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    近郊散歩の会 第二回「安行」
    平成二十九年五月二十七日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.06.04

     旧暦五月二日。小満の次候「紅花栄」。陰暦皐月の名の通り、どこもかしこもツツジが満開だが、実は私はサツキとツツジの区別が付かない。但し、陰暦の月名「皐月」のサは耕作を意味する古語であるというのが一般的な解説で、ツツジとは何の関係もなかった。
     週の前半は真夏のような暑さで早くも夏到来かと思わせたのに、昨日は終日雨で気温が下がった。その雨が今朝の出掛けまで少し残っていて、半袖か長袖かで迷ったが長袖にした。雨は帽子を被っていれば気にならない。午後は晴れる筈だが、念のために折り畳み傘をリュックに入れた。
     今回は殆ど地元と言って良い宗匠がリーダーを務める。集合は埼玉高速鉄道の戸塚安行駅だ。前に安行を歩いたのはいつだったか確認してみると、平成二十一年七月だから八年も前のことで殆ど忘れている。安行地区は、南西側が大宮台地最南部の鳩ヶ谷支台の外れに位置し、北東側には低地が広がる。縄文海進ではこの低地の部分までが海だった。植木の町として知られている。
     東川口駅で武蔵野線を降りた所でヤマチャンに会った。「俺はトイレに行ってくるよ。」「それじゃ向こうで。」戸塚安行駅に着くとヤマチャンは隣の車両から降りてきた。一駅で二百十円は高い。
     宗匠、ハイジ、マリー、ハコサン、オクチャン夫妻、ダンディ、ドクトル、オカチャン、マリオ、千意さん、スナフキン、ヤマチャン、ロダン、蜻蛉。構内は風が吹き抜けるせいか少し寒い。マリオは弁当を買いに出て行った。
     「四駅で十分なのに三百五十円もするのよ、高すぎるわよ」とマリーは文句を垂れている。三キロまでの初乗りが二百十円、五キロまで二百七十円、七キロまで三百十円、九キロまで三百五十円。以下くだくだしいのでやめるが、こんな料金体系なのだ。「この路線はどこまで行くんだい?」「浦和美園。」「何がある?」「サッカーだよ。」地下鉄南北線と乗り入れしたから便利なのだが、何しろ高いのが難である。
     「あれッ、あんみつ姫は?」念のためにメールを確認したが届いていない。「おかしいな、何かあれば連絡がある筈だけどね。」そこに電話が鳴った。「スナフキンにメールしたんですけど、返事がないから。」今、南越谷なので十五分程遅れると言う。「追いかけますから先に行ってください。」スナフキンが慌ててメールを確認して、「来てたよ」と頭を掻く。姫は私がメールに気付かないことを知っているからスナフキンに送信したのに、結果としては同じことであった。西福寺で合流することにして出発する。現在十五人、姫が来れば十六人になる。
     空はすっかり晴れ上がった。フードセンターを右に見て西に歩き始めると、すぐに寺の看板が立っていた。信号を左に曲がり、次の角を右に曲がって道なりに行けばやや上り坂になる。そして高台にあるのは西福寺だ。山号は補陀洛山、真言宗豊山派。川口市西立野四二〇番地。
     新緑の中に建つ見事な三重塔を見てなんとなく記憶が蘇ってきた。高さ二十三メートルは、埼玉県内で最も高い木造建築である。三代将軍家光の長女千代姫が奉建したもので、棟札に元禄六年(一六九三)三月二十七日と記されている。千代姫は尾張藩二代藩主光友(光義)の正室である。一層の周囲を飾る蟇股に十二支が彫られていることに宗匠が注意を促す。

     塔は、鉄製の釘を一本もつかわず細工によって作りあげてあり、構造は方三間で、一層の天井から真上に一本の柱をたて、その柱から二層・三層の屋根に梁を渡しバランスをとって、風にも地震にも耐えるように工夫されている。(掲示板より)

     阿吽の仁王像が立っている。観音堂には西国・秩父・坂東百ヶ所の観音を祀る。電話が鳴った。姫は迷っているかな。「今駅を出たところなんです。正面に外環道が見えます。」宗匠と一緒に持っている地図を確認しながら応える。「フードセンターを右に見て歩いて。」「それなら右後方に見えます。」どうやら、西に来るべき所を南に向かったようだ。「フードセンターを右に見て西に向かってよ。」「西って?」「太陽が出てるから判断して。」「俺が迎えに行くよ」と千意さんが出発した。
     「これ何かな、ハギじゃないよね。」宗匠が見つけた赤紫の小さな花はハギのようでもあるが、それでは季節が合わない。しかしオクチャンがあっさり「ヒメハギですね」と答えてくれる。ハギはマメ科ハギ属だが、ヒメハギはヒメハギ科ヒメハギ属である。花期は四月から七月と言うから、ちょうど今の花なのだ。但しオクチャンからは、もしかしたら木ハギかも知れないと連絡があった。ネットで各種の写真を見ると、チョウセンキハギというものに似ているかも知れない。
     そして騎士二人に守られた姫が到着した。千意さんの他にオカチャンがいる。私のように冷たい人間との差が出てくる。「俺が遅れた時は、誰も迎えに来てくれなかった。」それは仕方がない。スナフキンにはスマホの地図があるのだから。「以前に歩いた時、私は途中から参加したのでこのお寺には来てなかったんですよ。」
     私はすっかり忘れていたが、「作文に面白いことが書いてましたよ。ホンダララなんて」と姫が言う。補陀落山の山号を見て、ドクトルが植木等の『ホンダラ行進曲』を連想していたのである。

     少し歩けば「赤山城跡方面・竹林の道」の立札が立っていた。この辺は赤山城の外延部分になるだろうか。「赤山城ってあったんだ。」「伊奈氏のね。」「館跡ですね。」伊奈氏は七千石の旗本だから、陣屋と言ったほうが良い。外環道で分断されてしまったが、残された一部が公園として整備されている。兄の死によって、伊奈忠治が関東代官職を襲って伊奈町から赤山に移ったのが元和四年(一六一八)のことである。関東の治水に大きな功績を果たした伊奈氏だが、伊奈町の城址は荒れ果てた山林になっていた。来月は鴻巣を歩く予定で、伊奈忠次、忠治の墓を見ることにしている。
     竹垣の右に竹林を見ながら山道のような所を辿る。濡れた落ち葉が敷き詰められていて足元が柔らかい。今年の筍が伸びた竹は、節々に皮を残している。僅かの期間にこんなに伸びるのか。道端には白いドクダミも目立つ。
     竹林が途切れると普通の山道になってきた。それを抜けると左手は崖で、民家の高い石垣には夥しい量のテイカカズラが咲いている。「スゴイですね。」「珍しいの?」とヤマチャンが訊いてくる。「花自体は珍しくないけど、こんなに大量にあるのが珍しいんですよ。」香りは余りしない。
     こんなに盛大に蔓延っていると、式子内親王と定家との隠微で怪しい伝説は全く無縁なものに思えてくる。式子内親王は定家の十三歳年上である。後白河天皇の皇女で賀茂宮斎院となったものの、病気で退下した。その頃から定家を出入させていたのだが、技巧を凝らした新古今風に比べ、命の儚さを抒情的に歌ったものが多いと言うのが私の感想である。和泉式部の激情はない。

    生きてよも明日まで人はつらからじこの夕暮を問はばとへかし  式子内親王
    玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする
    いきてよもあすまて人はつらからし此夕暮をとはゝとへかし

     右側の藪には白いウツギが咲いている。卯の花だ。外環道の高架の安行(西)にあるのが持宝院だ。真言宗智山派。川口市安行八〇五番地。天正元年(一五七三)創立で開山は朝栄。山門前には「安行八景 俳句と持宝院」の立て札がある。門の内側には六地蔵、庫裏の脇にはムラサキツユクサが咲いている。
     墓地の手前に、自然石に「安行の三俳人」(中山三兄弟)の三句を連記した句碑があった。「俳句と持宝院」と言う割には、これしかないのも意外だ。

    倒れけり萩の中なる女郎花  柳家(吉長)
    墓原の隅の空地や萩の花   麦甫(吉典)
    馬下りて休む小道や萩の花  稲青(健三郎)

     柳家の句は、萩と女郎花と秋の季語を二つも入れていて、これでは夏井いつき先生に叱られてしまうのではないか。(夏井いつきはTBSの「プレバト」で人気である。)柳家は長兄の中山吉長の号であるが、明治五年(一八七二)生まれ、明治三十一年から四十三年間、安行村村長を勤めた。伝右川の改修にも功績があったと言う。
     裏面の句碑建立の由来を読んでみると、明治三十一年の子規選『ホトトギス』に兄弟三人同時入選したのが一族の自慢だ。吉長の長男が、父と叔父二人の追善供養のためにその句を並べた碑を建てたのである。その頃、中山邸には子規、漱石、虚子が訪れたと言う。大邸宅で現在はバラ園の安行庵(川口市安行吉蔵三〇六番地)になっているが、今月一杯で開放を終了するらしい。そこに漱石の句碑があると言う。

    藪池や魚も動かぬ秋の水  漱石

     大した句とも思えない。こんなことを言って、私の実力がどうなのかは言わない。外環道路の下を潜ると広い園芸農家が目立つ地域だ。承応年間(一六五二~一六五五)安行村の吉田権之丞が切り花植木を作って江戸で売ったのが、安行の植木の始まりとされる。
     ザクロの花が咲いている。「この色が素敵なのよ。」「赤っていうより朱色だね。」万緑叢中紅一点。以前にもどこかで触れた通り、この言葉は王安石「詠石榴詩」にあると言うのだが、その詩自体は誰にも見つけられない。
     中田園芸の地所に立つカルミア(アメリカシャクナゲ)は終わりかけだろうか。私はカメリアと言ってオクチャン夫人に訂正された。金平糖を押しつぶした、皿のような花の形が面白い。小さな日傘のようだと言っても良いだろう。この花を初めて見たのは七八年前で当時は珍しかったが、結構あちこちで見るようになってきた。
     再び山道に入る。時折、落ちた枝を踏んでしまうと跳ね返る。木漏れ日が丁度良い按配に射してくれる。山歩きの気分だ。既に気温はかなり高くなった。足元の落ち葉はもう濡れていない。
     地面から小さなイチョウが葉を出している。「ここが貝塚です。」宗匠の言葉で下を見れば、白い貝殻が散らばっている。なるほど、少し小高くなって塚のようでもある。しかし、縄文の貝殻がこんなに地表に露出しているものなのか。案内板のようなものは何もないが、猿貝貝塚と言う。しかし近辺には何の案内もない。川口市は少し手を入れても良いのではないか。

    安行遺蹟
    埼玉県川口市安行領家に存在する縄文時代後期の貝塚。綾瀬川の右岸に連なる鳩ヶ谷台地上にあるシジミを主体とする貝塚で、山内清男により一九一九年(大正八)に小規模な調査が行われた。山内は出土した土器を安行式土器と命名し、関東地方縄文時代の後期最終末に位置する土器型式であるとした。(略)安行式土器はその当初から終末に至るまで、器型、文様上の様式に連続性が認められ、関東地方の後期末から晩期前半に至る文化伝統を知ることができる。[鈴木公雄](『日本大百科全書』)

     「川口のイメージがすっかり変わったよ。」ヤマチャンは川口駅前の辺りをイメージしていたのだろう。「埼玉高速鉄道が通る前は陸の孤島だからね。開発されなかったんだよ。」「鉄道なんだな、問題は。」横に伸びた枝があれば腰を屈めて通る。
     氷川安行公園に着いた。入口脇に大木を模した外観のトイレがある。ここは安行氷川神社の社殿の裏だ。リーダーはここで休憩をとると言うので、神社の方に回ってみた。川口市安行一〇五九番地。小さな神社で、くすんだ朱塗りの拝殿は賽銭を入れる縦長の口だけが開いていて倉庫のようだ。
     古い狛犬の一方が寝そべっているように見えるのは何だろう。「タヌキかい?」トドのようでもあるな。「違うだろう。」実は胴体が二つに割れ、残った部分が台座から離れて横になっているのだ。文久二年(一八六二)の唐獅子である。

     ・・・・・本殿には衣冠男神座像が奉安される。社蔵の棟札によると、元禄十三年(一七〇〇)十二月に当社の拝殿が造営されている。当時の別当住僧は、自現房快宥である。快宥は、越後国出雲崎町にある円明山快栄法印の弟子で、学問修行のため、縁あって当地の真言宗赤芝山円福寺に入り、当社の造営に助力する。住居は、当地の中山氏が山林二畝一八歩に証文一通を添えて寄進している。この円福寺は、当社の南野側にあったが、明治打年の神仏分離により廃寺になっている。
     明治期、当社は大字安行原に鎮座する九重神社に合祀されることになったが、氏子が一丸となって反対したため合祀を免れている。『明細帳』によると、明治四十年六月七日、大字安行字立ノ崎の無格社氷川社、字大原の無格社神明社、字宮下の無格社金山社、字宮越の無格社浅間社を合祀している。このうち氷川社は当社本殿に合祀し、他の三社は境内に合祀したため、現在、境内に三社様と呼ばれる社がある。(埼玉県神社庁「埼玉の神社より)

     そろそろ腹がへってきたが、まだ十一時を少し過ぎたばかりだ。道端に合掌型の青面金剛が立っていた。それにしても暑い。「帽子は被ってこなかったんですか?」最初は被って家を出たのだが、鶴ヶ島駅に着いて、やたらに汗をかいたのでリュックにしまい込んだ。「ホントは、千意さんみたいなのが良いんだ。」千意さんは頭にタオルを巻いているのである。私はうっかりしてハンカチにしてしまった。「植木職人はみんなこれだよ。」広い植木屋の地所にある樹木が素敵だ。ピンクのカルミアがきれいだ。青モミジもなかなか良い。
     埼玉県花と緑の振興センターに着いた。川口市安行一〇一五番地。門を入ると大きなカルミアが盛りと咲いている。宗匠と園芸造園関係の研修で同期だったというボランティアがガイドしてくれることになった。予約をしていたのではないが、ちょうど時間が合ったらしい。「受付に記帳してください。」「リーダーがします。」「彼がリーダーですか。ここで一緒に働いているんですよ。」宗匠によれば、「彼は理論で、私は実技。知識に差がついてしまった」そうだ。

     当センターは、植木生産地として古くから有名な川口市安行に、昭和二十八年に「植物見本園」として開園以来、植木・果樹などの生産出荷の指導、盆栽等の輸出振興、また緑化講座、電話相談などを通じ、県民の皆さまの緑化に対する知識の向上等に努めています。
     園内には、豊富な種類のツバキ、ウメ、ツツジ等を始めとし、「コニファー園」、「花木園」、「カラーリーフ園」など、様々な樹木類を展示し、四季を通じて広く県民の皆さまに楽しんでいただいています。(「花と緑の振興センター業務概要」)
     https://www.pref.saitama.lg.jp/hana-midori/kengaku/hanamidori-gyomu.html

     かなり色々教わったが、メモに残ったことしか書けない。樹木に関心のある人ならもっと良かっただろう。最初に教えてくれるのがメオトウメである。「普通はひとつの花に雌蕊はひとつでしょう。これは二つあるんです。だから実が二つなる。」「アッ、それですね。」確かに実が二つくっついて生っているのだ。
     建物の外壁に沿わせている蔦はオオイタビ(クワ科)。「普通のツタは根が入り込んで壁を傷つけるんですが、これは吸盤を壁に吸いつけるので建物が傷まない。」ハシドイというのは白いライラックだ。この名前は初めて聞いた。一般に見る紫色のライラックはムラサキハシドイと言う。
     ウツギ(ウノハナ)が満開だ。ウツギはアジサイ科、スイカズラ科、フジウツギ科、バラ科など種類が多くて実は良く分らない。「その竹を触ってみてください。」何があるのだろう。外観は普通の竹だが、触ると四角になっているのが分った。「シホウダケです。」
     ツキヌキニンドウというのも面白い。茎が葉の真ん中を貫いて、朱色の細長い花をつけている。スイカズラ科。「普通のシモバシラは横に広がるけど。」この季節に霜柱がどう関係するのだろうか。しかしそれがあった。シモバシラ(シソ科)という植物があるなんて初めて知る。

     シモバシラが生えていたところには、冬になると氷柱ができる。シモバシラの茎は冬になると枯れてしまうが、根はその後長い間活動を続けるため、枯れた茎の道管に水が吸い上げられ続ける。そして、外気温が氷点下になると、道管内の水が凍って、茎から氷柱ができる。この現象は、地中の根が凍るまで続く。(ウィキペディア「シモバシラ」)

     真っ白なムラサキツユクサがある。「これもムラサキツユクサでいいのかな?」「そうですね。」変異であろうか。露草は秋の季語だが、ムラサキツユクサは季語に採用されていない。夏の間長く咲いている。
     ラクウショウの気根の頭を刈り取ったものが、アスファルトを破ってあちこちに出ている。ヌマスギ(沼杉)と呼ばれるように(と初めて聞いた)湿地に生えるので、呼吸するために根を外に出すのだと言う。メタセコイアに似ているらしい。「メタセコイアは対生ですが、こちらは互生です。」
     池にいるのはヒレナガニシキゴイである。「尾が長いんですよ。」尾だけでなく胸ビレ、背ビレも長い。当今が皇太子時代、埼玉県水産試験場を視察した際、インドネシアで見たヒレの長い鯉と水産試験場の鯉の交配を提案して品種改良されたものだと言う。「アサザがあるんだけど今日は見えないね。」
     「サルトリイバラは知っていますか?」以前、赤い実を姫に教えて貰ったような気がする。「サンキライですよね。」「この葉で柏餅を包む地方があります。」「この葉で?小さいんじゃないか。」「餅も小さくするんだろうね。」しかしそれでは柏餅にならない。サルトリイバラ餅と言うのだろうか。「葉が厚くて食えないだろう。」「柏餅の柏だって食べませんよ。桜餅の葉は食べるけど。」
     垰田宏と言う人(自己紹介によれば林野庁で森林、林業の研究に携わっていたと言う)のブログには驚くべきことが書いてあった。餅をサルトリイバラで包むのは「日本の常識」なのである。

     端午の節句の「かしわもち」は、サルトリバラの葉で包んだ「もち」または「だんご」であり、「しばもち」、「かたらもち」と呼ぶ地域も多い。これは、広島県 (というより、関東などの一部を除いた日本) の常識である。
     ところが、本来はカシワ(ブナ科)の葉で包むのが「かしわもち」で、「西日本では、サルトリイバラの葉で代用する」という話が流布している。実は、全くのあべこべであって、サルトリイバラの代用としてカシワの葉を用いる方法が江戸時代に考案された。(「広島の植物ノート」http://forests.world.coocan.jp/fnote/?p=109より)

     そして、木の葉は何でもカシハであったとも言う。それならサルトリイバラ餅なんて面倒な言い方をしなくても済む。ついでにウィキペディア「柏餅」を見ると、やはり同じことが書いてある。

    柏餅は、平たく丸めた上新粉の餅を二つに折り、間に餡をはさんでカシワ又はサルトリイバラの葉などで包んだ和菓子である。(略)
    カシワの葉を用いた柏餅は徳川九代将軍家重から十代将軍家治の頃、江戸で生まれた。カシワの葉は新芽が育つまでは古い葉が落ちないことから、「子孫繁栄(家系が途切れない)」という縁起をかついだものとされる。江戸で生まれた端午の節句に柏餅を供えるという文化は、参勤交代で日本全国に行き渡ったと考えられているが、一九三〇年代ごろまではカシワの葉を用いた柏餅は関東が中心であった。カシワの葉でくるむものが生まれるより前にサルトリイバラなどの葉で包む餅が存在し、カシワの自生が少ない地域ではこれが柏餅として普及していた。その後韓国や中国からカシワの葉が輸入されるようになったこともあり、カシワの葉でくるむ柏餅が全国的に主流となっている。

     県道一〇三を渡る歩道橋の上からタイザンボクの大きな白い花を見る。ここから見ると、ヤマボウシも満開だ。ヤマボウシの花は上を向いて咲くから、このくらいの上から眺めないとよく見えないのだ。時期的に少し早いのではないかと思うが、これが普通だと言われると反論できない。私のイメージにあるヤマボウシは梅雨時の雨にひっそりと濡れる姿だ。

    ヤマボウシ友の円熟園ガイド   閑舟

     「ユリノキですね。」「チューリップツリーだね。」一緒について来たガイド見習いらしい女性は、チューリップツリーと言う言葉も、もユリノキにまつわる大正天皇の逸話を知らなかった。大正天皇の話は、無知な天皇の思いつきで命名されたと言うのだが、眉唾であろう。学名Liriodendron tulipiferaの「Liriodendron」は正に百合の木を意味するから、大正天皇でなくても、百合に似ているのは誰でも気付いたのである。チューリップのように見えるユリの木である。日比谷公園の周辺の並木になっていた。

     十二時になったところでガイドにお礼を言って別れ、公園に入って昼飯になる。芝生にビニールシートを広げて弁当を食べるのも久し振りだ。妻も丁度仕事に弁当を持っていくと言うので作ってくれたのである。
     オクチャン夫人が甘いもの(何かのパイ菓子)を持ってきてくれるが丁重にご辞退申し上げた。「そんなに頑なにならなくていいじゃないか。」仕方がないのだ。オカチャンもチョコレートを配って走る。
     「ケヤキが三本あります。違いが分りますか?」私が最も苦手な問題である。そこに千意さんもヒントを出す。「向こうは枝が広がってる。こっちは?」枝が広がらずに真っ直ぐ上に伸びているのだ。街路樹用に品種改良したものらしい。「でも、なんだかケヤキじゃないみたい。」
     「トイレの目隠しの垣は私が作った」と宗匠が自慢する。建仁寺垣というものだ。「あっちの垣は?」「あれは金閣寺垣。」「その四ツ目垣は私。」千意さんもここで働いているのか。「知らなかったよ。」「もう六年かな。」それに倣って、二年後に宗匠がここに来たのだそうだ。
     アメリカロウバイ(クロバナロウバイ属)の実。イチゴのような実をつけているのはクワだった。私は都会の子供だったから桑の実を知らないのである。随分大きなダイオウショウが立っている。

     一時。我々が立ち上がると交代するように別の団体がやって来た。彼らもここで弁当にするらしい。県道を挟んでセンターの向かいにあるのが興禅院だ。瑞龍山観音寺、曹洞宗。川口市安行領家四〇一番地。
     入り口には「埼玉県興禅院ふるさとの森」の看板が立つ。ふるさとの森は赤堀用水路の斜面林で、寺の周囲に広がっている。山門までのモミジの立ち並ぶ長い参道が良い。

    参道を覆ひ尽くすや若楓  蜻蛉

     中に一本だけ真っ赤に紅葉したものがあって、「不思議ですね」とオクチャン夫人が見上げる。山門を潜ると、右手にショケラを持つ青面金剛が立つ。様々なアジサイ、ガクアジサイが盛りと咲いている。バラもきれいだ。
     枝折戸を開いて入ったのは他人の庭だったろうか。葉の根元の部分が濃い赤紫に変色しているのがアカザである。私は無学だから知らなかったがホウレンソウと同じ仲間だ。しかし宗匠の目的は別だった。一面にピンクの五弁花が咲いているのだ。「フクロナデシコ。」蕾が袋状になっていることから名づけられたらしい。サクラギソウとか、サクラマンテマとも言うのだそうだ。ナデシコ科マンテマ属。
     この辺りからふるさとの森に入ったようだ。竹林の竹が黄色い。「こういう種類ですよね。」金明孟宗竹と書かれた紙が貼ってある。この竹を初めて見たときは、生きながら枯れてしまったのかと思った。確か青山のどこかの寺だったような気がする(大山街道第一回、長青山寶樹寺梅窓院の参道で見ていた)。
     山川草木供養塔がある。「やっぱり日本だね。」「日本人は何でも供養するのよ。」山川草木悉有仏性、あるいは山川草木悉皆成仏。日本人の元々のアニミズムが中世仏教思想と習合したのだが、その発端は中国にあった。簡単に日本特有と判断してはいけない。

     そもそもインドでは、同じ生命体でも六道に輪廻する衆生と植物とは截然と区別され、悟りを開く可能性は前者のみ認められるものであったから、草木成仏はほとんど問題にならなかった。それが問題になるのは仏教が中国にはいってからである。おそらく最も早くこの点を主張したのは三論宗の吉蔵(五四九~六二三)の『大乗玄論』ではないかと思われる。その後、華厳・天台・禅などでひろく草木成仏が説かれるようになり、唐代の仏教ではおなじみのテーマになった。(末木文美土『日本仏教史―思想史としてのアプローチ』)

     そしてこの思想が日本では更に極端になる。本来の仏教では、悟りを開く人間は予め定められていて、どうしても悟れない人間はいたのである。しかし、山川草木等無情のものにも仏性があり成仏するのなら、人間だって必ず成仏する筈ではないか。それを推し進めると、仏性(可能性)ではなく、既に現にある姿そのままで成仏している(悟りを開いている)ことになる。釈迦の教えから随分遠くまできてしまったが、これを本覚思想と言う。これによって戒律が無意味になり、仏教界は堕落した。

     ・・・・・また正月早々園城寺の悪僧どもが争闘し、武士が制圧に派遣されている。「世間ノ不善、必ズ彼ノ悪徒ヨリ発ルカ」と定家は記しており、僧徒というもの、寺社者に対する評価が定家においてさえ、下降一方なことが知られる。僧関係のことで言えば、三月の十二日には、「奈良北山濫僧ノ長吏法師(容儀優美ノ法師)、例人(俗人)ノ姿ヲ仮リ、艶言ヲ発シテ尋常ノ家々ノ女子ヲ掠メ取る。已ニ三人ニ及ブノ間、漸ク事ノ聞エアリ。其ノ住所ヲ焼キ払ハントスルノ間、逃ゲ去ラントス。遂ニ其ノ首ヲ斬リ、路傍ニ懸クト云々。」(堀田善衛『定家明月記私抄 続篇』)

     勿論、南都北嶺が大荘園領主となってその僧が僧兵化したのは、既に白河天皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いていた通りだ。それが治承・寿永の乱を経験し、更に承久の乱を経て、その質は一層下がっていた。法然・親鸞・日蓮・道元たちはその時代に生きた人たちであり、旧仏教の側からも改革の動きがでてくる。
     開運招福弁財天の赤い幟が並ぶところから、道は谷に続いている。朱塗りの欄干の階段を降りると弁財天の社と放生池があった。小さな祠に祀られているのはとぐろを巻いた白蛇を線刻した板碑である。「宇賀神ですね。本所の杉山神社でもありました」と姫が言う。宇賀神は人頭蛇身の翁であるが、弁才天と習合したので弁天の頭部に小さな宇賀神を載せるものもある。
     「お財布に蛇の抜け殻を入れるといいんです。私、入れてますよ。」クリスチャンの姫がこんな民間信仰を実行しているのが不思議だ。調べてみると、抜け殻を扱う通販サイトがあったから、実際に財布に入れている人は確実にいるのだ。これは日本人の原始蛇信仰の痕跡が残っていることを意味するだろうか。

     ・・・・・日本蛇信仰における蛇は、世界各原始蛇信仰にみられたと同様に祖先神としての蛇であって、それは従来、日本民俗学その他で定説となっている単なる「水の神」というような低次元の神ではない。私見によれば、蛇は絶対に祖霊であり、祖先神である。(吉野裕子『山の神―易・五行と日本の原始蛇信仰』)

     蛇をミズチ、ノズチ、オロチなどと言う。その「チ」は古代日本語で霊の謂である。吉野裕子によれば、その信仰の根源にあるのは、「外形が男根に相似」「脱皮による生命の更新」「一撃のもとに敵を倒す猛毒」である。いま問題の抜け殻は、「脱皮による生命の更新」の象徴である。そして新生の力は、新しい皮ではなく、破れた古い皮に宿っているのである。

     日本民俗学が、穀霊・穀物神を祖霊とするのは、元来、祖先神であった蛇に、新たな穀物神としての神格が付加され、祖霊と穀物神が、蛇を媒として結びついた結果に他ならない。本来、祖霊と穀物神の両者は別物のはずである。
     稲作をはじめ、田畑の収穫に全面的に頼るようになった弥生以降の人々が、跳梁する野鼠に手を焼いた挙句の別途の蛇信仰、それが「宇迦・宇賀」あるいは「倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)などと呼ばれる穀物神の信仰である。
     この「ウカ・ウガ」の語原は、南方祖語「ウガル」(蛇)の転訛といわれ、これが日本に入り、宇賀神となったとされる。(吉野・同書)

     しかし宇賀神を穀物神に結び付けることについて、山本ひろこは異を唱えている。元々、この穀物神に結び付ける説は喜田貞吉が提唱したことを言った後、このように言う。

     たしかに「宇賀神」なる名称成立の背景を尋ね当てようとするとき、記紀にみえる食物の神との脈絡を問うことは不可避の作業といえよう。だが、本稿で縷々述べていくように、中世における宇賀神の諸形態は、それが「宇迦之御魂」(倉稲魂)などに還元しえないことを雄弁に物語る。宇賀神とは何よりも、弁才天の一種、つまり造作され案出された弁才天であったことを確認しておく必要があるだろう。
     宇賀神。異貌の弁才天女。記紀はもちろんのこと、『延喜式』神名帳にも登場しない「人頭蛇身」のこの尊は十世紀中葉にはその名を現すが、おそらく院政期から成熟し、中世を通じ独特の形貌と活躍を信仰宗教史の上に刻みつけていったのだ。(山本ひろ子『異神』)

     山本の『異神』には、新羅明神、赤山明神、宇賀神、牛頭天王など中世仏教が発明した異形の神が紹介されている。新羅明神は円珍の入唐渡海時に出現し、三井寺(園城寺)の守護神となり、山門を憚って戒壇設置を進めない天皇を呪詛した。牛頭天王は私たちの間では馴染みがあるだろうか。スサノオと習合している。
     オン ソラソバテイエイ ソワカ。「このソラソバテイエイっていうのが弁天なんだ。」水と豊饒の女神サラスヴァティの日本仏教読みである。楽器供養塔というのは珍しい。「弁天様は琵琶を持ってますからね。音楽の神様です。」
     斜面に沿って点在する石仏は十三仏だ。ここは確かに記憶がある。中世の十王信仰に基づいて江戸時代に発明されたものである。列挙すれば次のようになり、括弧内はそれに対応する冥界の裁判官である。この裁判官を十人揃え、本地仏と共に十王信仰としたのが始まりだ。初七日から三十三回忌まで、死者の罪が審判され、それを救済する仏がいる。要するに寺院の経営基盤安定のため、法事の回数を増やす策であろう。
     不動明王(秦広王)初七日、釈迦如来(初江王)二七日、文殊菩薩(宋帝王)三七日、普賢菩薩(五官王)四七日、地蔵菩薩(閻魔王)五七日、弥勒菩薩(変成王)六七日、薬師如来(泰山王)七七日、観音菩薩(平等王)百ケ日、勢至菩薩(都市王)一周忌、阿弥陀如来(五道転輪王)三回忌、阿閦如来(蓮華王)七回忌、大日如来(祇園王)十三回忌、虚空蔵菩薩(法界王)三十三回忌。
     本来は七七日(四十九日)の泰山王の審判で、死者が六道のどの世界に行くかが決められる。それ以降は、六道の何処かで苦しむ亡者を救済するために、何度も審判が繰り返されるのである。しかし今の時代では余程若くして死なないと、三十三回忌なんか実現しない。
     それぞれの石仏には種子(しゅじ)と真言が記された案内が添えられている。真言はマントラの漢訳で、要するに神秘な呪文である。例えば不動明王ならノウマク サンマンダ バザラダン カン。もともとは梵語の音読みで、意味不明な不思議な呪文を唱えることでご利益があると考えられた。「ノウマク サンマンダ バザラダン(あるいはボダナン)」は、南無帰命頂礼であろうか。「カン」が不動明王を表す。釈迦如来はノウマク サンマンダ ボダナン バク。大日如来はオン アビラウンケン バサラ ダドバン。但し真言宗系と天台宗系とで多少の違いがあるようだ。

    新緑や十三仏で浄土坂   閑舟

     羊歯の多い山道を登って最後は千手観音に行き着く。オン・バザラ・タラマ・キリク・ソワカ。「ソワカは成就あれって言う意味らしいよ」と宗匠が補足してくれる。ただ千手観音がキリクで、種子がキリークになっているのが不思議だ。私の知識ではキリークは阿弥陀如来に決まっていた。「ちょっと待って。」宗匠が種子の一覧表を確認する、常にリュックに資料を持参しているのだ。「千手観音もキリークだった。」私も以前自分で一覧を作ったファイルをリュックに入れていたことがあるが、面倒になっていつの間にかやめてしまった。
     赤堀用水路沿いの道に出るとタチアオイが目立ってきた。ロダンが好きな花だ。これが咲くと梅雨が近いと思わせる。「この青い花は何かな?」モヤモヤとした細い葉が特徴だろう。「葉はコスモスに似てるわね」とハイジが鑑定する。「スマホで検索できないの?」「画像じゃ検索できないよ。」「青い花、コスモスとか入力すれば。」その結果はクロタネソウであった。キンポウゲ科。花弁のように見えるのはガクである。ビヨウヤナギも咲いていた。「出ましたね、蜻蛉の花が。」
     民家と斜面の間の狭い木道を通り、また山道のようなところに入り込む。一輪草の自生地があるのだが、今は咲いていない。しかも立札によれば、ごっそりと盗んでいった者がいるらしい。「黄色いキノコが生えてますよ。」
     万物之霊供養の小さな祠が立っている。水際に巨大な葉があるのは何か。「ミズバショウだよ。」「こんな風になるんですか。」「そうよ。」スナフキンやハイジは山歩きをするから知っているのだ。スイカズラ。「香りがしないわね。」
     そしていつの間にか万葉植物苑に入り込んでいた。宗匠は図鑑を持ってきている。「それって、国分寺跡で買ったやつだろう?」「そうだよ。」私も買ったが、本棚に埋もれたままで読み返してもいない。(帰宅して本棚から引っ張り出してみると記憶が違っていて、私が持っているのは板橋区の赤塚植物園で買った『万葉の草木・薬用の草木』であった。)
     ここには百四十種類の植物が植えられている。シャクヤクが咲いている。「シャクヤクは薬草だよね。」芍薬と書くからそうなのだろう。私は実はシャクヤクとボタンの違いが分らなかったのだが、シャクヤクは草本、ボタンは木本である。卯の花の前の立札にはこういう歌が記されている。

     卯の花の咲くとは無しにある人に恋ひや渡らむ片思にして(作者不詳)

     「シランが万葉植物とは知らなかったよ。」私も、なんとなく洋風のものかと思っていた。シランは万葉では蕙(けい)と呼ばれたそうだ。立札には「蘭蕙叢を隔て 琴罇(きんそん)空しく令節を過ごして・・・・大伴池主」とある。これでは何のことか分らないが、大伴家持の書簡に対する返書中の一節である。

     三月の二日、掾大伴宿禰池主が守大伴宿禰家持に報贈ふる歌二首
     忽に芳音を辱す。翰苑雲を凌ぎ、兼て倭詩を垂る。詞林錦を舒べ、吟ひ詠めて能く恋緒をのぞく。春の朝の和気、固より楽しむべく、春の暮の風景、最も怜むべし。紅桃灼々とし、戯蝶花を回りて舞ひ、翠柳依々として、嬌鴬葉に隠りて歌ふ。楽しきかも。淡交席を促して、意を得て言を忘る。楽しきかも、美しきかも。幽襟賞しむに足れり。豈慮りきや、蘭蕙叢を隔て、琴樽用はるること無けむと。空しく令節を過さば、物色人を軽らむ。怨むる所此に有り。然黙止することを能はず。俗語に云く、藤を以て錦に続ぐと云へり。聊か談咲に擬するのみ。
     山峡に咲ける桜をただ一目君に見せてば何をか思はむ 

     大伴池主は家持とは頻繁に歌を交換していた。橘奈良麻呂の乱に連座して投獄され、おそらく獄死したと伝えられる。これは藤原仲麻呂(後の恵美押勝)を除いて孝謙天皇を廃位させようとしたとされる事件である。孝謙天皇は後に重祚して称徳となる、あの道鏡との関係を噂される女帝だ。
     「ブラシの木がありますね。」「まさかこれは万葉ではないよね。」「確かオーストラリア原産です。」「ギンヤンマでしょうか?」池の上を一瞬掠めるように飛んだので分らなかった。「また来ました。」私は鑑定できないが、やはりギンヤンマだったようだ。子どもの頃は覚えていたのに、今では全く判断がつかない。ホタルの里でもある。カワニナがいないかと水面を覗き込んだが、私の目に見えるものではなさそうだ。

     森を抜け十分程歩くと、左手にショケラを持つ青面金剛が立っていた。斜面に沿って広大な墓地があり、新しい五輪塔墓が並んでいる。みな同じ規格で作られているのが不気味と言えば言える。これが密蔵院の墓地で、その岡の上に如来像が見える。
     その隣が九重神社だ。川口市安行原二〇四二番地。石段の前に説明板が立っている。それによれば、ここは大宮台地先端部の久保山である。平将門が砦を築いたと言う伝説があるらしい。
     私は『将門記』の原文を読んでいないので断言はできないのだが、この辺りは武蔵武芝の支配の及ぶ地域だったのではあるまいか。武芝の本拠は足立郡で、氷川神社の社務を司っていた。新任の武蔵権守興世王と武蔵介源経基が、収奪を目的に足立郡内に入って来て、抵抗する武芝を追いやったと言うのが、将門の乱の発端である。武芝を復権させるために、将門が足立郡内に砦を構えたというのはあり得るだろう。来月の鴻巣歩きでは、源経基の館跡と伝えられる場所にも行ってみる。
     本来は氷川神社であるが、明治の神社合祀で周辺九社を合祀したことから、九重神社と称した。「当社境内の御嶽山(みたけやま)に登れば筑波山や日光連山が一望できる」の文言に注意が必要だ。拝殿脇から御嶽山に上るのだが、ここにある立札には「おんたけさん」の振り仮名が付いているのだ。木曽のオンタケサンと武州ミタケでは随分違う。
     案の定、ヤマチャンはこれを何と読むのかと訊いてくる。案内を一つだけしか見なかった人は、「ちゃんとオンタケって書いてある」と主張するが、二つ読んでしまうとそれ程簡単に断言する訳にはいかない。
     山は海抜三十二メートル、安行で最も高い。「登れるかしら?」比高は十メートルもない。膝に困難を抱える姫でも大丈夫だった。階段を上った頂上に建つ石碑は御嶽山を真ん中に、右に八海山、左に三笠山と彫ってある。しかし空は霞んで筑波山も榛名、赤城も見えない。九重神社御嶽講中の木曽御嶽山登山記念の碑が立っているので、やはり木曽御嶽山の方だった。
     山を下りれば、二本ある神木スダジイが驚くほどの巨木である。高さ五メートル程から伸びる枝を支柱が支えている。「素晴らしいですね、これは。」オクチャンがどんぐりを拾って口にする。「生でも食べられるんですよ。」推定樹齢五百年以上と言われるそうだ。「五百年って言うと江戸時代初期だね。」百年計算を間違えている。
     仮に西暦千五百年とすれば、応仁文明の乱が終わって二十三年、戦国時代が始まった頃である。内藤湖南は、現在に続く日本の歴史は応仁の乱以降に始まると言った。ただ応仁の乱は余りにも錯綜していて分り難い。去年、呉座勇一『応仁の乱-戦国時代を生んだ大乱』が出て、新書とは言いながら二十万部を売ったというのは驚異的だ。そんなに関心のある人がいたのだろうか。
     明応七年(一四九八)には、東海道全域に南海トラフ巨大地震と推定される大地震が発生した。鎌倉の大仏殿が壊れたのはこの地震のためだったとの説もある。その頃、安行地域は太田資頼の臣で中田安斉入道安行が開発を始めていた。
     墓地を通り抜けると、途中の空間に阿弥陀三尊が並び、その奥の墓地の向こうに大日如来も見える。それにしても巨大な霊園である。密蔵院だ。真言宗智山派。川口市安行原二〇〇八番地。
     境内には裏から入ったことになる。本堂の裏に将門供養塔があり、その下に阿弥陀三尊、阿弥陀一尊の種子板碑が十数基並んでいる。目立つものはないが、これだけの板碑を保存しているのは珍しい。

     文明元年(一四六九年)に中興された密蔵院は、正式名称を「海寿山満福寺密蔵院」 とし、自然の息吹に溢れた川口市安行の緑の里にあり、五五〇余年の歴史と、風格を醸し出しています。
     御本尊は、平安時代藤原期に創られた地蔵菩薩像で、明治初期までは京都醍醐寺無量寿院の末として、本寺の寺格と御朱印十一石、四十四ヶ寺の末寺を有し、川口、浦和、草加、越谷、大宮などの各寺院に影響をもたらした川口市内有数の古刹です。(「密蔵院の紹介」http://www.mituzoin.jp/presen_rekishi.html )

     この寺が文明元年に中興されたのなら、さっきのスダジイもその頃植えられた可能性があるのではないか。それなら応仁文明の乱の真っただ中である。
     本尊の地蔵は将門が念持仏として肌身離さず身に着けていたものだとされる。大きな茶筅を置いた茶筅供養塔もある。「有数の古刹」と自慢するとおり、立派な寺である。なにや不思議な節回しの声が聞こえて来た。「何ですか。詩吟?」詩吟ではないね。「お経かな?」それでもない。そうか御詠歌だ。「テープを流してるんだ。」
     この寺には御詠歌の教室があるのだ。寺のホームページを見れば、一時間半の講習を月三回やって月額三千円。そのほかに「御詠歌道具購入代金」として一万二千七百円かかる。道具が必要だとは知らなかった。仏具屋の宣伝には「ご詠歌には、楽器として鈴鉦(振鈴)と鉦吾(鉦鼓)を用います。振鈴は手で振り鳴らし、鉦鼓は撞木で鳴らします。」とあった。

     御詠歌のテープ流るる薄暑かな  蜻蛉

     御詠歌については全く無学だからネットで調べてみると、宗派によってさまざまな流派があるらしい。そして十八世紀までは順礼歌と呼ばれていたと言う。秋田でこれをフダラクと呼ぶのは、第一番「補陀洛や岸打つ波は三熊野の 那智のお山にひびく滝津瀬」から来ているだろう。
     推定樹齢五百年以上のツゲ。「そんなに大きくないね。」「ツゲは刈り込むんですよ。」山門に続く石畳は四国八十八箇所御砂踏みとある。「札所と弘法大師はどういう関係?」「空海が開いたとされる寺を巡るからね。」
     真っ黒な山門は外桜田にあった薩摩藩中屋敷のものを移設したのだ。戒壇石の「不許酒肉五辛入院内」の文字が珍しい。禅院の「不許薫酒入山門」が一般的で、真言宗寺院ではこの戒壇石は余り見かけない。参道には「安行桜」の立札が立っている。「ここは桜が有名なの」と千意さんも保障するように、長い参道は桜並木になっている。

    安行桜は染井吉野よりも一足早く満開を迎えます。沖田桜とも呼ばれる安行桜はピンクの色彩がやや濃く、花が少し小ぶりで、遠景ではやわらかいイメージに映ります。密蔵院では数十本の安行桜が境内の要所に植林され、早春に美しい景観を楽しむことができます。春のお彼岸に早咲きの安行桜が満開になるので、多くの参拝客で賑わいをみせます。

     「実が生ってるわ。」黒い実がたくさんついている。「食べられるかい?」「渋いけどね。」密蔵院の駐車場が何ヶ所もある。あれだけの墓地があると言うのは、それだけ檀家の数も多いのだろう。儲かっているのだ。
     「安行の由来は何ですかね?安らかに行くって事かな。それでお寺が立派だ。」およそ五百年前、この地域の開発領主に中田安斎入道安行という人物がいた。それが自分の名を採って村の名にしたと言うのが『新編武蔵風土記稿』の説明である。また金剛寺(川口市安行吉岡)の由緒に、「当寺は明応五年(一四九六)中田安齊入道安行開基す」とあるらしい。
     そして安行原自然の森に入る。川口市安行一七二一番地。「自然の森」と言うより斜面林を生かした公園である。シャガの群生地と言うがもう時期は過ぎたのではないか。雑木林から階段を下りて低地に入ると、それでも僅かにシャガが残っていた。「シャガがありました。」カキツバタも咲いている。

     これで今日のコースは終わった。県道一〇三に出る。「バスに乗りますか、駅まで歩きますか?」「駅までどのくらいなの?」「三キロかな。」バスは一時間しかなく、次は四十分後だ。それなら歩いているうちに着いてしまう。「歩こうよ。」
     先を行くハコサン、ダンディ、ドクトルはあっという間に見えなくなった。「年寄りは元気だね。」「あれは斎場かな?」そういう風に見えるのだが、実は安行公民館だった。「建物の色合いが斎場みたいだものね。」
     「キョウチクトウが咲いてるわ。」ハイジの言葉で左手を見ると確かにキョウチクトウだ。真夏の花ではないか。「この辺、午前中に歩いたよね。」興禅院を過ぎ、埼玉県花と緑の振興センターに着いた。宗匠はここでいったん解散を宣言する。ここまで一万四千歩だ。宗匠の当初の計画では六キロのコースだが、既に八キロ程度は歩いたことになるだろう。千意さんはここの駐車場に車を置いていると別れていった。
     外環道を潜ったところで県道から逸れて自然の残る道を行く。「こういう道があるから嬉しいね。」ほぼ四十分歩いて戸塚安行駅に戻った。「アレッ、東川口じゃなかったの?」「そこまでは歩けないよ。」一万七千歩。十キロというところか。
     駅の階段入口にハコサンがしょんぼり座っている。ダンディとドクトルは帰ったそうだ。オカチャンは赤羽方面に向かった。残りは埼玉高速鉄道に乗って一駅、朝出発した東川口駅まで戻った。もう四時二十分だ。オクチャン夫妻とハイジはここで別れていった。
     和民(魚民だったか)は以前来た時には五時開店だったが、最近四時開店になったらしい。「開店時間が紙を貼って訂正してあるよ。」姫が靴を入れようとした下駄箱は蓋がなくなっていた。七時に予約が入っているから二時間にしてくれと言われるが、充分である。
     冷たいお絞りで頭を拭くと気持ちが良い。これは高齢者の男でなければできないだろう。ビールが美味い。冷奴はメニューにはないが作れると言うので半丁を二人で分ける。一刻者を二本空け、最後は焼きそばとピザだ。一人五千円。そんなに食べたろうか。「最後のピザが余計だったんじゃないか。」しかしレシートを点検していたスナフキンが気付いた。「飲み放題チャージが付いてる。」それはおかしい。店員を呼び確認させる。
     「修正しました」と、女の子がニコニコしながらレシートを持ってくるのはいかがなものか。「まず謝るのが先じゃないか。」「すみません。」結局、一人三千円であった。これならいつも通りだ。それにしても、スナフキンが気付かなかったら二千円も余計に払ってしまうところだ。
     「もう一軒行こうか。」スナフキンは、二千円が戻って得をした気分になっているのではないだろうか。姫、マリー、スナフキン、ロダン、蜻蛉の五人は魚民(和民だったか)に入って黒霧島を飲む。結局ここで二千円を使って、なんとなく平仄が合ったような気がしてくるのが不思議だ。
     マリーは高速鉄道、姫は武蔵野線で越谷方向に、ロダンはトイレに行ったから、スナフキンと二人で府中方面行きに乗る。話し込んでいるうちに一駅乗り過ごして新座になってしまった。
     慌てて電車を降りる。この駅は対面式のホームだから階段を下り上りしなければならない。ベンチに座り五分程待って電車に乗り込もうとした時、「蜻蛉さん」と声がかかった。ロダンである。武蔵浦和で降りるべきロダンは何故ここにいるのか。働き過ぎで疲れているのだ。
     「座っちゃダメだよ。寝ちゃうからね。」「分りました。座りませんよ。」私は一駅で降りる。「座っちゃダメだからね。」吊革につかまったロダンの体が揺れている。

    蜻蛉