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    近郊散歩の会 第六回 間宮林蔵とその故郷を巡る
        (取手市・つくばみらい市)
      平成二十九年十月二十八日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.11.06

     パソコンを買い換えてからメール設定に手間取った。Windows7で標準装備されていたWindows Live MailがなくなってOutlookになっているのだが、これは殆ど使い物にならない。マイクロソフトはどういう感覚をしているのだろうか。調べると、別にOutlook2016と言うのがあって、これならほぼ以前と同じように使えると分ったが実に紛らわしい。ところが設定してみると受信は出来ても送信できない、返信は出来ても新規メールが作れない等、おかしなことで迷路にはまった。結局解決まで二週間もかかってしまった。
     選挙後の希望の党、民進党の見苦しいテンヤワンヤは余り馬鹿馬鹿しいので云々したくない。このところの問題は、日産、スバルの無資格検査、神戸製鋼のデータ改竄等、品質に関わる重大な不始末を会社ぐるみで行っていたことが発覚したことだ。東芝の不正経理に発した問題は未だに解決の目処がたたない。ものづくり日本の栄光はとっくに消え失せてしまっていたのだ。時代はどんどん悪くなっていると、私は下降史観に捕われてきている。
     旧暦九月九日。霜降の次候「霎時施(こさめときどきふる)」。小雨どころか、実に雨の多い十月だった。先週末の台風は各地に大雨による被害を齎したが、また台風二十二号が近づいて秋雨前線を刺激し、今日から数日雨が続く予報になっている。ただ降り始め時刻の予想は昨日の時点から少し遅くなり、午前中はなんとかもちそうだ。

     今日の集合場所は関東鉄道常総線の新取手駅だ。関東鉄道常総線なんて初めて聞くが、常磐線の取手駅と水戸線の下館を結ぶ五十一・一キロの路線である。関東鉄道にはもう一本、佐貫・龍ヶ崎間の四・五キロを走る龍ヶ崎線もある。
     武蔵野線の南流山でつくばエクスプレスに乗り換える。たいていこの電車に乗るのではないかと予想していたのに、仲間の姿は見えない。実は日暮里から常磐線で取手に出て、関東鉄道常総線に乗り換えるのが一番安かった。うっかり「乗り換え案内」の第一候補を選んでしまって、二百七十円損してしまったが、高い分、所要時間は二十分程短い。
     守谷で関東鉄道常総線に乗り換える。全線が非電化で、九時三十分発取手行きは一両だけの気動車だ。小学生の男の子が父親に「これが見たかった」と囁いている。鉄道ファンであろうが、父親は一向に興味がないらしい。車内には料金箱と切符回収箱が設置されていて、別の小学生の男の子が不思議そうに母親に訊いている。無人駅が多いのだろう。守谷から五駅目、新取手駅には九時四十七分に着いた。降りたのは二三人だ。
     改札の前には、あんみつ姫がひとり不安そうな面持ちで立っている。「ダンディと二人だけなんです。今日は三人で決まりでしょうか。」「スナフキンは来るって言ってたよ。」外に出て煙草を吸っていると五分後に、私とは逆の取手からの二両編成が到着し、オクちゃん、カズちゃん、マリー、スナフキンの四人が降りてきた。これで七人になった。
     表題の通り、今日は間宮林蔵の故郷を歩くのである。九月の江戸歩き第七十二回で伊能忠敬の佐原を歩いたから、その続きのような按配になった。「でも佐原みたいな町ではなく、田舎です」と姫は言っていた。間宮林蔵はロダンも好きな筈だが生憎体調が思わしくないらしい(後日原因が分って、大ごとではないと安心した)。桃太郎は折角昨夜の内に弁当を作ったのに寝坊してしまったと、マリーに連絡が入っている。飲み過ぎたか。その弁当は朝飯になったようだ。
     駅舎を正面から見ると、三角屋根には丸いステンドグラスが嵌め込まれている。正面入口には薄茶系統の石を貼ったゲートが造られ、モダンと言うか、なんとなく童話風な趣だ。小さなロータリーの中央に立つ抽象的な女性半身像は、東京藝術大学卒業制作で取手市長賞の受賞作である。なぜこんなところに東京芸大が関係するのか。私は知らなかったが、実は東京芸大の取手キャンパスがあるのだ。美術学部先端芸術表現科の全学年と、絵画・彫刻・工芸・デザイン・建築の各科の一年生が学んでいる。この辺りは広大なキャンパスが確保できるので、柏の葉には東大柏キャンパスもある。
     但し、久喜から撤退した東京理科大学の例もあり、郊外のキャンパスがいつまで続くか、保証の限りではない。私自身は、大学は街中にあった方が良いと思っている。喫茶店、雀荘、飲み屋、映画館は大学生にとって必要不可欠ではないだろうか。
     駅前に商店は数軒あるがコンビニはない。途中で食事をする店もないから弁当を絶対に忘れるなと、姫は事前に念を押していた。雨がぱらついてきたが、傘を開く間もなくすぐに止んだ。
     「この辺は結構高台になってるんです。」確かに左手の坂道はかなり下に続いている。「カズちゃん、もう雨は止んでるよ。」そして意外に新しい住宅が多い。新興住宅地が広がっているのだ。一九六〇年代に東洋観光興業が駅北口に住宅地を造成して以来、この辺りから取手にかけて、常総ニュータウンやパークシティ守谷などの大規模開発が進んだと言う。
     通勤時間帯は一時間に七本から十本、日中でも四五本が通っているので、常磐線(取手乗換え)やつくばエクスプレス、武蔵野線(守谷乗換え)を使うには便利なのだとは、後で気付いたことである。但し下りは水街道を過ぎると本数が減ってしまう。取手から水街道までは複線、その先の下館までは単線だ。
     空き地にはセイタカアワダチソウが目立ち、なんとなく索漠とした気分になってくる。やがて田圃が広がってきた。太陽が出ていないので、どちらの方角に向かって歩いているのか分らない。結局後で地図を確認することになるのだが、新取手駅北口からほぼ北東に向かっているのだ。
     十五六分歩くと、うら寂れた湿地帯の公園に着いた。ゆめみ野四丁目辺りになるだろうか。細い水路の水は汚く、水草が繁茂している。水路に渡した橋が狭い。「落ちないように気をつけて下さいね。」枯れた葦やススキも生えていて荒涼とした景色だ。
     植生浄化水路の解説板があった。良く分からないが、水生植物が繁茂することにより微生物や昆虫が生息して水質が浄化されるということらしい。四阿もあるが、余り休憩したい場所ではないのは曇り空のせいかも知れない。「水の公園」と手書きした、子供が工作で作った鳥居のような看板もあるが、正式にどういう名称の場所なのかは分らない。
     用水を渡って田圃の中の農道を行く。穭(ひつじ)がかなり伸びていて、遠くから見ると植えたばかりのようだ。先に小さな稲穂をつけているものもある。飢饉の時代にはこれも貴重な食料源だったが、今では鳥のために残されているのだろうか。「田圃の真ん中だから曲がり角が難しいんです」と姫は言いながら、それでも迷わず歩いている。「向こうの森が目的地です。」
     時折、狭い農道を車が走っていくが、歩いている人はいない。「アオサギだね。」田圃の中に、アオサギが、五メートルほどの間隔を空けて七八羽、向こう向きに整列しているのがおかしい。こんなにアオサギがいる景色はあまり見かけない。
     やがて小さな集落に入った。「ホウキグサですよね。」カズちゃんが指さすのは、畑の中で赤く染まって、大きいものは一メートル程の球状になった草である。「コキアです」と姫が言う。「何にするんだろう?」「観葉植物かな。」「こんなもの、よっぽど大きな部屋じゃなくちゃ入らない。」昔はこれを乾燥させて、そのまま庭箒にしたらしい。

    ホウキギ(箒木、学名: Bassia scoparia)はヒユ科バッシア属の一年草。別名、ホウキグサ(箒草)。バッシア属のうちホウキギなど数種は、一時、花被の特徴から、ホウキギ属 Kochia(コキア)に分離されていた。学名の「スコーパリア」は「ほうき状の」の意。(ウィキペディア「ホウキギ」より)

     コキアは旧分類であった。『日本大百科全書ニッポニカ』ではアカザ科だと書いている。ヒユ科とは双子葉植物の分類群で、アカザ科がヒユ科に含まれたのは最近の分類らしい。こんなことを書いていても、それがどういう意味なのか私には分っていない。私は無学で知らなかったが、秋田で食用にするとんぶりはこのホウキグサの実である。

     食品としての「とんぶり」の由来は、箒の材料とするためにホウキギを広く民間で栽培していた近世の日本にて、飢饉に瀕した出羽国の米代川流域(現・秋田県比内地方)に暮らす民がその果実をなんとか工夫して食べることに迫られ、加工したのが始まりとされる。以後これが当地域の特産物として定着し、また、現代では日本全国に知られるまでに普及した。ただし、製法自体は出羽国の民の発明とは考えられず、古くから生薬としては知られていながら積極的には食べられてこなかったものと思われる。(ウィキペディア「とんぶり」より)

     飢饉で生まれた食い物であったか。しかし、とんぶりで腹を満たそうとするのは大変で、余り信用できそうにない説だ。それでも口に入れば良いということか。「畑のキャビア」とも呼ばれるが、そんなに大したこのではない。滅多に買わないが、我が家ではとろろや納豆に混ぜたりする。漢方では地膚子と呼ばれて、利尿強壮に効果があるとされる。
     歩くに連れ、庭先や畑にホウキグサを栽培している家が多くなってきた。「箒って最近見ないよな。」団地の階段掃除には箒が必要だから我が家にはある。見なくなったのは座敷箒だろう。最近知ったのだが、埼玉県富士見市周辺は座敷箒の一大産地で、明治から昭和初期にかけて「東京箒」として売り出していた。これを復活させようとしている人と最近知り合った。富士見市立水子貝塚資料館と難波田城資料館で市民学芸員をしている小森和雄氏である。座敷箒を復活させるには、原料となるホウキモロコシ(イネ科)の栽培から始めなければならない。難波田城の一角を借りて栽培を始めたが、箒一本作るのにホウキモロコシ百本が必要なのに、良質のものは一割程度しか採集されないと言う。「日光例幣使街道で座敷箒を見ましたよ」と言うと、「鹿沼ですね」とすぐに答えてくれた。
     農家の庭先には熟した柿が大量に実っているが収穫するような気配はない。「今はほとんど取らないですね。」「渋柿じゃないかな。」「形はそうですね。」だから鳥も食わないのか。
     その角を曲がると、平屋の倉庫のようなコンクリートの建物(池田屋)の正面に岡神社の石造明神鳥居が建ち、そこから急な石段が上に伸びている。取手市岡一一七九番地。取手は茨城県だが常陸国ではなく下総国である。「皆さん行ってきて下さい。私は待ってます。」鳥居の脇には石造の水鉢が置かれ、側面に「文政八閏三月」とある標石が立っている。正面の文字は読めないが、先頭の「新」だけ分った。
     石段の幅は足の半分ほどしかなく踵がはみ出てしまう。一段の高さも低いので上りにくいこと夥しい。かなりの急坂で手摺を掴まないと危険だ。最初の長い階段を登りきると、更に塚があって、その上に社殿が建っている。ここは大日山古墳である。この辺りは取手市に合併される前は北相馬郡藤代町であった。その名の通り、中世には下総相馬氏の根拠地である。

    茨城県文化財指定史跡
    大日山古墳 昭和十四年二月一日指定
    この古墳は岡台地の先端に造営された古墳で、高さ約二・八メートル、底径十八メートルの美しい円墳である。この古墳は未発掘の古墳で副葬品等は不明である。かつてこの付近から各種玉類・鉄鏃等が発見されたが、築造年代は古墳時代後期でないかといわれている。
    中・近世になって大日信仰が盛んになると、この墳丘に種々の石碑や石造仏の類が建てられたので、大日山の名はそれによってつけられたのであろう。現在この墳丘上に岡神社が創建されている。
    昭和六十一年八月 取手市教育委員会

     「取手市教育委員会」の文字は上から貼ったものだから、元は藤代町教育委員会の解説であろう。大日信仰は密教の大日如来に基づくものだろうと想像はつくが、それならば大日如来の石像があってもよいと思う。それは見つけられなかった。「中・近世になって大日信仰が盛んに」なったなんて私は知らなかった。他では余り聞いたことがない。
     最後の階段を上ると小さな社殿があった。中を覗くと伊勢神宮式年遷宮の白旗が保管されている。しかしこの神社の祭神は不明だ。そもそも由緒が全く分からない。さっきの説明でも、「現在この墳丘上に岡神社が創建されている」とあるだけで、創建時期も何も書いていないではないか。大日如来はアマテラスと習合するから、神明社の系統かとも思ったが、それなら鳥居は神明型にするだろう。ここは明神鳥居だった。社殿の脇には壊れた宝篋印塔数基と石仏がいくつか置かれている。
     もう一度塚の麓まで降りると、円墳の周りを囲むように石仏がたくさん並んでいる。八海山、三笠山、青面金剛文字塔、猿田彦命、子ノ大権現。それに二十三夜塔がいくつもある。「これで二十なのか?」「十」が横並びになっているのだ。十九夜には如意輪観音、二十三夜は勢至菩薩を本尊とするが、同じように女人講である。「キツネが可愛いわね。」
     「こっちを見たかい。」スナフキンの言葉で更に回り込むと、きれいな駒形光背の青面金剛が立っている。左手に握るショケラの、裸で蹲るような格好がこんなにはっきりしているのは初めてだ。邪鬼の表情もきれいだ。そして見ざる言わざる聞かざるではなく、三匹の猿が烏帽子にちゃんちゃんこ姿で正面を向いてしゃがみ込んでいる。これは三番叟の扮装だろう。三番叟の猿を初めて見たのは青梅街道の途中、小平の延命寺門前だったが、これは相当珍しいものだ。ただ年代は分らない。
     階段の裏側は広場になっていて、地元では平将門の愛妾・桔梗の館(朝日御殿)があったと伝えられている。敗死した悲運の英雄のそばに、身を投げた愛妾の伝説が付きまとうのはお定まりである。ここに将門が城を構えたという伝説もある。また関東鉄道常総線の稲戸井駅の近くには、桔梗の墓と伝える桔梗塚があるようだ。常陸から北総にかけて将門伝説は至る所にあるだろう。
     姫は下で退屈しているだろう。階段を降りるのが難儀だ。爪先がはみ出してしまう。「こういうときガニ股だといいんだよ。」手摺につかまらなければ危険だが、それにしても雨が降っていなくて良かった。
     「何かありましたか?」「きれいな青面金剛があった。ショケラと三番叟。実に珍しい。」「それは良かったですね。後で写真を送ってください。」上手く撮れているだろうか。外に出ると池田屋はもやし製造業だった。「もやしも大変なんだよな。安すぎて。」

     用水を左に見ながら歩く。クサギの真っ赤なガクに黒い実が美しい。「名前以外は全部きれいな花だね」とオクちゃんが言う。濃いピンクに紅葉しているのはニシキギのようでもあり違うようでもあると、オクちゃんと姫が悩んでいる。マユミだろうか。
     小さな石橋で水路を渡ると農家の庭の中に大きな地蔵が立っている。おかしな場所にあるもので、恐らく別の場所から移転させたと思われる。石像と舟形光背の表面が赤錆色に染まっているのは、石に鉄分が混じっているからか。こういう石の種類についてはドクトルかロダンがいれば鑑定してくれただろう。

    旧藤代町文化財指定彫刻 地蔵大菩薩
    このお地蔵さんは、舟形光背(二四九センチ)立像(一七〇センチ)からなり、相馬日記に「仏島と名づけしは、かたへに地蔵の石像(いしのみかた)、又は何くれの仏の石像たてればなり」、と仏島の名のいわれがある。
    建立は寛文六(一六六六)年、順海、祐海、順永の各法印権大僧都の名が刻まれる。
    地蔵菩薩が、特に子育てにご利益があるといわれることもあろうが、地蔵像は如意輪観音像と並んで目立って多い。その中でも光背をつけた地蔵は、大きさも県下でも最たるものである。

     この解説は主語と述語が上手くつながらず、良く分らない。「仏島」と書かれても何のことかと思うばかりだ。「なんだか危なっかそうに立ってますね。」オクちゃんの観察通り、後ろに反っくり返っているようだ。その少し奥にある小さな坐像は、左右、背面、上を平らな石で囲んでいる。

    旧藤代町文化財彫刻 野仏
    名もない野仏である。舟形光背(七八センチ)、座像(五五センチ)で藪に囲まれた岩屋のたたずまいである。
    筑波山に「弁慶の七戻り」という個所がある。屏風岩の支える屋根蓋の巨岩が今にも落ちそう、さすがの弁慶も二の足・三の足を踏んだという。この仏様のすまいもまさにその通り、地震はおろか、咳一つでも崩れそうな所に、屈託なげにおはす。
    刻字を辿ると、延命寺法印順海、延宝八(一六八〇)年とある。座像は立像に遅れること十四年である。

     解説が大袈裟である。今度は用水を右にして歩く。やがて用水を逸れると、小高い丘の上に墓地が見えた。延命寺の墓地だろうか。その坂下の道路脇に「岡台地と平将門」の標柱が立っている。

    岡台地と平将門
    ここ岡台地は、一望千里といわれる平坦な水田地帯の広がるわが町にあって唯一の台地で古い歴史を秘めているところである。特に、承平の乱(承平五年・九三五年)を起こした平将門にまつわる史跡が散在し、伝説が語り継がれている。
    大日山古墳(昭和十四年県指定文化財)
    《平将門にまつわる史跡》朝日御殿跡(城跡)・延命寺・仏島山古墳(昭和四十八年町指定文化財)平成十七年三月合併時指定解除

     道路との境には一メートル程の高さで切り揃えられた大木が根元を接して並んでいる。「墓地の目隠しだったんじゃないか。」スナフキンはそう推測する。それにしても、こんな風に切らなくても良いではないか。「死角になって危ないんだよ。」確かに、夜この辺りを歩いて大木の陰に引き込まれては危険だ。
     その裏側に小さな祠があり、中を覗くと金色の位牌のようなものが収めてある。受付窓口のカウンターのような台に本が一冊置かれているのは意味不明だ。墓地の崖の突き当たりにはかなり風化した舟形光背の六地蔵が並び、改葬記念碑が立っている。ここが本来の墓地で、丘の上に改葬したのだろう。
     さっきの地蔵と野仏はここにあったのではないか。そうすれば「仏島」の解説も平仄があう。地図を見れば、この墓地の奥の方に仏島古墳があるようだ。
     やがて小貝川の土手が見えてきた。「向こうに見えるのが現在の岡堰です。」県道251を渡る。用水路に小さな堰(水門)があるが、これが岡堰ではない。土手の上は自転車道になっている。「気をつけて下さい。下見の時は自転車がビュンビュン走ってました。」今日は天候のせいもあってか、擦れ違ったのは二台だけだった。
     「ヒバリですね。ぜんまい仕掛けみたい。」ピーピー啼きながら羽をせわしなく動かす姿は確かにぜんまい仕掛けのようだ。「随分いますね。」私は三羽確認できた。ヒバリが飛んでいるのを見たのは初めてだ。ヒバリは茨城県の「県民の鳥」になっていた。ついでに県の花はバラ(これは当たり前か)、県の木はウメ、県の魚はヒラメだそうだ。ロダンは知っているだろうか。
     「茨城百景・岡堰」の石柱を見て、小貝川の中の島に入る橋(岡堰中の島橋)を渡ると、右手(下流)に並行して新しい堰が見える。「あそこは自動車も人も通れる橋で、ここは人間しか通れません。」
     中の島は小さな公園として整備されており、最初に目に入るのは間宮林蔵の像だ。一メートル程の台座の上に立つ像はおそらく等身大だろう。林蔵の身長は一五七センチと推定されている。鎖を繋げた水深を測る器具を持っている。間宮林蔵のことは、後で記念館に行った時に触れる積りだから、ここでは省略する。
     川を望む場所には石造の旧岡堰水門が移築されている。本来の岡堰は、中の島と左岸を結んでいた。つまり私たちが渡ってきた橋の反対側である。今そこには橋はない。「こんな大きなものをよく移築しましたね。」オクちゃんが感心する様に、大した事業である。

      岡堰の沿革
    江戸幕府が成立し、安定期に入り始めた寛永年間(一六二四から一六四四)、関東郡代となった伊奈半十郎忠治は、洪水を防ぐために鬼怒川と小貝川を分離しました。そして取手市戸田井付近の台地を切り開き、利根川と合流する今のような小貝川の流路が完成しました。
    小貝川は鬼怒川と切り離されることで川の流れが安定し、寛永七年(一六三〇)には岡堰が設けられました。岡堰にためられた水が用水となり、相馬二万石と呼ばれる広大な新田が誕生しました。
    しかし、工事は現在のように簡単ではなく、多くの労力と様々な失敗を繰り返しながら行われました。勢いの強い水の流れを変えるために、萱と竹を使った独特の工法である「伊奈流」が苦労の末に編み出されました。昭和に入ってからも、人々は堤防や堰の決壊時には、この伝統的な工法である「伊奈流」で危機を乗り切ってきました。(取手市)
    https://www.city.toride.ibaraki.jp/maibun/bunkakatsudo/rekishi/rekishiisan/ibaraki100sen.html

     この解説でも「関東郡代」とされているが、「関東代官」が正しいことは既に何度か記してきた。伊奈忠治の時代に設けられた堰は何度も改修が必要になった。若年の間宮林蔵が才能を見出されたのも、この岡堰改修工事の際である。但しここに移築されたコンクリート造りの水門は昭和二十一年のものだ。明治のレンガ造りの一部も残されている。

    本改築は、昭和八年小貝川改修工事の起工に伴い計画され、可動堰は工費三九万円、昭和十二年二月着工同二十一年三月竣功、引上扉式十一連延長六三米純径間四二米、洗堰は工費六千有余万円、昭和二十八年十一月着工、同三十五年三月竣功、固定堰延長一〇〇米、越流部有効巾員九二米である。(岡堰改築記念碑より)

     「台風の後は、河川敷が水没してました。」姫は二回も下見をしているのだ。「最初の時は、お弁当を持たずに来て、途中で断念してしまったんですよ。」新取手駅に降りて、弁当を買う店がないので愕然としたのである。二度目が台風の後というから今週も来ているのだ。「小貝川は利根川の支流かな。」「そうですよ。」

    栃木県那須烏山市曲畑の小貝ヶ池に源を発し南へ流れる。五行川、大谷川等の支流を合わせ、茨城県取手市、北相馬郡利根町と千葉県我孫子市の境で利根川へ合流する。
    江戸時代寛永期頃は、小貝川は現在のつくばみらい市寺畑(旧・谷和原村)付近で鬼怒川に合流していた。
    その後、鬼怒川は瀬替え工事が行われ、板戸井を開削し常陸川に合流させたので、小貝川と合流しなくなった。(ウィキペディアより)

     もう一度橋を渡って下流に架かる新しい堰を設けた橋を渡る。八つの建物によって水門が調節されるのだが、それぞれ建設年月が違って何年かおきに完成したものらしい。いずれにしろ平成になってからの建造だ。小貝川を渡ればつくばみらい市に入る。
     「ここから二・五キロです。」それなら三十分とみればよいか。そろそろ腹が減ってきたが、今は十一時半だからちょうど良い。「少し陽が出てきたんじゃないかしら。」薄日が差してきたようだ。ビニールハウスの中には鉢植えのシクラメンが大量に並べられている。赤、薄いピンク、濃いピンクの三色が咲いている。小椋佳は「うす紅色のシクラメンほどまぶしいものはない」と歌ったが、私は一向にそんな風には思わない。
     田圃が広がる中、何故かきれいな芝生になった一角で少し休憩する。「この芝生は何でしょう。ゲートボール場かしら。」「違うよ、切り売りするんだろう。」それがスナフキンの見解だが、本当かどうかは分からない。
     農家の庭先に表面がゴツゴツしたカボチャ大の緑色の実がなっている。「これ何だっけ?」確かオニユズではなかっただろうか。しかしオクちゃんは「シシユズです」と断定した。調べてみると同じもので、獅子柚子と呼ぶのが一般的なようだ。「こんなもの食えるのか?」「食えないと思う。」しかし生食はしないが、マーマレードなどにはするらしい。
     ピラカンサスの真っ赤な実も今が盛りだ。畑の中に小さな富士塚があって、ちゃんと浅間神社の鳥居も建っている。「烏帽子岩もありますね」とオクちゃんが感心する。
     そのすぐ先には水神宮と天満宮の社が並んでいる。つくばみらい市上平柳百四十番地。常陸国筑波郡上平柳村である。鳥居の注連縄の真ん中に、藁で作った酒桶の形がぶら下がっているのは見たことがない。「なんて書いてますか?渡船?」奉納の文字は分かるが、その下の文字が渡船かどうか。水神宮の鬼瓦には「水」の文字がある。
     「ここでお弁当を食べます。記念館はすぐそこですから。」十一時五十七分。ピタリだ。境内に接した集会所(上平柳公民館の看板があった)の濡れ縁で弁当を広げることになる。腹が減っていた筈なのに、おかずの量が多く感じる。年齢とともに食欲も少なくなってくるのだろうか。女性陣から煎餅が配られる。「雨じゃなくてホントに良かったですね。」濡れ縁の上には庇が設けられているとは言え、飯の途中で雨は降らない方が良い。

     十二時二十五分に出発する。「すぐそこですから。」畑の唐辛子の花が白くて可憐だ。赤い実と白い花が同時に見られるのは不思議ではなかろうか。
     間宮林蔵記念館は、茅葺の生家(移築復元)とコンクリートの記念館で構成されている。つくばみらい市上平柳六十四番地。外のトイレに入ってから生家を覗いてみた。貧農の印象を持っていたが、ちゃんとした農家である。「屋根に煙抜きもあるから大したもんなんだよ」とスナフキンが宣う。

     昭和四十六年(一九七一)に移築復元されたされたもので、復元前は、増築が繰り返され広くなっていましたが、部材等を検証し現在は二十三坪の茅葺平屋の建物です。
     当初建てられた位置から数回移動しているということです。(茨城県教育委員会)

     元はもう少し南西の小貝川に近い場所だったようだ。おそらく堤防の拡張工事などで移築したのだろう。入館料は百円だ。「七十五歳以上の人はいますか?」「二人。」「六十五歳以上の人は?」「二人、いや三人です。」身分証明書は要求されなかったが、七十五歳以上は無料、六十五歳以上は五十円になる。
     最初は十分程のアニメーションを見る。間宮林蔵は安永九年(一七八〇)に生まれた。家は農家だが、先祖は小田原北条氏に仕えた武士と伝えられる。寛政七年(一七九五)十六歳で、岡堰工事中の役人に認められ、江戸に出て村上島之允に仕えたことで、その後の活躍に結び付いた。島之允の従者として初めて蝦夷地に渡ったのは寛政十一年(一七九九)であり、測量の手ほどきを受け、更に翌年、函館で伊能忠敬の教えを受けた。
     展示室に入ると待ち構えていた学芸員が丁寧に説明してくれる。多分来館者は多くないのだ。「間宮先生は探検家として知られていますが、測量家と言ったほうが良いのです。」「大日本沿海與地全図」の北海道の部分は殆ど林蔵によるというのは、佐原の伊能忠敬記念館で確認済だ。「最近では、北海道部分は間宮図と呼ぼうという動きが出ています。」学芸員は間宮先生、伊能先生と敬称をつけて呼ぶ。
     林蔵が測量した樺太図(北蝦夷島地図)が展示されているのは見ものである。「一枚が伊能図の大図に相当します。」それが七枚になるから全長十四メートルにも及ぶ巨大な地図だ。「一里を三寸六分にしたもので、三万六千分の一の縮尺です。」
     「林蔵が死んだ後、資料は全て幕府が持っていったので、残されたものは少ないんです」と学芸員は残念そうな口振りだ。林蔵は隠密として各地の探索を行ったから、関連する資料が残されていては大変なのである。特に密貿易の調査報告等は幕府にとっては門外不出であろう。ただ、この隠密御用を御庭番と同じと見て良いのかは分らない。
     それでも、林蔵が使用していた毛布や防寒頭巾(コンチ)の実物が見られたのは良かった。「こんなもので寒さが防げたのかしら。」「昔の人は寒さに強かったんですね。」アイヌから貰い受けたものではあるが、極寒の樺太では、こんなものは、殆ど役に立たないと思う代物だ。「熊の毛皮はダメだって書いてたな。犬が良いって。」「これが伊能忠敬から譲り受けた器具じゃないかな?」羅針盤である。
     「今の若い人は間宮林蔵と言っても知らないんですよ。」そうなのか。「ところが北海道に行くと、小学生でもみんな知っています。」林蔵生家のあるこの土地で、小学生にも知られていないのは問題にするに足るだろう。そもそも歴史を教えていないのではないか。
     今日に備えて。スナフキンと私は本棚から吉村昭『間宮林蔵』を探し出して読み直している。私が持っていたのは昭和六十二年の講談社文庫だ。姫も読んでいる。『高野長英』、『桜田門外の変』、『生麦事件』など、私の幕末に関する知識の多くは吉村昭の調査に負っている。
     「今は絶版だけど、吉村昭の小説とか並べて売ればいいんじゃないですか。」スナフキンはそう言うがそれは無理というものだろう。資金に余裕があればオンデマンドで作らせることもできるかもしれないが、僅か百円の入館料で運営している記念館である。しかし、スナフキンは絶版だと言ったが、『間宮林蔵』は新装版が出ているのではないか。
     間宮林蔵を語る時にシーボルト事件を外す訳にはいかない。林蔵自身は幕府役人として法に則った処置をしただけだと信じていたが、蘭学者たちにはスパイと目された。

     殊に西洋の知識に深い関心を持つ者たちは林蔵に激しい憎しみを抱いているようだった。かれらは、高橋作左衛門がシーボルトに地図の複製その他を贈ったのは、それと交換に西洋の文献その他を入手したかったからで、いわば学者としての西洋の知識に対する強い執着心によるものだ、と解釈していた。そのような作左衛門の意図をうちくだき、さらに死におとし入れたことは許しがたい行為だ、と考えているようだった。
     林蔵は憤りを感じた。シーボルトから作左衛門を通して送られてきた小包を開くことなく勘定奉行に届けたのは、国法に従った当然の行為で、密告などしたおぼえはない。非は作左衛門にあって、捕らえられ獄死したのも自然の成行きだ、と思った。(吉村昭『間宮林蔵』)

     「吉村昭さんのものはあくまで小説ですから。うちでは洞富雄先生や赤羽栄一先生に準拠しています。」吉村も当然それらを参考にしている。林蔵は知る由もないが、シーボルトが持ち出した地図(複写)によって、間宮海峡(間宮の瀬戸)の名が世界に知られることになる。
     それにしても当時、蝦夷地を探検して貴重な成果を挙げた先駆者の多くが、武士ではなく庶民の出だというのも驚くべきことなのだ。最上徳内(出羽の貧農)、松浦武四郎(伊勢の庄屋の家、北海道命名者)、松田伝十郎(越後の貧農、)高田屋嘉兵衛(淡路島の農民)。「伊能先生もそうですね。」豪商ではあるが、忠敬もやはり武士ではない。本多利明も越後の農民出身で、田沼意次の蝦夷地探索に当たって、その下僕であった最上徳内を推挙した。
     江戸時代がガチガチの身分制度で固められていたというのは、フィクションに過ぎない。志と能力のあるものは積極的に登用されたのである。場合によっては武士が養子にすることもあって、松田伝十郎がそれに当たる。勿論、登用されても下級役人の域をでなかったが、それでも達成した成果は後世に充分伝えられた。
     スナフキンは「産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかいなかった」という司馬遼太郎の言を批判した渡辺京二を紹介してくれた。まさにその通りで、儒学にしても蘭学にしても、武士以外の階級出身者がどれほど貢献したことか、少し数えてみれば明らかなのだ。渡辺京二は専門の歴史家ではないが有益な本を書いている。私が読んだのは『逝きし世の面影』、『日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』だけだけれど。
     これには寺子屋教育の力が大きかっただろう。「そうですよ。日本人は女も本を読むって、外国人が驚いています。」寺子屋程度の教育で、日本人の識字率は世界に誇るべきものになっていた。そしてあらゆる基本は、読み書き算盤の反復訓練にあるのではないか。
     豪農や豪商、役人などが村の秀才を援助育成する仕組みもあった。徹底した反復訓練によって基礎力が養われるからこそ、真に力のある者から独創も生まれるだろう。その意味で私は現代の教育の、基礎力もないのにアウトプットだけを急ぐあり方に疑問を感じている。
     林蔵の場合は、村上島之允(伊勢国宇治山田の神官出身)に見出されたのが幸いした。実は谷中の玉林寺門前に秦檍丸先生墓という案内があって、何者か分らないまま放置していたが、これが村上島之允であった(記録をひっくり返してみたが、このことを私は書いていない。下見の時のことで、本番では寄らなかったのかも知れない)。「一日三十里歩いたって言うからね。」毎日マラソンを三回やっているようなものである。彼もまた蝦夷地開拓の重要な先駆者である。

    寛政十(一七九八)年に蝦夷地入りした村上島之丞(志摩之允)は本名を秦檍丸といい、伊勢の神職の子で地理、風俗の学に長じ、絵もよくした。松平越中守に見いだされて幕府に仕え、数回におよぶ蝦夷地往来の見聞を『蝦夷島奇観』『東蝦夷地名考』『蝦夷産業図説』等に著わし、とくに『蝦夷島奇観』およびその付録には、寛政年間の箱館が詳細に記録され、貞治の碑も彼によって再発見され紹介された(同碑については享和三年にも、わざわざ単板で印行している)。当時の箱館の全景、亀田番所、市街図、風俗、尻沢辺出土の土石器など、島之丞が記録した成果は、比類なきものとして、往時を知る唯一の資料とされる。市立函館図書館には以上のほか、『佐竹侯箱館七居浜操練図』など数点が所蔵されている。箱館付近に漆を植えたのも彼の功労といわれる。文化五年江戸で没した。間宮林蔵はそのまな弟子であり、ゴロウニンが感心したという通訳村上貞助(秦貞廉)は、彼の養子である。林蔵は島之丞から地理学を習い、寛政十二年島之丞に従って蝦夷地に渡り、貞助も林蔵と協力して島之丞の学風を残している。(『函館市史デジタル版』より)

     ロシアの南進によって、北方問題は幕末の一大懸案となっていた。蝦夷地及び北蝦夷探検の組織は、田沼意次が工藤平助『赤蝦夷風説考』を知ったことに始まる。
     意外な例では、狂歌師の平秩東作が天明三年(一七八三)から半年松前や江刺に滞在した。東作は勘定組頭土山宗次郎の屋敷から出発したから、おそらく田沼意次の内意もあったと思われる。松前藩の密貿易調査もしたが、本格的な蝦夷地探検隊を組織する際の事前調査が目的だったかも知れない。
     江戸歩きの第六回(平成十八年七月)に宗匠の案内で新宿の善慶寺で東作の墓を見た時、その名を初めて目にしたのだから、ホントに私は何も知らなかった。平秩東作は内藤新宿の馬宿で生まれ、父の跡を継いで煙草屋「稲毛屋金右衛門」を名乗った。太田南畝や平賀源内の盟友で狂歌人として知られるが、同時に田沼にかなり接近していたのである。源内が獄死した時、その遺骸を引き取ったのも東作である。儒者としては立松東蒙の名を用いた。彼についての私の知識は、『森銑三著作集』第一巻所収の「平秩東作の生涯」、「平秩東作の歌戯帳」、「平秩東作雑話」によっている。
     そして天明五年(一七八五)、田沼は最初の蝦夷地探検隊を組織した。普請役・青島俊蔵政教、山口鉄五郎高品、菴原弥六宣方、佐藤玄六郎行信、皆川沖右衛門秀道の下に、里見平蔵、引佐新兵衛、大塚小一郎、大石逸平、鈴木清七、最上徳内が従った。樺太探検の先駆者たちであるが、最上徳内の他の名前はほとんど知られていないのは何故か。
     田沼意次失脚とほぼ時を同じくして土山宗次郎もスキャンダルで死罪になった。田沼時代を全否定したい松平定信は蝦夷地探検の即時中止と帰還を命じ、彼らを抹殺したのである。この事実は照井壮助『天明蝦夷探検始末記 : 田沼意次と悲運の探検家たち』(影書房)によって明らかにされた(私は読んではいない)。最上徳内だけは士分ではないから処罰を免れ、後に復活する。

     浅間山の大噴火や東北大飢饉、北方からの異国船の到来やアイヌ民族の蜂起など、世紀末的な様相を呈した江戸時代の天明期。この時代の転換期に、かつて誰もなし得なかった蝦夷地探検が秘密裡に決行された――本書は、みちのくの山村の地下に潜った『蝦夷拾遺』を読み解き、探検の全体情況を細密画のように描き切った在野の研究者による画期的な労作である。田沼意次の北方政策を浮かび上がらせ、松平定信による歴史歪曲と粛清政治を徹底批判、そして青島俊蔵ら断罪された蝦夷地探検者たちの名誉回復をめざす名著、待望の復刊。(内容説明より)

     しかし蝦夷地をいつまでも放置しておくことは出来ない。寛政十一年(一七九九)に東蝦夷地が、文化四年(一八〇七)に西蝦夷地が幕府直轄地となるに随って、漸く蝦夷地探索が本格化してくる。
     樺太が半島なのか島なのかを確認するため間宮林蔵が樺太に渡ったのは文化五年(一八〇八)のことである。身分は松田伝十郎の従者である。松田が西海岸を、林蔵が東海岸を回ったが、林蔵は途中で東海岸を断念して西海岸で伝十郎と落ち合った。伝十郎は落ち合った場所より更に北のラッカまで行って引き返していたのだが、林蔵が懇願してもう一度そこまで戻った。樺太が島であることはほぼ推定されたが、この時は確実な証拠を得るには至らない。
     翌年、林蔵はひとりで再調査に出発し、黒竜江(アムール河)対岸まで到達して、樺太が確かに島であることを確認した。更に大陸に渡って黒竜江を遡上してデレンの清国役所までも行き、この辺りにはまだロシアの影響が少ないことも明らかにした。
     「東韃地方紀行」「北夷分界余話」(どちらも林蔵の口述を村上島之允の養子・貞助が筆記編纂した)、「北蝦夷島地図」を完成した後は、老中の命によって西日本探索の旅に出ることになる。

     記念館を出るとちょうど雨が降り始めた。次は浄土宗専称寺だ。つくばみらい市上平柳五番地。山門を潜ると、左手の塚の上に大きな石碑が建っている。塚の前に解説板があって、林蔵の墓はその裏側にあるというので、裏手に回ったがそれらしいものがない。間宮家の墓はあった。「これじゃないだろう、新しすぎるよ。」「石碑の裏かな。」
     階段を上って石碑を見る。篆額は「間宮先生埋骨之処」、撰文は志賀重昂である。こういうものもネット上に公開してくれる人がいるから有難い。活字にしてくれるから、かろうじて読むことができる。

    是爲間宮林藏先生埋骨之處於乎先生心存經國學主實用欲窮靺鞨之奥
    獲九譯蕃夷爲嚮導駕刳舟渡絶海上亞細亞大陸發明樺太之爲離島以決
    前人未決之疑進入滿洲應接淸吏俾其知國威不可侮而還以幕府一胥吏
    而其名大顯于泰西書册洵可謂豪傑之士不負所學者也先生以弘化元年
    二月二十六日歿于江戸後人納齒于江戸深川本立院葬骨于郷里常州筑
    波郡上平柳村專稱寺而其墓石不能一尺五寸蓋當時有制先生之父以一
    百姓墓石不獲過尺寸故先生之墓亦傚之云後六十年俄羅斯構難 朝廷
    追賞先生之功詔贈正五位郷之子弟以爲榮也胥謀建一大碑于墓側來徴
    文於予予曰不亦善乎先生之功烈愈顯而先生之墓石愈小也但同郷之士
    患歳月之久而遺蹟或歸湮滅欲建大碑以傳永遠其崇敬先輩而厚于義是
    不可以不録也乃爲撮其梗概叙之如此時明治四十三年四月也
     正二位勳一等侯爵鍋島直大題 正五位志賀重昂譔 北條時雨書
    (小さな資料室「資料二七五 志賀重昂撰「間宮先生埋骨之處」碑文(間宮林蔵顕彰碑)より」http://www.geocities.jp/sybrma/275mamiyarinzou.kensyouhi.html

     「幕府の一胥吏にして其の名は大いに泰西の書冊に顕る。まことに豪傑の士と謂ふべし。」胥吏とは下級役人のことである。「後人齒は江戸深川本立院に納め、骨は郷里常州筑波郡上平柳村專稱寺に葬った。」
     その裏に回ると確かに小さな墓があった。文化五年(一八〇八)樺太出発前に、生還を期しがたいと観念した林蔵が自分で建てた墓である。幅二十三センチ、高さ五十三センチ。顕彰碑の大きさと比べてあまりに小さい。「百両で造ったんだよな。それにしちゃ小さすぎる。」墓石代百両とは記憶になかったが、スナフキンの誤解ではないか。蝦夷地までの路用として幕府から百両を下賜され、それを両親の前に見せたことは吉村昭の小説に書いてある。それをすべて墓石代にした訳ではないだろう。
     墓が小さい理由は碑文に「蓋し当時は制あり。先生の父、一百姓たるを以って墓石は尺寸を過ぐるを獲ず、故に先生の墓、又これに倣ふ」とあるのが納得できる。つまり墓の大きさも身分に依るのである。両側面に二人の女性の戒名が刻まれているとは、後で吉村の本を読み返した得た知識だ。右側面に林誉妙慶信女、左側面に養誉善生信女とある。前者は林蔵不在の間に両親がその妻として家に入れ若死にした女性、後者は林蔵晩年の内妻リキではないかというのが、吉村及び研究者の谷澤尚一の推測である。右にあるのが両親の墓だ。
     林蔵は晩年には深川に住んだから、碑文にあるように本立院墓地(と言っても道端。江東区平野二丁目七番八号)に墓がある。江戸歩きの会では二三度訪れている筈だ。林蔵には子がなく、親戚筋の鉄三郎を養子に迎えて生家を継がせた。また士分としての間宮家は浅草札差の青柳家から養子に入った鉄二郎が継ぎ、いずれもその子孫が健在だ。そして直系の子孫はいないと思われていたが、近年アイヌとの間に生まれた娘の子孫が北海道で認定されているらしい。

     「ここから三キロ程です。」広い田圃の中を北東に真っ直ぐ行く。こういう何もない所は疲れる。飽きてくるのだ。腰が少し重くなってきた。穭田の中をアオサギが一羽、悠々と歩いている。今日はよくアオサギを見る日だ。

     穭田を鷺悠々と歩みたり  蜻蛉

     やがて漸く森が見えてきた。「あれがそうです。」屋敷林を回り込めば結城三百石記念館がある。その前に隣接しているのが結城家の墓域のようだ。「十月桜でしょうか?」白と淡いピンクの花が咲いている。小さな堂は薬師堂だ。そして道路から少し奥まったところに長屋門がある。つくばみらい市谷井田一六四七番地。

     結城家は鎌倉時代初期の朝光公を始祖とする名族であり、江戸時代初期に当地に帰農して以来「結城三百石」と称され地方開発の中心的役割を担ってきました。郷土の発展を願って当家から寄付された屋敷を保存活用し、建物と周辺環境を整備して、市民利用施設として、広く公開することを目的としています。
     敷地内には母屋・長屋門・蔵などがあり、全体を自然観察路として整備し、四季折々の草花、野鳥、虫たちを見ることができます。館内では当時の生活をうかがい知ることができるように、生活具をもとの場所にそのまま展示してあります。また史料収蔵庫には江戸時代初期からの文書類が五千点以上保管されており、その一部が展示公開されています。

     結城氏は永享十二年(一四四〇)の結城合戦によって一旦は滅びた。この合戦が『南総里見八犬伝』の発端であることは、この会では既にお馴染みだろう。足利成氏が関東公方になってから復活したものの、古河公方の衰退とともに勢力は衰え、戦国時代には上杉、北条の間で転々とした。秀吉の小田原攻めに参加したことで家は存続したが、嗣子がいないために家康の次男の結城秀康を迎えた。秀康は越前に移って松平の名乗りに変えたから、鎌倉以来の名門結城氏の名前は絶えた。越前に移らなかった結城氏の一部は水戸藩に仕え、一部はここに帰農したのである。
     「三百石ってどのくらいの金額になりますか?」カズちゃんの質問は難しい。一石一両だから三百両と言っても、何を基準にするかで一両の換算も難しいのだ。非常に大雑把に十五万円としてみるか。「四千五百万円ってところかな。」「一ヶ月に?」「年収だよ。」但し税率を四公六民とすれば、手取りは百八十石、二千七百万円となって、その中から奉公人等を養うのである。町奉行所の与力組頭で二百石程度、旗本の大半が五百石以下とも言われるので、それらと比べてみると凡その位置が分る。
     さっきから腹が張っていたので、長屋門を潜ってトイレに駆け込んだ。皆は屋敷林を巡っているだろう。しかし五分程で出るとスナフキンが待っていた。悪いことをした。
     屋敷林の観察路はかなり広い。竹林の間に巨樹もある。孟宗竹と真竹の違いは節の違いである。節が一本だと孟宗竹、二本だと真竹である。「真竹はもうあんまりないでしょうね。」しかしあった。「これがそうじゃないですか?」「そうです、真竹です。」キャラブキも咲いている。
     主屋の高い式台から上がろうとすると、「そこは高貴な方が入るところでした」とガイドが笑う。「私たちは普通に土間から入ります。」折角だから高貴の気分を味わおう。屋敷の中に入って最初に目に付いたのが欄間の彫刻だ。ガイドによれば笠間稲荷の彫刻を施した大工の手になると言う。
     自然木の梁が立派だ。土間に降りるとガイドが色々話してくれる。「つくばみらい市は、どことどこが合併したんですか。」オクちゃんの質問は私も知りたかったことだ。「伊奈町と谷和原村です。もともと筑波郡だったこと、エクスプレスの駅にみらい平があったことから市の名前が決まったんです。」
     伊奈町と言えば埼玉県民にはお馴染みだが、ここも伊奈氏と関係があるか。「伊奈忠治に因みます。」忠治の小貝川と鬼怒川との分離工事によって谷原領三万石と呼ばれた地域が生まれたのである。だからつくばみらい市福岡に伊奈神社がある(というのを初めて知った)。埼玉県の伊奈町は忠治の父親・忠次に因む。
     「鴻巣の勝願寺で墓を見たのは誰だったですかね?」あの時はオクちゃんも行っていたのだ。伊奈忠次夫妻・伊奈忠治夫妻の大きな宝篋印塔だった。その他に、川口市赤山では源長寺の累代の墓と赤山陣屋、伊奈町では小室陣屋跡と願成寺の伊奈熊蔵忠勝の墓を見ている。
     「伊奈忠次は結城にも関係してました。だから二重の関係があるんですね。」結城秀康が越前に転封された後、結城は幕領になったので、関東代官たる伊奈忠次の管轄化に入ったのだ。忠次はまた結城紬の普及にも力を尽くしたらしい。いつも思うことだが、江戸時代初期の関東は伊奈氏を除いては語れないのである。この屋敷がある住所は谷井田であり、旧伊奈町の中心部である。
     「この屋敷にはいつ頃まで住んでたんですか?」「昭和六十年頃までおじいちゃんが管理のために来てました。二三年前に亡くなって、今はおばあちゃんが向かいに住んでます。」向かいの家も豪邸であった。この屋敷を市に寄贈したのは現当主の康行氏である。
     バスの時刻もあるので、そろそろ出なければならない。その前に谷井田神社にちょっと立ち寄る。つくばみらい市谷井田一〇八四番地。狛犬のたてがみの表現が珍しいだろうか。合掌型の青面金剛。それ以外に見るべきものはなさそうだ。
     バス停の場所のコンビニは既に廃業している。関東鉄道のバスが十四時五十二分にある筈だが、その時刻にやってきたのはコミュニティバスだった。前払い現金二百円。守谷駅東口行きである。「今日は何歩になったかな?」「一万八千歩。」十キロか。十分程で守谷駅に着いた。

     「どこにする?」「南越谷がいいんじゃないか。武蔵野線と伊勢崎線が接続するから。」守谷駅はつくばエクスプレスと常総線が接続している。私たちは当然つくばエクスプレスに乗る。「柏の葉は以前来ましたね。」オクちゃんは野田線との接続駅である流山オオタカの森で降りていった。残りは南流山で武蔵野線に乗り換える。カズちゃんはさっきから咳き込むことが多く、今日は飲まないで帰ると言う。「カズちゃんはこのまま乗って、新秋津で降りれば良いからね。」「分った。このままで良いのね。」
     姫、マリー、スナフキン、蜻蛉は南越谷で降りた。まだ四時前だ。「どこにする?」「いつものとこ。いつも行って、いつも予約満席で入れない。」「それじゃ、いつも行ってない所じゃないの。」マリーの指摘は正しい。五六年行っていないかも知れない。「前にオクちゃんたちと入りましたよ」と姫は言う。武蔵野線の高架下にある「いちげん」である。
     入口を空けて驚いた。私の記憶では安い居酒屋風の(磯丸水産のような)店だったが、明るくきれいになっている。案内されたのもモダンな木製の椅子の四人席だ。但しちょっと狭い。「改装して高くなったんじゃないか?」そうかも知れない。以前は「居酒屋いちげん」だったが、今では「食彩厨房いちげん」と改名していた。
     取り敢えず生ビール。漬物盛り合わせと枝豆を二つづつ、それにサラダ。「さっき飯食ったばっかりだからな。」私もなんとなく腹が膨れていて、それ程食べる気がしない。スナフキンと二人では焼酎ボトルを空けるのは無理だろう。「どうする?日本酒かな」「ホッピーにしよう。」「この頃ホッピーが定番になりましたね。」ナカを四杯。こころの七五三の写真を見せびらかす積りだったのに、うっかり忘れてしまった。
     「もう一軒行こうよ。」再び四人が別の店に入った。今度は日本酒である。私はこの頃少し食が細くなり酒も弱くなったかも知れない。

    蜻蛉

     メールは安心していたら、一部の人から送信するとエラーになると連絡があった。受信しているメールもあるので、どの程度が送信不能なのかその割合も分らず、原因がはっきりしない。どうも厄介な仕組みだ。幸いPCを設定する際に強制的に作らされた別のアカウントがあるので、それに変えることにする。