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    青梅街道 其の十(最終回) 軍畑から武蔵御嶽神社参拝
      平成三十年六月九日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.06.24

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     関東甲信越は平年より二日早く六月六日(水)に梅雨入りした。今年は花が早く、季節が異様に早く過ぎているので、僅か二日と言うのは意外だった。五月雨と言うように、梅雨は旧暦五月の雨である。まだ一週間も先のことだ。しかし梅雨入りしたと言うのに木曜、金曜と雨も降らずに暑くなり、今日も雨の予報はない。旧暦四月二十六日、芒種の初候「蟷螂生(かまきりしょうず)」。梅雨はどこに行ったのだろう。
     今日の集合は青梅線軍畑(いくさばた)駅、家からは二時間コースになる。拝島では臨時列車の都合で調べてきた時刻より三分程ずれ込んでいたが、ホリディ快速に乗れたから青梅には予定より少し早めに着いた。ドアが開く寸前、桃太郎がベンチに座ってパンを食べている姿が見えた。同じ電車でヨッシーも降りてきた。
     人が食べているのを見るとなんだか腹が減ってくる。ヨッシーがトイレに行っている間に立ち食い蕎麦屋でもないかとホームをうろついてみたが、何もない。スナフキンは次の電車でやって来た。定刻までに軍畑に着くには九時四十一分の奥多摩行しかないのに、肝心のあんみつ姫の姿が見えない。
     「まさか来ないってことないよな。」リーダー不在の最終回はあり得ないだろう。しかしやがてマリーと一緒にやって来た。「どこにいたの?」「後ろの方です。」ロダンからは欠席の連絡はなかった筈だがどうしたのだろう。青梅から十四分で軍畑に着く。青梅市沢井一丁目。無人駅である。
     「アレッ。」改札前のベンチでロダンがこちらに手を振っている。「一本前の電車で着いたんですよ。」それなら四十分もここで待っていたことになる。「本数が少ないから、何かあったら間に合わない。早く行った方がいいって、女房が言ったんですよ。」なかなか気の付く愛妻ではないか。私の妻は、私が今日どこに行くのかも知らないだろう。全く関心がないのだ。
     これで参加者七人が確定した。あんみつ姫、マリー、ヨッシー、スナフキン、ロダン、桃太郎、蜻蛉である。ファーブルは札幌に行っているのだったか。
     駅前は何もない。ここはもう奥多摩の山の中である。新緑の中、左の崖下に街道がかすかに見える。沢井壱丁目自治会館(壱と書くのも珍しい)の前を通って坂を下り、青梅街道と埼玉県道・東京都道一九三号「下畑軍畑線」が合流する辺りに出る。そこから一九三号線を東に少し戻って姫は立ち止まった。「あそこなんです。」崖の中腹に小さな祠の屋根が見えた。これが鎧塚だった。青梅市沢井一丁目二百七十三番地。
     姫の案内には辛垣城の戦いの場とある。「辛垣ってなんて読むのかな?」「カラカイサンがあるよね。」桃太郎が知っていた。流石に山登りの人、岳人である。辛垣と書いてカラカイと読む。地図を見ればここから北東に約一キロに雷電山(標高四九四メートル)がある。そこから続く尾根上にあるのが辛垣山(標高四五七メートル)で、その山頂付近に三田氏の辛垣城の曲輪があった。永禄六年(一五六三)北条氏との決戦がここで行われ、三田氏は滅亡した。鎧塚はその戦死者あるいは武器を埋葬したところで、軍畑の地名もこれに拠るのである。
     「登らないで下さいね、危険だから。そこには行きません。」自治会館の向かいに急な細い坂道があったから、もしかしたらあれを降りるようになっているのではあるまいか。戻って青梅街道に出て、軍畑駅入口の橋の前で信号を渡っていったん街道の南を歩く。街道は渓谷に沿っていて、樹木の間からかなり下に多摩川が見える。「水が綺麗ですね。」奥多摩渓谷である。「なんだか、小旅行に来たみたいだね。」
     街道を横断して北側に戻る。馬頭観音の石碑。右手は石垣を組んだ擁壁が続いている。そこに「青渭通」の標柱が立っていた。「なんて読むんですかね?」「アオイだろうね。」ここから山の方に青渭神社への参道が通っているのかも知れない。沢井三丁目一〇六〇に里宮、惣岳山山頂に奥宮がある。

     創建年代は不詳であるが、社伝では、崇神天皇七年、国中に疫病がはやったことから天皇は各地の神々に祈念をした、当社にも神地を寄進して祭祀を行ったという。天慶年間(九三八年~九四七年)に源経基が社殿を造営したと伝える。現在の社殿は弘化二年に再建されたものである。
     明治の初め頃、惣岳山の麓に拝殿を建立して遙拝殿とした。現在では山頂の本社を奥宮、山麓の遙拝殿を里宮とし、祭典などは里宮で行っている。(ウィキペディア「青渭神社」より)

     街道の右側は高い石垣の擁壁が続く。擁壁なんて私の知識にはない言葉だったが、斜面の崩壊を防ぐための壁である。石垣のところどころには、数字とⅡを組み合わせたプレートが貼られている。「なんだろう。」数字が順番に振られているわけでもない。「今度はⅢですよ。」少し歩くと、数字の横にあるのはⅣになる。どうやら擁壁の管理番号らしいと後でロダンが聞いて来た。かなりの崖なので、相当な防御が必要なのだ。
     石垣が奥の方で複雑に曲がりこんでいるのが見える。流れ落ちる川の勢いを削ぐために流れを変えたものだろうと、ヨッシーとロダンが判断する。左の方を見ると葉が白変した木が見えた。光の加減ではないだろう。「白くなってるよね。」「そうですね。何でしょうね。」姫が知らないものをマタタビではなかろうか。と言っても信じなくて良い。私は葉が白変するものはマタタビとハンゲショウしか知らないのだ。
     やがて石垣は自然石からコンクリート製の石板に変わる。その所々に直径十センチ、長さ二十センチほどの金属の棒が斜めに差し込まれている。「なんて言ったかな?昔は習った記憶があるんですけどね。」ヨッシーはそういうことをしていたのか。何だろうかと思いながらぼんやりしていると、すぐそばにプレートが貼られていた。現場打擁壁工(ロックボルト)とある。「これですか?」擁壁の脱落を防止するものである。

     岩盤ボルトともいう。坑道支保材の一種で,岩盤内の削孔に差込んで使用するボルトおよびその付属品。坑道その他の坑内空間の,主として天盤,ときには側壁などの岩石が剥離,脱落しやすいような場合に,それをその点に存在する強固な岩盤に縫付けるようにして脱落を防止するために用いられることが多い。(『ブリタニカ国際大百科事典』「ロックボルト」より)

     沢井駐在所、青梅市消防団を過ぎて青梅市沢井市民センターに入る。青梅市沢井二丁目六八二番地。ここには図書館も併設されているらしい。敷地に入るとすぐに青梅市立第六小学校跡碑が建っている。ネットを検索すると現在は二俣尾にあって、この地との関連は分らない。
     「誰でしょうか?」銅像は小澤芳重翁である。「どうせ政治家でしょう?」「地元の権力者ですよね。」明治三十六年(一九〇三)九月二十五日の東京府議会議員選挙で、小澤芳重は西多摩郡から出馬し瀬沼伊兵衛を破って当選している。有権者数二千二百五十六人、投票率五十三・〇六パーセント。西多摩郡の有権者数がこの程度であったと言うのは目に留めて良いだろう。言うまでもなく大正十四年の普通選挙法(治安維持法と引き換えに成立した)まで、選挙で投票できるのは高額納税者に限られていた。所属政党は不明だが、澤乃井の小澤家の一族であろう。
     駐車場の奥が茅葺の民家に続いている。福島家住宅。青梅市沢井二丁目七二〇番地。「ここからは入れません。」いったん街道に出て、狭い道から上った所が正面入口だ。入口付近に濃い橙色の花が咲いている。「キツネノカミソリに似てますね。」私もそうかと思っていたが、姫が言うのだから間違いないだろう。この花は森林公園で見たことがある。
     福島家は中世に遡るというから、三田氏の家臣だったのではあるまいかと思ったが、武田氏家臣だったらしい。江戸時代初期から沢井村下分の名主を務め、江戸時代中期以降は三田領四十二ヶ村筏師の惣代になった。
     入母屋造り、茅・杉皮葺き、平屋建て。中を見ることはできないが、喰違い六つ間型となっているようだ。庭には白いガクアジサイ、曲がりくねった古木の梅。玄関前には杉玉が吊るされている。「杉玉は酒造だろう?どうしてここに。」街道に戻ると隣が福島屋酒店であった。酒の取次もしていたのだろう。地酒「澤乃井」の暖簾が吊るされている。
     ここは「角打ち(かくうち)」をさせる店である。私はその言葉を知らずモッキリと呼んでいた。酒屋で買った酒をその場で飲むことができる店で、簡単なつまみ類も売る。昔は、飲食店営業の許可を得ていない酒屋でのモグリ営業だった筈だ。

     語源は諸説あり定かではないが、「角打ち」の名称は「量り売りされた日本酒を、四角い枡の角に口をつけて飲むこと」、「酒屋の店の隅(角)で酒を飲むこと」などに由来すると言われる。類似した形態の店は、関西では「立ち呑み」、東北地方では「もっきり」、鳥取県・島根県東部では「たちきゅう」と呼ばれる。(ウィキペディア「角打ち」より)

     「立ち呑み」と言うと別の意味になるだろう。モッキリと呼ぶのは東北地方と言っているが、学生時代、池袋にあった店もモッキリ屋と呼んでいたように思う。コップに日本酒を盛り切り一杯(これが語源だろう)、それに柿の種なんかを買って飲んだことがある。酒は販売価格そのままだからとにかく安い。それでも二三度しか行かなかったのは、酒を飲む理由は安さだけではないからだ。それにしてもあの頃の酒はべとべとして甘かった。
     その隣に白壁土蔵が並ぶのが「清酒澤乃井醸造元」小澤酒造だ。青梅市沢井二丁目七七〇番地。街道を横断すると向かいには、小澤酒造の庭園「清流ガーデン澤乃井園」が多摩川渓谷に臨んでいる。街道から見下ろすと相当な広さの庭園だ。今は十時三十七分。酒蔵の見学は十一時に予約しているので、それまで、この庭園で待つことになる。園内には結構な人がいる。この近辺では有名な場所なのだろう。百合が咲いている。

     西多摩の山の酒屋の鉾杉は三もと五もと青き鉾杉  白秋

     「明朝体ってことないだろう。」石碑の文字が明朝体と言うのは実に珍しいというか、なんとなく興を削がれる。「青梅に書家がいない訳じゃないだろうからね。」白秋がここを訪れたのは大正十二年のことだった。
     渓谷ではカヌーをしている。水が澄んでいて川底の石がきれいに見える。新緑がまぶしい。暑くなってきた。少し下流には吊り橋がかかっていて、楓橋と呼ばれている。「下見のときには渡りましたね。」

     ここはかつて、澤乃井三代前の隠居所があった場所で、二階建の家の前には湧水を利用した蓮池があり、蓮根堀りや芹摘みが出来るなかなか風流なところでした。
     私が嫁いだ頃は、すでに建物もなくなっていましたが、戦時中はここに香陽宮様ご一家、そのあとで元日銀総裁ご一家が疎開されたのだそうです。
     姑から聞いた事ですが、姑たち夫妻は毎月、一日と十五日には紋付を着て、宮様にご挨拶に伺い、また、総裁ご一家には初孫のご誕生という慶事があったりして、当時はいろいろ大変だった様子です。
     その後、四十年ほど前になるのでしょうか、この場所に開いた一坪ばかりの売店に、澤乃井のお酒と酒粕飴などを置いて、私ひとりで、生まれて初めて、「あきない」というものをいたしました。懐かしい、想い出の場所です。
     今では売店の位置も大きさも、扱う品も変わりました。息子たちの手で、すっかりリニューアルされています。(小澤酒造「別冊サワノイ」会長夫人コラム「楓橋 彼岸と此岸」より)http://www.sawanoi-sake.com/magazine_sawanoi/1541.html

     「そこで利き酒ができますよ。」それでは「きき酒処」に行ってみようか。「下見の時は三杯飲んじゃったからな。」「でもつまみが余りなかったわね。」姫の下見の際にスナフキン、マリーが同行していたのである。
     桃太郎は素早くて既に一杯目を注文していた。五百円、三百円、二百円と酒は十種類ある。五百円は「凰」と「芳醸参拾伍」だが、五百円出す気にはなれない。ケチなのだ。「何にした?」「大辛口。」本醸造である。それでは私もそれにしよう。珍しくロダンも注文する。二百円でぐい飲み一杯分、そのぐい飲みを利用すれば二杯目からは酒は百円引きになる。そしてぐい飲みは持ち帰ることができる。これまで澤乃井と意識して飲んだことがないので馴染みがないが、大辛口は旨かった。

     酒飲みは辛口が好きである。体には悪かろうが肴は少なくてよい。酒の相棒としての役割をちゃんと果たしてくれれば十分。大辛口であったなら、「よし、やってやろうじゃないか」と思ったりする。
     やはり酒は人生の友達である。大辛口は都合のよい友人ではないが、他には代えられない個性が楽しい。友情が芽生えたら幸いである。(奥多摩小澤酒造株式会社)

     後でぐい飲みの容量を計ってみると、店で八分目程に注いでくれた量は六十ミリリットル、三杯飲めば一合になる。これは便利だから家で使っているが、何倍飲んだか分らなくなってしまうので、実質的には関係ない。
     「それじゃ行きましょうか?」トンネルを潜って、青梅街道の向かい側の酒蔵に行くことができる。姫は七人で予約していて、丁度今日の参加者七人と言うのが偶然にも合っていた。予約は原則として十名以内とされ、十一名以上の団体は平日のみの受付となっている。
     最初は酒々小屋という会議室のような部屋に集められる。隅にチラシが数種類あるので貰う。「美酔物語」の一と二、「一献どうぞ」の十と十一。「一日二合でこんなにすごい!と言うチラシには、がん予防、動脈硬化防止、ボケ防止、骨粗鬆症予防など、酒飲みには有難い言葉がちりばめられている。気付かなかったが私は毎日こんなに体に良いことをしていたのだ。
     今日の見学者は三十四人ということだった。全員が揃ったところで、若いお兄さんがホワイトボードを前に酒造りの工程を説明してくれる。「小澤酒造は元禄十五年に創業しました。元禄十五年と言えば?」言わずと知れた赤穂浪士討入事件の年である。しかし江戸で飲まれる酒のほとんどは摂泉十二郷産の「下り酒」である。
     「日本酒で一番おいしいと言われるのが大吟醸です。」しかしこの言葉には異議がある。旨いかどうかは人の好みによるので、私は大吟醸は余り好きではない。削れば削るほどフルーティになるようで女性や外国人には好まれるだろうが、それが好きかどうかはそれぞれの嗜好である。私は昔ながらの醸造酒が好きだ。
     酒造り用のコメは食用のコメより柔らかく、粒が大きいというのは初めて知った。ササニシキの玄米(食用)と山田錦の玄米(酒用)とでは明らかに大きさが違う。二倍ほどにもなるのではないか。
     本醸造は精米歩合七十パーセント以下、吟醸酒は六十パーセント以下、大吟醸酒は五十パーセント以下を言う。ただ純米酒と言えば精米歩合に規定はない。大吟醸用に精米されたものは更に小さい。削ったものは黒糠で、ぬか漬けの糠床になる。更に削り取ったものを白糠と呼び、「うちでは業者に売っています」と言う。しかし糠以外にも削られたコメの粉がある筈で、それはどうするのか。煎餅にするだろうか。
     蔵の前では杉玉の説明がされる。「酒林とも呼びます。本来は新酒ができたことを知らせるためのものでした。」そして蔵に入るとかなり涼しい。温度計は十九度か二十度か。この蔵は元禄時代に建てられたもので、冷房はしていない。それなのにこの涼しさである。地下水の影響だろうか。

     この水は高水山を源流とし秩父古生層の厚い岩盤より湧き出でたる石清水です

     高水山は七百五十九メートル、岩茸石山(七百九十三メートル)、惣岳山(七百五十六メートル)と共に高水三山と呼ばれる。軍畑からハイキングコースが設定されている。
     「普通、井戸は縦に掘りますが、ここでは横に掘っています。」岩盤のトンネルを潜ると、その先はガラスで仕切られていて、池のようになった水が見える。
     続いて「蔵守」という長期熟成酒の瓶を保管している蔵を見る。一番古い酒が一九九九年、新しいもので二〇〇九年に造られたものだ。四合瓶で二千円から三千円である。
     「昔は越後杜氏にお願いしていましたが、後継者難の問題もあって、現在では社員杜氏に切り替えました。」昭和五十九年(一九八四)社員を派遣して育成を始め、平成四年には越後杜氏と社員杜氏の比率が逆転、平成十二年に完全社員化となったのである。
     「日本酒を長く保存する場合には新聞紙でくるんで下さい。光を一番嫌います。」我が家ではそんなに長く保存する機会はない。
     見学が終わって酒々小屋に戻って利き酒だ。「一杯だけでお願いします。」酒は「さわ音」と言う純米酒である。瓶の口にストローのようなものがついている。さっきの大辛口よりは少し甘めだ。四合瓶で税込み千八十円。私はさっきの酒の方が良いな。飲み終わってぐい飲みを返しに行くと、桃太郎は二杯目を注いでいる。

     外に出たのは十一時四十分だ。「桃太郎は二杯飲んでたろう?」「エーッ、ダメジャン。」「こっそり飲んでた。」多分気付かれていただろうね。トイレを借りてから出発する。「電車は何時ですか?」「十二時一分です。」沢井駅から御嶽駅まで電車に乗るのだ。男坂と女坂とあって、女坂は街道を少し戻らなければならない。ナフキンは女坂を行こうとしたが、姫は男坂を選ぶ。「だって女坂の方はどこまで戻るか分らないし、男坂は下見で登りましたから。」街道から駅までの坂道がきつい。このところ足腰が衰えているのではなかろうか。右手は小澤酒造の長い板塀、左は石垣の擁壁が続いている。前を歩く男は坂道をジグザグに登っていく。
     「駅のてっぺんが面白いんです。お寺みたい。」青梅市沢井二丁目八四八番地。無人駅の島式ホームに行く階段の屋根が楼閣のようで相輪が載っている。楓橋の対岸に建つ寒山寺を模したものだと言う。
     今回は行けないが、寒山寺について再び小澤酒造会長夫人のコラムから引用しよう。なかなか面白いコラムなのだ。ついでに書けば社長のコラムも面白い。一度小澤酒造のホームページを覗いてみることをお薦めする。

     この寺の由来は、明治十八年、時の書家、田口米舫(べいほう)師が中国に遊学、各地を歴訪中、中国寒山寺より寄託された木像の釈迦仏一体を日本に持ち帰り、日本の中で適地を探索していたところ、この沢井の鵜の瀬渓谷を発見、当時の青梅鉄道の社長、小澤太平の支援によって、沿線の名士、文化人の喜捨を得て建立したというものです。
     戦争末期、この鐘は供出され戻って来ませんでしたが、昭和四十年、主人の尽力で新しく鋳造され、昭和四十五年には、鐘楼の格天井に、当時、気鋭の玉堂門下二十四画伯の絵が寄進され、質素な堂宇に、華やかさが添えられました。見どころのひとつと申せましょう。
     幸い、寺堂の方は戦中も戦後も無事でした。渓谷を見おろす山腹に建ち、今も香煙が絶える事なく、中国寒山寺の和尚様も二、三年に一度は訪ねられ、丁寧に参拝されています。

     ホームの北側にうなぎ屋「かねう」があった。こんなところで一見の客が入るとは思えず、地元の人の法事や集会などで成り立っているのだろう。電車は予定通りに来た。
     御嶽駅に着いたのは十二時九分だ。駅舎は唐破風の向背を持っている。御嶽橋を渡りながら振り返ると左岸の崖の上に建つ建物が温泉宿のように見える。「雰囲気がいいですね。」
     橋を渡りきると、叢の中に飛田東山翁顕彰碑が建っていた。「誰でしょうか?」冒頭だけ読んでみると「飛田東山先生は名は勝造、明治三十七年茨城県に生まれ」とあて、それ以上は読む気力がない。しかしいろいろ探すと実は興味深い人物であった。飛田はヒダと読む。
     尾崎士郎『人生劇場』の吉良常(太田常吉)のモデルだと言う。『人生劇場』は長すぎて途中で投げ出してしまったが(五木寛之『青春の門』も同じ)、映画『飛車角と吉良常』(内田吐夢監督)は見た。飛車角が鶴田浩二、吉良常は辰巳龍太郎。吉良常は三州吉良の仁吉に繋がる侠客である。

     時は大正の末年、夕暮れのいと寂しき処、三州横須賀村、印ばん天にもじりの外套、雪駄に乗せる身もいと軽く、帰り来たりしは音にも聞こえし吉良常なり。
       時世時節は変わろとままよ 吉良の仁吉は男じゃないか
       俺も生きたや仁吉のように 義理と人情のこの世界

     また『昭和残侠伝』唐獅子牡丹のモデルにもなり、『昭和残侠伝』撮影の前には高倉健が何日も東山邸に泊まり込んだとも言われる。それなら花田秀次郎である。ただシリーズ当初には主人公の名前も揺れていて、第一作は清次だったか。『昭和残侠伝』は東映任侠映画最後の輝きであり、様式はここで完成した。そして何と言っても花田秀次郎(高倉健)と風間重吉(池部良)の道行である。耐えに耐えた挙句、最も弱いものが犠牲になったとき秀次郎の怒りが爆発する。斬り込みを決意する秀次郎。橋の袂で風間重吉が待っている。

     「秀次郎さん、あっしも御供させて戴きます。」「それはいけねエ。あんたは今は堅気のおひとだ。」「ここであんたを一人で行かせては、風間重吉、渡世の仁義も知らないケチな野郎だと世間の物笑いになります。」

     雪降りしきる橋の上を蛇の目をさして二人が歩む。秀次郎は日本刀を携え、風間重吉は短刀を懐に秘めている。そこにかぶさる『唐獅子牡丹』の歌。結核を病んでいる風間重吉は必ず死ぬことに決まっている。男の友情にはホモセクシャルな匂いが漂っていた。
     意外なことに小田光雄『出版・読書メモランダム』(出版と近代出版文化史をめぐるブログ)で、飛田東山をモデルにして牧野吉晴『無法者一代』、富沢有為男『侠骨一代』があることを知った。

     それから二十年ほどして、富沢は講談社の『侠骨一代』(ロマン・ブックス)の著者として姿を現わす。富沢はその「まえがき」で、これが実在の「仁侠の使徒、飛田勝造」の実伝とも小説ともつかぬ物語であると断わっている。そして牧野吉晴が先に同じく飛田のことを『無法者一代』として書き、牧野の追悼会の席上で、飛田と初めて会ったことも記している。私も『侠骨一代』が富沢の作品だと知っていたわけではない。実は先にマキノ雅弘監督、高倉健主演のDVD『侠骨一代』を見ていたので、あらためてあの原作者は富沢だったのかと気づいたのである。映画のストーリー紹介がそのまま小説の要約にもなっているので、まずそれを示しておこう。

     蛮勇と腕力だけの暴れん坊だった男が軍隊生活を皮切りに、一度は乞食、人夫の輩に身を落としながらも度量と実力を発揮して幾度か悪徳やくざ組織と対決、遂には恩を受けた親方の組織を継いで大事業を成し遂げる勇壮男性編。
    http://odamitsuo.hatenablog.com/entry/20110914/1315926044

     映画『侠骨一代』(マキノ雅弘監督)は勿論見ているが、あの頃膨大に作られたプログラムピクチュアの一作としてしか見ていなかった。藤純子演じるあばずれのお藤は主人公の母に似ていた。主人公に必要な金を工面するため、最後に自らを満州に身売りしていく藤純子が哀れだった。首に白い包帯を巻いているのは、おそらく結核を病んでいるのだ。あるいは、自殺未遂の跡を隠すためだったかも知れない。
     東山は要するに土方の親方として力をつけた人物だった。茨城県大洗の出身で、戦時中に青梅市根ヶ布に移り住んだ。博徒ではなく、幡随院長兵衛のような侠客であると自任し自伝『生きている町奴』を書いた。目次だけしか見ることができないが、渋沢敬三が「序にかえて」、尾崎士郎が「市井任侠の精髄」、富沢有為男が「巻末に寄せて」を書いている。「自伝」と言ったがおそらく富沢の筆になるだろう。富沢は『地中海』で昭和十二年の芥川賞を受賞した作家である(これも小田のブログで知ったことだ)。
     戦時中、昭和東南海地震で倒壊した中島飛行機半田製作所(愛知県半田市)が、東山の組織した土方によって三日で復興したという。また秩父多摩の道路建設には東山の土木の力が大いに与った。この辺は秩父多摩国立公園のなかでも特に建築規制が厳しかったが、玉堂会会長の飛田の力で玉堂美術館が建ったと言う。東山の後継者は今も青梅市根ヶ布で造園・土木などの東山園を経営している。

     石碑の脇から歩きにくい階段を渓谷に降りる。西洋人の男女が追いぬいていく。川辺には巨大な岩がある。すぐに玉堂美術館が建っているが、その前に昼飯を食べなければならない。「いもうと屋」。小沢酒造経営の店で、画廊レストランである。さっきの清流ガーデンには「ままごと屋」があったが、このネーミングの意味が分らない。渓流に臨む一階の席は一杯で二階に案内された。ここからでも渓谷の眺めは充分に堪能できる。十二時十六分。
     「豆採麺(とうさいめん)」千百八十円。細麺の上に湯葉が載っている。「最初はそのままで、後で豆乳を入れて二度の味を楽しんでください。」豆乳は豆乳として飲みたい。「スナフキンもそうしてましたね。」料理はこの他に季節限定の「花籠」(豆乳湯葉つけ麺)千四百八十円があるだけだ。
     「御前のセットには食前酒として梅酒が付きます。」日本酒で作った梅酒らしい。「俺はいらない、ビールにしてよ。」ビールは中瓶で五百八十円。澤乃井四種類を合わせて一合飲ませる利き酒セット(七百八十円)もあるが、今はその気分ではない。「ビール党ですか?」とヨッシーが笑うが、何しろ暑いのだ。喉が渇いている。
     姫は梅酒だとは気づかずに何かの菓子かと思い込んで、日本酒一合を注文した。梅酒に加えて酒一合で大丈夫だろうか。これから御嶽山に登るのである。案の定、姫は勘違いしていた。「これじゃ日本酒は要らなかったのに。」その大部分がスナフキンと私に分けられる。
     突き出しには細くて小さな伽羅蕗がついた。あまりにも少なすぎるが旨い。ごぼうも旨い。麺は細麺でつるつるしている。「おうどんは太いものかと思ってました。」それは稲庭や長崎五島のうどんを知らないからだ。基本的に米派の私だが、稲庭うどんは美味しいと思う。
     値段はともかく味には満足した。普段は学食で、旨くもない飯を四百十円程度で済ませているのだ。一階では澤乃井各種、菓子などの名産品を売っている。姫は旦那様に日本酒を買っていくと言っていたが、何を買ったのだろう。

     そして玉堂美術館に入る。青梅市御岳一丁目七十五番。十三時六分。入館料は五百円。「せっかく六十五になったのに、ここは年寄割引がないんですね。」「美術館にはあまりありませんよ」とヨッシーが冷静に判断する。こういうところに来るのはほぼ年寄だけだろうから、それで割引をしたらやっていけないだろう。

     玉堂美術館は日本画壇の巨匠・川合玉堂が昭和十九年から昭和三十二年に亡くなるまでの十余年を青梅市御岳で過ごしたのを記念して建てられました。
     自然を愛し、人を愛した玉堂の人柄は土地の人々からも慕われ、玉堂の愛してやまなかった御岳渓谷に美術館を建てよう、との声が上がり、皇后陛下をはじめ諸団体、地元有志、全国の玉堂ファンより多大の寄付が集まり、没後四年の昭和三十六年五月に早くも美術館が開館しました。玉堂は伝統的な日本画の本質を守り、清澄にして気品のある独自な作風を展開しつつ、明治・大正・昭和の三代にわたって、日本学術文化の振興に貢献されました。展示作品は、十五歳ごろの写生から八十四歳の絶筆まで幅広く展示されます。展示替は年七回行われ、その季節に見合った作品が展示されています。

     川合玉堂。明治六年(一八七三)愛知県葉栗郡外割田村(現・一宮市木曽川町)の筆墨紙商の長男として生まれた。最初は京都で円山・四条派を学び、十七歳で描いた「春渓群猿図」、「秋渓群鹿図」が第三回内国勧業博覧会に入選した。
     明治二十九年(一八九六)二十三歳で上京し橋本雅邦に師事。二年後には岡倉天心、橋本雅邦、横山大観らの創立した日本美術院に設立当初から参加。明治四十年(一九〇七)文展審査員、大正四年(一九一五)東京美術学校日本画科教授、昭和十五年(一九四〇)文化勲章を受章。そして昭和十九年(一九四四)この地に疎開してきたのである。
     しかし私は絵がまるで分らない。画室を再現した部屋がある。こういうところで描いていたのかと言うのは興味深い。当たり前のことなのだろうが、畳の部屋である。塀に囲まれた静寂な石庭は龍安寺のようだ。十五分ほどで外に出る。駅前に戻ってバスに乗るのだ。
     バスを待つ間、姫から皆勤賞や参加賞が配られる。皆勤はヨッシー、スナフキン、桃太郎、蜻蛉の四人だった。青梅街道自体はまだ先まで続いているが、ここから先は電車の便が著しく悪くなる。今日が最終回なのだ。これで十回。大山街道八回、日光街道は十七回だった。姫は次は成田街道を考えている。
     わりに早く並んだから、外国人客も混じってかなり混むバスでも何とか座れた。御嶽山は結構有力な観光スポットなのだろう。約十分で終点のケーブル下に着く。徒歩なら四十分。今ではとてもその気力はない。ケーブルカーの滝本駅まで大した距離ではないのに上り坂がきつい。
     「やっと駅に着いたよ。」御嶽登山鉄道である。昭和四十七年(一九七二)に京王電鉄傘下に組み込まれたので、電車の正面にはKeioの文字がある。既に客が大勢並んでいる。片道五百九十円のところ、往復切符なら千百円になる。パスモやスイカも使えるが、切符を買った方が安いのだ。「八十円だけどね。」乗り込もうとしたとき、大きな犬が寝そべっていて危く踏んでしまいそうになる。御嶽山は犬を連れての参拝が許されていて、愛犬家の間で「聖地」になっている。ところで、この「聖地」と言う言葉も手垢に塗れてしまった。
     十四時十五分発。御岳山駅まで標高差四百二十四メートルを千百七メートルで登るのだからかなりの急勾配である。サイン、コサインを理解している人なら計算すれば角度は出るだろう。私はできません。「高尾山とどっちが急でしょうか?」「向こうは日本一って言ってますね。」「それなら日本二かな。」ここは平均勾配二十二度、高尾山は「最も急な所は三十一度十八分」で日本一を誇っている。私は高尾山のケーブルカーには乗ったことがない。登山道を歩いて登る人の姿が見える。
     約六分で終点に到着した。十四時二十三分。標高八百三十一メートル。駅前の案内図を見ると、宿坊や旅館が二十三軒もある。大山など他の地域でも宿坊はあるが、この山にあるのは現実に今も活動している御師(おし)の宿坊である。「下見の時には、ケーブルカーに地元の小学生が乗ってたよ。」宿坊や旅館の子供なのだ。「当たり前だけど、ちゃんと生活が営まれてるんですね。」ケーブルカーで小学校に通うと言うのは他ではできない体験だ。「平日だったから、今日は客がいるのか、なんて大声出してたな。」それにしても小学校はどこにあるのだろう。
     最初は下りも混じったやや平坦な道が続き、途中から上りがきつくなってきた。コンクリート舗装の道だから、普通の山道より疲労感がある。各地の講中の石碑が多い。足立御嶽睦講、あきる野市高瀬御嶽講、岩槻市上野講。きりがないが、地名を見ると関東一円に広がっている。つい最近の日付のものもあって、今でも御嶽講が生きているのだと知る。
     豪宕な茅葺の屋敷は御師の馬場家である。青梅市御岳山五十四番地。建物は桁行七間・梁間五間。入母屋造り、茅葺き、平屋建て(一部二階)、五間取り、千鳥破風玄関付き。工匠は多摩郡沢井村の滝島河内。慶応二年、十代当主の駿河が、妻茂よのために茂よの実家を模して建てた家である。馬場家は武田氏の遺臣の流れを汲み、万治元年(一六五九)に没した左衛門以後、代々御師を世襲した家である。十畳から十一畳の部屋が五室あり、昼食は三千百五十円、宿泊は八千四百円。いずれも予約が必要だ。
     他にも宿坊が何軒も並んでいる。宿坊「駒鳥山荘」のページに講の作り方が記載されているのを見つけた。(http://www.hkr.ne.jp/~komadori/gokito.html)最低人数は五人、代表者を置き、名簿を宿坊に届ける。年に一回の参拝(但し代参も認める)、武蔵御嶽神社の札を自宅に貼る、年に二千百円を宿坊に納入する。これで講ができるのだ。メンバーは武蔵御嶽神社と宿坊の信仰を広めることが求められる。宿泊料は五パーセント引き、ケーブルカーは二割引きなどの特典がある。
     犬を歩かせているのは良いが、肩から下げた袋に犬を入れている者、背負子に入れている者は何を考えているのだろうか。あの犬たちには、既に己が犬であると言う誇りは失われているだろう。ここは誇り高き狼を祀る山である。この犬たちはどの面下げて狼に対面するのか。高校生の私は平井和正『ウルフガイ』シリーズの読者だったから、狼には同情がある。

     山青し背負われて行くお犬さま  蜻蛉

     下の方にはかなり背の高いヤマボウシが咲いている。ヤマボウシは上を向いて開くので、こうして見下ろすように全体を眺めるのは珍しい。「トッキョキョカキョクはなんでしたかね?」ホトトギスだろうか。

     目には青葉山ほととぎす初鰹  素堂

     山側にはユキノシタが群生している。ケヤキの大木は神代欅と名付けられており、ヤマトタケル東征の昔から生い茂っていると言われる。しかし坂道はキツイ。帰りにゆっくり見ることにして、取り敢えず写真だけを撮っておく。桃太郎が姫のバッグを持つ。「ももから生まれた ももたろう 気は優しくて 力持ち。」
     やがて茶屋や売店の集まる門前町に入って来た。前方に鳥居が見えた。あそこからは三百三十段の石段になる。「私はこの辺りで待っています。」姫は階段を上ることができても下ることができない。
     それでは行こうか。石造明神鳥居を潜って最初の石段を上ると、随身門の脇の手水舎にはペット用水場も設置されている。少し登ればその上では、子供も交えて笛を吹き太鼓を叩いている。神楽の練習か。
     石段に沿ってまた各地の講の記念碑が多くなってきた。銅の鳥居を潜る。石段はまだまだ続く。そして宝物殿にやってきた。「入らないだろう?」入らなくても良い。赤糸縅の大鎧の展示中である。
     宝物殿の前に立つ騎馬武者は北村西望作の畠山重忠だ。西望は長崎平和祈念像で有名だ。現在国宝に指定されている赤糸縅の大鎧を重忠が寄進したことに因む。この会では畠山重忠はかなりお馴染みだろう。川本町(現・深谷市)の史跡公園(重忠生誕地)、嵐山町の居館跡(菅谷館)は見ているし、恋ヶ窪の悲恋物語も知っている。
     私は妻沼聖天境内の斎藤別当実盛とごっちゃになって、白髪を染めたエピソードを思い出してしまった。そうではなく、鵯越の逆落としで愛馬を背負って降りた人である。坂東平氏の棟梁として鎌倉幕府内に重きをなしたが、北条時政の謀略によって滅ぼされた。
     最後の石段を登ってようやく山頂に着いた。十四時五十分。二十七分かかったことになる。標高九百二十九メートル。「アレッ、桃太郎は?」「どうしたのかしら、さっきはいたわよね。」「姫と一緒にお茶でも飲んでるんじゃないか。」まさかビールは飲んでいないだろうね。
     明治の神仏分離の後は武蔵御嶽神社を名乗っているが、江戸時代までは御嶽大権現であった。平安時代以降に山岳信仰の拠点になって、吉野から蔵王権現を勧請した。蔵王権現は役小角が吉野の金峯山で修行中に示現したという伝承がある。因みに宮城県と山形県境の蔵王連峰は、やはり山岳修験者が吉野の蔵王権現を勧請したことからその名がついた。
     式内社の大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)の論社である(論社の一方は稲城市にある)。祭神は櫛真智命、大己貴命、少彦名命、安閑天皇(広国押建金日命)、日本武尊とされている。櫛真智命は正体が分らない神だが、奈良県橿原市の天香山神社の祭神でもあって、そこでは櫛は「奇し」、真智は「占い」だと推測されている。

    神名の「クシマチ」の神について『大和志料』中巻に「当社ハ彼ノ卜部等ガ国家ノ為ニ斎祀スル所ニシテ、櫛真智ハ兆ノ古語即チ鹿骨、亀甲ニ形(アラハ)レタル縦横ノ文ヲ以テ殊ニ奇ノ語ヲ加ヘ、「奇兆(クシマチ)」ト称シ直ニ之ヲ神霊トシ櫛真智命トセルモノナリ」とあり、卜事占兆をつかさどる神としている。http://7kamado.net/kagu.html

     安閑天皇と言うあまり知られない天皇がなぜいるかと言えば、不思議なことに蔵王権現と習合したからだ。継体天皇の第一子で六十六歳で即位し四年後に死んでいる。次の宣化天皇は安閑の同母弟でやはり即位後四年で死んで欽明天皇に引き継がれる。継体の死後、安閑・宣化王朝と欽明王朝とが並立していたのではないかという説がある。
     ブロンズの逞しいオオカミが守っている。これも北村西望作である。神明造りの社殿が立派だ。五間社入母屋造、唐破風の向背をもつ。彫刻の彩色が美しい。本殿を守るのはやはり狼だ。境内社に二柱社(伊邪那岐、伊邪那美)、北野社(菅原道真)、神明社(アマテラス)などがある。
     「触拝所」と言う言葉は初めて見たが、「御嶽蔵王大権現命柱」というものが建っている。これに触れるのだね。
     「奥のが一番いいんだよ。」境内外れの山を望む場所(奥宮遥拝所)の近くに、大口真神の社がある。社を守るのは勿論、狼だ。秩父から奥多摩にかけての山では狼信仰が広がっていて、その代表は秩父の三峯神社である。
     オオカミは大神、真神である。恐ろしい動物ではあるが、一方では畑を荒らす獣を退治してくれるという利益もあった。そして庶民は「お犬様」とも呼んだ。解説の立て札には「日本武尊が東征の際、御岳山の山中において狼に難を救われ」とある。秩父の三峯神社でも狼が道案内をしたという伝承がある。文献としては『日本書記』があるだけだから、それを各地でアレンジしたのだ。『日本書記』にみておこう。

    日本武尊は信濃に進まれました。この国は山高く谷は深い。青い嶽が幾重にも重なり、人は杖をついても登るのが難しい。岩は険しく坂道は長く、高峯数千、馬は行き悩んで進まない。しかし日本武尊は霞を分け、霧を凌いで大山を渡り歩かれた。嶺に着かれて、空腹のため山中で食事をされた。山の神は皇子を苦しめようと、白い鹿になって皇子の前に立った。皇子は怪しんで一個蒜で、白い鹿をはじかれた。それが眼に当たって鹿は死んだ。ところが、皇子は急に道を失って、出るところが分らなくなった。そのとき白い犬がやってきて、皇子を導くようにした。そして美濃に出ることができた。(宇治谷孟訳・講談社学術文庫版)

     この白い犬が狼である。オオカミ、ヤマイヌ等とも呼ばれたが同じものだ。送り犬や送り狼の伝承を考えれば良い。現代で慣用される意味とは少し違って、急に走ったり転ぶと襲われるが、歩いている分には問題なく、むしろ他の獣から人間を守るようについてくるとも考えられた。
     ニホンオオカミは、明治三十八年(一九〇五)一月二十三日、奈良県吉野郡小川村鷲家口で捕獲撲殺された若いオスを最後に、それ以後確実な生存情報がない。環境庁は過去五十年間に生息情報がないとして、絶滅種に指定している。
     絶滅の原因については、享保の頃に流行した狂犬病や明治以降に西洋犬の導入に伴って流行したジステンバー等の伝染病が考えられる。人為的な要因としては狂犬病によってオオカミが人間を襲撃することが増えたための駆除、オオカミ信仰の流行に伴う狼の遺骸の需要増もある。更に開発による餌の減少や生息地の分断など様々な要因が複合していると考えられている。
     但し上野益造「鷲家口ニホンオオカミ」(甲南女子大学研究紀要)によると、幕末ごろから群れが解体し、単独行動の狼が増加していたことが底流にあるのではないかと推測している。家畜を襲って食うことを覚え、群れによる狩猟が不要になり、孤狼が増えていた。群れが解体すれば繁殖機会が減るわけで、そのために徐々に個体数が減少していた。伝染病や人為的な駆除は二次的な要因であろうと言う。
     残された数少ない剥製から、体長は九十五センチから百十四センチ、尾長三十センチ、肩高五十五センチ、体重十五キロと推定されている。意外に小さいのだ。

     そろそろ姫が退屈しているだろう。「行こうか。」山を下りる。下りは実にスムーズだ。「ちょっと煙草を吸わせてよ。」宝物殿の脇に灰皿があったのは覚えているのだ。「よく見てるよな。」宝物殿の前のテーブルに並べた資料の中で、小倉美恵子『オオカミの護符』(新潮文庫)をスナフキンが見つけた。「これはなかなかの本だよ。」彼のリュックにも入っていた。「読むかい?」「いいや。」「いいやって。良く調べて書いてあるんだよ。」ドキュメンタリー映画にもなっているようだ。護符は左を向いて座る狼、大口真神の像を描いている。「青梅街道沿いによく見たろう。」

    川崎市の実家で著者が目にした一枚の護符。描かれた「オイヌさま」の正体とは何か。高度成長期に、小さな村から住宅街へと変貌を遂げた神奈川県川崎市宮前区土橋。古くから農業を営んできた小倉家の古い土蔵に貼られた「オイヌさま」に導かれ、御岳山をはじめ関東甲信の山々へ――護符をめぐる謎解きの旅が始まる。都会に今もひっそりと息づく山岳信仰の神秘の世界に触れる好著。(新潮社の広告より)

     さっきの神楽の連中は大人だけになっていて、ひょっとこの面を頭の後ろにかぶった浴衣の男が踊っている。調べてみると六月第三日曜と言うから明日がその日だ。石段も終わって茶店の並ぶ通りに出た。「アレッ、いないな。」「いないわね。」そこに後ろから「マリちゃん」と声がかかった。「なんだ、店を変えたのか。」やはり桃太郎が一緒だった。
     途中で捕虫網を持った高校生か大学生のグループがいた。「何を獲ってるんだろう?」「アブとかブヨとかハエとか。」それではファーブルの後継者になるのだろうかあ。彼がいれば喜んだだろう。登りの時は余裕がなかったが、神代欅の解説を読む。

    指定書(昭和三年二月)によれば、
    御嶽の神代欅
    周囲二丈八尺、高サ十丈、幹根ハ崖ノ傾斜面ニアリテ、巨大ナル瘤ヲ出シ樹液多く分枝シテ古木ノ雄相ヲ示セリ
    中略。日本武尊東征ノ折此山ニ登リテ甲冑ヲ蔵ス。此時已ニ此欅生ヒ茂リテアリ

     ヤマトタケルは神話上の英雄である。その時代をいつと特定しているのだろうか。日本書紀によればヤマトタケルが死んだのは景行天皇四十三年であり、昭和十五年を紀元二千六百年とする例の「皇紀」によれば西暦一一三年になる。勿論これは嘘である。そもそも景行天皇の実在自体が疑われるのだ。ところでヤマトタケル伝説は、『日本書記』よりも『古事記』の記述の方が悲劇的である。
     「マムシグサですよ。」「テンナンショウだね。」見たのは三本だろうか。ロダンが一所懸命メモしている。「テンナンショウは天南星って書くんだ。」ムサシアブミやウラシマソウもこの仲間である。
     「あの木が珍しいですよ」とヨッシーが笑いながら歩いていく。根元を見ると、小さな穴の中からチンボが覗いているようだ。「そういうことか。」
     十五時十五分のケーブルカーは、私たちの目の前で満席になってしまった。「臨時便を出しますから少しお待ちください。」ケーブルカーは基本的には折り返し運転だろう。臨時便とはどのようにするのか。すれ違う場所があるのだろうか。これは私がモノを知らないので、二台が運行していて、ちゃんとすれ違う場所はある。そして通常は十五分間隔だが、混雑時には六分間隔にするのだ。
     バスは混んでいる。乗り切れないと観念して次を待つ連中も多い。客が次々に乗り込んでくるから最後尾まで下がると、四人で一杯だった座席を少し空けてくれたので座ることができた。「何だよ、いつの間にかちゃっかり座って。」振り向いたスナフキンが口を尖らせるが仕方がない。運である。
     最後尾だからバスを降りるのに手間取って、皆からはかなり遅れてしまったが、十六時六分の電車にギリギリ間に合った。「何歩だった?」「一万五千歩。」ロダンもマリーもほぼ同じだ。「意外に少ないな、あんなに階段を上ったのに。」「階段は往復六百六十段。歩数にしたら大したことないんだよ。」体感では二万歩程度の感じだ。
     青梅から中央線に乗り、立川に着いたのは五時ころだった。「いい焼鳥屋を見つけたんだ。」スナフキンは何度か行った味工房が休みだったのでその二階に入ったのだと言う。
     店は炭火やきとり「十兵衛」だった。日本酒六十種、焼酎も各種揃えている。「佐藤もあるよ。」「有名だよな。」ビールが旨い。突き出しは鳥皮を細く切ったもので、姫は苦手だと言ったがなかなか旨い。枝豆、お新香盛り合わせ、山芋のフライ。焼鳥盛り合わせの串を、姫が一所懸命外している。このやり方を邪道だとする説もあるが、皆が適当に何種類も食べられるので良い方式だと思う。そう言えば焼鳥が食えない宗匠は元気だろうか。暫く顔を見ていない。
     焼酎を一本空けて七時半。今日は二次会はせず、ここでお開き。今日はなんだか疲れてしまって、桃太郎も次に行こうとは言わなかった。ロダンは武蔵野線の東所沢でトイレへ行くと降りて行った。かなり酔っているようだったが大丈夫かな。鶴ヶ島に着くと外はバケツをぶちまけたような土砂降りだった。

     お知らせをひとつ。
     池田敏之著・大塚忠克監修『御府内八十八ヶ所霊場ウォーク』(芙蓉書房出版)本体価千六百円が刊行された。一回のコースはニ十キロで全コースを九回で回る。コース図も含めてガイドブックとしてはコンパクトにまとまっている。古い人は知っているが、池田氏は会長とも組長とも呼ばれ、我々の江戸歩きの第一回の案内人であった。大塚氏は東京都ウォーキング協会会長で、二年がかりでこのコースを設定した。

    蜻蛉