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    成田街道 其の二 柴又~菅野
      平成三十年十二月八日(土)

    投稿: 佐藤 眞人 氏   2018.12.23

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     改正入管法、改正水道法と強硬採決を連発する安倍政権を見れば、もはやこの国に三権分立は失われたと観念しなければならない。辺野古については、沖縄県民の意思は予想通り徹底的に無視されている。日米安保条約は日本国憲法よりも上位に位置し、この国は未だ独立国ではないことを、改めて認識しておく必要がある。
     安倍晋三はどこまで国民を愚弄し続けるのか。そして安倍政権を誕生させた国民はいつまで騙され続けるのだろうか。何故日本人は怒らないのだろう。日本だけでない。グローバル金融資本主義と新自由主義は世界をめちゃくちゃにした。どこにも出口は見つけられず、世界中に閉塞感とニヒリズムが蔓延している。
     今週前半は季節外れの暖かさに驚かされたが、今日は寒くなる予報が出ている。旧暦十一月二日。大雪の初候「閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)」。「閉塞」の文字がこれほど似合う時代はなかった。未来が見えないのである。否応なく石川啄木の『時代閉塞の現状』を連想してしまう。大逆事件の直後に書かれたもので、啄木は金にだらしのない性格破綻者だったが、文明批評家として一流だった。

    ・・・・・今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその自身の力を独りで持余しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞」の結果なのである。

     成田街道からはちょっと逸れるが、今回のスタートは柴又である。「ヤアヤア、ドーモドーモ。」山手線を日暮里で降りた所でロダンと一緒になった。京成線のホームで九時十一分発の各駅停車に乗ろうとした時、後ろから肩を叩かれた。スナフキンとファーブルだ。「この後の急行がいいんじゃないか?」急行を待つよりこの各駅停車の方が高砂には早く着く。「早すぎてもなア。」とにかく各駅停車に飛び乗った。
     スナフキンは昨日、「五日市憲法草案ゆかりの地を巡る」コースに参加して、その時の資料や写真を持ってきてくれた。八月の江戸歩き番外編「町田散策(武相荘と自由民権資料館)」に参加した人は深沢権八の名前を憶えているだろうか。その深沢家土蔵や五日市勧農学校跡を巡る十キロ程度の散策コースになっているので、いつかスナフキンが企画してくれるだろう。「サインを貰って来たよ。」講師が『五日市憲法』(岩波新書)の著者新井勝紘だったので、そのサインを見せてくれる。
     京成高砂で金町線に乗り換え、柴又には九時三十九分に到着した。早過ぎた訳ではなくもうかなりの人数が待っている。私たちとは別のグループや、個人で待ち合わせをしている人、揃いのベストを着たボランティアの観光案内人もいる。柴又は人気の観光地なのだ。定刻までに集まったのはあんみつ姫、イッチャン、ハイジ、マリー、ヨッシー、講釈師、マリオ、スナフキン、ファーブル、ロダン、桃太郎、蜻蛉の十二人だ。
     桃太郎は風邪気味だと大きなマスクをつけている。講釈師は手の甲を二ヶ所三針縫ったと、前回の事故の顛末をヨッシーに何度も語っている。「いきなりズボンをつかまれちゃったからさ。避けようがなかったんだ。」
     イッチャンは随分久し振りだ。「そんなことないだろう、日光街道には参加してたじゃないか?」講釈師は口を尖らせるが、日光街道を歩いた時からはもう二三年経つし、その後青梅街道も歩いているではないか。しかしつい最近だと思うのも無理はないか。私だって、つい最近だと思っていたことが、実は五年も前だったなんてことは良くある。
     「さくらがさ、寅と見つめ合ってるだろう?ホームの寅を見送ってるんだよ。」「さくらさんの像は最初からあったの?」「前はなかった。一二年前じゃないか。」調べてみるとさくら像ができたのは去年の三月のことである。それなら私がさくらの像を見たのはいつだったのだろう。「あんまり似てないわね。」「除幕式には山田監督と倍賞千恵子も来たんだよ。」柴又が全国的な名所になったのは、何と言っても『男はつらいよ』シリーズの功績である。

     小林俊一プロデューサーは、初め、豊島区雑司が谷の鬼子母神付近のくすんだ町も候補に上っていたと語るが、山田洋次と小林は、最終的に、東京の東の端にある葛飾柴又を舞台に選んだ。柴又は近くの江戸川の向こうが千葉県という〈辺境の町〉である。
     ぼくは東京の下町の生まれだが、柴又というと、〈はるかに遠い世界〉という気がする。ぼくの感覚では、柴又を下町とは呼び難い。
     これが山田洋次の戦略だったと思う。彼はいままで慎重に、〈古めかしい人情の残っていそうな〉小都市、田舎町を舞台にしてきた。東京のどこかを舞台にしたとたんに、彼の創造する世界が虚構であるのが露呈しただろう。
     垢抜けない東京近郊の帝釈天の門前町・柴又は、ドラマの中では別な世界になる。東京の外れに残る田舎――しかし、ひょっとしたら、まだ〈粋〉といった感覚のかけらが残っているかも知れない世界である。(小林信彦『おかしな男 渥美清』)

     世間一般では柴又を下町と呼んで不思議に思わないだろう。しかし小林は江戸時代から九代続く日本橋の老舗和菓子屋の長男として、昭和七年に生まれた、謂わば下町原人だから、「下町」の定義にはとりわけ煩い。今や下町、山の手の定義はグチャグチャになってしまった。私も、荻窪辺りを山の手と言われて愕然としたことがある。山手線の西側が山の手だと思っている人もいるのだ。
     「晴れるって言ってたのに、曇っているのよね。」イッチャンは真冬でも大丈夫そうな、かなり暖かそうな恰好をしているが、それでも寒いだろうか。平年の十二月と比べればまだそれほど寒い訳でもないが、暖かい日が続いたので寒く感じられるのだ。
     帝釈天参道は賑わっている。レーサースーツにヘルメットをかぶった若者が五六人、団子を食いながらはしゃいでいる。「ちょっと寄っていいですか?」姫は漬物店に入って行く。「この参道には戻って来ますか?」「戻らないでしょう。」「それなら買っておかなくちゃ」とヨッシーは通り過ぎた草団子屋に戻り、何人かがついて行った。
     その間にファーブルはイナゴの佃煮を買った。柴又でイナゴとは、やはりこの辺りが農村地帯であったことを示しているだろう。「うちは虫を扱ってる会社なのに、若い社員でイナゴを食ったことがないっていうのがいるんだ。教えてやるために。」イナゴの佃煮なんて、私だって子供の頃に食った記憶があるだけだ。
     姫は刻み生姜の味噌漬けを買って来た。「美味しいんですよ。生姜は体が温まるし。」我が家では味噌漬けではなく醤油漬けが常備菜になっている。「ほかの人たちは?」まだ草団子で止まっている。「草団子なら高木屋が有名よね。」「それしか知らないわ。」ハイジとマリーは詳しいようだが、私は「とらや」に入ったことがある。「甘いものはダメなのに?」「団子は食わずにビールを飲んだ。」私が団子を食う筈がない。「タコ社長の印刷工場がその裏にあるんだよ。」「アラ、そうなの?」素直なイッチャンを騙してはいけない。
     草団子組も戻って来た。「今日の昼は川甚だな。」「講釈師が奢ってくれるならね。」川甚は創業二百二十年の老舗である。ランチの鰻重定食は、並が三千三百円、上が三千九百円、特上が五千七百円となっている。参道にある川千家(これも創業二百五十年の老舗である)のメニューを見ると、梅が三千百円、松が三千六百円、竹が四千五百円と少し安い。江戸近郊の農村地帯にこれだけの老舗があったのは、帝釈天への参詣者が多かったためだろう。
     そして帝釈天に着いた。「来たことありましたか?」ロダンだって来ているだろう。私自身は三度目になる。正式には経栄山題経寺、寛永六年(一六二九)、中山法華経寺十九世の禅那院日忠の開創になる日蓮宗の寺院である。何故か庚申信仰と結び付き、庚申の日が帝釈天の縁日とされる。その理由が分らないのは癪なので帝釈天縁起を見ると、こんな伝説のためである。庚申信仰が盛んだったので、それを利用して人を集めるための創作ではないか。

    板本尊の出現
     当山には昔より日蓮聖人御親刻と言われる帝釈天のご本尊が安置されていたが、江戸中期の一時所在不明となっていた。安永年間に至り当山の第九代亨貞院日敬(こうていいんにちきょう)上人は此の寺のお堂が荒廃したのを歎き、その復興を計ったところ、安永八年(一七七九)の春、本堂改修中の梁上にこのご本尊を見出し、ついにご本尊の再来の法悦にあったのである。その吉日が庚申に当たったことが、当山と庚申の結縁の始まりになったのである。

     二天門には南方守護の増長天、西方守護の広目天が安置されている。「ゲン公がさ、いつもここで掃除してるだろう?」東方守護の持国天、北方守護の多聞天は、帝釈堂で帝釈天の脇士として立っているそうだ。

     明治二十九年、江戸期建築の最後の名匠と言われた、坂田留吉棟梁によって造りあげられた、総欅造りの豪壮な門である。日光東照宮の陽明門を模したと言われ、桝組は、三手先、扇タルキの見事な出来映えは、この寺の建造物の中でも、ひときわ優れている。この二天像は、奈良大安寺にあった往古の文化財と伝えられ、奈良時代の造像。(柴又帝釈天HPより)

     「彫刻ギャラリーを見る人はいますか?」法華経の説話を題材にした彫刻群が帝釈堂の周囲に施してあるのだが、四百円の拝観料を払ってまで見ようというのは誰もいない。貧乏人の集団で、これでは「川甚」で食事なんて思いもよらない。「外からだって見えるからさ。」しかし外側はガラスで仕切られてしまっていて、光が反射して良く見えない。「前はなかったんじゃないか?」なかったと思うが、記憶は曖昧だ。無料で見せるわけにはいかないと言うことだろう。
     帝釈堂前の瑞竜の松がたいしたものだ。朝顔型の青銅水鉢を支えるのは三人の唐子だ。隅の植え込みの中に、細長い石柱の上の台に三猿がいる。「高すぎて写真が撮りにくいじゃないか。」帝釈天と三猿の関係は庚申信仰によるのだろう。黒御影石の歌碑もある。「これって秋櫻子ですか?」歌碑の読みにくい署名をロダンが読んだ。「秋」の文字が潰れかかって分り難い。

     木々ぬらし石うかちつひに春の海  秋櫻子

     歌集『葛飾』がある通り、水原秋櫻子は葛飾を愛した人である。この歌碑は秋櫻子の一周忌を迎える昭和五十七年(一九八二)に建てられた。それにしても秋櫻子の歌碑は多い。
     尾崎士郎「人生劇場 青春立志の碑」もある。『人生劇場』は、青成瓢吉が早稲田に入学した辺りまでは読んだ記憶があるが、すっかり忘れてしまった。これに倣った五木寛之『青春の門』があるが、やはり途中で諦めた。何しろ完結まで二十五年もかかったのだ。尾崎の小説より、佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲の歌謡曲の、特に第三連「時世時節は変わろとままよ/吉良の仁吉は男じゃないか/俺も生きたや仁吉のように」の方が好きなのは、時代についていけないからだ。
     しかし碑文は、五十歳で授かった長男・俵士への遺書だから、「人生劇場 青春立志の碑」という題字はおかしい。その脇に内閣総理大臣竹下登書とあるのは、この碑文を竹下が書いたということだろうか。

    遺す言葉
    死生、命ありだ。くよくよすることは一つもない。お前も父の血をうけついでいるのだから、心は弱く、涙にもろいかも知れぬが、人生に対する抵抗力だけは持っているだろう。あとは、千変万化。運命の神様はときどき妙な、いたずらをする。しかし、そこで、くじけるな。くじけたら最後だ。堂々とゆけ。よしんば、中道にして倒れたところで、いいではないか。永生は人間にゆるされてはいない。父は地獄へゆくか極楽へゆくか知らぬが、見ろよ、高い山から谷底見れば瓜やなすびの花ざかりだ。父は爛々たる目を輝かして、大地の底から、お前の前途を見まもっていてやるぞ。

     これは昭和三十二年(一九五七)十二月に書かれた。尾崎は昭和三十九年(一九六四)に六十六歳で死ぬのだから遺書としては早過ぎる気もするが、その頃病気を患っていたらしい。文壇酒徒番付で横綱にもなった大酒飲みだから、死を覚悟していたかも知れない。
     桃太郎は御朱印帳に記帳してもらった。「いくらするの?」「三百円。所によって五百円のこともあるんだけど。」先日は相模国の式内社用のものしか持っていなかったが、今日はお寺用のものも持参している。御朱印集めを始めてから、桃太郎は神社や仏閣の由緒を熱心に調べるようになった。御朱印集めは結構ブームになっているが、桃太郎のように歴史に関心を抱くようになる人はどれだけいるだろう。
     「それじゃ行きましょうか?」南大門から出て長い白壁の塀に沿って歩くと、所々に「寅さんふるさと名言集」を掲げたオブジェが立っている。柴又は寅さんなしでは生き残れないのだ。その一つはこんなものだ。

    お互いに稼業はつれえやなあ。まあ、こんなことはいつまでも続くもんじゃねえ。今夜中にこの雨もカラっと上がって明日は気持ちのいい日本晴れだ。お互いくよくよしねえでがんばりましょう。

     「ホント、そうですよね。稼業はつらかったなア。」この四月に定年退職したロダンは、働き過ぎであったことは確かだ。そして突き当たった所が山本亭だ。葛飾区柴又七丁目十九番三十二号。入館料は百円である。

     大正末期に建てられた山本亭は、趣ある書院造に西洋建築を取り入れた、和洋折衷の建築が特徴の建造物です。合資会社山本工場(カメラ部品メーカー)の創立者、故山本栄之助氏の住居として建てられ、大正十二年の関東大震災を期に、浅草の小島町から現在地に移転。大正十五年から昭和五年までに増改築を重ねました。当時は洋風建築を取り入れることが富裕層の間で流行しており、その佇まいを今に残す貴重な建築として、葛飾区が登録有形文化財に指定。昭和六十三年に買い取り、平成三年四月から一般公開されています。(葛飾観光ポータルサイト「山本亭」http://www.katsushika-kanko.com/yamamoto/about/)

     靴を脱いで中に入り順路に沿って回る。縁側から見る庭の木には雪釣りが施されている。ただ放射状に組んだ縄の間隔は広い。「金沢の兼六園じゃこのくらい」と講釈師が縄をつかんで寄せる。池には鯉がいる。「ゆきずりのこい。」ファーブルにこんなセンスがあるなんて全く気付かなかった。「我慢できなかったんだ。」

     行きずりの恋に驚く冬支度  蜻蛉

     「ここがお客様が入る玄関ですね。」中にビニールを被せた人力車が置かれている。「自家用車だよ。」案外新しそうに見えるから当時のものではなく、この屋敷を葛飾区が買い取ってから新品を入れたものだろう。
     その玄関から正面に見る壁には花菖蒲が描かれている。玄関脇の洋間の床には一面の寄木細工の格子模様、天井は白漆喰仕立て、窓にはステンドグラスが嵌め込まれる。基本的には日本風の屋敷なのだが、一室だけ洋間の応接間を作るのが流行りだった。暖炉にはガスストーブが置かれていた。
     廊下から土蔵に入る入口は鉄格子の扉で閉ざされている。廊下の途中には電話室がある。送受信機が一体となった黒電話の原型が発売されたのは昭和八年のことで、まだそれ以前の型式のものが置かれている。隅には長火鉢があった。「お燗ができるんですね。」
     縁側を挟んで庭を見る三部屋続きの和室では、お茶を飲んでいる客もいる。練り切りの和菓子付き抹茶が六百円、クッキー付き珈琲が五百円だ。あんみつ姫やイッチャン、ハイジのためには、煎茶・柴漬け付き白玉入りぜんざい五百円もある。「雪見障子だ。」「横に引く形だね。」
     庭に出ると防空壕跡は竹で組んだ蓋で覆われている。「屋内からここに通じてるんだよ。」母屋から地下に降りると全面コンクリートで囲った六畳間が二部屋あり、シャワー室も完備したものである。そこから外に脱出する口がここなのだ。内部は原則非公開だが、その様子はネットで見ることができる。「千駄木のお屋敷でも見ましたね。」姫が言うのは旧安田楠雄邸のことだろう。「防空壕も焼夷弾が直接当たるとダメなんですよね。」幸い柴又では空襲の被害はそれ程でもなかったのは、田園地帯だったからだ。
     枯木に柿の実が僅かに残っている。斜めになったサルスベリの大きな幹を支柱が支えている。牡丹の藁囲いが可愛らしい。モミジがきれいだ。ナンテンの実が赤い。
     外に出ると、土手に対して煉瓦を貼った随分モダンな長屋門が建っている。番人や車夫が待機していたと思われる両袖の小部屋も洋室造りだ。
     道路を挟んで向かい合う石段の上には寅さん記念館が建っているが、ここには入らない。葛飾区柴又六丁目二十二番十九号。渥美が死んで、その一年後に建てられたものだが、これまでも入ったことがない。小林信彦『おかしな男 渥美清』が引用する篠原靖治(渥美晩年の付き人)の証言によれば、かつて松竹の鎌倉シネマワールドには寅さん人形が多数置いてあり、それを見た渥美は「気持ちが悪い」と不機嫌になったと言う。この記念館は渥美の気にいっただろうか。
     それはともかく折角柴又に来たのだから、風天の句を少し読み直してみた。風天は渥美の俳号である。この季節に合ったものをいくつか引いてみようか。森英介『風天 渥美清のうた』より。

    好きだから強くぶつけた雪合戦  風天
    村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ
    手袋ぬいであかり暗くする
    赤とんぼじっとしたまま明日どうする
    山茶花くずれヒールすぎゆく
    霜ふんでマスクの中で唄うたう
    切干とあぶらげ煮て母じょうぶ

     破調が多く稚拙なものもあるが、どこか味のある句が多い。これらの中に、狷介で他人に心を許さなかった(関敬六にさえ病気のことを打ち明けなかった)本名田所康雄としての素顔がどれだけ反映しているかは分らない。むしろ車寅次郎を意識して作っている部分が大きいような気がする。夏井いつき先生ならどう評価するだろう。
     「私も『プレバト』見てるわ。」ハイジは可憐な句を作るのに、最近はちっとも詠んでくれない。「若い子もちゃんと詠むのよね、スゴイと思うわ。」あの番組を観ていると、私はつくづく「凡人」で、二流、三流だと思わざるを得ない。それにしても東国原英夫の発想は飛び抜けていると思う。「東国原は記憶力が良いんだよ。」「蜻蛉も記憶力がいいから。」「だけど、俺にはクリエイティヴィティというものが全くないからね。発想が飛ばない。」
     渥美清が死んだのは平成八年(一九九六)八月四日のことだった。肝臓から転移した肺癌とは言え、それにしても六十八歳という年齢に改めて愕然としてしまう。私も来年には六十八になる。

     ここから住宅地の中を歩く。電柱に「〇・五メートル」の表示。江戸川が氾濫した場合、〇・五メートル浸水する恐れがある。「これは?」背の高い枝の中に直径五六センチ程の薄緑色の袋がいくつもぶら下がっている。「フウセンカズラかしら?」と姫は言ったものの、「だけど蔦じゃないですね」とすぐに訂正する。「それじゃフウセンカズラモドキ。」「ニセフウセンカズラ。」無学な私やファーブルがいい加減なことを言っている間にマリーがスマホを操作した。「フウセンカズラのような、とかで検索するのよね。」ハイジの助言が効いたのか、どうやらフウセントウワタ(風船唐綿)というものだと判明した。ガガイモ科フウセントウワタ属。南アフリカ原産で、園芸植物として持ち込まれた。この風船が破裂すると中から綿毛の付いた種が飛散すると言う。
     二階から地面までカーテンのように張られた紐に蔓が絡まり、不思議なことに青い朝顔の花が咲いている。「季節を間違えてるよ。」萬福寺(曹洞宗)には寄らない。「マンプクか?」「俺はもう空腹だよ。」スナフキンは相当早く起きて来たのだろうか。まだ十一時にもなっていないゾ。
     道端のコンクリート舗装を四角に切り取り、土が露出したところにコンクリートの台を置き、「なかのはし」「中之橋」の札を貼り付けているのは、親柱があった跡だろう。川は暗渠になって細い道が続いている。「川って言うより用水だろうね。」「この辺は田んぼだったんだよ。」田を潰して住宅地にしたような雰囲気だ。

     「そこのジョナサンです。」姫が予定していたのがこの店だ。葛飾区柴又四丁目三十一番八号。まだ十一時七分だが、これを逃すと適当な店がないそうだ。柴又街道に面し、隣には柴又小学校が建っている。「あそこにすき屋があるけどね。」ちょっと先に見える店を桃太郎が見つけたが、すき屋ではゆっくりできないだろう。十二人が三つの席に分れて座った。「この時間で正解でしたね。遅かったら入れなかった」とヨッシーも言う通り、店はすぐに混み合ってきた。
     私はご飯を食べたいので、一番安い和風おろしハンバーグ(六百九十九円)にした。しかしご飯と味噌汁のセット(三百六十円)は別料金になる。ガストと同じ方式だ。ビールはモルツが四百九十九円。桃太郎はスパゲティ、講釈師は悩んだ挙句にスパゲティ、ヨッシーは「よくばりダイニング」というメニューからホタテグリルとカキフライの定食(千四百九十九円)を選んだ。年齢に似ず健啖家なのだ。他のテーブルでは麺類やドリアを選んだ人が多い。桃太郎は一日分の野菜が摂れる野菜タンメンの方が良かったのではなかろうか。
     「これが使えるかな?」ビールを注文した後で、桃太郎はいつものクーポン券綴りからモルツの割引券を探し出した。「大丈夫ですよ。」二百円安くなるので、訂正伝票が打ち出された。それにしても、こういうチケットはどこで手に入れるのだろう。
     料理は時間がかかる。最初に来たのはマリオが注文した酢辣湯麵というものだった。「文字通り、すっぱくて辛い。」結局全員の料理が揃ったのは十一時半頃だから良い時間になった。ヨッシーの頼んだホタテとカキフライのセットは豪華だ。いつもなら一番先に食べ終わって「もう出ようぜ」と急かす講釈師だが、今日はその声が出てこない。なんだかフォークを嫌々動かしている風情だ。一番早く食べ終わったのは勿論私だ。外でタバコを吸い、トイレを済ます。
     隣の席では、ファーブルがタブレット端末でスマートニュースからモルツの二百円割引を見つけ出した。彼は昼はビールを飲まないことにしているので、スナフキンがその恩恵に預かる。ここでも伝票が訂正された。それにしてもこの割引システムの仕組みが分らない。割引分の金額はどこで補填されているのだろう。この頃の時代に私はついていけない。
     ようやく女性陣も食べ終わったようで、テーブル毎に会計をまとめる。結局私は千六百八十二円も使ってしまい、私よりは遥かに高収入の筈のファーブルに「金持ち」と笑われてしまう。乏しい小遣いの中、普段は学食の五百円以下のランチでなんとか暮らしているのに、こんな無駄遣いしてはいけない。十二時五分に店を出る。

     空は晴れ上がった。柴又街道(金町~南小岩)を南に向かうと、金町消防署柴又出張所の前に半鐘を吊るすオブジェが建っていた。半鐘は昭和五年に山本栄之助(さっきの山本亭の主人)が寄贈したもので、新宿派出所に設置されたものだ。平成九年、派出所が現在に移転して柴又出張所となった際、半鐘も一緒に移って来たのである。手を伸ばせば鐘が撞ける位置だが、そんなことをしてはダメなのだろうね。
     北総線の新柴又駅に出たが、北総線というのも余り馴染みがない。京成高砂駅と千葉県印西市の印旛日本医大駅を結ぶ路線で、千葉ニュータウン建設に伴って開業した鉄道である。路線図を見ると東松戸を通っているから、松戸を歩いた時に乗ったかも知れない。京成高砂からは都営地下鉄浅草線に乗り入れている。
     柴又五丁目交差点を左に曲がる。「さくら道」の石碑が現れた。正面に七福神の宝船を彫り込んだ新しいものだ。佐倉街道である。「親水さくらかいどう」として、歩道の脇を用水が流れているが、水は余りきれいではない。「三島とは全然違うね。」三島の湧水と柴又の排水路とを比較する方が悪い。この辺りから桜並木が始まり、この道の解説板が立っていた。

     この道は、江戸時代、「佐倉街道」と呼ばれ、千住より小岩を経て千葉、佐倉に至る参勤交代の道筋として、江戸末期には成田詣りの道として利用されてきました。また、明治時代になると、長年水不足に苦しんでいた農民のため、石井善兵衛氏が中心となり、江戸川の水を取り入れ、灌漑用水路を完成させました。その後、農業用水路から排水路となり、下水道整備によって役目を終えたため、このような歴史的由緒ある水路を活かしつつ、桜並木の美しい散策路として親水さくらかいどうを整備しました。

     いつの間にか葛飾区を離れて江戸川区に入っていた。「この辺は三階建ての家が多いね。」江戸川土手にぶつかる手前の八幡神社が姫の目的だった。江戸川区北小岩八丁目二十三番十九号。古めかしい石造鳥居を潜ると、右の隅に北原白秋の歌碑がある。

     いつしかに夏のあわれとなりにけり 乾草小屋の桃色の月

     「白秋は引越魔だったよな。」白秋は生涯に数えきれないほどの引っ越しをしたが、大正五年(一九一六)七月から約一年間、小岩村字三谷の乾草商冨田家の離れに居を構えた。乾草が商いになったのは牧場があったからだろうか。そう言えば錦糸町には伊藤左千夫の牧場があった。冷蔵技術が未熟な時代、東京に牛乳を供給するには、牧場は近くになければならなかった。
     この時は二番目の妻(江口)章子と一緒だった。紫烟草舎と名付けられたその離れは、市川市の里見公園内に移築復元されている。「国府台の里見公園で見ましたよね。」平成二十二年の夏のことで、あの辺で碁聖が迷子になりかけた。
     この時代、白秋はまだ童謡の世界には入っていない。純粋詩だけで生活を成り立たせるのは難しく、生活は困窮した。朔太郎も犀星もまだ第一詩集を発表していない。
     大正七年(一九一八)に小田原に移転し、鈴木三重吉が『赤い鳥』を創刊すると童謡欄を担当して経済は安定した。「小田原でも見たよな。」スナフキンが案内してくれたのだ。しかし小田原で家を新築したのをきっかけに、章子は白秋の元を去って行く。その辺の事情については江戸歩き第六十回「小田原編」で書いた。
     万治元年の地蔵庚申があると言うのだが、社務所に保管されているので見ることはできない。庚申塔の説明に「三尸」の文字を見つけて、ファーブルが喜ぶ。「調べてみなくちゃ。」想像上の虫だからファーブルの世界とはちょっと違うのではないか。唐獅子の顔がなんだかマヌケだ。鼻が豚のようだし、目が異常に小さい。歯は虫歯の様な乱食いになっている。小さな社殿の黒い瓦屋根に、黄色のイチョウの葉が積っている。境内社に水神宮があった。江戸川に近い場所だから当然だろう。
     親水さくらかいどうに戻り、江戸川土手の手前で右に曲がると石垣が現れた。何だろう。「水路でしょうかね。」ロダンの勘があたった。石垣は大きな岩になり、その頂上から水が滝のように飛沫を上げて流れ落ちてくる。さっきの解説にもあった、江戸川から取水する善兵衛樋である。「水はきれいじゃないな。」江戸川の水だからね。
     江戸川を目の前にしながら水不足に悩んでいたと言うのが不思議だ。明治十年の大旱魃を契機に、小岩田村の石井善兵衛が中心になって掘割を造り、翌十一年(一八七八)に取水口が完成した。石井善兵衛を顕彰して「善兵衛樋」と命名されたのである。
     地蔵堂の中には、慈恩寺道の道標を兼ねた地蔵尊が祀られている。真ん中に立つ地蔵がそれだろうと思うのだが、赤い着物を着せられていて実態が分らない。正面に「これより右岩付慈恩寺道、岩付まで七里」、左側面には「これより左千住道、千住より弐里半」とあるらしい。右に立つのが笠付墓石型の浮彫地蔵だ。正徳の年号が分かる。「いつ頃?」「新井白石の時代。」
     慈恩寺は岩槻にある天台宗の古刹(華林山最上院)、坂東三十三箇所第十二番札所である。以前行ったことがある。三蔵法師玄奘の遺骨の一部を収めた玄奘塔があることでも有名だ。国道四五一号線(江戸川堤防線)は現在でも岩槻街道と呼ばれている。
     ここから一キロ程は上小岩親水緑道と名付けられている。緑道を行くと道端に、壊した球形の中から長さ違いの直方体がビルのように伸びる不思議なオブジェが置かれている。「なんだ、これ?」「地球が破壊されようとしているんじゃないかな。」ファーブルの意見が当たっているのかも知れない。「エコへの創造ってあるよ。」「現代アートは分らないね。」「小岩第三中学校美術部製作だってさ。」
     「どこから曲るんだったかしら?」姫は自信がなくなってきたようだ。「そこに江戸川不動の案内があるよ。」直進すればよい。五六分で吉祥山唐泉寺に着いた。江戸川土手のすぐそばである。江戸川区北小岩七丁目十番十号。真言宗総本山御寺泉涌寺派というのは見たことがなかった。
     泉涌寺は真言宗十八本山の一である。南北朝時代から安土桃山時代までの歴代天皇の葬儀、江戸時代には後水尾天皇から孝明天皇まで歴代天皇・皇后の葬儀を一貫して執り行った。泉涌寺派を調べてみると全国に六十八ケ寺あるうち、関東では東京に三ケ寺、神奈川に三ケ寺、千葉に一ケ寺あるだけで埼玉県にはない。小さな寺だが、癌封じの不動として関東では有名だと言う。「それなら」とファーブルが手を合わせる。

     (真快)和尚は愛娘を急性骨髄性白血病で旅立たせたのを機に、世の無常を感じ出家。大本山 随心院 門跡 池田龍閏大僧正猊下のもとで得度。修行後、三年余にわたり全国各地を乞食行脚。その際、縁あって当地に江戸川不動尊唐泉寺を建立しました。
     日本唯一の「封じ護摩」の寺として、御本尊に大日大聖不動明王を招来し、「がん封じ」「ぼけ封じ」などに霊験あらたかなお寺として、参詣の人々が後を絶ちません。(「当山の縁起」)

     急性骨髄性白血病と言えば、夏目雅子も本田美奈子もそうだった。護摩焚きは、ゾロアスター教の拝火信仰がヒンドゥー教を経由して密教に取り入れられたものである。火を焚いてボケや癌が治るならこれほど安いものはない。また唐泉の名から、選挙での当選祈願にもやってくるらしい。こういう現象をなんと言うべきか私には分らない。
     不動尊は大きなガマの上に立っている。カエルは甦るを意味しているか。寺務所の引き戸のガラス越しに見えるのは、サイドカー付きのハーレーダビッドソンだ。車体に「ガンファイター」と書かれている。「おかしいじゃないか。」飽くまでも癌の撲滅を願っているのだろう。姫はこちらに来ないで来た道の方で待っている。「何かありましたか?」「ハーレーがあったよ。」和尚自身が咽頭癌を発症したが、ハーレーに跨って西国三十三ヶ所を巡拝したところ、癌がなくなったと言う。

     ハーレーの坐します寺に小春かな  蜻蛉

     少し歩くと、左には用水を暗渠にしたような道が土手の方に続いている。姫は「参道みたいですね」と言いながらそこを通り過ぎ、六道の辻に迷いこんでしまった。「七丁目二十七番なんですけど。」「ここは二十二番だから。」更に行けば二十四番になった。しかし二十一番と勘違いして、もう一度戻ったりしているうちに訳が分からなくなってくる。スナフキンがスマホで、ファーブルがタブレット端末で地図を開いて漸く分った。さっき姫が参道みたいだと言った道をまっすぐ来れば良かったようだ。
     民家の庭に立つダイオウショウ(大王松)が立派だ。「あそこだね。」やっと目的の正真寺に着いた。江戸川区北小岩七丁目二十七番五号。十二三分も歩いたろうか。唐泉寺から土手に出るのも簡単だったかも知れない。真言宗豊山派。国府台合戦の戦場となった地に、里見方の武士だった暁覚法印が開山となって、慶長六年(一六〇一)に堂を建てたのを起源とする。もう第二次国府台合戦の相手だった北条氏も滅んでいる。
     国府台合戦は天文七年(一五三八)と、永禄六~七年(一五六三~一五六四)の二次に亘って戦われた。年代的に見て、暁覚法印は第二次国府台戦争の時にはまだ若武者だっただろう。但しその当時の寺はもう少し南に寄った国府台の対岸の、後で行く小岩田天祖神社と向かい合った場所だった。元文三年(一七三八)には八代将軍吉宗が国府台古戦場を見学した際、その往復にこの寺で休憩したと言う。
     大正元年(一九一二)江戸川堤防改修工事で三千坪、昭和四十二年(一九六七)に五百坪が国に収用されたというから、相当広大な敷地だったのだ。現在地に移転してかなり小さくなってしまった。
     享保八年の立派な駒形青面金剛が立っている。緑がかった苔が付着しているが、彫は崩れていない。合掌型で、邪鬼、三猿もいる。上方には日月もあるが、二鶏は判別できない。蔵の脇に「これより左ばんどうみち」とあるらしい。坂東道とは、坂東札所の慈恩寺への道と言う意味らしい。これも、旧地の山門脇に道標として建っていたものだ。
     本堂向拝の天井は十六枚の格子状に区切られ、様々な花が描かれる。「どうやって描いたのかしら?」「描いてから嵌め込んだのかな。」鈴木豊画伯の作品だそうだが、どういう経歴の画家なのか分らない。
     私たちの声を聞きつけたようで、庫裡の中から奥さん(大黒さんとでも呼ぶのだろうか?)が出てきて「六枚あるんだけど、何人?」とスナフキンに尋ねた。「十二人です。」「それじゃコピーするから待ってて頂戴。」遠慮するスナフキンの言葉も聞かずに奥さんはすぐに中に入っていく。貰ったものを見ると寺の案内を記したもので、B4版両面に印刷してある。有難いことである。
     コピーができる間に境内を見学する。本堂の前に立つ隆純地蔵尊は、先代住職の田嶋隆純和上の徳を偲んで建てられたものである。河口慧海にチベット語を学び、戦前にソルボンヌ大学に留学した。仏文で『大日経の研究』(学位論文)、『両部曼荼羅の研究』、『密教郷里の研究』などを著した学究で、大正大学の教授を勤めた。地蔵になったのは、巣鴨拘置所の教誨師も務め、BC級戦犯やその遺族に「巣鴨の父」と慕われたためである。
     BC級戦犯としては約五千七百人が起訴され、千人が死刑に処せられた。因みにA級戦犯は国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例におけるA項「平和に対する罪」、B級はB項「通例の戦争犯罪」、C級はC項「人道に対する罪」と認定されたものである。東京裁判については、パール判事だけが理性的だったとだけ言っておく。
     「教誨師で有名な人がいましたよね。ああ名前が出てこない。」考える人ロダンが悩み始めたが、私も俄かに名前が出てこない。後で思い出した。A級戦犯の処刑に立ち会った花山信勝のことだろう。
     田嶋隆純は昭和二十四年(一九四九)に花山の後任となった。しかし教誨活動・助命減刑嘆願・戦犯遺族との連絡・世界宗教者会議への提訴等による過労のため昭和二十六年(一九五一)巣鴨拘置所で倒れ、肢体言語不自由の闘病生活となって昭和三十二年(一九五七)六十五歳で死んでいる。

     花山信勝の後を受けて巣鴨拘置所の教誨師となり、刑場に臨む戦犯に寄り添い処刑に立ち会うとともにBC級戦犯の助命減刑嘆願にも奔走した。その「代受苦」(地蔵菩薩の身代りの徳)の活動が多くの戦犯から感謝され、「巣鴨の父」と慕われた。
     田嶋が出版に尽力した『世紀の遺書』(一九五三、巣鴨遺書編纂会)は大きな反響を呼び、その益金の一部によって東京駅前広場(丸の内南口)に「愛(アガペ)の像」が建てられ、巣鴨で処刑された戦犯らの平和への想いの象徴となった。「愛の像」のなかには本書が納められた。(ウィキペディア「田嶋隆純」)

     私は田嶋の名前を知らなかったので、ここに来られて良かった。クチナシの実の黄色がかったオレンジ色が好きだ。「栗きんとんに色を付けたりしますね。」それにしてもコピーに随分時間がかかる。「コピーの仕方が分らないのかも知れない。」「面倒そうならいいですって断ろうか?」引き戸を開けて呼んでも返事がない。テレビの音だけが大きくなった。「さっさとベルを押せばいいじゃないか。」講釈師は面倒臭そうに吐き捨てるが、それでは催促がましくて失礼だろう。しかし仕方なくスナフキンがベルを押そうとした時、奥さんが出て来た。「なんだか難しくて。一枚だけ勝手に用紙が小さくなっちゃった。」大変お手数を掛けてしまった。
     次は小岩田天祖神社だ。江戸川区北小岩七丁目二十八番十九号。天正年間(一五七三~一五九二)神明宮として創建されたと伝える。当然のことながら石造の鳥居は神明鳥居の形だ。
     相殿に経津主命、倉稲魂命、建御名方命、惶根命を祀る。「惶根命って何て読むんですか?よくワープロで出てきましたね。」姫の案内文を見てロダンが不思議がる。惶は懼れるとか慌ただしいと言う意味だろうが(蒼惶という言葉がある)、私は読めない字はコピペしてしまう。日本書記では惶根尊と表記し、カシコネノミコトと読むようだ。
     古事記ではアヤカシコネとされる女神で、男神のオモダルとともに、神世七代のうち第六代に相当する。神世第一代はクニノトコタチ、第二代はトヨグモ(古事記)またはクニノサツチ(日本書記)。三代からは二柱一組となって、最後の第七代にイザナギ、イザナミが登場することになっている。
     拝殿に掲げられた額は「大嘗祭記念 大正四年十一月」だ。つい最近、来年の大嘗祭は国費によって賄うべきではないと秋篠宮が提言したが(おそらくこれは今上の意向でもあるだろう)、安倍内閣は聞く耳を持たない。安倍政権に対する天皇家の闘いは聊か悲壮の色を帯びてきた。
     そばでオバアサンと孫娘が遊んでいる。一時半、ここで少し休憩だ。なんだか、腰が重くなってきた。トイレに行って戻って来ると、ハイジが煎餅を抱えて待っていてくれた。ヨッシーからはポッキーを貰う。イッチャンはチョコレートを出してくれるが、丁重にお断りする。「あら、甘いのはダメだったの?今度はお煎餅を持ってきますね。」「そんなに気を使うことないよ」とスナフキンから声がかかる。

     十五分程休んで出発だ。江戸川土手沿いに二三分歩けば真光院だ。姫の案内資料には書かれていない。稲荷山遍照寺。江戸川区北小岩四丁目四十一番六号。真言宗豊山派。供養塔は、舟形に二体の観音立像を浮き彫りにしたもので、珍しい形だろう。「何観音ですかね?」「馬頭観音じゃないかな。」その脇に、何の意味があるのか白いドラエモンが立っている。ドラエモンも観音になってしまったか。
     「あれは?」民家の隣の空き地に真新しい鳥居と石祠が建っていた。石造鳥居の額にも何も書かれていないから、何の神社か全く分らない。おそらく稲荷だろうとは思うけれど。「新築ですね」とハイジも笑う。
     その近くのブランコとシーソーのある公園の隅に小さな堂が建っていた。これは正真寺の境外堂の光ケ嶽(てるがたけ)観音堂である。江戸川区北小岩四丁目二十七番十八号。
     スナフキンは格子戸の賽銭口からカメラを差し込む。私はガラス越しに撮ってみた。木製の厨子の正面に花頭窓が開いていて、金の背景を持った台の上に小さな像が置かれているのが見えた。観音は一寸八分と言う。「約六センチですかね。」
     里見義俊、義豊の守り本尊で、常に甲冑に収めて出陣したとされる。義俊は十二世紀の人である。新田氏の庶流で、上野国碓氷郡(八幡荘)里見郷付近に碓氷城を築き里見氏と称した。つまり里見氏の初代である。義豊は十六世紀、戦国時代の安房里見氏四代になる。時代的に相当のずれがあるから、たぶん単なる伝説であろう。
     民家の庭には江戸川区保護樹のタブノキが伸びている。「花は小さくて余り目立たないんですよね。」そのせいだろうか、私はタブノキを見た記憶があまりない。そのまままっすぐ行き、京成線江戸川駅の下を潜るとすぐに北野神社がある。江戸川区北小岩三丁目二十三番三号。伊与田村の天神と呼ばれた。

     旧伊予田村(現在の北小岩三・四丁目)の鎮守です。江戸時代にはこの地にあった稲荷神社と北方の北野神社が明治四十二年(一九〇九)に合祀され、今の北野神社となりました。
     昭和三十九年(一九六四)には一里塚近くにあった須賀神社を合祀し、そこで行われていた芽の輪くぐりをここで行うようになりました。祭神には稲荷神社の倉稲魂命と北野神社の菅原道真、それに須賀神社の素戔鳴尊を加えた三柱を祀ってあります。(江戸川区教育委員会掲示より)

     石造の常灯明は嘉永元年の銘がある。胴に「御夜連」とあった。神輿蔵にはお神輿と獅子頭が収められている。
     民家の塀の脇に「御番所町の慈恩寺道石造道標」が建っているが、全く読めない。風化しているうえに青い苔が付着しているのだ。

     江戸時代、庶民の間に霊場巡拝の風習がさかんになりました。坂東三十三カ所観音霊場もそのひとつで、埼玉県岩槻市の古刹慈恩寺は、その十二番札所として関東各地から参拝人を集めています。
     この道標は佐倉道と元佐倉道の合流点にあり、対岸市川から江戸川を渡って小岩市川関所を通るとほぼその道筋の正面に見えたと思われます。房総方面から慈恩寺へお詣りする人びとは小岩市川の渡しを渡ってからこの道標を見て北へ曲がって行きました。安永四年(一七七五)建立で、銘文は正面に「右せんじゅ岩附志おんじ道」「左り江戸本所ミち」、右側面には「左りいちかわミち」、左側面にも「右いち川みち」とあります。

     この後で行く江戸川土手には、関所跡がある。それを「御番所」と言ったのだ。それにしても岩槻の慈恩寺の威力は恐るべきものだろう。坂東観音霊場巡りはかなり流行っていたと思われる。調べてみると東京都に一ヶ寺、茨城県に六ヶ寺、神奈川県に九ヶ寺、栃木県に四ヶ寺、埼玉県に四ヶ寺、群馬県に二ヶ寺、千葉県に七ヶ寺と、広範囲に分散しているから、霊場巡りも楽ではない。
     次は宝林寺だ。真言宗豊山派。江戸川区北小岩三丁目二十三番十一号。寺紋は輪違い。中央左手にショケラを握る青面金剛が立つ。六地蔵にかけられた涎掛けのアップリケが可愛いとハイジが喜ぶ。

     真言宗豊山派に属し、愛宕山地蔵院と号してもとは千葉県国分の金光明寺末である。文秀房法印(慶長十二年入寂)が起立し、本尊に不動明王を安置する。
     参道入口に文化元年伊与田、御番所両村講中建立の庚申塔が立ち、門前の庭には寛文十年の地蔵庚申塔がある。本堂前にある高さ四メートルに近い常灯明は、もと「小岩・市川渡」にあったもので、墓地には伊与新田の開拓者篠原伊与の墓がある。(『江戸川区史』より)

     千葉街道に出て,市川橋で江戸川を渡る。この橋の旧名・江戸川橋が架けられたのは明治三十八年(一九〇五)で、それ以前は渡し船が運行していた。但し渡船場の正確な位置は分っていない。橋が架けられたのは国府台に陸軍が置かれたためである。
     「左前方の高い建物は?」「和洋女子大だよ。」「それじゃ、あそこが国府台だ。」ファーブルは橋が苦手だ。「下を見ないようにしてるんだ。」河川敷のグランドでは中学生の野球チームが試合をしている。空が青い。「正面にあるのがヤマザキパンの研究所だ。市川が発祥の地なんだ。」スナフキンは何でも知っている。
     橋を渡り切り、土手を左に進めば市川関所跡だ。正確な場所が不明なので何が残っている訳でもないが、木造の冠木門を建ててある。

     江戸時代以前の江戸川は太日川と呼ばれていた。奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上馬屋(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する公の使が太日川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。また、室町時代には、市川を旅した連歌師の宗長が、その時の紀行文、「東路の都登」のなかで、市川に渡しがあったことを記しており、古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。
     やがて、江戸に幕府が置かれると、江戸を守るなどのため、関東の主な川に、船の渡し場で旅人を調べる「定船場」が設けられた。古くから渡があり市場でにぎわっていた市川が選ばれ、これが後に関所となった。
     時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、全国各地にたくさんの関所が設けられていた。これらの関所には取り締まりが厳しい関所と比較的ゆるやかな関所があり、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出てゆく女性が、特に厳しく取り締まられた。
     「市川関所」と呼ばれることもあったが、多くの場合は「小岩・市川関所」と記され対岸の二村が一対で一つの関所として定められていた。そして、分担して関所にまつわる役割を果たしていた。幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、名主の能勢家が取り調べをする役人を補佐した。(以下略)

     川に設けられた関所と言えば、私たちは日光街道栗橋の関跡も見ている。利根川水系には幕府直轄の定船場が十五ヶ所設置されていて、それ以外の場所で川を渡るのは御法度だった。このすぐ近くの矢切の渡しも同様である。
     解説板には、『江戸名所図会』から「市川渡口・根本橋・利根川」の絵が掲げられている。つまり利根川東遷後も、この川が一般には利根川、あるいは新利根川と呼ばれていたことが分る。江戸時代の物資輸送の大動脈である。北関東や奥州太平洋岸の物資は、渡良瀬川や利根川を経由して江戸川に入って江戸に運ばれた。野田の醤油もそうである。ここから土手を降りて右に出ると、松戸街道(県道一号線)にはさっきから見えていたヤマザキ製パンの総合クリエイションセンターの広大な敷地が広がっている。

     当施設は、山崎製パン株式会社の創業の地である千葉県市川市の市川工場跡に二十一世紀のヤマザキの前進基地として建設された。施設は、中央研究所、総合研修所、飯島藤十郎社主記念LLCホールからなる複合施設である。ここでは製品の品質向上のための技術開発、食の安全・安心に関する研究、また社内外の研修、学術研究の学会やシンポジウムが開催されるほか、市川市民の文化活動のための活用が想定されている。
     https://www.totalmedia.co.jp/task/works2016-yamazakiseipan-creationcenter/

     その敷地の前に、「市川電信電話創業の地」碑があった。黒御影の立派な石碑だが、日本で初めてというのではない。明治九年(一八七六)ここに市川郵便局が開設され、明治四十年(一九〇七)に電報業務を開始、大正五年(一九一六)に電話交換業を始めたのである。
     市川広小路で千葉街道と合流する。十メートル程歩き、胡録神社に入った。市川市市川二丁目二十一番二号。胡録とは初めて知る神社だが、祭神は面足(オモダル)命・惶根(アヤカシコネ)命である。胡は「エビスかしら」と姫が考え、私もそれしか思いつかなかったが、これについては桃太郎が調べてくれた。
     胡録はヤナグイと読み、箙(エビラ)と似たものである。どちらも矢を入れて腰や肩に負う入れ物であるが、胡録は公家が儀式用に使うもの、箙は武士が実際に使うものだという。ただそれがどうして神社の名になったのかは分らない。オモダルもアヤカシコネも特に弓矢に関係する神ではない。しかし南千住の胡録神社の由緒を見ると、胡録の意味はそれとして、もう一つの意味もあった。

     胡録神社は、永禄四年八月川中島合戦の折、上杉の家臣高田嘉左衛門(たかだかさえもん)なる者戦に敗れ、計らずも集いたる十二名の同志と、関東に厄難を逃れて落ちのび、当地の汐入に高田、竹内、杉本等数名と永住の地と定めて土着し、村落生活の安寧を祈願するため、守護神として永禄四年九月十九日、面足尊・惶根尊の両神を一祠に奉齋崇敬されたと伝えられます。
     当社は古くは大六天と称したが明治二年太政官達により、神仏分離がされた際、往時武士が矢を支える武具を胡録と申した事と、また、当地汐入の生業として盛んであった胡粉作りの胡の字と大六天の六にあやかり、御社号を胡録神社と改称されました。
     http://korokujinja.mikosi.com/contents01.html

     第六天は神仏習合の神だから、明治になって改名したことは間違いない。オモダル、アヤカシコネについては、小岩田天祖神社のところで記した通り、天神七代の内の第六代である。桃太郎の調査から追加すれば、第六から仏教の第六天魔王の垂迹とされた。
     しかし市川市中央図書館のレファレンス(胡録神社の由来を知りたい)によれば、同名の神社は多数あり、南千住の胡粉に関係づけるのは無理だろうと結論している。また第六(ダイロク)からコロクにしたという説もあるが、これも推測の域を出ず、由緒ははっきりしないと言う。それにしても桃太郎は随分詳しく調べてくれた。
     唐獅子が立派だ。藤棚に黒くなった実がぶら下がっているのを見てハイジが喜ぶ。「初めて見たのよ。前に作文で読んでたけど。」私は何度か見ている。「食えるのかな?」植物の実を見れば必ずこういう質問が出てくる。ウィキペディアには、江戸時代には貴重な糖質として重宝されたと書いてある。
     ライーターのガスがなくなったのでコンビニを探していると、市川公民館でトイレ休憩を取ることになった。市川市市川二丁目三十三番二号。「その隣にセブンイレブンがあるよ。」「ちょっと行ってくる。」十分程休んで出発する。今は二時五十分。これでは今日の目的地の鬼越まで行くのは難しいのではあるまいか。
     公民館とセブンイレブンの間の道が大門通りで、真間山弘法寺の参道になっている。「ここを行ったろう?」とスナフキンからも声がかかる。昨年二月、里山ワンダリングの会の最終回の一つ前、スナフキンの企画で市川を歩いた時のことだ。その後、三月を最後に里山ワンダリングの会は終わり「近郊散歩の会」に改称したのだが、商店街を少し行けば、民家の塀やあちこちに万葉の歌が掲示されている道である。成田山参詣のために街道を歩く旅人は必ず立ち寄った筈だ。
     市川駅前の中央分離帯の脇に道標があったので、車の途切れるのを待って見に行った。「危ないですよ。」確かに危ない場所にある。「たぶん道路元標じゃないですか?」と姫がロダンに確認している。やはり市川町道路元標であった。「道路の拡幅でこうなっちゃったんだろうけど、歩道に移してもいいじゃないか。」中央分離帯には赤いバラが咲いている。マリオはこの後に所用があると、ここで別れて行った。
     その先に青面金剛の道標があった。表面には日月と、青面金剛の文字、その下に三猿がいる。側面が道標で、風化のために良く読めないが、姫の調査では左側に「東八わた十六丁・中川一里」、右側に「西市川八丁・江戸両国三り十丁」とあるらしい。
     大きな料亭は明治十七年創業の栃木屋だ。春日神社は通り過ぎ、その先の新田胡録神社に入る。市川市新田一丁目三番一号。「胡録神社ってさっきあったんじゃないの?」「ここは新田なんだよ。」さっきの神社よりは境内が広い。新田一丁目自治会館が建っている。通り過ぎた春日神社と「兄弟のよう」と言われているようで、祭も同じ日に行われると言う。
     三時を過ぎ、姫は鬼越まで行くのを諦めた。「菅野で終わりにします。」日が陰って少し寒くなって来た。二百メートル程で外環道にぶつかると、菅野駅前の標識があった。「どっちだろう?」右に総武線が見える。「あの向こうじゃないか?」私は船橋辺りの記憶から、京成線は総武線の南を走っていると思っていたのだが、ここは違った。千葉街道を挟んで北に京成線、南側に総武線が通っているのだ。
     左に曲がると、僅かに松が残っている。住宅地の中に無理やり外環道を通したために、市川の松が伐採されているのは、以前もう少し北側を歩いた時にも気になっていた。京成電鉄菅野駅に到着して一万七千歩。十キロだろう。三時二十分。鬼越まで直線距離で約二キロだとすれば、無理をすれば行けないこともないが、結構疲れてしまった。
     姫が解散の挨拶をする。「次回は鬼越から出発します。ここから二キロ程は何もないし、八幡宮はスナフキンが市川を案内してくれた時に寄ってますからね。」私は一月の江戸歩きの予定を連絡する。

     「どうする?」「日暮里に出よう。」菅野は各駅停車しか停まらない駅である。「一時間に五六本もありますね。スゴイじゃないですか。」ロダンは余程田舎だと思っているのだろうか。痩せても枯れても京成本線である。十分程待って上り電車に乗り込んだ。イッチャンは途中でうたた寝してしまう。久し振りだから疲れたのだろう。講釈師は青砥で降りて行った。日暮里には三十分程で着いた。イッチャンとハイジはJRのホームに向かった。丁度四時だ。
     この駅に初めて降りると言うファーブルに太田道灌像を教える。「どうしてここに?」「この近くに道灌山があるんだ。道灌の出城だったと言う説がある。」但しそれは単なる伝承だと言う説もある。それでも、道灌像は武蔵国であればどこにあってもおかしくないだろう。
     「結構お店も一杯あるじゃないか。」入ったのはミライザカである。初めての店だ。若鶏の唐揚げが売りらしい。今日もヨッシーが付き合ってくれて八人になった。ビールはモルツ。「嬉しい」とファーブルが喜ぶ。突き出しは今回も鶏皮だったから姫は食べられない。刺身三点盛り。
     桃太郎はチェリーモッツァレラのトマトカプレーゼという不思議なものを注文した。「何だ、それ?」出されてみればトマトは好きだからよかった。焼酎は黒霧島が二本カラになった。「どうする?」「ここはもういいよ。」一人二千五百円は安かった。
     ここでヨッシー、ロダン、桃太郎は帰って行った。「もう一軒、どこしにようか?」「カラオケでもいいよ。」おお、ファーブルがそう言うのは初めてのことだ。それならと、ビッグエコーに入る。何を血迷ったか、いつものワンドリンクではなく、飲み放題を選んでしまったのは失敗だった。
     布施明『これが青春だ(竜雷太主演)』を歌ってみた。「誰の歌だ?」スナフキンは知らなかったらしい。中学高校時代、余りテレビを見ていなかったんじゃないか。前作の『青春とは何だ(夏木陽介主演)』以来、「青春」とは、スポーツによる不良少年の更生物語の意味になった。やがて数年後には、青春は森田健作が海に沈む夕日に向って叫ぶ謂いになってしまった。この時、「青春」はパロディとしてしか使えない言葉に変わったのである。三浦雅士『青春の終焉』が、一九七〇年前後に「青春」は終焉したと言うのに符合している。
     「俺が歌うとみんなに怒られちゃうよ」とファーブルは怖気ていたが、そんなことはなかった。ちゃんと歌えるじゃないか。いままでカラオケを拒否していた理由が分らない。彼にリクエストされて平浩二の『バスストップ』を久し振りに歌ってみたが、案の定声が出ない。それでもファーブルが、「蜻蛉の歌でこれが一番好きだ」と言うのが不思議だ。彼とはカラオケに入ったことがない。どこで歌ったのだろうか。
     二時間でお開き。飲み放題のお蔭で一人三千五百円にもなってしまった。

    蜻蛉