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    近郊散歩の会 第九回 浦安
         平成三十年一月二十七日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.02.04

     二十二日の月曜午後から数年振りの大雪となり、夕方には二十五センチ程にもなった。都内でも二十センチを越えたから大騒ぎである。翌日の朝は、凍結した道路を明らかにノーマルタイヤだと思える車が何台も走っていた。そのお陰で道路は酷く渋滞し、みずほ台からのスクールバスが一時間も遅れた。その夜帰宅すると歩道や団地脇の道は凍結していたが、団地の中は駐車場周りも含めてきれいに除雪されていた。団地の老人と主婦の力である。有難いことだ。
     その二十三日には本白根が噴火して、スキー訓練中の自衛官が一人死んだ。その四日前に、マリオはそこでスキーをしていたと言う。そして今週は大寒波が襲ってきて、さいたま市では二十四日の最低気温がマイナス八・六度、昨日はマイナス九・八度と、一月の最低気温の記録を更新した。このため脇道に残ったアイスバーンや空き地の雪が溶けない。
     今日は旧暦十二月十一日、大寒の次候「水沢腹堅(さわみず こおりつめる)」。千意さんの企画で浦安を歩く。去年の一月に『ブラタモリ』が浦安を取り上げたらしいが、私はこの高名な番組を観たことがない。

     昭和三十九年(一九六四)に始まる埋め立てによって、今では全く様相が異なってしまったが、浦安と言えば山本周五郎『青べか物語』を思い出すのが老人の証拠で、若い連中はその名さえ知らないだろう。ただその本は一昨年に捨ててしまったようで、念のために青空文庫で読み直した。スナフキン、あんみつ姫もやはり本を読んできていた。昭和三年(一九二八)から一年余り浦安に住み、「浦安原人」とでも呼ぶべき人々の生態を描いた小説である。
     周五郎にオンボロのべか船を売りつける狡猾な芳爺、純情な助なあこを手玉に取る亭主もちのお兼、嫁を迎えたものの同衾を拒否されたまま逃げられ、不能の噂が立てられた五郎、両親に捨てられ乳飲み子の妹の世話をする乞食の繁あね、川の中で丸裸になって周五郎を挑発するごったく屋の女たち、誰とでもさせるという噂のすずあま等々。
     それぞれのエピソードは貧困故に苛辣であるが、噂好きな浦安人は囃し立て笑い飛ばす。これに著者の文明論的批評を加えれば、戦後の八王子の田舎を題材にしたきだみのる『気違い部落周遊紀行』の嫌味になるだろうが、周五郎は理屈を語らない。

     浦粕町は根戸川のもっとも下流にある漁師町で、貝と海苔と釣場とで知られていた。町はさして大きくはないが、貝の罐詰工場と、貝殻を焼いて石灰を作る工場と、冬から春にかけて無数にできる海苔干し場と、そして、魚釣りに来る客のための釣舟屋と、ごったくやといわれる小料理屋の多いのが、他の町とは違った性格をみせていた。
     町は孤立していた。北は田畑、東は海、西は根戸川、そして南には「沖の百万坪」と呼ばれる広大な荒地がひろがり、その先もまた海になっていた。交通は乗合バスと蒸気船とあるが、多くは蒸気船を利用し、「通船」と呼ばれる二つの船会社が運航していて、片方の船は船躰を白く塗り、片方は青く塗ってあった。これらの発着するところを「蒸気河岸」と呼び、隣りあっている両桟橋の前にそれぞれの切符売り場があった。
     西の根戸川と東の海を通じる掘割が、この町を貫流していた。蒸気河岸とこの堀に沿って、釣舟屋が並び、洋食屋、ごったくや、地方銀行の出張所、三等郵便局、巡査駐在所、消防署――と云っても旧式な手押しポンプのはいっている車庫だけであったが、――そして町役場などがあり、その裏には貧しい漁夫や、貝を採るための長い柄の付いた竹籠を作る者や、その日によって雇われ先の変る、つまり舟を漕こぐことも知らず、力仕事のほかには能のない人たちの長屋、土地の言葉で云うと「ぶっくれ小屋」なるものが、ごちゃごちゃと詰めあっていた。

     「浦粕町」とは浦安町で、「根戸川」は江戸川、町を貫流する掘割は境川である。蒸気船は深川の高橋から葛西・浦安・行徳まで運行していた。「ごったくや」とは表向きは小料理屋、実態は淫売屋である。東京の銘酒屋に近いだろう。

       有楽町線を新木場で乗り換え十五分で京葉線新浦安駅に着く。電車を降りると、吹き付ける風が冷たい。マフラーをして来ればよかった。手袋も忘れてしまって実に寒い。昨日の昼前頃から急に洟水が止まらなくなって往生したが、夜薬を飲むと一発で効いた。今朝も念のために一錠飲んで、ポケットティシューを大量にリュックに詰め込んできたのだが、肝心の装備を忘れていた。この気温で夜までもつかどうか。
     集まったのは千意さん、あんみつ姫、マリー、オクチャン、マリオ、スナフキン、ファーブル、ヤマチャン、ロダン、蜻蛉の九人だ。「札幌で滑って足を捻ったんだ。」ファーブルのリュックにはストックが二本差し込んである。「東京は札幌より寒い」と言う。
     「アッ、忘れた。」「何を?」姫に返さなければならない本を忘れてきたのだ。「いいですよ、次回で。重いし。」武田百合子の未刊随筆を娘の花が編集したものだ。『富士日記』や『犬が星見た』等には現れない、百合子の本性の部分がかなり生々しく出ている。
     駅前には帰宅困難時の避難訓練の参加者が大勢集まっている。元々陸の孤島と呼ばれた地域だから、京葉線と東西線が止まると、東京方面へは浦安橋で江戸川を渡るしか手立てがない。東京メトロ東西線の浦安駅が開業したのは昭和四十四年(一九六九)三月、京葉線新浦安駅の開業は昭和六十三年(一九八八)十二月である。私の感覚ではつい最近のことだ。
     ビルが並ぶきちんと区画割りされた近代的な街並みを行けば、UR都市再生機構の高層団地の入口の一角に巨大な赤の「&」マークのオブジェが立っていた。友達のつながり、家族のつながりなどを表すシンボルだと言う。そういうものかね。
     境川と交差する角が若潮公園だ。浦安市美浜二丁目十五番一号。敷地のはずれには浦安町漁業記念碑が建っていた。コンクリートで小さな山を作り、その斜面と階段に大きな貝のモニュメントを貼り付け、頂上にはコンクリート製のべか船を載せている。昭和三十七年に一部の漁業権が放棄され、昭和四十六年には完全に放棄された。その記念として昭和五十一年に建てられた碑で、浦安漁業壊滅の記録である。
     明治四十二年には四・四三平方キロしかなかった浦安町は、埋め立てによって昭和五十六年には十六・九八平方キロに膨れ上がった。元の町は当代島、堀江、猫実(ねこざね)、北栄(元は猫実の一部)の地域だけで、市の七割以上が埋立地という計算になる。
     埋め立て前の昭和三十五年に一万六千八百四十七人だった住人は、昭和六十二年には十万を突破し、平成二十七年の推計では十六万七千八百七人と更に増え続けている。東京ディズニーランドのある人気の町だが、埋め立て地だから当然地盤は脆弱で、東日本大震災では広範囲に液状化を引き起こした。
     但し埋め立て地でも液状化が甚大だった地域と軽微だった地域とが、はっきり二分された。実は浦安海面は二度に渡って埋め立てられた。液状化が甚大だったのは第一次埋め立て地(中町地区)で住宅地にした部分だ。第二次の一九七〇年以降に埋め立てられた南部の工業地帯(新町地区)とディズニーランドは比較的軽微だった。金のかけ方が違っていたのである。
     浦安の海が埋め立てられるきっかけは、昭和三十三年(一九五八)四月に発生した黒い水事件である。本州製紙江戸川工場から出る廃水で海が汚染された。

     昭和三十三年四月、江戸川上流にある本州製紙江戸川工場から廃水された真っ黒な汚水によって浦安の漁場が汚染され、魚介類に大きな被害がでた。浦安の漁民たちは何度も工場側と折衝したが、汚水は流され続けた。同年五月、集団抗議をすべく工場に乗り込んだところ、汚水が流されているのを目前にみて激怒した漁民たちが工場のガラスを割ったり、石やレンガを投げ込む騒動となってしまった。そして、六月十日、度重なる会社側の不誠実な対応に抗議すべく、毒水放流反対の町民大会を開催した。大会終了後、陳情のために工場に訪れたが、鉄の門扉を固く閉ざす工場側の態度に激昂した漁民たちは門扉を押し破って工場内になだれ込み、会社側の要請により待機していた警察官との乱闘になった。この結果、漁民から重軽傷者百五人をだすという大事件になってしまった。(浦安市立図書館「黒い水事件と漁業権放棄」
    http://library.city.urayasu.chiba.jp/special/201106/page_3.html

     しかし水質悪化による漁獲高の減少によって、結局漁業権を放棄せざるを得なかった。人口の七十五パーセントが漁師だった町である。半農半漁を加えれば、漁に依存する割合はもっと高い。この事件によって十二月には「公共用水域の水質の保全に関する法律」が制定された。現在の「水質汚濁防止法」(昭和四十五年公布、平成二十三年最終改正)の前身である。
     田子の浦のヘドロも、大昭和製紙・興亜工業・大興製紙・本州製紙の工場排水が原因だった。 また水俣病、第二水俣病、イタイイタイ病、四日市ゼンソクも同じ頃に発生したが、問題化されるまで更に十年を要したから、浦安事件は最も早い例である。
     浦安のべか船は長さ十二尺(三・六メートル)、幅二尺八寸(八十四センチ)の薄板で造った一人乗りの船で、海苔の採集に使用したものだ。別に渡良瀬川や思川では、商品輸送に使ったもう少し大型(長さ四十五尺、幅九尺)の船をべか船と呼んだ。『青べか物語』は、山本周五郎が古い青ペンキの剥げかかったべか船を買わされたことから名づけられた題である。

     境川に架かるのは今川橋。境川は旧江戸川から分かれ、猫実村と堀江村の境を流れて東京湾に注ぐ。川には船が何艘も繋留されている。川の向こうには日本生命のビル(総合研修所)が見える。川を離れると、これまでの高層ビルの町から戸建ての住宅地になった。美浜南小学校の校庭の柵に「海抜二・二メートル」の標識が掲示されていた。「津波が来たら大変だよね。」紅梅が咲いている。
     首都高速の上を渡ると消防本部前に出る。ここから南に、浦安市役所の東側を通る道が、かつての浦安町と海を分かつ線である。海岸を連想させる松もある。「あそこに浦安市立中央図書館が見える」浦安市猫実一丁目二番一号。「有名な館長がいたよな、誰だっけ。」私も名前は忘れたが、浦安市立図書館を全国に知らしめた人物だった。スマホで調べたスナフキンが「やっぱり常世田良だった」と思い出す。著書に『浦安図書館にできること ―― 図書館アイデンティティ』があって、私も読んだ筈だ。
     「どう有名だったんですか?」浦安市立図書館では、昭和五十九年(一九八四)市民一人当たりの年間貸出冊数が全国で初めて十冊を超え、それが公共図書館界に大きな影響を与えた。それ以降、全国の公共図書館が貸出数を競うようになったのである。そして図書館の数も大きく増えた。因みに平成二十二年(二〇一〇)には、全国の公共図書館が個人に貸し出した冊数は七億一千百七十二万冊(日本図書館協会の調査)となり、書籍販売部数七億二百三十三万冊を越えた。但し貸出冊数はこれをピークにして、その後は下がっている。販売数については言うまでもない。
     市役所の裏の道には防潮堤の名残のようなものが残っている。そして浦安市郷土博物館にやってきた。浦安市猫実一丁目二番七号。金色の母子像は何のためなのか分らない。博物館の一階にあるレストラン「すてんばれ」が千意さんの目的である。障碍者支援の店で、障碍者を雇っている。店の前に集まっていると、「予約の方ですか?」と店員が外に出てきた。
     近郊散歩の会では普通は弁当を持参するのだが、こんな寒い日に外で食べるのは大変なので、千意さんは予め予約してくれた。料理は全員が「あさり飯セット」に決めている。十一時五分。時間的には少し早いが、先に飯を食べてからゆっくり博物館の見学をすると言う。
     準備のために五分ほど待たされた。コンロの上に炊き込み飯の曲げワッパが載っていて、煮物や漬物、ゴマ汚しなどの入った器、アオサの味噌汁が運ばれてきた。これで千百円は安い。一日十五食から二十食の限定である。「ビールはどうする?」どうもこの店では気が引ける。箸袋に「すてんばれ」の意味が書いてある。浦安方言で、抜けるようなカラッとした晴天の意味である。「今日の天気だね。」
     「湯気が上がったらもう食べ頃です。」このコンロは暖めるだけのものだから五分もかからない。飯も煮物も上品な薄味だ。もともと漁師の飯だからぶっかけが本来だろうが、深川でも同じように炊き込みご飯と両方ある。
     第一回(平成十七年)には深川の永代寺そばの「六衛門」で深川丼(ぶっかけ)を食べたが、味はもっと濃くて厚揚げが入っていた。「深川は味噌味ですね。私は深川で実習したんです」と可愛らしい店員が話しかけてくる。「船の上で、味噌汁をご飯にかけたのが始まりです。それが段々、家で炊き込みにするようになりました。」しかし最初はアサリではなくバカ貝(アオヤギ)で作ったものらしい。

    深川飯――是はバカのむきみに葱を刻み入れ熱烹し、客来たれば白米を丼に盛りて其の上へかけて出す即席料理なり。一椀同じく一銭五厘尋常の人には磯臭き匂ひして食ふに堪へざるが如しと雖も彼の社会では終日尤も簡易なる飲食店として大いに繁昌せり。(松原岩五郎『最暗黒の東京』「車夫の食物」)

     明治の中頃には最下級の食い物だったが、今や観光用の郷土料理に昇格したのである。ところで『最暗黒の東京』は松原が東京の貧民窟に入り込んで報告したルポルタージュである。これと横山源之助『日本の下層社会』で明治日本の最底辺の暮らしを読むと、実に暗澹たる気分になってくる。樋口一葉の生活もそれと大きく変わっていた訳ではなかった。
     ご飯は茶碗に二杯の量で丁度良いが、姫は半分スナフキンに手伝って貰った。今回は全員が同じセットにしたが、あさり重(あさりを卵とじしたものを飯に載せた)セットも同じ値段だ。あさり入りナポリタン七百九十円、松花堂弁当七百円もある。「お汁粉がありますね。」姫が目敏く見つけた。「うちは豆から炊いてますから美味しいですよ。」しかし注文する訳ではなかった。

     十一時四十分に店を出て博物館に回る。受付で資料を貰って階段の方へ行くと、窓から昔ながらの街並みが見えた。「船宿があるよ。」「まだこんな町並みが残ってるんだな。」「違うんです。あれは博物館の屋外展示場です。」
     ボランティアのおばさんが数人待機していて、声を掛けてくる。小さな人造の川にはべか船が浮かび、強風のため本日の乗船は中止と書かれている。なんだか分らない機械類を置いてあるのは焼玉エンジンの小屋だった。橋を渡れば正面が船宿(これは案内所になっている)、左隣は漁師の家(明治後期の建築、旧吉田家貸家)右隣りは煙草屋(大正十五年建築、旧本澤家)。
     煙草屋のカウンターには古めかしいラジオや招き猫が載っている。壁に貼られた昭和二十八年の定価表を見ると、朝日二十本入り三十円、ピース十本入り四十円、光十本入り三十円、新生二十本入り四十円、ゴールデンバット二十本入り三十円。昭和四十五年頃とあまり変わらない。
     建物の脇に回ると板壁にヒイラギとイワシを刺している。金盥の水が凍っている。路地には共同の井戸、便所がある。路地を挟んで煙草屋の裏は豆腐屋(下総屋)で、炭俵が置いてある。魚屋(明治三十八年、旧太田家)、三軒長屋(江戸時代末の茅葺屋根)、天ぷら屋「天鉄」と並ぶ。その向かいの通りには風呂屋がある。「入れるかな?」銭湯の入口は開かない。「上を見てください」と言う千意さんの声で上を眺めると、ビルに店構えの表面だけを貼り付けたものだった。
     三軒長屋は、元の場所では路地を挟んで四軒長屋と向かい合わせになっていて、七所帯が共同の便所と井戸を使って暮らしていた。九尺二間なら四畳半に一間半の土間だが、ここは六畳に一間半の土間がついているので、九尺二間半と言うか。ここに夫婦と女親の三人、夫婦と子供二人、夫婦と子供四人などの家族が住んでいた。
     浦安に水道が引かれたのは昭和十一年(一九三六)だが、長屋に共同水道が来たのはもっと後だった。それまでは水屋が売りに来た水を買っていた。戦前でカメ一杯が五銭だったと言い、共同井戸は洗い物に使った。
     天鉄の店内では、子供たちが小上がりのテーブルに何かを広げて遊んでいる。壁に掲示されているのは『青べか物語』関係の資料だ。当時の浦安町の写真もある。堀江フラワー通りにあった店で、小説にも登場する。

    ・・・・私は僅かな稿料がはいると、よく天鉄へいってめしを喰べた。てんぷら一人前で酒を一本ゆっくりと飲み、そのあと、その日の特にいいたねを二つか三つくらい揚げてもらってめしを喰べる。そのころ私はまだ酒に弱かったので、よほどのことがなければ二合飲むようなことはなかったし、一合を飲むのにも一時間くらいかかったろう。(略)
     店は昔ふうで、土間に卓子が二脚ほどあり、鉤の手に畳を敷いた座敷があった。もちろん土間に面したほうは障子もなにもなく、客があれば薄い座蒲団を敷くだけ。膳は四角で、足のない平膳であった。

     豆腐屋の前にはケンダマを入れた笊が置かれ、大人が子供にベーゴマを教えている。「秋田にベーゴマはなかったよな?」「なかった。」ケンダマに挑戦してみるがうまくいかない。千意さんもだめだ。ファーブルは、「俺は子供の頃から苦手だった」と笑う。
     それにしてもこれだけの町を屋外に復元展示する博物館は珍しい。金がかかっている。「浦安は金持ちだから。」平成二十八年度の一般会計では歳入が八百九十三億円に対して歳出が七百九十七億円。財政力指数は一・五一八である。一・〇を上回れば地方交付税交付金が公布されない。これはかなり高い数値で、平成二十四年度の全国市町村の順位では第六位となっている。
     船の工場もある。昭和三十年頃の船の引き渡し値段の表を見ると、べか船の製作日数は一週間、延べ七人の工程で二万円になっている。公務員初任給が一万円の時代だ。最も高い打瀬船(帆をかけて、貝やシャコ、カニ、カレイなどの底性の魚介類を底曳漁する)が、製作日数二ヶ月で十八万から二十二万円。展示されている打瀬船に姫が靴を脱いで入る。「ワーイ、嬉しい。」梁の上には三艘の古いベカ船が並べてある。
     館内に戻って干潟のジオラマ、魚の水槽を見る。アナゴは竹筒に潜って尾鰭の先だけを覗かせている。「頭隠して尻隠さずってやつですね。」「カレイはいるかな?」「砂に潜ってるから分らないよ。」「ヒラメとカレイの見分け方は?」「左ヒラメに右カレイ」とマリーが応える。
     浦安亭と名づけられた一室では、映像に合わせて講釈師が解説するビデオを流している。浦安亭は昭和三十年代まで堀江一番通りにあった寄席である。画質が悪いのは時代のせいだから仕方がない。
     最大のテーマは昭和二十四年(一九四九)のキティ台風だ。元々水に弱い町だが、その時は台風通過が東京湾の満潮時と重なったことで被害が大きくなった。浦安町の全戸数三千二百四十戸のうち、床上浸水二千四百十九戸、流失または全壊が百四十戸。船舶、漁業死罪、農産物の被害を合わせて、被害総額は四億四百七十三万円になった。当該年度の町の総予算四千六百十五万六千円の十倍に上る。
     そして水は町中に汚物や塵芥をまき散らし、赤痢が発生した。一ヶ月の間に累積罹患者は八十二名、うち七名が死亡した。浦安の人は「戦争の次に最も思い出したくない出来事」と語っていると言う。漸く復興したのが昭和二十七年であり、実は、屋外展示はその昭和二十七年頃の町を再現したものだった。
     「ビデオがもう一本ありますよ。」しかし集合時間まで後五分しかない。姫は残念そうだが玄関に戻る。「又来たいですね。」
     博物館で入手した資料が貴重で、今回はかなりの部分これを利用させて貰った。「災害と闘ってきたまち――キティ台風の襲来」、「浦安の三軒長屋」、「浦安市内に今でも残る文化財住宅」、「水に囲まれた街」、「浦安の伝統芸能」、「浦安のべか舟」、「浦安の投網師」等である。

     博物館を出たのは十二時半だ。なかなか充実した施設だった。朝よりは多少温かくなって来たろうか。風さえなければ日差しが心地良い。午後は浦安の古い町(元町地域)を巡る予定だ。車の通れない狭い路地を行くと左右天明弁財天だ。浦安市猫実二丁目二十三番一号。石造の鳥居は明神鳥居。明治十七年十月(一八七四)川島という人が建立したと書いてある。「川島という人って、なんだかおかしくないか?」

     弁天様は灰やのくるわに災害が起る前には、女の姿になって現われ、災害を未然に教えたり、大津波の襲来を予告したりして常にくるわの人達を救ってくれるといわれ、非常に霊験あらたかなところから、信者が多く、特にくるわの人々は付近の守り神として崇拝している。
     大正六年(一九一七)の大津波で堂宇が流出してしまったので、くるわの人達は浄財を持ち寄って弁天様を再建した。(境内掲示板)

     「灰や」は貝の殻を焼いて粉にする工場である。貝灰は耐火耐熱に優れており、壁材に使われた。その工場がこの弁財天の近くにあったのである。狭く入り組んだ路地の雰囲気は、ロダンの案内で羽田の古い町を歩いた時と似ている。典型的な漁師町の面影だ。
     路地を抜け大通りに出ると、その突き当たりが豊受神社だ。浦安市猫実三丁目十三番一号。保元二年(一一五七)の創建と伝え、この地域ではもっとも古い。ちょうどその頃に浦安に集落が発生したと考えられている。
     保元と言えば、保元元年には保元の乱が起こり、武士の力なしでは政権が維持できないことが露になった。そして讃岐に流された崇徳院は日本史上最大の怨霊と化した。源平の内乱も南北朝の内乱も、全て崇徳院の怨みによるのである。その力は明治維新まで続き、慶応四年(一八六八)明治天皇は自ら讃岐に勅使を派遣して崇徳院の霊を宥め、京都に移して白峯神宮を創建しなければならなかった。
     「神明社の系統だそうですね」とオクチャンが言う。千意さんの案内資料にそう書いてある。江戸時代には神明宮社と呼ばれていたそうだが、神明社なら祭神はアマテラスとする筈だ。しかしここではその名の通りトヨウケビメを祭神とする。「豊受は伊勢の外宮の神ですよ。食物を司る。」前にも書いたことがあるが、トヨウケの「ウケ」、ウカノミタマ(稲荷神)の「ウカ」は食物や穀物を意味する。オホゲツヒメの「ゲ」も同様である。祭神や神社名は明治以降に決められたものかも知れない。
     大イチョウは根周り七メートルと言うが、割れてしまったものか、六本ほどの幹に分れていて余り大きくは感じられない。樹齢三百五十年。明治四十年頃、高潮の塩害で元の樹は枯れ、その周りに生えていた萌芽枝が現在の株立ちになったと言う。「ヤマタノオロチみたいだ」とロダンが言う。
     神輿蔵にはきれいな神輿が収めてある。富士塚がある。大正十二年の造営と言うから、富士塚としては古いものではない。危険だから上るなと書いてある。端にはカラス天狗が立っている。
     猫実の地名はこの神社にまつわる。初めてここに集落ができた時、度重なる津波を防ぐために神社の周辺に松を植えた。すると水が松の根を越さなくなった。そのため「根越さね(ねこさね)」と呼ばれたものが猫実に転じたと言うのである。
     花蔵院(新義真言)には寄らない。「新義真言って?」念のために書いておこうか。興教大師覚鑁を祖とする新義真言では智山派、豊山派が有名だが、これは、その大元になった根来寺(新義真言宗総本山)の系統である。根来寺は鉄砲隊を抱えた一大武力勢力だったが、秀吉に滅ぼされ智積院を本山とする智山派、長谷寺を本山とする豊山派に分割された。根来寺が再興されるのは江戸時代になってからである。
     境川に出ると、「おっぱらみ」の解説があった。おかしな地名だが、「おっぱらみ」は追い払いの訛りである。

     「おっぱらみ」という地名が生まれたのは江戸時代で、隣の行徳地域が徳川幕府に保護された塩の生産地だった頃のことです。
     塩づくりは、五月から九月にかけて行われます。しかし、入梅時期で雨量が多くなると、江戸川が増水し、淡水が境川を経て海に流れ込むため、行徳地先の海水は塩分が薄くなり、良い塩ができなくなりました。
     そこで、行徳で塩を作る人たちは、毎年梅雨時には、川幅が最も狭いこのあたりを土砂や板を使って塞いでしまうことを恒例としていました。しかし、堀江・猫実の漁師たちは、海への玄関口である境川が通れなくなってしまうので、漁に出ることができず大変困っていました。
     ある年、漁師たちは相談して、このあたりの土砂や板を強引に取り去ってしまいました。
     これを知った行徳の人たちが大勢押しかけて、再び塞いでしまおうとしたのですが、浦安の漁師たちは、団結してこれを追い払いました。
     それ以来、行徳の人たちも諦めたのか、ここが塞がれることはなくなったといわれています。
     この「追い払い」が「おっぱらみ」とかわり、このあたりを表す地名になったということです。

     境橋は天保年間に架けられた浦安で最も古い橋で、欄干には古い浦安の銅版写真が何枚も掲げられている。漁船が多数係留されている写真もある。
     橋を渡ると正面が東学寺だ。浦安市堀江二丁目四番二十七号。真言宗豊山派。本尊に亀乗り薬師如来を祀る。この如来は元亀年間(一五七〇~七三)堀江村の住人与八郎の母が近くの砂浜で拾ってきたものである。仏壇に安置し祈願をしたところ、流行の疫病にかかっていた家族の病も癒えたという。但し解説板に絵が載っているだけで実物を見ることは出来ない。
     本堂脇には、古めかしい「薬師如来」文字碑と、その前に白くて新しい羅漢像が四体置かれている。「こんなの却って置かない方がいいんじゃないか。」
     寺を出れば木造の古い二階家が目に付いた。「雨樋が銅だよ。」「こっちの家は、二階の戸袋が銅だ。」「看板建築の名残かも知れませんね」と姫が言う。浦安のメイン通りなのだろう(後で確認するとフラワー通りだった)。桜が一輪咲いている。

      寒桜ただ一輪の漁師町  蜻蛉

     新中橋で川を渡ると、角の小さな公園「もみじ広場」の奥に建つ三角屋根の洋館は、内科小児科だった濱野医院である。浦安市堀江三丁目一番八号。昭和四年の建築で、浦安で最も古い洋館だ。平成八年まで、三代に亘って診療を続けていた。「後継者がいないんだね。」中にも入れるが、靴紐を解くのが面倒なので私は入らない。現在は子育て支援のNPO法人の活動拠点となっている。
     ボケの花が赤い。「可哀そうな名前ですよね。」「可哀そうと言えば、ヘクソカズラの方がもっと酷い。」「ボケって漢字でどう書くんだっけ?」「木のなんとか。」全く記憶力が減退している。木瓜であり、音読みのボッカがボケに転じたとされる。「実は食えるのかな?」ヤマチャンはそれだけが気になる。「食べないと思いますよ。」
     境川が狭くなってきて、洪水対策のため赤レンガの護岸が施されている。「水が少ないな。」「雨が少ないから。」「この間の雪はどうなんだろう。」
     記念橋を過ぎると旧大塚家だ。浦安市堀江三丁目三番一号。江戸時代末期の建築である。茅葺寄棟造りの屋根の平屋で、一部屋根裏二階を設け、洪水の際には家財道具を屋根裏に上げた。因みに記念橋は、大正天皇大典の際に架けられた。
     「時間はどのくらいですか?」「二十分でお願いします。」しかしこの後に宇田川家に回るのなら、ここを十五分にして宇田川家で時間を取った方が良いと、ボランティアの女性が言ってくれる。障子の陰におじさんが座っているのかと思ったら、爺さんと娘の人形だった。
     「大塚家は半農半漁でした。」屋根裏には外からはしごをかけて上ったそうで、今は上がれない。「昔は境川にすぐ出られました。」

     浦安の民家は、境川に近い方に土間、遠い方に客座敷が作られていることが大きな特徴で、境川を挟んだ堀江・猫実地区とは、対照的な間取りとなっている。境川は海への出入り口で、その水は、飲料水や生活用水として利用されていたため、こうした配置が生まれたと考えられる。茅葺屋根の木造平屋建であることや、建築構造と様式の特徴などから江戸時代末期の建築と推定される。(千葉県教育委員会「旧大塚家住宅」)
    https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p111-062.html

     海苔を干す巻簾も手作りだったという。「ヨシが生えていたのでそれを使います。」隅の壁はピカピカに磨きこまれている。「この壁は黒漆喰です。」竈(へっつい)はレプリカだった。見るのは一階だけだから、やはり二十分もかからなかった。
     家を出て路地を曲がれば銭湯があった。「講釈師がいたら喜んだでしょう。」「煙が上がってるよ。」煙突から煙が上がっていて営業しているのだ。まだ暖簾は外に出ていない。「あの頃、銭湯代っていくらでしたかね?」ロダンが思い出そうとするが、私は全く記憶に残っていない。
     そして旧宇田川家は大塚家より更に広い二階建ての商家だ。浦安市堀江三丁目四番八号。この家は堀江村の名主の分家である。宇田川家は扇谷上杉定正の末裔だと言うが真偽は不明だ。店舗部分の座敷では反物を前に談笑している主人と客の女性の人形が座っている。米、油、雑貨、呉服などを商っていた。大正三年には郵便局も経営した。

     明治二年に建てられたもので、建築年代がはっきりとわかるものとしては市内最古の民家です。道路に面した店舗部分と裏の住宅部分からなり、米屋、油屋、雑貨屋、呉服屋などの商家として使われてきました。幕末から明治に至る江戸近郊の町家の形をよく伝えており、商家遺構の少ない関東では特に貴重な建物であることから、昭和五十七年に市の有形文化財として指定、昭和五十九年から公開しています。(浦安市「旧宇田川家住宅」)
    http://www.city.urayasu.lg.jp/shisetsu/bunka/bunka/1005590.html

     「この前の通りがフラワー通りです。かつては浦安銀座とも呼ばれた繁華街でした。」面影は殆どない。さっきの天鉄はこの通りにあったのだろう。
     二階に上る階段は狭くて急だ。「今まで滑り落ちた人はいません。」しかし膝が曲げられない姫は断念する。二階に上がると部屋の隅に小さな穴が開いて、階下が覗けるようになっている。「この下に金庫がおいてありましたから。」監視のための穴だった。「この大きな箪笥はどうやって入れたんですかね?」階段から上げられるサイズではない。「組み立てたんだと思います。」
     何故、壁に付けずに隙間を空けているのか、それがロダンの最も気になることだが、それは分らない。「可動式です」と言う答えが返ってくるばかりだ。床に引き摺った跡がある。
     屋敷の前は小さな庭になっていて、地面には貝殻が敷き詰められている。「昔は生の貝殻を撒いたから結構生臭かったようですよ。」キティ台風の話は博物館で知っている。「銭湯がありましたね。」「今でも三軒営業してます。」内風呂を持たない家が多いのだ。

     フラワー通りだからだろうか。側溝の蓋には花の絵が描かれている。幼児が描いたものだろうね。「こんなの要らないんじゃないか。」「チューリップばっかりですね。」花屋があった。
     西に行って行徳街道に突き当たれば清瀧神社だ。浦安市堀江四丁目一番五号。節分会の赤い幟が翻る。建久七年(一一九六)の創建と伝えられ、大綿津見神(オオワタツミ)を祭神とする。イザナギ、イザナミの間に生まれた海神である。ワタは海、ツは「の」、ミは神あるいは霊。
     「親子が別れてますよ、珍しい」と姫が喜ぶのは、最上段の親獅子と最下段の子獅子とに別れた狛犬だ。「左は一緒にいますね。」ここにも富士塚があった。浦安ではかなり富士信仰が広まっていたようだ。
     そして本殿の彫刻が立派だ。覆堂がなく、建築用資材のような鉄骨数本でトタンの屋根を支えているのだが、トタンは本堂の屋根に沿って折れ曲げている。周囲は開けっぴろげで隠されていないのは珍しいが、彫刻の素晴らしさに比べて、この屋根のみすぼらしさは如何なものか。安政二年(一八五五)の建造で、上総から仕入れたケヤキの一本で建築したと言う。三間社流造。
     こういう彫刻の素晴らしさを描写できる能力がないのが悔しい。浦島太郎だけは言われたから分ったが、そのほかの題材が全くチンプンカンプンである。本殿に入る石門(これも初めて見る)にも彫刻が施される。
     境内の隅には、竹で四角い枠を作り、堀江水準標石を埋めている。落ち葉が積もった中から笹が生えているので、石も埋もれそうだ。正方形の真ん中に小さな正方形を盛り上げた石で、その横に土木学会推奨土木遺産の標識もある。下記の説明を知れば、もっと大事にしても良いのではないかと思う。少なくとも笹は除去した方が良い(笹ではなく竹かも知れない)。

     明治政府は、国内の河川管理・治水管理のため、オランダから高い土木技術をもつ技師団を招きました。河川を改修するにあたって最初に行ったのは、川の水位を測るための基準点を定めることでした。
     明治五年(一八七二)、オランダ人技師のひとり、I・A・リンドは、江戸川筋と利根川筋に水位標を設置し、水位観測を行いました。また同時に、江戸川河口の浦安堀江から利根川河口の銚子の飯沼までの水準測量を行いました。これにより、千葉県銚子市の飯沼観音(圓福寺)内に飯沼水準原標石を設置し、利根川河口の飯沼に設置した水位尺(量水標)の零位を日本水位尺(J.P.,Japan Pei1)と名付け、水準測量の原点と定めました。
     堀江水準標石は、江戸川・利根川でリンドが行った水準測量において設置されたものです。「日本の河川測量の原点」とされる飯沼水準原標石とともに設置された日本最古の水準標石です。
    (江戸川河川事務所http://www.ktr.mlit.go.jp/edogawa/edogawa00229.html)

     これが江戸川河口の水位の基準であり、現在は霊岸島の東京湾中等潮位より〇・八四〇二メートル低いと言う。
     境内社の龍神社は豊玉比古神を祀る。トヨタマヒコはトヨタマヒメの父親の海神で、オオワタツミの別称でもあるから、オオワタツミと別にここに祀っているのが不思議だ。トヨタマヒメが出産の時には鰐(古事記)あるいは龍(日本書紀)の姿に変身したのだから、その父も鰐あるいは龍である。日本近海に鰐はいないから鮫のことだとするのが一般的な説明だ。しかし南方から鰐伝説を伝えた渡来人の記憶がそのまま伝わってきたと考えたい。
     その隣が清瀧山宝城院だ。真言宗豊山派。浦安市堀江四丁目十四番一号。「神社の隣がお寺なんだね。」明治以降に開拓された北海道ではそういう例はないだろう。「江戸時代まで、神社はお寺が管理してたんだよ。」「お寺の方が格上ってこと?」仏法を守護するため、インドのホトケが仮の姿で現れたのが日本の神である。これを本地垂迹と言う。差別されていた神官が寺院に恨みを持っていたことも、明治の廃仏毀釈に大きな影響を与えた。
     ここは庚申塔に尽きる。堂の格子戸の隙間から見ただけでも珍しいものだ。姫は格子の間からカメラを差し込む。「良く撮れないわ。」この戸はもしかしたら開くんじゃないか。開いた。「イヤダー。」
     元文元年(一七三六)の建立。塔身百十八センチ、台が四十センチ。合掌型青面金剛の両脇に二童子、三猿の下に四夜叉がいるのがかなり珍しい。「講釈師はいる?」「いるよ、ちゃんと踏み付けられてる。」「日月も二鶏もいますね。」「鶏って?」金剛の足元にいる。
     「夜叉とは?」「鬼ですね。」そう簡単に答えてしまったが、ヒンドゥの魑魅魍魎は、仏教に取り入れられると殆ど護法善神に変わる。夜叉も例外ではなく、護法善神として働くが悪鬼としての性格も持っている。ただ夜叉と般若との区別が私は良く分っていない。
     本堂の前には「おびんづる」の解説があるが、賓頭盧(びんづる)尊者の像は見えない。賓頭盧は十六羅漢の第一番である。神通力を弄んだのを釈迦に叱責され涅槃に入るのを許されず、釈迦滅後は衆生の救済に当るのが勤めとなった。病の治癒に神通力があるとされるので、びんづるの身体を撫でると、撫でた本人のその部位の病が治る。だから普通は人が触りやすい場所に安置してある。川越の蓮馨寺も有名だ。
     次は大蓮寺だ。浦安市堀江四丁目十四番二号。参道入口に大塚亮平顕彰碑と宇田川六郎兵衛墓の案内が掲示されている。大塚亮平は浦安の海苔養殖事業を始めた人で、さっきの大塚家住宅とは関係なさそうだ。宇田川六郎兵衛は昌平坂で学んだ後、浦安に戻って子供たちに学問や剣を教えていた。浦安から日本橋の魚河岸に運ぶ船が、中川番所の検査で時間がかかって魚が腐る。六郎兵衛は番所代官と交渉して、浦安の魚は無検査で通るようにしたと言う。「中川番所は行きましたよね。」
     民家に挟まれた参道が長い。銅葺きの山門は高麗門というのではなかったかと思ったのは無学な私の勘違いで、姫の言った通り薬医門だったようだ。扉に取り付けられた金色の紋が、見たことのない形だ。亀の甲羅を三菱形に置き、それぞれの間に「4」を細長くしたようなものを三本配置する。なんだか虫のような感じだ。

    大蓮寺は天文十三年(一五四四)に小田原から行脚してきた覚誉存栄上人によって建てられた浄土宗のお寺です。
    当時の浦安は江戸もまだ開けていない頃で、現在の江戸川河口の小さな漁師町でした。その町のはずれ境川のお堂に、行基大僧正という名僧が彫られた勢至菩薩像が奉られていて、そのあまりの見事さに覚誉上人が惹かれ、この勢至菩薩像を守るために小田原にあった自分のお寺と同じ名前の大蓮寺を創建したのです。(大蓮寺「大蓮寺について」http://www.dairenji.jp/about/)

     山門を潜ると、右手には小さな地蔵が五段にたくさん並び、それぞれの花立に色とりどりの風車を立ててある。地蔵の顔は幼児だから水子であろう。あまり気味の良いものではない。
     立派な庭は「瑠璃光浄土の庭」と名づけられている。薬師如来の東方浄土である。阿弥陀如来の西方極楽浄土が有名だが、他にも観音菩薩の補陀落浄土、弥勒菩薩の兜率天など様々な浄土がある。
     裏門は黒門だ。黒田藩の馬場入口の黒門だったと言う。「黒田藩と縁があるのかな?」ないと思う。維新の混乱で、屋敷に付属するものは二束三文で売り払ったのではあるまいか。
     門を潜ったところに久助稲荷の堂がある。元々小田原の大蓮寺にあった福徳稲荷を勧請したものだ。覚誉存栄上人の夢に、久助が現れ、荒廃した稲荷の復興を頼んだと言うのである。
     その隣の波トタンを張った小さな堂を覗くと、地蔵坐像二体の前に木製の男根が数本、斜めに立てられていた。これについては大蓮寺のHPは何も触れていない。大きさからして性具とは考えられず、古代から続く民間信仰の痕跡と思うしかないだろう。「何でこれが信仰に関係するの?」「子孫繁栄だよ。」五穀豊穣にもつながる。普通は「陽石」と呼ぶ石棒が多く、木製は珍しいのではないか。「女性には内緒にしておいたほうが良いかな?」とヤマチャンが気を遣う。「そうだね。」川崎の金山神社(若宮神社の境内社)には、巨大な男根を神輿に載せて練り歩く「かなまら祭」というものがあるらしい。

     境川に戻ると、新橋の袂が浦安町役場跡だ。浦安村時代の明治二十八年(一八九五)から昭和四十九年(一九七四)まで庁舎のあった場所だ。写真をガラスで覆っているから、カメラを向けてもまず写らない。

    この地は、江戸時代には幕府に収める年貢米を貯蔵する蔵があり、明治時代の初め、蔵を改造して小学校としました。
    この小学校は、明治二十二(一八八九)年四月浦安村の発足とともに、浦安尋常小学校の分校になりましたが、明治二十七(一八九四)年十二月に猫実に浦安尋常小学校が建設され、分校が不要になったため、翌二十八年四月、村役場をここに移転しました。
    なお、それまでの村役場は猫実の花蔵院隣の民家を借り受けたものでした。(浦安市「浦安町役場跡」
    http://www.city.urayasu.lg.jp/shisei/profile/rekishi/1001476.html

     年貢米の蔵があったということは、境川が浦安物流の動脈だったと言うことだ。銭湯「松の湯」の前に五六人の男女が屯している。今は二時十七分。銭湯はいつから開くのだろうか。「二時のが遅れてるかも知れないな。」
     そして旧江戸川に出た。釣り宿「田島屋」。堤防の胸壁沿いにシロギス、マゴチ、フッコ、タチウオ、カレイ等、一枚に一種類の魚の名を書いた立て看板が並べられている。干物でも売るのかと思って田島屋の店先を覗いてみると、魚ではなく、それら専用の仕掛けや餌を売っているのだ。
     東西線の橋を潜ると、川には観光用の屋形船が係留している。「オオバンがいますね。」二羽の黒い鳥が泳いでいる。「さっきも見ましたよ。」最近、我が家の近くの調整池でもオオバンを良く見る。中州にホテルが建っている。この辺りが蒸気河岸と呼ばれ、蒸気船の発着所があった。
     明治十年(一八七七)に営業を開始した内国通運(現日本通運)の蒸気船は大正八年(一九一九)に撤退し、それを引き継いだ東京通船株式会社の通称「通船」と、大正十年(一九二一)に開始した葛飾汽船株式会社の「葛飾舟」が就航していた。通船は白、葛飾船は青く塗られ、どちらもエンジンの音からポンポン蒸気と呼ばれた。
     ポンポン蒸気は隅田川だけかと思っていたのだから無学である。私の知識のもとは昭和三十五年(一九六〇)からNHKテレビでやっていた『ポンポン大将』(桂小金治主演)だ。我が家にテレビがやってきた年だ。
     そのそばに釣宿・乗合船・船宿の「吉野屋」があった。浦安市猫実五丁目七番十号。「これだよ、長だったっけ」とスナフキンが指差す。店の正面には「『青ベカ物語』の船宿千本」の大きな看板が掛けられている。昭和三年当時、この船宿の三男坊は生意気な小学生で「長」と呼ばれていた。周五郎が買わされたべか船を見た時、長はこんな反応をした。

     「あのぶっくれ舟か」と長が或るとき鼻柱へ皺をよらせ、さも軽蔑に耐えないというように云った、「青べかってえだよ」
     この誇り高い小学三年生は、見る気にもなれないという顔つきでそっぽを向いた。
     それは慥かにぶっくれ舟であった。伏せてある平底の板は乾いてはしゃぎ、一とところあいている穴から、去年の枯れ草がひょろひょろと伸びていた。水から揚げられた古い舟ほど、哀れに頼りなげなものはない。それは老衰して役に立たなくなった馬が、飼主にも忘れられ、厩の裏でひとりしょんぼり首を垂れているような感じにみえる。――その日も私は道傍に佇たたずんで、人間も同じようなものだ、などというのは俗すぎるな、というようなことを思いながら、暫くタバコをふかしていた。

     それでも周五郎はこの少年を気にいっていたようで、ある日、映画館に連れて行った。長にとってはおそらく初めての映画経験だったろう。

     或る日、――私は船宿「千本」の長を伴れて、浅草へ映画を見にいった。たぶん大勝館だったろう、やっていたのは猛獣狩り映画で、たしか「ザンバ」という題だったと思う。思い違いかもしれないのではっきりは云いきれないが、アメリカだかイギリスだかの夫婦の探検家が、アフリカの奥地で猛獣狩りをする、という筋だったことは覚えている。
     この小学三年生の、こまっちゃくれの長は、映画が始まると同時に百二十パーセントまで昂奮してしまった。彼はシートから身を乗り出し、両手を拳にして、頭を押え、口を押え、膝を叩き、また胸へぎゅっと押しつけたりした。小さな顔は赤くなって、眼は殆んど殺気を帯び、呼吸はときに深く、また喘ぐように激しく、もっともエキサイトすると拳を口に当てて息を止めた。
     あらゆる画面で、彼は猛獣どもに呼びかけ、探検家夫妻に注意を与えた。
    「ライオンだライオンだ」と長は喚く、「見せえま、先生、生きてるライオンだぞ」
     周囲の観客はびっくりして彼を見る。ライオンは仕掛けた罠檻のほうへ歩いてゆく。
    「やい危ねえぞ」と長はライオンに呼びかける、「そっちいいくと捉まっちまうぞ、いっちゃだめだ、ええ、だめだってえにな、捉まっちまうったらな、ええライオンのばかやつら、こっちい来いってば」

     三十年後、作家が吉野屋を訪れると、四十二歳になった長は三代目店主となっていたが、周五郎のことは何も覚えていなかった。僅か一年余りで逃げ出した、働きもせずブラブラしていた作家のことなんか、少年の記憶には全く残らないのだ。
     やなぎ通りを越えれば当代島だ。大川端公園の脇に慈悲地蔵の堂がある。浦安市当代島二丁目二十三番。

    此の地蔵尊の建立してある地域は浦安町当代島字大川端と称し、堤外地であり此の地域内に居住している宅地は往古河川なりしが江戸川の度々の洪水により土砂が堆積して陸地となり、此の地が陸地となる迄の長い過程には江戸川に漂流してきた人畜の佛體が数多く漂着し、此の地に埋没されしと傅えられる。尚此の地区内にても災難事故にあわれた方も多数あり、依って此処に此の有縁無縁の霊魂が成佛する事を祈念し、併せて地域の住民が不慮の災難にあう事なく、家内安全幸福な生活が永久に営まれる事を祈願して建立せり。
    昭和四十八年六月吉日 撰文 前田治郎助 会長 西脇森蔵 題字 善福寺芳雄

     「当代島の名前の由来は?」「私はそこまで調べてません。蜻蛉にお願いします。」何かに書いてあったような気がするがすぐには思い出せない。後で調べると、当代島地区を開墾したのは田中十兵衛である。当時住み着いた住人が、自分たちの時代(当代)にできた島だと名付けた。また灯台があったとの説もあるようだ。
     政丸水産の前で姫が立ち止まる。浦安市当代島二丁目二十一番十六号。アサリやホタテの佃煮製造販売所だ。佃煮屋を見つけて姫が寄らなかったことはない。スナフキンも佃煮好きだ。先を歩いていた千意さんも戻ってくる。「入っていいのかしら?」「呼び鈴を押せって書いてある。」「中に人がいるよ。」奥が工場になっているようだ。
     アサリしぐれ煮二百グラム千円、ホタテしぐれ煮二百グラム千円、焼きアサリ五本五百円。高いのか安いのかまるで判断がつかない。「ロダンはアリバイを買わなくていいの?」「愛があるから大丈夫。」オクチャンとファーブルも買った。マリオも買おうとしたが、手ぶらでバッグもないからやめた。
     船圦川跡は暗渠の遊歩道になり、小さな用水を流している。「ウナギがいますから注意し見てください。」水は循環させているのだろう。水は綺麗で底は浅い。「ウナギだ。」全く動かない。「死んでるのかな?」少し歩くとまたいた。これも動かない。「寒いからじゃないか?」しかしこれは単なるオブジェだった。虫の専門家も騙された。
     船圦川は全長五百メートル、川幅十二メートル。江戸時代初期、狩野浄天、田中十兵衛によって人工的に掘られた用水だとされている。この川沿いに集落が出来たのが当代島の始まりだ。農業用水路であり、江戸川に出る船の経路であり、生活用水でもあった。
     緑道を離れると稲荷神社だ。浦安市当代島三丁目中一番一号。鳥居からの民家の間の参道が長い。二の鳥居の前には「明けましておめでとうございます」の看板が設置されたままだ。境内に入れば、なかなか立派な神社である。

    御祭神に豊受大神を祀る稲荷神社は浦安市当代島三―十一―一に鎮座しており、その創建は他の二社同様に定かではないが、元禄二年(一六八九年)に(武蔵國小岩村、現在の東京都江戸川区小岩町)の善養寺から移し祀ったものといわれている。神社の記録によると少なくとも大正時代には相殿の神さまとして応神天皇と春日大神をお祀りする神社であったこともわかる。

     清瀧神社、豊受神社と共に「浦安三社」と呼ばれる。トヨウケビメを祭神として稲荷を名乗る神社は初めて見た。これは先にも書いたように、ウカノミタマと習合したからである。
     紀元二千六百年記念・支那事変出征祈願碑がある。「出征祈願はめずらしくないですか?」凱旋記念や戦没者慰霊碑は良く見るが、姫の言う通り出征祈願碑は見たことがない。出征兵人名、入営兵人名が刻まれている。講釈師がいれば「金鵄輝く日本の」と歌いだした筈だ。元歌は引用するに値しないので、替え歌の方を書いておこう。

     「金鵄」上がって十五銭
     栄えある「光」三十銭
     今こそ来たぜ この値上げ
     紀元は二千六百年
     ああ一億の民は泣く

     大鯨と彫った小さな石祠がある。明治八年、浅瀬にクジラが取り残されていたのを当代島の高梨源八と西脇清吉が発見した記念だ。当時二百円で売れたと言う。東京湾には結構クジラが来たのだ。「品川でも鯨塚のある神社がありましたよね。」利田(かがた)神社だ。「私は行ってないな」とロダンが残念そうな声を出す。
     ここにも小さな富士塚がある。浦安人はホントに富士塚が好きだ。神輿庫の閉じられたシャターには、祭りの風景が描かれている。「おやつがあるんですけど。」「じゃ、ここで配ったら。」「神社で良いのかしら」と躊躇いながら姫はお菓子を出す。マリーも出した。
     千意さんはフキノトウを配ってくれた。ちょうど全員分の数を持ってきていたのだ。秋田ではバッケと呼ぶ。(私は貰ったことをすっかり忘れていて、月曜に思い出してリュックから取り出した。女房に渡すとどうしたら良いかと訊く。ごく単純に炒めれば良いと言ったのだが、それに味噌を混ぜてくれたから、偶然バッケ味噌と呼ばれるものに近くなった。ほろ苦さが酒のつまみにちょうど良かった。)

     行徳街道に入ると相馬海苔店がある。浦安市当代島三丁目二番十号。「浦安でまだ養殖してるのかな?」「産地乾海苔問屋」とあるが、浦安で商売になるほど海苔を養殖しているとは思えない。調べてみると、千葉県産の海苔は八割を富津で生産し、他の二割を木更津と船橋・市川地区で分けている。
     米・酒の「たかはし」は秋田神代の米特約店を名乗る。浦安市当代島二丁目七番三十六号。「なんて読むんですか?」「じんだい。」現在は仙北市田沢湖に属している。知らなかったが神代の米は、あきたこまちの特別栽培品「じゃんご米」と言う。「じゃんご」とは在郷の訛りで田舎のことである。
     東海山善福寺。新義真言宗。浦安市当代島二丁目六番二十七号。元和五年(一六一九)、田中十兵衛が堂宇を建立し、開山。そのために当寺に田中の墓がある。明暦二年(一六五六)栄祐が開基。東小岩の善養寺の末寺である。
     田中内匠十兵衛の名前はさっきもちょっと触れた。「柳生じゃないんだな。」「座布団一枚」とロダンは叫んだが、マリオの洒落は余り面白くなかった。北条氏の遺臣で小岩に土着し、名主に取り立てられた。

     昔、当代島村から八幡村(現市川市)にかけては、土地が低いために、たびたび水害が起き、稲の生育には適さない場所でした。このような状況を解決するために、十兵衛は元和六年(一六二〇)に欠真間村源心寺(現市川市)の大壇那狩野浄天(新右衛門)とともに、幕府の許可を得て、高所の囃子水(現鎌ヶ谷市)から真間川を経て、低地の当代島まで、灌漑と排水を備えた水路を開削しました。この水路は、開創した内匠十兵衛、浄天の名をとって、「内匠堀」「浄天堀」と呼ぶようになりました。(解説板より)

     宝篋印塔が立派だ。創建から百年を記念して宝暦六年(一七五六)に建てられたもので、平成元年(一九八九)の調査で、塔の内部から「宝篋印陀羅尼」が刻まれた銅版、宝暦五年の「宝篋塔多宝塔建立勧化帳」「寄付金帳」、和紙に包まれた三本の歯や木製の小さな塔などの資料が発見された。高さ二・五メートル。
     右手に魚を持った大師像はサバ大師と呼ばれる。弘法大師は全国各地に色々な伝説を残しているが、私はこの話を知らなかった。

     ・・・・古い街道筋の要所である坂や峠に僧がサバを手にもつ像を祭って〈鯖大師〉と呼び、弘法大師が旅僧の姿でサバ一匹を請うたのに、商人または馬子が荷物のサバを与えなかったために罰せられたという伝説を伝えている場合がある。徳島県海部郡海南町鯖瀬の八坂八浜の伝承は代表的であるが、これは坂や峠の神に食物の初穂を供える風習と、これを仏教で生飯(さば)と称したことが転訛してこの伝説となったらしい。(『世界大百科事典』「サバ(鯖)」より)

     明治の中頃、不漁に苦しんだ浦安漁民が大師に念じたところ大漁が続き、特にサバの水揚げが多かったと言う。そのために大正三年(一九一四)に大師像を建立した。現在の像は昭和四十一年(一九六六)に造り替えられたものである。
     不動明王の像も珍しい。火炎に赤く色づけしてあるのは後からのものだろうが、台座には車のような模様が刻まれているのだ。「これは何でしょうか?」姫も首を捻るが私も見たことがなかった。実はこれは法輪だった。八方向に仏法を広める(八正道)ため、車輪型で八本の剣を出している。
     「それじゃクジラを見に行きます。」県道六号線(市川浦安線)に出ると、今までとは打って変わった景色になった。街である。千意さんが立ち止まったのは、浦安魚市場の前である。浦安市北栄一丁目十番二十号。壁面に大きなクジラと小さなクジラの絵が描かれているのだ。ここは三十四店舗の入った共同市場で、階上がマンションになっているように見える。営業時間は朝の四時から十二時までだから、当然もう閉まっている。

     三時二十三分。これで今日のコースは終了した。洟水は大して酷くならず、消費したポケットティッシュは三つで済んだ。さてこの時間でやっている店があるか。「ここが二十四時間営業しています」と言うから入るのかと思えば違った。
     オクチャンを駅で送って、千意さんはガード下の「貝鮮料理うらやす」に入る。浦安市当代島一丁目十七番五号。三時半だ。「まだランチタイムです」と千意さんは言ったが、土曜には十一時からやっている。貝や魚は金谷の姉妹店から毎日直送される。
     店に入るとちょうど板前が生簀からイカを上げるところで、イカが吐いた水がスナフキンの顔にモロに命中した。「参っちゃうよな。」マリーの上着にもかかっている。板前はにやにや笑っている。「謝りもしないんだからな。」
     「全員ビールで良いかな?」千意さんはビールはダメだとハイボールを注文した。生ビールはサッポロだったので、今日のファーブルは大丈夫だ。何はなくても漬物を注文しなくてはならない。
     「貝の店だからさ。」刺身は不安があるので活貝焼き六種セットを二つ注文すると、コンロが持ち出されてきた。「自分で焼くのか。」笊に入っているのはホタテ、ハマグリ、アサリ、シロガイ、サザエ、ツブガイ。焼き方を記した紙も渡される。「私、だめですよ。」姫が怖気づくので焼き担当はマリーになった。貝の種類によって焼き時間、ひっくり返すタイミング、醤油を差すタイミングが違うのである。
     「私が見てますよ。」ロダンはスマホのタイマーを必死で見つめる。「一分三十秒・・・・二分。」そんなことをしていたら大変だ。焼き加減は見れば分るだろう。「ロダン、もう見なくて良いよ。」「折角見てくれてるのに、可哀相に。」
     六種十二個を九人で分けるのである。私とファーブルはサザエに決めた。マリーが最初にひっくり返そうとする。「それじゃ汁が落ちちゃう。」「だけど、そう書いてあるんだもの。」サザエの壷焼きは秋田にいた頃自分でも作った。「ひっくり返さなくて良いよ。」泡を吹いてきたら醤油を差せばよい。「もう良いんじゃないかな。」
     しかし私は蓋が上手く取れない。ファーブルは簡単に外したので、それを貰い、私の分は彼に渡した。「わがままな奴。」貝が焼き上がるまで大騒ぎだ。
     焼酎は黒甕。名前は忘れてしまったが、海草のサラダが旨い。粘つく食感はメカブみたいなものである。適当に飲んで一人三千円。五時半だ。店を出るときに「今日が誕生日」とマリオが口にした。早く言って欲しい。七十歳である。マリオはここで別れた。
     「カバちゃんの店に行こうか。西葛西なんだ」と、スナフキンはカバちゃんに電話する。正確にはその奥さんがやっている店で、カバちゃん本人は出版社の社長だ。と言っても普通の人には馴染みがない。「学術研究に資するための人文・社会科学系の基礎統計、貴重資料の復刻出版を目的とする」出版社である。縁があるのは研究者と大学図書館関係者だけだろう。
     東西線に乗って西葛西で降りる。「俺も三十年前に一度来たきりなんだけど」と言いながら、スナフキンは歩き始めた。途中でカバちゃんと出合った。自宅で休んでいたのにわざわざ来てくれたのである。
     「肴のよろず屋」江戸川区西葛西六丁目七番十号 西葛西メトロセンター三番街。暖簾に「揚げ立て天麩羅・へぎそば・越後地酒」と書かれているのは新潟出身だからだ。六時。随分繁盛している店だ。
     カバちゃんが選んでくれた酒は新潟の緑川。甕で出され、柄杓でグラスに注ぐ方式だ。料理もお任せしてしまったが、何を食べたか思い出せない。へぎそばも食べて二千円は大出血サービスだ。今日も飲み過ぎた。 

    蜻蛉