文字サイズ

    近郊散歩の会 第三回 鴻巣
    平成二十九年六月二十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.07.02

     水曜日にはかなりの雨が降りどうかと思ったが、今のところ空梅雨気味で今日は雨の心配はなさそうだ。鴻巣のことは殆ど知らずに企画したので、私が選ばなかったコースでもっと見所があるかも知れないが、それは勘弁して貰おう。下見は一度しかしていないが、まず間違えようのない道だ。集合場所はJR高崎線の鴻巣駅だ。
     鶴ヶ島からは東松山に出て、鴻巣行きのバスに乗る方法もある。それが一番安いのだが、バスは乗り慣れていないので川越、大宮を経由する道を選んだ。
     早めに家を出たのに、大宮駅の連絡通路でスナフキンと一緒になった。「まだ早いからそこの書店でも覗こうかと思ったんだ。」私はリーダーだから多少は早めに着いておきたい。「それじゃ行こうか。」十一番ホームに下りようとして止められた。「そっちじゃないよ、八番線だ。
     快速アーバン高崎行きに乗り、鴻巣駅には九時二十一分に着いた。「まだ誰もいないだろう。」しかし階段を上がると、ロダンがトイレに向かう姿が見えた。「じゃ俺も」とスナフキンもそちらに向かい、私は改札を出て外に降りる。煙草を吸うためである。
     改札口に戻ると小町がいた。「久し振りだね。」「近いから。」中将は今日も犬の世話をしているか。カズチャンも随分久し振りだ。その二人に加えマリー、ハコサン、オカチャン、ロダン、千意さん、桃太郎、マリオ、スナフキン、ヤマチャン、蜻蛉と十二人が集まった。
     「歩いて来たからものすごい汗。」千意さんはまさか蓮田から歩いて来たのではあるまい。十キロ以上はある筈だ。「車を市役所に置いてきたの。」最近千意さんは車が多い。二時間近く電車に乗って来た桃太郎は尻が痛いと言っている。マリオも「遠かったなーッ」とぼやく。「二時間はかかりませんけどね。」
     あんみつ姫からは「五十肩」のため無念の欠席と、一昨日メールが入っていた。「六十肩」とは言わないのか。「五十肩は病名だから、実際の年齢とは関係ないんですよ」とロダンが力説する。マウスを動かすにも痛みが走ると言うから重症だ。

    中高年の人が悩まされる肩の痛み、いわゆる「五十肩」は、五十歳代を中心とした中年以降に、肩関節周囲組織の退行性変化を基盤として明らかな原因なしに発症し、肩関節の痛みと運動障害を認める疾患群と定義されている(広義の五十肩)。五十肩には特に誘因が認められないことが多く、ときに軽微な外傷の繰り返しの後に肩の不快感や疼痛で発症する。好発年齢は四十~六十歳代である。(東北大学整形外科教室)

     立ち食い蕎麦屋の匂いが強烈で、朝飯はちゃんと食って来たのに食欲をそそられる。「弁当持って来なかった。」マリオが駅の売店に入ろうとすると、「どこかコンビニで買いましょうよ」とハコサンが止めている。しかし昼までのコースにコンビニはない。桃太郎も弁当を持ってきていない。「それじゃ、弁当のない人はうどん屋で食べてください。食後に弁当組と落ち合いましょう。」鴻巣は川幅日本一に因んで川幅うどんというものを売り出しているから、話のタネにはなるだろう。

     定刻になったので出発する。東口には花火の四尺玉のモニュメントが置かれている。ロータリーの左には映画館も入る大きなショッピングモールがあり、その一階に「華の舞」があった。「何時からだい?」「全日十一時から。」「それじゃ大丈夫だな。」そのすぐ先には「庄や」もある。これで今日の反省会は鴻巣で決まった。
     「随分変わりましたね。昔、免許センターに来た時はもっとゴチャゴチャしてた。」私は鴻巣免許センターには来たことがないのでその頃を知らない。「更新は最寄りの警察署で済むからさ。」このショッピングモールは平成十九年(二〇〇七)十月開業だから、オカチャンは十年以上来ていないことになる。「埼玉の免許センターは鴻巣だけかい?」「そうだよ。」「私は二度ほど紛失して再発行に来ました」と言うロダンは自慢にならない。
     駅通り再開発の工事現場がやたらに広い。「工場でもあったんでしょうか?」こんな駅前で、しかも旧街道に接して工場があったとは思えない。鴻巣市のHPで工事前の写真を見ると、殆んどが住宅である。こんな場所に大型の複合施設を作る必要があるのだろうかと、余計なことを思ってしまう。

     同地区の地権者などでつくる再開発組合は二〇一六年三月に組合設立の認可を埼玉県から受け、約一・二ヘクタールの土地に共同住宅と商業施設・立体駐車場を建てる予定です。また、中山道に面する千八百五十平方メートルは多目的公園として整備されます。
     なお、商業施設は一階部分に約十五店舗、住宅戸数は百九十五戸の計画です。
     駅通り地区は二〇一七年に工事着手し、二〇一九年の完成を目指しています。(「鴻巣NEWS」http://konosu-news.jp/government/post-2762.html)

     駅入口の交差点で旧中山道に入り、ここを左(北西)に曲がる。歩道には、袋を咥えたコウノトリの絵が描かれたタイルがはめ込まれている。最初は法要寺(真言宗智山派)に入った。実は計画ではこの先の鴻神社を先に回る筈だったのが間違えてしまった。
     慈雲山医王院。鴻巣市本町二丁目四番四十二号。長禄元年(一四五七)亮恵上人による開基と伝える。「山門の瓦の紋に注目してよ。」慶安年間(一六四八~一六五二)、加賀藩の参勤交代で法要寺を利用することになり、前田家の紋の使用を許された。
     「ホントだ、梅鉢紋だね。」実は宿所は勝願寺と定めていたのだが、門前下馬札を見落として参道に乗り入れ、勝願寺に宿泊を拒否された。それで急遽この寺に泊まったというのだが、ホントかね。
     参勤交代は軍事演習だから力を誇示する狙いもあって、加賀藩の人数は三千人前後、最大では四千人にも上ったと言われる。これは全国の大名中最大の規模だった。本陣だけで賄える筈はなく寺院を使うのは当然のことで、予め複数の寺に予約を入れていただろう。それにしても鴻巣宿の人口二千二百人とすれば、一挙にその倍以上に膨れ上がるのである。受け入れる方も容易ではない。江戸には四月中に到着しなければならず、中山道を利用する他の大名も含めれば、この時期の各宿場はてんやわんやの騒ぎになった。
     加賀藩の場合、北国下街道(金沢・富山・上越・長野・信濃追分)から中山道を経由して、金沢から江戸まで百十九里を十二泊十三日で歩いた。一日十里である。昔の人は良く歩いたものだが、これだけの人数だから費用も五千両を越える。一両十万円とすれば五億円である。
     狛犬の頭には、角が生えていた形跡だけが残っている。阿形の方は突起が残っていて、吽形の方は穴になっていて小さな石ころを置いてある。参道を行くと、左側に並ぶ新しい六地蔵が不思議だ。石を卵の殻のように刳り貫いて中に浮き彫りにしたものは、どう見ても地蔵ではなく火焔光背を背負った観音坐像である。「こんなの初めて見るね。」これは私たちが無学なので、この形を菩薩形と言い、密教では地蔵をこのような像に作るらしい。胎蔵界曼荼羅地蔵院に描かれた姿だと言う。それにしては余りお目に掛かったことがない。大定智悲地蔵(地獄道)、大徳清浄地蔵(餓鬼道)、大光明地蔵(畜生道)、清浄無垢地蔵(修羅道)、大清浄地蔵(人間道)、大堅固地蔵(天道)である。
     「こっちの狛犬も古いね。」台座には「市神街」と彫られている。鴻巣宿の真ん中にあった市神社の狛犬である。市神社は明治三年(一八七〇)の強風で壊滅したと言う。庚申塔が並ぶのは、街道のあちこちから集めたからだ。一番古いものは寛政二年(一七九〇)の銘があり、これも市神社の社前に置かれていたものだ。
     石をつるつるに磨いたベンチがある。「夏は熱くなるね。」ほかに砲弾をカットして磨いたような形の石も並んでいる。ネムノキが大きい。この花を何年振りに見るだろう。「宮城まり子はまだ生きてたかな?」「生きてるわよ。」調べると、今年ちょうど九十歳だ。宮城まり子は歌手・女優としては大成しなかったが、ねむの木学園を設立したことで福祉の象徴のような存在になった。吉行淳之介の愛人だったことなんて今では覚えている人もいないだろう。
     「これはナツツバキだよね。」桃太郎の言葉で思い出した。幹がサルスベリのようにつるつるしていて、白い花が咲いている。シャラ(沙羅)ノキとも呼ばれるらしい。これをサルスベリと言う地方もあるようだ。
     柔術の深井景周、彰義隊の関弥太郎の墓がある筈だが、たぶん誰も知らない名前なので墓地には行かない。関弥太郎(関の弥太っぺと間違えそうだ)は上野戦争の後、東北を転戦して五稜郭の敗戦の後、鴻巣に移り住んで長唄の師匠として暮らしたと言う。

     街道には白壁の蔵と二階家が並ぶ旧家(田沼家?)が残っている。この辺りが問屋場跡のようで、そのすぐ先が鴻神社だ。鴻巣市本宮町一丁目九番地。「ナニ神社って読むの?」「コウ神社。」こうのとり伝説と書かれた薄紫の幟が立っている。
     明治六年(一八七三)、ここにあった竹の森雷電社に氷川社、熊野社を合祀し鴻三社と号したのが始まりである。この辺りはかつて雷電町であり、バスの停留所も「雷電神社前」のままだ。明治六年以来変わっている筈なのに、町の人は律儀である。明治三十五年(一九〇二)には更に日枝社、東照宮、大花稲荷社、八幡社を合祀して、鴻神社と改めた。
     鴻巣の地名は国府の洲に因るというのが有力な説で、境内の由緒にも記されている。

     「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に国府関連の施設があり、荒川や元荒川などを利用した水運も盛んだったと推測されることから、「国府の洲 こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。

     笠原直使主は、安閑天皇元年(五三四)に起きた武蔵国造の乱によって歴史に登場する。稲荷山古墳が築かれた時代で、古墳時代の末期に当るが、そもそもこの頃の東国のことは良く分らないのである。笠原直使主と同族の笠原直小杵が争い、小杵が上毛野君小熊の援助を求めたのに対し、使主は屯倉を献上する条件でヤマト王権に助けを求めた。その結果、使主が勝利し武蔵国造となったというのである。

     この話は直接に武蔵国造一族間の争いを示すものであるが、ヤマトの王権と結んだ使主に対し、それと争った小杵が上毛野君小熊に支援を求めたように、その争いがヤマト政権と上毛野勢力との対立を背景としている点が注目されるところである。(略)
     さらに(甘粕健)氏によれば、武蔵の歴代の最高首長の古墳は四世紀後半から五世紀代には主として南武蔵の諸地域を移動し、ときに北武蔵の比企地方にも移動すると言う状況で、連合する諸勢力の間で首長権が回り持ちで継承されていたと思われるのに対し、六世紀以降は中心が北武蔵に移り、荒川上流の埼玉古墳群の周辺に首長権が固定するという。笠原直使主の笠原は、のちの武蔵国埼玉郡笠原郷の地に由来するとみられるが、それが現在の埼玉県鴻巣市笠原付近を指すとすれば、それはまさに埼玉古墳群の東南方、わずか七、八キロメートルの地にあたるのである。(鎌田元一「大王による国土の統一」『日本の古代』六「王権をめぐる戦い」)

     しかし、その当時の国造が「国府」と呼ばれる程の官衙を設置したかどうか。怪しいのではあるまいか。その時代に全国各地に屯倉が集中して設けられたことは確実のようで、継体天皇二十一年(五二七)に起きた磐井の乱と合わせて、ヤマト王権が各地の支配権を確立して行くエポックだったとみる説が多い。

     ・・・・・国造制はミヤケ制と有機的な関係をもち、王権が地域の首長層を高次的に編成した地域支配制度であったことを確認している。その上で、国造の任命過程を記したとされる磐井の乱と武蔵国造の乱の両史料を分析し、国造制は、各地域における首長的秩序の動揺の後、地域が王権の支配秩序に再編成されるなかで成立したことを追究している。六世紀前半の磐井の乱後、王権の支配が及んだ地域にはミヤケが置かれて、各地域の首長層は王権と収取関係を築いたこと、さらにそのミヤケの管理を国造が担ったことを析出した。
     これにより、ミヤケの設置を通じて地域の首長層と王権との間に支配・隷属関係が形作られ、それまで王権と関係を有していた有力首長を中心にして、地域の首長がミヤケの管理と地域の支配を王権から承認されることこそが、国造に任命されることであると位置づけた。(大川原竜一「国造制の成立とその歴史的背景」『駿台史学』 第百三十七号・二〇〇九年九月)

     もうひとつ、高台の砂地「コウ(高)のス(洲)」が由来となったと言う説がある。鴻巣から桶川にかけては大宮台地上に位置することから、一番地味な説だがなかなか説得力のある意見ではなかろうか。
     しかし更にコウノトリに因む伝説があった。国造のややこしい説明や高台なんて無味乾燥な説より一般受けするだろうから、鴻巣市はこちらの方を広めたいのだろう。鴻巣市のHPでは、こちらを地名由来としている。
     氷川社の地には大きな樹木があり、お供えをしないと祟りをなすと怖れられていた。巨樹古木は神の憑代である。その樹木にコウノトリが巣をかけタマゴを温めはじめた。そこに大蛇が現れ、タマゴを食おうとしてコウノトリとの戦いとなり、大蛇は撃退された。以後、この地に災いは無くなり、コウノトリが巣をかける地と言う意味で「鴻巣」と呼ばれることになったと言うのが伝説である。コウノス地名が先にあり、それに付会したものだろう。
     「コウノトリを見たのはどこだったでしょうか?」カズちゃんに訊かれても答えられない。記憶力が低下しているのだ。調べてみると、平成二十七年六月に歩いた野田の「こうのとりの里」であった。因みにコウノトリを漢字で書けば鸛である。
     「今日は七五三とは違うよね。」「初参り?」「大安かな。」赤ん坊を抱いてお参りしている人が多いのだ。コウノトリに安産祈願をした人の御礼参りであろう。しかしヨーロッパのコウノトリは赤ん坊を運んできても、日本のコウノトリはそんなことはしないのではないか。「こうのとりのたまごお守り」なんてものもある。
     大きな夫婦イチョウがある。注連縄を張った松の幹が固くごつごつしている。「立派だね。」しかしこの注連縄はビニール紐で編んだもので、実にお手軽だ。「ナンジャモンジャの木はどこにあるのかな?」桃太郎がおみくじを売っている巫女に訊いた。「そこですよ。」ナンジャモンジャの木(ヒトツバタゴ)の前には小さな祠を建て「なんじゃもんじゃ稲荷」と名付けている。 
     彫の深い青面金剛は宝暦四年(一七五四)のものだ。恐らく三猿がいた筈の台座が失われているので、金剛に踏みつけられた邪鬼が一番下になっている。五円玉が一枚と一円玉が三枚供えられていた。

     「それじゃ出発します。」中山道を戻る。「アレッ、俺の名前の花屋がある。」森生花店の看板の「花」だけが赤字だから、「森生」花店と読めるのだ。「珍しいよな。」実は森が名字なので、この花屋も、まさかそんな名前の人間がいるなんて思いもしなかったに違いない。一部を赤くするなら「生花」を赤くすべきではないか。
     鴻巣駅入口交差点の南の角には中山道鴻巣宿の標柱が立っている。「熊谷宿まで四里六町(十六・四粁)・桶川宿まで一里三十町(七・二粁)」。鴻巣宿は慶長七年(一六〇二)、北本宿を廃止して新たに設置された。日本橋より十二里八町六間(約四十八粁)。天保十四年の「中山道宿村大概帳」では町並み十七町(一・九キロ)、宿内人数二千二百七十四人、家数五百六十六軒、本陣一、脇本陣一、旅籠五十八軒である。「日本橋から数えて七番目のヤドだって。」「シュクと読む。」この辺に脇本陣があったようだ。
     「和宮は鴻巣で昼食をとったんだよ。」ハコさんは詳しい。文久元年(一八六一)十一月十三日。前夜は熊谷宿泊まりで、この日は桶川宿に泊まったから一日十六キロ強を歩いた訳だ。「行列は五十キロにも伸びたんだよ。」それが本当なら先頭が鴻巣宿に到着した時、最後尾はまだ倉賀野宿を出たばかりだ。桶川市では十一月の市民祭りに、和宮行列を行っている。
     仲町会館に曲がる角に本陣跡碑が立っている。街道にはコンビニの影もなく、粉屋や製麺所は見かけるがうどん屋も蕎麦屋もない。「コンビニは規制してるんじゃないかな。」木造瓦葺きの木村木材工業、地下足袋、軍手の野田屋。三木屋菓子店の辺りが高札場だったようだ。洋食屋メイキッスと大黒屋種苗店の間の角を曲がると、車一台しか通れない路地の商店街になっている。御成町レンガ通りと言うようだ。
     角から四五軒目にうどんの長木屋がある。[まだ時間は早いけど、うどんを食べる人はここを覚えておいてください。」鴻巣市本町五丁目五番二号。明治二十四年(一八九一)創業の店だ。飲食店はこの路地に集中しているようで、手前には居酒屋ごんべえ、向かいには和菓子の伊勢屋と和食の大正家(大正元年創業)が並んでいる。焼鳥の助六、牛乳店。カラオケスナックは二階の窓が壊れたままになっている。
     御成町の由来を記したプレートの前で、「この辺り一帯に鴻巣御殿があったんだ」と説明する。ホルモン焼きのしちりん亭の向こうに東照宮の青い幟が見えた。その脇の波型トタンを張った倉庫のような建物と、ブロック塀に金網を載せた駐車場の塀との間、僅か五十センチ程の幅が参道だ。脇に「東照宮」の石柱が立ち、ブロック塀の上に「日本一小さい東照宮入口」の看板が取り付けられている。「エーッ、こんなところ行けるのかい?」行けるのだ。十メートル程で突き当たると、倉庫の前に小さな石造の鳥居と石祠がある。

     鴻巣御殿は文禄二年(一五九三)年、徳川家康によって鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として建てられ、その敷地は一町四反歩(約一・四ヘクタール)に及んだ。
     その後、秀忠、家光の三代に渡って将軍家の鷹狩の際の休泊所として利用されたが、寛永七(一六三〇)年頃を最後として以後使用されなくなった。
     明暦三(一六五七)年の江戸大火後は、その一部を解体され江戸城に運ばれ、天和二(一六八二)年頃には残りの建物も腐朽して倒壊し、元禄四(一六九一)年には御殿地に東照宮を祀り除地とした。
     その東照宮も明治三十年代に鴻神社に合祀され、旧御殿地はその後民有地となった。
     最近まで鴻巣御殿の比定地も明らかでなかったが、平成六年の試掘調査によってその一部が確認された。鴻巣御殿は「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)に描かれ、その様子を知ることが出来る。

     鴻巣御殿跡に祀られた東照宮である。後ろがつかえている。「どんどん前に詰めてよ。」最後尾が漸く鳥居まで入ってくると、その後ろから知らないオジサンが何やら説明しながら現れた。「以前は鴻神社に移したこともあったんですが、自治会の総意でここに戻したんですよ。」石祠の隣のプレハブは町内の集会所になっていた。
     「その水鉢、注意する人がいないんだけれど。小池隼人が寄進したものです。」奉納手水石一基、享保十二年(一七二七)三月朔日と、小池軍八郎の名が見えるが、隼人とは読めない。「そうですよね、軍八郎ですね」とロダンも確認する。折角説明してくれるのは有難いことだが、地元の人の話を鵜呑みにはできない。裏を取る必要がある。
     岩槻太田氏に仕えた小池長門守久宗が太田氏と共に北条氏康に臣従し、天文二十年(一五五一)頃この地に砦を構えた。そして北条氏の命により原野を開発して市宿新田と名付けたが、天正十八年(一五九〇)北条氏滅亡後、小池氏は伊奈忠次に仕えた。
     慶長七年(一六〇二)に本宿村(北本市)の宿場を移して鴻巣宿と改称したのが鴻巣の始まりである。文禄二年(一五九三)年、久宗の孫である小池隼人助がその砦跡の地を家康に寄進して御殿が建てられた。水鉢を寄進した軍八郎はその子孫で鴻巣宿の本陣家である。
     「四尺玉はどうですか?」「去年は筒が破裂して。破裂しないでちゃんと上がったのは数回ですね。」しかし鴻巣市では「ギネス認定 世界一の四尺玉」と宣伝している。「パンフレットにある写真はたまたま上手く上がった時のものでしたか。」

     埼玉県鴻巣市の荒川河川敷で(二〇一六年十月)八日夜に行われた「第十五回こうのす花火大会」(鴻巣市商工会青年部主催)で、トリを飾る「四尺玉」が打ち上げに失敗し、地上付近で爆発した。花火を打ち上げる煙火筒(高さ約六メートル)が破損するなどしたが、鴻巣署によると、けが人はなかった。
     四尺玉は直径約一〇五センチ。鴻巣では二〇一四年の第十三回大会で初めて打ち上げに成功し「世界最大の打ち上げ花火」としてギネス世界記録に認定された。(「朝日新聞」二〇一六年十月十日)

     実は四尺玉の打ち上げに成功してギネスブックに載ったのは鴻巣が初めてではない。新潟県小千谷の片貝祭りで昭和六十年九月に成功し、「世界最大の打上花火」と認定された。鴻巣の四尺玉は「世界で最も重い花火」として認定されている。重さは四百六十キログラム。片貝の方は四百二十キログラムらしい。
     「直径八百メートル開きます。」「相当金がかかるでしょう。」「市は金を出してくれない」とぼやきながらオジサンは戻って行った。「鴻巣は奥が深いですね。知りませんでした。」「イヤー、ここに来ただけでも良かったよ。」。「もっと宣伝すればいいのにね。」こんな小さな社がそんなに喜ばれるとは思わなかった。
     調べると、千葉県船橋市にも「日本一小さな東照宮」を称する神社があった。船橋御殿跡に建てられたというのはここと同じ事情だが、写真を見ると、小さいながら社殿がある。ここには小さな石祠しかないから、日本一の称号は鴻巣にあると断定したい。

     もう一度街道に戻って南に向かう。本町の交差点を過ぎた次の角から右奥を見ると、七八十メートル先に山門が見える。これが参道で両側には赤茶に塗ったトタン張りの二階家が多い。山門に突き当たると勝願寺(浄土宗)だ。鴻巣市本町八丁目二番三十一号。
     写真屋があるのは、法事の記念写真を撮るためだろうか。「昔はこういう写真屋がどこでもあった。」秋田でも入学、卒業など記念写真を撮るのは岩田写真館と決まっていた。今は川原だろうか。
     ここは浄土宗関東十八檀林の一つで、山門には「栴檀林」の額が掲げられている。駒込の吉祥寺(曹洞宗)にもこの額があった。「壇林」は「栴檀林」の略で、宗派に限らず学問所を言う。
     文永年間(一二六四~一二七四)、浄土宗第三祖記主禅師良忠が北条経時から武蔵国足立郡箕田郷の寄進を受け、登戸村に寺を建てたのが始まりである。その後真言宗豊山派に改めたものの、戦国の騒乱の中で荒廃した。年代ははっきりしないが、戦国時代の末に円誉不残によってこの地に浄土宗として再興された。鴻巣市登戸には今でも同じ勝願寺の名で、再興された真言宗豊山派の寺がある。
     家康が手厚く保護したので三葉葵の紋を許された。その格式が加賀藩の下馬札無視を咎めたものか。百万石の加賀様でも、葵の紋には勝てないのだ。山門を潜ると右の塀に古めかしい門扉が設けられ、案内掲示があった。紋は丸に三つ柏。下見の時には気づかなかった。丹後国田辺城主牧野家累代の墓である。扉の穴から覗き込むと墓石が落ちて転がっている。手入れする人がいないのだ。

    天正十八年(一五九〇年)に康成は武蔵国足立郡石戸に五千石を与えられ、康成の三男の信成は慶長四年(一五九九年)父の遺跡を継ぎ、慶長十一年(一六〇六年)より大番頭、小姓組番頭、書院番頭などを歴任した。寛永十年(一六三三年)の加増で大名に列し、武蔵国石戸藩一万一千石として立藩する。正保元年(一六四四年)の加増で関宿城主となり、下総国関宿藩入封となる。信成の子親成が段々に加増され、寛文八年(一六六〇年)に封地を移されて丹後田辺藩三万五千万石の藩主になったのである。(ウィキペディア「丹後田辺藩」)

     「牧野って老中にいるよね。」なんとなく頷いてしまったが、老中になったのは越後長岡藩の牧野忠精、忠雅、忠恭であった。牧野氏は、三河国宝飯郡中條郷牧野村に発祥した。牧野康成の長男に始まる長岡牧野家が宗家で、その他に笠間藩・小諸藩・三根山藩などに分かれた。
     その先を右に曲ると立派な楼門(仁王門)がある。楼門は立派なのに、中にいる仁王がちょっと情けない。元は結城城から移設された門に運慶作とされる仁王が立っていたが、明治十五年の火災で焼失した。大正九年に再建された際、秩父三峯神社からこの仁王を贈られたと言う。「だけど、ちょっと漫画っぽいからな。」更に、折角もらった仁王が大きすぎてこの門に入らず、足を切ったという馬鹿馬鹿しい話もある。
     墓地の前には、小松姫、真田信重、信重室の三基の宝筺印塔が並んでいる。小松姫は本多忠勝の娘で、家康または秀忠の養女として真田信之の正室となった。「真田はしたたかだよな。」家康が勝願寺の二世・円誉不残に帰依しており、小松姫も円誉に帰依した。重信はその三男、正室は鳥居忠政の六女である。因みに円誉不残は慶長十一年(一六〇六)に後陽成天皇から紫衣を与えられた名僧であった。中興の祖であるが敢えて自らは二世と称し、師の惣誉清巌を初世としたものだ。
     関が原で真田家が東西に分かれ、真田昌幸と信繁が上田に戻る際、小松姫が守る沼田城に立ち寄ったが、頑として入城を断ったと言う話が有名だ。ウィキペディアが掲載する小松姫の肖像画は、甲冑を纏って巴御前のような格好をしている。病を得て江戸から草津に湯治に向かう途中、鴻巣宿で没した。その息子の信重もどういう訳か鴻巣で没した。
     少し離れて、千石秀久の小さい墓(宝筺印塔)もある。千石秀久は齋藤竜興に仕え、その滅亡後は信長の指示によって豊臣秀吉に仕えた。九州征伐の敗戦で秀吉の勘気を蒙り改易されたが、小田原征伐に参陣して抜群の軍功を上げて復帰した。関ヶ原以降は家康の信頼を勝ち取り、信州小諸の初代藩主となる。
     慶長十九年(一六一四)江戸から小諸に帰る途中、鴻巣宿で没した。なんだか鴻巣で没した人ばかりだ。取り敢えず勝願寺で殯(モガリ)を行い、小諸の歓喜院(宝仙寺)に葬ったが、その際に分骨したと伝える。
     墓地入口脇には大きな芭蕉忌千句碑が建っていた。鴻巣宿石橋町(現・本町六丁目)の俳人で酒造家、横田柳几(布袋庵)が芭蕉翁七十年忌に当たって一日千句を詠み、それを天明七年に納めて建立した碑である。しかし一日千句詠むというのは蕉風とは全く思想が違うだろう。西鶴の千六百句とか四千句の例にもあるように、芭蕉以前の談林風ではないか。

     けふはかり人も年よれ初時雨  芭蕉

     「嵐山光三郎が一杯書いてるだろう?」私はかつての嵐山の文体が苦手なので知らなかったが、それにしてもスナフキンは良く読んでいる。調べてみると『芭蕉紀行』、『悪党芭蕉』、『芭蕉という修羅』などがある。
     墓地に入れば、伊奈忠次夫妻・伊奈忠治夫妻の墓がある。石の玉垣に囲まれた広い墓域で、宝筺印塔も大きくて立派だ。忠治は分家で、本家の方は川口市赤山の源長寺に累代の墓がある。源長寺は忠治が不残を招いて開いた寺だから、親戚のようなものである。
     ここの説明にも「関東郡代」と記されているが、最近では関東郡代の職がおかれるのは寛政四年(一七九二)のことで、伊奈氏の改易の後になると言う説が定着している。伊奈忠次の職は関東代官頭、忠治は関東代官である。伊奈氏は十二代忠尊までその職を世襲するが、お家騒動を起こして改易されたのだ。
     伊奈町の小室陣屋跡は荒れ放題の林と化していたが、赤山城跡は少しだけ整備されている。「イヤー、伊奈氏には水戸も随分お世話になってますよ。」関東各地に残る備前堀は備前守忠次に因む。「私も知らなかったんですよ。水戸には中山備前守がいるから、そっちかと思ってました。」
     「中山備前って、附家老ですよね。飯能に墓がなかったかな。」桃太郎は人の知らないことを知っている。私もロダンも知らなかった。調べてみると確かにそうで、中山氏の本貫の地は武蔵国入間郡加治郷(飯能市)で、最初は北条氏に仕えていた。今でも中山の地名がある。元慶年間(八七七〜八八五)中山丹治武信が丹生社、加地神社や智観寺(真言宗豊山派)を創建したことから、智観寺に中山信吉(水戸藩初代附家老)を始めとして常陸松岡藩二万五千石の中山家累代の墓があると言う。
     「なんだか残念なお寺だな」とスナフキンが呟く。歴史があるのになんとなく雑然と荒廃した印象なのだ。しかし江戸時代にはそうではなかった。結城御殿の殆どの建物を移築し、大伽藍として存在していたのだ。

    江戸期の勝願寺の寺勢を象徴するものとして、本堂を中心とした伽藍がある。これは家康の次男・結城秀康が慶長五年(一六〇〇年)九月の関ヶ原の戦いの論功行賞により下総国結城から越前国北の庄へ移封された際、家康の命により結城城の御殿、隅櫓、御台所、太鼓櫓、築地三筋塀、下馬札を移築したもので、さらに結城城下の華厳寺にあった鐘も移築された。これらの建物の移築は伊奈忠次が作事奉行として携わったと伝えられている。
    御殿は百十四畳敷きの大方丈「金の間」、九十六畳敷きの小方丈「銀の間」に分けられ、大方丈は将軍来訪の際に使用されたことから「御成の間」とも呼ばれた。また、「金の間」には家康の像が、「銀の間」には黒本尊と呼ばれる秀康の念持仏が置かれていた。(ウィキペディア)

     十一時二十分。長木屋は十一時半開店とさっき確認している。「それじゃ、うどん屋に行く人はそっちに向って下さい。食べ終わったらひなの里に来てください。」「時間は?」「適当に。」
     本町コミュニティセンターの前には「人形の町」と書かれた時計が置かれていて、この辺から人形町になる。かつての上谷新田であろう。町名の通り人形屋が多くなってきた。マル武人形、森田人形製作所。吉国人形会館は閉まっている。臼井人形店。「とんでんがあるじゃないか。」その向かい辺りが鴻巣市産業観光館「ひなの里」である。鴻巣市人形町一丁目四番二十号。
     展示会館と白壁の蔵の間の中庭に入り込む。芝生を挟んで庇の下に椅子とテーブルがいくつか置かれているので、雨が降ってもここなら大丈夫と決めていたのである。「テーブル足りますか?」エプロンを着けたオジサンが鉄製の丸テーブルを少し付け足してくれる。「有難うございます。後で見学しますから。」
     弁当を終えたオカチャンはアイスコーヒーを注文して飲んでいる。片隅に店があるのだ。千意さんはいつの間にかカキ氷を食っている。煎餅が三種類ほど配られる。これを食べすぎると腹が一杯になる。ゆっくり休憩して展示コーナーや売店を回る。御所風に誂えた雛壇が素晴らしい。五月の下見の時には、これは六月には替えると言っていたのではなかったか。その他新旧の雛人形が飾られていて、「写真も良いですよ」と声を掛けられる。
     「吉見屋という人形屋でした。廃業した後を引き継いだのです。」ネットを検索すると、吉見屋人形店は八代三百年以上続いた老舗で、二〇〇八年まではきちんと営業していたことが分る。蔵は明治に建てられたもので、吉見屋時代に既に資料館として改装されていた。
     「アカベコの色ですね。」獅子頭、達磨、赤牛などがまとめて置いてある。「盛岡にも輸出しています。」これは移出の間違いだろうね。鴻巣の赤物製作技術は平成二十三年に国の重要無形民俗文化財に指定された。「赤は魔除けの色ですから。」

     江戸時代、ひな人形の町として関東でも屈指の鴻巣は、桐の産地でもありました。桐のタンスや家具を作った後に出る、おがくずと糊を混ぜた材料で原型を作り、全体を赤く塗り重ね、彩色を施します。これは、ひな人形の頭部とほぼ同じ製法です。
     昔から赤色の物は、魔を除けると伝えられ一種のおまじないから人形師によって赤物人形はされたと云われており、金太郎が熊にまたがった「熊金」、鯉にまたがった「鯉金」は子どもの無病息災を願って与える子どものお守り。真っ赤に塗られた獅子頭は家内安全、魔除けのお守りとして江戸中期から三百年以上の伝統を持っています。(鴻巣市HP)

     鴻巣の雛人形は元々、鴻巣宿と桶川宿との中間にある上谷新田(つまりこの辺り)で農閑期に生産されていたものだ。その始まりは天正年間、慶長年間、貞享から元禄年間とも言われている。人形の町と言えば、今では岩槻の方が有名だが、明治年間には岩槻より鴻巣の方が圧倒的に多かったと言う。それが逆転したのは昭和に入ってかららしい。
     「十軒店が有名だね。」ハコサンの言葉に、「それは浅草ですか」とロダンが訊いている。「日本橋だね。」江戸の中期、関東の三大雛と言えば越谷、鴻巣、十軒店を指したとも言われる。そうか、ハコサンは越谷の人だから、こういうことに関心があるのだ。ここに岩槻はまだ入っていない。
     因みに現在では国内最大のシェアをもつ岩槻雛について、岩槻人形協同組合は日光東照宮造営に関わった職人が定着したからだと言っているが、実は起源に様々な説がある。

    『埼玉県史』や『埼玉の地場産業』では起源は明らかではないとした上で、江戸時代後期の文化から文政年間(一八〇四年から一八三〇年)に人形師によって裃雛が考案されたことで世に知られるようになり、後に製造技術の流出を防ぐ目的や、岩槻藩の財政を補う目的から藩の専売品という扱いとなり発展したとしている。(ウィキペディア「岩槻人形」)

     土産物には川幅うどんがある。「これが川幅だよ。」幅十センチ程だろうか。「お店によって幅は違うんですけどね。」「どのくらい茹でればいいのかな?」「十分程茹でて下さい。縦に筋が入っていて、箸で簡単に細く割れます。」「十分か、買っていっても女房が作ってくれないと思うよ。」「川幅うどんって昔からあるのかな?」「違うだろう、町おこしだよ。最近だと思う。」
     「この冷麺も美味しいですよ。盛岡に売りに出しています。」スナフキンはそれを買った。私は話のタネに、川幅煎餅というものを買った。親切な店で、「こうのす歴史を歩く」という中山道の絵図をくれた。上谷新田(つまりこの辺り)から吹上まで、要所の寺社の説明もあって便利だ。
     十二時半頃、うどん組も戻って来た。「どうだった?」「どうもね。つるつるしてないから飲みこめない。」マリオは余り感激しなかったらしい。「噛むんですね。」「冷たいのもあったけど。」煮込まないと味が浸みこまないだろう。桃太郎が一緒だから当然ビールも飲んでいる。「ビールとうどんじゃ合わないよな。」しかし今の私もビールが飲みたい。今日は暑い。私は頭にタオルを巻いて帽子を被る。

     十二時四十分。予定には入れていなかったが、スナフキンが金剛院に行きたいと言うのでそちらに回る。どうせ急ぐ旅ではない。街道を少し南に行った所だ。「あれじゃないか?石灯籠が見える。」しかしここは神社だった。ちょうど女性が通りかかったので訊くと、「このすぐ裏ですよ」と教えてくれた。
     左に八幡神社、右に浅間神社が並んでいる。鴻巣市人形四丁目一番三十一号。浅間神社に置かれたゴツゴツした青面金剛は迫力がある。かなり厚みのある駒形だが、左肩の辺りが大きく抉れている。割れたというより、わざと抉ったように見える。お蔭で上方左腕が無くなってしまっている。デザインは稚拙だと言って良いだろうが、彫が深い。
     角行霊神の石碑があるので、ちょっと注意を促してみる。但し私がカクコウと言ったのは間違いで、スナフキンのスマホ検索でカクギョウと読むのが正しい。「カクコウって言ったら将棋じゃないか。」
     「角行は富士信仰の最初の人だよ。」「アレッ、鳩ケ谷でも見ませんでしたか?」ロダンが言うのは小谷三志のことで、日光御成道の途中で鳩ケ谷宿にその跡を見た。「あれは時代がもっと下る。幕末の人だよ。」

     富士講の元祖と仰がれる角行は、天文十年(一五四一)正月十五日、肥前長崎に生まれ、幼名を竹松、元服して長谷川左近藤原武邦と名乗る。(略)  常陸の水戸で金行という行者の弟子となった角行はいわば俗山伏である。加持祈祷を行として信徒を得ていた。永禄三年(一五六〇)以来、富士の人穴を住いとして人穴と周辺の湖水での水行、いろいろの体行を行って験を積んでいた。後年の富士講の教典の根本になる「体かたまる文・御心歌の文・ちかのとうの文・体わりの文・手水の文・身ぬきの文」などの唱詞を案じている。これは現在の富士講の教典にもあるが難解な文章で常人にはわからない。(略)
     藤原角行について書くことは多いが、ほぼ伝説の域に没入している人とて、正確な伝記はまとまらない。業績は、不眠の大行一八、八〇〇日、断食行二〇〇日、富士登山一二八回、御中道三三回、内八海外八海修行などとなっている。正保三年(一六四六)六月三日、人穴にて没。百六歳。墓所は各地にある。(岩科小一郎「富士講」民衆宗教史叢書 第六巻 『富士浅間信仰』)

     しかし富士講が全国に広まるには、およそ百年後の食行身禄を待たなければならなかった。身禄の三女花の弟子であり養子でもあった参行禄王から身禄派を引き継ぎ、不二道を起こしたのが小谷三志(号は祿行三志、鳩ヶ谷三志とも言う)である。しかし明治維新を挟む中で分裂合同を繰り返す。富士信仰は基本的に修験であって、神仏分離令の後に教派神道として生き残ったのが不二道系の実行教と、平田神道の影響を受け諸派を糾合した扶桑教、扶桑教から独立した丸山教などだった。
     中世以来神仏習合で生きてきた日本人が、強引な神仏分離によってそのメンタリティの転換を迫られたのである。しかし神仏分離政策は成功しただろうか。現代でも、日本人の大部分は神仏習合の世界に生きているのではないのか。
     裏に回れば金剛院(真言宗智山派)だ。高立山。寺号はない。鴻巣市人形四丁目三番一〇七号。首から上の病、耳の病にご利益があるパワースポットだと言うのが、スナフキンが立ち寄り買った理由だが、そんな風ではない。明るくて静かな境内だ。
     庭に入る門の蔭に綺麗な大小二基の板碑が立っていた。どちらも阿弥陀一尊種子板碑である。「これが阿弥陀様を表すんですか。」キリークである。「秩父の緑泥片岩だよね。それだけは知ってるよ。」関東の板碑は殆んど全てがそうで、その色から、青石塔婆とも呼ぶ。埼玉県には全国で最も多くの板碑があって、二万件以上が確認されているらしい。「板碑が造られたのは鎌倉時代から戦国まで。江戸時代にはない。」

     「それじゃ川幅日本一まで歩きます。三十分位かな。」街道を北に戻って本町の交差点を左折する。「後ろが大分遅れてる。」「ちょっと待とうか。」まだ歩き始めたばかりでこんなに長くなると、目的地までは結構大変だ。鴻巣名物奈良漬の店「漬金」がある。鴻巣市本町八丁目四番六号。「奈良漬けが名物なのかい?」「知らない。」私は奈良漬が苦手だ。
     高崎線の陸橋を渡るには階段を上らなければならない。「姫がいたら大変だったな。」「その時はちょっと遠回りだけど踏切を通る積りだった。」
     列が長くなってきた。小町とカズちゃんは大丈夫だろうか。千意さんは白いタオルで頭を覆い、サングラスをかけ、白のタオルで顔の下半分を隠している。「アラーの使者みたいだな。」千葉真一。私はそう思ったが、ヤマチャンはハリマオを連想する。しかしハリマオは頭に布を巻いて真黒なサングラスをしていたが覆面をしなかった。勝木敏之。当時はサングラスだけで変装になった。勿論テレビを見ている私たちはすぐに分るが、登場人物たちは、これだけでハリマオの正体が分らない。
     幼い私は『怪傑ハリマオ』によって、この世界には「正義」というものがあると信じた。六〇年代半ば以降、「正義」は地に落ちた。あらゆる権力は必ず己の行動を正義と言うからだが、権力を持たない側にこそ正義というものがあるのではないか。勿論、人類救済を掲げ燃えるような理想で始まった活動が必ず民衆憎悪とテロルに至ると言うのは、笠井潔が『テロルの現象学』以来繰り返し言っている。それならあらゆる価値は相対的だと言えるだろうか。しかし全てが相対的であるならば、それはスメルジャコフの道ではないか。私は惻隠の情というものを考えている。
     ハリマオはドラマの中では海軍士官であったが、モデルは谷豊だ。谷豊についてはいくつかの小説があるが、敬虔なムスリムとしての反英活動(実際には盗賊だったとしても)がマレー半島攻略を決めた日本陸軍に利用された。
     今気が付いたのだが、海軍士官と下士官が少女と少年を助けて活躍するのは、押川春浪『海底軍艦』が最初かも知れない。久し振りに近藤圭子の挿入歌を聴く。

     さざなみ光る砂浜に 一人聞く歌 子守唄
     おさないころの思い出 輝くは輝くは 南十字星
     (加藤省吾作詞・小川寛興作曲『南十字星のうた』)

     「月光仮面かな?」千意さんが顔の下半分を隠していることからすれば、この方がふさわしいか。大瀬康一である。秋田のテレビで『月光仮面』をやっていたのは、わが家にテレビがやってくる前だったから、私は毎週日曜日の午前九時(秋田での放映時間)に、鉄道官舎に住んでいた友達の家まで見に行った。
     また列が長くなってきた。「そこのコンビニでトイレ休憩しようか。」「公園があるよ。」セブンイレブンと百円ショップのセリアが並ぶ裏に公園があった。「カズチャン、大丈夫?」「疲れた。」小町ももう相当疲れているようだ。公園に数少ないベンチの一つは子供連れの若い母親が占有している。「女性軍はこっちに座れるよ。」
     暑い。少し休憩して落ち着いた。小町も大丈夫だろうか。家から持参したお茶がなくなった。私はセブンイレブンで百円のお茶を買ったが、辺りをちゃんと見ていた連中はセリアの前の自販機に行く。
     「それじゃ、もう少しだから。」十分程歩くと、あと三百メートルの標識が見えてきた。マリオがほっとしたような声を出す。ガンバレ小町。そして橋の袂に着く。「ゴールですね。」オカチャンが橋の欄干にタッチするのがおかしいが、気持ちは分る。
     御成橋。二〇〇八年二月、国土交通省荒川上流河川事務所の調査によって、荒川の距離が二三五七メートルだと確認された。川幅日本一は実は六百メートル程上流なのだが、ここで良いだろう。「川はどこなの?」水は見えない。国土交通省の定義では、川幅とは堤防から堤防までの距離である。仮に水の流れる幅が一メートルしかなくても、堤防間の距離が長ければ日本一になれるのだ。ここでは平時の水は三十メートル程の幅で流れているらしい。
     対岸は吉見町。「渡るんですか?」この橋を渡ったら大変だ。往復五キロでは一時間半ほどもかかるだろう。それでは河川敷に降りてみよう。「そこ行くんですか?」途中の草むらにかなり古寂びた青面金剛が立っている。三面がはっきり分るのは珍しい。穏やかな表情である。
     河川敷は広範囲に枯れた草で覆われ、ところどころに白やピンクの花が残る。「ポピーですよ。植えたんです。」オカチャンが言うのは本当だろうか。「種が飛んで来たんじゃないの?」しかしそれは私やマリーの邪推であった。鴻巣市はポピーを植えて、観光の目玉にしているのだ。「二毛作です」とオカチャンが言うように、秋にはコスモスの畑になって観光客を集める。
     「屋台は出るのかな?」「エーッ?」「ビール飲んで焼鳥でも食わなくちゃしょうがないだろう。」細い道の両側は畑だから、そんなスペースはない。今年のポピー祭りは五月二十日から二十八日まで行われた。この荒川河川敷に三千万本を越えるポピーが花開くのである。今ではポピーとばかり言うが、ヒナゲシ、また虞美人草とも言った。

     雛罌粟や祭りの果ての枯れ残り  蜻蛉

     「花火はどこ?」もうちょっと上流になるらしい。鴻巣市は「日本一」や「世界一」が大好きだ。日本一長い水管橋(鴻巣市大芦~熊谷市小八林)、日本一高いピラミッドひな壇(三十一段七メートル)、川幅日本一、一分あたりの尺玉以上の花火打上数、ポピーの栽培面積日本一(馬室地区、東京ドーム約二・五個分)、プリムラ・サルビア・マリーゴールドの出荷量日本一(二〇〇六年度)。
     「蛇はいないでしょうね。私は一番キライなの。」あんみつ姫は蛇の皮を財布に入れているが、カズチャンは想像するだにイヤだと言う顔をする。氷川神社の鳥居があるが、階段を登るがいやなので後回しにする。時々車が通る。「田圃もあるんだ。」「そこは舗装してるぜ。」ポピーやコスモスを見に来るための駐車場であろうか。ここに屋台が出るかも知れない。
     左手の小高い森は北塚古墳、毘沙門山古墳だ。馬室古墳群と言われるほど、古墳の多い地域である。漸く見えてきた。「あれは何だい?」「馬室小学校だよ。」そして小学校の手前が常勝寺(真言宗智山派)だ。鴻巣市滝馬室五八六番地。曲がり角に三十センチ程の蛇が干からびている。「カズチャン、蛇がいるよ。」「言われたから、見ないように歩いた。」
     土手のアジサイが綺麗だ。「ここは来たことがあるよ」と言うヤマチャンの大声が聞こえてくる。「一度会った人は絶対忘れないよ、それが俺の自慢。」ここに来たのは平成二十二年六月のことだった。
     立派な寺なのに境内には解説するものが何もないので、寺の由緒は分らない。かなり古いことは確かだ。境内は広い。軍馬の慰霊碑。「この馬が記憶ある。」これと「あゆみ観音」は支那駐屯歩兵第一連隊の戦没者を供養するものだ。初代連隊長は後に最も愚劣なインパール作戦を指揮し、莫大な死者をだした牟田口廉也(当時大佐)で、昭和十二年(一九三七)七月七日の盧溝橋事件に遭遇している。歩兵第一連隊の補充は千葉連隊区だから、なぜここにあるのか分らない。

     この観音像は支那駐屯歩兵第一聯隊(極第二九〇二部隊)の戦没者二千七百余柱の英霊を慰めその冥福を祈るため建立されたものである。部隊は昭和十一年五月(一九三六年)北京に於て編成され、その後支那事変及び大東亜戦争の間中国各地に転戦してその歩んだ道は延べ一万キロメートルにも及んだ。そして昭和二十年八月(一九四五年)中支に於て終戦を迎えた。国家のため勇敢に闘い任務を尽して散華した戦友達は北は万里の長城から南は広東省の果てまでの広い中国大陸に点々と眠ってゐる。我々の意の侭に黙々と働いて呉れた軍馬達もまた同じである。終戦後三十余年未だにその墓参も叶はぬ。今ここに碑を建て慰霊のよすがとする。
     昭和五十三年三月 支駐歩一会建立

     キョウチクトウが咲いている。山門も立派だ。亀御前(安達盛長の娘で源範頼の正室)愛用の薙刀を納めてあると言う。範頼が修善寺で殺されたと知った亀御前は荒川に身を投げたと伝えられる。対岸の吉見で、範頼の居館と伝える跡を見た。本堂前のハスの花が一本伸びて咲いている。「こっちはまだ蕾ですね。」その周囲にギボウシ、奥にはアジサイ。「アジサイが綺麗ですね。」

     蓮一輪軍馬にそよぐ風微か  蜻蛉

     階段を上って六角堂の前に行くと、柔らかい風が気持ち良い。「微風ですね。」小町とカズチャンは階段を登る勇気がないので下の鐘楼の前で休んでいる。ただ腰を下ろす場所がないので、疲労回復にはならないかも知れない。「それじゃ行きましょう。」
     小学校との間の坂道を登って道に出る。給食センターがある。また後ろが大きく遅れてしまった。「ちょっと待とう。」更に少し行けば氷川神社の裏手に着く。鴻巣市滝馬室一一五〇番地二。人気のない寂しい神社だ。
     「水はどこですかね?」オカチャンはさっきからそれが気になっていた。河川敷を見下ろす参道の中腹に池がある。「あそこに湧いてたんじゃないかな。」「さっき見上げたところですよね。」狛犬は後ろ向きになってよく分らないが、狼(山犬)である。秩父三峯を中心とする狼信仰の痕跡だろう。ここには坂上田村麻呂の伝説がある。

     室町期から戦国期に「馬室郷」と称されていた滝馬室に所在する氷川神社は荒川低地に臨む台地上に鎮座しており、老樹に囲まれた境内の一角から清水が湧き出し「御手洗の地」となっており、更に滝となって水路に注ぎ、当地一帯の耕地を潤していると記載あります。
     伝承として「延暦年間(七八二〜八〇五)、坂上田村麻呂が東征の途次、農作物を荒らす大蛇を退治して、頭を当社に、胴体を地内の常勝寺に、尾は吉見町の岩殿観音に埋めたとされる。

     大蛇を退治するのはスサノオのヤマタノオロチ退治の模倣であろう。東松山の岩殿には田村麻呂の悪龍退治の伝説もある。大蛇、悪龍は荒れる川の象徴か。「的祭(まとうさい)っていうのもあるんだね。」

     的祭はこの口伝にちなんだ五穀豊穣の祈願祭であり、一時中断されていたが、貞享年間(一七八〇年代)島田常勝という人が復興し、氷川神社の祭礼として現在まで伝えられている。昔は、衣服に関しても直垂(直垂)を着用するなど格調高く、儀式も厳しく、関係者は心身を清めてそれぞれに奉仕したようであるが、今はその点ゆるやかになっているのは時勢によるところである。

     弓は六尺の楢の木に麻を撚った弦を張る。矢は三尺の笹竹に紙の矢羽根をつけたものを使用する。祭当日は、馬室小学校の十二歳の男女が十メートルの距離で、三尺角の的を射る。田村麻呂が矢で大蛇の眼を射たと言う伝説によるのだ。
     馬室の地名は、室町から戦国時代にかけて馬室郷の名があるから古いのだが、それが何に由来するか分らない。「放牧してたんじゃないか。」それはありうるかも知れない。しかし違った。ここにその説明があった。

     滝馬室は、隣の原馬室と共に、室町期――戦国期に見える「馬室郷」遺称地で、その郷名は『埼玉県地名誌』によれば、古墳の石室を示す「むろ」から生じたという。元禄年間(一六八八~一七〇四)までに分村したらしく、『元禄郷帳』に滝馬室村と見える。

     御成橋はすぐそこだ。予定では伝源経基居館にも行く積りだったが、既に皆疲労困憊の様子だ。「ここから又三十分かかるので、今日はやめて駅に戻ります。」どうせ行っても森があるだけなのだ。ただ計画していたところだから一言記しておこう。鴻巣高等学校の南に接した森で、現在の住所は鴻巣市大間であるが、かつては足立郡箕田郷大間村である。
     経基が武蔵介の時代の居館かと推測されているが確証はない。源経基は清和天皇の皇子貞純親王の第六子で、六孫王とも称した。将門の乱の一方の立役者で、関東武士団からすれば悪役になってしまう。興世王が武蔵権守、源経基が武蔵介に任ぜられ、武蔵国に下向したことが平将門の乱の原因となった。足立郡司・武蔵武芝の領地に入り込んで税を取り立てようとしたため、武芝が将門の支援を求めたのである。後に興世王は将門・武芝軍に合流し、源経基は孤立して京都に逃げ帰って興世王・将門・武芝が反乱を企てたと誣告する。

     「お茶が切れちゃった。」さっきのセブンイレブンまで戻ればお茶は買えるが、その前に自販機があるかも知れない。「小町、自販機があったよ。」ロダンはセブンイレブンでお茶を買う。陸橋の階段を登ろうとした時、後ろから声がかかった。「こっちか行けるよ。」確かにそうだ。階段を登るよりはるかに賢い選択である。しかも駅に近い。
     踏み切りを渡って道なりに左にまがればもう駅はすぐそこだ。駅舎の日陰で解散だ。三時四十五分。「一万七千歩ですね。」十キロというところか。源経基まで行っていればこれに二キロは加算されただろう。
     来月第二土曜にはスナフキンの箱根、第四土曜日は千意さんの小泉(邑楽郡)が予定されている。しかし千意さんの説明を聞いても東武小泉線というのは乗換えがややこしそうだ。「後でメールを入れますから。」
     千意さんは車、オカチャンは電車に乗っていき、残った十人が反省する。小町が参加するのはとても珍しい。「近いからね。一時間だけ。」スナフキンが偵察して「庄や」が開いているのが確認できたので、華の舞はやめた「ちょっと高いからさ。」
     焼酎は黒霧島だ。「今日はお湯割りだと汗かくばっかりだろう。」「それじゃ水割りと言うことで。」これは初めてではないだろうか。十人だから焼酎も二本、水割りセットも二つ頼む。突き出しは肉ジャガだったが、盛りが小皿ごとに違う。ジャガイモの量、肉の量が明らかに違うである。「新入社員がやってるんですよ。」漬物、枝豆、冷奴。「たんぱく質がないな。」ロダンが焼きトンを注文する。
     焼酎を一本追加する。暫くして、焼きトンがまだ出てこないことにスナフキンが気付いた。「確か注文したよな。」「ピンポンしよう。」店員がやってきて、焼きすぎて焦がしてしまったから改めて焼き直していると言う。珍しいことである。「仕方がないですよ、新入社員じゃないですか。失敗して成長するんです」とロダンは随分やさしいことを言う。
     「焼きうどんを注文しようよ。」ヤマチャンの注文だ。「うどんは川幅じゃないよね。」小町は一時間だけと言っていたが結局二時間になった。三千円なり。
     「まだ明るいな。」マリー、スナフキン、桃太郎、ロダン、蜻蛉が残り、今度は華の舞に入った。焼酎一本。

    蜻蛉