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    成田街道 其の三  鬼越~船橋
      平成三十一年四月十三日(土)

    投稿: 佐藤 眞人 氏   2019.04.26

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     十日の水曜日は冷たい風の吹く寒い日で、青梅や秩父では雪が積もった。四月の雪は数年振りのことだ。たまたまその日が私の六十八歳の誕生日で、二十三歳で職に就いて以来四十五年と改めて思えば実に茫洋とする。職場では「トテツモナイですね」と驚かれた。
     こころは幼稚園の年中組になり、まだ危なっかしいが自転車にも乗れるようになった。孫は少しは成長しているが、私は成長しただろうか。この年になっても、未だにちゃんとした大人になっている自覚がない。
     旧暦三月九日、「清明」の次候「鴻雁北(こうがんかえる)」。今日は暖かくなりそうだ。本来は二月に予定されていたコースが、雪のために今日に持ち越されていたのだ。
     日暮里駅で京成線の改札に回ると、谷津駅での人身事故の影響でダイヤが乱れている。京浜東北線も新子安・東神奈川間での人身事故で乱れているようだ。三月四月は人身事故が多いような気がする。掲示板を見ていると駅員が声を掛けて来た。「次の特急に乗って下さい。青戸か高砂で乗り換えです。」特急は今日に限って青砥まで各駅で停車すると言う。どうなるか分らないが、取り敢えず前に進まなければいけない。そこにヨッシーも乗って来た。駅員は青戸か高砂と言っていたが、路線図を見ると八幡で降りれば良い。しかしみんなは大丈夫だろうか。
     八幡で降りると目の前に姫がいた。「どうなることかと思いましたよ。」私は東武伊勢崎線と京成線の関係が今一つ分っていないが、姫は東武伊勢崎線牛田駅から関谷駅に歩いたようだ。京成線のホームに入った時、ちょうど私たちの乗った特急が来たのだと言う。「この後だったら遅れていました。」五分程でやって来た各駅停車に乗って一駅で鬼越駅に着いた。ホームを西端まで歩いて線路を渡って南側の改札に出る。
     改札口を出ると道は狭く、人が集合できるような場所がない。これなら中で待っていた方が良かった。やがて人が集まって、あんみつ姫、ノリリン、マリー、ヨッシー、マリオ、ファーブル、ロダン、桃太郎、蜻蛉の九人になった。人身事故の影響も少なかった。東葛郡鬼越村である。

     ところで、この鬼越の地名については、いろいろな話が伝えられています。その昔、鬼国の人が鹿島の神(茨城県の鹿島神宮)に降伏して、この地を越えていったところから、「鬼越」と言ったとか、あるいは、字(あざ)島野には鬼が住んでいたので、そこを「鬼子居」と呼んだものが、後世になって「鬼越」となったとも言われています。(『広報いちかわ』綿貫喜郎「市川のまち地名の由来」)
    http://www.city.ichikawa.lg.jp/library/db/1069.html

     調べてみると彦根市に男鬼(おおり)、兵庫県豊岡市に鬼人谷、新潟県柏崎市に鬼王、千葉県君津市に鬼泪、山形県寒河江市と福島県白河市には同じ鬼越もある。「長野に鬼無里もありますね」と姫が言うように、鬼の付く地名はさほど珍しいものではない。

     鬼とは何か。鬼の範疇にはなお未確認の部分が残っている。いま、鬼の系譜をかんたんに分類してみると、それは(1)に日本民俗学上の鬼(祝福にくる祖霊や地霊)を最古の原像としてあげることができる。さらには、(2)この系譜につらなる山人系の人びとが道教や仏教をとり入れて修験道を創成したとき、組織的にも巨大な発達をとげてゆく山伏系の鬼、天狗が活躍する。(3)別系としては仏教系の邪鬼、夜叉、羅刹の出没、地獄卒、牛頭、馬頭鬼の跋扈も人びとをおそれさせた。以上は神道系、修験系、仏教系の鬼であるが、これとまったく別種の生活哲学に生きた鬼の族があったことを考えねばならない。(4)人鬼系といおうか、放逐者、賤民、盗賊などで、彼らはそれぞれの人生体験の後にみずから鬼となった者であり、凶悪な無用者の系譜のなかで、前記三系譜の鬼とも微妙なかかわりあいを見せている。(5)ついでは変身譚系とも名づくべき鬼で、その鬼への変貌の契機は、怨恨・憤怒・雪辱、さまざまであるが、その情念をエネルギーとして復讐をとげるために鬼となることをえらんだものである。(馬場あき子『鬼の研究』)

     鬼越の鬼は、(4)に当たるだろうか。鬼は隠の転訛であるとは『和名類聚抄』の説であるが、折口信夫はこれに反対し、中国伝来の鬼(き)と日本の「おに」は違うものであったと言う。折口によれば古代信仰の基本は「かみ」「おに」「たま」「もの」であり、いずれも殆ど同じものあった。しかし折口の文章は分り難い。

     現今の神々は、初めは低い地位のものだつたのが、次第に高くなつて行つたので、朝廷から神に位を授けられたことを見ても、此は、明らかである。即、神社の神は階級の低いものであつた。土地の精霊は、土地と関係することが深くなるに連れて、位を授けられる様になつて行つたので、其以前の神と言へば即、常世神だつたのである。
     常世神とは――此はわたしが仮りに命けた名であるが――海の彼方の常世の国から、年に一度或は数度此国に来る神である。常世神が来る時は、其前提として、祓へをする。後に、陰陽道の様式が這入つてから、祓への前提として、神が現れる様にもなつた。が、常世神は、海の彼方から来るのがほんとうで、此信仰が変化して、山から来る神、空から来る神と言ふ風に、形も変つて行つた。此処に、高天原から降りる神の観念が形づくられて来たのである。今も民間では、神は山の上から来ると考へてゐる処が多い。此等の神は、実は其性質が鬼に近づいて来てゐるのである。(中略)
     鬼と言ふ語は、仏教の羅卒と混同して、牛頭(ゴヅ)・馬頭(メヅ)の様に想像せられてしまうた。其以前の鬼は、常世神の変態であるのだが、次弟に変化して、初春の鬼は、全く羅卒の如きものと考へられたのである。つまり、初めは神が出て来て、鬼を屈服させて行くのだが、後には、神と鬼との両方面を、鬼がつとめることになつて行つた。鬼が相手方に移つて行つたのである。田楽では、鬼と天狗とを扱うてゐる。一体、田楽は宿命的に、天狗と鬼とを結合させてゐる。此は演劇の発足を示すもので、初めはしてが鬼、わきがもどきであつた。(折口信夫「鬼の話」)

     柳田國男は、妖怪は零落した神の姿であると言った。しかしここでは「鹿島の神」(タケミカヅチ)に降伏したとあるのに注目しなければならない。タケミカヅチは「香取の神」(フツヌシ)と共にヤマト王権の東国侵出の尖兵であった。下総はヤマトタケル伝説を残す地域であり、それならばヤマト王権に征服・鎮圧されて山に隠れたものを鬼と呼んだに違いない。

     万緑や鬼は野山を跳梁す  蜻蛉

     「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」(『遠野物語』)と柳田國男は高らかに宣言した。柳田は日本の先住民を想定したが、それは蝦夷である。かつては野山を跳梁した蝦夷は、散発的な抵抗を試みながら、次第に追い詰められていく。

     『日本書紀』をみると、ヤマトタケルは上総国から、船で葦浦、玉浦をめぐって、蝦夷の境にいたった、とある。『地名辞書』によると、葦浦は千葉県安房郡江見町(現在鴨川市)の吉浦を指す。玉浦は千葉県夷隅郡の太東崎から海上郡飯岡町にいたる九十九里浜のことである。こうして、ヤマトタケルのたどった道は相模から上総、下総、常陸へと進む経路をあらわしているといえよう。
     これまでみたように、ヤマト政権の基礎が固まり、その勢力が遠くに及ぶにつれて、蝦夷は東へ東へと後退した。しかしヤマト朝廷の東進をはばむ勢力を各地に残していた。そのもっとも有力な抵抗線の一つがするが出会った。ヤマトタケルが焼津で危難にあったと言うことは、駿河の蝦夷の実力のあなどりがたさを示す挿話である(谷川健一『白鳥伝説』)

     「前回立ち寄る予定で残した所を先に見ます。」南に歩き、千葉街道(二〇二号)を西に少し行けば、真間川にかかる橋の袂に坪井玄道生誕の地の解説板が立っていた。もう終わりかと思っていたソメイヨシノもまだきれいに咲いている。
     坪井玄道とは初めて知る名前で、坪井信道に所縁の人かと思った。坪井信道の「日習堂」跡地は、冬木の深川第二中学校にあった。幕末の蘭法医でその門下に緒方洪庵、川本幸民がいる。草創期の人類学を領導した坪井正五郎は信道の孫である。
     しかし玄道はこれとは関係のない人物だった(と思う)。嘉永五年(一八五二)鬼越の農家に生まれ、幕府開成所で英学を学んだ後、大学南高、東京師範学校、東京高等師範、東京女子高等師範等の教員を歴任した。
     「みんな英語を学んだんだね。」蘭学の時代は既に終わっており、近代日本を造るためには英語を学ばなければならなかった。しかし近代化が政治や経済や軍事だけだったら、明治の精神は貧しいものに終っただろう。玄道が体育学に、伊沢修二が音楽教育に進んだように、日本近代の出発は功利的なものを追うだけではなかった。大槻文彦の『言海』を加えても良い。この当時に既に人文学という概念が存在したと思えば良いだろう。
     たまたま体操伝習所の体育担当教師ジョージ・アダムス・リーランドの通訳を担当して体育学を学んだ。そして日本の学校体育の基礎を確立し、サッカー、テニス、卓球、ドッジボール等、つまり現代につながるあらゆるスポーツを紹介したのである。ネット上では、「卓球の父」、「ソフトテニスの父」等様々な記事を見ることができる。
     明治二十九年には東京高等師範フートボール(サッカー)部の部長に就任した。これが一つの例である。高等師範の卒業生は全国の師範学校の教員になる。その教え子は各地の教員になるから、サッカーが全国に普及したのである。去年の十月に、ヤマチャンの案内で旧浦和師範学校跡地の「埼玉サッカー発祥の地」碑を見たが、あれこそ玄道の教育成果だった。

     リーランドは東京高等師範学校をはじめ、東京大学予備門(今日の東大教養課程)などエリート校でも体操術を教えた。彼の通訳はどこでも坪井の担当であった。リーランドが指導した体操術は十九世紀半ばに発表されたアメリカ人ダイオルイス考案の手持ち用具(棒やダンベルなど)を活用した体操であり、この他に体育論も講義した。体育論は体育に関する医学的な理論をまとめたもので、解剖学、生理学、衛生学的見地から見た体操論である。体育思想としてはイギリスの哲学者ハーバート・スペンサー流の三育主義(知育、徳育、体育)の流れに沿ったものであった。明治十四年(一八八一)リーランドは任期を終えて帰国した。玄道はその後を受け継ぎ体操教師の養成にあたった。坪井は回想している。
     「リーランド氏の教授を生徒の前で通訳するのが、私の職務であったが、書物の講義と違って、技術に関する事なので、常に生徒に授業する前に、私はリーランド氏から其日の課業を実際に学んでおいて、それから授業に出ることにして居たので、私はいつしか一人前の体操の教師となって了(ルビしま)った。(中略)。私は体育に非常に熱心になって了ったので、とうとう(リーランドの)其後を引き受けて体操の教師として世に立つようになった」(「教育五〇年史・体操伝習所の設置」)。
     (高崎哲郎「近代日本サッカーの父・傑出した知識人、坪井玄道~その人と思想~」
    https://www.risktaisaku.com/articles/-/6538?page=2
     もう一度駅前まで戻り、京成線の線路際の狭い路地を東に歩く。アカメガシワの垣根が続き、その真っ赤な若葉が美しい。「ハナズオウですよ。」赤紫の花が見事に咲いている。花蘇芳は色から連想した和名で、中国名では紫荊と書く。荊はイバラ。ジャケツイバラ亜科ハナズオウ属。イスカリオテのユダが首を吊ったと言う伝説からユダの木とも言われると言う。
     すぐに着いたのは鬼越山神明寺だ。市川市鬼越一丁目十一番八号。真言宗豊山派。樹齢七百数十年と言う巨大なイチョウは、長い乳が垂れ、注連縄が巻かれている。「こんなの初めて見たわ。」小栗判官がこのイチョウに愛馬の鬼鹿毛を繋いだ伝説がある。また小栗判官が持仏の不動明王を安置したと言う厄除出世不動もある。鬼鹿毛は人を喰う馬であったが小栗判官の説得でその愛馬になった。旧川越街道の大和田辺でも鬼鹿毛を供養した石造馬頭観音を見たことがある。
     「小栗判官の話は知ってる?」誰も知らないようだ。小栗と言って私たちに馴染みのあるのは小栗上野介忠順だが、それとは関係ない。私が読んだのは平凡社「東洋文庫」の『説教節』の巻で、「山椒太夫」「苅萱」「信徳丸」「愛護若」「小栗判官」「信太妻」を収録している。昔借りて読んだので手元になくて残念ながら参照できない。やはり本は買わなければならないのだ。
     小栗判官は鞍馬の毘沙門天の申し子として生まれた二条大納言兼家の嫡子、あるいは常陸国小栗御厨の城主の子であるともされる。川越街道では「昔、秩父の小栗という人、江戸に急用があって」となっていた。要するに伝説上の人物である。
     「小栗判官は大力無双の武士だったんだけど、家来と共に謀殺されちゃった。」判官を私は「ほうがん」と言ってしまったが、姫の言うように「はんがん」が正しい。私は九郎判官(ほうがん)義経に引き摺られたのだが、「ほうがん」と呼ばれるのは義経だけで、一般には「はんがん」と決まっているようだ。衛門府の尉(三等官)であるが、勝手に自称したケースが多い。
     「死体はバラバラにされ、殺された家来の体の部品を使って蘇った」なんて言ってしまったが実は違っていた。私は西行の死体復元の伝説と混同している。「生き返ったけど、足は萎えて幽鬼のような姿になった。」「コワイ話ね。」照手姫ほか善意の人の助けによって地車で熊野に到着し、四十九日の間、霊湯に浸かって復活するのである。
     「それって、おとぎ話ですか?」小栗判官は説教節の主人公であり、浄瑠璃、歌舞伎でも演じられる。勿論実在の人物ではない。藤沢市の長生院に伝わる伝説、説教節の正本に見られるもの等、細部は少しづつ違う。長生院には小栗判官と照手姫の墓があり、熊野には小栗判官と照手に因む遺蹟が残されている、また茨城県筑西市では小栗判官まつりが開かれる。
     小栗は武蔵・相模の郡代(盗賊とも)横山氏の美貌の娘・照手姫のことを知り、十人の家来とともに照手姫のもとに強引に婿入りする。これに怒った横山の姦計で小栗と一党は毒殺され、小栗は上野原で土葬に、家来は火葬にされた。照手姫は相模川に流されたところを村人に救われるが、その妻の虐待を受け人買いに売られて美濃国青墓宿の万屋でこき使われる。

     小栗判官主従十一人、横山父子に毒を飼われて、小栗一人は土葬、家来はすべて屍を焼かれた。(中略)
     「さてもその後、閻魔の庁では」家来十人は娑婆へ戻っても良いが、小栗は修羅道へ堕そうと言うことになる。家来の愁訴で、小栗も十人のものどもとともに、蘇生を許される。魂魄を寓すべき前の世の骸を求めさせると、十一人とも荼毘して屍は残らぬと言う。それではと言うので、十人に懇望して脇立の十王と定め、小栗一人を蘇生させることになる。そしてその手のひらに、
     この者を熊野本宮の湯につけてたべ。こなたより薬の湯を出すべし。藤沢の上人へ参る。王宮判。
     と書いて、人間界に戻した。藤沢の上人「うのがわ原」の塚を過ぎると、塚が二つに割れて、中から餓鬼が一体現れた。物を問うても答えない。手のひらを見ると、閻魔の消息が記されている。それで藤沢寺へ連れ戻って、餓鬼阿弥陀仏と時宗名をつけて、これを札に書きつけ、土車にうち乗せて「この車を牽く者は、一ひき輓けば千僧供養万僧供養になるべし」と書いた木札を首にかけさせて、擁護人のできるまでを言うので、小法師に引かせて、海道を上らせた。この続きがすぐに、照手姫車引きになるのである。(折口信夫「餓鬼阿弥陀蘇生譚」)

     小栗判官もまた鬼であった。照手姫は、それが夫の小栗判官とは知らずに車を引くのである。藤沢の上人とは遊行寺の上人であり、時宗の熊野信仰に関係づけられて広まったことが分る。
     ところで説教節とは中世から近世にかけて、時衆や高野聖、熊野比丘尼等、神仏の霊験を語る最下級の宗教人(唱導師)によって始められた口承文芸である。想像もできないような悲惨な目にあった主人公が、神仏の加護で最後に救われる物語なのだが、現生の苦しみの形相が凄まじければ凄まじいほど、救済への願いが高まる。安寿と厨子王の苦難、継母に盛られた毒によって盲目となった俊徳丸の悲劇も、竟には救済される魂が必然的に辿らなければならない試練なのだ。この残虐な描写が唱導の売り物であったろう。やがて専門の芸能民が諸国を漂泊して語りつないでいく。
     唱導師はやがて祭文語りから浪花節にも進化していく。祭文語りを祖に持つ浪花節の、明治から昭和初期に至るまでに果たした役割の大きさについては、兵頭裕己『〈声〉の国民国家』に詳しいが、それはまた別の話だ。

     千葉街道に出て東に向かう。「怖い名前の刃物屋がある。」街道の向かいにあるのは鬼丸刃物店だった。ここにも鬼がいたか。「あのレンガは細かいね。」細かい筋模様の煉瓦造りの蔵を持つ木造二階の見世がある。街道の面影を残すものだろう。
     左に曲がる道は木下(きおろし)街道だ。木下(印西市)は銚子で水揚げされた鮮魚や物資を陸揚げした場所である。また奥州から銚子に集積した物資は北関東の物資とともに利根川系舟運で江戸に運ばれたが、行徳まで陸路で結ぶ脇往還もあった。それが木下街道である。
     シャッターの降りた店先に、マグロの中骨を吊るしているのはマグロ料理の専門店らしい。左に入る法華経寺の参道は賑わっている。日蓮宗にとって最大の霊地であるが、ここはスナフキンの案内で立ち寄っているので今日は寄らない。市川市中山の地名は、法華経寺の山号「正中山」による。
     白塗りの洒落た洋館は吉澤野球博物館だが、既に閉館になっていた。船橋市本中山町一丁目六番十号。「こういう博物館がどんどんなくなっていくんですよね。」「きれいな建物だけどね。」船橋に何故、野球博物館があるのか。「説明がないので分らないんです。」それでは調べてみよう。

     吉澤善吉が個人コレクションを元に私財を投じて一九七九年(昭和五十四年)に「吉澤野球資料保存館」として開設。当初資料保存のみを目的としていたが、二〇〇一(平成十三)年に博物館法により登録博物館となり、二〇〇三(平成十五)年には二階を増築して美術展示室を併設した。特に東京六大学野球を始めとする戦前のアマチュア野球史料の充実は特筆するものがある。
     開館当初「財団法人吉澤野球史料保存館」が運営してきたが、長らく個人運営の博物館であり、またアマチュア野球に対する関心の低迷もあって一時期運営が危ぶまれた事もあった。登録博物館となった二〇〇一(平成十三)年に「財団法人吉澤野球博物館」と改称、その後さらに一般財団法人化に伴い「一般財団法人吉澤野球博物館」に再改称した。
     吉澤理事長が百歳を超える高齢で、二〇一一年(平成二十三年)体調を崩したのを機に一般財団法人側は船橋市に収蔵品等を寄附する方針を固め、二〇一四年(平成二十六年)三月三十日をもって博物館は休館。二〇一五年(平成二十七年)十一月二十日に一般財団法人側から海保睦子・代表理事、船橋市側から松戸徹市長らが出席して、記念セレモニーが同市で開催された。
     博物館および所蔵品の今後については、船橋市側で検討する。(ウィキペディアより)

     吉澤善吉氏については早稲田出身であること、百二歳で没したことしか分らない。私は野球に殆ど興味がないが、押川春浪の天狗倶楽部のユニフォームは見てみたい。ここから船橋市に入った。

    船橋の地名の起源については諸説あるが、伝説では日本武尊が東征の折、川を渡るために船で橋を作ったのが由来とされている。市内を流れる海老川に船を並べ、その上に板を渡し橋を造った。そのような船で造られた橋のことを「船橋」ということから船橋となった、というのが最も有力な説である。海老川はかつて現在よりも水量、川幅があったとされ、現在は陸地であるが夏見干潟と呼ばれる大きな入り江があり、湊として栄えていたという。(ウィキペディアより)

     海老川を挟んで東が五日市村、西が九日市村だった。ヤマトタケルはどうあれ、市の立つ日に河口に船を並べて橋にしたのが始まりではなかろうか。この二つの村に海神村を合わせたのが江戸時代の船橋である。
     小さな神社(大宮大権現)の由緒は分らない。鳥居の前に、源平の枝垂れ桜が何本も盛りに咲いている。街道の向いに佃煮屋「はまや」を発見して姫は悩む。「寄ってみる?」とファーブルが誘う。二人は柴又の帝釈天参道でも佃煮を買っていた。「でも横断しなくちゃいけないし。」「うちの奥さんが好きなんだ。」ファーブルは行ってみたそうだったが、寄らずに前に進む。
     小栗原稲荷神社。船橋市本中山一丁目二番十六号。中世には栗原郷、江戸時代には小栗原村であった。昭和四十二年(一九六七)の住所表示で本中山に変更され、小栗原は地名から消滅した。さっき小栗判官に出会ったばかりなので、それに由来するかと思ったがそうではなかった。
     住宅地の中に、ここだけが塚になっているので古墳かと思ってしまった。千葉氏の一族である高城氏の支城だったと言われる。高城氏の本拠は小金で、東葛地域を支配して利根川と東京湾を結ぶ水運を掌握した。行徳塩田なども支配していた。
     この神社の辺りが主郭で、少し先の多門寺辺まで続く台地が城郭になっていたらしい。但し小田原征伐後は廃城になり、栗原郷は成瀬正成四千石の所領となった。城郭のあった舌状台地はこの神社を残して全て破壊され、周囲は完全に平坦な住宅地になってしまった。
     石段を登って行くと拝殿の戸は閉ざされていて、左から回り込むと奥に狐塚があった。と言っても石の台座に石碑が載っているだけだ。京成線を通すために高台の裏が削られてしまったのだ。大小の狐の石像を見て「カワイイ」とノリリンが声を上げる。小さな神社だが、四年に一度の大祭は二百年続くと言われる。
      街道の少し先が多門寺だ。船橋市東中山一丁目十五番十三号。日蓮宗。宝珠山と号す。白い八重の花はサクラかと思ったが、姫に拠ればスモモかも知れないと言う。

    寶珠山多聞寺(毘沙門天)
    開山九老僧大圓阿闍梨日傳聖人
    創建永仁六年(一二九八)
    日傳聖人が宗祖に帰依し弘法の守護神として毘沙門天を賜わり、一宇を開創した。
    本尊勧請様式は一塔両尊四士であり、祖像は、享保年間(一七一六〜三六)の説法像である。
    この地は、昔、二子ヶ浦といい、日蓮聖人が鎌倉へ布教におもむく時に、船出をされた霊跡であり、この由緒深い地に一宇が建立された。又、境内には、慈母観世音菩薩が安置されている。(境内掲示より)

     建長六年(一二五四)、日蓮は安房小湊の清澄寺を退出して、鎌倉に赴くためにここにやってきた。街道の辺りまで海が来ていたことが分る。「昔、潮干狩りでこの辺まで来ましたよ。」ヨッシーの言う通り、船橋三番瀬は今でも潮干狩りの名所らしい。東京湾の東海岸は、今では埋め立てられてしまった谷津遊園や幕張、稲毛なども潮干狩りの名所であった。
     街道を渡って斜面を下りると住宅地の中に小さな池がある。二子藤の池。船橋市東中山一丁目三一六番。二子は江戸時代には三百六十石の村で、街道から南は一面の田んぼが広がっていた。葛西湧水群の案内板があるが、今では湧水の面影はない。水田用の溜池である。崖線だから水が涌いたのだろう。湧水と言えば三島の湧水群は圧倒的だった。池の中に藤棚が作られているのは、かつては藤があったことを偲ぶのである。
     少し先にはもう一つの池があった。二子浦の池だ。「オタマジャクシだ。」かなり大きくなっている。もう少しで足が出てくるだろう。「さっきの池にはいなかったけどね。」そろそろ腹が減って来た。

     溜池や葛飾の野に蝌蚪太る  蜻蛉

     中山競馬場入口。私は競馬には全く縁がないが、中山大障害や有馬記念が行われる。十五分程歩くと西船橋駅入口が見えて来た。姫はその辺で昼食にすると言っていたから、もうすぐだ。駅に向かって右に曲がると、歩道に「葛飾小学校開校の地」碑が建っている。明治二十五年の開校である。男子百六十一名、女子九十四名の記録がある。今では東京都葛飾区だけしか知らない人が大半だろうが、かつての下総国葛飾郡は江戸川を挟んだ両岸の東京府・埼玉県・千葉県・茨城県に及ぶ広大な地域だった。
     それにしても西船橋は随分変わった。と言っても私が知っているのは四十年以前、武蔵野線がまだ開通していない頃だ。中山競馬場への最寄駅で、はっきり言って駅周辺はいかがわしい雰囲気が漂っていた。「若松劇場って知ってますか?」ヨッシーの口からこの劇場名が出てくるとは思わなかった。若松劇場(船橋市本町)は名門であったが、私が良く来たのは西船OS劇場だ。「それって田んぼの中でしたよね?」ロダンも知っていた。映画館ではない。午前中なら「早朝割引」の制度があった。OSは大阪ストリップの略だと言う説があったが、本当かどうか分らない。西川口にもOS劇場があった。「過激でしたね。」
     芸能史を紐解けば、ストリップ劇場はかつて若手喜劇人が火花を散らした舞台でもあった。しかし私はその牧歌的な時代を知らない。渋谷道玄坂で、ストリップの合間に中年の漫談師が誰も笑わない漫談を演じていたのを見たのが最初で最後だ。私たちは「遅れて来た青年」でもあった。

    一九五〇年代、フランス座やロック座、カジノ座、東洋劇場など浅草公園六区、そしてムーランルージュ解散後の新宿セントラル劇場、新宿フランス座といったストリップ劇場では幕間に軽演劇の流れを汲むコントが行われ、佐山俊二、長門勇、谷幹一、関敬六、戸塚睦夫、海野かつを、渥美清や、東八郎、由利徹、八波むと志、財津一郎、三波伸介、伊東四朗、石井均、萩本欽一、坂上二郎やや間があって一九七〇年代のビートたけしなど、昭和を代表する喜劇人や井上ひさしなどの脚本家を連綿と輩出する舞台にもなっていた.(ウィキペディアより)

     その時代の雰囲気は、小林信彦『日本の喜劇人』で知ることができる。しかし一九六〇年代末から一九七〇年代にかけて関西から過激な演出が上陸してきて、ストリップ劇場の様相は一変した。もはや喜劇人の登場する暇はなくなっていたのである。過激な風俗はいつでも関西からやって来た。日活がロマンポルノに転換した時代でもあった。

     しかしこんなことは余計な話であった。姫が入った店は「なか卯」だった。私は吉野家とか松屋のようなファーストフード店と思っていたが、二階にはゆっくりできる席がある。食券を買って二階に上がれと言う指示だ。十一時十五分。
     自動券売機は難しい。私とファーブルはうどんと牛丼のセット五百円にした。この量でこの金額なら学食より安い。「どうしても注文ができないのよ。」ノリリンは何度挑戦しても初期画面に戻ってしまう。見ていると、注文確定の積りで押しているのは取消ボタンだった。「あら、そうだったの。」二階に上がれば他には誰もいない。桃太郎が券売機でビールを注文したので誘惑に負けてしまった。「安いからいいじゃないですか。」キリン一番搾りが二百九十円である。
     食券は一階で渡してしまったので、自分が何を注文したのか正確には覚えていない。ただ、ファーアブルと二人で注文したから、一緒に来れば分るだろう。しかしそんな風には提供されなかった。ひとつづつ、前後の関係なく出てくるのである。ミニ牛丼とうどんのセットが一つは出て来た。誰も手を上げないが、これは私の分らしい。しかしもう一つが出てこない。「先に食べてよ。」
     「ハイカラうどんってなんですか?」姫に訊かれて、目の前のうどんがそんなものであることを初めて知った。店のホームページを見ると、揚げ玉の入ったうどんをそう呼ぶのである。関東では一般に「たぬき」と言うのではないだろうか。
     しかし、キツネとタヌキの区別は難しい。ウィキペデォイアによれば、大阪では油揚げを載せた蕎麦を「たぬき」、うどんをキツと呼ぶ。京都ではうどん蕎麦の区別なく刻んだ油揚げの上から葛餡を掛けたものを「たぬき」と呼ぶ。そして揚げ玉(天かす)を載せたものを一般に「ハイカラ」と呼ぶのだそうだ。因みにマルチャン(東洋水産)の「赤いきつね」は油揚げのうどん、「緑のたぬき」は天ぷら蕎麦である。
     「テレビはご自由に変えて結構です」と店員がリモコンを持ってきた。親切なことだが、テレビを見ようとは誰も思っていない。
     やがて牛丼とミニうどんが出て来た。これは桃太郎らしい。「いくら?」「五百円」同じ値段だったからそっちすれば良かったかな。やがてファーブルに出てきたのは桃太郎と同じものだった。なんだかおかしい。たぶん私が食べたのが桃太郎の注文だったのだ。
     姫はうどんだけを注文してしまい、量が少なすぎるとこぼしている。「こんなに少ないと思わなかったんだもの。」マリーとノリリンは親子丼とミニうどんのセットである。

     十二時に店を出て姫はすぐにコンビニに入って行った。「どうしたの?食べられなかったのかしら。」「量が少なすぎたらしいよ。」おにぎりでも買うのかと思ったら、何かのお菓子を持って出て来た。「お行儀悪いですが歩きながらいただきます。」
     「飲み屋が一杯あるね。今日はここに戻って来ようか?」桃太郎はもう夕方のことを気にしている。確かに二十四時間営業の磯丸水産もあるから、早い時間に終っても大丈夫だ。しかし今日の目的地は船橋である。飲み屋は向こうにもあるんじゃないだろうか。
     次は春日神社だ。船橋市印内町四九四番地。民家の間の狭い道が、参道というより登山口のような雰囲気になっている。「砂地だね。」「海岸だった名残だね。」石造神明鳥居の次に木造の両部鳥居があり、扁額はなく貫の上の板に春日神社と書いてある。石段を上り終えると拝殿前には溶岩を置いて、その上に獅子が鎮座している。拝殿は倉庫のようで扉が閉ざされている。裏に回れば本殿には覆屋もなく露天のままだ。彫刻は殆どない。
     「春日神社の祭神は誰ですかね?」「藤原氏の氏神なんだけどね。」それは知っていても、その正体は何だったか。春日大社のホームページを見ると、タケミカヅチ(鹿島の神)、フツヌシ(香取の神)、アメノコヤネ(藤原氏の祖神)、ヒメガミ(コヤネの妻)の四柱を春日神としている。アメノコヤネはニニギ降臨の際に随伴した神であり、藤原氏(中臣氏)は代々鹿島神宮の神祀官の職にあった。
     武蔵野線の下を潜って少し行った辺りで姫が迷った。「神社がありませんでしたか?」少し戻ったがそれらしいものはない。「下見をしたのが随分前だったから。」ヨッシーが地図を広げてくれると、どうやらもう少し先のようだ。そのまま少し歩けば街道に面して大きな石柱が建っていた。これなら見落とす筈がない。山野浅間神社。船橋市西船一丁目五番七号。旧山野村の鎮守である。
     長い立派な参道は松の緑がみずみずしく、そこに桜の白がかぶさる。「きれいだから。」階段が長いので姫は入口で待っている積りだったが、無理やり呼び寄せた。下りは坂道がある筈だ。最初の石段の頂上に、石造明神鳥居が建っている。二百メートルの参道をいくつか階段で上り、最後の石段の両側は溶岩で造られた獅子山になっている。  権現造りの社殿だ。「立派じゃないの。」唐破風の上に千鳥破風が載る。本殿は流造の覆屋で隠されている。

    此の神社、奈良平安時代から山野浅間神社と稱する一宇の祠は、駿河の國富士浅間社の勧請で木花咲耶姫を奉祀して、縁結び、安産、子育ての神として近郷近在の尊詣頗る厚く、毎年七月一日の山開きには、お禮詣りの善男善女が列をなし登山参拝して大賑いであったと傳へ現在もその隆盛を誇っている。
    山野浅間神社の名が廣く世に知られる所以である。
    爾来、嘉永三年に神殿として造営され、昭和四十七年七月に増改築が行はれ間口四間三尺奥行七間三尺に及ぶ新社殿となった。

     この高台の境内は標高二十二メートルあって、昭和初期までは富士山が見えたと言う。古峯神社、藤森稲荷神社、天満宮、妙見神社、稲荷大明神、諏訪神社の石祠が並んでいる。
     「山野小唄」の歌碑がある。黒御影の立派な石碑だが、歌の中身は大したものではない。ただ、冒頭の「松の緑に桜が映える」と言う句は、まさに今見ている景色その通りなのだ。黄色の花はキンシバイかと思ったが、「ヤマブキでしょう。キンシバイにはまだ早いですよね」と姫に一蹴されてしまった。
     下りの坂がある筈だ。左に曲がると行き止まりだった。「それじゃ向こうだ。」右に曲がると車道が下っている。そして街道に出た。「ここに出たんですね。」神社の駐車場入り口だった。

     街道の向こう側に渡り、十五分程歩いて住宅地に入ると龍神社だ。船橋市海神六丁目二十一番十八号。海神の地名はこの神社に由来する。社殿は南に向いているが、鳥居が東向きだ。かつては南の海に向かって参道が続いていた筈なのに、南側は総武線、京葉道路が走って抜けられなくなり横から入るようになったのだ。

     龍神社のいわれ  龍神社は、西海神の鎮守で大綿津見命を祀る。仏名を娑羯羅龍王(しゃからりゅうおう)という。阿須波の神ともいわれる。明治以前まで大覚院が別当をしていたと伝えられ、同寺の山号を龍王山と称する。
     万葉集巻二十に 「庭中(にはなか)の阿須波(あすは)の神に小柴さし、吾は斎(いは)はむ。帰り来るまで」 の歌が伝えられている。
     境内にある小さな池には弘法大師の石芋や片葉の蘆の伝説が残されている。(境内石碑)

     海の神はワダツミ、山の神はヤマツミと呼ばれる。大綿津見命(オオワダツミ)はイザナギ、イザナミの間に生まれた海神である。娘にトヨタマとタマヨリがいて、トヨタマは山幸彦(ホオリ、ヒコホホデミ)との間にウガヤフキアエズを産む。ウガヤフキアエズはタマヨリとの間に神武を産んだ。トヨタマの本体が鰐(龍)であったからには、その父も妹も龍であった。娑羯羅龍王は竜宮の王である。
     阿須波(あすは)の神は初めて知った。どうやら「あすは」は足場であるらしい。屋敷を守る神である。

     「庭中の 阿須波の神に 小柴さし 我は斎はむ 帰り来までに」という例が見えることから、庭に小柴を立てて降神する神籬祭祀の神であり、旅の安全を守る神として信仰されていたと論じる説があるほか、足場の神とする説もある。また、和名抄に足羽郷が見えることから、元来は現在の福井県福井市足羽地域の土着の神で、葦葉神、あるいは、土の神とする説もある。(國學院大學古事記学センター「阿須波神」)

     透かし塀の中の本殿は屋根で覆われているだけで、見事な彫刻を見ることができる。溶岩の上には親獅子が下を見下ろし、下に子獅子がいる。「千尋の谷に落とされたんだな。」「カワイイ。」「子どもはいつも下にいるんですか?」「これは珍しいですよ。普通は母獅子に抱かれているんです。」ここには弘法大師の石芋伝説がある。

    里諺に云く、往古弘法大師東国化度のとき、日ぐれにおよびてこのところを通らせられ、とある家に入りたまひて一宿を乞ひたまふに、その家に一人の老媼ありて、これを許しまゐらせず。大師邪見の輩を教へ導きたまはん方便にとて、その家の傍らの芋を加持して石となしたまふとぞ。このゆゑに、その芋四時ともに腐れずして、年々に葉を生ずとなり。(『江戸名所図会』)

     街道に戻って東に行くと、旧道との三差路に出た。その角が龍王山海蔵寺大覚院だ。船橋市海神六丁目一番九号。真言宗豊山派。上の記事にもあるように、龍神社の別当寺であった。かつては「赤門寺」と呼ばれたと言うが、今は屋根が取り払われて冠木門になっている。赤門の由来は分らないが立派な寺であることは間違いない。

     大覚院は、もとの西海神村と船橋山谷海神の境、現在の海神三叉路際にあり、龍王山海蔵寺大覚院という。真言宗豊山派の寺である。
     天正十七年八月五日、権大僧都法印秀巌和尚の創建と伝えられるが、これより古いともいわれている。寺でも中興の僧を権大僧都法印秀巖というと伝える。この秀巌の時代に山号寺号をも改め、あるいは宗派をも改め、寺観を一新したと思われる。
     もとは鎮守龍神社の別当であり、海上安全を祈る寺であった。(大覚院縁起)

     門前には湯殿山・月山・羽黒山供養塔がある。「青面金封(?)王」と彫られ、下に三猿のいるのが珍しい。庚申塔であることは間違いないだろうが、金剛でなく金封王とあるのは見たことがない。「剛」の異体であろうか。
     「モダンな七福神のレリーフがあります。」大師像の前には、敷石に番号を振った回遊路が設けられている。八十八の石の下に四国各寺の砂が埋められ、四国八十八ヶ所巡りが一気にできるのだ。「一番はどこ?」「そこにあるよ。」私を除く全員は律儀に八十八の石を踏んだ。「これで長生きできるな。」「いつか全部回りたいの」とノリリンが言う。

    歩き遍路は、一番費用がかかります。一番~八十八番まで約千二百二十キロの道のり歩いたとして、足の速い人で約四十五日、遅い人で約六十日かかります。仮に五十日で歩いたとしまして、お安い宿に泊まったとして七千円×五十日=三十五万円、その他、昼食代や交通費、納経代金、雑費で約五十万円は必要と言われております。一日当り一万円は必要になりますね。歩き遍路は、贅沢遍路と言われております。(お遍路専門旅ネット四国)
    https://www.junpai.co.jp/shikoku88/arukihenro/aruki/

     みんなは五十万円分を二三分で歩いたのだ。ピンクの花は何だろう。「カリンですよ。」カリンの花なんて初めて見た。かつてはバラ科ボケ属に分類されていたという通り、なんとなくボケにも似ている。現在はカリン属とされる。
     三叉路に戻って旧道を少し行けば式内元宮入日神社だ。船橋市海神三丁目七番八号。式内社なら由緒は古い。「式内社って延喜式でしたか?」「そうです。」延長五年(九二七)にまとめられた延喜式の巻九・十が神名帳になっている。全国に鎮座する神は三一三二座である。

     意富日(おおひ)の神社初め鎮座の地 船橋駅舎の入り口、海神村御代川氏某が地にあり。日本武尊この海上にして八咫鏡を得たまひ、伊勢太神宮の御正体として鎮座ありし旧跡なりといふ(いま、意富日の神社の地よりこのところまで八丁ばかりあり。御代川氏、昔は澪川につくる。澪は水の深きところをいへる訓義にて、日本武尊を導きまゐらせ、このところの海の澪をしらせ奉り、神鏡を得せしめまゐらせたりしものの後裔なり。その子孫、いまなほ連綿たり)。(『江戸名所図会』)

     ヤマトタケルが上総から船に乗ってこの地に上陸したというのである。「上総、下総って、京都に近い方から上、下って言ったんですよね?」ロダンは正しい。古代の東海道は、三浦半島から船で上総あるいは安房に渡った。神奈川から品川を経由する江戸時代の東海道はまだ海の中である。上総国府(市原市)からは陸路で上総国荒海(成田市)を経て香取海を渡船して常陸国に向かう。一方、上総から房総半島沿岸を船で辿る分岐もあった。『古事記』、『日本書紀』に記されるヤマトタケルの行程には、この辺を通った記録がない。
     宝亀二年(七七一)、東山道の武蔵国が東海道に編入されると、相模から武蔵国を経由して下総に行く官道も造られた。但しそのルートがどこを通ったか良く分らない。武蔵国府(府中)から豊嶋郡衙(西ヶ原の平塚神社辺)までは奥州道として分る。そこからまっすぐ東に向えば国府台まで辿ることができるが、隅田川のどの辺りを渡ったのかが分らない。
     意富日(今は意富比)とは船橋大神宮で、ここはその旧跡とされるのだ。引き戸を開け放った覆屋に本殿が鎮座するだけの簡素な造りだ。伊勢神宮内宮をもっと簡素にしたと言えば良いか。祭神はアマテラスとヤマトタケル。入日というからには海に沈む夕日が見えたのである。意富日は大いなる日の謂であるとの説が有力らしいが、太陽神への信仰なら東に向くのが普通ではなかろうか。

     往古、当社創建の折、遥か海上より御神体が小舟でこの地に漂着したといわれ、町名「海神」の起源となったという。(『千葉県神社名鑑』)

     それなら恵比寿神と同じように、漂着する神への信仰だったのではないか。漂着する物は神の贈り物、あるいは神そのものと思われた。「古代の村々に、海のあなたから時あつて来り臨んで、其の村人どもの生活を幸福にして還る霊物・来訪する神」を折口信夫はマレビトと呼んだ。海のあなたは常世の国であった。

    浦島ノ子の行つたのも、常世の国である。此は驚くべき時間の相違を見せてゐる。而も、海のあなたの国と言ふ点では一つである。此話は、飛鳥の都の末には、既に纏つてゐたものらしいが、既にわたつみの宮と常世とを一つにしてゐる。海底と海の彼方とに区別を考へないのは、富みと齢との理想国と見たからだらう。(折口信夫「『とこよ』と『まれびと』と」)

     総武線の跨線橋を渡り、墓地の裏から降りていけば海神念仏堂だ。船橋市海神一丁目十七番十六号。墓地の国道沿いの崖下には、取り壊された墓石や如意輪観音像が山積みされている。いくら無縁になったからと言って、もう少し扱い方があるのではあるまいか。
     念仏堂は昔の公民館の集会所のような建物だ。念仏講に大勢が集まるのだから、これは当たり前のことか。本尊の寄木造・定朝様の阿弥陀如来立像は平安時代後期から鎌倉時代初期のものと言う。かつて天摩山善光寺に納められていたが、善光寺が廃寺となって、一時小金の東漸寺に移され、後に高麗屋佐治右衛門がこの念仏堂に納めたと伝えられる。
     但しここで行われる念仏はちょっと変っていて、天道念仏と言う。天道は天道様(おてんとさま)である。『江戸名所図会』に「船橋駅 天道念仏踊之図」が描かれている。現在でも毎年三月の第二土曜日、祭壇の中央に梵天を立て、その前に大日如来を祀る。講中の人々が祭壇の前で念仏を唱え、梵天の周りを鉦かねと太鼓に合わせ「テントウダー、ナンマイダ」と唱えながら回る。

     千葉県では、旧千葉郡を中心として、天道念仏と称し、村ごとに春二月・三月に出羽三山をかたどった祭壇を作り、念仏を唱え作物の豊作を祈るなど、農耕儀礼に展開した。船橋については『江戸名所図会』に絵に描かれた記録が残る。春の彼岸頃に行われることが多く、浄土信仰とも混淆し太陽を拝んで到彼岸、極楽往生を願った。祭壇は出羽三山をかたどり、梵天を立て、中央に総奥の院の湯殿山を配した。湯殿山は、胎蔵界大日如来を本地、天照大神を垂迹としており、太陽信仰と習合した。千葉県には出羽三山講が広がり、天道念仏は修験道の影響を強く受けた民間行事となった。(ウィキペディアより)

     念仏「ナンマイダ」は勿論「南無阿弥陀仏」であり、阿弥陀如来による救済を願うものだ。大日如来を祀ってこれを唱えるのは不思議ではあるまいか。私は密教における大日如来というものが良く分っていない。
     観音堂の傍らに建つ大きな山形板碑の道標は元禄七年(一六九四)に建てられた。「右いち川みち 左行とくみち」。江戸からの成田参詣者の多くは、船を使って行徳で降り、それから成田街道を歩いた。芭蕉も一茶も一九もそのコース辿った。
     墓地には戊申戦争の戦死者、福岡藩小室彌四郎、その従卒三人(筑州人彦市、喜市、勝平)の合葬墓が建つ。
     江戸無血開城の日(四月十一日)、大鳥圭介は伝習隊千六百人を率いて江戸を脱出して国府台に出陣した。この報を聞いて、撒兵隊二千を率いて木更津に出兵していた元歩兵頭の福田道直が九百人の援軍を送った。しかし大鳥は流山で近藤勇が捕縛されたことを知り、国府台を捨てて日光に向かう。江原鋳三郎(素六)率いる撒兵隊が到着した時には、伝習隊は既に出発した後であった。江原は怒り心頭に発しただろう。撒兵隊は中山法華経寺と船橋大神宮(意富比神社)を陣所とした。これに対して新政府軍は武装解除交渉を行ったがまとまらず、慶応四年閏四月三日に戦闘が起こった。これを市川・船橋戦争と呼ぶ。

     行徳街道を進軍してきた新政府軍 福岡藩兵と中山法華経寺から大神宮に向かっていた旧幕府軍との間で、激しい銃撃戦が始まりました。
     暫くして、ここから南へ少し行った水田の中で福岡藩の小室彌四郎と旧幕府軍の江原鋳三郎の格闘が行われました。小室は江原を組伏せいまにも切ろうとしたとき、江原の部下の古川善助と他一名が駆けつけ、逆に小室は惨殺されてしまいました。
     隊長の矢野安太夫は小室の死を悼み、ここに葬り小碑を建てましたが、千葉県は殉国の志を哀れみ、明治十九年三月にこの墓碑を建立しました。

     そして上野戦争はこの一ヶ月後のことだ。「賊軍の墓は建てられないんだね。」「官軍、賊軍って見方の違いですよね。」「勝てば官軍。」「どっちにつくかは運なんだよ。」
     街道に戻って少し行くと地蔵院だ。真言宗豊山派。勝軍山蓮華寺と号す。船橋市海神一丁目二十一番二十二号。

     「船橋町誌草稿本」によると、天正三年(一五七五年)僧長蓮、法印勝誉の創建と言われ、初めて高堂を栄構して伽藍を建造し勝軍山地蔵院と称したとある。その後、永禄年中、慶長年中と幾度か再建され、明治期には海神小学校の前身である用九小学校であった。現在の地蔵院は昭和五十九年に、真言宗の開祖である弘法大師空海の一一五〇年の御遠忌記念事業として再建され、近代的な中二階鉄筋コンクリート建て、本堂・客殿・会館である。また、千葉県八千代市八千代台南に八千代別院(八千代地蔵院)・千葉県市川市柏井町に市川別院(市川地蔵院)として新寺建立された。

       「お地蔵さんの持ち物がみんな違うんだ?」ファーブルは六地蔵に注目する。一般的には左手に如意宝珠、右手に錫杖持つ姿をよく見るだろう。六地蔵は六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)に輪廻転生する生類を救うため、それぞれの世界に登場する。だから持ち物が違うのではないだろうか。
     調べてみると持ち物の推理には様々な説があって一定していない。『地蔵菩薩霊験記』にも「六種の地蔵を明かさんと欲するに異説ありて一定せず」とある。持ち物は蓮華、錫杖、香炉、幢(一種の旗)、数珠、宝珠等になるようだ。地蔵の名称も経典によって異なると言う。
     「蓮華三昧経」では、檀陀(だんだ)、宝珠、宝印、持地、除蓋障(じょがいしょう)、日光地蔵と称す。また東密天台宗「地蔵菩薩発心因縁十王経」では金剛願、金剛宝、金剛悲、金剛幢、放光王、天賀地蔵と称す。「地蔵十輪経」では禅林地、無二地、諸讃、諸龍、伏勝、伏見地蔵尊と称す。臨済宗聖典では、法性、陀羅尼、宝陵、宝印、鶏兜、地持地蔵と称すという。
    ((仏像ドットコム「六地蔵菩薩」より)https://www.butsuzou.com/jiten/6jizou.html  「この仏さんを見ると、歯が痛いのかなっていつも思う」とマリオが笑う。如意輪観音だ。「これは半跏思惟像っていうんだ。考えてるんだよ。」「そうか、ロダンか。」右足を垂らした左足の膝に載せ、右手の指を頬に充てて首を傾ける。如意輪観音の代表的な像容だが、弥勒菩薩もこの形で表される。
     「シユイってどんな字?」すぐに出てこないのが恥ずかしい。「思惟」と書いて「しゆい」と読ませる。「女人講の守り本尊だよ。十九夜ってあるだろう?」安産・子安の神である。乳幼児死亡率の高さ(五歳以下で二十パーセントを越した)と、出産による母体の死亡率の高さは、江戸時代の最大の問題であった。

     短命な社会は、多くの幼い者たちの犠牲の上に成り立つ社会である。子どもの命はいともはかなく、危ない存在であった。そこに、子どもに対する矛盾する感情と価値観が生まれる苗床があった。子は宝として大切にされる反面、意思のないものとして命さえもがおとなの側の都合にしたがい、与えられもし、奪われもした。
     「七歳までは神のうち」ということわざがある。生存の可能性が不確かであるうちは人間として承認しないことは、夭折を嘆き悲しむ感情を緩和するうえでも、間引を行ううえでもある種の合理性を持っていた。(鬼頭宏『人口から読む日本史』)

     ただし、「七歳までは神のうち」について、これが古代からの日本人の伝統的心性だとする説を柴田純『日本幼児史考』が批判している。

     柳田国男の〝七つ前は神のうち〟という主張は、後に、幼児の生まれ直り説と結びついて民俗学の通説となり、現在では、さまざまな分野で、古代からそうした観念が存在していたかのように語られている。しかし、右の表現は、近代になってごく一部地域でいわれた俗説にすぎない。(中略)
     すなわち、これまでくり返し述べてきたように、幼児は「無服」で、大人とは違って神仏に対する「不敬」の対象とはならず、かつ絶対責任無能力者だという観念と、近世中期以後に成立してくる幼児保護の観念とが結びついて、昭和十年代に〝七つ前は神のうち〟といった俗説的表現が成立したのである。

     女人講に関係するのは、むしろ出産と死亡に関する恐れである。出産は命を懸けた大事業であった。都市部と農村部とでは異なるが、農村の女性は平均して五人の子を産んだ。

     結婚後一〇年以内に妻の死亡による解消の多いことも江戸時代の特徴である。一〇年以内の妻の死亡は夫の三倍あるが、明らかにそれは出産にともなう妊産婦死亡率が高かったことに原因がある。(中略)
     高い死亡率の背景には、妊婦にとって厳しい労働環境、栄養不足、母子衛生への配慮不足などの問題があるほかに、出生制限、すなわち間引による死亡も隠されているに違いない。(中略)
     出生とその後の生存が子供にとって不確かであったように、母親にとっても出産は危険に満ちていた。飛騨の過去帳から作成された衛生統計によると、二一~五〇歳の死因のうち男女込みで一二%が産後死および難産死によって占められていた。女子に限るならば、それは四分の一を上回っていただろう。(鬼頭・同書)

     住宅地の中にあるのは日枝神社。船橋市本町一丁目二十一番六号。境内は子供広場になっていて、ここ休憩する。ヨッシーがバナナを配ってくれる。昼食後に姫が立ち寄ったコンビニで買ってきたのである。「ヒエダって読むの?」姫の案内文には「ひえだじんじゃ」とフリガナを振っているのだ。しかしこれはヒエ神社の間違いだと思われる。

     昔から山王様と呼称されて土地の人々には産土神であり信仰の中心であった。明治初年頃神仏分離令により日枝神社と改称され、明治四十三年には村社日枝神社となる。大正十年当時の在郷軍人会が中心となり社殿の大改築が行われ、昭和六十年現在の社殿の様姿となす。(境内掲示より)

     しかし山王社、日枝神社で祭神を宇賀魂神(稲荷神)とするのは不思議だ。普通は大山咋神オオヤマクイ(比叡山と松尾の地主神)とするだろう。明治の神仏分離でいい加減なことになったのではないか。
     「船橋です。」船橋駅前から南西に伸びる道の京成船橋駅前に着いたのは二時十分だ。一万五千歩。九キロ弱と言うところだろう。「この辺でやってる店があるかな?」「向こうの方が栄えてますよ。」ヨッシーはご子息が船橋在住だから詳しいようだ。京成船橋駅の辺りから通りを越えていく。
     「ここがいいんじゃないか?」ビルの六階まで上ってみたが、やはりこの時間では開いていない。一階まで戻って、さてどうしようか。その時、ノリリンがサイゼリヤはどうかと提案してくれた。同じビルの一階奥にある。サイゼリヤならワインと言う手もある。「ビールだってあるでしょう。」九人全員が席に着いた。
     ノリリン以外はビール、彼女はノンアルコールに決める。「カシスオレンジしか飲めないんです。」サイゼリヤにはそれがなかった。漬物も甘いピクルスしかないが贅沢は言えない。
     ワインのメガボトル(一・五リットル)が千八十円だ。「白と赤を頼もうか?」取り敢えず様子を見るためにまず赤を注文した。このサイズの瓶は初めて見るが案外簡単に空になる。「それじゃ次は白を。」ピザなどをつまみに。合計三リットルのワインを飲み干した。一人千二百円。「異常に安いね。」  まだ明るい。ワインだけでは物足りず、姫、マリー、ファーブル、蜻蛉は漸く開き始めた居酒屋に入った。

    蜻蛉