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    近郊散歩の会 第一回「流山」
    平成二十九年四月二十二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.05.02

     「里山ワンダリングの会」改め「近郊散歩の会」記念すべき第一回はあんみつ姫が担当する。東葛地域では、やはり姫の案内で我孫子、松戸、野田、柏を歩いたことがあるが、流山は初めてだろうか。しかし後でオクチャンに言われたのだが、東京理科大学野田キャンパスのある運河駅は流山市で、そのキャンパスの一部も流山市に入っていた。それなら初めてと言う訳にはいかない。
     流山市は旧東葛飾郡の中心部で、明治二年(一八六九)に葛飾県が設置されたとき県庁が置かれた。明治四年(一八七一)葛飾県が印旛県に統合、明治六年(一八七三)印旛県が木更津県と合併して千葉県となり、県庁は千葉町に移った。
     安政年間(一七七二~一七八二)に味醂醸造が始まり、それ以降この地の特産品となって、江戸川舟運を利用して栄えた。最初のヒット商品は堀切紋次郎の「万上」で、秋元三左衛門の「天晴」と並んで二大ブランドとなった。
     江戸川を挟んで西側は埼玉県と接し、北部には利根運河が流れている。大学は江戸川大学(流山市駒木四七四番地)と東洋学園大学人間科学部(流山市鰭ケ崎一六六〇番地)とがある。

     丸六年働いた職場を先週末で離れ、今週から新しい職場に移った。一対一の交換トレードだから、互いに数回行き来して何とか引き継ぎはしたものの、実際に着任してみればどこに何があるのか探しながらの一週間だった。まだ全体像が把握できていないので神経が疲れる。
     嬉しかったのは、前の職場のスタッフから吟醸酒飲み比べセットというものを貰ったことだ。嫁からも満六十六歳の誕生祝として本醸造酒を貰ったお蔭で、この一週間は珍しく酒の潤沢な週であった。
     先週末は赤坂で横の会関東支部が行われ十人が集まった。昨年第一腰椎圧迫骨折をやった私、軽い脳梗塞で入院した幹事長、尿酸値が高すぎてビールは飲めないという者。この年齢になるとそんな話題ばかりだが、結局三次会まで付き合ってしまった。
     そして昨日は久し振りに「会長」と会って飲んだ。八十五歳になるのに相変わらず元気で、木曜日も十二三キロ歩いたと自慢する。「君の作文は長すぎて読めないよ」と言いながら、どこを歩いたかは一応チェックしているらしい。

     旧暦三月二十六日、穀雨の初候「葭始生(あしはじめてしょうず)」。晩春というより初夏の気分だが、今日は曇りがちで少し肌寒い。今は止んでいても、夕方から雨が降ってくる予報だ。
     集合場所は、JR武蔵野線とつくばエクスプレスが乗り入れる南流山駅である。定刻までにあんみつ姫、マリー、オクチャン夫妻、ハコサン、ドクトル、マリオ、宗匠、ヤマチャン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の十二人が集まった。スナフキンは少し遅れ、東福寺で落ち合うことになっている。
     北口に出ると、ピンクのハナミズキが真っ盛りだ。鶴ヶ島駅でもこの花が小さく咲き始めている。季節的には少し早いのではあるまいか。新しい職場のキャンパスでは、昨日あたりからベニバナトチノキの花が開き始めた。駅入口交差点を過ぎて少し行って右の路地に回りこむと上り坂になる。
     「これはタチイヌノフグリですね。」土手に咲く小さな青い花をオクチャンが指す。私はてっきりオオイヌノフグリかと思ってそのまま通り過ぎようとしていた。「地面にへばりついていないでしょう、立ってるから]と言われれば確かにそうだ。余り見かけないから(あるいは気付かなかっただけか)珍しいものだろうか。
     そして東福寺には脇から入る。真言宗豊山派。流山市鰭ヶ崎一〇三三番地。寺の由緒によれば、鰭ヶ崎の地名はこの寺の創建伝説に負っている。

    当山は守竜山証明院東福寺と合祀、天暦五年秀岳記の縁起によれば、当山は弘仁五年(八一四年)弘法大師の開山せられたる霊地にして、東方の福地・神竜の守護する所なり、即ち、大師ご留錫の砌、五色池に住める竜王、老翁の姿となって、大師に仏像を刻み伽藍を営むことを請う。時に山の麓渺渺たる滄海に忽然として海竜現われ大師に竜宮の霊物を捧ぐ。大師香を焼き礼をなして、この像に刀を加え妙相円かなる薬師如来となし、当山の本尊とす。その際海竜(せびれ)の先少しばかりをのこせり。これより当地を鰭ヶ崎と称す。(「当山の沿革」より)

     正面に回ると、山門から見下ろす石段はかなりの急勾配だ。「そこにタケノコが。」石段の溝の中から、三十センチ程に伸び過ぎたタケノコが生えている。「竹は根が張るから早く採った方がいいんだよ。」山門は朱塗りの仁王門だ。「仁王と金剛力士って違うのかい?」「同じだよ。」金剛力士とは金剛杵を持つ者の謂である。

     散歩良いねと網の中より仁王さま  閑舟

     直方体の真ん中をギュッと絞ったような台座の上に、火焔を背負った不動明王が結跏趺坐し、その下に小さな制吒迦童子と矜羯羅童子が立っている。こういう形は余り見たことがない。
     境内に入れば、葉がかなり目立つ薄いピンクの枝垂桜、大振りで花が重たそうな濃いピンクの八重桜、薄紫のフジ、それに真っ赤なカエデが並んでいる。眩暈がしそうな色彩だ。フジはこんなに早かったろうか。季節感覚がおかしくなってしまう。「こっちにはボタンがありますよ。」「立派ね。」赤紫の大きな花でだ。
     「これが目つぶしの鴨です。」朱塗りの中門の蛙股には、左甚五郎作と伝える「目つぶしの鴨」がある。白一色に塗られた鳥の、目の部分も白く塗り潰されている。この木彫りの鴨が夜な夜な寺を出て、近所の田圃を荒らしていた。ある日その現場を見た村人が脚に泥の付いた鴨を追いかけると、この蛙股に行き着いた。これが田荒らしの犯人だと、鴨に釘を打って目を潰すと、それ以来、田荒らしはなくなったというのが伝説である。
     「左甚五郎って、本当にこの辺に来たんですか?」甚五郎伝説は全国各地にあって、いずれも彫刻の動物が動き出すというものだが、まず殆どがデマカセであろう。左甚五郎は播磨の人とも讃岐、あるいは泉の人とも言われるが、その存在自体が伝説であって、生涯のことは殆ど知られていない。
     日光東照宮の眠り猫も本当に左甚五郎の作なのか分らない。一説に泉州貝塚の岸上甚五郎をそのモデルとするものがある。但しその甚五郎は永正元年(一五〇四)に生まれ永禄十二年(一五六九)に死んでいるから、日光東照宮建造の遥か以前の人である。伝説の名工として、各地の腕自慢の匠たちがその名を借りたのだろう。
     本堂向拝の紅梁上の欄間には右に龍と左に虎、木鼻にある鼻の長いのは獏か。本堂前に建つ唐灯篭の火袋には金色の五七桐の紋が貼られている。後でオクチャンに訊かれたが、受けの彫刻は良く見ていなかった。四神獣(青龍・朱雀・白虎・玄武)が彫られていたようで、オクチャン夫人が「亀がいたわね」と言うのは玄武であろう。
     本堂の隣には千仏堂がある。元は一旦寺を出て坂を下って上る(死人坂)場所にあったのだが、老朽化したため平成十九年(二〇〇七)にこの場所に新築された。
     寛保二年の青面金剛、如意輪観音を見ているとオクチャン夫人がやって来た。「これが庚申塔、合掌型ですね。こっちの如意輪観音には十九夜って書いてある。十九夜講は女人講です。」
     ここでスナフキンが現れた。「イヤー、参ったよ。出掛けに自治会のことでつかまっちゃって。」走ってきたのだろうか。息が荒い。「スマホの地図がなかったら辿り着けなかった。」「それじゃ出発しましょう。」スナフキンは見学する間もなかった。
     坂を下って上る。この坂が死人坂か。井戸端会議をしている女性たちが「こんにちは」と声をかけてくる。坂を上ると、墓地の奥に古めかしい堂が建っている。これがかつての千日堂で、グーグルマップでは今でも千日堂としている。「一応来てみましたが、何もないので行きます。」
     小さな堂を覗き込めば、そこにいるのは不動明王だった。「不動明王ってどうして分るんだい?」「火焔を背負ってるでしょう。それに、脚の下にセイタカドウジとコンガラドウジがいるから。」
     民家の垣に咲くモッコウバラが綺麗だ。「蜻蛉さんが好きな花ですよ」と姫は言う。格別に好きだと言う訳ではないが、この儚い黄色(クリーム色と言うか)は好きだ。「トゲがないんだよ。」「中国原産です。」「西洋種はトゲがあって、中国種はトゲがないのか。」
     畑の前で姫が立ち止まった。「ここに何があるのかな。」「里山らしい風景なので。」畑が広がり、奥の農家には屋敷林がある。「もう近郊散歩の会なんだから、関係ないんじゃないの。」「でも、今日のコースの中では珍しく里山らしいんですよ。」
     大通りに出ると、「流山都市計画道路・3・3・2号新川流山線 完成予想図」の看板が立っている。「ここに道路ができるのか。」流山はそんなに道路が必要な地域なのだろうか。平成三十一年度完成の予定だ。
     市営柳田団地の前で姫が立ち止まる。「どれだけ広いか実感してもらうために、ここによりました。ここから向こうの高校まで、陸軍糧秣本廠流山出張所の跡地です。」確かに広い、流山南高校の脇をずっと歩くと、流山街道に出た。「流山街道ってどこを通ってるのかな?」私はこの辺の地理に疎く、調べて見ると野田と松戸を結ぶ街道である。それならば醤油、味醂のための街道だろうか。
     南高校の北には、街道に沿ってスーパーヤオフジ、鮮魚の「角上」、イトーヨーカドーが並ぶショッピングセンターがある。高校とショッピングセンターの間に黒御影の大きな碑が立っていた。流山市流山九丁目。

    糧秣本廠は東京府東京市深川区(現・東京都江東区深川)越中島にあったが、向島区本所(現・東京都墨田区本所)にあった軍馬用の飼料倉庫が手狭になったことと、飼料(干し草など)の自然発火の可能性などがあったため、本廠の出張所(倉庫)として流山出張所が設置された。 軍馬用の干し草と藁(わら)の主産地は、関東地方では流山町を中心とする千葉県や、近隣の茨城県であったため、流山町は江戸川の水運と鉄道(現在の常磐線と流鉄流山線)という物資輸送に有利な立地条件を持っていた。 このような事情から、本出張所の建設が一九二三年(大正十二年)に開始され、一九二五年(大正十四年)六月に完成した。(ウィキペディア「陸軍糧秣本廠流山出張所」より)

     越中島の糧秣本廠跡は、先日深川を歩いた時に立ち寄っている。越中島の工場街から東京海洋大学にかけての一帯であった。
     これがあるため流山は空襲を受け、流山出張所は全焼した。「敷地面積は三万五千二百六十坪、建坪は七千五百九十七坪だってさ。」「坪っていわれても分らないわ。」「エーット、三・三だから。」ロダンが暗算して、敷地面積はざっと十一万六千平米だと答を出した。東京ドームの面積が四万六千七百五十五平米だから、その二・五倍となる。さっきの団地、南高校からイトーヨーカドーにかけての一帯である。イトーヨーカドーの辺りはかつてキッコーマンの倉庫があった場所である。

     一九四一年(昭和十六年)当時の設備は、倉庫が二十あったほか、携帯馬糧工場、圧搾梱包工場、事務室、秤貫所、守衛所などがあった。変わったところでは、敷地内に保育所があり、当時としては珍しく福利厚生に対する配慮がみられた。また、水路や、引込線も設けられていた。この引込線については、今でもかすかにその名残をみることができる。さらに、千草稲荷が敷地内にあり、朝礼などの儀式は千草稲荷の前で行われた。(中略)
     ここで働いていた人員は開庁時三十三名であったが、終戦当時は五百十三名で、所長以下十名ほどの軍人と技術者、監督者などである少人数の軍属以外は、大多数の民間人からなる職員たちであった。(「流山市の戦争遺跡1流山糧秣廠」)
    http://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/e/61126eeeac3a04ffec969ad4cfe19291

     「それじゃこの辺でお昼にしましょう。」高校の角まで戻り、信号を渡って「味の民藝」に入る。「前にも入った店だよね。」「町田でね。」十一時二十分だから店内はまだ空いている。「今日は何時頃に終わる予定?」と姫に確認する。「三時頃です。」「それじゃ、食べ過ぎちゃいけないな。」「解散時間で食べるものを考えるんですか」と、オクチャン夫人が笑う。本当はご飯を食べたいところだが、三時に終わるとすれば、軽めにしなければならない。私はちゃんぽんうどんにした。オクチャン夫人も同じ、オクチャンはカツ丼セットを選ぶ。健啖家だ。
     私たちのテーブルは料理が早くきたが、隣のスナフキンや桃太郎のテーブルが遅い。「同じの注文したんだぜ。」痺れを切らしたスナフキンが呼び鈴を押すとほぼ同時にやってきた。桃太郎が注文したのは、「一日分の野菜が取れる」というちゃんぽんうどんの野菜大盛りである。町田の時も同じのを食べていなかったろうか。
     「大瓶一本頼んだから。」「大瓶を置いてあるのは珍しいね。」そのビールをスナフキン、桃太郎、私で飲む。ちゃんぽんうどんは、確かに具材も味も長崎ちゃんぽんだが、ちゃんぽん麺と違うので少し物足りない。麺はもう少し固い方が良いのではないか。尤も私はリンガーハットのものしか食べたことがないので、本場のものがどんな風なのか知らない。

     一時十五分に店を出る。流山南高校の向かいの、中国ラーメン揚州商人の角を右(西)に曲がると住宅地だ。キンカンの実がなる広い庭に、竹を組んだ垣が美しい。「この組み方は何って言うの?」宗匠はこの道のプロになっている筈だ。「分らないよ。」それだけ珍しい組み方なのだろうか。調べてみると大津垣というものに似ている。細竹を二本組み合わせたのを縦に表裏交互に組み込んでいる。
     二階建てのアパートの柵に凭れかかっていた女の子(小学校の三、四年生か)が「こんにちは」と笑いかけてくる。「気をつけるんだよ。」ヤマチャンが声を掛ける。「挨拶は気持ち良いけどさ、最近の事件を考えれば気になるよ。」あの松戸の事件は、ここからそれほど離れていない。
     そこからすぐに赤城神社だ。流山市流山六丁目六四九番地。石造明神鳥居の前には切妻屋根を四本の鉄柱で支えた門があり、その梁に巨大な注連縄が括りつけられている。注連縄の長さは六メートル、直径一メートル、重さ五百キロ、竹を芯にしていると言う。総勢三百人による注連縄作りが「大しめ縄行事」として流山市の無形文化財に指定されている。
     上州赤城山が噴火して山体の一部がここに流れ着いた、あるいは太古に大洪水があり、赤城山の土が流れ着いて小山ができたという伝承がある。確かに神社は小山の上に鎮座する。別に、赤城明神のお札が流れ着いたとも言う。お札の話が本当だとすれば、渡良瀬川から利根川を経由して江戸川(太日川)を流れた訳だ。
     しかし赤城山の噴火については、その最後は二万四千年前頃だというのが定説らしい。旧石器時代の噴火が伝承されとは信じがたいことである。いずれにしろ、それが赤城神社の由来であり、流山の地名になったと、地元では伝承されている。
     ブロック塀を隔てて隣は光明院の墓地だ。この神社の別当寺だっただろう。鳥居を潜ると大きなムクロジが立ち、石段の右脇に一茶句碑がある。篆額「献誄」の上に一茶の句を記し、下に恐らく流山の俳人たちの句を十六七並べたものだ。昭和四十五年(一九七〇)に建てられたもので、「献誄」と言うから一茶を偲んでその功績を讃えると言うことか。

     越後節蔵に聞こえて秋の雨  一茶

     一茶が頻繁に宿泊した秋元家の酒蔵で、杜氏や蔵人たちが唄っていたのが越後節である。「デジタル大辞泉」によれば、「江戸末期から明治中期にかけて、越後の民謡から出て瞽女などが全国に広めた歌謡。芝居の心中物や社会事件などを題材にした長編の口説き歌」とある。
     一茶の故郷、信州柏原から十里程北上すれば上越である。小林家の先祖は越後から柏原に流れてきたと言われているから、越後は一茶にとって近しい国であったろう。継母に嫌われ異母弟とも折り合いが悪く、追われるようにして江戸に出てきた一茶にとって、越後節は故郷へのアンビヴァレンツな感情を掻きたてるものではなかったか。
     継母は、「其母、茨のいらいらしき行迹、山おろしのはげしき怒り」の人であった。一茶の句は生活実感に基づく私情を詠みこんで独特であるが、その中でも故郷への想いは愛憎混沌して痛切である。

     古里や又あふことも片思
     初夢に古郷をみて涙哉
     たまたまの古郷の月も涙かな
     古郷やよるもさはるも茨の花
     故郷は蠅まで人をさしにけり
     夕時雨馬も故郷へ向て嘶く
     是がまあつひの栖か雪五尺

     異母弟の仙六(弥兵衛)とは家産相続で争うのだが、十二年間争って決着した父の遺産はどれほどであったか。黄色瑞華『一茶入門』によれば、「弥五兵衛の持高は田三石四斗一升、畑二石六斗四升、計六石五升で、柏原の本百姓(自作農)百三十八軒中、四十七番目」である。五公五民として取り分は三石二升五合。一人年間を養う最低量が一石だとすれば、ギリギリの生活である。仙六にとっても遺産分割は死活問題であった。

     一茶は自分で「乞食」だと自称する。しかも、故郷の柏原には父から譲られた遺産の土地と家屋がある。「乞食」にして同時に「地主」なのだから面白い。この地主たる権利を主張するために、一茶は故郷の人々と争ったわけだが、今日の通年で言うならば、十何年間もその土地を棄てておいてある「不在地主」である。あまり勝手なことは言えない。まして、故郷の人としては、多くもない土地を二分してしまっては、生活にさし支える。一茶には俳句の上での収入があるのだから、それでりっぱに食えるのではないか、という考えも常識的である。一茶は故郷の人達をバラの花や毒バエのように罵ってはいるが、故郷の人は、一茶のように自分の言い分を表現する文学的方法をもたなかったのだから、後世まで一方的にはなはだ損な立場に立たされたものと言えないこともない。(荻原井泉水「一茶の俳句とその一生」岩波文庫『一茶俳句集』所収)

     江戸の宗匠として「窮乏農村からの流出民としては成功者とみるべき」(黄色瑞華『一茶入門』)一茶は、「農耕の意思もなく」どうしてその.遺産に固執したか。

     ・・・・根源的大事は、彼を育んだ山河のある、母の胸に幼き日の夢を結んだ、そして今は父母の墳墓の地、それに対するノスタルジアと開拓農民の血を引く百姓弥太郎の土に対する執着であった。そして、長い間の闘争は、この時代の、この階層に生きる者の歩まなければならない宿命であった。(黄色瑞華『一茶入門』)

     黄色瑞華(おうしきずいけ)先生は城西大学図書館の三代前の館長である。浄土真宗の僧侶でもあって、今では上越市の寺の住職をしている。私は先生からこの『一茶入門』と『一茶歳時記』をもらった。初めて貰った年賀状に「知己」とあって私は感激したのである。
     やっと相続問題が解決して一茶が柏原に落ち着いたのは文化十年(一八一三)、五十一歳の時である。しかしその晩年も不幸が続いた。翌年二十八歳のキクと結婚し、五十四歳で初めての男児を得たが一ヶ月程で夭折した。五十六歳で得た長女は無事に年を越え、正月に「這へ笑へ二つになるぞけさからは」と詠んだが、六月に痘瘡で死んだ。

     露の世はつゆの世ながらさりながら

     五十八歳で得た次男もその翌年にはキクの背中で窒息死し、六十歳で得た三男も翌年には死に、そしてキクも死んだ。キクの命を縮めたのは、一茶の強すぎる性欲による房事過多ではなかったかとも推測される。
     六十二歳で再婚したが二か月半で離縁、六十四歳で三度目に迎えた三十二歳の妻とは、一茶の死まで一年三ヶ月しか一緒にいられなかった。その間に一茶自身も中風で倒れ身体の自由が利かくなった。その最後の妻が一茶没後に産んだ娘だけが成人して越後高田の農民と結婚し、一茶の血脈を伝えた。
     高さ十五メートルという石段の途中には、やや前屈みで息張っているような大黒像が置かれていて、縦横の長さがが殆んど同じだから、水鉢を支えるガマン様にも似ている。「可愛いですね。」頂上に着くと社殿が建っている。拝殿は瓦葺き。本殿と拝殿が橋掛かりで繋ぐ形式は珍しいと説明されているが、拝殿に繋がって、覆殿がすっぽり隠しているのでその様子は見られない。
     上州の赤城神社は赤城山そのものを神体としているが、ここでは祭神を大己貴命とする。境内にはそれぞれ鳥居を持った水神宮、松尾神社がある。水神宮があるのは、江戸川(かつての大日川)があるからだ。「松尾神社って何の神様ですか?」酒造の守り神である。十八世紀に酒類、味醂醸造が始まった流山だから、その頃から信仰されたのだろう。他にも一つの細長い建物に大黒天羽黒神社、弁才天足尾神社、船玉神社、三峰神社、稲荷神社などが祀られている。ハナニラの花が白い。
     今度は石段ではなく坂を降りる。崖側に背の高い波切不動尊が立っている。波切不動尊は弘法大師が唐から帰国の途中、海上に顕現したと言われる。合掌型の青面金剛、馬頭観音(文字の上に馬の頭がある)等の石仏が並ぶ。これを見ながらヤマチャンと宗匠が話し合っている。「集めたんだね。」「どうやって?」「道路工事とか区画整理であふれたものを。」
     下に降りれば流山寺だ。曹洞宗。流山市流山七丁目五七九番地。庫裏の前には流山七福神の大黒天(台座には甲子の文字)と猿田彦の黒ずんだ石像が置かれている。別の場所からここに移動したらしいが、この黒さは空襲で焼けたのではないかと思わせる。大黒天の解説にオン・マカキャラヤ・ソワカの真言が記されているのも珍しい。
     調べてみると七福神には全て真言が付けられているようだ。大黒天(マハーカーラ)、毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)、弁才天(サラスヴァティー)はヒンドゥに由来するから、梵語の音を採用するのは良いとしても、中国由来の寿老人、福禄寿、布袋(禅僧だったにしても)、日本の恵比寿にまで梵語を付与するのは行き過ぎではあるまいか。
     高い台座に立つ猿田彦は顎鬚を伸ばし、杖を突く両手の袖が翻っていて寿老人かと思ったが、足元には三猿もいて、こういう猿田彦は珍しい。黒御影の解説板には、道祖神としての役割の他、三尸、庚申信仰にも及んでいる。
     柳田國男は、猿田は「サダ」で、岬や御崎神などのミサキのことであり、境界を表わすことによって塞の神と混同されたと論じた。別に猿田は天照大神に献じられた「狭田」「狭長田」であり、田の神である言う説があり、また南方熊楠は猿田彦は猿神であると言う。猿田彦を庚申信仰に結びつけたのは山﨑闇斎の垂加神道であろう。
     墓地の外れには、天保二年(一八三一)建立の大川斗囿の句碑がある。碑の上部には大きな窪みがあり、そこからヒビが走っていて、空襲によって被弾した跡だとされる。「どんな弾だったんだろう?」「空襲とすればちゃちな弾だね。」機銃掃射だったかも知れない。

     名月やいずれの用にたつけぶり   栢日庵斗囿(とゆう)

     この「名」の左に窪みがあるのだ。栢日庵は馬橋の油問屋、大川平右衛門(立砂・りゅうさ)の庵号である。斗囿はその息子で、一茶の教えを受けて栢日庵を引き継いだ。

     弾痕の句碑立ちてあり犬ふぐり  蜻蛉

     一茶が十五歳で信州から江戸に出府し、奉公先を転々として「くるしき月日おくるうちに、ふと諧々たる夷ぶりの俳諧を囀りおぼ」えたことは自分で書いている。そして二十五歳で二六庵竹阿に入門し、後に二世二六庵を名乗ることは確認できるが、それまでのことは文献には現れず、分らないことが多い。
     ここでは、天明二年(一七八二)二十歳の頃に平右衛門の油問屋に奉公に上がったとしている。平右衛門(立砂)は葛飾派(山口素堂の流れ)の今日庵二世・森田元夢に師事し、松戸周辺の俳諧の棟梁株として栢日庵を運営していた。一茶は彼によって俳句の手ほどきを受け、やがて立砂を親父とも思うようになっていく。立砂は同じ葛飾派の味醂醸造家・五代目秋元三左衛門(双樹)とも親交があり、そのお蔭で一茶は双樹とも親しくなった。後に立砂の紹介で元夢にも師事することになる。
     但し、一茶の系統を『葛飾蕉門文脈系図』では、三世其日庵素丸の弟子で、元夢の弟弟子としており、『俳道系譜』では、今日庵元夢の弟子としている(黄色瑞華『一茶入門』より)。要するにはっきりしたことは分らないのだ。
     この地域は葛飾派が勢力を持っており、他にも北小金本土寺の僧侶可長、布川の回船問屋の古田月船、田川の富農曇柳斉、守谷の僧侶鶴老など、この近辺の俳人達の殆どが一茶のパトロンとなり、その縁を頼って一茶は下総上総一円を歩き回った。中でも双樹の家が最も居心地が良かったようで、五十数回も訪れ、その度に三四日宿泊した。斗囿の句碑の傍には縦二つに割れた文字庚申塔がいくつか、捨てられたように置かれている。
     葛飾派は蕉風より、それ以前の談林派に近く俗情や滑稽を主としていたようで、一茶は「夷ぶり(ひなぶり)」と言っている。田舎臭いということだろうか。一茶はそれを正しく継承しながら、更に突き抜けて近代俳句を切り拓いたと言うべきだろう
    。  「蜻蛉は蕪村が好きだって言ってたよな。」実は私は芭蕉の、いわゆるワビやサビがが良く分らないのだ。蕪村の華麗で浪漫的な句が好きだ。一茶については私情の吐露が理解できる。啄木に繋がる近代的意識ではないだろうかとも思う。荻原井泉水は「故郷やよるもさはるも茨の花」を引いて次のように言う。

     ・・・・在来の俳句という通念からは俳句とは言えないものだろう。だが、一茶としては、自分が精魂をこめて打込んでいる、彼の唯一の表現方法であるところの俳句というもの、その俳句に自分の一人間としての真情の突破口を見出すよりほかに、彼にとっては表現の手段というものがなかったのである。これは、いわば「やむをえざるに出づる」ものである。そして、文学の発生というもの、広く言えば芸術の志向というものは、こうした「やむをえざるもの」から噴出したものではないだろうか。この意味で、一茶の俳句というものは、芭蕉以来の伝統の線を歩いている中に、無意識のうちに途方もない飛躍を試みてしまったのである。(荻原井泉水「一茶の俳句とその一生」)

     荻原井泉水もまた、「やむをえざるに出づる」ものから、無季自由律俳句を提唱し、俳句の枠組みを突き抜けてしまう。井泉水がいなければ、尾崎放哉も種田山頭火も存在することを許されなかったろう。但し私は無季自由律については俳句だと断言できる自信がない。
     寺の裏に回ると、すぐに江戸川だ。土手沿いの道は狭いのに、三郷方面に向かう車が渋滞している。左手(南)の流山橋の手前の信号でつかまっているのだ。「抜け道なんだろうけどね。」「知ってる人が少なければ抜け道の価値があるけど、皆が知っちゃうと意味がない」とマリオが断言する。
     土手を上がって渡し場跡の碑を探すが何もない。「ここだと思うんですよ。」遠くにスカイツリーが見える。川の中には旧流山橋の橋脚の跡だけが残っている。「そこに渡し場があったんだね。」「そこに標柱があるよ。」振り返ると、今上ってきた階段の脇に「丹後の渡し跡」の木製の標柱が立っていた。「ここにあったんですね。」対岸は三郷市である。東山道軍先鋒隊に出頭した近藤勇が、この渡しで対岸に渡ったと言われている。
     土手を降りて住宅地に入れば白いモッコウバラ、赤紫のハナズオウが満開だ。流山寺に戻ってさっきの句碑を見ながら外に出れば、今度は光明院だ。赤城山神楽寺。真言宗豊山派。流山市流山六丁目六五一番地。入り口を入ってすぐに、中央左手にショケラ(半裸女人)を持つ(剣人六手型)青面金剛が立っていた。これは珍しい。
     実はこれをショケラと呼ぶことに異論もあるのだが、取り敢えずショケラと呼んでおく。一説に、商羯羅天(シヴァ神の妻ウーラ)の別名であると言い、また三尸虫であるとも言う。
     二十三夜塔、青面金剛供養塔、享保七年(一七二二)の六地蔵もある。山門を潜って境内に入ると、高さ二メートルの双樹・一茶の連句碑が建っていた。連句には様々なルールがあって難しい。これは発句と脇句である。発句は主客、脇句は主人役と決まっているらしい。

     長月朔日
     豆引きや跡は月夜に任すなり 双樹
     烟らぬ家もうそ寒くして   一茶

     「豆引きって石臼で挽くのかな?」「引き抜くって書いてますよ。」畑から豆を引き抜いている内、夜になってしまったのだ。「うそ寒いっていうのは?」「何となく寒い。」「一茶ってどこの出身?信州だったかな。」何を勘違いしたのか、私が「越後だよ」と言ってしまったのは恥ずかしい。

     一茶の故郷は、信濃国水内郡柏村(現、長野県水内郡信濃町大字柏原)である。
     柏原は善光寺平(長野市)から北方へ二十九キロ、黒姫山(二〇五三メートル)の山麓に拓かれた標高六百七十一メートルの寒冷・豪雪の地である・
     「俳諧寺記」(文政3成)には、その越冬ぶりが次のように描かれている。

     三四尺も積りぬれば、牛馬のゆきゝははたりと止りて、雪車のはや緒の手ばやく年もくれは鳥、あやしき菰にて家の四方をくるみ廻せば、忽ち常闇の世界とはなれりけり。昼も灯にて糸くり、縄なひ、老いたるは日夜ほた火にかぢりつくからに、手足はけぶり黒み、髭は尖り、目は光りて、さながらあすらの体相にひとしく、飢顔したるもの貰ひ、蚤とりまなこの掛乞食のたぐひ、わらぢながらいろりにふみ込み、金は歯にあてゝ真偽をさとり、葱は竈に植りて青葉吹く。都て暖国のてぶりとはことかはりて、さらに化物小屋のありさまなりけり。

     陰鬱な、すさまじいまでの越冬ぶりである。今日では見かけられないが、藁や筵で家の周囲を覆い、雪は軒まで積もるから明り取りの高窓も用をなさない。したがって、屋内はまさに「常闇」の世界となる。(黄色瑞華『一茶入門』)

     「だから流山は信濃町と姉妹都市になっています」と姫が補足する。境内にはタラヨウの木があり、葉の裏に文字が書かれているものがある。「ハガキの木ですね。」「郵便局が扱ってくれたのかい?」ドクトルは不思議なことを言う。「手渡したんじゃないの。」「だって切手が貼れないでしょう。」仮に無理矢理切手貼ったとしても、そのままではダメなのだ。その根拠は日本郵便株式会社の「内国郵便約款」第九条(郵便物の包装)にある。

    郵便物は、その内容品の性質、形状、重量、送達距離等に応じ、送達中にき損せず、かつ、他の郵便物に損傷を与えないようこれを丈夫な紙(帯紙は、幅8センチメートル以上のものに限ります。)若しくは布の類で包み、又は箱、缶、封筒若しくは袋に納める等適当に包装していただきます。ただし、郵便物で包装しなくても送達中にき損せず、かつ、他の郵便物に損傷を与えないものは、その包装を省略することができます。

     つまり葉は剥き出しの場合、「送達中にき損」する可能性が高い。また汁が出たり腐敗して「他の郵便物に損傷を与え」る恐れもある。随って郵便物としては認められないのである。また葉に書くから葉書と思われやすいが、本来は端書であり、葉書は借字である。

     松毬のからからと秋気澄みにけり 松本翆影

     松本翆影の句碑である。「蜻蛉さんなら、この人を知っていますか?」生憎そんな教養がない。「宗匠も知らないって言うんですよ。」説明によれば内藤鳴雪に師事した人である。内藤鳴雪は面白い人で、文部省の課長を経て松山久松家の常盤寮の舎監となった時、そこに入って来たのが傍若無人な子規である。そして鳴雪はたちまち二十一歳下の子規の門弟になるのである。
     また秋元酒汀を擁して俳誌『平凡』を発行したともある。秋元酒汀は、秋本家の分家、五世秋元平八のことで、本家でともに味醂「天晴」の製造に務めた。その『平凡』の特別会員には巌谷小波、伊藤松宇、服部耕雨、萩原蘿月、星野麥人、戸川残花、沼波瓊音、大谷句佛、大野洒竹、大須賀乙宇、岡野知十、岡本松濱、川村黄雨、河東碧梧桐、高浜虚子、瀧川愚佛、坪谷水哉、角田竹冷、内藤鳴雪、中川四明、中村不折、中内蝶二、夏目漱石、鵜澤四丁、松瀬青々、幸田露伴、国府犀東、佐藤紅緑、坂元四万太、佐々醒雪等が名を連ねた。(「秋元家の人々 5世平八 秋元酒汀」http://www.tohkatsu.or.jp/user/kosyou/akimoto/syatei/akimoto_syatei.htmより)
     松本翆影については殆んど調べられなかった。ここに挙げられる人名の全部は知らないが、知っているだけでも錚々たるメンバーが参加しているのは、秋元酒汀の人脈と財力によるだろう。ここで秋元酒汀の名前を知ったのは収穫だった。菱田春草の生涯にも秋元酒汀が大きく関係しているようだ。

     明治四十四年(一九一一)に入ると菱田春草は腎臓炎を再発し、併発症であった蛋白性網膜炎が悪化して視力を失った。さらに、不眠症が重なって重体に陥ったのである。秋元洒汀は、郷社赤城神社へ『赤城明神』の掛軸(前島密に揮毫を依頼したもの)を奉納して平癒祈願をしたりしたが、その甲斐もなく明治四十四年九月十六日、三十八歳の若さでその才能を惜しまれながら、生涯を閉じたのであった。
     秋元洒汀は、菱田春草の追悼展覧会の幹事役を務めて盛会裡に終らせたが、菱田春草への追慕の念はそれだけにとどまらず、記念碑の建立費を全額支出したり、遺族に生活費を毎月送金するなどしていた。(中略)
     秋元洒汀の菱田春草に対する愛惜は、パトロンとか友情と言う言葉では表現できぬ深いものであったことがうかがえる。菱田春草の逝去後、秋元洒汀は妻てる(=秋元弥生)と共に、お盆になると菱田春草の写真を仏前に飾り、自家の霊と共に回向し続けてきたと伝えられている。(中略)
     日本酒『秋の月』創始者でもある。秋元本家の分家として秋元三左衛門と共に流山の文化、経済を支えた。今まで散々分家と書いたが流山本町では三左衛門と平八を合わせて秋元本家と言う。(「菱田春草と秋元洒汀、秋元平八の実績」
    http://yaplog.jp/yagimitinomise/archive/277

     本堂入口の右の柱には「一茶ゆかりの寺」、左には「新選組隊士分宿の寺」の札が掲げてある。この寺は秋元家の菩提寺で、墓地には双樹夫妻の墓がある。

     ・・・・・若くして味醂醸造の業を起こし、堀切家の「万上味醂」とともに、郷土「流山」の名を高めた。又俳諧の道に入り、広く文人墨客と交流し、就中当時江戸を中心として活躍した俳諧師小林一茶との親交は、非常に有名である。
     ・・・・・双樹の死を悼んで、一茶は「鳴く烏こんな時雨のあらん迚」の句を捧げた。(墓所解説板より)

     寺を出ると、その隣の秋元家が小林一茶寄寓の地「一茶・双樹記念館」として一般公開されている。一般は百円だが、七十歳以上は無料である。ハコサンが申告すると、「小さな声で、昭和何年か言ってみて下さい」と言われた。そんなことを聞かなくても、顔を見れば分るのではないか。玄関先に八重山吹が咲いている。
     今日は琴の演奏会があり、その受付が一時半だというので、それまでの三十分で見学することになる。靴を脱いで中に入る。敷地内に秋元本家(ここは入れない)、双樹亭、一茶庵の建物があり、枯山水の庭に面している。

     夕月や流残りのきりぎりす   一茶

     「きりぎりす」はコオロギのことだ。当時の江戸川の堤防は低く、増水すればすぐに氾濫した。氾濫まで行かなくても、昆虫たちは水に流される。しかしその夜は水が引いた後、流されずに残ったコオロギが一匹鳴いていたのだ。一茶のことだから、そのコオロギに自己の姿を見たものだろうか。
     琴の演奏会は双樹亭で行われるようで、部屋には椅子が並べられていた。床の間には「天晴」の軸、その横の棚には一茶と双樹を描いた絵が置かれている。
     一茶庵二階には、流山で一茶が詠んだ膨大な句の短冊が掲げられている。一茶が生涯に詠んだ句は二万二千に上ると言われているが類句が多い。展示ケースには刊本と復刻版がいくつか置かれているが大したものはない。ただショーケースの真ん中に黄色瑞華校注『全注おらが春』(明治書院)の帙入り本が置かれているので嬉しくなった。

     逝く春や一茶一茶と流山  蜻蛉

     一茶の境涯を詠んだ句のある部分は、啄木の歌に引き継がれているのではあるまいか。藤沢周平『一茶』(読んだことはあるが殆んど記憶に残っていない)、田辺聖子『ひねくれ一茶』(読んでいない)等がある。
     一階に降りればかつての味醂屋の店頭をそのまま残している。銘柄は「天晴」。箱階段は天井を潰して上れなくしてある。「電話が三番っていうのも面白いね。」「三がマークで、屋根の瓦も丸に三です。」本当だ。三左衛門に因むのだろう。
     「今度、一茶の映画が公開されるんですよ。藤沢周平の原作です。」「面白そうだね。」一茶役はリリー・フランキー、継母・さつは中村玉緒、仙六役は伊藤淳史、父・弥五兵衛役は石橋蓮司、最初の妻・キクは佐々木希が演じるらしい。
     外に出るとき声を掛けられた。「向かいのアトリエも無料ですから是非どうぞ。」「杜のアトリエ黎明」、そこが秋元酒汀の旧居であり、娘の秋元松子、夫の笹岡了一が住んでいた家だ。二人とも画家である。
     次は長流寺だ。浄土宗。流山市流山六丁目六七七番地。イチョウの大木がある。「珍しく割れてないな。」しかし裏に回れば割れていた。「元々二本だったのか?」「違うだろう。」しかしオクチャンによれば、二本が接触しているとイチョウはくっつきやすいと言う。
     参道の梅の木には青い小粒の実が生っている。桃太郎がそれを齧ってすぐさま吐き出した。「渋い。」「青梅は体に悪いんじゃなかったっけ。そういう風に教えられた記憶があるよ。」私もヤマチャンと同じように教えられたと思う。一応調べてみた。

    未熟な梅にはアミグダリンという成分が含まれ、中毒をおこす危険がありますが、梅干しや梅酒に加工するとベンズアルデヒトに変るので、心配はいりません。(最新版 栄養がわかる体によく効く食材事典)

     住宅地の中に小さな敷地の寺田稲荷が建っている。天明七年創建。明治八年(一八七五)の大火がここで止められたと言うので、十年(一八七七)に地元有志によって再建された。「この花はなんだろう。」「イチゴじゃないか。」確かにそうだ。少し行くと小さな祠に合掌型の青面金剛が収められている。
     流山キッコーマン(流山市流山三丁目九十番)を囲む塀はナマコ壁を模したつくりで、「流山本町まちなかミュージアム」として「万上味醂」の樽の写真、堀切家「萬上泉」、秋本家「天晴」など各メーカーのラベル、工場風景などを掲示している。

    江戸中期の文化十一年、酒造りを営んでいた相模屋二代目当主、堀切紋次郎は、きれいに澄んだ白みりんの醸造に成功しました。これが江戸市中で大人気となり、東名物として、日本全土に広まりました。これが、今のマンジョウ本みりんです。その評判から、宮中に献上する機会に恵まれた紋次郎は、こう歌います。「関東の 誉れはこれぞ一力で 上なきみりん 醸すさがみや」ここから「一力」を「万」の字に代え、「上なき」の「上」をとって「万上」とした、これがその名の由来です。(キッコーマン「マンジョウの歴史」より)
    https://www.kikkoman.co.jp/manjo/index02.html

     「味醂ってどうやって造るのかな?」「酒に砂糖を混ぜるんじゃないか?」私は味醂については全くの無学だから、バカなことを言ってスナフキンに笑われてしまう。「違うだろう。」「味醂も酒だよ」と宗匠から声がかかる。

    蒸したもち米に米麹を混ぜ、焼酎または醸造用アルコールを加えて、六十日間ほど室温近辺で熟成したものを、圧搾、濾過して造る。熟成の間に、麹菌に由来するアミラーゼの作用により、もち米のデンプンが糖化され、甘みを生じる。またコハク酸やアミノ酸(麹菌に由来するプロテアーゼの作用により生じる)が独特のコクを生じさせる。(ウィキペディア「みりん」より)

     この通りは、これに因んで万上通りと名付けられている。そのまま真っ直ぐ行くと、小さいながら青銅葺きの堂があった。庚申堂だ。その向かいから右に入る道が引き込み線の跡だそうだ。昭和四年にできたもので、原料のサツマイモや石炭を運び入れ、製品を出すために流鉄流山線の流山駅まで繋げたのである。「意外に広いですね。」
     万上通りから左に入れば、新撰組の陣屋跡は酒の秋元になっている。流山市流山二丁目一〇八番地。幕末の頃は長岡家の屋敷があった場所だが、維新後に秋元家が買い取った。路上にはボランティアのおじさんたちが三四人屯して、「解説しますよ」と声を掛けてくるが、私たちは鄭重にご遠慮申し上げる。
     近藤は京都で狙撃され、肩に負傷を負っていた。鳥羽伏見の戦いでの余りにもあっけない敗戦によって幕府軍艦富士山丸で江戸に戻り、この時、新選組の生き残り四十人が同行した。その後、甲陽鎮撫隊を組織して甲府を目指したものの、勝沼に到着した時には既に甲府は東山道軍の先鋒隊によって占拠されていた。仕方がないので再挙を図るべく、この流山まで辿りついた。慶応四年(一八六八)三月二十日頃から四月一日までに続々と集合した隊員の総勢二百余人。長岡屋を本陣として、光明院、流山寺などに分宿した。しかし四月三日、東山道軍先鋒隊が流山に到着し、近藤を押さえた。
     既に二月には、慶喜は寛永寺大慈院に謹慎し、勝海舟に交渉を委ねていた。そして四月十一日には江戸城が西軍に引き渡される。流山の人たちは、近藤が東山道軍に出頭したお蔭で戦火に見舞われなかったと、徳に感じているらしい。出頭の前夜には近藤と土方の間で激論が交わされた。
     スナフキンは焼酎を、姫は酒を買ったようだが、本来、秋元は味醂の醸造元であり、「天晴」と言う銘柄を出している。酒は他から仕入れているのだから、流山の酒ではない。焼酎に至っては鹿児島のものらしい。「いいんだよ、ここで買ったって言う事実が大事なんだ。」
     「新選組は悪者でしょう?正義じゃないよね。」「ヤマチャン、それは単純すぎるよ。」新選組の京都での活動はテロ集団とも言うべきもので、薩長の憎悪の的になったのは間違いない。しかしそれは孝明天皇の支持のもと、会津藩預りとしての治安維持活動でもあったのである。薩長の攘夷派も相当ひどいことをやっていたのだ。
     そもそも最初は皆、尊王攘夷だったのだ。この動乱に飛び込んで出世したい、あるいは一山当てたいと思った若い連中は、こぞって手近な集団に身を投じた。新選組だって尊王を掲げていたのであり、当時主流の公武合体を死守しようとしていたのである。孝明天皇自身が公武合体派であったが、しかし毒殺も疑われるその死によって、岩倉具視と薩長の陰謀が討幕を具体化した。公武合体は一転して討幕路線に変ったのである。この流れに乗れなかったのが近藤や土方の不運であるが、官軍、賊軍の区別は本当に僅かな運によって決まった。後に明治政府の高官になる連中も、近藤たちと大きく違っていた訳ではない。
     その先の閻魔堂に行けば、キャップを被ったニイサンが待ち構えていて、色々説明してくれる。「ここは二百五十年前に突然発生した集落です。菩提寺もなく、開発した家が共同で墓地をつくったのです。」流山市流山二丁目一一六番地。閻魔堂は安永五年(一七七六)の創建である。
     金子市之丞・三千歳墓所であることが大きな看板に記されている。「天保六花撰だね。」宗匠もヤマチャンもこれを知らなかった。「河内山宗俊、直侍(片岡直次郎)、金子市之丞、三千歳、森田屋清蔵、暗闇の丑松だよ。」「何をやったの?」「大名を手玉にとって大金を強奪した。」「悪党の集団なんだ。」
     これは二代松林伯円の講談『天保六花撰』、黙阿弥の歌舞伎『天衣紛上野初花』の話であるが、流山では金子市之丞は義賊と言われ、その金子の一族は現存していると言う。「首を離された胴体だけが埋まっています。その隣の三千歳のお墓は、市之丞を憐れんだ村人が建てた供養塔です。恋人のそばに置こうという気持ちでした。」
     しかし花魁の三千歳は直次郎の情婦ではなかったか。私の知識は北原亜以子『贋作天保六花撰―うそばっかりえどのはなし』によるのだから、正統ではない。一夜漬けで『天衣紛上野初花』の粗筋を追ってみれば、市之丞は嫌がる三千歳に横恋慕しているのだ。史実では、小塚原で直次郎が処刑された時、その遺骸を引き取って墓を建てたのも三千歳であった。
     藤沢周平『天保悪党伝』(これは読んでいない)、長谷川伸『暗闇の丑松』(これは読んだ。最終場面で金子市之丞も登場する)等がある。「墓石を削る人がいて、この上に載っている石は三代目になるんですよ。」なるほど、墓石の上に石を載せてある。両国回向院の鼠小僧の墓石と同じだ。
     「この墓地の裏には酒屋がありました。日本橋の鴻池、永岡三郎兵衛の店です。」普通はサブロウベエと言うだろうが、ニイサンはサブロウビョウエと正しく言う。但し長岡七郎兵衛の説もある。「新撰組が分宿したのです。」鴻池は屋号、当主は儀兵衛を世襲したとも言うが、それと三郎兵衛との関係は何か。その店は明治維新後没落し、秋元家の所有になったのである。
     「恭順は降伏とは違います。戦闘を停止して話し合おうということです。これを誤解している人が多いんですね。歴史をちゃんと知ると分ります。」それにしても良く口の回るニイサンである。「近藤も戦いは止めていたのですが、勝沼で衝突していたんですね。それが仇になりました。」

     待ってましたと〝まこと〟を語るボランティア 閑舟

     ちょっと違うのではあるまいか。「恭順」は命令に従うということであり、慶喜は明らかに降伏したのである。どうもこのニイサンは幕府方への、あるいは新撰組への思い入れが強そうだ。
     近藤は大久保大和と名乗って越谷に出頭したが、高台寺党の生き残りに見破られて捕縛される。土方はそんなことはせず、逃亡して函館に至るのは誰もが知っている。これが二人の永別となり、近藤は板橋刑場で処刑された。流山市立博物館は当時の状況について新発見の資料を報告している。

     これは、思井の恩田家に残されていた文書の慶応四(一八六八)年四月三日の条です。「江戸方歩兵三百八十人から三百九十人あまりは、去る一日より二日にかけて流山の光明院・流山寺そのほかを借りて止宿していた。長岡七郎兵衛方が本陣となり、この家に大将の大久保大和(近藤勇)と内藤隼人(土方歳三)の両人がおり、そのほかに大勢が止宿していた。そうしたところに官軍方の彦根・萩・鹿児島・大村から惣勢八百七十人から八百八十人が鳩ヶ谷宿より出陣し、吉川の三輪野江の渡し場を渡り、八ッ半頃に流山に到着した。そこから大坂屋の前で三手に分かれ、一手は表通りから、一手は裏通りから、もう一手は裏手にある加村山へ陣取り、大砲を長岡屋本陣へ向けて設置した。浅間裏に官軍方の大将は菊の紋付の旗をおし立てて本陣とし、江戸方の本陣長岡屋の方へ大砲を向け設置した。表通りの一手も大砲を設置し、いずれも三、四挺ずつが長岡屋本陣を取り巻いた。そのほか諸所で双方が合戦となり、江戸方は不意をうたれて大敗し、ついには降参した。(中略)流山宿内の者は大人も子どももみさかいなく立のき近郷や近村へ逃げ去り、近在の者までもが皆あわて騒ぎ、共々に難渋した」とあります。
     新選組は慶応四年一月の鳥羽・伏見戦争で敗れて江戸へもどり、その後甲陽鎮撫隊と改名して勝沼で戦いますが、これにも敗れてしまいます。そして、江戸から五兵衛新田(現足立区綾瀬)に拠点を移して再起を図り、流山に入ります。
     これまで、流山における近藤勇や土方歳三たちの本陣は、『千葉県東葛飾郡誌』に拠ったと思われる司馬遼太郎の『燃えよ剣』で「長岡の酒屋」とされて以来、これが通説になっていましたが、このほかにも「鴻池儀兵衛」方を本陣とするなどの諸説もあって明確にはされませんでした。また、本陣以外の分宿場所も『官軍記』に記された「称名院」を「光明院」と推測していました。
     今回発見された資料には、長岡七郎兵衛方が本陣となり、光明院・流山寺そのほかに新選組が分宿していたことが明確に記されています。(流山市立博物館「近藤勇本陣の新資料発見!!」
    http://www.city.nagareyama.chiba.jp/life/22/184/8880/001129.html)

     寺田家の墓所があるので、さっきの寺田稲荷と関係がないか訊いてみた。「寺田家も分家がたくさんあって、本家の方は、あれは違うって言ってました。」
     角を曲がって旧街道に入る。旧街道のようで、見世蔵や古い木造二階家が多く残っている。清水屋本店は和菓子屋で、その建物は国の津小録有形文化財になっている。ここで皆は狭い店に入って「陣屋もなか」を買う。買わなかったのはロダン、桃太郎、私だけだったろうか。

     女性陣に交じり酒飲み買う最中   閑舟

     買い物が終わると、女将さんが絵ハガキをくれた。十三人分あり、買わなかった私も貰えた。モノクロ印刷だからはっきりしないが、本店を正面から描いた水彩画のようだ。
     その向かいが寺田園旧店舗で、同じく国の登録有形文化財になっている。元々は茶乾物を商う店だったが、今では万華鏡ギャラリーとして見世蔵を公開している。「いまどき、万華鏡なんて買う人がいるのかな。」流山には世界的に活躍する万華鏡作家、中里保子という人がいるらしい。その人の作品を中心に展示販売しているのである。
     常與寺。日蓮宗。流山市流山二丁目一三〇番地一。嘉暦元年(一三二六)開基と言うから古い。門前に千葉師範学校発祥の地碑が建っている。明治五年(一八七二)九月、印旛官員共立学舎として開設した。当時流山は印旛県の県庁所在地であった。印旛県は下総九郡「千葉・印旛・埴生・葛飾・相馬・岡田・豊田・結城・猿島」を統括する県だが、翌年に千葉県が発足するとともに、学舎は千葉市に移転して「千葉学校」となった。後に、「千葉師範学校」「千葉県尋常師範学校」「千葉県師範学校」、「国立千葉師範学校」と名称を変え、千葉大学の前身のひとつになる。
     イタリアン料理の丁字屋も伝統のある建物だ。そしてその向かいの浅間神社に入る。流山市流山一丁目一五三番地。ここには富士塚がある。登ってみようかと思っている先に、もう桃太郎は登っている。蜻蛉、マリー、スナフキン、オクチャン夫人が後を追う。しかし登り難く、手を岩に突かなければならない。何とか登りきると頂上は行き止まりだ。下を眺めると、拝殿の所で待っている仲間の顔が小さく見える。
     また同じ道を戻るのか。「そこから回り込めないか?」スナフキンの言葉で途中から回り込むが、これもきつい。最後に道が無くなった。それでも何とか降りると、神社の裏側だった。塀の外側から元に戻る。「遭難したかと思ったよ。」
     少し雨が落ちてきた。街道の所々に「ぶらっと半旅・流山本町」と書かれた案内の行灯が立っている。「半旅って何だよ。」ちょっとした旅気分ということだろうか。「この行灯は町おこしだな。」新川屋は元は呉服屋だろうか。「普通の洋服を売ってるよ。」「今は呉服屋はやっていけないだろう。」
     まし屋と隣接する白壁の蔵との間に解説板が立っている。「呉服まし屋店舗・土蔵」である。こちらは、ウィンドウに反物を飾っているから呉服屋として健在だ。切妻の土蔵は明治三年建築で、流山地区では最古の土蔵の一つとされている。
     「雨が降って来たので、矢河原の渡し跡はやめます。」ここから真っ直ぐ江戸川に出ればその渡しがあった場所だ。流山一丁目交差点で流山街道に入り、少し行けば流山市立博物館である。かなり立派な建物で、図書館が併設されている。流山市加一丁目一二二五番地六。「一字の地名って珍しいな。」加岸、加台を含む加村というのがあったらしい。地名の由来には諸説ある。
     かつて桑原郷に属しており、桑(クワ)村が加村となった。クハのクは古語の「クユ、崩れ、潰」の語幹、ハは端で崩れた端を意味する。川が転訛した。船荷の積降しに荷を架した。などである。(「流山市の難読地名・珍しい地名」https://blogs.yahoo.co.jp/diftuiheiji/11124515.htmlより)。
     高台に沿った坂道を登って行くと、玄関の向かいに永井仁三郎の胸像が建っているが、全く知らない。流山文化財顧問でコレクションを寄贈し、博物館の開設に功績があったと言うことだけ分った。
     その隣に「相馬大作・関良助」顕彰碑が建っているのが不思議だ。相馬大作は流山に関係していただろうか。「それって誰?」南部と津軽の確執の中で、津軽藩主の暗殺を謀った。大館付近で参勤交代の帰国途中を狙ったものだが、仲間の中からこれを告訴したものがいて、津軽寧親は通常の道筋を変えたため未遂で終わった。江戸に逃亡したが津軽藩の執拗な探索の結果、幕吏に捕えられ小塚原で獄門になる。本名は南部藩士・下斗米秀之進、関良助はその門弟である。

     ・・・・・南部三十六世大膳大夫利敬が江戸の上屋敷で亡くなったことは――文政三年六月十五日――二十万石の領民たれしも知っていた。
     盛岡ではもとより支藩の八戸藩はいうまでもない、南部領の津々浦々、山深い峡のささやかな村でも人の住むところでは亡君追福の営みが行われざるをなしだった、と同時に、南部人の多くの胸をぐゎんとつくものが喪に服すれば服するほどであった、二百余年の久しき間持ち越している津軽憎しに絡まることである。
     亡き大膳大夫利敬は四品に叙せられ(文化元年十二月)侍従に任ぜられた(文化五年十二月)が、遺領二十万石を襲う世子吉次郎は無官だった。二百余年の憎しみ続く津軽越中守寧親は従四位下に叙されているから(文化五年十二月)その下風に立たねばならなかった。ところがこの十二月には津軽は侍従に任ぜられること確実だという、そうなると津軽は十万石、南部は二十万石でもその格のちがいに大きな幅ができる。人にもよれ南部三十七世の吉次郎が家来筋の後塵を拝することが出来ることか出来ないことかと、その頃の南部人は「一藩の士民皆慷慨して恥辱と為し痛憤せざるはなし」(『下斗米大作実伝』)だった。(長谷川伸『相馬大作と津軽頼母』)

     要するに南部人の津軽に対する嫉妬である。かつて戦国時代には家来筋だった癖に、今では我が殿より出世した。これが、南部人が津軽に対して抱く怨恨であり、相馬大作が津軽藩主を狙った理由である。そこに何の名分もないが、江戸時代には忠義の士として講談や実録本に取り上げられた。藤田東湖は忠義の士として『下斗米将真伝』を書き、それは吉田松陰にも影響を与えた。松浦静山はさすがに冷静で「児戯に類する」と批判した。
     それにしてもその相馬大作と流山との関係は何か。暗殺計画が失敗してから、大作と良作は江戸に潜伏していたのだが、そこに至る途中で立ち寄ったものか。博物館ではこの件について何も説明していない。
     大作は下総千葉氏の庶流、相馬氏の裔を称している。相馬氏は相馬郡相馬御厨(松戸から我孫子にかけての一帯)を本貫としたことから相馬氏を名乗った。推測だが、相馬大作の顕彰碑がここに建てられた理由はこれではなかろうか。つまり祖先発祥の地で顕彰するということだ。
     今は三時六分だ。「電車は何時なの?」「三時五十九分ですね。」それなら三十分程見学できる。二階には流鉄関係、陸軍糧秣本廠流山出張所関係、味醂醸造関係のほか、近藤勇の虎徹も展示されている。ざっと見学して一階の休憩所に戻れば、ここは飲食自由の場所であった。煎餅、菓子が配られる。

     流鉄流山駅に着いたのは三時五十分だ。一万五千歩。流鉄は流山線だけを運営する鉄道会社で、流山線は流山駅から常磐線馬橋駅までの五・七キロを走る。こんな短い区間で営業が成り立つものだろうか。元々は醤油や味醂の輸送のために、大正二年(一九一三)に設立された軽便鉄道だった。鉄道建設運動を牽引したのは、当たり前のことだが、流山の味醂醸造家たちである。
     折り返し始発の電車は二両編成で、折り返しだというのに降りずにそのまま乗っている客がいる。いわゆる「鉄ちゃん」であろうか。西武鉄道から譲り受けた車両で、車庫に待機している車両も含めて、それぞれ色を変えている。
     「今日はどこにしようか。」武蔵野線と常磐線の乗換駅である新松戸が便利だ。流山を出発して、平和台、鰭ケ崎、小金城址、幸谷を通り馬橋まで十一分。幸谷で降りれば徒歩数分で新松戸に行けそうだが、姫は道が分らないというので、馬橋で常磐線に乗り換える。新松戸で降り、オクチャン夫妻とドクトルは帰って行った。「あれ、そこが幸谷駅だよ。」徒歩数分と言う程でもない、殆んど隣接していると言って良いくらいだ。残り十人はだんまや水産に入る。
     去年の十一月、柏を歩いた後に入った店だ。店員の女の子はベトナム人が二人。ヤマチャンは以前にもこの娘に会ったことがあるような口振りで話しかける。確かに以前この店に来たことはあるが、その時の店員がこの娘だとは思えない。五人ずつ二つのテーブルに陣取ったから、ビールの後は焼酎を二本、お湯も二つ頼んだ。
     私はなんだか腹が減っている。やっぱりうどんだけではもたないのだ。「刺身の盛り合わせを頼もうよ。」「一種類が一切れずつとかじゃないか。」予想に反して盛り合わせは豪華であった。焼酎を三本空けて一人三千円なり。

    蜻蛉