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    青梅街道 其の二(東高円寺から武蔵関まで)
    平成二十八年十二月十日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2016.12.21

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     先週金曜日、こころを車で迎えに行くと、家の前で待ちかねたような様子で顔をくしゃくしゃにさせた。午前中は公園に行き、池の鯉やカルガモを見て、幼児用の簡単なアスレチックコースで遊んだ。同じ位の子供を遊ばせている母親が多い。「この滑り台はコワいの。」先日、勢いがつきすぎて頭をちょっと打ったのである。昼飯を食ってから二時頃までは、『となりのトトロ』録画を見て折り紙で遊ぶ。それにしても幼児と遊ぶのは疲れる。
     一昨日は北海道のSが上京したので神保町で飲んだ。以前に飲んだのはもう二十年も前になるだろうか。「東京は暖っけな」とコートも着ていない。高校時代に生物部に所属して虫の観察をしていたのが一生の仕事となって、衛生害虫の研究と教育を続けてきた。首尾一貫した人生は尊敬すべく、羨ましい限りである。
     旧暦十一月十二日。大雪の初候「閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)」。日月火と比較的暖かな日が続いたが、水、木とまた寒くなった。昨日は比較的暖かだったが今日は寒い。
     集合場所は前回終了した東高円寺駅だ。鶴ヶ島を八時二十八分発の元町・中華街行に乗り、新宿三丁目で丸ノ内線に乗り換える。到着は九時三十一分だ。あんみつ姫、ハイジ、マリー、シノッチ、クルリン、若旦那、ヨッシー、講釈師、ダンディ、マリオ、スナフキン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の十四人が集まった。
     マリオはベトナムとカンボジアに旅行し、三十度を超える暑さの中を半袖で過ごしたのに、日本に帰ってきた翌日が雪だった。更に今週は三日連続でゴルフをしたと自慢する。
     スナフキンは安いスマホ(月額二千円だそうだ)に変えて、画面設定を息子にして貰ったと言う。どうにも面倒臭そうで、だから私はスマホは使わない。しかし今使っている携帯電話は会社支給のもので、来年四月には返納しなければならない。NTTドコモは今年一杯でガラケーの出荷を終了すると発表したが、まだ買えるだろうか。

     駅からはすぐに公園に入る。「林試の森ね。」「蚕糸だよ。」「そうね、林試は目黒だったわ。」「自分じゃちゃんと言ってる積りなのに。」「そういうことって良くあるわよね。」蚕糸の森公園は前回最後に入ったところだ。
     その公園を抜けて、妙法寺の青銅製灯籠を見て参道を行く。明治二十二年の中野駅の開業に伴い、中野駅方面からの参道入口の標識として、明治四十三年に花柳界を中心とした檀家の寄進によって造立された灯籠である。高さは六・五六メートル。中野の花柳街と言えば中野新橋であろう。昭和四十一年時点で料亭は四十一軒、芸者百三十人がいたと言うから相当な規模だ。
     蓮光寺(日蓮宗)は門前の案内板を見るだけだ。杉並区和田三丁目三十番二十号。文禄三年(一五九四)両国矢の倉に開山、浅草新寺町に移転し、大正四年に浅草の区画整理に伴って現地に移転した。チャンドラ・ボースの遺骨が埋葬され、その銅像が立っているらしい。
     私はチャンドラと、新宿中村屋に匿われたビハーリー・ボースとをしょっちゅう間違えてしまう。と言っても、中村屋におけるビハーリーについては臼井吉見『安曇野』で知った程度だ。ビハーリーはインド独立連盟の初代総裁(二代がチャンドラ)であり、日本政府の支援の下にシンガポールで樹立した自由インド仮政府の首班となり、チャンドラも指導者の一人として活動した。そして病いがちだったビハーリーから、チャンドラがインド独立連盟総裁とインド国民軍の指揮権を引き継ぐ。彼らは日本政府の援助を当てにしたが、当時の日本は彼らを対英戦争の道具としか考えていない。ただ、あの無謀なインパール作戦はチャンドラと呼応したもので、インド国民軍六千人が参加している。
     ビハリーは昭和二十年(一九四五)一月に亡くなり、中村屋の俊子との間に生まれた長男も沖縄戦で戦死した。チャンドラもまた日本敗戦後の八月十八日、台湾上空で航空機事故に遭って亡くなる。二人のボースが生涯を捧げたインド独立は昭和二十二年(一九四七)まで待たなければならない。中国の汪兆銘は戦後「漢奸」として抹殺されたが、インドはチャンドラの功績を顕彰している。
     真盛寺。杉並区梅里一丁目一番一号。寛永八年(一六三一)湯島天神前に開創、天和三年(一六八三)谷中清水町に、元禄元年(一六八八)本所小梅寺町に、大正十一年に当地に移転してきた。三井高利が江戸日本橋に越後屋を創業して以来の越後屋の菩提寺で、三井寺とも称されている。
     「入っちゃいけないんじゃないか。」檀家以外の境内入場を禁ずる旨の立札が置かれているので、立派な山門まで行ってみる。参道には元三大師(慈恵大師良源)の黒い石碑が立っているから、天台宗だと分かる。天台真盛宗であった。
     しかし天台真盛宗とは聞き慣れないので、ウィキペディアを参照すると、文明十八年(一四八六)、真盛(円戒国師・慈摂大師)が近江国坂本の西教寺に入ってから始まった一派である。

     天台系の本山寺院のうち、延暦寺や園城寺(三井寺)が密教色が濃いのに対し、西教寺は阿弥陀如来を本尊とし、念仏(阿弥陀如来の名を称えること)を重視するなど、浄土教的色彩が濃いが、これは中興の祖である真盛の思想によるところが大きい。真盛によって始められた天台真盛宗の宗風は、「戒称二門」「円戒念仏」等と表現される。「戒称」の「戒」は戒律、「称」は「称名念仏」、つまり阿弥陀仏の名を一心に称えることを言う。「円戒」は「円頓戒」の略であり(「円」は「円満な」すなわち「完全な」の意、「頓」は「速い」の意)、天台宗の僧侶や信者が守るべき戒律(正しい生活を送るために守るべき規範)を指す。具体的には、「梵網経」に説かれる十重四十八軽戒という、十の重い戒と四十八の軽い戒のすべてを守ることである。つまり、真盛の思想は、「戒律」と「念仏」の両方を重視する点に特色があり、この点が、同じ念仏でも法然の唱えた「専修念仏」、親鸞の唱えた「悪人正機」の教えとは異なる点である。(ウィキペディア「西教寺」より)

     中世の仏教思想は易行に向かって戒律を軽んじた。天台の中から生じた本覚思想は一切衆生悉有仏性を唱え、やがて存在しているだけで既に仏であるという観念も生み出した。それならば善悪関係なく、何をしても構わないではないかと考える者はいる。しかしそれはスメルジャコフに至る道である。戒律を重視するのはそれに対する反動だっただろうと思われる。応仁の乱を経験して、宗教人は様々な模索をしていた。

     ここで姫は妙法寺の場所が分らなくなり、頻りに地図を確認している。「商店街があるんだよ。」講釈師の言葉で、環七に合流して少し南に下ると妙法寺入口のバス停があった。そこから右に入ると、妙法寺堀之内静堂の門だ。しかし姫はそこに入らない。「ここじゃないのかな。」門を覗き込みながら若旦那たちと首を捻っていると、ちょうど寺に来た女性が「ここから入れますよ」と教えてくれた。しかしここは裏門になるようで、そこから道なりにぐるっと回り込むと商店街に出た。そして山門が見えた。広大な敷地だ。「裏門から入ると講釈師に叱られてしまうので。」
     妙法寺(日蓮宗)。杉並区堀ノ内三丁目四十八番八号。山門はかなり古い仁王門だ。表札には「日蓮宗本山」とある。本山と言っても日蓮宗には総本山の身延山久遠寺の下に、大本山五、本山八もあるのだ。

     當山の由来は、今を去る事三百数十年前、元和(一六一五~一六二三)の頃、元真言宗の尼寺であったが、覚仙院日逕上人は老母妙仙院日圓法尼の菩提のため、日蓮宗に改宗し、老母を開山とし、日逕上人自らは開基第二祖となられた。 山号は開山日圓上人にちなみ日圓山とし、寺号を妙法寺と号した。
     当初は、目黒碑文谷の法華寺の末寺となりましたが、元禄十二年(一六九九)三月、身延山久遠寺の直末となりました。
     この時、法華寺からやくよけ日蓮大聖人の霊像を お迎え致しました。この像があらゆる災難除けに霊験あらたかなことから人々の信仰を集め、法運隆盛をきわめて 今日に至っております。(妙法寺「堀之内妙法寺の由来」http://www.yakuyoke.or.jp/yurai/index.html

     碑文谷の法華寺末寺から身延山久遠寺の末寺に変わったのは、不授布施派弾圧の結果である。法華寺は強制的に天台宗に改宗され、圓融寺と称している。それに対して久遠寺は反不授布施派の急先鋒であった。日蓮の教えは非寛容なもので、不授布施派の方が日蓮の教えに近いと思われるが、権力と妥協しなければ存続できなかった。そして不授布施派は隠れキリシタンのように地下に潜ることになり、再興が許されるには明治九年(一八七六)まで待たなければならない。
     仁王像の前には金網が張ってあり、中の金剛力士がよく見えない。この仁王像は徳川家綱が日吉山王社に寄進し、それを移したものだ。上層の回縁部分にも網が張ってあるのは、木造の建物が古くて、木片が剥落して滑落するのを防止するためだろうか。手水鉢は青銅製で、四隅を唐子が肩で支えている。奉納者は牛込御納戸町の町名しか読めない。
     「コンドルの門があるんです。」姫の言葉で私は『コンドルは飛んでゆく』を連想してしまったが、そうではなくジョサイア・コンドルであった。鉄門は和洋折衷というか、色遣いは中華風にも思える。門扉を支える両側の柱には七言が二句書かれている。右は「花飛浄界香成雨」(花は浄界に飛んで香は雨となる)、左は「金布祇園福有田」(金を祇園に布て福は田に有り)。七言二句とは漢詩の作法では聞かない。あるいは七言絶句の前半二句か。久遠寺七十四世・日蓮宗四代管長の吉川日鑑(一八二七~一八八六)の筆である。柱の台座には唐獅子と牡丹をあしらっている。
     柱の頂上には、左に西洋男性、右に西洋女性のブロンズ像が立つ。冠木門の貫には、赤や青で鱗か羽か波か分らない山形の彫刻が取り付けられている。この色が中華風を連想するのだが、よく見ると中央下の部分に鷲の嘴のようなものと目が見える。これはどうやら鳳凰を描いたものだったらしい。
     解説板にはコンドルの「設計遺構」とされているが、ウィキペディア「妙法寺」には、「文化庁による解説には工部省の設計施工とあり、コンドルの設計とはされていない」とある。コンドルは工部省の顧問だったから関与した可能性は否定できないが、旧岩崎邸、三菱一号館、ニコライ堂、綱町の三井倶楽部等のコンドルの建築物に比べれば、規模が小さすぎるような気がする。
     背の高いモッコク、ラカンマキがきれいに刈り揃えられている。鐘楼、青銅の灯籠など、いずれも立派なものだ。
     「スナフキンは落語が好きですよね」とロダンが声をかける。「落語の『堀ノ内』がこの寺のことなんですって。帰ってから聴いてみなくちゃ。」私は録音を持っていないので、『志ん朝の落語』(京須偕充編)で確認してみた。粗忽者の熊五郎が、その性格を治そうと堀ノ内の御祖師様に願掛けすることになったという噺である。この「堀ノ内の御祖師様(おそっさま)」が妙法寺であった。四谷、新宿を過ぎて真っ直ぐに行き、鍋屋横丁に曲れと教えられる。
     熊五郎の無茶苦茶な粗忽ぶりが笑いの種である。足駄と草履を履いて片方の足が長くなったと慌て、注射を呼んで医者を打ってくれと騒ぐ。顔を洗おうとして箪笥を空けて水が出ないと言う。台所で水を溜めようとしても水が溜まらない。「それア、笊じゃないの。」マクラの部分だけ引いておこうか。

     えエ、世の中にはたいへんにこの、粗忽な方というのはいらっしゃいましてね。ま、だいたい人間誰でも、慌てたときというのは、そそっかしいことをいたしますな。うウ、考えられないようなことをいたしますが・・・。戸を開けないで表へ出ようとしたり、鏡に映った自分の顔を見て「あアっ!」なんて驚いたりね。ええ、マスクをしたまんま唾ア吐ちゃったりとか、いろいろとありますが、ンー、だいたいこのオ、そそっかしい人ってえのア、まずその、ものを忘れる。ね。人の名前でも、品物の名前でもなかなかすぐに、・・・わかっていても、出てこないという。これア人間、慌てるってえとよくあるもんですな、えエ。

     寺を出ると妙法寺門前通り商店街だ。「揚げ饅頭が旨いんだ。そこの蒲鉾も。」講釈師はこんな場所も知っているのか。揚げ饅頭は手打ち蕎麦の清水屋、蒲鉾は丸佐である。
     「この辺は堀ノ内なんだね。」「どうしてかな。」堀ノ内という地名は各地にあって、概ね中世の武士の館を指すことが多いようだ。周囲に堀を巡らしていることから名付けられた。たとえば川崎市の堀之内は河崎基家(秩父氏)、八王子の堀之内は西党(武蔵七党)の居館跡である。この辺りは和田義盛の陣屋があったとされ、環七を挟んで堀ノ内の東に接する杉並区和田はそれに由来する地名だ。
     環七に戻って北に向かう。「ナンジャモンジャの実がなってます。珍しい。初めて見ましたよ。」黒い実が熟しすぎているのか、やや皺がある。「食べられるのかしら?」「知らないよ、食べてみれば。」ナンジャモンジャはヒトツバタゴ(モクセイ科)の異名であり、幹にはヒトツバダゴの札が付けられている。しかしナンジャモンジャはこれに限ったものではなく、ニレ、イヌザクラ、ボダイジュ、クスノキ等もそう呼ばれると言う。元々は、その土地では珍しくて名前の分らないものを指して言ったものだ。
     青梅街道に入ればイチョウ並木が美しい。歩道には黄色い葉が無数に敷き詰められているが、枝にはまだかなりの葉が残っている。ハイジによれば、昭和公園のイチョウはすっかり落葉したと言う。後続がずっと遅れて列が長くなり、信号のたびに少し待たなければならない。
     新高円寺駅前の「いなげや」の角を左に入ると、清見寺(曹洞宗)参道入り口だ。左の角に地蔵堂が建っている。杉並区梅里二丁目十一番十七号。

     地蔵堂銀杏落葉を踏む道に  蜻蛉

     梅里の地名は昭和四十三年(一九六八)の住所表示でできたもので、青梅街道の「梅」と町を表す「里」を合成したものだと言う。本来は馬橋であった。どうしてこういう暴挙が許されたのか。おそらく住民の大多数は関東大砂浜際後に移住してきた人々で、中世以来の地名への愛着なんかなかったのだろう。
     そして馬橋村には、中央線の中野・荻窪間の駅誘致で阿佐ヶ谷村と高円寺村に敗北した過去があった。最初に誘致に手を挙げたのは馬橋の浅賀源太郎であったが、村内の反対が多くなかなか決められない内、その話が阿佐ヶ谷の相沢喜兵衛に漏れた。しかし阿佐ヶ谷では荻窪に寄り過ぎている。それならばと、阿佐ヶ谷は高円寺の伊藤兼吉と組み、政友会の力をもって工作したのである。
     馬橋の地名由来として馬橋稲利神社が採用しているのは、馬橋稲荷神社裏手の桃園川の湿地帯を太田道灌の軍勢が通った時、馬を橋代わりにして渡ったことからつけられたという説である。

     文明十一年(一四七九年)に杉並区・中野区近辺で太田道灌と豊島氏の間 で激しい合戦があったこと。当時、合戦の戦法で馬を橋代わりに湿地を渡ることが ありました。戦略的に意表を突く方法でもありました。馬橋村中央部「桃園川流域」はかなりの湿地であり、馬の背を橋代わりにしたことは 充分うなずけます。
    http://www.mabashiinari.org/doc/history/chimei/chimei1.html

     寺は明治の末ごろから住職が副業として鍼灸治療を行って、馬橋の灸寺として知られた。門を入ればがらんとした境内で、右に本堂があり、その本堂を見るように観音を真ん中にしてその両脇に地蔵立像が立っている。像の背後は何の仕切りもなく墓地が広がるばかりだ。見るものは余りないが、明治八年(一八七五)から十七年まで、桃園小学校第一番分校(現・杉並区立第一小学校)があった。前回、中野の宝仙寺を訪れているが、あそこが桃園小学校の本校であり、第二分校は現在の杉並区立桃井第一小学校になる。
     「お寺に学校があったの?」学制発布当初、国には全国に小学校を建てるだけの金がなかった。当初の目論見では人口六百人を基準に小学校一校とし、全国に五万三七六〇校が必要だったが、到底無理な計画だった。そのため、寺子屋の伝統もあって寺の内に教場を設けたのである。
     そして明治六年の統計によれば、全経費のうち国庫からの補助は十二パーセントに過ぎず、貧富の差に応じて徴収する授業料は六パーセント、貧富の程度に応じた各個割当金が四十三パーセント、その他は寄付によった。

     学制の規定によれば、小学校は「教育ノ初級」で、「人民一般必ス学ハスンハアルへカラサルモノトス」と定め、これを尋常小学・女児小学・村落小学・貧人小学・小学私塾・幼稚小学に区分した。(文部科学省「学制における小学校の制度」)
    http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317586.htm

     「貧人小学」なんていうものもあったのである、これは学費が期待できないから専ら金持ちの寄付に頼るものであり、「小学私塾」は小学の教科の免状を持つものが私宅で教えるのである。
     杉並警察署の少し手前を左に入れば、天桂寺(曹洞宗)だ。杉並区成田東四丁目十七番十四号。慶長年間(一五九六〜一六一四)、小田原北条氏の家臣岡部忠吉が、先祖の岡部六弥太忠澄を勧請開基として一庵を建てたのが始まりと言われる。岡部六弥太忠澄とは、一ノ谷の合戦で平薩摩守忠度を討ち取った武士である。このことは平成二十五年(二〇一三)一月に深谷の岡部町を歩いた時に触れている。
     岡部氏は横山党の一族である猪俣党に属し、今は深谷市に合併したが大里郡岡部町を本貫の地とした。旗本岡部氏はその後裔を自称し、江戸時代の初期から成宗村・田端村(現成田東・西)の領主となった。領地の境界を示すために青梅街道に杉を植えたことから、杉並の地名が生まれたと言う。
     岡部六弥太に討たれた忠度の、タダノリの名から薩摩守キセルの代名詞にされてしまった(こんな言葉ももう知っている人はいないか)が、歌人でもあった。敗戦の末落ち延びようとしたところへ岡部六弥太に声をかけられ、「味方だ」と逃れようとしたが、お歯黒で平家の公達であることを見破られるのである。
     久し振りに『平家』を読んでみようか。忠度都落ちの一節である。歌人の面目として、死出の門出にせめて勅撰集に採用してもらうよう、藤原俊成を訪ねる場面である。

     薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん、侍五騎、童一人、わが身ともに七騎取つて返し、五条の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず。
     「忠度。」と名のり給へば、「落人帰り来たり。」とて、その内騒ぎ合へり。薩摩守、馬より下り、みづから高らかにのたまひけるは、「別の子細候はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。門を開かれずとも、このきはまで立ち寄らせ給へ。」とのたまへば、俊成卿、「さることあるらん。その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ。」とて、門を開けて対面あり。ことの体、何となうあはれなり。
     薩摩守のたまひけるは、「年ごろ申し承つてのち、おろかならぬ御ことに思ひ参らせ候へども、この二、三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふ間、疎略を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。撰集のあるべきよし承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて候ひしに、やがて世の乱れ出で来て、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の嘆きと存ずる候ふ。世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。これに候ふ巻き物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩をかうぶつて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ。」
     とて、日ごろ詠みおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとてうつ立たれけるとき、これを取つて持たれたりしが、鎧の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。 (中略)
     そののち、世静まつて千載集を撰ぜられけるに、忠度のありしありさま言ひおきし言の葉、今さら思ひ出でてあはれなりければ、かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「詠み人知らず」と入れられける。
     さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな
     その身、朝敵となりにし上は、子細に及ばずと言ひながら、うらめしかりしことどもなり。

     忠度の思いは叶い、「さざなみや」の歌は『千載集』に詠み人知らずとして載せられた。
     十一時半に近くなった。「どこかお店があったら入りましょう。」姫は荻窪駅辺りで昼食をと考えていたのだが、予想以上に進行が遅れているのだ。蕎麦屋は何軒も見かけるが、いずれも狭いから無理だろう。
     阿佐ヶ谷パールセンターの入り口が見えた。この長い長い商店街をまっすぐ行けばJR阿佐ヶ谷駅に着く。そこで、クールを閉店したお姉さんが小料理屋「網代木」をやっていた時期があった。南阿佐ヶ谷駅を過ぎる。丸ノ内線は青梅街道の下を通っているのである。
     「懐かしいな、この辺りは『男おいどん』の時代ですよ。」ロダンが前回から頻りに同じことを繰り返すのは、浪人時代の思い入れが強いからだ。私は松本零士の最高傑作だと思っているが、『男おいどん』(「少年マガジン」連載)の魅力は女性には分らない「だって不潔よねエ。部屋にキノコが生えてくるんでしょう。」各回の最後には、とぼとぼと歩く大山昇太の後ろ姿に詩らしきものがかぶさる。「線を引いて何度も読み返して泣きました。」ロダンは感激屋である。
     「おいどん」の数年後とも言うべき、足立太を主人公とする『元祖大四畳半大物語』(「別冊漫画アクション」連載)もあった。こちらは隣室にヤクザのジュリーと情婦ジュンが住み、ヌードや性描写も盛り沢山であった。それはともあれ、私は松本の『宇宙戦艦ヤマト』を認めないのだ。

     男おいどん銀杏落葉に涙落つ  蜻蛉

     「あそこにガストがありますね。」街道を横断して店に入った。桃太郎がクーポンを持っていて「ビールが二百九十円なんですよ」と言うものだから、スナフキン、私もビールを頼む。ロダンは自重した。こういう態度が大切なので、私のように付和雷同していてはいつまで経っても小遣いは楽にならない。
     「このクーポンが利用できるのはおひとり様なんですよ。」「そうか、残念だな。」私たちがよっぽどガッカリしたと思われたのか。「今日だけ特別ということで」とビールの割引を三杯認めてくれた。
     「カキフライがあるなんて、すぐに分るじゃないか。」向かいの高齢者グループのテーブルからは講釈師の大きな声が聞こえる。「メニューのほら、ここにあるだろう。」若旦那に向って言っているのだ。チロリンの頼んだハンバーグは随分遅くなった。かなりゆっくりして店を出る。

     今朝の天気予報では北風がきつくなる筈だったが、今はほとんど風もなく、少しポカポカしてきた。すき屋荻窪三丁目店の角を左に入ると、荻窪体育館の前庭に「オーロラの碑」が立っている。杉並区荻窪三丁目四十七番二号。すぐ隣は杉並区立中央図書館だ。ここは杉並区立公民館があった場所である。「記念碑の由来」から骨子の部分だけ引用する。

     これらの活動のなかでも、特筆されるものは, 昭和二十九年三月ビキニ環礁水爆実験をきっかけとして、杉並区議会において水爆禁止の決議が議決されるとともに、同館を拠点として広範な区民の間で始まった原水爆禁止署名運動であり、世界的な原水爆禁止運動の発祥の地と 言われております。
     その公民館も老朽化により平成元年三月末日をもって廃館されましたが、その役割は杉並区社会教育セ ンター(セシオン杉並)に発展的に継承されております。
     ここに、 公民館の歴史をとどめるとともに、人類普 遍の願いである永遠の平和を希求して記念碑を建立したものであります。

     杉並区公民館に集まった主婦によって始められた運動で、当時、法学者の国際安井郁が公民館長を務めていた。安井は初代原水爆禁止日本協議会(原水協)理事長となる。安井郁は金日成のチェチェ思想を絶賛したりして、今では評価が難しい人物である。後に共産党と社会党の対立から、原水協は原水爆禁止日本国民会議(原水禁)と分裂する。冷戦下における日本共産党の目まぐるしい方針転換が、社会党との間に修復不可能なまでの憎悪を生み出したのである。
     被爆した第五福竜丸の久保山愛吉は半年後に死んだ。しかし直接の死因は輸血の感染による肝炎であった。急性の放射線障害の症状が出ていた久保山は全身の血液を輸血で入れ替えたのだが、当時の輸血は売血に頼っており、それが感染の原因だったと推測されている。それでも水爆実験に遭遇しなければ全身の血液を入れ替えることもなかった訳で、明らかに水爆実験の被害者なのだ。
     それにしてもこのオブジェを何と言うべきだろう。大きな白い歯。あるいは短い二股大根か。少なくともオーロラをイメージするような形ではない。そもそも命名の由来が分らない。極光オーロラの原義である女神アウロラ(ギリシア神話ではエオス)に因むものだろうか。アウロラは曙、夜明けを担う女神であり、知性の光、創造性の光が到来する時のシンボルとされている。
     天沼陸橋の袂から街道を左に逸れ、姫は藤沢ビル(AMEX日本支社が入っている)という高層ビルの敷地に入って行く。杉並区荻窪四丁目三十番十六号。裏庭に長屋門が現れた。その長屋門を潜って路地に出ると、明治天皇荻窪小休所の石碑が建っている。
     ここは下荻窪村の名主中田氏邸の跡である。長屋門は寛政年間(一七八九~一八〇〇)、将軍家斉が鷹狩りの際に立ち寄るために造らせたものだ。明治天皇は明治十六年(一八八三)四月、埼玉県飯能で行われた近衛兵演習天覧の際、青梅街道を所沢に向かう途中で田中家で休憩したのである。またその三日後、今度は小金井の花見の遠乗りの途中でも立ち寄った。御座所になった離れは寄棟茅葺屋根の六畳二間、三方回り廊下の平家であった。

     さて、我々は中央線の北側に出なければならないのだが、陸橋はさっき避けてしまったから直接は行けない。そうするうち荻窪駅が見えてきた。「あそこの串カツ屋、この間の店だよね。」北口の田中屋が店の背後を線路沿いに見せているのだ。「ホッピーを飲んだな。」荻窪駅の構内を抜けて北側に出る。
     再び青梅街道に戻った。人が多い。歩道を人も自転車もひっきりなしに通っていくので危ない。青梅街道は自転車では走れないのだろうか。
     四面道の交差点で環八を渡る。「昔はこんなじゃなかった。明らかに四面って分るようだったよ。」元は交差点の南側に秋葉神社の灯籠「四面塔」があったことに由来する。天沼・下井草・上荻窪・下荻窪の四つの村を照らす常夜灯である。今この常夜灯は荻窪八幡の境内に移されている。
     古代には東山道武蔵路というのがあって、吉田東伍は武蔵国府の府中から下総国府の市川国府台までほぼ一直線の道が通っていたと推定している。府中からは乗潴(アマヌマ)駅、豊島駅(谷中の辺り)を通るのだが、この乗潴が天沼で、宿駅がこの辺りにあったと言う。源頼義や源頼朝が奥州へ向かう時に通った理由にもなる。但し乗潴を馬込にある天沼に比定する説もある。

    乗潴駅 あまぬまのえき
     「続日本紀」神護景雲二年(七六八)三月乙巳条にみえ、東海・東山両道の駅使が利用する当駅の駅馬を十疋に加増している。「大日本地名辞書」は杉並区天沼町の辺りに比定し、武蔵国府(現府中市)を出た駅使は東に進んで乗潴駅に入り、そこからさらに東進して豊嶋駅に至ったと考えている。この所見は有力学説となっているが、当時の駅道が武蔵国府から東進していたとする点に疑問があり、延喜式制にみる官道のあり方を八世紀段階に遡及し得るとすれば、その路線上に措定すべきこととなる。こうした観点にたつと注目されるのが、近世の馬込村にかつてあった小字天沼であり、この辺りに乗潴駅を比定し得ることとなろう。馬込は時として駅がらみの地名であり、この所見にとり有力な支証である。乗潴駅は「続日本紀」の記事にみえるのみで、延喜式の段階で廃止されているが、馬込に近い大井(現品川区)に移遷され大井駅となったと推考される。(『日本歴史地名大系』第十三巻「東京都の地名」)

     「この本屋がいいんだよ。」スナフキンが立ち止まって説明する。「私も、下見の時にそう思いました。」本屋Title。杉並区桃井一丁目五番二号。今年の一月オープンしたばかりの店である。外から眺めると本だけでなく雑貨もあり、お茶も飲めるようになっているようだ。店主は元リブロ池袋本店の統括マネージャーだった辻山良雄である。

     いちょう並木の横に建つ、古い民家を改装して作った2階建ての店です。
     1階が本屋とカフェ、2階はギャラリー。こんな店が自分の暮らす町にあったら楽しいだろうなと思いながら作りました。
     小さな店ですが、新刊本の楽しさ・新しさが詰まったような店にしたいと思います。まったく新しい、けれどなつかしい、木のあたたかさに包まれた店内でお目にかかりましょう。Title 店主 辻山 良雄(http://www.title-books.com/about)

     私はさっきからコンビニを探していた。道路の向こうには結構見えるのに、こちらにはない。いよいよ急が迫った時、セブンイレブンが見つかった。「ゴメン、ちょっと小用。」さっきのビールが効いてきたのだ。戻るとみんなはその先で立ち止まっていた。
     計画にあった井伏鱒二旧居は寄らない。「大分時間がずれこんでますから。それに何の案内もないんですよ。」ちょっと残念だ。私は井伏の良い読者ではないが、その飄々としたニヒリズムは好きだ。旧居はここから少し北に入ったところのようだ。

     昭和二年の五月、私はここの地所を探しに来たとき、天沼キリスト教会に沿うて弁天通りを通りぬけて来た。すると麦畑のなかに、鍬をつかつてゐる男がゐた。その辺には風よけの森に囲まれた農家一軒と、その隣に新しい平屋建の家が一棟あるだけで、広々とした麦畑のなかに、人の姿といつてはその野良着の男しか見えなかつた。私は畦道をまつすぐにそこまで行つて、
       「おつさん、この土地を貸してくれないか」と言つた。相手は麦の根元に土をかける作業を止して
    、 「貸してもいいよ。坪七銭だ。去年なら、坪三銭五厘だがね」と言つた。
     敷金のことを訊くと、そんなことよりも、コウカの下肥は他へ譲らぬ契約をしてくれと言つた。コウカは後架であつた。この辺の農家には、内後架と外後架があることもわかつた。私は貸してもらふことにした。(『荻窪風土記』)

     土地を貸してもらった井伏はここに家を建てた。「太宰もよく来たんだよ。」「弟子だからね。」太宰治、伊馬春部、徳川夢声などもこの界隈に住んでいた。
     太宰が遺書の中で「井伏さんは悪人です」と言ったのは、『如是我聞』執筆を止められた腹立ちまぎれの妄語とみるべきだ。パビナール中毒治療のため、井伏の説得で精神病院に入院させられたのも、太宰には最も不快な、人格を否定された出来事として沈殿していただろう。生涯の恩人である井伏に対して「悪人」呼ばわりせざるを得ない程、「青春」の権化とも言うべき太宰にとって、井伏は「大人」の代表として許すべからざるものになってしまっていたのだ。

     「ここが母校だよ。」杉並区立桃井第一小学校である。杉並区桃井二丁目六番一号。講釈師がどうしてこの辺に詳しいのかやっと分った。荻窪郵便局を過ぎた辺りで、両側にマンションが建つ間の参道のような道の正面に校舎が見える。「だけど、正門から入ったことなんかないな。いつも裏の雑木林の方から入ったんだ。」「風紀委員だったよね。」「そうだよ、エライんだ。」
     前述したように、明治八年に創立した小学校は、中野の桃園学校(現・中野区立桃園第一小学校)の第二分校として作られた。翌年、桃園の「桃」と旧村名である遅野井の「井」とを合わせて桃井と称した。これが戦後に地名となったのだ。
     その角に井荻町役場跡の解説板が置かれている。井荻は井草と荻窪を合体させた名称である。明治二十二年、上井草村、下井草村、上荻窪村、下荻窪村が合併して東多摩郡井荻村ができた。大正十五年に町制が施行されて井荻町となり、昭和七年に東京市に編入され杉並町、和田堀町、高井戸町と合併して杉並区となった。
     薬王院は閉ざされた門の鉄格子から中を見るだけだ。後で行く観泉寺の境外仏堂である。ここも講釈師の遊び場だったようだ。その先の荻窪警察署前の交差点を右折すれば住宅地に入る。青梅街道とは打って変わって静かな町になった。
     「そこだよ、オレンチは。」道路に面した三階建ての建物が実家だと言う。「姉が住んでる。」「ご挨拶していけばいいじゃないの。」「要らないよ。」「いつ頃まで住んでたの?」「結婚するまでだ。」講釈師は神田の生まれで、空襲が酷くなった時は栃木県の寺に疎開していた筈だ。ここに住んだのは戦後になってからだろう。
     「こんな公園なかったな。」杉並区立桃井原っぱ公園である。杉並区桃井三丁目八番一号。「ここは中島飛行機で、中島病院の看護婦の寮があった。中島病院は今の荻窪病院だよ。」戦後中島飛行機が解体した後はプイリンス、そして日産の工場になっていたと言う。
     公園の北側の隅に説明板があり、先に行っていた姫が待っている。「ここに解説があります。」「今、講釈を聞いたばかり。」変遷を見るとこういうことになる。
     昭和七年(一九三二)三月、中島飛行機が購入。昭和二十年(一九四五)八月、中島飛行機の商号を変更して富士産業となる。昭和二十五年(一九五〇)七月、富士産業から富士精密工業に譲渡。昭和三十六年(一九六一)二月、商号を変更してプリンス自動車工業となる。省W亜四十一年(一九六六)九月、日産自動車と合併。平成十三年(二〇〇一)三月、UR(独立行政法人都市基盤整備機構)が日産自動車から購入。
     中島飛行機発動機発祥の地であり、戦争中はゼロ戦等のエンジンを作った。戦後、富士精密工業の時代には東大生産技研の指導の下に、ペンシル型ロケットの開発を行っていた。中島の技術力は大変なものだったのである。
     荻窪病院の前を通る。講釈師の言う通り、中島飛行機東京工場医務室として発足した。やがて中島飛行機東京病院、中島飛行機荻窪病院と改称し、戦後昭和四十六年に荻窪病院となっている。右側の中央大学杉並高校の赤煉瓦の上の植え込みの緑と、参道の左側の幼稚園の紅葉した樹木との対比が美しい。

     高校の隣の子院のような門を覗くと、奥に地蔵や観音像が並んでいる。突き当りが観泉寺(曹洞宗)だ。杉並区今川二丁目十六番一号。山門を潜ると静かな落ち着いた境内だ。日本式の庭園の樹木も色とりどりになっている。「これ、ロウバイじゃないかな。」花の形がちょっと変だし、時期的に少し早目にも思えるが、確かにロウバイの香りがする。「今日は鼻が利かないの」とマスクの下からハイジが言う。
     「今川氏のお墓がありますよ。」姫の声で墓地に行ってみると、墓地の入り口に六地蔵と七観音が並んでいる。七観音とは千手観音・馬頭観音・十一面観音・聖)観音・如意輪観音・准胝観音・不空羂索観音を言う。
     そして今川氏累代の墓域があり、卵塔や宝篋印塔が並んでいる。今川氏は吉良氏、一色氏と並んで足利一門の名流である。桶狭間で義元が敗死して歴史の表舞台からは消えるので、ここにいたとは知らなかった。

     義元の子今川氏真は徳川家康の庇護を受けて京などで暮らし、慶長十九年(一六一四)に江戸で没した。氏真の嫡孫今川直房は高家として江戸幕府に仕え、朝廷との交渉の功績によって正保二年(一六四五)に徳川家光から当地(井草村)を含む新たな知行地を与えられた。以後、当地は幕末まで今川家一円知行の所領として続くことになる。
     江戸時代の観泉寺は、今川氏の知行地支配の拠点でもあり、領民からの年貢の取立てや裁判なども寺の門前で行われていた。(ウィキペディア「観泉寺」より)

     これから地名の今川が生まれた。徳川幕府が吉良、今川、一色等を高家として抱えたのは、足利一門を下に置くことで源氏の長者(武士の棟梁)としての地位を誇示するためであった。
     「中学の時、教室のストーブで焚く薪がなくなってさ。卒塔婆を盗んで和尚に説教くらったんだ。」卒塔婆をトソバと言うのが講釈師流だ。講釈師が中学生と言えばまだ昭和二十年代後半である。そんなことがあってもおかしくない。「あれがなきゃ、今頃はここで赤い袈裟を着てお経読んでたよ。」今日の講釈師は機嫌が良い。「よっぽど懐かしいんでしょうね。」
     寺を出ると、右側の空き地には屋根を被せた祠に、馬頭観音や子育て地蔵などを祀ってある。三猿を下にした青面金剛も四基ほどある。「今日は講釈師がいないね。」「いつでもいる訳じゃないさ。」邪鬼が彫っていないのだ。
     小さな双体道祖神が一基あった。石が風化して顔もよく判別できない。「この辺じゃ道祖神は珍しいんじゃないですか」と桃太郎も注目する。「そうだね。」大山街道ではいやというほどお目にかかったが、他では余り見ることがない。
     もう一度道を戻って、青梅街道を横断したところが荻窪八幡だ。杉並区上荻四丁目十九番二号。二の鳥居の右に、大きな四角い石の板を茅の輪の形に丸く刳り貫いたものがあるのが珍しい。穴の直径は一メートル程で、人がなんとか抜けられる大きさだ。「一年中潜れますね。」それなら茅の輪本来の意味がないではないか。祓い門と呼ぶらしい。参道脇に「江戸・東京の農業 クリの豊多摩早生」という解説が立っていた。

     東京はかつて、クリの大産地でした。大正から昭和の初期にかけて、主に北多摩の農村地帯では、雑木林にまじって広大なクリ園が、果てしなく続いていました。
     このクリは、当八幡神社の近くに住む市川喜兵衛(豊多摩郡井荻村荻窪)が明治二十年頃、栽培中の茶園内に自生のクリ苗を発見、偶然早く稔る早生の栗ができた事から、明治四十一年、当時の郡名にちなんで「豊多摩早生」と命名しました。
     小粒で収量はあまり多くありませんが、秋まで待たずに、八月中旬から下旬には収穫できるので市場では高値で取り引きされ、全国的にも有名となり各地で栽培されていました。

     静かな境内で神門を潜る。唐破風の向拝を持つ焦げ茶色の拝殿は、金色の金具がふんだんに使われていてなかなか豪勢だ。昭和十一年の建築である。その前の石段の右隅に、三十センチ程の石のカエルが据えられているのはどうした訳だろう。
     神社は寛平年間(八八九~八九八)の創建と伝えられ、源頼義が前九年の役の戦勝祈願と凱旋報告をした。それにあやかって太田道灌も石神井城や練馬城を攻める際に戦勝を祈願した。そして豊島氏とその庶流の練馬氏、板橋氏、平塚氏は全て道灌に滅ぼされた。八犬伝の犬山道節は練馬氏の遺臣として扇谷定正を狙うが、巨田助正(太田道灌をモデルにしている)によって常に妨害されるのである。
     その道灌が植えたというコウヤマキがある。本当だとすれば五百五十年も生きているマキで、道灌槇と名付けられている。幹はそれ程太くない。
     神社を出るとき、「この狛犬はかなり古い形ですね」と若旦那が声をかけてくる。説明によれば延宝七年(一六七九)の銘があるから相当古い。

     二十分程で井草八幡宮に着く。杉並区善福寺一丁目三十三番一号。「前に来たろう。」スナフキンが言うが全く記憶から抜け落ちている。
     朱塗り(笠木だけが黒い)の大鳥居を潜る。創建年代は不明だが、平安末期には春日社であった。春日社は藤原氏の氏神だから、もしかしたら藤原氏の荘園があったのかも知れない。頼朝の奥州征討の際に八幡を祀ったことから、八幡を主祭神、春日社を末社とした。明治期までは遅野井八幡宮と呼ばれていた。
     案内図を見ると敷地はかなり広大だ。ここは東の参道になり土を固めてある。「流鏑馬だよ。的があるだろう。」確かに左側に第一の的があった。「第一はいいんだけどさ、三番くらいになると当たらなくなるんだよ。」二百メートルの距離である。
     「小笠原流なんだ。」小笠原流というのは礼法の家元としか知らなかったが、流鏑馬にも関係しているのか。宗家のHPから引用しておく。但し適当に段落を区切った。

     小笠原家は初代小笠原長清に始まる清和源氏の家系です。小笠原長清は応保二年(一一六二年)甲州に生まれ、父は加賀美二郎遠光、母は和田義盛の娘です。最近までは甲府郊外に小笠原村がありましたが、現在は南アルプス市となっています。
     小笠原姓は、高倉帝より賜ったといわれ、今日小笠原姓を名乗る家は全てこの長清に発しています。小笠原長清は二十六才のときに源頼朝の『糾方』(弓馬術礼法)師範となり、その後道統は長男の長経に伝えられました。長経は源実朝の師範となっています。
     長経には二人の男子が居りました。長男の長忠と次男の清経です。 長男の長忠の子孫は、信州松本の城主となり、次男清経は伊豆の国の守護職となり伊豆の赤沢に住むようになります。 弓馬術礼法は長男の長忠が伝承し、小笠原一族の惣領家となります。次男の清経の子孫も長忠家の人達と一緒に鎌倉幕府に仕え、いつも極めて近い間柄として両家一体となって行動をしていました。
     特に長忠家七代の小笠原貞宗と清経家七代の小笠原常興は、共に後醍醐天皇に仕えて、武家の定まった方式として、『修身論』と『体用論』をまとめました。これが小笠原弓馬術礼法の基本となっています。この時から惣領家では三階菱の紋を、清経家では三階菱の中に十字を入れた紋を使うようになりました。
     その後も両家は密接な関係を保ちながら戦国の世を戦い抜いてきましたが、清経家の十七代経直は、 惣領家の長時、貞慶親子から永禄五年(一五六二年)十一月に弓馬術礼法の道統を承継しました。
     徳川時代に入ると、惣領家の人達は豊前小倉の城主、肥前唐津の城主、越前勝山の城主として明治に至りますが、経直は、 徳川家康に招かれ、徳川秀忠の弓馬術礼法師範となり、御維新まで高家として幕府の弓馬術礼法の師範を務めています。(弓馬術礼法小笠原教場「小笠原流について・小笠原流の歴史」http://www.ogasawara-ryu.gr.jp/aboutOGS2.html)

     現在は清経家の第三十一世宗家・小笠原清忠氏の代である。この他には小笠原流煎茶道、小笠原茶道古流等の流れがある。
     鮮やかな朱塗りの楼門まで来て、やっと思い出した。調べてみると、平成二十四年一月に、善福寺公園から井の頭公園まで歩いた時である。だから特に見学することもなくそのまま歩き、北門にある対の大灯籠から早稲田通りに出た。斜めに交差する交差点で青梅街道に戻る。
     江戸向き地蔵は街道の向こう側にあるのを確認するだけだ。青梅街道から善福寺に入る角に立つ。享保十四年の銘があると言う。
     五百メートル程歩き、上井草四丁目交差点から練馬に入った。「まだだよ、まだだよ。ほら、ここからだ。」住所表示は関町南である。関町の地名由来には、石神井城に拠った豊島氏が関を設けたから、あるいは石神井川の堰があったからとい二つの説がある。「ここから並木が変わるんだ。ケヤキになっただろう。」江戸時代の新田開発の際、防風林として植えられたものだと言う。
     姫はしきりに地図を確認している。後続がまたかなり遅れてきた。私も腰が少し張っている。昼飯の後、座って休むことができないまま歩き通しなのだ。上石神井駅入口交差点を過ぎた辺りの向かいを入った所に竹下稲荷がある筈だが寄らない。姫の案内では、この辺りは江戸時代中期に開発された竹下新田である。
     その先の関町一丁目交差点の下で、西から流れてきた千川上水が暗渠になる。千川上水は、小石川御殿、湯島聖堂、寛永寺、浅草寺等に給水するため、将軍綱吉の命で元禄九年(一六九六)に玉川上水から分水した。
     「ありました。ここです。」関のかんかん地蔵だ。練馬区関町東一丁目十八番地先。街道に沿って小さな祠が作られている。

     このお地蔵さまは江戸時代中頃に造立されたと思われますが、石で叩けば願い事がかなうといわれ、長い間叩かれてきたために足もとが細くなり、最近補修されました。「かんかん地蔵」というのは、この叩いた時の音からきたものです。
     右側には享保十四年(一七二九)の胎蔵大日如来、左側には寛保元年(一七四一)の勢至菩薩がお地蔵さまをはさんで立っています。(練馬区教育委員会掲示より)

     「叩かれて欠けるなんて、鼠小僧のお墓みたいだ。」三時ちょうどだ。「この先に石神井西小学校がある筈なんですよ。」スナフキンがスマホでマップを開くと、この少し先の左側にある。「それじゃその信号で渡りましょうか。」「ちょっと待てよ、このままでいいんじゃないか?」ハイジが持っている地図を見ると、青梅街道の右側である。「おかしいな。」「安いスマホだからじゃないか?」これは愚かなコメントであった。半信半疑でそのまま暫く行くと、確かに小学校は右側だった。
     校門の前に青梅街道の石碑と解説板があるのだ。書いてある内容は既に知っていることばかりだから、ここに書き記す必要もない。
     更に進み、関町南三丁目交差点を右に入る。「そこに公園がありますよ」とヨッシーが見つけてくれた。石神井消防署関町出張所の向かいのマンション裏手の小さな公園で、ベンチがあるので休憩する。午後初めての休憩で一息つけた。みな、ここぞとばかりに菓子を配る。ここまで、そのタイミングがなかったのだ。
     ここまでの歩数を確認すると四者四様ではあるが、一万八千歩と決めた。私も信用できない腕時計型の万歩計をつけてはきたが、やはり一万六千にしかなっていない。ロダンは腰と腕に二つも装着して確認する。「前回おかしかったからね。それじゃこっちが概ね正しいんですね。」
     今日の最終地点はここから十分程にある西武新宿線・武蔵関駅だが、駅前には何もないだろう。スナフキンは、ここから吉祥寺まで歩こうという。「どのくらい?」「二十分かな。」足に痛みが出てきた姫は大丈夫だろうか。「大丈夫です。でもリーダーの責任として最後まで皆さんを送る義務が。」「大丈夫だよ、ヨッシーにお任せすれば。」いささか強引だったが、ヨッシーにお願いし、ここで解散ということになる。次回は武蔵関駅集合だ。
     武蔵関駅に行く人はヨッシーに先導してもらい、飲みたい連中は反対側の吉祥寺に向かう。スナフキン、姫、マリー、ロダン、桃太郎、蜻蛉の六人だ。三時二十分。少し寒くなってきた。
     「だんだん吉祥寺の気配がしてきましたね。」武蔵野市に入った。しかし、スナフキンの「二十分は」かなり甘い見積もりだった。吉祥寺通りに入って、あとどのくらいかと尋ねると「もう二十分かな」と言う。姫は魚の目が痛くなっている。四軒寺、八幡宮前を通って、結局吉祥寺駅前に出たのは四時ちょっと前だ。
     東急の前から左に入る。「心当たりがある」と言うスナフキンが選んだのは、サンロードの角にある「清龍」だった。「清龍って池袋にあるよね。」箸袋を見ると、池袋が本店である。池袋の店には何度か入ったことがあり、値段も手頃な筈だ。
     いつものように最初に注文するのは漬物である。野菜ばっかりだと少し飽きるので、私はイワシの丸干しを注文した。「今朝、食ってきたよ。」最近どうした訳か妻はこれを買ってくれない。「塩分が濃いからね。」「昔は目刺をよく食べましたよ。」しかし出てきたイワシは目刺よりは大きなものである。これだと頭と骨は食いにくい。「シシャモにしましょうよ」と姫が注文した。焼酎は黒甕を二本開け、三千円なり。
     カラオケ館は若い連中で満員だったのでカラオケ広場に行ってみた。私はこの店のカードは持っていない。桃太郎は割引のできるチラシを提示したが、カードはないかと訊かれて財布から取り出した。「なんだ、カードを持っているじゃないか。」飲み放題が割引になり、二時間歌って一人二千二百円だから安い。ウーロンハイの後はワインをデカンタで頼む。
     ロダンは絶好調だ。『喜びも悲しみも幾歳月』を歌って感極まって涙ぐむ。私は珍しく赤木圭一郎『霧笛が俺を呼んでいる』を歌って、「絶好調じゃないの」とマリーに言われた。最初元気だった桃太郎は最後になると眠くなったようで、早々とコートを着込んでしまう。
     「自分はどう帰ればいいのかな。」新宿から小田急に乗るか、八王子経由で横浜線か。結局、桃太郎は八王子経由に決めた。姫とマリーは新宿方面に向かい、スナフキン、桃太郎、ロダン、蜻蛉は西に向かう。「桃太郎は座っちゃダメだよ、寝ちゃうからね。」しかし吊革につかまる彼の体は大きく揺れている。「寝ちゃダメだよ」と、西国分寺で降りる時にも声を掛けた。
     ロダンと私は武蔵野線に回る。ロダンはすぐに眠ってしまう。北朝霞で降りる時「立ってた方が良いよ」と声を掛けると、ピョンと立ち上がった。
     帰宅して万歩計を確認すると三万歩を超えていた。

    蜻蛉