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    青梅街道 其の九  宮ノ平から二俣尾まで
      平成三十年四月十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.04.30

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     こころは三年保育の幼稚園の年少組に正式に入園した。去年まではお試しだったから、ダブダブのスモックに小さな体を埋もれさせるようにして、入園式では随分緊張したらしい。そして「じじ、たんじょうびおめでとう」と私の絵を描いてくれた。たどたどしいが、ひらがなも書くのだ。眼鏡もちゃんと描いたが髪の毛があるのが不思議だ。私は六十七歳になりもう一年働くことになった。二十三歳から数えて四十四年間、こんなに長く働くことになろうとは、かつては夢にも思わなかった。
     五メートル×十メートル程のプールに、鯉が二十尾程泳いでいる。掃除のひとが早朝に餌をやっているらしい。丸々肥えたものの中に小さなのも交じっている。「ここで生まれたのかしらね。」池の上には藤棚がある。掃除のオバサンの話では去年は全く咲かなかったらしいが、薄紫の花が少し咲いてきた。フジはこんなに早く咲くものだったろうか。
     池の右にはハナミズキの大木が立っている。「アメリカから持ってきたハナミズキの孫になるらしいですよ。」日本のハナミズキは全てアメリカ由来のものだろう。左にはムラサキハナナ、ナノハナなどが咲く野草園にムラサキケマンも見つけた。野草園の隣は雌雄のクジャクを飼育する檻があり、クジャクの鳴き声を初めて聞いた。時々、学生が鯉や花をスケッチしている。ここは四月から通い始めた大学図書館裏の喫煙所である。こんな素敵な喫煙所はめったにない。キャンパス内には喫煙所が何ヶ所もあって今どき珍しい大学だ。
     構内は広く、図書館の中も無駄に広いから日中もかなり歩く。事務室からカウンターまで五十メートルもあるのではないかしら。一度万歩計を装着して通勤してみた。自宅から鶴ヶ島駅までは徒歩十八分。川越市駅で降りて本川越駅から西武新宿線、東村山駅から西武国分寺線に乗り換えて鷹の台駅で降りる。商店街を抜けると玉川上水の遊歩道にキンシバイが目立つ。ミズキも咲いてきた。左岸は武蔵野美術大学生、創価高校、白梅学園、朝鮮大学校の生徒が固まって歩いているので、それを避けて右岸を通り十五分歩いて大学正門に着き、そこから五分でやっと図書館裏の喫煙所に辿り着く。ここまで一時間四十分、六千歩になった。帰宅時には一万六千歩に達したから、日中も四千歩も歩いていたのだ。

     旧暦二月二十九日。清明の次候「鴻雁北」。二三日前の予報では雨になる確率が高かったが、今朝になって、日中はもちそうな予報に変わった。ここ数回、心配しながらなんとか降られないで済んでいるのは、企画をしてくれる人の人徳であろう。
     宮ノ平駅なら川越線的場駅から八高線経由で行くのが一番早いが、西武国分寺線小川駅まで定期券が使えるので、そこから拝島線に乗り換えるコースを選んだ。拝島で誰かに会うかと思ったが誰もいない。青梅駅で乗り換え、宮ノ平駅に着くと同じ車両の端でスナフキンとファーブルが立ち上がった。「直通だったんだ。」「蜻蛉が乗って来たのは気付いてたけど、一駅だから声をかけなかった。」
     宮ノ平は無人駅である。この駅も帰りの二俣尾駅も、スイカやパスモは使えるがチャージができない、券売機もないので注意しろと、あんみつ姫から事前に注意を貰っている。改札を出るとウォーキング大会の参加者が大勢いて、何となくつられて南口に下りてしまった。気が付くと階段の上で姫が戻れと手振りをしている。逆だったらしい。
     南口は青梅街道に面しているが、北口には何もない。私たちの他に誰もいない。奥多摩ハイキングコースの立札が立っている。集ったのは姫、ヨッシー、ツカサン、オカチャン、スナフキン、ファーブル、桃太郎、蜻蛉の八人だ。ツカサンは随分久し振りだ。「時々顔を出さないと、忘れられちゃうからね。青梅街道の第一回には参加しましたよ。」
     線路に沿って西に少し歩き、山の手前のだだっ広い空き地の前で姫は立ち止まる。「何もありませんが、この辺一帯が石灰の採掘所でした。」白っぽい石がごろごろしているのはその痕跡だろう。かつてここは二百三十メートルの山だったが、明治二十八年(一八九五)から昭和四十年(一九六五)にかけて石灰の採掘が行われ、山は消えた。
     成木村の石灰を江戸に運ぶために青梅街道が整備されたように、青梅線は、この石灰を運ぶ目的で敷設された路線である。宮ノ平駅自体が、大正三年(一九一四)石灰石のみを取り扱う貨物駅として開業した。山がなくなると採掘現場は西へ移動し、昭和四十四年(一九六九)宮ノ平は貨物取り扱いをやめた。
     しかしやがて資源は枯渇して石灰石の採掘は北海道にシフトし、また沿線に住宅地が増えたことによって、平成十年(一九九八)八月十三日をもって青梅線の石灰石輸送列車は廃止された。平成だからごく最近のことだと感じてしまうが、もう二十年も経っている。時間の感覚が若い頃とはまるで違ってしまった。
     「なんだろうね。」空き地にはツカサンも姫も判別できない花が咲いている。この二人が知らない花は誰も知らない。山側にはハナダイコンが群生している。「オオアラセイトウの方が好きなんですけど」と姫は言う。「北海道と植物が全然違うよ。」「ムラサキハナナ、諸葛菜とも言うんだ。」実はムラサキハナナ(オオアラセイトウ)とハナダイコンとは別種だという説もあるが、素人には区別がつかない。
     シャガも咲いている。「大平山に群生地があるんだよ」とファーブルが言う。大平山は酒の銘柄でもあるが、本来は秋田の名峰である。秋田高校校歌(土井晩翠作詞)は「天上遥かに大平山の姿は気高し三千余尺」と始まる。初めて登ったのは中学三年の時で、雨だから中止だろうと勝手に思っていたら、J子ほか数人が家まで迎えに来たので慌てた。高校に入ると毎年一回の登山大会があった。
     数日前、息子の家の庭でこの花を見つけたと妻が写真を撮ってきた。「お父さん、これ知ってる?」「シャガだよ。」「なんで知ってるの?」近郊散歩の会の前身「里山ワンダリング」のお蔭である。「アヤメ科だね。」「去年は見なかったのに。」どこからか飛んできたのだろうか。しかし違うようだ。

     シャガは中国原産で、かなり古くに日本に入ってきた帰化植物である。三倍体のため種子が発生しない。このことから日本に存在する全てのシャガは同一の遺伝子を持ち、またその分布の広がりは人為的に行われたと考えることができる。したがって、人為的影響の少ない自然林内にはあまり自生しない。スギ植林の林下に見られる場所などは、かつては人間が住んでいた場所である可能性が高い。(ウィキペディア「シャガ」より)

     建売住宅だから業者が植えたのだ。それにしても去年見なかったのは何故だか分らない。
     青梅線の跨線橋の西側にレンガ造りのトンネルがあり、単線の線路がその中に消えていく。仲間に「テッチャン」がいないのは幸いだが、貴重な撮影場所であろう。橋を渡って線路の南側に回る。民家の庭に咲くサクラ(勿論ソメイヨシノではない)は源平咲きだ。「なんでこうなるんだろう?」私に訊いても分る訳がない。
     「資料には書いてませんが、ちょっと寄ってみます。」脇から入ったのは和田乃神社だ。青梅市日向和田二丁目三一七番地。「本当は青梅街道の方から入るんです。」青梅街道に向かって石造明神鳥居が三つ建っていた。境内の外には土俵が造られ、シートで覆われている。例祭では小学生の奉納相撲が行われると言う。
     「相撲もおかしなことばっかりだな。」「女の子も土俵に上げないとかね。」相撲協会は頻りに「伝統」を言い、女相撲があった歴史を無視しようとする。その「伝統」なるものはたかだか明治以降に作られたものに過ぎない。勿論、相撲は古代の神事を引き摺ってはいるが、江戸時代まで力士は各藩のお抱えで、異様な体つき、大食い、大力を見世物にした芸人という側面もあった。芸者買いや役者買いなどと並んで力士買いもあったのである。明治になって藩が消滅し、滅びかけた相撲界を近代化して生き延びさせたのは常陸山(後の出羽の海)だった。その甲斐あって天覧相撲が実現する。
     神社は日向和田(ひなたわだ)と、多摩川を挟んで対岸の日陰和田の総鎮守で、宮の平駅の「宮」はこの神社に由来するのだった。祭神は大山祇神、磐長比売神、茅野比売神。俗称に「三島さん」と称したと言うのは、大山祇神に由来するだろう。三嶋大社の祭神がオオヤマヅミである。イワナガヒメはオオヤマヅミの娘でコノハナサクヤヒメの姉、カヤノヒメはオオヤマヅミの妻である。但しイワナガヒメとカヤノヒメに血縁はない。

    ・・・・神體は童形にて駒に跨れり、木像長さ八寸許、相傳ふ古は此邊り甚幽僻の地なれば、人も多く通ざるに、ある時童子馬に乗てすぎけるを、土人何故にか打殺けり、其後しばしば祟をなして村民を悩しければ、神に祭りて其冤魂をなだめんとて、三嶋明神と崇めしより、祟り忽にやみけるとぞ、此説うけかひがたきことなれど、土人の話なれば記をきぬ。(「新編武蔵風土記稿」より)https://tesshow.jp/tama/oume/shrine_hinata_wada.html

     童子を打ち殺してしまったと言うのだ。縁起にこういうことを書くのは珍しいだろう。実は余所者を殺してしまう伝承は日本各地の僻村に残されている。小松和彦は『異人論』や『悪霊論』で、こうした「異人殺し伝説」を分析した。余所者は「マレビト」として歓待されると同時に、「異人」として排除される対象でもあった。

     ・・・・・時代や社会状況によって程度の差はあるものの、民俗社会つまり村落共同体に生きる人びとは、異人を歓迎する一方では異人を排除しようとする観念をも心の奥底にもっており、「異人殺し」伝承はそうした排除の観念に支えられて生み出された伝承であって、それがたんに異人に対する共同体の対処のあり方を示すのみでなく、共同体内部の特定の家に対する排除の観念とも結びついていることを考察した。(小松『悪霊論』)。

     小松は、中世村落での異人殺しは共同体全体の総意に基づくものだったが、近世村落の異人殺しは全く異なったものだと言う。村落が貨幣経済に浸食され、共同体が変質して階層分化が進んでいくところに異人殺し伝承が生まれた。つまり急激に成り上がった家の先祖が、実は異人殺しをしたのだという伝承である。その是非はともあれ、排除の論理の分析と克服は今でも重要な事柄の一つである。
     「開けてみたいでしょう?」大山街道で碁聖が言っていたように、小さな祠の扉を開けるのは私の役目のようだ。「じゃ、開けるよ。」中には、溶岩のような自然石に地蔵か僧侶を彫ったものが鎮座していた。
     神社を出ると、山の斜面には頂上まで墓がぎっしりと並んでいる。「あんなに上だと、お墓参りにはなかなか行けませんね。」そして明白院(めいばくいん)に着いた。日向山明白院。曹洞宗。青梅市日向和田二丁目三九五番地。ブロック塀の隙間から真っ赤なツツジが出ている。ツツジがもうこんなに咲いているのか。茅葺の山門は、棟の部分をシートで覆っている。屋根全体が葺き替え時のように見える。

     日向和田(現・日向和田二丁目)にあり、本尊は勝軍地蔵である。天正年間(一五七三〜九一)天江東岳(海禅寺七世)を開山とし、三田氏の遺臣野口刑部丞秀房を開基として開創された。延享元年(一七四四)堂字が再建され、大正年間に増改築され、併せて境内の整備が行われた。山門(市有形文化財)は楯の城跡にあった宇太夫屋敷の表門を移築したと伝えるもので、田辺清右衛門ゆかりの古構を伝えているようである。門前のしだれ梅と七福神詣での福禄寿は市民に親しまれている。(「青梅市史」より)
    https://tesshow.jp/tama/oume/temple_hinata_meibak.html

     楯(館)の城は、宮の平駅のやや東に、青梅線を跨いであったようだ。永禄五年(一五六二)頃、三田氏の出城として築城されたとされる。三田氏滅亡後、北条氏が甲州の武田対策の城として使ったが、北条氏滅亡後に廃城になった。
     山門を入ると左に、俵を担いだ狸の像が目に入った。「なんだ、これ?」その脇には小さな狸が三頭、やはり俵を担いでいる。大福帳と貧乏徳利を提げる狸はお馴染みだが、これは見たことがない。しかしこれにも理由はあった。

     その昔、時の和尚さんがある寒い冬の夜中に庫裡(お寺の台所)の押入れでネズミの走り回る音で目が覚めました。そっと押入れの戸を開けてみるとネズミが三匹、米びつに穴をあけお米を貪るように食べていました。
     そのような事が三日三晩続き、翌晩は何の音もしなくなったので押入れを調べると、天井に狸の屍があり、その周りには沢山のお米と小さな黒い塊が三つありました。よくみると福禄寿の御像でした。
     そこで和尚さんは思いました。「あの三匹のネズミは福禄寿尊の化身で病気の狸の世話をしたのに違いない…」と考え、鄭重に福禄寿尊を祀り、米俵を担いだ狸の石像を庭に建立し供養すると共に「生福の狸」と名付け参詣者に福が授かるように祈願したということです。(当院 縁起より)http://ome7.tokyo/meibakuin/

     このため、この寺は青梅七福神の福禄寿を担当する。本堂の向背は真っ黒で、赤い屋根との対比が美しい。ツツジ、大きなシャクナゲがきれいに咲いている。
     青梅街道に出る。「アケビでしょうか?」民家のフェンスに絡まっているのは暗紫色の小さな花だ。「ゴヨウですね。」ツカサンが即座に判定する。「アケビとミツバアケビの自然交配種ですよ。」ゴヨウ(五葉)アケビと言うらしい。底の浅い椀型の花弁が三つ。その中に太い雄蕊が数本立っている。アケビにこんなに種類があるなんて、私は全く知らなかった。
     「これは随分立派な。」ピンクの八重桜が満開だ。「ここは五三差路か?もっとあるか。」街道の分岐点に細い道が四方からつながっているのである。
     そして和田橋だ。見下ろす多摩川は随分下にある。その地面からフジが伸びているのだからかなり大きな樹だ。「ダメ、ゾクゾクしちゃうんだ。」ファーブルはこういう光景が苦手らしい。「ツバメだ。」私には見えなかった。「双眼鏡を持っているのはツカサンだけですね。」多摩川の水は青く澄んでいる。対岸の新緑が美しく、もう新緑の季節と言って良い。

     つばくろや多摩川の水青く澄み  蜻蛉

     そして吉野街道に入った。羽村から奥多摩まで多摩川を挟んで青梅街道の南側を平行に通る道だ。街道の並木は白と赤のハナミズキだ。これも北海道では見かけないものらしい。「自動車の排気ガスに強いんですよ。」道は次第に上り坂になる。「あれはサクラだよね。」みんなの関心が集まる。「ギョイコウ、御衣黄って書きます。ウコンとはちょっと違います。」珍しいもののようで、オカチャンが感激する。

     花の大きさは、京都市や結城市で直径二から二・五センチメートル、北海道松前町で四から四・五センチメートルなど、場所によって異なる。花弁数は十から十五程度の八重咲きで、花弁は肉厚で外側に反り返る。色は白色から淡緑色である。中心部に紅色の条線があり、開花時には目立たないが、次第に中心部から赤みが増してきて(紅変)、散る頃にはかなり赤くなる。場所や時期によって、花の大きさや色合いなどに大きな差がある。(中略)
     江戸時代に、京都の仁和寺で栽培されたのがはじまりと言われている。「御衣黄」という名前は江戸時代中期から見られ、その由来は貴族の衣服の萌黄色に近いため。古くは「黄桜」「浅葱桜(浅黄桜)」などとも呼ばれていたが、それがギョイコウなのかそれともウコンを指すものなのかはっきりしない。江戸時代にシーボルトが持ち帰った標本が現存している(ウィキペディア「ギョイコウ」より)

     街道脇の空き地にはイチリンソウが群生している。「向 右御嶽山氷川方 左青梅調布方」の道標が立つ。町谷橋を渡った。下を流れるのは多摩川の支流町谷川だ。「歓迎 吉野梅郷」の看板が立っている。
     街道から左に逸れて上り坂に入ると結構きつい。「ゼイゼイ。」「何度かな、三十度?」「そんなにないよ、二十度かな。」坂道の角度なんて分らない。「アケビです。」「これは普通のアケビですね。」さっきのゴヨウアケビより色が薄い。
     菜の花畑。「この黄色い花は?」「オウバイです。黄色い梅。」同じような形の新しい建売住宅が多い。「こんなところまで開発したんだな。昔は何もなかったよ。」最寄り駅は日向和田駅だろうが、歩けばかなりありそうだ。坂道だし車がなければ暮らせない町だ。若いうちは良いが、年を取ったらとても住めない。
     そしてやっと着いた。梅の公園東口の前には鎌倉街道の立て札が立っていた。「こんなところに?」「鎌倉街道はあちこちにあるからね。」ここは「山の道」と呼ばれ秩父に通じる道のようだ。鎌倉街道上ツ道から町田で分かれて西に向かい、高尾、元八王子、戸沢峠、上川峠、梅ヶ谷峠、吉野梅郷、柚木、軍畑、高水山、上成木、小沢峠名栗、横瀬を通って秩父に至る。その先は甲州に繋がるだろう。「森林公園の中を通る道もありましたよね。」それが直接上州に繋がる上ツ道の本道になるようだ。
     トイレ休憩をとる。「腹が減ったよ。」まだ十一時を少し回ったところだ。桃太郎がナツメヤシを配ってくれる。東京ジャーミー・トルコ文化センターで初めて食べたものだ。「一キロ買ったらなかなか減らないんですよ。」珍しいものではあるが、そんなに買うか。
     桃太郎は鮒の甘露煮を二つの店で買って食べ比べる人である。「どこで買ったんですか?」「通販で。」普通のスーパーで売っているとは思えないので、ムスリムの人も通販で買うのかも知れない。ファーブルはタイ土産のドライマンゴーを取り出して分けてくれる。
     「十年前に梅がウィルスにやられてしまって、全部伐採してしまったんです。」「プライムポックスウィルスって言うらしいですよ」とヨッシーが補足してくれる。プライムポックスウィルスはサクラ属に感染するウィルスで、一九一五年にブルガリアで発見された。青梅の梅は平成二十一年(二〇〇九)に感染が発見された。梅の感染が確認されたのは世界で初のことだった。

     再生・復興の第一歩が始まっています!
     平成二十八年十月二十七日(木曜日)、農林水産省にて開催されたウメ輪紋ウイルス対策検討会において、一定の条件のもと梅郷全域、和田町全域に再植栽を認める判断が出ました。(青梅市「梅の里再生情報)
    https://www.city.ome.tokyo.jp/umenosato/ppv_info.html

     そして実際の植樹はその年の十一月に始まった。つまりまだ一年半しか経っていないのだ。梅郷と和田町全域に植樹された梅は二千七百十三本である。山の外周を回りながら登っていく。大きな石で石垣を作り、その間に細い梅が植えられている。「根が張ったら崩れないでしょうか?」「かなり上に来ましたね。」下界を眺めれば住宅が密集している。
     「それじゃ降りましょうか。」ユキヤナギを植えた一画がある。菜の花の黄色、ユキヤナギの白が青空に映える。
     今度は北口から出た。そろそろ昼飯の店に行くのだろうか。蕎麦屋とイタリアンの店が並んでいると言っていたが、私はもちろん蕎麦屋に入りたい。「ミツマタですね。」黄と赤と両方開いている。赤は園芸種らしい。「ご丁寧にミツマタって札がつけてある。」「どう見ても確かにミツマツタです。」
     しかし昼飯はまだだった。姫は梅林山天澤院に入っていく。曹洞宗。青梅市梅郷四丁目五八六番地一号。慶長八年(一六〇三)の開山である。入口にオープンガーデンの看板が掛けられている。境内に入ると草むらに双体道祖神があった。大山街道厚木の付近ではこれをよく見かけたものだ。
     ガーデンは山野草の庭である。ムラサキケマンかと思った筒状の花は、ツカサンの説明でジロボウエンゴサク(次郎坊延胡索)と分かった。随分昔に狭山丘陵で教えられて以来、久し振りに見た。「ムラサキケマンとの違いはなに?」と桃太郎が訊き、「ケマンの方はもっと花が多いんですよ」と姫が答えた。どちらもケシ科キケマン属で、一本の茎につく花の数が決め手らしい。小さなピンクの花の脇にはイブキジャコウソウの札が立てられていた。
     牛石と名付けられた大岩がある。「これは顔を後ろに向けた形でしょうか?」小さな大師堂には弘法大師坐像と十一面観音が並んでいる。曹洞宗の寺院で弘法大師は珍しい。
     「上に行く人はどうぞ。」黒銅の両部鳥居を潜る。「この形、知ってる?」「厳島の鳥居と同じ。」正解。石段を上ると、正面の社は天満宮(菅原神社)だった。「無理やり梅と関係づけたんだな。」摂社は琴平、八坂。但し琴平の方は「琴平神社遥拝所」になっていた。地図を見るとここから西の山の中に巌の金毘羅神社があるから、これのことだろう。
     もう一度下の寺に戻ると、池の周囲にサクラソウが咲いている。この花も久し振りに見るね。ただし自然の群生ではないから姫は興味を示さない。さいたま市田島のサクラソウ自生地に行ったのはいつのことだったろう。見事なピンクのシャクナゲが咲いている。
     お願い地蔵尊は、大きな地蔵二体の間に子供のような地蔵を挟んでいる。その足元は五センチほどの地蔵で埋められている。「五百円で売ってるんだ。」祈願する人はこの豆地蔵を買って供えるのである。
     「祭りの準備をしてるのかな?」ファーブルは目敏い。寺を出たすぐの家の前に、神輿の枠組みのようなものが出されていた。今日の夜六時から明日の朝にかけて、中郷三社祭が行われるのだ。三社とは菅原神社、琴平神社、八坂神社である。
     青梅着物博物館には寄らない。「青梅は織物の町ですからね。関心のある人は後日来てください。」しかしどうやら青梅織物とは直接の関係はない。

     緑と水に恵まれた〝東京の奥座敷〟として、年間を通じて多くの人々が訪れる青梅吉野梅郷。
     青梅きもの博物館は、そんな青梅吉野梅郷の中心地にあります。ここは一九九七年にオープンした、日本の伝統美である〝着物〟に焦点を当てた博物館です。江戸時代の大名や公家、元皇族の衣裳など、五百点を越える歴史的な着物や資料を所蔵・展示しています。
     創設者は、東京駒込和装学院の理事長も務め、着物教育の第一人者として知られる、故・鈴木十三男氏。今から数十年前に、元梨本宮家より、両殿下が天皇即位式に着用された貴重な衣裳を預かる機会に恵まれ、以来、皇室衣裳・時代衣裳の収集をスタートしました。全国の美術館・博物館の企画展に貸し出される貴重な衣装もコレクションの中に含まれています。
    https://www.asoview.com/note/67/

     途中の分かれ道に吉川英治記念館への道標が立っていたが、もう十二時になろうとしている。予約していないのだから、早く店に行かなければならない。吉野街道に出て右に曲がると居酒屋があった。「土曜日は休みか?」「夕方からなんだよ。」実はこれが姫の言う「蕎麦屋」だったらしい。グーグルマップでは今も松葉屋食堂という定食屋のままになっている。そこに芭蕉句碑があった。

     梅が香にのつと日の出る山路かな

     元禄七年(一六九四)、芭蕉が亡くなる年の句である。小さな堂には、随分きれいな青面金剛像が立っている。金剛が両足で、正面を向いた邪鬼二人の頭を踏んでいる。台座には三猿。右側面に「後水尾天皇」「寛永」の文字がある。「寛永でこの綺麗な状態ってスゴイよね。」「よっぽど大事にしてたんだな。」しかし私たちは観察が足りない。「在昔後水尾天皇御宇」だから、昔のことである。「明治二十七年季春本村大火」にあって焼失したものを、再建したのだ。「こっちに明治ってあるよ。」左側面に「明治三十二年」とあった。
     その隣にある句碑が読めない。「故郷の梅もは〇は〇薫りけり」の〇が分らないのだ。後で崩し字字典で確認すると〇は「ら」のようだったが、薫るの形容に「ハラハラ」を使うのは初めて見る。
     そしてパスタのHIBACHIYAに入る。青梅市梅郷四丁目七〇二番二号。十二時ちょうどだが、客は誰もいない。「蜻蛉が食べられるものはあるかな?」「イタリアンのお店には何年振りですか?」「昔、桃太郎が目黒川をやった時かな。」江戸歩き第四十八回「目黒川編」(平成二十五年九月)でのことだった。ランチはスパゲッティとピザしかないから、選びようがない。五年振りにスパゲッティを食うことになる。
     「モルツがある。嬉しい。」アサヒ・スーパードライは四百八十円だが、それはファーブルが飲めない。プレミアムモルツは五百三十円だ。「じゃ、俺もそうしよう。」結局五人がモルツを注文する。パスタはミートソース八百円にした。「モルツを出すお店はサントリーの審査が厳しいんですよ。」姫は変なことを知っている。グラスの洗浄と乾燥のさせ方、ガス圧の調整、注ぎ方等、サントリーの決めたやり方があるらしい。
     スパゲッティだけでは腹が持たないかと思ったら、サラダとパン、それにソフトドリンクが付く。「パンも何年振りとか言ってましたよね。嫌いなんでしょう?」「好き嫌いが多いね。」嫌いなわけではなく、積極的には食わないだけだ。ビールを飲まないヨッシー、ツカサン、オカチャンはピザである。
     サラダにはピンクのソースがかかっている。正体は不明だが梅の味がする。久し振りのスパゲッティで伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』を思い出した。私はこの本によってスパゲッティをフォークに巻き付ける方法を習っているから、スプーンを使わなくても麺を垂らさず上手く巻ける筈だ。ちょっと引いてみよう。

     スパゲッティとソースを混ぜ合わせたらフォークでスパゲッティの一部分を押しのけて、皿の一隅に、タバコの箱くらいの小さなスペースを作り、これをスパゲッティを巻く専用の場所に指定する、これが第一のコツである。
     スパゲッティの一本一本が、五十センチもある場合は、本当に二、三本くらいだけフォークに引っかける。日本式のコマ切れスタイルなら七、八本は大丈夫だろう。   さて、ここが大事なところよ、次に、フォークの先を軽く皿に押しつけて、そのまま時計廻りの方へ静かに巻いてゆく、のです。そしてフォークの四本の先は、スパゲッティを巻き取るあいだじゅう、決して皿から離してはいけない。これが第二のコツである。

     手元にある文春文庫版は一九七六年八月の第二刷だから、私は二十五歳でスパゲッティの巻き方を覚えたのだ。実践の機会は滅多にないが、やってみたら上手くいった。

     伊丹十三にはじめて会ったとき、彼は十九歳、私は二十六歳だった。私たちはひどく貧乏していて、一杯のコーヒーを飲むのも容易ではなかったが、金がはいった時は大酒を飲み、贅沢をした。彼はいつも控えめで無口であったが、時折ボソッと口をきくと、それはいかにもその場にふさわしい発言であり、おどろくほど正確であり、同時に、うまい言い廻しであった。不思議な少年であった。
     伊丹のいいところは、人間としての無類の優しさにある。そうして、その厳しさから生ずるところの「男らしさ」にある。優しさから生まれた「厳格主義」にある。いつだって、どんなことだって彼は逃げたことがない。私は、彼と一緒にいると、「男性的で繊細で真面な人間がこの世に生きられるか」という痛ましい実験を見る思いがする。(山口瞳)

     伊丹十三については好悪が分かれるだろうが、若い頃の私は伊丹の完璧主義に憧れた。酒やそれに関連する事柄について、伊丹と山口瞳に教わったことは多い。ただ、映画『あげまん』にはがっかりした。「あげまん」とは品のない言葉で、公然と使うものではない。伊丹は音感が悪いのではないか。
     久し振りのスパゲッティはそんなに悪くなかった。パンもまずまずである。ところで、スパゲッティのことをパスタと呼ぶようになったのはいつ頃からだろうか。昔は誰もパスタなんて呼ばなかった。どうやらバブル時代のイタ飯ブーム以降のことのようだ。私だってパスタは小麦粉の練り物の総称であることは知っているけれど、スパゲッティはスパゲッティと呼ぶ方が好きだ。頑迷固陋なのだ。新しい時代についていけないのである。
     ドリンクを姫はオレンジジュースにしたのだが、ビールの後では余計だった。「ツカさん飲みませんか?」しかしツカサンは遠慮し、オカチャンに回った。

     十二時五十分に店を出る。さっきの吉川英治記念館への道標まで戻って右に行く。次は下山八幡だ。青梅市梅郷六丁目一二二〇番地。長久二年(一〇四一)二月造営。寛保二年(一七四二)二月に大風により破損、宝暦五年(一七五五)八月再建。
     だだっ広く愛想のない境内の左端には、白とピンクの芝桜が細長い絨毯のように植えてあるが、神社の雰囲気にはあまり似合わない。山を背景に、敷地の奥に入母屋造りの拝殿が建っているだけだ。本殿は三間社流造と言うから横に広い。銅板杮葺きの屋根に鰹木は七本、両端に外削ぎの千木が載っている。
     空き地にはニリンソウが群生している。新明王橋を渡る。民家の二階の窓に龍が描かれているのがなんとなく不気味だ。
     そして愛宕山即清寺に着く。青梅市柚木町一丁目四番一号。真言宗豊山派。石垣の前に「山内新四国八十八ヶ所札所霊場入口」の木柱が立っている。
     自然石の階段は上りにくい。石段の途中に、右側面に不動明王、正面におそらく弘法大師を彫った石碑が立っている。

     柚木の東端(柚木町一丁目)にある。江戸時代まで明王堂領および愛宕権現の別当寺であった。明王堂は本尊を不空羂索大忿怒明王といい、智証大師の作と伝える。元禄六年(一六九三)再興の記録があり、現在即清寺の本尊である。元慶年間(八七七~八四)元喩和尚の開創、建久年間(一一九〇-九八)源頼朝が畠山重忠に命じ造営、印融和尚が中興したという。大永年間(一五二一~二七)火災にかかり、後再建され、北条氏照にも信仰され、慶安元年、徳川氏から明王堂領三石の朱印状を寄せられた。(『青梅市史』より)

     即清寺の寺号は畠山重忠の戒名「勇讃即清大禅定門」による。ところでファーブルの住んでいる恋ヶ窪には畠山重忠に纏わる伝説があるのだが、知っているだろうか。恋ヶ窪は鎌倉街道の宿場であった。重忠の居館は男衾郡畠山荘園にあり、頻繁に街道を往還して宿場の遊女夙妻太夫と恋仲になった。やがて重忠は西国に赴きなかなか戻ってこない。戦死の報を聞かされ、夙妻太夫は姿見の池に身を投げた。やがて西国から戻った重忠がこれを知って、菩提のために堂を建立したのである。
     立派な三門は二天門だ。金網の中の像はかなり古びているがなかなかのものではなかろうか。「毘沙門と増長天かな。」私はいい加減なことをファーブルに言ったが、これが間違いであるのは下記を参照すればよい。

     樓門。本堂の前にあり、竪二丈五尺、横二丈二尺、神仙及鳥獣の類を彫刻す、左右に廣目・持國の二像を置き、樓上の中央には聖徳太子の像長三尺許なるを安置す、又百観音の木像を安置せり。(『新編武蔵風土記稿』より)

     廣目天と持國天である。鐘は太平洋戦争中に供出され、鐘楼に架けられているのは新しい。枝垂れ桜がきれいだ。白いミツマタが咲き、山側にはツツジが満開だ。「イカリソウですね。」ヨッシーと姫が教えてくれる。ピンクの小さな花だ。ジロボウエンゴサクもある。
     十三仏結衆板碑というものが祠に立っている。「十三仏のものは見たことないね。」一見すると阿弥陀三尊の種子板碑のように見える。「上はキリークだよね。」キリークは阿弥陀如来である。脇侍の観音菩薩がサ、勢至菩薩がサク。これだけならよくある阿弥陀三尊種子である。その下で割れた跡を補修してある。しかし碑の隣の図解をみれば、実はキリークの周りを小さな種子が十個囲んでいて、合計十三仏になるのだ。
     何度も書いているのにいつも忘れてしまうので、また忘れてしまうかも知れないが十三仏をここでも記しておこう。不動明王(初七日)、釈迦如来(二七日)、文殊菩薩(三七日)、普賢菩薩(四七日)、地蔵菩薩(五七日)、弥勒菩薩(六七日)、薬師如来(七七日)、観音菩薩(百箇日)、勢至菩薩(一周忌)、阿弥陀如来(三回忌)、阿閦如来(七回忌)、大日如来(十三回忌)、虚空蔵菩薩(三十三回忌)である。

     境内は尤廣大にして、大抵五町四方ありといへど、山林を概していへば一里餘に径りたるところなり。(『新編武蔵風土記稿』より)

     境内裏から山の頂上にかけて四国八十八ヶ所札所を巡らしてあるのだ。「行きますか?」これを回っていてはかなりの時間がかかってしまうだろう。「行きません。」

     安政年間、当山第三十二世融慧和尚は明治維新にかかる幕末の不穏な時代を迎えた中で、少しでも平穏な世を願い四国遍路を企画、満願。各札所の本尊の写しと浄土を戴き、守護愛宕山の聖地に四国霊場開創を発願された。
     文久二年七月図らずも病症に籠り、再起の日なく惜しくも遷化されてしまい、第三十四世融雅、先師の遺業を継承、世話人として野村勘兵衛、岩田傳次郎の両氏を選任、慶應元年八月より同三年に至る間、地区内の檀信徒を始め諸方の信者に志納を請い、総額壱千四両弐分壱朱余の浄財をもって、石碑等を安置し山内新四国八十八ヶ所霊場が開創された。

     吉野街道を更に行き、脇の道を左に入れば吉川英治記念館だ。青梅市柚木町一丁目一〇一番一号。長屋門が受付になっている。入館料は五百円だ。「年寄割引はないのかな?」ない。「JAFカードがあれば五人様まで百円割引になります。」
     「それならあるかも知れない。」桃太郎は何故かこういうカードを何種類も持っている。五人が中に入り、「ここから割引なしだよね」と言いながら五百円を出した。「全部で何人ですか?」「八人。」「それじゃ気の毒ですから。」全員割引にしてくれた。僅か百円でも、気は心である。
     昭和五十二年(一九七五)に開館し、平成四年(一九九二)には年間入館者数が十七万人だったが、平成二十三年(二〇一一)には、その一割に落ち込んだ。若い連中は吉川英治なんか知らないのだろう。年間の赤字は千六百万円にものぼって閉館の危機にあったが、青梅市が引き受けて存続が決まったのである。これは良いことだ。しかし赤字の原因は何か。
     母屋の中には入れず外から見るだけだ。吉川一家が昭和十九年三月に疎開してきて、約十年住んだ家だ。元々は養蚕農家だったものを改築した。母屋の裏の洋館には吉川が使っていた書斎がそのまま残されている。
     それにしても広大な敷地で、庭も手入れが行き届いている。シイの巨樹。記念館に入ると著作や吉川英治文学賞、文学新人賞の受賞作品が並んでいる。新人賞受賞者は殆ど知らない。「エーッ、知らないのか。俺は殆ど知ってるぞ。」スナフキンと違って、私は小説類を読まなくなって久しい。文学賞(賞金三百万円)、文学新人賞(百万円)、文庫賞(百万円)、文化賞(百万円)と、吉川の名を冠した賞は多い。この賞金を払うことが、記念館の赤字になったのではないかと思ったが、どうやらこれは講談社から出ているようだ。
     吉川の本は懐かしい。「親父の蔵書に全集が揃っていて、なかなか捨てられないんだよ。」スナフキンの父上は全集を揃えていたのか。私の父は全集ではなく単行本で集めていたが、それらはマリーが処分してしまったかも知れない。「この本だよ、俺が読んだのは。」装丁が懐かしい。最初に読んだのは誰でもそうだろうが『宮本武蔵』(六興出版のものだった)で、続いて『私本太閤記』、『新・水滸伝』、『三国志』は中学三年で読んだ。高校に入って『私本太平記』、『新平家物語』と主なものは全て父の本で読んだのだ。あまり有名でないものでは『梅里先生行状記』、『黒田如水』『松の家露八』。
     「蜻蛉の親父さんは初版本を集める人だったのか?」そうではなく、大衆文学を片端から買っていたのだ。吉川英治に限らず、白井喬二『富士に立つ影』、直木三十五『南国太平記』、林不忘『丹下左膳』、三上於菟吉『雪之丞変化』、大仏次郎『赤穂浪士』、佐々木味津三『旗本退屈男』等に始まり、柴田錬三郎、五味康祐、山田風太郎忍法帖まで、時代小説は殆ど揃っていた。
     「うちにはそうしたものがありませんでした。中国書や歴史書は沢山あったんですけど。」姫の父上は学究だったのだろう。「『三国志』は文庫本で読み始めたけど長すぎて。登場人物が多すぎるしね。」桃太郎の言う通り、登場人物の名前なんか、私も殆ど忘れてしまった。それでも「死せる孔明生ける仲達を走らす」なんて言葉を覚えている。「文庫で二十冊になりますよね。」そんなになるだろうか。もしかしたら、桃太郎の言うのは横山光輝の三国志ではなかろうか。
     「もう著作権は切れたのかな。」「確か去年じゃなかったかな。青空文庫に入り始めたから。」しかしこれは間違いで、吉川英治は昭和三十七年(一九六二)に死んでいるから、五年前に著作権が消滅していた。
     『全集がないか。』しかし次の部屋に入ると、スナフキンの家にある全集も並んでいた。「これだよ、これ。」赤い函入りの全集だ。「昔はバカにしてたんだけど、やっぱり大したひとなんだ。」若い頃の私は純文学に毒されていたのである。「バカにしたってことないだろう。大したもんだよ。」
     『宮本武蔵』はそれ以後の時代小説の型を決定した。「孤独な剣士とそれを慕う美女、それに少年っていう形。」「お通さんだね。」例えば柴田錬三郎『運命峠』は正にこの形を正当的に踏襲した作品だった。それに宮本武蔵を造形しようとすれば、否が応でも吉川武蔵と対決しなければならない。しかしそれをやって成功した作品はないだろう。
     「又八ってのもいたよね。」本位田又八。武蔵はちっとも偉くない。あいつは強かったんだから。ホントに偉いのは又八だよ、我々だよ、必死で生きている奴だよ、と言ったのは山口瞳ではなかったろうか。
     そして吉川英治は人格的にも尊敬すべきひとであった。苦労が人格を鍛えたのは長谷川伸や荒畑寒村にも言えることだ。編集者や若い作家が戦後食うにも困って文学をやめようかとすると、吉川は金銭的な援助をして文学に引き留めた。墜落した米軍爆撃機の死亡した乗員を、丁重に葬るべきだと主張したのも吉川だった(これについては前回、青梅市郷土博物館のところで書いた。
     「横浜でかんかん虫やってたろう?」この辺りについてはスナフキンと私は殆ど知識が重なっている。「それって何?」ファーブルは知らないか。軍艦に付いた貝殻を落とすんだ。」「カンカンって音がするから。」

     かんかん虫とは、星の夜に、秋草の蔭で、しおらしい美音をまろばすあの鉦虫のことではない。同じく、鉄はたたくが、目も鼻も耳の穴も、まっ黒になって、船のサビ落しをやる労働者の名だ。或いは、港の船を目あてに、ペンキ塗りでも何でもやる自由労働者のことと通用してもよい。(吉川英治『かんかん虫は唄う』)

     吉川は小学校を中退して職業を転々とし、十八歳の時に横浜ドックの工員になったのである。しかし作業中に転落して重傷を負った。荒畑寒村も長谷川伸も一時横浜ドックで働いた。学歴のない貧しい少年たちの最初の働き場所だったのだ。

     昭和三十七年九月に吉川英治が逝去すると、それに符節を合わせたかのように、それから二か月後に吉川とは深い縁のある大衆小説雑誌「講談倶楽部」が終刊し、半世紀におよぶ歴史の幕を閉じた。すでにこれより二年前に、光文社の「面白倶楽部」も終焉を告げていたので、往年殷盛をきわめた、いわゆる〈倶楽部雑誌〉もここに最後の命脈を絶った、といってよかった。このとき講談社の雑誌では、かつて少年少女の人気を浚った「少年倶楽部」、「少女倶楽部」の二誌も共に姿を消した。(大村彦次郎『文壇挽歌物語』)

     吉川英治の死とともに、講談社文化も滅びたということである。柴田錬三郎や五味康祐は週刊誌時代の流行作家である。高度経済成長の始まりとともに農村は崩壊し、大衆の大半はサラリーマンという専門人になっていく。大衆を捉えた講談社文化の消滅は、皮肉なことに大衆の時代の幕開きを象徴するのである。そしてこれは、岩波文化を代表とする教養主義の終焉も意味していたのだ。

     ・・・・昭和三十七年十月に最終刊行の十二月号が出ると、尾崎士郎は朝日新聞につぎのような一文を草して、この雑誌を哀惜した。
     〈廃刊といえば、確かに廃刊であるが、一娯楽雑誌が五十余年命脈を保ったという例は明治以来はじめてだといってもいい。人間の生命にたとえていえば、終生の目的を果たしたものが、天寿を全うして死に就いたというべきであろう。
     今日では、もはやまったく別のものに変わっているが、ある時期、たしかに「講談社文化」の時代的影響は、批判の是非いかんにかかわらず、重要な意味を残している。その根柢を形成したものが、「講談倶楽部」であったことだけは絶対に疑う余地もあるまい。〉(大村・同書)

     このところ読んでいる本が等しく、昭和三十年代後半から四十年代半ばにかけて、日本社会が決定的に変わったことを指摘している。教養と言うものが死滅したこと、青春が終焉しそれと連動して大学が死滅したこと、知識人がいなくなったこと。要するに大衆社会の到来である。何を読んでいるかと言えば、竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』、三浦雅士『青春の終焉』、西部邁『大衆の病理』である。

     逝く春や吉川英治記念館  蜻蛉

     シロヤマブキ。薄青い小さな花には見覚えがある。「なんとかヒエンソウじゃないかな?燕が飛ぶみたいな形だよ。」「知りません。」姫が知らないのなら違うかも知れない。「間違ったかな。」しかし後で調べると、やはりセリバヒエンソウ(芹葉飛燕草)だった。
     吉野街道に戻る。奥多摩橋南交差点を右に曲がり、橋を渡る。多摩川の浅瀬ではカヌーの練習だろう、精々十メートル程の距離を行ったり来たりしている。指揮者は浅瀬に立って何か指示しているようだ。「ゾクゾクしちゃうよ。」ファーブルはやはり高所恐怖症だった。橋には「土木學會推奨土木遺産」のプレートが嵌められている。
     「シャクヤク?ボタン?ボタンですね。木だから。」「立てば芍薬座れば牡丹、ここに一人います。」姫がこういう冗談を言うのは珍しい。「だって誰も言ってくれないんだもの。」
     第六小学校の脇を回り込んで青梅街道に出る。右に少し行くと、踏切の向こうに山門が見えた。こういう景色は青梅で何度もお目にかかっている。山の裾を線路が走って、参道を分断しているのだ。
     瑞龍山海禅寺。曹洞宗。青梅市二俣尾四丁目九六二番地。三十段程の石段を登って、楼門を潜る。立派な寺だ。

     この寺は群馬県白井雙林寺末で、本尊は釈迦如来である。はじめ長勝山福禅寺と号し寛正年間(一四六〇〜六五)雙林寺第二世一州正伊を開山としたという。天文の頃五世太古禅梁は市内下村の生まれ、武井氏の出で学徳が高く、領主三田綱秀の信望が厚かった。そのことから当寺は三田氏の菩提寺となった。永禄六年(一五六三)辛垣城落城の際兵火にかかり、のち天正十八年(一五九〇)第七世天江東岳により諸堂が再建されたが、江戸時代になって再び火災にかかり、現存の本堂は元禄十一年(一六九八)の再建である。境内には都指定の三田氏供養塔があり、市重宝三点を蔵している。(掲示板より)

     「三田氏の供養塔ってどこですかね?」山の中腹に立派な宝篋印塔数基を収めた祠が見える。「あそこじゃないかな。」オカチャンは行きたそうにしていたが諦めた。例によって見事なシャクナゲが咲いている。
     二俣尾駅はすぐそこだ。「急げば間にあいます。」最後は駆け足になったが、上り電車にぎりぎり間に合った。十四時三十四分。「誰か万歩計を持ってる人は?」スナフキンが一万四千歩と決めた。宮ノ平の次の駅かと思っていたら、青梅まで四つ目だった。二俣尾、石神前、日向和田、宮ノ平、青梅。取り敢えず中央線に乗り換える。「どうする?立川でいいかな。」この辺りは全てスナフキンにお任せする。
     オカチャンは拝島で降りて行った。ツカサンは国分寺から西武線に回ると言う。ヨッシーは高尾山口に、高尾登山のポイントカードを貰いに行くと言う。高尾山に月に一回登るひとである。
     「今日は違う店に行こう。」突き出しが出されて驚いた。大きな深皿に鰤のカマと大根を煮たものが入っているそれが二皿あるのだ。「まだ腹が減ってないけどな。」「パンが余計だった。二つも食べたから。」「俺は三つ食べた。」ビールと焼酎。カマがなかなか減らない。焼酎を一本空けたところで店を変える。
     今度は前にも行った味工房である。ファーブルはあの後、友人と一緒に来たらしい。「ホッピーにしようか。」「うん、この間、おいしかった。」ファーブルもすっかりホッピー党になったか。適当に飲んでお開き。

    蜻蛉