文字サイズ

    青梅街道 其の八 Playback PartⅡ 青梅宿
      平成三十年二月十日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.02.18

    原稿は縦書きになっております。
    オリジナルの雰囲気でご覧になりたい方はこちらからダウンロードしてください。
       【書き下しオリジナルダウンロード】

     節分の日、こころは幼稚園で初めて豆まきをした。「でも、本物の鬼は来なかったの。先生がお面をつけたんだよ。」どこかに本物の鬼がいると思っているのだ。
     今週、大寒波は北陸を中心に大雪を降らせた。特に福井県では千五百台の車が国道で三日も立ち往生し、物流は完全に止まりスーパーやコンビニから商品も消えた。除雪が追いつかないのである。インフルエンザも例年以上に流行っているようで今シーズン(九月から八月まで)の累計受診者数は一月末時点で一千万人を超えた。
     ただ今日は寒気も少し緩むようだ。旧暦十二月二十五日。立春の次候「黄鶯睍睆(おうこうけんかんす)」。ウグイスが啼き始める候である。二三日前までは午後から雨または雪の予報が出ていたが、何とか夜までもちそうだ。
     八時十六分に的場発、拝島に九時十一分に着き、九時十九分の青梅線に乗り換えると青梅には九時三十八分に着く。徒歩も含めて二時間弱で七百六十円也。
     拝島で誰かと一緒になるかと思ったが誰も乗っていなかった。青梅駅ホームに数ヶ所ある木造待合所はレトロ感満載だ。地下連絡通路一面に飾られている映画看板は『旅路』(佐久間良子、仲代達也)、『危し怪傑黒頭巾』(大友柳太郎)、『鉄道員ぽっぽや』(高倉健)、『鉄道員』、『ティファニーで朝食を』(オードリー・ヘップバーン)、『終着駅』(ジェニファー・ジョーンズ、モンゴメリー・クリフト)。これらを私は一つも観ていない。洋画はあんみつ姫の領域である。
     ここを含めて町中を飾る映画看板は全て、最後の映画看板師と呼ばれる久保板観(昭和十六年生まれ)の作品である。泥絵の具に膠を混ぜる技法は国内に一人だけだったが、この日曜日に七十七歳で死んだ。

     板観さんは青梅市出身。中学時代から映画ポスターを模写し、中学卒業後は看板会社を経て、十六歳で市内の映画館で働き始めた。看板絵師として活躍したが、市内から映画館が消えた一九七三年以降は、商店の看板を請け負った。
     再び映画看板を手がけるようになったのは九四年。青梅駅周辺の商店街が「昭和レトロ」をテーマに活性化に取り組むことになり、映画看板を飾ることにしたためだ。かつて花形映画看板師だった板観さんが作品を一手に引き受け、年に三十枚を描くこともあった。
     街全体で昭和の雰囲気作りにこだわった結果、「昭和」は青梅駅周辺の代名詞に。懐かしむ中高年や、昭和に新鮮さを感じる若者らが訪れるようになった街に、板観さんとその作品は欠かせないものだった。(『読売新聞』二〇一八・二・七)

     改札口を出ると、正面の棚では「ようこそ昭和の町青梅へ」のポスターを背景に、金色のバカボンのパパが逆立ちしている。集合したのは、あんみつ姫、ヨッシー、オカチャン、スナフキン、ロダン、ファーブル、蜻蛉の七人だ。
     「石牟礼道子が亡くなったよ。」スナフキンに言われても私は知らなかった。九十歳。水俣病患者とともに闘い続けた生涯だった。ロダンは駅前の観光案内所で、昭和レトロ商品博物館など三館巡りの割引券を貰っていたが、今日は幻燈館しか行かないので要らなかった。「返してきますよ。」次の電車は十三分着だからもう良いだろう。十時ちょうどに出発する。

     青梅は武蔵野台地と多摩川渓谷が接し、多摩川が形成した河岸段丘の町である。大久保長安によって代官所は八王子に、陣屋が青梅に置かれたことで、青梅は甲州街道裏街道の要衝となって宿場町が形成された。街道整備の主目的は石灰、木材を江戸に運ぶことだが、青梅は古くから青梅縞で知られた織物産地である。多摩川流域では古代から布の生産が盛んで、平安末期から鎌倉時代初期の頃には、既に青梅は織物の主要生産地であった。
     江戸時代中期には市で織物の売買も行われ、明治十一年頃をピークにした青梅織物(青梅縞)も、やがて明治中期以降は粗製乱造が祟って衰退した。それが大正期になり、綿による夜具地の生産に切り替えたことで再興する。戦中は統制によって生産が低下したものの、戦後になるとガチャ万景気もあって夜具地の生産では全国シェアの六割を占める程になった。
     ガチャ万景気は朝鮮戦争特需である。国連軍の要請による特需の大部分は土嚢用麻袋、軍服、軍用毛布、テント等に使われる繊維製品であったから、繊維工業は驚くほどの好景気に見舞われた。機械が一回ガチャンと回れば万の単位の金が入る。繊維業を中心としたから糸ヘン景気とも呼ばれた。
     まだ戦後の物価統制は続いており、ヤミが警官に見つかり「コラッ」と叱られると罰金千円を支払うコラ千景気でもある。しかし朝鮮戦争終結によって特需は終わり、昭和三十五年頃から衰退が始まる。現在は昭和レトロを看板に町興しをしている最中だ。

     駅を出てすぐ左の公衆トイレの前を行く道が三業通りで、芸者置屋、料理屋、待合の三業が許可された花街である。昭和四年の『全国花街めぐり』では置屋十数軒、芸妓五十人、料理屋三十数軒となっているが、最盛期にはもっと多かっただろう。花街はガチャ万景気と共に隆盛を誇り、そして衰退した。しかし姫は目もくれない。
     次のパン屋とビルの間の道が仲通。旧青梅街道に突き当たって左に曲がると、昔から続くらしい商店が並んでいる。回春堂薬局、染物と洗張りの紺春、カワスギ陶器店、傘のホテイヤ。こうした店が今でもちゃんと営業していること自体、現在の日本では稀有なことだろう。「これが青梅宿なんだ」とファーブルに説明している時、姫の携帯電話が鳴った。雪守横丁と名付けられた路地の前である。桃太郎以下三人が駅に到着したと言うので少し待つことになる。
     暫くして桃太郎の大柄な姿が見えた。横にいるのは小柄なハイジ、後ろにいるのはマリオだ。「三人ともマスクをしているから分らないよ。」「拝島で、線路内に人の立ち入りがあって遅れたんですよ。」「最近、線路内立ち入りが多いですよね」とヨッシーも言う。それにしても一足違いだった。「普通だったら時間通り。駅に着いたら三人しかいないんだ。どうしようかって思った」とマリオはちょっと不満そうだ。
     映画看板の登場人物が猫になっているものもある。例えば小津安二郎「東京物語』は「名匠子猫安二郎の映画芸術」で主演は鰹節子や笠肉球である。どういう訳か分らないが、青梅は猫の町である。レコード屋マイナー堂の二階には『シェーン』の映画看板、一階のガラスには一面に演歌歌手のポスターが貼られている。隣は黒塗りの木造二階建て見世蔵造りの呉服屋「白木屋」だ。街灯はガス灯をイメージしたものだろう。向いの日光堂から北に入る横丁がキネマ通りだ。
     昭和レトロ商品博物館(元は家具屋)と赤塚不二夫会館(元は土蔵造りの病院)が隣り合っているが、今日行かない。「以前、隊長の時に寄ったみたいですから。」私はその時参加していない。
     「赤塚さんも青梅に関係あるんだ?」ファーブルが不思議そうに訊く。しかし赤塚不二夫は青梅には一切関係がない。中卒後、十八歳で上京するまで赤塚は新潟の看板屋で働いていた。映画看板を目玉にする青梅は、それだけを頼りに了解を得てここに記念館を開いたのである。
     赤塚不二夫はトキワ荘随一の美少年だったと言うが、晩年にはその面影が全くなかった。イヤミ、チビ太、レレレのおじさん、目ん玉つながりの警官、ニャロメ、べし、ケムンパス等のキャラクターは私もスゴイと思う。しかし代表作とされる『天才バカボン』は私にはちっとも面白くなかった。最後はアル中で無茶苦茶だった。
     チョコレート色の電話ボックスはトトロの森の巨木をイメージしたようだ。宮崎駿『となりのトトロ』も昭和三十年代前半の物語であった。「まだ使われてるんだネ。」電話ボックス自体が今では珍しくなってしまった。テレホンカードはまだあるのだろうか(調べてみると、五百円と千円の磁気カードが販売中だった)。
     風雨に晒されたような木造のバス待合所は「青梅猫町一丁目」と名付けられ、壁には『荒野の決闘』のポスターが貼られている。「猫町ってなんだ?実際のバス停じゃないんでしょう。」しかしすぐ脇にホンモノの住江町停留所があった。「町中が真面目にやってるのがスゴイ」とファーブルが笑う。

     そこがもう住吉神社だ。青梅市住江町十二番地。「住吉神社って海の神様じゃなかったの?」勿論そうである。応安二年(一三六九)、延命寺を開いた季竜が同時に故郷の摂津国住吉明神を稲荷山に祀ったのが始まりと伝える。
     鳥居を潜ると、二の鳥居の先には長い石段が待っている。「私は下で待っています。」石段はかなりシンドイ。上り切ると両側の小さな祠に、恵比寿と大黒の恰好をした猫が立っている。但し服装は中華風だ。割に新しい狛犬は巨大だ。「ライオンみたいだ」とロダンが言うが、唐獅子と言えば良いだろうか。
     拝殿の彫刻も立派だ。「住吉宮拝殿勧化帳」によると、文政七年の幣殿・拝殿再建には村内はもとより、近郷や青梅縞の取引き先、江戸の豪商からも寄進されたと言う。拝殿天井には小林天淵の雲竜図が描かれていると言うのだが、覗き込んでも雲竜図は見えない。
     その小林天淵筆塚がある。石碑の裏に回ると梅の絵と、全く読めない漢詩らしきものが彫られている。ロウバイがよく香ってくる。「春だね。」

     蠟梅や昭和レトロと猫の町  蜻蛉

     女坂の緩やかな石段を下りて姫と合流し、昭和幻燈館に行く。青梅市住江町九番地。看板には「有田ひろみ・ちゃぼの常設展」とある。有田ひろみが墨絵で猫を描き、母の有田ちゃぼが猫のぬいぐるみを作る。
     狭い店内の入口に近い壁には「昭和の達人 滝田ゆうの世界」とあって、滝田ゆうのポストカードがたくさん並べられている。「蜻蛉の大好きな人ですよね。」滝田ゆうは国立に住んでいて青梅との直接の関係はないが、震えるような描線で失われた昭和への郷愁を描き続けた。
     その横からはモノクロのプロマイドがぎっしり貼られている。語学的にはブロマイドが正しいが、マルベル堂はプロマイドの商品名で売り出した。「そう言えばありましたね。」「今でも浅草で売ってるよ。」マルベル堂では、自分のプロマイドも作れるらしい。「舟木一夫が可愛い。」デビュー当時の写真だ。「この髪型ですね。」「郷ひろみだって可愛かったですよ。」妻は彼のファンだが、デビューした時ラジオでしか知らなかった私は平山みきの新曲かと思った。
     「これは誰でしたか?」「大原麗子。」二十歳頃の写真だ。その最期を知っているから、映画の『居酒屋兆治』を観るのは辛い。まるで大原麗子の死を予告したような映画である。可哀そうな大原麗子。
     藤圭子が見当たらなかったのはどうしてだろう。昭和四十四年に『新宿の女』で衝撃的にデビューし、四十五年の『圭子の夢は夜開く』が圧倒的だった。ビリー・ホリディやエディト・ピアフが歌える筈の歌手だったと思う。若過ぎる晩年、奇矯な行動で周囲に迷惑を撒き散らしたが、実は統合失調感情障害と推定される病だった。そして突然自殺した。可哀そうな藤圭子。
     藤純子の引退映画『関東緋桜一家』のポスターもある。学生時代、私の部屋の壁には『緋牡丹博徒・お竜参上』のポスターが貼られていたが、あれはどこから手に入れたものだったか、まるで記憶がない。まさか映画館で盗んだ訳ではないと思う。
     斎藤龍鳳は「高倉健になれなかった男は、せめて娘がお竜さんのようになるように」と願ったが、私は強いお竜さんより、『明治侠客伝三代目襲名』の遊女「初栄」や、『博奕打ち総長賭博』(傑作です)の鶴田浩二の妹で若山富三郎の女房になる「弘江」のような、脇役で儚く哀しい藤純子が好きだった。
     映画批評に斎藤龍鳳、竹中労なんていう武闘派(そして無頼派)が活躍していた。一九六〇年代後半は、映画批評、漫画批評をダシにして左翼が己の心情を語った時代である。斎藤龍鳳の名前を知る人も少ないだろう。遺稿集に『何が粋かよ』がある。革命家を夢見た滅茶苦茶な人間で、薬物中毒者でもあった。昭和四十六年(一九七一)四十三歳で死んだ時、大島渚がこんな追悼文を書いた。

    龍鳳よ、斎藤龍鳳よ。
    ぼくは確かに君の叫びを聞いたよ。君の叫び声を聞いたよ。
    君の叫びは、ぼくたちの時代の無念さを伝えていた。
    映画批評などを書いて生きねばならなかった君の無念さを伝えていた。
    それは君が自分の生活を語った文章にあったような美しくも悲しい響きだった。

     ダメだ。こんな調子で書いていると作文がどれだけ長くなるか分らない。どうやら私自身が青梅のレトロに感染してしまったようだ。
     入館料二百五十円を払って奥の部屋に入る。「写真もOKですよ。」猫のヌイグルミには何の興味もないが、姫やハイジは猫が好きだ。山本高樹による青梅の町のジオラマが展示されている。私は名前を知らなかったが、NHK朝ドラ『梅ちゃん先生』のタイトルバックのジオラマを作った人である。ここはその常設館なのだが、「今、他に貸し出しているので残っているのが少ないんです」と姫が嘆く。調べてみると結構あちこちで展覧会をしているようだ。
     「十人でしたね。割引があるんですよ。」受付の女性が五十円玉を十枚持って来た。「いつもは、団体割引はないかって訊かれるんですよ。何も訊かないから九人だと思って。」なんだか得をした気分だ。桃太郎は「お賽銭に使おう」と呟く。
     これまでレトロ趣味は何度か起きた。大正ロマンへの懐古趣味が流行し、竹久夢二が人気を集めた時期もある。川越に大正浪漫通りが作られたのは平成七年のことだ。さくらももこの『ちびまるこちゃん』は物語世界を昭和四十九年(一九七四)に固定した。
     そして平成十年頃からは特に昭和三十年代への懐古趣味が始まった。火をつけたのは平成十七年(二〇〇五)の『ALWAYS三丁目の夕日』だろう。西岸良平が昭和四十九年(一九七四)から『ビッグコミック・オリジナル』に描き始めた地味なマンガ(当時は『夕焼けの詩』)が、映画化されて大ヒットした。舞台は高度経済成長の前の昭和三十三年、私は七歳だった。これによって、その時代を知らない若い世代にまで懐古趣味は広がった。何故か。

     昭和三十年代と言っても、前半はまだ戦後を引き摺って貧しかった。街頭には白衣の傷痍軍人の姿が見られた。三十四年、小学二年生の時のクラス集合写真を見ると、モンペの女の子がいる。一方では少女雑誌のモデルのような美少女(確か星さんだった)もいるのだから落差は大きい。
     我が家について言えば、三十二年(一九五七)には父が結核の再発で即日入院、一年間の休職を余儀なくされた。入営初日に結核が見つかって兵役につかなかったのは幸いだったが、戦後十年を経て再発したのである。ちょうど結核治療にストレプトマイシンの使用が主流になった頃だから助かった。二三年前までは肋骨を切る胸郭成形術や肺切除等の外科的療法が中心だった。
     油揚げを焼いただけのものがお菜だったこともある。ライスカレーはご馳走だった。デパートの屋上には小さな観覧車があり、最上階の食堂は特別な日にご馳走を食べる所だった。しかしデパートはめったに行くところではない。スーパーマーケットはまだなくて、買い物をするのは小さな商店ばかりだから、店主は町内の人なら殆ど顔馴染みだった。
     時々紙芝居屋が自転車でやって来たが、小遣いを貰えない私は後ろの方で眺めていた。富山の薬売りがやって来ると紙風船が貰えた。横丁には車が入って来ることは滅多にない。子供たちはそこでチャンバラごっこをした。棒切れはどこかで調達して、玄関の三和土で先端を擦って尖らせる。紙巻テープの火薬を装填して音を出すピストルもあったが、我が家では父が武器は許さなかったから買って貰えない。相撲も重要な遊びだった。冬になれば竹スキー(三十センチ程の竹の先端を曲げ、そこに長靴の爪先を入れる)で、雪の踏みしめられた路地を滑る。竹スケートと言ったかも知れない。
     夕飯前の楽しみはラジオだ。『笛吹童子』は昭和二十八年だから二歳の私が覚えている筈がないのだが偽の記憶だろうか。同じ『新諸国物語』のシリーズ『紅孔雀』(二十九年)は歌だけを覚えている。『赤胴鈴之助』(三十二年~三十四年)、『まぼろし探偵』(三十四年~三十五年)、それに『一丁目一番地』(三十二年~四十年)、『二十の扉』(三十三年~三十五年)、『とんち教室』(二十四年~四十四年)なんていうのもあった。
     テレビのある家はまだ少なかった。『月光仮面』(三十三年~三十四年)、『七色仮面』(三十四年~三十五年)の時は家にまだテレビはなく、友達の家に行って見た。
     漫画雑誌は月刊で、『少年』(光文社)、『ぼくら』(講談社)、『冒険王』(秋田書店)、『少年画報』(少年画報社)等。何といっても『少年』が第一で、『鉄腕アトム』、『鉄人二八号』が連載されていた。無限連発銃を撃ち続ける『矢車剣之助』もこの雑誌だった。トキワ荘の連中が投稿していた『漫画少年』は昭和三十年で終わっているから私には縁がない。女の子向けには『りぼん』だろか。
     三十一年(一九五六)に出版社系週刊誌として初めて『週刊新潮』が創刊され、三十四年(一九五九)には『週刊文春』が続いた。それが子供の世界にも及んで三十四年には『週刊少年マガジン』と『少年サンデー』が創刊され、マンガは新しい時代に入った。週刊ペースに乗れない古い漫画家は淘汰され、トキワ荘グループが一気にメジャーに躍り出た。但しそのリーダーの寺田ヒロオは古いタイプの漫画家で、やがて沈黙を余儀なくされる。
     世界が変わり始めたのは三十二年(一九五八)の東京タワー竣工の頃からだろう。テレビ、洗濯機、冷蔵庫が三種の神器と呼ばれた。そして三十五年(一九六〇)、岸信介の構想を引き継いで池田隼人が所得倍増計画を打ち出した。我が家のテレビは三十五年にやって来た(テレビはやってくるものだった)。実はこの年にカラーの本放送が開始しているのだが、周囲でそんなものを見た記憶がない(我が家にカラーテレビが来るのは四十五年以降だ)。テレビは貴重なもので、見ない時は画面の前に緞帳の幕を下ろした(あるいは観音開きの扉を閉めた)。そもそも放送していない時間が多く、そんな時にはテストパターンと言う画面になった。

     思い出せばきりがないが、しかしあの時代に戻ろうとは思わない。毎月のドブ浚いで道路脇に積まれた汚泥は臭かった。トイレは汲み取り式で、定期的にバキュームカーがやって来た。検便の日にはマッチ箱に便を入れて持っていった。夏は商店の店先に蝿取り紙が吊るされ、うっかり頭が触れるとネバネバして気持ちが悪かった。栄養状態が悪いせいか、しょっちゅう洟水を垂らして袖口でなすっている子供がいた。
     炭鉱事故が頻繁に起きた。公害が大きな問題になるのもこの時代であり、水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくの四大公害訴訟が起こされた。また高度経済成長は大量の労働人口を都会に集めたから、働き手を奪われた農村は衰えた。三十年代は出稼ぎと中卒者の集団就職の時代である。但し山口覚『集団就職とは何であったか』によれば、集団就職自体は昭和十年頃から既に始まっており、就職列車も運行されていた。
     大企業は自宅通勤可能者を優先的に採用したから、地方出身者は主に中小企業や個人商店に吸収された。環境は劣悪で就労は常に不安定だった。昭和三十三年(一九五八)の東京都労働局の調べでは、従業員規模四人以下の職場に就職した中卒者の離職率は、一ヶ月後に十一・三%、一年半後には四十五・一パーセントとなっている。この数値は企業規模が大きくなれば縮小するが、それでも一年半後に全体では二十四・三パーセントが離職している。
     因みに世田谷の桜新町商店会は昭和三十年、集団求人として新潟県に三十人の求人を行った。三河屋の三平や三郎(『サザエさん』の登場人物)はこうして東京にやって来たのである(但しマンガでは三平は山形出身、三郎は青森出身としている)。タコ社長の工場で働く「労働者諸君」は集団就職でやって来た中卒者だろう。
     春日八郎や三橋美智也に代表される昭和三十年代の「ふるさと歌謡」は、東京への憧れと失意、望郷を歌って流行したのである。井沢八郎の『あゝ上野駅』(関口義明作詞、荒井英一作曲)は昭和三十九年(一九六四)だからかなり遅い。

    指をまるめて のぞいたら
    黙ってみんな 泣いていた
    日暮れの空の その向こう
    さようなら
    呼べば遠くで さようなら
    おさげと花と 地蔵さんと(東条寿三郎作詞・細川潤一作曲『お下げと花と地蔵さんと』)

     昭和三十二年の三橋美智也の曲である。関連付けて語られることは少ないが、この歌も集団就職を抜きにしては生まれてこない。東京に出て行く十五歳の少年を、みんなが泣きながら見送る。お下げの少女に別れの言葉をかけるなんて、この時代の中学生には勿論できない。
     うたごえ運動は日本共産青年同盟の活動として始まった。新宿に歌声喫茶「灯」が開店するのは昭和三十一年、それから各地に広まったが、これを底辺で支えた客の多くは、共産主義運動とは縁のない地方出身の若年労働者ではなかったか。また貸本劇画の読者もそうだったろう。
     これでも昭和三十年代に帰りたいと思うだろうか。昭和三十六年(一九六一)の高校進学率は六十パーセント。四〇パーセントは中卒で社会に出たのである。

     住江町交差点の手前の路地は車一台がやっと通れるかどうかという狭い道で、結構急な坂道になっている。多摩川に向かって下っているのだ。左手にある豪邸は津雲邸。青梅市住江町七十二番地二。衆議院議員を八期二十年勤めた津雲國利の屋敷だ。「京都の宮大工を招き青梅の大工、石工、畳職など諸職との協働により建築された瓦葺入母屋造、押縁下見板張、一部漆喰塗の建物」である。「お雛様の展示をやってるんですけど、入りますか?」入らなくても良い。
     右側が延命寺だ。青梅市住江町八十二番地。さっきの住吉神社と同じく泉州堺出身の季竜元筍が開いた。臨済宗建長寺派。狭い境内の隅に小さな五重塔が建ち、門脇には子育て呑龍上人の石柱が建っている。「呑龍上人って太田じゃないの?」「そうだよ。」呑龍は浄土宗の僧侶である。病気の親に食べさせようと国禁の鶴を殺した子供を匿ったことで、子育て呑龍と呼ばれた。明治十六年、太田の大光院から分影を招来したと言う。
     「もうこんなに膨らんでいるのね。」ハイジが柔らかそうな毛に包まれた蕾を指差す。オカチャンは「ハクモクレンかシモクレンか」と呟いているが、コブシではないだろうか。しかし素人に蕾の判定は難しい。本堂を覗くと千羽鶴が無数にぶら下がっている。
     寺を出ると、そこに石橋供養塔があった。境橋。青梅村と千ケ瀬村との境にあった橋で、長さ幅とも一間二尺だったと言う。今では川は暗渠になっている。左を見ると、石垣の上に巨大な石を大量に積み上げている。「何だろう?」津雲邸の庭だった。銀座の柳四世と名付ける柳が一本立っている。銀座通りの柳は地下の共同溝設置工事のために抜き去られたが、その枝が各地に移植されたのである。
     ロダンが地図を広げて「青梅はカナメなんですよ」と説明を始めた。要とは何か。ロダンの指さす地図を見ると、青梅から東に向かって豊岡街道、青梅街道、新青梅街道が放射状に伸び、それと交差する南北の道路は、どれも青梅を中心にした円弧になっているのだ。「これが扇状地の特徴なんですよ。」確かに扇の形だ。
     坂道のすぐ先が宗建寺だ。臨済宗建長寺派、千桃山と号す。青梅市千ヶ瀬町六丁目七百三十四番。開基時期は不明だが、一蓮社尭誉宗公上人が浄土宗寺院として開山し、二世覚林が臨済宗に改めたと言う。一蓮社尭誉宗公上人は宝徳二年(一四五〇)三月に没しているから、嘉吉(一四四一~一四四四)、文安(一四四四~一四四九)の頃に開かれたと考えられる。
     「ヒカリアガタって知ってますか?」知らない。ハイジも知らない。「エーッ、知らないんですか?」姫は残念そうだ。塀に干刈あがたの墓の案内が書かれていた。『樹下の家族』で海燕新人賞、『ウホッホ探検隊』と『ゆっくり東京マラソン』、『ホームパーティ』で芥川賞候補、『黄色い髪』『ウォークinチャコールグレイ』で山本周五郎賞候補。タイトルのいくつかは目にした記憶はあるが、一作も読んでいない。平成四年(一九九二)に四十二歳で死んでいる。
     「珍しい庚申塔があるらしいんだ」と姫に注意を促す。寺の脇の門から入ればすぐに弁天池があり、「妙音殿」の登り口に立っているのが見えた。「あれだよ、あれ。」実は私の今日の最大の目的はこれだった。予習してきたのである。
     直径五六十センチ、厚さ二十センチ程の太鼓形の石に、ショケラを握る剣人六手型の青面金剛が立っているのだ。この形は恐らく類例がない。「珍しいですね」と姫も喜ぶ。金剛は二匹の邪鬼を踏み、日月、二鶏、周囲の雲形も細部まできれいに彫ってある。台座の三猿は烏帽子、チャンチャンコで三番叟を舞っている。「三番叟の扮装した三猿は見たことありますけど、踊っているのは初めてです。」
     「ショケラってどういう字?」ファーブルには先日もボケ(木瓜)の漢字を訊かれた。「カタカナ。」商羯羅天(シヴァ神)あるいは商羯羅天女(シヴァの妻)と言う説もあるが、その正体は確定していない筈なのでカタカナで書くのが普通だ。この名を言い始めたのは窪徳忠で、小花波平六は反対しているが、それならどう呼べば良いのか分らない。庚申塔の研究は殆ど進んでいないように見える。
     文化九年(一八一二)の造で、二百年も経っているとは思えないほど美しい。石も硬いものを使っているだろう。民間信仰による造立と言うより、美術的な観点で造られたと思われる。「何の説明もないんだな。」これだけ珍しいものであれば、スナフキンの言うように解説があってしかるべきだと思う。「ライトアップするんだね。」地面にライトが設置されていた。
     墓地の方で裏宿七兵衛の墓を見ていた数人が出て行ったのでそちらに向かう。玉垣に囲まれた墓所の真ん中の大きな自然石に「裏宿七兵衛」と横に彫られ、小さな丸い石がその上に置かれている。七兵衛は一夜に三十里走ったと言う伝説の盗賊である。足腰が強くなるという御利益を求めて野球選手やマラソン選手が多く訪れる。瀬古利彦も来たことがあるそうだ。
     青梅には義賊七兵衛の伝説があったらしい。実在したのかどうかも怪しかったが、昭和二十六年に武州多摩郡三田領二俣尾村(現武蔵村山市)名主の「谷合氏見聞録」が発見され、その中に七兵衛捕縛と打ち首の記事があるので実在の人物だと分った。元文四年(一七三九)村山三ツ木で捕らえられ十一月二十五日に打ち首になった。そして首は笹ノ門(青梅宿入口)で獄門に晒された。
     鼠小僧や白波五人男、天保六花撰など、江戸時代中期以降には盗賊や悪党が庶民の喝采を浴びる。金持ちに対する恨み、権力への不満などが背景にあるだろうが、反社会的な連中への肯定的関心があれほど生まれた時代と言うのもないだろう。流山には金子市之丞の墓もあった。
     「どんな人なの?」「『大菩薩峠』の冒頭で、机龍之介に斬られた巡礼の孫・お松を助けたんだ。」そこから七兵衛は物語に大きく関わってくる。後に京都島原遊郭に売られたお松を助けるために三百両工面したり(勿論盗んだ)、竜之介を仇と狙う宇津木文之丞の弟兵馬を助けたり、江戸市中を荒らす御用盗が薩摩藩江戸屋敷の画策だと調べたり、小説中ではかなり重要な人物だ。
     「聞いて初めて七兵衛のことが分かりました。今度読んでみよう」とオカチャンが喜んでいるが、『大菩薩峠』全四十一巻を読み通すのはかなりシンドイ。「文庫でありますか?」富士見書房の時代小説文庫で二十冊、ちくま文庫で二十一冊になるが、古本でなければ手に入らないだろう。スナフキンでさえ「俺は途中でやめちゃったよ」と言う。話がどんどん広がっていくから登場人物も多い。最後には机龍之介なんかどうでもよくなるのだ。
     近代小説の概念には収まりきれない、なんとも言いようのない不思議な作品である。机竜之介はヒューマニティの欠片もない無目的な人物で一切の感情移入を許さない。こうした人物はどうして生まれたのだろうか。そして介山はニヒリズム、社会主義、「夕べあしたの鐘の声/寂滅為楽と響けども/聞いて驚く人もなし」の無常観、ユートピア思想、コミューン主義、農本主義を彷徨する。
     中里介山は明治十八年(一八八五)羽村に生まれ、尋常高等小学校を卒業して社会に出た。十七年(一八八四)に横浜で生まれて小学校三年で中退した長谷川伸、二十年(一八八七)横浜の遊郭内で生まれて高等小学校卒の荒畑寒村、二十五年(一八九二)横浜生まれで尋常高等小学校中退の吉川英治、二十八年(一八九五)愛知県刈谷生まれで尋常高等小学校卒の森銑三と数えれば、学校が人を作るのではないことがはっきり分る。
     根岸典則の墓もある。「知ってますか?」知らない。青梅縞問屋に生まれ、井上金峨に学んだ人であるらしい。豪商の家に生まれて学問の道に進んだ例は多い。佐倉の伊能氏の一族もそうだった。と言うよりも江戸中以降の漢学や国学を担った大半はそうであった。

     典則は江戸時代後半の文化・文政期の青梅における文芸創作活動の指導的役割をはたした人物で、国学者で詩人。宝暦八年(一七五八)八月青梅縞仲買商で町年寄をつとめていた青梅本町の根岸嘉右衛門(洗雪)の子として生まれた。(中略)。俳諧の根岸凉宇は叔父にあたる。和歌を日野大納言質枝に、儒学を折衷学派の井上金峨に学んだ。また、禅を鎌倉の峨山和尚について修めるなど学問領域は多方面に及んだ。晩年は家業を養子の喜則に譲り、著作や文芸指導に専念した。その生涯を通じて多くの文人と交流し、門下を育てている。

     坂道を下り青梅街道を横断して少し行けば、秋川街道の調布橋に突き当たった。「雪女なんですけど。」橋の袂は小さな公園になっていて、「雪おんな縁の地」の横長の石碑があった。「なんで、こんなところに?」裏に回ると小泉八雲の顔写真と『怪談』の序文が記されたプレートが嵌められていた。この話は武蔵国の人から聞いた伝説を元にしているとある。

     武蔵の国のある村に茂作、巳之吉と云う二人の木こりがいた。この話のあった時分には、茂作は老人であった。そして、彼の年季奉公人であった巳之吉は、十八の少年であった。毎日、彼等は村から約二里離れた森へ一緒に出かけた。その森へ行く道に、越さねばならない大きな河がある。そして、渡し船がある。渡しのある処にたびたび、橋が架けられたが、その橋は洪水のあるたびごとに流された。河の溢れる時には、普通の橋では、その急流を防ぐ事はできない。(小泉八雲『雪女』)

     茂作と巳之吉はこの辺りで多摩川を渡ったのである。「雪女なんて、もっと東北の話かと思ってた。」私もそう思っていた。「松江の八雲の家に行ったことがあるよ。小さな家だと思ったら、公開しているのは一部分ですって言われた。」ファーブルは仕事で全国に行く機会が多いのだろう。大久保の八雲記念公園、成女学園の中の八雲旧居跡には、江戸歩きの第六回で行っている。
     「なんで調布なんだ?」実はこの辺りは調布村だった。明治二十二年の市町村制移行にあたり、上長淵、下長淵、友田、河辺、千ヶ瀬、駒木野の六村落が、織物に因んで神奈川県西多摩郡調布村として発足し、昭和二十六年(一九五一)、青梅村、霞村と合併して青梅市になった。最初に書いたように多摩川は古くから布の産地であった。調布市や布田などの地名が残るのは、「調」として布を収める地だったからである。

     当時人々はこの少し下流にあった「千ヶ瀬の渡し」により多摩川を往来し、二ツ塚峠を経て五日市と青梅を結ぶ道として利用していました。
     しかし、水かさが増すと舟がとまってしまうことから、調布村有志が力を合わせ、幅九尺(二・七メートル)の吊り橋を大正十一年に完成させ大変便利になりました。
     その後、昭和十年になりこの吊り橋は東京府によって、当時の最新の技術による「ブレストリブアーチ橋(幅八メートル)に架け替えられました。美しい姿のこの橋は、東京都の著名橋として、以後五十八年余りに渡り多くの人々に利用され、大変親しまれてきましたが、寄る年波には勝てず架替えられることになりました。
     吊り橋から数え三代目となる本橋は、上路式逆ローゼ橋(幅十六メートル)で、歩道整備、拡幅が行われ、さらに多くの人々に利用され、親しまれることを願ってここに完成したものであります。

     淡いピンクの梅が開き始めている。赤いアーチの橋のかなり下を多摩川が流れていて、岸にはまだ雪が残る場所もあって中州の石は白い。上流には奥多摩の山が見える。「この辺は随分変わっちゃったな。昔は何もなかったよ。」高層マンションがいくつも建っている。

     梅が香や多摩川白く山青く  蜻蛉

     橋を渡り突き当たって右に曲がると吉野街道だ。羽村から青梅を経て奥多摩に至る道だ。凱旋橋。青梅市駒木町一丁目。下を流れるのは清見川。ここも親柱を記念として置いている。「凱旋って日清日露でしょうか?」解説は何もない。
     やがて釜の淵公園に入って来た。かつては釜のような形で深い淵があったと言う。「あそこの橋は人間だけ通れるみたいだね。」白くてきれいな橋だ。鮎美橋。「アユが獲れるのかな?」奥多摩漁業協同組合では雑魚券一日五百円、鮎券一日二千円で売っている。
     崖の下には旧宮崎家の萱葺屋根が見える。そこに行くのかと思ったが、姫は崖を降りずにかんぽの宿 青梅」に入った。青梅市駒木町三丁目六六八番地二号。かんぽの宿で昼飯を食うとは思わなかった。二階のレストランに入れば多摩川を見下ろす席に案内され、五人づつ二つの席に着いた。多摩川がΩの形に大きく湾曲している場所である。「景色が素晴らしいですね。」十一時二十分。
     メニューの右ページを見て高いと思ったが、左ページに手頃なものがあった。安いのは青梅汁セットである。青梅汁の正体は不明だがおにぎりが二個ついて七百円。これが一番安いので八人がそれにした。スナフキンとマリオは釜飯セットを頼んだが、三十分かかると言うのでやめにして、スナフキンはカレーセット、マリオは蕎麦とミニ丼のセットに変えた。「ビールはどうする?」「高いんだ。」六百七十円というのは無茶ではないか。ここでは飲まない。
     注文したものが出てくるまで結構時間がかかった。カレーが最初で、次にマリオのミニ丼セット、青梅汁は三十分程して最後になった。これなら釜飯でもそんなに変わらなかったのではないか。青梅汁とは薄味の味噌仕立てのキノコ汁だった。一瞬、粕汁のような匂いがしたと思ったのは勘違いだろう。上品な味と言ってよい。青梅汁でネットを検索しても、この店のものしか出てこないから、特に青梅の郷土料理というものではないようだ。おにぎりは海苔を一枚かぶせただけで中には何も入っていない。梅干しくらいは入れて欲しかった。
     食事を終わって一階に戻り土産物店を漁る。ファーブルは干芋を買った。「なんでも買っていけば喜んでくれるから」とは優しい。「先日のアサリも旨かったよな。」「うん、美味しかった。」私は妻に土産を買おうなんて全く思わない。妻に小遣いを貰う身分だから、余裕があると思わせる訳にはいかない。
     「地酒もあるよ。」「ここで買ったら重くて歩けなくなっちゃいますよ。」青梅の酒は小澤酒造の澤乃井だ。姫はフキノトウを買った。先日千意さんに貰ったフキノトウも旨かった。スナフキンとファーブルは天婦羅にしたそうだ。

     十二時十五分にかんぽの宿を出る。「あれは何かな?」駒木野遺蹟第一号配石遺構、縄文遺跡の跡だった。「遺構はこの辺はいくつもあります」と姫は目も向けない。「イコウ。」
     崖を降りれば青梅市郷土博物館だ。青梅市駒木町一丁目六百八十四番地。外には大きな醤油樽や木材を積んだ荷馬車が置かれている。「後で見ますから」と姫は博物館の中に入る。「水着の人は入っちゃダメだって。」「誰が水着で来るんだ?」公園内に市民プールがあるのだ。
     玄関を入るとB29と飛竜のエンジンが展示されている。昭和二十年四月二日、米軍第七十三航空団は百二十二機の編成で中島飛行機武蔵野製作所や小平、立川の軍事施設、軍需工場を空爆した。そのうちの一機(機体番号43―93999)が高射砲によって被弾し、当時は吉野村柚木の山中に墜落したのである。エンジンは十八気筒ピストンエンジンで、三十数年間、多摩川の河原に放置されていた。
     乗員十一名のうち、六名がパラシュートで脱出し、五名は墜落と共に炎上した。死亡した五名の遺体は、丁重に葬るべきだという吉川英治の意見によって、火葬され近くの即清寺に埋葬された。脱出した六名のうち一名は火傷で死亡、一名は陸軍刑務所拘留中の火災で死亡。残る四名は終戦後本国に帰還した。
     同じ日、東村山町秋津(全十一人死亡と推定、遺体発見は三名)、南多摩郡原町田(パラシュートで降下した十人が捕虜)、川崎市生田(八人が墜落し、生存者一名も火傷の治療見込みなく毒殺)にも墜落した。
     POW(Prisoner of War)研究会によれば、捕虜となった連合軍飛行士は約五百七十人である。その半数近くが処刑、傷病死、空襲や原爆で死亡し、本国へ帰還できたのは半数であった。平和島の大森捕虜収容所跡はロダンの案内で行った。
     飛竜のエンジンが小さいのは機体自体が小さいからだろう。こちらは八月十一日、何かのトラブルで墜落したのである。「飛竜は優れものだったんだよ。」三菱重工業製作の四式重爆撃機だ。「昔は『丸』も読んでたよ」と言うスナフキンは詳しい。「今でも出てるんじゃないですか」とはロダンも詳しいネ。私はこの手の雑誌は敬遠していたから読んだことがない。
     二階の展示室では「なんだこれ!?―昔の道具展―」をやっている。どこでもやっているので期待はしていなかったが、見たことのない道具を知ったのは収穫だった。ただ説明書はラミネートされたものが置かれているだけで、持ち帰ることができない。ネットでいろいろ探してみて、あちこちの博物館の記事を見つけた結果が下記である。
     直径三十センチ程のアルミの球体に手回しハンドルが付いたものがある。「洗濯機だよ、使ったことあるよ。」私は知らなかった。手動式圧力洗濯機。昭和三十二年(一九五七)、林製作所が「カモメホーム洗濯機」として製造販売したものである。膨張圧力方式洗浄法と言う方式は英米独でも特許を取った。しかしちょうど電気洗濯機が普及を始める頃だから、昭和三十年代末には姿を消したと言う。

     使い方は、「球体に乾いたままの洗濯物を詰め込み、洗剤を溶かした熱湯(八十度)を注ぎ込む。急に熱湯が布の芯まで浸透するので洗剤がよく効く。ゴムパッキン付きの蓋をコック回転で締め上げて器体を密閉する。残留空気が熱湯で膨張して球体内は高圧化する。二十秒ほどハンドルで回転させる。気圧が高まる。コックを廻してふたを開けると急な減圧でポンと音を発するのでポン洗濯機とも呼ばれた。濯ぎは湯を入れ替えて蓋をして回転、を繰り返す。湯量は洗濯物を浸すだけの分量なので節水になり、洗剤も少なくて済む」(『水の道具誌』山口昌伴 岩波新書 2006より)(豊富郷土資料館「球形手回し洗濯機」
    http://toyokyoudos.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-18b7.html)

     「これ見たことなかった」とファーブルが喜ぶのは自動蠅取機である。ゼンマイ式で回転する板の上に止まった蠅が自然に中に吸い込まれていくのだ。「ゼンマイだろう?自動じゃないな。半自動かな。」ネジを一回巻くと十時間以上動くと言うから「自動」と言って良いかも知れない。

     「ハイトリック」は大正二年一月十一日に、兵庫県の堀江松治郎が発明し、特許を取得したハエ取り器です。製造は名古屋市の尾張時計株式会社がおこないました。ゼンマイ仕掛けの仕組みですので、時計屋が製造したというのも、「餅は餅屋に」といったところでしょうか。そして、このハエ取り器は全国的に大ヒットし、国外へも輸出されました。
     このハエ取り器の仕組みは、まず四角柱にハエの好物である酒・酢・砂糖を混ぜたモノを塗っておきます。そこにハエが寄ってきて止まります。四角柱は、ゼンマイ仕掛けにより自動回転しているので、ハエは、・・・・暗い箱の中へ閉じ込められます。また、網篭側の側面には窓が付いていて、外の光を取り込めるようになっています。ハエは明るい所に集まる習性があるので、自然と網篭の方へ入っていきます。この仕掛けは、一回のネジ巻きで十数時間は動くそうです。(亀山市歴史博物館)
    http://kameyamarekihaku.jp/21theme/zone01/zone1_2.html

     「これは何なの?」アルミのランドセルだ。昭和二十一年、二十二年にかけて売られたものらしい。物のない時代に布製なら分かるがアルミで作ると言う発想には驚く。今のランドセルと比べると容積は小さくて収納力はない。背負いにくいだろうね。

     しかし、アルミ製ランドセルも昭和二十三(一九四八)年以降は、材料が入手できなくなったため、革や布製のランドセルへと代わっていきます。昭和二十四(一九四九)年以降になると、ほとんど販売されなくなりました。奥川文具店は、商品を関東方面から仕入れていたことから、ランドセルも同様の経路で仕入れていたとおもわれますが、製造元や販売問屋については伝わっていません。(三重総合博物館「アルミ製ランドセル」)
    http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82998046685.htm

     ブレードを付けた下駄スケートもある。これは氷上を滑るものである。私の記憶にあるのは、歯のない下駄の底を前から見れば三角に、前後に細くして、一センチ幅の鉄板を貼り付けたものだ。氷ではなく踏み固められた雪道を滑るために作られたのだと思う。「履くのは長靴ですか?」鼻緒のついた下駄なのだから足袋を履く。
     いつの間にか知らないオジサンが後ろについてきて、一々説明してくれる。帽子をかぶってコートを着ているから学芸員ではなく、近所のオジサンであろう。「この辺は、蛇の目とか茶会で使う大きな傘は作らなかった。番傘だね。」ホテイヤ傘店のホームページを見ると、天保年間に青梅傘の製造販売を始めたとある。「柿渋は傘や合羽もそうだけど船にも塗った。防水性があるからね。」付き合っていると長くなるので適当に切り上げて外に出る。
     金剛寺の青梅から殖やしたと言う梅の木が立っていた。金剛寺の青梅については後で触れる積りだが、青梅の地名のもとになった木だ。
     博物館の隣には旧宮崎家住宅が移築されている。庭木戸から入る。茅葺屋根にはまだ少し雪が残っている。地面は最近溶けたように少し緩くて、靴の底が泥だらけになりそうだ。家は北小曾木村(現在の青梅市成木八丁目夕倉地区)にあったもので、十九世紀初頭の建築と推定されている。入毋屋造、茅葺、三間取広間型。
     囲炉裏の火から煙が上がっている。「ここは豪農でしょうかね。」そんな規模ではない。「普通だと思うよ。」土間の壁には黒光りした道具類がきれいに並べられている。

     囲炉裏火や話の腰を折りかねて  蜻蛉

     敷地の一角でミツマタがもう少しで開きそうになっている。「開くと黄色くなるんだよ。」「まだ開いてないってことか。」ヨッシーが見ているのは縮れているマンサクだ。
     再び吉野街道に戻る。少し暑くなってきた。マリオはいつの間にかコートを脱いでいる。「地蔵堂に寄ってみますか?」通りの向かいだ。「せっかくだから寄ってみよう。」元禄七年(一六九四)造の延命地蔵は中央に立ち、左端の白い大きな石は輪郭も何も溶けかかっているようだ。足元には白い小石がたくさん置いてある。当時は白い石が諸病を治癒するという伝承が広まっていたと言う。白い石とは石灰石である。この白い小石を貰ってきて悪い部分を摩るのである。病が治ったら、多摩川で新しく拾った石と合わせて返納する。
     国道四一一号に入れば、多摩川に架かる橋は万年橋だ。青梅市大柳町。ここには親柱とアーチ橋の支承が置かれている。明治四十年、多摩川渓谷で初の鉄橋として架けられた。碑の題字は川合玉堂、撰文は吉川英治、書は尾上柴舟による。玉堂は御嶽、吉川英治は吉野村に住んだから地元の縁である。尾上柴舟は玉堂との親交によるのだろう
     下を眺めると川岸を埋める小石が白い。「あれは石灰石かね?」「そうかも知れない。」清宝院、東光寺には寄らない。
     青梅街道がぶつかる角が常保寺だ。青梅市滝ノ上町一三一六番地。瀑布山と号す。臨済宗建長寺派。門前の梅はまだ蕾のままだ。山門の金具は法輪だ。

     当寺は、昭和三十九年発行の「稿本青梅市史第六集」によると、応永年間(室町時代・西暦一三九四年)天ケ瀬町の真言宗金剛寺の第二世により創建されましたが、西暦一四〇〇年代頃になり、山梨県の塩山恵林寺より吹峰宗陰禅師が赴き臨済宗に転宗となりました。
     開基及び開創の年月は数度の火災により古事来歴を失い、その縁起等は不詳ですが、瀑布山の由来は、境内地に小瀑布(小さな滝)があるを以てなづけしと伝わっています。
     江戸時代には、多摩川の景勝地として名高い常保寺に中原章、小林天淵、原布袋などの青梅文化の基となった文化人が自己修練や作品作りの為に集まったと伝えられています。
     川沿いまでの一部の境内地は、昭和の中頃まで井伊直弼の子孫(直安)が別荘地として使用していましたが、道路の拡張に伴い現在では青梅市立美術館となっています。(常保寺「沿革」http://jyouhoji.jiin.com/#_5)

     本堂前に立つ一対の石灯籠は増上寺石灯籠だ。小さな祠に立っているのは招き猫地蔵。どうも青梅の人は猫に格別な思い入れを抱いているようだ。昭和の中頃、青梅市内の廃寺になった寺院から引き取ったものだ。中原章の墓があるが、勿論知らない人である。国学者。

     墓碑の左右裏面の三面に、当寺十一世住職支兀和尚の撰文が刻まれ、次のような意味が漢文で記されている。「先生は出身は明らかではないが、姓は多賀、名は章、字は士文と称し、また号を五柳ともいった。大変博識な人で、何を聞いても答えられないものはないというほどであった。小食にして多飲、専ら冷酒を愛好した。多摩川のほとりに十四年ほど漂泊した後、庵を蒼梅(青梅)市中に結び、慕って集まる人たちにいろいろな事を講じた。晩年は髯をたくわえ、衣服なども意に介せず粗末な服装で通した。虱がたかっても、それをとることもなく、またつぶすでもなかった。周囲の人が心配して新しい衣服を贈っても、それを着替える事すらしなかった」と。
     寛政二年(一七九〇)十月一日没したが、手記には次の歌が書かれている。
     「同じくは かくて吾が世をふる寺に すみはてぬべき 身ともならばや 章」

     寛政二年没から考えれば、中野三敏の言う宝暦前後の「畸人」の一人である。奇人ではない。上田秋成は剪枝畸人と称した。伴蒿蹊に『近世畸人伝』があり、中野に『近世新畸人伝』がある。それらに収録されない多くの無名の畸人が発生したのが十八世紀であった。

     隠者の本領が、決して世の中に背を向けた逃避者ではなく、むしろ自己の内にある本当の人間性を追求しようと図ったユマニストであるとするならば、畸人の本領もまた、決して世をすね、あるいは世に衒ったそのポーズにあるのではなく、一皮剥いだその下にある真の人間性にあると言えるのではなかろうか。
     宝暦という年は、まさしくこうした人たちの季節であった。享保以来の第一世の文人たちは多く世を去り、移り行く時世の中であらゆる面で挫折し、複雑化した精神を持つ第二世が、一面では創始者たちの緊張を受継ぎつつも、また一面ではすでに緊張の果てにあるものを見透かしてしまう覚めきった心情をちらつかせながら、なお文人であることに誇りをいだき、文人であろうと意識しつづけた。(中野『近世新畸人伝』)

     中野は十八世紀こそが江戸文化の盛期だと結論付けて、今やこれが定説になっている。田中優子『江戸の想像力』も十八世紀を舞台にし、吉田伸之『成熟する江戸』も十八世紀を書いた。私たちが高校の頃に習った、元禄期と文化文政期を頂点とする江戸文化史は、確実に変わった。
     本堂は開け広げられ、涅槃図が公開されている。「あれですね。」左の端に下げられていた。寺のホームページを見ると、「最近になり、涅槃図の中に猫も描いてある事が判明しました』と追記されている。よくよく猫の好きな青梅である。
     寺を出ようとした時、隅の方に面白い狛犬を見つけた。「ちょっと待って。」境内には白瀧不動があって、その前の台座の上の一辺五十センチほどの赤い枠に小さな狛犬を置いているのだ。狛犬が遊ぶ毬も石を刳り貫いたものだ。
     白瀧不動の祠を覗けば、洞窟の中で龍が直立した剣に巻きついて呑み込もうとしている。これを倶利伽羅龍王と言う。倶利伽羅紋々の言葉は知っていても、この龍王は見たことがなかった。笠付きの庚申塔もある。

     「市民会館でちょっと休憩しましょうか。」突き当りの青梅市民会館前で旧街道に戻った。しかし市民会館は老朽化のため取り壊し、青梅市新生涯学習施設(仮称)の工事中であった。この辺は森下町。かつては賑わっていたようで、街道には二階建ての商家が何軒もある。
     青梅坂下から北に向かうのが小曾木街道だ。「飯能に行く道だね。」そこを過ぎれば旧稲葉家住宅だ。青梅市森下町四九九番地。稲葉家は青梅宿でも有数の豪商で、材木商や青梅縞の仲買問屋を営み、町年寄を勤めた家である。見世蔵造り。全面格子戸の真ん中あたりに低い入口があって、腰をかがめなければ入れない。
     店舗部分には帳場と箱火鉢。「ここで、女将さんが長煙管をポンとね。」それではお富与三郎の世界になってしまう。内庭には白梅が咲き始めている。階段を上ることはできるが、二階には入れない。覗き込めば各種の道具類が整然と置かれている。店の正面の梁は一本の材で、勘定すると間口五間半だった。「さすがに材木商ですね。」庭の奥にも蔵がある。「井戸は毎年水質検査をしてます。」
     その隣が酒屋「リカーステーション・オカザキ」だ。青梅市森下町四九八番地。「ここも古い店なんだよ。」店の隣の屋敷に掲げた表札には岡崎武右衛門とある。

     森下町の「おかざきリカーステーション」は、宝永二年(一七〇五)から酒造りを始めていましたが、文化五年(一八〇八)武州入間郡扇町屋宿山村で「近江屋喜兵衛」という醤油屋を開店しています。そして文化八年(一八一一)青梅に帰ってきて、酒造りとともに醤油造りを始めたことが、家系図に記されていました。岡崎家では、現当主(敬賢氏)の前まで、代々武右衛門を名乗り、昭和五〇年代まで「湖東」という銘柄の醤油を造っておられました。(「青梅市文化財ニュース」第一三九号・平成十一年五月十五日)

     店の脇に駅名標示板が立っている。駅名の「おかざき」は店の名だろう。左は奥多摩、右は東京。その下に「此処に駅ありき」の石碑が建っている。中武馬車鉄道・森下駅舎跡である。中武馬車鉄道の社長は初代豊岡町長の横田伊兵衛、副社長は岡崎武右衛門が就き、明治三十四年(一九〇一)に営業を開始した。本社は入間市豊岡にあり、支社を岡崎家の屋敷内に置いた。駅舎は街道の向かい側だったらしい。

     川越鉄道の入間川駅(のちの西武鉄道新宿線狭山市駅)の西口から北側へ回り込むように走ったのち、入間川町の中心街を経て直進、国道一六号線の旧道と埼玉県・東京都道六三号(豊岡街道)を通って青梅町の中心部まで至っていた。終点は「青梅」と称したが、のちの青梅駅とは全く別の場所に設けられ、地名から「森下町」「森下」と俗称されることもあった。(略)
     当鉄道の経路となった入間川-扇町屋-青梅は、江戸時代にはこの地域にとって極めて重要な交通経路であった。のちの入間市中心部の扇町屋宿が多摩地区と日光を結ぶ日光脇往還の宿場町であり、八王子千人同心が日光東照宮の警備に向かうため往来する場所であるとともに、多摩地区・入間郡南部地区、さらには甲信地方から江戸へ向かう物資を新河岸川経由で輸送するための中継地点の一つとして機能していたためである。(ウィキペディア「中武馬車鉄道」より)

     豊岡街道は今の東京都道・埼玉県道六三号線になるだろうか。入間から来ると、東青梅の辺りで旧青梅街道に入ることになる。しかし馬車鉄道は赤字体質から抜け出せず、大正六年(一九一七)に廃業した。
     熊野神社の手前を左に曲がれば、急勾配の坂道に長い塀が続いている。金剛寺だ。青梅市天ヶ瀬町一〇三二番地。青梅山と号す。真言宗豊山派。参道のアセビの蕾が赤くなっている。八脚門を抜けると、右手は漆喰壁腰板付き瓦屋根の長い塀が伸びていて、まるで城の中のようだ。山門は僧正門と呼ぶらしい。天保二年の火災で唯一消失を免れた。

     明治の初期に街区の整理により現在地に移築され、その際に屋根、礎盤(石造または木造の繰形を呈する柱と礎石の間に据えるもの)などが改変されていますが、旧状をよく保っています。構造は一間(二・七五m)の間口に、出入り口が一つの一間一戸の四脚門で、屋根は切妻造、瓦棒銅板葺です。二本の主柱から一・〇六m離れた門の外側と内側に四本の控柱を設けています。門の主柱と控柱をつなぐ頭貫の木鼻と拳鼻部分に彫られた渦文様の上に鳥が飛ぶような絵様と呼ぶ装飾は、桃山時代の技法を伝えているといわれます。この絵様から、表門が建立されたのは一七世紀前半ないし中頃と推定されています。

     「立派ね。」「青梅の繁栄が偲ばれるわ。」寺紋は梅鉢。そして青梅の地名起源となった将門伝説の梅があるが、現在では完全に老衰期に入ったとされる。

     承平年間(九三一~九三七)、将門はこの地に来て、馬の鞭としていた梅の枝を地にさし「我が望み叶うなら根づくべし、その暁には必ず一寺建立奉るべし」と誓った。後この枝は見事に根を張り葉を繁らせたので、誓いを守って京都・蓮台寺の寛空僧正に開山を請うた。しかし頻りに辞退した寛空は自刻の弘法大師像を送り、寺名も空海の灌頂号「遍照金剛」にちなみ「金剛寺」とした。安置された将門の念持仏・阿弥陀仏(別名、無量寿仏)から無量寿院と号したという。だが、この梅は成長して実を着けてもいつまでも青く、熟すことがなく、これを奇として村を青梅と改めたと伝えている。(『青梅市史』)

     将門がこの地に来たとも考えられず、将門の後裔を称する三田氏が広めた伝説ではないか。梅の根元には黄色いフクジュソウ。今日は実に穏やかな日になった。ここで少し休憩する。「座るところがあるかしら。」「ベンチがある。」ここも雪が溶けたばかりのようで地面が緩い。
     ヨッシー、オカチャン、ファーブル、ロダン、桃太郎、姫、ハイジから様々なおやつが配られる。今日は甘いものが多いが、「蜻蛉ために持ってきたのよ」とハイジが煎餅をくれた。ヨッシーも私だけに酒のつまみの小袋をくれた。桃太郎はかんぽの宿で、このために煎餅を買ってきた。
     山門を出ると、左手の門に「東国花の寺 百ヶ寺」の表札が上がっていた。「珍しい名前だな。」「違うんじゃないか。百名山みたいに、花で有名な寺を選んだんだろう。」調べてみるとやはりそうで、関東の一都六県で百三の寺を選んでいた。
     ちょっと戻ってさっきの熊野神社に入る。青梅市森下町五五六番地。境内は児童公園になっているが、ここが森下陣屋跡である。

     天正十八年(一五九〇)に家康が関東に入国してまもなく、八王子に代官所が設置され、初代の代官に大久保石見守長安が任命された。
     当地には、その出張所ともいうべき陣屋が青梅宿西端の森下に設けられ、大野善八郎尊長、鈴木孫右衛門らがその任にあたった。青梅陣屋の支配地域は、現在の八高線沿線から多摩川上流域にかけての三田領・加治領・高麗領・毛呂領にわたる範囲で、山の根二万五千石と称した。青梅(森下)陣屋は、延享元年(一七四四)頃に伊奈半左衛門忠達の代で廃止された。
     陣屋の敷地面積は、六千三百平方メートル程度と推定されるが、現在は、陣屋の敷地の鎮守と伝えられる熊野神社が祀られている。(青梅市教育委員会)

     小さな社殿の脇に立つシラカシが立派だ。陣屋設置と同時に植えられたとすれば四百年を超えている。幹回りは三百六十センチと言う。「三メートルを超えれば巨樹ですね。」この辺りが青梅宿のはずれで、ここから西が裏宿になる。
     七兵衛公園。青梅市裏宿町八〇四番地。ごく普通の児童公園なのだが、奥に赤い切妻屋根の地蔵堂が建っている。青面金剛が二基(内の一つは三面だった)、地蔵が二体。この辺りが七兵衛の住んだ所だと言われ(証拠は何もない)、顕彰碑が建っている。碑文はなんとも時代がかったものだ。

     裏宿七兵衛供養碑  我が青梅市が生んだ熱血の侠児通称裏宿七兵衛は享保の頃より元文年間にかけて困窮せる庶民の救世主であった。
     たまたま当時の世相は凶作相続き賤民は塗炭の苦しみの中にあった。為に近村の名主等相集い代官に訴えたのであるがかえって入牢の上牢死せるもの数人を数えるに至った。
     生来義侠心に富んだ彼は決然として起ち百姓町人の膏血を絞り己れのみ驕りに耽る強欲非道の不徳漢のみを襲ってその得た財貨は悉く之を不運に泣く貧民に名も告げずに与え己れは常に粗衣粗食に甘んじていた。
     然し天下の法は曲げることは出来ず温情ある幕吏も遂に彼を捕え元文四年十一月二十五日大柳河原において処刑しその首を笹の門にさらした。
     附近の宗建寺第十七世大湫和尚はいたく之を憐れんで厚く寺内に葬った。同寺の過去帳の一節は彼七兵衛の人柄を如実に表してあり轉た感無量あるのを禁じ得ない。
     法山祖幢信士位  年号不知 裏宿者也 俗名 七兵衛
            由来不可尋 永々供養可致者也
     中山里介山先生著 大菩薩峠が発刊されて以来裏宿七兵衛の人間味ある生涯はにわかに世人の注目するとことなった。
     よって茲に里人有志相計り梅園町両自治会の協力を得てこの遺跡に供養碑を建立し以ってその義侠を後世に傳えんとするものである。
      昭和三十五年十一月二十七日

     街道を戻る。「この辺、蕎麦屋が多いな。」「榎戸」、「わせいろう」と僅か百メートルの距離に二軒あった。オカチャンはお茶を買いたいと言うので、狭山茶の柳屋に入る。青梅市森下町五二六番地。隣に蔵を持つ二階建ての商家である。蔵との間の外壁に御嶽山の大口真神のお札が貼られている。「犬神信仰なんだ」とスナフキンがファーブルに説明する。秩父の三峯も同じで、犬神とは狼である。店頭には、かつては量り売りのお茶を入れていた木箱が空のまま並べられている。米も売っているようだが商売になるのだろうか。
     マンションの前庭にロウバイと紅梅が咲いている。「ソシンロウバイでしょうか?」芯が赤くないからそうだ。「さて、曲がり角を間違えないようにしなくっちゃ。」市民会館前の交差点を過ぎ、「ここです」と姫が思い出した。中央図書館入口交差点の手前の狭い路地だ。
     「なんだか立派な家があるよ。」質屋だった。「蜻蛉と同じ苗字だね。」我が家の先祖も、出羽国由利郡矢島の城下で質屋を営んでいたようなのだ。六代前の清也の墓誌に「住由利郡矢島 世以鬻布帛錦繍為業 又開典物舗資之産収息蔵入頗多」と記されている。天保の頃だが、この「典物」が質物を意味するのである。しかしこれも余計なことであった。
     踏切を渡れば梅岩寺だ。真言宗豊山派。青梅市仲町二三五番地。門前にはややピンクがかった梅が開き始めている。この寺も寺紋は梅鉢だ。
     寛仁年間(一〇一七~二〇)阿部郡司源広の創立と伝え、永禄年間(一五五八~六九)金剛寺八世・良淀を中興開山としている。阿部郡司源広とは何者なのか分らない。おそらく歴史的には根拠はないと思われる。枝垂れ桜が立派だ。花の時期はさぞ見事だろう。

     市内、天ヶ瀬の古刹、金剛寺のしだれ桜の姉妹樹であるといわれており、ともに、都下はもとより、関東地方でも代表的な名桜である。
     四月はじめの花期に、うす紅いろの花枝を多数、垂れる樹姿は周囲の景観と調和してたいへん美しい。

     建部凌岱追善碑がある。綾足と似ているなと思っただけで良く見もしなかった。しかしこれが建部綾足の別号だった。『武江年表』安永三年(一七七四)に、死亡記事が載っている。

     〇三月十八日、建部凉袋卒す(五十六歳、牛島弘福寺に葬す。画并びに俳諧を善くす。寒葉斎と号す)
     筠庭云ふ、凉袋とあるは誤りなり。建部綾岱もと真淵に従ひしかど、其の説を非として、「詞草小苑」抔の書を著はしたり。固より俳諧をよくし、世に片歌を起さんとて「片歌道のはじめ」、同「二夜問答」其の他何くれと著述したれども、終に行はれず。又絵をよくして、「寒葉斎画譜」を著はす。加藤千蔭の跋文あり。千蔭も画を此の人に学びしにや、先生とたゝへたり。されど千蔭は画をよくせず。
     綾岱が画は唐絵の流なり。又戯作もあり、「西山物語」「本朝水滸伝」などの類なり。上方の人誰やらの随筆に、謝蕪村と此の人の事をいひて、蕪村はもの知らぬ不学もの、放蕩にて家産を破り、俳諧師となれり。画も綾岱に及ばず抔いへりしかど、蕪村が画は時好に叶ひて世に称せられ、綾岱は不遇にて用ひられず。恨みなるべし

       建部綾足なんて誰も知らないと思うので(私も殆ど知らなかった)少し書いてみたい。綾足は享保四年(一七一九)に生まれて安永三年(一七七四)に没したから、中野三敏の取り上げる十八世紀文人の一人である。弘前藩家老喜多村政方(山鹿素行の孫)の次男に生まれたが、七歳上の兄嫁と不義密通に及び二人で出奔する計画が露見した。本来殺されても然るべきところ弘前追放で済んだ。

     ・・・・この醜聞的事件にあって、綾足ひとりがまったく無傷であったなどということはありえない。以後の彼は、およそ人たるものとしての社会条件の基盤、家、故郷、身分(藩士身分)のすべ手を自ら放棄したことの自覚の上に、新しい生き方を模索せざるを得なかったのである。(高田衛『新日本古典文学全集』七十九巻解説「建部綾足の生涯」)

     離縁され弘前に残された兄嫁は二年後に死んだ。二年間は辛かっただろう。綾足は津軽から九州まで転々として俳諧、南画で名を高め、加茂真淵の門に入った。俳諧の季語に対する根本的な批判を抱き、片歌という、五七五ではなく五七七を基本とするものを提唱したが流行らなかった。

    彼の活躍は多岐にわたっているが、いずれも二流どころにとどまっている。多才で極めて頭のよい人物であったことは確実だが、それだけにひとつの事にじっくり打ち込む根気に欠けていたといえよう。一時彼が師と仰いだ賀茂真淵から、信用のおけない「虚談のみ」の人物とみられているように、彼の行動には山師的なうさん臭さが付きまとうが、・・・・(『朝日日本歴史人物事典』「建部綾足」田中善信)

     二流、虚談、山師、胡散臭さ。これらは平賀源内に対する批判にそっくりではないか。あるいはデビューした頃の寺山修司への批判にも似ている。それなら時代の前衛ではないか。読む価値があると、『本朝水滸伝』を図書館から借り出した。孝謙女帝と弓削道鏡の中央政権に対して、亡命者である恵美押勝、和気清麻呂、大伴家持等が戦いを挑む。そこに土蜘蛛、蝦夷等の辺境のまつろわぬ者や、各地の山祇が絡む。更には安禄山の乱に遭遇した楊貴妃を日本に連れて来てしまうのだ。

     ・・・・それらはたんに古語・古文をもって世俗的なストオリイを物語化したものではなくて、「文章とて外なし。唯大やまとの文のさま也」(『片歌二夜問答』)という、日本のあるべき小説のかたちを模索し試行する、大きな文学的実験なのであった。
     しかし、そこには従来の舌耕芸能者や、浮世草子作者などとは、次元の異なる文学への情熱的な献身者の姿がふちどられてくるだろう。その過程はたしかにエキセントリックであり、山師的ではあった。(高田衛)

     その雅文体はあまり読みやすくはないが、天皇をさえ批判する奔放な想像力は読んで損はない。二百年前の半村良とでも言うべきか。その追善碑が何故ここにあるかと言えば、青梅在住の俳諧の門人が綾足七回忌に建てたのである。綾足の俳諧社中「吸露庵連」は青梅、寄居、秩父、熊谷、富岡、高崎など武州、上州を中心にかなりな数で組織されていた。
     鐘楼の鐘の真下に穴が開いていて、甕を埋めてある。「珍しいよね。」音響効果のためだろう。「だけど穴のままじゃ危ないぞ。蓋をしておかなくちゃ。」深さはせいぜい四十センチだが、転び方によっては子供は怪我をする。
     「それじゃ、駅まで戻りましょう。」少し寒くなってきた。街道まで出ずに途中の道を行く。英稲荷がある。青梅市仲町二五三番地。「ちょっと寄りましょう。」水神碑が二基あった。岩浪石材店の横を過ぎるとセブンイレブンの角の駅前ロータリーに出た。「七兵衛通りでした。」一万七千歩。十キロか。「電車は何時かな。」十五時三十三分の東京行き特快が七八分で出る。丁度良い。

     オカチャンは川越経由だと拝島で降りて行った。何が何でも飲まなければならない人間は立川で降りる。ハイジとヨッシーそのまま電車で行く。「今日は珍しいところに行こう。」飲み屋のことならスナフキンに任せておけばよい。南口に出る。「北口とは随分違うだろう。」北口は大都会だったが、こちらはそうでもない。
     「立ち飲み屋が結構あるんだよ。」「座って飲みたい。」まだ四時だ。「ここで良いだろう?」味工房。立川市錦町一丁目一番九号。土曜日は三時からやっている店だ。生ビールはキリンを選んだ。お新香三つ、枝豆二つ、焼き餃子二人前、さつま揚げ二つ。
     さて焼酎にしようかとした時、「ここは日本酒の店なんだよ」とスナフキンが言い出した。各種地酒はどれでも一合五百五十円。店員に燗酒は何がいいか尋ねると、メニューにはない店のおすすめが五百円だと言う。「まずそれを飲んでいただいてから決めて下さい。」
     取り敢えず二合を貰う。案外旨いじゃないか。「同じのを二本追加。」しかしこれでは飲み過ぎてしまいそうだ。「それじゃホッピーにしようか。」ファーブルはホッピーを知らないので説明する。「蜻蛉だって去年まで知らなかったじゃないか。」ナカを三杯替えてお開き。三千五百円。
     「もう一軒行こうぜ。」「カラオケですね。」しかしファーブルは帰っていく。桃太郎もいなくなった。私もひどく酔ったようで、今日はちょっと辛い。「帰るよ。」「エーッ。」姫、スナフキン、ロダンの三人がカラオケに行った。私は帰宅してすぐ九時前に寝た。

    蜻蛉