元荒川散策編(越谷)   平成二十年七月二十六日(土)

投稿:   佐藤 眞人 氏     2008.07.29


 隊長がゴキブリ相手に足指を骨折したため、急遽あっちゃんがリーダーに指名された。十六日にダンディと二人で下見をしてコース設定をしてくれたから、ご苦労なことである。この夏、美女は忙しい。
 今日は初参加者が二人いる。一人は隊長の山岳会の友人で、小林建夫さん。隊長不在では参加するかどうか躊躇ったらしいが、反省会に隊長が登場するということで来てくれた。横浜在住だから、越谷までは大変だったろう。「この会は現役の人は多いんですか」現役というか六十歳未満の男は、本日五人参加している。「山はいま、高齢者ばっかりです」と小林さんが教えてくれる。
 もうひとりは、キクチチョウコさん。流離いのギター弾き、井上和尚が無理やり誘った。武蔵野線の新越谷駅で和尚の携帯電話が鳴り、「改札にいます」と言うのに全く姿が見えない。不思議なことに集合場所の越谷も通り過ぎて北越谷にいることが判明した。「昔から、そういう人やつなんですよ」と和尚がぼやく。このあたりは、新越谷、南越谷、越谷、北越谷とややこしいから、土地勘のない人は悩むだろう。ダンディや大川さんによれば、本来の中心地は北越谷である。
 「なぜか、北越谷って思い込んでいました」三鷹の住人で、河童伝説を持つ遠野物語の国のひとである。本日の参加者の中では最年少だ。
 東武伊勢崎線越谷駅には久し振りの人を含めて、二十五人の大部隊が集合した。和尚、宗匠、久し振りの大川、ツカさん、小野の中将、ロダン、一言居士、小林、チイさん、長老、モリオ、ダンディ、ドクトル、講釈師、シオ爺、私。阿部、あっちゃん、一柳、大橋、本荘小町、いとはん、堀内、村田、チョウコ。シオ爺は名簿を折角パウチして持っているのに、毎回、修正版をつくらなければならない。(ところで小野夫妻に初めて呼び名がついた。すみえ夫人はダンディによって本荘小町と命名された。それならば潔ご亭主は、深草の少将ならぬ、小野の中将である)「お父さん、大変なことになっちゃったね」
 暑い中をこんなに参加してくれるとは想定していなかったから、美女の用意した資料が足りなくなり、コピーのためにロダンがコンビニに走る。その間、残りの者は中央市民会館で待つことになった。十分もしてロダンが戻り、隊長が資料をセットする。資料は四枚あって、本日の見所を写真入で解説したもの(これは事前にメールで配布されていた)と、地図である。ロダン、宗匠、チイさん、私がそれぞれを手にして並び、それを順番に取ってもらう。そう言っているのに、三枚しか取っていかない人もいるからややこしい。

 市民会館の裏から出ようとしたところ、そこは駄目だと男から声がかかる。今日は越谷の花火大会で、要所々々に立ち入り禁止の縄が張ってある。役人の融通のなさはどうしようもない。花火大会なんか、今日の夜の話ではないか。仕方がないので横から出たが、実は通れなかったところに、キタミソウ生息地の説明板があったのだ。川沿いに見渡しても、水に潜っているのか、よく見えない。リーダーの資料によれば、キタミソウは非常に貴重なものである。本来北方種であり(北海道北見をその名にもつ)、この葛西用水で発見されたのが昭和二十五年、その後一時消滅したかに思われたが五十三年になって再発見されたという。十月から十二月にかけて発芽、開花、結実し、もういちど、今度は二月から四月にかけて同じく開花、結実する。今は水没、休眠の時期である。
 今左手に見ているのは元荒川ではなく、それと平行に流れる葛西用水である。川沿いの道には昼顔が咲いている。植物、鳥なんでも知らないもののない一言居士が、「これは混血児だよ」と教えてくれるのだが、教える相手がまずかった。私はそれが何と何との混血なのかを聞いていない。
 ダンディは源氏物語の夕顔を連想する。「佐藤さん、知りませんか」と言われても私は夕顔には縁がない。だいたい私は「源氏」は苦手なのだ。現代語訳でさえ、途中で挫折してまともに読み通したことがない。一言居士は「かんぴょうだよ」と一言で断言する。「干瓢ですか、なんだかがっかりしますね」瓢箪と夕顔は同一種らしい。だから、ユウガオの実を細長く帯状に剥いて干したものは干瓢と呼ばれる。
 葛西用水と元荒川の合流地点に架かるのが「しらこばと橋」だ。これを見てダンディは「トロイの木馬」のようだと言う。「下見のときに姫と話していたんですよ」言われてみれば、そんな風にも見える。宗匠はキリンのようだと言う。そう見えなくもないが、キリンよりはオデュッセウスの造った木馬を連想したほうが、教養ありそうに聞こえる。「残念」
 シラコバトは越谷市の鳥で、それをイメージしている筈なのだが、そう見るためには適当な角度というものがありそうだ。ところで、シラコバトというのは埼玉県民の鳥である。こんなこと、みんなは知っていただろうか。私は昭和六十二年以来、埼玉県民であるが初めて知った。それなら真面目に見ておかなければならない。前身が灰褐色で、キジバトより少し小さい。首の後に、白く縁どりされた細い黒帯がある。童謡「はとぽっぽ」の「ぽっぽ」はシラコバトの鳴き声をイメージしたものだそうだ。

 瓦曾根堰跡地。ここで関東平野の歴史地理のお浚いをしなければならない。埼玉県のページから抜粋する。
     江戸時代以前の関東平野は、合流や分流を繰り返し、氾濫する原始河川と、無数に点在する大小の沼を抱え、開発の手が及ばない大デルタ地帯でした。しかし、江戸に幕府が開かれてからは、穀倉地帯としてその姿を大きく変貌させていきました。これを可能にしたのは、戦国時代から発展してきた「関東流」(伊奈流ともいう)という土木技術です。徳川家康の家臣であった伊奈備前守忠次によりはじめられたこの技術は、その子忠治など伊奈氏一族に受け継がれ約二百年間をかけて、現在の関東平野を形作ったと言われています。(中略)
     関東流の特徴としてあげられるの)、越流堤や霞堤等による洪水の処理(一時的に河川を氾濫させることで、農地に肥沃な土砂を流入させ、また地区内に点在する沼や低湿地には土砂が流入するため、新田の開発を促進させた。)と、溜井による灌漑用水の確保(河川に堰を設け、上流からの排水を貯留し下流の用水として利用する)ことにある。(中略)
     利根川東遷により、古利根川となった川筋の流量が激減したため、羽生領川俣(現在の羽生市本川俣)の川口を整備し、用水の増加を図ったうえで、途中に堰を設けて溜井(ためい)とし、古利根川を用排水兼用水路として利用した。このとき整備された水路のうち、川俣から琵琶溜井までの水路区間は「葛西用水」と呼ばれています。
     古利根川の川筋には上流から、「琵琶溜井」、「松伏溜井」、「瓦曾根溜井」が配置され、溜井により用水が確保されたことで、周囲に広がる低湿地帯が水田化された。また旧河道の地形を利用して、上流からの排水を受け、更に下流の用水として利用する、関東流独自の反復利水システムが確立した。葛西用水や溜井は、その構造や規模は変わりましたが、現在も埼玉県東の水田へ、用水を供給し続けています。
     (http://www.pref.saitama.lg.jp/A06/BI00/nouson/suirityousei/2-1.html)
 これが、その瓦曾根溜井に水を確保するための堰跡であった。慶長年間(一五九六〜一六一五)に造られたというから、関が原を挟んだこの時期に、家康は着々と江戸の経営を行っていたのだ。
 芝生には、今夜の花火大会の場所を確保するため、シートを広げているひとがいる。陣地確保の意味で、ガムテープを知面に貼っているものもいる。花火大会は今夜七時からですよ。早すぎはしないか。
 「ぼろっちい橋を渡ります」リーダーの言葉は、この橋に対してちょっと失礼ではあるまいか。確かに人がすれ違うには狭い、幅一メートル程の橋で、欄干の上の金網は赤茶けた錆色になっている。こういう橋で必ず揺すりたがるのは講釈師だが、今日はおとなしい。今度は対岸をまた市民会館のほうに戻っていく。
 「ノコギリソウだよ」珍しく講釈師が指を差す。植物には興味がないのではないか。「俺だってちゃんと知ってるんだ。みんなみたいに公言しないだけだよ。能ある鷹だよ」小さなピンクの花の中心に、更に小さな白い花が密集しているようだ。それが十から十五六、一塊になっている。葉はモミの木のようで、確かにぎざぎざの切込みが深い。「これを鋸にみたてたんだ」キク科であり、学名は古代ギリシアの医師または『イーリアス』の英雄アキレウスに因るという。
 トマトのような色の実をつけているのはハマナスだ。「ハマナスって北海道だけじゃなかったんですか」どうやらチョウコさんはあまり植物が得意ではないな。実は私もそう思っていた。なにしろ、こんな歌があるのだから。
    知床の岬に はまなすの咲く頃
    思い出しておくれ 俺達のことを
    飲んで騒いで 丘に登れば
    遥か国後に 白夜は明ける(森繁久弥『知床旅情』)
 確かに北方種のようで、北海道に多いのは勿論だが、本州にも島根県を南端として咲くという。バラ科バラ属である。「もともとは浜梨だよ。東北弁でシがスになまったの」一言居士の言葉は東北人に対する侮蔑ではなかろうか。しかし、ウィキペディアにも確かにそう書いてあるから仕方がない。
    英語で「ジャパニーズ・ローズ(Japanese Rose)」また学名を直訳してRugosa Roseと言うことがある。「ハマナス」という名は、浜(海岸の砂地)に生え、ナシに形が似ている実を付けることからついた、「ハマナシ」という名がなまったものであって茄子に由来するものではない。
 これが、梨に似ているかね。果実の尻から、玉ねぎのように芽が飛び出しているような格好をしている。確かに、中学時代の国語の教師はシとスの区別がつかなかった。「親雀小雀」というのを、「オヤシズメ、コシズメ」と言っていたからな。こういう国語教師に教えられたから、私はイヤでも発音には気を使う。しかし、そういうことを言うなら、ヒとシを区別できない江戸人だっておかしいではないか。

  ?瑰や故郷の訛今は消へ  眞人

   「三猿庚申塔」をみる。民家のブロック塀の一部に、古い、表面は雨晒しにされて文字が全く分らなくなった石碑が据えてある。その横に、新しい石に刻まれた三猿のレリーフが置かれている。「平成九年 会田禮建之」。元荒川の水路跡で、会田家が代々管理してきた。
 「会田家はこの辺りの本陣を勤めた家柄です」ダンディはちゃんと調べてきている。私はうっかりしていたが、越谷は日光街道宿場であった。芭蕉は千住を出発して越谷、草加を通って第一日目は春日部に泊まったから、『おくの細道』には越谷の記事はない。それに草加と違って、越谷市は宿場町であったことをあまり売物にしようとは思っていないようだ。
 大通りに戻って「九千万円のトイレ」というところで、休憩を取る。花火大会の実行委員の男性に、「本当は四千五百万円でしょ」とか「実際には一千万円」とか、やかましく質問が飛び交っている。これも「ふるさと創生」であろうか。吉川駅前の金の鯰といい、この辺りの行政は何を考えているのだろうか。
 フランス料理店の前で、「この連中と別れて、二人でこの店で食事しようよ」と講釈師が某美女を一所懸命口説いているが、一言の下に却下されている。講釈師のこういう冗談についていくのはシンドイことだ。
 紫色の小さな花が固まりになって、長い茎の上に咲いているのはなんだろう。近所の家の前でいつも悩んでいたのだが、「アレチハナガサ」だと誰かが教えてくれた。(しかし、ネットで検索してみると、私の見た花とは随分違う。別のものだ)数年来の疑問が氷解するかと期待したのだが、実に残念であった。
 細長い白い花の真ん中が赤紫になっているのはヘクソカズラである。悪臭があるから名付けられたものだが、別にサオトメバナという名前も持っている。花は可憐だ。

 浅間神社には樹齢六百年というケヤキの古木がある。数人がかりで手を繋いでも届かない。最後にチョウコさんが入ってやっと輪が完成した。「お父さん、若い女性と手が繋げてよかったね」本荘小町が中将を冷やかす。
 五人だと誰かが言ったが、阿部さんはちゃんと数えていて「六人いましたよ」と首を傾げる。それならば、最後のチョウコさんの分を半分に数えて、五人半ということになろう。

  緑蔭や欅を繋ぐ五人半  眞人

 幹周り七メートル、樹高二十三メートルは越谷市では最も大きい。巨樹の好きな岳人がいたら感動したのではないか。
 「懸仏」の説明はあるが、中に納めてあるのだろう。見ることはできない。赤紫の穂のような花はオオケタデである。「ダテ?」「タデ。蓼食う虫も好き々きのタデです」あっちゃんが教えてくれる。
 久伊豆神社の鳥居の前には、丸太を縄でグルグル巻きにしたものが、両側の木に渡して括りつけてある。これは何であるか。鳥居の一種なのだろうか。
 一の鳥居を潜ると、ずいぶん長い参道が続いている。左手には、アリタキ植物園(兼コレクション展示)の庭があるが、まだ公開されていない。二の鳥居に入る前にひだりにそれて公園の芝生で食事を取ることになる。
 「早くビニール出せよ。遅いよ」イヤに偉そうに命令するのは、自分はシートを持参していない講釈師だ。芝生に六人のシートを繋げていつもの昼食場所が出来上がった。「弁当なんて、何年ぶりかな」モリオは奥方手作りの可愛らしい弁当箱を取り出す。私は今日はセブンイレブンのおにぎりと魚肉ソーセージだ。イトハンから胡瓜の漬物が提供される。向うのほうから一柳さんが持ってきてくれたのは、本荘小町が作った漬物だ。小町と中将はいつもように、二人だけで仲良くベンチに腰掛けて食べている。
 食べ終わればシオ爺は山田新聞(いつシオ爺新聞と名称変更するのだろうか)用の写真撮影に忙しい。「座り込んじゃうと、なかなか立ち上がれないわね」イトハンは、いつまでもビニールシートが恋しい。

 二の鳥居を潜って、自由行動の時間だ。「ここでリーダーに捨てられちゃ、分らなくなっちゃうよ」シオ爺の抗議にも、「講釈師は何でも知ってます。ダンディも下見に来てますから」と美女は冷たく言い放つ。
 池の方に入る前に、石碑の文字に悩んでいると、先に池の方にいっていたモリオが「ダンディが呼んでいる」と呼びに来た。みんなが立ち止まっているのは平田篤胤仮寓跡である。「秋田の人です」秋田高等学校校歌(土井晩翠)第三連に「篤胤信淵ふたつの巨霊生まれし秋田の土こそ薫れ」とある。平田篤胤、佐藤信淵のことだ。
 篤胤は本居宣長の弟子筋に当るが、妖怪や神隠しなど怪異なものへの関心も強かった。その独特な国学は、幕末の草莽に大きな影響を与え、島崎藤村『夜明け前』の青山半蔵が、平田流国学の信奉者であった。そして、一時は勢力を振るったこの流派が、やがて取り残されていくことになるのも、『夜明け前』に詳しい。神仏分離、廃仏毀釈を進めたのも、この一派である。「佐藤さんが嫌いなひとじゃないかって、下見の時にあっちゃんが言ってた」ダンディの言う通りだ。
 越谷吾山句碑の前で文字の確定に悩んでいると、ロダンガちゃんと説明板にあるのを指摘してくれた。「出る日は旅のころもやはつがすみ」
 「越谷で最も有名な俳人なのかい」ドクトルに聞かれても私には分らない。越谷市のページは、こんなことが書かれている。(おそらく誤字と思われるところは訂正した)
     越谷吾山は、越ヶ谷新町会田家の出身で享保二年(一七一七)の生まれです。若年より江戸などの文人と交流して俳諧に精進し、江戸へ出て芸道上の高い位である「法橋」に推挙されました。さらに安永四年(一七七五)には、方言学の祖と評価される諸国の方言を集大成させた『物類称呼』を刊行、その他数々の俳諧を著しました。天明七年十二月(一七一八)江戸で没し深川霊厳寺に葬られました。
「法橋」と言うのは、本来は僧の位階なのだが、絵師、仏師などにも与えられた称号のようだ。この記述だけでは良く分らない。実はこの人は越谷の名主会田家(さっき三猿庚申塔のところで出会った)の人であった。これを読めばもう少し偉い人だったように思える。
     会田吾山。秀真。越谷宿新町名主会田文之助の子。俳句と国学に優れ、滝沢馬琴の俳句の師匠でもあった。著書に『諸国方言物類呼称』があり、方言学の始祖といわれている。
      (http://www.age.jp/~nariyama/saitama/50/11.html)
 ただし、「物類呼称コショウ」または「物類称呼ショウコ」と記す記事があって、私には判定がつかない。日本民俗学の重要な業績が民俗語彙を収集することから始まったことを思えば、これは国語学とともに民俗学の始まりでもあるだろう。
 境内右奥には南洋神社鎮座跡地遥拝殿が建つ。日清日露大東亜戦争の記念とかいう看板が立っていて「大東亜戦争がでてきちゃったよ」と本荘小町が呆れ顔をする。南洋神社は日本帝国主義の南方進出の遺産で、パラオにあったものだ。土屋埼玉県前知事が遺骨収集団団長としてパラオを訪問していて交流が深かったことから建立が決まった。ということは、この正面を延長していくとパラオに辿り着く。二〇〇四年四月十一日の竣工奉祝祭にはパラオのトミー・レメンゲサウ大統領も出席した。
 朝鮮にも台湾にも、日本軍は神社を建てた。これはおかしいと普通の人は考える。しかし西欧の宣教師が全世界に教会を建てたことを、おかしいという人は少ない。神社の場合、国家が建設して、住民にその信仰を強制したことが問題になるのだが、このあたりは、厳密な検証を必要とするだろう。大航海時代におけるカトリシズムの果たした役割も考えなければならない。
 久伊豆神社は元荒川流域を中心に分布する。祭神はオオクニヌシである。とすれば、おそらく氷川神社とつながりが深いはずだ。創建は平安時代中期と推定される。
 弁天池には亀が泳ぐ。大量にいる。「だれかが放しちゃうんだ」

  べんてん池かめと水馬のいういうと 《快歩》

 鳥居の外にも吾山の句碑があって、ドクトルが読んでいる。この頃ドクトルが人文系の知識について関心を示すようになった。「そんなことはない。私は以前から造詣が深い。能ある鷹だよ」ドクトルまでが講釈師と同じことを言う。朱に交われば赤くなるか。講釈師の影響は恐ろしい。
 庚申塔の下に彫られた三猿の頭の形が妙に細長い。
 隣にあるのは天獄寺だ。浄土宗至登遍照院。表にある黒門には、四代住職が正親町天皇第三皇子であったことから菊の紋の徹鋲が許された。京都知恩院と直末の関係にあり、「別格」の称号がつけられている。参道を通れば今度は赤門がある。八脚二重門だ。天井と横木との間に蹲踞するような形で小さな人形が据えられている。「金太郎かな」「仁王だろうか」肩で屋根を支えているようにも見える。
 本殿の奥に、釈迦涅槃像がある。土足禁止だから、靴を脱いで階段を登り、窓ガラス越しに覗くと、確かに寝姿の釈迦像が箱に収まっている。「どこですか、よく見えない」「一番左がたぶん法然聖人で、その右に」「あっ、見えました」
 墓域には吾山の墓がある。宗匠、和尚が発見できず、モリオが見つけてきたらしい。私は見なかった。
 寺を出て、建長元年(一二四九)の年代を残す板碑を見る。高さ一五五センチ、幅五十六センチ。この大きさの板碑が、表面の梵字もそれほど摩滅せずに残っているのは珍しい。梵字がただ一つだけ彫られているものだ。「宗匠、資料を出して下さい」宗匠の持っている資料で確認すれば、これはキリーク(阿弥陀如来)である。阿部さんが感動したように宗匠を見つめる。
 建長元年と言えば、前年の宝治二年には、北条時頼が三浦一族を滅ぼして、北条得宗の地位を確立した頃だ。平安末期から源平時代を経て、鎌倉幕府内では様々な権力闘争が繰り広げられ、血で血を洗う時代がもう随分長い間続いていた。そういう時代背景をもとに、阿弥陀如来による極楽浄土を願う碑を考えてみると良いかもしれない。
 石は緑泥片岩である。石のことになればドクトルとロダンであるが、説明板に書かれているからロダンも呼ばれた甲斐がない。「考えなくっていいよ、ちゃんと書いてあるんだから」相変わらず講釈師の雑言が続く。
 越谷御殿跡。四町歩(約四ヘクタール)あったという。「普通の小学校の敷地が一ヘクタールですから、それが四つあったと思ってください」リーダーが説明すると、「建物面積はどうだったんだい」とドクトルが追求する。分らない。慶長九年、鷹狩りのための休息所として家康が建てたものだ。

 橋を渡ってもう一度戻り、ここから元荒川の土手を歩く。桜並木の緑陰が涼しい。「この桜並木は五十年ほどになる」越谷の住人である大川さんが断言する。それならば、ソメイヨシノの寿命からして、そろそろ植え替え時になるのではあるまいか。アスファルトを持ち上げて、根が地面を這っている。途中で、ロダンの好きな花が咲いている。タチアオイだ。
 薄赤紫のムクゲが咲いている。ところが誰かが芙蓉だとロダンに教えてしまったのだ。おかしい、これはムクゲではないか。「講釈師に教えなくちゃ」「そうだよ芙蓉だよ」と講釈師もいったんは頷いたものの、堀内さんが「ムクゲよ」と断言したので、講釈師の口が止まらない。「自信もって言うんじゃないよ」私と宗匠は最初からムクゲだと信じていた。

  芙蓉と木槿間違へロダン食はれけり 《快歩》

 和尚は青いタオルを畳んで頭に載せている。土手の途中でシオ爺が疲れてきた。チョウコさんのリュックを引っ張るから彼女の体が後ろにそっくり返ってしまう。イトハンの疲労も極に達したようなのを察して、リーダーが十分休憩を宣言する。「痒いよ、なんとかして」シオ爺が突然足を掻き始める。ズボンの裾を七分丈にして脛をむき出しにしているから、虫に食われたのだ。なんとかして、と言われても私は日焼け止めしか持っていない。「それじゃ駄目だよ」そこに草野一言居士が魔法の薬を取り出す。「米軍じゃ全員が持っている」本当かね。タイガーなんとか、という軟膏のようなものだ。「上海で売っている」
 その間に、ダンディ、チイさん、モリオが橋を渡って向こう岸の結婚式場に入っていった。連絡不手際で、リーダーにそれが伝わっていなかったから、戻ってきた三人は叱られてしまった。二十五人の団体を引き連れて歩くと、リーダーは細かなことにも神経を使わなければならない。三人はペットボトルを買いに行ったのだが、ついでに可愛い花嫁に見とれてきたらしい。「茶髪の男ばっかりいた」というのはモリオの報告だ。

  花嫁に見とれた後は姫の諫 《快歩》

 シキミの実を見るのは初めてだ。猫の足裏のような形ではないか。宗匠が辞書を引けば「悪しき実」の略である。猛毒があるという。「私はそんなに嫌いな臭いじゃないわ」阿部さんが言う。私も嗅いで見たが、芳香剤のようでもある。葬儀等に用いられるのは、次のような理由がある。御馴染みのウィキペディアである。
    ・古代にはサカキと同様に神事に用いられたといわれるが、その後仏事に用いるようになった。
    ・樒の実はもと天竺より来れり。本邦へは鑑真和上の請来なり。その形天竺無熱池の青蓮華に似たり、故に之を取りて仏に供す(『真俗仏事論』)
    ・一説によれば、毒性のあるこの植物を墓に供えることで、オオカミなどが墓を荒らすのを防いだのではないかという。
    ・シキミが常緑樹で特有の香気を持つ日本唯一の香木であることから、(日蓮宗では)常住不滅で清浄無垢である本尊を荘厳するに相応しいからとされる。
 文教大学の校舎を川の向うの左手に見て、土手を降りて街中に出ればあと少しだ。シオ爺も元気を取り戻す。「ビール呑みたいね」「うん」チョウコさんが力強く頷く。
 北越谷駅についたのは丁度三時だ。「計画通りなんですね」遠野の姫が感動する。駅前には盆踊りの部隊が設置されている。
 さくら水産があるのを確認して、「イタリアントマト」に入る。大勢だから無理ではないかと思われたが、分散すれば何とか収まった。缶ビール(発泡酒な)が三百八十円なり。ダンディがまた葉巻を取り出す。なかなか減らない葉巻だ。南越谷駅に到着した隊長と連絡を取り、無事に合流ができれば、そろそろ四時だ。盆踊りの舞台には提灯に灯が入り、踊りの練習を始めているようだ。浴衣姿の若い娘の姿も多くなった。飲まない人はここで別れ、のむ人はさくら水産に入る。総勢十六名になった。
 店長は「私ひとりで手が回らない」なんて、バカなことを言うから腹が立つ。客がいらないということか。畳敷きではなく、八人と四人、四人に分散して席についた。ビールが旨い。
 おにぎりと漬物を注文しなければ、リーダーの今日の疲労は解消しない。途中で席は入り乱れ、座りなおして別な人との話が弾む。注文はテーブル毎に、会計はぜんぶ纏めて、ひとり二千五百円也。
眞人