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    青梅街道 其の六  東大和市駅から箱根ヶ崎
      平成二十九年十月十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.10.23

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     衆議院議員選挙戦序盤は自民党圧倒的優勢の予想で始まった。小池百合子と前原誠司の画策は完全に失敗だった。小池の強権的で危険な正体が暴露され、野党は分断された。森友、加計問題への批判、安倍政権打倒はどこに行ってしまったのか。各社の世論調査では、若い世代の自民党支持率が圧倒的に高い。これでは未来に何の希望も持てないが、それでも投票に行かなければならないか。「意思表示はしなくちゃいけない」と、私はいつもスナフキンや姫に叱られている。
     旧暦八月二十五日。寒露の次候「菊花開」。もう晩秋である。昨日から雨模様で、この雨は一週間も続くらしい。それに今日は最高気温が一気に十度も下がると言う。このところ痰が切れないのは、急激な寒暖の差に体が追い付いていけないからだ。家を出る時には雨は止んでいたが、折り畳み傘をリュックに入れた。ロダン、ハイジ、マリーからは欠席の連絡が入っている。雨模様だから参加者は少ないだろう。
     川越市駅で降りると、今日明日が川越氷川祭で露店の準備が始まっている。本川越で西武新宿線に乗り、小平で拝島線に乗り換える。西武拝島線は小平から拝島まで、ほぼ西に真っ直ぐ十四・三キロを走る路線だ。
     東大和市駅に着くと出掛けよりも寒い。裏付きのジャンバーを持ってきて正解だった。あんみつ姫も寒い寒いと声を震わせている。今日は桃太郎が山岳会メンバーの女性を連れてくるというので、皆期待していた。それがナオチャンだ。「元々は関西ですか?」「分かりますか。」「イントネーションがね。」最年少の参加者になる。
     そして今日の参加者はあんみつ姫、ナオチャン、ヨッシー、ダンディ、スナフキン、桃太郎、蜻蛉の七人になった。「俺は女房に車で送って貰った。電車だと乗換えがメンドクサイんだ。」スナフキンの家からなら直線距離で四キロ程度なのに、電車だと三路線乗り換えなければならないのだ。
     私は三多摩の地理に疎いので、まず東大和市の概要を掴まなければならない。ところで三多摩とは西多摩郡(瑞穂町・日の出町・檜原村・奥多摩町)、南多摩郡(八王子市・町田市・日野市・多摩市及び稲城市の大部分)、北多摩郡(都下のそれ以外の市)を指す。三多摩には入らない中野・杉並が東多摩郡だったなんて、今では連想する人も少ないだろう。

     北部に狭山丘陵、村山貯水池を擁する、人口約八万人のベッドタウン。市の西部に多摩都市モノレール線が南北に通り、南端に沿って西武拝島線が通る。表玄関にあたる南街には青梅街道が、また市の中央を東西に新青梅街道が走っている。
     第二次世界大戦中まで市の南部(現在の桜が丘)には、軍需工場の日立航空機立川工場があり、戦後にGHQに接収され大和駐屯地がつくられた。返還後の土地には昭和二十八年頃から平成十二年まで小松ゼノア立川工場(昭和四十年から平成十二年までは本店も同所に在った。現在は全て埼玉県川越市に移転済み。)が在り、他は有地、公有地として公園や教育・福祉関連施設、公団住宅などが建設されている。
     東大和市駅から青梅街道沿いの南街という地域は、そもそも日立航空機で働く従業員の為の社宅や学校、商店などを開発した地域である。当時地元民の集落が狭山丘陵付近にあったことから地元民から見て南にある街ということから南街(みなみまち)と呼んでいたものがいつの間にか南街(なんがい)と変わり現在の地名になった。(ウィキペディア「東大和市」より)

     東大和市駅の辺りは市の南端に当るのだ。田無からほぼ真西に歩いてきた青梅街道は、ここから北北東に折れ曲がる。箱根ヶ崎までは直線距離で十キロ程になるだろう。
     「その前に、コースは外れますが戦争遺跡を見たいと思います。往復約二キロです」。これは私も予習してきた。空爆を受けた建物が現存するのは珍しいので、是非見ておきたい。その後は青梅街道の奈良橋までは見るべきものもないので、駅に戻ってからバスで郷土博物館の辺りまで行くのが姫の計画だ。歩き出す前にバスの時刻を確認すると一時間に二本しかない。「十時四十三分に間に合うように急ぎましょう。」
     今のところ雨は大丈夫そうだ。「だけど必ず降るよ。今日は降ったり止んだりだろう。」駅からほぼ西に向かうのが桜街道だ。明治十五六年頃に植えられた桜並木は昭和二十年の空襲で壊滅した。戦後、市は桜並木を復活させて愛称を桜街道と定めたのである。「少し先に新興宗教があるよ。真如苑だ。」「真光系かな。」そうではなくて真言宗系を称している。新宗教は難しい。
     この道がかつての青梅街道だったとは後で聞いた。確かに田無方面から真っ直ぐの道で、現在の青梅街道が東大和市駅から急に北上するよりは自然だ。但し今では分断されているので歩き通すのは難しい。都営村山団地から日産自動車村山工場跡地を横断し、横田基地の中を通って青梅市成木方面へ向かう道筋だ。日産自動車跡地の三分の二は真如苑が買収した。
     中小企業大学校の東京校がある。これはそもそも何をする学校だろう。独立行政法人中小企業基盤整備機構によれば全国に九校設置され、中小企業経営者への研修や支援機関の担当者への研修を行っている。
     歩道を自転車が走っていく。「片道一キロってホントなの?玉川上水駅の方が近いんだから、もっと遠いんじゃないかな。」しかし拝島線の東大和駅・玉川上水駅間の距離は一・五キロだったから、姫の計画は正しい。イトーヨーカ堂の向かいはヤオコーだ。「最近この辺にもヤオコーが進出してきた。以前は知らなかったよ。」ヤオコーの本拠は埼玉県小川町で、店舗数も圧倒的に埼玉県内が多い。我が家の近くには結構ある。
     そのヤオコーの辺りに青年学校跡地の看板があった。「青年学校って?」ナオチャンが桃太郎に訊いているので、口を挟む。「中学校に進めなかった青年たちの教育機関だよ。田澤義鋪とか下村湖人も関係してる。」しかし、その名前をナオチャンは知らなかった。田澤義鋪は無理でも下村湖人は思い出せないだろうか。「『次郎物語』は知ってる?」「それって何ですか?」どうやら彼女は私たちとは相当な年齢差がある。古老になった気分だ。
     「小金井の浴恩館に行ったよな。」スナフキンが玉川上水を企画した時だ。(平成二十一年十一月の江戸歩き第二十六回のことである。)青年団の講習所で、下村湖人が所長を勤めていた。
     ヨーカ堂の隣が都立東大和南公園だった。東大和市桜が丘二、三丁目。「戦後は米軍基地になったんだ。」「こんなところに基地があったかな?」この辺から玉川上水駅までの敷地が、戦後米軍に接収され極東空軍大和基地となっていた。立川基地の軍人、家族の住宅や厚生施設があったらしい。昭和二十八年(一九五三)強制収用され、三十一年(一九六六)に開設した。返還されたのは昭和四十八年(一九七三)である。公園は昭和六十一年(一九八六)に造られた。
     公園内の歩道でベビーカーを押した若い母親が私たちを追い抜いていく。「あれだね。」四角い建物が見えてきた。回り込んで正面に向かうと、外壁は穴だらけだ。機銃掃射の跡である。爆弾を落としてから機銃掃射をするという念の入りようだ。一人も生かしておかないという執念である。

    東大和市文化財 史跡・戦災建造物
    旧日立航空機株式会社立川工場変電所
     この建物は、昭和十三(一九三八)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場〈立川発動機製作所〉に改名)の変電所です。
     北隣にあった設備で受電した六六、〇〇〇ボルトの電気を三、三〇〇ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。
     外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。
     工場地域への攻撃は三回ありました。最初は昭和二十(一九四五)年二月十七日、グラマンF6F戦闘機など五十機編隊による銃・爆撃。二回目は四月十九日、P51ムスタング戦闘機数機によるもの。三回目は四月二十四日、B29の百一機編隊による爆弾の投下で、あわせて百十余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。
     この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成五(一九九三)年十二月まで工場に電気を送り続けていました。(後略)
                   東大和市教育委員会

     農村地帯だった多摩地区は、昭和に入ってから軍需産業の工場地帯に変貌した。武蔵野台地の平坦な地形が広大な敷地を可能にしたこと、東西に走る中央線、それと並行する小田急線、京王線などの交通網が発達していたこと、農村地帯の労働力確保が期待できたことなどがその要因とされる。中島飛行機の大工場があったのもそのためで、私たちもその跡地は既に何ヶ所も訪れた。中島飛行機武蔵野製作所は昭和十九年十一月に最初の空襲を受けたが、日立航空機立川工場は昭和二十年に入るまで空襲を免れていた。
     入り口前の椅子に腰かけたオジサンが声をかけてきた。「今日はラリーだから中に入れますよ。」それは有難い。中には入れないと思っていたのだ。第六回東大和スイーツウォーキングが開催されているのだ。「市内で人気のスイーツ(和洋菓子パン等)取扱店の自慢の逸品を食べ歩くウォーキングイベント」に、何故この戦災遺跡が選ばれるのか謎である。
     「どちからかですか?」「あちこちから。」この問答を何度繰り返してきただろう。「このためにいらっしゃったんですか?」「青梅街道を箱根ヶ崎まで行く途中です。」「それは、それは。」ラリー参加者でなくても入って良い。解説もしてくれると言う。
     「それじゃ十分程説明しましょうか。」爆弾を落としながら米軍が撮影した写真が展示されている。「爆弾を落としながら、あいつらは写真を撮ってるんだな。」「戦果を確認するためですね。」ヨーカ堂の辺りには第五工場が建っていて、桜街道を挟んで北側には工場勤務者の住宅が並んでいた。「そうか、青年学校はその工員向けのものでしたか?」「そうです。」
     正式名称は旧日立航空機付属青年学校である。教育期間は五年の夜学で、工業学校程度の教育が行われていたようだ。最盛期には三千人の生徒がいたと言う。全国から徴用された工員であろう。さっきナオチャンと桃太郎に説明したことを訂正しなければならない。田澤義鋪や下村湖人が関係したのは青年団運動であり、青年学校とは別なものであった。知識が曖昧なので調べてみた。
     昭和十年(一九三五)青年学校令によって、従来の実業補習学校と青年訓練所が青年学校に統合された。中等学校に進学できなかった若年労働者を対象に、実業補修学校は主に職業能力実務訓練を、青年訓練所は軍事教練を施していた。昭和二年の兵役法では「現役兵ニシテ青年訓練所ノ訓練又ハ之ト同等以上ト認ムル訓練ヲ修了シタル者ノ在営期間ハ六月以内之ヲ短縮スルコトヲ得」と規定していた。ただこの二つには教育内容に重複する部分が多く、それが統合の理由となった青年学校令を見てみよう。

    第一条 青年学校ハ男女青年ニ対シ其ノ心身ヲ鍛錬シ徳性ヲ涵養スルト共ニ職業及実際生活ニ須要ナル知識技能ヲ授ケ以テ国民タルノ資質ヲ向上セシムルヲ目的トス
    第七条 普通科ノ教授及訓練期間ハ二年トス本科ノ教授及訓練期間ハ男子ニ在リテハ五年、女子ニ在リテハ三年トス但シ土地ノ情況ニ依リ男子ニ在リテハ四年、女子ニ在リテハ二年ト為スコトヲ得
     研究科ノ教授及訓練期間ハ一年以上トス
    第八条 普通科ニ入学スルコトヲ得ル者ハ尋常小学校卒業者又ハ之ニ相当スル素養アル者トス(つまり普通科は高等小学校に相当するだろう)
     本科ニ入学スルコトヲ得ル者ハ普通科修了者、高等小学校卒業音又ハ之ニ相当スル素養アル者トス(これが中等学校になる)
     研究科ニ入学スルコトヲ得ル者ハ本科卒業者又ハ之ニ相当スル素養アル者トス
    第九条 普通科ノ教授及訓練科目ハ男子ニ在リテハ修身及公民科、普通学科、職業科並ニ体操科トシ女子ニ在リテハ修身及公民科、普通学科、職業科、家事及裁縫科並ニ体操科トス
     本科ノ教授及訓練科目ハ男子ニ在リテハ修身及公民科、普通学科、職業科並ニ教練科トシ女子ニ在リテハ修身及公民科、普通学科、職業科、家事及裁縫科並ニ体操科トス研究科ノ教授及訓練科目ハ本科ノ教授及訓練科目ニ就キ適宜之ヲ定ムベシ但シ修身及公民科ハ之ニ欠クコトヲ得ズ

    昭和十年の実業学校を含む中等学校進学率は十八・五パーセントに過ぎなかったから、八割以上の国民は尋常小学校四年か、高等小学校までの六年を終えて社会に出た。これが兵士として充分ではないと判断されたのではないか。青年学校は義務教育化を目指し、建前としては国民の大部分に中等教育を施すことを目的としたが、実態は戦争の激化につれて空洞化していった。
     周りの建物は全て倒壊したのに、この建物だけが残った。たまたま変電所の正面に煙突が三本立っていて、それが機銃掃射の邪魔になったのだろうとガイドは言う。無数の弾痕を曝して唯一つ残っている姿は、無数の矢を受けても立ち続けた弁慶の立ち往生を髣髴させる。

     雨冷えや弾痕数多なほ立ちて  蜻蛉

     「住宅には爆弾を落とさなかったんです。」それは東京大空襲と違うところだ。幹部は一戸建て、普通の行員は四軒長屋に住んでいた。戦後、それを改造して住んでいる人が多かったとも言う。「当時、工員は女性が多かったんです。」男は戦争に駆り出されているから、動員された女学生が中心だったろう。展示されている死者の名簿を見ても、やはり女子の名が多い。隣の小部屋に入れば、銃弾が貫通して穴が開いている壁もある。小松ゼノアが移転するまで使っていたらしい機械もそのまま残されている。私は機械に疎いから、何をするものか分らない。
     変電所の辺りは米軍に接収されなかった。接収されていればこの建物が残ることはなかっただろう。それにしても、この建物を原状そのままで平成五年まで使い続けた会社も立派だし、それをこうして残している東大和市にも敬意を表したい。こんな貴重な戦災遺跡があるのは全く知らなかった。ただ保存のためにはある程度の修復は不可欠で、そのための基金を募集している。僅かばかりで申し訳ないが募金箱に百円を投じた。
     建物の横には広島から贈られた「被爆アオギリ二世」が立っている。それは何であるか。「イイギリとアオギリの区別が難しいんですけどね。」私はハナから区別なんかできない。

    この被爆アオギリ二世の親木のアオギリは、爆心地から北東一・三キロメートルにある旧広島逓信局(広島市中区東白島町)の中庭で被爆しました。爆心地側の幹半分が熱線と爆風により焼けてえぐられましたが、焦土の中で青々と芽を吹き返し、被爆者に生きる希望を与えました。その後、このアオギリは昭和四十八年(一九七三年)に平和記念公園内に移植され、今でも樹皮が傷跡を包むようにして成長を続けています。被爆アオギリ二世は、このアオギリの種から育てられたもので、「平和を愛する心」、「命あるものを大切にする心」を育み、平和の尊さを伝えるとともに、過ちを再び繰り返さないよう、被爆の実相を後世に伝えます。(日本非核宣言自治体協議会)

     裏手に回ると、コンクリートの表面が剥落して基礎が露出している部分もある。爆撃の痕だろう。芝生に鉄線や碍子等で造ったオブジェが作られている。「何の意味があるんだ?」「廃墟をイメージしてるんじゃないかな。」

     それでは駅に戻ろう。「四十三分は間に合いませんね。」十分程で駅に着き、停留所の時刻表を確認する。「何時ですか?」次は十一時十三分だ。「あと十分だね。」予定よりは三十分遅れたが、今日はあれを見ただけで既に充分価値がある。
     「八幡神社で降ります」。ほぼ満席のバスは青梅街道を北上して行く。後ろの座席はまだ少し空いているが、姫は先頭に立っている。「こっちが空いてるよ。」「姫は後部座席が苦手なんだよ。」そうなのか。外を眺めていると、確かに見るべきものはなさそうだ。傘をさした人が歩いている。やはり降り出したか。
     市役所があるから、この辺りが市の中心なのだろう。新青梅街道との交差点は奈良橋庚申塚である。地名だけ見れば寄ってみたいところだが、新青梅街道拡張工事で塚は潰されたようだ。更に進んで奈良橋の交差点を左に曲がり、ここから青梅街道は西に向かって伸びている。すぐに八幡神社前に着いた。
     バスを降りて歩き始めると、リュックを背負った地元の(?)オジサンが声をかけて来た。「どこから来たんだい?」「埼玉とか東京とか色々。」「俺も昔は埼玉に住んでた。どこに行くんだい?」「箱根ヶ崎まで。」「瑞穂だな。それは大変だ。」せっかく歩道があるのに、オジサンは車道を歩いて去って行った。
     着いたのは雲性寺だ。東大和市奈良橋一丁目三六三番地。永享十一年(一四三九)創建、真言宗豊山派である。駐車場隅のコスモスがちょうど見頃だ。「狭山三十三観音霊場だってさ。」「西武が作った札所だよ。」私はどうもいい加減だが、西武が関係していたのは武蔵野三十三観音霊場だった。ここ狭山観音霊場は天明の頃(一七八一~一七八九)に始められていた。江戸期には札所廻りが大流行し、江戸三十三箇所、山の手三十三箇所、深川三十三箇所等、あちこちに作られたのである。
     山門の下には庚申塔と馬頭観音文字塔、それに何か分らない小さな石碑が並んでいる。これらはさっきの奈良橋庚申塚から移設したものだった。「これが馬頭観音ですか」とナオチャンは庚申塔に目を向ける。「違うんだ、これは青面金剛。」私たちの間ではお馴染みでも、青面金剛を知っている人は多くない。庚申塔の説明を始めると長くなるのでやめたが、六臂であること、三猿、邪鬼、日月を教える。ナオチャンは一所懸命メモをとる。私は読めなかったが、「武州多摩郡村山郷奈良橋村施主講中 享保十六年辛亥霜月吉祥日願主法印傳翁」とあるらしい。
     二十段ほど登って黒塗りの山門を潜る。この山門は東海道箱根宿の本陣から貰い受けたと言う。「箱根の本陣ってどこだったかしら。」ナオチャンが首を捻る。桃太郎も私も分らない。箱根を歩いた時もそんな表示にはお目にかからなかった。調べて見ると箱根宿には六軒の本陣があったと言うが、その正確な場所は分らない。箱根ホテル(富士屋ホテルアネックス・箱根町箱根六五)、夕霧荘(箱根町箱根一三八)、茶屋本陣畔屋箱根町箱根一六一)が本陣跡地だと主張している。
     黒瓦の本堂はなかなか立派だ。本堂には阿字庚申を安置していると解説されても見ることはできない。ネットを検索していて、住職に頼んで見せてもらったという記事を見つけた。

     暫く待っていると片手で掴んで持ってきてくれた。それは三十四センチ×二十センチほどのもので庚申塔とはとても呼べないほどのものであった。
     元からあった場所にはもう台座も無くなっているとのこと、こんなものだからと、盗難にあうかもしれないから引き上げたのだという。もともとあったという六地蔵の脇においていただき写真を撮らせていただいた。月輪にア字とその下に三猿がいる。裏側には正徳六丙申三月法印傳栄とある。傳栄とは雲性寺の中興の祖であるという。(「石仏を訪ねて・奈良橋庚申塚」http://gyumei.blog87.fc2.com/blog-entry-104.htmlより)

     山門を潜らず脇から出たために、姫はちょっと道を失ったがすぐに思いだした。次は東大和市郷土博物館だ。東大和市奈良橋一丁目二六〇番二号。モダンな建物にプラネタリウムが隣接していて、これが郷土博物館の売りである。
     「これが面白い」とスナフキンが誘ったのは東大和の年表の前だ。「韮山県だぜ、ずいぶん遠いよな。」「江川太郎左衛門だからね。」慶応四年の発足時には韮山代官所の江川英武(英龍の五男)が知県事を務めた。多摩郡は韮山県と品川県との間で境界が揺れていたのだ。明治二年、品川県との間で多摩郡の管轄調整が行われた。明治四年、相模国・伊豆国は新設の足柄県に移され、武蔵国の入間郡・多摩郡・高麗郡・比企郡は新設の入間県に移って、韮山県は廃止された。品川県も入間県と東京市に分割されて廃止になった。
     一階の企画展示は吉岡堅二だ。と言っても私は全く無知なので、ウィキペディアのお世話になるしかない。

     東京都本郷の生まれ。父は日本画家吉岡華堂。野田九浦に師事する。藤田嗣治の友人の洋画家高崎剛の留守宅を借りて住んだ際に制作した「奈良の鹿」で、わずか二十四歳にして帝展特選となる。福田豊四郎・小松均と山樹社、豊四郎・岩橋英遠らと新日本画研究会を、さらに新美術人協会を結成し日本画の革新運動を展開、大胆なフォルムの豪快な作風で画壇に新風を送り込んだ。戦後は、山本丘人・上村松篁・豊四郎・高橋周桑らと創造美術を結成、西洋と東洋を融合させた常に新傾向の日本画を追求し続け「伝統日本画の亡霊と闘う画家」と評された。一九七一年日本芸術院賞受賞。東京芸術大学教授(一九六九年退官)。

     吉岡堅二は昭和十九年(一九四四)から平成二年(一九九〇)まで東大和市に住んでいたのである。私は絵については全くの門外漢だが、雲崗大露仏の下絵が気になった。ヨッシーは熱心に見ている。「それじゃ出発しましょう。」外に出た姫とヨッシーは何故か上村松園を話題にする。青梅街道に戻りこのままガストに向かうと思って歩き出すとダメがかかった。
     「その前に熊野神社に行きます。」東大和市蔵敷一丁目四一九番地。武蔵国多摩郡蔵敷村鎮座である。石段の前半部分の段差がやたらに高い。上りきると、小さな祠があった。崖の周囲は竹林だ。

     縁起創立ともに不詳であるが、蔵敷の鎮守である。一説によると蔵敷一の素封家、内野家の祖秀勝が同家の鬼門除けに勧請したとも云われている。又内野家の伝えによると、同市蔵敷三六七に鎮座する厳島神社が永禄年間前後の創建と云はれるところから、同一時期に創建されたものとも考えられる。
     村山丘陵の南面、頂近くにあって静寂幽遠で、大正時代までは参道の階段は土段に杙を打って土留めをしてあったが、昭和九年にコンクリート造りに改めた。(北多摩神社誌より)

     蔵敷はゾウシキと読む。境内に見るべきものは余りない。もう飯に向かって良いだろう。十二時二十分、ガストに入る。ダンディはサンドイッチを買ってきたと言うので、店には入らず外で食べるらしい。五分程待たされてから四人席二つに六人が座った。このシーズンはどこでも牡蠣を宣伝しているが、私は生姜焼き御膳にした。「ビールはどうする?」訊かれれば飲まないわけにはいかない。スナフキン、桃太郎と私が中ジョッキ、姫はグラスビールにした。オムライスを注文してしまったスナフキンが、「ビールに合わなかったな」と後悔している。
     途中でダンディが戻ってきてドリンクバーを注文した。割引チケットの件でちょっと混乱したが、ドリンクバーなら割引を要求するような額でもない。ナオチャンは、三杯飲んでしまいましたと笑う。
     一時十五分に店を出る。斜向かいの内野医院の前の蔵敷停留所には高札場跡がある。切妻屋根を載せた高札場の脇に石碑が建っていて、慶長八年(一六〇三)に建てられたもので、都内に残る高札場は府中とここの二箇所だけだと記している。そう言えば府中の高札場は一度見ている。レプリカでも良いから高札を掲げて置いてくれたら良かった。ただ大抵のところで残っているのは慶応四年の切支丹禁制を維持する太政官高札で、さっきの郷土博物館でも実物はそれだった。調べてみると切支丹禁制の高札にも二種類あったようだ。

       定
    きりしたん邪宗門之儀ハ堅く御制禁たり若不審なるもの有之者其筋の役所江申出べし御 ほふび下さるへく事
      慶応四年三月     太政官

    これは見たことがない。記憶があるのは下記だ。

          定
    一、切支丹宗門之儀は是迄御制禁之通、固く可相守事
    一、邪宗門之儀は固く禁止候事
       慶応四年三月    太政官

     「この内野さんがこの辺の名主でした。」蔵敷村の名主である。三多摩は豪農主導の民権運動が盛んで、それを押さえるために神奈川県から東京府に移管されたのは、スナフキンも姫も知っている。嘉永六年(一八五三)に生まれた内野杢左衛門(代々襲名)も有力な活動家で、吉野泰三(多摩郡野崎村名主)、砂川源五右衛門(本姓村野氏・多摩郡砂川村名主)等と民間憲法草案を立案した。また内野家に伝わる天正からの『里正日誌』を編纂した。こういう努力は貴重である。
     私擬憲法について、私たちの高校時代には植木枝盛の憲法草案が、抵抗権とともに教科書に記載されていた。今では色川大吉が発掘した五日市憲法草案(千葉卓三郎起案)を代表として、全国各地の民権家がそれぞれ独自に草案を作っていたことが知られている。しかしそれらは大日本帝国憲法には殆ど引き継がれなかった。そして運動を主導した指導者たちの大部分はやがて国権主義者に変貌していく。民権から国権へという流れは日本近代精神史の重要なアポリアで、それは現在にも通じている。
     「俺は色川の『新編明治精神史』を持ってるよ。箱入りのやつ。」この辺についてはスナフキンと関心が合致する。私は「新編」を買った後、旧版(講談社学術文庫版)も買った。他に『流転の民権家・村野常右衛門伝』等、自由民権運動に関する私の知識は殆ど色川大吉に負っている。七十年代から八十年代にかけて色川大吉はスターだった。「俺も十冊ほど持ってる。『シルクロード悠々』も面白かったよ。」私も読んでいる。色川が提唱した「未発の契機」という概念は私に大きな影響を与えた。押し潰され敗れ去った歴史ではあっても、その可能性を掘り起こすことで未来を切り開くと言う発想である。
     そして八十年代から九十年代にかけてのスターは網野善彦だったと言えるだろう。「営業で神奈川大学に行ってた頃、網野善彦には会ったよ。腰の低い人だった。」それは羨ましい。網野は西洋中世史の阿部謹也と共に、日本に社会史の概念を持ち込んだが、「無縁」や「公界」の規定には飛躍が多すぎると学界の評価は必ずしも高くない。網野は影響されなかったと言っているが、リュシアン・フェーヴルとマルク・ブロックが始めたアナール学派(『社会経済史年報 Annales d'histoire économique et sociale』に拠った)を意識しなかった筈はない。『蒙古襲来』、『異形の王権』、『海の国の中世』、『無縁・公界・楽』他著書は多い。「『古文書返却の旅』も面白いぜ。」これは私は読んでいない。
     私が大きく影響を受けた歴史家は、この色川、網野と恩師藤木久志の三人である。それぞれ方法論は違うが、民衆の視点、社会史の視点を失わないのは共通している。
     青梅街道に関係ない話を書き過ぎた。ただ少しでも多くの人に歴史に関心を持って貰いたい。それが、歴史の教師を志しながら途中で放棄してしまった私の自責でもある。歴史を知ることでしか、歴史修正主義者のまやかしに対抗することは出来ない。歴史の研究に偽りを持ち込まないための、非常に地味な、職人の手仕事にも似た史料解読の努力について、マルク・ブロックは『歴史のための弁明』に詳細に描いた。

     民家の蔵の脇に柿が実っている。「甘柿ですよね。」「もう鳥に食べられちゃうね。」すぐに厳島神社に着いた。東大和市蔵敷一丁目三六七番地。鬱蒼とした森の中に階段が続いている。この辺は街道の北側に小高い森が続いており、神社はその丘にあるため必ず階段を上らなければならない。その奥には多摩湖(村山貯水池)が広がっている。「私はここで待っています。なるべく早く降りてきて下さい。」階段を上ると、その正面には切妻平入りの小さな社殿があるばかりだ。中を覗き込むと小さな本殿が見えた。

     内野家の伝承によると、永禄年中宗春という人が、私有地に祠を建て奉斎し、天正度の検地に貢租を免ぜられたという。後代の秀勝が新規に祠を造り替えをしたのが宝暦八年四月二十五日であった。爾来内野家一統の守護神として尊んだ。更に天保六年十一月十八日、重泰一族と謀り、祠としてはあまりに勿体ないと今度は本建築の相談がまとまった。
     つまり現存の本殿で間口二間半、奥行二間の神社建築としては小規模であるが、美事な彫刻まで施されている。天保九年四月一日遷座式を挙行。旧称弁財天。今もって土俗の信仰厚く、時には遠来の報賽人があると聞く。明治になって厳島神社の神号に改め、村の神社として移管され蔵敷村に二社存在することになった。(北多摩神社誌より)

     ここも内野氏の創建である。芋窪交差点を過ぎると豊鹿嶋神社だ。東大和市芋窪一丁目二〇六七番地。街道脇に解説板が設置されているが、色が褪せてしまって全く読めない。参道にはフクロウの像がある。その脇の「鹿嶋の大欅」は枯れ果ててしまっている。百メートル程の参道を抜けて境内に入る。「今日一番立派な神社だね。」境内も広く、拝殿も立派だ。但し東京都有形文化財に指定されている本殿は、覆殿ですっかり隠されていて見ることができない。そこに木彫りの狛犬が安置されているらしい。木彫りの狛犬と言うのは非常に珍しいのだ。

    豊鹿島神社
    主祭神名 武御加豆智命
    御創建
     第四十二代、文武天皇の慶雲四年(七〇七)夏八月
     社殿像立、第三十八代 天智天皇第四の姫、及蘇我倉山田ノ石川麿
    都重宝(建造物)
     御本殿付棟札、天文十九年建立の記がある。新編武蔵風土記稿(巻一二〇)によると文正元年の棟札の存したことが記されているので天文十九年は再建であろう。
    例祭日九月十五日
    境内末社。日吉神社、産泰社、稲荷神社、愛宕神社、白山神社
    鹿島の要石。御本社南方約三丁余(北多摩神道青年会掲示より)

     文武天皇とか天智天皇、蘇我倉山田ノ石川麿なんて到底信じられない。もしそれが本当なら延喜式神名帳に載っている筈で、そんな記載はどこにもない。但しこの辺りで最も古い神社であることは間違いないようだ。「この間は鹿島に行ったんですか?」「鹿島は行かなかった。行ったのは香取だよ。」佐原散策は桃太郎には遠過ぎて参加できなかったのである。

     いつの間にか雨は止んでいる。「ここから武蔵村山市に入ります。」「武蔵村山と東村山と、ややこしいよ。」「村山党の本拠地です。蜻蛉の好きそうな話題ですね」と姫が笑う。武蔵村山、東大和、東村山一帯はかつての武蔵七党の村山党の本拠地、多摩郡村山郷である。村山党は秩父平氏を称しているが仮冒であろう。

     いわゆる武蔵七党の一つ。野与党とともに桓武平氏に系譜を引くとされ、『武蔵七党系図』には平忠常の弟胤宗の子基宗が野与氏を称し、基宗の第二子頼任を村山党の始祖と伝える。また『相馬系図』では胤宗は忠常の子とされ、系図により異同がある。村山党は武蔵国村山郷を拠点とし、西多摩郡の東端から北多摩郡・入間郡一帯(狭山丘陵・狭山湖・多摩湖を中心に、東京都・埼玉県にわたる地域)に勢力を張った「党」的武士団であった。村山党を構成する氏族は、宮寺・山口・須黒・仙波・久米・荒幡・大井・難波田・金子など十数氏が知られる。『吾妻鏡』治承四年(一一八〇)八月二十六日条に「金子・村山輩」が河越重頼らとともに三浦氏攻撃に参加したことがみえ、「党」的武士団としてその活動が知られる。村山党の金子一族の中では、源平の争乱期、源義経に従って西海に転戦した金子十郎家忠が有名である。(『国史大辞典』)

     多摩郡は明治以降、品川県、韮山県との境界調整を経て、神奈川県に組み込まれた。明治二十六年(一八九三)に東京府に移管され、大正六年(一九一七)には北多摩郡中藤村・三ツ木村・岸村が合併して北多摩郡武蔵村が発足した。市制移行の際、山形県に村山市があるため武蔵村山を名乗ることになった。
     一方、東村山はそれより先の明治二十二年(一八八九)に北多摩郡野口村・廻田村・大岱村・久米川村・南秋津村が合併して東村山村となっている。村山郷の東部に位置するからだ。つまり武蔵村山より東村山の方が古いのである。
     因みに東大和市は、神奈川県北多摩郡清水村、狭山村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、芋窪村などが合併して大和村としたのが始まりだ。奈良県(大和)とは直接の関係はなく、大同合併に際して争いが起きないようにという趣旨だろう。昭和四十五年(一九七〇)の市制移行の際、神奈川県大和市と区別するため、「東京の大和市」の意味で東をつけた。
     コンビニでトイレ休憩をする間、ヨッシーがミカンを配ってくれる。今年初のミカンだ。この時期としては甘い方ではないだろうか。
     すぐ先が八坂神社だ。武蔵村山市中藤五丁目八十六番一号。「祇園さんですね」とナオちゃんが言い、「そうか、関西の人は祇園さんなんだ」と桃太郎が納得している。祇園の名は、牛頭天王が祇園精舎の守護神とされることに由来する。ただ仏教由来の言葉だから、明治の神仏分離で祇園の社名は忌避され、スサノヲに由来する八坂神社、八雲神社、須賀神社、天王神社などと改名させられた。この系統の総本社である京都祇園社(京都府東山区祇園)も八坂神社となったのだが、地元では今でも祇園さんの名で呼ばれているようだ。

     祭神 素盞嗚尊 建立年代は不明ですが、境内に弘化二年(一八四五)建立の常夜灯があります。また、立皮の桜と呼ばれる幹回り二メートルに及ぶ桜の名木があります。(むさしむらやま歴史散策東コース掲示より)

     垣根に白い花が咲いている。「お茶の花が可愛い。」次はまた熊野神社だ。武蔵村山市中藤三丁目二十三番一号。それにしても神社の多い土地だ。「今度は階段が少ないので私も行けます。」

     江戸時代は真福寺持ちでしたが、明治時代になって愛宕神社と合祀し、谷ツの鎮守となりました。社殿内には、「指田日記」の著者指田摂津正藤詮の筆による熊野権現の額が掛けられています。また、境内に新道開通(中藤学供西側の道路)の記念碑が建立されています。(武蔵村山市教育委員会掲示より)

     境内に入ると、十段ほどの石段の上に小さな祠がいくつか並んでいる。正面が熊野神社だとは分るが、他の社は文字が消えてしまって読めない。「砲弾でしょうか?」右脇に砲弾のようなものがたち、「日露戦役記念」と浮き彫りにされている。「オブジェですね。砲弾じゃない。」
     「神様は大したもんなんだよ。」いつの間にか、見知らぬオジサンが声をかけてくる。なんでも大木が倒れた時、祠を避けて林の側に倒れたと言うのである。「見えなくてもいるんだよ。」
     神社を出ると道路脇に小さな馬頭観音像が建っている。横に立つ標石には、願主は相州三浦郡水戸邑の恵信とある。観音像はかなり磨耗していて、この標石がなければ青面金剛と間違えてしまいそうだ。
     街道は左にカーブしていく。今度は入り天満宮だ。武蔵村山市中藤一丁目五十番一号。小さな公園の中に、小さな祠が建っているのだ。「鳥居が随分低いんじゃないですか」とナオチャンが気付いた。屋根付きの鳥居だが、木造の柱が極端に短いのだ。おそらく根元が腐って短くしたのを台石に嵌め込んだのではなかろうか。「入り」はどうやら地名である。「小銭がなくなってお賽銭があげられない。」桃太郎が嘆いていると姫が百円を両替してくれた。「こんなに信心深い人だと知りませんでした」とナオチャンが笑う。
     真福寺の入り口には枝垂れ桜の枝が覆いかぶさるように垂れている。武蔵村山市中藤一丁目三十七番一号。真言宗豊山派。木立の中を通る苔生した石畳の参道は風情があるが、今日は滑りやすい。その奥の楼門は立派だ。

     龍華山清浄光院真福寺と号し、奈良時代和銅三年(七一〇)、行基によって創建され、その後、承久二年(一二二〇)に落雷によって焼失したと伝えられる古刹です。
     正応三年(一二九〇)に、龍性法師(または瀧性法師)によって中興開山されました。
     現在の本堂は、安永七年(一七七八)の建立で本尊は薬師如来、板戸の十六羅漢画や格天井花鳥画(市指定有形文化財)は、天保十年のころ青梅の人石川文松によって描かれたものです。江戸時代の建立とされる山門には、寛永十五年(一六三八)鋳造の梵鐘(市指定有形文化財)が収められています。観音堂も江戸時代の建立と伝えられ、狭山二十番札所で、江戸時代の中頃から奉納され始めた百体観音が安置されています。(武蔵村山市教育委員会掲示より)

     「アレッ、ヤマブキじゃないかな。」「そうですよね、ヤマブキです」とナオチャンも頷く。季節はずれも甚だしい。

     参道の石踏み行かば返り花  蜻蛉

     楼門を潜ると線刻の仏像がいくつも並んでいる。「これは誰でしょう、菅原道真かな。」衣冠束帯だから仏像ではない。「聖徳太子でもないですよね。」さっきの入り天満も真福寺餅だから、やはり桃太郎の言うように菅原道真かも知れない。
     本堂の前には結界が張られ、雨戸はすべて閉ざされている。だから折角、以下のような解説があっても見ることが出来ない。

    真福寺本堂の格天井に描かれている花鳥画が、宗祖弘法大師の一千年ご遠忌の記念事業として天保十年(一八三九)檀家及び末寺の協力により完成した。一般には、百花百鳥といわれ、百枚に花、九十九枚に鳥、一枚に竜が描かれている。これに関連する古文書として「天井彩色勧化帳」(天保十年)が当寺に保存されている。
    作者は石川文松で現青梅市に生まれ、多摩や入間地方を中心に活躍した画人であり、当寺には花鳥画のほかに同人作の「板戸の十六羅漢画」が残されている。(武蔵村山市教育委員会掲示より)

     金灯篭の火袋に四天王が浮き彫りになっているのは珍しいのではなかろうか。「これもスゴイぞ。」松の枝が横に長く伸びている。脇に立つ石造の蔵も珍しい。「宝物を収めてるんでしょうか。」
     大曲り交差点の少し手前で姫が立ち止まる。「ここに渡辺酒造があったんです。下見の時に、ないのでびっくりしました。」明治十年に酒造りを始め、「吟雪」を作っていたが、平成十九年(二〇〇七)に廃業したのである。おそらく姫はここでご主人への土産を買う積りだったのだろう。営業していた当時は試飲もできたらしい。
     街道は大きく右にカーブし、再び西に向かう。次の信号の角を曲がったところに、小さな祠があるのが原山の地蔵尊だ。武蔵村山市中央三丁目五十六番一号先。享保四年建立。祭りの際に人が殺され、それを供養するために建てられたと言う。
     六つ指地蔵尊は発見できなかった。後で調べてみると、原山地蔵尊から街道に戻らず、その脇から街道に平行して少し行ったところ、原山公会堂の奥にあるようだ。武蔵村山市中央三丁目七十三番三号。所の地頭にどうしたわけか六本指の娘が生まれた。年頃になって世を果敢なんで自殺した、その娘を供養するために建てられた地蔵である。
     指田医院は旧家である。武蔵村山市中央三丁目五十番一号。屋敷の門構えが立派で、その脇に「指田日記」の解説がある。中藤村の陰陽師で原山神明宮の神職でもあった指田摂津正藤詮が天保五年(一八三四)から明治四年(一八七一)まで書き続けた日記である。

    日記には、陰陽道や神職としての活動内容だけでなく、中藤村で起きたさまざまな事件や年中行事、冠婚葬祭、天気などについて書かれており、江戸時代末期から明治時代初期にかけての武蔵村山の様子や生活文化について知ることができます。(武蔵村山市)

     街道には次第に商店が目立つようになって来た。空堀川を越える。「これが一級河川?」とても「一級」には見えない。「この辺は上流だから細いけど、段々川幅が広がるんですよ」というのはヨッシーである。川幅によって決まるのだろうか。「一級と二級ってどういう区別なんだろう。」ロダンがいればすぐさま回答してくれるだろうが、生憎今日は参加していない。

    一九六五年に施行された河川法によって、国土保全上又は国民経済上特に重要な水系で政令で指定されたものを「一級水系」と呼んでいます。一級水系に係る河川のうち河川法による管理を行う必要があり、国土交通大臣が指定(区間を限定)した河川が「一級河川」です。「二級河川」は、一級水系以外の水系で公共の利害に重要な関係があるものに係る河川で、河川法による管理を行う必要があり、都道府県知事が指定(区間を限定)した河川です。(国土交通省)

     空堀川は武蔵村山市本町の都立野山北公園域内の丘陵に源を発し、清瀬市中里の小金井街道清瀬橋付近で柳瀬川に合流する川である。柳瀬川は荒川に合流する。荒川は言うまでもなく「国土保全上又は国民経済上特に重要な水系」であり、その荒川に関係する川は、どんなに小さくても全て一級水系となるのだ。そして、その中でも特に国土交通省によって定められるのが一級河川である。空堀川もかつては渇水期には水がなくなるが、雨が降ると荒れる川だったらしい。それが「河川法による管理を行う必要」とされたのではないだろうか。
     橋の袂の大きな芭蕉に実が生っている。「バナナですか。」芭蕉もバナナもどちらもバショウ科バショウ属であるが、古くから実を食用にしてきたのがバナナ、食用に適さないものがバショウである。「こんなに大きいのは初めて見ます。」
     少し歩けば、道路から一段高くなっているのが萩の尾薬師堂だ。武蔵村山市中央三丁目七番五号。雨戸は閉ざされていて、右側の玄関前にビール瓶のケースが三段重ねて置いてあるので、薬師堂には見えない。みんなは左隅の小さな祠を熱心に見ている。これは何か分らないが、その横に宝篋印塔が置かれている。但し卵塔の形が二つ、笠が一つ。つまり壊れた宝篋印塔なのだ。

    この宝篋印塔は、延文元年(一三五六)の紀年銘がはっきり読み取れる中世石塔である。宝篋印塔は五輪塔と並んで広く普及した塔か太刀で、基礎、塔身、笠、相輪の四つの部分から成っているのであるが、この塔は現在、笠および基礎部分が残るだけである。しかし、基礎部分の二重の枠(格座間)などに延文期の関東型の宝篋印塔の特徴をよく示している。さらに、銘文には歿故了意禅尼という被葬者名と中世南北朝時代の北朝年号である延文の年号を用いた死去年月日が刻まれている。本市における数少ない中世の歴史資料として、大変貴重な文化財である。(武蔵村山市教育委員会掲示より)

     祠の街道側には天明(天保?)の青面金剛が立っている。ショケラを握っているのも珍しいので、ナオチャンに教える。「この握ってるのが髪なんですね?」そうである。「五猿でしょうか。」姫はそう判断したが、やはり三猿で、その間の朦朧とした部分は彫り残したところであろう。武州多摩郡上中藤村と見えた。
     歩き出すとすぐに「百庚申」と彫った石があった。「どういう意味だい?」私も分らない。庚申講を百回やった記念だろうか。庚申の日は一年に六回、それなら十七年もかかる。スナフキンがスマホで検索して「結構あるらしいよ」と言う。実は普通は、庚申塔を百基(正確でなくてもよい)集めて百庚申と称する。ここにあるのは一石百庚申と呼ばれるもので、これで百基に代用したものらしい。随分お手軽だ。
     市役所を過ぎ、かたくりの湯入口交差点を渡った所に、昭和三年築の木造二階建ての洋館があった。門柱には村山織物産地買継商業組合のプレートがはめ込まれている。鉄格子が閉ざされていて中に入ることは出来ない。姫によれば村山大島紬というのが有名らしい。
     こんなところに大島紬の名を見るとは思わなかった。私は大島紬というのは奄美大島特産だとばかり思っていたのだ。大島紬が全国に普及すると、各地方で作られる類似品に「大島」の名を冠することが流行ったらしい。

     「村山大島紬」は江戸時代の中期に創り出されたと言われています。まず正藍染による綿織物である「村山紺絣」と玉繭による絹織物である「砂川太織り」の二大支流が合流しました。その後、縞銘仙、乱絣、経無地、などの時代を経て経緯絣の絹織物に変わってゆき、いわゆる、村山大島絣が生産の中心となったのが一九二〇年代のことです。先覚者のたゆまぬ努力が稔って、年ごとにその質の良さ、堅牢さが高く評価されるようになりました。
     大正中頃から村山村(現在の武蔵村山市)、砂川村(現在の立川市砂川町)両地区一円で、独特の手織機を用いて織り上げられたこの村山大島絣は、正絹板締め絣織物で経緯の絣糸を巧みに染め分けて織り出されており、精緻をきわめ、奥ゆかしい民芸の地風をもち、しかも表裏がないという特徴をもっています。(JTCO日本伝統文化振興機構「伝統工芸品館」
    http://www.jtco.or.jp/japanese-crafts/?act=detail&id=338&p=4&c=16)

     三時二十分だ。箱根ヶ崎まで行くのはとても無理だろう。「それでは残りは次回に回すということで、郷土資料館に行きましょう。距離はどの位でしょうかね。」交差点に戻ると、郷土資料館まで七百八十メートルの標識があった。
     多摩大橋通りだ。北に向かうと右手は山で、そこを抜けるトンネルがある。十分程歩いたろうか。「あれかな?」「違った。障害者福祉の施設だよ。」その隣が武蔵村山市歴史民俗資料館だった。武蔵村山市本町五丁目二十一番一。隣の「かたくりの湯」は工事中である。「ここは来たことがあるよ。なかなか良いんだ。」名称はかたくりの自生地に因むらしい。自生地は武蔵村山市野山北公園内にあるようだ。地図を見れば、この先を行って突き当たりを左に曲がればよい。
     特別展示は「絵図と写真で見る武蔵村山」。村山大島紬に関連するものは見当たらなかった。余り興味を引くものはない。  さっきの織物協同組合まで戻るとバス停だ。「何歩になった?」「二万歩だね。」十二キロというところか。神社までの往復がかなり効いているのだ。少し腰が重くなった。「あと七八分だね。」ちょうど良かった。箱根ヶ崎駅東口行きのバスはそれ程混んではいない。歩く場合には街道を真っ直ぐ行くのだが、バスは何度も迂回するから方角が分らなくなる。「地元の足ですからね。できるだけ地域を回るんですよ。」確かにそうだ。武蔵村山市には電車の路線が通っていないのだ。

     「蜻蛉の先生の名前とお薦めを教えてくれよ」とスナフキンがメモ用紙をくれた。それは嬉しいことだ。藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日選書)、『刀狩り』(岩波新書)を取り敢えずのお薦めとして書いた。前者は、戦国時代の戦争とは食うための戦争だったとする。食うために横行したのが傭兵と奴隷狩りに至る濫妨狼藉であり、戦国期の農民がただ弱いだけの存在ではなかったことを示した。後者は、刀狩は民衆の武装解除ではなく、武士身分の象徴として公然帯刀する権利を限定しただけだと結論づけた。だから農村に刀や槍、鉄砲が数多く残されたのは当然のことなのだ。それにも関わらず、江戸期を通じて一揆にそうした武器は使用されなかった。民衆は自発的に武器を封印した。竹槍でさえ、一揆に使用されるのは明治になってからのことである。
     もし面白く感じてくれたら、『戦国の作法』(講談社学術文庫)、『天下統一と朝鮮侵略』(講談社学術文庫)等も読んで貰えば嬉しい。ちっとも勉強しなかった不肖の弟子は、少しでも恩師の著書を紹介したい。ちょっと高いが『豊臣平和令と戦国社会』も薦める。「豊臣平和令」という概念も藤木師の創唱である。戦国期の研究に当って、肯定するにせよ否定するにせよ、藤木説を前提にしなければ議論は進まないのだ。
     二十分程で駅に着いた。箱根ヶ崎なんて初めて来る場所だが、八高線の駅である。次回はここに集合してバスで戻ることになる。ダンディはここから川越方面に向かったが、川越まではかなり時間がかかるだろう。飯能から川越まで、一駅ごとに五分程度待たされるのは分っている。残りは拝島に出る。
     西武線で帰るヨッシー、ナオチャンを見送って、姫、スナフキン、桃太郎、蜻蛉は店を探す。南口を出ると高い建物がなく、真正面(南西)の山並みが随分近く見える。後で地図を調べると陣馬高原の辺りになるだろうか。「拝島に下りるのは初めてだよ。」「俺だってそうだ。」
     魚民があった。取り敢えずのビールを頼むと、「次からはこれでお願いします」とタッチパネルを渡された。この操作は姫の担当である。「四人だから注文しすぎないようにしなくちゃ。」漬物や枝豆は、普段だと三人分ほど注文してしまうのだ。
     焼酎ボトルの注文が難しい。お湯割りのセットは分るのだが、グラスの数が入力できないようだ。姫が操作できなければ誰も出来ない。「呼んじゃおうぜ。」「それが一番早いよ。」随分前のことだが、さくら水産で同じようにタッチパネルでグラスの数を指定したら、ボトルの数になってしまったことがあった。年寄りは生き難い時代だ。
     「馬刺しがあるよ。六百円ですが。」これを食うのは久しぶりだ。何年か前に大塚で馬刺しを奢って貰ったことがある。あれは美味かった。半年ほど後にその店に行こうと思ったが、既に廃業していてがっかりした記憶がある。
     姫は焼酎を飲まないから九百ミリリットルのボトルを三人で飲むわけだ。私は最後の一杯が飲めない。「珍しいじゃないか。勿体無いよ。」その一杯はスナフキンと桃太郎に分けられた。

     店を出て、三人は八王子方面に向かい、私は一人淋しく西武線に乗った。本川越に着くと街は祭り一色で、露店の並ぶ通りを人込みを縫って歩かなければならない。

    蜻蛉


     翌日から雨は降り続き、寒い一週間になった。台風の中の選挙は終わり、序盤の予想通り自民党が圧勝して安倍政権の継続が決まった。小池、前原の唐突な画策がなく野党共闘が実現していたら、これほど自民党を勝たせることはなかっただろう。もしかしたら安倍退陣にまで持ち込めたかも知れない千載一遇のチャンスだったのである。小池、前原の罪は重い。