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    東海林の人々と日本近代(十五)戦後篇(2)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2023.02.17

    昭和二十二年(一九四七)タツミ四十六歳、祐二十二歳、カズ十九歳、利孝十七歳、ミエ十四歳、石山皆男四十七歳、鵜沼弥生四十五歳、田中伸四十歳


    一月四日、公職追放の範囲が拡大し、経済、言論界、地方公職及びその三親等などにも及んだ。

    一月十日、太宰治、坂口安吾、石川淳とともに「無頼派」「新戯作派」と呼ばれた織田作之助が死んだ。織田作の『可能性の文学』(『改造』二十一年十二月号)は、日本風の私小説を排し、文学はロマンでなければならないという叫びであった。志賀直哉を「小説の神様」と仰ぎ見ていては日本文学に未来はない。


    思えば横光利一にとどまらず、日本の野心的な作家や新しい文学運動が、志賀直哉を代表とする美術工芸小説の前にひそかに畏敬を感じ、あるいはノスタルジアを抱き、あるいは堕落の自責を強いられたことによって、近代小説の実践に脆もろくも失敗して行ったのである。彼等の才能の不足もさることながら、虚構の群像が描き出すロマンを人間の可能性の場としようという近代小説への手の努力も、兎や虫を観察する眼にくらべれば、ついに空しい努力だと思わねばならなかったところに、日本の芸術観の狭さがあり、近代の否定があった。小林秀雄が志賀直哉論を書いて、彼の近代人としての感受性の可能性を志賀直哉の眼の中にノスタルジアしたことは、その限りに於ては正しかったが、しかし、この志賀直哉論を小林秀雄の可能性のノスタルジアを見ずに、直ちに志賀直哉文学の絶対的評価として受けとったところに、文壇の早合点があり、小林自身にも責任なしとしない。小林の近代性が志賀直哉の可能性としての原始性に憧れたことは、小林秀雄個人の問題であり、これを文壇の一般的問題とすることは、日本の文学の原始性に憧れねばならないほどの近代性がなかった以上滑稽であり、よしんば、小林秀雄の驥尾に附して、志賀直哉の原始性を認めるとしても、これは可能性の極限ではなく、むしろ近代以前であり、出発点以前であったという点に、近代を持たぬ現在のわれわれのノスタルジアたり得ない日本的宿命があるのである。


    太宰治が死の直前、『如是我聞』で志賀直哉を徹底的に批判(悪口雑言と言っても良い)したのも、根底にあるのは同じ思想だ。

    織田作の死因は結核による喀血だが、ヒロポンがそれを悪化させたのは間違いない。文壇や芸能界では、終戦直後からヒロポンが流行していた。ヒロポンは覚醒剤であるが、合法的に売られていた。元々は軍隊や軍需工場で疲労回復のために使用されていたものである。特に夜間視力の向上に適していると、特攻隊員に使用された。日本だけでなく、アメリカやドイツの軍隊でも使われていた。戦後軍隊から大量に放出されたこともあって、終戦後からこれに手を出す者が多く、体をボロボロにした。


    織田のヒロポンは毎日だから、ひどかった。毎日ヒロポン、仕事、遊び、ヒロポン、仕事という順序で、くぎりがないから不健康だ。織田のヒロポンは注射だが、私は注射は好まない。第一回目だけ、よく利く。打ったとたんに頭が澄んでくるから、バカにきくように思えるけれども、一時間もすると、ぼやけてくる。二本目を打つ。もう、さほど利かない。

    飲む方はすぐは利かぬが、効果が持続的だから、私のように、仕事は仕事だけまとめてやるというやり方には、この方にかぎる。どうしても飲みすぎて、顔色はそう白となり、汗はでる、動きはうつ、どうもいやだ、もう飲みたくないと思うけれども、仕事の無理をきかせるためには飲まざるを得なくなってしまう。 
           ★

    新潮と改造の新年号の小説の時はひどかった。どっちも、まる四日間、一睡もしていない。そうかといって、書き上げても、酒を飲んででい酔しなければ眠ることができないので、えゝマヽヨ、死んでもいゝや、と思って、銀座のルパンへウイスキーを飲みにでかけたものだ。あの日の心臓の動きはひどかったので、途中でブッ倒れるような気がして、仕方がなかったのである。

    その日、織田が昨日かっ血したということをきいたのである。石川淳がめいていしていて、織田はかっ血したから好きだ。かっ血する奴はみんな好きだ、死んでしまえば、なお、好きだ。と、石川式のことを叫んで立上ってフラフラしていた。(坂口安吾「反スタイルの記」)


    一月十一日、山田風太郎は江戸川乱歩から〈土曜会〉への参加を求める葉書をもらった。〈土曜会〉は探偵小説愛好者の会であり、翌年「探偵作家クラブ」(後の日本推理作家協会)に発展する。


    本月ノ例会ヲ左ノ通リ催シマス、御出席下サイ。・・・・・会費(十円)茶菓代。話題、徳川夢声氏ノ来会ヲ乞イ、ユーモア探偵小説ソノ他ニツイテオ話ヲ願イ、次に横溝君ノ『本陣殺人事件』ノ合評ヲ行イマス。江戸川ガヤヤ詳細ナ読後感ヲ述ベ続イテ諸兄ノ発言ヲ求メマス、『本陣殺人事件』通読ノ上御来会下サイ。


    風太郎は乱歩に探偵小説作家として認められたのである。この後、いくつかの雑誌から短編の執筆を求められるが、まだ医専在学中であり、試験準備の最中に依頼が来ると困ったことになる。この日の午後、『宝石』十二月号を買うと、風太郎の作『達磨峠の事件』と『雪女』について乱歩、水谷準の好意的な批評も載っていた。乱歩に見出された風太郎、高木彬光、島田一男、香山滋、大坪砂男が探偵小説界の「戦後派五人男」と呼ばれるようになる。

    一月十五日、元東宝副社長の秦豊吉(レマルク『西部戦線異状なし』の翻訳者でもある)が、映画館「帝都座」で「名画座」と称する額縁ショーを始めた。タイトルは「ヴィーナス誕生」、上半身裸で胸を露出したのは甲斐美和であった。女性は身動きせず、所要時間は僅か四、五秒だった。

    その数週間後には渋谷の劇場「東京フォリーズ」でダンサーのラナ多坂が踊りの最中にポーズを決めたところ、当時進行係をしていた田中小実昌が後ろから田坂のブラジャーを取った。上半身だけとはいえ、動き回る女性の胸が露出したのはこれが初めらしい。更に三月には、日劇小劇場の「東京レビュー」で披露されたベリーダンスで全裸に近い状態まで脱いでいくパフォーマンスがなされた。

    一月十六日、皇室典範が公布された。皇位継承は皇統に属する男系男子のみとし、継承は天皇が崩じた時のみとするものである。昭和天皇の退位を防ぐ目的であったとも思われるが、これが平成天皇の生前譲位の際に大きな問題となる。


    新皇室典範の原案を作る過程では、退位の規定をおくべきだとの意見も出ていた。結局見送られたのは、退位規定を置けば、天皇の戦争責任論が再燃するかもしれないとの懸念からだった。(中略)極東国際軍事裁判はすでに開廷され、被告の選定も済んだ後とはいえ、退位規定を入れるリスクは、政府としてはとれなかったのであろう。(加藤陽子『昭和天皇と戦争の世紀』)


    一月二十日、全国の都市部の小学生三百万人を対象に、週二回の学校給食が始まった。メニューは、脱脂粉乳とシチューなどである。日本人の大半が初めてクリームシチューの味を知ったのは脱脂粉乳のお蔭である。前年十二月に届いていたララからの給食用物資が活用された。ただ当時の脱脂粉乳が不味かったのは、粗悪な原料と、アメリカからの輸送途中での劣化が原因である。飯は自宅から持参する原則だったが、それができない子供は多かった。コッペパンなどの主食が提供されるのは二十五年からである。

    一月二十一日、食糧管理法違反容疑で金沢の璽宇教本部(璽宇皇居)を石川県警の警官隊が急襲し、教祖・璽光尊を守る時津風(双葉山)、呉清源たちと乱闘になった。双葉山は警官隊を投げ飛ばし大暴れした。

    教祖の長岡良子(ナガコ)は、昭和九年に「永久不変の真理を説いて衆生を救済し、非常時国家に尽くせ」と、神の啓示を受けたと言う。この頃は、天皇の人間宣言によって、天照大神が天皇から去って自分に移ったと主張していた。そして教団内部で仮想内閣を組織した。オウムの先駆であろうか。精神鑑定の結果「誇大妄想性痴呆症」と診断される。

    呉清源は戦前から紅卍会の会員であり、璽宇教との交流を進めていた。紅卍会は宇宙の独一眞神を「至聖先天老祖」とし、老子、項先師(孔子の師)、釈迦、マホメット、キリストを祀る、万教帰一の宗教である。大本教とも連携し、出口王仁三郎、植芝盛平、岡田茂吉、笹川良一、安岡正篤、内田良平なども会員だった。戦時中は赤十字に準ずる活動を行っていた。

    呉清源は昭和の囲碁史に聳える巨人である。何故こうした宗教に深入りしていったのか。中国人である自分が日本囲碁界で生きることへの、何かアイデンティティに関わる悩みがあったものか。私には「信仰」というものの正体が分からない。呉清源の妻は璽宇教創立者・峰村教平の親戚であり、璽光尊の巫女でもあった。


    第五局(藤沢庫之助との十番碁?)が始まる前の昭和十七年三月初め、私は小田秀人さん(心霊研究家?)とともに、宗教上の用事でおよそ二か月にわたり、中国大陸と朝鮮を旅行した。旅行のおもな目的は大陸の紅卍を訪問し、健在ならば「璽宇」もかつての大本教のように、紅卍と宗教上の交流を求めようというものであった。(略)

    当時、北京には青木一男先生が大臣をしている興亜院という日本の行政府の出先機関があり、私たちは、その出先機関で大陸における宗教の動向を調査、監督する仕事を担当している志智嘉九郎を訪ねた。志智氏は橋本(宇太郎)さんと親しく、戦後、関西棋院の理事を務めたこともある人で、私たちを快く迎えてくれた。彼は紅卍についていろいろたずね、私たちはそれに対してていねいに説明を加えた。

    翌日、私たちは志智氏を伴なって紅卍北京総院を訪れ、世界紅卍会の最長老である許蘭洲氏に面会して、布道団の派遣をお願いした。(『呉清源回想録 以文会友』)


    ここに登場する志智嘉九郎は、戦後、神戸市立図書館長として、レファレンス・サービスの先駆者となった。


    第二次世界大戦前の図書館は思想善導機関としてのあり方が重要視されてレファレンスについてはあまり省みられることはなかった。

    戦前の例としては一九一五年の東京市立日比谷図書館をはじめ、市立名古屋図書館・東京帝国大学附属図書館などに「図書調査係」「参考掛」などの名称で設置されたことが知られているのみである。

    一九四八年に神戸市立図書館の館長であった志智嘉九郎がレファレンスサービスの重要性を唱えて「森羅万象」を掲げ、窓口や電話による質問を受け付けるサービスも開始した。だがアメリカでもレファレンスサービスの定義が定まらなかったように、日本でも読書相談は館外貸出の一環かレファレンスかが議論されるなど多くの試行錯誤が繰り返されてきた。(ウィキペデイア「レファレンス・サービス」)


    二月一日に予定されたゼネストは、マッカーサーの指令によって中止された。一月十八日、全官公庁共闘会議(二百六十万人)が吉田内閣打倒、民主人民政府樹立を掲げて、二月一日午前零時を期して無期限ストに突入すると宣言していたものであった。一月三十一日午後九時十五分、GHQの指示によって伊井弥四郎共闘委員長がラジオに向かった。


    声がかれていてよく聞こえないかもしれないが、緊急しかも重要ですからよく聞いて下さい。私はいま、マッカーサー連合国軍最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官吏、公吏、教員の皆様に、明日のゼネスト中止をお伝えいたしますが、実に、実に断腸の想いで組合員諸君に語ることをご諒解願います。敗戦後の日本は連合国から多くの物的援助を受けていますことは、日本の労働者として感謝しています。命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。……一歩後退、二歩前進。


    しかし「二歩前進」は実現しなかった。これ以後ゼネストは徹底的に弾圧されるのである。

    二月二日、厚生省発表。全国で十八歳未満の孤児が十二万三千五百四人。(内訳は一般孤児八万千二百五十九人、空襲孤児・戦死孤児二万八千二百四十五人、引揚孤児一万千三百五十一人、棄迷児二千六百四十九人)。これに家庭内暴力(復員者の中には精神が荒廃した者も多かった)から逃れて家出した児童も加えなければならないが、実数は不明だ。


    三月十二日、トルーマンが議会への特別教書演説でトルーマン・ドクトリンを宣言した。ギリシア内戦をきっかけに、共産主義に抵抗する政府への援助を明言し、ソ連を中心とする共産圏の封じ込めを意図したものであった。つまりアメリカの反共姿勢が明確になったのである。これが日本の政治にも大きな影響を与えていく。日本を速やかに自由主義陣営に引き込まなければならないのである。

    三月十五日、東京都は三十五区を二十二区に整理統合した。後八月一日練馬区が板橋区から独立して現在の二十三区制になる。

    三月三十一日、教育基本法、学校教育法が公布された。六・三・三・四制の始まりである。これは拙速な改革であった。複線の進路を単線にしたことで、結局教育の全てが大学進学目的になるのである。

    これに基づき旧医専はGHQの審査によってA級、B級の判定が下され、A級四十四校が大学に移行することになる。山田風太郎たちは、東京医専がどちらに該当するのか悩んだが、東京医専も東京医科大学となった。B級判定された七校は廃校となり、在校生救済のために多くが旧制高等学校に転換(戦後特設高等学校)した。秋田では秋田県立女子医専が秋田県立高等学校になったが、秋田大学ができた時点で廃校になる。

    学制改革のあおりで青年学校が廃止された。青年学校は、これまで主に尋常小学校や高等小学校卒業者の社会教育を農村現場で担って来た。


    そこで青年たちは、自ら学ぶ場を組織するようになった。山形県では「新学生の恩恵に浴し得ない青年達」が立ち上がり、「夜学会、塾、学院、修養同志会と呼ばれる学習の会を自ら組織し、勉学に努め」るようになった。これに対して市町村は積極的に支援し、県に県費助成の請願・陳情を行った。(福間良明『「勤労青年」の教養文化史』)


    そこで学習するのは、農業知識の習得に加え、英語や算数などの基礎科目、生け花や料理などであった。これをきっかけに全国で流行していた「やくざ踊り」は次第に姿を消していった。


    四月、カズは秋田高女を卒業して日本勧業銀行秋田支店に就職し、預金係に配属された。同級生六人程が同期で入行したが、女学校での成績は良かったのであろう。秋田支店は茶町の家から山王大通り(竿灯大通り)を渡って北側に建っていた。二階建てながらルネサンス様式の堅牢な建物であった。西の向かいには三光堂書店と石川書店(官報販売所)が並んでいた。カズは街頭に出て、三角籤の販売もした。即決の宝籤にはスピード籤、クローバー籤、七福籤などがあった。佐藤佳夫は土崎から自転車で通っていただろう。佳夫の給料は月額二百八円になった。佳夫はこの頃勧銀従組専従として、東京と秋田を行き来していた。


    四月八日、新宿「ムーラン・ルージュ」が再開した。座長は宮阪将嘉、三崎千恵子(「フーテンの寅」のおばちゃん)夫妻である。戦前からの座員も再集結し、有島一郎、望月優子、明日待子、三崎千恵子、由利徹、若水ヤエ子、市村利幸等が活躍した。そしてなによりも、戦後最大の喜劇人森繁久彌を生み出したのがこの劇場であった。


    エノケンが戦前の喜劇人にあたえたと同じくらいの影響力を、戦後にもったのが、森繁久彌である。(中略)

    同時代人というのは、たとえば益田喜頓のように、森繁を無視する在り方もあり得る(それに、キャリアからいえば、益田喜頓のほうが先輩でもある)。堺駿二のようにカンケイナイ、という在り方もある。

    だが、強固な個人主義者である山茶花究(森繁は〈限界以上に親しくなろうとせぬ男〉と書いている)を除いて、森繁によってペースを乱された人はずいぶんあったろう。

    森繁がうまいからだけではなく――当時、現場にいた人の中には、のり平、有島のほうが〈役者〉としては上だった、と明言する人もいる――森繁の存在自体に、なにか、日本人のこころをいきなり、ひっつかむようなところがあるのではないか。(中略)

    いちばん不思議なのは、ひそかに、自分のほうが森繁よりうまいと自負している役者すら、だんだん、劣等感をおぼえてきて、森繁の〈全仕事〉または(全存在)にかなわぬというコンプレックスを抱いて終わる、その辺が、私にも、よくつかめないのである。(小林信彦『日本の喜劇人』)


    竹中労は、「戦後ムーランは、私の青春とともにあった」と回想する。


    ・・・・・森繁久彌が登場したころから、外語の「怠学生」であった私はムーランに通いつめ、小柳ナナ子の肉体美や明日待子の美貌にうつつをぬかしていた。

    ムーランの裏の尾津組マーケットで、イカの塩辛を肴にカストリを飲んでいる森繁のすがたを、何度も見かけた。そのころから饒舌であった森繁は、虚実とりまぜて意表に出る話術で、人びとを煙に巻いていた。鼻をつくアセチレンガスの灯の下で、酔えば天鼓のごとく高らかに、またうらぶれて低く哀しくうたう森繁ぶしを、私は戦後の最もなつかしい想い出の一つとして胸の底にとどめている。(竹中労『完本 美空ひばり』)


    四月二十日、第一回参議院議員選挙。地方区百五十のうち、各選挙区の得票数上位七十五が任期六年、それ以下は任期三年。全国区百人のうち、上位五十人が任期六年、以下が三年である。社会党(片山哲委員長)四七、自由党(吉田茂総裁)三九、日本民主党(芦田均、斎藤隆夫最高委員)二九、国民協同党(三木武夫書記長)一〇、共産党(徳田球一書記長)四、諸派一三、無所属一〇八。無所属では山本有三(任期六年)、羽仁五郎(任期三年)、社会党から水平社の松本治一郎(六年)、共産党から中野重治(三年)が当選した。無所属議員の中から山本有三の呼びかけで九十二人が緑風会に結集した。

    四月二十二日、NHK街頭録音に「ラク町のお時」が登場した。彼女は隠しマイクに気付かず、赤新聞のインタビューだと思っていたから、自由奔放に語った。放送では「背が高く、水兵風の濃紺のズボンと薄紫のセーターを着て、髪は黄色のバンドで束ね、顔は美しく端正で、肌は透き通るように白く、唇は真っ赤」と描写された。

    パンパンが闇の商売である以上、自衛のために組織ができ、縄張りが決められる。お時はそうした小さな組織のボスであった。百五十人程のメンバーを抱える夜桜あけみの妹分だったとも言う。この頃、赤線、青線の遊郭に所属しない街娼(パンパン)は、六大都市でおよそ四万人と推定されている。


    そりゃ、パン助は悪いわ、だけど戦災で身寄りもなく職もない私たちはどうして生きていけばいいの、好きでこんな商売をしている人なんて何人もいないの、それなのに苦労して堅気になって職を見つけたって、世間の人はあいつはパン助だって指さすじゃないの。私は今までに何人も、ここの娘を堅気にして送り出してやったわよ。それがみんな(涙声)いじめられ追い立てられて、またこのガード下に戻ってくるじゃないの。世間なんていいかげん、私たちを馬鹿にしてるわ。


    このインタビュー中に、お時が『星の流れに』を口ずさんだという伝説があるが、菊池章子の『星の流れに』(清水みのる作詞、利根一郎作曲)が発売されるのは十月のことである。この時点でお時が知っている筈がない。

    パンパンと混同されることもあるが、特定の一人とのみ交渉するオンリーもいた。ダンサー、ハウス・メイド、タイピスト等から転身するケースが多く、中には米軍兵舎での同棲を許されるケースもあった。彼女たちを簡単に「売春婦」と貶める訳にはいかないだろう。「現地妻」から実際に結婚に至る者もいて、四万五千人がアメリカに渡ったともいう。ただGIの帰国と同時に捨てられる方が多かったのは勿論である。戦後の混血児問題はここに生まれる。

    四月二十五日、第二十五回衆議院議員選挙。社会党一四三、自由党一三一、日本民主党一二四.国民協同党三一、共産党四、日本農民党四、諸派一六、無所属一一。過半数には達しなかったが、社会党が第一党になった。吉田内閣はあっさり総辞職したが、片山哲は内心困惑した。社会党が単独で政権を運営できるわけはない。保守との連立は荒畑寒村が断固として反対した。荒畑は「たとえ三日天下でも、社会主義的政策を実行して倒れても良い」とまで迫ったが、片山は保守とのの連立を選択した。

    四月に手塚治虫が『新宝島』(大阪・育英出版)を出し、四十万部売れたという。当時、赤本漫画と呼ばれた書下ろし単行本で、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫等のトキワ荘グループだけでなく、後に「劇画」を生み出す連中(辰巳ヨシヒロ、さいとうたかお、佐藤まさあき等)や宮崎駿も大きな衝撃を受けたと語っている。

    藤子不二雄A(安孫子素雄)は、「そうだ、これは映画だ。紙に描かれた映画だ。いや! まてよ。やっぱりこれは映画じゃない。それじゃ、いったいこれはナンダ!?」(『二人で少年漫画ばかり描いてきた』)と驚愕した。しかし呉智英は、クローズアップや俯瞰等を多用する映画的手法には手塚の前に先行者がいると言う。


    注目すべきは『スピード太郎』(一九三〇年十二月~三四年二月)である。アメリカのコミック・ストリップスの影響を受けた絵柄は、日本の従来のマンガの絵柄とちがって、俯瞰などの視覚を使い、コマのフレームも長方形以外の変形を多用し、安心な印象を与えた。現代マンガのコマ割りの多様性の起源を、終戦直後の手塚治虫の『新宝島』に求める説が強いが、それより早い『スピード太郎』をその嚆矢とすべきだろう。(中略)

    この作品(『新宝島』)は、制作・構成が酒井七馬、作画が手塚治虫という形を採っているが、第三期以後急速にふえる原作付きマンガではなく、もっと手塚のオリジナルに近いと見られる。版元は大阪の育英出版という赤本出版社だったが、売れに売れ、四十万部とも八十万部ともいわれるベストセラーになった。・・・・・この作品を以て現代ストーリーマンガが成立したとすることに衆目は一致している。しかし、前史で宍戸左行の『スピード太郎』に関連して述べたように、『新宝島』の一ページ三段のコマ割りはかなり平凡であり、伝説的に言われるほど革命的なものではない。コマ割りよりも、物語の展開に手塚の天分が見られる。(呉智英『現代マンガの全体像』)


    五月三日、日本国憲法施行。但し超憲法的な存在としてのマッカーサーに従属している状況は変わっていない。「押しつけ」だから「自主憲法」を作らなければならないというのが右派改憲派の一貫した主張である。「護憲派」は、成立の事情はどうであれ、日本人がこの憲法を受入れ、特に第九条を長く護って来たことで実質的に日本人の憲法として定着していると主張する。


    一九五〇年代には、政治家・政党間で改憲論が高まった。背景として、占領統治終結に伴う右派政治家の公職復帰と占領改革の見直し機運の高まり、朝鮮戦争後の事実上の再軍備の進展などがある。五〇年代改憲運動では、九条改正はもちろん、天皇の元首化と国事行為の拡大、人権制限、国民義務の拡大、参議院改革、地方自治制限、改憲手続きの緩和など、全面的な憲法の見直しが主張された。当時の保守政治家の改憲論において、九条改正・軍隊保有論が最低ラインの主張にすぎなかった点には十分注意が必要である。今日では忘れられているが、九条改正論は、新聞社説においても五〇年代前半まではごく一般的なあ主張であった。(境家史郎「新憲法と世論の変遷」『昭和史講義 戦後篇』)


    社会党、共産党でさえ、非武装には反対していたのである。それなのに、現在まで改憲が実現していないのは何故だろうか。大きい要素は吉田茂の戦略である。講和条約と同時に日米安保条約を締結するという大技で、安全保障はアメリカに任せ、日本は経済に専念する。これは完全独立を諦め対米従属を続ける道であるが、経済成長という果実を得るための大きな戦略であった。鳩山一郎、岸信介の自主防衛、自主憲法制定の動きがあったものの、池田内閣以降、再び吉田路線が継承されて行く。そして国民の大半はその戦略を受け入れたのである。

    そのため改憲せずに「解釈」を変更するという裏技が使われてきた。自衛隊設立がそうであり、ウクライナ戦争、北朝鮮の動き、中国の覇権主義を前に、反撃能力の保持を(選挙も経ずに閣議決定で)認めたのもそのためである。

    犠牲になったのは沖縄であることは言うまでもない。沖縄を永続的な米軍基地とするのは昭和天皇の希望でもあった。宮内府御用掛寺崎英成に命じて対日理事会議長・GHQ外交局長シーボルトに自身の意を伝えさせた。


    天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する天皇の考えを私に伝える目的で、時日を約束して訪問した。

    寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。天皇の見解では、そのような占領は、米国に役立ち、また、日本に保護をあたえることになる。天皇は、そのような措置は、ロシアの脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼及び左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような〝事件〟をひきおこすことをもおそれている日本国民の間で広く賛同を得るだろうと思っている。

    さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の島じま)にたいする米国の軍事占領は、日本の主権を残したままでの長期租借――二十五年ないし五十年あるいはそれ以上――の擬制にもとづくべきであると考えている。(「琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解」を主題とする在東京・合衆国対日政治顧問から一九四七年九月二十二日付通信第一二九三号への同封文書)


    国事行為以外、政治に関与してはならない筈の昭和天皇は、かなり露骨に政治的な行動をしている。私たちは平成上皇夫妻の振る舞いを見て来たために、天皇制については親和的な感情をもってしまった。しかし天皇制は風前の灯である。女系天皇を容認したとしても永続性は期待できない。天皇家に生まれた者には基本的人権もないということは、眞子内親王の結婚問題で露わになった。


    五月二十四日、社会党片山哲内閣成立。片山は共産党を除く全党との大連立を模索したが、吉田茂の自由党の許諾がえられなかった。結局、民主党、国民協同党との連立が決まり、閣僚が整うのは六月一日のことだった。

    六月九日、『朝日新聞』の戦後復活した新聞小説第一作として、石坂洋次郎「青い山脈」が連載を開始した。戦後民主主義を謳歌したものとして翌年には映画化され、主題歌が大流行した。歌は一時的なものではなく、数十年にわたって歌われ続けた。


    戦後民主主義とは蔑称である。それは右翼のみならず、良心的知識人すなわち左翼思想の持主の多くに「配給された民主主義」と蔑視され、嫌い抜かれたものだった。日本人民は自力で革命を起こすことができなかった。ところが進駐軍すなわち戦後占領軍によって革命に匹敵するようなことがもたらされた。日本は徹底的に遅れている。そう考えたのである。それほどマルクス主義の滲透は強烈で、大学生なら誰でも、革命には二段階すなわちブルジョア革命(議論があるにせよ、明治維新)とプロレタリア革命(来るべきもの)の二つがあって、それは歴史の必然だと思い込んでいた。(中略)

    だが、石坂を読むと、それがそうではないことが分かる。日本において民主主義は昔から強く望まれていただけではない、あえていえば、日本には日本風の民主主義が昔からあったのだ。女性の視点に立つとそれがよく分かるというのである。逆にマルクス主義を初めとする共産主義のほうが、大義名分を掲げる家父長制そのものとして機能していると言うのだ。(三浦雅士「石坂洋次郎」『昭和史講義 戦後文化篇』)


    七月五日、連続ドラマ『鐘の鳴る丘』(菊田一夫脚本)の放送が始まった(二十五年十二月二十九日まで)。CIE(民間情報教育局)が、四月に来日したフラナガン(カトリック聖職者・社会事業家)の精神を踏まえ、戦争孤児救済のためのキャンペーン・ドラマを制作するように指示したものであった。川田正子とゆりかご会の歌う主題歌『とんがり帽子』(菊田一夫作詞、古関裕而作曲)が大ヒットした。

    ラバウルから復員した品川博はドラマに感銘を受け、児童養護施設をつくる意思を固めていた。主人公の加賀美修平に相談しようとNHKを訪ねて、フィクションであることを知らされて愕然とした。しかし居合わせた菊田の助力もあって寄付が集まり、翌年九月に前橋に「愛誠会少年の家」を開設する。昭和四十一年に「鐘の鳴る丘少年の家」に改称した。

    七月十日、岩波書店が『西田幾多郎全集』を売り出した。この時、それを求めて岩波の社屋を二重三重に囲んで一夜を明かす人々の群が記録されている。書店に配本されるのが待てずに、出版社に直接行くというのは、今では信じられないことである。しかもそれが西田幾多郎である。購入した中のどれだけが理解しただろうか。


    敗戦後、東京をはじめとする大都市は焦土と化した。中産階級も没落し、学生生活は困難を極めたが、学生たちは神田の古本屋で戦前の教養書や思想書を探し回った。新しい本が出版されることがわかると、わざわざ上京し徹夜の行列をつくった。河合栄次郎の著作や『西田幾多郎全集』はこうしてもとめられ、むさぼるように読まれた。(竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』)


    同書で竹内は、二十一年三月の『日本読書新聞』が調査した再刊希望図書を紹介する。その一位が阿部次郎『三太郎の日記』、二位が『漱石全集』、三位が西田幾多郎『哲学論文集』。以下、『寅彦全集』、河合栄次郎『学生叢書』、『トルストイ全集』、西田幾多郎『善の研究』、倉田百三『愛と認識との出発』、阿部次郎『人格主義』、『鷗外全集』と続く。戦前の「教養書」の定番である。新しい「教養書」はまだ生まれていなかった。

    八月一日、坂口安吾「不連続殺人事件」が『日本小説』(編集長・和田芳恵)九月号で連載を開始(翌年八月号で完結)した。乱歩は「我々探偵作家を瞠目せしめた」「トリックに於いては内外を通じて前例の無い新形式が考案されていた」と激賞し、松本清張も「日本の推理小説史上不朽の名作」「欧米にもないトリックの創造」と評価している。文体はさすがに古いが、今読んでも傑作だと思う。

    八月九日、古橋広之進が日本選手権の四百メートル自由形で、四分三八秒四の記録を出して優勝した。公式記録にはならなかったが、当時の世界記録を上回るタイムである。以後二年間で二十三回の新記録を樹立する。

    九月十三日から十五日、カスリーン(キャサリン)台風が関東から東北を襲った。関東南部では利根川と荒川の堤防が決壊し、埼玉県東部から東京で多くの家屋が浸水した。群馬県、栃木県の渡良瀬川流域では土石流や河川の氾濫が多発し、死者が多数出た。東北地方では北上川が氾濫して岩手県一関市などで大きな被害が発生した。死者は千七十七人、行方不明者は八百五十三人、負傷者は千五百四十七人となった。その他、住家損壊九千二百九十八棟、浸水三十八万四千七百四十三棟、耕地流失埋没一万二千九百二十七ヘクタール。罹災者は四十万人を超えた。

    九月、ポーランドのシュクラルスカ・ポレンバで、コミンテルンの後身としてコミンフォルムが結成された。トルーマン・ドクトリンやマーシャル・プラン等、アメリカ主導による西側諸国の国際協調政策が積極化したため、共同して対抗する必要が生じたのである。


    コミンフォルムは、必要な場合に相互の合意に基づいてのみ活動の調整を行うものとされ、ソ連の指導性はある程度認めながらも、コミンテルンのような指導機関となることは否認されていた。しかし一九四八年のユーゴスラビアの除名を契機に、「修正主義の一掃」や「東側陣営の結束」を理由とした統制がスターリンによって強化される。こうして、戦後一時期認められたかのように思われた社会主義への道の多様性はふたたび否定され一元化された。(『日本大百科全書』「コミンフォルム」)


    十月、公職追放により石山賢吉がダイヤモンド社会長を辞任した。前年一月の連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」により、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追放された。この年、更に「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」によって、対象範囲が拡大され、戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象になり、石山賢吉はこれに相当したのである。賢吉不在の社を支えたのは石山皆男たちであった。


    G級公職追放とは昭和十二年七月から昭和十六年十二月の間、時の戦時体制に加味し、軍国主義を擁護する言論・出版人をすべての公職より追放、すなわち引退しろというものである。(中略)

    社の再建は石山皆男、加藤一、鈴木津馬冶、寺沢末次郎、斎藤重などが中心になって復興した。石山(賢吉)は追放中、雑誌の再建に関与せず、それを見守る生活だった。(ダイヤモンド社『石山賢吉物語』)


    但し賢吉の追放は翌年四月には解除される。石橋湛山までが追放されたのは、追放の基準と審査がいかに杜撰であったかを証明するだろう。石橋はGHQの指令に正論をもって反論したことからGHQに嫌われた。またこの決定には吉田茂が関与していたとも言われる。

    実業家の公職追放が、意外なことにヤミ市の様相を変えることにもなった。ヤミ市は常に警察の摘発と追っかけごっこだったが、この頃から違って来た。


    ところが不思議なことに、ヤミ市でマーケットが中心になった一九四六年秋以降、新聞紙面からは、警察のヤミ市取締りに関する記事が大幅に減っていく。翌年にかけて、ヤミ物資の取引システムが大きく変わるのが、その原因である。

    公職追放の財閥重役や復員した商社マンが、ブローカー会社の幹部になり、組織的に大量の禁制品を動かすようになるからである。ヤミ物資の主力商品も、食料以外に、繊維製品などの消費財から生産財、ガソリンに広がり、密輸入品なども増えていく。

    かくて、警察の取締りの重点は、末端の露天商やヤミ市ではなく、大規模なヤミ・ルートの摘発の「大物主義」に変わるようになる。魚市場・青果市場や卸問屋が急襲され、大口ブローカーの「大闇」に迫る手入れが新聞を賑すようになったのである。(松平誠『東京のヤミ市』)


    十二日、三木鶏郎の『日曜娯楽版』が始まった。出演者は、歌手の楠トシエ、中村メイ子、喜劇俳優の三木のり平、丹下キヨ子、有島一郎、太宰久雄、小野田勇、千葉信男、河井坊茶、逗子とんぼ、なべおさみ、左とん平ら。放送作家は、三木のほか、キノトール、能見正比古、永六輔、神吉拓郎、野坂昭如、飯沢匡、伊藤アキラら。作曲家は、神津善行、いずみたく、桜井順、越部信義、嵐野英彦ら。

    トリローの冗談音楽は戦前の〈あきれたぼういず〉の後継と見做されるが、CMソング、アニメソング、ヴァラエティ番組の源流はトリローグループである。この中には五木寛之もいた。三木鶏郎は作者としてもそうだが、組織者として天才的だった。

    十四日から始まった日劇のショウ「踊る漫画祭・浦島再び竜宮へ行く」で、笠置シヅ子が『東京ブギウギ』(鈴木勝作詞、服部良一作曲)を歌って評判になった。ジャズが禁じられた戦時中、笠置は不遇であった。公の場所で歌うのを禁じられ、楽団を率いて巡業や軍需工場の慰問に回った。服部良一と出会ったのは昭和十三年、松竹楽劇団の旗揚げのときであった。笠置は既に、知る人ぞ知る歌手であった。私の世代では、大阪弁を操るチンクシャのオバチャンというイメージしかないが、恐らく戦前の日本で、黒人ジャズのフィーリングを備えた唯一無二の存在だったのではないか。


    大阪で一番人気のあるステージ歌手と聞いて「どんな素晴らしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませた」のだが来たのは、髪を無造作に束ね薬瓶を手に目をしょぼつかせ、コテコテの大阪弁をしゃべる貧相な女の子であった。だがいったん舞台に立つと「…全くの別人だった」。三センチもある長いまつ毛の目はバッチリ輝き、ボクが棒を振るオーケストラにぴったり乗って「オドウレ。踊ウれ」の掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。その動きの派手さとスイング感は、他の少女歌劇出身の女の子たちとは別格の感で、なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと納得した。(服部良一『ぼくの音楽人生』)


    因みに作詞の鈴木アラン勝は、スコットランド人と日本人女性との間に生まれた私生児とする説がある。一歳の頃に鈴木大拙・ベアトリス夫妻の養子になった(但し戸籍上は実子)らしい。世界的な仏教学者と神智学徒との間で育てられながら、手の付けられない不良少年に育った。この曲は勝のアイデアを元に当時の妻(二度目)で歌手の池真理子が作詞したとされる。作曲者の服部によると、勝の持ってきた作詞が気に入らず、二人でさらに手直ししたという。

    この日劇ショウの三ヶ月前、笠置シヅ子は吉本穎右(吉本せいの息子)の子を出産していた。二人の結婚は吉本せいの大反対にあって実現せず、穎右は子が生まれる数日前、五月十九日に死んだ。ただ、せいが反対したというのは俗説で、シヅ子が芸能界を引退して主婦に専念するなら許すと言ったというのが本当らしい。しかし穎右の死で、シヅ子は乳飲み子を抱えて働かなければならない。それを支援したのが服部良一や榎本健一であった。


    ・・・・・昭和二十二年の秋、服部良一とコンビを組んで、突如、歌謡界に躍り出た笠置シヅ子のパンチのきいた歌唱力に、私は全く魅了された。(中略)撮影の合間を縫って電車に飛び乗り、丸の内から浅草くんだりまで、笠置シヅ子の歌うステージというステージを追いかけてまわった。日劇の広いステージに、小柄な彼女がニッコリと目じりを下げて現れると、ステージいっぱいにバァッと花が咲いた。東京ブギ、・・・・・センチメンタルダイナ……アイレ・・・・・彼女は全身全霊を動員して、ステージせましと歌いまくり、観客をしっかり捕らえて放さない。笠置シヅ子は歌そのものであった。やはり不世出の歌手だと、私は思っている。(高峰秀子『わたしの渡世日記』)


    十月十四日、三直宮家(秩父宮・高松宮・三笠宮)を除く十一宮家五十一人が皇籍を離脱した。全て伏見宮系である。伏見宮とは北朝三代崇光天皇の子孫であり、現天皇家とは随分離れている。多くの皇族を抱える予算的な余裕がなかったのは事実だが、天皇の直系がいずれ消滅し皇統が自然に絶えることを期待した措置だとしか思えない。

    十月二十六日、改正刑法が公布され、不敬罪、姦通罪が廃止になった。

    十一月二十九日、国連総会でパレスチナ分割決議案が採択された。イギリスの委任統治終了と同時にパレスチナを分割し、ユダヤ、アラブ二つの國を独立させる案だが、ユダヤ人の多くがこの分割案を受け入れ、アラブ人の殆どが拒否した。ユダヤ人が国を持ちたいという願いは充分に理解できる。しかしその土地にはアラブ人が住んでいたのである。ヨーロッパ帝国主義が齎した大きな問題だが、それではどうしたら良かったか。私には判断できない。少なくともアーレントは、アラブ人の土地を奪ってユダヤ人国家を建設することに賛成していなかった。

    十二月二十二日、改正民法が公布された。家督相続制度が廃止され、配偶者の相続権が確立した。家長による家族制度がここで崩壊した。自民党右派や宗教団体は、この新制度に反対し、戦前の家父長制度の復活を望んでいる。同性婚や選択的夫婦別姓に反対するのはそのためだ。ただし改正を急いだため、新憲法に抵触しない部分については手付かずである。

    十二月には勧銀が特等賞金百万円(十本)の宝くじを売り出し、カズもその街頭販売に駆り出された。一枚五十円はほぼ白米一升が買える金額だと思うが一日で売り切れた。「宝くじ公式サイト」によれば、当時吉祥寺で百五十坪の土地に建てられた家が五十万円、国産乗用車二十万円である。


    昭和二二年、一〇〇万円宝くじの抽せん会は一二月二四日のクリスマス・イブに日劇で行われ、ダンシングチームのバックで音楽に合わせ風車をまわし矢を射る。笠置シズ子さんがブギウギなんか歌って最後の組番を決める矢を射た。宝くじ全盛時代がきたわけです。(紀平梯子「純綿キャラコに魅せられて」『戦後史ノート』)


    堺屋太一の定義では、この年から二十四年の間に生まれた世代を「団塊の世代」と言う。二十二年生まれは二百六十七万八千七百九十二人、二十三年生まれは二百六十八万千六百二十四人、二十四年生まれは二百六十九万六千六百三十八人である。令和三年の出生者は八十四万二千八百九十七人、令和四年には八十万人を割ると予測されている。七十年でおよそ三分の一になったのである。

    これでは国は滅ぶであろう。令和五年になって岸田首相は「異次元の少子化対策」を打ち出すと言っているが、遅すぎるである。子育て支援のことばかりに話題は集中しているが、その前に婚姻率の悪化がある。一九四七年に一・二〇パーセントと頂上に達した婚姻率は、一九七一年に一・〇五パーセント、それ以降急激に低下し二〇二〇年には〇・四三パーセントにまで落ち込んでいる。非正規雇用の増加による収入の大幅減がその原因のひとつと考えられ、それならば財界を含めて日本の社会構造を変えなければならない。まず若者が結婚しなければ話にならないのである。


    飯塚浩二『地理学批判』、高橋幸八郎『近代社会成立史論』、E・H・ノーマン『日本における近代国家の成立』、宇野弘蔵『価値論』、石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』、加藤周一・中村真一郎・福永武彦(マチネ・ポエティク)『1946文学的考察』、三木清『人生論ノート』、田村泰次郎「肉体の門」(『群像』三月)、石坂洋次郎「青い山脈」(『朝日新聞』)、太宰治「斜陽」(『新潮』七月号から十月号)。

    手塚治虫『新宝島』、『前世紀--ロストワールド』、井上一雄『バット君』(『漫画少年』連載開始)。山川惣治『少年王者』(後『おもしろブック』に連載)。戦時中営業を休止していた集英社(小学館の子会社)は、『少年王者』刊行のために事業を再開、経営の基礎を築いた。紙芝居の『黄金バット』が大ヒット。

    吉村公三郎監督『安城家の舞踏会』、山本薩夫監督『戦争と平和』、谷口千吉監督『銀嶺の果てに』。洋画は、ソ連映画『石の花』、『アメリカ交響楽』(第一回ロードショー映画)、『第七のヴェール』(戦後初のイギリス映画)。

    岡晴夫『啼くな小鳩よ』(髙橋掬太郎作詞、飯田三郎作曲)、二葉あき子『夜のプラットホーム』(奥野椰子夫作詞、服部良一作曲)、ディック・ミネ『夜霧のブルース』(島田磬也作曲、大久保徳二郎作曲)、平野愛子『港が見える丘』(東辰三作詞・作曲)、近江俊郎『山小舎の灯』(近江俊郎作詞、米山正夫作曲)、菊池章子『星の流れに』(清水みのる作詞、利根一郎作曲)、川田正子・井口小夜子『みかんの花咲く丘』(加藤省吾作詞、海沼實作曲)、川田正子『とんがり帽子』(菊田一夫作詞、古関裕而作曲)。

    『青い山脈』と『肉体の門』、『山小舎の灯』と『星の流れに』が同時に流行する時代であった。また童謡歌手の歌が流行したのもこの時代である。


    昭和二十三年(一九四八)タツミ四十七歳、祐二十三歳、カズ二十歳、利孝十八歳、ミエ十五歳、石山皆男四十八歳、鵜沼弥生四十六歳、田中伸四十一歳


    一月一日 ・・・・上野駅・・・・浮浪者が壁際で吸殻をあつめほごして煙草を捲いている。三十本で三十円ぐらいに売るものである。私は樺太からの引揚者で凍傷で足の関節がうごかなくなりまして、と四十男が地べたを四つん這いに這い廻って、人々にお恵みを請うている。大抵そっぽを向くか、逃げ出してしまう、四十、五十の婦人がこれに応ずるのが多いようである。浮浪の女や男や子供が、ムシロのような毛布にくるまって寝たり、芋をたべたり、ぼんやり日の光を見ている。彼らには暮も正月もない。(山田風太郎『戦中派闇市日記』)


    一月六日、米ロイヤル陸軍長官が日本を反共の防壁とする、と発言した。非軍事化、民主化を柱とする占領政策の大転換である。

    一月十二日、明治製菓がペニシリンの製造を開始した。ドイツでペニシリンに関する論文が発表された(ベルリン大学薬理学教室のキーゼ博士)のは昭和十八年八月のことだった。この論文を、ドイツを訪問していた伊号第八潜水艦が日本に持ち帰ったのである。これを読んだ陸軍軍医稲垣克彦が研究を始め、日本でもペニシリンの製造が試みられる。十九年一月にはチャーチルの肺炎がペニシリンで快癒したとの報道がなされている。そして十九年十二月には森永製菓と萬有製薬によって製造が成功していた。ただ大量生産できるまでには至らなかったのである。

    一月二十六日、帝国銀行椎名町支店で十二人毒殺、現金強奪事件が発生した。これは実に不可解な事件であった。平沢貞道に死刑が求刑されることになるが、執行されないまま平沢が死んだ後も、未だに冤罪の疑いが消えない。〈土曜会〉でもこの事件が話題になった。


    ・・・・この犯人を推理せんと大下氏(宇陀児)より提言あり。

    一致せる結論は、

    1、 目的は怨恨にあらずして、金なり。

    2、 犯人は単独なり。(犯行そのものに就いては)

    3、 犯人は防疫関係にある者乃至あったもの。しかして曾て何らかの意味で人を使う位置にあったものなり。

    木々氏(高太郎)より日本人の衛生知識、お役人に低頭する独立思想の低きことを歎ずる発言あり。捜査本部のある目白署を見学。(山田風太郎『戦中派闇市日記』)


    一月三十日、インドでマハトマ・ガンディーが暗殺された。カシミール領有をめぐる第一次印パ戦争の真最中である。ヒンドゥとムスリムの対立の中、ガンディはムスリムに譲歩し過ぎると、ヒンドゥ原理主義者の憎悪をかった。


    夕刻の礼拝集会を行う中庭に、ガンディーは十分ほど遅れて出た。歩く時の杖代わりとして私は付き添っていた。私たちが祈りの場所に向かって歩いている時、一人の若者が群集を押しのけて現れ、私たちと足が触れるほどの距離まで近づいた。その男はガンディーの傍らにいた私も力づくで押しのけ、その後に三発の銃声が轟いた。ガンディーの唇は「ヘー ラーム(おお、神よ)! 」を繰り返し、手が折り畳まれるや、その場に倒れた。時計の時間は午後五時十七分。服のあらゆる場所が血に染まり、おびただしい流血でガンディーの顔は青ざめていった。邸宅にある救急箱では傷を処置できる薬もなく、誰もが大声で泣いていた。家政婦が病院に何度も電話し、Willingdon病院に直行したが、絶望の結果がもたらされた。(マニューベン『バープーの最期の一見』)


    二月一日、沢田美喜(岩崎弥太郎の孫)が、財産税として物納されていた岩崎家大磯別邸を募金を集めて買い戻し、エリザベス・サンダース・ホームを設立した。混血孤児のための施設である。施設の名は、最初に寄付をしてくれた聖公会の信者エリザベス・サンダースに因む。ホーム出身者は二千人に上るという。昭和四十四年から四十五年にかけてのTBS系ドラマ『サインはV』(岡田可愛主演)に登場するジュン(范文雀が演じた)は、このホームの出身者であるという設定だった。

    二月十日、社会党内左右両派の対立により片山哲内閣が総辞職した。社会党は創設の時代から既に分裂すべき要素を充分に抱えていて、左派は事実上の野党状態であった。二十五年一月には対立が決定的になり、分裂するのである。三月十日、芦田均内閣(民主・社会・国民協同の連立)が発足する。

    四月一日、学制改革による最初の新制大学が発足した。私立で上智大学、國學院大學、日本女子大学、東京女子大学、津田塾大学、聖心女子大学、同志社大学、立命館大学、関西大学、関西学院大学、神戸女学院大学。公立で神戸商科大学。計十二大学である。その他はこの年度一杯は旧制として通し、翌年四月から新制に移行する。この一、二年は新制、旧制が混在して分り難い。

    二十二年に旧制高校に入学した高校生は最後の旧制高等学校の卒業生になり、二十三年に入学した高校生は、翌年六月に新制大学の入試を受験させられるのである。

    新制高等学校発足に伴い、秋田中学は秋田南高等学校、秋田高女は秋田北高等学校に変わった。しかし「南高校」の名称は、県立一中としての誇りを傷つけた。秋田高等学校に改称するのは、昭和二十八年のことである。


    四月、祐が大阪で職を得て大阪府下四条畷町に居を構え、六月には亀田の母タツミ、利孝、ミエを呼び寄せた。祐が大阪を離れたのは十歳で、それ以降は東京で暮らしていたのだが、余程大阪に戻りたかったのだろう。単独で大阪で職を見つけられたとは思えないので、田中伸の勧めがあったのだと思われる。

    この頃、多くの知識人が共産党に入党した。いずれも数年後には後悔するのだが、無残な出来事であった。


    浦和高校教授柳田謙十郎が、教職を辞して共産党に入ったことが美談のやうに人の口に上つた。柳田は京大出身で、戦前に西田哲学のいい理解者であり、西田の思想的弟子を辞任してゐた。

    アリストテレス哲学者東大教授出隆が昭和二十三年四月に共産党に入つた。いづれも観念論を否定して唯物論の立場に移つたといふ思想転換を象徴する事件である。そしてこの頃、漱石の弟子森田草平をはじめ、多くの知識人が共産党に入つた。

    文芸批評家花田清輝は戦争中、中野正剛の東方会の会員であり、黒シャツを着て闊歩してゐたが、戦後二十三年に共産党に入つた。(桶谷秀昭『昭和精神史 戦後篇』)


    柳田も出も既に学問的成果を成し遂げた知識人である。それが簡単にそれまでの学問的業績を捨てて共産主義に転じる。それまでに史的唯物論を知らなかった筈がない。村上一郎(昭和五十年三月二十九日、日本刀で右頸動脈を切って自死)さえもが二十二年に共産党に入党した。知識人だけでなく、若者のほとんどは左翼だったと山口瞳は証言する。


    江分利のところに借金にきた友人があった。小学校の同級生で、新聞社に勤めており、左翼だった。左翼だったといういい方は良くない。当時は、いまからみれば若者の殆どが左翼だった。都電の車掌までが公然と共産党の木製のバッジを制帽の耳のところにつけていた。(山口瞳『江分利満氏の華麗な生活』)


    組合専従の佐藤佳夫も共産党に入党しておかしくなかった。幸いなことに(?)入党はしなかったが、共産党員には一貫して同情的だった。当時の共産党は、敗戦直後の米軍=解放軍の認識を変更した頃であった。イデオロギー的には近代主義批判、プチブル的右翼偏向批判に入っていく。


    四七年の二・一ゼネストが禁止された後に党は戦後の再建いらい最初の曲がり角にたたされることになった。ひとつは産別労働組合の内部から火の手が挙げられた民主化運動--後の民主化同盟(民同)に発展--であり、二つには対占領軍戦術の再検討である。後者については、従来の占領軍を解放軍と呼んだ認識――日本の民主革命の遂行に当っての同盟軍という規定――を改めて、行動要綱のトップに「ポツダム宣言の完全実施、民族の独立」を掲げることによって、事実上の反占領軍戦術が志向されることになった(入党届を出した日――一九四八年一月二十一日--に水戸の市委員会の二階に招じ上げられ、県委員会の遠坂良一から六回大会の要旨の説明を受けたが、対占領軍問題に至って、「ここからはノートをとらないように」とおごそかに申し渡された記憶がある)。(安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』)


    五月一日、美空ひばり(十一歳)が川田義雄(晴久)に抜擢され、横浜国際劇場公演「第一回国際祭」で小唄勝太郎の前座として出演した。歌は笠置シヅ子の物真似で、『東京ブギウギ』や『セコハン娘』を歌った。二十一年暮れにNHKのど自慢に出場した時は、子供らしくないという理由で失格になっていた。当時の子どもの歌は、川田正子が歌うようなものと考えられていたのである。


    NHKののど自慢に出演したひばりは、『悲しき竹笛』をうたった。ところが、歌い終わっても鐘がならない。失格の一つの鐘すら鳴らなかった。つきそしの酒匂正が放送局員に「どういうわけだ」とたずねると、「子どもが大人の歌をうたっても審査の対象にはなり得ない」という返事であった。そして、「ゲテモノは困りますな」とつけくわえた。(竹中労『完本 美空ひばり』)


    当時の常識はそんな風であった。それをひばりは一人で切り開いていった。ひばりの歌に浪花節の痕跡があるのは川田の影響である。川田義雄は第一次〈あきれたぼういず〉のメンバーである。川田以外の坊屋三郎、芝利英、益田喜頓が新興キネマに引き抜かれ、吉本に一人残った川田は〈川田義雄とミルク・ブラザース〉を結成する。この時から『地球の上に朝が来る』がテーマソングになる。戦時中は脊椎カリエスで殆ど活動できず、この頃、〈ダイア・ブラザーズ〉を結成し、晴久と改名した。ひばり自身は、歌の師匠は父親と川田だけだと断言している。

    民族派アナキストの竹中は、いかにも竹中流の言い方でNHKを批判する。


    『街頭録音』と並んで、大衆参加番組の基礎をつくった『素人のど自慢』は、新しい時代にふさわしい民衆藝術創造のベースになり得たはずであった。だがNHKは、ついに美空ひばりを生むことができなかった。その官僚的・保守的な機構の中で、民衆のエネルギーはゆがめられ、骨抜きにされて行った。(竹中労・同書)


    五月第一週土曜日から九月第二土曜まで、サマータイムが実施された。当時は「サンマータイム」と呼ばれて二十六年まで続き、評判が悪くて廃止される。労働時間が増えた。それに体調に悪影響を与えるのである。東京オリンピック・パラリンピックに向けてサマータイム導入の議論があったが、歴史を知らない連中のたわ言であった。

    六月十三日、太宰治が山崎富栄と玉川上水に入水して死んだ。情死は勝手だが、場所が悪い。玉川上水は都民の飲料水を供給する川である。それはともあれ、太宰はサービス精神の塊であり、そして何よりも方法論に自覚的な作家であった。私小説作家ではない。死の直前に発表したのは『桜桃』である。


      われ、山にむかいて、目を挙ぐ。
          ――詩篇、第百二十一。


    子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少くとも、私の家庭においては、そうである。まさか、自分が老人になってから、子供に助けられ、世話になろうなどという図々しい虫のよい下心は、まったく持ち合わせてはいないけれども、この親は、その家庭において、常に子供たちのご機嫌ばかり伺っている。子供、といっても、私のところの子供たちは、皆まだひどく幼い。長女は七歳、長男は四歳、次女は一歳である。それでも、既にそれぞれ、両親を圧倒し掛けている。父と母は、さながら子供たちの下男下女の趣きを呈しているのである。夏、家族全部三畳間に集まり、大にぎやか、大混乱の夕食をしたため、父はタオルでやたらに顔の汗を拭き、

    「めし食って大汗かくもげびた事、と柳多留にあったけれども、どうも、こんなに子供たちがうるさくては、いかにお上品なお父とうさんといえども、汗が流れる」

    と、ひとりぶつぶつ不平を言い出す。

    母は、一歳の次女におっぱいを含ませながら、そうして、お父さんと長女と長男のお給仕をするやら、子供たちのこぼしたものを拭くやら、拾うやら、鼻をかんでやるやら、八面六臂のすさまじい働きをして、

    「お父さんは、お鼻に一ばん汗をおかきになるようね。いつも、せわしくお鼻を拭いていらっしゃる」

    父は苦笑して、
    「それじゃ、お前はどこだ。内股かね?」
    「お上品なお父さんですこと」
    「いや、何もお前、医学的な話じゃないか。上品も下品も無い」
    「私はね」

    と母は少しまじめな顔になり、
    「この、お乳とお乳のあいだに、……涙の谷、……」

    涙の谷。

    父は黙して、食事をつづけた。


    六月二十三日、昭和電工疑獄事件が発覚した。昭和電工の日野原節三社長が、復興金融公庫から融資を得るために、政府高官や政府金融機関幹部に対して贈賄した事件である。大蔵官僚・福田赳夫(十万円収賄容疑)、民主自由党の大野伴睦(二十万円収賄容疑)の逮捕に始まり、栗栖赳夫経済安定本部総務長官(三十万円収賄容疑)、西尾末広前副総理(百万円収賄容疑)が検挙され、十月七日には芦田内閣が総辞職に追い込まれる。GHQでは、民政局(GS)のケーデイス大佐も噂になり、ケーディスは失脚する。この裏にはGHQ参謀本部(G2)のウィロビー少将の暗躍があった。つまりGSとG2の対立に、この事件が利用されたのである。


    日本を「理想郷」にしようとする民政局と、「反共の砦」を目指すGⅡの対立は、当然、日本の政治にも微妙で深刻な影響を与えた。吉田茂氏は、「私は民政局には好かれていなかった」が、「ウィロビー氏など軍人派には親近感を持っていた」とその回想記に書いている。(週刊新潮編集部『マッカーサーの日本』)


    ウィロビーはスペインのフランコに憧れる反共主義者であった。昭和四十三年十月、『週刊新潮』のインタビューを見れば、旧日本陸軍の参謀たちと親密であった。GSのニューディーラーたちにとっては天敵とも言える人物である。


    ・・・・占領の当初、GⅡのCIC(対敵情報部隊)は、エリオット・ソープ准将が握っていた。(中略)彼は野坂参三の日本帰還に一役買ったのである。・・・・・その前にソープは、日本の政治犯を監獄から釈放するという、とんでもない間違いを犯した。そして、後に共産党に関係して自殺したカナダ人、E・H・ノーマンの影響を受けていた。

    ・・・・ポツダム宣言は、厭戦ヒステリーの空気の中で作られた。そして戦犯逮捕などというバカげたことをやった。陸軍省など日本の政府機構はそっくり残しておくべきものだった。

    ・・・・民政局に、日本で生まれた一人の若い米人女性がいた。この娘に、民政局は隣組に関する報告書を書かせたのである。彼女は当然、隣組は解散すべきだと書いた。・・・・まったくバカげた報告書である。私に言わせれば、隣組は民主社会機構を守るために、完全に必要なものだ。私が使っていた日本の参謀や日本の友人たちはそういった。(『マッカーサーの日本』)


    ウィロビーが「使っていた」のは有末精三(敗戦時、中将)や河辺虎四郎(敗戦時、中将)によって集められた旧軍人である。中で服部卓四郎(ノモンハンで辻政信と同調。敗戦時、大佐)は「大東亜戦争全史」をまとめ、再軍備のための調査機関を作ることになる。

    昭和三十七年の最高裁判決では、日野原が懲役一年執行猶予五年、栗栖が懲役八ヶ月執行猶予一年追徴金百五〇万円)で確定し、他の被告は全員無罪になった。芦田内閣を潰して吉田内閣を樹立するためのでっち上げだったのである。


    六月二十四日、ソ連は西ベルリンへ向かう全ての陸路を封鎖した。但し空路は封鎖しなかった。封鎖された西ベルリンで必要とする食料は一日あたり、小麦および小麦粉六百四十六トン、穀類百二十五トン、肉・魚介類百九トン、油脂類六十四トン、乾燥ポテト百八十トン、乾燥野菜百四十四トン、砂糖八十五トン、コーヒー十一トン、粉乳二十四トン、イースト三トン、塩三十八トン、チーズ十トンの合計約千四百三十九トン。更に市内で消費する燃料の石炭やその他の生活必需品などが一日あたり約三千トン。従って空輸の最低量は一日四千五百トンである。このために、アメリカ空軍とイギリス空軍が大空輸作戦を実施した。


    七月三十一日、マッカーサー書簡に基づき、政令二〇一号が公布され、公務員のスト権、団体交渉権が否認された。

    八月十三日に李承晩が大韓民国成立を宣言、九月九日には金日成の下で朝鮮民主主義人民共和国が成立した。

    八月二十一日、帝銀事件の容疑者として平沢貞通が逮捕された。類似事件(安田銀行荏原支店)で使用された「厚生技官 医学博士 松井蔚」の名刺を受け取っていたが持っていなかったこと、過去に銀行相手の詐欺事件を四回起こしていたこと、出所不明の現金を持っていたことが決め手になった。但しこの現金について松本清張は、春画作成で得た(もの不名誉な金)ものであり、事件の背後にGHQの関与をみている。七三一部隊の関係者が関与していたのではないかとの推測も根強く残される。

    八月十九日、共産党員に指導された争議団二千五百名が籠城中だった東宝砧撮影所に、警官二千人、米軍騎兵一中隊、戦車七台、航空機三機が仮処分執行に押し寄せた。「来なかったのは軍艦だけ」と報道された。

    前年十二月にGHQが東宝に追放令を出し経営陣が入れ替わると、新経営陣は従業員二百七十名を突然解雇し、さらに千二百名の解雇計画を発表した。これに怒った労働側が生産管理体制を敷き、四月十五日に撮影所に籠城したのが第三次争議であった。

    GHQは労働者の生産管理を絶対に認めない。これは読売争議で充分に分っていた筈である。籠城組には五所平之助、今井正、楠田清、亀井文夫、岩崎昶、伊藤武郎、山形雄策、宮島義勇、ニューフェイスの若山セツ子、久我美子、中北千枝子等が含まれていた。

    東宝では二十一年に第一次争議、第二次争議が起き、渡辺邦男監督なども組合を脱退し、方針を巡って対立した配給部門の社員は第二組合を結成して離脱した。会社は二分された。最初は組合に同情的だった高峰秀子も疑問を持った。映画が好きな人たちが映画が撮れず、敵味方に別れているのはおかしい。そして大河内伝次郎の主導で第三勢力を結集するのである。


    しかし、なんだかヘンだ。ある人はスンナリと所内へ迎え入れられ、ある人にはゴムホースが向けられる・・・・・。(中略)

    私たちは行くところがなかった。毎日、手弁当であっちのお寺、こっちの宿屋を転々としながら今後の対策を練った。ただ第三組合という名称だけでは誰が代表者なのかわからない。さいわい俳優が大勢いたので肩書を「十人の旗の会」と決めた。十人とは、大河内伝次郎、長谷川一夫、藤田進、黒川弥太郎、入江たか子、原節子、花井蘭子、山根寿子、山田五十鈴、高峰秀子であった。(中略)

    二週間ばかりの集団放浪生活の末、私たちは、青柳信雄プロデューサーの先導でようやく祖師ヶ谷大蔵にある東宝撮影所の予備スタジオに落ちついた。規模は小さく、なんとなく都落ちの感じがしないでもないが、映画をつくるには事欠かない。俳優も、優秀なスタッフも揃っていた。(中略)

    名称も「新東宝プロダクション、第三組合」と決まって、プロデューサーたちは早速企画を立てはじめた。昭和二十五年まで続いた「新東宝」の夜明けであった。(高峰秀子『わたしの渡世日記』)


    九月十五日、奥むめおが主婦連合会結成。奥は大正九年(一九二〇)に平塚らいてう、市川房枝とともに新婦人協会を立ち上げた、女性運動の古参である。昭和三年には婦人消責組合協会、昭和五年には託児所兼集会所「婦人セツルメント」を立ち上げている。戦時中はお定まりの大政翼賛運動に参加していた。第一回参議院選挙では国民協同党公認で上位当選し、無所属に移って緑風会に所属した。

    九月十八日、全日本学生自治会総連合が結成され、官公私立一四五校が加盟した。この年、大学の学費が六百円から千八百円に三倍値上がりし、全国の大学、高専の学生が値上撤回を求めた。当時の学生の大半は学資の足しと生活費のためにアルバイトせざるを得ない状況にあったから、学費値上げは生活に直結する問題であった。東京では連日波状デモが行われ、六月二十六日には百十四校二十万人が参加する全国ストライキに突入したが、学費の三倍値上げは阻止できなかった。実質的には敗北である。しかしこの敗北した全国ストライキを以て、学生は(そして共産党は)「成功」と捉えた。


    六・二六ゼネストの成功は圧倒的であった。その余勢を駆って全学連が生まれた。九月十八日から三日間の大会をもって全日本学生自治会総連合が結成された。「『手をつなごう。ロンドを組もう。平和のロンドを。そしてこれに手をふれる者にご用心』とのロマン・ローランの叫びをわれわれの叫びとしよう。史上最後のファシズムを打倒するために。」結成宣言は高く、誇らしく結ばれていた。輝ける委員長に武井昭夫、書記長には高橋英典が選ばれた。本部は東大構内の北端、生協の第二食堂のある建物の一階に置かれた。井出正敏、小林栄三らが書記局員となった。井出は武井と同じ都立高校出身の法学部の秀才、小林は正式には〝ニャーゴロフ〟略称〝ネコ〟と呼ばれた二高出身の経済学部の活動家である。待望久しき全国的闘争組織の誕生である。そして翌四九年の九月、まる一年を経て全学連は国際学連の第四回代表者会議において加盟を承認された。(安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』)


    占領下の日本を「史上最後のファシズム」と規定する辺りに、当時の共産党指導のおかしさが現れている。同じ頃、民学同=民主主義学生同盟が結成された(これは三十八年に発足する同名の組織とは別)。実態はよく分からないが、二十四年四月頃には解散して民青=日本民主青年同盟に吸収されたらしい。


    全学連結成のはなやかさに比べるとその存在がもはや記録からも消え失せがちであるが、民学同=民主主義学生同盟の結成もこの年の夏であった。反ファシズムを旗印とするこの学生活動家組織は八月に結成を訴え、十一月に結成大会を開くが、その時点での同盟員は五千名と称した。

    学帽に附けられたUSDのバッジはけっこう学内で見掛けられたが、それをウルトラ・デタラメ・スチューデントと解し、全学連の中核部隊を自認して一時期は相当に活発で、とりわけ発足間もない新制高校の組織対策として有効であった。(安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』)


    委員長:中森蒔人、副委員長兼組織部長:網野善彦、事務局長:大沼鉄郎、教育宣伝部長:西沢舜一、文化部長:荒川幾男、機関紙部長:中村正光、財政部長:北田芳治。ここに網野義彦がいるのである。


    大塚久雄、丸山眞男、そして石母田正、松本新八郎、藤間生大などの諸氏の論文を、永原慶二氏によって教えられ、その魅力にひかれて歴史学、日本中世史を学ぶ道に進んだのが一九四七年。その年の後半には左翼の学生運動の渦中に入っていった。そのころはなにもかもが新鮮で生気に満ちており、私は全身をその中に投入し、一九四八年のほとんどを、民主主義学生同盟の組織のため、新宿にあった朝鮮学生同盟の建物の中の同盟本部に通って過ごしたのである。(網野義彦『歴史としての戦後史学』)


    学生のアルバイトの状況については川村善二郎の証言がある。学業の余暇に働くというより、アルバイトの余暇を見つけて辛うじて授業に出る、という生活である。


    ちょうど私が大学に入りました昭和二三年の、東京大学の経済学部で言いますと、学生のうち内職つまりアルバイトをやっている学生は四三%、内職を希望している学生が三六%、あわせて七九%という学生は、とにかくアルバイトをやっているか、または必要としていたという状態でした。(中略)

    学生の家庭の生活状況を考えてみますと、戦争とそれに続く敗戦後の混乱の中で、たとえば中小企業などは企業整備にひっかかって廃業させられたり、大企業に圧迫されたりで苦境に追い込まれていた。(中略)また農村で言えば、いわゆる農地改革によって、地主層が小作料の上にあぐらをかいて半封建的な農村支配をつづけることができなくなっていた。(中略)

    小市民層・勤労者層にしてみれば、生活が苦しければそれだけ、こどもに期待をかけ、無理をしてでも大学へやろうとします。私の場合もそうだったのでしょう。しかし、実際にはその家庭の生活は苦しいわけですから、学生自身はアルバイトをしていくらかでも学資の足しにしなければならない。こういう状況を背景として、戦後はアルバイト学生がどんどんふえていったというわけです。(川村善二郎「血を売って得た卒業証書」『戦後史ノート』)


    同じ頃、慶應大学生だった安岡章太郎はカリエスの体で、米軍の掃除夫のアルバイトに雇われた。


    十二月に入って僕は、接収されてマッカーサー司令部になった日比谷の第一生命ビルに、掃除夫のアルバイトに出掛けることになった。勤務は夜七時から九時までで、月給三百円。すでに食料や衣料の闇値は高騰していたが、大学出の初任給が百五十円ぐらいだったから、夜に時間の勤務で三百円はベラ棒に割高の労賃である。(安岡章太郎『僕の昭和史』)


    その後、接収された空き家の番人「ハウス・ガード」もやった。空き家で寝ていれば良いだけの仕事だが、脊椎カリエスが悪化してそれもできなくなると、復員してきた父が章太郎の代わりに雇われることになる。


    「これから、わしがお前の代わりにガードになる。きょう、監督のMさんに会って頼んで来たんだ。採用してくれるらしい。保証人がいるというから、お前をおれの保証人ということにしといた・・・・」

    父にこのような仕事させるのは、僕もさすがに気がひけた。終戦で南方から復員してきた父に、僕と母とは何度となく何処かへ就職することをすすめた。たとえば、製薬会社とか獣医師会とか競馬会とか、そんなところに何か適当なつとめ口がありはしないか、と。しかし父は、そのたびにかたくなに首を振って拒否し、やがて困惑の表情を浮かべるようになった。(安岡・同書)


    父は獣医少将であった。何か心に堪えることがあったのではないか。

    この月、花森安治と大橋鎭子が季刊『美しい暮らしの手帖』を創刊した。花森は大政翼賛会の宣伝部に所属し、国策広告を担当していた。二十一年には、大橋とともに衣装研究所を作り、前身となる『スタイルブック』を刊行していた。


    『暮しの手帖』刊行にあたっては、大橋鎭子と花森安治のそれぞれに思いがありました。大橋は戦争中、防空壕のなかで、自分が見たい、知りたいと思うことを本にすれば、戦争で学校にも満足に行けなかった多くの女性たちに喜んでもらえるだろう、と考えていました。また花森は、戦争への反省から、一人ひとりが自分の暮らしを大切にすることを通じて、戦争のない平和な世の中にしたいと考えていました。そんな二人が毎日の生活を少しでも豊かで美しくするために、手作り家具や直線裁ちの服などを提案していこうと一致し、創刊しました。(暮らしの手帖社「会社案内」)


    十月七日、昭和電工事件によって芦田内閣が倒れた。芦田均は十二月七日に逮捕される。替わって、十月十九日、第二次吉田内閣(民主自由党)が成立した。GSは国民協同党の三木武夫に総理を打診して固辞され、当時の民主自由党幹事長である山崎猛を首班とした民主党・日本社会党・国民協同党との連立内閣の成立を画策した。しかしこれを知った吉田がマッカーサーに直訴し、この企ては頓挫したのである。これでGSは息の根を止められたと言って良い。


    十月二十九日、東海林タツミが四十九歳で死んだ。残念ながらこの幸せ薄かったタツミについて、皆男は殆ど記していない。六歳で母と別れたカズは殆ど憶えていなかった。タツミを記憶しているただ一人の生存者ミエも施設に入っており、もはや話を聞くことはできない。


    十一月十二日、東京裁判が二十五人の被告に有罪判決。東條が自殺未遂に終わった時は罵倒していた山田風太郎が、判決を従容として受け入れた東條に感動している。


    東條はこの宣告を聞くや、ウェッブ裁判長を凝っと見つめてふかく三度うなづき、微笑んで静かに法廷を去ったという。――東條はかくて日本人永劫の英雄となった。明日から新聞は一せいにこの裁判を公正とホメチギリ、おベンチャラに全力をあげるだろう。しかし、東條のこの態度に心中恥じざる日本人があろうか。慟哭せざる日本人があろうか。心情は異なり、風習は違っても、全世界の人々で何人が打たれないものがあろうか。

    アメリカはこの刹那、東條に敗北した。(山田風太郎『戦中派闇市日記』)


    インドのパール判事は全員無罪として長文の意見書を提出したが無視された。そもそも東京裁判が戦勝者にとっての復讐であるなら、あらゆる反対意見は無視される運命にあった。仮に日本が戦争に勝ってアメリカの戦争犯罪を裁くことになったとしたら、広島、長崎への原爆投下、そして日本全土に対する無差別の空襲が、人道に対する罪として弾劾されただろうと、パールは言った。しかし日本人はアメリカによる原爆投下を指弾しなかった。アメリカ人が「真珠湾を忘れるな」と言い続けたのに対し、日本人は「原爆を忘れるな」とは言わなかった。要するに日本は敗けたのであり、占領されたのである。


    興行的誇示と、連合国内むけの安価な復讐感覚に訴えるために仕組まれた東京裁判だが、裁判官の一人から、被告にはすべて無罪の判決を言い渡すのが当然であるとの意見が提出せられた。裁判を仕組んだ側の連合国当局の驚愕と狼狽は言語に絶した。

    憲章の規定から言えば、まず法廷でこれを朗読せねばならない。弁護士側も法廷で朗読すべしとの動議を出した。裁判長は長文でこれを朗読するに数日を要するからとの口実で、朗読を禁じた。それならこっちでこれを印刷頒布すると言い出した。そうすると、進駐軍司令部の命令で印刷を禁じた。日本が昭和二十七年四月二十八日、独立回復までは、パール判決の判決正文は、一般の手にははいらなかった(われわれ弁護人には判決文のタイプライター刷りを一部交付せられ、被告に示すことが出来たが)。(清瀬一郎『秘録東京裁判』)


    十二月二十三日、七人の絞首刑が執行された。そしてその翌日、GHQは巣鴨に拘置されている残りのA級容疑者十九名を釈放し、A級戦犯の裁判はこれで終了すると発表した。岸信介、笹川良一、児玉誉士夫等である。彼らが処刑された者より犯罪への関与が低かったわけではない。


    近年、GHQの占領下で行われた(とされる)WGIP(ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム)をめぐる論争がかまびすしいが、その内実はほぼ解明されている。確かに占領軍は日本の戦争犯罪を周知するキャンペーンを行ったが、それは一方的な「洗脳」ではなく、むしろ自分たちを騙された被害者だと思いたい日本の国民自身との共同作業だったのだ。「国民は軍国主義者にすべての罪を負わせることを受け入れ、その一方でこれを利用した」(賀茂道子『ウォー・ギルト・プログラム』)というのが、実証研究による評価である。(與那覇潤『歴史なき時代に』)


    WGIPを最初に言いだしたのは江藤淳だと思うが、現在では「新しい歴史教科書をつくる会」に関係した連中が声高に主張している、米軍による日本人洗脳計画である。「東京裁判史観」とか「自虐史観」等の言葉を発明したわけだが、まともな研究者は相手にしていない。

    いずれにしろ大多数の日本人は、ごく少数の軍国主義者によって、われわれは騙されていたのであると、信じることができた。本当の戦争責任を追及することを怠たることにより、日本人は全てを曖昧なまま放置してしまった。まともに戦争責任を追及しないから、アメリカの原爆投下の責任も問うことができなかったというべきではないか。そして何より、日本人が過酷な植民地支配者であったことも忘れさせたし、沖縄の集団自決への責任もないことにさせた。ホロコーストの重荷を背負い続けたドイツとの違いである。

    昭和天皇はこの時に退位するべきであった。既に天皇制の存続は決まっているのであり、裕仁個人としての責任を償うことはできた筈だ。実際に退位の意向を口にもしたが、やがて翻意した。


    天皇の退位論については、戦後大きな波が二度あった。一度目は、四八年十一月十二日、極東尾国際軍事裁判で七名の絞首刑の判決が出た日であった。これを機に天皇が退位するのではないかと予測したマッカーサーは占領政策の動揺を恐れ、同日付で宮内府長官田島道治からマッカーサー宛ての書簡という形式をとって、退位をしないとの文言を取り付けた。二度目は、五二年五月三日、サンフランシスコ講和条約が発効する日(四月二十八日)の後に予定されていた式典の日であった。明仁皇太子が成人を迎えるこの年、天皇の頭に退位の文字が去来しなかったとは思われない。しかし、ときの内閣総理大臣吉田茂は退位反対論者であり、退位は必要ないが国民への謝罪の文言は必要だと考えていた田島長官との間で妥協がなされた結果、皇居前広場での式典で読み上げられる天皇の「お言葉」にすべてを託すこととされた。(加藤陽子『昭和天皇と戦争の世紀』)


    この時点で天皇を退位させないのはアメリカの意思であった。その決定には、GHQのお目付け役として来日したジョージ・アチソンが大きく関わっていると、加藤陽子は指摘する。


    ・・・・・アチソンは、次のような、きわめて重大な提言を大統領におこなっていた。天皇が退位してしまうと、「まことに奇妙なことではありますが、大多数の民衆が、自分たちに平和をもたらしてくれた恩人として感謝している指導者を失うことによる天皇制の弱体化」が起こってしまうので、退位を思い留まらせなければならない。よって、今後、「天皇を利用しようと決断するのであれば、何らかの形で天皇の逮捕を免じ、また同時に、われわれが天皇の留位を降伏条項の遂行上執拗であると考えている旨を彼に伝えるべき」であると提言していた。(加藤陽子『昭和天皇と戦争の世紀』)


    戦犯問題ではBC級戦犯に就いても触れる必要がある。かなり無茶苦茶な裁判で処刑された者が多いことは分っている。ラジオ東京テレビの『私は貝になりたい』(フランキー堺主演、橋本忍脚本)は、昭和三十三年に放映された。但しこの脚本は元陸軍中尉加藤徹太郎の著書の一部を使用したもので、橋本は否定したが結局裁判の結果、加藤の原著作権が認められた。


    ソ連、中共の分は充分に知ることが出来ないが、その他の七ヵ国で起訴せられた者は五千四百八十七人、そのうち有罪は四千三百七十八人、無罪、起訴却下、死亡、合計千百十七人である。有罪のうち死刑、実に九百三十七人、終身刑三百三十五人、有期刑三千九十八人、むろんことごとく復讐的裁判で、裁判らしい裁判ではない。(清瀬一郎『秘録東京裁判』)


    裁かれるべき者がいたことは確かであり、正しい手続きに則り慎重な裁判が行われるのであれば問題ない。しかしその裁判の実態は無茶苦茶であった。食料が乏しい戦地で、捕虜に牛蒡を与えたのが、木の根を食わされたということになった事例もある。結果として約千人が死刑に処せられた。

    忘れてならないのは、朝鮮人(有罪百四十八人、うち死刑二十三人)と台湾人(有罪百七十三人、うち死刑二十一人)のことである。日本人として上官の命令に従っただけで罪を着せられた。戦後日本政府はBC級戦犯の減刑や保障を行ったが、彼らはサンフランシスコ講和条約で日本国籍を失ったという理由で、一切の救済措置が受けられなかった。


    当時は日本人だとして戦争に駆り立てておきながら、戦争が終わると日本人ではないといって援護を拒否し、戦犯としての罪だけは押し付けるという、(日本政府は)卑劣としかいいようのない政策をとったのである。(林博史『BC級戦犯裁判』)


    この年、〈ランボオ〉の女給をしていた鈴木百合子は武田泰淳と同棲を始めた。前年には同人誌「世代の会」(小川徹、吉行淳之介、中村真一郎、八木柊一郎、中村稔、いいだもも等)に参加していた。〈ランボオ〉は『近代文学』の溜まり場でもあり、武田泰淳は既に『近代文学』同人となって、埴谷雄高とも知り合っていた。村松友視が埴谷の話を引き出している。


    戦後、文学者たちの集まりというものが新宿あたりの飲みやでもできたわけですが、その一番はじまりがランボオなんですよ。ランボオのおやじは、前から高見順の本を出したりいろんな絵かきの本を出していた昭森社の社長(森谷均)で、バルザックという仇名で一種の出版界の名物男だったんです。その男が戦後、自分のところに喫茶店をつくって、もぐりの焼酎を飲ませた。昼間でも飲もうと思えば飲める場所にしたんですね。(中略)

    そういう時代で、百合子ちゃんは貧乏ですから、髪を洗い髪のようにずーっと長くしていた。横浜で焼け出されて、貧乏そのものでランボオへ来た。ところが美女ですからね、百合子さんに惚れて通うものが多かったんです。いろんな連中が通ってきましたが、百合子さんもだんだん目が馴れて来た・・・・そんなところへ武田があらわれたんです。

    武田は永井荷風とおんなじで、自分の戸籍謄本を出してね・・・・いやあ、どうしようもないね。(村松友視『百合子さんは何色』)


    女性の間ではクリスチャン・ディオールのロングスカート(前年のパリコレ)、男性ではリーゼントとアロハシャツが流行した。世の中は漸く多少は安定してきたのだろうか。しかし百合子の生活はほとんど極貧と言って良い。洋服を洗濯すれば着るものがない。下着を洗えば水着を着ていた。無名時代の林芙美子のようである。百合子の生家は横浜で代々続く富豪で、祖父は大正八年の鈴弁事件で殺害された鈴木弁蔵である。鈴木家は不在地主だったため農地改革で没落した。

    パチンコ業界では、名古屋の正村竹一によって正村ゲージが考案された。それまでバラ釘が並んでいただけで子供の玩具だったパチンコに、天釘、ヨロイ釘、風車、ハカマなどの釘の並び方を工夫したものだった。翌年から発売され、パチンコは一挙に大人の娯楽に昇格した。全国で爆発的に流行するのは昭和二十六年である。


    石田英一郎『河童駒引考』、大塚久雄『近代化の歴史的視点』、ルース・ベネディクト『菊と刀』、大岡昇平『俘虜記』、椎名麟三『永遠なる序章』(実存主義文学と呼ばれた)、梅崎春生『桜島』、太田洋子『屍の街』(広島原爆を描き、GHQによって発禁処分にされた)、埴谷雄高『死霊』第一部、太宰治『人間失格』。竹山道雄『ビルマの竪琴』、吉川英治『新書太閤記』(全九巻)、竹内好「中国の近代と日本の近代」(『東洋文化講座』第三巻)、獅子文六「てんやわんや」(『毎日新聞』)。

    手塚治虫『前世紀 ロストワールド』。関西で手塚治虫の人気が高まって来た。石子順三『戦後マンガ史ノート』の年表によれば、この頃が戦後第一次漫画ブームである。

    黒澤明監督『酔いどれ天使』、溝口健二監督『夜の女たち』、伊藤大輔監督『王将』。洋画では『美女と野獣』、『旅路の果て』。 笠置シヅ子『東京ブギウギ』、二葉あき子『フランチェスカの鐘』(菊田一夫作詞、古関裕而作曲)、竹山逸郎・中村耕三『異国の丘』(増田幸治作詞、佐伯孝夫補詞、吉田正作曲)、近江俊郎『湯の町エレジー』(野村俊夫作詞、古賀政男作曲)、岡晴夫『憧れのハワイ航路』(石本美由起作詞、江口夜詩作曲)、平野愛子『君待てども』(東辰三作詞、作曲)。

    『異国の丘』は、吉田正が満州で作曲した『大興安嶺突破演習の歌』が原曲である。この年八月八日、ラジオの「素人のど自慢」で復員兵の中村耕造が、「よみ人しらず『俘虜の歌える』」と題して歌った。翌週、再びこの曲を歌う者が現れ、鐘三つの合格となった。それが話題になり、NHKが作曲家をさがし始めた。しかし募集直後から「私が作曲した」と何人も応募し、作曲家探しは混乱を極めた。一方ラジオ放送直後に舞鶴港へ復員した吉田正がその話を聞き、NHKへ名乗り出たことで、正式に吉田正の作曲と確定した。この曲によって吉田正は一流作曲家となるのである。


    昭和二十四年(一九四九)祐二十四歳、カズ二十一歳、利孝十九歳、ミエ十六歳、石山皆男四十九歳、鵜沼弥生四十七歳、田中伸四十二歳。


    一月一日、大都市への転入抑制が解除された。食糧事情が多少とも落ち着いてきたのであろうか。風太郎の日記を見ても、空腹や浮浪児を見かける記事が殆どなくなっている。しかし都心に住宅はなく、サラリーマンは焼け残った郊外から通勤した。

    一方、北関東から東北出にかけては少年少女の人身売買が多発していた。一月十七日には米沢市の女が人身売買の容疑で摘発された。山形県の農村子女二千五百人(最年少は十五歳)を一人二千五百円で売買していたのである。落ち着いたように見えるのは都市の表面部分であり、下層にはまだまだ貧困に喘ぐ者が多かった。五年後の昭和二十九年の調査では、検挙した被疑者は五千五百十一人、被害者は八千六百三十五人。このうち八十五パーセントが売春関係であった。

    そんな中で『朝日新聞』に連載が始まったチック・ヤング『ブロンディ』はどう受容されたのだろうか。ブロンディは妻の名前、夫はダグウッドである。美人で優秀な妻と、妻に指示され続ける気弱な夫。殆どの日本人は巨大なダブルベッドや電化製品に、貧しい日本とは違うアメリカの豊かさを見ていたのだろう。しかしダグウッドが夜中に冷蔵庫からあり合わせの食材を取出して作る巨大なサンドウィッチは、妻に支配されるストレスからくる過食ではなかったか。私の記憶にあるのは、昭和三十七年四月から十月にかけてフジテレビ系列で放映されたアニメかも知れない。

    『ブロンディ』の連載が終了するのは昭和二十六年四月十五日、翌日からは『サザエさん』の連載が始まる。マッカーサーが解任され帰国の飛行機に搭乗するのが四月十六日であった。余りにもタイミングが合い過ぎる。深読みすれば、『ブロンディ』はマッカーサーに迎合するものではなかったか。しかし『ブロンディ』がここで終わったわけではない。この後は『漫画読本』に場所を移して続くのである。

    全国新制高校ラグビー大会が東京で開幕した(~五日)。新制になって初めての大会で八校参加、秋田工業高校が優勝した。


    一月二十三日、第二十四回総選挙。民主自由(吉田茂)二百六十四、民主六十九、社会四十八、共産三十五、国民協同十四、労農七、無所属・諸派二十九。民主自由党が過半数を制し、社会党は惨敗(片山哲も落選)、共産党が躍進する結果に終わった。この結果、第三次吉田内閣は民主党の分派と連立を組む。吉田学校の官僚が多く当選し、初当選の池田勇人を蔵相に、佐藤栄作を政調会長に抜擢した。


    一二一名の新人議員を擁して党内に吉田派(官僚派)を形成したうえ、これに反発する党人派を分裂させて封じ込めるべく、強引に犬養健ら民主党連立派との保守連立に踏み切る。二月に成立した第三次内閣は、初当選の池田を蔵相、佐藤を政調会長に抜擢するなど内閣と党で完全なワンマン人事を貫く。

    興味深いのは、政権運営での意思決定システムである。再び外相を兼任した吉田は、主に外相官邸を拠点とする連絡会議を連日開催していた。ここに内閣や党の要職を占める吉田派の側近や私的ブレーンを集め、意思決定の一元化を図ることで政党や官僚の反乱の芽を摘み取っていた。(村井哲也「吉田内閣」『昭和史講義 戦後篇』)


    一月二十六日、法隆寺金堂の火災により、外陣壁画十二面が焼失した。これにより、昭和三十年一月二十六日「文化財防火デー」が定められた。

    一月三十一日、中国人民解放軍が北京に入城した。更に四月二十四日には国民政府の首都南京に入城、武漢、上海等の大都市を陥落させる。国民党首脳は広州、更に重慶に逃れて抵抗を続けるが、追い詰められていく。そしてアメリカは、日本を共産主義の防波堤にすべく動きを加速していくのである。

    三月一日、東京新宿の陸軍戸山学校跡地に、都営戸山ハイツ(水洗トイレ付木造平屋住宅)千五十三戸が完成した。募集約千戸に対して三万四千九百九十九件の申し込みがあり、倍率は三十五倍となった。六畳+四畳半(この年の家賃千二百十円)、十畳洋間+三畳(千三百円)、六畳+六畳(千四百九十円)、八畳+六畳+三畳(千六百九十円)だった。勿論、内風呂はないし、大卒初任給三千円の時代には相当高額である。

    三月七日、GHQ経済顧問ドッジが「経済安定九原則」(ドッジライン)を発表した。ドッジは新自由主義経済の信奉者であり、日本経済は補助金とアメリカの支援という竹馬に乗った状態だとみていた。実施された大きな柱は下記である。

    ① 一般会計のみならず、特別会計、政府関係機関勘定を含めた総予算での超均衡予算

    ② すべての補助金の可視化及び廃止

    ③ 復興金融債券の発行と新規貸し出しの停止

    ④ 複数レート制を改正し、一ドル=三六〇円の為替レートの設定(四月二十五日実施)

    ⑤ 物資統制と価格統制の漸次廃止、自由競争の促進

    昭和二十年から二十四年までに、物価は約百倍になっており、目的はこのインフレ抑制だった。しかし、この結果デフレーションが進行し、失業や倒産が相次ぐ「ドッジ不況」(安定恐慌)が引き起こされた。国鉄、専売局が公社化され、人員整理が断行される。これに対する労組の反発が、この年の下山事件、三鷹事件、松川事件に大きな影響を及ぼすのである。

    三月二十九日、戦時中の統合で書籍取次を一手に握っていた日配(日本出版配給株式会社)が、過度経済力集中排除法によって閉鎖機関に指定され、活動を停止した。これをきっかけに日本出版販売(日販)、東京出版販売(現トーハン)が生まれた。


    だが日配が閉鎖されると決まると、同社への買掛金の支払いと相殺するために在庫を返品する書店が続出し、巨額の債権を持っていたはずの日配は、赤字になってしまう。日配は書店からの返品を出版社へ返し、出版社への買掛金を相殺した。資金的に余裕のない出版社は、返品を抱え、かつ日配からの支払いがなくなり、次々と倒産した。四九年一月には四五八一社あった出版社は、二年後の一九五〇年末には一八六九社と、半分以下になってしまう。数だけでいえば、六割の出版社が消え、戦後の出版ブームも、ここにあえなく終焉を迎えたのである。(中川右介『江戸川乱歩と横溝正史』)


    四月四日、団体等規制令が公布された。GHQの施策に反対する団体、戦前の軍国主義を呼号する団体、右翼団体、左翼団体、暴力団が規制対象団体となった。また在日本朝鮮人連盟、在日朝鮮民主青年同盟が規制対象団体に該当し、本令によって解散処分を受けた。共産党はまだこの時点では対象になっていないが、本来の趣旨は共産党に対する規制である。


    吉田はこの団体等規制令を公布するにあたって、ひそかに法律関係者に共産党員の活動をチェックする法案の立法化を練らせている。アメリカ議会内に設けられている非米活動委員会に似せて非日本活動調査委員会を国会内に設け。国会の場で反日的団体の調査を行うような画策も行った。しかし、これは法的にむずかしいという声と発布されてまもない憲法で保障されている「思想の自由」に反するのではないかとの声もあってあきらめざるをえなかった。

    こうした事実は、吉田の体質が単なるリベラルのそれではなく、むしろ「反共国家」という理念を徹底させるためには、少々の憲法逸脱もかまわないとの地肌をもっていることを示していた。共産主義の怖さを知らない日本人には、少々の荒療治は必要であるとの認識であった。(保阪正康『吉田茂――戦後日本の設計者』)


    同じ日、NATO(北大西洋条約機構)が成立した。設立時の加盟国はベルギー、カナダ、デンマーク、フランス、アイスランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポルトガル、イギリス、アメリカの十二ヶ国であった。対するワルシャワ条約機構は昭和三十年(一九五五)に生まれる。

    五月六日、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)成立。十月七日にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立する。


    五月三十一日、新制国立大学六十九校が各都道府県に設置された。旧制専門学校や旧制高校の看板を付け替えたものが殆どで、そのなかで教員養成課程は旧師範学校(中等学校)が昇格し、二階級特進とも言われた。秋田大学の例で言えば鉱山専門学校が鉱山学部、秋田師範が教員養成の学芸学部となった。これら地方大学を大宅壮一が「駅弁大学」と揶揄した。

    六月十一日、東京都が失業対策事業の日当を二百四十円と定めた。ニコヨンの語源である、と言っても既に死語になっているか。

    六月二十七日、ソ連からの引揚げが再開され、二千人を載せた高砂丸が舞鶴に入港した。このうち二百四十人が七月二日に共産党に入党した。ラーゲリにおける共産主義教育の影響である。三波春夫が帰還するのは九月で、三波自身もラーゲリでは共産主義に影響された『思想浪曲』を作って歌ったと証言している。このことが、「シベリア帰り」に対する偏見を生むことになる。

    そして反革命と断罪されて、罪人として強制収容された人たちの帰国はまだ先のことになる。内村剛介については先に記したが、石原吉郎もそうである。石原は昭和二十年十二月、ソ連軍に逮捕された。この冬から翌年にかけて死者が最も多く出た。二十四年、スパイ罪で有罪を宣告され、重労働二十五年の判決が下った。


    受刑者になると「捕虜」から「犯罪者」扱いに変わる。捕虜収容所(グプヴィ)から囚人収容所(グラーグ)に移されて待遇が悪化する。外国人を含む一般の受刑者(政治犯、刑事犯)にまじって、残忍なロシア・ヤクザの洗礼を受けることになる。

    最も過酷だったのは、短期抑留者が帰国したあと、孤独のうちに長期抑留されていたことだった。独りまたは数人の日本人として収容所や監獄に取り残された受刑者の胸中には孤独と将来への不安が重くのしかかった。(長勢了治「シベリア抑留」『昭和史講義 戦後篇』)


    石原の帰還が叶ったのはスターリンの死後、二十八年十二月一日であった。故郷に戻ると親類から、共産主義者でないことを証明しろと言われた。シベリア抑留の経験は死ぬまで石原の精神を蝕んだ。


    「シベリア帰り」は、それだけで差別された。彼に仕事を世話してくれたのは、「シベリア帰り」の人たちだけだった。(中略)

    現代日本では、石原吉郎らの異常な体験は斟酌されず、感謝もされなかった。詩表現はかれをいくぶんか癒し得たが、石原喜朗がシベリアから持ち帰った「虚」は、結局埋められなかった。「虚」が彼の内部をひそかに浸食しつづけながら時は流れた。(関川夏央『現代短歌の試み』)


    石原は詩人であるが、死んだ年に初めて短歌を発表したので、関川夏央は『現代短歌 そのこころみ』で取り上げた。晩年はアルコール依存症となり、昭和五十二年十一月十四日、六十二歳で自殺かと思えるように死んだ。


    石原吉郎の飲み方はこんなふうだった。

    仕事先から帰ると風呂に入り、コップで二杯の日本酒をつまみなしに飲む。そのあと九時には寝てしまう。しかし十分もすると起きてコップに二杯飲む。床に戻り、また十分後には起き上がってコップ一杯飲む。これを定量と石原吉郎は決めていた。

    もし、こういう複雑な手続きを踏まず、また予定より一杯でも多く飲んでしまえば、もう際限がなくなるという。

    ウイスキーの場合はわざとポケット瓶にする。一本では足りないので二本にする。だが二本では多すぎるから、「予備」を残さないためにあらかじめ二本目の半分は捨ててしまう。

    そういうきわどい自制が、当然のなりゆきというべきか、ついに効力を失い、肝臓障害とアルコール性神経炎があらわになった。(中略)

    なぜ現代詩人が晩年に至って短歌をつくったか。短歌には止んだ精神を吸引する力量があるのか。定型の不自由さのなかにこそ自由を見るのか。あるいは、遺書や辞世の文字にふさわしい本質的ななにものかを、短歌は内包しているということか。

    石原吉郎の場合、回帰と言うべきか逃避というべきか、私は答えを持たない。(関川夏央『現代短歌 そのこころみ』)


    この頃、ビヤホールの営業が再開した。半リットルジョッキが百三十円である。風太郎の日記を見ても、この年からビールを飲む記事が増えてくる。

    七月四日、国鉄はドッジラインに従って定員法に基づく人員整理(第一次三万七百人)、十二日には第二次六万三千人を発表した。労働組合の反対運動が激化した。

    七月五日「下山事件」(下山定則国鉄総裁が轢死体で発見)、七月十五日「三鷹事件」(三鷹駅で無人電車暴走、六人死亡)、八月十七日「松川事件」(東北本線で列車転覆、三人死亡)が相次いで起こった。警察は当初から、大量人員整理に反対した東芝松川工場労働組合と国鉄労働組合構成員の共同謀議による犯行と見て捜査を行い、三鷹事件では国労十人が逮捕、松川事件では国労・東芝労組の共産党員二十人が逮捕された。

    下山事件は自殺説、他殺説が対立したが、最終的には決着せず未解決に終わった。陰謀論説の好きな松本清張は『日本の黒い霧』で米軍諜報部隊の関与を主張した。

    三鷹事件は昭和二十六年の控訴審で、共産党員九名は無罪、非共産党員の竹内景助だけが有罪(死刑)となった。竹内は上告したが最高裁では口頭弁論が開かれないまま、昭和三十年六月二十二日に死刑判決が下された。竹内はその後も無罪を訴え続けたが、脳腫瘍で獄死した。現在、竹内の長男が最高裁に特別抗告中である。

    松川事件は最終的には昭和三十八年に全員無罪が確定した。この間、特に広津和郎が中心になって裁判闘争を支援し、三十三年、六十七歳の時には松川事件対策協議会の会長となった。広津の支援は六十歳から六十八歳まで八年に及ぶ。その間にマスコミから揶揄されたこともあった。

    GHQや警察が共産党を潰すためにでっちあげたという陰謀説が未だにあるが、むしろ予断による初動捜査のミスが、真相究明できなかった原因ではないか。昭和四十五年、元キャノン機関(在日米軍諜報機関)の協力者であった中島辰次郎が、真犯人であると告白したが、真偽は不明だ。


    四九年の夏、十万人の人員整理になすところなく敗退した国鉄労働組合の敗北は、戦後の労働運動の決定的な転換点となり、同時に日本共産党の路線の完全な破綻を曝露する結果となった。二・一ゼネスト以降、一進一退の形成をつくり出しながら、総体として後退をかさね、追い詰められてきていた産別会議傘下の労働運動は、ここにおいて文字通りの壊滅状態に陥って、その主導権は民同(民主化同盟=社会党系)・総評に移り、翌五〇年の総評結成に向かう旋回点を記すことになった。(安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』)


    これ以後、日本の労働運動は共産党系と社会党系との対立から、社会党主導の体制に変わっていくのである。


    この三つの事件は三つとも、真犯人はわからないままに終わった。そして、いずれも後味の悪いシコリをのこした。

    しかし、僕自身は後味が悪いというよりも、この三つの事件が相次いで起こった一と月あまりの期間そのものが、何ともいえず重苦しく憂鬱なものに思われた。戦後あたえられた言論と思想の自由がまやかしであることがハッキリしてきたのもこの頃からだ。それは僕にとっては、どうということはないはずだった。僕は元来、社会主義には期待を持ったことはなかったし、あたえられた自由というのは、それ自体が矛盾しているからだ。とはいうものの、この三つの不可解な事件が相次いで起こった一と月ばかりの間に、共産党の勢力が一気に凋落する模様を見せつけられると、僕はやはり鬱陶しくイラ立たしげなものを覚えずにはいられなかった。(安岡章太郎『僕の昭和史』)


    七月十九日、CIE顧問のウォルター・クロスビー・イールズが、新潟大学開学式で共産主義者の教授を排除するよう演説した。GHQが公然と反共を公表したはじめとされる。翌年にかけてイールズは約三十大学で同様の演説を繰り返す。これが教員のレッドパージに繋がっていく。

    憲法十九条に規定された「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」が、共産主義には適用されないことになったのである。アメリカ本国でも翌年からはマッカーシー旋風が吹き荒れる。

    相沢忠洋が群馬県の岩宿遺跡で旧石器を発見。当時、日本考古学の世界では、日本列島に石器時代はなかったとされ、相沢は孤独な活動を強いられた。専門家に何度も相談しても無視され、明治大学の院生芹沢長介(後、東北大学教授)に相談した結果、明治大学助教授の杉原荘介が、黒曜石製の両面調整尖頭器や小形石刃の重大性を認識し、発掘調査隊を組織して漸く確定する。しかし杉原荘介は手柄を独り占めした。芹沢は、発見者は相沢だと抗議したが揉み消された。芹沢が明治大学に職を求めず、東北大に行ったのはそれが原因だという。


    しかし、当時この重大な発見について、学界や報道では相沢の存在はほとんど無視された。明治大学編纂の発掘報告書でも、相沢の功績はいっさい無視され、単なる調査の斡旋者として扱い、代わりに旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した杉原荘介の功績として発表した。さらには、相沢に対して学界の一部や地元住民から売名・詐欺師など、事実に反する誹謗・中傷が加えられた。この頃の郷土史界は地元の富裕層(大地主、大商人、庄屋などいわゆる旦那衆)や知識層(教員、医師、役人など)などで構成されており、岩宿遺跡の存在する北関東も例外ではなかった。このため、これといった学歴も財産も有しない相沢の功績をねたみ、「行商人風情が」などと蔑視し、彼の功績を否定する向きもあったという。(ウィキペデイア「相沢忠洋」)


    平成十二年(二〇〇〇)に藤村新一の捏造が発覚し、これまで藤村が「発見」した前・中期旧石器は全て捏後期旧石器時代造だと判明した。この結果、日本で発見された旧石器は全て後期旧石器時代のものとされた。後期旧石器時代の始まりは約三万八千年前とされる。

    八月十六日、ロサンゼルスの全米水上選手権大会で、古橋広之進が一五〇〇メートル、八〇〇メートル、四〇〇メートル自由形で世界新記録を樹立した。「フジヤマのトビウオ」である。

    八月二十六日、シャウプ税制使節団が、シャウプ勧告を発表した。主な点は以下である。直接税主義で、「急激な累進的所得税」の採用、源泉徴収による税収強化。法人税は一律三十五パーセント、間接税は酒税などを除いて基本的に廃止する。


    『斜陽』にみられる没落感の現実的根拠が、作者の生家を襲った農地改革、財産税など占領下の戦後改革となんらかのつながりをもつものであったとすれば、華族や地主を没落させることによって可能になった「民主化」の動向を、もはや逆行を許さないところにまで引きずって行ったのが、昭和二十四年に来日したシャウプ税制使節団のいわゆる「シャウプ勧告」であったと思われる。(中略)

    ・・・・・問題を〝家〟の変容に限って考えても、「家督相続税」と「遺産相続税」とに二分されていた戦前の税制は、「家督」の廃止に伴って遺産の相続・贈与に統一された。そして戦前をはるかにしのぐ高税率によって、血縁共同体の経済的持続をいちじるしく抑制し、文字どおり〝一代かぎりの市民的家族〟に転換させていったのである。(磯田光一『戦後史の空間』)


    九月になると、教員へのレッドパージが始まり、約千七百人が追放された。十九日には人事院規則が制定され、公務員の政治活動が制限される。

    九月二十五日、ソ連が原爆保有を公表。十月一日、中華人民共和国が成立。七日にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、アメリカにとっては、日本の反共防波堤への道を急がなければならない。

    十一月一日、アメリカ国務省が「対日講和条件を検討中」と表明した。これに合わせて十一日、吉田首相が「単独講和にも応ずる」と表明し、全面講和か単独講和か、議論が沸騰する。全面講和を主張する南原茂を、吉田が「曲学阿世の徒」と呼んだのは翌二十五年のことだった。

    十一月三日、湯川秀樹が中間子論でノーベル物理学賞を受賞した。

    十日、『サザエさん』が『朝日新聞』夕刊で再開した。お年玉付き年賀はがきが初めて発売された。

    二十四日、闇金「光クラブ」の社長山崎晃嗣が青酸カリを飲んで自殺した。今では何の変哲もない、闇金の破綻によるものだが、山崎が現役の東大生であることから、アプレ・ゲール(après-guerre)の犯罪として大きな話題になった。当時の法定月利九パーセントのところ、山崎は一割三分の配当をしていたのだから、破綻するのは眼に見えていた。三島由紀夫『青の時代』のモデルである。

    プロ野球が二リーグに分裂し、十一月二十六日に太平洋野球連盟、十二月五日にセントラル野球連盟が結成された。

    十二月七日、国民党政府が台北を首都とすると発表した。


    谷崎潤一郎『細雪』、三島由紀夫『仮面の告白』、日本戦没学生手記編纂委員会『きけわだつみのこえ』、ミッチェル『風とともに去りぬ』、チャーチル『第二次大戦回顧録』、唐木順三『現代史の試み』。

    小津安二郎監督『晩春』、今井正監督『青い山脈』、黒澤明監督『野良犬』。洋画は『戦火のかなた』、『せむしの仔馬』、『大いなる幻影』。

    久保幸江『トンコ節』(西條八十作詞、古賀政男作曲)、藤山一郎『青い山脈』(西條八十作詞、‎服部良一作曲)、高峰秀子『銀座カンカン娘』(佐伯孝夫作詞、服部良一作曲)、藤山一郎『長崎の鐘』(サトウハチロー作詞、古関裕而作曲)、美空ひばり『悲しき口笛』(藤浦洸作詞、万城目正作曲)。

    倉金章介「あんみつ姫」(『少女』)、山川惣治「少年王者」(『おもしろブック』)、手塚治虫『大都会――メトロポリス』。


    乱世であった、しかし一方には『青い山脈』というようなものもあった。『青い山脈』という善意のカタマリみたいな映画は昭和二十四年度優秀映画(キネマ旬報)の第二位である(ちなみに一位が小津安二郎の『晩春』、三位が黒澤明の『野良犬』である)。若い三船敏郎と若い杉葉子というものがあった。

    ・・・・杉葉子は美人ではない(といってもいいと思う)。演技派でもない(といってもいいだろう)。しかし杉葉子には乱世における乱世ではない一方を代表させてよい何かがあった。清潔感と言うか、上昇気流と言うか、善意の個体というか、やさしさというか、それらをひっくるめたモヤモヤしたものを身体で表現し、代表していたように思われる。あの人には「今日も我等の夢を呼ぶ」と歌っても不思議でないなにかがあった。あの女優さんには、人の良い、疑いを知らぬ女学校の生徒という役割しか似合わないように思われた。あの時代には「演劇サークル」「文化サークル」「読書会」「社交ダンス講習会」「英会話研究会」というような集まりがやたらにあった。何かに縋りたい、勉強しなおしたい、遅れを取り戻したい、己を空しくして出直したいというような空気が、一方にあった。(山口瞳『江分利満氏の華麗な生活』)