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    近郊散歩の会 第八回 黒川から新百合丘を歩く
      平成二十九年十二月十六日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2017.12.26

     旧暦十月二十九日。大雪の末候「鱖魚群(さけのうおむらがる)」。来週はもう冬至だ。近郊散歩の会は第四土曜日開催が決まりだが、十二月に限って第三週としている。しかし先週の青梅街道に引き続きなので少し慌ただしい。
     今年の冬は例年より寒さが早く来たようで、前期高齢者には堪える。今日の予報は一週間の間に日毎に変化して、雨から曇り、そしてどうやら雨の心配はなくなったようだ。最高気温は昨日までと違って十三度程度には上がると言う。それがどの程度の体感だったかもう忘れているので、念のためにリュックの中に薄手のジャンバーも入れた。
     集合場所は小田急多摩線の黒川駅だ。新宿発九時一分の急行小田原行きに乗り、新百合ヶ丘で九時三十九分発の唐木田行きに乗り換える。黒川に着いたのは九時四十五分だ。同じ電車からマリオとマリーが降りてきた。
     今回は桃太郎の企画である。最初に桃太郎から、「以前どんなコースを歩いたか確認したいんですよ」と聞かれても私は全く記憶がなかった。しかし七年前の十二月に黒川を歩いていることをマリーが憶えていた。折角作文を書いていても、こんなに記憶力が減退してはしようがない。記録を引っ張り出すと、桃太郎はその日、西穂高での冬山登山教室に参加していて欠席だったのだ。その時は「多摩の横山」道の防人見返り峠や近藤勇が通った道(布田道)などの尾根道を歩いている。そのコースと重ならないよう、桃太郎は六回も下見を繰り返して今日のコースを決めたのである。
     集まったのは、桃太郎、あんみつ姫、マリー、マリオ、スナフキン、ヤマちゃん、蜻蛉の七人だ。「ロダンに会えると思って来たんだけど。」ヤマちゃんは先週の青梅街道に参加していないから、手術後のロダンに会っていない。「元気でしたか?」「大丈夫だよ。」今日は所用で欠席だと言っていた。「今日は良かったですね、晴れて。これも桃太郎の心掛けのお蔭です。」「先週は、絶対雨になるっていじけたけどな。」
     「稲田堤で十分歩いて、永山で京王線から小田急に乗り換えて、今日は随分乗り換えました。」姫の経路が私には謎である。どうして京王線が登場するのだろうか。あんまり不思議だから調べてみた。なるほど、乗り換え案内「駅探」ではトップに出てくる。武蔵野線府中本町から南武線で稲田堤に出る。徒歩十分で京王相模線の稲田堤から京王永山へ、そして小田急永山から四分で黒川に到着する。しかし姫の家からなら千代田線で小田急に乗り入れるのが一番簡明で安い。「それだと三十分も早く出なくちゃいけないんですよ。」

     南口に降りれば駅前は何もない。駅の所在地は川崎市麻生区南黒川。後で知ったことだが、北口から徒歩七分のところに劇団民藝(今の代表は奈良岡朋子)があり、京王相模原線(乗ったことがない)の若葉台駅には徒歩十分で行ける。
     「アソウ区じゃなくて、アサオ区って読むんですよ。」それは知らなかった。「私もずっとアソウとばかり思ってた。」横浜のマリオがそう言うのだから、桃太郎以外は皆同じだった。麻の自生地で八世紀には麻布を貢納していた記録が残る。それなら調布や布田などと同じ語源だ。最初に黒川と言う場所を確認しておこう。

    現在の行政区画では川崎市の北部最西端に位置し、周囲を東京都稲城市、多摩市、町田市に囲まれた県境の地域である。
    北側・西側・南側を多摩丘陵の山に囲まれ、その豊かな森を水源とする多摩川水系三沢川の水源地である。豊かな森と水に恵まれた当地域では、かつては農業や炭焼きが盛んであり、特に後者は「黒川炭」と呼ばれ、良質のものを産したという。また、黒川上地区は市内でいちばん標高が高く、多摩丘陵内でも標高の高い地域で、多摩市との境界付近は概ね百四十メートルほどである。この付近では推定二万四千年前の先土器時代以降の遺跡が見つかっており、当地域には古くから人々の生活があったことを物語っている。(ウィキペディア「黒川(川崎市)」より)

     「川崎は広いよ。」東京湾から多摩丘陵まで東西に広がる。特に黒川地区は東京都の中に細く突き出した半島のようで、典型的な里山風景があまり破壊されずに残る地域だ。
     道を下って突き当たりの鶴川街道を左に向かう。鶴川街道とは、町田市中町から鶴川、川崎市麻生区黒川を経由して、調布市下石原までの道である。「スリーエフがローソン・スリーエフになって。」スリーエフは横浜市中区に本社を置くコンビニで、埼玉県では殆どお目にかからない。昨年、ローソンと資本業務提携したらしい。そしてその斜向かいにもローソンがあった。「こんなに近くても良いんですかね。」一応、別会社である。
     交差点の角の小高い丘が汁守神社だ。川崎市麻生区黒川一番。住所からして、ここが黒川の中心になるのだろう。信号を曲がって結構長い階段を上る。頂上に石造の明神鳥居が建ち、その先には木造の両部鳥居が建っている。
     「蜻蛉が作文に書いていたのはこの水鉢でしょう?」それで思い出した。四人の唐子が肩で水鉢を支えている形だ。あの時初めてこの形を見たのだったが、その後何ヶ所かで目にかかった。「がまんさまですね。」姫も知っている。但し支えるのは唐子だったり力士だったりする。境内では落ち葉掃除の真最中だ。公会堂と言う名の、社務所を兼ねた自治会館の中も掃除中だ。
     この神社の創建時期は不明だ。府中の大國魂神社の祭礼に供える汁物を整える役を担ったので汁守神社の名がある。町田市真光寺には飯守神社があって、両者とも祭神は保食命(うけもちのみこと)、『日本書紀』に登場する食物神である。『古事記』では同じ挿話がオオゲツヒメの話として登場する。ツキヨミに殺された死体から粟・稗・稲・麦・大豆・小豆・牛・馬・蚕などが生まれるのは、東南アジア全域に見られる食物起源神話である。

    ウケは食物、モチは〈保〉の文字によると〈持ち〉の意であるが、本来は〈貴(むち)〉の意か。《日本書紀》神代の条の神話では、天照大神の命により月読尊(つくよみのみこと)がウケモチノカミのもとに行くと、ウケモチが口から飯、魚、獣を出して供応したので、ツクヨミはその行為を汚いと怒り、剣を抜いてウケモチを殺し、アマテラスに報告した。すると、アマテラスは激怒してツクヨミとは二度と会うまいと言い、それで日と月とは一日一夜を隔てて住むのだと説明し、さらにウケモチの死体の各部分から、牛馬(頭)、粟(額)、蚕(眉)、稗 (目)、稲(腹)、麦・大豆(陰部)ができたという五穀の起源説話を載せる。(『世界大百科事典』第二版「保食命」より)

     ウカ、ウケは食物のことである。従ってウケモチは伊勢外宮のトヨウケと、また稲荷神のウカノミタマとも同一視される。但し『新編武蔵風土記稿』には「祭神を傳へず、本地は不動にて木の立像一尺ばかりなるを安せり、行基の作と云」とある。祭神は明治以降に上黒川八幡大神、中黒川八雲神社、下黒川日枝神社が合併合祀されてから定められたものらしい。
     社殿は天明二年(一七八二)に再建された。本殿が覆堂で隠されず、そのまま露出しているのは余り見たことがない。一間社流造に千鳥破風がつく形だ。
     石段ではなくスロープを下りる。道路を挟んで向かいのJAのスーパーマーケット「セレサモス」では地場野菜の市が立っている。多分安いのだろう。「今野菜を買っても持ち歩くのが大変だよね。」その脇を進む。
     竹林が目立ってきた。「竹と笹の違いは分りますか?」細いのを笹と言うと、無学な私は思っていた。「竹は生長するに連れて皮が取れますが、笹はいつまでも皮が取れないんです。」調べて見ると確かにその通りなのだが、実にややこしいことにオカメザサは竹であり、メダケは笹である。
     右に下る道と左にやや上る道との分岐を右に行くと、神奈川県営柿生発電所に出た。川崎市麻生区黒川一五四四番地二。大きな川もない、こんな里山に発電所があるなんて実に意外だ。河水ではなく、川崎市営水道の途中の落差十二・二メートルを利用して発電する。ダム建設が不要だから環境に最も優しい発電施設と言って良いだろう。出力は六百八十キロワット、千三百五十世帯の一年間の電気を賄う。

     川崎市は昭和十五年度からの上水道第四期拡張事業において、津久井分水池(相模湖)より受水した水を下九沢分水井(川崎市と横浜市に分ける)を経て、長沢浄水場に至るまでの途中、黒川に地形の関係から落差ができるため、当初からこの地に低落差発電所の計画をたて、その構造物を建設していました。昭和二十七年、導水路は完成しましたが、川崎市が発電事業を開始するに至らず、発電所の建設と維持管理は県企業庁に引き継がれました。昭和三十七年八月に工事が完成し、営業運転を開始しました。(川崎市「柿生発電所」)
    http://www.city.kawasaki.jp/miryoku/category/67-1-4-1-1-19-0-0-0-0.html

     桃太郎によれば、柏崎刈羽原発の総出力が八百二十一万キロワットである。「柏崎ならBMWのスポーツカーが買えるんですよ。だけど柿生は麻婆豆腐定食六百八十円は食べられるけど、七百九十円の青椒肉絲定食は食べられない。」「どういうこと?それって。」「意味分らないよ。」八百二十一万と六百八十との比較であるが、チンジャオロースとは何であるか。「麹町の中華屋でみんなはチンジャオロース食べたけど、自分は麻婆定食だったじゃないですか。」十月のことである。この冗談を言いたいために、チンジャオロースではなく麻婆定食にしたのだろうか。
     私はワット、ボルト、アンペアが分っていない。W(電力)=V(電圧)×A(電流)だったか。オームの法則とかフレミングの左手の法則なんて名前だけ思い出したが、全く何のことやら不明である。
     平成二十七年、環境省と厚生労働省は水道施設への小水力発電の導入ポテンシャル調査を実施した。その結果、「発電ポテンシャルを有する導入候補地として抽出した全国五百六十三カ所について、発電出力の総量は約一万九千キロワットであり、発電出力が二十キロワット以上の地点は全国で二百七十四地点であることを確認」した。これは一般家庭三万世帯以上を賄う量である。これを小さいと見るか、塵も積もれば山となると見るか。こういう設備に使う補助金なら私は反対しない。
     しかし、黒川にありながら柿生発電所とはどうしてだろう。黒川より柿生の名が知られているという判断か。実は明治二十二年(一八八九)に都筑郡の黒川村、栗木村、片平村、五力田村、古沢村、万福寺村、上麻生村、下麻生村、王禅寺村、早野村の十ケ村が合併して柿生村になったことがある。全く無関係に付けられたのではなかった。
     柿生の名は、建保二年(一二一四)に発見された甘柿「禅寺丸柿」に由来する。それまで日本には渋柿しかなかった(と言うのを初めて知った)。麻生区はこれを保護育成したいのである。麻生区内の全小中学校に禅寺丸柿が植えられ、「禅寺丸柿を通じて郷土愛を醸成する取り組み」を進めている。

     次第に里山の雰囲気が濃くなってきた。谷戸の田んぼは今も稲架に稲を架けてある。林の脇のちょっとした空き地に、天保十二年の地神塔、青面金剛、それに何か分からない石祠が落ち葉に埋もれるように立っている。
     茫々と伸びた草を大量に植えた畑がある。「アスパラガスですね。」こんなに伸びるものなのか。尤も私は畑のアスパラガスなんて見たことがない。一メートル半以上の高さから、細い葉や茎が霞のように無数に垂れ下がっている。「アスパラは多年草ですね。」野菜関連のネット記事を見ると、一年目、二年目はそのままにして茎を成長させ、三年目からその芽を収穫するのだと言う。十年ほどは収穫できるらしい。それならこれは二年目辺りになるのだろうか。
     やがて桃太郎は農家の庭のような所に入り込んで行く。「大丈夫なの?」塀際から伸びるピラカンサスの赤い実が山のようだ。そして農家を過ぎれば山道だ。「ハチじゃないか?」「養蜂だね。」右手の空き地に養蜂箱が置かれ、立ち入り絶対禁止の立て札もある。石段を上ると突き当りに素木の神明鳥居が建っていた。その脇に、首を切られた地蔵が六七体、苔むしたまま並んでいる。「これは切られてないですね。」箱型の窪みに浮き彫りにされた馬頭観音(?)だけは無事だ。首を切られた石仏をみれば、明治の廃仏毀釈の結果だろうと想像する。
     空き地の奥の小さな小屋が毘沙門天堂だった。川崎市麻生区黒川一五〇七番地。堂の中を覗き込むと奥の壁は鏡になっていて、巴紋の暖簾が掛かり、灯明台が置かれているだけだ。かつては行基作と伝える毘沙門天が祀られていたが、平成七年に盗難にあって、代わりのもの納めてあると言う。ここは廃仏毀釈で廃寺になった金剛寺(真言宗・応永年間創建)の跡である。

     明治初年、廃仏毀釈の影響で金剛寺は廃寺になりますが、高勝寺には元治二年(一八六五)鋳造銘の「黒川山金剛寺」の梵鐘が保存され、檀徒とともに法灯は高勝寺に灯されました。今も残る毘沙門堂には、「おびあけ」のときの初詣・誕生・節句などに参詣する風習が残されています。(「タウンニュース」二〇一五年二月二十日号)
    http://www.townnews.co.jp/0205/i/2015/02/20/272430.html

     かつて柿生には様々な宗派の寺院がありました。これを見ますと廃仏毀釈の関係で明治初年に廃寺となった寺院数は真言宗が一番多いようです。廃寺となった寺院としては現在、地名だけ残っている真言宗の「真福寺」があります。真福寺交差点からさらに五十メートルほど王禅寺方面に進みますと、右側に真福寺跡が見えてきます。墓地はさらに跡地の標識より小道沿いに上に上がったところにあります。また新編風土記稿には万福寺村の十二神社近くに真言宗の「医王寺」が存在しました。これも明治初年廃寺となり、現在では残っておりません。なお万福寺は戦国時代の「小田原衆所領役帳」には登場しており、中世後期までは存在しましたが、江戸時代にはすでに廃寺となっていたようです。その理由は不明です。(「タウンニュース」二〇一三年七月十二日号)
    http://www.townnews.co.jp/0205/2013/07/12/195720.html

     大小の立方体の石を二つ重ね、笠石を被せた苔生した供養塔がある。「なんでしょうかね?」上の立方体には種子が刻まれているが読めない。「キリーク(阿弥陀如来)でしょうか?」と姫は言うが違うようだ。サク(勢至菩薩)かも知れない。彫られた文字が風化して判別しにくいが、下の立方体には「当寺開山・・・・・」だけが読めた。金剛寺の僅かな痕跡であろう。
     鳥居を出て戻ろうとしたとき、右手の林の中に石碑が並んでいるのが見えた。「お墓かな?」「句碑ってあるぞ。」「ちょっと行ってみようよ。」四人で行ってみると、坂本家、結城家の墓所の隣の一角に、十基ほどの句碑が建っている。遠くから「句碑」と見えたのは、「句碑永久に黒川の里柿うるる 名月女」。そのほか「せせらぎの音を残して山眠る 善生」、「誰が撞く山の五月へ鐘一打 傘雨」等。大した句とは思えない。「これだよ。」地元俳人合同句碑であった。「それにしても金がかかるだろう。」墓石を買う程度の金額にはなる筈だ。「金持ちの暇人が多いんだな。」
     オジサンが作業にやってきた。「コンニチワ。」「コンニチワ。」さっきの道に戻ると姫が、オジサンは「大したもんじゃないって言ってました」と笑う。「暇人が作ったんだって。」「俺は挨拶したのに何も返事をしてくれなかった」とヤマチャンが言うが、私にはちゃんと返事をしてくれた。人相を見たのだろう。
     句碑群の経緯は下記によって判明した。

     二〇〇九年の今年は、黒川にお住まいの吉澤伊三夫氏がめでたく(「麻生区地域功労賞」を)受賞されました。吉澤氏は、俳句活動に熱心に取り組まれ、平成一七年には黒川の毘沙門天様近くのご自身の土地に「坂之上句碑の苑」という句碑を建立されました。
     引き続き平成二〇年には地元麻生区俳人の合同の句碑を建立されました。ともに吉澤氏の私財を投じて建立されたものです。
     はるか昔からの黒川俳人たちの活躍を引き継ぐ吉澤氏(俳名:吉澤篁村)は、黒川の先人たちの偉業を後世に伝え、地域の文化活動の振興に貢献されています。(「麻生区はるひ野・若葉台・黒川の生活事典」
    http://www.haruhino.com/archives/2009-10.html

     「向こうに行けば明治大学の農場があります。」「明治に農学部があるなんて誰も知らないよな。」たぶん知っていたのはスナフキンと桃太郎だけだろう。「生田キャンパスも近いからな。」明治大学の宣伝によれば、環境共生、自然共生、地域共生をコンセプトにした「未来型アグリエコファーム」を目指している。「明治も人気ランキングで近大に抜かれちゃったな。」今の大学は産学協同、就職に役立つ実学をしなければ学生は集まらない。マグロは強いのである。
     農場は三沢川に沿っていくのだが、私たちは川を渡り、里山のやや上り加減の狭い道を行く。まばらに点在するのは農家だろう。坂本工務店。「さっきのお墓の家だな。」やがて少し開けた道に出ると霊園の幟が目立ってきた。切通しの道を横断するために両側に上り階段がある場所で、「ここが布田道です」と桃太郎が言う。近藤勇や土方歳三等が小野路(ここから一里程か)の名主・小島鹿之助邸内の道場へ天然理心流の出稽古に通った道、と言うのは前回歩いて知ったことだ。調布から高尾まで、甲州街道の南の尾根と谷戸を通る裏街道である。
     階段脇に馬頭観音の小さな祠があった。「野球ボールが供えてある。」「硬球と軟球があるね。」「馬頭観音だけに、バットも置いて欲しかった。」マリオは絶好調だ。「テニスボールもあるぞ。」
     「お寺の従業員駐車場だってさ。」「お寺で従業員って言うかな。」「斎場の従業員じゃないでしょうかね。」広大な霊園は町田いずみ浄苑。経営は常照寺である。町田市真光寺三一五番四号。樹木葬の幟が翻る。「樹木葬って土葬かい?」「土葬はしないだろう。」「なんとか法で禁じられてますよ。」
     私もそう思っていたが実は土葬を禁じる法律はない。「墓地、埋葬等に関する法律(墓埋法)」二条で、「埋葬とは、死体(妊娠四ヶ月以上の死胎を含む。以下同じ。)を土中に葬ること」とし、「火葬とは、死体を葬るため、これを焼くことをいう」と定義付ける。
     そして同四条で「埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行つてはならない」、また同五条に「埋葬、火葬又は改葬を行おうとする者は、厚生労働省令で定めるところにより、市町村長(特別区の区長を含む。以下同じ。)の許可を受けなければならない」とある。つまり許可証が必要なこと以外、法律上は土葬も火葬も一律に扱っている。
     但し、十九条で「都道府県知事は、公衆衛生その他公共の福祉の見地から必要があると認めるときは、墓地、納骨堂若しくは火葬場の施設の整備改善、又はその全部若しくは一部の使用の制限若しくは禁止を命じ、又は第十条の規定による許可を取り消すことができる。」としている。つまり土葬を禁じるのは法律ではなく、都道府県の条例なのだった。現実に火葬場のない離島や孤立集落では土葬も行われている。
     ところで「埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行つてはならない」という法の規定と散骨との関係はどうなっているのだろう。散骨は基本的に「墓地以外の区域」に骨を撒くことである。実は法律ではグレーゾーンであり、公式文書は出ていない。法務省刑事局が「葬送を目的として、個人が節度をもって実施する分には刑法上の遺棄罪にはならない」という意味の見解を述べ、厚生省は墓埋法は散骨を対象としていないので規制の対象にはならないと見解を述べたと「言われている」だけなのだ。
     それでも最低限の条件として骨は粉末にしなければならない。ただ条例によって陸上での散骨を禁止している自治体は多い。
     さて樹木葬のやり方はどんなものか。墓地に埋める以上、散骨とは違う。私もそろそろ終末の処置について一定の意見を持っておきたい。ただ父が死んだ時に墓は建ててあるから、他の方法は考えられないけれど。

     樹木葬は、墓地、埋葬等に関する法律による許可を得た墓地(霊園)に遺骨を埋葬し、遺骨の周辺にある樹木を墓標として故人を弔う方法である。遺骨を埋葬するたびに新しい苗木を一本植えるケースや、墓地の中央にシンボルとなる樹木を植え、その周辺の区画に遺骨を埋葬するケースなど様々な方法がある。墓地によって、全体を樹木葬墓地とする場合と、一般墓地や芝生墓地と樹木葬墓地を併用する場合がある。(ウィキペディア「樹木葬」より)

     墓石の代わりに樹木を植える。個別に植えるか、共同のシンボルとして植えるかの違いはあっても、基本的に一般の墓地と変わる訳ではなかった。私としては、個人を思い出すに相応しい場所があるのなら、石だろうが樹木だろうがどちらでも良いと思う。
     地図を確認すると、ここは麻生区黒川と町田市真光寺との境になる。真光寺の地名は、嘉慶二年(一三八八)天台宗の僧の長弁が真光寺を開いたことに由来する。その真光寺が廃仏毀釈で廃寺になったのは、さっきの毘沙門堂のところで記した。
     霊園の横を南北に通るのが鶴川街道だ。「そこのマンションの名前に記憶があるよ。」「前にも同じこと言ってただろう。と言うことは、俺も来てたんだな。」スナフキンも殆ど忘れていたのだ。
     そして真光寺公園に入り、斜面を登って四阿で休憩をする。トイレもある。十時五十分。なんだか腹が減ってきた。池にはカルガモがいる。「あの白いのはコサギじゃないか。」「そうですね。」我が団地の前の調整池の中州は、コサギとカワウが共存するコロニーになっている。暑くなってきて、ダウンのジャケットをリュックに収納する。
     そこから階段を上って尾根道に入る。左が横浜市麻生区栗木、右が町田市真光寺。県境になっているのだ。道は殆ど人が通らないのか、落ち葉に埋もれている。「滑りますよ。」木の根が落ち葉に隠れているから躓かないように気をつけなければならない。自転車が私たちを追い抜いていく。木漏れ日が眩しい。
     左手に大きな建物と運動場が見えてきた。「桐光学園だよ。」川崎市麻生区栗木三丁目十二番一号。学校に関してスナフキンが知らないことはない。「桐蔭の鵜川昇が作ったんだよ。」私は知らないのでウィキペディアを覗いてみる。中高一貫の学校である。

     桐光学園は、元川崎市立高校教諭の小塚光治により一九六五年、川崎みどり幼稚園(現桐光学園みどり幼稚園)が創設されたことにはじまる。一九七二年に学校法人桐光学園が設立され、寺尾みどり幼稚園開設、一九七八年に高等学校が開校。一九八二年に中学校を開校。一九九一年に中高女子部が開設された。
     小塚理事長は、当時「神奈川御三家」の一つであり、多数の東京大学合格者を出し野球部が甲子園にも出場していた桐蔭学園高等学校から鵜川昇(桐蔭学園学園長)を桐光学園理事として招聘し、桐蔭学園のシステムを導入した。現在も桐蔭学園と同様のシステムが多数残っている。

     桐光学園が採用している「桐蔭学園のシステム」とは鵜川方式と言うことだろう。今のところは上手く行っていると見るべきか。
     鵜川昇は桐蔭学園の学園長を勤めながら、理事としてこの学校を作り上げた。鵜川昇については毀誉褒貶が激しい。桐蔭学園の校長と理事長を兼務して強大な権力を握った。創立者の息子からは「乗っ取られた」と訴えられたこともある。東大を超える大学を作ると、桐蔭横浜大学を作った。法科大学院も作ったが、来年度から募集は停止している。そして本家の桐蔭高校の方は、最盛期には百人もの東大入学者を出していたのに鵜川の晩年には次第に凋落し、今は精々十人程度とガタ落ちである。
     「鵜川の栃木高校時代の教え子に宇井純がいるよ。」宇井純は自主講座「公害原論」で名高いが、実は私は宇井純のものは読んだことがない。当時既に荒畑寒村『谷中村滅亡史』も読んでいて、環境汚染と国家犯罪の問題には関心を持っていた筈なのに、なんとなく敬遠していた。「今は沖縄大学にいるでしょう?」「もうとっくに死んだよ。」十一年も前のことだ。公害原論は東大の助手時代で、このために東大での出世の芽はなくなり、沖縄に呼ばれるまで二十一年も助手のままだった。
     それにしても広い敷地だ。小学校もあり、何かの作品展をやっている。「工事やってますね。」重機が入って丘陵が切り崩されている。

     町田方面には住宅地が広がっている。尾根から左に下りて自動車道に出ると、ちょうど桐光学園の下校時間に重なって生徒が一杯歩いている。桃太郎は左側に行ったが、右側歩道の脇に何かの石碑がある。「ちょっと行ってみよう。」大小の石碑の側面に「武蔵州都筑郡小机領栗木郷」とあった。「都筑ってここじゃないだろう。それに小机は横浜の方だぞ。」しかしここは栗木なのである。それにしても武蔵国ではなく武蔵州という表記は珍しい。私は神奈川県の地理に詳しくないのでウィキペディアのお世話になる。

     都筑郡内には神奈川領、小机領があり郡内の村の多くはこの両領のいずれかに属するが、両領のどちらにも属さず『新編武蔵風土記稿』において「領名未勘」とされる村もある。以下、各領に属する村を『新編武蔵風土記稿』の記載順序により列記する。
    ・ 神奈川領 - 今井村、市野沢村、今宿村、白根村、川島村、三段田村、小高新田、二俣川村、上星川村、猿山村、中山村、榎下村、台村、七日市場村、西八朔村、北八朔村、青砥村、本郷村、川向村、東方村、折本村、大熊村、新羽(にっぱ)村、吉田村、高田村、牛久保村、山田村、茅ヶ崎村、池辺(いこのべ)村、佐江戸村、恩田村
    ・ 小机領 - 黒須田村、万福寺村、古沢村、黒川村、栗木村、伍力田(ごりきだ)村、片平村、上麻生村、下麻生村、王禅寺村、上谷本村、下谷本村、上菅田村、寺山村、鴨居村、川和村、荏田村、勝田(かちだ)村、大棚村、上鉄(かみくろがね)村、下鉄村、石川村、早野村、新井新田
    ・ 領名未勘 - 久保村、市ヶ尾村、小山村、成合村、寺家(じけ)村、鴨志田村、長津田村、大場村、岡上村、川井村、上川井村、下川井村

     高級住宅地に入った。教会のような家がある。「住んでないみたいなだ。」垣が長く続く家もある。そして県道・都道一三七号線に出た。麻生区上麻生(柿生交差点)から多摩市連光寺(連光寺坂上交差点)までの道だ。柿生行きの栗木バス停がある。「クリキじゃなくてクリギって読むんですね。」
     「お菓子屋さんが。」その店と一体になった建物に、蔵造を模したような飯草酒店本店があった。川崎市麻生区栗木一丁目一番一号。「ちょっと寄っていいですか?」姫は旦那様のために酒を買いたいのだ。品揃えの豊富さで有名な店らしい。店先では新鮮野菜を売っている。「安いよ、これは。」山東菜二百円、白菜(半分)六十円、聖護院カブ百円、里芋三個八十円、ニンジン二本九十円、じゃがいも四個百二十円。姫は二合瓶を買ったようだ。桃太郎は「後でみんなで分けよう」とミカンを買う。
     栗木御嶽神社入口の交差点で左の奥に神社が見えた。「道を間違えちゃって、今日は寄りません。」「残念だな、ヤマトタケルが乗っ取ったって書いてあったから。」マリオはひどく残念がる。乗っ取ったとはどういうことか。

     栗木には古き時代より日本武尊を祭神とする村社御嶽神社と素盞鳴尊を祭神とする無格社八雲神社があり、共に村の守り神として村民をはじめ近隣の人々に崇敬されてきたがいづれもその由緒は不詳である。
     明治三十九年一村一社の勅令があり大正八年九月の氏子総会において八雲神社境内地に両社を合祀し村社御嶽神社とすることにして以来、七十有余年地域の鎮守の役割を果たしてきた。従ってこの神社には二神が祭祀され厄除けの神、縁結びの神として広く知られている。(栗木御嶽神社建設の碑より)

     八雲(スサノヲ)の場所に合祀されたのに、御嶽(ヤマトタケル)の名を付けた。それを桃太郎は「ヤマトタケルに乗っ取られた」と書いているのだ。八雲は神仏混交の天王社であり、明治政府にとってはあまり好ましくなかったのではないか。
     一町村一社とする明治三十九年(一九〇六)の神社合祀令は無茶苦茶なもので、南方熊楠は断固反対した。その趣旨は鎮守の森を潰してはならないということである。神社を無くせばそれに属する森が伐採されてしまう。植生が崩れ生態系が破壊される。貴重な生物の生存場所として神社の森ほど重要なものはないということである。

     日本の誇りとすべき特異貴重の諸生物を滅し、また本島、九州、四国、琉球等の地理地質の沿革を研究するに大必要なる天然産植物の分布を攪乱雑糅、また秩序あらざらしむるものは、主として神社の合祀なり。本多(静六)博士は備前摂播地方で学術上天然植物帯を考察すべき所は神社のみといわれたり。和歌山県もまた平地の天然産生物分布と生態を研究すべきは神林のみ。その神林を全滅されて、有田、日高二郡ごときは、すでに研究の地を失えるなり。本州に紀州のみが半熱帯の生物を多く産するは、大いに査察を要する必要事なり。しかるに何の惜しげなくこれを滅尽するは、科学を重んずる外国に対して恥ずべきの至りなり。(南方熊楠「神社合祀に関する意見」より)

     神社を国家神道に組み込んで格付けし、ランクに応じて補助金を出す。そのためには神社の数が多くては困るのだ。合祀令の実行は各県知事の裁量に任され、全国二十万社のうち七万社が取り壊された。特に酷かったのが三重県で、県内神社の九割が廃された。伊勢神宮のお膝元と言う関係だろう。その一方京都では一割程度で抑えられた。
     登り道が結構きつい。栗木台すげ沢公園で昼食だ。川崎市麻生区栗木台一丁目八番。ブランコや滑り台のある、住宅地内の小さな公園だ。ちょうど十二時だ。小春日和の土曜の昼だと言うのに、公園で遊ぶ子供がいない。

     小春日や昼の公園人けなし  蜻蛉

     「アレッ、今日は弁当だったのか。」マリオは弁当を持って来ていない。「この辺にコンビニとかあるかな?」「さっきの酒屋さんのそばにありましたけど。」「あそこまで結構あるよ。」「自分が多めに持ってきたから分けてあげますよ」と桃太郎が言ってくれた。
     おにぎりとパンを一個づつマリオに分け、桃太郎は缶ビールを飲む。「さっき買ったんですよ。」「カレーパンにビールじゃ合わないだろう。」昔、里山ワンダリングが始まるずっと前、ふるさと歩道自然散策会の時には、昼に酒を飲むとリーダー夫妻に叱られた。ワインや日本酒を持ち込み、酔って喧嘩する連中がいたから叱られても仕方がない。桃太郎はミカンも分けてくれる。「今日は何時頃に終わる予定かな?」「二時ですね。」それは早い。

     十二時半出発。公園を出るとすぐにトンカツ屋があった。多摩線に出ると線路沿いの店舗長屋にもトンカツ屋がある。栗平駅でトイレ休憩をとる。駅舎の屋根が不思議な形で、栗の形を模していると言う。駅舎が栗木村、ホームが片平村にあったので栗平駅と称し、それが地名にも及んだ。
     ここから住宅地の中を通って、右の川崎市と左の稲城市との境の尾根道に入る。稲城の地名は明治の稲城村成立以来だが、中世には稲毛氏の所領であった。
     柵の左外側は平尾外周通り。平尾は稲城市の最南端に位置する。「あの団地は都営かな?」「都営か住宅公団か。」「五階建てだから都営じゃないの。」我が家も住宅公団(現UR)の団地だが五階建て中層である。調べてみると東京都住宅供給公社の平尾住宅であった。
     落ち葉を踏みしめて歩く。農家のオジサンがビニール袋に落ち葉を詰めている。「腐葉土にするんだね。」「利用してくれて良かった。」姫は落ち葉の味方である。
     「少し開けたところがあるんですよ。」右側がちょっとした空き地になっていて四阿が建っていた。「開けたところね。」雑木林の間から、かなり下の住宅地が見える。特に眺望が良い場所ではないから、この四阿は何の目的で造られたのだろう。老人の散歩のためか。
     「あそこの塚が入定塚です。」金網の柵の向こう側だ。「竹筒だ。」「あれで息をしてたんだな。」それにしては筒が新しい。誰かが埋めたか、それとも生えてきた竹を切ったか。周りは竹林になっている。
     少し回りこんで稲城市側に降りると平尾の十三塚があった。稲城市平尾二丁目八十三番十二号。金網で囲まれているから入ることは出来ない。「十三塚ってなんだろう?」私も知らない。稲木市生涯学習課によれば十三基の塚が並んでいたと言うが、全くその形が分らない。十三に関係あるのは十三仏だろうか。昭和三十四年と四十三年に調査が行われたが、遺物は何一つ発見されなかった。目的も建造時期も不明ながら、東京都に現存する唯一の十三塚であると言う。

     十三人の戦死者が埋められているなどという伝説をもつ塚。岐阜県揖斐には、揖斐藩の者に殺された十三人の大垣藩の侍を埋めたという十三塚がある。(略)他の十三塚の場合も、塚の数に過不足もあるが、多くは十三という数で一致している。ただそのなかに他より大きい塚が一つあって、その左右に六個ずつ小塚が並んでいたり、大塚を先頭に一列になっていたり、大塚の周りを小塚が囲むようになっていたりする。十三塚の別称も多種みられる。塚の配列から生じたと思われる長塚、塚の築造に関与したのではないかと考えられる山伏塚などはその一例である。なお、大将塚という名称は、境の神と考えられる大将軍塚または将軍塚との関係で注意される。モンゴルのオボとよばれるものが峠道の十三の塚と近いことを思わせるが、現在のところ、真言宗の行法において悪霊を鎮め防ぐために設けた聖天と十二天の祭壇であったという説が、もっとも説得力があるようである。(『日本大百科全書』「十三塚」より)

     峠道や村境などに、数個または十数個に及ぶ塚が並んでいるもの。そのうちの一つが特に大きく、これを大将塚・将軍塚と呼んだり、戦士の一団が埋められているなどと伝えるものが多いが、実体は未詳。(『デジタル大辞泉』「十三塚」より)

     実態が良く分らない塚であるが、境界、峠道、悪霊鎮めなどのキーワードからある程度の想像はできそうだ。
     貞享三年(一六八六)に起こった平尾・古沢・片平村の秣場境界問題ではこの十三塚と入定塚を結ぶ線を境とすることで決着した。「馬場家文書」に「武州都筑郡片平村古沢村与同郡平尾村野論之」として記されている。
     少し戻ればさっき反対側から見た入定塚だ。稲城市平尾二丁目八十四番八号。発掘調査によって板碑九基、古銭四十五枚、鉄釘七本等が発見され、一基の金泥のついた板碑に「天文五年丙申八月十五日 長信法印入定上人」と彫られていたのである。「入定の長信坊は塚残し」(『稲城カルタ』)
     天文五年は一五三六年、木下藤吉郎が生まれ、今川義元が家督を相続した年である。織田信長はまだ歴史に登場していない。
     「入定って自殺でしょ?」ヤマチャンは「違うでしょう」と反対する。「一身を犠牲にすることによって民を救済するとか、そういう目的でしょう。」犠牲というより成仏が目的だが、目的の如何を問わず自殺は自殺であろう。自発的意思による餓死である。
     即身仏となるためには先ず木食修行(穀断)をしなければならない。死体腐敗の原因になる脂肪と水分を徹底的に落とすためだ。殆ど皮と骨ばかりになったところで、土中の棺に座り、呼吸のための竹筒を外に出して埋める。終日鉦や鈴を鳴らしながら読経するのである。「辛いですよね、真っ暗の中ですから。それに体も動かせないし。」ミイラ化したものは、現在十数体が存在すると言われ、特に庄内地方には六体の即身仏がある。勿論、運悪くミイラになれなかった者の方が多いだろう。

     尾根のこちら側は平尾の住宅地である。空き家も目立つ。大規模に開発されたニュータウンが今や住民の高齢化と空き家問題に悩まされる。持ち家を前提とした日本の住宅政策は大きな転換を迫られているが、不動産業界と景気を顧慮するから、転換は簡単なことではない。

     もともと稲城は多摩ニュータウン計画の範囲外であり、一九五六年施行の首都圏整備法では、稲城村域はグリーンベルトとして農村を残す予定だった。しかし稲城村議会は、開発から取り残されることを懸念して全会一致でこの構想への反対を決議。一九六五年の同法改正でグリーンベルト構想は撤回され、稲城村域も多摩ニュータウン計画に組み込まれたという経緯がある。(ウィキペディア「稲城市」よる)

     「ヒイラギの花ですね。初めて見ました。」姫が初めてならこれは相当珍しいのは間違いない。白い小さな花だ。玄関先に深紅のバラ一輪がすっと立つ家があった。「一輪づつの暖かさにはなりませんね。」別の家にはキウイの実が生っている。
     平尾宅地分譲自治会館。稲城市平尾二丁目七十七番地七。「こういうのは珍しいですね。」そして谷戸の畑に降りていく。完全な里山風景である。「畑が不規則だから、市民農園でしょうか?」ミカンが生っている。「普通のミカンと違うんじゃないの?」夏蜜柑か。小さな男の子の手を引いた父親が歩いてくる。
     ピンクの実が生っているのはマユミだ。竹林の中の切通しは立派な道路で、やがて大きな病院が出現した。新百合ケ丘総合病院だ。川崎市麻生区古沢都古二五五番地。最高水準の最先端医療を謳い、外来診療は完全予約制である。運営は南東北病院グループの三成会だ。
     川を渡ると自動車道に出る。高台に立つマンションの斜面の石段を登る。もう階段は良いよ。民家の塀にサネカズラを見つけた。
     そして新百合丘の駅前に出た。「あそこが日本映画大学、駅の反対側に昭和音楽大学もある。」日本映画大学は今村昇平が作った学校である。川崎市麻生区万福寺一丁目十六番三十号。最初は専門学校で、四年制大学になったのは平成二十三年(二〇一一)のことである。「ここの他に、白山(麻生区白山)の方で廃校になった小学校を買って校舎にしてるんだ。」

     駅に到着したのは桃太郎の予想通り二時である。一万六千歩。十キロ弱と言うところだが、多摩丘陵のアップダウンが足腰に来ている。「五割増しでもいいですよ。」膝の悪い姫にはかなりの難行だった。
     「この辺は何もないんだ。町田に行こうか。」急行で一区間、新宿から遠ざかるが問題ないだろう。そして町田駅に着き東口に出た。「前はここで集合したよね。」去年の十一月、桃太郎が企画して町田周辺を歩いたのである。「絹の道」碑がある。
     「今日は忘年会を兼ねて、ちょっと珍しい店に行こう。」スナフキンが案内してくれたのは馬肉専門の柿島屋である。「昔は駅前にあったんだ。」町田市原町田六丁目十九番九号。「こんな時間にやってるのかな。」創業明治七年の老舗だ。
     今は二時半。「やってないよ。」そう思ったのは別館で、路地を回り込むと本館はやっていた。しかもかなりの客が入っている。
     まだ腹が全然減っていない。肉鍋二人前を二つ、馬刺し(赤味)を二皿、大和煮二つ。「玉子は人数分でいいですか?」それに漬物を忘れてはならない。三人と四人でそれを分ける。「すき焼きか?」そうである。「私、初めてです」と姫は言いながら美味しいと食べる。馬刺しは歯応えがあって美味い。大和煮はクジラに似ている。鍋は味噌ベースで甘さがあっさりしていて美味い。
     馬肉専門でこんなに流行っている店は珍しいのではないか。普通、馬肉屋で若者グループや若い女性は余り見かけない。昔、大塚の馬肉屋に何度か行ったが、若者の姿は見たことがない。
     私は四人組に入ってしまって、鍋はすぐに空になった。三人組の方はまだ残っている。「大和煮を回してよ。」刺身もふた切れ残っているので姫と私が貰う。「ウッ、ニンニクが。」こちらの刺身には生姜がついていたので、てっきり生姜だと思って付けすぎたのである。姫はニンニクが苦手だ。
     「〆に、うどんでも入れると良いよな。」メニューを見るとうどんはなく、蕎麦玉がある。うどんすきは良く聞くが、そばすきは珍しい。「そばの量は?」「普通の駅そば程度です。」「それじゃ二つづつ。」その量は結構多かった。ただ姫と桃太郎は「駅そば」を「焼きそば」と聞いたらしい。

    すきやきには うどん!を思われるでしょうが、季節により水加減や配合を変えて、鍋にも合うように作っています。(柿島屋)

     煮込み専用に作った蕎麦なのだ。「この店だったら同窓会にも使えそうだね。」来週ゼミの同窓会が浅草であるのだが、来年はここでも良さそうだ。「紹介した甲斐があったよ。」焼酎のボトルはないので、マリオ、スナフキン、蜻蛉はホッピー、ヤマチャンは日本酒。三千三百円なり。

    ・ 牛、豚、鶏などの肉より、低カロリー、低脂肪、低コレステロール、低飽和脂肪酸、高タンパク質。
    ・ タンパク質が多いだけではなく、アミノ酸が二十種類程と豊富。
    ・ ミネラルの内、カルシウムは牛肉や豚肉の三倍、鉄分(ヘム鉄)はほうれん草・ひじきよりも多く、豚肉の四倍・鶏肉の十倍を含有。
    ・ 多種のビタミン類の含有が豚肉の三倍、牛肉の二十倍。ビタミンB12は牛肉の六倍、ビタミンB1も牛肉の四倍、ビタミンAやビタミンEも多い。
    ・ 牛肉の三倍以上のグリコーゲンを含有。(ウィキペディア「馬肉」より)

     良いことだらけではないか。しかし流通量は少ないから一般家庭には普及しない。平成二十七年(二〇一五)の統計を見ると、国内では熊本県が一位で国内生産量の四十五パーセントの二千三百十六トン、二位の福島県がその半分の千百七トン。意外なことに長野県はトップファイブに入っていない。輸入ではカナダが熊本県の生産量とほぼ同じ量で一位、大きく離れて二位がメキシコである。国内生産、輸入を合計しておよそ一万トンになる。
     それでは牛肉はどうか。同じ年度の統計で国内生産量が三十三万二千トン、輸入が四十八万七千トン。全く比較にならないのだ。
     マリオはここで別れ、残った者はビッグエコーに入る。ここでも桃太郎のチケットが有効だった。しかし私の喉は壊れたままだ。


     ここ半月程、右の耳の詰まりで聊か不快な日が続いていた。水が入っているような、気圧の変化でおかしくなるような、そんな具合だ。ネットを検索すると中耳炎か突発性難聴、突発性難聴なら二週間が限度等の文字が躍る。不安になって耳鼻科に行った。「耳垢が詰まってますね。」「アッ。」細い管を入れて吸引し、剥がれたところをピンセットで摘み出す。七八ミリの大きさだった。
     六十六歳になって、耳垢のために医者にかかるのは恥辱である。二千九百六十円取られたのも悔しい。

    蜻蛉