文字サイズ

    成田街道 其の一  亀有~新宿(にいじゅく)
      平成三十年十月十三日(土)

    投稿: 佐藤 眞人 氏   2018.10.26

    原稿は縦書きになっております。
    オリジナルの雰囲気でご覧になりたい方はこちらからダウンロードしてください。
       【書き下しオリジナルダウンロード】

     先週の土曜日はこころの初めての運動会だった。川越市的場の法城寺(曹洞宗)が経営するみよしの幼稚園である。年少、年中、年長組それぞれ六十人として、全部で百八十人もが狭い園庭で競技するのだから大変だ。出を待つ間、園児は寺の境内で待機している。それにしても今どきの女の子の大半は、後ろの髪を左右でお下げにし、顔立ちも似ているから発見するのが容易ではない。お下げに赤い紐を編み込んで目印の筈だったが、同じ格好をしているのは他にもいる。嫁の母親が「あれですよ」と指さしたのは違う女の子だった。
     十五メートル程の駆けっこでは三人中三着。玉入れでは玉を上に投げ上げることができない。余り運動神経の良い方ではないね。午前中は曇っていたが、昼前頃から晴れ上がって暑くなり、久し振りに日焼けした。
     昼になり観客席は狭いので、境内にある三芳野天神の前にシートを敷いて弁当を広げた。三芳野天神と言えば川越城本丸御殿にあって『通りゃんせ』に所縁のある神社だが、なぜこの的場にあるのか。寺伝によれば、中世になって一度は神体を川越城に移したが、「神慮が旧地を慕われたため、元和六年(一六二〇)に再びこの寺の境内に移した」としているのだ。「わらべ歌生れしと云う 三芳野の天神さまに ほそき道あり」の石碑が建っている。
     余計なことを書いてしまったが、あれが最後の暑さだったろうか。その後は確実に秋の気配が深まってきた。特に昨夜は寒く、毛布一枚だったので、二時頃目が覚めてからはなかなか寝られなかった。今日もかなり寒くなりそうだが、長袖シャツにベストを着てみた。
     今回から成田街道シリーズが始まる。幕府の公式呼称では佐倉街道とするが、成田山への参詣ルートだから一般には成田街道と呼ばれた。水戸街道新宿から分岐するルートの他、日本橋から船で行徳に上陸し、そこから成田に向かう方法もあった。芭蕉も一茶も行徳から歩いた。
     亀有は初めての土地だ。本来の「下町」ではなく、近郊農村地帯であったろう。基礎知識をウィキペディアから引いておかなければならない。

    江戸時代は水戸黄門像が立地する場所に水戸街道の一里塚が置かれるなど、交通の要衝だったが、大部分は明治になってもひなびた農村だった。(中略)一九一九年に日本紙器製造(→日本紙業→日本大昭和板紙)亀有工場が、一九三八年には日立製作所亀有工場が進出するなど、大正以降、特に関東大震災以降に工業地域として発展した。(中略)
    第二次世界大戦では被害がほとんどなかったため、戦後は都心部から人口が流入し、急速に住宅地化が進んだ。特に江東区、墨田区、台東区、荒川区などからの流入が多く、下町の気風はこの地に移転したかの観がある。これは葛飾区全体に言えることである。(ウィキペディア「亀有」より)

     池袋から山手線で西日暮里に出て、常磐線我孫子行に乗り換える。南千住、北千住、綾瀬と過ぎて亀有駅には十一分で着いた。もっと遠いかと思っていたのに意外に近い。改札口を出ると珍しい女性の姿が見える。「久し振りじゃないの。」チロリンとペコチャンだった。「田舎から出てくると分らなくって」とペコちゃんが謙遜するが、川越線だから我が家とそれほど離れているわけでもない。ロダンと桃太郎の姿は見えない。「体調が悪いそうですよ。」「働き過ぎなんだよ。」
     あんみつ姫、椿姫、チロリン、ペコちゃん、ハイジ、マリー、若旦那、講釈師、ダンディ、ヨッシー、マリオ、スナフキン、蜻蛉。今日は十三人である。あんみつ姫はガラケーを泣く泣くスマホに買い替えたばかりだ。「なんだか、いろんなものをダウンロードしろって言ってくるんですよ。」「機種は?」「ドコモです。」「ガラケーは私たちだけになっちゃったのかしら?」ロダンもスマホになったし、「若者」の中ではハイジと私だけだろう。
     「今日は北口から出発して南口に戻ってきます。南口にもあるんですが、最初は北口で両さんを見てください。」両さんとは言うまでもなく秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の両津勘吉である。左手をズボンのポケットに突っ込み、右手を挙げる金色の像だ。中国人らしい観光客がカメラを構えている。「スリッパ履いてるじゃないの?」スリッパと言うより木製のサンダルではなかったか。マリオとは三歳しか違わないのに、マンガには殆ど興味を持たなかったようだ。「階級章が二本あるから平の巡査ではない?」「巡査長だったかな。」
     「『マガジン』だったか?」「違う。『ジャンプ』だよ。最初は山止たつひこ名義だったんだ。」「そうだった。なんだか胡散臭かったよな。」今日のメンバーでこんなことを知っているのは私とスナフキンだけだろう。ロダンは『男おいどん』だけだったか。
     最初の筆名の山止たつひこは、山上たつひこのもじりである。山上は昭和四十五年(一九七〇)の近未来SFの傑作『光る風』(「少年マガジン」連載)の後、「少年サンデー」に発表した『旅立て!ひらりん』の失敗(たぶん前衛的過ぎて理解されなかった)で少年漫画の世界から一時消えた。その間に『喜劇新思想大系』で過激なギャグマンガ家として再生し、昭和四十九年(一九七四)、その毒を少し薄めて「少年チャンピオン」に『がきデカ』で再登場して爆発的な人気を得た。
     その時点で私は『喜劇新思想大系』を知らなかったから、『光る風』との余りの落差に驚いた。しかし呉智英『現代マンガの全体像』は、山上は「日本マンガ史上、ブラックユーモア作品を初めて本格的に描き始めた作家」であり、「公理の頂上まで登りつめて行った者の、分水嶺を越えた降下」だと評価する。それは人間性なるものへの決定的な挑発である。
     秋本がその名前をもじったのは山上へのオマージュに他ならないだろうが、それにしては、『こち亀』は画風も思想も全く違う泥臭いマンガで、四十年も続くなんて全く予想もできなかった。本人も周囲も短期連載で終わると思っていただろうが、意外に高い人気を得てしまって、ペンネームを本名の秋本治に変えたのだ。
     「読んでたの?」とハイジに訊かれた。しかし読んでいたのは昭和五十一年(一九七六)の連載開始のごく初期で(その頃、「少年ジャンプ」は想定読者の年齢層をかなり低くしたので、ジャンプを見なくなった)、後に子供たちがアニメを見るようになってから時々テレビを見ただけだ。つまり余り良い読者ではない。
     それにしても昭和五十一年と言えば私はサラリーマンになって三年目である。「ジャンプ」は読まなくなっても他のマンガ雑誌は読んでいたのだから、余り仕事はしていなかったらしい。新宿駅の階段をマンガ雑誌を読みながら降りているのを上司に見られて叱責されたこともある。
     このマンガの功績は亀有の地名を日本中に広めたことだろう。それまで葛飾と言えば、寅さんの柴又帝釈天しか知られていなかったのではないか。駅の北口、南口の他に、亀有駅周辺には中川(大財閥の御曹司で巡査)、本田(気弱な白バイ隊員)、麗子(大企業の社長令嬢、金髪・ミニスカートの巡査)などの登場人物の像もあちこちに設置されている。
     クールジャパンと称して、日本政府はアニメを世界に売り出そうとしているが、しかしマンガが日本文化のある部分を確実に代表していた時代は既に終わった。ネット上の無料閲覧が拡大して、もはやマンガ雑誌は生きていける状態ではない。すべてが無料になった時、作家はどうやって生きていくのだろうか。マンガだけの話ではない。インターネットの時代において、小説も含めた創作活動は生き延びていくことができるのかという問題になってくる。

     常磐線に沿って東に向かい、環状七号線を渡れば見性寺(曹洞宗)に着く。葛飾区亀有五丁目五十四番二十五号。白塗りの鐘楼の前に宝篋塔が建っている。通常の宝篋印塔と異なるのは、屋蓋が宝形屋根の形をしていることか。「これって、ホウキョウトウって読むんですか?」「訊くまでもないだろう。そこにフリガナが振ってるじゃないか。」本日最初の講釈師の罵言である。「そこまで見えないんだもの。」
     鐘楼の前には「第二 迦諾迦伐蹉(かなかばしゃ)尊者」の座像があった。「第二だよ?」「こっちに第一がある。」第一は賓度羅跋羅堕闍(びんどらばらだじゃ)尊者。通称おびんづるである。そうか、これは阿羅漢なのだ。鐘楼の周りを巡ってみると十六羅漢が並んでいた。釈迦の命により、この世に長くいて正法を守り、衆生を導く使命を与えられた十六人である。
     「子規の句碑がある筈なんですが?」姫の言葉で探してみるが、いくつかある石碑の文字は全く読めない。「これですね」と最後にヨッシーや講釈師が発見したのは、細長い先のとがった石碑だった。裏面に「明治三十二年九月子規先生在根岸云々」の文字があるからこれに違いない。

      病苦
     林檎くふて牡丹の前に死なん哉  子規

     句碑裏面の文字が読めないので、何故この句碑がこの寺に建てられたのか分らない。明治三十二年の夏頃から子規は座ることもできなくなり、その後の二年半を寝たきりで過ごすようになる。リンゴは知人からの到来ものだろうが、食い意地の張った子規は、そのリンゴを妹の律には分けず、自分一人で独占したに違いない。「盗みくふ林檎に腹をいためけり」もある。
     同じ年の新年に「初暦五月の中に死ぬ日あり」の句があって、その頃から死が身近に迫っているのを感じているが、実際に死んだのは三十五年九月十七日である。
     寺を出て路地に入れば、「ここは川だったんだな」と誰かの声が聞こえた。明らかに農業用水が暗渠になったような道だ。葛西用水(曳舟川、亀有上水とも呼ばれた)の跡かも知れない。
     環七に出て常磐線の下を潜ると、左手に大きなショッピングモール「アリオ」が広がっている。キーテナントはイトーヨーカドーだ。日本板紙(現・日本製紙)亀有工場の跡地で、工場は平成十五年(二〇〇三)三月に閉鎖された。金町には三菱製紙中川工場があった。「そこは、東京理科大学になってるよ。」理科大の葛飾キャンパスはそれだったか。「昔は廃水を全部川に流してたんだよな。」昭和三十年代、浦安で問題になった「黒い水」も、本州製紙浦安工場の廃水だった。「田子の浦もそうだよ。」
     アリオの駐輪場の前を通り過ぎて香取神社に入る。葛飾区亀有三丁目四十二番二十四号。姫はすぐに鳥居は潜らずに、少し回り込んで神社の端の玄恵井の碑を見に行く。境内の一部が工事中ですぐそばには寄れないが、塀に「玄恵井の碑」と「亀形瓦一対」の解説板が掲げられている。つまり碑の存在を説明するものだが、肝心の屋代弘賢筆と言う碑はここにない。後で調べると社務所の横の木戸を入った所にあるらしい。ただそこも工事中だから、今は見ることができないだろう。
     亀有には良い井戸がなかった。幕府の鳥見役(鷹場の管理人)だった水谷又助が願い出て、山崎玄恵という老人の指示で鳥見屋敷内に清水の湧く井戸を掘り当てたと書いてある。井戸は亀有二丁目の鳥見屋敷跡(現在は個人の家で、今でもきれいな水が出るという)にあるそうだ。
     亀形瓦一対というのは、旧社殿の棟の両側にあったものらしい。今は葛飾区「郷土と天文の博物館」に保管されている。その博物館には姫の案内で行ったことがあるが、そんなことはすっかり忘れている。解説の中に、亀有は昔「亀無」であったと記されているのが、皆の関心を引く。梨の実が「ありの実」と呼ばれることもあるように、江戸の庶民は語呂合わせとゲンかつぎで生きているのである。

     この地域はかつて亀無・亀梨(かめなし)と呼ばれていた。応永五年(一三九八年)の「下総国葛西御厨注文」で「亀無」、永禄二年(一五五九年)の「小田原衆所領役帳」で「亀梨」の表記が見られる。この名は、低湿地帯の中に「亀」の甲羅の形を「成す」土地だからということで付けられたといわれている。
     この地名は「無し」に通じて縁起が悪いとされ、江戸時代初期(一六四四年頃)に正保国絵図を作成する為の報告書提出の際、現在の名に改められた。(ウィキペディア「亀有」より)

     正面に戻ると、石造大鳥居の前に狛犬の代わりに鎮座するのは、長い首を伸ばした阿吽の亀である。「コマガメって言っちゃいけないのね?」「そうです。」七五三の家族が数組、写真を撮っている。

     鎌倉時代建治二年八月十九日(西暦一二七六年)、当時亀有の地は下総国葛西御厨亀無村と呼ばれ、香取大神宮の神領地であったことから本宮の御分霊(経津主大神)をお迎えし村の鎮守様としてお祀りされました。その後、鹿島(武甕槌大神)・息栖 (岐大神)の両大神を合わせおまつりし、東国三社の三社明神のお社として村人・近隣の人々を守り続け、約七百四十年の時を経て現在に至ります。(御由来)

     椿姫の言い方を借りれば、ここは香取神宮の支店ということになる。息栖神社(いきすじんじゃ)の岐大神と言うのは知らなかった。水戸人のロダンなら知っているだろうか。岐はクナド、フナドとも読む。「分岐」から想像できるように村の境界、川の境界、街道の分岐点を守る神であり、巷の神、塞ノ神、道祖神と同一だろう。道案内の神としてフツヌシ、タケミカヅチの東国平定の際に先導役をしたとされる。
     ピラカンサスが真っ赤な実をつけている。本殿脇に回ると、塀際に「民謡之碑」と「郷土古唄 中川お船唄の碑」があった。「これを見なくちゃダメですよ」と、あんみつ姫が椿姫を呼ぶ。来週、民謡の会があるようで、碑に向かって一所懸命手を合わせるのがおかしい。
     「あそこに両さんが。」工事の柵で近寄れない。「そこから見られますね。」スナフキンは両津勘吉を描いた絵馬を買った。不思議な趣味である。キャプテン翼の絵馬があるのは理由が分らない(知らなかったが南葛飾を舞台にしているらしい)。境内に洋菓子店があるのは珍しいだろう。
     光明寺、明王院には寄らない。亀有病院の裏手の路地を行き、曲った所に「亀有上宿商店会」の碑が建っている。側面にあるのは「是より」だけだ。「おかしいよな。」都道四六七号線(千住新宿町線)に出て宇田川金物店の前で、あんみつ姫が「懐かしいですね」と声を挙げる。「こういうお店で何でも買いましたよ。」ここには「こち亀」の本田巡査の像が建っている。「これも登場人物ですか?」普段は気が弱くておどおどしているが、白バイに跨った瞬間、人間性が激変する。暴走族より怖い警官だ。
     「旧水戸街道亀有上宿」の石柱がたつ。亀有宿と言うのが実際にあったのかどうかは良く分らない。公式には中川を渡った新宿(ニイジュク)が、千住宿から一つ目の宿場とされているのだ。次の宿場は松戸である。
     中川橋まで行ったところで、いったんアリオまで戻って、少し早めの昼食になる。イトーヨーカドーの一階がフードコートになっていて、好きなものを選んで食べろと言うのが姫の指令である。「三階にはレストランもあります。一時間後にここに戻ってきてください。」「今が十一時五分だから。」「十二時五分ということで。」
     この時間なのに結構混んでいる。讃岐うどんは余り食指が動かない。焼きそばもどうもね。リンガーハットには生ビールもあったので、スナフキンと私は長崎ちゃんぽんにした。姫とマリーも並んでいる。注文するとポケットベルが渡される仕組みだ。取り敢えずビールを先に貰って、席を探そうとすると、女性陣が席を作ってくれていた。そのテーブルに、既にちらし寿司と蕎麦のセットのトレーが置かれているのは誰のものだろう。「椿姫ですよ。」その彼女がなかなか戻って来ない。「タバコでも吸いに行ってるんじゃないか?」当たっていた。
     ビールを半分程飲んだところでベルが鳴りだした。これをもって店に行くと注文品が渡されるのだ。ハイジの讃岐うどん(丸亀製麺)についた搔き揚げがやたらに大きい。しかしハイジは体に似合わず健啖家だ。あんみつ姫は野菜たっぷりのちゃんぽんで、なかなか麺にまでたどり着けないでいる。「アーッ、やっと辿り着いたわ。」椿姫がようやく戻って来た。ヨッシーが大ぶりのタコ焼き(築地銀だこ)を買ってきて分けてくれるが、かなり腹が膨れている。折角だから二個食べたがもう入らない。
     外に出て喫煙所を探したが見つからない。カートを整理しているオジサンに訊いてみると、「最近は大変だよね」と言いながら、店内の二階にあると教えてくれた。「エスカレーターを上がって右だから。」有難い。席に戻ると椿姫の姿がない。煙草を吸いに行ったのだろう。のんびりしているうち定刻になった。「腹が重いよ」とスナフキンがこぼす。たこ焼きを四個食べたと言う。「だってみんなが食べないから、勿体ないじゃないか。」一人離れていたマリオは焼きそばを食べたそうだ。

     中川橋だ。「渡し場があったんですが、今はその形跡もありません」とあんみつ姫が残念そうに言う。かつては新宿の渡しと呼んだ。「その手前のオレンジ色のお家、あれが渡し船の家でした。」椿姫はこの辺には随分詳しいらしい。「オジサンがこの辺に住んでたんですよ。しょっちゅう遊びに来てたの。」しかし渡し船が廃止されたのは明治十七年のことである。渡し船ではなく、釣宿のようなものではないだろうか。

     かつて、水戸街道の千住宿と松戸宿の間のこの地には、新宿の渡しがあったが、新宿町と亀有村の両民が建設資金を拠出して一八八四年(明治十七年)十二月に明治天皇の行幸に合わせて仮橋が完成した際、廃止された。翌年、新しく架け替えられた橋では通行料が取られ賃取橋とも呼ばれた。
     二代目の橋は、一九三三年(昭和八年)十月に鋼橋が架設されたが、老朽化、交通量の増大に対応するため、車道の拡幅などを行う架替工事が、一九九三年(平成五年)に着工され、用地買収の関係で一九九五年(平成七年)度頃より工事が中断する時期があったが、二〇〇〇年(平成十二年)度工事が再開され、事業費二十八億円をかけた末、二〇〇八年(平成二十年)三月十日六時、一般開放された。(ウィキペディア「中川橋」より)

     通行料を取る橋だったので、常磐線の駅建設計画が持ち上がった時、通行料が減るのを恐れて地元民は反対した。そのために駅は亀有に造られたと言う。
     「シンジュクじゃないんだね。」「ニイジュクとよむのは珍しいよ。」「川越にはアラジュクがあるよ。」いずれにしても新しく開かれた宿場と言う意味だろうが、一説に新居(にいひ)郷の宿場だからとも言う。

     江戸から来て中川を渡って現在の中川橋東詰から屈曲して南下する筋が、江戸側から上宿・中宿、日枝神社付近で屈曲して東に向う筋が下宿と、大きく三つにわけられている。小規模な宿場町で、本陣は置かれなかったとされる。(ウィキペディア「新宿・水戸街道」)

     橋を渡った辺りに船着き場のようなものが造られている。北詰の袂には、旧親柱を立てたポケットパークがある。そこにタブノキが、根元から五十センチほどの高さで切断され、中が空洞のまま保存されている。
     川沿いに北に向かう。日枝神社の看板はあるがそこは後回しにして、最初は西念寺(浄土宗)に入る。葛飾区新宿二丁目四番十三号。「生簀守の墓があるんですよ。」墓地に行けばすぐに小さな堂に石碑が六基並んでいる。左の二基が生簀守の墓で表面が剥落して何も分らない。次の舟形浮彫の像が観音だそうで(これも全く分らない)、矢作藤左衛門供養碑である。矢作家は、鷹狩りに来た将軍に鯉を献上するための生簀を管理していたのである。
     右の三基は解(とき)念仏供養塔と呼ばれるものだ。聖観音、八臂観音(享保七年)、地蔵である。解(斎)念仏とは昼食前に念仏を唱える講だと言うが私には全く知識がない。駐車場の塀際に柿が生っている。
     寺を出て戻る。「矢作クリニックだ。」「あの矢作家の一族だろうね。」その隣が宗教法人日枝神社の経営になる山王保育園だ。門の中に立つ像は「郷土の先覚者中島守利先生」である。どうせ政治家だろうと当たりを着けると、やはり新宿町長、衆議院議員を勤めた人物であった。「柚子かしら?」柚子にしては大きい。普通のミカンではないだろうか。
     その脇の細道から入る。黒板を貼った古い二階家は、板が破れて中の土壁を覗かせている。そして日枝神社だ。葛飾区新宿二丁目一番十七号。

     創建年代不詳。以前は宿場町だった新宿の鎮守社。武蔵風土記によれば、元禄時代は山王大権現と称し、現在地より西方に位置したが、享保十四年に中川改修工事に伴い現在地に遷る。御祭神の別名は山末大主神で、比叡山の守護神とされる。(御由緒)

     石造明神鳥居の奥には朱塗りの山王鳥居が建つ。手水舎で瓢箪から水を出しているのは猿だ。「みなさん、お猿さんですよ。」猿は山王神の使いである。「日枝神社の総本社はどこにあるか知ってる?」関西人はあらゆるものの本家が関西にあると自慢したいのだ。日枝は比叡である。つまり滋賀県大津市坂本の日吉大社である。「駄洒落なのか?」祭神の大山咋神(おおやまくひのかみ)は日枝山の地主神であった。

     ・・・・・大山咋神、亦の名は山末之大主神(やますゑのおほぬしのかみ)。この神は近つ淡海国(あふみのくに)の日枝の山に坐し、また葛野(かづぬ)の松尾(まつのを)に坐して鳴鏑(なりかぶら)を用つ神ぞ。(古事記「大年神の神裔」)

     日枝山を後に比叡山と書いたのである。伝教大師最澄が比叡山に天台宗を開いた時、天台山の鎮守「地主山王元弼真君」に因んで、地主神を山王神と呼んだ。つまりこの神は天台宗と密接につながる神である。また日吉も古くはヒエと読んだ。日吉、日枝、山王は全て同じ神を言う。
     中世神話はまた別の説を語る。悠久の昔から、小比叡の杉の下の寒風の嶽に住み着いていたのが地主神である。天智天皇の時代に大和の三輪明神が鎮座地を求めてやって来たので場所を譲った。三輪明神は大比叡明神(大宮権現)となり、地主神は小比叡明神(二宮権現)となった。しかし二宮も世界創造の初めから比叡山にいたわけではない。「一切衆生悉有仏性」と唱える波に揺られて、天竺から日本に渡来した神であった(山本ひろ子『中世神話』より)。神仏習合はこんな神話を必要としたのだ。
     「イチョウがある筈なんです。」本殿の裏で、入ってはいけない場所に立っているのがそれらしい。目通り三・二五メートル、樹高十九・五メートル。
     神社を出ると、入って来た道とは打って変わって、国道六号線(水戸街道)が通る賑やかな場所に出た。雰囲気がまるで違う。中川沿いの土手を歩く。中川には水上バイクが何艘も水煙を上げて走っている。少し雨が落ちてきて折りたたみ傘を広げたが、椿姫はタオルを頭に巻いた。「傘は?」「持ってこなかったのよ。」「東京を歩くのにタオルなんか巻くんじゃないよ。田舎者だと思われる。」相変わらずの講釈師だが、ここは殆ど田舎ではなかろうか。しかしその雨もすぐに止んだ。

     初しぐれ姉様かぶりを叱られて  蜻蛉

     住所表示が高砂になった。小さな工場やアパートが並ぶ路地の道端にコンクリート・ブロック造の小さな祠があった。石仏が何基か並んでいるのだが、その右端のものが、角柱三猿浮彫道標である。葛飾区高砂六丁目十三番二十七号。塀際だから左側面は見えないが、正面上部と右側面上部に猿が浮き彫りされているから、左側面にも猿がいるのだろうと推測できる。
     「この字は?さくらって書いてるのかな。」かなり摩耗が激しいから道標の文字がよく判別できない。正面に「これより右ハ 下川原村 さくら海道」、右面には「これより左 下の割への道」とあるらしい。元禄六年(一六九三)の銘をもつ。
     「さくら海道」とは佐倉街道のことである。明治の頃まで、街道は普通に「海道」と表記されたことは、以前日光街道を歩いて調べている。「下河原村」は新宿町の小字名、「下の割」は東葛飾領の南の地域(現在の江戸川区)を言うようだ。
     そして青龍神社に入る。葛飾区高砂六丁目一六八一番地。「こんなところに?」狭い参道に入ると左手にはスイレンの池が広がっている。「葉が多すぎるよ。」岸にはセイタカアワダチソウも生えている。なんだか臭い。スイレンの尽きる所には、薄紫の花が見える。「あの花は?」「ホテイアオイですね。」私は初めて見たが、姫は「きれいだけど外来種の危険な花です」と断言する。

     花が美しい水草なので、日本には明治時代に観賞用に持ち込まれた。路地での金魚飼育などの場合、夏の日陰を作るのによく、またその根が金魚の産卵用に使えるので便利である。水面に浮かぶので、水槽での栽培には用いられない。
     世界の熱帯・亜熱帯域に帰化し、日本では、本州中部以南のあちこちで野生化している。寒さに弱く、冬はほとんど枯れるのだが、一部の株がわずかに生き延びれば、翌年には再び大繁殖する。繁殖力が強く、肥料分の多い水域では、あっという間に水面を覆い尽くし、水の流れを滞らせ、水上輸送の妨げとなり、また漁業にも影響を与えるなど日本のみならず世界中で問題となっていて、「青い悪魔」と呼ばれ恐れられている。冬季に大量に生じる枯死植物体も、腐敗して環境に悪影響を与える。さらに、水面を覆い尽くすことから、在来の水草を競争で排除する事態や水生動物への影響も懸念される。また、アレロパシーも有する。(ウィキペディア「ホテイアオイ」より)

     石の台の上に小さな祠があるだけの神社で由緒は分らないが、これだけの沼に面しているのだから水神を祀ったものだろう。葛飾区観光協会によれば、大昔、中川が決壊してできた池である。

     後に水の神を祀る榛名神社の分霊を勧請し、池のほとりに青龍神社を建立。白ヘビは神様の使いと崇められた。雨乞いの神事が行われるなど、水を司る神聖な場所として、現在でもパワースポット的存在。水辺の憩い空間としても貴重!

     パワースポットと言う言葉はやめにしないか。この言葉も日本人の知性、精神の衰弱に関連しているだろう。
     「おしっこしたくなっちゃったな。」「そこにトイレがあるよ。」スナフキンの言葉で振り返ると、確かに小さなトイレがあった、嬉しい。さっきのビールが効いているのである。
     神社を出て、京成電鉄金町線の踏切を越える。「単線なんだね。」「まっすぐね。」右手には京成本線が見える。高砂小橋で中川を渡って、西詰の袂にあるヨークマートでトイレ休憩だ。皆がベンチで休んでいる間にヨッシーは蜜柑を大量に買った。後で休憩の時に配ってくれるのだろう。二十分程休憩して出発する。
     道路を渡ると住所表示が青戸二丁目になった。「アオトって、この字だっけ?」私の記憶では青砥だと思う。「京成線の駅は青砥ですよ、砥石のト」とマリオも言うから記憶は間違っていない。そちらの方が元々の地名かと思ったが、しかし本来の地名は青戸であった。「戸」は江戸、松戸、水戸などでも分かるように、渡し場・船着場・埠頭を意味する。それが駅名で青砥になるのは、後で行く葛西城が青砥藤綱の館だったと伝えられることによる。
     青砥藤綱と言えば、川で十文を落とし、それを探すのに五十文で人足を雇って松明をかざした人物である。人に嘲られると、十文と言えども失えば天下の損失、自分の支払った五十文は天下に流通する。天下のためを思えば合わせて六十文の利は大きいと答えた。北条時頼の時代に幕府引付衆(または評定衆)に取り立てられた。『太平記』が最初に語り、西鶴が『武家義理物語』で書いたから、江戸時代には武士の鑑とされていたのだろう。更に太宰治が『新釈諸国噺』で喜劇に仕立てた。
     一番下の「道」だけが読み取れる道標が建っていた。「全く分らないね。」無量山法問寺。浄土宗。葛飾区青戸六丁目十六番二十号。山門の鉄格子の扉には五三の桐の寺紋が取り付けられている。

     当寺は無量山光明院法問寺と称し、永禄二年(一五五九)穏蓮社安誉虎角上人により創建されました。ちなみに四年前の一五五五年弘治元年には川中島の合戦があり、翌年の一五六〇年永禄三年には桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破っています。室町時代の中後期にあたります。当初は現在地より約百メートル東南に在りましたが、江戸時代の後期に中川開墾により現在地に移っています。
     開山安誉虎角上人は天文八年(一五三九)甲斐府中(甲府)に生まれ、代々武田家の家臣であったが武田家滅亡により上総国(千葉)に移り住みました。十三歳の時、道誉貞杷上人(増上寺九世)の門に入り増上寺出仕、学僧として宗学の研鑚に励みました。虎角の名は彼が浄土教だけでなく禅にも通じていたため、人々が浄土教を通じて禅に達することは虎の角を戴けるがごとくと称讃したことによります。虎角上人は十六年間在住していましたが天正二年師僧貞杷上人のあとをつぎ千葉大巖寺の二世となり同寺の発展に力を尽くしました。室町末期の関東の学僧として著名です。著作も多く、後の檀林教学に大きな影響を与えています。(由来)

     門前に「施餓鬼音楽法要」の碑が建っているのが珍しい。文化三年(一八〇六)施餓鬼音楽法要を行った記念として建立されたものである。ただ裏面に寛政八年(一七九一)とあるのがどういう関係なのか分らない。この寺の音楽法要とはどんなものかも詳細が記されていないが、他の寺のいくつかの例を見ると、太鼓や雅楽を伴奏に経を大合唱するものらしい。
     墓地に入って中島辰猪の墓を見る。「名前に見覚えがあるな。」スナフキンが言うのは馬場辰猪のことではないか。「そうだ、辰猪だからてっきりそっちを思い出してしまった。」馬場辰猪の墓は谷中墓地で弟の孤蝶と並んでいた筈だ。
     「この人、知っていますか?」知らなかった。解説を読むと、無産者診療所の所長として、また全額国庫負担の健康保険制度の確立に尽力した医師である。

     無産者診療所は、天皇制政府の圧政のもと、治安維持法による激しい弾圧を受け、一九四一年、新潟・五泉の無産者診療所を最後に幕を閉じました。医者にかかるのは死亡診断書を書いてもらうときだけという時代、「医療は万人のもの!」という信念のもとに無産者医療運動に身を投じることは、死をも覚悟する闘いだったのです。事実、中島医師はある集会で検束された直後に虫垂炎を発病、高熱が続いたすえに多発性肝臓膿傷で死亡します。奇しくも小林多喜二と同じ二十九歳という若さでした。・・・・・
     中島辰猪は一九〇四(明治三十七)年、大分県宇佐郡八幡村(現・宇佐市)に生まれ、旧制宇佐中学から旧制五高に進み、千葉医専に入学。「医者になるのは、病院にかかれないような人を助けるためだ」と、いつも母親に言っていたそうです。一九三〇年に千葉医専を卒業し、同愛記念病院の耳鼻科に勤務。同年、「青砥無産者診療所」(葛飾区)が開設、藤原豊次郎医師の推挙で中島医師が所長になります。青砥が手狭になったため一九三一年に亀有に移転し「亀有無産者診療所」を開設、やはり所長として診療と運動に邁進します。三十一年秋、千葉北部無産者診療所に常勤医として赴任。この地域は新潟・木崎村の小作争議に劣らず小作争議が活発で、「赤化村」として集中攻撃されていました。中島医師が狙われないわけがありません。三十一年十一月に検束され、前述の病気で三十二年二月に死亡します。(協同組合医療と福祉「中島辰猪医師没後八十年記念集会開催」)
    http://www.yuiyuidori.net/iryou-fukusi/kumiaiho/2012/107/107_01_02.html

     無産者診療所の開設をきっかけに日本無産者医療同盟が結成され、現在はその後身の全日本民主医療機関連合会が活動を続けている。当然のことながら日本共産党とも縁が深い。左翼と言う言葉は殆ど死語となり、社会主義は省みられることもなくなったが、その出発点にはヒューマニズムがあることだけは忘れてならないだろう。私が堺枯川や荒畑寒村等の明治社会主義を評価するのはその一点だ。
     民医連によれば、無産者診療所の開設は、昭和四年(一九二九)の山本宣治暗殺事件がきっかけだという。治安維持法改悪に反対して「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。「山宣一人孤塁を守る。だが僕は淋しくない。背後には多くの大衆が支持しているから。」

     無産者医療運動は、当時の国会でただ一人、治安維持法改悪に反対した山本宣治代議士の暗殺が大きな契機でした。大栗医師は、「労働者農民の病院を作れ!」とのアピールを起草。アピールは、労働者農民が失業と貧困、無知のどん底にあり、医療から閉め出されていると指摘。労働者農民自身の医療機関が必要だと訴えました。この運動は全国に広がり、一病院、二三診療所が誕生。しかし一九四一年までに特高警察の弾圧ですべてが閉鎖。この年、日本は太平洋戦争に 突入しました。(「民医連新聞」二〇一三年九月十六日)
    https://www.min-iren.gr.jp/?p=16706

     寺を出て塀際に回り込むと小さな地蔵堂に三体の地蔵が立っている。と言っても明らかに地蔵と分るのは真ん中のほぼ無傷なものと、右の頭の欠けたもので、左の像は石が融解して何とも分らない不思議な形になったものだ。「これは砂岩ですよね。」今日は、石を鑑定するのは椿姫の役目である。「そうです、砂岩です。」柔らかくて細工をするのは簡単だが、崩壊しやすいのである。「幽霊みたいだな。」
     「あれが慈恵医科大ですよ。」中川沿いに慈恵会医大の葛飾診療センターが建っていた。何人かが遅れ気味になる。少し北に行くと、環七で分断されたように東西に小さな公園が分れている。「ここが葛飾城の跡です。こちら側は何もないので、向こうに渡りましょう。」環七を横断して葛飾城址公園に入り休憩する。
     今年の五月に姫の案内で小菅から堀切を歩いた時、「葛飾郷土と天文の博物館」で葛飾城跡のパンフレットを貰ってきていたので実は期待していたのだが、本当に何も残っていない。

     葛西城の築かれている地形は、中川西岸に形成された、三百~四百メートルの幅で南北方向に伸びる標高二メートル前後の微高地で、東側に流れる中川を東の備えとし、西側に水田あるいは湿地帯が広がっている、自然地形をうまく活用した縄張りになっています。
     葛西城の本丸を取り巻く中核部分は、北は国道六号線の北側にある宝持院付近から、南は慈恵会医科大学葛飾医療センター付近におよぶ範囲と想定されます。さらに城下の範囲は広がり、北側は旧水戸佐倉街道付近、南側は京成電鉄線路付近、そして対岸の葛西新宿、これらの地域を含んだ区域と考えられます。

     博物館では、おそらく享徳三年(一四五四)頃、山内上杉氏によって築城されたと推定している。但し、もともとは平安末期から鎌倉初期、葛西御厨を領していた秩父平氏の葛西清重の館だったとの説もある。一時千葉実胤が入城したと言われるが、大半の時代は上杉氏の家臣の大石氏が城を守った。古河公方の勢力下にある下総との境界であり、重要拠点である。しかし十六世紀中頃には、小田原北条氏の下総への最前線基地となる。ここを足場にして国府台合戦が戦われたのである。
     先にも書いたが、鎌倉時代には青砥藤綱の居館であったと言う伝説もある。また江戸時代には将軍鷹狩りの休憩所にもなって御殿が造られ、青戸御殿と称された。
     ヨッシーがミカンを配り、女性陣からは各種の煎餅やお菓子が配られる。チロリンは「甘いのはダメなんだよね」といつものように言う。「俺は腹いっぱいだよ」とスナフキンが音を上げる。
     「さあ、出発しましょうか。」「お姉さん、タバコが下に落ちてますぜ。」椿姫はさっきもタバコの箱を落としていたのだ。二時半だ。環七が国道六号線(水戸街道)と交差する青戸八丁目交差点を水戸街道に入る。そして延命寺だ。葛飾区八丁目二十四番二十九号。門には「摩怛梨天」と刻まれている。ここは真言宗豊山派。長久山地蔵院と号す。

     延命寺(新義真言宗・長久山地蔵院延命寺)の開創は嘉応元年(一一六九年)。平清盛が権勢を振るいはじめた平安時代から八百年以上続く古刹です。
     葛飾区でも土着の寺として五本の指に入ります。地蔵菩薩を本尊に、摩怛梨天(三面大黒)を祀り、古くから「やくじん(疫神)さま」と呼ばれ、親しまれてきました。これは鎌倉時代に葛西城(青戸御殿)を領した青砥左右衛門尉藤綱が摩怛梨天(俗称・青砥疫神)を守護神としていた伝説(葛西城の東北の鬼門に延命寺が位置するために青砥藤綱が置いたという説もあり)や、町内に疫病が流行ると疫神様の神輿を担いだ史実などに由来します。

     「事件が発生しました。」遅れてきた五六人の中で、講釈師が手を押さえながらやって来た。血が出ている。取り敢えず水で洗ってみると、指の股が大きく擦り剝けていた。切れているかも知れない。転んだのだ。あんみつ姫がガーゼをだし、傷絆創膏で抑えるがすぐに真っ赤になる。「血が止まらないとヤバイんだ。救急車を呼んでくれよ。」講釈師は血がサラサラになる薬を服用していて血が固まりにくい。また別に持病があるので血が止まらないと危険なのだそうだ。
     姫が庫裡に入って救急車を頼んだ。ちょうど業者が荷物を配達に来たのと重なってしまって、お互いに遠慮しあったが、親切にすぐに救急車を呼んでくれた。講釈師はふらふら歩きまわっている。「そこの玄関に座らせてもらいなさいよ。」「手は上にあげなくちゃダメよ。」
     十五分程して救急車がやって来た。若旦那が一緒に乗り込む。救急隊員が問診してから病院を決める。それにはまだ時間がかかりそうで、決まったら姫の携帯電話に教えてくれることになった。
     この事件のお蔭で境内をゆっくり観察する暇がなく、二十一仏庚申塔というものがあるらしいが見られなかった。稚児地蔵尊、地蔵が両脇に二人の子供を従えた像がある。
     さて難しいのは摩怛梨天である。事典によれば閻魔大王の姉妹の七母天であり、また大黒天とも習合し三面大黒の形をとるとされる。摩怛利神とも表記され、摩多羅神とも習合した。山本ひろ子『異神』によれば、本来は別の神であった摩多羅神は新羅明神や赤山明神などと同様、大陸または朝鮮半島から渡来した神とされる。それなら類似の神に牛頭天王もいる。何しろ中世神話に登場する(つまり密教によって新しく作られた神々)は様々な顔を持っているので分り難い。同書から何か所か引用してみる。「摩怛利神法」と「摩怛利神記」の冒頭の記述から。

     梵語で「摩怛利」とは「母」(本母・元母)の意味だから、七摩怛利は「七母天」と漢訳される。・・・・・
     七母天は黒色の女鬼(『大日経疏』)と形容されている。また『大日経義釈』は焔魔天の「姉妹」の「七母」とし、七つの名前=真言を示した。
     一方、『理趣経』にちらりと登場する七母天を、大黒天の眷属とみなしたのは『理趣釈』である。

     摩怛利神法という修法では、中央に三面六臂の恐ろしい像容の大黒天をおき、周囲に七母天と梵天(母)を配置する曼荼羅を掲げるという。大黒天もまた様々に変成する謎の多い神で、その全貌は彌永信美『大黒天変相』に詳細に語られている。何しろ七百ページ近い大部の本(定価一万五千百二十円)だから要約なんかできないが、取り敢えず三面大黒は通常考えられている福神とは違って、恐怖と破壊の神マハーカーラ(シヴァの別名)と同一神でもあるとだけ言っておこう。
     救急車はまだ動かないが、取り敢えず連絡を待つことにして、お坊さんにお礼を言って寺を出る。お寺のお坊さんも、万一のために連絡先をくれと言うので、私の名刺を渡した。名刺を持っているのは私しかいないのだ。「それでは私も」と戴いたのは副住職の名刺である。
     環七に出れば薬王山宝持院真頂寺だ。葛飾区青戸八丁目十八番十八号。真言宗豊山派。天養二年(一一四五)の創建と言うから、延命寺よりも更に古い。

     天文七年(一五三八)国府台の合戦の兵火によって焼失し、一時荒廃に帰したが、慶長十六年(一六一一)春盛法印が再興した。当時は七堂伽藍を加えた大寺院であったという。慶安元年(一六四八)、寺領五石の朱印状を下され、近郷三十ヵ寺の本寺であり、宗派では葛西三ヵ寺の一に数えられていた。宝暦六年(一七五六)十一月の火災と数回にわたる水害のため、多くの寺宝を失ったという。(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)

     ここでは松浦(まつら)河内守信正の墓を見る。直径四十センチ程の太鼓型の墓である。生前に造ったものという。その隣に卵塔や、蓮華台に宝珠を載せた形の墓石もあるのは一族のものだろう。松浦氏は下小合村の領主である。信正は駿府町奉行、大阪町奉行、御勘定奉行、長崎奉行などを歴任したから優秀な官僚だっただろう。
     

     元文二年(一七三七)の要職に抜擢された。ところが、長崎在勤中、納米について幕府へ偽りの報告をした罪で、閉門を命ぜられ小普請入りとなった。
     信正はその後罪をゆるされ、晩年は官を辞し、領地葛飾郡下小合村に一寺を建立、信正院と名づけ余生を送ったが、明和六年(一七六九)五月一日、七十四歳で生涯を閉じた。

     橋本家(橋本材木店)のゴヨウマツは、敷地の奥にありそうだが入口の柵が閉じられて見られない。解説板の存在は分ったが、入れないのでは仕方がない。かつて六本あった松だが、カスリーン台風の水害で枯死し、一本だけが残ったものだと言う。ヨッシーが頻りに入口を探してくれるが無理だ。ゴヨウマツがそんなに珍しいものとは知らなかった。
     「亀青小学校だってさ。」「亀有と青戸が合併したのかな?」「青があるんだから、赤白もあるんじゃないの?」私たちは無学であった。明治二十二年(一八八九)の町村制施行に伴って、青戸村全域、亀有村の大部分、砂原村の大部分が合併して亀青村になっていた。
     そして亀青小学校は、明治五年(一八七二)学制発布と共に宝持院内に育幼社として開校したのを創始とする、葛飾区内最古の小学校であった。卒業生に秋本治、武井壮がいる。
     姫に電話がかかって来たらしい。「救急隊員もケイタイでしょうかね?」「そうだと思うよ。」姫はまだ操作が上手くできない。いったん切れた電話にかけなおすと、やはり救急隊からの電話で、当初慈恵会医科大学に向かうはずだったが、亀有病院に落ち着いたと言うことだ。
     やがてアリオが見えてきた。椿姫やチロリンはかなり疲れているようだが、折角だから光明寺に入ってみた。しかし、見るべきものは何もなかった。
     駅南口には青い制服の両津、黄の縦縞の制服(!)の中川、ピンクの制服(!)の麗子像。「写真を撮ってくださいね。」今日は一万八千歩。十キロちょっとになった。「直線距離だと七キロ位なんですけどね。」

     まっすぐ帰る人と別れて、飲まなければならない者は居酒屋に向かう。椿姫は疲れたからと帰って行った。スナフキンが亀有駅周辺の人気居酒屋を数軒調べてきている。「だけど、ここは四時から、こっちは四時半からだからな。」今は三時五十分。「一心水産」の前で十分ほど待つ。「あそこに焼き鳥屋があるよ。」「あそこはイマイチなんだ。」この向かいの辺りにも金色の麗子像があった。
     あんみつ姫、マリー、ヨッシー、マリオ、スナフキン、蜻蛉の六人だ。一心水産はなかなか良い居酒屋だった。「だから、調べてきたんだからさ。」タッチパネルなんかないし、テーブルに呼び鈴もない。声をかければすぐに店員がやって来るから気持ちが良い。
     ビールを注文し、漬物は「今漬かっています。後三十分ほどかかります」と言うので予約した。そこにファーブルから電話が入った。「今どこ?」「つくば。これから行っていいかな?」一時間ほどで来るだろう。刺身三点盛を二つ、それにアラ煮大根。
     今日は遅ればせながら、ヨッシーの傘寿のお祝を兼ねている。今日もミカンを戴いたように、いつも気を配ってくれる人である。本当は五月にやらなければいけなかったのだ。
     「お刺身が美味しい。」「きれいだよね。」焼酎は黒霧島にした。一刻者より千円も安いのだ。やがてファーブルが到着した。学会の発表を終えてきたのである。「懇親会とかなかったのか?」「なかった。それにこっちの方が楽しいし。」ファーブルはアラ煮が好きだ。マリオはかなり眠そうだ。適当に飲んでお開き。追加して飲み残した黒霧島の瓶は持ち帰りしろと言うのも有り難い(ちょうどお湯割り一杯分だった)。
     「もう一軒いいだろう?」私はかなり眠い。ヨッシーとマリオは帰って行った。次は「八兵衛」だ。この店も感じが良い。ここではホッピーにする。以前から、黒と白の瓶が全く同じなのでどう区別するのか訊いてみた。出てくるときには既に外されているのだが、蓋にちゃんと書いてあったのだ。隣の席の客も興味深そうに聞いている。私はナカを一杯お代わりしただけで結構酔ってしまった。

     講釈師は大事なく無事に帰宅したということだ。

    蜻蛉