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    青梅街道 其の三(武蔵関から田無まで)
      平成二十九年二月十一日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.02.21

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     危惧していた通りトランプは無茶苦茶を仕出かしている。イスラム圏七ヶ国からの入国を制限する大統領令に対して各国からは非難の声があがったが、安倍政権は一言も発言しなかった。連邦地裁、控訴審で大統領令の差し止めが認められ、アメリカにも良識が残っていることを示したが、トランプは司法やメディアへの不信感を露わにし、最高裁まで争うと息巻いている。そのトランプの元へ、安倍晋三は尻尾を振る犬のように出かけて行き、世界中の笑いものになった。
     自衛隊がPKO活動に派遣されている南スーダンで、昨年七月に政府軍と反政府軍が衝突して二百七十人が死亡した。自衛隊日報ではこれを「戦闘」と報告していたが、政府は隠蔽しようとして隠し切れなくなった。廃棄されていた筈の日報が出てきたのである。衆議院予算委員会で稲田朋美防衛相は「事実行為としての殺傷行為はあった」と認めた上で、「戦闘行為」という表現は憲法九条に抵触するので「武力衝突」という言葉を使ったと答弁した。語るに落ちるとはこのことで、昨年十月の安倍晋三の答弁がそのまま踏襲されているのである。
     今更言うことでもないが、そもそもPKO参加の五原則は、(1)紛争当事者間で停戦合意が成立、(2)現地政府や紛争当事者の受け入れ同意、(3)中立的立場の厳守、(4)これらの条件が満たされない場合に撤収が可能、(5)武器使用は防護のための必要最小限に限るというものであった。この原則に照らせば、停戦合意もなく内戦状態にある南スーダンにPKOを派遣するのは法の逸脱である。憲法の根幹に関わる重要な問題であり、報道機関はこれを大きく取り上げて追及する責任があるだろう。それなのに、日本のマスメディアは殆どその使命を忘れてしまったかのようである。
     本当はこんなことを言いたくないのだ。高齢者らしく心静かに穏やかに過ごしたいのであるが、ここ数年の世界の状況は私の心を穏やかにしない。

     旧暦一月十五日。立春の次候「黄鶯睍睆(うぐいすなく)」。キャンパスの喫煙所の脇に、先週から紅白の梅が咲いた。しかし今週は寒い。西日本では大雪となり、特に今年は鳥取県の雪害が大きい。東京では昨日一昨日、ちょっとの間だけ霙まじりの雪が降ったが積もる程ではなかった。雪はイヤだ。今日も空気は冷たいが、風がないだけ楽だろうか。
     集合は西武新宿線武蔵関駅だ。本川越で急行に乗り、小平で各駅停車に乗り換える。前回は、飲み屋を探す連中は駅まで来ずに、途中から別れて吉祥寺に向かったので、この駅に降りるのは初めてになる。女性はあんみつ姫、マリーの二人だけ、男性は若旦那、ヨッシー、ダンディ、ツカサン、オカチャン、スナフキン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の九人である。「今日は珍しく女性が少ないね。」常連のハイジ、シノッチ、チロリンが来ていないのだ。
     今日はツカサンが一番近い。「オカチャンは随分かかったんじゃないの?」「そんなことないですよ。湘南新宿ラインで池袋まで来れば、高野馬場からすぐですから。」若旦那は私と同じコースで来た。
     南口に出る。若宮橋で石神井川を渡ればすぐに法燿山本立寺(日蓮宗)だ。練馬区関町北四丁目十六番三。山門脇の紅梅が華やかで芳香が漂っている。
     紅梅の根元に立つ笠付の供養塔は天明元年(一七八一)十月のもので、「天下泰平五穀成就」とある。天明と言えば、翌二年から八年まで近世最大の飢饉が起きる時期だ。この供養塔はその飢饉を見越して建てたものだろうかと思ってしまうが、五十年前の享保十七年(一七三二)にも大きな飢饉が起こっている。江戸時代には飢饉凶作は頻繁に起きる、ごく身近な厄災であった。
     江戸時代は寒冷期(小氷期と呼ぶ人もいる)だったという説が一般的で、飢饉の原因は主にそこに求められたが、飢饉の大きな原因は実は別にあることが分って来た。元禄(一六八八~一七〇四)から享保(一七一六~一七三五)に至る大規模な新田開発は既に飽和点に達し、強引な河川改修とともに、却って国土の疲弊を生み出していた。
     この辺の事情は武井弘一『江戸日本の転換点―水田の激増は何をもたらしたか』(NHKブックス)で教えられたことで、この本を読んでしまうと、江戸時代が環境にやさしい循環型の社会であったなんて戯言でしかないことが分る。江戸時代に多発する飢饉は、急激な列島改造による人災であった。
     かつて水田の後背地には膨大な草地や森林があり、そこから草肥を得ることができた。しかし新田は草地森林湖沼を潰すことによって作られる。草肥を調達できず人糞でも賄いきれなくなれば、干鰯等の有機肥料を買わなければならない。また増加した新田を維持するためには労働力としての牛の数も増やさざるを得ない。しかし、そもそも牧草地を潰してしまったのだから、その飼料も別途必要になってくる。
     こうして農業経営は否応なく商品経済の中に組み込まれ、富の偏在による格差増大は、ちょっとした凶作を理由に都会の大商人が操る価格操作によって、たちまち大量の困窮者を生み出したのだ。自営農民は小作に転落し、小作から転落したものは大都市に流れ込んでくる。度々出された「人返し令」がほとんど効果を得られなかったのは、帰っても食うことができないからである。
     江戸時代の総生産高が三千万石、人口が三千万人とすれば、一律に均せば飢えることはない。格差を作り出すことで、一方では莫大な利益を生み出す仕組みができてしまったのである。経済に関して私は素人であるが、これが資本主義の根本原理であろう。

     梅が香や天下泰平遠くして  蜻蛉

     さて、本立寺に戻らなければならない。掲示板によれば、開祖は日誉上人、開基は井口忠兵衛である。日誉は慶安二年(一六四九)寂、井口忠兵衛は寛永十六年(一六三九)関村検地の名主を勤めているので、創建は寛永の頃と思われる。井口氏は永正十三年(一五一六)に北条早雲に滅ぼされた三浦義同の一族で、三浦半島から逃れて天文年間(一五三二~一五五五)には武蔵国に定住したとされる。
     丘陵地の斜面に建つ境内に入ると、左手の墓地前に余り見たことのない石仏が建っている。「珍しいですよね、見たことありません」と姫も喜んでいる。左端の石仏は下に「諸天昼夜常為法故而衛護之」と彫り、その上部を繰り抜いて剣を持った人物像を浮き出したものだ。この文句は法華経「安楽行品第十四」にあるものだと分った。それなら像は転輪聖王(てんりんじょうおう)かも知れない。仏は文殊菩薩に教えて、如来は転輪聖王と同じだと説いているのだ。その隣には板碑に線刻した地蔵、表情がちょっと風変わりな青面金剛などが並び、石段の上には白梅が咲いている。
     「面白い。」手水鉢の水に氷が張っていて、姫は氷を割って手に取る。「子供みたいでしょう?」本堂前には紅梅と赤いサザンカが咲いている。「あれ、なんだい。」スナフキンは最近鳥に詳しくなって、すぐに反応する。三羽、四羽か。スズメ程の大きさでウグイス色の鳥が、梅の花を頻りに啄んでいる。「メジロじゃないの?」ウグイスはウグイス色ではなく、ウグイス色の鳥はメジロというのではなかったか。「メジロだよ。」当たった。なかなか可愛らしい鳥である。「ウグイスは滅多に見られないよ。」「声はすれども姿は見えずって言うからね。」
     ウグイス色を、私はウグイス餅のような色(正にメジロの色)でイメージしていたが、しかし、ウグイス色は時代によって変遷していた。江戸時代には実際のウグイスの羽の色に似て、灰色がかった緑褐色を称したようだ。
     ウグイスは藪の中で虫を食うから梅の花には寄らないと言う。大伴家持に「あらたまの年ゆきがへり春立たば まづ我が宿に鶯は鳴け」があるように、万葉以来ウグイスの鳴き声は春を告げるものであった。また梅も春の訪れを告げる代表的なものであり、そこから「梅に鶯」の言葉が生まれた。そうすると梅にやってくるのはウグイスだろうと混同する者も出た。花札の「梅に鶯」に描かれているのは明らかにメジロである。
     山門を出ると、さっきの天下泰平の供養塔のところにもメジロがいる。若旦那が写真を撮ろうとしてもすぐに姿勢を変えてしまって、なかなか上手いアングルで撮れない。後で確認すると、私の写真も後ろ向きになっていた。「もう一羽、こっちにもいますよ。」「それにしても逃げないな。」「人に慣れてるんですね。」
     「このお寺はボロ市でも有名なんです。」掲示板を見ていて、「昨日だったんじゃないか」と早とちりする人もいるが、御会式に合わせ十二月九日、十日に開かれる市だ。関のボロ市と呼ばれ江戸時代から続いている。昭和の初期には相撲興行や芝居、サーカス小屋なども出たと言うから大規模なものだ。今では古道具や植木などを売る露店が二百軒以上並ぶと言う。
     「世田谷のボロ市も有名ですよね。」世田谷代官屋敷を中心に行われるのは知っているが、私は実際に見たことはない。
     寺を出て石神井川を右手に見ながら歩く。ガードレールはあるのだが、太い桜が塞いでいるので歩道を歩くことができない。暫く行って住宅地に入ると天祖若宮八幡宮だ。練馬区関町北三丁目三十四番三十二。

     若宮八幡宮は、奈良朝時代当地に武蔵関塞が設けられたとき、関塞守護神として奉斎されたと伝えられます。関塞廃止後、長い歳月を経て慶長年間に関村開村のおり村民の氏神となったといいます。
     また天祖神社は「新編武蔵風土記稿」開村の条に「三十番神社、村ノ鎮守ナリ本立村持」と記載されているとおり、もとは「番神さま」と呼ばれていましたが、明治維新の神仏分離により天祖神社と改称されました。
     昭和四十九年関村の氏神、若宮八幡宮と天祖神社は合わせて天祖若宮八幡宮と呼ぶことになりました。(練馬区教育委員会掲示より)

     奈良時代の関塞守護神というのは信じなくて良いだろう。奈良時代にこの近辺に関所が置かれたことは確認できないし、関に守護神を置いたなんて言うのも他では見たことがない。そもそもこの辺りの開発は慶長年間以後のことである。戦国時代、石神井城に拠った豊島氏が関所を置いた話と、どこかで混同しているのではないか。
     祭神のオオヒルメ(アマテラス)は天祖、仁徳は若宮、誉田別(応神)は八幡に相当する。しかし天祖神社が本来は三十番神社だと分れば、これは日蓮宗が普及させたものである。三十番神とは毎日交代で国土と法華経を守護する三十柱の神であり、日蓮宗では諸天善神とする。別当の本立寺が「諸天昼夜常為法故而衛護之」の碑を建てているのも、それに関連しているだろう。神仏混淆の神であり、明治の神仏分離政策によって禁じられ、アマアテラスに取って代わられたのである。
     細長い参道が随分長い。右側はマンションになっているが、参道の両側には樹木が植えられているから静かな空間だ。松の緑の中に紅梅の蕾が美しい。姫は霜柱を踏む。奥に入るとアカマツ林だ。シジュウカラ、エナガが数羽見られた。
     神社を出て、塀に沿って東から北に道なりに曲がって行くと、境内は意外に広いことが分る。そして武蔵関公園に入った。練馬区関町北三丁目。石神井川に沿って、北東から南西に細長く広がる池を中心にした公園である。元々農業用水として湧水を溜めた富士見池である。「源平咲じゃないですか。」同じ梅の幹から紅白の花が咲いている。
     池の周囲を巡る遊歩道が霜解けでぬかるんでいるので、滑らないように注意しなければならない。時折ランニングをしている連中とすれ違う。高齢者もゆっくり走っているが大丈夫だろうか。「スゴイね、これは。」池を囲むガードレールの横棒を、サクラの幹が取り込んでいるのだ。それが数か所にあった。この柵も相当古いことが分る。ここでカメラの充電が切れてしまったのは迂闊であった。先週こころを公園で撮った後に充電すべきだったのを、全く失念していた。
     遠くから眺めて池にはカルガモしかいないかと思ったが、珍しいものもいた。キンクロハジロ、ハシビロガモ。こういうものは姫やツカサンに教えて貰わなければ分らない。「嘴の幅が広いからハシビロなんですよ。」キンクロハジロは目が黄色で、正面から見れば黒一色だが腹が白い。「聞いたことあるような気がするんだよね、ダメだな。」ロダンが苦笑するが、「聞いたことがあるって思い出すだけで、いいんですよ」と姫が慰める。
     鳥は全て雌雄対になって行動している。「人間と違ってオスの方がきれいなんだよね。」選択権はメスにあるからなのだ。メスに気に入られるためにはきれいでなければならない。最近の若い男の子がきれいな顔できれいな服を着ているのは、女性が強くなった証拠であろうか。
     公園を出ると早稲田のグランドがあった。「安部球場って書いてある。」入口の看板にある文字がちょっと不思議だ。「安部球場って違うだろう?」「戸塚の方だったわ」とマリーも言う。調べてみると、平成二十七年に移転していた。

     東京六大学野球の早大の本拠地、早大東伏見球場(東京都西東京市)の名称が早大安部磯雄記念球場に変更されることが二十日までに、明らかになった。今年は安部磯雄初代野球部長の生誕百五十年にあたり、二十一日に記念講演と安部球場復活を告げる命名式、全早慶戦が行われる。
     かつての本拠地は一九〇二年に早稲田キャンパス隣の東京・新宿区戸塚に完成。四十九年に安部部長が逝去した後に功績をたたえて「安部球場」と命名され、高校野球の東京大会でも使用されたが、八十七年に閉鎖された。
     保谷市東伏見(現西東京市)に移った新球場は左翼一一〇メートル、右翼一〇二メートル、中堅一二〇メートルで全面人工芝。ブルペン、室内練習場などが隣接する。合宿所は「安部寮」の名称のままであることなどから球場名の変更が検討され、生誕百五十年に合わせて二十八年ぶりに復活することになった。(「サンスポ」)

     安部磯雄が早稲田大学初代野球部長に週にしたのは明治三十四年(一九〇一)のことである。日露戦争中の三十八年(一九〇五)には史上初の海外遠征を強行し、アメリカの技術・練習法を持ち帰った。
     それにしても、こんなところに早稲田のキャンパス(東伏見キャンパス)があったこと自体、私は忘れていた。要するにスポーツの拠点で、野球、アメフト、サッカー、ホッケー、テニス、弓道、相撲、射撃、馬術の各施設がある。ただラグビー場は石神井川改修工事の影響で上井草に移転したという。私は早稲田のスポーツの拠点は所沢のスポーツ科学部キャンパスとばかり思っていた。どうやら所沢の方は陸上がメインのようだ。
     テニスコートの脇を過ぎると、漸くこのシリーズの主題である青梅街道に出た。その途端に不思議なものに遭遇する。「これ、なんだい。」街路樹のケヤキが腰の高さで伐採されている。一本だけでなく、見渡す限りケヤキは全て伐られているようだ。「電線の邪魔になるからでしょうか?」「それにしても無残だな。」切断面が新しいので伐採はごく最近のことだろう。ネットを検索してみたが、伐採の事情は分らない。国道の環境としてはかなり大きな問題だと思うのだが、反対運動はなかったのだろうか。
     東伏見四丁目の交差点で前方は二股に分れ、青梅街道は右(北)側になる。保谷家の塀の脇に小さな祠が建っている。大日如来を祀ったものらしいが、堂の扉は閉ざされている。格子の隙間から中を覗いた人が「講釈師がいない」と笑っているが、青面金剛ではないから当り前だ。文政九年(一八二六)の大日如来像で、墓石だったようだ。長いブロック塀で囲まれた保谷家の敷地は広大だ。「保谷の地名の元になった家じゃないかな。」

     村の起源は明らかでないが、伝承では、一〇八一年(永保元年)に新倉の住人板倉四郎左衛門のもと保谷・下田・岩崎・中村・野口・桜井の六氏(保谷六苗)により開発されたとされている。初期の村域は現在の住吉町・泉町地域だったと考えられ、村の惣鎮守の尉殿権現(現尉殿神社)や保谷四軒寺と呼ばれる寺院もこの地域に集中している。
     その後、享保期(一七一六年~一七三五年)以降に以降に現在の新町の地域が開墾され、後に上保谷新田村として独立した。(ウィキペディア「上保谷村」より)

     新倉は新座であろう。別の資料によれば保谷六苗は、保谷出雲守・下田若狭・岩崎内匠・中村雅楽・野口図書・桜井弾正である。保谷家はその筆頭に挙げられるように一党の代表であり、その名から村の名ができたと考えられている。それにしても永保元年(一〇八一)とは古い。白河天皇の時代で、南都北嶺の荒法師たちが乱暴狼藉を繰り広げていた。その時代に武蔵国に板倉氏や「出雲守」を名乗る土豪がいたとは信じ難い話で、おそらくこれは伝承の誤りだろう。もう少し説得力のある説を見つけた。

     上保谷村は新座郡廣澤庄ニ属シ郡ノ南ニアリ江戸ヲ隔ルコト五里此村ハ土地平カナレトモ水利宜シカラザレバ古来ヨリ畑ナリ保谷氏ノ人主トシテ開墾セシ故ニコノ名アリ村内に下田、岩崎、桜井、野口、中村ヲ氏トセル五軒アリ是開発ノ事ニ与リシ人々ノ子孫ナルヨシ(略)
     コノ村開墾ノ年代ハタシカニ伝ヘザレド北条分限帳ニモ地名ヲノセザレバ永禄以降御打入ノ前後ナルベシ、ソレヲ企テシ保谷氏ノ名モ聞ヘザレド村内東禅寺ノ開基保谷出雲守直政元和七年卒ストイヘバ恐クハコノ人ノ領知セシ頃ノ開発ナルベシ(『新編武蔵風土記稿』新座郡巻四之六四十四)

     これによれば開発は保谷出雲没年の元和七年(一六二一)より以前だと判断している。慶長十九年(一六一四)の大坂冬の陣、元和元年(一六一五)の夏の陣を最後に、長い戦国時代は幕を下ろし、元和二年には家康が死んだ。漸く訪れた平和を噛み締め、世人は元和偃武と呼んだ。これ以後、二百五十年に亘って戦争のない時代が続いたのは(勿論、島原の乱等の局地的な戦いはあったが)、徳川氏の功績と認めなければならない。
     江戸の都市化は急速に進み、更に急増するであろう人口を養うため、幕府にとっては武蔵国の原野の開発が急務であった。保谷出雲の開発が慶長から元和の頃とすれば、ウィキペディアの記事にある板倉四郎左衛門は、江戸町奉行で関東代官を兼ねた板倉四郎右衛門勝重の誤伝だと推測して間違いないだろう。恐らく北条遺臣の保谷出雲以下六氏に開発を命じたのだ。
     因みに『新編武蔵風土記稿』にあるように、保谷出雲守直政の名は、西東京市住吉町にある東禅寺の開基としても知られている。その館は現在の伏見稲荷の場所にあったとする伝承もあるが、確実な証拠は出ていない。
     永禄二年(一五五九)の「小田原衆所領役帳」に「保屋」「田無」の文字が見られると言う。とすれば、その頃から保谷氏の領有する土地だったかも知れない。「田無は人名とは関係ないだろうね。」ウィキペディア「田無市」によれば、田がない(畑ばかり)、棚瀬の変化、田成り、種なし(種籾まで税として徴収される)等の説があるが、確定していない。
     「西東京市ってイヤな名前だよな。」平成十三年(二〇〇一)一月に保谷市と田無市を合併してできた市であるが、余りにも歴史と地理を無視した命名である。西東京と言えば東京の最西端の意味であろう。それならここより西にある東村山市、小平市、東大和市、更に国分寺市は東京ではないのか。
     都立大学を潰して首都大学東京なんておかしな大学にしたのも同じ伝である。「どうせ、石原のやったことだろう。」そう言えば石原慎太郎『天才』が九十二万部を売って、昨年のベストセラー第一位になったことも理解の外である。時代はどんどん私から遠ざかって行く。
     「保谷にはHOYAレンズがあったね。」後ろから若旦那の声が聞こえる。本社は西新宿に移ったが、保谷市が発祥の地であった。
     次は東伏見稲荷だ。西東京市東伏見一丁目五番三十八。「前に来ましたね。」「さっきの公園も行ってるよ。」公園は気付かなかったが、伏見稲荷は確かに記憶がある。調べてみると平成二十七年四月のことで、東伏見から吉祥寺まで歩いている。その時は東伏見駅集合だったが、私はうっかり乗り過ごして武蔵関まで行ってしまい、慌てて戻っているのだ。一応、由緒を引いておこう。

     関東地方の稲荷信仰者たちが、東京にも京都の伏見稲荷大神のご分霊を奉迎してその御神徳に浴したいとの熱望が高まり、京都伏見稲荷大社の協力で、昭和四年に創建されました。
     東伏見という地名は、神社ができてからついた地名です。ご鎮座にあわせて西武新宿線の駅名も上保谷から東伏見に変わりました。

     勧請には、人寄せのために西武鉄道の意思が入っていただろう。大鳥居を潜って境内に入る。「こんなに大きくしなくてもいいだろう。」「人寄せだからさ。西武の政策だよ。」
     祭神は宇迦御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神。「猿田彦は知っているけど、佐田彦って知らないな。」ロダンが悩んでいる。「サルタヒコと同じだよ。道案内の神。」猿田は元「サタ」と読んだという説がある。そして「サ田」は、「サ穂」 「サ苗」などの場合と同様に、神聖な稲を植える田の意味となる。伏見稲荷に配されているのはそれが理由だろう。大宮能売は一説には猿田彦と一緒になったアメノウズメと同一視される。
     「今年は昭和何年だったっけ?」ロダンと若旦那が一所懸命計算しているが結論がでない。「九十二年だよ。」父が生きていれば九十二歳になるのだ。「そうか、皇紀二千六百七十七年だね。」ロダンは昭和十五年から計算しようとしていたのだ。「何、それ?」「今日は紀元節だから。」ロダンは古いことを口走り、「建国記念日って言ってよね」とマリーに窘められている。講釈師なら、「金鵄輝く日本の栄ある光身にうけて」と歌いだすところだ。
     「計画とちょっと前後しますが、先にお昼にしてしまいます。」青梅街道を渡ってデニーズ(保谷柳沢店)に入る。こじんまりした店で、十一時半だというのに、十一人が一緒に座れる席はなかった。五分程待たされて八人が呼ばれ、また少し待ってスナフキン、オカチャン、私は喫煙席に案内された。
     「本日のお薦めはこちらです」と示されたのは千五百円もするものだから、私たちには関係がない。私とスナフキンはおろしハンバーグとカキフライにキンピラがついたもので、他に小鉢がもうひとつ選べると言う。私はナス、スナフキンは豆腐にした。税込千七十八円。オカチャンはオムライスを頼んだ。今日は寒いからビールは注文しない。
     「オカチャン、最近カラオケ教室は?」「やめました。今度は個人教授に就こうかって考えてるんですよ。」それはスゴイ。金もかかりそうだが、何事もその道のプロに就いて正式に習うというのは良いことであろう。
     ナスの小鉢は、生キャベツの上に五六枚のナスの小片を載せたものだった。カキフライは二つ。最近の学食のランチに週一回カキフライが登場する。あれは固くて冷たくて不味い。一緒についてくるトン汁がなければ普通の人は注文しない。比べるのも気が引けるが、こちらは当然そんなことはない。オカチャンのオムライスにはたっぷりとデミグラスソースがかけてある。
     「こういうところで喫煙席に着くのは珍しいよな。」普段は食い終わると外に出て喫煙所を探すのが決まりであった。

     一時二十分に店を出る。「寒い。」「少し風が出てきたね。」もう一度街道を渡る。相変わらずケヤキの切断面が痛々しい。淡いピンクの桜が咲いている。「早いね。」「河津桜かな?」「あれはもっと色が濃い。」「桜は六百種以上あるんですよ。総称してヒカンザクラ(緋寒桜)と呼んで良いでしょう。」姫の声で決着がついた。ただヒカンザクラは彼岸桜と音が似ていて混同しやすいので、最近ではカンヒザクラと呼ぶという説を見つけた。ケヤキは伐られても桜は大事にされるのだ。
     三階建てビルの玄関に寺の看板を掲げているのは、徳雲寺分院金剛寺(曹洞宗)である。「隣の家の方がよっぽどお寺みたいだ。」ここは斎場なのだ。
     西武新宿線のガードを潜るとすぐに、右斜め後方に分岐する道があり、その角に弘法大師供養塔が建っていた。背面と左右を格子で囲まれているので側面の文字が判読しにくいが、「練馬江三里 府中江二里半 所沢江三里 青梅江七里」とあるらしい。追分の道標なのだ。
     「青梅街道からちょっと離れますが、富士街道を行ってみます。」西武線に沿うように歩き、次の角の西武線の小さなガードがある路地の入口で姫は立ち止った。「中島飛行機の簡易鉄道の跡です。何の標識もありません。」中島飛行機武蔵製作所(武蔵野中央公園とNTT武蔵の開発センター)と、田無町谷戸の中島航空金属(住友重機械工業田無製造所)を結ぶ鉄道だった。作られたのは昭和十九年の秋以降だったようだ。関係者の回想ではこんな風に始まった。

     昭和十九年秋のある日、兵隊さんがある家にやって来て玄関先を指さし、「ここに線路を敷く」と言って帰った。それから間もなくして、線路が敷かれたそうだ。
     戦後に枕木を燃料にしようと取りに行ったら、鉄だったのでがっかりしたという人や、枕木とレールが一体になったものをパタンパタンと敷いていったという証言から、鉄道連隊の軌匡だと思われる(「中島飛行機簡易鉄道」http://hkuma.com/rail/nakaji01.html)

     その先の角には石幢六面六地蔵が立っていた。西東京市保谷町四丁目七番。西東京市では「六角地蔵石幢」と呼んでいるようだが、普通は六面と言うのではないだろうか。つまり「石幢」には既に六角柱または八角柱の意味があり、わざわざ六「角」と言うのは重複であろう。ただ私は八面のものは見たことがない。富士街道と深大寺道が交差する地点に立つというので、この細い道が深大寺に行く道になるのか。ところで、石幢を私はずっとセキトウと読むのだとおもっていたが、セキドウが正しい読み方のようだ。無学だと恥をかく。
     高さ二メートル程の大きなもので、この大きさのものは初めて見る。六角柱の上部の各面に地蔵を浮き彫りにしたものだ。安政七年(一七九五)、「つや」と光山童子の供養のため、野口助右衛門と秋山十右衛門によって建立された。
     姫以外は、この形は初めて見ると驚いているが、この会でも何度かは見ている筈だ。この近所だと、もっと小さなものだが石神井池の近くの寺にもあったんじゃないか。記録をひっくり返せば禅定院(石神井町五丁目)であった。
     この先は道幅が狭くなって、柳沢駅まで昭和の頃のような飲み屋が連なっているようだ。「それじゃ戻ります。」青梅街道に戻って、今度は道を渡って南側を歩く。笠付の随分立派な庚申塔が建っている。柳沢(やぎさわ)庚申塔である。

     享保八年(一七二三年)、青梅街道と飯能(所沢)街道の追分(分かれ道)に付近の住民二十三人の講中が建立したもので、道標を兼ねていました。台石を含めた塔の高さ三メートル余、荘厳で見事な容姿を持ち、当時の田無村の経済的繁栄を誇示するかのようですが、このような大型の庚申塔は多摩地方でも珍しいものです。昭和四十年(一九六五年)頃、所沢街道拡幅のため移設されました。その後、平成十八年(二〇〇六年)に現所在地に移設され、建立当時に比較的近い場所になりました。

     道標を兼ねたものだから、本来の場所は少し先の追分の、田丸屋の辺りだったらしい。追分は所沢街道(秩父街道とも呼ばれた)と青梅街道の分岐点で、青梅街道は左の方に行くのだ。しかし道路標識ではまっすぐ行く方に青梅の文字があるのがおかしいと、スナフキンが笑う。
     さっきの掲示板では旅籠の田丸屋はこの辺りの中心だったように書かれていたが、現在は小さな酒屋となっており、とても繁盛しているとは思えない。
     田無宿は青梅街道に継立場を作るため、谷戸地域周辺から移された人達によって形成された宿場であった。田無用水(玉川上水からの分水)が開削される前は谷戸まで毎日水を汲みに行かなければならなかったらしい。
     その先が田無神社だ。西東京市田無町三丁目七番四。初めて来たが立派な神社だ。狛犬の代わりに龍が鎮座しているのは、もともと龍神を祀った神社だからだ。五行説によって東に青龍、南に赤龍、西に白龍、北に黒龍、本殿に金龍を配置しているのだ。本来の五行説では中央は黄になる。

     田無神社の創立は正応年間(建長年間説もありますが、いずれも鎌倉期、十三世紀)です。谷戸の宮山に鎮座し、尉殿大権現と呼ばれていました。ご祭神は龍神様です。
     時代は下り、徳川家康が江戸幕府を開くにあたり、城、町建造のために大量の石灰を必要としました。家康はそれを青梅の地に求め、青梅街道を開きました。その際に、肥沃な谷戸に住んでいた人々は、こぞって一キロほど南の青梅街道沿いに移住し、宿場町・田無を造営したのです。
     この様な歴史の中で、人々は宮山に鎮座する尉殿大権現を、まず元和八年(一六二二年)に上保谷に分祀し、正保三年(一六四六年)に宮山から田無(現在の地)に分祀し、寛文十年(一六七〇年)には、宮山に残っていた尉殿大権現の本宮そのものを田無に遷座しました。
     さらに、尉殿大権現は明治五年(一八七二年)に熊野神社、八幡神社を合祀し、田無神社と社名を改めました。その際に、主祭神・大国主命と須佐之男命、猿田彦命、八街比古命、八街比売命、日本武尊命、大鳥大神、応神天皇をお祀りして、現在に至っています。(神社「由緒」より)

     「尉殿(じょうどの)」を調べても、オキナグサの異名とかキンポウゲ科の多年草が出てくるだけで、この神社に関わるような意味は出てこない。また「尉殿」は場合によって重殿、十殿、通殿、増殿などと発音することもあるらしい。本来は龍神なのだから、素人考えではリュウをジュウと発音する幼児の訛りではないかとも思う。
     鳥居を潜ると右の掲示板には、本殿の彫刻を写真付きで解説してくれている。これは有難いが、実は本殿は覆堂に隠されていて見ることはできない。それでも拝殿の彫刻も見事なもので、向背虹梁の上の龍の彫刻は素晴らしい。本殿は安政六年(一八五九)田無村名主の下田半兵衛富宅(とみいえ)が再建したという。下田と言えば、保谷開拓の六苗の裔であろう。

     覆殿内に現存する一間社入母屋造り向拝付の本殿は、本殿身舎の正面と背面は千鳥破風、前面の向拝の軒は唐破風をあしらい、屋根には銅板を葺いている。本殿が建立された年代等については、市内田無町の下田家所蔵文書から、名主下田半兵衛等が大工棟梁鈴木内匠と彫工島村源蔵(俊表) に依頼して、安政五年(一八五八)に着工し、翌安政六年に完成したことが判明している。
     総欅造りといわれている本殿は、斗を三段に組んで軒や縁を壁面から突出せる三手先組み建築形式が多用されている。さらに、本殿の柱や壁には龍、獏、象、獅子などの動物と二十四考(中国の元代にまとめられた親孝行を就いた談話)に関係する彫刻が隅々までほどこされており、江戸時代の堂宮建築が到達した高度な大工技術と円熱した彫工の技量が相まった優れた建造物である。
     また、拝殿は棟策と前後殿境の透し彫り欄間裏側に賀陽玄順が記した墨書から、地元の大工高橋金左衛門等によって、明治八年(一八七五)に竣工したことが明らかとなっている。本殿に劣らぬ気迫と技量によって造営されており、明治の初期において、地域の大工技量がなお高い水準を保っていたことを示す貴重な遺構である。(東京都教育委員会掲示より)

     拝殿の横には土俵が作られていた。そして大鵬の碑がある。大鵬が引退後の平成五年に五穀豊穣を祈念してここに土俵を開いたのである。大鵬と田無神社がどういう縁で結ばれたかは分らないが、田無神社崇敬会初代会長を務めている。
     またこの神社は五木寛之にも縁があると宣伝している。五木寛之は昭和二十七年に早稲田大学の露文科に合格し、父親がやっとの思いで工面した入学金四万円と三千円だけを懐に上京した。寺にある説明にはこう書いてある。

     五木寛之は昭和七年に福岡県で生まれ、その後、京城・平壌などに住み、朝鮮半島で終戦を迎え、昭和二十二年に日本に戻りました。
     早稲田大学に入学後、ひととき田無神社に住んでいました。
     その頃のことを彼は作品に残しています。
     その後「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞を受賞し、「青春の門」などの優れた文学作品を書き続け、今日に至っています。

     「住んで」いたといえば聞こえが良いが、上京してすぐ、住むところもなく神社の床下に勝手に潜り込んで寝ていたのである。高田馬場の穴八幡も大学に近いからよく利用していた。要するにホームレスである。上京直後はまだアルバイトのあてもなかったのだろう。その後は業界新聞の住み込み配達員をしたり、中野界隈に住んでいたことなどは『風に吹かれて』に詳しい。
     最近の五木はすっかり宗教的人生訓を語る爺さんになってしまったが、若い頃は違った。マリーが露文を選んだのは五木の影響ではなかったかと、私はひそかに睨んでいる。一番好きな作品は小説ではなく、この『風に吹かれて』というエッセーだ。勿論ボブ・ディランの曲名に由来するもので、五木寛之はまだ三十五歳だが既に筆致にはノスタルジックな雰囲気が漂っている。この本で、ロープシン『蒼ざめた馬』、本名のサヴィンコフ名義『テロリスト群像』、埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』なんかを知ったのだから、私にとっては一種の教科書でもあった。
     折しも金正男の暗殺が報じられ、まだ不可思議な点は残っているにしても、これは古典的な、二十世紀的な暗殺と考えて良いだろう。それにしても、サヴィンコフの時代のテロと二十一世紀のテロとの懸隔は眩暈を催すほど大きい。埴谷雄高『内ゲバの論理』や笠井潔『テロルの現象学』等がテロを分析し克服を試みたが、あの頃の発想では現代のテロルに対処できない。テロを容認するつもりはないが、二十世紀のテロには幾分か考えるべき点があった。
     ロシア革命期、サヴィンコフのエスエル戦闘団によるテロは百三十九人を殺害、八十五人を負傷させたと言われる。しかしセルゲイ大公暗殺の目的で馬車に爆弾を投擲しようとしたとき、実行担当のカリャーエフは小さな子供が同乗しているのに気付いてしまった。そしてついに爆弾を投げることができない。彼は自分の判断が正しかったかどうか悩み続けるのだが、これはイワン・カラマゾーフのアリョーシャへの問いかけ、永遠平和の塔を建設するため、幼い子供の購われることのないひとつの命が必要だとしたら、お前はその建設に参加するかという問いへの一つの答でもあっただろう。「全てが許されるとしたら、それはスメルジャコフへの道だ」というのも、『テロリスト群像』の中の言葉ではなかったろうか。
     また余計なことを書き連ねてしまった。『風に吹かれて』のエピソードの一つにこんなものがある。まだ小説も書けず、雑文を書き、コマーシャルの作詞を始めたばかりである。初めて作詞したコマーシャルソングの録音現場に現れたのはセーラー服の少女だった。こんな女の子が歌うのか。

     テストが始まったとき、私は軽いショックを受けた。張りのあるパンチのきいた声と、その声の背後ににじむ可憐なお色気が私を驚かせた。そして、それにもまして、額に吹き出る汗を拭こうともせず、体ごと叩きつけるように歌っているセーラー服の少女の後姿に、私はなみなみならぬ歌い手の気迫のようなものを感じたのだった。
     アイロンの当てすぎだろうか、ピカピカ光っていたスカートのお尻を、私は今でも思い出す。私の横の長椅子には、少しくたびれた、蛙の腹のようにふくらんだカバンがあった。前の晩、試験勉強で徹夜をしたと言う少女の横顔には、〈芸〉の世界の重いカーテンを体ごとぶっつけてくぐって行こうという、一種の執念のようなものが光っていた。彼女のカバンにつまっているのは、教科書だけではなかったに違いない。それははかなくも華やかな、ショウビジネスの世界に生きようと志した少女の、夢と決意でもあっただろう。(中略)
     ・・・・おそらく私が見たのは、ひとりの歌い手の卵ではなく、幼くして一つの道に賭けた人間の後姿だったのだろう、そして、小説を書くという年来の抱負から遠ざかって、一向にめざす仕事のいとぐちに近づけずにもがいていた私自身に対する、恥かしさだったのかも知れない。

     この少女が後に『可愛いベイビー』でデビューを果たす中尾ミエだったと、五木は後に知ることになる。今読み返すと、五木寛之は当時から人生訓を語っていた。
     賀陽玄節の案内板がある。備前岡山藩の藩医で諸国修行の途次、田無宿の名主下田半兵衛富宅と出会い、当時医者のいなかった田無村に居を構えて医療に従事した。元は吉備神社社家の末裔である。明治の神仏分離令によって総持寺(当時は西光寺)から独立して田無神社ができた時、賀陽玄節の子で医師の濟(わたる)が田無神社の初代宮司となった。その後、田無神社の宮司は代々賀陽氏が継いでいる。

     神社を出て總持寺(真言宗智山派)には脇から入る。西東京市田無町 三丁目八番地十二。「總持寺って鶴見にあるのとは違うのかな?」同じ名前の寺はいくらでもある。「隣り合わせだったら拙いけど。」明治八年(一八七五)、西光寺、密蔵院、観音寺の三寺を合併して總持寺としたものだ。江戸時代には尉殿大権現と一体だったから、その額が保存されている。
     創建年代は不明だが、元和年間(一六一五~一六二四)ではないかと推定されている。元和年間と言えば上保谷村が開発された時期であり、平仄は合っている。山門の両脇には立派な仁王像が建っているが、本来は四天門として作られたもので、中に回ると多聞天と広目天がいる。
     寺は嘉永三年(一八五〇)に建て替えられたが、その資金を負担したのは、下田半兵衛富宅の父、半兵衛富永である。その寄付は金二百両、米三百俵だったと言う。
     戊辰戦争では振武隊の本営に充てられた。上野戦争勃発以前に彰義隊から分かれた渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄)を首領として結成された部隊である。上野戦争勃発の報を受けて上野に向かうが、途中で敗戦を聞き、田無に戻った。彰義隊の残党を吸収して千五百人に膨れ上がり、飯能の能仁寺に入ったものの、三千五百の新政府軍の攻撃にあっけなく敗れてしまうのだ。渋沢成一郎と尾高惇忠(渋沢達に論語を教えた師)は秘かに江戸に戻って榎本艦隊に合流し、函館戦争を戦うことになる。
     山門前には田無用水の跡が残っている。見事なケヤキは嘉永三年(一八五〇)に本堂を再建した際、落慶記念として植えられたものだという。
     コゲラが細い枝にしがみついて一心不乱につついている。「一番小さなキツツキですよ。」こんなに近くでちゃんと見るのも珍しい。「あれはアトリでしょうか」と姫がツカサンの鑑定を頼むと、「アトリですね」と答えが返ってくる。「今年はアトリの当たり年のようですね。」つい二週間前に知ったばかりのこの鳥を、また見られるとは思わなかった。「山門のそこにもいますね。」
     寺を出てすぐ、路地に入ったところが下田家である。屋根は銅葺で緑青が浮いていて、かなりの豪邸である。これが田無村名主下田家なのだ。「三階建てかな?」「二階で屋根裏部屋があるみたいだね。」現在も子孫が住んでいるので、覗き込んではいけない。
     道を挟んで駐車場の奥には稗倉が残っている。下田半兵衛(半兵衛は世襲名)は救荒穀物の備蓄のために、自宅の庭に十二の蔵を立て、稗五百石を収蔵した。そのうちの一つを移築した倉の前の地面には古い甕を置き、石臼を埋め込んである。石臼は昨年八月に移築した際、下田家に隣接する田無用水の水車で使われていたものを転用したのだ。
     倉の前には養老田碑が建っている。これも救貧事業の一環で、下田家の持ち分の田のうち、困窮者に貸し与えたものである。近世の田無にとって下田半兵衛はかけがえのない名主であったと思われる。碑文は安井息軒、揮毫は賀陽濟である。田無小学校の敷地には、同じ趣旨の養老畑碑が建っているらしい。
     これは大したことなのだが、幕末期の名主層にとって、その規模の大小によらず、こういうことは倫理的な義務と考えられていた。下手な大名旗本より、名主層にこそnoblesse obligeの観念があったのである。勿論それは、村内で一揆、打ち毀しを起こさせないための防衛策だった場合もあるだろう。
     また下田家は寛保二年(一七四二)から一橋家の広敷御用も務めていたらしい。広敷とは要するに便所掃除で、汲み取った糞尿を自由に処分できる。宝暦三年(一七五三)からは当時北町奉行だった依田和泉守の屋敷の広敷も請け負っていた。これは大きな収入源である。下肥はおそらく神田川を遡って運ばれ、途中から陸送によった。
     また、玉川上水の関野橋から少し下った左岸に「桜樹接種碑」が建っていて、「さくら折るべからず 槐字道人」彫られているそうだ。あの辺は歩いた所だから見ているかも知れない。槐字道人とは半兵衛富宅の号である。元文二年(一七三七)に植えられた小金井桜を嘉永年間(一八四八~一八五四)に大規模に補植したのが下田半兵衛であった。

     今日のコースは余りにも早く終わってしまった。あとは田無駅に行くだけである。一時四十五分。これはこれまでで最も早い。「先日のヤマチャンより早かったですか?もう少し先まで行くと、その次がまた長くなってしまうんですよ。」それなら仕方がない。一万三千歩。
     田無駅で解散して、さてどこで飲むか。「半額割引券を忘れちゃった。失敗しちゃったな」と桃太郎は言うが、その券を使える店はこの近辺ではないのではないか。「この時間なら磯丸水産しかないだろう。」先月の上尾と連続で磯丸水産はいかがかと思うが、仕方がない。「さっき昼飯食べたばかりなのに」と桃太郎はぼやいている。
     あんみつ姫、マリー、スナフキン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の五人だ。まだ昼時だからビールが安い。取り敢えずのビールを注文し、コンロが邪魔なのでどけて貰おうとしたが、突き出しで使うと言う。持ってこられたのはキビナゴ、三角のサツマアゲ(店員はこれを別な言葉で言っていたが忘れた)、チーズ入り蒲鉾(直径四センチほど)である。「珍しいから写真を撮っておきましょう」と姫はカメラを向ける。
     蒲鉾は焼かなくて良いだろう。「キビナゴって天麩羅しか食べたことがないわ。」「普通は刺身かな。」刺身と言ってもこんな小さなものだから包丁は使わず手開きにするのが作法で、数匹一緒に口に放り込む。焼いたキビナゴはシシャモに近い味がする。サツマアゲの中は白身でハンペンを揚げたような触感だ。そう言えば店員は「シンジョウ」と言っていたのではなかったろうか。良く聞き取れなかったので訊き返すと「サツマアゲ」と答えたのだが、これはサツマアゲとは別物のような気がする。
     いつもの通り漬物二種類を二人前、ポテトサラダを二人前、シロエビの唐揚げ二人前等。この店に焼酎のボトルがないのは知っているから、今回もホッピーにする。「わたし、飲んだことないから」とマリーも挑戦してみたが、一口で「ダメ、合わないわ」と諦めた。残りは桃太郎が引き受ける。二時間飲んで二千五百円なり。
     まだ四時を少し過ぎたばかりだ。「今日は帰っても飯がないんですよ。」それならロダンのためにも、もう一軒行かなければならない。
     ビッグエコーか。「自分はカラオケあんまり好きじゃないんですよ。話ができないじゃないですか。」シダックス五割引きやビッグエコーの割引カードを持っている癖に、桃太郎はそんなことを言う。「お話しましょうよ。大丈夫です。」好きじゃないと言う割に、桃太郎の歌は正統派である。私は、今日は喉の調子が悪い。二時間でお開きとする。
     「自分はどうやって帰ればいいのかな?」この間も桃太郎は似たようなことを言っていたのではないだろうか。「立川に出るか、新宿に出て小田急に乗るか。」結局彼は新宿経由を選び、逆方向はスナフキンと私だけになった。

     この日、谷口ジローが六十九歳で死んだ。谷口の名を最初に知ったのは関川夏央と組んだ『事件屋稼業』だったろうか。漫画を定期的に読む習慣がなくなって三十年経つが、諸星大二郎、大友克洋と並んで谷口ジローはいつでも気になる存在だった。
     久住昌之原作『孤独のグルメ』のドラマ化で谷口の名を知った人も多いだろう。何度か触れているが、関川夏央とのコンビで描いた『坊っちゃんの時代』シリーズ(全五部)は傑作です。明治という時代をあれ程鮮明に美しく描いた人はいなかった。あの緻密で繊細な、そしてどこか懐かしい絵は他の誰にも描けない。
     十六日には船村徹が死んだ。数年前から体調を崩していたので八十四歳はまず不足はないだろう。昭和三十年、高野公男と組んだ『別れの一本杉』によって世に出て、生涯に五千曲以上の歌を作った。去年は歌謡界初めての文化勲章を受章している。その名曲を数えればきりがないが、ちあきなおみの『矢切の渡し』(断じて細川たかしではない)と『紅とんぼ』を一番に押しておきたい。他に青木光一『柿の木坂の家』、村田英雄『王将』、島倉千代子『東京だよおっ母さん』、美空ひばり『ひばりの佐渡情話』、大下八郎『おんなの宿』、ちあきなおみ『新宿情話』。
     船村は『矢切の渡し』を比べて、細川の歌はモーターボートで江戸川を渡る、ちあきの歌からは櫓を漕ぐ音が聞こえてくると評した。また美空ひばりとちあきの違いは裏声が出るかどうかの違いだとも言った。船村自身はひばりの裏声を評価したのかも知れないが、私は、裏声に逃げないちあきの音域の広さを支持している。ちあきの高音は涙が出るほど切ない。
     九日、佐藤さとる八十八歳。『だれも知らない小さな国』は幼い頃からの愛読書であった。十六日、ディック・ブルーナー八十九歳。

    蜻蛉