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    近郊散歩の会 第七回 武蔵陵墓地から旧甲州街道・八王子を歩く
      平成二十九年十一月二十五日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.12.08

     「わあ、スゴイネ。」「これは、これは。」「実に見事ですね。」イチョウの黄色、モミジの赤、それに針葉樹の大木の緑の対比が本当に鮮やかなのだ。それに緑から黄へ、茶から赤への微妙な色の違いも綺麗だ。「これなら高尾山に行かなくてもいいね。」参拝客も少なく、隠れた紅葉の名所である。スナフキンはこの紅葉を見せるために、本来は十二月だった順番を桃太郎と交代したのである。

     スナフキンはいつもながら参考文献を多数参照して、詳細な案内を作ってくれているから、私が付け加えることは多くない。殆どが彼の調査結果を戴くことになるだろう。
     旧暦十月八日、旧暦十月は「小春」である。しかし七十二候では「小雪」の初候「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」となる。空気はかなり冷たいが、東上線の中から真っ青な空に富士山がくっきり見える。
     集合場所はJR高尾駅北口だ。西国分寺駅の乗り換え階段は人で一杯だった。週末に晴れたのは久し振りだから行楽客が多いのだ。高尾駅北口にもリュックを背負った連中が大勢待ち合わせをしている。「ここからだと陣馬山に行くんでしょうね。」スナフキン、桃太郎、ハイジはこの辺の山はお馴染みだ。何年か前に城山に登った時もここからバスに乗った。
     随分前から期待していたあんみつ姫は、急な所用ができて無念の欠席となった。ロダンも手術後の静養のためにお休み。集まったのは、スナフキン、オクちゃん夫妻、ハイジ、マリー、オカチャン、ヤマちゃん、桃太郎、蜻蛉の九人である。
     「この駅舎ももうすぐ撤去されるんだ。」「それじゃ貴重だね。」北口と南口を直接結ぶ橋上駅舎の建築が計画されていて、神社を連想させる駅舎は撤去されるのだそうだ。

    関東の駅百選に選定されている社寺風デザインの北口駅舎は、大社線大社駅を設計した曽田甚蔵が設計、一九二七年(昭和二年)に竣工した二代目である。これは、元々大正天皇の大喪列車の始発駅として新宿御苑に設置された仮設駅舎 (九九五平米) を移築したもので、初代駅舎の木造平屋建て九〇平米から木造平屋建て二九八平米と大規模になった。(ウィキペディア「高尾駅」より)

     明治三十四年(一九〇一)八月、浅川駅として開業した駅である。高尾駅の名称になったのは昭和三十六年(一九六一)のことだから、その頃から高尾山が観光登山の名所になってきたのかも知れない。撤去される駅舎の移築先は、かつての皇室専用駅である東浅川駅跡になると言う。今日はそこも後で回ることになっている。
     甲州街道のイチョウ並木は盛りを少し過ぎたところだろうか。先週いちょう祭りが行われていたそうだ。武蔵陵に行くには、甲州街道を東に向かい多摩御陵入口交差点から入るのが正式な参拝コースだが、今日はそちらを通らず、甲州街道を横断する。
     「ついでだからさ」と、スナフキンは交差点脇のマンションと駐輪場の間の狭い通路に入って行く。ビルの陰の狭い空き地に石造の明神鳥居が建ち、小さな石祠が祀られていた。山王社。案内によれば、寛政年間(一七八九~一八〇一)、薪を取りに山に入った村人が、死んだ猿をみつけてここに葬り、石宮を建てたのが始まりだ。猿は山王の神使だから山王社としたのである。
     南浅川を渡ると「廿里」の地名表示が出てきた。「これでトドリって読むんですかね。」普通にはニジュウリとしか読めないが、廿を十十と書けば、十十里でトドリの読みが納得できる。秩父へ十里、鎌倉へ十里とも言う。横山村下長房が何度かの変遷を辿って、昭和五十七年(一九八二)に八王子市廿里町となった。命名は戸取山(鳥取山)に由来する。森林総合研究所多摩森林科学園のある山で、永禄十二年(一五六九)十月一日に武田軍と北条軍とが戦った古戦場である。と言っても知識がないのでウィキペディアのお世話になるしかない。

    小田原城攻撃に向かう武田信玄率いる甲州勢二万は碓井峠を越え、北条方の支城を攻撃しながら南下し、滝山城の北、拝島に陣を敷いた。一方、武田軍の別動隊で岩殿城主・小山田信茂隊一千は小仏峠から侵入した。これに対し、北条氏照は、家臣の横地監物、中山勘解由、布施出羽守ら二千の兵を派遣し、一五六九年(永禄十二年)十月一日、廿里防塁跡で小山田軍を迎撃したが、待ち伏せの奇計を謀った小山田隊に敗北を喫したとされる。この後、武田軍により、滝山城は三の丸まで攻め込まれたが、かろうじて落城は免れた。北条方は小仏峠からの侵入を予想しておらず、意表をつかれたという。また、加住丘陵を利用した滝山城は南からの攻撃に弱点があることが明らかとなり、小仏峠を睨んだ強力な防衛拠点の構築を急ぎ、急峻な深沢山に八王子城を築き、本拠を滝山城から移転したという。(ウィキペディア「廿里古戦場」より)

     八王子は甲斐武田氏に対する重要な防衛拠点であった。北条氏輝の八王子城には平成二十六年(二〇一四)六月に行ったが、石垣の見事な山城である。牛頭天王の八人の王子を祀って八王子権現としたことから八王子の名が付いていた。
     「ここは何?」「アパートだよ。」「随分モダンじゃないの。」ゲートや玄関ホールが洒落ていて、芳樹館の名がついている。「こんなところに?」「新宿まで五十分かからないしね。便利なのよ。」築三十三年の賃貸マンションで、1LDK二十平米の家賃が五万六千円だ。因みに高尾から新宿まで、中央線快速なら四十六分で四百七十円、京王線特急を使えば四十五分で三百六十円となる。会社に通勤定期を申請すれば京王線の運賃しか貰えないだろう。
     「サクラですよ。」「十月桜と言うか、十一月桜と言うか、寒桜ですね。」白い花が春よりは儚い感じがする。狂い咲きではなく、十月桜は春と晩秋と年に二度咲く花である。
     「ノロノロです。」オカチャンが指差す。正面をふさぐのは高速道路かと思ったら違った。八王子あきる野線と呼ぶのだろうか。県道四六号線である。「渋滞してるんだ。」その下を潜ると大きな地図が掲げられていた。
     現在地は武蔵陵墓地の南端で、左手の道を挟んで西側が森林科学園だ。本来なら行きたいところだが時間の関係で割愛するとスナフキンは言う。「機会があれば是非来てください。」森林総合研究所多摩森林科学園は、サクラ品種(全国のサクラの遺伝子を保存する)、都市近郊林、生物多様性、森林環境教育等の研究を行う機関である。入園料三百円で一般公開している。
     左手の玉垣のような石の柵の向こうは斜面になっていて、松の向こうに大きな黄色のイチョウが見える。「すごいネ。」「中に入ってから見られます。」真っ赤に紅葉したツツジ、白いサザンカも咲いている。「ツバキ?サザンカ?」「花弁が一枚づつ落ちてるのがサザンカ。花が丸ごとボトンと落ちてるのがツバキだよ。」「『さざんかの宿』だね。」ヤマチャンは講釈師のようなことを言う。
     そして武蔵陵の正面入口に着いた。街道まで続く参道のケヤキが黄や茶に紅葉している。大正天皇夫妻、昭和天皇夫妻の墓所で、敷地面積は四十六万平方メートルに及ぶ。ここで冒頭の感嘆になるのである。木漏れ日の当る真っ赤なモミジが美しい。玉砂利を踏みながら、「最初は大正天皇に行こう」と言うスナフキンに従って歩く。「いいね。」「この紅葉が素敵だわ。」緑のなかに出現する赤、黄、茶。参道は北山杉の並木が続く。この杉は植樹された当時は三、四メートル程度だったもので、今では二十メートルを越すと言う。

     木漏れ日や紅葉燦々武蔵陵  蜻蛉

     昭和天皇陵と大正天皇陵との分かれ道には、杉が山のような形で立っている。左の道を進んでいけば、敷地の一番西に大正天皇と貞明皇后の円墳が並んでいた。「並んで」と言っても接している訳ではない。皇后は天皇の東に葬られる定めで、大正天皇の「多摩陵」に対して貞明皇后は「多摩東陵」とされている。つまり当時はこれを合わせて多摩御陵と呼ばれていた。
     素木の丸太で造った鳥居の奥に、四十段ほどの石段が続き、その上に上円下方の墳墓が作られているのが大正天皇の陵墓である。石段の下は柵が閉ざされているので上ることは出来ない。墳墓の奥は鬱蒼と茂る森だ。「この鳥居が最もシンプルと言うか、アルカイックな形。神明鳥居と言います。」「伊勢神宮もそうよね。何年かおきに立て替えるのかしら。」
     「神式になったのは孝明天皇の時からで、それ以前はずっと仏式だった。」スナフキンは大角修『天皇家のお葬式』を取り出して、これに全部書いてあると薦める。今日のために買ったのだろう。スナフキンは企画する度に十冊程の本を買い込むのだ。
     六世紀に古墳時代が終わって飛鳥時代に入ると、天皇が仏教を信仰したことによって、葬送儀礼は仏教で行われるようになった。江戸時代の天皇は京都の泉涌寺(せんにゅうじ)に葬られ、供養塔として九輪塔が設けられた。
     孝明天皇の場合、葬儀は仏式で執り行われたが墓は円墳とした。幕末の尊皇思想と復古神道が墳丘墓を採用したのである。「この形は普通のお墓と違いますよね。」「要するに古墳だよ。新しいけど。」新しい古墳とは形容矛盾であるが、たぶん分ってくれるだろう。ところで、最初に火葬された天皇は七〇三年の持統天皇だとされ、それ以後貴族や上級層に普及したが、土葬に比べて燃料費が嵩むので一般には普及しなかった。江戸時代までは基本的に土葬が中心である。
     中国人らしい男性二人がスマホで写真を撮っている。「中国人は天皇を敵視してるんじゃないの?」「観光だからなんでもいいんだよ。」日本人もいなくはないが、本当に人の姿はまばらだ。平成二年には百万人が訪れたが、現在では年間七万人程だと言う。

    (大正天皇の)陵域の面積は二千五百平方メートルあり、陵の形態は上部二段・下部三段の上円下方墳で南面している。上円は直径十五メートルで高さは十・五メートルあり、一番下部の段は一辺二十七メートルの正方形で多摩川の石が葺き石として用いられており、南面は前方部の形をとっているので前方後円墳のような形をしている。これは奈良県桜井市の伝舒明陵古墳の形状に酷似している。(ウィキペディアより)

     大正天皇の陵墓として造られ、元は多摩御陵と呼ばれていた。「明治天皇の時に計画されたんだけど、何故か明治天皇は京都に葬られた。」明治天皇陵を東京に造る計画があったなんて知らなかった。「その代わり東京には明治神宮が造られたんだ。」
     「大正天皇は側室の子なんだよ。」「柳原二位局だね。」伯爵柳原前光の妹で本名は愛子、柳原白蓮の叔母に当る。「明治天皇までは側室がいた。大正天皇からそれがなくなった。」正確には典侍(つまり上級女官)であるが、天皇のお手付きが前提される立場だから側室でも良いだろう。女御や中宮になるには摂家・宮家の娘でなければならなかったようだ。
     しかし一夫一婦制で、しかも直系男子しか皇統を継げないのであれば、確実にその血統は絶えてしまう。「アメリカはそれを狙ったんじゃないの?」おそらくそうだろう。戦争直後はすぐに天皇制を廃止することは出来なかったが、万一の時に跡継ぎを出すべき宮家を潰したからには自然消滅を図ったと言える。
     ところで、大正天皇については暗愚説が流布していたが、原武史『大正天皇』はそれを否定している。確かに生来病弱で学習も芳しくなく学習院を中退したが、それは宮中での詰込み教育強制によるものだった。有栖川宮が教育担当になってからは全国各地への巡啓を重ねて健康になり、旺盛な好奇心によって知識も増えた。但し感情を抑制するのは苦手で、思ったことはすぐに口にした。やがてこれが天皇として相応しくないと抑え込まれるとともに、天皇に践祚してから病気が再発したのである。昭和天皇や秩父宮は、皇太子時代の父がいかに健康で溌剌としていたかを回想している。

     大正天皇が結婚する直前、伊藤博文は有栖川宮に向かって、「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされなければならない」と放言し、「操り人形を糸で踊らせるような身振りをしてみせた」と、エルウィン・ベルツが日記に記している。だが本文で見たように、大正天皇の「不運」とは、むしろ皇太子時代だけではなく、天皇になってからも「操り人形」になることを拒否し、天皇にあるまじき過剰なまでの人間性を保持しようとしたところに由来していたのではなかったか――。(原武史『大正天皇』選書版あとがきより)

     貞明皇后の方は石段が低い。大正天皇とは違って斜面の芝生に植え込みもない。割りにシンプルな形になっている。「昔の皇后はみんな皇族だったのかな?」そんなことはない。貞明皇后は伯爵九条道孝の四女節子(さだこ)である。健康で皇子を四人儲けた。昭和二十六年(一九五一)六十六歳で没。
     「大正って良い時代だったみたいね。」「そうそう。」本当にそうだろうか。二度にわたる護憲運動に伴う大正デモクラシー、大正ロマンと大正モダン、大衆文化の成立、童心主義と自由教育、『青鞜』と女性進出等のキーワードを見れば、肯定的なイメージばかりだ。しかし一方では第一次世界大戦のバブルと引き続いた恐慌、ロシア革命とシベリア出兵、米騒動、対支二十一ケ条の要求、安田善次郎と原敬の暗殺、関東大震災、米国の排日移民法といったキーワードを並べることも出来る。そして大正十四年には陸軍現役将校学校配属令が公布され、普通選挙法と引き換えに治安維持法が制定された。時代の良し悪しを判断するのは難しい。
     「それじゃ、昭和天皇の方に行きましょう。」大正天皇夫妻陵より東、敷地内のほぼ中央北側に昭和天皇「武蔵野陵」と香淳皇后「武藏野東陵」がある。大正天皇の陵よりかなり低く造られているのは威圧感を減ずるためだと言う。「南に向いてますね。「天子は南面するんだよ。」
     昭和天皇の問題は戦争に尽きる。終戦を決定することができた天皇が、開戦を拒否できなかったというのは言い訳に過ぎない。天皇機関説を信じているとか、御前会議では天皇自身に発言権がないとか全て弁解である。戦争犯罪とは言わないが、人としての、国民に対する倫理的責任はある。国民は天皇の名の下に戦い、死んでいった。子供たちも少国民と呼ばれ、戦時体制に組み込まれた。

    勝ち抜く僕ら少国民、
    天皇陛下の御為に
    死ねと教えた父母の
    赤い血潮を受け継いで
    心に決死の白襷
    かけて勇んで突撃だ (上村数馬作詞、橋本邦彦作曲『勝ちぬく僕ら少国民』) 

     皇后墓の方も天皇墓とほぼ同じ形になっている。香淳皇后は久邇宮邦彦王の第一女である。皇太子との婚約後、母方の島津家に色盲遺伝があるため皇太子妃として相応しくないと、山縣有朋が婚約辞退を迫った。これが宮中某重大事件であるが、皇太子自身が良子(ながこ)で良いと言ったとも伝えられ、無事に婚姻が成立した。二男五女を儲け九十七歳で没した。
     「今の天皇はどこになるのかな。」「この東側が相当空いてるからな。ここにするんじゃないの?」「私は皇室アルバムのファンなのよ。」ハイジがそんなものが好きだなんて意外だ。私は見たことがない。週に二回も違う局でやっているらしい。
     「この機会に天皇制を考えてみるのもいいでしょう。」そのスナフキンの言葉に誘われて言うのだが、私はこの世界に特別に高貴な生まれがあるなんて信じない。今上天皇と美智子妃の稀に見る誠実さには大いに敬意を表するが、極端に人権を制約されて生き続けていくのは、天皇家自体にとっても不幸なことだろう。雅子妃の病気もそのストレスによるのではないか。退位についても同じことだ。要するに非人間的な制度であり、私は同情しているのである。

     私はここで我々の間に見られる天皇崇拝についても、この浅薄にして安直な民族的習性の現れと知性の虚弱さの徴候を見ないわけには参りません。このものは或る人々によると国民感情の強さの証拠だそうですが、私はそうは見ない。要するに、そこには心理的習性、いわゆるメンタリティの問題があるにすぎません。漠然とした遺制的気分の消極的承認にすぎないものを、それが触発されただけで、人々は積極的な信仰告白と思い違いをしている。・・・・・
     ・・・・・私は天皇制の歴史は、天皇の利用者の歴史だと考えている。つまり、利用者が、その名目はなんであれ、天皇制というものを程よく強化したり弱化したりして、彼らのためにこれを存続せしめてきただけのことである。天皇史とは逆立ちしたその利用者の歴史であるにほかならない。(林達夫「反語的精神」)

     勿論この会の中でも様々な意見はあるだろう。ただ民主主義を前提にするならば、人としての基本的な権利は天皇にも認めなければならない。自由にものも言えず、進退の自由もままならず、常に監視されながら一生を送るというのは、人間の条件にはない。その意味で、大正天皇の「悲劇」はもっと語られて良い。
     それにしても、この園内の紅葉の見事さは何と言うべきか。「いやー、良かった。これを見ただけでも今日は大正解だね。」ヤマチャンは大声で感動を表す。「天皇陛下にもお会いできたからね。」敷地内にはベンチもトイレもない。「ここが、皇族が休憩するところ。」「お盆にお墓参りをするのかな。」「あんまり聞いたことないな。」そういうことが報道されているかどうかも分らない。ウィキペディアによれば、それぞれの命日に例祭が行われるらしい。
     正門を出て駐車場内のトイレに入る。さっき写真を撮っていた中国人の若者(高校生位か?)が、パンツまで下ろして尻丸出しで小便をしているのが不気味だ。

     甲州街道に向かう参道の紅葉した並木が美しいが、そちらではなく民家脇の細い道を行けば、道端に合掌型青面金剛、地蔵、何か分らない仏像(西国とあるので観音か?)を並べた小さな祠があった。
     陵南公園の脇の古道橋を渡る。親柱は常夜灯の形だ。「浅川ですかね。」しかしこれは南浅川であった。小仏峠辺りに発して八王子市元本郷町付近で浅川に合流する。上流の方に少し歩くと、川の所々にはコンクリートの段差が設けられている。「魚が上るかな?」ヤマチャンが訊くと、「あそこは無理でしょう」とオカチャンが答える。岸辺にはヨシが生えている。
     そして旧甲州街道に出た。町田街道入口付近から多摩御陵入口交差点の手前まで、国道二〇号の北側を弓なりに五百メートル程続く道である。広い敷地に蔵を持った旧家が目立つ。スナフキンによれば、黒板塀が続くのは殆どが千人同心の屋敷だった。塀の上から松が伸びている。それら旧家の間にポツポツと小さなマンションも建っている。「相続が大変なんだね。」財産のある人は大変なのだ。道路脇の水路は水量が豊富だ。
     国道に出るところに、左は「至内藤新宿」、右は「至諏訪」、「旧甲州街道」の手書きの標識が立っている。その傍にはなにやら不思議なモニュメントが立っていた。昭和三十九年(一九六四)の東京オリンピックで自転車ロードコースになり、当時の浅川中学生が作ったものだ。「こうして残っていると一生の記念になるわね。」
     「当時の中学生って今何歳くらいかな?」ヤマちゃんは不思議なことを言う。同世代ではないか。「私たち中一だったわよね。」「そうだった。」「俺は中二だよ」とスナフキンが応じる。ヤマチャンと宗匠は小学六年生、ロダンは五年生、桃太郎は四年生、あんみつ姫とマリーは三年生だった筈だ。
     「東京五輪音頭とか踊らされなかった?」「踊ったと思う。」多くの歌手の競作になったが、一番売れたのは三波春夫のものだった。

    ハアー (ソレ)
    あの日ローマで ながめた月が(ソレ トトントネ)
    きょうは 都の空照らす(ア チョイトネ)
    四年たったら また会いましょと
    かたい約束 夢じゃない
    ヨイショ コリャ 夢じゃない
    オリンピックの 顔と顔
    ソレトトント トトント 顔と顔(宮田隆作詞・古賀正男作曲)

     「あの日ローマで」を「あの日リオデジャネイロで」と変えてリメイクしているらしいが、聴いたことがない。それに今時こんな歌が流行るとはとても思えない。
     高度成長期の真只中で、オリンピックはその象徴だった。東海道新幹線が開通し、東京・大阪間が四時間で結ばれた。家庭用のテープレコーダー(ソニー)が発売され、使いもしないのに父が買ってきた。我が家も漸く貧乏から脱出したようだった。家庭用のビデオテープレコーダーも発売されたと言うが、私は見たことがない。クリネックス・ティシューが発売された。海外への観光渡航が自由化された。銀座にはみゆき族が集まり、アイビールック(VAN)が流行ったが、中学一年生には縁がない。坂本九『明日があるさ』(青島幸男作詞・中村八大作曲)が流行った。

    世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます。なにか素晴らしい事が起こりそうな国立競技場であります。

     昭和三十九年(一九六四)十月十日、開会式実況中継を担当した北出清五郎の第一声である。テレビは茶の間で家族全員が一緒に見るものだったから、殆どの人がこの放送を見ただろう。学校でも見せた。明日は今日よりもっと良くなるに違いない。みんなそう思っていた。
     体操の小野喬と遠藤幸雄、女子体操の池田敬子や小野清子、バレーボールの河西昌枝たち、重量挙げの三宅義信、マラソンの円谷幸吉、ハードルの依田郁子、そして日本柔道を沈めたオランダのヘーシンク。
     しかし次のオリンピックはそうはいかないのではないか。最早この国に希望は持てず、家族が一緒になってテレビを見る時代でもなくなった。そもそも、何故この時期に日本でオリンピックをやるのか、私には理由がさっぱり分らない。
     ついでに余計なことだが(私の作文は余計なことだらけだが)、北出清五郎は相撲中継の名手であった。解説に玉の海の絶妙、神風の明晰を迎えて、あの頃の相撲中継は実に良かった。柏鵬時代で、幕内には個性的な曲者がたくさんいた。分解写真を覚えているだろうか。スロービデオ再生が始まる前の時代である。私は既に古老の気分だ。

     歩道に敷き詰められた黄色い落ち葉を踏みしめて歩く。「なんだかスッキリしてると思ったら、電柱がないんですね。」オクチャンに言われるまで気付かなかった。確かにそうだ。イチョウ並木の邪魔になるからだろうか。
     多摩陵入口交差点から北を見ると紅葉の並木だ。「さっきのところから真っ直ぐ来ればここに出たんだね。」ここを御陵と逆に右に曲がると、保健福祉センターの駐車場に突き当たる。鉄柵の両端の門柱が歴史を感じさせる。八王子いちょう祭りの看板が残されていた。
     かつては陵南会館という公民館があったが、平成二年(一九九〇)二月の、革労協解放派による爆破テロで焼失した。理由は、ここが皇室専用の旧東浅川駅跡だったことにあるらしい。革労協解放派は社青同開放派の分派(反主流派)であるが、当時でさえ新左翼は既に末期症状に陥って久しかった。しかし革マル派、中核派を含めてこの連中が高齢化しながら現在もまだ生き残っているのである。
     二十一世紀はテロルの時代である。しかも二十世紀のそれよりもはるかに大規模に、広域に広がっている。勿論大急ぎで付け加えれば、ナチスやスターリンの全体主義、毛沢東の文化大革命は、暴力的装置としての国家による剥き出しのテロルであった。しかし今はそれは措く。反国家に立場を置くテロルについて限定すれば、一般市民や子供を無差別に巻き添えにする大量殺戮は二十一世紀に現れた現象だろう。
     二十世紀の古典的なテロルの例を挙げれば、セルゲイ大公の馬車に爆弾を投擲する筈だったカリャーエフは、その馬車に大公の幼い甥が同乗しているのを見て爆弾投擲を諦めた。エス・エル戦闘団サヴィンコフの回想『テロリスト群像』にある挿話だ。また、これはイワンがアリョーシャに問いかける質問にも通じてくるだろう。世界史上に現れた幼児虐待の数々を例示しながら、イワンはアリョーシャを問い詰める。亀山郁夫の新訳もあるが、少なくともこの部分は中山省三郎の訳(角川文庫)の方が良いので引用する。

     ・・・・・いいかい。仮にだね、おまえが最後において、人間を幸福にし、かつ平和と安静を与える目的をもって、人類の運命の塔を築いているものとしたら、そのためにただ一つのちっぽけな生き物を――例のいたいけなこぶしを固めて自分の胸を打った女の子でもいい――是が非でも苦しめなければならない、この子供のあがなわれざる涙なしには、その塔を建てることができないと仮定したら、おまえははたしてこんな条件で、その建築の技師となることを承諾するかえ?さあ、偽らずに言ってくれ!(『カラマーゾフの兄弟』)

     これらの例はいずれも「革命」や「理想」を前提としたものであるが、目的は絶対に手段を正当化しない。笠井潔『テロルの現象学』は、燃えるような理想主義が人間憎悪に転換する革命運動のメカニズムを摘出した。
     ISに代表される現在のテロルにどんな目的があるのかは知らない。それは憎悪の連鎖による無差別大量殺戮を特徴としているが、それに対して拠点への空爆を繰り返すだけでは無辜の市民に大量の犠牲を強いる。双方が同じ事をやっているのだ。テロ活動に参加しようとする若者が後を絶たないのは、新自由主義経済のもとで世界中に不満と怒りが充満しているからだ。あらゆる事象が悪循環となって、金融と投機に基づく現代資本主義はもはや崩壊寸前だと言えるだろう。
     駅は大正天皇大葬の際に設置され、皇族が多摩御陵に参拝する際に停車した。しかし皇族も車を利用することが多くなり、昭和三十五年(一九六〇)に廃止された。

     「姫がいたら少し遠回りしようかと思ったけど。」その脇から中央線をまたぐ歩道橋に上る。「山並みがくっきり見えるね。」桃太郎、スナフキン、ハイジは山の名前を知っているが私は全く無知である。「富士山は?」「方角が違うんだ。」「高尾山はあの後ろかな。」
     歩道橋を降りると陵南中学校、その隣が保険福祉センターである。東浅川公園に接した一角が交通公園になっていて、子供たちが自転車や三輪車で走っている。自転車のマナーはむしろ大人に教えてもらいたいものだ。黄緑から黄色、赤へとグラデーションを作るモミジが気持ち良い。
     「大体あっちの方だよ。」住宅地の中を東に五百メートル程行けば常光山真覚寺だ。真言宗智山派。八王子市散田町五丁目三十六番十号。文暦元年(一二三四)創建と伝える。
     門前には蛙合戦の解説がある。繁殖期に雌を争って無数の雄が戦うのである。境内の心字池がその場所で、戦前には万を越えるヒキガエルが集まったと言う。今では周囲が開発されてしまったから、そんな光景は見られない。
     ちょうど十二時だ。境内は静謐で、斜面の向こうの山は万葉公園になる。庭園もあって紅葉が美しい。「ここで飯にしましょうか。」スナフキンは万葉公園で昼食休憩にする筈だったが、ここには綺麗なトイレもあるからちょうど良い。「勝手にそんなことしていいのかな。」「ベンチがあるんだから大丈夫だよ。」それぞれベンチに分かれて座る。石のベンチは冷たいが、百円ショップで買った携帯座布団(スナフキンも同じのを持っている)がちょうど上手い具合だ。
     女性陣からは煎餅が配られる。「最近、蜻蛉に気を使って煎餅ばっかりだな。たまには甘いものでも良いのに。」オクチャン夫人からはチョコレートが配られるが、鄭重にご辞退申し上げなければならない。「あら、チョコレートもダメなの?」「我がままな奴なんです。」
     梵鐘は万治三年(一六六〇)に千人同心が寄進したものだ。高台の上には朱塗りの観音堂が建っている。芭蕉句碑があるらしいと、オカチャンを先頭に墓地の方まで探したが見つからない。門前の非常に大雑把な地図を見れば、もしかしたら万葉公園の方かも知れない。しかしネットで調べてみると、心字池を見下ろす場所にあったのだ。
     私は三行の文字列と「はせを」の名前を頼りに探していたので気付かなかった。自然石に「芭蕉翁 蛙塚」、側面に「延享二年」と彫っただけのものだと分れば、見ていたかもしれない。文字が摩滅していて読めなかった。
     八王子は松原庵(伊勢派蕉門の一)の根拠地で俳句が盛んだった。特に松原庵三世は榎本星布という女性で、大田南畝とも交流があった。絹織物、養蚕が盛んで桑都とも呼ばれたように、富裕な商人層が多かったのだ。蛙合戦の句では一茶「やせ蛙負けるな一茶ここにあり」が有名だ。
     その代わり、スナフキンが下見の時に探せなかったという八王子千人同心組頭の碑を見つけた。篆額は勝海舟による「心斎翁碑」、本文は漢字のみで「明治戊子春二月八日八王子千人隊部長二宮心斉翁疾没於家」と始まるからこれのことだろう。但しこの頃に「戊子」年はない。明治九年ならば「丙子」でなければおかしい。

    ?〜一八七六年(明治九)二月八日。千人同心組頭。光鄰は諱、字は緑樹、号心斎、通称左門太。散田村に生まれる。一八五四年(嘉永七)秋「番組合之縮図」を著わす。これは通称「千人同心姓名在所図表」と呼ばれ、広範囲に居住する千人同心の名簿。明治初年「千人町」の町名の保存に尽力。一八八八年(明治二十一)秋,真覚寺境内に「心斎翁碑」が建立される。撰は奥津雁江。(Web八王子事典より)

     平成二十五年八月にあんみつ姫の案内で八王子を歩いた際、千人同心所縁の場所は幾つか見ている。「あの時、俺はオープンキャンパスだったんだ。」スナフキンだけでなく、今日の参加者はあの日は参加していない。
     思い出せば、陣馬街道に入る角(追分町一丁目)には、千人同心屋敷跡記念碑が建っていた。また八王子市上野町の本立寺では、千人同心頭で蝦夷地開拓に当った原胤敦、千人同心の家に生まれた三田村鳶魚の墓を見た。その時にも書いたが、八王子千人同心は半農半士で、目的は江戸の西の境の警護だったが、実質的には日光勤番が役目になった。だから日光東照宮に、「日光火之番八王子千人同心顕彰之燈」がある。
     十二時四十三分に腰を上げる。隣接した高台は高宰神社だ。「新しくなってる。下見の時には荒れ放題だったんだよ。」社殿の下の縁と階段部分が新しい材木で修復されているのだ。但し神楽殿は修復の気配がない。並木町・千人町・散田町・めじろ台の四町会の氏神である。高宰(たかさい)とは初めて聞く名前だ。

    散田町。祭神高宰神。例祭日八月第三日曜日。一七一年(承安三)山田広園寺境内にあって小蔵主明神と称した。応永年間散田の古明神塚に奉遷、降って慶安年間(一六四八〜五二)のころ真覚寺境内に奉遷、寛政初年(一七八九)現在地に遷座。現在の社殿は一八四七年(弘化四)の再建による。(Web八王子事典)

     南北朝時代の末期、京都から下向した公家を祀ったとも言われているが、その名前は分らない。祭神は藤原信房と言うが、これもどういう関係があるのか分からない。
     その脇から公道に出て坂を上る。石垣の下に赤い郵便ポストが立っている。家の庭のユズが鈴なりで、「ユズナリだね」とヤマチャンが笑わせる。そして万葉公園に入る。八王子市散田町五丁目三十七番。元は真覚寺南側の山であった。万葉の名は、「多摩の横山」から採ったのである。

     赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山かしゆかやらむ  宇遅部黒女

     宇遅部黒女は武蔵国豊島郡の人で、防人として国を出てゆく夫の椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)を気遣った歌である。夫の生還は期し難い。これは東歌であるが、単純素朴に感情を表したものと考えるのはちょっと違うらしい。私は万葉は分らないので、折口信夫の意見を引くだけだ。

     東歌は、創作として個性に深く根ざしたものというよりも、民謡として普遍的な感情をとり扱うたものが多い。個性の強く表れているように見えるものも、実は一般式の感動に特殊の魅力を添えるために刺激を強調したと言うべきものが多い。さらに民謡の一つの特色として、地名をよみこんだものの多いことである。地名に注意を惹かれるのは、他国人でなければならぬ。(折口信夫「万葉のなりたち」)

     そして「多摩の横山」は多摩丘陵全域を指すので、何もこの近辺に限ったわけではない。現在「よこやまの道」として残っているのは、多摩市の南縁を東西に走る多摩丘陵の尾根筋の上である。武蔵国と相模国との国境になるだろう。その多摩市永山に「防人見返りの峠」があるのも、この黒女の歌に因むのだ。以前、里山ワンダリングで歩いたことがある。
     上り階段がきつい。万葉公園と言うから、私は万葉植物園のようなものをイメージしていたが、そうではなかった。雑木林の中に万葉の樹木があるかも知れないが、今日はそこには入らない。但し頂上に立てば眺望は素晴らしい。スナフキンの案内を借りれば、「北から陣馬山・甲武山・長房団地、八王子市役所、東側には八王子駅の南口ビルと市街地、南は雲龍寺の赤い五重塔に工学院大学そして、みなみ野地区」が見渡せるのだ。「あのビルが終着点でしょう、随分遠いわね。」
     山を下って住宅地に入る。「ここはめじろ台。」「メジロが一杯いたのかな。」「京王電鉄が造成した団地だよ。」京王電鉄が付けた名称だった。

    めじろ台は、開発当時としては非常に住環境の優れた住宅地であり、上・下水道、ガス、排水設備等が完備され、地区内道路の幅は五メートル、当初の開発面積は九十三・四ヘクタール、各敷地規模は百八十九~二百四十七平方メートルと空間的に余裕があった。めじろ台一丁目と四丁目の一部には坂があり、まちの景観にモダンな印象を与えている。(平成二二・二三 年度 八王子市都市政策研究所研究成果報告書「八王子市における土地の有効活用策の検討」)
    http://www.city.hachioji.tokyo.jp/shisei/001/001/010/p015519_d/fil/totikatuyou_05chapter2.pdf#search=%27%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%B8%82%E3%82%81%E3%81%98%E3%82%8D%E5%8F%B0%E5%9B%A3%E5%9C%B0%27

     各戸が六十坪から八十坪の敷地を持つのだから、余裕はある。しかし丘陵地の坂に沿った宅地だから年寄りには堪える。民家の庭にユズが多いのはこの辺の特徴だろうか。ピラカンサスも真っ赤だ。
     小さな公園には「とそつ公園」と書かれている。「どんな字かしら?」たぶん兜率天に因むのだろうとは思ったが、字が思い出せないので黙っていた。兜率天には弥勒が住み、釈迦入滅後五十六億七千万年後に地上に現れて衆生を救う。そして天界では人間世界の四百年が一日に相当する。
     山田小学校の校庭は広い。「八王子だもん。都内とは違いますよ。」「ここだって都内だよ。」「違う。都下だよ。」子供たちがサッカーの練習をしている。その先の渓谷のような川に架かるのが山田橋だ。川は山田川、浅川の支流である。橋を渡ると突き当りが広園寺(こうおんじ)だ。臨済宗南禅寺派。兜率山と号す。やっぱり、さっきの公園はこれに因むのだ。八王子市山田町一五七七番地。

    『新編武蔵風土記稿』によれば、康応元年(一三八九年)八月、大江広元の後裔である片倉城主大江師親が峻翁令山を招聘して創建したとされる。ただし、この伝えには確証はなく、開基については他にも諸説ある。一説には、大江師親の子道広の開基と言われ、また、「江氏系譜」によれば、大江氏惣領家(時広流)嫡流長井氏五代長井貞秀の次男長井広秀が康応元年(一三八九年)に開基したという。(ウィキペディアより)

     戦国時代までは寺域が十四万坪、塔頭も十ケ寺あったが、秀吉の小田原攻めの際に八王子城と共に焼け落ちた。閉ざされている門は御成門だろうかと思ったが、これは総門であった。

     広園寺建造物群として、総門・山門・仏殿・鐘楼(附銅鐘)の四棟が文化財に指定されています。総門は禅宗寺院では表門のことで、その構造は四脚門、切妻造、桧皮葺型銅板葺。両袖塀各一間がついています。文政一三年(一八三〇)の再建で、細部の技法から、江戸時代後期の特徴をよく現しています。山門の構造は、三間二重門。入母屋造、上層桧皮葺型銅板葺、下層板葺型銅板葺で、細部の技法が仏殿と類似するので、両者は同時代の再建と考えられます。仏殿は桁行三間、梁間三間、単層、寄棟造で、文化八年(一八一一)の再建、平成一五年に全ての屋根を葺き替えています。
     鐘楼は、桁行一間、梁間一間で、屋根一重、宝形造、桧皮葺型銅板葺で、天保一三年(一八四二)の再建です。附の銅鐘には応永四年(一三九七)及び応仁二年(一四六八)の旧銘及び慶安二年(一六四九)の改鋳銘があり、鐘銘の末尾に「武州滝原住加藤甚右金吾吉重」とあります。現在に残る建造物群は、寛政四年(一七九二)の放火による焼失後のもので、すべて江戸時代後期の再建です。(東京都教育委員会掲示より)

     その隣の門から境内に入る。山門は、一階部分は柱だけの巨大な楼門になっている。高い樹木に囲まれた静かな境内で、若い修行僧(だと思う。作務衣を着ている)が一人で落ち葉を掃いている。「修行だからね。」そうではあろうが、この広大な境内の落ち葉を掃くのは容易ではない。「日本人じゃなさそうだ。」「俺もそう思った。」しかし寺の庭を掃くならもう少し風情が欲しい。春の詩だが藤井竹外の「芳野懐古」がある。

    古陵の松柏 天飈に吼ゆ
    山寺春を尋ぬれば 春寂寥
    眉雪の老僧 時に帚くことを輟め
    落花深き処 南朝を説く

     「この苔がスゴイわね。」山桜の古木には苔がびっしりつき、キノコも生えている。石垣に差し込んだ竹筒から水鉢に水が流れ落ちている。
     東門から出ると、隣接した寺には兜率山同證院の表札が掲げられていた。山号が同じだから広園寺の塔頭である。さっきオクチャン夫人がトソツの文字で悩んでいたので、これを教える。私もこれを見て字を思い出した。
     木造のトイレは趣がある。東司と言うかと思ったが、それは曹洞宗の呼び方で、臨済宗では雪隠と言う。「綺麗かしら?」「入ってみようかしら。」女性陣は難しい。最初に出てきたマリーが綺麗だったと報告したので、女性陣はそれに続く。

     少し歩いて富士森公園に入る。八王子市台町二丁目二番。ここもかなりの高台だ。階段を上るとき足を踏み外して危うく転ぶところだった。「アーア、大丈夫なの?」足が上がらなくなっているか。
     「あの金色のは何かな。」オカチャンの言葉でそれを見に行く。スカートを靡かせる女性二人とラッパを吹く裸の子供の像は平和の像であった。八王子市は非核平和都市を宣言しており、それを象徴して造ったものである。
     昭和二十年八月二日の空襲で、八王子市(旧浅川町を含む)では死者四百四十五人、焼失家屋一万四千戸(市街地の八割)の被害を受けた。さっきは無差別テロルについて書いたが、無差別大量殺戮の始まりは空襲である。アメリカだけではなく、第一次世界大戦、第二次世界大戦で空襲を行った国は、人類に対して大きな罪を負った。日本も例外ではない。しかし北朝鮮の核化に伴い、日本でも核保有を言い出す連中が出てきた。
     丸く刈り込まれた植え込みにポツリポツリと白い花が見える。「あれ、ツツジじゃないかな。」「そうね、返り花だわ。」「私たちは狂い咲きって言うわね」とオクチャン夫人が笑う。「ツツジの季節は良いでしょうね。根津神社より良いかも知れないわ。あそこは人が多くて。」ハイジが言うように、根津神社は人が多すぎる。「ここは無料だしね。」
     八王子消防署入口交差点を左に曲がれば八王子市郷土資料館だ。八王子市上野町三十三番。「前回は来たかい?」「来たと思うけど忘れてる。」しかし敷地に入って思い出した。玄関ホールの手前に石仏が並んでいるのに記憶があった。一つ珍しいのは明和二年(一七六五)の庚申塔だ。青面金剛の足元には猿が一匹、両側面に一匹づつ配置される形式だ。郵便ポストも置いてある。紫の小さな実をつけたのはコムラサキシキブだろう。
     玄関を入ると長机が置かれてガイドが待機している。人数が少ないと声をかけられるのだが、今日は意外に人が多く、その心配はなかった。特別展「八王子百年の彩り」をやっているためだろう。
     「そうだ、ここで八王子車人形の実演を見たんだよ。」夏休み特別展示だったと思う。二階に上がるとその人形二体と箱車が展示されている。「人形が意外に大きいのね」とオクチャン夫人が感心している。箱車に腰をかけて移動しながら一人で操る人形である。確か飯能で生まれた筈ではなかったかしら。八王子市のHPから引用しておく。

     文政八年(一八二五)に現在の埼玉県飯能市に生まれた初代西川古柳(にしかわこりゅう)(山岸柳吉)によって、江戸時代末に考案されました。
     文楽系の三人遣いを、「ろくろ車」と呼ばれる車をおさめた箱に腰掛けて操る一人遣いに改良しました。右手で人形の右手、左手で人形の左手と首、さらに指で目・口・眉まで動かします。人形が舞台に直接足をつけて演技が出来るため、独自の躍動感が生まれます。このような構造は世界でも類がないといわれています。
     平成八年には国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選定されました。
     http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/003/004/001/p005234.html

     中央線を越えると小さな産千代稲荷神社に着く。八王子市小門町八二番地。「思い出したよ。」大久保長安が陣屋を構えたところで、その屋敷神として稲荷を祀ったのが起こりである。陣屋だから本来はもっと広大な敷地だった筈が、稲荷の部分だけがこうして残されているのだ。鳥居は石造神明鳥居だ。拝殿の屋根は四方に大きく広がり、唐破風の向背も美しい。井戸の底は金網で塞いである。今でも水が沸いているらしい。

     大久保石見守長安(一五四五~一六一三)は、家康から八王子三万石の領主に封ぜられ五街道の一つである甲州街道を開いて千人同心をおき現在の小門町にみずからの陣屋を構え街道に沿って八幡八日横山三宿を配し石見土手を築いて浅川の洪水を防ぐ等郷土開発の基礎をかためた。
     又、江戸幕府の成立にも金山奉行などをつとめ偉大な功績があった、この地は陣屋の西端にあたり長安の邸跡と伝えられている。
     昭和四〇年四月吉日建立 八王子市教育委員会

     「長安はやりすぎたんだよね。」「そうそう、やりすぎですね。」大久保長安は武田の遺臣、元は猿学師の出である。家康に仕えた後、佐渡金山や石見銀山などの鉱山運営で功績を挙げ、伊奈忠次とともに関東代官頭に抜擢された。全国の金銀山を統括し、八王子千人同心を創設し、街道を整備した。江戸時代初期の土木官僚として功績は抜群で巨大な権力を握ったが、死後、生前の莫大な公金横領を理由に断罪された。七人の男児全員が切腹を命じられ、縁戚関係にあった大名も改易処分になったのである。
     黄色と真っ赤なモミジが並んでいるのが美しい。「違う種類なんでしょうね。」そこに十人程の団体がやってきた。先導するガイドの名札を見ればクラブツーリズムだった。「こういうツァーもやってるんだ。」
     団体客がいなくなってから、オクチャンが神社の主婦に木の種類を訊ねている。神社を管理している家である。「エーット、ハナミズキじゃなくて。」葉はハナミズキとはちょっと違うと思う。今頃だともっと皺が多く赤くなっているのではないか。「その日本産のもの。」「ヤマボウシですか?」「ソウ、ヤマボウシです。すぐに言葉が出てこなくて。」お互い様である。ホトトギスも随分久し振りに見た。

     甲州街道に出ると、この辺りの記憶も蘇って来た。前に来た時はちょうど夏祭りの最中で、たくさんの山車が通っていたのだ。そしてこの国道には意外に歴史を感じさせる店が多い。ここが本来の八王子の中心で、八王子十五宿と呼ばれる宿場が連なっていた。新町・横山宿・本宿・八日市宿・寺町・八幡宿・八木宿・横町・本郷宿・久保宿・嶋之坊宿・小門宿・上野原宿・馬乗宿・子安宿である。
     八幡町交差点を過ぎた辺りで、スナフキンが指をさす。「ここがユーミンの実家です。」荒井呉服店であった。八王子市八日町。大正元年(一九一二)創業というから老舗だ。「ユーミンは立教女学院から多摩美の日本画科を出たんだ。」スナフキンはフォークソング、ニューミュージック系に強い。
     「ユーミン?」「荒井由美、今は松任谷由美ですよ。」「ユーミンとか五輪真弓とか中島みゆきとか、やっぱり実力があるんだね。」オクチャンも知っていた。五輪真弓六十六歳、中島みゆき六十五歳、松任谷由美六十三歳、同世代である。ハイジ、マリー、あんみつ姫はユーミンのファンだが、私は実は苦手だ。
     八日町交差点から北に入り、すぐ右に曲がる。「多分、この辺だよ。」スナフキンが入って行ったのは八幡八雲神社だ。八王子市元横山町。八幡と八雲(天王社)を合祀した神社だが、拝殿も破風を二つ持って区分しているのが珍しい。拝殿前では七五三の記念撮影をしている。
     「じゃ、こっちから回りましょう。」小さな境内社は横山神社だ。横山党の開祖横山義孝を祀っている。「横山党って江戸時代ですか?」「平安時代末期、武士の発生の頃だよ。」武蔵七党と呼ばれる同族的武士団のひとつである。

    延長二年(九二四)武蔵守小野隆泰が横山の地へ石清水八幡宮(現在の八幡八雲神社)を祀り、天慶二年(九三九)「将門の乱」の翌年に勅使牧(国営牧場)となった「横山の牧」に武蔵権之守に任ぜられた小野義孝は小野姓を横山氏に改め、八幡宮を中心に祭政一致を行い、ここに定住されました。この御方が武蔵七党の一つである横山党の始祖であり、日本における「横山姓」の始まりであります。孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命を祖とする小野氏一族は小野妹子、篁、道風、小町などの逸材を輩出し、その血筋を引く横山氏は後々の世にまで武士の鏡として数々の「物語」の中に語られております。

     小野氏の裔を自称しているが小野隆泰の武蔵守も、小野義孝の武蔵権之守も史実ではない。このことは前回の作文(「番外 八王子編」)にも書いた。小野氏は小野牧を管理する在地の官人だったと思われる。多摩丘陵をはじめとする武蔵国は放牧に適した地域で、古代から勅旨牧が開かれていた。小野牧は承平年間に開かれた。これを背景に武士団が発生したと考えられる。
     横山党は分家が多く、ウィキペディアによれば、横山、椚田、海老名、野部(野辺、矢部)、藍原(相原、粟飯原)、淵辺(淵野辺)、平子(現在は三浦氏族とする説が有力)、山崎、鳴瀬(成瀬)、古郡、小倉、由木、室伏、大串、千与宇、伊平、樫井、古市、田屋、八国府、山口、愛甲、小子、平山、石川、古沢、小野、古庄、中村、大貫、田名、小沢、小俣、本間、中野、成田、中条、横瀬氏(由良氏、新田氏と自称)、小山などがいる。
     八幡八雲神社に戻ってみたが、今度は別の家族が記念撮影をしている。おそらく延々と続くのではあるまいか。八幡神社の創設は上の記事で延長二年(九二四)とされているが、それでは八雲神社はいつであろうか。

     八雲神社は、俗に天王様と申し、延喜十六年(九一六)大伴妙行が、深沢山(元八王子城山の古い名称)の頂上に奉斎し、天正年間、北条氏照が此山に城を築いてから氏神として崇敬しました。天正十八年(一五九〇)六月落城の時、城兵は天王の神体を奉戴し、川口村黒沢の地に密かに逃れ、北条残党の氏神として崇敬していました。
     慶長三年(一五九七)六月、大洪水のため神体は流失し、遂に八王子新町の北なる板谷ヶ淵に漂着しました。暗夜に御光を放ち現れた神体を、六月十三日未明新町百姓五兵衛という者が之を発見し、自宅土間の臼上に移しました。その後初穂の小麦を煎って供物とし、朝夕礼拝している内、或夜夢の中に不思議な神勅を受け、宿長の長田作左衛門の助力を乞い、八幡の社内に遷座しました。

     つまり慶長三年には、ここに合祀されたということだ。「それじゃいいか。」岩に直接浮き彫りにした唐獅子が珍しい。「この岩は何?」「溶岩だよ。富士山じゃないかな。」
     甲州街道を東に進み、駅入口交差点を過ぎて少し行けば子安神社だ。八王子市明神町四丁目十番三号。巫女のアルバイトを募集中である。

    当社は元子安明神と称し遠く奈良時代の天平宝字三年(七五九年)橘右京少輔なる者が皇后御安産祈願の為に創建されたと伝へられ、氏子である子安明神の両町名も当社の加護を願ってつけられ、その昔源義家が奥州下向の折戦勝を願って当社に欅十八本を船形に植樹された事からこの神苑を船森と称し、近くは代々の徳川将軍家より朱印地六石の寄進を受け、明治初年に子安神社と改称し、政府より郷社の社格を受けました。古来安産祈願のため底抜け柄杓を納める習わしがあります。(境内掲示より)

     天平宝字三年は七五九年、孝謙女帝から譲位された淳仁天皇の時である。藤原仲麻呂(後に恵美押勝)の権力が圧倒的だった時代で仲麻呂と深く結びついていた。私は調べられなかったが、スナフキンの資料に拠れば皇后とは粟田諸姉で仲麻呂の長男(故人)の未亡人である。子供が無事に生まれたかどうかは定かでない。
     しかし淳仁天皇は、道鏡との関係を深めてゆく孝謙上皇と対立し、恵美押勝の乱で仲麻呂が敗れると、廃位されて淡路島に流された。淡路廃帝(はいたい)と呼ぶ。そして上皇は再び帝位に就いて称徳女帝となる。後に承久の乱で廃位された仲恭天皇は九条廃帝(はいてい)と呼ばれ、この二人に諡号はなかったが、明治になって追号された。奈良時代は呉音でハイタイ、鎌倉時代は漢音でハイテイと読む。

     湧き出づる清水も産みの安らかに  誓子

     池の傍らには山口誓子の句碑が建っている。なんだか誓子の句らしくない。社殿の中には大勢の客が見える。安産祈願の祈祷をしているのだ。境内社の切妻屋根を載せただけの葦船社には、「日留子命(ひるこのみこと)」の説明がある。

    当社の御祭神は伊耶那岐伊耶那美二神のお子さんで、御子を葦船に乗せて幽世に流した故事にのっとり流産早産によって不運にも現世の恵みを受けることのできなかった胎児の霊魂を幽世でお守りする祭神です。

     これは蛭子のことである。恵比寿には事代主と蛭子と二つの系統があって、お馴染みの七福神で釣竿を持つのはオオクニヌシの子のコトシロヌシである。もうひとつ、不具のために海に流された蛭子は西宮に漂着してエビスとして祀られた。

    ・・・・伊邪那美命、先に「あなにやし、えをとこを。」と言ひ、後に伊邪那岐命、「あなにやし、えをとめを。」と言ひ、各言ひ竟へし後、その妹に告げたまひしく、「女人先に言へるは良からず。」とつげたまひき。然れどもくみどに興して生める子は、水蛭子。この子は葦船に入れて流し去てき。(『古事記』)

     「それじゃ駅に行きましょう。」駅前に着いたのは四時ちょっと前だ。スナフキン、ヤマちゃん、マリーの万歩計を勘案して二万四千歩、十四キロ程になったか。いささか腰が重くなっている。
     オクチャン夫妻、オカチャン、ハイジとはここでお別れだ。あんみつ姫が反省会に合流すると、さっきスナフキンに連絡があった。「あれは三時頃だったろう。」都内のどこから来るか分らないが、そんなに遅くはならないと思う。
     「カラオケはね、ビッグエコーが三割引になるんですよ。」桃太郎は不思議な割引券を一杯持っている。「もう行かないって言ってたじゃないの。」確かに前回そんなことを口走っていたが、やる気満々ではないか。「姫は絶対カラオケに行きたいって言うよ。」「居酒屋の割引券は?」「華の舞が一割引。」「それじゃそこにしよう。」南口の「花の舞」に入る。南口から真っ直ぐ来ればすぐ目に入る場所だ。
     「漬物は姫が来てから注文しようか。」取り敢えず枝豆を頼んでビールで乾杯。ヤマチャンは焼酎より日本酒の方が好きだと言うが、今日のところは一刻者にした。「そろそろ漬物を注文しよう。」それが出された頃に姫も到着した。
     カラオケは予定通りビッグエコーに入った。先日よりは多少回復したが、私の声は戻らない。それでも小林旭の『黒い傷あとのブルース』なんて、誰も知らない歌を歌うのだ。昭和三十六年(一九六一)十二月公開映画の主題歌である。

    蜻蛉