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    青梅街道 其の五  田無駅から東大和市駅
      平成二十九年六月十日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.06.20

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     七日(水)、気象庁は関東甲信越が梅雨入りしたと宣言したが、その日から雨は降らない。発表は勇み足ではなかったか。今日も暑くなるだろう(宣言後初めて降ったのは六月十三日であった)。
     それにしても、このところの安倍政権は異様である。「権力は腐敗する、絶対的な権力は絶対的に腐敗する。」私たちはその実例を目の当たりにしているように思える。質問にまともに応えようとしない不誠実、無定見、隠蔽、言い逃れ、強弁は余りにも酷い。匿名による内部告発が保障されるという基本的なことさえこの政権は無視し、更に告発者に人身攻撃を加えるという恥知らずな所業に及んだ。読売新聞は御用新聞と化し、報道機関としての理念を放棄して重大な汚点を残した。
     この異様な政府に、与党内から全く批判の声が聞こえてこないのも、日本の議会史上初めての事態ではないか。かつては自民党内にも様々な意見があり、時の政権の政策を批判する部分は一定層あった。それが戦後の自民党政治を支えてきたのは確かなことだ。しかし安倍一強政権のもとでは、何一つ異論が聞こえてこない。かつてメディアに盛んに登場してエラソウなことをほざいていた連中は、今どの面下げて議員をやっているのか。そんなに安倍が怖いのか。そして、それにも関わらず安倍政権への支持率が高いのは、私の理解をはるかに超えている。何と言っても異常な時代であることは間違いない。
     (共謀罪法案は、参院法務委員会での議決を省いて本会議に回すという新しい手口で、十五日に強行採決した。更に文科省は再調査の結果、問題の文書が発見されたと説明した。「怪文書」と切り捨てた菅の面目は丸潰れであるが、内閣府は記録にないの一点張りだ。しかし国会の会期は終わり、森友と同様うやむやにされてしまうだろう。)
     家にいれば嫌でもニュースを見て不愉快な思いをすることになるのだが、幸い私たちにはこの会があって、精神の健康を取り戻すに効果がある。

     結構早い積りだったが、西武新宿線田無駅にはもうかなりの人が集まっている。最終的に集まったのは、あんみつ姫、マリー、オカチャン、ロダン、桃太郎、マリオ、スナフキン、ダンディ、ヨッシー、蜻蛉の十人になった。十時一分着の電車まで待って出発する。
     「皆さんは階段で行って下さい。私はエレベーターで降りますから。」北口に出て、なんとなくロダンの後ろにくっついて行くと、エレベーターの位置とは全く違う方に向かっていた。「こっちですよ。」後ろの方から姫の声が聞こえた。「階段下りたところにエレベーターがあるじゃないか。」スナフキンは冷静に見ていて、そこで待っていた。「こっちだと思ってたんですよね。」私は何も考えていなかった。
     二つ目の角を左に曲ると田無小学校だ。西東京市田無町四丁目五番二十一号.「前もってお願いしてますから。」通用口には「団体開放」の札が掛けられていた。構内に入ると「養老畑」碑が建っている。普通の墓石型の地味な石碑で、田無神社の裏にあった一町歩の畑の標識として立てられていたものだ。
     前回は荻窪周辺に戻ったので、この直前は第三回(二月)ということになるが、それから大分経ってしまって細部の記憶が怪しくなっている。前回、田無神社の裏の下田家の庭で稗倉と「養老田碑」を見た。それと合わせて、下田半兵衛の業績を顕彰したものである。もう一度確認しておこう。
     田無の名主、下田半兵衛富宅(半兵衛は世襲名)は救荒穀物備蓄のために、自宅の庭に十二の蔵を建てて稗五百石を収蔵した。また救貧事業の一環として、下田家の持ち分の田畑の一部を割いて困窮者に貸し与えた。それが養老田であり、養老畑である。養老畑について言えば、収穫から得た収入で村内の七十歳以上の老人に施した。その数は安政年間(一八五五から一八六〇)に二百三十六人、万延年間に五十七人(一八六〇から一八六一)、文久年間(一八六一~一八六四)に百二十二人、慶応年間(一八六五~一八六八)に五十四人となっている。
     田無小学校創立百周年記念之碑。「相当古い学校ですね。」「学制が明治五年だから。」明治六年創立は全国でも最も早い時期の開校である。
     養老畑碑の隣には高い台座の上に二宮金次郎が立っている。「珍しいね。」「表情がちょっと変わってるね。」つい最近、たまたま見ていたヴァラエティ番組で、私が名を知らないアイドルが山本金次郎さんと呼んで笑われていた。「えっ、違うんですか、それじゃ大野金次郎。桜井金次郎。」若い娘の無知を責める積りはないが、ちょっと立ち止まって考えることをしない。何でも言えば良いと言うものではないだろう。
     もう一度駅前の道に戻って、田無駅北口交差点を左に曲がると青梅街道だ。「ふれあいのこみち」と名付けられた路地は田無用水跡である。暗渠化して遊歩道にしたのである。この辺りの開墾は、まず玉川用水からの分水を縦横に通すことから始まった。

     承応二年(一六五三)に玉川上水が開通し、その三年後の明暦二年(一六五六)に小川用水が開削されて、青梅街道の馬継場として新たに小川村が開村されても、田無村の水事情は改善されないままだった。
     田無用水開削の嘆願書が提出されて許可が下りたのは元禄九年(一六九六)のことである。田無用水は当初、田無村一村のための吞用水として開削された。喜平橋下流で玉川上水から分水されたが、その樋口は四寸四方と他の用水に比べて小さいものであった。(ちなみに野火止用水は六尺×二尺、小川用水は一尺四方である。)
     その後幕末から明治にかけて、吞用水だけではなく、廻田新田や田無村の田用水としても利用されることとなる。(「川のプロムナード・田無用水」)
     http://riverpromenade.blog.fc2.com/blog-entry-254.html

     田無町五丁目角のあすなろ訪問看護ステーションの建物の隅に、ビルの隙間を利用して小さな祠が設えてある。中にあるのは笠付庚申塔と細長い墓石型の石である。「磨り減っていて何も分からないね。」
     民家のコンクリート塀の上から濃いピンクのキョウチクトウの花が見える。私には、この色がなんとなく毒々しく感じられて余り好きではない。「キョウチクトウって夏の花ですよね」と桃太郎が不思議そうな顔をする。そうなのだ。二週間前に、安行で今年初めてキョウチクトウを見た時も驚いた。「何でも早くなってるのは温暖化のせいですかね。」
     「地球温暖化って言えば、トランプは無茶苦茶ですね。」パリ協定からの離脱は地球に対する裏切りである。「目先の利益しか考えてないんだよ。」トランプのやること全てに問題があるが、アメリカ議会ではコミー前FBI長官が米上院情報特別委員会の公聴会で発言した。アメリカには何も期待していないが、日本に比べてアメリカはまだましかも知れないと思ってしまう。
     橋場交差点で道の左側から向こうに渡る。田無用水が青梅街道を横切る所で、今はないが橋が架けられていた。三叉路になった追分で、右に別れるのが成木往還(現在は東京街道と呼ばれる)、左に別れて行くのが立川道(鈴木街道)だ。成木村は石灰の産地であった。鈴木街道の名は、貫井村の鈴木利左衛門によって開かれた鈴木新田に因む。
     青梅街道と成木往還の間の三角地に小さな祠が二つ並んでいる。一つは白いジャンバーを着せられた地蔵で、もうひとつが笠の上から白い布がかけられた青面金剛だ。合掌型で邪鬼を踏み、その下には三猿もいる。かろうじて元禄の文字も読める。祠の脇に赤いアジサイが咲いている。
     ここで田無宿が尽きる。慶安年間の『武蔵田園簿』には、「田無町より青梅町迄七里三町。但、原道」「原の間六里、家なし」と書かれているそうで、新田が開発される以前は青梅まで無人の荒野が続いていた。
     中国ラーメン揚州商人の脇の外壁にくっついて、また小さな祠が建っていた。西東京市芝久保町四丁目十二番四十九号。庚申塔の祠が多いのがこの地域の特徴だろうか。北芝久保庚申塔と呼ぶ。日月、一鶏と三猿だけが浮き彫りされている。文字は判読できないが案内によれば「為奉造立菩薩也」とあった。延宝二年(一六七四)、新田開発に入植した十八人の講中が新田の外れに建立した。
     「青面金剛がいないのは古い形ですよね。」姫も随分詳しくなった。「菩薩」と彫られているように、青面金剛以前には阿弥陀仏や大日如来、観音菩薩の庚申塔もあった。青面金剛の刻像塔が普及し始めるのは延宝の直前、寛文(一六六一~一六七二)の頃からだと言われているので、ちょうど端境になるだろう。この地域の庚申塔を調べたレポートによれば、入植後、ほぼ村の暮らしが安定した頃に立てられたものが多いと言う。
     「あれが科学館ですね。」「そうです。」右手に見えるタワーを指差して、オカチャンとヨッシーが頷いている。ただ地上百九十五メートルのタワーはスカイタワー西東京と言う多目的電波塔で、科学館の隣に建っているものらしい。平成元年(一九八九)二月、郵政省からマルチメディアタワー第一号認定を受けたもので、観光施設ではないので展望台はない。
     「あれ、なんだよ。」スナフキンが指差すのは「多摩六都科学館」の標識だ。「六都って?」「六市のことじゃないかな。」

     科学館建設の経緯は昭和六十二年一月に東京都多摩北部地域の小平市・東村山市・田無市・保谷市・清瀬市・東久留米市の六市が多摩北部都市広域行政圏協議会を組織・設置したことに始まります。多摩六都という名称は多摩北部都市広域行政圏の六市に由来します。(平成十三年一月の、田無市と保谷市が合併し西東京市となったため現在は五市。) 地理・歴史、行政的に関係が深い五市は広域的な行政課題に対応し、より質の高い住民サービスを提供するため、連携して広域行政圏を形成しています。(多摩六都科学館)

     西東京市芝久保町五丁目十番六十四号。それにしてもオカチャンとヨッシーは、科学館なんてどうして知っていたのだろう。プラネタリウムの投影機は一億四千万個を超える星を映し出し、「もっとも先進的なプラネタリウム」として平成二十四年に世界一の認定を受けたと言う。
     小平市合同庁舎の角を左に曲がれば圓成院がある。山号は野中山、黄檗宗である。小平市花小金井一丁目六番二十九号。矢沢大堅が開基となって宝永二年(一七〇五)に武州多摩郡上谷保村に創建したものだが、享保十二年(一七二七)野中新田が開拓されてからにここに移し、実山道伝を勧請して開山した。矢沢大堅の家は谷保村で代々鋳物師をしていた。

     「野中新田」・・・・享保期に上谷保村(国立市)の農民矢沢藤八によって計画され、上総国万国村(千葉県)の野中屋善左衛門の出資を得て開発された新田。矢沢藤八は享保七年、黄檗宗円成院住職大堅と図り、上谷保村の有力農民六名と江戸の商人牛込榎町(新宿区)の米屋喜右衛門・佐野屋長右衛門・玄瑞源右衛門・関口大屋六左衛門の四名を出資仲間として幕府代官所に新田開発願を出したが、冥加金二五〇両の上納かなわず、翌八年隣地鈴木新田の開発に出資していた野中屋善左衛門に、新田名を野中新田とすることを条件に出資を依頼。冥加金を上納して享保九年幕府から五百十三町歩の開発許可が下り、土地は開発仲間十一人と円成院の計に等分された。当初上谷保村願地と称されたが、享保十一年、野中新田として独立。(『角川地名大辞典』より)

     新田開発に幕府が金を出す訳ではないことが分るだろう。民間が請け負うから、失敗して家産を失う者もいた。
     「黄檗宗は珍しいですよね。」私が知っているのは三鷹の禅林寺(森鴎外、太宰治の墓がある)、向島の弘福寺(隅田川七福神、鳥取藩池田氏の菩提寺)位だったろうか。「雰囲気が独特ですね。」黄檗宗の寺は明の風を残していると言われる。

     享保七年(一七二二)七月、幕府の新田場開発の発布が出ると、大堅は、上谷保村の同志と図り開発の願いを出し、同九年(一七二四)五月、田無境から立川境に至る五一三町歩(約五・一ヘクタール)の開拓が許可されました。
     大堅のこの発願は、渡来してまだ日の浅い黄檗宗をこの地に広めようとする悲願によるもので、許可のあったその年の九月、無人の荒野にこの地としては最初の草庵を構え、移り来る農民のリーダーとなり、自らも開拓の鍬をふるったのです。
     移り住む農民も増え、開拓の前途に見通しのついた享保十二年(一七二七)、上谷保村から円成院をこの地に引寺し、師僧実山道伝を勧請して開山に仰ぎ、野中山円成院と称しました。(小平市教育委員会)

     現在の小平市の基礎となったのは享保の新田開発であり、開発には玉川上水からの分水が必須だったとは既に書いた。「玉川上水は偉大でしたね。一年もかからないで通したんですから、大したもんですよ。」ロダンは玉川上水には思い入れが強く、全長四十三キロという数字まで覚えている。

     年貢収入が限界となり、江戸幕府は全国的に新田開発を奨励することにより年貢収入を増やすことを目論んだ。享保七年(一七二二)に新田開発奨励の高札を江戸の日本橋に立てた。それに応募する形で小平地域でも小川村以外の新田開発がこの時期に行われた。大沼田分水、鈴木分水、野中分水などが開削され、小川新田、鈴木新田、野中新田、大沼田新田、廻り田新田が開発された。
     小平市地域で最初に新田開発奨励に応募したのは小川家であった。従来の小川新田は小川村と改称され、この開発が新たに小川新田とされた。二箇所に分かれており玉川上水の南側の細長い土地は秣場であり、一橋学園駅周辺は畑地の開発であった。
     次に応募したのは貫井村名主鈴木利左衛門で、投機グループと組んで、鈴木新田・野中新田の開発を行った。出資金により得た土地を倍額で売却することを企てる者(野中善左衛門)がいたり、新田の出百姓を壇徒として勢力の拡大を目論む宗派があったり、幕府に開発場役米代金を納められず土地を没収され投獄される者がいたりと、様々な思惑に満ちた開発であった。
     大沼田新田・廻り田新田は秣場を確保するために開発され、当初は農業を行って住み着く意思は少なかったといわれている。大沼田新田が専任の名主を持つようになったのは開発の二十年後であった。(小平・玉川上水再々発見の会「玉川上水と小平周辺の新田開発」)
    http://kodairagreenroad.com/tamagawajyousuionepointguide/4shindenkaihatu.pdf

     山門の茶がかった朱色は塗り直したようだ。閉ざされている扉につけられた色鮮やかな花のような彫刻はなんだろうか。桃かな。桃は魔除けであり不老長寿の果実でもある。その通用口から境内に入る。鐘楼、枝垂れ桜。
     本堂左手の駒形の青面金剛がなかなかお目にかかれない代物だ。「こんなに綺麗なのは珍しいですよね。」彫がしっかりしていて、日月や金剛の持つ武器がはっきり分るし、何と言ってもショケラの顔がこんなにくっきりしているのは珍しい。邪鬼が正面を向いて蹲っているのも余り見たことがない。その足元には二鶏、台座に三猿。側面には「嘉永元申年九月吉日 多摩郡野中世話人村役人」とある。
     「嘉永って?」「ペリー来航が嘉永六年だよ。」「そうすると、それが一八五三年だから。」ロダンはペリー来航百年に生まれたと言うのが自慢である。植え込みにはビヨウヤナギとキンシバイが同じ黄色で満開だ。

     「それじゃ行きましょう。」青梅街道に戻り十分程歩くと地蔵堂があった。蓮台に立った地蔵には赤い着物が着せられているが、その上の顔はつるつるに磨かれたようだ。「みんなが撫でるんだね。」「信仰されてるんですよ。」文化十三年(一八一六)に生まれた浅田秀五郎は、子に恵まれなかったが近所の子供を可愛がって「小平の良寛様」と言われた。死ぬ際、「自分が死んだら子どもを守る地蔵にしてくれ」と遺言し、文久三年(一八六三)、甥の勘兵衛が地蔵を建立したと伝えられる。このため、この辺りでは事故にあっても奇跡的に助かる子どもが多いと言うのである。
     しかし「小平の良寛様」というのはおかしいだろう。小平の地名は明治二十二年の町制施行で小川村ほか七ケ村が合併して出来たのである。幕末にはまだない。伝承が混乱しているのだ。
     地蔵の背後には「奉納子守地蔵尊」と書かれた赤い布が何枚も掛けられている。「平成二十九年ばっかりですね。」去年のものは仕舞っちゃうんでしょう。」仕舞わなければならないほど大量にあるとは、それだけ信仰されていると言うことか。
     小金井街道を渡る。「江戸東京たてもの園はこの辺じゃなかったかな。」「もうちょっと南かな。」後で地図を確認すると一キロちょっとだ。「前川國男邸があった。」高橋是清邸もあった。講釈師が女風呂に傘を忘れた。碁聖が巧みに輪回しをしていたのが懐かしい。平成二十一年十一月のことで、スナフキン初の企画だったが、あれから七年半も経ったのだ。そう言えば、皆で犬山の明治村に行こうかと考えていた時期もあった。
     辺りがなんとなく見覚えのある景色になった。去年の七月、江戸歩き(第六十五回)でロダンが案内してくれた辺りだ。そのすぐ後に私は第一腰椎圧迫骨折をやったのであった。花小金井武道館は改修中のようだ。「そこのサイゼリアで食べたよな。」「うどん屋にしたかったんですが、あの日は休みだったんですよ。今日はどうか分りません。」「一応、そのうどん屋さんに行ってみましょう。ダメだったらサイゼリアに戻ると言うことで。」
     「この辺は武蔵野うどんだよね。固いやつ。」「美味い店もあるんだよ。」入ったのは、武蔵野神社の隣の「手打ちうどん平作」である。小平市花小金八丁目二十六番十九。十一時半、丁度良い時刻で綺麗な店内にはまだ充分余裕がある。
     テーブルについて帽子を脱ぐと、頭に巻いていたバンダナがびっしょり濡れている。取り敢えずビール二本を頼み、スナフキン、桃太郎と三人で分ける。かなり汗をかいたから美味い。店内もちょうど良い塩梅に冷房が効いている。うどん屋だからメニューは勿論うどんばかりだ。カケには暖かいものと冷たいものがある。
     私は冷え過ぎてはいけないので肉南蛮(鴨)の温かいのにした。姫も暖かいものだったか。桃太郎はモリ、スナフキンは冷たいうどんを注文して失敗したと嘆いている。「モリの積りだったんだよ。」武蔵野うどんに対して私が持っていたイメージと違って、うどんは固くなくて美味かった。因みにウィキペディアが言う武蔵野うどんは、下記のようなものである。

    もともと郷土料理であるため、使用される小麦粉は武蔵野台地で生産されたものを使用する事が原則(地産地消)である。麺は、一般的なうどんよりも太く、色はやや茶色がかっている。加水率は低く塩分は高めである。コシがかなり強く、食感は力強い物でゴツゴツしている(つるりとはしていない)。食するときには麺は、ざるに盛って「ざるうどん」もしくは「もりうどん」とする。つけ麺の汁は、かつおだしを主とした強い味で甘みがある。シイタケ、ゴマなどを具として混ぜたものを、温かいまま茶碗ないしそれに近い大きさの器に盛る。ねぎや油揚げなどの薬味を好みで混ぜ、汁をうどんにからませて食べる。(ウィキペディア「武蔵野うどん」)

     出発は十二時頃になった。店内にトイレはなく、勘定を済ませて外に行かなければならない。男女別ではあるが、男ばかりが外で並ぶことになり、終わった人から武蔵野神社に入って行く。「この柵を越えられないかな。」参道と店の間の柵であるが、年寄りがそんなことをしてはいけない。と言うより無理だ。
     武蔵野神社は享保九年(一七二四)、上谷保村から毘沙門天を村の鎮守として遷宮したと伝える。小平川市花小金井八丁目二十六番地。毘沙門天は圓成院が別当寺として管理していたが、明治維新後、猿田彦を祭神と決めて独立した。
     鳥居を潜れば参道に明治十三年(一八八〇)のフランス式彩色迅速測図のこの辺の部分が掲示されている。第一軍管区で作成したもので、復刻版は『明治前期測量二万分一フランス式彩色地図』として売られた。地図を見れば街道の北側は畑ばかり、南側は短冊形に区切られた土地に「畑」「桑」が並ぶ。その中央部分、武蔵野神社と延命寺の間の街道の北側は「竹道」になっている。
     参道には朱塗りの灯籠が綺麗に並んでいる。一つの大きな石の断面に七つの窪みを作り、そこに七福神それぞれを浮き彫りにしたのは比較的新しいだろう。そして巨大な猿田彦が祠の中に立っている。「猿田彦で気が付いたんです。それまで、ここに来たことも忘れてました。」姫が言う通り、この稚拙で大きなチョコレート色の像が印象的なのだ。前に来たときも書いたことだが、粘土細工の大魔神と言ったところだ。堂の格子には絵馬が大量に掛けられている。
     前にも来ているから長居をせずにすぐに出る。この辺りには高橋定右衛門の墓がある筈だが、そこには寄らない。姫の案内文にも記されているが、定右衛門は野中新田与右衛門組の名主で、御門訴事件のリーダーとして投獄され、獄死した。明治三年、品川県の社倉取立てに反対して、武蔵野新田十二ケ村が県庁に訴えた事件である。
     社倉は、旧幕時代には下田半兵衛のような村の有力者が貯穀し、運営も村の自治によって行われていた。基本的には飢饉対策だが、救貧事業の一面もあった。それを石高に応じて貧農からも強制的に取り立て、その管理運営は品川県が行うという布達だったから、要するに増税と全く等しい意味だったのである。

    前述の『田無市史第三巻通史編』には事件の経緯を次のように説明しています。
    一八六九年(明治二)一一月、品川県は従来の貯穀制度を廃止し、高五石以上の家は一石につき米二升づつ、高五石以下は三段階にわけ、上は一戸あたり四升、中は三升、下は一・五升を飢饉の備えとして積みたてる、ただし本年は米一斗=一両の割で換金して納入せよ、と命じた。これに対して、田無周辺の関前新田、上保谷新田、梶野新田、柳窪新田、鈴木新田、戸倉新田、関野新田、大沼田新田、内藤新田、野中新田与右衛門組・善左衛門組・六左衛門組の一二新田が激しく抵抗し、「御門訴事件」と呼ばれる大騒動になった。(中略)
    ・・・・・一八七〇年(明治三)一月一〇日、田無村八反歩に集結した農民数百人が、日本橋浜町の品川県庁めざして青梅街道をつき進む事態となった。県庁や村役人の手配によって内藤新宿の淀橋付近で多くが阻止されたが、これを逃れた農民たちは中野から北東にまわりこんで県庁前に到達した。すでに夜であった。県吏は門を開け、願があるなら内へ入れと誘うが、農民は動かない。入れば「強訴」となるからだ。農民はあくまでも合法的な「門訴」(歎願)の形を守った。業を煮やした県庁側は鉄の鞭などを振りまわしながら農民に襲いかかり、四六人を捕縛した。「御門訴事件」という呼称はここから生まれた。(小平市中央図書館「小平市史料集第十八集」解題)

     当時の品川県知事は佐賀藩士の古賀定雄(一平)であった。大木民平(大木喬任)、江藤新平と共に「佐賀の三平」と呼ばれたと言うから、宗匠やヤマチャンは知っているだろう。古賀はこの後佐賀藩大参事、伊万里県参事、佐賀県参事となったが、県民の反感を買って明治五年に免官になった。維新直後の明治政府は財政難だったから、年貢取立てのためには幕府以上に無理難題を通した。おそらく有能な官僚だっただろうが、政府方針を忠実に実行しようとすれば民衆の反対にあったのである。孫に山村聰がいる。
     百姓一揆といえば江戸時代と思うが、明治維新から十年間に起きた一揆件数は四百九十九件に達する。一年平均約五十件は多いか少ないか。江戸時代を通じて全国での一揆件数は約三千件と言われ、二百六十五年で割れば年平均十一件になるから、比較的に多いと言って良いだろう。維新政府の政策によって、農民の負担は幕政時代よりも重くなり、特に明治六年(一八七三)の地租改正や徴兵令に対しては、全国的に大規模な一揆が発生した。
     そして一揆に竹槍が登場するのは明治になってからのことである。江戸時代の一揆では農民は鋤や鍬は使っても、竹槍や刀は使用しなかった。藤木久志『刀狩り』が明らかにしたように、秀吉の刀狩は農民から武器を取り上げたのではなく、公然と帯刀する資格を明確にした(兵農分離による武士身分の確定)だけだから、農村に刀は大量にあった。それでも一揆の際に刀を使用することはなかった。維新を境に、権力と農村との関係が大きく変わった。言い換えれば権力が圧倒的な暴力を駆使するようになったのである。
     「この線路は拝島線ですか?」西武線であることは間違いないが、この辺りは支線が多くて私には判断できない。「向こうが小平ですから。」それなら新宿線だ。頭に赤いバンダナを巻いた地蔵の背後にはビヨウヤナギが咲いている。

     蘂揺ゆらす美央柳や地蔵さま  蜻蛉

     丸亀製麺がある。「こっちのうどん屋の方が繁盛してるじゃないか。」私は讃岐うどんを食べたことがない。そもそも生醤油をかけるなんていうのは私の発想にない。ダシを作る手間を省いただけではあるまいか。ただ丸亀製麺が本場讃岐うどんそのものかどうか知らない。しかしマリオは「チェーン店の中じゃ私はここだけ」と言う。
     「ふるさと村は寄らなかったですよね」と桃太郎が訊いて来る。ロダンの時に入っているから今回は割愛したのだろう。新小金井街道を越えると延命寺に着く。真言宗豊山派。小平市天神町二丁目二九六番地。ここも以前に寄った寺だ。
     山門脇にショケラを持った笠付の青面金剛がいる。これも邪鬼は正面を向いて蹲っている形だ。大型の石灯籠には文昭院殿(徳川家宣)とあるので増上寺にあったものだ。西武線沿線の寺には増上寺の石灯籠がいくつも移されている。「以前にも言ってましたね。」六地蔵の真中に鎮座する聖観音が、「カラオケのマイクを持っているようでおかしい」と姫が笑う。
     白いアジサイが綺麗だ。「あの細長いのもアジサイ。」カシワバアジサイか。境内に細い用水が流れているのが気持ち良い。「桃太郎さん、梅の実が生ってますよ。」ヨッシーが梅の実を見つけて声を掛ける。五月に流山を歩いた時、桃太郎は未熟な梅の実を齧っていたのだ。その裏の植木で隠れた築山には七福神が配置されている。
     実は山門の外にある庚申塔が珍しいのだ。猿が三番叟を舞う姿だと言うが、能の教養がないので良くわからない。

     多摩地方にみられる変わり型三猿は、大きく四つのタイプにわけられる。その第一は、「扇子型」 と仮に名付けておくが、三猿が扇子を持つタイプである。代表的な事例は、青梅市千ケ瀬六丁目の宗 建寺境内にある文化九年塔台石に刻まれた三猿である。写真でもわかるように、烏帽子をかぶり、狩 衣を着て扇子で塞目・塞耳・塞口のポーズをとる。この系統のものは、青梅市黒沢一丁目野上指の文政五年塔や同市成木六丁目慈眼院の文化九年塔、あるいは小平市天神町・延命寺の嘉永三年塔や西多摩郡五日市町伊奈・山王宮下の弘化四年塔にみられる。これらの三猿像は、いずれも台石に浮彫りさ れている。この系統は着衣帯冠のものが多いが、そうでない三猿もある。青梅・成木の塔がその例でただ扇子だけを持っている。着衣の猿も細かに観察すると、同一方向に歩む五日市の塔、一匹だけは 逆向きの青梅・千ケ瀬の塔、中央が正面向きに座って両端が外側を向いて踊る青梅・黒沢の塔、座って踊るしぐさの小平の塔と変化がある。(石川博司『民俗の宝庫』「庚申塔物語・多摩地方の変わり型三猿」
    http://hoko.s101.xrea.com/koshinto/etc03.html)

     三番叟を猿が演じるのは、能がかつて猿楽と呼ばれたことを考えれば自然な発想だ。庚申塔に猿がつき物なのは、山王信仰の猿が庚申信仰と習合したからである。しかし見ざる言わざる聞かざるで、三猿は日本のものと思いきや、実は古代エジプトにあってシルクロードを辿って中国経由、日本に来たものらしい。ネット上でアンコールワット遺跡の壁画にある三猿を見ると、まさに日本の三猿と同じである。
     寺の隣(同じ境内と言って良い)には小さな神社がある。小平市天神町二丁目二九六番地。多摩野神社と言い、元々は牛頭天王を祀ったもらしいが現在の祭神は不明だ。「新しいな。」間口半間しかない社殿の観音開きの扉が洋風なのである。つまりドアであり、ちゃんと鍵までついている。
     車道には自転車の表示もあるのに、この辺の連中は平気で歩道を走るから危ない。たまに車道に自転車を見かけると、右側を走っている。暑さの中で一本道の街道を歩いていると、こんなことでも疲れてしまう。
     小平熊野宮前の信号の角には大きな鳥居が立っている。「泣き相撲は終わったんですね。」看板を見ると、六月四日に行われたようだ。ここから熊野神社の参道が百五十メートルほど続く。幅四十センチ程の用水に沿ってアジサイが咲いている。そして熊野神社に着く。小平市仲町三六一番地。ここははっきり記憶がある。神社の前の豪邸は宮司の宮崎氏の家である。

     当宮は、武蔵国多摩郡殿ヶ谷村鎮座の延善式内社・阿豆左味天神社の摂社として、 同郡岸村字岸組に産土神と奉斎されていた社を、小川村の開拓に着手した小川九郎兵衛と、阿豆左味天神社の神主で当宮社家の始祖である宮崎主馬が、寛文年間(一六六一~一六七二)に小川村明主の屋敷内に遷祀し、その後小川新田(現在の仲町、喜平町、学園東町、学園西町と上水本町の一部、上水新町)の開拓を行うのに先立って、その守護神として宝永元年(一七〇四)に榎の大樹のもとに祠を建立し遷座したのが縁起である。(掲示板より)

     社殿の前には対のケヤキが立っている。太鼓、神輿倉の中の太鼓は巨大なものだ。神輿師浅子周慶の札が立てられている。社殿の裏に回ると武蔵野乃一本榎が立つ。初代の榎は寛保年間(一七四二~四四)に枯木となり、二代目の榎も大正三年九月の暴風雨により倒れており、これは三代目になる。
     境内を出ると神門の脇に神水を出す龍がいる。あの日は雨が降っていたので、ここまで気づかなかった。「スイッチを押すんだよ。」八十メートル掘った井戸水である。流しっぱなしはもったいないから、水を使いたいときだけスイッチを押す仕組みだ。「終わったらスイッチ消さなくちゃ。」
     不思議なのは注意書きである。「ここは、御神水を頂戴するところです。手を洗ったり水遊びをしてはいけません。手や口を清める手水舎は、左側にあります。」私は口を漱いでしまった。「どういうことだい?」もしかしたら容器に水を入れるためだと言っているのではあるまいか。

     スイッチで神水流す梅雨晴れ間   蜻蛉

     「お茶、買いたいな。」桃太郎は仲町図書館の向かいにある狭山茶問屋の鈴木園に入って行く。小平市仲町五二二番地。明治三十七年創業の店である。さっきまで桃太郎はカキ氷を食べたいと言っていたのだが。店頭の台には様々な種類のティーバッグが並べてある。私はパックかバックかバッグかはっきり知らなかったが、バッグbagが正しい。
     「狭山茶って言ったって、この辺りには茶畑はないだろう。」ここは問屋だから、自前の畑を持っていなくても良い。但し東大和市は狭山茶の産地となっている。「抹茶クリーム大福が美味そうだけど、冷凍だから溶けるまで四十分かかるって言うからやめた。」スナフキンがこういうものが好きなのが実に不思議だ。姫もお茶を買ったようだ。
     仲町図書館(公民館と一体)は、外壁工事中のようなおかしな外観だ。工事中のように見えるのは銀色の網目になった鉄骨のせいだ。なんとなくくすんで、グレーのシートを被せたように見えたのである。しかも真っ直ぐではなく、斜めに歪んだ建物を組み合わせたような形をしている。「隈研吾じゃないよな、あれは木だから。」
     この建物の設計者は妹島和世。私はもちろん知らないが、様々な世界的な賞を受賞しているらしい。公民館と一体になっているのだが、平面図を見ると、四角な折り紙を適当に貼りあわせてデコボコさせたような格好だ。これはおそらく使いにくい。建築家に任せると、実用にならないおかしな建物を作られてしまうことが良くある。
     私の知っている図書館では、事務室が三階にあるのに搬入口もエレベーターもないところがあった。月一回の納品の度、ダンボールを抱えて階段を二三回往復するのはかなり手強いことで、若いから出来た。「あそこは図書館の名に値しないよ」とスナフキンは切り捨てる。事務室を作らなかった美術館もある。そのため、別の棟に事務室を別に確保せざるを得ない。設計段階ではトイレもなかったが、さすがにこれは職員の反対にあって変更した。現場の仕事を知らない建築家が作るとこうなってしまう。
     そのすぐ先が平安院だ。臨済宗円覚寺派。小平市仲町六七六番地。享保二丁酉年の合掌型青面金剛がある。門前にその拓本を掲げて説明している。小川新田成立以前ものと言う。

     享保九年(一七二四)五月、幕府の許可を得て開発に着手したこの地は、その後順調に進展し、本寺建立の年には移り住む戸数八十九戸に達している。
     ここにおいて、本新田の名主小川弥市は、小川寺六代の住職、省宗碩要禅師と図り、この地に寺院の建立を計画、閑叔碩三禅師を勧請して開山に迎え、江戸市ヶ谷河田町の月桂寺の境内にあった寺号を移し、遠渓山平安院と号した。(掲示板より)

     小川弥市は九郎兵衛の裔であろう。「その石仏は何ですか?」馬頭観音と読めた。ここから先、一キロ以上に亘って馬継ぎ場があったので、その名残であろう。ここからが旧小川村になるらしい。この寺はそれほど見るべきものはないが、少し休憩をとる。風が出てきて、帽子を飛ばされる。少し曇ってきたろうか。街道に戻る。「タイザンボクです。」白い大きな花だ。
     西武多摩湖線を渡ると右手が青梅街道駅だ。小平市小川町二丁目。駅舎の外観は豪農の長屋門の白壁をイメージしているだろうか。しかしホントにこの辺の西武線はややこしい。多摩湖線は国分寺から萩山まで、四駅四・六キロの区間を走る。「単線だね。」「隣が一橋学園駅だよ。」そこは確かエミちゃんの最寄り駅である。それにしても青梅街道駅とは大胆な名付けようではないか。この駅ひとつで青梅街道を代表しようと言うのである。
     昭和三十年頃の青梅街道の写真が掲示されている。街道の両側には樹木が生い茂り、バスが走っている。自転車の後姿が見える。
     「自販機が安い。」六十円からと書いてある。ちょうどお茶を切らしていた姫が喜んで買う。「それだって損はしないんだよ。」仕入原価を割らなければ、現金回収や補充は業者がやってくれるから手間は一切かからない。最近、この手の安売りの自販機が増えてきたろうか。
     武蔵野線新小平駅で休憩する。「そうか、ここまで戻ってくればいいんだね。」オカチャンは東大和からここまで三キロ程を戻ることに決めた。「乗換えが面倒だから。」私もちょうどお茶が切れてしまったので、自販機で百三十円のお茶を買う。「さっき買えば良かったな。」しかし私は周囲を見ていなかった。桃太郎は安い自販機を見つけた。少し悔しい。「こんなもので十円二十円節約しても、酒を飲むんだからね。」飴、煎餅が配られる。「バラが綺麗。」
     「それではもう少しです。」右に折れる道には鎌倉街道の表示がある。新東京自動車教習所(小平市小川町一丁目二三六四番地)脇の豪邸が小川邸だ。開発名主小川九郎兵衛から十四代に亘って小川村の名主を務めた家で、さすがに豪邸である。教習所も本来はその一部だったに違いない。「こっちも小川さんだよ。」一族であろう。今度は元中宿通りの表示だ。
     「テルメ小川って何?」「天然温泉だよ。俺は時々来るよ。」小平市小川町一丁目二四九四番地。この辺りはもうスナフキンの生活圏内である。大人は平日で八百二十三円、土日は千二十八円になる。「テルメって?」「テルマエのことじゃないの?」調べて見ると確かにそうだった。ラテン語でthermae、現代イタリア語でterme。温泉、共同浴場の意味である。

     小川寺はショウセンジと読む。臨済宗円覚寺派。小平市小川町一丁目七三三番地。この寺もまた小川九郎兵衛の開基になる。「ここは隊長の時に来たな。」平成二十四年五月の里山ワンダリングの時である。東大和市駅前の薬用植物園から武蔵野美術大学まで歩き、私とスナフキンはそこで半日券を行使して新宿まで行ったのだ。
     楼門は平成十一年(一九九九)に改築されたものだが、宝暦の頃の旧山門の様式を受け継いでいると言う。一階部分の左右には金剛力士。「立派だね。」正しい金剛力士らしい像である。中に入れば参道の左右に六地蔵。中門を潜ると十三仏も並んでいる。安行で見た古拙なものよりは立派で新しい。庭園に入る門の左には「当山鎮守正一位民安稲荷大明神」の小さな祠が祀られている。
     道教風(あるいは儒教風か)の石像を見ながら庭に入る。ザクロの花が赤い。ビヨウヤナギ、ハナショウブ。「逃げ水の里・三十三観音」の石仏が並んでいる。「ちょっと雨が落ちてきそうですね。」やや空模様が怪しくなったか。「雷が鳴らないうちに急ぎましょう。出発します。」姫は雷を心配して早々に寺を出る。
     この角を左に行けば武蔵野美術大学がある。「白梅学園大学もあるよ。」「そう言えば、会社に入社して一二年の頃、営業で行ってた。」「その頃と変わりましたか?」「全然覚えていない。」何しろ、仕事なんかまるでやる気がなかったのだ。小平には前回通り過ぎた嘉悦大学の他、津田塾大学、文化学園大学(昔の文化女子大学)もある。
     寺の向かいが小川神明宮だ。参道には夏越しの大祓の幟が何本も立っている。夏越しはナゴシと読む。「六月三十日って夏の終わりですよね。旧暦で四月から六月までが夏でしょう?」本来は旧暦六月晦日に行われた。新暦でやるから季節感がおかしくなる。一年の前半が終わる時期に大祓をするのだ。
     大祓は、スサノオが犯した天津罪を生きている人間が償い、清め祓うということになっている。スサノオの罪は、畔放、溝埋、頻播など田の破壊行為である。しかし折口信夫は、アマツツミは元は雨ツツシミであったと考える。

     端的に言うならば、あまつつみは、あめつつしみである。言い換えれば、ながめいみということだと思う。この言葉は万葉にもあって、雨づつみとも言うている。物忌みは、五月と九月との二度あって、そのうち、五月のが主である。それは、ちょうど霖雨(ながあめ)の時だから、これをながめするといい、さらに略して、ながむと言うた。この慎みの期間は、禁欲生活をせねばならぬのである。これが、平安朝の、物語にある、ながむという言葉の原であって、つまり、長い間の禁欲生活をして、ぼんやりしている。それがながめであった。(折口信夫『古代研究・民俗学篇』「古代に於ける言語伝承の推移」)

     今この本を読んでいるところだが、折口信夫は難しい。ところで、この説を信じれば、小野小町「花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」の「ながめ」も、単に眺めと長雨との掛け合いだけでなく、長い間男と交接していない嘆きを読み取る必要が出てくる。
     「茅の輪の準備をしてるんでしょうね。」茅の輪は牛頭天王と蘇民将来に由来するから、神明宮では関係ないと思うのだが、いまでは祭神に関係なくどこでもやっている。この神社ではスサノオも祀って八雲祭と言うのもやる。「以前、茅の輪を潜りましたよね。どこでしたかね。」二三度はある筈だが、姫が言うのは下谷七福神を巡った時だったかも知れない。潜り方について、八の字を書くようにとか講釈師がウンチクを垂れていた筈だ。

     この辺りは富士箱根火山帯の噴火による火山灰(関東ローム層)が幾重にも推積し、古歌にも『行く末も空もひとつの武蔵野に草の原より出ずる月かげ』(後京極摂政大政大臣)と詠まれ『逃げ水の里』とも云われる程水利に乏しい、生活に過酷な不住の土地でありました。
     未知の土地に移り住む人々の守護神として、明暦二年の開拓願いとともに神明宮勧請の願いが出され、五年後の寛文元年(一六六一)に、西多摩郡殿ヶ谷村(今の瑞穂町)鎮座の延喜式内社(平安時代以前からの古社)阿豆佐味天神社(アズサミノアマツカミノヤシロ)の摂社、神明ヶ谷の小高い山の中腹の神明社から分祠遷座されました。(小平神明宮鎮座の由緒)

     阿豆佐味天神社の祭神はスクナヒコナ、スサノオ、オオナムチ(オオクニヌシ)だから明らかに出雲系である。その神社からわざわざ摂社の神明宮(オオヒルメ=アマテラス)を分祀して、スサノオは末社に追いやられた。撫で牛もいるから天神も祀っている。
     草を植えたポリバケツのようなものを十個ほど並べ、水を入れ替えているオジサンがいる。「稲ですか?」「そうです。」
     鳥居まで戻るとちょっとした塚があった。「富士塚みたいだけど違うんですよね。」戦捷記念碑が立っている。「希典書ってあるよ。」「乃木希典ですか。」砲弾が立ててある。「戦利品っていうのもある。」日清日露の戦利品は各地の小学校や神社に寄贈された。戦意高揚のためである。この記念碑は明治四十二年(一九〇九)に建立された。
     街道の右側を用水が流れる。すぐ先の小平上宿の交差点で、左の方に立川街道が分岐する。その角が竹内家である。小平市小川町一丁目五八三番地。「大ケヤキが有名なんです。」寛文年間(一六六一から一六六七)に植えたものというから、樹齢は三百六十年になる。
     「隊長の時にも探したよな。そこの路地を入るんだ。」しかし周囲の屋敷には大きなケヤキが何本も立っていて、どれがそのケヤキなのか、実は良く分らない。前に来た時は路地に入ってちょうど畑仕事をしていた若奥さんに教えて貰った筈だ。確か五十メートル程入った所だったと思う。スナフキンがその路地に方に行こうとするが、姫はそのまま街道を歩く。街道に沿って、南北に細い路地がいくつもあるのが、短冊形に開発された農地の名残である。「それにしても豪邸が多いね。」「みんな農家だよ。」
     有楽製菓の工場は休みである。小平市小川町一丁目九四番地。「マーブルチョコレートだったかな?」スナフキンの記憶も当てにならないね。有楽製菓なんて私は聞いたことがない。「違う。あれは明治製菓だったんじゃないか。」上原ゆかりがCMをやっていて、小学校の遠足では定番の菓子だった。「あんな毒々しい色のもの、よく食ったよな。」「それを言えば、ワタナベのジュースの素だって。口中、真っ赤になった。」有楽製菓はブラックサンダーというものが有名らしいが、私には全く縁がない。
     そして青梅橋に着いた。野火止用水に掛けられた橋だが、今は暗渠になっていて、かつての欄干の一部が残されているだけだ。庚申塔を見る。切妻屋根の下に「奉納庚申供養」と彫った駒形の石が安置されている。右側面に「安永五歳申二月吉日」「北山くちみち 西おうめみち」、左側面に「東江戸道 南八王子」「武州多摩郡小川邑講中二十人」とある。裏はよく判読できないが「阿を免はし」とあるようだ。
     東大和市駅はすぐそこだが、まだ三時を少し過ぎたばかりだ。「どうしましょうか。いったん解散して東京薬用植物園に寄りますか?」なんだか今日は疲れているので、もうビールが飲みたい。二万歩。今日の感じでは一歩五十センチとしてちょうど十キロだろうか。東からほぼ西に一直線の変化のない道だから、感覚的に疲れたのだ。次回の待ち合わせ場所を確認して解散する。オカチャンは予定通り新小平目指して別れていった。ヨッーシとダンディは駅に入る。

     さてどうしようか。「駅の向こう側に何軒かあるよ。」駅前にはスケート場がある。その隣はボーリング場だ。右に磯丸水産があり、左には「横浜魚万」があった。「知ってる?」「知らない。だけど、磯丸水産と競ってるんだから高くはないだろう。」
     「あれっ、こんな椅子ですよ。」マリオが唖然とした顔をする。椅子はビールケースに座布団を載せたものだった。この時間なので店員はまだ一人しかいない。「私一人なので、料理はちょっとお時間戴くかも知れません。」「いいよ。取り敢えずビール。」お新香、枝豆、冷奴。手間のかからないものばかりを最初に注文する。冷たいお絞りが気持ちよい。ビールが美味い。「一刻者と黒霧島が同じ値段。」値段は同じだが、一刻者は四合瓶、黒霧島は五合瓶であった。「それじゃ一刻者にしよう、二本目は黒霧島と言うことで」。
     ロダンがリュックから『にあんちゃん』の文庫本を取り出した。荻窪を歩いた時、偶然その話題になったのだが、ロダンがわざわざ図書館で借りて来るとは思わなかった。マリオが知らないと言うので説明していると、突然涙が出そうになってしまった。マズイ。最近涙腺が緩んでいるのである。
     シシャモは自分で焼く方式だった。ガスコンロが私の脇に置いてあるから仕方がないが、こういうことの苦手な私に焼かせてはいけない。案の定、三匹は焦げ付いてボロボロになってしまった。元々ヤケに痩せたシシャモだったのだが。焼酎が二本空いて一人三千円也。
     「まだ明るいじゃないか。」ここでマリオは別れ、残った六人はカラオケを探す。「そこにカラオケアイランドがある。」「初めての店だけど大丈夫かな?」ドリンクバーが無料なのは有難い。「ワイン頼んじゃおうか?」スナフキンは赤ワインを注文する。
     最初はフォーク系ばかり続いて、桃太郎も吉田拓郎の『結婚しようよ』なんかを歌う。私は岡林信康の『チューリップのアップリケ』を歌った。「初めて聴きました」と姫が言う。ほぼ五十年振りだから実は細部が少し怪しくて、適当にごまかしてしまった。ロダンは絶好調だ。「全然、寝ないじゃないの。」
     「路線を変えていいかな?」佐々木新一を知っているのはロダンだけだったが、『あの娘たずねて』(永井ひろし作詞、桜田誠一作曲)は知っていても『リンゴの花が咲いていた』(横井弘作詞、桜田誠一作曲)は知らない。昭和の歌謡曲を愛するロダンにしては迂闊なことではあるまいか。但し歌詞は岡本敦郎『白い花の咲く頃』(寺尾智沙作詞、田村しげる作曲)の模倣である。「三橋美智也の弟子なんだよ。」赤ワインを二本空け、二時間歌って千五百円也。

     スネフキンはタクシーで帰ると言う。やって来た電車は西武新宿行きだった。私は小平で降りて本川越域に乗り換えた。他の連中は所沢経由で秋津に回る筈が、なぜかこのまま高田馬場に行ったらしい。
     乗り換え案内を検索すると、武蔵浦和方面に向かう経路はいくつもある。小川で国分寺線に乗り換え、国分寺から中央線で西国分寺、そこで武蔵野線に乗り換えるのがひとつ。萩山で多摩湖線に載って国分寺に行くのがひとつ。小平で私と一緒に本川越方面に乗り、所沢で池袋線に乗り秋津で歩いて武蔵野線に回るのがひとつで、これが一番安い。このまま高田馬場まで行く方法がひとつ。時間的には十分程度の差があるだけだ。
     桃太郎は高田馬場から新宿に出て小田急線に乗ったのだろうか。

    蜻蛉