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    近郊散歩の会 第四回 猛暑の邑楽郡大泉町
    平成二十九年七月二十二日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.07.30

     七月十九日、気象庁は漸く関東甲信越の梅雨明けを宣言したが、関東はずっと空梅雨で、もっと早く宣言しても良かっただろう。各地での突発的な豪雨による被害、それに対して関東のこの空梅雨、どちらにしても異常である。そしてここ数年、「異常」は常態化した。
     今回は千意さんの企画だ。彼は関東一円を歩く積りで計画しているので、どうしても遠くなる。邑楽郡と言ってもどこにあるのか知らない人も多いだろう。群馬県南部に位置し、館林市の少し先になる。大泉町の他、板倉町、明和町、千代田町、邑楽町で構成される。
     館林には関東短大、太田には関東学園大学があって昔は仕事で何度か来ている。板倉町には東洋大学板倉キャンパスもある。それに館林には文福茶釜の茂林寺があり、太田は新田義貞と中島飛行機の発祥地で金山城もあって、これらは歩いたことがあるが、大泉町は初めてだ。
     旧暦閏五月二十九日。小暑の末候「鷹乃学習(鷹すなわちわざをならう)」、明日からは大暑になる。念のためにクーラーバッグに保冷剤を大量にぶちこんで弁当を収納した。
     集合は東武小泉線の小泉町駅だ。乗換えが結構面倒臭く、それに猛暑が予想される中、十三キロのコースとされているから参加者は多くないだろう。私の懸念は、今日は飲めるだろうかという一点だ。スナフキンと姫、マリー、宗匠が欠席するのは分っているし、桃太郎は遠過ぎてまず来られない。千意さんは車で来るだろう。となれば、ロダンかヤマチャンが頼りだ。
     鶴ヶ島七時三十七分発。七時五十分川越発で八時十三分に大宮に着く。大宮で八時二十七分発の宇都宮線快速ラビットを待っているとロダンがやって来た。良かった、これで今日も飲むことができる。八時四十一分に久喜に到着し、八時五十九分発の東武伊勢崎線高崎行きを待つホームにオクチャン夫妻が現れた。これで四人、前後の車両に仲間の姿は見えない。
     九時二十八分館林に到着する。「三番線ってどこかしら。」車両を降りて「こっちみたいだ」と階段の脇を抜けて真っ直ぐ行くと、ホームの端に九時三十四分発の東武小泉線西小泉行き(ワンマン運転、二両編成)が待っている。小泉線は館林から東小泉を経由して西小泉に至る十二キロと、東小泉から分岐して太田に至る六・四キロの路線だ。館林からはこの他に東武佐野線も分岐している。見回しても、やはり他に仲間はいない。一時間に二本しかない路線だから、参加するならこれに乗らなければならない。「これで決まりですね。」社内はガラガラだ。「採算は合うんですかね?」
     二〇一三年度の小泉線の営業係数(百円の収入を得るための経費)は三五五・七と東武鉄道の中で最低で、採算が合うどころではない。因みに東武佐野線が三二九・六、東武鬼怒川線が三二六・九、東武桐生線が三〇三・八と、この地域は走れば走るだけ赤字なのだ。それでも東武鉄道は東上線(六〇・六)、伊勢崎線(七〇・一)、野田線(八五・六)があるから、全線では八三・二と黒字になっている。
     ついでに首都圏の他の鉄道会社を見れば、西武鉄道(七八・一)、京王電鉄(八八・一)、小田急電鉄(七八・八)、東京急行電鉄(八七・九)、京浜急行電鉄(八三・〇)、京成電鉄(八七・七)と言う具合だ。各社とも赤字路線を抱えてはいるが、営業係数三〇〇を超えるのは東武にしかない。(「東洋経済ONLINE2016.7.7」http://toyokeizai.net/articles/-/125719?page=4より)
     小泉線は、恐らく戦前戦中の中島飛行機に関連する物資輸送が主目的だったのではないかと勝手に推測したが、大正二年(一九一三)、地元の資金で中原軽便鉄道株式会社が設立され、大正六年(一九一七)に館林・小泉町間が開通したのが始まりである。昭和十一年(一九三六)上州鉄道と改称し、翌十二年(一九三七)に東武に売却された。軍の要請で熊谷までの延伸も計画されたが実現しなかった。

     九時四十九分、漸く終点のひとつ手前の小泉町駅に到着した。電車を五つ乗り継いで千二百六十三円なり。一日の乗降客が五百人に満たない無人駅だ。駅舎と言えるのはトイレだけで、切符を買う人は五十メートルほど離れたお茶屋に行かなければならない。ホームの端にカード読み取り機が設置されている。「これでいいんだよね。」そこからいきなりホームの外に出ると、少し離れた場所で千意さんが待っていた。「最悪、俺ひとりかも知れないって覚悟してた。」そう言えば去年、千意さんとオクチャン二人だけと言う会もあった。丁度私が腰を痛めていた時期だ。
     「大泉町駅っていうのもあるんでしょうか?」「少なくともこの沿線にはないね。」この時点で私はこの辺りのことについて全く知らない。駅は小泉町駅なのに大泉町とはどういうことか。大泉町は昭和三十二年三月に小泉町と大川村が合併してできた町で、その中心はこの路線の終点である西小泉駅周辺らしい。だから大泉町駅というものは存在しない。江戸時代は館林領との境で、殆どが幕府領となっていた。
     町の北部と西部は太田市と、東は邑楽町、千代田町と隣接し、利根川を挟んで南は熊谷市になる。戦前戦中は中島飛行機小泉製作所があり、今でもスバル(旧富士重工)、パナソニック(旧三洋電機)、味の素、凸版印刷などの工場が多く、税収は豊かだ。三洋電機が経営危機に陥った時には大変だったろうが、パナソニックが引き継いだので雇用は確保された。
     二〇一〇年度に三十四年振りに交付金交付団体に落ちたが、翌年から再び不交付団体に戻っている。平成二十九年度の地方税不交付自治体は、東京都と七十五市町村であり、千六百八十九自治体は地方交付税に依存しているから貴重な存在である。
     今年六月三十日現在の大泉町の人口は四万千八百七十七人、うち外国人は五十二ケ国七千四百八十一人と、十七・九パーセントに上る。このため、町内全ての小中学校に日本語学級がある。「そう言えば電車の中にもそれらしい人が乗ってましたね。」中でもブラジル人とペルー人が多く、特に日系ブラジル人は外国人の半数を越え、ブラジルタウンの名がある。

     本町のみならず製造業を中心とした全国各地に日系ブラジル人が増加し始めた背景には、一九九〇年六月の「出入国管理及び難民認定法(入管法)」の改正があります。この入管法の大きな改正点は、日系二世・三世及びその家族に対し、就労活動の制限がない在留資格である「日本人の配偶者等」「定住者」査証の発給を認めるというものでした。
     「デカセギ」というブラジル国内でも定着した名称のとおり、当初は二~三年の短期就労を目的として来日し、数年で帰国するとされていた日系人たち。しかし、母国から家族を呼び寄せたり、日本で新たな家庭を築く人たちも増え、年々その滞在期間は伸びています。また、帰国後の就職難などの理由により、再来日するケースも少なくありません。
     近年では、永住権取得希望者や一戸建てを求める外国人も増えてきました。ブラジル人経営者によるレストランや食料品店、スーパーマーケット、中古車屋、美容院、外国人学校、人材派遣業、教会など、数々の店舗・事業所も町内外に開店開所している状況からも、定住化傾向は今後も高まり続けていくと考えられます。(全国町村会「町村のとりくみ」)
     http://www.zck.or.jp/forum/forum/2620/2620.htm

     元々工場群の人手不足から始まったことだが、外国人の増加には光と影があるだろうことは容易に予想できる。
     「取り敢えず涼しい所に向かいましょう。」十時にはなっていないが、人数はこれで確定しているからすぐに出発する。線路に沿って西小泉方面に歩き公園に入った。「ここで少し休憩しましょう。」十分も歩いていないのに、もう汗が流れ落ちる。ここは城之内公園、小泉城址である。大泉町城之内二丁目二十四番。蝉の声が聞こえる。「ミンミンゼミですね。」「ジージーもいるわね。」樹木の間から祭り太鼓と笛の音が聞こえてくる。今日と明日が大泉祭りで、千意さんはそれに合わせて今日のコースを企画したのだ。

     蝉鳴くや城跡に聞く笛太鼓  蜻蛉

     「十月だとサンバ・カルナバルがあるんだけどね。」千意さんはそれも楽しみにしている。大泉町には町公認のサンバチームがあり、各地の祭やイベントに出前も行っている。
     城跡には堀と土塁が残るだけだが、全くの平地に構えた平城は戦国時代では珍しいのではあるまいか。天守閣と言うものが存在しない時代に、三層の櫓も構えていたと言う。「周囲は田圃だからね。」「そうか、泥田が防御になってたんだ。」田に水が張ってあれば馬は歩けない。延徳元年(一四八九)、富岡主税介直光によって築城された。
     「富岡主税介って何か歴史に名を残した人ですか?」私も勿論知らなかったが、永享十二年(一四四〇)の結城合戦で敗死した結城久朝(第十二代持朝の弟)の子である、あるいは持朝の子であるとも言う。ただ、ネットで調べた限りでは結城氏の系図にこの名前はないので、仮冒の可能性もある。後に古河公方に復権した足利成氏によって邑楽郡に所領を安堵され小泉城を造った。富岡の苗字は、久朝が甘楽郡富岡郷を領有していたことに始まるとも言われるが、これも実ははっきり分らない。
     北関東の殆どの城と同じで、古河公方、上杉氏との難しい関係を経て戦国後期は北条氏の支配下に入ったため、小田原攻めの際に落城して廃城となった。しかしこれだけの規模の城が、江戸時代を通じて特に荒らされた形跡がないのが貴重だ。
     完全に護岸化された内堀に沿って緑が映える。土手の木の根元には楕円形の自然石に庚申の文字を彫っただけのものが数十基置かれ、百庚申と名付けられている。「集めたんですよ。」勿論そうなのだろう。素朴な文字庚申だけしかないのは、この地域の農村が余り豊かでなかったことを意味するかも知れない。
     「この地蔵が変わってるよ。」米軍による空爆被害者を供養するため建てられた黎明地蔵尊だ。正座して合掌する地蔵だが、恨めしげな顔を五つ浮かばせた光背は見たことがない。「合わせて六地蔵の意味かな」と千意さんが笑う。

     この黎明地蔵尊は、太平洋戦争末期、昭和二十年四月四日未明、米軍B29爆撃機の空襲により亡くなられた百余名(町民及び旧中島飛行機株式会社小泉製作所航空院生)の冥福を祈るとともに世界の恒久平和を願い、荒廃した世相の中町内有志により、昭和二十二年四月下小泉一五〇三番地(現大泉郵便局敷地内)に建立されたものです。
     昭和三十六年地域の開発にともなってこの地に移されたものです。

     空襲は二月二十五日と四月四日未明と二回に及んだ。子供の頃に見た映画『あゝ江田島』(小学二年生に見せる映画ではないと思うのだが)で、戦死した戦友の顔がいくつも空中に浮かぶ場面があったような気がするが、そんな風に感じられる。被害者の怨みや怒り、嘆きの象徴であろうか。元は現大泉郵便局敷地内に建てられたものだが、区画整理のためにここに移したのである。

     炎熱や死者の顔呼ぶ地蔵尊  蜻蛉

     古墳もある。「移築したんですよ。」古墳の移築と言うのは珍しい。南北径十五メートル、東西径十八・一メートル、高さ一・五~一・七メートル。龍泉寺の南東約百五十メートルの屋敷林の中にあったものをここへ移築したのだ。毛野国の古代史において古墳は欠かせない。

     この古墳は、大泉町城之内三丁目番地の飯田氏の宅地内にあったものを、昭和四十三年に発掘調査を行い、大泉町の歴史を解明するうえ欠くことのできないものであることから昭和五十三年現地に移築した。
     古墳の主体部は、片袖型の羨道をもつ横穴式石室で、玄室は北武蔵地方に多く見られる三味線の胴のような形をした胴張型という特殊な形態である。
     築造時期は、太刀、耳環などの出土遺物や石室の形態などから七世紀後半(古墳時代後期)の築造と考えられる。
     石室長五・四メートル、玄室三・六メートル、玄室幅一・二メートル、羨道部一・八メートル、羨道部幅〇・五メートル。

     横穴の前は鉄柵で塞がれている。大泉町は区画整理が進んだ町だと言われる。「田圃ばっかりだったからね。やりやすかったんですよ。」そのために邪魔になったものが全てこの公園に移設されたようだ。破却せずにこうして移築したのは、遺蹟の展示場としても意味がある。
     土手を歩いて外に出ると、堀の水草の一部に白い花がいくつも咲いている。「なんだろうね。」「葉っぱじゃないかしら?」オクチャン夫人はそう言うが、絶対に花のように見える。堀の反対側に回ってみる。「なんだ、光が反射してたんですね。」夫人の目が正確だった。「真っ赤なトンボもいた。」私は見なかったがショウジョウトンボかも知れない。「チョウトンボもいる。」これは私にも分った。
     ここから踏切を渡って北に向かう。願成寺(高野山真言宗)には寄らない。天文十年(一五四一)の開山である。民家の塀から伸びる大きなザクロに実が生っている。住宅地の通りを四五百メートルほど歩けば分水堀緑道だ。「人工ですけど。」長さ八百メートル程に亘って遊歩道が造られている。
     「色が綺麗ですね。」ピンク、朱、白と三色のサルスベリのコントラストが鮮やかだ。百日紅の名のくせに、白い花があるなんて数年前まで知らなかった。「六月には花菖蒲が綺麗です。残念ながら終わってしまったけど。」

     「も」木道で菖蒲楽しむ分水堀緑道

     これは「大泉かるた」というものである。「上毛カルタ」があるように、群馬県人はカルタに異常なほどの執着がある。「ハギは狂い咲きかしら。」薄紫の小さな花がきれいだ。この頃ではあらゆる植物が、本来の時期より早く咲くのではないか。やや萎れているオレンジ色の花はノカンゾウだろうか。
     設置されている地図を見ると、この堀は休泊川から引いたものだが、その休泊川を含めて戦国末期には外堀として機能していたようだ。「なんて読むんですかね。」千意さんが自信なさそうに「キュウハクガワ?」と言っていたのが正しい。休泊は大谷新左衛門の号である。関東管領上杉家に仕えたが、上杉憲政が小田原北条氏に敗れて後、館林城主だった長尾氏に招かれて、渡良瀬川から水を引いて上・下休泊掘を開鑿した。今の休泊川と新堀川である。こうした戦国期の土木官僚の技術の積み重ねが、江戸初期の伊奈氏等の事業につながっていく。
     トラックに屋根を取り付け提灯で飾り立てた山車(これも山車か)を停めて、祭り装束の連中が休憩している。「こんにちは、何してるんですか?」「町歩き。」「ご苦労様です。」「写真撮っていいかな?」その瞬間、トラックの前に立っていた連中が一斉に気をつけの姿勢を取った。荷台の女性はピースサインをする。「おかしいわね。」役場民謡愛好会の軽トラックである。「我々が珍しいんだよ。」「余所者は殆ど来ないんじゃないの。」「挨拶が大事、それが紛争回避の一番なんだよ。」
     「ヒマワリ。」真ん中が黒くなく、何となくモコモコした花だ。園芸種でテディベアという品種のようだ。「うちのヒマワリは三メートルを超えた。」千意さんは蓮田の豪農であった。後ろから、さっきの役場民謡愛好会のトラックが太鼓を叩きながら追い抜いていく。

     成就院(真言宗豊山派)はあっさり通り過ぎてしまったが、門前の写真だけは撮っていたので重要な寺だと後で分った。邑楽郡大泉町城之内三丁目十七番五号。門前の地蔵も古いが、色が薄れて読みにくい「築比地城主菩提寺」の標柱が立っていたのだ。通り過ぎた時は気付かなかった。「大泉かるた」の解説には、元慶年間(八七七~八八五)、築比地(ついひじ)次郎良基が創建したと書いてある。築比地城というのは調べても分らない。
     また「おおいずみ散策マップ」によれば、築比地次郎は佐貫荘の荘官だった赤岩城主佐貫弾正良綱の次男である。佐貫荘は館林周辺で、邑楽郡明和町に大佐貫の地名が残る。また赤岩は邑楽郡千代田町である。しかしこの記述がひっかかる。元慶年間と「赤岩城主」の言葉が結びつかないのだ。
     九世紀は受領の土着化が著しく進行した時代だ。都では摂関家に関係しなければ昇進もままならず、むしろ地方で富を蓄積した方が良いと考える連中が増えたのである。坂東では高望王が上総介退任後に土着し、その子孫から坂東平氏が勃興するのが典型で、この頃になって武士というものが発生してくる。しかし「城」を持つ武士なんてまだ考えられない。
     佐貫氏は藤原秀郷流を称している。秀郷は将門の乱の平定者だから、佐貫氏の名乗りは早くても将門の乱(九三九~九四〇)終結より数十年は後のことでなければならない。精々遡っても十一世紀後半であろう。また赤岩城が築かれたのは鎌倉時代(一二〇〇年前後)、佐貫嗣綱によってであることは別の資料で確認できた。つまり元慶年間には佐貫氏も赤岩城も存在しないのだ。だから佐貫弾正良綱も築比地次郎の正体も分らない。
     大泉町のHPが掲載する「大泉町の歴史」年表では、六から七世紀に「古墳が盛んに造られる」の記事の次は、いきなり文治元年(一一八五)「佐貫広綱、佐貫庄の地頭となる」である。恐らく元慶年間というのは創建を古く飾るための神話化ではないか。
     因みに文治元年は源頼朝が日本国惣追捕使・惣地頭になった年で、最近ではこれを鎌倉幕府成立の年とする説が有力になっている。それでは一一九二年(いいくにつくろう)はダメなのかと言えばそうでもない。建久三年(一一九二)は頼朝が征夷大将軍に任ぜられた年である。「幕府」と言うのは後世の命名だから、どの時点をもって幕府成立とするかは解釈に拠る。但し、この日本国惣追捕使・惣地頭によって、頼朝が公式に武家のトップと認められたことは大きい。惣追捕使は全国に亘る警察権、惣地頭は徴税権を掌握したと言ってもよい。随ってこれを実質的な幕府成立と考えるのは自然だ。その鎌倉政権によって、この一帯における佐貫氏の所領が安堵されたのである。

     古代邑楽郡周辺でも、佐貫荘・邑楽御厨・大蔵保・寮米御厨という新しい行政単位が生まれてくる。そしていずれにも佐貫氏が深く関わっていた。まず、佐貫氏の名字の地となった佐貫荘は、その成立時期や荘園領主を示す史料はない。おそらく佐貫氏の登場した平安時代末期には開発が進められ、立荘されたと見られる。
     佐貫荘の土地売券の地名や佐貫一族の名字がほとんど利根川沿岸低地の村落と一致することから、佐貫氏は利根川の旧河道低地を開発し、旧河道の自然堤防上に村落を形成させ一族を配置しつつ発展したという。(「藤原秀郷流佐貫氏の研究」)
     http://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E9%83%B7%E6%B5%81%E4%BD%90%E8%B2%AB%E6%B0%8F%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6

     中世の武士にとって所領安堵に全力を尽くすことこそが、唯一最大の行動原理である。所領(一所)に命を懸けること、それが一所懸命の語源であり、一生懸命ではない。
     また佐貫荘には児島高徳が隠れ住んだと言う伝説もある。今日は行かないが、大泉町古海には児島神社、高徳寺、児島高徳公墳墓もある。児島高徳は『太平記』では殆んど活躍しないし、戦闘でも勝ったことはなかったのではないか。その出自もはっきりしていない。院の庄で後醍醐天皇奪還を果たさず、「天莫空勾践 時非無范蠡」の詩を桜の幹に彫りつけたことだけによって南朝忠臣とされるのである。小学生の私が勾践とか范蠡の名を知ったのはこのエピソードからであった。一説に『太平記』の作者とも言う小島法師に擬せられる。
     話が長くなってしまったが、成就院は築比地郷にあったものを、富岡直光が小泉城内に移した。築比地郷の位置もはっきりしないが、太田飛行場のあった辺りと言うから、現スバルと太田市運動公園の辺りになるか。そんなに遠くはない。ただ、埼玉県北葛飾郡松伏町の大字に築比地という地名がある。これとどう関係するか。
     「その表札、なんて読むんでしょうか?」對比地、ローマ字でTSUIHIJIと書いてある。標記は違うが築比地氏と関係がありそうだ。「知り合いに築比地さんがいます」とオクチャンが言う。他に対比地、築肱、筑比地(これは役場の誤記と言われる)等の表記もあるようだ。これらを含め、あるネットの情報では太田市、大泉町を中心に、埼玉県、東京などを合わせて百人ほどいるらしい。

     畑のゴマが淡いピンクの可憐な花をつけている。「こんなに大きくなるんですね。」再び城跡に戻った。正面の城跡とは線路で離されているので、右から回り今度は大泉北中学の側から入る。ここが正面入り口のようで、石垣に「小泉城跡」とちゃんと彫られている。「この石垣は新しいですよね。」その隙間にニホントカゲの子供が青く光る尾を揺らしながら入っていった。
     本丸跡はかなり広い芝生になっていて、それを見下ろす土手に、何か分らない石祠が建っている。「何でしょうか?」私は水神ではないかと思った。しかし「アッ、これですね」と、笠の正面に小さく「八幡宮」とあるのにオクチャンが気付いた。これもどこからか移してきたものだろう。
     公園を出ると、駐車場にテントを張って休憩していた連中が声を掛けてくる。祭り関係者だ。「ここが城跡だよ。」それは分っている。「今見てきたの。」「これからどこへ?」「神社。」「社日はすぐそこだよ。」向かうのは小泉神社の筈なのに、オジサンは社日と言う。千意さんはここに車を停める積りだったが、祭り関係で占有されているので、役場の駐車場にした。
     「何もない、小さな村の鎮守です」と千意さんは言っていたが、どうしてなかなかの神社である。邑楽郡大泉町城之内一丁目十三番五号。社殿が二つ並び、最初に見た社殿には社日稲荷の額があった。境内社だが、これも小さなものではない。社日稲荷では三月と九月の第四日曜日に探湯神事を行う。神前の大釜の熱湯に笹の葉を浸し、それを全身に振り掛けるというが、これは余り見かけないだろう。大泉町には珍しいものが多い。これがあるので、町の人にとっては神社と言えば社日の方が大事なのかも知れない。「社」は土地の産土神であり、社日(しゃにち)とはその神を祭る日である。春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日を言う。
     並んで建っているのが小泉神社だ。拝殿自体は古めかしいだけだが、裏に回ると覆堂がなく本殿がむき出しになっている。その彫刻が素晴らしい。

     元慶七年(八八三)、当時の領主佐貫良綱の次男築比地良基がこの地を開いた藤原長良の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。当初は長良明神と称し築比地宮原に鎮座、小泉城主富岡家など歴代領主に庇護されていましたが、天正十八年(一五九〇)、小田原の役の際、小泉城共々と兵火にあい、社殿や多くの社宝、記録など焼失しています。慶長十六年(一六一一)に当時の領主、杉山三右衛門が庇護し現在地に遷座し社殿を再建、小泉の鎮守としました。明治五年(一八七二)に小泉村の村社となり、明治四十五年(一九一二)に菅原神社など町内の神社を合祀して総社小泉神社と改称しています。現在の本殿は嘉永七年(一八五四)に建てられたもので一間社、流造り、銅板葺き、建物全体に精巧な彫刻を施し、特に向拝柱の双龍や壁面の源義経の逸話を模した透かし彫りなどは見ごたえがあります。

     ここにも佐貫良綱と築比地良基が出てきた。ネットで検索しても、この二人の名前は大泉町にしか登場しないので困ってしまう。藤原長良は藤原冬嗣の長男で、清和天皇の女御となった高子(二条后)の父である。上野国に下向した事実はない。斉衡三年(八五六)没。また高子が在原業平の恋人で鬼に喰われる姫であることは誰でも知っているだろう。
     元々は長良明神である。実は太田、館林、邑楽郡には長良神社(長良明神・長柄明神)がいくつかある。館林の長良神社の由緒では、赤井良遠が長良の余徳を慕い本国に勧請せんと奏聞し勅許を得て、佐貫庄長柄郷瀬戸井村(邑楽郡千代田町瀬戸井)に社殿を造営とある。赤井氏は佐貫氏の流れと考えられるが、歴史上に登場するのは十五世紀のことらしい。
     佐貫氏は藤原秀郷流を称しており、秀郷は藤原北家の流れだとしている。その関係で、冬嗣の子の藤原長良は遠祖に当たる人物として祀られた可能性があるのではないか。
     それはともあれ、とにかく透かし彫りが見事なのだ。「柱は上り龍でしょう?」下り龍もいる。源義朝の妻と三人の子供をモチーフにしたものもあると言うが分らない。義朝の長男・悪源太義平は京都橋本の遊女または三浦義明の娘、次男朝長は波多野義通の妹、頼朝は藤原季範の娘(由良御前)である。義朝の妻とは誰のことだろう。考えられるのは、義門(早世)、希義が由良御前の子とされているから、それを言うか。ついでに探すと範頼の母は池田宿の遊女、全成(今若丸)、義円(乙若丸)、義経(牛若丸)の母は常盤御前である。
     彫刻は、武蔵国足立郡上尾駅の大工棟梁内山山城正による。「上尾駅って?」「上尾宿です。」解説板を書く人ももっと親切であってほしい。「駅」と書かれて宿場と判断する人はそう多くないのではないか。古代の宿駅伝馬制に始まるが、近世に入って専ら宿場と呼ばれるようになる。「内山山城正は有名人ですかね?」知らない。ネットで検索しても他に出てこない。自然石を組み合わせた石灯籠も珍しい。

     神社を出て歩き始めるとすぐ、下半分は焼板を張り、その上に漆喰を塗った長い壁が続く。蔵もある。「醸造元でしょうね。酒か味噌か。」オクチャンの推理が正しく、表に回れば高田屋本店だった。邑楽郡大泉町中央三丁目八番十七号。文久三年(一八六三)創業の店である。店の前の通りは街道のようで、古い構えの店が並んでいる。
     「中部」の山車(トラック)がやって来た。正面には浴衣を着せたマネキンが立っている。太鼓をたたいているのはオバサンたちだ。中央二丁目の角に大きな家がある。漆喰の塀が長い。
     「あの塔がある所に行きます。」平べったい町で目立つ高い塔だ。大泉いずみの杜である。邑楽郡大泉町朝日四丁目七番一号。「お風呂もある。町民は四百三十円、町外の人は六百四十円です。」

     いずみの杜は、群馬県大泉町にある勤労複合福祉施設です。
     「いずみの杜」は、楽しく集い、遊び、学べる交流空間として、四季折々の花が咲く自然豊かな環境の中に造られています。自由な発想を可能にし、健康・生きがい・子育て・スポーツ・文化を創造し、すべてにやさしく・楽しめ・遊び・友達になれる施設です。

     高さ四十メートルの展望タワーに上る。「十四階建て相当ですね。一階が三メートルだから。」こういうことはロダンである。ひょうたん池、整然と区画整理された町並みが見える。「ソーラーパネルを設置している家が多いですね。」「遮るものがないからじゃないか。」高い建物がないからどの家も日当たりは良さそうだ。設置には町の補助もあるかも知れない。調べて見ると「大泉町住宅用太陽光発電システム設置整備事業費補助金」があり、一キロワット当たり四万円、上限十六万円の補助が出る。
     「この暑い中、テニスやってるのね。」赤城、妙義、榛名の山々も見える。「冬なら富士山も見えるだろうね。」眺めは良いが、冷房が効いていないから暑い。休憩室で少し体を冷やす。頭と顔を洗い、バンダナを水で濡らして頭に巻くと気持ちが良い。
     「それじゃ昼にしましょう。」千意さんは御正作(みしょうさく)公園に入り、ひょうたん池を見下ろす高台の東屋を選ぶ。御正作とは、荘園制において領主や荘官の直営田を言う。佃の一種である。十二時ちょっと前だ。風が吹き抜けて心地良い。「冷房より良いわね。」濡らしたバンダナが効いている。「気化熱を奪うからね。私もそう。」千意さんはタオルを鉢巻のようにしている。池の上をトンボが飛んでいる。ビールでも飲んで昼寝をしたい気分だ。オクチャン夫人手製の漬物が回ってくる。「いいところだね。」大泉町は歴史と自然が満載である。

     暫く休憩して出発だ。この暑さなので、千意さんは当初計画から大幅にカットすることにした。それは私も有難い。日差しが強く、臂の辺りがヒリヒリしてくる。かなり焼けた。
     十分ほど歩いて、大泉町文化遺産「旧対比地家住宅」に着く。大泉町朝日五丁目二十四番一号。文化むらの資料館にもなっている建物だ。「ぐんま絹遺産」でもある。立派な門を入れば庭は広い。対比地家が例の對比地良基の末裔ならば、九世紀は眉唾でも相当に古い家柄である。

     明治四十年(一九〇七)に邑楽郡大川村古氷(現大泉町古氷)の対比地晴太郎によって建てられた養蚕農家です。屋根には棟幅約二分の一の換気用越屋根をのせています。この地区の代表する養蚕農家として、昭和六十三年(一九八八)に大泉町文化むら内に移築され、資料館として活用されています。

     二階建ての母屋の屋根には風抜けの低い屋根が取り付けられている。養蚕農家に典型的な形だ。一階は七十二坪、二階が三十五坪。その隣の納屋(?)が展示室になっている。ここに不発弾が展示されている。五百ポンド。「二百キロ爆弾ですか?」ロダンはこういうことに詳しい。全長百五十センチ、直径三十五センチ、重さ二百二十七キログラム。昭和四十一年(一九六六)に発掘された二十個のひとつである。爆発すればその破片は大体半径三百メートルほどに飛散すると言う。
     文化むらの展示棟ホールの休憩室で休憩をとる。何しろ暑いのだ。邑楽郡大泉町朝日五丁目二十四番一号。コンクリート造りだが切妻屋根にしたところが工夫だ。中に入ると体育館もある。展示室には古墳や遺跡からの出土物が多く展示されている。「スゴイですね、これは。」オクチャンが驚くように、古代にはどれだけ栄えていた地域か分らない。
     「河畔砂丘ですね、ここは。埼玉の方は知ってるけど、群馬もいいですね。」利根川流域は日本に現存する数少ない河畔砂丘の名所である。

     砂床河川の周囲に形成される砂丘をいう。乾燥した砂床があり、飛砂を起こす風が吹くような場所ではどこでも見られる。氾濫原上に風成のデューンとして形成されるものと自然堤防上を飛砂が被覆して形成されるものがある。日本では、木曽川、利根川に分布することが知られている。(地形学辞典より)

     吉田遺跡(六~八世紀)、古海松塚(五世紀後半)、古海原前一号古墳(五世紀後半)、大泉町間之原遺跡(縄文時代中~後期)、古海松塚三十七号古墳(六世紀後半)、仙石専光寺付近遺跡、御正作遺跡(旧石器時代)等、旧石器時代から古墳時代までの遺跡が豊富だ。中世の阿弥陀三尊板碑もある。
     それにしても大泉町は施設が充実している。やはり相当に裕福だと分る。「でも、さっき受付の人が、施設だけだって言ってましたよ。」歴史をきちんと保存しているのがエライのである。トイレで頭と顔を洗う。もう外に出たくない気分だが、時間になれば出発しなければならない。
     「スーパーに寄ります。」私は寄る積りはなかったが、千意さんが入るので仕方がないので缶ビールを買ってしまった。歩きながら飲む。見たことがないパッケージだったが、余り美味くない。小麦の味が強すぎる。大泉町役場のバス停でまた休憩だ。邑楽郡大泉町日の出五十五番一号。「羽田行きもあるんですね。」成田行き、仙台行き、名古屋行きもある。
     役場に入ってトイレで頭を洗う。役場の向こうにはパナソニックの広大な工場が広がる。かつて中島飛行機小泉製作所のあった場所だ。戦後暫くは米軍が駐留し、昭和三十四年(一九五九)に三洋電機が取得し東日本の拠点工場として稼動していた。

     一九三八年航空機増産の政府方針に応え、太田製作所の大拡張と陸軍発動機専門工場の武蔵野製作所を建設した。ところが海軍は之に刺激され、海軍工場の独立拡充命令を発し、発動機は多摩製作所、機体は一九四〇年小泉製作所(現群馬県大泉町、現在は東京三洋の工場)を建設した。小泉製作所は敷地東西に九一四メートル(運動場なども併設され加えると一二〇〇メートル)、南北に八五三メートルの百三十二万平方メートルの東洋一の大工場といわれた。主として機体組み立てであったが、板金部品プレスや成形溶接に加え燃料油圧系統パイプ類も生産した。なお機械部品は同じに建設した尾島工場(現在の三菱電機群馬工場)から、また尾翼や胴体の一部は館林の分工場(織物工場を接収)から供給した。
     生産した機種は圧倒的な量産の「零式艦上戦闘機(零戦)」であるが、また「九七式艦攻」、「零式輸送機(ダグラスDC-3)」や「二式水戦」、夜間戦闘機「月光」などを生産した。その他に空技廠設計の「銀河」や九七艦攻の後継機「天山」、高速偵察機「彩雲」等、一九四一年から四十五年までの間に約九千機の量産をした。従業員は一九四〇年に五万五千人から一九四五年最終的には何と六万八千人もの人々が働いていた。(中略)
     設計開発部門も太田製作所から小泉製作所に移ったのである。移動してからの開発体制は、従来の一機種一グループ方式から、専門グループ方式に変更され、空力班、重量班、構造班、動力班、降着装置班、操縦装置班、電装班、兵装班など、共通機能別体制となった。また標準化を進めるために統制班が設けられ、効率的な開発を目指した。中島からは何度も、陸軍機と海軍機の部品の共通標準化を提案したが、両方のエゴが出て歩み寄ることなく非効率な体制に泣かざるを得なかった。(「中島飛行機株式会社その軌跡・小泉製作所」)
     http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/nakajima31.html

     「中島飛行機は大したもんですよ。退役軍人が一代で築いたんですからね。」ロダンが感心したように声を出す。「海軍の技術将校だものね。」中島飛行機の跡地では、武蔵野工場(武蔵野中央公園)、三鷹研究所(ICU)の跡にも立ち寄っているが、どれも広大なものだ。
     「ちょっと早いけど。」役場を出てパナソニックに沿って広い通りを北に向かう。通りの向いにはベルク、ベスタ、カワチ(ドラグストア)が一列に並んでいる。「土地が有り余ってるんだな。」「高さ規制があるんじゃないかな。」
     「ゆっくり歩きましょう。祭りは三時からです。」次の信号からいずみ緑道に入る。自転車道は遊歩道の左に別に作られているから歩きやすい。道の両側は大きな木が並んでいる。「樹木は百種類あるそうです。」
     この道は小泉町駅と仙石河岸駅(旧大川村、現現在はいずみ総合公園野球場及びサッカー場)を結ぶ千石河岸線の廃線跡である。太田の中島飛行機との物資輸送のために作られ、戦争中には軍の命令で熊谷と結ぶ計画がなされたが、実現されないまま昭和五十一年(一九七六)に廃線となった。
     そして西小泉駅に到着した。小泉線の終点である。「帰りの電車を確認しましょう。」余り遅くはなりたくない。三時台では十五時二十分と五十七分とある。「ブラジル語?」そういうものはない筈だ。駅の案内が日本語とポルトガル語で放送している。まだ三時前だが、山車のパレードは三時半からだと言うので、それを少し見て五十七分に乗ろう。取り敢えず屋台で生ビールを買う。旨い。「美味しそうだね。」千意さんは今酒を控えているので飲むことができない。
     楽市楽座があると言うので行って見たが、ブラジルかトルコだか分らない食い物の屋台が幾つか並んでいるだけだった。大きな肉の塊を削いでいるのは、ケパブというものか。薪を焚き、そのかなり上で大きな細長い肉を焼いているのは何というのか分からない。火からこんなに離すものか。
     通りは三時から歩行者天国になった。人権擁護委員が団扇とティッシュペーパーをくれる。パレードを待つ山車が、信号の向こうに並んでいる。「ちょっと見に行きましょうか。」ポルトガル語の看板を掲げる店も目に付く。山車は何台並んでいるのだろうか。最後尾が見えない。トラックを仕立てたものも多いが、中には昔ながらの木の山車も在る。「やっぱりこっちの方が良いですね。」住吉町のもの、商工会女性部のものが小型だが昔ながらの山車である。但し車はタイヤだ。
     「チラホラ見るけど、外人がそんなに多い印象はないですね。」「日系とかアジア系だったら見かけじゃ分らないかも知れない。」「御神輿は見えないですね。」「神社の祭りじゃないからね。」しかし実は神輿も出るし、よさこいソーランも出るようだ。

     大泉まつりは、郷土産業の発展と町民のふれあいおよび近隣市町との親善交流、住民総参加の一大レクリエーション、観光の場として実施するものです。次代を担う青少年の楽しい思い出に、また老若男女なごやかのなかに明日への活力の糧とし、魅力ある郷土そして、「ずっと住みたい私のまち、おおいずみ」づくりの一助にしようとするもので、山車や御神輿、パレードおよびミニサンバもあり国際色豊かな様々な催し物をおこないます。(大泉町)

     三時半を過ぎ、消防団のパレードに続いて漸く山車が動き始めた。トラックも綱で引かれる。山車の上で太鼓を叩いているのは意外に子供が多い。それぞれの山車では小学生ほどの女の子がマイクを握って掛け声を連呼している。上州だから八木節のようなものかと思ったが、そうではなく、ラップと言うべきだろう。しかし祭りの掛け声に「皆さん皆さんこんにちは。フィーバー、フィーバー、フィーバー、フィーバー」というのは初めて聞く。「あれも町内会でしょうか?」ロダンが指差すのは、余り堅気には見えないダボシャツ姿の集団だ。
     まだ山車の行列は続いているが三時四十五分だ。通りの向こうにいる千意さんに合図して駅に向かう。千意さんは役場に車を停めて来ているのだ。祭は夜が本番で相当な人出になるのだが、そこまで見ていたら帰れない。町の広報情報課のツイッターを見ると、夜になるとこの通りが人で埋め尽くされている。「住民総参加の一大レクリエーション」なのだ。

     ちょっと時間があるのでトイレでシャツを着替えると少し落ち着く。シャツも、首に巻いていたタオルも汗でドロドロだ。あれだけ水で濡らしていたバンダナはすっかり乾燥している。
     折り返し始発の電車が到着すると、祭り見物の客がゾロゾロ降りてきた。と言っても混雑するほどではない。オクチャンは車内に入ってから着替える。「一万五千。」「何だ、それ?」「歩数ですよ、さっきカウントし忘れてた。」九キロか。千意さんの当初計画では十三キロだから、かなり短縮したのである。館林までの短い区間を寝てしまい、終点でオクチャンに起こされる。
     東武伊勢崎線も空いている。ロダンはすっかり寝込んでしまった。私もぼんやりと時間を過ごす。久喜に着いたのは五時七分だ。「大宮で飲みます」と言って笑われながらオクチャン夫妻と別れ、私とロダンは東北本線国府津行き(!)に乗る。大宮着五時三十分。
     「たまには西口に行きましょうか」とロダンが先導する。「痛風に悪いから普段は控えてるんですが、たまには食べたい。」しかしロダンお勧めの「かしらや」(川越の若松直営)は残念ながら満席だった。「かしら屋」だったら東口にもあるのだが。「じゃ、そこでホッピー飲もう。」隣の「力」の二階の加賀屋に入る。ロダンが大宮営業所に勤めていた時は良く来ていた店らしい。
     タン、ハツ、カシラ、レバーを二本づつ、冷やしトマトを一つ私が注文し、それにロダンがキャベツの辛みそとタコの唐揚を追加した。漬物を注文しないのは初めてのことではあるまいか。生のキャベツの量が半端ではない。取り敢えずのビールは美味い。生き返るようだ。それからホッピー。「『男おいどん』は最高です。涙が出ますよ、ホント。」今日のロダンは絶好調だ。一人三千円なり。
     「知ってる店があるんですよ。」会社の二年先輩(つまり私と同い年)の人が、退職してからやっている店だと言う。しかし遠い。駅からは随分遠く離れてしまい、十五分程歩いただろうか。店の名はScore。さいたま市中央区上落合八丁目三番二十六号。
     店内に入ると二人組がギターを弾き、喋りを交えながら自作らしいフォークソングを歌っている。こういう店なのか。壁にはアコースティック・ギターが三本掛けられている。ライブもやるが、今日はそうではなく、常連が適当に交代で演奏しているらしい。サイド・ギターの良く喋る男は昭和二十七年生まれ、リード・ギターは十歳程若いと、年齢を話題にする。次いでその若い方がビートルズをやる。
     見回すと客はみなほぼ同世代だ。酒はロダンがキープしていた焼酎の水割りだ。何も注文しないのも気が引けるのでおでんを頼んだ。熱いが美味い。奥さんは美人だ。「蜻蛉もギターを持ってましたか?」「三千円のを買った。中学三年の時だよ。」カポタストも買った。『星に祈りを』(ザ・ブロード・サイド・フォー)は循環コードだから簡単で、『ドナ・ドナ』なんかは楽譜を買ってアルペジオで弾くのも覚えたが、私には根気がなかった。
     そのうち、ステージはやって来たばかりの人に交代した。「今日、ギターを買ってきた。三十万円。この店のは音が悪いんだ。」そんなことを言いながら、ぼそぼそと、やはり自作らしい歌を歌う。私がトイレに言っている間に、マスターにロダンが先輩だと紹介したらしい。「どんな先輩かって不思議そうにしてました。」年が二つ上と言うだけで、私はロダンの先輩でもなんでもないのだから当たり前だ。
     ロダンの隣に座っていた、「昭和三十年生まれよ」と言う女性が連れのオジサンに歌を催促し、「それじゃ俺が弾く」とマスターがギターを抱えて伴奏する。吉幾三『北国』。オジサンの歌は下手だ。女性は渚ゆう子『京都の恋』が歌いたいのだが、それには常連のナントカチャンが弾かないとダメらしい。
     長居をすると、私自身が歌わせてくれと言いだしそうで危険だ。焼酎を二三杯飲んでお開きとする。知らない間にロダンが会計を済ませていた。申し訳ない。明日は又オープンキャンパスで出勤だ。

    蜻蛉