にも伏流していたことを隠蔽し、戦前・戦中の両国における「劣化」を見えなくする役割を果たしたことだったでしょう。(加藤典洋『戦後入門』)


    五月六日、ラジオ『街頭録音』が始まった。藤倉修一アナウンサーが日比谷、銀座、八重洲をはじめとする街頭に立ち、人々にインタビューする番組である。

    同じ日「教職員の除去,就職禁止及び復職等の件」が通達され、「教職追放」が始まった。GHQは一般の公職追放より、教職追放を厳しく考えていた。将来の日本人への教育こそが重要だとのGSの判断である。

    五月十五日『思想の科学』が創刊した。同人は鶴見俊輔(二十三歳)、渡辺慧(三十五歳、理論物理学)、武谷三男(三十四歳、理論物理学)、都留重人(三十四歳、経済学)、武田清子(二十八歳、思想史)、鶴見和子(二十七歳、社会学)であった。

    『思想の科学』が最も注目を浴びるのは、昭和二十九年から足掛け八年かけて完成した『共同研究・転向』によってであろう。この研究に鶴見が集めたのは、大学院生や大学生、大学卒業間もない社会人である。大学所属の研究者を敢えて除外したのは、彼らこそが「転向」の当事者であったからである。

    昭和の知識人の運命は「転向」を離れては考えられないのだが、後の吉本隆明の批判などもあって簡単に記すことができない。但し己の思想と国民との乖離が「転向」の条件の一つならば、いわゆる「非転向」を貫いた志賀や宮本等も、スターリニズムに凝り固まって国民と完全に乖離していたものである。鶴見のグループは転向自体を善悪では判断していない。強制による転向、偽装転向、自発的転向、非転向の間に簡単には区別できない状況がある。


    ・・・・私たちは、まず第一に、一般的なカテゴリーとしての転向そのものが悪であるとは考えない。むしろ、転向の仕方、その個々の例における個性的な展開の中に、より善い方向、より悪い方向が選ばれるものと考える。したがって、転向をきっかけとして、重大な問題が提出され、新しい思想の分野がひらけることも多くあると考える。もともと、転向問題に直面しない思想というのは、子供の思想、親がかかりの学生に思想なのであって、いわばタタミの上でする水泳にすぎない。就職、結婚、地位の変化にともなうさまざまの圧力にたえて、なんらかの転向をなしつつ思想を行動化してゆくことこそ、成人の思想であるといえよう。非転向の稜線に基準をおいて、そこから現代の諸思想を裁くことは、子供の思想によって大人の思想を裁くこっけいをあえてすることになりかねない。(鶴見俊輔『転向研究』)


    そして、鶴見は転向には時期的に大きな山が四つあったとする。第一は昭和八年(一九三三)の集団転向、第二は十五年(一九四〇)の新体制運動を頂点とする前後、第三は敗戦、第四は戦後の逆コースの中で血のメーデー事件を頂点とする。それぞれに転向の様々な様態が見られるのである。他の三つが共産主義からの転向であるのに対し、第三の敗戦は、日本の国家ぐるみ国民丸ごとの転向であった点、ドイツと並ぶ世界史上非常に稀なケースであった。

    五月十六日、吉田茂に組閣命令が出された。吉田は鳩山一郎のパージが解けた時点で首相を交代すると約束して、自由党の総裁になっていた。これが後に吉田と鳩山との激しい抗争の原因となった。

    五月十九日、飯米獲得人民大会(食糧メーデー)に二十五万人が参加した。続いて集団はデモ行進に移った。この際、共産党員の松島松太郎は、表に「詔書 国体はゴジされたぞ、朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね、ギョメイギョジ」、裏に「働いても働いても何故私達は飢えねばならぬか、天皇ヒロヒト答えて呉れ」のプラカードを掲げたため、六月十四日に不敬罪で逮捕された。このことが不敬罪廃止に繋がる。


    政界は煮えくり返っている。吉田はまだ組閣に難航している。彼が閣僚を選び出すやいなや、彼らは戦争犯罪人として追放されることがただちに明らかにされる。ところで、主食配給機構はまったくポシャッてしまったようだ。北方の僻地では、三十日の遅配だし、東京でも十二日の支配だ。抗議の街頭大会、行進は引っ切りなしに行われている。火曜日には八百人の群衆が皇居前に集まり、金曜日には八ヵ所の配給所の前で「食糧デモ」が行われた。昨日はこれが二十ヵ所にたっした。議事堂や国会の前の行進は引っ切りなしだ。

    そのクライマックスは今日の「米よこせ」大会だった。(中略)

    群衆は橋のこちら側に立ちまたは坐り、こん棒で武装した皇宮警察の一帯は向こう側の門の前を警戒していた。私たちが来る前に、群衆は一度門のところまで押しかけ、混戦のさ中に一人の警手は濠の中に投げ込まれ、群衆の何人かはたたきのめされたとのことだった。(中略)

    が、今日の最大の一幕は別の場所で行われた。今朝の大会のあとで、一団の代表は首相官邸に赴き吉田に組閣断念を勧告し、かつ隠匿食糧の人民への配分を要求した。(『ニッポン日記』)


    一方、磯田光一は高坂正堯『宰相吉田茂』から、したたかな吉田のエピソードを紹介する。吉田は徹底的なリアリストであった。


    ・・・・組閣の直前に、大量の餓死者の出かねない日本の食糧事情を知っていた吉田茂は、「マッカーサー元帥が、食料を出すといってから組閣をすればよい。一ヵ月も全国赤旗を振れば、アメリカから食料を持ってくるよ」と語っていたという。当時は日本人の飢餓を強調する報道は検閲のタブーであった。このとき飢餓を訴える方法として、大衆のデモ以外に何があり得たであろうか。(磯田光一『戦後史の空間』)


    翌日マッカーサーは、「組織的な指導の下に行われつつある、大衆的暴力と物理的な脅迫手段を認めない」と声明を出し、社会党と共産党を牽制した。マッカーサーは民主化に理解があり、労働運動も認めてくれると思いこんでいた共産党も社会党も衝撃を受けた。


    この声明の効果は驚嘆すべきものだった。これほどまでに反響をよびおこした措置を私は思いだすことが出来ない。組合や左翼政党の本部は驚倒し、保守派は大っぴらに歓喜した。

    この声明の内容が首相官邸に伝えられるやいなや、「坐り込み」の連中は静粛に退却した。今日、または今週中に予定されていたデモはことごとく中止された。今の今まで、街頭示威以外には政治を新しくする方法はないと説きたてていた日本の新聞は、大慌てで回れ右した。(『ニッポン日記』)


    しかし国民が食えないのは事実だった。そもそも戦前は台湾や朝鮮半島から輸入していた食料は途絶え、また数百万の引揚げ・復員者の分、人口が増えるのだから、どんな政治家が担当しても国民を満足に食わせることはできなかっただろう。


    復員者への国民の態度も冷淡だった。のちに、山形県青年団協議会事務局長や日本青年団協議会副会長を務める寒河江善秋は、南方戦線より故郷に帰る途中、「いたる所で侮蔑的なまなざしに逢」い、中には「憎々しげに、罵声を浴びせるもの」もあったという〔『村の青年団』〕。また、特攻隊員らに対し、近隣の群衆が「お前たちがもっと一生懸命、戦闘をしなかったから負けたのだ」と罵声を浴び、石を投げつけたこともあった〔「石もて打たれし終戦時の思い出」〕。(福間良明『「勤労青年」の教養文化史』)


    配給の遅配欠配は続き、ますますヤミ市が盛んになってくる。ただこの頃の食糧難について、佐藤佳夫やカズの記憶には余り出てこない。都会と違って秋田は比較的食糧が充足していたのだと思われる。


    闇市の屋台では、〝残飯シチュー〟があきなわれた。アメリカ軍の残飯を、石油カンでどろどろ煮こむ。少々腐りかけたものも入っているので、重曹をブチこんでごまかしてある。白く濁って泡が立っていて、すっぱい。大きなコンビーフの塊が入っていたりするかわりに、タバコの吸いがらやチューインガムのかす、はてはコンドームにぶつかろうというシロモノだった。敗戦の悲哀を、これ程象徴している食いものはなかった。一見、紳士風の男たちも、餓鬼のようにドブリに頭をつっこんでいた。

    「アメリカの放出物資のおかげで、われわれ日本人は生きのびることができたのだ。恩を忘れてはいけない」--そんなもっともらしい理屈をきくたびに、私は残飯シチューのあの酸敗した臭気を、屈辱の味を思う。私の反米感情は、食いもののウラミそして街にあふれるパンパンとGIへの憎しみから生まれた。(竹中労『完本 美空ひばり』)


    但しこの残飯シチューによって、日本人がチーズやバターの味に馴染んだ面があると、松平誠『東京のヤミ市』は言う。

    米の不足は日本酒の不足にも結びつく。昭和十九年の清酒生産量が百六十万石に対し、二十年と二十一年は八十万石と半減した。二十一年の清酒一升の公定価格二十三円に対してヤミ値は二百八十円である。この当時、日本酒はブルジョアの飲む酒であった。

    その代わり、ヤミ市の屋台にはカストリやバクダンが出回って来る。本来カストリ(粕取り)とは、日本酒の酒粕を蒸留して造る焼酎であるが、この時代のものはそれとは違う。ドブロクを作った残り粕を蒸留した粗悪な密造焼酎である。梅酒で割ったものを「梅割り」、グレープジュースで割ったものを「葡萄割り」と称した。バクダンは、薬用アルコールを水で薄めたものらしい。中にはメチルアルコールを含んだ危険な代物もあった。三月に急死した武田麟太郎の死因について、吉行淳之介はメチル入りの酒のせいだと言っている。


    江分利の酒、みんなの飲んだ酒というふうに書いてきたが、実は当時は酒はなかったのである。バクダンとドブロクとカストリである。(中略)

    バクダンは〝酔う〟というようなものではなかった。鼻をつまんで、ノドへ流し込むのである。サッカリンの匂う浅漬をサカナにバクダンを3杯飲むと、地面がどこまでも持ちあがってくるという感覚で、悪寒が走り、忽ちにして嘔吐した。まあ、上からの下剤の役割は果たしたね。酔うのではなく、平常とは別の悪い感情を誘発する飲みものである。そんなものを何故飲むか、については前回に書いたので重複を避けたい。ともかくバクダンを飲むのは生命がけだった。生命をとりとめても翌日の凄惨なる宿酔いは逃れられぬ。(山口瞳『江分利満氏の華麗な生活』)


    カストリ三杯で潰れるから、三号で潰れる雑誌を「カストリ雑誌」とも称した。『赤と黒』(九月創刊)、『猟奇』(十月創刊)、『りべらる』(十二月創刊)、『デカメロン』(二十二年創刊?)等である。


    『デカメロン』という雑誌に関していえば、当時『りべらる』や『赤と黒』もあり、江分利はやっぱりワクワクして読んだものだ。

    著名な筆者が書き、著名なデザイナーや絵描きが絵を描いた。これらの雑誌はエロ雑誌とよばれ、カストリ雑誌ともいわれたが、江分利にはむしろ〝平和の象徴〟のように思われた。言論は多少の行き過ぎがあっても〝自由〟であった方がよい。不自由よりは、はるかによい。・・・・・これらの雑誌には思想と理想と主張とバイタリティがあった。江分利は日本の戦後のエロ雑誌の果たした役割を高く評価している。エロ雑誌は日本人の生活革命に寄与したところがずいぶん大きいと考えている。生活革命という点ではすくなくとも『思想の科学』より強力だったと考えている。(山口瞳・同書)


    また、ヤミ市で日本人が初めて口にしたのがホルモンだった。それまで日本人には牛豚の臓物を食べる習慣がなく、品川周辺に住んでいた朝鮮人が、敗戦前から食い始めたのが始まりという。芝浦には昭和十三年から屠畜場が開かれており、現在でも東京都中央卸売市場食肉市場となっている。そこで廃棄物として捨てられた臓物を朝鮮人が持ち帰ったのである。


    ヤミ市時代のホルモンは、もちろん後の焼肉とは似ても似つかぬもので、鉄板の上で焼いては味を付けた簡単な料理だった。だから、その単位も一皿で、バクダンやカストリ、あるいはマッコルリと対になって出された。

    ・・・・ホルモンにはスタミナというイメージがつきまとっており、勢力がつくことと朝鮮半島の人びとの気性の激しさやスタミナと結びついているというが、また「掘るもん」ないしは「放るもん」(大阪弁)という侮蔑語だとする説もある。屠場で埋めたり放ってしまった内臓を、在日の人たちが掘り出して食べたというのである。そういう説もあるほどに、第二次世界大戦までの在日の人たちは、貧窮のどん底に押し込められていた。(松平誠『東京のヤミ市』)


    五月二十二日、漸く第一次吉田内閣が成立した。この時の吉田茂には党内基盤が欠けていたが、農相には企画院事件で逮捕された和田博雄を党内の反対を押し切って就かせた。


    内外のマスコミの論調は幣原内閣の亜流と称し、日本の民主化は期待できないと評した。吉田はその論調に心中密かに期するものがあった。それは自らの権力を自在に用いて「皇室中心の一大家族国民」という、前述の牧野(伸顕)の歌(君民のへだてなき御代の姿こそさかゆる国のしるべなるらん)に込められた理念を具現する信念であった。そのために幣原という政治家の路線を継承すると思われるのは、吉田にとって好都合だったのである。(保阪正康『吉田茂 戦後日本の設計者』)


    大陸では、戦後しばらく膠着状態だった国民党と共産党との戦いが激化してくる。六月二十六日、蔣介石は全面侵攻の命令を発した。当時、国民党の勢力は米式装備の正規軍二百万人を含む四百三十万人、対する共産軍は百二十万人の兵力しかない。蒋介石は三か月から半年で中共軍を撃滅できると判断したのである。これに対して毛沢東は「人民戦争」「持久戦争」の戦略によって抵抗した。大量の戦死者が予想されても、それでも構わないのである。そして国民党軍は腐敗していた。

    七月一日、アメリカがビキニ環礁で原爆実験をした。


    六月から争議に入っていた読売新聞社で、七月十二日、従業員組合七百五十名がストを決行し、十六日まで新聞発行が不能になった。GHQの指令で鈴木東民編集局長等六人が解雇され、三十一人が自発的に辞職したことに対する抗議である。


    昭和二一年六月十三日に発表された組合幹部六氏の馘首によって端を発した読売争議は一ケ月にわたる折衝をへて七月十二日にはついにストライキに入った。この争議は終戦後の最初の重要なストライキとして注目されるものである。争議の遠因は二十年の十一月から十二月にかけて起った経営民主化をめぐる争議の結果次の様な条件で解決したことにもとめられる。すなわち、当時社長であった正力松太郎氏が社長を辞すると共に、会社を株式会社に改組して、正力氏の推薦する馬場恒吾氏が社長に、小林氏が専務にそれぞれ就任した。

    又経営協議会を設置し、編集及び業務に関する重要事項を協議することが決定され、社長の抜擢した鈴木東民氏が,組合長であると共に編集局長に就任し、編集、人事、業務の一般に至るまで、組合側は経営協議会を通じて有力な発言が出来るようになった。かくの如き事態が、社長側の編集権確立と紙面政策の転換にとって障害となり、同時に争議の遠因ともなったのである。

    かくて鈴木東民氏を編集局長の地位から退けるための計画が種々行われ、終戦まで読売の副主筆として活躍した安田庄司氏を後任に推す等のことも問題となったが、人事異動は未解決に終っていた。しかるに六月四日付新聞の「麥藷の供出に奨励金」という記事に主観を与えたということから、民間情報局新聞課から厳重な警告を受けたことを機会に人事移動は処分問題として急速に進展することになった。かくして六月十三日鈴木、坂野氏他編集関係の六氏の馘首が発表されたのである。(中略)

    この争議に於て特に顕著なことは、戦後始めて官憲による干渉が行われたことである。すなわち、六月二一日丸ノ内署の警官隊五百名は読売新聞社を包囲し、その一部は社内に入り、会議中の組会幹部と執務中の社員五十六名を検束した。その際被馘首者六名のうち四名は、社内にいた為不法侵入の疑いで二週間に亘つて検事拘留に付された。(『日本労働年鑑 戦後特集(第二十二集)』)


    全国で労働側の生産管理闘争が盛んに行われていた。生産管理に対する、マッカーサーの恐れと嫌悪は、六月十三日の政府声明(生産管理を否認する)に現れた。民主化は進めなければならないが、共産主義化は止めなければならない。民主化と労働運動の保護に始まったGHQの政策が明らかに変わった。


    (七月十七日)組合側の敗北によって読売のストライキは終わった。

    事実戦闘はまったく行われなかった。読売のストライキ中、新聞従業員組合の他の新聞支部は高見の見物をしていた。他の労働組合も同様だった。そして読売新聞内部ですら、半数以上の従業員はストライキに参加しなかった。罷業者たちにいかに同情していたにしろ、彼らは社長馬場(恒吾)が一言、総司令部がうしろにいると彼らの記憶をよびさますたびに縮みあがった。

    馬場は御用組合をつくりあげ、昨日、その御用組合員に罷業団員をほうりだすように命令した。職業的暴力団を先頭に一隊が植字室になだれこみ、そこを占拠していた争議団員をほうりだした。他の一隊は四階の争議団本部に押しかけ、団員をなぐりとばし、これまた追い出してしまった。日本人の警官が数十名面白そうにながめていたが、べつに干渉しようとはしなかった。(『ニッポン日記』)


    八月十四日、昭和十七年から中止されていた全国中等学校優勝野球大会が復活し、十九校が出場した。二十一日、浪華商業が京都二中を破って優勝する。準決勝で浪華商業に敗れた東京高師附中の生徒が、「来年また出場した時に返そう」とそれぞれのポジションの場所の土を持ち帰ったのが、「甲子園の土持ち帰り」の始まりと言う。但しこの時は甲子園ではなく、西宮球場であった。

    八月二十日、小平義雄が逮捕された。食料買い出しの女性を狙った連続強姦殺人犯である。裁判で有罪になった殺害は七件、そのほかに三件は証拠不十分で無罪となった。戦地で強姦や殺害を繰り返した経験が忘れられなかったと言う。


    「奥さん、私、お米や芋を分けてくれる農家を知っているので一緒に生きませんか?」

    通りすがりの見知らぬ男にそういわれて、その気になってついて行ってしまうような時代だったから、稀代の婦女強姦殺人魔・小平義雄の毒牙にかかってしまう女性は、潜在的に街に溢れていたといってよい。(中略)

    彼は海軍陸戦隊時代に、太沽で、

    「強姦のちょっとすごいことをやりました。(中略)強盗強姦は日本軍隊につきものですよ。銃剣で突き刺したり、妊娠している女を銃剣で突き出して子供を出したりしました。私も五、六人やってます」

    と供述している。(赤塚行雄・前掲書)


    十月一日、ニュルンベルク国際軍事裁判は、十二人に絞首刑の判決を宣告した。前年十一月二十日に始まった裁判では、英米仏ソからそれぞれ二人の裁判官が任命された。問題になったのは「平和に対する罪」と「人道に対する罪」であり、これは東京裁判と同様、事後法である。結局、戦勝者による復讐裁判であり、ホロコーストに対する罪を充分裁いたとは言えない結果になった。死刑を宣告された中で、行方不明のマルティン・ボルマンは欠席裁判となったが、後にベルリンの戦闘中に死亡していたことが確認された。

    東芝全労組がゼネストに突入し(~十一月二十四日)、産別会議指導の十月闘争が始まった。全国的にストライキが多発している。

    この日、上野に「アメ横」が誕生した。ヤミ市ではなく、正式に東京都から借り受けた土地での営業である。


    戦争末期、東京都はガード下の変電所を守るために、周囲を強制的に疎開させていた。そして一九四六年秋、東京都が管理していたこのガード下の道路を、まとまった露天商として借り受けたのは、なんと「下谷引揚者会」という引揚者団体である。「組」の人びとのような戦前からの香具師ではないまったくの素人が、ガード下の西側道路に沿って、三十余個のコマ割りをし、このうち二十余コマを引揚者会員に充当し、三、四人で一コマを共有するという露店街を作るのである。しかも、自分たちでみつけたアメの生産者と取引して、アメの共同販売を計画し、これがみごとに成功して、たちまち三〇〇軒近いアメ屋の横丁が出現するのである。(中略)

    上野広小路アメ横には、もう一つの顔がある。ここには早くから密輸ルートや占領軍の横流しで、外国物資が持ち込まれている。それが大規模な外国製品の至情に発展するのは朝鮮戦争以後であるが、アメ横は「飴横」でもあれば、また「アメ(リカ)横」でもあるという二重の性格を負っていたのである。(松平誠『東京のヤミ市』)


    十月、国民学校の日本史の授業が、新しく編纂された『くにあゆみ』によって再開した。上下二冊に別れたもので、執筆は家永三郎(原始〜平安)、森末義彰(鎌倉〜室町)、岡田章雄(江戸)、大久保利謙(明治以降)である。子供たちは初めて石器時代や縄文時代を教えられた。『初等科国史』とどう違うか。


    第一 日本のあけぼの

    一 歴史のはじめ

    アジア大陸の東の海に、北から南にかけて細長くつらなる島島、これが私たちの住んでゐる日本です。暑さ寒さもあまりきびしくなく、ほどよく雨がふり、草や木が生ひしげり、四季のながめも、それぞれちがつたおもむきがあります。

    大昔の生活 この國土に、私たちの祖先がすみついたのは、遠い遠い昔のことでした。はつきりしたことはわかりませんが、すくなくとも数千年も前のことにちがひありません。世界のどこの地方でも、文化の開けなかつた大昔には、人はまだ金属を使ふことを知らず、石で道具を作つて、用ひてゐました。かういう時代を石器時代といひます。


    こうして貝塚、土器、金属使用、農業の開始へと移るのだが、初代王を神武としているのは、これまでと変わらない。しかしこの教科書は一年で使われなくなる。翌年九月には「社会科」の授業が始まり、小学校での日本通史の授業はなくなるからである。

    十月二十一日、第二次農地改革。第一次改革は地主寄りであると対日理事会で指摘されたことから、第二次改革に至った。在村地主の小作保有地が平均一町歩(北海道は四町歩)、不在地主の小作地は強制買収、小作地を含む地主の所有限度は三町歩(北海道は十二町歩)等である。小作地の約八割が解放された結果、地主階級は没落し、小作農は自作農へと上昇した。これに伴って貧困に喘いで共産党支持層の中心だった農村が保守系支持へと変わっていく。


    ・・・・占領軍による農地改革のおこなわれる地盤は、すでに昭和前期の戦時農業立法によって、最初の地ならしが出来上っていたということである。昭和十三年の「農地調整法」と「国家総動員法」は三年後に「臨時農地等管理令」を出現させ、これに昭和十七年の「食糧管理法」をつけ加えれば、土地と米の生産についてのすべてが国家管理の網の目のうちに入る仕組みができ上っていた。そのうえ戦争達成のため食糧増産を実現するには、小作人の権利擁護と自作農の育成が必要とされ、このような戦時立法の強硬派、地主の権利をいちじるしく抑えつけ、地主を代表とする貴族院議員が「反戦」的にならざるをえなかったという皮肉な現実小枝成立させたのである。(中略)「近代戦」としての「大東亜戦争」は、地主層の私的な権利の支配から小作人を国家の前に引き出すことによって、地主制を崩壊の前夜にまで追い込みつつあった。それに最後の一撃を加えたのが占領軍による農地改革にほかならない。(磯田光一『戦後史の空間』)


    十一月一日、主食の配給が一日二合五勺に、若干改善された。しかしそれだけで生きていけるのではないことは既に何度も書いたとおりである。インフレは進んでいる。

    十一月三日、日本国憲法公布。とにかく天皇制が維持されたことについて、国民の多くがこの憲法を支持した。但し年が明けた一月三日に、マッカーサーは吉田茂に書簡を送っている。


    ・・・・新憲法の現実の運用から得た経験に照らして、日本人民がそれに再検討を加え、審査し、必要と考えるならば改正する、全面的にしてかつ永続的な自由を保障するために、施行後の初年度と第二年度の間で、憲法は日本の人民ならびに国会の正式な審査に再度付されるべきであることを、連合国は決定した。もし日本人民がその時点で憲法改正を必要と考えるならば、彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、国民投票もしくはなんらかの適切な手段を更に必要とするであろう。


    秋田ではこれを記念して、全県駅伝競走が行われた。中等学校は湯沢から秋田市まで、都市対抗は大館から秋田市まで。戦時中に途絶えていたスポーツが漸く復活したのである。また「新憲法公布と学徒の覚悟」と題する全県中等学校生徒弁論大会が、秋田高女を会場にして行われた。カズもこれを聴いただろう。この大会に参加して第一席を取った東海林一郎の回想がある。


    某日朝食前に広げた新聞に、全県学徒弁論大会の記事が大きく発表されており、なによりもかによりも会場が秋田高女ではないか。この瞬間私は出場のホゾを固めた。(中略)

    私が演壇に立った時ちょうど授業休憩のベルが鳴り女学生のセーラー服がどっと押し寄せたから、会場立見席はもう紺一色の感じである。

    それまで写真を撮らなかった新聞記者がフラッシュをたく。弁論の華野次将軍は大勢の同僚の声援に抑えられ真に独壇場となった。(秋田県立秋田中学校 第六十・六十一回卒業同期会記念誌『戦中戦後』)


    風太郎は『宝石』の懸賞小説に応募した『達磨峠の事件』が入選し(掲載は翌年一月号)、作家デビューを果たす。十一月十四日に四十六枚の原稿料九百二十円(一枚二十円)が岩谷書店から送られてきた。十二月二十二日の日記にこう書いた。三月の進級試験の準備中である。


    探偵小説はもとより余技なり。余は、生涯探偵小説を書かんとはつゆ思わず。歴史小説、科学小説、風刺小説、現代小説、腹案は山ほどあり。唯、今は紙飢饉にて新人の登場容易ならざる時代なれば、現役作家といえば、江戸川、大下、海野、木々、水谷、城、角田、渡辺等十指に達するや否やの人数なる探偵小説界に医学的知識を利用してその十一人目に加わらんとするのみ。


    十一月十六日、「当用漢字表」一八五〇字(漢字制限政策)と「現代かなづかい」が告示された。世紀の愚民政策であった。そもそも英語にしてもフランス語にしても、表記と発音が完全に一致することはあり得ないのであり、表音主義は幻想でしかない。できあがった「現代かなづかい」は、表音主義と歴史的仮名遣いとの妥協から生み出されたもので、活用の規則性が崩れ、地震を「ぢしん」ではなく「じしん」とする、世界中を「せかいぢゅう」ではなく、「せかいじゅう」とする等、語源との繋がりが失われた。あるいはオ列長音の表記である。本則は「う」(幸運を「こおうん」ではなく、「こううん」とする等)であるが、ホ列長音は「お」になるである。例えば氷は「こうり」ではない。歴史的仮名遣いで「こほり」なので、「こおり」と書く。それでは歴史的仮名遣いを知らなければ、無条件で覚えるしかない。現代かなづかい論者の頭の悪さがここにある。これについては後に福田恒存『私の國語教室』(昭和三十五年)が徹底的かつ論理的に批判している。しかし残念なことに、今の私は歴史的仮名遣いを完全に使いこなす能力がない。

    送り仮名についても問題がある。活用語尾を振るのが本則であるが、例外もある。そもそも、送り仮名は読みやすくするためのものである筈なのに、今でもクイズ番組などで「正しい送り仮名はどれか?」なんて、下らない質問がでる。一文字二文字に拘ることはないのであるが、私たちが受けた国語教育では、こうした些末なことが金科玉条の如くに教えられた。

    問題なのは、『現代かなづかい』が告示された翌日には、殆どの新聞がこれに追随したことである。戦争中、政府の言いなりだった新聞は、戦争が終わってもなお、政府の言いなりになったのである。


    十一月三十日、ララ物資の第一便が横浜港に届いた。ララ(LARA:Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)は、この年一月、サンフランシスコ在住の日系アメリカ人浅野七之助が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体とした組織である。

    支援は昭和二十七年六月まで行われた。重量三三〇〇万ポンド余の物資と、乳牛や二〇〇〇頭を越える山羊などもあり、全体の割合は食糧七五・三%、衣料一九・七7%、医薬品〇・五%、その他四・四%となった。そしてこれは戦後の学校給食の開始に寄与することになる。

    十二月二日、内務省は風俗取り締まり対象を通達し、特殊飲食店の営業範囲を定めた。赤線、青線の初めである。公娼制度は廃止されたが、自由意思による売春は認められていた。赤線は売春営業の許可を受けた「特殊飲食店」街、その許可がなく、もぐりの売春をした飲食店街を青線と呼んだ。つまり青線は名目上は酒を飲ませる店で、明治の頃には銘酒屋と呼んだ。最も大きな違いは、赤線地帯の女は定期的な性病検査が義務付けられ、青線にはそれがなかったことだろうか。

    十二月八日、シベリア引揚第一船「大久丸」「恵山丸」が五千人を乗せて舞鶴入港。大連引揚第一船、三千人を乗せて佐世保港に入港した。


    十二月十九日、フランス軍がベトナム軍を攻撃し、第一次インドシナ戦争が始まった。日本の敗戦後、ベトナム民主共和国が成立していたが、旧宗主国であるフランスとの間で協議がまとまらなかった。ベトナム南部はフランスの権益が集中しており、フランスはコーチシナ共和国を作っていた。これがやがてアメリカの介入によって長く続くベトナム戦争の始まりである。日本人志願兵が六百名参戦したと言われるが、当時の日本人でこれに関心を持ったものは殆どいなかったと思われる。日本人はそれどころではなかった。

    十二月二十一日、南海地震発生。マグニチュード度八・一。死者千三百三十人、全壊家屋一万千五百九十一戸。


    この年、発疹チフスの死者三千三百五十一人、天然痘死者三千二十九人、コレラ死者六十人。

    日本政府はGHQに食糧四百五十万トンの輸入を申し入れたが、アメリカから送られてきたのは七十万トンでしかなかった。それでも何とかこの冬を乗り切れたのは、農家の隠匿米(ヤミで放出される)が政府の想定よりも多かったためだと言われている。

    これとは別に「ガリオア・エロア資金」による援助があった。昭和二十六年まで六年間総額で十八億ドルに上った。この内十三億ドルは無償で提供され、残額は昭和三十七年に結ばれた協定により、日本政府が十五年の年賦で支払った。

    ガリオア基金はGovernment Appropriation for Relief in Occupied Area Fund (占領地域救済政府基金)の、エロア基金はEconomic Rehabilitation in Occupied Area Fund(占領地域経済復興基金)の略称で、ともに米国が第二次世界大戦後の占領地域において、社会生活の困難を救うために、軍事予算の中から支出した援助資金であった。

    新興宗教が息を吹き返したのもこの年からである。一月一日に戸田城聖が創価学会を再建、二月一日に出口王仁三郎が大本教を愛善苑として、三月十一日には大西愛次郎が天理本道(後の、ほんみち)を再建。九月二十九日には御木徳近(元ひとのみち教団)がPL教団を立教した。翌年八月になると岡田茂吉(元大本教)が日本観音教団(のち世界救世教)を再建する。


      石母田正『中世的世界の形成』、藤間生大『日本古代国家』、貝塚茂樹『中国古代史学の発展』、川島武宜「日本社会の家族的構成」。


    石母田さんの『中世的世界の形成』と、藤間さんの『日本古代国家』が、敗戦後直ちに(一九四六年)発刊されています。これが、古代・中世史の分野はもちろんのこと、敗戦後の歴史学全体に、強烈な影響を与えたと申上げて差し支えないと思います。これに加えて松本さん(新八郎)も林さん(基)もそれぞれに、中世史、近世史に強い影響を与え、それ自体、一つの潮流になって行きました。その他に鈴木良一さん(日本中世史)は、むしろ羽仁さん(五郎)の影響を強く受けられた方で、石母田さんにも多少批判をお持ちになりながら、敗戦後の歴史学のこの潮流の中で活躍なさいました。(網野善彦『歴史としての戦後史学』)


    網野が「この潮流」というのは、マルクス主義史学の二つの潮流(石母田、藤間等のグループと、羽仁五郎、井上清等のグループ)である。これとは別に京都では奈良本辰也(日本近世史)、林屋辰三郎(日本中世史)、北山茂夫(日本古代史)、藤谷俊雄(日本近代史)のグループが動き出し、又、大塚久雄(イギリス近代史)、高橋幸八郎(フランス近代史)、松田智雄(ドイツ近代史)等のグループが競いながら戦後の歴史学を開いていく。

    本郷和人は、これを戦後歴史学の第一の「まつり」と呼ぶ。皇国史観からの脱却を目指した「再出発」の運動であり、「国史」は「日本史」になった。本郷はまた網野善彦の出現を第二の「まつり」と呼んでいる。日本史学に大きな枠組(物語)が設定された時期である。しかし二つのまつりも既に終わった。


    二つのまつりは何をもたらしたのか。そのあまりにも大きな仕事を、残された研究者たちは質量ともに計りかねている。まつりの功績も積み残された課題も、十分に理解するためにはまだまだ時間がかかるだろう。新しいまつりを始めるためにも、批判と継承は正確に行わねばならない。だが、その前途の遼遠を想い、気づけば思わず尻込みをしている。「祝祭のあと」の気怠さ。いまは間違いなく、そういう時期である。(本郷和人『暴力と武力の日本中世史』)


    丸山眞男「超国家主義の論理と心理」(『世界』創刊号)は、戦後の政治思想史に圧倒的な影響を与えた。私は丸山を精読していないので何事かを言う資格はないのだが、日本の超国家主義をファシズムと呼ぶとき、イタリアに生まれたファシズムを、日本にそのまま適用することができるのかという問題がある。そして丸山は、日本の超国家主義を明治期以来の国家主義の拡大版とみる。また丸山が、ファシズムを担った層を第一類型(疑似インテリゲンチャ=工場主や自作農、学校教員等)、そうでないものを第二類型(本当のインテリゲンチャ=文化人やジャーナリスト、学生層)と二分したのは、随分乱暴な議論であった。


    ・・・・・丸山の講演や論文は歓呼の声とともに聞かれ、読まれた。われわれの着目すべきところは、異論がおこらず、むしろ歓呼の声で迎えられたのは何故かの方である。敗戦直後の特有の聴衆心理と読者審理が働いたからである。この点を谷沢永一はつぎのようにいう。


     我が学説の支持者追従者となることが即ち免罪証明を意味する類の潜在的知識人集団を隔離し認可する戦術的論法。・・・・丸山眞男と彼の講演をいま聞いている「われわれみんな」はまさしく「本来のインテリゲンチャ」である。この「本来のインテリゲンチャ」は「気分的には全体としてファシズムに対して嫌悪の感情をもち、消極的抵抗をさえ行っていたのではないかと思」われる。――思いきってスッパリと区別したこの二分法の効果は絶大であった。その場で耳を澄ましていた「われわれ」連中の心中にわきおこった歓声が今でも耳に聞こえるようである。(竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』)

    大体、私たちの世代は丸山を読む前に、吉本隆明による丸山批判(あるいは罵倒)に触れてしまったので、どうしても丸山への見方が厳しくなる。しかし丸山批判の根拠になり、現在でも超国家主義研究の基礎であり続けるのは橋川文三であった。橋川文三が日本の超国家主義の原点として提示した、安田善次郎を暗殺した朝日平吾の人生を見ると、令和になって安倍晋三を暗殺した山上徹也と瓜二つではないかとさえ思える。第一次大戦後の状況と現在との類似を示す一つの例でもあろうか。


    今日からするとむしろ、「第一次世界大戦後の急激な大衆的疎外現象(マス化、アトマイゼーション)を伴う二重の疎外」という指摘の方が重要と言えるかもしれない。というのは、丸山眞男の日本ファシズム論などでは昭和戦前期の前近代性が指摘され当然視されていたのだから、そこに「急激な大衆的疎外現象(マス化、アトマイゼーション)」という近代化・大衆社会現象が生じていたことなどありえなかったはずなのである。橋川の先駆性に驚かされよう。(筒井清忠「丸山眞男と橋川文三」『昭和史講義 戦後文化篇』)


    谷崎潤一郎『細雪』、小林秀雄『無常といふ事』、尾崎秀実『愛情は降る星の如く』、河上肇『自叙伝』、バン・デ・ヴェルデ『完全なる結婚』、エドガー・スノー『中国の赤い星』、レマルク『凱旋門』、花田清輝『復興期の精神』、坂口安吾「堕落論」(『新潮』四十三巻四号)、桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(『世界』十一月号)。


    半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。(中略)

    人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

    戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。(坂口安吾「堕落論」)


    変わったのか、変わらなかったのか。加藤典洋『戦後後論』は安吾に対して太宰の態度を取り上げる。


    時代は少しも変らないと思う。一種の、あほらしい感じである。こんなのを、馬の背中に狐が乗ってるみたいと言うのではなかろうか。(中略)

    「小学校四五年のころ、末の兄からデモクラシイという思想を聞き、母まで、デモクラシイのため税金がめっきり高くなって作米の殆どみんなを税金に取られる、と客たちにこぼしているのを耳にして、私はその思想に心弱くうろたえた。そして、夏は下男たちの庭の草刈に手つだいしたり、冬は屋根の雪おろしに手を貸したりなどしながら、下男たちにデモクラシイの思想を教えた。そうして、下男たちは私の手助けを余りよろこばなかったのをやがて知った。私の刈った草などは後からまた彼等が刈り直さなければいけなかったらしいのである。」

    これも同時代、大正七、八年の頃の事である。

    してみると、いまから三十年ちかく前に、日本の本州の北端の寒村の一童児にまで浸潤していた思想と、いまのこの昭和二十一年の新聞雑誌に於いて称えられている「新思想」と、あまり違っていないのではないかと思われる。一種のあほらしい感じ、とはこれを言うのである。(中略)

    十歳の民主派、二十歳の共産派、三十歳の純粋派、四十歳の保守派。そうして、やはり歴史は繰り返すのであろうか。私は、歴史は繰り返してはならぬものだと思っている。(太宰治「苦悩の年鑑」)


    この年、『リーダーズ・ダイジェスト(日本語版)』創刊。アメリカ流保守主義に則ったお手軽な雑誌であった。『近代文学』(荒正人・平野謙・本多秋五・埴谷雄高・山室静・佐々木基一・小田切秀雄)、『新日本文学』創刊。

    『近代文学』一月号から、埴谷雄高「死霊」(シレイ)の連載が始まった(二十四年に四章が書かれ、長く中断)。戦後文学に屹立した作品であるが、長い中断時期を含んで平成七年(一九九五)第九章を刊行して未完のまま終わった。高校生の私は次の言葉に、文学とはそれ程のものであるかと震撼したのであった。


    ・・・・私は『大審問官』の作者から、文学が一つの形而上学たり得ることを学んだ。そして、その瞬間から彼に睨まれたと言い得る。私は彼の酷しい眼を感ずる。絶えざる彼の監視を私は感ずる。ただその作品を読んだというだけで私は彼への無限の責任を感ぜざるを得ないのである。それは如何に耐えがたい責任であることだろう、とうてい不可能な一歩をしかも踏み出さねばならぬということは。私はついにせめて一つの観念小説なりともでっち上げねばならぬと思いいたった。やけのやんぱちである。(埴谷雄高『死霊』自序)


    木下恵介監督『大曾根家の朝』、佐々木康監督『はたちの青春』(初のキスシーン)、黒澤明監督『わが青春に悔なし』。

    洋画では『キュリー夫人』(輸入第一作)、『カサブランカ』、『我が道を往く』、『運命の饗宴』


    小林信彦  これは当然、アメリカのマッカーサー司令部がつくった戦略だけれども、アメリカ映画というのは全部はいってきたわけじゃないんですよね。結局、占領軍の意図に合ってるものを公開した。

    片岡義男  日本で公開する作品を、意図的に選んでいたという話を聞きましたけれど。

    小林  ええ。だからアメリカのダークサイドを描いたものは入らないですね。「怒りの葡萄」なんていうのは入らないですよ。題名だけは知ってるけども、入らなくて、わりに明るいものだけが入ってきて、「アメリカ映画は文化の窓」という標語があったですからね。(小林信彦・片岡義男『星条旗と青春と』)


    小林によれば、学校の社会科の時間に、教師がアメリカ映画に連れて行くことがあった。占領軍が推奨する映画を鑑賞して、アメリカの豊かな生活を知り、しっかり働けば将来こんな生活ができるようになると、教えたのである。またこの頃のアメリカ映画につけられたスーパーはアメリカ本土で作られたようで、「だから日本を占領することを前提に入れておいたんですね。これは向こうで入れたから字が間違っている」(小林)ことがしばしばあったという。


    映画館の入場料が、インフレとともに急調子に上昇したのも当然であった。はじめ、封切館九十五銭に釘づけされた戦時中の統制料金は、入場税額を一円以下一〇割、以上二〇割という高額だったが、二一年三月にいたって、・・・・東京都内は封切館三円、以下二円、一円五十銭、一円(税共)として二一年三月二一日から実施され、同年五月末には封切日本映画館四円五〇銭、洋画五円(税共)と改められ、二二年三月四日から封切一〇円、二番以下五円、同年九月九日から封切二〇円、二番以下一〇円、二三年八月一日から封切四〇円、二番以下三五円(いずれも税共、ただし昭和二二年一二月より税額一五割)というふうに漸騰した。(田中純一郎『日本映画史』)


    霧島昇・並木路子『リンゴの歌』(サトウハチロー作詞、万城目正作曲)、近江俊郎・奈良光枝『悲しき竹笛』(西條八十作詞、古賀政男作曲。『ある夜の接吻』主題歌)、岡晴夫『東京の花売り娘』(佐々詩生作詞、上原げんと作曲)、田端義夫『かえり船』(清水みのる作詞、倉若晴生作曲)。