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    成田街道 其の四 船橋
      令和元年六月八日(土)

    投稿: 佐藤 眞人 氏   2019.06.17

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     二週間ほど咲いていたビヨウヤナギもそろそろ終わりかと思った矢先、いきなり梅雨に入った。今日は曇り空で午後から雨になる予報がでている。旧暦五月六日。芒種の初候「蟷螂生(かまきりしょうず)。
     集合場所の船橋までは、武蔵野線を使うより池袋から秋葉原を経由する方が少し安い。九時四十分に船橋駅に着くとあんみつ姫と桃太郎がいるだけだ。「三人だけってことないよね。」そこにヨッシーとスフキンが現れた。「早く着いたら誰もいないから、ヨッシーと二人でコーヒー飲んでたんだ。」「私は三十六分に着きました。」二人は相当早く来ていたのだ。五分前にファーブルが現れた。「雨の予報がでてますからね。少ないかも知れないわ。」しかし定刻ぎりぎりになって、ハイジ、ノリリン、マリーが到着して今日は九人で決まりだ。ロダンは御母堂の葬儀のために水戸に帰っている。

     南口に出て京成線を越え、本町一丁目交差点から街道を少し東京方面に戻る。この辺りが船橋宿の中心になるようだ。歩道に立つ猿田彦神社の道標の形が面白い。矢が突き刺さった的がやや台形の石に載り、現在地からの簡単な地図、「叶」の文字、そして説明が記されている。地図を見ればもう少し駅寄り、ドン・キホーテの裏手の辺りにあるらしい。猿田彦は道案内の神であり、また道祖神やサエ(塞)の神とも習合するから、宿場の守りとして祀られたのだろう。
     船橋には成田(佐倉)街道、上総街道、行徳街道、御成街道が集中し賑わった。東金まで御成街道が整備されたのは、将軍の鷹狩のためである。寛政十一年(一七九九)に二十二軒あった旅籠は、文化十五年(一八一八)には二十五軒と増え、大半は飯盛女を抱えていた。
     道路の向かいに割烹(鰻・和食)稲荷屋のビルを見て、「残念ですが今日は鰻は食べません」と姫が断言する。慶応元年創業の老舗だが、昼の鰻定食が二千八百円ならそんなに高級ではなさそうだ。余計なことだがメニューを調べると、梅コースは六千円、松コースは一万一千円。梅コースで酒を飲んで一万円というところか。ヤッパリなかなか手が出ない。「ウナギは成田で食べよう。」「ウナギは浦和も有名よね。」「うなこちゃん。場所が変わったのよ。」それは知らなかった。「浦和は蒲焼発祥の地だって言ってるんだ。」
     西向地蔵の道標のすぐ先に地蔵堂があった。船橋市本町二丁目。確かに西を向いている。かつては処刑場だったと言うから、ここが宿場の外れだった。堂内には万治元年(一六五八)の船橋市最古という地蔵、延宝八年(一六八〇)の阿弥陀如来、元禄九年(一六九六)の聖観音が並んでいる。街道側には五体の地蔵と、ひときわ大きい地蔵が並ぶ。「六地蔵にしては変だな。」縁結地蔵と書いてある。
     「お寺や神社は基本的に南向きに建てられるって聞いたことがあります。」私にはそのあたりの知識がない。「街道の向きで決まるんじゃないの?」天子南面するからには、南向きが多いのは想像できる。街道の北側に位置する寺社であれば、当然南を向くだろう。しかし逆の場合は北を向くのではあるまいか。
     調べてみると確かに南面するのが最も多いが、浄土宗系では東を向くと言う。西方浄土の阿弥陀如来を拝むことになるからだ。北向きはかなり例外的で、西向きも少数ということらしい。ただ地蔵に関して言えば北向きも全国で四百体ほどあると言う。
     街道を戻って船橋市民文化ホールの前庭に入る。船橋市本町二丁目二番五号。ここには太宰治の借家にあったものを移植したと言う夾竹桃が立っている。「まだツボミですね。」「二三輪咲いてますよ。」「夏の花ですよね。」

    ・・・・・船橋の家は三間のようだった。南に二間が続き、酉の玄関脇に一間の茶の間、そこからお勝手が続いているといった間取だったように記憶している。家賃は十七円か?
     玄関の左横に爽竹桃が一本植えられてあった。太宰は私を散歩に連れだす時に、指さして、「夾竹桃だよ。檀君、爽竹桃」私の郷家の辺りでは珍らしいことも何もない。太宰がどうしてそのように嬉しそうに、又繰りかえし語るのかわからなかったが、太宰の追憶の中に、この木にまつわる思い出でもあったのかで 太宰は単衣の手放の着流しに、細い竹のステッキを振りながらよろよろとよろけ出た。(檀一雄『小説太宰治』)

     五年間の在学中授業に一度も出ないのだから大学卒業は絶望的だった。 昭和十年(一九三五)三月、太宰は鎌倉で縊死を企てて失敗した。四月には盲腸炎で入院したが、術後腹膜炎を起こした。この時に痛み止めに使ったパビナールがやがて太宰を中毒症状に追い込む。パビナールはオキシコドンというものらしい。アヘンに含まれるアルカロイドのテバインから合成される。麻薬及び向精神薬取締法における麻薬で、劇薬でもある。
     五月、日本浪漫派に参加して『道化の華』を発表、七月、病後療養のために小山初代(青森の芸者)と船橋の借家に転居した。八月には『道化の華』が第一回芥川賞の候補になったものの、川端康成の反対にあって落選した。その時の受賞作は石川達三『蒼茫』で、現在からみれば文学的評価は全く逆になる。

     あなたは文藝春秋九月号に私への悪口を書いて居られる。「前略。――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあった。」
     おたがいに下手な嘘はつかないことにしよう。私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。これでみると、まるであなたひとりで芥川賞をきめたように思われます。(中略)
    ・・・・八月の末、文藝春秋を本屋の店頭で読んだところが、あなたの文章があった。「作者目下の生活に厭な雲ありて、云々。」事実、私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。
     小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った。(太宰治「川端康成へ」)

     当時の芥川賞は現在のように世間の注目を浴びるようなものではなかったが、太宰はどうしてもこの賞が欲しかった。実家に認めてもらいたいし、副賞の五百円も魅力的だった。家賃が十七円とすれば、二十九ヶ月分に相当する。
     昭和十一年(一九三六)パビナール中毒のために芝の済生会芝病院に入院したが、全治せぬまま一カ月足らずで退院する。第二回芥川賞は二二六事件のために選考なし。第三回は『晩年』が候補に挙がり今度こそはと確信した。佐藤春夫に必死で頼み込んだりしたが、過去に候補者になったものは選出しない規程(後に川端康成も、この規程はおかしかったと述べた)によって落選した。
     中毒は進行し興奮、錯乱、譫妄の症状が頻発した。二月には初代が井伏鱒二に頼んで無理やり江古田の武蔵野病院に入院させた。三日後、自殺の恐れがあるとの診断でカギのかかる観察病棟に入れられた。胸の治療のための入院と思い込んでいた太宰にとって、これは大きな衝撃だった。自分はキチガイにされてしまった。一ヶ月後、中毒は完治したとの診断で退院したが、入院中に初代が知人と姦通を犯したのである。

     いつのまにか、背後に、ヨシ子が、そら豆を山盛りにしたお皿を持ってぼんやり立っていました。
     「なんにも、しないからって言って、……」
     「いい。何も言うな。お前は、ひとを疑う事を知らなかったんだ。お坐り。豆を食べよう」
     並んで坐って豆を食べました。嗚呼、信頼は罪なりや?相手の男は、自分に漫画をかかせては、わずかなお金をもったい振って置いて行く三十歳前後の無学な小男の商人なのでした。
     さすがにその商人は、その後やっては来ませんでしたが、自分には、どうしてだか、その商人に対する憎悪よりも、さいしょに見つけたすぐその時に大きい咳ばらいも何もせず、そのまま自分に知らせにまた屋上に引返して来た堀木に対する憎しみと怒りが、眠られぬ夜などにむらむら起って呻きました。
     ゆるすも、ゆるさぬもありません。ヨシ子は信頼の天才なのです。ひとを疑う事を知らなかったのです。しかし、それゆえの悲惨。
     神に問う。信頼は罪なりや。(太宰治『人間失格』)

     そして杉並区天沼に転居した後、初代と心中しようとして果たせず、初代は青森に帰って行った。上記文中のヨシ子が初代である。
     「太宰が好きな人って、良く分らなかったわ。」ハイジの感覚は正常であろう。「定番の『女生徒』は読んだけど」と姫が言う。あれは名作である。「俺は全集を持っている。」これは正確な言い方でなく全十二巻のうち二冊が欠けたままだ。太宰なんか読まなければ良かったと何度思ったことか。三十年程自分に封印していたが、十年程前から読み返せるようになった。大人になったのかも知れない。
     今になって読み返すと、太宰は今でも前衛である。しかしその前衛性は自己意識を切り刻むことによって担保されたもので、三島由紀夫が太宰をことさら敵視したのは、自意識を晒すことができず高笑いで誤魔化し続けた三島のコンプレックスであろう。私はその自意識を切り刻む「快感」と「不安」に溺れてしまうことを恐れたのだと思う。吉本隆明は太宰の重要性をこんな風に語っている。

     あの戦争のころ、できたらその一言一句もききもらすまいとねがっていた文学者のうち、太宰治と小林秀雄とは、もう最後の戦争にかかったころ、それぞれの仕方で実朝をとりあげた。太宰治は『右大臣実朝』をかき、小林秀雄は、のちに『無常といふ事』のなかに収録された「実朝」論をかいた。(吉本隆明『源実朝』)

     太宰の実朝は、「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」と独り言を言う。三浦雅士は太宰の「生まれてスミマセン」についてこう語っている。

     太宰治には謝罪する白樺派というようなところがある。この作家は、むろん僭越を承知のうえだが、世界に代わって人間に謝罪しようとしたのであり、そのため必死になってふざけるほかなかったのである。根元的な笑いとでもいうべき地点にたどりついたのはその結果にほかならなかった。人はこの不条理の世にあって、笑うほかない。だが、少なくとも笑うことはできるのである。微笑むことも。(三浦雅士『青春の終焉』)

     しかしこんなことを書いていては作文が終わらない。出発しなければならない。
     ビヨウヤナギが咲いている。「蜻蛉はビヨウヤナギとモッコウバラが好きなんですよ。」「あら、そうなの?」鮮やかな黄色の花弁に、長い雄蕊が微風にそよぐ姿が妖艶ではなかろうか。「この間、白いビヨウヤナギを見たの。」ハイジは、「小さいけど、どう見てもビヨウヤナギなのよ」と言う。私は白いものは見たことがない。花の名は、玄宗皇帝と楊貴妃が暮らした未央宮に植えられた柳に因む。『長恨歌』の一節。楊貴妃が馬前で死んだ後、天下の情勢が変わって玄宗は長安へ戻って来た。

      天旋地轉迴龍馭  天旋(めぐ)り地轉じて龍馭を迴らし
      到此躊躇不能去  此に到って躊躇して去る能はず
      馬嵬坡下泥土中  馬嵬坡下 泥土の中
      不見玉顏空死處  玉顏を見ず 空しく死せる處
      君臣相顧盡沾衣  君臣相ひ顧りみて 盡く衣を沾し
      東望都門信馬歸  東のかた都門を望み馬に信(まか)せて歸る
      歸來池苑皆依舊  歸り來れば池苑皆舊に依る
      太液芙蓉未央柳  太液の芙蓉 未央の柳
      芙蓉如面柳如眉  芙蓉は面の如く 柳は眉の如し

     北原白秋『桐の花』にも歌がある。家庭内暴力を受けていた隣家の松下俊子への同情から変わった恋が、その夫に姦通罪として告訴され、未決囚として市ヶ谷監獄に収監された。たまたま明治天皇崩御で告訴は取り下げられたが、勿論多額の慰謝料を支払わなければならなかった。その後の第一歌集だから、この歌に詠まれたのは俊子のことだろう。

     君を見てびやうやなぎの薫るごと 胸さわぎをばおぼえそめにき

     三九号線を渡ると西光山浄勝寺(浄土宗単立)だ。船橋市本町三丁目三十六番三十二号。明応五年(一四九六)に開基、天正十九年(一五九一)に徳川家康より寺領十石の御朱印状をもらった。
     雨に濡れたガクアジサイがきれいだ。真っ白なアジサイも咲いている。ここでカメラの調子がおかしくなった。充電はしてきたのに、バッテリーが古くなったのかも知れない。仕方がないのでメモを取ることにした(翌日メモを見ると、ほとんど判読できない)。

     雨上がり写真を撮れぬ額の花  蜻蛉

     筆子塚もある。「よくありますよね。」寺子屋で使った筆を供養するもので、いくつかの寺で見たことがある。地蔵堂。地蔵は船橋宿の女郎の供養のために建立されたという。
     隣の浄光山専修院は浄勝寺の元塔頭である。その境の通路に何種類ものアジサイが咲いている。貸座敷組合奉納の地蔵が立つ。「優しいお顔ね。」
     「寺が多いね。」この辺りは寺町を形成している。旧街道に戻ると、千葉銀行船橋支店の角に明治天皇船橋行在所の碑が建っていた。

    明治天皇の最初のご来県は、明治六年(一八七三)四月二十九日から五月一日までで、近衛兵の演習をご覧になるために大和田原へお出ましのときです。
    この第一日目に昼食をとられたのが、当時船橋町九日市の旅館業桜屋、山口丈吉宅(現在の千葉銀行船橋支店の位置)です。この後も山口宅をしばしばご利用になり、通算して宿泊十回、昼食五回、小休憩二回におよび、千葉県では最も多く立ち寄られた場所でした。

     「何回だっていいじゃないか?」「何度も来たのが名誉なんですよ。」明治天皇の地方巡幸は九十七回を数えた。江戸時代まで天皇なんて知らなかった庶民が、これによって天皇の存在を知った。

    この天皇巡幸の原型は、天皇の京都から東京への行幸(東京奠都)にあったが、そのときの意図の一つは、江戸幕府にかわる天皇は、歴史的、民族的に支配の正統性をもつ、仁深い君徳を備えた存在であることを民衆にアピールすることにあった。巡幸は、これを全面的に日本全国に拡大し、全国を網の目のように覆ったのである。そのことによって、明治国家支配のシンボルとしての天皇像を民衆に浸透させ、民衆の生き神信仰と天皇とを結び付けて神権的粉飾を進めた。また、それは天皇を迎える地方官の権威を高めると同時に、天皇が休憩・宿泊で立ち寄る地方行政機関や地方名望家の地方支配を強固なものにし、さらに陸軍の大演習と関連づけることによって天皇と軍部とを直結させる役割などを果たした。その意味で明治天皇の地方巡幸は、近代天皇制の確立・完成過程における国家的プロパガンダであった。(田中彰)(『日本大百科全書ニッポニカ』)

     汗がじっとり滲んでくる。湿度が異常に高いのだ。中華料理の東魁楼を指して「お昼はガストを考えたんですが、そこだと遅くなるので、ここにしようと思います。開店は十一時半ですから、また戻ってきます」と姫が宣言する。高そうな店ではなかろうか。
     森田呉服店(江戸時代から続く老舗)と、その向かいの菓子店「ひろせ直船堂」(大正七年建造)が街道筋の古い店構えを残している。「和菓子屋さんは寄る積りだったんですが、今は駄菓子屋みたいになってしまって。下見の時に、妹に入っちゃダメって言われたんですよ。」その店は閉まっている。一緒に下見をする妹がいるなら、是非本番でも来てもらいたいものだ。
     左手に真っ赤な鳥居が見えるが、そこは後で行くと言う。本町四丁目交差点を左に曲がり、路地を歩くと海老川に架かる海老川橋に着く。前回も書いたように船橋地名の由来になった場所で、欄干には様々なレリーフが飾られている。欄干の中央部分からは川に突き出すように船首を象り、舳先には龍に跨る人物像がある。
     泉重千代の手形のレリーフを飾って、長寿の橋と名付けている。そのためか、橋から少し離れて長寿の碑がある。シーラカンスに河童の親子が乗っている形だ。シーラカンスが長寿の象徴なのだそうだ。「生きた化石だけどね。」「それが長寿か?」

     路地を歩くと小さな八百屋があった。店に並べる商品は少ない。「こんなでやっていけるのか?」御蔵稲荷神社の隣の公園で小休止となる。十一時だ。姫はスイス土産と言うチョコレートを配る。「蜻蛉は?」「要らない。」その応答をノリリンが笑いながら聞いている。桃太郎は「そこで買って来たから」とバナナを配る。後三十分程で昼飯になる筈だが。
     五分程休んで御蔵稲荷に入る。船橋市本町四丁目三十一番。九日市村の郷蔵のあった場所だ。鳥居も社殿も真っ赤に塗られている。正保年間に、九日市村の飢饉に備え穀物を蓄えておく郷蔵が建てられた。当時、郷御蔵と呼んだ。このため延宝、享保、天明の飢饉にも餓死した者はいなかったという。寛政三年、出水のために御蔵は流失し、ここに稲荷社を建てた。

    昭和初期文人太宰治氏は鄙びた御蔵稲荷を好み、その作品にも書き残し、いくつかの口絵写真でも、御蔵稲地を背景に使っている。

     鳥居の脇には不思議なレリーフが飾られている。撞木を肩で支えるような眼鏡の男はヘルメットをかぶっている、その周囲には無数の河童が遊んでいる。海老川改修工事の様子を象徴しているのだろうか。とすれば撞木ではなく、丸太を運んでいるのかも知れない。

     昭和三十年代に急激な都市化により、船橋地名の起りであり、山、里、町、浜の文物交流の動線であった海老川が毎年の様に溢れ、氾濫がくりかえされた。昭和三十六年浸水屋敷数二三八戸であったものが昭和六十一年には二、四二六戸と増大、当町会の三分の二が泥水に浸り、物心両面での困苦は筆舌に盡しがたいものがあった。その都度町会集会所を兼ねていた御蔵稲荷社殿が、避難所、食事の炊き出し所として、被害町会民のため役立った。地元民相集い、災害対策協議会を結成、市に要望、大橋和夫市長の英断と、国、県関係機関の尽力により、六百三拾八億九千万余の巨費を投じ海老川改修工事が、平成四年に完成、当地における、出水の憂いが解消した。治水百年と言われるが、十余年の月日をもっての完工は、見事であり感謝の外言葉もない

     その隣には小さな東照宮が祀られている。この辺一帯が船橋御殿だった。慶長末年に家康が建御殿である。四代家綱時代に廃された。敷地面積は約二万坪だった。船橋市では「日本一小さな東照宮」と言っているが、私たちは鴻巣御殿跡に建てられたもっと小さな東照宮を見ている。

     船橋御殿は東金周辺に鷹狩りに出掛ける徳川家康のために造られたもので、慶長十九年(一六一四)前後に造営されたと考えられています。家康の子、二代将軍秀忠も宿泊・休憩しましたが、それ以後、将軍家の東金周辺での鷹狩りは催されず、船橋御殿は廃止されました。同地は貞享年間(一六八四~八八)に船橋大神宮神職の富氏に払い下げられ、それからしばらくし、富氏は御殿跡の中心部に家康を祀る東照宮を建立したと伝えられています。現在の東照宮の社殿は安政四年(一八五七)に再建され、昭和二年(一九二七)に修繕されたものです。

     九重橋を渡る。欄干の上には開いた本の左ページに太宰の肖像、右ページに『走れメロス』の冒頭部分を記したプロンズのオブジェも載っている。「今でも『走れメロス』は教科書に載ってるんじゃないの?」ハイジの言葉で調べてみると、中学二年の教科書にある。

    メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

     昭和十一年、熱海滞在中の太宰に金がなくなり、初代が檀一雄に頼んで七十円程の金を届けさせた。しかし檀が熱海に到着してからも連日の酒盛りと女郎屋通いが続き、いつしか三百円程の借金が溜まっていた。金策のため二、三日で戻るからと、太宰は檀を人質にして上京したがいつまで経っても戻って来ない。業を煮やした宿の主人が飲み屋の主人を代理に、檀とともに上京させた。たぶん井伏鱒二の家だろうと当たりをつけて行ってみると、太宰はのんびり井伏と将棋を指していた。

     私は後日、「走れメロス」という太宰の傑れた作品を読んで、おそらく私達の熱海行きが、少なくともその重要な心情の発端になってはしないかと考えた。あれを読む度に、文学に掲わるはしくれの身の幸福を思うわけである。憤怒も、悔恨も、汚辱も清められ、軟らかい香気がふんわりと私の醜い心の周辺を被覆するならわしだ。
     「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね」と、太宰の声が、低く私の耳にいつまでも響いてくる。(檀一雄「熱海行」)

     借金は佐藤春夫が九十円出し、初代の着物を質入れして得た僅かの金の残りは井伏鱒二が支払って終わった。さしづめ、セリネンティスが檀であり、太宰は裏切ったメロスである。或いは、先にも引用したように、太宰は「無垢の信頼は罪なりや」と問うた。これも小説に反映していないか。無垢の信頼が報われることを熱烈に願っていたとすれば、主人公はメロスではなく、セリネンティウスである。
     「太宰の心中現場を見たのはいつだったかな。四五年前?」「もっと経ちますよ。十年くらいじゃないですか?」平成二十一年(二〇〇九)十一月の第二十六回「玉川上水編」(スナフキン初企画)では、禅林寺の墓も太宰治文学サロンにも寄ったのに、心中現場は持ち越している。しかし現場に置かれた津軽の石も確かに見た記憶はある。花ちゃんも一緒だったんじゃないか。いろいろ探して漸く分った。平成二十二年五月の里山ワンダリングで、小金井から野川を経て天文台と深大寺を巡った後、反省会のためにバスで三鷹に行った時だった。山本有三邸もその時に寄った。但しこの時はスナフキンも姫もいない。
     「水が汚いな。」京成線を越えて右に曲がった民家の角に「太宰治旧居跡」の解説板がたっていた。子どもが三人遊んでいて、中の一人が「何してるんですか?」と何度も声をかけてくる。「見学者慣れしてないな。」「今時、太宰を読む連中なんかいないんだよ。」「でも桜桃忌には大勢集まりますよ。」しかしこの場所を見学しようなんて人はいないだろう。さっき檀一雄の文章を引用した、その家の跡である。

     ・・・・私が昭和五年に弘前の高等学校を卒業して大学へはいり、東京に住むようになってから今まで、いったい何度、転居したろう。その転居も、決して普通の形式ではなかった。私はたいてい全部を失い、身一つでのがれ去り、あらたにまた別の土地で、少しずつ身のまわりの品を都合するというような有様であった。戸塚。本所。鎌倉の病室。五反田。同朋町。和泉町。柏木。新富町。八丁堀。白金三光町。この白金三光町の大きな空家の、離れの一室で私は「思い出」などを書いていた。天沼三丁目。天沼一丁目。阿佐ヶ谷の病室。経堂の病室。千葉県船橋。板橋の病室。天沼のアパート。天沼の下宿。甲州御坂峠。甲府市の下宿。甲府市郊外の家。東京都下三鷹町。甲府水門町。甲府新柳町。津軽。
     忘れているところもあるかも知れないが、これだけでも既に二十五回の転居である。いや、二十五回の破産である。私は、一年に二回ずつ破産してはまた出発し直して生きて来ていたわけである。そうしてこれから私の家庭生活は、どういう事になるのか、まるっきり見当もつかない。
     以上挙げた二十五箇所の中で、私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった。私はそこで、「ダス・ゲマイネ」というのや、また「虚構の春」などという作品を書いた。どうしてもその家から引き上げなければならなくなった日に、私は、たのむ! もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃も僕が植えたのだ、庭の青桐も僕が植えたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない。(「十五年間」)

     夾竹桃は隣家に三本あったうちの一本を譲ってもらった。

     私がこの土地に移り住んだのは昭和十年の七月一日である。八月の中ごろ、私はお隣りの庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。欲しいと思った。私は家人に言いつけて、どれでもいいから一本、ゆずって下さるよう、お隣りへたのみに行かせた。家人は着物を着かえながら、お金は失礼ゆえ、そのうち私が東京へ出て袋物かなにかのお品を、と言ったが、私は、お金のほうがいいのだ、と言って、二円、家人に手渡した。
     家人がお隣りへ行って来ての話に、お隣りの御主人は名古屋のほうの私設鉄道の駅長で、月にいちど家へかえるだけである。そうして、あとは奥さまとことし十六になる娘さんとふたりきりで、夾竹桃のことは、かえって恐縮であって、どれでもお気に召したものを、とおっしゃった。感じのいい奥さまです、ということである。あくる日、すぐ私は、このまちの植木屋を捜しだし、それをつれて、おとなりへお伺いした。つやつやした小造りの顔の、四十歳くらいの婦人がでて来て挨拶した。少しふとって、愛想のよい口元をしていて、私にも、感じがよかった。三本のうち、まんなかの夾竹桃をゆずっていただくことにして、私は、お隣りの縁側に腰をかけ、話をした。たしかに次のようなことを言ったとおぼえている。
     「くには、青森です。夾竹桃などめずらしいのです。私には、ま夏の花がいいようです。ねむ。百日紅。葵。日まわり。夾竹桃。蓮。それから、鬼百合。夏菊。どくだみ。みんな好きです。ただ、木槿だけは、きらいです。」
     私は自分が浮き浮きとたくさんの花の名をかぞえあげたことに腹を立てていた。不覚だ! それきり、ふっと一ことも口をきかなかった。(「めくら草紙」)

     船橋には川端康成も縁があるのだが、これまでのところ、そんな形跡は何もない。船橋市はノーベル賞作家より、玉川上水で心中した作家の方に愛着を感じているのかも知れない。川端は昭和八年から十年頃にかけ、船橋市湊町の割烹旅館「三田浜楽園」に良く滞在して、『童謡』等を書いたと言う。その跡地に川端文学碑があるようだ。
     船橋大神宮を横目で睨みながら東魁楼に向かう。「さっきの神社がある。近場をウロウロしていたんだな。」さっきの呉服屋のウィンドウには船橋宿の街並みを描いた手拭が広げられている。千五十円だ。向かいの菓子屋は店を開けた。
     東魁楼に着いた。船橋市本町四丁目三十六番十七号。本格的な中国料理らしく、値段は安くないが、サービスランチが三種類、どれも九百八十円である。「ガストだってそのくらいになっちゃうよ。」「中華料理って、野菜炒めとかレバニラとかないんですよね。」桃太郎はそういう方が好きだと言う。私もその意見に反対しない。日高屋の肉野菜炒めは結構旨いと思う。
     「三人でABCと注文して分けようか。」Aは鶏の唐揚げ、Bは厚揚げと豚肉の旨煮、Cはエビチリである。一階は呼び出し待ちのロビーになっていて、既に椅子は客で満席だ。名前と人数を申告して待つ。少しづつ前の客が呼ばれて行く。「アレッ、ヨッシーは?」姿が見えないと思ったらすぐに現れた。「そこの呉服屋で手拭を買ってたんですよ。」

    千葉県船橋で昭和二十一年創業の東魁楼(とうかいろう)は船橋地区近隣のお客様をはじめ 数多くのお客様のご愛顧をえて七十周年を迎えます。
    今や地元地区の老舗として本物の中国料理をご堪能 いただいております

     暫くして名前を呼ばれ二階に上がった。「回転テーブルじゃないんだな?」「あれは日本独自なものですよ。」どうやら目黒雅叙園で開発されたものらしい。今では中国でも使われる。ファーブルがC だと言うので、自動的に私がA、スナフキンがBということになる。ヨッシー、ハイジ、ノリリン、マリーはCを選ぶ。姫と桃太郎は五目焼きご飯(チャーハンのことだ)を選んだが、「餡掛けですよ」と店員に言われて姫は玉子チャーハンにした。
     ビールは六百三十円もする。「どうする?」「いいじゃないか。」黒ラベルのジョッキと琥珀恵比寿のグラスとあって、姫はクラスを、そして意外なことにスナフキンがグラスを選んだ。私と桃太郎は勿論ジョッキである。「ファーブルは飲まないんですか?」「夜のために我慢。」
     「中華は早いんだ。」「火力が強いから。」「一遍にできるのね。」しかし客が多すぎるのだ。料理はなかなか出てこない。やがてビールが出て来た。「なんだ、俺もジョッキが良かったな。」「だって自分で選んだじゃないか?」「グラスって聞こえなかった。」
     最初にAが来た。結構量が多い。取り敢えず小皿に唐揚げを取り分けて、スナフキンとファーブルに渡す。ザーサイがビールのつまみに旨い。やがてチャーハン以外は揃った。小皿を追加してもらってそれぞれを分ける。私の分のエビチリは手持無沙汰の桃太郎に回した。
     そして姫の玉子チャーハンがでてきた後、暫くして待ちきれなくなった桃太郎が催促するとやっと餡かけ五目チャーハンがやってきた。「飯の量が少なかったな。」スナフキンの言葉にノリリンも同意するが、彼女はご飯を少し残しているではないか。
     姫はチャーハンの量が多すぎると、かなりの量を桃太郎に分けた。桃太郎の皿からはキクラゲが渡される。姫は更にチャーハンを私たちにも分けてくれる。「そんなに少なくて大丈夫なの?」ノリリンが心配するのも無理はない。姫はハイジのように、もっと食べなければいけないのだ。「だってビール腹になったんだもの。」
     料理が来るまで時間がかかったので、店を出たのは十二時五十分だ。「雨が降らないうちにゴールに着きたいんです。」
     船橋大神宮だ。正式には意富比神社と言う。船橋市宮本五丁目二番一号。前回、元宮入日神社のところで書いたことだが、大神宮のHPを開いてみる。

     この意富比の語義と神格について古くは、「大炊」で食物神とする説があり、戦後は古代豪族オホ氏の氏神とする説などが出されました。その後、意富比の古い読みは「おほひ」であり、上代特殊仮名遣いの上から「日」は「比」等で表され、「火」は「肥」等で表される点を考慮し、さらに歴史的にみても意富比神社が古くから太陽信仰と深い関係をもっていたことを考察に加えて、意富比神は「大日神」すなわち「偉大な太陽神」が原義であるとする説(三橋健「意富比神考」)が登場します。つまり中世から幕末までは一般に「船橋神明」と称され、主祭神を天照皇大御神とする意富比神社も、原初は古代のこの地方最大の太陽神であったとするもので、現時点では最有力な説となっています。 
     前記のように、当社は中世以降一般には船橋神明と呼ばれることが多かったようです。神明とは伊勢神宮を分祀した神社のことです。
     すると、古代には当地方最有力の太陽神であった意富比神が、中世のある時期に伊勢神宮に同化したと想定されますが、そのあらすじは次のように想定されます。 ――平安末期に近い保延四年(一一三八)に夏見を中心とする一帯が、伊勢神宮の荘園「夏見御厨(みくりや)」となった。実際には当地から伊勢神宮へ白布を貢納した。そうした関係から、当地には伊勢神宮が分祀され「神明社」ができたが、その御祭神は言うまでもなく、最高の太陽神である天照皇大御神であった。やがて地元の偉大な太陽神は、同じ太陽神である神明社に同化して船橋神明となり、船橋大神宮と称されるようになった。――

     荒唐無稽なことでなく、こういうことを言う神社は珍しい。「スゴク広いんです。表参道は大神宮下駅からですから、横から入ります。」最初に姫が案内するのは灯明台である。樹木が邪魔になって良く見えない。「あそこですよ。」木造建物の上に何かが載っている。「ここからよく見えますよ。」

    境内東方の丘に立てられている木造瓦葺の灯明台は、三階建てで高さ十二メートル程あります。三階の灯室は、洋風の灯台の様式を採り入れた六角形で、ひときわ目を惹きます。明治十三年(一八八〇)、地元の漁業関係者によって建設されました。普段は非公開ですが、正月三が日は公開しています。

     漁業関係者によって建てられたということは灯台であったのだろう。船橋は江戸城に魚を献上する御菜浦に指定されている。

    船橋浦漁業の歴史は古く、三百数十年の歴史を有する。江戸前期の船橋浦は、将軍家の御台所へ魚を献上する御菜浦(おさいのうら)として、現千葉県域内湾では傑出した存在であった。近代の船橋漁業の最大の変化は、海苔養殖が冬の主役になったことである。明治三十年代頃から開始され、昭和三十年代には全国上位の生産枚数を上げていた。こうした船橋浦漁業も昭和四十年代末、埋め立ての進行と、海水の汚染によって苦境に立たされたが、それを克服し、現在従業者は減ったものの大都市の中の漁業として注目されている。(船橋市)

     大神宮の拝殿の鰹木は六本だ。普通は奇数ではないだろうか。しかしこれは私が無学なので、二本から十本まで、神社によって様々であるようだ。
     基本的には伊勢神宮のミニチュアと考えて良いだろう。摂社の常盤神社も伊勢神宮のような雰囲気だ。ヤマトタケルと徳川家康、秀忠を祀っていると言う。その他境内社には外宮(豊受姫)、大鳥神等が独立して祀られている。神輿庫から覗く本町八坂神社と湊町八剱神社の神輿は、それぞれが神社となっている。
     「それでは行きます。」姫は早く進みたいのである。「だって雷が来ると怖いでしょう?」私はもう少し境内を歩いてみたかったのだが、仕方がない。
     日が照っていないから方角が分らない。大神宮下から北に向かっていると思ったが、東に向かっているのである。四百メートル程行けばガストがあった。確かにここで昼飯では遅くなっていただろう窓から見える店内は結構混んでいる。
     小さな神社もある。バス停の時刻表を見れば一日に三本しかない。これでは地元の住民は生活できないだろう。「高齢者の事故が多いだろう?」「島根でもバスは少ないけど、四本はありますよ。」ノリリンは島根の人であった。路線バスがどんどん削減されているのは、太川陽介のバス旅番組でも知っている。田舎ならば交通インフラをきちんとしなければ、高齢者は車を取り上げられては生活できない。
     やや上り坂の道を五百メートル程歩いたところで、先頭を行く姫が二三歩戻って来た。「ガストはありませんでしたか?」ガストはさっきあった。「ありましたよ。」「あったね。」ガストに気付かなかったのは姫とスナフキンだけだった。「大神宮を出てからすぐだったよ。」
     「エーッ?どうして気付かなかったんだろう。」ガストは最初の昼食の予定であることは言っていたが、それが何に関係しているのか。「すみません、戻ります。どうして見えなかったんだろう?」
     坂道を暫く下ればガストがあった。「こんなに駐車場も広いのに、どうして気付かなかったのかしら。」姫は疲れているのではないか。その一つ先の狭い路地を左に曲がると、突き当りが了源寺だった。浄土真宗本願寺派。船橋市宮本七丁目七番一号。ここでは鐘楼を見るのだ。

    享保年間(一七一六~三六)、徳川幕府が大砲の試射を行ったという台座がありました。これを廃止した際、当時の代官の勧めで鐘楼堂を建て、幕府から「時の鐘」として公許され、明治四年(一八七一)に廃止されるまで、船橋一帯に時を告げていました。

     「どこに向かって撃ったのかな?」私は方角を間違えているから、西と南を勘違いしている。「海に向かって撃つよね。」しかし実は東の野原に向って撃ったらしい。
     「その頃の大砲って、爆発しないでしょう?」桃太郎は正しい。高島秋帆による西洋式砲術の導入以前、和式の大砲は弾丸自体に火薬は入っていなかった。つまり爆発しない弾丸である。日本の大砲は関ケ原依頼全く進歩していない。それはパクス・トクガワーナのためでもあり、技術的には日本のたたら鉄が鋳鉄に適さなかったためでもあった。結局、幕末に高反射炉を建設する必要が出てくるのである。
     鐘楼の傍らには市川船橋戦争で戦死した幕臣の墓がある。「盛忠院釈貫義居士」、右側面に「明治元戊辰天閏四月 徳川家臣菅野鋭亮源元資 行年二十八才戦死」とある。撒兵隊士である。撒兵隊九百の軍勢は一日の会戦で壊滅したが、その中で、一人だけ墓が造られたのはどういう訳だろう。
     「和時計は見せてくれませんから。」和時計は一般公開していない。それに太田南畝の掛け軸もあるらしい。和時計は不定時法を用いるので、実にややこしい仕掛けを必要とする。実に珍しいものである。

    下総のくに船橋の宿 光雲山了源寺はこだかき所にして富士の高ねはいうに及ばず 伊豆さがみ安房上総の山々海上つらなり眺望いわんかたなし ここに二六の時をつくる 鐘楼ありきときききて
        煩悩の眠りをさます時のかね きくやわたりに船橋の鐘

     「それじゃ行きましょうか。」姫は雨を気にしていてすぐに寺を出る。少し雨が降って来ただろうか。傘をさす人もいるが、この程度の霧雨なら丁度良い。「ミストみたいだよね、」汗がにじんだ肌に心地よい位だ。「俺はカッパもズボンも持ってきたんだけどな。」それでは暑すぎるだろう。
     坂道を上って、さっき姫が戻りかけたところから右に入る。宮本中学校の校庭の傍らに、真名井が再建されている。橋市東船橋七丁目八番一号。柵の外から眺めていると、中にファーブルがいた。「入れたんですか?」「鍵がかかってないからさ。」それでは私たちも中に入ろう。

     ここは、古くは窪地になっており、その名を真名井と呼び、当時の人々は、ここの湧水から水を汲み、飲料水として使用しておりました。
     昔弘法大師が訪れ、錫杖で掘りさげた泉という伝説があり、側に弘法大師を祀ってあります。
     戦後、宮本中学校を造る為に校庭の整地をした頃から、湧水の水位が低くなっていましたが、当時の古老達がこのままでは弘法大師に申し訳ないと、井戸を整備し、大師堂を祀り直しました。
     現在の大師堂はその二代目のお堂です。私たちもこれに倣って、壊れた井戸屋形を復元いたしました。

     井戸にはポンプが設えてある。小さな祠の暖簾を上げると、中には弘法大師が鎮座していた。「弘法大師の井戸って、どこにでもありますよね。」全国にどれだけあるか分らない。
     街道に戻って中野木交差点を渡った辺りに地蔵堂の傍らに大きなスダジイが立っていた。安政年間、藤蔵が大流行したときに祀られた地蔵だと言う。
     さらに進むと総武線の高架の手前に成田街道入口道標が立っていた。輪宝を三つ重ねた纏のような形をしたものが上に載っている。左成田山道。成田街道はここを左に曲がってすぐ総武線を越えて北東の方角に向きを変える。私たちはまっすぐ御成街道を行く。東金までほぼ直進するコースである。
     総武線の脇から畑の中を通り抜ける。「津田沼はもっと都会かと思ってました。」賑わっているのはJRと新京成との間だけではないだろうか。この東側には千葉工業大学がある。ところで、津田沼戦争があったなんて、今では誰も知らないだろう。昭和五十一年に長崎屋、翌年にはパルコとイトーヨーカ堂、その翌年には丸井、ダイエー、高島屋が開店し、熾烈な争いが繰り広げられたのである。
     新京成沿線の高根木戸に住んだのは昭和五十二年(一九七七)の一年間だった。上司の紹介で入居したアパート六畳一万五千円は、その前に住んでいた阿佐ヶ谷の六畳二万円より安かった。月給はまだ十万円に届いていなかったのではなかったか。朝飯は津田沼駅の立ち食い蕎麦屋だった。
     その後、京成千葉線のみどり台(総武線を挟んで千葉大の反対側)に移り、結婚して幕張に住んだ。幕張は今とはまるで違って、十分も歩けば海岸に出られた。五十六年には千葉県立衛生短期大学(今の保健医療大学)が開設した。開設準備委員長がギフチョウのコレクターで、毎週その話を聞かされていた。その後、八千代市の公団住宅に移り、そこで長男が生まれた。千葉営業所には六年間いたから思い出は多い。
     津田沼駅南口に着いたのは三時少し前だ。姫は二時頃を予定していたのだから、さっきの往復が利いている。「絶妙な時間調整だったね。」雨も大したことはなく、私は傘を開かずに済んだ。ファーブルがカメラのSDカードを貸してくれる。「交換しようか?」と言ってみたが、私のものは2GB、ファーブルのは8GBだから勿論承認されない。「ちゃんと返してよ。」
     二十二日の近郊散歩はロダンに代わって私が担当する。集合は東上線みずほ台駅。七月の江戸歩きは姫が代わって、集合は東武野田線の鎌ヶ谷駅である。

     さてどこに行こうか。「船橋は?」「前回サイゼリヤでワイン飲んだじゃないか。この時間だったらまたそうなってしまう。」「秋葉原にしますか?」それでは姫の帰りが遠くなる。「南越谷にしよう。」「桃太郎が遠くなっちゃうわよ。」「桃太郎はどこでも大丈夫だよ。」その桃太郎は「町田に行きませんか」ととんでもないことを言う。「却下。」
     「南越谷ってどう行くの?」「西船橋から武蔵野線で。」スナフキンは夕方から渋谷で元の会社の飲み会があるので、ここで別れる。「近場だったらちょっとだけ付き合えたけど、南越谷じゃ遠すぎる。」しかし、武蔵野線は長い。
     ハイジはそのまま武蔵野線で帰宅するので、南越谷で降りたのは七人だった。こちらは日が照っている。「嘘みたいね。」まぶしい位の日差しだ。「男性四人、女性三人ね。」取り敢えず「いちげん」に行ってみる。「いつも混んでるんだけどね。」越谷の人は昼から飲むのである。「殆ど入れないんだ。」個室の襖の間から小さな子供の姿も見える。
     しかし何とか席に着くことができた。四時ちょっと前だ。ビールはスーパードライ、焼酎は金黒。漬物、サラダ、唐揚げ。女性が多いと賑やかになる。二時間でお開き。二千二百円。
     桃太郎、ファーブルと私は北朝霞で降りて店を探す。「あそこはどうかな?」「北の味紀行北海道朝霞店」である。以前、スナフキンと入ったことがある。ファーブルはビール、桃太郎と私はホッピーにした。「思い出したよ。俺はこの店で初めてホッピーを飲んだんだ。」あの時はかなり酔っていて、隣の客と喧嘩をした。
     「ホッキ。」「刺身の盛り合わせにしよう。ホッキも入ってる。」「ホッキは巻貝?」「二枚貝だよ。」それにファーブルはミズダコを追加する。「今日は豪勢だね。」本場の味を知るファーブルにはどうだっただろう。悪くはないと思う。一時間ほどでお開き。三千円。

    蜻蛉