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    青梅街道 其の七  箱根ヶ崎から青梅まで
      平成二十九年十二月九日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.12.20

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     旧暦十月二十二日。大雪の初候「閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)」。先週からめっきり冷え込んできた。ストーブ無しでは我慢できず、日曜に灯油を買うと十八リットルで千六百二十円だった。去年の今頃は千三百円台だったからかなり違う。
     昨日の夕方から冷たい雨が降り、朝には止んだものの今日は真冬並みの寒さになると言うのでジャンバーの下にセーターを着込んだ。空気は冷たいが空は真っ青だ。叢には霜柱が光っている。桜並木の葉は殆ど落ちてしまった。
     今日は東上線鶴ヶ島駅ではなく、家から二十五分歩いて的場駅でJR川越線(八王子行き)に乗る。川越線は川越・高麗川間を言うのだが、直通で八高線に乗り入れているのだ。的場、笠幡(川越市)、武蔵高萩(日高市)、高麗川(日高市)、東飯能(飯能市)、金子(入間市)、箱根ヶ崎(西多摩郡瑞穂町)と四市一町を行くのである。電車の中から、奥多摩方面の真っ白くなった山がくっきりと見える。
     時間帯によって途中駅での停車時間が異なって、所要時間は四十分から五十五分まで様々変わる不思議な路線だが、今日は四十六分で着いた。五百円也。地図が頭に入っていないのでもっと遠いのかと思っていた。箱根ヶ崎の駅は随分モダンな造りだ。拝島駅管理の業務委託駅で、構内に店はない。
     少し早いので東口に降りて喫煙所でタバコを吸い、日の当るベンチに座るとポカポカしてくる。風もないのでセーターを脱いだ。小春日和と言って良い。この喫煙所は来年一杯で廃止されると書いてある。喫煙者は居場所がなくなってくる。「アッ、お早うございます。」目を上げるとオカチャンだった。「早かったんで、少しその辺を探検してました。」オカチャンはいつも早い。
     四十五分になって改札口に戻れば仲間はもう揃っているようだ。「どこから来たんだい?」「早いから日向ぼっこしてた。」あんみつ姫、マリー、ヨッシー、マリオ、オカチャン、スナフキン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の九人だ。手術後のロダンも元気そうで安心した。
     ロータリーのタクシー乗り場正面に、「馬の水飲み」のモニュメントがあった。「新しいね。」「日比谷公園にもあるヤツですよね。」新宿駅東口にもあった。勿論本物ではなく、柱に馬の首が二つついていて、その口から水が出る仕掛けだろう。解説には、鳥の水のみ場になれば良いと書いてある。

     前回は長圓寺の手前で断念したから、今日はバスでおよそ三キロ戻るのである。駅前のバス乗り場から乗るのかと思っていたら、「ここはダメなんです」と姫は言い、突き当りの「お茶の宮崎園」から北に歩いて青梅街道に出た。「きょうのお昼はここです。」角の和食処「たかはしや」だ。「円福寺は行かないのかな?」「後で戻ってきますから。」そこを少し過ぎた所が箱根ヶ崎バス停で、都営バス花小金井行きはすぐに来た。
     十分程乗って長円寺前で降りる。街道の北東側には狭山丘陵が広がり、午前中はその谷戸にある寺や神社を巡ることになっている。それぞれ参道が長いから、行ったりきたりでかなりの距離が加算される筈だ。
     門柱には長圓禅寺とある。武蔵村山市本町三丁目四十番一号。曹洞宗、龍澤山と号す。そこから百メートル程の参道に並木が続いている。「何の木だい?」「ツルツルだからね、サルスベリみたいだ。」文化元年(一八〇五)の地蔵坐像。安永八年(一七七九)建立と言う朱塗りの屋根の山門前に、松の木が斜めに立っている。

     龍沢山長圓寺と号し、曹洞宗の禅寺で、室町時代永禄十一年(一五六八)に華山秀委(かざんしゅうどん)和尚によって開山されました。江戸時代の天保年間(一八三〇〜一八四三)と嘉永五年(一八五二)の火災により山門を除いて焼失しました。現在の本堂は文久年間から明治四年(一八六一〜一八七一)にかけて建立されました。本尊は釈迦如来です。
     境内には、三ツ木の地頭大河内氏の墓(市指定旧跡)があります。
     また、毎年長圓寺を皮切りに横田・中村・馬場地区を巡る横中馬獅子舞(市指定無形民俗文化財)は、五穀豊穣・無病息災を祈って盛大に行われています。(「むさしむらやま歴史散策西コース」掲示より)

     ネットを調べると、「華山秀委」を「華山秀呑」と書く記事も多く、姫の案内資料も「呑」を採用している。「委」と書いて「ドン」と読むのは私の知識にはないので、「吞」が正しいのかも知れない。
     山門の左手には小さな池と大弁財天がある。中門を潜ると明治四年建立の本堂だ。その裏手に回って大河内氏の墓所を見る。藪を後ろにして、左側の大きい墓石が三代忠次、右側が五代忠政。その他に初代から八代までの位牌が納められている。
     「三ツ木の地頭」とは知行地を持った旗本を呼んだ言葉で、大河内氏は駿河今川氏、甲斐武田氏を経て家康に仕えた。天正十八年(一五九〇)三ツ木村に二百五十石の知行を得たのを始まりに、三代忠次の代には下総国海上郡西洗村(千葉県旭市)に二百石を加増、四代忠勝の代には下総国匝瑳郡の久方村、八日市場村、横須賀村を合わせて七百五十石となった。

     「これは何?」「ハボタンですよ。」民家の庭先にあるのを私は花キャベツと思ったが、実は同じものだった。アブラナ科アブラナ属。要するにキャベツやケールを観賞用に改良したもので、花のように見える部分が牡丹に似ていると言うのだ。二三十センチ程に茎が伸びているのは珍しいらしい。
     街道に比留間の表札が目立ってきた。「ここもそうだよ。」「こっちも。」この辺りの名主の一族であろうか。大きな家が多い。
     次は十二所神社だ。武蔵村山市三ツ木五丁目十二番六号。参道はさっきよりも長く、樹木に隠れて鳥居の奥の階段がどのくらい高いか良く見えない。参道の途中に小さな小屋のようなラーメン屋がある。「神社ラーメンだって。」「なんだ、それは。」知らない人は先ず来ないだろう。
     鳥居は石造の神明造り。七八人の高齢者が石段の落ち葉を掃除している。「ご苦労様です」と声をかけながら石段を上る。「あそこに蜂の巣が。」拝殿の東側の破風の中に大きなスズメバチの巣があった。「大丈夫。相当古いもので、蜂はもういないから。」掃除をしていたオジサンから声がかかった。
     たまたまそこにいた宮司(だと思う)が境内社について説明してくれる。「これが八坂神社です。「天王さんですね。」毎年四月の例祭は三ツ木天王祭と呼ばれ、祇園囃子が奉納される。

    この祇園囃子は明治二十五年頃、峰の比留間幸次郎が浅草から金村某なる人物を招いて伝授されたと伝えられている。その後、数名の有志によって継承され、現在では、「三ツ木天王様祇園囃子保存会」によって伝承されている。(武蔵村山市教育委員会掲示より)

     ここに比留間氏が登場するのだ。「比留間さんの家が随分ありましたね。」「この辺には二百軒程あります。古い家ですから。」二百軒は大袈裟ではないかと思ったが、宮司の言う「この辺」が武蔵村山市のことであれば、どうやら間違ってはいない。「知り合いに蛭間さんがいるんですよ。」オカチャンの言葉に、「読みが同じだから元を辿れば一緒かも知れません」と応える。会社の和書仕入部門に昼間氏がいたがスナフキンは知らなかった。
     ヒルマ氏の由来は分らない。他に昼馬、肥留間、蒜間、飛留間などの文字もあり、恐らく地名に由来するのではないかと思われる。ヒルは韮の生える場所、低湿地等の意味があるようだ。
     「愛宕社、神明社、この下には日露戦争の慰霊碑もあります。」それは見なくても良い。「今日は正月の準備ですか?」「そうです。」
     神社は和銅年間(七〇八~七一四)の創建と伝えられ、祭神は天神七代、地神五代に大己貴命、加久津智命、素盞嗚尊を加えている。
     天神七代とは国常立尊(クニノトコタチ)、国狭槌尊(クニノサツチ)、豊斟渟尊(トヨグモヌ)、埿土煑尊(ウイジニ)と沙土煑尊(スイジニ)(二神で一代と数える。以下同じ)、大戸之道尊(オオトノジ)と大苫辺尊(オオトマベ)、面足尊(オモダル)と惶根尊(カシコネ)、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)を言う(いずれも『日本書紀』の表記)。
     クニノトコタチとイザナギ・イザナミ以外は読み方も覚えられない。地神五代は天照大神(アマテラス)、天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)、瓊瓊杵尊(ニニギ・天孫降臨)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ・『古事記』では火遠理命ホオリとも。山幸彦)、鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)。
     ウガヤフキアエズは山幸彦と豊玉姫の間に生まれたが、出産の際に鰐の姿になったのを見られたのを恥じ、豊玉姫は海に帰って行った。ウガヤフキアエズは豊玉姫の妹の玉依姫との間に四人の子を儲け、その末子が神武になる。玉依姫も豊玉姫の妹であるからには本体は鰐であったろう。鶴女房や信太妻の狐と同じく、異類婚姻譚のひとつである。
     しかし読めないような神を庶民が祀るとは思えないから、これらの祭神は明治の神仏分離以後のことであろう。熊野十二所権現の勧請という説もあるが、本来は「十二様」と呼ぶ山の神への信仰だったのではないだろうか。

    ・・・・十二は一年の月数であり、しかも三と四をかけた聖数であって暮れのミタマノメシのように供物の数としてしばしば用いられるほか、山の神を十二様とか十二山の神とよぶ地方もある。
    ・・・・東日本から中部日本にかけては、山の神を十二様ともいって一年に十二人の子を産むと伝えており、山の豊穣性を山の神の多産性として象徴化している。したがって山の神の機能が生産や出産など多岐にわたっているとみることができよう。(『世界大百科事典』より)
    ・・・・猟師・木樵・炭焼きなどの山民にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神である。農民の田の神のような去来の観念はなく、常にその山にいるとされる。この山の神は一年に十二人の子を産むとされるなど、非常に生殖能力の強い神とされる。これは、山の神が山民にとっての産土神でもあったためであると考えられる。(ウィキペディア「山の神」より)

     山の神は女であり、しかも恐るべき神である。だから女房を山の神と呼んだ。ロダンの愛妻のことではない。
     掃除の邪魔をしてはいけないので早々に街道に戻る。峰の交差点を過ぎた辺りで、「宿の子育て地蔵がある筈なんです」と姫がキョロキョロしだした。宿(しゅく)はもう少し先になる筈だ。「バスの中からお堂が見ましたよ」とオカチャンが言う。私は全然気付かなかった。
     少し行けば、三叉路の角の三角地に小さな赤稲荷が建っていた。武蔵村山市三ツ木三丁目二十三番二号。鳥居は石造の神明造りで、稲荷としては珍しいだろう。嘉永二年(一八四九)に稲荷総本宮(伏見稲荷のことだろう)を勧請し、各地を転々として現在地に収まったと解説にある。それ以外のことは、渡来人の秦氏の守り神であるとか「稲荷」の一般的な説明しかない。「これじゃないんですよ。子育て地蔵は移転したんでしょうか。」
     右に分岐するのが旧街道のようだ。「十五メートル先にあるって。」オカチャンは二三軒先の魚屋に教えてもらったらしい。魚屋には「マグロ」と大きく貼り出されている。「十五メートルって、もう過ぎたろう。」
     しかし魚屋から四十メートル先にあるのは増尾稲荷だった。武蔵村山市三ツ木三丁目二十三番五号。「これは神社ですから地蔵堂じゃありません。」民家の間の空き地に、石造神明鳥居の奥に小さな祠が石の台に載っているだけで由来は全く分らない。増尾は三ツ木村の旧家で、村山市の『市史調査報告書』に増尾家文書も残されている。稲荷の裏、と言うより青梅街道に面してマスオマンションが建っている。この増尾家の屋敷稲荷だろう。
     「このまま行けると思うよ。」そのまま旧道を道なりに進むと青梅街道と合流する。その合流地点が薬師堂だった。武蔵村山市三ツ木三丁目二十二番一号。「ここにありました。」境内の片隅に「宿の子育地蔵」があったのである。堂は小さいながら宝形つくりの屋根を持つ。台座が新しいから移築したのだろう。「参考にしている本が古いんですよ。この間も酒屋さんがなくなっていたし。」地蔵の建立年代は不明だ。ここでも、境内には掃除の人がでている。
     宿の薬師堂は慶長年間(一五九六~一六一四)の創建で長円寺の持ちである。境内の隅に「双盤念仏・薬師念仏鉦はり」の解説碑が建っていた。「双盤念仏はどこかでもありましたね。」姫に言われればそんな気もしてきたが、それがどこか全く記憶が蘇らない。
     鉦を打ち鳴らして念仏を唱える。単に念仏を唱えるだけでは飽きてしまうので、節をつけ、リズムを刻んで歌うのだ。宗教行事と言うより、次第に集落の娯楽に変わっていっただろう。皿のような鉦を二つ一組として打つことから双盤と名づけられた。

     双盤念仏は室町時代に京都の真如堂で行われた引声念仏が始まりで、関東では明応四年(一四九五)に鎌倉の光明寺の観誉上人によって十夜念仏として浄土宗の寺院を通じてひろまった。
     東京の双盤念仏は江戸中期に始まり、明治大正期にかけて宗派を超えた流派が作られ、爆発的に流行した。しかし第二次大戦中に金属の供出で双盤鉦を失い急激に衰退し、更に後継者難によってほとんど消滅してしまった。
     薬師念仏鉦はりは、文化十一年(一八一四)より関東三大十夜の一つ八王子の大善寺系の滝山流を青年達が誇りをもって連綿として継承して来た。
     しかし昭和四十三年には時代の変遷と共に青年団が解散したため、保存会を結成して東京都下で唯一つ滝山流を守り現在に至っている。
     双盤念仏・薬師念仏鉦はりは、都民の文化の特色を示す典型的な重要文化財として平成三年三月八日、東京都無形民俗文化財として指定された。

     宿、岸の交差点を過ぎる。「この辺りは一字の地名が多いね。」岸の交差点脇に「少飛の塔・陸軍少年飛行兵戦没慰霊碑」と書かれた看板が出ているのは禅昌寺の案内だ。この寺も狭山丘陵の谷戸に位置し、ここから五百メートル程の距離になる。立ち寄る余裕はないが、「少飛」のことは知らなかったので念のために調べて見た。

     陸軍少年飛行兵制度は、昭和九年二月、第一期生の所沢陸軍飛行学校本校にはじまる。
     陸軍航空の拡充要請により昭和十三年、村山に東京陸軍航空学校が創立され第六期生が入校、さらに大津、大分に陸軍少年飛行兵学校が、また急速養成のため、各地に教育隊が設立され、終戦時の第二十期まで四万六千の若鷲が巣立った。
     陸軍航空の操縦・通信・整備の中堅として、支那事変、ノモンハン事件を経て、大東亜戦争に参加、日本の危急存亡に際して北に南にと空の第一線に身命を賭して活躍した。そして四百五十余柱の特別攻撃隊員をはじめ、四百五十余柱の若鷲が祖国の安泰と繁栄を念じつつ大空に散華した。いまだ十代の紅顔の少年達であった。
     昭和三十八年、東京陸軍少年飛行兵学校の跡地に慰霊碑を建立し、以後毎年現地において生存者相集い慰霊の誠を捧げて来たが、このたび永代にわたる供養を念願し、ゆかりの人々の加護のもとに、この地に供養塔を建立することとなった。
     遷座にあたり、英霊の偉勲を偲び、久遠の平和を祈るものである。(少飛の塔)

     学校の場所は武蔵村山市大南二丁目三丁目付近の二十万坪と言うから、東大和駅から桜街道を西に進み、前回見た旧日立航空機株式会社立川工場変電所の少し先になる。そこに「揺籃の地」碑と「東航正門跡」碑、歴史民俗資料館別館があるらしい。
     少年航空兵は志願により、卒業すれば下士官に任用される制度である。陸軍に陸軍少年飛行兵(少飛)があり、海軍に海軍飛行予科練習生(予科練)があった。予科練は歌にもなって有名だが、少飛はそれ程有名ではない。しかし、バロン吉元『昭和柔侠伝』の柳勘太郎が昭和十三年に入校したのが陸軍少年飛行兵学校(当事は東京陸軍航空学校)だった。そう言えばちばてつや『紫電改のタカ』も少年飛行兵の物語(但し海軍)である。主人公の滝城太郎は一飛曹から兵曹長に昇級して特攻隊として出撃する。

     受験資格は入校年の三月三十一日における年齢が操縦生徒は満十七歳以上十九歳未満、技術生徒は満十五歳以上十八歳未満(陸軍部内より受験の場合は操縦・技術ともに上限二十歳未満、学歴に制限はなく学力が操縦・技術生徒とも高等小学校卒業程度とされ、毎年一回入校し修学期間は操縦生徒がおよそ二年、技術生徒がおよそ三年と定められた。生徒は在校中は兵籍にある軍人ではなく、卒業後に上等兵の階級を与えられて部隊に配属され、およそ一年の訓練と下士官候補者勤務を経て現役航空兵伍長に任官する。(ウィキペディア「陸軍少年飛行兵」より)

     「里山民家」の案内もあるが、往復で一キロ程になるから行かない。青梅まで明るいうちに着かなければならないから、寄り道している暇はない。谷戸の田圃や水路を復活させ、江戸時代の民家を復元したらしい。歩きながら参照しているのが「野山北・六道山公園マップ」である。
     「六道山ってどこでしょうかね?」マップを見ても、単独でその名を持つ山はなさそうだ。狭山湖(山口貯水湖)西側の狭山丘陵全体を言うのだろうか。

     野山北・六道山公園は、首都圏に残された「緑の島」都立狭山自然公園の西端にあり、雑木林と谷戸(丘陵に切れ込んだ谷間)の組合せによって、豊かな自然が残された都立で最大の都市公園です。
     カタクリの群生地やホタルの生息地、里山民家や岸たんぼといった、貴重な里山の風景が広がっており、里山の生活や文化を体験できるほか、ハイキングや野鳥観察、森遊びなど様々な楽しみ方ができる公園となっています。http://www.sayamaparks.com/noyama/

     「あれ、何だい?」「ぶたの駅」の看板が上がっている。「ぶたの駅だって?」駅ホームの案内板のように、上に「豚の駅」、下に「農場・食卓」とある。「武蔵村山金井線って書いてるよ。そんなのあるのかな?」武蔵村山市に鉄道は通っていない。武蔵村山市岸一丁目四十番一号。毎週火曜と金曜の午後だけやっている店だ。

    金井畜産の新たな取り組みとして二〇一六年十月にオープンした「ぶたの駅」は、高品質な自社ブランド豚を直接消費者に販売する店舗です。屠畜した新鮮な生モツをそのまま煮込んだ珍しいモツ煮込みやピリ辛ホルモンのほか、自社ブランド豚のお惣菜を店内いっぱいにご用意しています。金井畜産の位置する武蔵村山市には鉄道の駅がないことが「ぶたの駅」の名前の由来ですが、「農場⇒ぶたの駅⇒食卓」と最短でおいしいお肉と新鮮な内臓肉を食卓にお届けできる唯一の「駅」として多くの方にご利用いただいています。
    ww.kanaichikusan.co.jp/efforts/

     西多摩郡瑞穂町に入った。昭和十五年(一九四〇)に箱根ヶ崎村、石畑村、殿ヶ谷村、長岡村が合併して出来た町である。二〇一五年の人口は三万三千四百四十五人。東京狭山茶、シクラメン(都内最大の生産量)、東京だるま(多摩だるまとも言う)、村山大島紬が特産である。典型的な近郊農村地域と言って良いだろう。
     神社前交差点を右に入れば阿豆佐味天神社だ。西多摩郡瑞穂町殿ケ谷一〇〇八番地。参道入口には「延喜式内 阿豆佐味天神社」の石碑が建っている。長い参道を歩き、石造神明鳥居を潜る。「どんぐりが一杯。」ここは掃除をしている気配がない。「阿豆佐味天神って立川にもあるぞ。五日市街道沿いに。」スナフキンもロダンも知っていた。「ここが総社なんだ。」「だけど立川の方が大きいよ。」余りにもみすぼらしいのでスナフキンはなかなか信じない。それなら立川の阿豆佐味天神社の由緒を見ておこう。

    寛永六年(一六二九)、砂川開拓の鎮守として、親村である西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷戸から、式内社阿豆佐味天神社を勧請。(『東京都神社名鑑』)

     つまり殿ヶ谷の住人が砂川に移住して開拓したので、だから立川市西砂川には殿ヶ谷地区がある。また青梅街道シリーズでは小平の熊野神社と神明宮訪れているが、本来はここの摂社として祀られていたものを勧請したものだ。そして熊野神社の社家宮崎氏(豪邸だった)は、阿豆佐味天神社の社家と同族であった。
     由緒正しい神社にしては実に淋しい境内だ。しかも拝殿の軒の一部は破損して、脇に回れば壁にも数か所穴が開いている。氏子はいないのだろうか。「門に初詣の幟は立ってたけどな。」
     祭神は少彦名命、素盞嗚尊、大己貴命。スクナビコナはカミムスビの子だから「天津神」と言えるだろうか。出雲神話にしか登場しないから国津神と言ってよいのではないか。スサノヲ、オオクニヌシは勿論国津神である。この出雲系三神を祀って「天神社」というのも不思議だ。おそらく祭神は明治以降のものだろう。因みに立川の方はスクナビコナとアメノコヤネ(藤原氏の祖)を祭神としている。

    延喜式内多摩八座の一つで、寛平四年(八九二)従五位下、上総介高望王の創建と伝う。その後、天正十二年(一五八四)、慶長三年(一五九九)の修復を経て、享保年間(一七一六~三六)当地方の豪族村山土佐守により社殿の修復が行われた。また、北条、徳川氏の崇敬も厚く、多くの神領地を寄進、北条氏照より十五貫文の地を、また徳川幕府は累代十二石の朱印地を寄せた。現社殿は明治二十七年に改修。(「東京都神社名鑑」より)

     高望王が上総介に任ぜられて下向するのは昌泰元年(八九八)のことだから、「寛平年間(八八九~八九八)に創建」するのは無理である。『瑞穂町史』には、「上総介高望王が再建」したとある。「創建」と「再建」では随分違うが、延喜式神名帳(九二七年)に記載される多磨郡八座の内の一社というのは異論がなさそうなので、もっと古い時代から祀られていたと思われる。
     「阿豆」は甘い、「佐」は味の接頭語、「味」は弥で水の意味という説があり、古代には神社後背の狭山丘陵から出る湧水が貴重で、それを祀ったのではないかとも言われる。村山党の総鎮守とされるので、高望王に関係付けたのは村山党だろう。村山党は高望王の子の良文から始まる平氏を称している。

     次は福正寺だが、姫は街道に戻ろうとする。「こっちから行けるんじゃないの?」地図を見れば、いったん街道に戻るより山に沿って行く方がはるかに近い。曲がりくねった狭い道を行く姫が「行き止まりみたいです」と戻ってくる。「そこの花屋で訊いてみるよ。花屋があるってことはお寺が近いんだから。」こっちを行こうと言ったのは私だから、責任を取らなければならない。
     「そのまま道なりに行って突き当たると公園があります。そこを右に。」行き止まりかと思った道は弓なりに左に曲がり、確かに突き当りに小さな玉林寺公園があった。公園の隅の滑り台の脇に「玉林寺遺址」の石柱が建っていた。玉林寺(臨済宗建長寺派)は元文年間(一七三六~一七四〇)立川市西砂川に移転したのである。これも殿ヶ谷と砂川との縁の深さを表している。
     脇には神輿庫が二つある。「殿ヶ谷の神輿」で、須賀神社の祭礼に使われる。神輿は慶応二年(一八六六)、小伝馬町の海老屋忠蔵藤原陸和が制作した。江戸神輿の中でも大きく、当時の宮大工の技術が残されているとして、二〇一二年三月に町有形民俗文化財に指定されている。
     道路を挟んで向かいには、笠を被り前方を指差す村山土佐守の像が建っている。私は忍の成田氏の家臣だったと言ってしまったが、とんでもない間違いであった。なまじっか一夜漬けの予習をしてきたものだから、後で行く吉野織部之助とゴッチャになっていた。村山土佐は阿豆佐味天神の社殿を修復した人物として登場した。村山党の庶流金子氏の一族だと伝えられる。つまり村山党の総領家ではない。
     「一刀流だね。」マリオが言うのは腰に差した刀が一本しかないからだ。阿豆佐味天神を修復した村山土佐守は享保年間の人で、既に帰農して武士ではないからだろう。秀吉の刀狩りは農民の二刀帯刀を禁じたので、脇差なら許されていた。と思ったのは間違いだった。

    村山土佐守  平安時代後期から鎌倉時代、室町時代にかけて、武蔵国を中心として、下野、上野、相模といった近隣諸国まで勢力を伸ばしていた同族武士団を武蔵七党といいます。その中の村山党は、武蔵国村山郷(現在の瑞穂町、武蔵村山市など)に住み村山氏を名乗りました。平頼任を始祖としています。金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏などは村山党の一族です。村山土佐守は中世の豪族として、村山氏最後の人物で、殿ヶ谷(瑞穂町)に居館があったと伝えられています。
     この時代の多摩地域は、後北条氏が支配しており、八王子滝山城の北条陸奥守氏照の統治下であったという説があります。その実像に関する資料はありませんが、(神仏を敬う)信心堅固な武士として、村山郷の人々の伝承の人物として言い伝えられてきました。 
            平成二十五年三月吉日      瑞穂町

     これは村山党の説明であって、村山土佐守については何も教えてくれない。しかしこれによれば村山土佐守は戦国末期の人である。どうも話が食い違う。さっきは『東京都神社名鑑』の記事を引用したが、これが間違いだったらしい。「享保年間(一七一六~三六)当地方の豪族村山土佐守」の文に違和感を覚えてはいたのだ。江戸時代に「豪族」と呼ばれる家はないだろう。改めて『新編武蔵風土記稿』の阿豆佐味天神の項を引いてみる。

    享保年中の棟札あり、其文の中に文明十四年村山土佐守、同雅楽助及一族等土木の費を供して、社檀を再修せしこと見ゆ、文明中の再修なれば、古社なることしるべし(『新編武蔵風土記稿』)

     『東京都神社名鑑』は、この記事中の「享保年中の棟札」を読み間違えたのではないか。「創建」と「再建」の違いもそうだったが、どうも『東京都神社名鑑』を資料として利用するのは危険だ。
     しかし文明十四年なら一四七七年である。応仁文明の乱は漸く収束したものの、これから戦国時代に入る時期である。「後北条氏が支配」した時代よりもかなり前のことだ。更に調べれば、次に行く予定の福正寺には、天正十五(一五八七)に村山土佐守義光が観音堂を再建したとの記録が残ると言う。これなら「村山氏最後の人物」に合致する。村山氏については史料が殆ど残っていないらしいが、北条氏滅亡と共に滅びたとされる。
     約百年を隔てて土佐守が二人いるのだから受領名(勿論勝手に名乗ったのだ)は世襲されたので、この銅像の主は村山義光だと決まった。ひとつの記事だけを信じるのは危険だという見本である。それにしても像を造るのなら、もう少し詳しい解説をつけてくれても良いのではないか。
     そして姫も風景の記憶が戻ったようだ。「あそこです。」街道から入ってくるよりは近道になっただろう。
     金龍山福正寺。西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷一一二九番地。臨済宗建長寺派。丘陵に沿って伽藍が広がっているようだ。「山門不幸」の立札が立っている。「寺のオッサンが亡くなったってことですよね。」「一般の忌中と同じ。」
     総門も立派だが、二天(毘沙門と持国天?)が立つ楼門(解脱門)も立派だ。境内に入ると本堂(法堂)から住職を先頭に喪服の男女が現れてきた。中の話好きなオジサンが先代住職の一周忌だと教えてくれる。本堂の近くには大きなタラヨウの樹(樹齢七百年と言う)があるが、近づいてはいけない雰囲気だ。

    天照林和尚(天台宗の僧)の開基にして、文保二年三月(一三一八)臨済宗として通翁鏡円禅師を勧請し、開山とした。・・・・
    時に正中二年(一三二四)正月二十一日より二十七日の間、勅命により教家対禅家の一大宗論が清涼殿において展開された。その時禅家の大将として通翁鏡円禅師・副将として宗峰妙超禅師が出場して八宗の講師を負堕せしめて、その功により帝より興駕を下賜され、一国の師翁なりと讃えられ、更に普照大光の国師号を勅諡される。
    以来十六菊花紋を寺紋として、法灯連綿二十八世の今日に至る。(掲示より)

     文保二年は後醍醐天皇が即位した年である。鐘楼の天井には三人の飛天が描かれている。「飛天とは?」「飛ぶ天女だね。」「何か縁起がいいんですか?」諸仏の周囲を飛び回って誉め讃える。「こういう場所に描かれているのは珍しいですよね。」翼を持つオリエントの天人が源流だが、仏教の天女は翼がなく羽衣を纏う。だから羽衣を盗まれると大変なことになるのだ。ただ、日本の羽衣伝説は白鳥処女伝説、異類婚姻譚と絡めて考える必要がある。
     五重塔、弁財天、村山土佐が寄進したと言う観音堂。大半は昭和五十年代以降の再建だが立派だ。裕福な檀家が多いのだろう。本堂裏の墓地には「伝村山土佐守一族墓」がある筈だが今日は遠慮する。村山氏の居館だったと推測され、そのために殿ヶ谷の地名になったと言われている。
     狭山丘陵を後ろに控えたこの台地は、城館だったとしておかしくない。本当は境内を丁寧に見て回りたいところだが時間が足りない。スナフキンは法事客の後について観音堂の石段を上って行ったが、私は遠慮した。
     街道に戻る。八百清商店の店頭は各種の注連飾りで埋め尽くされている。残堀川の吉野橋の袂に吉野岳地蔵堂があった。西多摩郡瑞穂町大字石畑一八〇五番地一。残堀川は狭山丘陵西端の狭山池に発し、武蔵村山市・昭島市・立川市を貫流して多摩川に合流する。
     小さいが、宝形造りの屋根を持つ総檜の立派な堂だ。文久三年(一八六三)石畑村の名主吉田助右衛門が子女の病気平癒を祈願して再興したと伝える。覗き込むと、石造地蔵にはピンクの女性用の和服が着せられているので享保四年(一七一九)の銘は見えない。天井には龍の絵が描かれていると言うが確認できなかった。石橋三ヶ所供養塔、庚申塔、馬頭観音。
     十二時になった。「もうすぐですから。」ここで姫は青梅街道完歩者への表彰をしてくれた。「名前は自分で書いてくださいね。」ヨッシー、スナフキン、桃太郎、蜻蛉がここまで無欠席である。「そうだったかな?」桃太郎本人は自分が無欠席だったのを忘れている。「俺は今までのを全部持ってるよ。」スナフキンは、大山街道、日光街道の完歩証を取り出した。私はどこにしまっただろう。日光街道を一回休んでいるので、彼には負けている。
     しかし青梅街道シリーズは今日で終わるわけではない。次回は青梅の街中を歩き、次はもう少し先まで歩いて、最後は御岳山に登る予定だ。取り敢えず青梅宿までの完歩(予定)である。
     吉野橋を渡ると箱根ヶ崎の町に入った。「あれが時計台です。」時計台と言うからもっと背の高いものを想像していたが、バスの停留所程度の高さである。瑞穂町歌のプレートがはめ込まれている。

    緑冴えたる 武蔵野の 古き良き土地 いや栄え
    六道山に 咲き誇る つつじに遺蹟 偲ばるる
    おお 瑞穂 文化の息吹き 今花開く

    青梅街道 光満ち 人朗らかに 働きて
    村山つむぎ 狭山茶を 称え賑わう 産業祭
    おお 瑞穂 理想の息吹き 今花開く

    阿豆佐味神社 森厳に 箱根ケ崎に 雲流る
    満ちたる日々に 心こめ 美しき町 わが郷土
    おお 瑞穂 世紀の息吹き 今花開く

     近代産業のかけらも見えない町である。ここは左に旧街道が分岐する角だ。昭和六年(一九三一)、箱根ヶ崎駅ができて八高線が部分開通するとともに青梅街道が付け替えられ、その時に新旧街道の分岐点に木造モルタル造りの時計台が建てられたのだ。それは老朽化して昭和三十年頃に撤去されたのだが、平成十五年に復元された。
     昔と同じ二間幅の旧道は赤く塗られて新道と区別が出来るようになっている。「大山街道でもこんな風な道がありましたね。」「渋谷の辺りだったかな。」「溝口です。」そうだった。あの辺で小町が随分遅れてしまったのだ。
     次の交差点で旧日光街道と交差する。「ここにどうして日光街道があるのかな?」八王子千人同心が日光勤番の往復に利用した街道である。八王子千人町を出発して、日光まで四十里を三泊四日で歩く。第一の宿場は拝島、そこから現在の横田基地の中を北上して箱根ヶ崎が第二の宿場であった。つまり南に下ると、新青梅街道を越えてすぐに横田基地に阻まれて道は消えてしまう。
     一方この先の宿場は二本木、扇町屋、根岸、高萩、坂戸(我が家の近く)、高坂、松山、吹上、忍、新郷、川俣、館林と続き、天明(佐野市)で例幣使街道に合流する。
     ところで横田基地は昭和十五年(一九四〇)、陸軍航空部隊の立川陸軍飛行場(立川飛行場)の付属施設として建設された、多摩陸軍飛行場が前身である。新鋭機の飛行実験と審査を行う部門で、敷地の大部分が多摩郡福生町にあったので、地元では福生飛行場とも呼ばれた。
     戦後米軍に接収され、在日米軍司令部、在日米空軍司令部、第五空軍司令部、日米共同統合作戦調整センターを持っている。基地敷地拡張の影響で、敷地内を通っていた八高線や国道十六号線の経路が変更された。
     角には、明治五年創業の會田薬局「漢方の會田」がある。瑞穂町箱根ヶ崎一七八番地。瓦屋根の二階家は風格がある。この辺りが箱根ケ崎宿の中心だっただろう。青梅街道と日光街道が交わる地点だから相当賑わっていた筈だ。向かいの栗原サイクル商会は錆びたシャッターを下ろしている。

     円福寺を通り過ぎ、その先の箱根ヶ崎交差点の角の「たかはしや」で昼食だ。瑞穂町箱根ヶ崎一三五番地。十二時二十三分。店内の壁には四年前の天皇皇后来訪時の新聞記事が貼られている。「この店に来たんだね。」蕎麦、うどん、てんぷら、うなぎ、寿司、定食と、何でもありの店である。天皇皇后がわざわざ立ち寄るような店には見えない。二階の宴会場を使ったのだろうか。
     襖で仕切られた小上がりの方は、小学校低学年の子供を連れた家族で満席だ。何家族いるだろう「ピアノの発表会とかかな?」「そんな感じだね。」「この分だと遅くなるな。」私たちは土間の三つのテーブルに三人づつ座る。
     姫はミニ丼のセットがあると言っていたが、それはランチメニューで土曜日はやっていない。姫は平日に下見したのである。私は天丼(九百八十円)、スナフキンはヒレカツ丼(千円)、オカチャンはうな丼(千九百八十円)を気張った。「ビール?」「勿論。」中ジョッキは五百二十円である。オカチャンは飲まない。
     ビールと一緒に枝豆が出てきた。奥の席に着いていた桃太郎がやって来た。「向こうは誰も飲まないんですよ。」「それじゃ、ビール持ってくれば。」ビールを飲み終わって桃太郎は元の席に戻った。天丼はかなり量が多い。次いでヒレカツ丼が出てきた。「ホントはロースが好きなんだ。」私もそうだ。うな丼はやはり時間がかかる。
     座敷の家族連れは三々五々出て行き、もう二三家族しか残っていない。私のテーブルは三人でちょうど五千円なり。「ぴったりって珍しい。」一時十分だ。

     街道を少し戻って、さっき通り過ぎた円福寺に入る。西多摩郡瑞穂町箱根ケ崎一三二番地。臨済宗建長寺派。福正寺九世梅室和尚が開山となり天正元年(一五七三)に創建だから、福正寺の弟分のような寺だ。
     「風神雷神でしょうか?」赤く着色した木彫りの金剛力士だ。「一本彫りってことはないでしょうね。」その楼門が立派だ。「蜻蛉さん、ライター貸して。」何をするのかと思えば、桃太郎は百円で線香を買ったのである。「マッチがないんだよね。」しかし線香の束にライターで火を点けるのは結構難しい。「そこに蝋燭があるね。」芯が短くて苦労したがなんとか点いた。「これでじっくりやればいいんだ。」
     一月のだるま市、六月のほおずき市で知られていると言う。室町時代の「紙本着色観心十界図」は二月の涅槃会で公開するので普段は見られない。
     駅に戻る。「ここは何駅ですか?」ロダンは何を言っているのか。「今朝ここから出発したじゃないの。」「そうか、逆から来たから分らなかった。」駅前を行くと、新青梅街道に出る手前に加藤神社があった。西多摩郡瑞穂町箱根ケ崎三一五番地。
     天正十年(一五八二)この地で討死した武田勝頼の家臣・加藤丹後守景忠を村民が祀り塚を築いたのが始まりと言う。加藤景忠は都留郡上野原の城主で、甲斐武田氏の滅亡に伴って武蔵国に逃れて来たものの、後北条氏配下の村山土佐の一隊に攻められ滅亡した。あるいは一揆に討ち取られたとも言う。

     村民はその死をあわれみ、直径十一メートル、高さ一、五メートルの塚を築き葬った。二基の五輪塔はその当時のものと思われる。
     寛政年間(一七九〇年代)に至り、加藤氏の後裔といわれる上野原の加藤最次郎が石塔を建てたり、練馬区の子孫が円福寺に馬上丹後守像等を納めたのをきっかけに、村民の間にも信仰の念が深まり、加藤八幡宮が建立された。(掲示板より)

     合戦で討たれたなら、敵方の領地内で神に祀られる理由がない。地元民がその死を悼むこともないし、領主の村山氏が許さないだろう。一揆と言うのは農民(雑兵)による殺害のことではないか。落ち武者狩りは戦国の農村の習いである。しかし罪の畏れはあって、怨霊を鎮めるために祀ったとする方が筋が通るだろう。旅の僧侶や六部を殺した後に祀ったとか、土木工事に巡礼母子を人柱にして祀り上げたとか、中近世農村には殺害と怨霊鎮めが混淆している。
     しかし伝承は錯綜しており、ウィキペディア「加藤景忠」の項では、景忠の死は天正五年(一五七三)以前、上野原の保福寺過去帳によれば天正三年(一五七五)の長篠の戦いで戦死したとされると言う。加藤塚と呼ぶ小さな塚もあるが、直径十一メートルの塚は十六号線造営のために潰され、今あるのは小さく復元したものだ。その上に墓石二基と壊れた五輪塔が置かれている。

     青梅街道に戻るかと思ったが、姫はそのまま新青梅街道を歩いて良く。広い道は八高線の下を掘り下げて通る。その脇の狭い歩道も、階段を降りて線路の下を潜りまた上る。歩道の左は藪になっていて、藪の向こうは防衛省管轄の土地らしい。
     瑞穂松原で青梅街道と合流する。「ここから四キロ程は何もないのでバスに乗りたいと思います。」「バス時間は?」立川バス(羽村行き)と都バス(青梅車庫行き)の二系統が通っていて、立川バスの停留所は瑞穂松原、都バスの停留所はただの松原だ。時刻表を見ると都バスは一時間に一本程度走っている。「十三時五十八分。」「私の時計だとちょうど五十八分よ。」今行ったばかりだろうか。「でも、見えなかったわよね。」「下見のときも十分位待ちました。」バスは青梅街道を走って来るのだから、私たちとは道が違っている。「でも後ろは見えると思いますよ。」「ちょっと待ってみますか。」
     バス停の後ろは茶畑だ。ここは狭山茶の産地であった。しかし十分待ってもバスは来ない。「やっぱり行っちゃったんだ。」「歩き始めると来たりするのよね。」しかし歩くと決めたのだから仕方がない。
     十六号線(瑞穂バイパス)を越える。「アッ、バスが。」バス停を二つ過ぎた辺りで、十五分以上遅れていた訳だ。街道を歩くのが趣旨だからバスに乗れなくても良いのだが、この道を四キロ歩くのは気分的にシンドイね。
     二時半、青梅市に入ると住所表示は新町になった。日産プリンス、具留麻屋、日産、スバル。新車、中古を含めて自動車屋が多くなってきた。ファミリーレストラン、パチンコ屋、洋服の青山。郊外の国道の一般的な風景だ。姫はどんどん先を歩いていく。「振り向きもしないね。」
     工業団地入口の角に大阪王将がある。「大阪王将はヤマチャンの時に行ったよな。」あれは岩本町だった。その斜向かいを見て、「すき家と山田うどんが同じ敷地にある」とスナフキンが指差す。「山田うどんは一度しか入ったことがないよ。旨いのか?」「早くて安いのが取り柄だね。モツ煮込みのセットなんて昔よく食った。」「うどんとモツ煮込み?」「半ライスをつけるんだ。」それも三十年も前のことだ。「山田うどんは埼玉ですよね。」桃太郎は以前、春日部に住んでいたので知っているのだろう。本社は所沢である。
     腰が少し重くなってきた。ロダンが少し遅れかけている。ヨッシーとオカチャン、マリオの三人が先頭に立ってどんどん歩いていく。「前を行くのはお年寄り、先輩ばっかりですね。」
     そして漸く新町桜株の交差点に着いた。地名は、新町村の開拓者・吉野織部之助を偲んで株立ちの吉野桜を植えたことに因むらしい。リサイクルショップ「カシコシュ」(青梅市新町五丁目一番一号)の陰に馬頭観音と庚申塔(文化十四年)が建っている。どちらも自然石に篆書体(?)の文字を彫ったもので、庚申塔と読むのが難しかった。これは石灰岩らしい。
     信号を渡って向かいの小さな公園で休憩する。ちょうど三時だ。かなりのペース(たぶん時速五キロ程度)で五十分歩いたから、瑞穂松原バス停から四キロは越えただろう。ここで少し休憩する。ヨッシー、オカチャン、女性陣から煎餅等が配られる。
     「余り腰を落ち着けちゃうと却って動けなくなります。そろそろ出発しましょう。」そのすぐ先が東禅寺だ。青梅市新町二丁目二十番十号。臨済宗建長寺派。金錫山と号す。門前に六地蔵と天保五年(一八三四)の庚申塔が建っている。「東禅寺って高輪にありますよね。イギリス公使館があった所。」「同じ名前のお寺はいくつもあるよ。」
     顕彰碑には、「勧請開山勅謚覚海禅師・中興開山秋岩信和尚・開基吉野織部之助正清」とある。

    元和二年(一六一六)吉野織部之助が新町村開拓の時、羽村一峰院から秋岩和尚を招き開創したが、建長寺二十八世覚海禅師を勧請開山とし、建長寺未となった。(『青梅市史』)

     さっき村山土佐のところで間違えてしまったが、吉野織部之助は忍城の成田氏の家臣で、小田原滅亡後に帰農し下師岡村に土着した。そして幕府代官高室金兵衛昌成(武田遺臣の子)の許可を得て新町村の開拓に当ったのである。高室昌成の支配地は、多摩郡、入間郡、高麗郡、比企郡、大里郡、男衾郡、幡羅郡、榛沢郡、秩父郡等九郡百八十一か村に及んでいた。(馬場憲一「近世前期世襲代官の支配とその終焉-江戸幕府高室代官の事例を中心に-」『法政史学』第四十号より)
     吉野に協力したのは下師岡村の池上新左衛門、島田勘解由、吹上村の塩野二左衛門、南小曽木村の若林五右衛門、高根村の宮寺次郎左衛門だった。さて新田開発はどのような手続きで行われるのか。

     ところで、管見のかぎりでは彼(金兵衛昌成)に関する初見史料は慶長十八年(一六一三)二月、多摩郡青梅周辺諸村の名主・年寄あてに触れ出された次のような廻状である。
    此度、西武蔵野ニ吉野織部之助致頭取、新田取立候間、二男三男有之者ハ出之、百姓相勤可申侯、且井穿人馬、織部之助差図次第可出候、若於滞可為越度者也、
    丑二月高室金兵衛印
          青梅村藤橋村/黒沢村谷野村/成木村/木ノ下村/
          北小曽木村/塩舟村/上師岡村/根ヶ布村/乗願寺村
        右村々名主
           年寄
     吉野織部之助は戦国期の在地土豪で、天正十八年(一五九○)七月北条氏滅亡後、多摩郡下師岡村に土着したが、この廻状はその織部之助が幕府の許可を受けて計画した多摩郡新町村の開拓を促進させるために触れ出されたものである。(馬場・同論文)

     近隣村々の二男三男を移住させること、井戸堀のための人馬供出は織部之助の指図に従うことを代官の名で命じている。「もし滞るに於いては越度(落度)となすべき者也」。要するに罰すると言っているのだ。これによって新田が開拓され、吉野織部之助は近隣諸村の名主を兼ね、年貢請負の大元締めとなる。

     吉野氏について、いくつかの事例を通して見てくると元禄以前は大門・新町・河辺・今寺など周辺諸村の名主役を兼務し、それらの村の年貢の徴収や代官所への上納をはじめ、「割本」役として陣屋役の割付けの差配などに関与しており、郷村的な結合を示すこの地域の村落支配に士豪的な性格を残す農民として大きな権限を与えられ、高室代官の下で在地支配に重要な役割を果していたことがわかる。(馬場・同論文)

     しかし馬場論文によれば、その後は年貢未進が相次いで、天和三年(一六八三)吉野家二代目の太郎右衛門の時代には、今寺・新町両村の未進年貢が十六両余に達した。そのため太郎右衛門は自らの田地屋敷を処分してその処理に当っている。シンデン開発は順調ではなかったと言えるのかも知れない。太郎右衛門の後を継いだ庄右衛門は、もはや私費弁済は出来かねると、未進分を村全体での分担の形に直し、二十五年の歳月をかけて弁済した。このために、吉野家の権威は以前程ではなくなって行く。
     「あれはミツウロコ、北条氏の紋ですよね。」ロダンが見つけたのは本堂棟瓦に光る金色の紋だ。それがなぜここにあるのか。吉野氏は大和国吉野の出身で、楠木氏の裔と称しているので家紋は菊水になる。それなら寺の紋であろう。
     御嶽神社入口を右に曲がれば大井戸公園だ。青梅市新町二丁目二十七番。擂鉢状に巨大な穴を掘り下げ、その中央に井戸を作ってある。水のない土地で、開拓には井戸が必須だったのであり、これも吉野織部之助によって大々的に改修されたのである。羽村の「まいまいず井戸」よりも規模が大きい。井戸掘削技術が未発達で、できるだけ水源近くまで掘り下げる必要があったのである。

    青梅新町の大井戸
     大井戸は、人が水口付近まで近づくための擂り鉢形の施設と水をくみ上げる筒井戸からなる漏斗状の形をしています。このような形の井戸は、羽村市のまいまいず井戸(都指定史跡)など、水の得にくい武蔵野台地等で構築されていますが、東西約二十二メートル、南北約三十三メートル、深さ七メートルの擂り鉢部と周囲の盛土からなる大井戸は、なかでも最大の規模をもつものです。
     この井戸が掘られた時期については、定かではありませんが、地表から筒形井戸を構築する技術が一般化する以前の様式であると考えられます。また、武蔵野の原野を走る「古青梅街道」と「今寺道(秩父道)」の二本の古道が交差する位置にあることから、おそらく江戸時代の開発以前から道行く人馬の飲み水を供給する場所となっていたものと思われます。
     新町村の開発は、慶長十六年(一六一一)に師岡村の土豪的農民吉野織部之助らによって始まりますが、この際、大井戸に大規模な改修が加えられ、塩野家井戸として使用されたことが、開村の様子を記した「仁君開村記」や発掘調査の結果から想定されます。さらに、筒井戸の底付近から出土した、明和七年(一七七〇)の年号と「永代不絶泉」の墨書をもつ願文石から、その後も使用されていたことが明らかになりました。
     このように大井戸は、中世後期から近世初期の武蔵野台地の開発に関する貴重な歴史的以降で学術的な価値も高い史跡です。(東京都教育委員会・青梅市教育委員会掲示)

     街道に戻りかけたところにあるのが旧吉野家住宅だ。青梅市新町一丁目二十一番九号。「なんだ、街道からも入れるんですね。」

     開村当時の建物は江戸時代末期に焼失したと伝えられており、現在の建物は、第九代文右衛門の妻かくの実家である三ヶ島村(現埼玉県所沢市)の名主守屋氏の住宅を譲り受け、移築したものです。
     嘉永四年(一八五一)十一月に棟上げをした後、四年の歳月をかけて造作を行い、安政二年(一八五五)三月に完成したとあります。その後、明治中期と昭和三十五年に改造・改築等が加えられ、青梅市に寄贈された昭和五十二年から昭和五十三年にかけて大規模な修理が行われ、現在に至っています。
     建物は、桁行二十・三メートル、梁行九・〇九メートル、建築面積二一七・三十二平米で、かやぶきの入母屋造りとなっており、屋内は、向かって右側が土間部分、左側が座敷などの床上部分となっています。

     中に入ると小柄な女性が一人で留守番をしている。「代表の方にご記入いただきます。」これは姫に書いてもらう。典型的な大百姓の家である。竈に火をくべる穴がないとロダンが不思議そうに言うが、裏に回ればちゃんとある。「普通は逆じゃないでしょうか?」それは分らない。「寒そうだよね。」「昔の人は寒さに強かったんです。」
     「そこのツツジの植え込みの所に、使用人の家が建っていたそうです。私は信州ですから知りませんが、そう教えられています。」そのそばに井戸がある。青梅街道とは逆の道を隔てた所が今の本家だそうだ。
     話を聞いていると長くなりそうなので出ようとすると、女性がパンフレットに絵葉書を三枚づつ挟み込んでいる。これを人数分作るつもりなのだ。「挟み込むのは私たちでやりますから。」「そうですか。それじゃセットしたのが五組、残りはこれです」と渡してくれた。
     青梅街道を少し先に行けば鈴法寺公園、鈴法寺跡である。青梅市新町一丁目二十二番地十八号。廓鈴山虚空院鈴法寺は普化宗総括派の総本山であった。文永三年に藤袴村(埼玉県幸手市)に創建、天文元年(一五三二)に葦草村(埼玉県川越市)に移転。更に慶長十八年(一六一三)にここ新町村に移転した。当時の住職月山養風が、忍城で吉野織部之助と共に戦った秋山惣右衛門の息子であり、その縁で新町村に呼んだのである。
     公園の奥に歴代住職の墓(卵塔)が並んでいるだけで、他に昔を連想させるものは何もない。「普化宗は虚無僧ですね。」「あの尺八を吹く?」「往来で尺八を演奏するのは虚無僧だけに許されてたんだ。」
     普化宗は禅を名乗ってはいるものの、仏教には殆ど関係がない。明治四(一八七一)年に普化宗の廃宗に伴って廃寺となった。

     ・・・・虚無僧には「日本国中往来自由指免」の特権が認められており、各領内の村々に於いても「一夜一宿之義ハ其所之役人江断リ罷通」ことが認められ、その際には「一宿を乞には一人前白米六合木賃三十二文支出する也」と定められていて、その際「不足分之所ハ村割に懸候法」という便法が認められていたのである。ここにも虚無僧の特別保護の面が現れているのである。つまり、虚無僧は待遇面では武士同然に処遇されるとともに、かつ武士の犯罪面での「隠家」としての場所を提供し、そして全国を自由に往来できる特権が与えられていたのである。ただ生活の保障がなく、托鉢によって、それをなすことになっていたようである。(内藤二郎「虚無僧」『駒大経営研究』)

     慶長の家康公御定によれば、敵を探す場合にも虚無僧となることが許されている。そして虚無僧だけが托鉢の手段として往来で尺八を演奏することが許された。「道中宿往来所々何方にも天蓋を取諸人ニ顔あわせ申間敷事」ともあって、どこであっても天蓋で顔を隠すことが許されたから、犯罪者はもとより、隠密御用には最も適していた。『隠密剣士』の秋草新太郎が虚無僧姿に身を窶すのは理由があったのである。

     三時半だ。「今日は計画通り全部回れるんですかね。」桃太郎が心配する通り、たぶん二三ヶ所は次回に持ち越しになるのではないか。「日没が四時二十八分ですからね。」河辺駅北入口を通過。これでカベと読む。「知らばければ読めないよ。」
     「山が随分近くなったね。」四時を過ぎた。東青梅三丁目で街道から逸れて住宅地に入る。目的は六万薬師だが見つからない。六万通り接骨院があったからこの辺だと思うのだが難しい。後で確認すると、六万通りが旧街道になるようだ。接骨院から真っ直ぐ西に向かって次の角を右に曲がれば薬師があったのである。天正十八年(一五九一)師岡城(勝沼城)落城後、疫病が大流行し、その防除の祈祷と戦死者追福を祈願して、天寧寺八世正翁長達が法華経六万部を読誦書写して創建したと伝えられる。
     東青梅を過ぎ成木街道入口の分岐を見てJR青梅線を越え、青梅線の南側を走る旧青梅街道(都道二八号線・青梅飯能線)に回る。
     乗願寺の門の右を見ると参道は線路で分断され、踏み切りのすぐ向こうに石段が見えた。「江ノ電の沿線みたいだね。」「そうね。」私が踏切を渡りきる直前に警報が鳴り出し、後続の何人かが遮断機で遮られた。石段を登れば勝沼山乗願寺だ。青梅市勝沼三丁目一一四番地。時宗、相模國当麻村無量光寺の末である。山門から長く続く板塀が見事だ。

    正安二年(一三〇〇)、三田下総守長綱が浅草・日輪寺の将門供養の席に列した折、当麻山二世他阿真教上人に会い、その徳に感じ、是非にと上人を請じ一寺を建立したのがこの寺であるという。また一説には鎌倉・光明寺二世白旗寂恵の弟子箕田定恵の開基とも伝える。その後、永禄六年(一五六三)三田氏は滅亡。寺勢も衰徴し、加えて天正十八年(一五九〇)八王子城攻撃の前田利家・上杉景勝軍により焼き打ちのあおりの兵火で炎上したと伝えている。慶長年間(一五九六~一六一四)に至って二十四世覚阿性海が再建し、慶安二年(一六四九)徳川家光から阿弥陀堂領として三石の朱印状を寄せられた。その後、安永五年(一七七六)、寛政二年(一七九〇)と修築されて堂字も整備された。(『青梅市史』)

     この寺の北西には三田氏の居城だった勝沼城があった。三田氏は将門の後胤を自称しているが信じるべき史料はない。最盛期には杣保(青梅)から入間郡、高麗郡を支配したと言われる。杣保(そまのほ)は、国衙や荘園に木材を納める地である。永禄六年(一五六三)、長尾景虎に随って北条氏と戦って滅ぼされた。城は北条方の師岡将景が引き継いだので師岡城とも呼ばれる。この寺でも毎年十一月二十三日に双盤念仏を行っている。多摩地区には多いのである。
     四時半だ。既に日は落ち、寒くなってきた。もうこれ以上は無理だろう。姫は、宗建寺と住吉神社次回に回すと決断した。
     走る車は既にライトを点けている。街道沿いの脇道には勝沼神社の鳥居が建っているが、線路を隔てた丘の上だ。本来は街道からそのまま参道が続いていたのに、間に鉄道が走って分断されたのだ。
     道は次第に宿場町の様相を帯びてきた。街灯はガス灯を模したような作りで、その柱には「ぶらり青梅宿」の文字と猫の絵の切り絵の金属板が取り付けられている。その下に、「ありがとう、映画看板」の布製ポスターが閃いていて、寅さんが猫になっている。八王子と猫の関係は何だろう。
     間口の広い木造二階家、蔵を改造した家など旧街道の面影が残る道だ。そして住吉神社の辺りから、次第に映画看板が多くなった。店舗の外壁、屋根に映画看板が掲げられているのだ。
     用品屋の二階外壁には『晩春』(原節子)、『拳銃無宿』(ジョン・ウェイン)。喫茶店に『慕情』(ジェニファー・ジョーンズ)。『哀愁』(ビビアン・リー)。木造のバス待合所には『荒野の決闘』(ヘンリー・フォンダ)、『バス停留所』(マリリン・モンロー)・・・・きりがない。全て看板絵師の久保板観氏による。昭和幻燈館、赤塚不二夫会館、昭和レトロ商品博物館。
     駅舎は鉄筋コンクリートの四角い建物で、レトロ感満載だ。ここで姫は解散宣言をする。三万歩。十八キロか。「最長記録じゃないですか?」そうかも知れない。かなり疲れた。「どこにする?」「そこに魚民があるぜ。」しかし皆はもっと都心に近い方が良いと言うので立川になる。
     地下の連絡通路には『終着駅』、『ティファニアーで朝食を』、『鉄道員』の看板が掲げられている。「こっちは、『ぽっぽや』だわ。」十六時五十二分の東京行きホリデー快速が丁度来た。
     青梅線には初めて乗った。車内は登山姿の乗客で一杯だ。三十分程で立川に着き北口に出る。それにしてもペデストリアンデッキ(この名称を始めて知った)はどこまで続くのか。立川は大都会だ。スナフキンは余程この辺りに詳しいのか、人ごみの中をスイスイ抜けていく。
     「三割引の券がある」と桃太郎が言っていた華の舞に向かっているのだ。ビルの入口で待機していたアルバイトの女の子に空いているかと訊くと、「たぶん」と曖昧な笑顔を作る。いい加減なアルバイトだ。エレベーターで昇ると予約で一杯だった。
     「それじゃ、にじゅうまるに行こう。」ホントに良く知っている。案内されたのは中二階のような狭い部屋で、マリオが天井に頭をぶつけた。空間を目一杯使って客を入れようとする。気を付けなければいけないが、店員が一言注意するのが筋ではないか。
     漬物はキュウリとナスの一本漬け(!)焼酎は一刻者。「二本目は安いのにしよう」と芋日和。塩キャベツ、串焼き盛合わせ、ソーセージ。桃太郎は来週の近郊散歩の会、新年の江戸歩きの担当なので忙しい。「明日は絶対下見をしなくちゃ。」二時間でお開き。三千円也。

    蜻蛉