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    青梅街道 其の一(新宿から高円寺まで)
    平成二十八年十月八日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.10.15

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     昨日レントゲンを撮って、骨が完全に固まったことが確認できた。硬い骨は輪郭がくっきり白く写るのに、一度潰れて柔らかくなった骨は輪郭がぼやけるのである。先月はまだぼやけた状態だったのが、今回の写真ではちゃんと輪郭がはっきりしていた。医師がもう歩いて良いと言うので参加を決めた。
     骨折したのが七月十四日だから、ほぼ三ヶ月間コルセットで締め付けていたお蔭で腰の周りの筋肉は凝り固まっているし、歩かなかったから脚の筋肉は落ち、その代わりに腹が出てきてしまった。多少の不安を抱えながらの参加である。
     こころは良く喋るようになった。ジイジやケイコタンの口真似もする。カモやコサギがいる公園に連れ行くと、鳩が二羽近づいてきて、こころが寄っても逃げようとしない。その鳩に向って、「いっちょに遊ぼう」と手を差し延ばす。小雨が降ってくると、小さな枝や草の茎を拾ってかざす。傘の積りなのだ。
     ヒガンバナもキンモクセイも終わって、ハナミズキが赤い実をつけてきた。それなのに百日紅の花がまだ残っているのが不思議だ。この夏からずっとぐづついた天気が続いている。意想外の動きをした台風に加えて秋雨前線がいつまでも残り、北海道や東北太平洋岸に大きな被害を齎し、野菜が高騰した。寝苦しい夜が少なかったのは幸いだが、夏はもっと太陽に活躍して欲しい。
     今日も予報では昼頃まで雨が降ることになっていて、気温がどれほどになるか。長袖シャツにベストを引っ掛けてきたが、少し寒いかもしれない。
     それにしても新シリーズのスタートに間に合ったのは幸いだった。先月半ばの時点では殆ど諦めて、十一月の復帰を目指すなんて弱気になっていたのだ。青梅街道は新宿追分で甲州街道から分岐し、中野宿、田無宿、小川宿、箱根ヶ崎宿を経由して青梅宿に至る。更にその先は氷川宿(西多摩郡奥多摩町)、丹波宿(山梨県北都留郡丹波山村)、塩山宿(山梨県甲州市)を通って小原宿(山梨県山梨市)を経由して酒折村で甲州街道に合流する。酒折は、駅伝だけが有名な山梨学院のあるところだ。
     慶長八年(一六〇三)江戸城築城のため、青梅成木村で採れる石灰を運搬する道として、大久保長安によって整備された。当初は成木街道と呼ばれたが、江戸時代中頃には「青梅街道」の呼称が定着したようだ。甲州街道の裏街道でもある。ただ私たちは甲州までは行かない。奥多摩以西は電車がなくなるから終点は青梅宿の予定だが、御岳山まで行けると嬉しい。
     集合場所は新宿三丁目、C7出口である。家から駅まで歩くのも三ヶ月振りのことである。電車もこの間に一度しか乗っていない。まだ雨は降っていないので小さな折り畳み傘をリュックに入れて家を出た。
     新宿三丁目なら鶴ヶ島からは副都心線一本で行けるので随分便利になった。しかしこの駅は丸ノ内線、副都心線、都営新宿線が乗り入れていて、改札口はそれぞれ遠いから、出口まではかなりの距離を歩かなければならない。朝から聊か疲れてしまった。
     待ち合わせ場所には、相変わらず早くから来た講釈師が一人憮然として立っている。ロダンが到着してトイレに行ったところで一人で外に出るとオカチャンと出会った。JR新宿駅から歩いてきたのだろうか。新宿三丁目駅と言っても階段を上がった所は二丁目で、すぐそばに靖国通りの新宿五丁目東の交差点が見える。煙草を吸っているとスナフキンと桃太郎が階段を上がって来た。初めはほんの微かな雨で傘も要らない程だったが、やがて少し強くなってきた。
     そして十時になって全員が上がって来た。リーダーのあんみつ姫、ハイジ、マリー、若旦那夫妻、講釈師、ヨッシー、ダンディ、ツカさん、マリオ、オカちゃん、スナフキン、ロダン、桃太郎、蜻蛉と十五人が集まった。オカチャンは透明な上下の合羽を着こみ、スナフキンも合羽を着た。姫はマリオに手伝ってもらいながら黄色のポンチョを身に着けた。そんなに降るのだろうか。

     「本当は大木戸にも行きたかったんですけど。」内藤新宿の範囲は大木戸から甲州街道と青梅街道が分岐する追分までだから、新宿を中心に考えれば外せない場所であるのは承知している。しかし大木戸はもう四ツ谷と言って良く、青梅街道歩きの趣旨からは外れてしまうだろう。
     靖国通りを東に曲がればすぐ右側に成覚寺がある。新宿区新宿二丁目十五番十八号。浄土宗。石の門には藍色の朝顔の蔓が絡み、狭い境内にはピンクの花がきれいに咲いている。
     ここで見るべきは「子供合埋碑」だ。板塔婆が新しいし、花が供えられている。子供というのは飯盛女、つまり宿場女郎のことである。台座に「旅籠屋中」とあるように、万延元年(一八六〇)十一月、内藤新宿の旅籠屋中によって造営された。死んだ飯盛女は丸裸にされ、俵に詰めて地中に投げ込まれた。その数は二千二百とも三千とも言われている。三ノ輪の浄閑寺のようには知られていないが、このことからこの寺は投げ込み寺とも呼ばれた。
     幕府が公認した遊郭は吉原だけであり、各宿場には飯盛女の名目で当初は一軒当たり二人まで女を置くことが認められていた。しかし、これはあくまでも目こぼしであり、派手なことをやると弾圧された。現に、元禄十二年(一六九九)に開かれた内藤新宿は余りにやり過ぎたため、享保三年(一七一八)に宿場を廃されていた。新宿は最初から風紀上いかがわしい場所だった。
     明和元年(一七六四)には規制が緩和され、宿内の総数が定められた。品川宿は五百人、板橋・千住が百五十人である。女を置かないと宿場の経営が成り立たない構造になっていた。これに伴って、内藤新宿も再興を許され、飯盛女の数も板橋・千住同様の百五十人と決められた。
     「ほら、名前が書いてあるよ。」講釈師が指差す旭地蔵の台座には、年月日とともに信士、信女の名がペアになって刻まれている。正面に見えるのが、文化六年の念浄信士と離念信女である。ここに刻まれているのは、寛政十二年(一八〇〇)から文化十年(一八一四)の間に宿場内で不慮の死を遂げた十八人で、うち七組の男女は心中である。元々旭町(現新宿四丁目)の雷電神社横の玉川上水の縁に建てられていたので旭地蔵と呼ぶ。心中者は玉川に入水したのである。道路拡幅のため、明治十二年(一八七九)にこの場所に移された。
     新宿二丁目のこの辺りは維新後も色町として繁盛した。漱石は幼い頃、太宗寺の南側にあった遊郭「伊豆屋」に住んでいて、太宗寺の丈六地蔵に登って遊んだ。戦後は多少縮小したものの青線として生き残った。五木寛之の回想では、新宿二丁目はかなり高級な色町だったらしい。

     そんな中でも、やはり時には女のいる街へ出かけた。どこをどう工面したのか、記憶にはない。今おぼえているのは、ファジェーエフとか、カターエフとか、オストロスキーとか、その度に古本屋へ持って行った作家たちの名前だけだ。
     新宿二丁目あたりは問題にならなかった。あんな所はブルジョア階級が豪遊する場所だと思い込んでいた。一度だけ、配達用の青自転車で駆け抜けたことがある。豪華さと、美人が多いのに驚愕した。少なくとも、当時の私には、そう思われた。(五木寛之『風に吹かれて』)

     その隣が恋川春町の墓だ。本名倉橋格、狂歌では酒上不埒の名を使った。駿河小島藩・滝脇松平家の年寄本役として石高百二十石。安永四年(一七七五)の『金々先生栄花夢』が出世作で、黄表紙というジャンルが生まれた。絵本ではあるが、大人の読むものになったのである。画才もあり、親しくしていた朋誠堂喜三二(平澤常富・久保田藩江戸留守居役)の黄表紙に挿絵も書いている。
     しかし寛政の改革が春町の人生を変えた。松平定信の改革の目玉の一つは厳しい出版統制であった。標的の中心は蔦屋重三郎が仕掛けた、時事を諷する黄表紙である。
     春町は『鸚鵡返文武二道』によって定信の呼び出しを受けたものの病気と称して出頭せず、謎の死を遂げた。自殺と推定される。また朋誠堂喜三二は、狂歌では手柄岡持の名を使った。『文武二道万石通』が藩主佐竹義和から厳しい譴責受け、戯作の筆を断った。
     定信は、これらの黄表紙を次々に絶版処分にした。また黄表紙の作者には武士が多く、密偵を放って武士の素行調査も行った。身の危険を感じた太田南畝は戯作の筆を断った。蔦屋重三郎は財産の半分を没収され、山東京伝は手鎖五十日の処分を受けた。これによって安永から天明期に活躍した蔦屋サロンの文人グループは解体する。蔦屋が写楽を売り出すのはこの事件の影響である。黄表紙ではないが、林子平の『海国平談』と『三国通覧図説』も絶版処分を受けた。

     次は花園神社だ。新宿区新宿五丁目十七番地三。姫が最初に寄ったのは境内社の芸能浅間神社だ。花園神社には何度か来ていた筈なのに、これには気づかなかった。浅間社に芸能を結びつけたのは珍しいが昭和三年に設置されたものという。但し場所はちょっと違ったようだ。
     金属製の玉垣に、朱の文字で芸能人の名前が記されている。「殆ど知らない名前ばかりだな。」それでも少しは知っているものもある。唐十郎があるのは当然だろう。花園神社内に紅テントを建て、『腰巻お仙 義理人情いろはにほへと篇』を上演したのは昭和四十二年(一九六七)のことだった。私はこのシナリオを持っていた筈だが、今探してみるとない。
     「正司花江がいる。」「あったよ。」「誰?」「ビートたけし。」名前の掲示は一万円で二年間有効だと書いてある。
     ここに藤圭子『圭子の夢は夜ひらく』(石坂まさおを作詞、曽根幸明作曲)の歌碑があった。悪筆の私が言うのもなんだが、文字が稚拙だ。第六回「大久保・余丁町編」(平成十八年七月)の時に、西向天神(新宿区新宿六丁目二十一番地一)で『新宿の女』歌碑を見ているのを思い出す。

    赤く咲くのは けしの花
    白く咲くのは 百合の花
    どう咲きゃいいのさ この私
    夢は夜ひらく

    十五 十六 十七と
    私の人生 暗かった
    過去はどんなに 暗くとも
    夢は夜ひらく

     この歌は、LPレコードからのシングルカットが大ヒットした珍しいケースである。公称百二十万枚、オリコン調査でも七十七万枚の売り上げを記録した。『新宿の女』(昭和四十四年)でデビューし、『女のブルース』、『圭子の夢は夜ひらく』、『命預けます』(四十五年)までが藤圭子の圧倒的な時期で、私は夢中だった。しかし五木寛之が熱烈なオマージュを捧げることによって作られた「宿命を背負った怨歌の星」のイメージはそこまでで、少し隔てて『京都から博多まで』(阿久悠作詞・四十七年)になると、もう違っていた。本当に、「あの時代」だからと言ってしまいたい程、藤圭子の名前はあの時代と密接に結びついているのである。
     長く精神の病(統合失調症と鬱病)で苦しみ、平成二十五年(二〇一三)八月二十二日、新宿区内のマンションで飛び降り自殺した。私と同い年で享年六十二であった。可哀相な藤圭子。
     ところで新宿を歌った演歌はいくつかあるが、その最高傑作は昭和四十二年(一九六七)の扇ひろ子『新宿ブルース』(滝口暉子作詞、和田香苗作曲)ではないか。と書いた途端、ちあきなおみ『新宿情話』(猪俣良作詞、船村徹作曲)はどうだろうと思いついた。ちあきの歌は名曲であるが、人口に膾炙したと点と、一人で生きていくという決意によって、扇の歌を採る。

     「それじゃ出発しましょう。」雨はなかなか止まない。「ゴールデン街はどの辺だろう。」神社の西側の路地になる。作家や映画関係者が屯していた街で、私は行ったことがない。私が新宿に勤務していたのは昭和四十九年(一九七四)、五十年(一九七五)だったが、会社の連中と飲む時でも決まった店はなかった。当時の私のホームは阿佐ヶ谷だったから、麻雀をしない時にはまっすぐ阿佐ヶ谷に戻って、一番街の外れにあった「クール」にほぼ毎日入り浸っていた。新宿で決まった店が出来たのは五十年の末頃だったろうか、Yが区役所裏の「よしだ」を開拓してからだ。
     「あの辺にストリップがあったろう。フランス座。伊東四朗が出たよ。」講釈師はよく知っている。今の伊勢丹メンズ館の辺りになるか。新宿フランス座は昭和二十七年八月にオープンし、後に新宿ミュージックホールと改称した。浅草で目が出なかった三波伸介はここで伊東四朗、戸塚睦夫と出会い、てんぷくトリオを結成して世に出る。井上ひさしの言い方では、浅草フランス座はストリップ界の東大、新宿フランス座は早稲田であった。
     当時のストリップ小屋は、幕間にコントを上演した。後に世にときめくことになる若い喜劇人が妍を競っていたから、井上ひさしや小林信彦が通い詰めた。しかしそんな牧歌的なストリップは七十年代半ばには絶滅した。渋谷の道玄坂劇場で、冴えない中年の男性芸人のちっとも面白くない漫談を聴いたのは昭和五十年(一九七五)頃だった筈で、あれがこういうものの最後だったろう。
     その頃から、ストリップ界は関西からやってきた凄まじい波に晒される。過激になったのであり、過激の度合いが天井知らずになる。当時はトルコ風呂と呼んだ特殊浴場も、キャバレーも、後に出現するノーパン喫茶(流石にこれは実際には足を踏み入れていない)も、過激な風俗はすべて関西からやってきた。露骨で直接的な時代になったのである。

     明治通りから、伊勢丹の横の信号を渡って新宿通りに入ったところに、路面に「新宿元標ここが追分」の円形の図が描かれている。ここで甲州街道は南に折れ、青梅街道が分かれるのだから、ここから西の新宿通りは旧青梅街道だった。甲州へ三十四里、約百三十四キロ。「そこでだんごを買わないのか。」講釈師が言うのは、やや東にある追分だんごである。
     「紀伊國屋はさ、狭い路地の奥にあったんだ。そうだよね。」今の紀伊國屋ビルが建ったのは昭和三十九年(一九六四)で、私が上京したのは四十五年(一九七〇)だから、それ以前の建物に記憶がある筈がない。講釈師が言うのは昭和二十二年に前川國男設計で建てられた本店で、木造二階建てだった。売場面積百五十坪、二階にギャラリーを作ったのが田辺茂一の自慢である。『創業50年記念誌』から前川國男の談話を引いておく。

    新宿は焼跡の灰燼の吹き荒れる中で、所謂「闇市」が立ち、焼跡の不法占拠が横行していました。紀伊國屋の敷地は間口に比べて敷地の奥行はバカに大きい新宿の表通りから裏路まで突きぬけた四百余坪の細長い敷地でした。表の新宿通りに面した部分には、記憶に残る「犬屋」さんをはじめ細かい店が十数軒もたちならんでちょっとやそっとで立退いて貰うわけにはゆきそうにありませんでしたので、已むを得ずそのような小店舗群を「門前町」といったかたちで残したまま、少し奥まって戦後第一号の復興建築としました。

     その狭い路地が、今でも一階の連絡通路になっていて、新宿ピカデリーの裏側に出られるようになっている。テナントも大分整理して、売り場も増やした。「先日、南口に行って紀伊國屋に入ろうと思ったらなくなっていた。」南店は今年八月七日をもって、六階の洋書売り場だけを残して閉店した。「本の小売りはダメなのかな。」何度か書いた筈だが、出版書店業界は滅びの段階に入っているのである。未だに底が見えない。
     東口広場の植え込みの中に、西条八十モニュメントがあった。姫に教えられるまで気付きもしなかった。それにしても象牙を二本立てたような恰好の意味するものは何だろう。その台座にはめ込まれたプレートに、こんな詩が書かれている。

    武蔵野なりしこの里の
    昔のすがた偲ばせて
    小畦の花のむれと咲く
    ビルのネオンの赤き花

     横にある解説板の文字がおかしい。「里」は下部の「土」が「生」になっているし、「畦」は虫偏になっているのだ。この詩の典拠は探せなかった。西条八十は明治二十五年(一八九二)一月十五日、牛込区払方町十八番地で生まれているから、新宿には縁が深い。そして新宿なら、こっちの方が有名だろう。

    シネマ見ましょうかお茶のみましょうか
    いっそ小田急で逃げましょうか
    変る新宿あの武蔵野の
    月もデパートの屋根に出る(西条八十作詞、中山晋平作曲『東京行進曲』)

     第四節の最初の二行は「長い髪してマルクスボーイ/今日も抱える『赤い恋』」だったが、摘発を恐れて書き直したものである。佐藤千夜子の歌で二十五万枚を売り上げた。レコード流行歌最初の大ヒット作品である。
     そのすぐ右にある馬水槽は、村山貯水池を設計する中島鋭司が、明治三十四年(一九〇一)に欧米諸国を視察した際、ロンドン水槽協会から東京市へ贈られたものである。上段が馬用、下段が犬猫用となっている。「日比谷公園でも見たよね。」大正から昭和の初めまで、この通りは馬車がよく通った。

     そのころの新宿を諷した狂歌には、女郎と馬糞で、新宿を象徴しているものが多い。その馬糞のはなしだが、朝未明、甲州・青梅の街道筋の百姓さんたちは、神田の青物市場まで行くのであろう、野菜を一杯籠につめて、車を引っぱって通る。
     そして、帰りには、その朝の野菜の同じ籠に、通りの端の馬糞を拾っていくのである。同じ車に、野菜と肥桶と一緒のときも、しばしばである。肥桶からは、汁もたれているのである。子供心に私は、不衛生もいいところだと思った。
     親類筋が荻窪の大宮前にあったが、私の家の汲取代のお礼に、歳末には、百姓さんのほうから、沢山の餅や野菜を貰ったものであった。汲取代が、今日とは逆さになっていたのである。
     とりわけ新宿には馬糞が多かったのは、停車場付近に、薪炭問屋が沢山あり、荷馬車が多かったせいである。(田辺茂一『わが町・新宿』)

     茂一の生家はその薪炭問屋で、不良学生だった茂一が昭和二年に紀伊國屋書店を創業した。戦後、尾津組マーケットの名残で、この辺りから高野の辺りまで屋台の飲み屋がぎっしりと並んでいた。それが、昭和二十四年の露店取り払い令によって歌舞伎町方面に移転した。それがゴールデン街の発祥だと言われている。高野の横にはハモニカ横丁があったらしい。
     武蔵野館の辺りを含めて、昭和二十二年から二十四年頃の新宿の酒場の状況については、山口瞳が『江分利満氏の華麗な生活』の中の「続・大日本酒乱之会」で詳しく書いている。山口は昭和三十八年(一九六三)の時点で、当時を「乱世だった」と熱烈に回顧しているのだ。

     乱世だった。しかし、いまになってみると、あの時代は一種のユートピアではなかったかとさえ思えるのである。みんな平等だった。みんな汚い酒場へ通った。汚い路地で連日殴り合いがあった。文学論・政治論で賑わった。汚い酒場で江分利も大学教授や作家と平等の立場で口論した。貧乏が平気だった。(中略)しかし十五年経ってみると「あの頃」がユメマボロシのように色彩を帯びて江分利の胸を去来するのだ。

     通りの向かい側にはアルタ、洋服の青山、そことみずほ銀行との間が更地になっている。「何があったかな。」もう既に記憶がなくなっている。「ちゃんとしたビルだったよね。」調べてみると三井住友銀行新宿ビルで、テナントとしてイーオンが入っていた。建築計画によれば、(仮称)新宿三丁目プロジェクトとして、事務所、物品販売業を含む店舗、自動車車庫を用としたビルが建てられることになっている。
     この付近には喫煙所があった筈だがなくなっている。「移転したようですね。」ガード下の西口に回るトンネルの脇に喫煙所が新設されていた。「ここにあったんだ。」「四か国語の表示がある。」「書かなくても見れば分るだろう。」
     連絡通路(角筈ガードという名称であることを初めて知った)はきれいになった。「明るくなりましたよね。」ここを通るのも何十年振りになるだろうか。壁に青梅街道の宿場の絵図が描かれている。通路を出ればションベン横丁だが、ここもきれいになって「思い出横丁」の名前になっていた。昔からこの名前だったのだろうか。「クジラを食わせる店があったよな。」「鯨カツなんて食ったな。」ゲイカツは、永島慎二『フーテン』で知ったのだったかも知れない。路地にはモツ焼き屋や焼き鳥屋が多い。ここで飲むと、背広に焼き鳥を焼く煙と煙草の匂いが染み込んだ。「旧青梅街道」の標柱も新しい。

     歩道橋を渡って青梅街道の北側に出ると高層ビル群が広がる。「あそこに宝塚大学がある。」スナフキンに教えられるまで、こんな大学の存在を知らなかった。東京メディア芸術学部である。要するに漫画家、アニメーター、イラストレーターを要請する学校で、特に大学である必要はない。専門学校で充分であろう。宝塚にある元々の本家のメディア芸術学部はすでに廃止が決まっているという。
     その隣の河合塾新宿校を過ぎると常円寺だ。日蓮宗。新宿区西新宿七丁目十二番五号。ビルに囲まれた小さな寺だが、静かな雰囲気を保っている。前庭の植え込みに便々館湖鯉鮒狂歌碑がある。碑文は太田南畝の文字である。湖鯉鮒(こりふ)は幕臣で本名は大久保平兵衛正武。朱楽菅江、後に唐衣橘洲に学んだ狂歌師だ。文政元年(一八一八)七十歳で死んでいる。
     でこぼこの自然石に彫りつけた文字はなかなか判読が難しいが、私たちは当然解説板で読むことになる。

    三度たく米さへこはし柔かしおもふままにはならぬ世の中

     「こわしは、固いっていう意味ですね。」ロダンが丁寧に解読する。強いと書いてコワイと読む。「薪で炊くから火加減が難しいんでしょう。」「炊飯器ならいつでも同じになるのにね。」江戸の町人は朝一度炊くだけだと思っていたが、武家では米を三度炊くのだろうか。こういう基本的なことがなかなか分らない。
     ところで湖鯉鮒の墓は、神楽坂の光照寺(牛込城跡)にある。以前行った時は境内が工事中で見られなかったけれど。門内は御会式をやっているようなので、中には入らない。
     ビルの間の石畳を抜けると成子天神社に着く。新宿区西新宿八丁目十四番十。参道に成子ウリの解説板があった。「谷中の生姜とか、江戸の近郊では野菜の栽培が盛んだったんです。」

     成子天神を中心とした地域は、江戸時代マクワウリの特産地でした。
     記録によれば、江戸に幕府を開いた徳川家は、元和年間(一六一五~二四)に美濃の国真桑村から農民を呼び寄せ、当鳴子と府中の是政村(現在の府中市)に御用畑を設け、マクワウリを栽培させました。
     マクワウリは根が浅く、土の乾燥に弱いので、土に湿り気のある神田川流域の当地は適地でした。
     元禄十一年(一六九八)新宿に宿場が開かれたため、栽培は次第に盛んとなり、当時、四谷ウリとか、この地域が鳴子坂と呼ばれていたので、鳴子ウリと呼ばれ、明治にいたるまで特産地として栄えました。
     (JA東京中央会「江戸・東京野菜マップ」
    http://www.tokyo-ja.or.jp/farming/tokyo03.html)

     創建は延喜三年(九〇三)と言うが、たぶん信じなくて良いだろう。菅原道真が死んだ年であり、その頃のこの辺は一面の原野だった筈だ。当初は柏木(北新宿)にあったが、寛文元年(一六六一)当地に移転した。
     新しいコンクリート製の神輿庫にはきらびやかな神輿が展示されている。社殿もコンクリート製だ。社殿の奥に大正時代に築かれた富士塚があるらしいが、普段は公開されていない。力石が七個埋められている。「相撲や力比べは神事でしたからね」と姫が言う。常人を超える力には神が宿ると考えられたのである。
     参道にはムラサキシキブがきれいに生っている。「こっちにワレモコウがあるわ。」ハイジが目敏く見つけてくれた。ワレモコウを見ると人生の黄昏を思ってしまうのは、庄司薫『さよなら怪傑黒頭巾』の影響だ。薫クンを過激派と誤認して議論を吹きかける老人に、薫クンはワレモコウをダシにして腰折れで応酬するのである。「つまり人生の秋、何を言っても落ち目です」と。

    天神の雨は静かに吾亦紅   蜻蛉

     桃太郎と何か話していたロダンが手招きする。「蜻蛉なら知ってるんじゃないかな。」桃太郎の疑問は、天神とは菅原道真固有のものか、それとも他にあるのか、というものである。「あるよ、天神地神に関係するんだ。」天満宮とは別に、天神社もある筈だ。天神とは高天原の神で七代と数える。国之常立神、豊雲野神、宇比邇神と須比智邇神、角杙神と活杙神、意富斗能地神と大斗乃弁神、淤母陀琉神と阿夜訶志古泥神、伊邪那岐神と邪那美神である。
     因みにそれに続く地神(地祇)五代は、天照大神・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鸕鷀草葺不合尊となる。それに神武が続くのである。これとは別に、大地の神、地主神を地神(ヂガミ)として祀る場合もある。

     少し前から腰の辺りが張ってきて、立っているのが少し辛い。飯はまだだろうか。「すぐそこですよ。それじゃ行きましょう。」青梅街道を渡って、姫は新宿オークシティのレストランを考えていたようだが、高いというので、近辺の店に分かれて入ることになった。十一時半である。「十二時半にここに集合して下さい。」
     「一時間もあったらビール飲みすぎちゃうかな。」青梅街道側に移ると、ラーメン「昌平」の隣に「なか卯」があった。「ここでいいだろう。」結局全員がこの店に入った。店は空いていた。大阪発祥の丼屋で、食券は自動販売機で買わなければならないのだが、こういう店に慣れていないから難しい。セットがある筈だが、選び方がわからないので、親子丼とミニうどんを別々に買った。「俺は分らないから丼だけにしたよ。」スナフキンも慣れていないのだ。「ビールはないな。」これで昼間から飲みすぎる恐れはなくなった。
     しかしこういう店では長居はできない。マリオが近くにヴェローチェがあると言うので歩き出したが見つからない。交番の前にお巡りさんが立っている。暫く行くとビルの中にドトール・コーヒーがあったのでそこに入る。マリオ、スナフキン、桃太郎、ロダン、オカチャンが一緒だ。
     ラズベリー香るコーヒーというものがあるが、知らないので普通のブレンドにする。先に座っていたマリオはそのラズベリーにしていた。のんびりと時間を過ごし、定刻の十分前に店を出てさっきの場所に戻る。
     「さっきメールしたんですけど。」マリーが何やら怒った顔をしている。「どれどれ。」「今見ても遅いわよ。」要するに予定より早めに集まろうというものだった。全然気付かなかった。
     「私たちはコンビニの二階で休憩してました。喫煙所もあるから、蜻蛉だったら絶対ここだと思ったんですけどね。」だって、そんな風になってるなんて知らないからね。「講釈師は良く知ってるんです。」
     雨が急に激しくなってきた。「だけど空が明るいぞ。」都庁の上の部分が霧に煙って隠れてしまっている。「疑惑の霧ですね。」誰でもそう思う。ここ暫く家にいるときは日中のニュースショーを見ることが多かった。話題は言うまでもなく豊洲とオリンピック費用の問題である。地方議員の領収証偽造問題も広がってきた。役人と政治家の質が、もうどうしようもなく落ちているのだ。
     官僚制が際限もなく無責任になってしまう状況を、ハンナ・アレントは全体主義、とりわけナチズムの重要な要素に挙げている。
     都庁の役人が本当のことを言わないのは、利権の構造に絡むからだろうとは、誰でも推測できる。「都庁は伏魔殿だね」と吐き捨てた石原慎太郎本人が伏魔殿の主である。

    新宿や霧に隠れる伏魔殿

     中央公園に入る。「淀橋浄水場の跡です。」現在の西新宿、北新宿一帯は、かつて東京府多摩郡淀橋町であった。昭和三十五年(一九六〇)、東村山浄水場が竣工・通水すると逐次移管され、淀橋浄水場は昭和四十年(一九六五)に廃止された。その浄水場跡地に熊野神社の一部敷地を加えて整備された公園だ。
     正確に言うと淀橋浄水場は広大な正方形の敷地で、東側は東通り、西側は中央公園のほぼ真ん中まで。都庁も新宿第一生命ビル、新宿住友ビル、新宿三井ビル、京王プラザホテルが全て入るのだ。
     熊野十二社(じゅうにそう)に入る頃に雨は止んだ。『江戸名所図会』では十二所(じゅうにしょ)権現社と表記し、「世人、誤って十二そうといふ」と記す。立派な神社で、中央公園の一部もかつての敷地だった。ここも神輿庫に立派な神輿が並んでいる。

    祭神紀州権現に同じ、本郷村成願禅寺奉祀の宮なり。社記にいふ、応永年間(一三九四~一四二八)鈴木荘司重邦が後裔鈴木九郎某なる人ありて、紀州藤代に住めりしが、流落してこの中野に移り住す。熊野権現は産土神たるにより、宅の辺の丘陵を闢きて小祠を営み尊信深かりし。しかるに、九郎あるとき北総葛西の市に、飼ふところの痩馬を売りて、価一貫文を得たる帰路に臨んで浅草に至り、その得るところの銭の緡を解きてみるに、ことごとく大観銭になり。九郎心裏に思ふところありて、すなはち観音堂に詣で、その銭を宝前に奉り、手を空しうして帰りしが、それより後はからざる幸福を得て、その家おほいに富をなせり。ゆゑに、応永十年癸亥(一四〇三)社を再興し、更めて十二所の御神を勧請し奉り、田園等若干を附す。(『江戸名所図会』)

     この鈴木九郎が中野長者と呼ばれた。中野長者については、第三十回「御府内八十八ヶ所と逸話の地を訪ねて(中野編)」で、中野区本町の成願寺(曹洞宗)で「中野長者物語」という絵巻を見た。かつては滝と池がある景勝であった、

    十二社碑 江都之勝躁於東南而西北則寂矣蓋以其高燥乏水也河渠不
    通舟楫欠便遊跡従寡屠肆従陋所以属寂如茲境丘壑錯互原
    野平叙始而幽邃終而暢達且挟一大池以開生面東南豈有数
    与猶不躁者何以都人取便利与酔飽而真愛景致者少也人以
    為恨然予則謂是騒流韻士所適雑踏攪趣酔顚破景安得披襟
    逞雅興焉夫桜華凝芳而人過香積国嘉木滴緑而身入清涼地
    虫声沸月則観一乗雪光照丘則浄六塵乃騒客来游而可酔可
    噓堪□堪賞四時佳景東南有幾我恐或躁曷恨矣今記其槩表
    之勝状悉実非予筆可悉也嘉永辛亥春三月 負笈道人撰
    丘山分地胗位置属天工池蓄千秋雨松吟両岸風 静軒居士
                 日本書堂憲斎源文彭書

     読み下しを見つけたので、引いておく。奇特な人もいるのである。「漢文石碑を読み歩く 十二社碑」(http://bon-emma.my.coocan.jp/sekihi/juunisou.html)より。

    江都の勝、東南に躁にして、西北は則ち寂さびし。蓋し、其高燥にして水の乏しきを以もってなり。河渠通ぜず、舟楫便を欠き、遊跡従って寡なく、屠肆従って陋し。寂しきに属く所以なり。
    茲境の如きは、丘壑錯互し、原野平叙なり。始まりて幽邃、終わりて暢達。且つ一大池を挟み、以て生面を開く。東南、豈に数有らんや。猶躁ならざるは何ぞや。都人、便利と酔飽を取りて、真に景致を愛する者少なきを以ってなり。人、以て恨みと為なす。
    然れども、予則ち謂わん、是騒流韻士の適する所なり、と。雑踏は趣を攪みだし、酔顚は景を破る。安ぞ襟を披き雅興を逞しくするを得ん。
    夫、桜華は芳を凝らして、人香積の国に過ぎり、嘉木は緑を滴らせて、身清涼の地に入る。虫声月に沸けば則ち一乗を観み、雪光丘を照らせば則ち六塵を浄きよむ。乃ち騒客来游して酔うべく噓ぶくべく、□すに堪え賞すに堪う。四時の佳景、東南に幾も有り。我は恐る、或は躁なるも曷ぞ恨みん。

     「向うに太田南畝の水鉢があります。」立札にしたがって行くと本殿の脇にあった。文政三年(一八二〇)三月に奉納された水鉢で、大田南畝の銘文が彫られている。この年、南畝は七十二歳である。調べたついでに言えば、清水次郎長が生まれた年でもある。

    熊野三山/十二叢祠/洋洋神徳/監於斯池/太田覃

     熊野神社前の交差点から北上する。タワーマンション建設現場(新宿区西新宿五丁目中央地区第一種市街地再開発事業)を覆う囲い壁は、「けやき橋アートギャラリー」となっている。「そこにカリンの実がなってる。」講釈師の声で横を見ると、脇に入る道路に面した三階建の家の前にカリンがあった。「大きいわね。」  成子坂下で青梅街道に戻って淀橋を渡る。この橋にも中野長者に絡み、姿見ずの橋と呼ばれたと言う伝説がある。伝説とはこんなものである。中野長者が下男に命じて金銀を埋めさせ、秘密が暴露することを恐れて下男を殺した。その罪業が祟って美人の一人娘は何度婿を取つても皆病死し、家出した娘はこの川まで来ると姿が見えなくなった。蛇になったのである。だから、花嫁行列はこの橋を渡ってはならない。
     この伝説を払拭するため、大正二年十一月二十一日に大々的なお祓いが行われた。主催は山政醤油の浅田政吉で、淀橋の川上に床を張り、正面を祭壇として神官二十名の式だった。式が終わると関直彦の迷信と神経の演説、柳田國男の「伝説の尊重と迷信の打破」の演説があつたと言う。(東京・水・散歩「中野長者 鈴木九郎の足跡を辿る(5)補記その2」より)
    http://waterwalker2012.seesaa.net/

    淀橋 成子宿と中野村との間に架す。(中略)昔大将軍家このところに御放鷹の頃、山城の淀に準擬へ、この橋を淀橋と唱ふべき上意あり。よつて号とすといへり(ある人いふ、淀橋は余戸橋ならん。『和名称』に武蔵国豊島郡に余戸といへる村あり。この地は豊島郡と多摩郡の中間にて、上古のあまりべなるべしゆゑに、余戸橋と唱へたりしならんか)と。しかれどもその是非を知らず)。旧名は面影の橋、姿見ずの橋なども呼びたりしとなり。(『江戸名所図会』)

     川の水が澱んでいたからだという説もある。下を流れる神田川の水量が多い。ここから中野区に入る。中野坂上の駅の辺りに、「実践中・高校生」の案内板を胸に抱えた学生が立っている。「この辺にあるのか?」「実践は渋谷だろう。」流石のスナフキンも知らないことがある。宝仙寺小学校の北側に接して実践中・高校があった。
     宝仙寺。真言宗豊山派。中野区中央二丁目三十三番三。「以前にも来ましたが。」ここも第三十回で寄ったのだ。「宝仙寺は今じゃ大学も作ったからな。」子ども教育宝仙大学と言う。建学の精神は「仏教精神を基調とした人間教育によって品格と知性を兼ね備えた人を造る」である。
     宝仙寺は八幡太郎義家が後三年の役(一〇八三~八七)の凱旋途中、陣中にあった不動明王を本尊として創建されたと言う。元は阿佐ヶ谷にあったが、正長二年・永享元年(一四二九)と内に移された。立派な仁王門を潜る。左手の鐘楼が新しい。「下見の時はまだ工事中でした。」
     「これだよ、石臼塚だよ。」三重塔の脇にあるのが、古い石臼を積み重ねた塚である。神田川には多くの水車が設置され、蕎麦を挽いた。蕎麦に関係したことは講釈師は特に詳しい。但し、この辺が蕎麦の産地だったのではなく、各地から集めた玄蕎麦をここで挽いて、江戸市内に供給したと言う。
     昭和七年から十一年まで存在した中野町役場を記念した大きな石碑もある。墓地には開発名主の堀江家の墓所があるが、私は腰の具合が良くないのでベンチで休憩させてもらう。
     堀江家の本貫は越前国(一説に備前国)であるが、弘治元年(一五五五)に当主堀江兵部が百姓十八名を引き連れて移住、開発に着手したとされる。土豪・地侍と言って良い堀江氏が支配下の百姓を引き連れて移住したということは、余程の事情があったと思われる。朝倉氏との抗争の結果だとすれば、逃散、あるいは欠落(かけおち)と判断され、討手がかかる可能性は充分にあった。北条氏との間で何らかの政治的交渉が行われたのだろうか。
     いずれにしても移住は成功し、堀江氏は北条氏時代には小代官、徳川氏になって名主として幕末まで中野村を経営した。中野一丁目の区立谷戸運動公園が、堀江氏の居館「城山」と推定されている。
     「この辺の飲み屋はよく来たよ。あそこがお薦め。」スナフキンが指差すのは魚の平田屋だ。「それじゃ、今日はそこにしましょうか。」「五時からなんだよ。」ネットを見るとかなり評判の良い店だ。単価も安い。
     墓地の脇の路地を通って小さな本町通公園で休憩する。中野区中央二丁目三十二番。単なる休憩かと思って向かいの稲荷を見ていると「そこは後で寄ります。休憩してください」と諭されてしまった。私の腰の具合を気にかけてくれているのである。ここに山政醤油醸造所の煉瓦塀の一部が移築されていた。

    建造は、明治三十二(一八九九)年と推定されます。中野での初期洋風レンガ構造物と言われている浅田銀行本店を手掛けた中野在住の棟梁と弟子たちによって、 醸造所の蔵とともに築かれました。石灰、海草のつのまた、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とフランス積みといわれるレンガ積み工法で造られています。

     姫がフランス積みとイギリス積みの違いを解説する。フランス積みは、一段の中で長手と小口を交互に並べる方式で、イギリス積みは、長手の段と小口の段とを交互に積み重ねる方式である。塀一枚の裏側は鉄板で補強されている。
     その向かいが明徳稲荷だ。中野区中央二丁目五十二番一。稲荷の癖に、コンクリート製の鳥居は神明鳥居の形であるのが珍しい。堀江家の屋敷神だったものである。堀江家の敷地は六千三百余坪の広大なもので、その東北の隅(鬼門)に位置していた。
     「これは狐でしょうね。」若旦那が手水鉢の浮き彫りを見つけた。慶応三年(一八六七)に造られたものだ。
     神社を出る時、「東京市郡併合記念」の石柱をスナフキンが見つけた。昭和七年(一九三二)十月一日、従来の東京市(一五区)に隣接する五郡(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡)八十二町村が合併して、「大東京市」となった記念である。
     青梅街道に戻ればもう中野新橋入口だ。「貴乃花部屋があったんだけど、移転したんだよ。」今年七月に江東区東砂に移った。現在の幕内力士はモンゴル出身の貴ノ岩だけだ。「オサムの会社の本社もあるんだよ。呼び出そうか。」「今日は東五軒町の方じゃないかな。」
     甲斐犬愛護会東京支部というものがある。中野区中央二丁目四十七番五号。硝子戸から覗き込むと、狭い折の中で犬が寝ている。

    真に日本犬としての本質性能を甲斐犬にご期待下さい。
    形態.体高四〇センチ五〇センチ 毛色は虎毛
    特性 一代一主他人に馴れず、怜悧、強胆、精悍、素朴
    忠実な家庭犬、信頼できる番犬、万能的猟犬

     慈眼寺の門は閉ざされて入ることができない。中野区中央三丁目三十三番三号。通用門は閉まっているが鍵はかかっていない。仕方がないので、外から覗くだけにする。真言宗豊山派。鉄格子を通して、金色のパゴダが見える。現在の住職が、タイ国王立一級寺院のワットスラケットで戒を受けたことから、ワットスラケット寺院から寄贈された釈迦の舎利が収められている。しかし真言宗豊山派の僧侶が、上部座仏教(昔は小乗と言った)の戒を受けるというのは不思議なことである。密教とは思想がまるで違うではないか。
     「臭いな。」「これだ。」イチョウ並木が続き、落ちたギンナンが歩道で潰れているのだ。鍋屋横丁交差点を過ぎ、中野通りと交差する角にある杉山公園で休憩だ。通りが見渡せる広い公園だが、緑が少ない。夏は日蔭がなくて暑いだろう。「広いし、トイレが綺麗なので、ここで休憩します。」
     片隅に三体の地蔵を浮き彫りにした石碑があるのが少し異様だ。明治時代の実業家・杉山裁吉がが、嗣子がいないために土地を寄贈したのである。地蔵は杉山の親子三代を表わしているらしい。

    杉山一家嗣なく血統絶ゆる。代々の精霊は永くここに鎮まりて
    中野町の繁栄と其の住民の幸福を祈らむ

     「それじゃ出発しましょう。高円寺に向います。」高円寺と言っても駅ではない。寺院である。途中、小さな北野天神に寄ってみる。
     高円寺陸橋の脇から環七通りを北に向かう。光塩女子学院と言う学校がある。メルセス宣教修道女会の設立した学校で、マタイ伝の「地の塩」からとられた名前のようだ。
     桃園川緑道を越えて更に進む。「この辺に気象神社がありませんか?」ロダンは、一度行ってみたいのだと言う。そんな神社があるのか。「あるよ、高円寺駅のすぐ近くだよ。」スナフキンは高円寺の阿波踊りに頻繁に来ているので詳しい。気象神社とは何かの当て字かと思ったが違った。

     高円寺の氷川神社に祀られている日本で唯一の気象神社は陸軍気象部にあったお天気の神様。
     第三気象聯隊戦友会・気象関係戦友会有志が立てた説明版「気象神社由緒」によると、この気象神社の祭神は八意思兼命(やごころおおもいかねのみこと)(知恵の神)。 陸軍気象勤務の統括・教育機関として旧馬橋四丁目(現・高円寺北四丁目)に創設された陸軍気象部の構内に、昭和十九(一九四四)年四月十日に造営。戦後の神道指令で除去されるはずが、連合軍宗教調査局の調査漏れで残ったため、当局に申請して払い受け、 昭和二十三(一九四八)年九月十八日の氷川神社例大祭の際に遷座祭を行ったと言う。
    (気象神社ブログhttp://www.kisyoujinjya.jp/about.html)

     「昔高円寺に住んでたんですよ」とロダンが懐かしむ。「いつ頃のこと?」「『男おいどん』の時代ですよ。」「俺は阿佐ヶ谷にいたことがある。」「私もいましたよ。」ロダンは杉並区が好きだったのだろう。「一度、女房と一緒に行ってみたら、もうマンションに変ってましたよ。」
     「都内に住んでたなんて、スゴイですね。」姫はそう感心するが、今とは全然違う。中央線沿線には学生向けの安い下宿がたくさんあったのだ。私が住んでいた阿佐ヶ谷のアパートも小さな流しがついた六畳間で、トイレは共同、風呂は勿論なかった。同級生のTが四年間住んでいたのを引き継いだのだから、完全に学生用アパートである。一番街を抜けて路地を入ったすぐの、中央線の高架に沿った古いアパートだ。その一番街の外れにスナック「クール」があって、学生時代から私たちの溜まり場だった。
     姫は適当なところで左に曲がった。さっき、高円寺の場所を姫に訊かれて、スナフキンは知っていると答えている。姫は自信なさそうだが、それなら大丈夫だろう。しかし、さっきスナフキンは駅の場所を訊かれたと勘違いしていたのだ。オカチャンは「駅前から来れば分るんだけど、こっちからだと分らない」と呟いている。
     寺の門があるが、表札のようなものもない。通用口は開けられるが、ここから入るのは難しかろう。「そこから曲がりこめばいいんじゃないかな。」幅一メートルもない道を曲がりこめば、境内の脇に出た。高円寺(曹洞宗)である。杉並区高円寺南四丁目十八番十一号。環七から東に曲るのが二本遅かったのだ。高円寺南五丁目の信号を左折すれば良かったのである。
     樹木が立派だ。巨樹といって良いだろう。ピンクのサルスベリがまだ花をつけている。屋根が立派だ。向背は千鳥破風の内側に唐破風を組み合わせたものだ。その唐破風に取り付けられている彫刻は天女と馬と龍だろうか。棟瓦には三つ葉葵の紋がある。由緒正しい寺院であろう。

     宿鳳山高円寺は、弘治元年(一五五五)中野成願寺三世建室宗正によって開山された曹洞宗の寺です。本尊は観音菩薩像で、室町期の作と伝えられる阿弥陀如来坐像も安置されています。
     かつてこの地は、周辺に桃の木が多くあったことから桃園と称され、本尊は桃園観音、寺は桃堂の名で呼ばれていました。 当寺が広くその名を知られるようになったのは、第五世耕岳益道の時、三代将軍徳川家光の知遇を得たことによります。現本堂裏の高台が「御殿跡」と呼ばれるのは、家光が遊猟のおり当寺に立ち寄り休息した茶室跡に由来するといわれ、付近には「御殿前」の名称が残りました。境内にある茶園の名残も家光の寄進と伝えられます。また、それまで小沢村と呼ばれた村名を寺名をとって高円寺村と改めさせたのも家光といわれています。
     当寺は今日まで寛保二年(一七四二)、弘化四年(一八四七)、明治三十三年、昭和二十年と四度も罹災し、堂舎と共に古記録類の多くを焼失しました。現在の本堂は昭和28年に建立したものです。(杉並区教育委員会掲示より)

     本堂の左手には石造の鳥居がある。「これ珍しいですよね。」左右の柱に昇り龍、下り龍が彫られているのだ。その奥には、本堂から一続きで続く建物で、特に何かの神社と言う訳でもなさそうだ。地蔵堂ではないかという説をネットでみたが、地蔵堂に鳥居を組み合わせるのも、ほかに見たことはない。
     帰りは山門から出る。この扉にも三つ葉葵が大きく彫られている。参道も長い。「こんな立派なお寺があるなんて知りませんでしたよ。」
     交番が寺の土塀と繋がっている。左に曲がって環七通りに戻る。真っ直ぐ南に下って青梅街道に出て左に曲れば蚕糸の森公園である。公園の西の道の角には大きな立派な青銅製の灯籠が対になって立っている。妙法寺の参道入口になるらしい。実は、妙法寺と真盛寺も予定に入っていたのだが、本日は蚕糸の森で終わることになった。私も今日の腰の具合ではこの辺が限度だ。
     蚕糸の森公園は蚕糸試験場の跡である。蚕糸試験場の設置は、明治四十二年(一九〇九)、桂小五郎首相主催で第四回官民実業懇話会が開かれた時の、富岡製糸場のオーナーである原富太郎の発言が発端になった。以下は、すぎなみ学倶楽部「蚕糸試験場 設立から現在まで」(http://www.suginamigaku.org/2014/10/yosan-shikenjou-02-01.html)の記事による。発言はこうである。

    「近年養蚕乃製糸高は年々増加の傾向に在れども、其品種の伊太利亜仏蘭西に劣れるは勿論、どうもすれば支那糸にも劣ることなきにしも非ず、(中略)今後の急務は、種紙は申すに及ばず蚕種及び元蚕種の改良統一を図るより切なるはなしと信ず。」(『日本蚕糸業史分析』)

     幕末以来、絹は重要な輸出品であり、明治五年(一八七二)に富岡製糸場が作られてから三十七年も経っている。その時点でもこういう状態だったのだ。品種改良が急務であった。

     一九一一(明治四十四)年五月、農商務省原蚕種製造所(以下、原蚕種製造所)が設立された。これが後の蚕糸試験場である。蚕種の製造と品種改良を目的とした施設で、高円寺が本所、綾部(京都)・前橋(群馬)・福島に支所があった。

     「日本で今でも絹を生産してるんですかね。」桃太郎が私と同じ疑問を口にする。高級な和服には絹が必要だから。ごく一部で続けてるかも知れないね。」戦後、糸偏景気があったが、その後はずっと縮小していったのではないだろうか。事情はそんなに違っていない。

     戦後、蚕糸試験場は沖縄・台湾の飼育所を廃止したものの、新たな飼育所や桑園を各地に設置しながら研究を続けていく。一方、一九六〇年代に日本が高度成長期を迎えると、輸出の中心は生糸・絹織物から重化学工業製品へシフト。国際的な化学繊維の開発と普及も、輸出量の減少に拍車をかけた。一九七六(昭和五十一)年までの二十年間は、国民所得の向上に伴う内需の拡大で、約二十万トンの生産量を維持したものの、やがて生活様式の変化から着物離れが進み、絹の内需も減少。

     もうひとつ、現状を把握するために別の記事を引用しておこう。

     日本の繭生産量は、今から約八十年前、一九三〇年(昭和五年)の四十万トンをピークに 減少し、平成二十五年には百六十八トンまで落ち込んでしまいました。
     また、繭生産量に伴う製糸業の衰退も著しく、数多く操業していた国内の製糸業は、平成二十年にはわずか四工場を残すのみとなってしまいました。(そのうちのひとつが富岡市の隣、安中市にある碓氷製糸農業協同組合です。)
     これらの衰退の原因は、安い労働力に支えられた海外からの低価格生糸や絹製品の流入、 社会構造の変化に伴う後継者不足、日本人の服装が和装から洋装へと変化したことによる絹需要の低下などが挙げられます。
     (「富岡製糸場と養蚕」http://tomioka-silkbrand.jp/silkworm/index.html )

     公園の敷地面積は八千二百坪。防災公園を兼ねている。中に入ると幅三十メートルの大きな滝があって、皆はそちらに向かうが私はベンチに腰を下ろす。今日は疲れた。「ここで楽器の練習をする人もいるんです。滝の音で周囲に聞こえないようで。」
     休憩したお蔭で腰の具合も多少回復した。東高円寺駅で解散だ。「何歩になった?」ロダンの一万六千からヨッシーの二万四千歩まで四人の幅がありすぎる。ここではマリーの万歩計を採用して一万八千歩、およそ十キロと決めておく。
     マリオ、スナフキン、ロダン、桃太郎、姫、マリー、蜻蛉の七人は荻窪に向かう。私は中央線だけかと思っていたが、丸の内線で真っ直ぐ行けるのだ。今は四時ちょっと前だ。「やってるかな。」
     しかし荻窪駅を出ると、既に飲み屋は満席状態である。空いているのは「串カツ田中」だ。通りに面した引き戸はすべて開け放されている。「面白いですね。」女性陣はこういう店は初めてだろう。「アジア風の感じですね。」あるいはこれが大阪風なのだろうか。
     大阪風の串カツで、最初にキャベツとソースが満杯に入ったステンレスの容器が出された。ソースの二度付け禁止の札が貼られている。「この余りを他の客に利用するとは思えないね。」しかしマリオが店員に訊くと、余ったソースは濾して再利用するのだそうだ。キャベツは胃もたれを防ぐ意味だという説もある。
     ジャガイモ、タマネギ、レンコン、シシトウ、ナスビ(以上百円)、紅ショウガ、シイタケ、うずら、ツクネ、ハムカツ(以上百二十円)を三串づつ、それにマリオが百五十円のバナナを注文した。「バナナの串カツ?」私は遠慮した。それにしても串カツの店で、殆んど野菜ばかりという注文の仕方はなんだろう。カツと言うのは肉とばかり思い込んでいた私は学問がない。野菜でも魚でも何でも串カツなのである。
     ビールの後は何にしょうか。「ボトルはないみたいだな。」「ホッピーにしようか。」以前ホッピーに挑戦した時には既に泥酔状態でほとんど飲めなかったので、再挑戦である。「エーッ、飲んだことないの」私以外の男性から声が上がる。スナフキン、マリオは黒を選んだので私もそれにする。ロダンは白だ。案外いける。串カツに良く合う。「バナナはどう?」「美味いですよ。」芋みたいなものか。
     「それって、水なの?」グラスに半分入った焼酎を見てマリーが質問する。水をノンアルコールのホッピーで割ってどうするのか。「甲類ですよ」とマリオがマリーに説明する。甲類は無色無臭の合成酒だから、お湯割りでは飲まない。
     「ちりとり鍋って何だろう?」「塵取りに入っているからとか。」「チリソースじゃないかな。」私はチリソースと鶏の組み合わせではないかと思ったのだ。てんでん勝手に推測していたが、ちゃんと書いてあることにマリーが気付いた。深さ二、三センチの平べったい鉄鍋を塵取りに見立てたものらしい。

    ちりとりの形に似た底の浅い四角い鍋を使うことが名の由来。大阪に住む韓国の人たちが、日本のすき焼きに満足できず、生みだした料理といわれる。牛赤身とホルモン、山盛りの野菜を一緒に煮て食べる。(コトバンク)

     こういう店は初めてだから勉強になるね。しかし特に注文すべきものではなさそうだ。「肉スイってなんですか?」「肉うどんからウドンを除いて豆腐を加えたものです。」「肉じゃがみたいな?」「ちょっと違います。」スナフキンが一人前頼んで、全員に少しづつ配ってくれた。ナカ(焼酎のお替り)を三つか四つ頼んだろうか。約二時間、三千円である。
     「まだ六時前だね。」「私は帰りますよ、明日があるから。」「明日は誰にでもあるよ。」ロダンはすっかり真っ赤になっているし、マリオはそれほど飲む人ではないので、ここで帰って行った。いつも言うことながら、ロダンは働き過ぎである。
     「さてどうしましょうか。お腹がいっぱいだしね。」「カラオケでもいいよ。」いつもはカラオケを頑なに拒否している桃太郎が、今日はどうしたのだろう。「それじゃ、そのこのカラオケ館にしよう。」
     カラオケでワインを頼むなんて、桃太郎がいなければしない仕業だ。そして意外なことに桃太郎は歌うのである。そして案外上手い。何曲歌っただろうか。加山雄三が一番似合っていたかも知れない。「楽しいな。」それなら、今後はカラオケの時には毎回参加するだろう。私は喉の調子が余り良くない。それでも『紅とんぼ』が何とか歌えた。八時ちょっと前にお開きになった。

     ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。私はボブ・ディランにそれ程影響されなかったが、『風に吹かれて』は好きだった。「文学」というものがまだ生きているのかどうか、そしてノーベル賞が文学に対してどれ程の影響を持つのか、実は私は懐疑的だ。しかし、歌謡曲も含めて文学全集に収録すべきだとは、確か山口瞳が言っていたのではないか。日本では加藤周一が『日本文学序説』を書くまで、文学の範囲を非常に狭く考えていたが、人間の感情や考え方に大きく影響を与えるものが「文学」だとすれば、何を含んでも良い。

    How many roads must a man walk down
    Before they call him a man?

     どれだけの道のりを歩けば、人は大人として認められるか。この問いはまだ二十歳になる前から重くのしかかっていた。六十五歳を過ぎ、私は本当に「大人」になっているだろうか。

    蜻蛉