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    青梅街道 其の四「プレイバック Part2」
      平成二十九年四月八日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.04.16

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     第二回で通り過ぎた荻窪だが、街道から逸れてもう少し散策してみたいというのが、あんみつ姫が「プレイバック Part2」とした意味である。
     旧暦三月十二日。「清明」の初候「玄鳥至(つばめきたる)」。昨日は珍しく八時頃まで寝てしまい、終日眠気が去らなかった。前夜飲みすぎたかと思い出してみると、ビール一杯、紹興酒のハイボール一杯、日本酒四合、緑茶ハイ一杯を飲んでいた。紹興酒のハイボールが初めてだったから、それが利いたのかも知れない。午後からかなり暑くなり、妻と一緒に団地周辺の満開の桜並木を散策した。公園では団地の連中が円陣を組んで酒を飲んでいる。暇な連中だ。
     今日は小雨模様でうって変って肌寒い。ただこの雨も午後には上がるだろう。JR荻窪に着きトイレに向かう途中、あんみつ姫とチロリンに会った。集合場所は南口の階段を上がったところだというので、そちらに回って一服し終わると、チロリンとシノッチが階段脇に立っている。九時四十分で、いつもならもう少し集まっている頃だ。「今日は少ないね。」「お天気が悪いからかしら。」「男は俺だけだったりして。」何度も階段を覗き込むが他の連中の姿は見えてこない。本当に今日の参加者はこれだけなのだろうか。
     雨はほとんど止んでいて傘をさす人はいない。十時を一二分過ぎた頃、漸く集団が階段を上がってきた。良かった。これで今夜も飲める。
     あんみつ姫、シノッチ、チロリン、ハイジ、ヨッシー、スナフキン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の九人だ。
     線路沿いに東に歩く。この辺りは電線を地中に埋没させており、地上の変圧器の表面に荻窪の名所の案内がカルタのように描かれている。最初に見たのは「に」「にっぽんの史跡となるは荻外荘」、「ろ」「ロッヂング昭和モダンを見上げたり」である。
     「ここが明治天皇の休憩所になったところです。」AMEXのビルの奥に長屋門が見える。以前は裏道から入ったところだ。道端のドウダンツツジが白い小さな蕾をつけ始めている。少し早いのではなかろうか。
     天沼陸橋南から右に曲がると、次の交差点の角に緑色の円形ドームを載せた建物があった。二階の外壁は濃い茶色、一階はベージュに塗られ、二階部分に「西郊ロッヂング」の文字が右から左に浮き出してある。杉並区荻窪三丁目三十八番九。これが昭和モダンなのだ。「旅館西郊」の看板がある。「受験生用協定旅館だってさ。」「今どきの受験生がこんなところに泊まるかな。」
     左に回り込むと、建物はL字型に繋がっていて旅館と賃貸部分とに区分されているのが分る。「そこに郵便受けがあるからな。」その隣が旅館西郊の入り口だ。元は本郷の下宿屋だったが、関東大震災で倒壊して荻窪に移転してきた。
     旅館の部分は昭和六年(一九三一)築、賃貸部分は昭和十三年(一九三八)築の木造モルタル仕上げである。全室洋間というから当時としては珍しい。国の登録有形文化財に指定されている。現在では旅館の方は和式割烹旅館に模様替えをしているらしい。素泊まりから宴会まで引き受ける。
     そのまま真っ直ぐに行く。ベニバナマンサクが咲いている。「山形でしたか?」「その紅花とは違うよ。マンサクの園芸種だろ。」正確には、ベニバナトキワマンサクと言うか。この頃は普通の黄色のマンサクを見かけることが少なくなった。
     住宅の塀から上に伸びる八重桜は、同じ枝から紅、ピンク、白と三色の花が開いている。姫は途中で曲がりそうになって、慌てて戻った。「話に夢中になって勘違いしてました。真っ直ぐでいいんです。」大田黒公園だ。杉並区荻窪三丁目三十三番十二。
     大田黒元雄の旧居を公園にしたものだが、その名前を私は知らなかった。音楽評論の草分けらしいが、その分野には全く疎いのである。ウィキペディアから引用すると、こうなる。

    旧制・神奈川県立第二中学校(現神奈川県立小田原高等学校)卒業後、旧制高等学校には進まず、東京音楽学校の教師ペッツォルトにピアノを師事した。一九一二年(明治四十五年)に渡英し、ロンドン大学で約二年間にわたって経済学を修める傍ら、音楽会や劇場に通い詰めて本場の芸術に親しんだ。一九一四年(大正三年)七月に一時帰国したが、第一次世界大戦の勃発で再び渡英できなくなったため日本にとどまる。(ウィキペディア「大田黒元雄」より)

     正規の音楽教育を受けたわけではないが、その後、本格的に音楽批評の道を歩んだらしい。著書・訳書は多数ある。

     一九一五年(大正四年)二月、『現代英国劇作家』を洛陽堂から上梓、同年五月、松本合資会社改メ合資会社山野楽器店(現在の山野楽器)店主の山野政太郎から「作曲家の評伝のようなもの」を書かないかと勧められ、ロンドン時代に集めた資料や情報をもとに『バッハよりシェーンベルヒ』を刊行した。同書で、日本では知られていなかった多くの作曲家を紹介した。(中略)
     作曲家を紹介した本は量と質でそれまでの書物の群を抜き、発行部数は少ないものの大田黒の名を一躍高からしめた。(同)

     切妻、瓦葺の屋根を持つ門を入ると、真っ直ぐに伸びた樹木が並ぶ中に静寂な空間が広がっている。この高い木は樹齢百年以上と言われるイチョウだ。敷地の三割は公園にして欲しいとの元雄の遺言で、杉並区に寄贈されて公園として整備された。今年初めて見る一重の山吹が咲いている。
     民家の土間のような休憩室を通り、最初は洋館に入る。今日は脱ぎやすい靴を履いてきてよかった。調度、内装、どれをとっても高価なものだろうなと思うばかりだ。暖炉の上や壁には元雄や家族の写真が並び、スタインウェイのピアノが置かれている。「これが珍しいんだよ」とスナフキンが教えてくれたのは、外装が見慣れている黒ではなくマホガニーで、表面に象嵌が施されていることだ。一九〇〇年に、ドイツハンブルグ工場にて製造された「B型」と呼ばれるものらしい。
     「女房を連れてきたら喜ぶだろうな。」奥さんの影響で、スナフキンもピアノには詳しいのだ。「スタンウェイはもともと大ホールで演奏するように作られたんだよ。室内に置くのは珍しい。」本来はそうらしいのだが、ここにあるものは、サロンに適したタイプだという。ハイジの孫もピアノを習っている。「ウチのはアップライトだけどね。」
     「音楽批評だけで、こんなに裕福になれるのかな。」「そこに年譜があるね。」それを見ると、元雄の父・重五郎は日本の水力発電の先駆者で、芝浦製作所を再建した実業家であった。「そうか、親父の金で暮らしてたんだな。」
     その重五郎は東京外国語学校露語科で二葉亭四迷の親友であり、『浮雲』の「本田昇」のモデルと目される人物だった。外国語学校が東京商業学校と合併する際、二葉亭長谷川辰之助とともに大田黒重五郎、藤村義苗、平生釟三郎が最も激しく反対運動を展開したが、辰之助以外は説得されて東京高等商業へ進学した。しかし二葉亭だけは、授業に出なくても卒業させるという温情を拒否してさっさと退学した。この依怙地で偏屈な気性が生涯二葉亭を苦しめるのだが、そのお蔭で私たちは日本近代文学の誕生を見ることが出来ている。重五郎はそのまま東京高等商業を卒業して三井物産に入った。彼らの要領が良いと言うより、二葉亭の要領が悪すぎるのだ。
     外に出ると池を囲んだ回遊式の庭園だ。シャガが咲いている。孟宗竹の林がある。クマザサの一角もある。これが三割なのだから、本来の屋敷地の広さはどれほどだったか想像もつかない。一回りして中門の脇に置かれた喫煙所で一服する。スナフキンが「太田黒公園」と書かれたポスターに気が付いた。「太なのか、大なのか?」「会社には太のオオタグロがいるよね。」やがて全員がそろったので外に出る。門前の標柱を確認すると「大田黒公園」となっていた。こちらが正しい表記だった。

     歩くにつれ、次第に洒落た洋館が多くなってきた。旭化成荻窪寮の敷地には枝垂れ桜が咲いている。
     適当なところで左に曲がる。木造二階建ての廃屋の庭に「黛民族舞踊文化財団資料館」の立札が捨てられたように雨曝しになっている。「舞踊団は今でもありますよね。」ヨッシーに言われても、私は詳しくない。そもそも「黛」で思い出すのは黛敏郎と黛ジュンだけなのだから教養の底が知られてしまう。この文化財団を設立したのは黛節子であり、その死後も財団としての活動は続けられている。しかし活動を続けているなら、この廃屋の現状はどうにかならないものだろうか。財団設立の趣旨から引いてみる。

     私、黛節子は「ピアニストにさせたい」と願う母の希望で、教則本ももてぬ頃からピアノの勉強をさせられました。でも私にとってそれは最大の苦痛であった為、母も諦めねばならない結果となりました。その代わりとでもいうのでしょうか、体の弱かった私に百八十度の転換と思われる日本舞踊を始めさせました。私は水を得た魚のように、スイスイと泳ぎ、自分で驚くほど前進、前進の連続でした。
     事実、私は踊りが好きだったのです。しかしそのうちに、いわゆる日本舞踊だけではあきたらなくなりました。
     これでいいのか?どしたら生きた踊りが踊れるのか?自虐と疑問の連続でした。
     丁度そのとき、日本青年館で催された民俗芸能(その頃は郷土芸能といっていたかも知れません)を見る機会を得ました。民俗芸能の持つ発散度の高さ、体の使い方から表現するテクニックの面白さ、意表をつく表現、私はすっかり魅せられ民俗芸能の勉強に突っ走りました。
     私は民俗芸能を素材とした民族舞踊家になろうとその時決意したのです。
     それから北は津軽から南は沖縄、南西諸島まで遮に無に取材とテクニックの勉強にでかけました。音楽もコスチューム、テクニックも全てを一つの素材、元素と考えた私だったのです。一つの土地の踊りを獲得するまで、何度でも通いました。そしてきちんと把握すると次は自分の中から自然に醸酵するのを待ちました。そして表現しました。何年となくそうした天職(私はそう考えています)に身をゆだねているうちに現地に残っている民俗芸能には日本人祖先の祈り、苦しみ、悲しみ、喜びがこめられていることに気がついたのです。これは専門家の手によって解読し、継承しそれを更に発展、振興へと切り開いてゆくべきだし、今のままでは単なる観光用民俗芸能に終わってしまうように思われるようになりました。(「黛民族舞踊文化財団」http://mayuzumi.or.jp/freepage_11_1.html#1-1)

     この真向いが角川庭園であった。角を回り込めば入り口だ。杉並区荻窪三丁目十四番二十二。角川源義(げんよし)旧宅が杉並区に寄贈されたものである。西南に善福寺川が流れ、そこから高台になった斜面の家である。「国分寺崖線が続いているんじゃないか」とスナフキンが推測する。国分寺崖線をも含む武蔵野台地の一部であることは間違いない。ユキヤナギが白い。バナナの木(実はバショウ)が立っている。クサボケが赤い。
     建物の中に入れば源義の書斎「幻戯山房」だ。机や書棚は、大田黒氏の高価な調度とは程遠い。「折口信夫の弟子なんだよ。」中学時代から折口に傾倒して、國學院大学に入学したのである。柳田國男にも学んだが、やはり折口の影響が強い。元々は古代中世文学の研究者である。
     ところで、折口信夫を「おりぐちのぶお」と読まないでほしい。歌人・作家として釈迢空の名があることは今更言うまでもないだろう。その名で分かるように、折口に浄土真宗の強い影響があることは、木村純二『折口信夫―いきどほる心』で知った。

      しはぶきの野中に消ゆる時雨かな
     昭和十三年作。「折口先生に従ひ武蔵野を歩く」と詞書。師の思い出の深い一句であろう。迢空・源義の子弟は、どちらも強い個性の持ち主だけに、激しい愛憎、牽引と反発がこもごも存在したというのが、私の解釈である。たまたまこの日、子弟相たずさえて、武蔵野に散策に出掛けたというのは、よくよく両者の気持ちがたがいに寄り添っていたということで、心のうちは天気晴朗で、嬉々として軽やかに歩いているさまが眼に見える。実際は時雨がぱらついて来て、薄ら寒さに漏らす師の咳きが、雨中の野中に谺することもなく消えてゆく。弟子の心の奥深く消えて行くのだ。(山本健吉『定本現代俳句』「角川源義」より)

     源義は折口に疎まれていた形跡がある。中学教員を経た後、昭和二十年に角川書店を創業した。二十四年(一九四九)には、岩波文庫、新潮文庫に続く角川文庫を発刊して成功した。「角川文庫発刊に際して」は名文である。

     第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。
     西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。
     一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化に秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある。角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい。多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。 一九四九年五月三日

     これが現在のKADOKAWAの原点であるが、春樹、歴彦と続いたメディア・ミックス路線は、この精神から随分遠ざかってしまっただろう。「教養」は死滅し、学芸への一般的無関心はかつてない程であり、世界に反知性主義が蔓延している。このことは何度も言って来たことであり、もはや「若い文化力」への期待が持てる時代は来ないのではないか。私は殆んど諦めている。
     源義は角川俳句賞および角川短歌賞、蛇笏賞、迢空賞を創設にすることよって短歌・俳句界にも大きな貢献をした。飯田蛇笏は源義が最も尊敬した俳人である。源義の句にはこんなものがある。

     何求(と)めて冬帽行くや切通し
     花あれば西行の日と思ふべし
     冬波に乗り夜が来る夜が来る
     冷酒や蟹はなけれど烏賊裂かん
     風花や蹤き来てそれし一少女

     その縁で、ここは杉並詩歌館にもなっていて、隣室の机には素人の句の短冊が並んでいる。「辺見じゅんが娘だよな。」最初の妻との間にじゅんを筆頭に春樹、歴彦の三人が生まれ、後妻から生まれた真理は十八歳で自殺した。他に複数の女性に産ませた子が何人いるか知らない。
     

     私は角川親子を火の玉人種と形容したことがある。角川姉弟たちは、この親に対して捨て身で胸を借りて成長して行った。春樹君は幼い時、父親に何かのことで腹を立て、応接間の絨毯の上にふとぶとと脱糞したという逸話を残している。勘当を受けたことも、二、三度はあるらしい。・・・・・プロ・ボクサーになりたい願いを、父に訴えたが、父はさすがにあきれ、なるなら勘当だと言い渡し、思いとどまったという。
     同じジムに、オリンピック選手がいて、プロに転向すると言うので、最後のエキシビジョン・マッチに、春樹君が相手を仰せつかった。ところが第一ラウンドで、春樹君は相手をノックダウンしてしまったのである。・・・・・
     弟の歴彦君も、似たようなエピソードを持っている。少年時代から彼は将棋が好きで、父と同じく高柳八段の門に入った。この将棋道場には、同じ歳ごろに中原、米長などというずば抜けたのがいて、彼らとともに将来名人になろうと誓い合い、・・・・専門棋士になることを父に懇願したが、勘当だと一蹴され、断念せざるを得なかった。(山本健吉『定本現代俳句』「角川春樹」より)

     山本健吉は慶応での折口門下であり、源義の盟友として初期の角川書店の編集長を務めた。源義没後は角川文化振興財団の理事長をも務め、角川家とは縁が深い。と言うより春樹、歴彦の後見人であった。現代俳句批評の骨格を定め、無季、自由律を認めないから『定本現代俳句』では河東碧梧桐も荻原井泉水も無視された。それとは反対に、春樹については三十七頁も記している。飯田蛇笏の十四頁、水原秋櫻子の十一頁、中村草田男の二十四頁、石田波郷の三十四頁と比べて、余りにもバランスを失しているのは、健吉のこの名著の中では重大な瑕瑾であろう。
     「幻戯書房はやっぱりこの関係だな。」記憶が曖昧だったが、それは辺見じゅんが設立した出版社で、幻戯は「源義」の音読みに由来する。辺見じゅんについては『呪われたシルクロード』と『収容所(ラーゲリ)から来た手紙』を読んだだけだが、『収容所』は傑作です。ついでだから春樹の句をいくつか引いておこうか。自分を神話歴史中の人物に同化するナルシシズムがある。

    勇魚捕る碧き氷河に神のゐて
    北風吹くや一つ目小僧蹤いてくる
    向日葵や信長の首切り落とす
    室生寺やすすき分け行く水の音
    将門の関八州に野火走る

     窓から見る庭には大振りで見事なシャクナゲが咲いている。玄関を出ると、ガイドのオジサンも一緒についてきた。「ウラシマソウはどこですか?」「たぶん、この辺に。」オジサンは玄関脇の草むらを探す。「あっ、そこですね。」姫が素早く気づいた。「これからですかね。」
     庭を回ると馬酔木、ボケ、スミレ。久し振りにこんなに多くのスミレを見た。「ミツバツツジ、可愛いですね。」「これは何ですか?」十センチほどの石に黒紐が十文字に結わえて、敷石の真ん中に置いてある。「結界です。これが置かれていると、その先は立ち入り禁止。」「知らなきゃ、そのまま行っちゃうよな。」「蹴飛ばしたりしてね。」
     その奥の茶室の脇に水琴窟があった。丸く縁をかたどり、そこに黒い小石が敷き詰められ、その真ん中に少し大きめの茶色い石が数個置かれている。石に柄杓で水をかけると、竹筒で音を聞く方式ではないので、かぼそいが心に沁みる音が出る。「音のかそけき」という風情だ。「いい音だ、心に沁みこむね。」ロダンはこういうものに感激しやすい。
     庭のすぐ下の道はかなり低くなっている。「そこは昔、水田でした。メトロを掘った土で埋めて団地を造ったんですよ。」

     民家の脇にチューリップが何種類か咲いている。「チューリップも最近では珍しいですね。」「えんどう豆も。」小さなサヤがついているのが分る。
     「石井桃子がこの辺に住んでいたんだよ。本を忘れちゃって失敗したな。」スナフキンの言うのは尾崎真理子『秘密の王国―評伝石井桃子』のことだろうか。私は読んでいない。「石井桃子って、『にあんちゃん』でしたか?」ロダンはとんでもない勘違いをしている。「それは安本末子だよ。」「貧しくって悲しいお話だったわね。」「子どもが書いたんじゃなかったですか。」在日朝鮮人の少女が十歳から十二歳まで書いた日記である。「あら、そうだったの?そのこと書いておいて頂戴ね。」荻窪とは何の関係もないが、それでは少し触れておこう。
     母は末子が三歳の時に亡くなり、父も死んだ。その父の四十九日から日記は始まる。二十歳の長兄、十六歳の姉、十二歳の次兄(にあんちゃん)、十歳の末子が肩を寄せ合って生きなければならない。杵島炭鉱大鶴鉱業所で働く長兄の収入だけが頼りだが、在日朝鮮人では臨時雇いの身分を脱出できない。おかずが買えないから、ごはんに醤油をかけて食べることもあった。そして炭鉱は閉鎖され、長兄は解雇される。社宅に住めなくなれば一家は離散し、末子と高一は嫌がられながら知人を頼って転々とする。それでも「にあんちゃん」は小学校の卒業式では努力賞をもらい、後に中学では生徒会長まで務める。この次兄の存在が末子の誇りだった。

     春のにおいをそよ風にのせて、きょうは卒業式の日でした。
     「安本高一」という先生の声に、前を見ると、六年生の列の方から、にあんちゃんが、出てこられました。
     にあんちゃんは、とくべつに「努力賞」をもらわれるのです。
     出てきたにあんちゃんを見ると、やぶれた洋服です。みんなきれいな洋服を着ているのに、つぎはぎした上下です。ただほかの人と同じところは、髪の毛をつんでいるということだけです。(中略)
     私は、勉強もできませんし、こじきのようなかっこうもしていますから、もしもにあんちゃんがいなかったら、いや、いたとしても、にあんちゃんが勉強できなかったら、この一年も、だれからでも、いじめられたり、にくまれたりして、すごしてきたことでしょう。にあんちゃんが、勉強できるおかげで、私は、だれからも、ばかにされたり、いじめられたりしたことはいっぺんもなく、いま、ゆっくりと、四年生をそつぎょうできるのです。にあんちゃんは、びんぼうにもくじけず、勉強にはげみ、同級生には、ぜったい負けない頭をもっておられます。

     「小学校二年の時に読んだよ。」一家が神戸に移住し、末子が中学生になった頃、病気療養中の長兄が光文社に日記を持ち込んだ。昭和三十三年(一九五八)カッパブックスで出されてベストセラーになり、母親が買ってきたのである。もともと漢字が少ない本ではあるが、母はこの本の漢字に全てルビを振って私に読ませた。
     このベストセラーの印税のお蔭で一家に余裕が生まれ、末子は早稲田大学に進学することができた。「にあんちゃん」も少し遅れたものの苦学して慶応大学に入る。映画〈昭和三十四年、今村昌平監督〉、テレビドラマ(昭和三十四年版と三十五年版)にもなったが私は見ていない。
     「あの頃、『次郎物語』もあったね。」貧しい家の物語ではないが、次郎の少年時代も暗い。「歌も歌えますよ」と姫が歌いだすので、ハイジも驚く。そう言えば小金井の下村湖人「浴恩館跡」を訪れた時も、姫はこの歌を歌っていたような気がする。
     ついでだから、『次郎物語』の主題歌を調べてみた。横田弘行作詞、木下忠司作曲。歌はペギー葉山であるが、私には全く記憶がない。四月十二日、そのペギー葉山も死んだ。

     一 ひとりぼっちの次郎はのぼる
       ゆらゆらゆらゆらかげろうの丘
       ひとりぼっちの次郎はのぼる
       ぴいろろぴいろろひばりの峠
       次郎 次郎 みてごらん
       松の根は岩をくだいて生きて行く

     「よく知ってるわね。主役が池田君、きれいな子だったわ。」池田秀一。「彼は『路傍の石』にも出てたんじゃなかったか。」時代はそれぞれ異なるが、貧しい物語がいくらでもあった。
     もう一つついでに言っておくが、一般には次郎の小学時代までしか知られていないのではないか。『次郎物語』全五部を通読した人は余りいないだろう。次郎の強すぎる自意識は兄の恋人に恋してしまうというややこしい葛藤を産むことになる。中学校を中退して、学校を辞して私塾経営を始める朝倉先生の元で暮らし始めるが、禅や修養にも満足できず次郎の煩悶は解決しない。そして私塾も軍部の圧力で閉鎖せざるを得なくなり、その時点で物語は中断する。第四部以降は中学一年生の私には難し過ぎたが、自意識と内省との問題は、私の精神に余り良い影響を与えなかった。
     「石井桃子は『のんちゃん雲に乗る』だよ。」「そうか。そうでしたね。」「鰐淵晴子、可愛かったわ。」調べてみると石井桃子の家は「かつら文庫」として今も東京子ども図書館が運営している。杉並区荻窪三丁目三十七番十一。西郊ロッヂと大田黒公園の間にあったのである。「浦和出身だよね。」「生家は駐車場になってましたね。」そうだ、あの辺を歩いたことがあったのだ。石井桃子は戦後の児童文学を牽引した。その影響下に、昭和三十年代にはさとうさとる『だれも知らない小さな国』やいぬいとみこ『木かげの家の小人たち』が出現する。

     道を少し回り込めば荻外荘だ。杉並区荻窪二丁目四十三番。近衛文麿の旧宅跡である。元々、大正天皇の侍医を務めた入澤達吉の別邸として建てられたもので、設計は伊藤忠太である。昭和十二年(一九三七)に近衛が譲り受け、西園寺公望が「荻外荘」と命名した。「伊藤忠太は本願寺ですよね。他にも見たかな?」国分寺の東京経済大学で見た筈だ。「市川の法華経寺の聖教殿もそうだったよ。」ほかでも見た記憶があるが今思い出せない。
     「建物の半分は豊島区の天理教が持っていったんです。」現存する部分では近衛が自決した部屋も残されているようだ。調べてみると移築されたのは、染井霊園の門前にある天理教東京教務支庁で、東京寮となっている。天理教二代真柱・中山正善と近衛との関係によったもののようだ。
     門扉は閉ざされて入れない。「向うに建物が見えますね。そこには行けませんが、ここから回り込むと公園に入れます。」右から回り込むと、城壁のような塀に囲まれた家がある。これは荻外荘とは全く関係ない人の家であるが、実に豪壮だ。大きな黒松が何本も伸びていて、先端を見上げると首が疲れる。「荻外荘より大きいんじゃないか。」そして公園に入った。高台に残った建物が見える。杉並区では建物全体の復元計画をもっているらしい。
     昭和八年(一九三三)、近衛の友人の後藤隆之助によって、近衛の政策集団として昭和研究会が作られた。後に三木清や尾崎秀実などが参加したので、近衛は共産主義者だとの噂もたてられたが、近衛自身はヒトラーやスターリンに倣った全体主義国家を構想していたのだろうと思う。昭和十二年(一九三七)六月四日、第一次近衛内閣が成立した。

    ・・・・この時、近衛は四十六歳で、首相として異例の若さであった。 青年宰相の出現に対して、全国のあらゆる方面から、いっせいに歓迎の声が上がった。軍部や右翼も、政党も、ファッショ反対の知識人も、それぞれの立場から、近衛の清新さと知性と革新性に期待した。「近衛内閣成立の報は、積雲はれて青天白日を望む心地を、我等国民に与えた」と徳冨蘇峰は祝福し、近衛の父篤麿のもとに出入していたホトトギス派の俳人五百木瓢箪亭は「五月晴れの富士の如くにあらせられ」という句を近衛に贈った。(酒井三郎『昭和研究会―ある知識人集団の軌跡』)

     酒井三郎は昭和研究会の創立メンバーの一人である。しかし期待はすぐに裏切られる。七月七日、盧溝橋事件が勃発し、不拡大方針が決定され、現地で停戦協定が締結されたにも関わらず、近衛は蒋介石の影に怯えて北支派兵声明を出した。これが日中戦争泥沼化への最初の要因である。その後も口では不拡大を唱えながら、その時々の情勢に流され、戦線は拡大の一途を辿る。これに伴って不拡大派の石原莞爾は失脚する。
     十月には国民精神総動員中央連盟を設立した。これが後の大政翼賛会につながるのだが、要するに近衛の全体主義志向が初めて露わになった。十二月の南京陥落後、和平は困難になったが、近衛はなお和平工作に望みをかけ、昭和研究会も対策を研究していた。

     ところが、そのような中で、私たちにとってはまったく晴天の霹靂ともいえる事件が起こった。即ち、十三年一月十六日、突如として政府より、  「・・・・・国民政府は帝国の真意を解せず、みだりに抗戦を策し、内民途端の苦しみを察せず、外東亜全局の和平を顧みることなし。よって帝国政府は、爾後国民政府を対手とせず」
     との声明が出されたのである。他の内閣ならいざ知らず、近衛内閣によってこのような声明が出されようとは、まったく思いもかけぬことであった。この声明によって、蒋介石を相手とする一切の和平交渉の望みは吹っ飛んでしまった。私たちはがっかりした。(同書)

     十四年一月総辞職。昭和十五年(一九四〇)に入り新体制運動への動きが活発化し、七月二十二日には第二次内閣を組閣した。そして新体制運動に期待する様々な勢力の、それぞれの思惑とは異なった形で大政翼賛会が作られ、政党は全て解党した。
     林達夫は絶望し、『歴史の暮方』に結晶する文章を書き始める。手元にある『歴史の暮方』(筑摩叢書)は昭和四十三年(一九六八)十一月初版一刷、四十五年四月の初版二刷だから、大学に入学した年に買ったのだ。林達夫を知ったことで、私はやっと小林秀雄の呪縛から逃れることができた。

     ・・・・・この書に集められた文章が書かれた時代、すなわち千九百四十年から四十二年にかけて、わが国は世を挙げて一大癲狂院と化しつつあるの観があった。そこに生起する一切は、私の眼には、尊大と愚昧と軽信との烙印を捺された。気負い立った牡牛のとどめもない仮装行列のようにしか映じなかった。私はその牡牛たちを刺す一匹のソクラテス的虻たらんには、余りに廓清の意欲と揶揄の趣味とに欠けていた。私はこれまで見たこともない怪奇な観念的凶器っをふりかざして大道を闊歩する思想的テロリストや、そのあとに随いて回る得体の知れぬ「護符」の押売り屋の難を避けるため、わが家の周りにささやかな垣根をめぐらして、成るべく人目につかぬように暮していた。(林達夫『歴史の暮方』序)

     ・・・・・一体、戦争とは何でありましょう。私は敢えてこの素朴な質問を提出して、人々の答えが聴きたいのです。もう一つ、私の見解では、近い過去において、知識階級にとって最も重大な決決定的時期だったと思われるのは、一般に考えられているように十二月八日ではなく、むしろいわゆる大政翼賛運動がはじまったときであるが、実はこの時の知識階級の行動決定のさまを見て、私はそのとき既にもう万事休すと見透しをつけてしまった人間であります。(林達夫『歴史の暮方』「反語的精神」)

     十五年九月二十七日に日独伊三国軍事同盟締結、十六年四月十三日には日ソ中立条約を締結し、七月十八日に総辞職。同日に第三次内閣を組閣するが、アメリカとの交渉期限の迫った十月十二日、外相・豊田貞次郎、海相・及川古志郎、陸相・東條英機、企画院総裁・鈴木貞一を荻外荘に呼び、自分は戦争に自信がないと発言し、政権を放り出す。そして東条英機が内閣を組閣する。
     決断力が決定的に欠け、責任感がない。戦争に自信がないなら、成否は別にしても内閣総理大臣として最後まで交渉を継続すべきであった。宣戦布告の張本人とされるのを恐れたのである。客観的にみて戦犯の筆頭は近衛文麿であった。
     太平洋戦争に入ってからは和平工作を画策したが実効は得られない。戦争末期、近衛の側近で、その娘婿である細川護貞は、高木惣吉海軍少将等とともに東条英機暗殺計画を練ったが、実行直前に東条内閣が総辞職したため実現しなかった。この辺の事情は細川『細川日記』や高木『自伝的日本海軍始末記』に詳しい。
     後に細川護煕が首相になった時、護貞は、息子の性格ではいずれ投げ出すだろうと予言して的中した。細川護煕は近衛文麿の孫である。と書けば、迷走の挙句政権を放り出した、似たような人物を想い出すだろう。鳩山由紀夫である。

     オレンジ色のミツマタが咲いている。善福寺川に出た。水は意外に澄んでいるが水草が多い。「ミカンが落ちてるぞ、一個、いや五つくらいある。」誰かが落したものだろう。荻窪地域区民センターの前には川南遺跡の解説板が立っていた。

     川南遺跡は、区内のほぼ中央部を流れる善福寺川の右岸に形成された、ゆるやかな台地の東側斜面に位置しています。
     昭和四十九年、荻窪地域区民センター建設に伴なう発掘調査を行なったところ、地表下約一メートルのローム層(赤土とも呼ばれる)内から多数の石器が発見されました。本地域の字名が川南と呼ばれていたことから本遺跡は川南遺跡と名づけられました。
     本遺跡は、杉並区荻窪二丁目三十四番を中心として、南北に広がりをもち、今から約一万二千年前の先土器時代(旧石器時代)の遺跡です。
     先土器時代は、まだ土器を使用しておらず石器を主要な生活用具としていた時代です。本遺跡においてもナイフ形石器(物を切る)、掻器(木や物を削る)、石核(石器を作るために石を剥がした残石)などが発見されています。
     また、礫群(集石)といって、こぶし大ほどの石を数十個集め、その上で物を焼いた炉跡も発見されています。これらの石にはススやタールが付着していることから、バーベーキューの跡と考えられています。

     海棠の濃いピンクの花が美しい。私はこの花がカイドウだと初めて知った。この界隈はカイドウを咲かせる家が多く、こんなに一遍にこの花を見るのも初めてだ。そして荻窪二丁目で環八通りに出る。信号の向かい側にはpukupukuというパン屋があり、姫の昼食候補の一つだ。ヨッシーにパンは似合いそうだが、ロダンがパン屋を選ぶとは意外だった。何を食べる積りだろう。その二人と女性陣は全てパン屋に向かう。
     「お蕎麦屋さんはこっちです。」姫は少し南に歩いて郵便局の角の路地を曲がった。「良く探したね。」店の名は「高はし」である。杉並区荻窪二丁目三十番七。ちょっと気取った、「こだわりの蕎麦」を公言しているような店だ。「今日は何時頃で終わる予定かな?」「三時頃ですね。」それでは余り食いすぎてはいけない。今は十一時四十五分、「十二時半にパン屋さんのところに来てください」と姫は戻って行った。
     幸い(?)メニューに丼物はなく、蕎麦だけであるが予想通り安くない。かけそばが九百円するのだ。桃太郎は最初「せいろ(汁なし)」と注文して女将に変は顔をされた。これはセイロ一枚で物足りない人がもう一杯追加するときのものである。私が行くような店では「モリ二枚」と注文するのが一般的だ。
     「それじゃセイロ(九百円)でお願いします。」スナフキンは冷たいおろし蕎麦(千円)、私は暖かいなめこ蕎麦(千円)を選んだ。「日本酒飲んじゃおうかな?」桃太郎に付き合って日本酒にしたら終わらなくなる恐れがあるので、私とスナフキンはビールの中瓶にした。日本酒の熱燗は洒落た鉄瓶で出てきた。酒は酔蕎というものだが、どこの酒か分らない。特別純米酒である。
     予約してあった高齢者が五六人でやってきて、酒を飲み始めた。荻窪の高齢者は洒落た蕎麦屋で昼から飲むのである。高くなるぞ。私はこういう蕎麦屋にはめったに来ないから批評はできないが、この蕎麦は旨いと言うのだろう。中瓶はあっという間になくなり、もう一本追加する。
     定刻になって環八を横断してパン屋に戻る。阿佐谷福祉工房の多機能型事業から独立した就労継続支援A型事業所で、社会福祉法人いたるセンターが運営するパン屋だ。コンセプトは、「1天然酵母パンを中心に、おいしくて安心して食べられるパンづくりを目指す。2居心地のよいサービスを提供する。3地域の皆さんに愛され、活用してもらえる「コミュニティスペース」としての役割も果たす。4知的障害者の自立につながる、就労支援の場として生き生きと働ける店づくりを目指す。」である。
     「美味しかったですよ。」それなら良かった。「俺はコッペパンが好きだったよ」とスナフキンが言う。給食に出るコッペパンなんて、固くて不味くて私は食いたいとは思わなかった。「給食じゃないよ。パンを買ったら隣の肉屋でコロッケを買って挟むんだ。」
     私はパンなんて何年食べていないだろうか。パンと言うのは、私にはどうしても代用食としか思えない。ご飯がない時は、やむを得ず麺類を食べる。それもなければ仕方がない、パンで我慢する。現代に生きる資格のない古い人間なのだ。
     パン屋の横の道を行くと、電柱には「与謝野晶子・鉄幹ゆかりの地散策の路」のペナントがぶら下がっている。「晶子の方が先なんだね。」「顔が全然似てませんね。」晶子の顔が可愛すぎるのである。荻窪川南共栄会。そして小さな公園に着いた。与謝野公園。杉並区南荻窪四丁目三番二十二。入り口を入るとすぐに横長の石碑に出会う。

    歌はどうして作る
    じっと観
    じっと愛し
    じっと抱きしめて作る
    何を
    「真実を」(「歌はどうして作る」より・与謝野晶子)

     余り感心しない。鉄幹・晶子の旧居跡はもう何ヶ所も見ている。戦前までは、普通の人間にとって家は買うものではなく借りるものであった。家族構成の変化に合わせて転居する。それだけの住宅が供給されていたのである。
     麹町区富士見の家で関東大震災を迎えた二人はこの地に移り、昭和二年(一九二七)に西村伊作の設計で洋館を建てた。当時の住所表示は東京府豊多摩郡井荻村字下荻窪である。移転した当時の家は采花荘、伊作が設計した家は遥青書屋、昭和四年に弟子たちが建てた一棟は冬柏亭と名付けられた。つまりこの敷地内に三棟の家があったのである。
     公園の周囲には切り株をイメージした歌碑が並べてある。鉄幹と晶子とが交互に出てくる。私は鉄幹の歌には昔から感心しない。
     夫妻には十二人の子がいた。長男・光(医学博士)、次男・秀(シゲル・外交官)。秀の長男が馨だ。長女・八峰、次女・七瀬の双子は、森鷗外が「聟きませ一人は山の八峰(やつお)こえ一人は川の七瀬(ななせ)わたりて」の歌を贈って命名された。
     三男・麟、三女・佐保子、四女・宇智子、四男・アウギュスト。「四男アウギュストだってさ、こんな名前つけるかな?イヤだな。」「ローマ皇帝のアウグストゥスでしょうか。八月ですね、オーガスト。」「それじゃ八月生まれか、俺も八月だからそうしようかな。」ローマ皇帝とは関係がなく、夫妻が渡仏してオーギュスト・ロダンに会ったことを記念して命名されたと言う。こんな名前で生きて行くことはできず、後に昱(いく)と改名している。
     五女・エレンヌ、五男・健、六男・寸(生後二日で没)、六女・藤子。命名に一貫性というものがない。エレンヌもどうかと思うが、命名の由来は分らない。武林夢想庵と文子の間に生まれた娘はイヴォンヌと名付けられ、辻まことの最初の妻になる。流行だったろうか。「森君の於菟もイヤですけどね。」於菟は『春秋左氏伝』で虎を意味するらしいが、鷗外は意外に語感が悪かったのではないか。
     鉄幹は昭和十年三月二十六日、晶子は昭和十七年五月二十九日に亡くなるまでこの家に住んだのである。
     少し雨が落ちてきたがすぐに止む。神明中東交差点から西に行けば神明天祖神社だ。杉並区南荻窪二丁目三十七番二十二。隣が新明中学校になっている。参道には石の鳥居が三基建っている。

     元和年間(一六一五~一六二三)に香取郡水刀谷の城主水刀谷蔵人影賢が当地に土着し当社を再建したものの、零落に至り慈雲山光明院が管理していたといいます。百姓当麻六左衛門・梅田紋次郎等が文政元年(一八二七)に周囲を拓き、荻窪八幡神社の境外摂社としたといいます。

     古宇田家住宅は行かない。話が弾んで姫は曲がり角を間違えたのである。何の目印もない住宅地だから、よほど神経を集中させていないと分らなくなる。「あの線路は何だい?」正面の高架を地下鉄のような電車が走って行った。地図を持たずに住宅地の中をあちらこちらと歩いてきて、方角が分らなくなっている。「丸の内線かな?」「中央線だな。」そこに願泉寺があった。真宗大谷派。杉並区南荻窪三丁目三十一番二十四。道路からすぐ鉄筋コンクリートの建物が建ち、奥に墓地が見える。ここは解説を見るだけで終わる。

     当寺は、真成山と号し、真宗大谷派の寺院で、東本願寺の末寺です。本尊は阿弥陀如来立像です。
     「寺伝」「新編武蔵風土記稿」によると、寛永十八年(一六四一)僧願正によって奥州街道と日光御成街道の分岐点であった幸手宿に近い武蔵国葛飾郡神明内村(現埼玉県幸手市)に開創され、谷中山善照院と称していました。
     やがて近代に至り中興開山の足立道貫(昭和十五年寂)は、宗門の隆盛を図るため、浅草・中野等で布教を行い、そして、昭和八年(一九三三)には現在の地に仮本堂を建立し、ついで昭和十二年(一九三七)には移転を完了しました。
     当時この地は、関東大震災後の郊外住宅の新興地として発展の一途をたどっていました。

     善福寺川沿いの狭い道を行き、住宅地に入ると「薬罐坂」の解説板が立っていた。「薬研坂なら知ってるけどね。」「赤坂にありましたね。」しかしここは薬缶である。暗夜、真っ赤に焼けた薬缶が転がってくるという伝説があると言うのだ。「薬缶が転がるか?」
     しかし、これは本来「野干」であったらしい。狐のことである。狐狸の出没する草深い地域だったのだろう。南方熊楠は漢訳仏典にある「野干」はジャッカルのことだと言っている。豊川稲荷の吒枳尼天が跨り、墓を荒らして屍肉を喰らう生き物でもある。
     「たぶん、こっちだと思います。」姫が歩き始めてすぐ、「ビストロOJI(おじ)」の建物が見えた。杉並区上荻二丁目二十四番十八。国の登録有形文化財である。建てたのは末光績(いさお)だ。札幌農学校から東京帝大を経て、明治大学教授、恵泉女学園教授を歴任した。学生時代から札幌の洋館にあこがれていたという。

     一九二三年(大正十二年)に発生した関東大震災をきっかけにして、現在地周辺の区画整理事業によって、土地を購入することができた。学生時代からの憧れだった洋館建てを建てることになり、自ら設計し、郷里から棟梁を呼び寄せ、洋館建てを完成させた。一九七三年(昭和四十八年)、三男の末光深海によって、洋館建ての活用法が検討され、レストランを開く決心をし、一階のテラス周りの改修を行いレストランを開業、現在も利用されている。(ウィキペディア「ビストロOJI」より)

     車は駐めてあるが、今は営業していないようだ。こんな住宅地の真ん中ではフリの客は期待できない。一日二組だけ予約を取るというやり方で、客もついていたようだが、調べてみると二〇一四年三月末で閉店していた。
     小さな公園で休憩すると、大量にお菓子が配られる。「蜻蛉さん、これは?」「要らない。」「そんな邪慳な言い方しなくても良いだろう。」「嫌われてしまったわ。」シノッチ、ごめん。ヨッシーは水戸に梅を見に行っていたようで、のし梅を配ってくれた。懐かしい。要するに梅のゼリーであるが、これなら私でも食べられる。

     のし梅の甘酸っぱさや花曇り  蜻蛉

     水戸の名産でもあろうが、山形のものが有名だ。秋田の菓子舗榮太郎ではこれを真似て、山葡萄を使って「さなづら」というものを作った。
     「それじゃ出発しましょう。」「これはフジですね。」茗荷みたいでもあり、松ぼっくりのようでもあるような蕾が生っている。「ほらそこに。」確かに同じ枝に、外壁にくっつくようにフジの花が開いている。「初めて見るわ。」ハイジが初めてなら、私が初めてなのも当たり前だ。この松ぼっくりが次第に長くなって間隔があいてくるらしい。
     慈雲山荻寺光明院には裏から入る。境内のすぐ脇を中央線が通っている。杉並区上荻二丁目一番三。真言宗豊山派。杉並区屈指の古刹である。

     慈雲山光明院は、真言宗豊山派の寺院で通称「萩寺」と呼ばれ、荻窪という地名もその名に由来するといわれています。
     当寺蔵の「縁起石碑」によれば、和銅元年(七〇八)行基作の仏像を背負った遊行中の僧が、この地を通りかかったところ急に仏像が重くなり、萩の草堂を作って仏像を安置したのが開創と伝えています。
     本尊の千手観音は南北朝期の作であり、また境内から本尊と同時代に作られたとみられる五輪塔や室町期の板碑などが出土しており、当寺の開創は南北朝にさかのぼるものと考えられます。
     今も寺の周辺に残る「四面堂」「堂前」の地名も、当寺の御堂に起源をもつといわれています。
     本尊の千手観音像は、俗に「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれ、大正時代までは本尊の写し観音が地域を巡業する行事が行われ、信仰を集めたといわれています。

     かつてはオギが鬱蒼と生い茂る土地だったらしい。そのため荻寺と称され、やがて荻窪の地名に転用された。東側を環八通り、南を中央線で分断される以前は、もっと広大な境内だっただろう。レンギョウが満開だ。シキミの花も咲いている。天和二年の手水鉢。火焔を背負った不動明王像が立っている。
     姫の案内では、上林暁の葬儀はこの寺院で執り行われた。上林暁と言えば、以前スナフキンの案内で小金井の聖ヨハネ会桜町病院の傍を歩いた。『聖ヨハネ病院似て』の舞台である。私は私小説には縁が薄く、上林も『聖ヨハネ病院にて』を昔読んだきりだ。記憶も余り残っていないが、若くして精神を病んだ妻を題材にするなら、そこに至る夫婦の全生活が総括されなければならないだろう。この種の私小説を今読むのは辛いことだと思う。
     環八通りを渡れば荻窪白山神社だ。杉並区上荻一丁目二十一番七。文明年間(一四六九~一四八六)関東管領上杉顕定の家来中田加賀守が屋敷内に五社権現社を奉祭したことに始まると言う。五社権現とは、能登国石動山の神仏習合の神であり、大宮(虚空蔵菩薩)、客人(如意輪観音)、火宮(聖観音菩薩)、梅宮(勝軍地蔵)、剣宮(倶利迦羅不動明王)を言い、白山の神と同一視されていたようだ。
     手水鉢の水は、座り込んだ猫が手に持つ毬から噴き出している。猫は御影石で作ってある。何故だろう。「あそこにも。」神楽殿の石にも、境内社の三峰神社の石段にも寝ころんだ猫がいるのだ。

     行く春や神社に集ふ石の猫  蜻蛉

     表情がますむらひろしの描く猫に似ていないだろうか。「それは彫刻家ですか?」「漫画家だよ。」私は初期の作品しか知らないが、宮澤賢治をモチーフにした独特な画風で、代表作は『アタゴオル』シリーズだろうか。主人公はヒデヨシという人語を操る猫で、舞台はヨネザアド大陸のアタゴオルと言う土地である。ヨネザアドは出身地の米沢から、アタゴオルは現住地野田市愛宕から採った。「歯の神様ですよ。」昔の人は白山(はくさん)から「歯苦散」を捻りだしたのである。
     「ムクドリが歩いてる。」二羽の鳥が地面をウロウロしているのだ。これがムクドリなのか。「ムクドリが歩いているイメージってないわよね」とハイジがびっくりしている。ツグミやセキレイは良く歩いているのだが。
     荻窪駅北口で解散したのは二時四十分だ。一万三千歩、七、八キロというところか。「短すぎてスミマセン。最短記録を更新してしまいました。」この時間で飲み屋は開いているか。最悪の場合、串揚げの田中屋が開いているのは知っているが、深川でも入ったばかりだから、他の店に行きたい。
     スナフキンが先導して南口に出る。ヨッシーはここで別れて行った。「そこに磯丸水産がありますよ。」「ちょっと違う店に。」スナフキンは狭い路地に入り込んで行くが、お勧めの店はまだ時間が早すぎた。「仕方ないな、磯丸水産にしようか。」まだランチタイムだから安い。漬物三種、ポテトサラダ、冷奴、枝豆。ビールの後、スナフキンとロダンはホッピー(白)、私は白波のお湯割りを四杯、桃太郎は白波のロックの後ホッピー。一人二千円也。
     「まだ早すぎる。もう一軒行こうか。」魚正宗の「せんべろ」は刺身三種(マグロ、イカ、タコ)にホッピー(中三杯まで)か、又はビール一杯にサワー二杯で千円。「せんべろ」とは初めて知ったが、千円でベロベロに酔えると言うことだそうだ。確かにこれは安いが、私は中二杯しか飲めなかった。ロダンは死んだように寝ている。大丈夫かな。
     「カラオケに行きましよ。」ロダンが復活した。私も結構酔っているので、今日は一時間で千円也。

    蜻蛉