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    近郊散歩の会 第五回 志木
      平成二十九年九月二十三日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.10.20

     旧暦八月四日、秋分の初候「雷乃収声(かみなりすなはちこえをおさむ)」、彼岸の中日だが、明日も出勤なので墓参りは少し先に延ばすことにした。今回はロダンの企画である。暫く遠出が続いていたが久し振りの近場で、九時前に家を出れば良い。
     夜中はかなり降って、朝起きた時にはそれがまだ少し残っていたものの、家を出る時には止んだ。最近ロダンが企画すると雨になることが多かったが、今日は大丈夫だろう。ただ念のために折り畳み傘をリュックに入れた。
     志木駅に集まったのはロダン、ハコサン、ダンディ、オクチャン夫妻、カズチャン、あんみつ姫、ハイジ、マリー、スナフキン、ヤマチャン、桃太郎、蜻蛉の十三人である。「久し振りに大勢になりましたね。」「近いからかな。」
     東口に出る。「向こうの雲が黒いわね。」「俺は傘持ってこなかった。」「大丈夫だよ。」予報を信じて北東に真っ直ぐ歩く。「慶応志木はこの辺だよな。」東側にある。「立教は?」立教新座キャンパスは駅の反対側だ。「あそこの観光学部の初代学部長が野田一夫だよ。」スナフキンはこういうことを良く知っている。後に多摩大学を作って学長になった人物だ。「『大学を創る』って本があった。」
     本町三丁目交差点の左の角、民家のブロック塀の前に、「上の水車跡」として小振りな水車のレプリカが設置されている。志木市本町三丁目一番一号。「小さいんじゃないかな。」「木製かな。」触ってみれば木目調を施した金属製だった。

     引又宿(現本町一~二丁目付近)には上の水車・中の水車・下の水車(河岸の水車)と呼ばれる三つの水車がありました。
     上の水車が開設されたのは安永五年(一七七六)といわれ、引又宿の中では一番新しい水車でした。(案内板より)

     志木市商工会によれば、志木の周辺は小麦の栽培が適しており、明治の頃には製粉業者が七十二軒もあったと言う。
     江戸時代にはこの辺りは引又村と言い、新河岸川と奥州道の交点の宿場として栄えた。奥州道とは江戸日本橋を基点とする幕府の定めた奥州道中とは違う。甲州街道日野宿から小川新田・清戸(現清瀬市)・野火止・志木中央部を通り、荒川を渡って与野・大宮・原市を経て岩槻で日光御成道に合流する。たぶん鎌倉街道上ノ道(上州を経て越後、信濃へ向かう)と所沢辺で別れるのではないか。私たちは岩槻の辺りで日光御成道の一部として歩いている。

     近世になって在方町として発展していく引又は、もともとは舘本村の住民が耕作地として開発した新田(引跨新田と呼ばれていた)であり、引又に住民が定住したのは天正四年(一五七六)のことでした。舘本村の一部であった引又組を旗本新見正信が知行をし始める寛永二年(一六二五)になると引又は親村から分離独立し、引又村となります。
     また、同じ舘本村の一部であった針ケ谷組も元禄五年(一六九二)に分離独立するとともに入間郡に編入されました。このことは元来、柳瀬川が入間郡と新座郡の境界となっているために柳瀬川の対岸に突出していた地区を整理したものと考えられています。
     なお、引又は、曳跨と書くのが正しいという説もあります。この説によれば昔から船が新河岸川を溯上する際、船の水手が綱を肩にかけて川縁を川上へと船を曳いて登るにあたって、柳瀬川との合流地点を綱で曳きながら跨ぐところから曳跨という地名が生まれたということですが、東明寺にある寛文七年(一六六七)の庚申供養地蔵(市指定文化財)に刻まれている「蟇俣」の文字が示しているように、新河岸川と柳瀬川の合流地点付近の地形が蟇蛙(ひきがえる)のはいつくばった形に似ているところからきていると見た方が自然であると思われます。(志木市「志木市の歴史」より)

     古代には新座(ニイクラ)郡に属していた。新座郡の最初は新羅郡であり、渡来人によって開拓された土地である。「難民ですよね。」「そうだね。だけど、難民の方が文化程度が高かった。」そもそも日本の古代文化は、朝鮮半島からの渡来人によって築かれてきた。騎馬民族説は採らないが、天皇家自体が大陸からの渡来人の裔であることは常識であろう。
     郡内には志木郷があり、時代によって志楽・志楽木・志羅木、志木、新倉などとも表記された。明治七年の引又村と館本村との合併の際に、どちらも旧名を譲らず、県庁の仲裁でこれを採用して志木宿としたのである。但し新座郡志木郷は現在の和光市白子(川越街道の宿場)の辺りだったと言われている。白子もまた新羅に由来する。

     新座郡の前身である新羅郡(しらぎぐん)は、天平宝宇二年(七五八)に渡来新羅人七十四人のために新設された郡で、現在の和光市にあたる志木郷と新座市にほぼ推定されている余戸(あまるべ)郷の二郷を擁するのみの小さな郡でした。
     当時渡来人を受け入れた場所は郡と郡の境の閑地(未開発地)が多かったとされていること、また、新羅郡を「武蔵国閑地」に設置したという記述が『続日本記』に見られることから、志木地区周辺も近隣の入間郡や豊島郡などに比べると未開発地であったものと思われます。(志木市「志木市の歴史」)

     「高麗もあるだろう。」「あれは高句麗ですか。」高麗郡は七一六年、旧高句麗からの渡来人千七百九十九人を武蔵国に移して開拓された。初代郡長は高麗若光で、高麗神社の宮司は今でもその血筋を伝えて現在六十代目と言う。「天皇が行っただろう。」今週二十日の「私的」な旅行であった。日本の新聞は余り触れていないが、ネット右翼は狼狽して天皇を罵倒し、韓国各紙は歓迎する論調の報道をした。天皇の真意は分らないが、何らかのメッセージが込められていると見るべきだろう。私は天皇制には反対だが、現天皇は信頼に値する人物だと思っている。
     水車の脇には背の高い石の道標が立っている。「右宗岡村・土合村ヲ経テ浦和市ニ至ル。左大和田町・清瀬村・東村山村ヲ経テ府中・立川方面ニ至ル。」宗岡村は新河岸川の東側から荒川まで、土合村は現浦和市、大和田は浦所街道と川越街道が交差する辺りだ。つまり奥州道の道標である。
     ここを左に曲がる。「この豆は?」「フジですね。食べられますよ。」民家の藤棚に、十五から二十センチ程の細長い豆が垂れ下がっているのだ。

     藤の実の用もなさげにぶら下がり  蜻蛉

     「余り旨そうじゃないな。」ネット上には、これを炒めて食べたという記事が幾つか載っているが、食べ過ぎると腹をこわすとも言う。たまたま寺田寅彦の文章を見つけたので紹介しよう。この実は乾燥すると弾け飛ぶのである。

     昭和七年十二月十三日の夕方帰宅して、居間の机の前へすわると同時に、ぴしりという音がして何か座右の障子にぶつかったものがある。子供がいたずらに小石でも投げたかと思ったが、そうではなくて、それは庭の藤棚の藤豆がはねてその実の一つが飛んで来たのであった。宅のものの話によると、きょうの午後一時過ぎから四時過ぎごろまでの間に頻繁にはじけ、それが庭の藤も台所の前のも両方申し合わせたように盛んにはじけたということであった。台所のほうのは、一間を隔てた障子のガラスに衝突する音がなかなかはげしくて、今にもガラスが割れるかと思ったそうである。自分の帰宅早々経験したものは、その日の爆発の最後のものであったらしい。
     この日に限って、こうまで目立ってたくさんにいっせいにはじけたというのは、数日来の晴天でいいかげん乾燥していたのが、この日さらに特別な好晴で湿度の低下したために、多数の実がほぼ一様な極限の乾燥度に達したためであろうと思われた。
     それにしても、これほど猛烈な勢いで豆を飛ばせるというのは驚くべきことである。書斎の軒の藤棚から居室の障子までは最短距離にしても五間はある。それで、地上三メートルの高さから水平に発射されたとして十メートルの距離において地上一メートルの点で障子に衝突したとすれば、空気の抵抗を除外しても、少なくも毎秒十メートル以上の初速をもって発射されたとしなければ勘定が合わない。あの一見枯死しているような豆のさやの中に、それほどの大きな原動力が潜んでいようとはちょっと予想しないことであった。(寺田寅彦「藤の実」)

     志木小学校(志木市本町一丁目十番一号)の前には、百年記念(明治七年七月の開校)のモニュメントと校歌の碑が建てられていた。「俺の小学校に校歌なんかなかったな。」ヤマチャンはそう言うが、校歌はあったのではないか。「うちの方はあったよ。」「ありましたよね。」秋田でもたぶんあったと思ったが、秋田市立築山小学校(一年から三年まで)、保戸野小学校(四年の二学期まで)の校歌はネットで探し出しても全く思い出せない。歌った記憶がないのである。
     「二宮金次郎がいます。」薪を背負った後姿が校庭の塀の上から見える。「割りに新しいな。」民家の畑の鉄柵に蔦が絡まっている。「これは?」拳ほどの大きさのまだ青い実はムベに似ているかなと思ったら、「ムベですね」と姫が保証してくれた。「アケビではなさそうですから。」「食えるのかい?」植物の実を見れば、必ず食えるかと質問する人がいる。
     無病長寿の霊果として献上された天智天皇が、それを食べて「むべなるかな」と頷いたと言う伝説がある。これが「むべ」の語源だ。ブドウの食感に似ていると言うことだが、余り美味そうには思えない。アケビ科ムベ属。郁子と書く。
     次の角を右に曲がれば宝幢寺だ。志木市柏町一丁目十番二十二号。真言宗智山派、地王山地蔵院。寺の由緒では建武元年(一三三四)の創建と伝えるが、『新編武蔵風土記稿』では「開闢の年代は詳ならざれども、古き寺なりと云傳ふ」とある。

    昔大猷院殿(三代将軍家光)此邊へ御鷹狩の時は、かならず當寺へわたらせ玉ひければ、時の住僧謁し奉れり、其後しばし拝し奉りける、かくてぞ村内十石の地御寄附の御朱印を賜ひしとなん、又ある日御遊歴ありしに、境内せはきよし仰ありて、門前の地一町を加へ賜はりし、今に至りて大門の前に、又木戸を設けたる所、これのちに賜はりし地の界なりと寺僧いへり。(『新編武蔵風土記稿』)

     参道に入る角に大きな馬頭観音文字塔が建っている。台座も含めて高さ二・〇四メートル。文政三年(一八二〇)正月の造立で、市内最大と言われるように、こんな大きなものは見たことがない。元は引又宿から大和田に抜ける奥州道沿いに建っていたものだ。
     馬頭観音から山門までの参道もなかなか趣がある。「正面の松もいいじゃないか。」一本の赤松から七本程に別れた枝が、山門の銅葺き屋根に斜めに伸びている姿が良い。境内に入れば線刻の観音像があり、右手には十三仏が並ぶ。「何人いるか数えちゃったわ」とカズチャンが笑う。仏足石、尾張藩鷹場の境界石「従是南西尾張殿鷹場」。鷹場があったということは、開発されていなかったということである。彼岸の中日だと言うのに、墓参の人の姿は多くない。
     ヤマチャンやスナフキンはイチョウの巨木に驚いている。「これだけの樹で割れていないのは珍しいよ。」「あれもスゴイな。」見上げれば大きな乳が垂れている。他にも「宝幢寺の古木」としてケヤキ四本、タラヨウ、ムクロジ、ムクノキなど十三本がある。茶色の実が鈴なりになっているのはムクロジであった。「これは桜だろう。」枝垂桜もある。
     池にはカッパの像がある。悪さをして捕らえられた河童を寺の住職が助けたという伝説に基づくのだが、志木市内には至るところに河童の像が建っている。因みに河童は『遠野物語』が有名だが、全国に出没する。その中には今私たちがイメージする像(甲羅を背負って頭に皿を載せる)とは違って、毛むくじゃらの猿のようなものもあり、猿猴と呼ぶ地方もある。
     柳田國男は、河童は水神の零落した姿だと考えた。「猿と馬が関係しますよね。」河童は馬を水に引きずり込もうとすると言うのが河童駒引伝説である。石田英一郎によればユーラシア全域に及ぶ伝説で、馬は水神の象徴、あるいは水神に捧げる犠牲である。猿は本来馬を守る。これは孫悟空が弼馬温(馬飼い)の役に任ぜられたことからも分るのだが、だから河童は猿を嫌うと言う説が生まれた。しかし猿の駒引きもあって、そこから猿と河童は兄弟だとする逆の伝承も生まれた。

     ・・・・・ここにおいて、由来水辺の生物たる猿猴が馬の口綱をひいたまま、みずからもまた水神にひき入れられて河童そのものと化し、同時に河童駒引伝説発生の一因をなしたものであろうとされる同書(『山島民潭集』)の予想は、わが周囲民族の資料とあわせ考えれば、ますますその蓋然性をますのである。(略)
     さらにまた、厩馬の保護者である猿が、かえって馬の害敵である河童に変ずるということも、多くの民間信仰における善悪両面の神の性質、ことにわが国には外来の客神たる猿神の性格から見て、何らの思想上に矛盾をふくまないことは、すでに『山島民潭集』の中に論じつくされたところである。(石田英一郎『河童駒引考』)

     「川端龍子の河童が素敵でした」と姫が思い出す。「私も行きたかったのよ。」ハイジはたまたま参加できなかったから龍子記念館には行けなかった。小川芋銭の河童もあるが、私は清水昆『カッパ天国』の色っぽいカッパの方に馴染がある。黄桜のコマーシャルで知っている人も多いだろう。親しみやすいカッパのイメージを定着させたのは、この漫画ではなかろうか。
     河童の有名人と言えば沙悟浄だろうか。本来の西遊記では河童でもなんでもないが、砂漠である流砂河を川と誤解したため、日本では河童の姿に描かれる。そんなことは百も承知の中島敦は、水の中で哲学的煩悶を悩む悟浄を描いて(『悟浄出世』、『悟浄歎異』)、知識人の運命に思いを致した。
     長屋門の下では串団子を焼いて売っていて、醤油の焼ける匂いが漂ってくる。こういうものがあると、スナフキンは必ず手を出す。「姫は買わないの?」「買いません。」それにしても何故、寺の中で団子を売るのか分らない。秋彼岸ならオハギが相応しいと思うが、私が知らないだけで団子を作る地方もあるらしい。ホントに私はこういう民間の風習に疎いのだが、彼岸団子と言えば味付けをしない白いものだと言う。食べ終わったスナフキンの感想は「余り旨くなかった。」

     団子食ふ河童もありや秋彼岸  蜻蛉

     住所は志木市柏町である。ここから西に五百メートル程の柳瀬川沿いに、志木第三小学校と志木中学が並んでいる。その辺りに大石氏の「柏の城」があって、柏町の名はそれに由来しているだろう。
     大石氏は木曽義仲の子孫とも言い、山内上杉氏に仕えた四宿老の一に数えられる。八王子の高月城や滝山城などに拠って、武蔵国二十余郡を掌握した。山内上杉氏の没落後は北条氏に仕え、江戸時代には八王子千人同心となった。
     市場坂上のポケットパークには、いろは樋の復元模型が展示されている。草が茂る中に埋められた埋樋、大枡、滑り台のように登り下りする「いろは樋」の模型。写真も展示されているが、ガラスケースの中では光を反射してうまく撮影することができない。野火止用水の水を、新河岸川を越えて宗岡地区に通す木製の水路橋である。樋の背後には樹木が生い茂り、赤いザクロの実がぶら下がっている。

     旗本岡部忠直が宗岡村を支配するころ、その家臣白井武左衛門は、宗岡村が用水に乏しいのを憂い、新河岸川に流れ落ちていた野火止用水の末流を利用したいと考えました。
     野火止用水は、当時の川越藩主松平伊豆守信綱によって明暦元年(一六五五)に開削され、それは多摩川から引水した玉川上水の用水を今の小平市で分水し、新座市の野火止地区を通り、志木市の市場通り中央を流れ、流域の灌漑・飲料用水として利用されたあと、今の栄橋あたりで当時の新河岸川に流れ落ちていました。
     松平信綱の許しを得、寛文二年(一六六二)、白井氏は野火止用水を宗岡側に通すための巨大な木の樋を新河岸川の上に架けました。
     当時、新河岸川は舟運が始まっていたので、舟の運航を妨げないように樋は川面から約四・五メートルの高さに架けられました。幅約六十一センチ、長さ約七・二メートルの木の樋を四十八個つなぎ合わせて引又宿から対岸の宗岡村まで渡してあり、その樋の数がいろは歌四十八文字と同じ数であったことから「いろは樋」と名付けられました。(志木のシンボル「いろは樋」)
    http://kappa-no.net/tudura/syuun/iroha/iroha-doi.html

     川を跨がせて水を通すと言う発想がエライ。野火止用水からの分水は、市場坂上の「小桝」に貯められた後、地中の埋樋を通って引又河岸近くの「大桝」へと流れ込む。「大桝」を満たした水は、「大桝」の上部から落下し、その勢いで埋樋から「登り竜」と呼ばれる掛樋を昇りあがって新河岸川の上を渡り、対岸の宗岡地区にまで送られる。私はすっかり忘れていたが以前見た時には、上って水平になった部分から水を流していた(姫からの指摘で昔の作文を読み返して思い出した)。
     白岡の芝山伏越も相当な技術だと思ったが、江戸の土木技術はなかなか大したものなのだ。「佐原のジャージャー橋も面白かったですね。」あれも小野川を越えて用水を通す工夫だった。「それを考えるとローマの水道橋ってのは、とてつもないですね。」ローマ人は特に土木建築に優れた民族だった。古代ローマはキリスト教を受入れてしまったが故に滅びるのだが(偏見と思って良い)、ローマを継承したキリスト教徒はその技術を継承せず、中世ヨーロパにインフラという概念は生まれなかった。

     宗岡の宿 引又の宿より北の方、内川といふを隔てて向かふにあり(宗岡は入間郡に属し、引又は新座郡に入る)。この地は古への奥州街道にして、その頃相州鎌倉への通路なり。いまの中山道、上尾・浦和等の地より入りて、宗岡・引又及び野火止の南を折れて清戸の辺りより多摩郡の府中へかかり、いまの大山通道といふを経て、鎌倉へは行きしなり[この地に用水あり。引又の宿の安価を流れて内川の.橋際にいたる。かしこに枡をまうけ、川を隔て宗岡の地へ樋を通ず。(略)(・・・・その頃、白井某なる人、この樋の懸け方を工夫なして、四十八段にかけたりといふ。このゆゑに土人字して、いろは樋と称せり。(『江戸名所図会』)

     「いろは四十七文字に決まってるのに変だな。」これには驚いて、私は逆上してしまった。「いろは四十八文字」は常識である。しかしそうではない人がいるのだ。確かにいろは歌には四十七字しか使われていない。「赤穂浪士は四十七士、だから『仮名手本忠臣蔵』が作られた。」私はこれをうっかり忘れていた。しかしこの説を認めてしまえば「いろは樋」も「いろはかるた」も江戸火消も「いろは」の名称を返上しなければならないだろう。そんなバカなことはない。
     百科事典で、いろはかるたについての解説を比べると、『世界大百科事典』第二版では「いろは四十八文字をそれぞれ頭字とする」とある一方、『日本大百科全書(ニッポニカ)』では、「『いろは』四十七字に『京』の字を加え、これらを頭文字とした字札四十八枚」とあって、代表的な百科事典で記述が揺れている。
     問題は「ん」をどう考えるかということなのだ。「いろは歌」が作られた平安時代中期(十~十一世紀)には、表記としての「ん」字がなく、音便の場合は「む」や「ぬ」で、漢語の場合は「い」等で代用された。冷泉をレイセイ、レイゼイと読むのはそのためだ。だから平仮名は四十七字であったのは間違いない。ワ行の「ゐ」「ゑ」はあっても、ヤ行の「い」「え」は既になかった。
     しかし室町時代に入ってから「ん」文字が発明された。時代が騒々しくなって、撥音を含む言葉が多くなったからではなかろうか。それ以後、平仮名は「ん」を含んで四十八字になる。勿論、二音を合成した変体仮名(トキ、コト等)は除かれ、あくまでも一音一字の平仮名のことだ。
     それでは「いろは四十八」の観念がいつ頃から普及したか。『仮名手本忠臣蔵』を考えれば、元禄の頃にはまだ四十七字が普通だったかも知れない。また江戸火消しも最初は四十七組で、後に一組加えられたとも言う。これらを考えると、享保以降には、「ん」を含めて、いろは四十八文字の観念が普及したと考えられる。因みに江戸火消しは「へ」「ら」「ひ」「ん」を嫌って、「百」「千」「万」「本」と替えた。
     「いろはかるた」の場合、「ん」で始まる言葉は存在しないから、代わりに江戸(「犬棒かるた)では「京の夢大坂の夢」、京都(「一寸先は闇」)では「京に田舎あり」を配置して四十八枚にした。更に明治三十三年(一九〇〇)の小学校令施行細則によって、ひらがなは四十八文字と規定された。
     ついでに触れておくと、五十音図も「いろは歌」とほぼ同じ頃に作られた。梵語を習得した僧侶が、母音と子音との関係に基づいて日本語音の構造を示したものだが、一般には普及しなかった。明治になってさえ、大槻文彦が日本で初めての近代国語辞書『言海』を作った際、「なぜ、いろは順にしないのか」と福沢諭吉に不審がられている。日本人は構造とか体系と言うものが苦手な民族だった。

     信号を渡ったところに門だけが残されているのは、本町二丁目の旧西川家の中庭にあった潜門を移設したものだ。志木市本町一丁目一番。棟高三・〇三メートル、総長五・四五四メートルの欅造り。両袖は腰縦板張り黒漆喰塗りの塀が取り付けられている。
     「酒造業だってさ。」西川家は江戸時代初期に定住し、幕末には酒造業、水車業、肥料商を営み、引又の組頭を務めた。「刀傷ってこれですかね?」柱に何箇所か斜めの傷があり、武州一揆で付けられたものだと言う。武州一揆とは何か。

    一八六六年(慶応二)六月、武蔵国秩父郡上名栗村(現、埼玉県飯能市)の農民紋次郎、豊五郎らが中心となり、同郡、多摩郡、高麗郡の窮民に呼びかけ、広域にわたり同時多発的に蜂起した一揆で、同月十九日上野国に波及し終局を迎えた。一揆勢は高利貸的地主や村役人に対して施金・施米や米の安売り、質物・質地の返還などを要求した。要求項目が受諾されると村ごとに約束の実施をゆだねて、次の村に移動した。この時点で世直しの世界が形成されたことになり、打毀は避けられた。要求項目が拒否されたり、約束不履行の場合は打毀が徹底的に行われた。一揆勢は、横浜貿易に参加した在郷商人をすべて打毀すという目標を掲げ、打毀に際して、窃盗、傷害、放火、女犯と武器携帯を厳禁する綱領を、周知させている。鎮圧は幕府陸軍奉行配下の歩兵や諸藩があたり、一揆の中核は幕府農兵の武力に制圧された。(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)

     背景には安政の開国以来輸出が増大したこと、金銀の交換比率の違いに目をつけた欧米商人によって金が大量に国外に流出したこと等による物価高騰がある。更に元治元年と慶応二年の長州戦争による物資調達が輪をかけた。安政六年(一八五九)から慶応三年(一八六七)にかけて米価は五倍程度に跳ね上がった。十倍という説もある。
     下層階級は窮民化し、上層富裕階級との間に階級的対立が生み出された。かつては村の中で実施された救貧対策も施されなくなった。都市の下層民にとっては更に切実だった。幕府の統治能力は著しく落ちているから、一揆が起きた場合、速やかな鎮圧が出来ずに拡大する。武州だけではなく、幕末期に一揆は全国的に広まっていた。同じ年の五月に西宮で始まった一揆は伊丹、兵庫、大阪に拡大した。長州周辺でも八月から十一月にかけて一揆が散発している。慶応四年(明治元年)の戊辰戦争時にも全国的に一揆が拡大した。
     そして秩父に発した武州一揆の記憶が、後年の秩父事件に影響しなかった筈がない。

     通りを渡った角の少し低くなった駐車場に「下の水車跡」の立札が立っている。残っているのは何もないが、この低地が川の跡だろう。
     ちょっと行けば煉瓦造りの大枡が残されている。明治三十一年から三十六年にかけての改修で煉瓦になり、それまで川の上を通していたものを、鉄管で川底を通す方式に改めた。「木は腐りますからね。」
     新河岸川の土手に入るとキバナコスモスは目に付くが、ピンクや白はまだまばらだ。「新河岸川って源流はどこなのかな?」「川越の方だろうね。」調べてみると伊佐沼から流れてくるようだ。

    江戸時代、川越藩主松平信綱が、当時「外川」と呼ばれていた荒川に対し、「内川」と呼ばれた「本川」に、「九十九曲り」と言われる多数の屈曲を持たせることによって流量を安定化させる改修工事を実施し、江戸と川越を結ぶ舟運ルートとした。これ以降、本川沿岸には新たに川越五河岸をはじめとした河岸場が作られ、川の名も「新河岸川」と呼ばれるようになった。舟運は特に江戸時代末期から明治時代初めにかけて隆盛した。(ウィキペディアより)

     そして富士塚に着いた。田子山富士塚。志木市本町一丁目一番十号。敷島神社の境内だが、神社の社殿よりも富士塚が圧倒的な存在感を示している。高さ九メートル、麓の円周一二五メートル、斜度は三十九度という。草に覆われた塚のあちこちに石碑が建っている。
     登ろうとしたとき、「ちょっと待ってください。説明をお願いしてますから」とロダンから声がかかった。保存会の人に案内してもらうことになったのだ。テントを張って数人が待機している。貰ったチラシは「入山日予定表」で、たまたま今日が登山日に当っているのだ。八月、九月は月に三日、十月が四日、十一月が六日と言うような具合で、それ以外の日は登ってはいけない。
     富士塚の図解も貰ったが、山を平面で描いているから少し分り難い。「唐獅子がどちらも子を連れているのは珍しいんですよ。」浅間下社、琴平神社の先の登山口入り口に子連れの猿の像がある。無学な私は「富士塚に猿は珍しい」と言って、「珍しくない」と一言で切り捨てられた。
     孝安天皇九十二年の庚申の年の正月、駿河国が四方に割けて大海となり、その夜のうちに海から大山が現れた。それが富士山であるという伝説が江戸時代には広まっていた。それに基づいて猿が神使となったと言う。庚申信仰との習合で、富士山と猿の関係は富士講発生以降の話である。
     猿の像の下には御嶽講(實明講)の石碑が置かれている。狭い登山道を歩きながら説明を聞くのはとても疲れる。手っ取り早く書いてしまえば、明治五年六月、引又宿の酒・醤油醸造業者であった高須庄吉が築いたものである。いわゆる富士講が主体ではなく、豪商が築き上げた富士塚というのがまず珍しい。
     富士登山道に因んで、各所に板碑や石造物を配置してある。「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩」の巨大な石碑は池上本門寺の六十代住職による。ここは日蓮が法華経を埋めた五合五勺の経ケ嶽である。石碑を囲む玉垣には歌舞伎役者の名前が見える。尾上菊五郎、中村仲蔵は確認できたが、他に中村芝翫、岩井半四郎、坂東三津五郎などのものもあるそうだ。ここにある菊五郎は五代目で、九代目市川團十郎とともに歌舞伎の近代化を進めた人だ。
     「新河岸川を下る船は浅草の花川戸に着きました。川越街道沿いの宿場からは大変なクレームがついたんですが、酒を飲みながら江戸に着くんだからやめられない。」もともとは物資輸送のための舟運だが、人を乗せるようになってきた。川越を夕方に出発し、午後に花川戸に着くので川越夜舟と呼ばれる。浅草といえば吉原であり芝居小屋であった。つまり新河岸川を下る豪商は役者の贔屓となったから、その縁で役者が大勢、この富士塚建立に寄進したのである。
     八合目の烏帽子岩では当然のことながら食行身禄の名が出る。享保十八年(一七三三年)六月、身禄はここで断食に入り三十五日目に入定したのだ。富士講はこの食行身禄から始まる。「俺はまだ五合目だよ。」前がつかえているから後続はなかなか進めない。
     頂上の小さな石祠に祀るのは勿論コノハナサクヤビメである。晴れていれば富士山が見えるが、今日の曇り空では無理だ。地上では姫が退屈そうにしている。降りるのに結構苦労する。下から女性二人が登ってきたので、なんとか避ける。
     下りてからも説明は続く。「ニホンケンメイがあるでしょう」とは最初何のことか分らなかった。「ヤマトタケルです。」日本健命の碑であった。しかしこの表記は珍しい。日本書紀では日本武尊、古事記で倭健命と書くのが普通だ。富士山にヤマトタケルが登場するのは、駿河国で野火にあったとき、富士浅間大神を祈念して火から逃れたことによる。
     麓を少し曲がり込めば朱塗りの鳥居には松尾神社とあり、その奥に「高須某」の署名の碑がある。醸造業者が寄進したから松尾神社があるのだ。丸藤講(入間郡宗岡)の石碑もある。おそらくこちら側からの登山口もあったのだろうが、今は登れないようになっている。
     「文化財ですから、原状の証拠が示せないと修復できないのです。」原状の位置が分らないから下に積んだままの玉垣もある。それでもガイドは国の文化財に登録される日を心待ちにしているのだ。「国の指定になっている富士塚もありますが、それらは金網で遮って登れません。下谷の富士塚なんか、草ぼうぼうで全く手入れしていない。」確かにガイドが自慢するのも無理はないと思わせる。「明日は草刈です。」
     御胎内の入り口は塞いである。内部が崩落しており危険なのだ。それにしてもこんなに狭いとは思わなかった。「膝に草鞋を当てて潜ったと言います。」明治二十五年、吉田の胎内型の穴を発見したのは丸藤講の八代先達・日行星山(星野勘蔵)であった。星野は入間郡宗岡の人である。
     それにしても良いものを見た。志木にこんな富士塚があるなんて全く知らなかったのである。「大したものよね」とハイジも繰り返す。保存会が自慢する要点は下記のとおりだ。

     「富士塚」としての六要件すべてを満足している富士塚は、極めて稀です。
    1「山頂に祠」があること。
    2「烏帽子岩」があること。
    3「小御嶽神社」があること。
    4 富士山の溶岩「黒ぼく」があること。
    5「御胎内」(地下洞穴)があること。
    6「霊峰富士を遥拝」できること。

     敷島神社のことにも少し触れておかなければならない。元々村山稲荷、星野稲荷、水神社を合祀した神社である。村山稲荷は村山総本家が祀っていた。村山快哉堂の一族であろう。村山氏は武蔵七党に属していたと伝えられる。また星野稲荷は星野総本家の敷地にあったと言うから、丸藤講の星野勘蔵の一族に違いない。
     ちょうど十二時だ。シーソーや小型の鉄棒を設置した一角で休憩を取る。全員が座れるベンチの数はないからビニールシートを広げ、若い者はここに座る。オクチャン夫人手作りのキュウリの漬物、女性陣からは煎餅が回ってくる。「日が出てきたね。」そうなると少し暑くなってくる。
     トイレの入り口は男女共通で、アサガオの隣に女性用があるので、女性は入り難い。私の前で順番を待っていた女性が譲ってくれたので先に入る。桃太郎もやってきたが、彼は優しいから女性に先を譲る。
     その仲間が声をかけてきた。「富士塚愛好グループですか?」「そういうわけでもない。何ヶ所か見てるけど。」「富士塚が好きなんですよ。お薦めはどこですか?」私もそれほど詳しいわけではないが、ここは大したものではあるまいか。さっきガイドに教えてもらった一部を受け売りで説明して喜ばれた。「これから登ってみます。」後で思い出したが、白子の熊野神社にある富士塚も結構な規模だった。

     十二時四十五分に出発してすぐに新河岸川に出た。橋の欄干にはサギの彫刻が施されている。土手を歩くとフジバカマ、ハギが並んで咲き、ススキもある。「秋の七草ですよ。」球状に棘のある植物はフウセントウワタ(風船唐綿)だとオクチャンが教えてくれる。私は初めて見た。
     キンモクセイが甘く香ってくる。「時期が随分早いね。」半月早いのではないだろうか。「先日の佐原で感じたのも、ホントだったかも知れませんね。」モクセイは志木市の木に指定されている。
     「アッ、チョウチョです。」真っ黒くて大きい蝶が止まった。「ジャコウでしょうかね。」私に判定はできない。カメラを構えたが焦点を合わせているうちに飛んでしまった。姫はカメラを取り出す暇がなかった。「撮れましたか?」「ダメだった。」「良かった。」それがおかしいと、ハイジが笑う。
     河川敷の駐車場ではバーベキューの連中がいる。「車で来て飲んでいいのか?」「飲まないかも知れない。」「酒も飲まずにバーベキューなんかやるか。」この点について私は完全にスナフキンの意見に同意する。バーベキューとは昼間から飲むためにある。バード・ウォッチングの大きな望遠鏡を抱えて歩く人もいる。
     「あそこですよ。」「来たことがありますね。」新河岸川と柳瀬川とが合流する中州のような公園(いろは親水公園)に、村山快哉堂の背面が見える。いろは橋を渡って表側に入る。志木市中宗岡五丁目。看板は「家傳 中風根切薬 本舗快哉堂村山謹製」である。開け広げた店内にはガイドの女性が二人待機している。
     「どちらからいらっしゃったんですか?」「あちこちから。」毎度お馴染みの問答だ。「どういう会ですか。」「都市近郊を散策する。」ロダンは間違えている。「都市はつかないだろう。」「田舎回りだよ。」土蔵造りで二階は低い。

     旧村山快哉堂は明治十年(一八七七)十一月十二日に建築された木造二階建て土蔵造りの店蔵で、本町通り(本町三丁目)に面して屋敷を構え、「中風根切薬」「分利膏」「正齋湯」などの各種家傅薬を製造、販売する薬店でした。
     村山家は、創業以来、平成五年(一九九三)まで七代にわたり薬屋業を営んでいました。
     平成六年(一九九四)に村山家が建物を取り壊すことになったため、市教育委員会では所有者(当主村山源博氏)から寄贈を受け、平成七年(一九九五年)に解体後、四年の保存期間を経て、いろは親水公園中洲ゾーンに約二年間の歳月をかけて移築復元したものです。
     この店蔵の建築年代は、欅の通し柱に墨書されていた「明治十年丑十一月十二日建之」という文字の発見により確認されました。
     当初は白漆喰の壁でしたが、明治後期頃黒漆喰仕上げに改修されています。建築物として、店蔵が座売り形式の商形態を残す点や一階中央部分に吹き抜けがあること、また鉢巻の二段構成やムシコ窓及び開口部の枠回りなど、川越の店蔵とは異なる特有の意匠構成が見られることから貴重な文化財と言えます。(志木市教育委員会)

     「正齋湯は余り売れなかったようです」と言うのがおかしい。たぶん自家製の薬はそれほど売れず、問屋として仕入れた薬の方が売れたに違いない。戸板が欅の一枚板であること、二本の梁が直角に渡した梁を挟んで耐震構造にしていること、蔵の観音扉は重さ五百キロあること等々、女性ガイドが一所懸命説明してくれる。
     土蔵の壁の何層にも重ねた構造も珍しい。「骨組みに一本竹を使っているのも豪商の証拠です。普通は四本程度に割った竹を使います。」下縄、砂摺、大直し、砂摺、樽巻、縄隠し、砂摺、ムラ直し、中塗り、上塗り。なかなか有益であった。「引又宿古絵図」の写しを貰ったのは有難い(実は平成二十年に来た時にも貰っていた)。
     公園の片隅には卵の中から顔を除かせるカッパがいる。空を飛ぶカッパもいる。新河岸舟運の写真を掲示する看板もある。川で子どもたちが遊んでいるのは昭和二十八年の写真だ。「ふんどしだぜ。」「蜻蛉もいるんじゃないの?」私はまだ二歳だし、それに当時は秋田に住んでいる。
     もう一度橋を渡っていろは樋の跡を見る。ここに展示されているのは鉄管だ。「記憶があります」とカズちゃんが言うと、「知ってるよ、俺も記憶がある」とヤマチャンも大きな声を出す。

     停車場近くに来た時には、もう灯が明るく夕暮の空気の中に見えてゐた。路の傍には、綺麗な水の一杯に満ちたその溝渠が流れてゐて、ある処では盛に水車が動いていたりした。そして、その溝渠と一緒に、私達はさびしい、しかし静かな昔の引又の里へと入って行った。
     その溝渠を中央に持ったその町は風情に富んだ町であつた。大きな穀屋だの、運漕店だの、呉服店だのが軒を並べてゐた。河港らしい感じがそことなくあたりに漲ってゐた。私達はそこの中ほどにある一旅館のひろい一間に一夜をすごした。
     此町は武蔵野の中でも最も古い名高い町であつた。此処は往昔の奥州街道になってゐて義経などもここを通って行ったと言ひ伝へられてあった。それは所沢からわかれて来て此処から荒川を渡って、河口から、岩槻の方へと出て行った。
     あくる朝早く、私は町を歩いて見た。その溝渠の岸には桜が栽ゑてあつて、その下では町の人達が物などを洗つてゐた。そして、この溝渠は、昔はいろは樋で内川を越して向ふに行くやうになつてゐたのが、今は、町の外れで大きな鉄管になつて、川の底を越えて、向ふに行つてゐるのを私は見た。(田山花袋『一日二日の旅』より)

     県道四〇号を東に進み、「せせらぎの小径」を横切る。「何かの廃線跡かと思いました。」「野火止用水跡じゃないかな。」暗渠化した遊歩道のように見える。後で地図を確認すると、いろは樋で運んだ水を宗岡地区に分配する用水跡のように思える。
     「この辺の道は面白いですね。ここは四差路と言って良いんでしょうか?」「K差路ですね。」街道に不思議な角度で道がぶつかっているのである。その先の三叉路の角にあるのが一里塚で、笠付きの青面金剛が立っている。志木市中宗岡三丁目。

     宗岡小学校の北側の市道は、かつては奥州街道(甲州道ともいう)と呼ばれ、甲州と関東・奥州をつなぐ重要な道でした。(略)
     ・・・・・文化・文政年間(一八〇四~一八三〇)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には、「ここに少しうず高き塚あり。上に榎一株立てり』と記されていることから、この頃までは塚があったことがわかります。(志木市教育委員会)

     奥州道のことは既に書いた。「甲州道というのは。」「府中に抜けるからですね。」地図を見ると今まで歩いてきた道は、いろは通、志木街道になっていて、この東の秋ヶ瀬で荒川を越える。小学校の脇を北東に行き、あきはね通りを渡ると産財氷川神社だ。志木市中宗岡二丁目二十九番十二号。荒川土手(秋ケ瀬運動公園)の西になる。産財の意味は分らない。

     産財氷川神社(中ノ氷川神社)は永享年間(一四二九〜四一)に武蔵国一の宮氷川神社(大宮市)を分祀したものと言われています。
     拝殿の後の覆屋内にある本殿は、造営年代は定かではありませんが、明治二年に着工し、同十四年に完成したものと言われており、本殿石積み基壇部に「明治十二年十一月立建之 當村石工大嶋信正」との銘があるので、このころ建立されたものと思われます。
     本殿は一間社流造りで、建築資材はケヤキが使用されています。この本殿の掾を支える腰組は禅宗建築の手法に見られ、浜掾は、賑やか構成となっているなど、建築に工夫が施され、他にあまり類例がなく、また、鯉の滝のぼりや登り龍・下り龍等の彫刻も随所に施されており、意匠的にも優れた貴重な建造物であります。
     この本殿は、彫刻や建築手法などすばらしく、質の高い建造物であるとして、平成八年三月に、志木市指定文化財となっています。(志木市教育委員会掲示より)

     「富士塚かな?」「御嶽塚です。」一山講によって明治二十五年に造立された。塚には赤松が二本立っていて、麓には不動明王とセイタカ童子、コンガラ童子が立っている。ここは登ってはならない。頂上には御嶽山、三笠山、八海山の石碑が建つ。
     「あれは何だろう?」向かいの民家の庭先に、小さいながらも一間社流造の社殿が建ち、衣冠束帯の像が立っているのだ。「後でそちらに向かいますから。」その前に、水がなくなった桃太郎のためにサンクスに寄って水を補給する。
     さて、民家の門で「失礼します」と小さな声をかけて社をみる。御嶽教の教会だった。志木の御嶽信仰の中心になっているのだろう。「それならあの像はオオナムチか、クニノトコタチでしょうか?」オクチャンは詳しい。「それにしては時代が新しいわね。」夫人が言うとおり、オオナムチ(オオクニヌシ)やクニノトコタチが衣冠束帯を身に着ける筈がない。
     教派神道としての御嶽教については知らないことが多い。調べて見ると、クニノトコタチ、オオナムチ、スクナビコナの三神を御嶽大神(御嶽山座王大権現)とし、その大神を衣冠束帯の像で表すのであった。現在、この教派の教会数三百四十四、布教所数四十五、教師数千三百十三、信者数七万千三百五十(『宗教年鑑』平成二十六年版)となっている。教師には権小正、小教正、大教正等いくつかの階級があるようだ。
     突き当たれば荒川の土手だ。道でもない草を踏みしめて登る。アスファルトの道を少し行き、下に下れば菖蒲沼の三面六臂の馬頭観音が立っていた。

     天和三年(一六八三)に造立されたもので刻像であり、三面六臂の像容をとった美術的にみても大変価値の高いものである。銘文に「宗岡村念仏組」とあり、当時宗岡村に「念仏組」があったこともうかがい知ることができ、史料的にみて価値のあるものである。(志木市)

     「六臂とは?」「腕が六本。」馬頭観音は三面八臂や一面二臂のものもある。志木市によれば、馬の供養のためではなく念仏組(念仏講)の主尊として造られたと言う。天和の頃、つまり江戸初期には、念仏講が馬頭観音を主尊としていたということで、これは私にとっては新しい知識であった。念仏と言えば阿弥陀如来と考えるのは短絡的だったか。
     ここに来て漸くコスモスが見られるようになった。アスファルトの坂道が濡れているのは湧き水によるのだろうか。ここは荒川の横堤である。馬頭観音の背後には水田が広がっている。

     【横堤】
    河道とほぼ直角に、本堤から河川に向かって設けられた堤防のこと。洪水の流れを受け止めて流速を落とし、遊水池のような効果も期待できる。河川敷を広く取った場所に造られ、普段は耕地として利用されている他、天端部を橋に接続する道路として使用されているものもある。埼玉県比企郡吉見町から戸田市にかけての荒川に設けられた荒川横堤が代表的。岐阜県、愛知県の木曽川流域では、猿尾堤ともいう。(ウィキペディア「堤防」より)

     「川幅日本一の辺りもそうです」と姫も言う。「水塚もいくつか見たいところですが、コースの都合上、今日は行きません。」宗岡地区は荒川と新河岸川に挟まれ、昔から水害に悩まされた。そのための工夫のひとつが水塚である。以前、どこかで見た記憶がある。敷地内に、母屋より高く地面を盛って、その上に蔵を建てるのだ。勿論これは志木に特有なものでなく、荒川流域にはよく見られるものだ。

     再び宗岡小学校前に戻ってくると、宗岡村道路元標があった。志木市中宗岡三丁目一番一号。道路元標はロダンの得意分野のひとつだから、説明に熱が入る。大正八年(一九一九)の道路法で、各市町村に必ず一個の道路元標を設置することとされていた。「越谷にはないですよね、知ってますか。」「見たことないな。」昭和二十七年(一九五二)の道路法改正によって道路元標は必須ではなくなり、区画整理などによって廃棄されたものが多いのだ。
     「郷土資料館は何もないから寄りません。」その前に、明治四十三年(一九一〇)の洪水最高水位八・一九五メートルの立札がたっている。「こんなところまで。」この年、八月五日から降り続いた雨によって荒川、柳瀬川、新河岸川の堤防は決壊し、市場下から浦和の別所方面まで一面湖水化し、宗岡地区はその全体が水没したと言う。
     「明治四十三年の洪水は酷いものだったんですよ」とオクチャンが言う。「知っているんですか。」「災害史は少し調べましたから。」オクチャンの地元の久喜も昭和二十二年のカスリーン台風で大きな被害にあっていて、それが災害史への関心を生んだのだろう。関東一円に大きな被害をもたらした洪水である。

     明治四十三年(一九一〇年)八月五日ごろから続いた梅雨前線による雨に、十一日に日本列島に接近し房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、さらに十四日に沼津付近に上陸し甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、関東各地に集中豪雨をもたらした。利根川、荒川、多摩川水系の広範囲にわたって河川が氾濫し各地で堤防が決壊、関東地方における被害は、死者七百六十九人、行方不明七十八人、家屋全壊二千百二十一戸、家屋流出二千七百九十六戸に及んだ。最も被害の大きかった群馬県の死者は二百八十三人、行方不明二十七人、家屋全壊流出千二百四十九戸に上り、群馬県など利根川左岸や下流域のほか、天明三年(一七八三年}の浅間山大噴火後徹底強化した右岸側においても、治水の要中条堤が決壊したため氾濫流は埼玉県を縦断東京府にまで達し関東平野一面が文字通り水浸しになった。東京でも下町一帯がしばらくの間冠水し、浅草寺に救護所(現、浅草寺病院)が造られた記録が残っている。(略)
     また、この大洪水で東京でも被災者百五十万人の大きな被害が発生し、それまで利根川の治水費の負担をしていなかった東京府も、他の流域の県と同様に治水費の地方負担を受け持つようになった。荒川については大規模な改修計画が策定され、翌年より岩淵から中川河口まで、幅五百メートル、全長二十二キロメートルにもおよぶ放水路を開削する荒川放水路事業が着手されることとなった。事業は途中、第一次世界大戦に伴う不況や関東大震災などで困難を極めたが、蒸気掘削機や浚渫船を活用しながら延べ三百十万人の人員が動員され昭和五年(一九三〇年)に完成した。(ウィキペディアより)

     歴史に残る大水害だが、ここ数年各地で急激な豪雨による水害が頻発している。長雨ではない、突発的な豪雨によるもので、これに対する対策は遅れている。「記録的短時間大雨情報」が頻々と発せられる。つい先月も、この近くの新座で急に増水した柳瀬川でひとり亡くなった。
     ところで、明治四十三年のちょうどこの時、漱石は修善寺の菊屋旅館で生死の境を彷徨っていた。と言うより、確かに一度は死んだのだ。漱石は胃潰瘍の転地療法のために雨の降り始めた八月六日、菊屋に到着していた。

     当時、伊豆へおもむくのはかなりの大旅行だった。東海道線は箱根の山塊を北へ迂回して避け、御殿場から三島へと至った。三島からは伊豆鉄道が出ている。それは大仁が終点となっていて、大仁から修善寺までは俥を使った。漱石は雨中をひたに走った。明治四十三年の夏は異常な多雨で、東日本を中心に土砂崩れや洪水に見舞われたが、この日の雨はその序曲だった。(関川夏央「修善寺の大患と漱石の死生観」『坊ちゃんの時代』第五部)

     しかし何度も胃液を吐き続け、八月十七日に吐血したため、急の知らせで鏡子は雨をついて八月二十一日に修善寺に着いた。八月二十四日、漱石は大量の血を吐き、それが鏡子の着物をべったりと汚した。

    その間に夏目は私につかまって、おびただしい血を吐きます。私の着物は胸から下一面に紅に染まりました。そこへ皆さんが駆けつけておいでになります。顔を色がなくなって、目は上がったきり、脈がないという始末。(夏目鏡子『漱石の思ひ出』)

     修善寺の大患と言う。朝日新聞社の坂元雪鳥(松山中学での漱石の教え子)は、「漱石危篤」の電文を打とうとして、手が震えて書けないでいた。漱石自身は後にこう回想している。

     強いて寝返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛を挟む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。ほど経へて妻から、そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのですと聞いた折は全く驚いた。子供のとき悪戯をして気絶をした事は二三度あるから、それから推測して、死とはおおかたこんなものだろうぐらいにはかねて想像していたが、半時間の長き間、その経験を繰返しながら、少しも気がつかずに一カ月あまりを当然のごとくに過したかと思うと、はなはだ不思議な心持がする。実を云うとこの経験――第一経験と云い得るかが疑問である。普通の経験と経験の間に挟まって毫もその連結を妨げ得ないほど内容に乏しいこの――余は何と云ってそれを形容していいかついに言葉に窮してしまう。余は眠から醒めたという自覚さえなかった。陰から陽に出たとも思わなかった。微かな羽音、遠きに去る物の響、逃げて行く夢の匂い、古い記憶の影、消える印象の名残――すべて人間の神秘を叙述すべき表現を数え尽してようやく髣髴すべき霊妙な境界を通過したとは無論考えなかった。ただ胸苦しくなって枕の上の頭を右に傾むけようとした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めただけである。その間に入り込こんだ三十分の死は、時間から云っても、空間から云っても経験の記憶として全く余に取って存在しなかったと一般である。妻の説明を聞いた時余は死とはそれほどはかないものかと思った。そうして余の頭の上にしかく卒然と閃いた生死二面の対照の、いかにも急劇でかつ没交渉なのに深く感じた。どう考えてもこの懸隔った二つの現象に、同じ自分が支配されたとは納得できなかった。よし同じ自分が咄嗟の際に二つの世界を横断したにせよ、その二つの世界がいかなる関係を有するがために、余をしてたちまち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめたかと考えると、茫然として自失せざるを得なかった。(夏目漱石『思い出すことなど』)

     そしてまた明治四十三年は大逆事件と韓国併合(八月二十九日「韓国併合ニ関スル条約」発効)でも記憶されなければならない年であった。
     五月二十五日に宮下太吉が逮捕され、当初は四五人で済むかと思われたが、政府は無理矢理拡大して六月一日には湯河原で幸徳秋水を逮捕した。紀州では医師の大石誠之助も捕まった。堺利彦、山川均、大杉栄、荒畑寒村が逮捕を免れたのは、明治四十一年(一九〇八)の赤旗事件で収監中だったからで、これが幸いした。
     企てたのは宮下、菅野スガ、新村忠雄、古河力作の四人であり、他はその計画すら知らなかった。そして宮下、菅野にしても実行したわけではない。恐怖に陥った山縣有朋によって近代最悪の捏造事件に発展したのである。国家権力の恣意次第でこういうことを惹き起こすことができるのが共謀罪である。少しでも幸徳秋水に関係した二十六名が逮捕された。裁判では一人の証人も認められず、翌四十四年一月十八日、二十四名に死刑判決が言い渡され、幸徳秋水をはじめとして十二人が殺された。
     この事件は荷風、蘆花、啄木等に深甚な影響を与えた。荷風はドレフュス事件でのゾラを引き合いにだして、自ら文学者としての資格はない、戯作に沈澱すると宣言した。蘆花は一高での講演会でこの事件を語り幸徳等は志士であると表現し、志士を殺した政府に反省を迫った。
     啄木は平出修から極秘で裁判記録を借り出して熟読した。「時代閉塞の現状」を書くことによって(但し朝日新聞には掲載されなかった)、鋭敏な文明批評家として生まれ変わるのだが、しかし残された時間は余りにも短かった。すでに結核性腹膜炎で腹に水が溜まっていた。

     時代閉塞の現状を奈何にせむ秋に入りてことに斯く思ふかな  啄木
     地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつゝ秋風を聴く     同

     鴎外の立場は微妙だ。鴎外は山縣の庇護を受けていたから、体制批判に及ぶことはなかった。ただ特別弁護人の平出修に社会主義・無政府主義の講義をしている。そして事件後、『沈黙の塔』という短い寓話を書いた。思想弾圧への諷刺なのだが少し歯切れが悪い。
     漱石はこれについて何も語らなかった。しかし四十四年の博士号辞退にこの事件の影響がなかったかと想像することは許されるだろう。関川夏央・谷口ジロー『坊ちゃんの時代』第五部は明らかに、そう想像されるように描いている。

     ここでダンディはバスに乗って帰って行った。再び橋を渡って市場通り(本町通り)に入る。ここが引又宿の中心で、かつては道の中央を野火止用水が流れていたと言う。市場の名は、三と八の日に開かれた六斎市に由来する。
     「これこれ、この人の選挙区なんですよ。」ポスターが剥げかかっているが。「この、ハゲーッ」の絶叫で自民党を離党した豊田真由子である。
     「ここも文化財になってるんですよ。」ところがロダンは間違えて一軒隣の家で立ち止まってしまった。実は国登録有形文化財となっているのは朝日屋原薬局である。志木市本町二丁目四番四十三号。今でも営業していて、ガラス戸の中に薬が見える。明治四十五年建造の母屋を始め、土蔵、物置、洋館など七棟が、文化財に登録されている。その店頭に道標が立つ。

    膝折村へ一里九町四十一間二尺、大井村へ一里三十四町十一間、川越町へ四里三町三十二間一尺。大和田町へ三十五町十八間、浦和町へ二里十三町六間。

     「ここにも道路元標があったんですよ。」志木町道路元標だった。道路元標があるというのは、ここが志木町の中心だったことを意味する。
     西川地蔵堂。正徳五年(一七一五)西川四郎左衛門が建立したと言う。西川と言えば、さっき潜り門を見た家であろう。いぼとり地蔵ともされている。「子供の頃、イチジクの汁を塗ったよ。」「それで治ったの?」「今残ってないから治ったんじゃないかな。」
     そして駅に着いた。ロダンの万歩計は一万四千歩を記録したが、それは少なすぎると三人からクレームがついた。一万八千歩としておく。
     志木駅周辺には早くからやっている店がないので、一駅乗って朝霞台で降りる。ハイジ、オクチャン夫妻とハコサンは帰って行った。「以前はここのさくら水産によく来たよ。」「このごろ来ませんね。」「やっぱり不味い。」という訳で天狗に入る。飲み放題もあるが、先日で懲りているのでそれはやめた。参加者は九人だ。
     明日はスナフキンの結婚記念日だと言う。二十三日に式を挙げる積りだったが、お彼岸に結婚するものではないと言われて一日延ばしたのだそうだ。「別に何するわけじゃない。女房と食事する位だよ。」それはエライ。私はそんなことをしたことがない。
     桃太郎は月曜に巾着田のヒガンバナを見に行こうと、カズチャン、マリーを誘っている。今年はヒガンバナの咲くのが早く、もう終わりかけているのではないか。曼珠沙華まつりは十月一日までとされているが、それまではもたないだろう。五百ミリリットルの焼酎を三本空けてお開き。
     カラオケはビッグエコーである。最後は『いつでも夢を』の合唱で終わった。今日も良く飲んだ。


     この後一週間、安倍晋三のご都合主義による衆議院解散、小池百合子が新党の党首になると宣言したその日から政局は急激に動いた。民進党は消滅するだろうと予告しておいたが、こんなに早く現実になるとは思ってもいなかった。しかし野党結集は私の想像とは全く違う形になった。
     小池人気がまだ続くのならば、もしかしたら安倍政権は倒せるかも知れない。しかし最大の課題は安保法制と共謀罪を廃止することである。小泉純一郎の劇場型政治手法を踏襲し、安保法制に反対し護憲を主張する勢力を排除する小池は、安倍晋三より危険な匂いがする。反安倍政権の受け皿として全員合流を目論んだ前原誠司民進党代表の大博打は無残な失敗に終わった(今の時点ではそうとしか思えない)。
     そもそも安保法制に反対した民進党議員が小池新党に合流するのは、わが身の政治信条に対する裏切りであろう。前原は「名を捨てて実を取る」と言ったが、「実」さえも捨てることになったのである。小池に排除された側は新党を結成して共産党との連携に入るだろうが、余りにも数が少ない。私はどこにも「希望」は見いだせないでいる。

    蜻蛉