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    近郊散歩の会 第十回 浦和
         平成三十年二月二十四日

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.03.06

     二月二十日、金子兜太が熊谷の自宅で死んだ。九十八歳は大往生と言っても良いが、時事通信は早とちりで三日前にその死を誤報した。
     兜太は東京帝大在学中に新興俳句弾圧事件に遭遇し、先輩の爪が拷問で全て剥がされているのを見た。国家は反戦の句だけでなく、無季や自由律を提唱するモダニズムが、天皇制に基づく日本の伝統を破壊すると決めつけた。あるいは「枯れ菊」と言う季語がある。菊は天皇の紋であり、天皇の衰退を意味したものだと言いがかりをつける。逮捕拘留されたのは平畑静塔、渡邊白泉、秋元不二男、西東三鬼、石橋辰之助等多数に上る。
     川柳の弾圧については以前、鶴彬を中心に触れたことがある。短歌も例外ではなく、プロレタリア派が弾圧された。土岐善麿(哀歌)も自由主義的だと非難され、戦時中は殆ど隠遁生活を強いられた。これらの陰にいたのが太田水穂、斎藤瀏、吉植庄亮である。協会の中に「非愛国者」がいると主張して大日本歌人協会を解散に追い込んだ。このうち斎藤瀏は二・二六事件で反乱軍を援助したとして禁固五年の刑に服した元陸軍少将で、その娘が生涯二・二六を歌い続けた斎藤史である。
     帝大を卒業すると海軍主計中尉として、日本海軍の一大根拠地トラック島(チューク諸島)に駐留し飛行場の建設に従事した。しかし基地は昭和二十四年二月の空襲(海軍丁事件)で多数の艦船と航空機を失う。爆撃で兵士や工員も多数死んだ。それ以降、米軍は飛び石作戦をとって直接の攻撃はなくなったが補給は途絶え、多くの兵が餓死した。

     「虚無の島」でした。軍事的価値を失っていましたから、米軍の主力は素通りし、友軍が増援部隊や物資を送ってくるはずもない。工員たちは「捨て子」と自嘲していました。軍事教練などなく、日々の仕事は食糧生産ばかり。やることがない。人間が無感動になっていく。生きる意味を見いだすことができない。(「トラック島で『捨て石』体験」『毎日新聞』二〇一五年六月二十三日)

     それでもなんとか敗戦まで生き延び、捕虜として米軍航空基地建設工事に使われた後、二十一年十一月、最後の二百人とともに帰国した。
     兜太の骨格はこれらの経験によって作られた。戦後は前衛俳句の旗頭となり自由律や無季句も容認したから、山本健吉、稲畑汀子(虚子の孫)等の伝統派とは対立した。安保法制反対運動では澤地久枝の依頼で「アベ政治を許さない」と揮毫した。カナで書いたのは漢字で書くに値しないからだと本人は言っている。兜太の句を少し引いてみる。

    水脈の果炎天の墓碑を置きて去る
    彎曲し火傷し爆心地のマラソン
    罌粟よりあらわ少年を死に強いた時期
    曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
    人体冷えて東北白い花盛り
    どれも口美し晩夏のジャズ一団

     スナフキンは二月十日に死んだ石牟礼道子(九十歳)を悼んで、『サークル村』の谷川雁、上野英信、森崎和江の名前を思い出させてくれた。『石牟礼道子全集』(全十七巻+別巻)は藤原書店が出した。藤原書店の社長藤原良雄は、実に不思議な出版人である。ブローデル『地中海』(全五巻)をはじめ、アナール派の翻訳が商売になるなんて誰も思わなかった筈だ。その藤原書店の季刊誌『環 歴史・環境・文明』の第一期終刊号(二〇一五年春)に石牟礼道子の俳句を見つけた。

     花びらの吐息匂いくる指先に 
     向きあえば仏もわれもひとりかな

     白状するとスナフキンに呆れられてしまうが、実は石牟礼道子の本を読んでいない。宇井純にしてもそうなのだが、私には真っ向から戦い続けた人へのコンプレックスから来る忌避感があるようなのだ。『苦海浄土』は渡辺京二編集の『熊本風土記』に、『海と空のあいだに』の表題で連載されたものである。そして渡辺は十年以上、石牟礼の家に通って料理を作り続けた。

     石牟礼道子といえば、まず念頭に浮かぶのは『苦海浄土』であろう。これは、彼女が最初に出した本であるが、折柄社会問題となった水俣病の実相を描破した作品として世評を呼んだだけでなく、今でも毎年版を重ねる現代の古典となっている。
     『中央公論』や『文藝春秋』のような大雑誌で、近代日本の名著××点とか、戦後最も影響を与えた書物十冊といった企画が試みられると、必ずといってよいほど『苦海浄土』の名があげられる。それだけこの本のインパクトが強烈で持続的であるわけだ。
     むろん石牟礼は『苦海浄土』だけの作家ではない。当初は社会派、記録文学作家といったふうに見られていたが、その後続々と発表された作品によって、彼女が日本古典文学の伝統に立ちながら近代文学の世界を拡張し、世界的レベルで文学の新たな可能性を示す醇乎たる文学者であることが、次第に認められるようになった。
     彼女の作品に説教節や能に通じる古典的夢幻性が濃厚なのは誰しも認める事実だけれども、一方、現代ラテンアメリカ文学、たとえばガルシア・マルケスのような土俗性を帯びた前衛文学との相似を指摘する声もある。ソローを原点とする環境文学、ネイチャー・ライティングの現代的事例として評価する見方もあって、いずれも彼女の創造の含蓄のゆたかさを示すものだろう。(渡辺京二)

     そして二月二十一日、大杉漣が六十六歳で急死した。同世代の死は胸に応える。私がその名前を知ったのはここ十年のことだから、一般的には遅咲きと言って良い。悪役俳優が善人を演じるようになって久しい(昭和五十年の『前略おふくろ様』からか?)が、最も成功した例ではないだろうか。

     逝く人に志あり梅の花  蜻蛉

     旧暦一月九日。雨水の次候「霞始靆(かすみはじめてたなびく)」。今日は少し暖かくなる予報なので、脱ぎやすいようにダウンの下に薄手のジャンバーを着込んできた。南浦和駅に着くと出掛けよりは確かに暖かくなったので、下のジャンバーを脱いだ。乗換で使う以外、この駅に降りるのは初めてだ。
     改札前にはヤマチャンが立っていて「西口に下りてください。みんな集まってますから」と言う。下りれば既に五六人がいて、久し振りの宗匠が会費を集めている。宗匠は何ヶ月ぶりだろうか。「五月の安行以来。」今も東洋大学の仏教講座に通っているらしい。
     定時にはリーダーのヤマチャン、あんみつ姫、ハイジ、久し振りの宗匠、ハコさん、ロダン、千意さん、マリオ、スナフキン、ダンディ、蜻蛉の十一人になった。「ハイジは改札を通らなかったでしょう?」「歩いてきたのよ。」地元の人である。千意さんは先日の後遺症もなく元気そうだ。但し「飲ませないでください」と挨拶する。
     「浦和ってつく駅はいっぱいあるからさ、何度も確認しちゃったよ」とスナフキンが口を尖らせる。埼玉県人以外には分り難いのは確かだ。「七つあるんですよ」とロダンがマリオに教えている。ロダンの言うように普通はJRの浦和、武蔵浦和、南浦和、西浦和、東浦和、北浦和、中浦和を数えて七つとするが、埼玉高速鉄道の浦和美園を加えれば八つになる。武蔵浦和は武蔵野線と埼京線、南浦和は武蔵野線と京浜東北線の乗換駅だから乗降客は多い。
     「さいたま市って、何故ひらがななんだ?」「分んないよ。平仮名地名が流行った時期があったんじゃないか。」調べてみると、「埼玉市」の案も有力だったのである。しかしこれには行田の人から反対の声が上がった。元々「埼玉」の地名は行田の埼玉古墳群に由来するので、行田の人にとってはかなり悔しいことだったのである。結局妥協策としてひらがな地名に決まったらしい。

     五分歩いて大谷場氷川神社に着く。さいたま市南区南本町一丁目九番一号。マンション脇のちょっとしたコンクリートの上り坂が女坂になるのだろう。八重の紅梅が美しい。白梅もちょうど見頃だろうか。白いスイセンがいくつか咲いている。境内では重機を入れて工事をしている。
     創建年代は不明だが大谷場村の鎮守である。寛文六年(一六六六)の棟札、宝暦の神像があるらしいが見ることは出来ない。「ここはキジに縁があるんですよ。」ヤマチャンの言葉に、工事中の人から「ここも雉だよ」と声がかかった。手水舎の懸魚の彫刻である。なるほど、言われてみればそのように見える。「キジって珍しいのか?」「うちの近所の畑でもたまに見るよ。」
     狛犬の代わりに雉が鎮座している。阿形の方は夫婦が並び、吽形の方は小さな雛四羽を親が翼で守る形だ。「調神社の兎も珍しいけど、雉もないよね。」他に雉を神使とするのは、目に着いたところで五反田の雉子神社(祭神はヤマトタケル)がある。
     他に鯉(栗橋の八坂神社)、蛙(寄居の姥宮神社)、亀(隅田川神社)、猿(山王神社)、狼(三峯神社他)は見たことがある。ネットを調べて気になるのは、犬外の動物も「コマウサギ」とか「コマガエル」等と呼ぶ記事が多いことだ。狛犬はエジプトを源流として神殿を守護するコマイヌという霊獣であって、「コマ」+「イヌ」の複合語ではない。その他の動物は守護すると言うよりも神の使いだから、狛犬以外は神使と呼ぶのが正しい(筈だ)。稲荷の狐を誰もコマギツネとは呼ばないだろう。

     大谷場は、かつては一面に畑地が広がっていた。そのころは、当社は椚林に包まれた閑静な社で、この杜には、古くから雉子が棲みついており、昭和二十年ごろまでは、ここに足を踏み入れると雉子がバタやハタと飛び出して来た。そのため氏子の間では「雉子は氷川様のお使い」といわれ、当社の通称も「雉子の氷川様」という。(「埼玉の神社」)

     キジは日本の国鳥である。狩猟対象の鳥が国鳥に指定されるのも珍しいだろう。「雉撃ちって何でだろうな?」叢に姿を隠してしゃがんだ格好が、猟師が雉を撃つ姿に似ていると言うのが一般的な解説だ。女性の場合には花摘みとも言う。
     「キジって食えますか?」食べた記憶はないが、たぶん旨いものだと思う。そのために養殖(飼育)している。「俺はこの脚のところがダメなんですよ。鳥肌も苦手。」「私もあのブツブツがダメ。」佐賀県人は二人とも焼き鳥が食えない。
     朱塗りの両部鳥居の脇には、推定樹齢百年と言われるユリノキが立っている。「大正天皇が命名した。」必ずこの伝説(小石川植物園の説明)を語る人がいるが、属名Liriodendronは正にユリの木だから、恐らく植物学者が正確に翻訳したのである。因みに種名 tulipiferaからtulip treeとも呼ぶ。今度は石段を降り、女坂を降りた姫と合流する。「アレッ、梅が咲いてるよ。」今気付いたのだろうか。「さっきから見てるわよね」とハイジも囁く。
     「これですよ、これ」とロダンが声を出す。道路脇に「さいたまロードサポート」の看板があって、下に企業名が記されている。企業や自治会等がボランティアで道路清掃を行う区間である。埼玉県が定める参加資格は、「道路愛護活動に意欲的な概ね十名以上の団体で、かつ、道路の一定区間(市管理道路の概ね百メートル以上)について、原則として月一回以上の清掃美化活動を実施できる団体」である。年間四万円以上の寄付を出すと、企業名やロゴの入った看板を設置する。ロダンの会社もこれに参加しているのだ。
     京浜東北線に沿うように南に下ると、六辻水辺公園の入口に着いた。辻用水路に沿った細長い遊歩道である。辻用水は見沼代用水西縁が川口市大字小谷場元西福寺前分水口から分岐し、西に向かって旧中山道まで続く。用水の両側にはマンションやアパートが並んでいる。
     「ロダンとハイジはここに来たことある?」「ないですね。」「ないわ。」水は汚く殆ど流れていない。ヘドロのような不気味な物体が浮いている。「今は寒いからいいけど、夏は臭いだろうな。」「蚊も湧くんじゃないの?」

     因みに、かつての六辻地区は浦和の穀倉といわれた米どころで、見沼代用水を灌概用水として数百町歩(ヘクタール)に及ぶ米作が昭和四十年代まで続けられていました。しかし、昭和三十六年には南浦和駅の開設、同四十八年の武蔵野線の開通、また、同六十年には埼京線に続いて平成四年には外環道の開通等、幾多の変革を経て、周辺地城の都市基盤も急速に整備されました。そのため、小・中・高等学校・公民館等の新設は申すに及ばず、住宅・商店・企業等の中高層建物も急増し、人口も著しい増加へと推移しています。
     このように発展を遂げるなかで、見わたす限りの水田も年々減少の一途を辿り、ついに昭和六十年代になると殆ど水田の光景が見られなくなりました。そのため、約二百六十年もの間、灌概用水として役割を果たしてきた歴史ある見沼代用水路も、いよいよ終焉となり平成三年二月には旧浦和市の施工により、文蔵を基点とした総延長二千四百mの「うるおいゾーン」「にぎわいゾーン」「せせらぎゾーン」として区分されたみどり豊かな六辻水辺公園に生まれ変わり、老若男女の憩いの場として多目的に利用されています。(さいたま市南区自治会連合会「南部地区の歴史的背景」)
    http://minamiku.jp/chiku_syokai_nanbu.html

     「これじゃサギも来ないよな。」北沢緑道にはコサギがいた。折角整備しているのだから、もう少しきれいにして貰いたい。後ろで姫やハイジが何か声を上げているので少し戻ってみると「ジョウビタキです」と指さす。「可愛いわね。」マンションの柵に止まっている小さな鳥の、胸から腹にかけて鮮やかなオレンジ色だ。私は初めて見た。スズメ目ツグミ科あるいはヒタキ科。「これはオス?メス?」「オスですね。」
     この辺りの地名は文蔵(ブゾウ)である。「ブンゾウじゃないのね。」つい最近、『居酒屋兆治』のモデルとなった谷保の文蔵(ブンゾウ)が話題になったばかりだ。「鍛冶屋文蔵っていうチェーン店がありますね。」「あれは別。」
     一ツ木通りを越える。大谷場村の字に一ツ木という地名があったことによる名前だ。「赤坂だっけ?」「夜霧が流れる一ツ木あたり/冷たくかすんだ街の灯よ。」(『赤坂の夜は更けて』)。『赤坂の夜は更けて』は西田佐知子のヒット曲だが、島倉千代子やマヒナスターと競作になっていたなんて知らなかった。この道を右に真っ直ぐ行けば最初に寄った大谷場氷川神社、左に行けば外環道路を潜って文蔵小学校に辿りつく。
     トイレの前のベンチで老人が数人日向ぼっこをしている。風もなく穏やかな日がさしているからちょうど良いのだ。「トイレはここじゃなくて、公民館で借ります。」和式だから女性は辛いだろうというヤマチャンの判断である。「どうして女子用が和式って分ったのかな?」「覗いたんだな。」
     いったん遊歩道を離れて左に回り込むと文蔵薬師堂だ。さいたま市南区文蔵四丁目七番五号。道路脇の柵の中にはかなり摩滅した合掌型青面金剛と石尊大権現の細長い石塔があった。石尊権現の文字の下には権現の座像が浮き彫りにされている。
     門前の黒御影の石柱には「武州文蔵邨 文蔵薬師」とある。真新しい門を潜ると、正面の堂は小さいが両側が結構広い墓地になっている。左には宝筐印塔が三基と地蔵が並ぶ。六地蔵には「童女」の戒名が刻まれている。文久元年、安政五年、天保十五年等建立時期は様々だ。
     弘法大師像があるから真言宗なのだが、智山派か豊山派か分らない。足立十二薬師霊場の第一番となっている。「足立って東京じゃないの?」「川口からこの辺は足立郡なんだよ。」埼玉県内では川口から北は鴻巣辺りまで、東京では足立区、北区、板橋区の一部が武蔵国足立郡である。明治十一年、東京地区は南足立郡、埼玉地区は北足立郡となった。
     「そう言えば葛飾も東京、埼玉、千葉にあるね。」太日川(現江戸川)流域の両岸が葛飾郡であり、中世までは下総国に所属していた。茨城県古河市、埼玉県幸手市、吉川市、三郷市、東京都葛飾区、墨田区、江東区、江戸川区、千葉県浦安市、野田市、流山市、柏市、松戸市、市川市、船橋市にまたがる広大な領域である。その総社は、船橋市西船五丁目の葛飾神社だった。
     道を渡れば文蔵神明社。南区文蔵四丁目二十五番。白い石造の神明鳥居を潜ってみるが、由緒も何もなく、見るべきものはなさそうだ。
     文蔵公民館でトイレ休憩をとる。南区文蔵四丁目十九番三号。「ハイキングでトイレをお借りするとお願いしていた者ですが。」ヤマチャンが大きな声で申告すると、「トイレだけでしょう?」と返ってきた。口数の少ない職員だが、要するに名前を書く必要はないということらしい。十一時ちょっと前だ。「なんだか腹が減ってきたよ。」私もそうだ。敷地内禁煙、館内飲食禁止。

     日向ぼっこの老人達はさっきと同じ格好をしている。やがて用水は暗渠になった。六辻(ムツジ)の交差点で旧中山道(十七号線)を渡る。「四辻じゃないですか?」「一本細い路があって五辻は分った。」「区画整理でなくなっちゃったんじゃないかな。」「六道の辻とか連想しちゃいますよね。」あの世とこの世が交差する場所である。小野篁は六道の辻の井戸を通って冥界に出入りする。
     しかしそうではなかった。明治二十二年(一八八九)の町村制施行の際に、辻、白幡、根岸、別所、文蔵、沼影の六村合併して六辻村ができた。六村のうち辻村が最大だったことから、六箇村の六と辻を合成したのである。
     再び用水が出現した辺りを逸れると萬蔵寺があった。南区辻二丁目二十五番。「調べたんだけど由緒も何も分らないんですよ。」殺風景な空き地に小さな本堂があるだけだ。真言宗。石塔がいくつか建っている。合掌型青面金剛の腕は殆ど判別できないほど摩滅している。月山、湯殿山、羽黒山とやっと読めたのが安永三年(一七七四)の出羽三山供養塔だ。
     もう一度水辺公園に戻ると、大きな石を積んで水路を作ってあるのに水は流れていない。「せせらぎの道なのに。」「枯山水のようですね。」「石を持ってくるだけで相当なお金がかかってますよ。」「それで、水を流す費用が出せなかったんじゃないか。」マンションの外壁に沿って薄紅のアセビが咲いている。

    来こしかたや馬酔木咲く野の日のひかり  秋櫻子

     水原秋櫻子は『馬酔木』を主宰した程だから、この花によほど思い入れがあったのだろうか。しかし私はどうも、このぼんやりとした色を見ると精神が緩んでくるような気がする。
     次は和光院だ。南区辻三丁目十一番六号。真言宗豊山派。山門を潜ると正面は本堂建て替えの基礎工事中だった。「日本で一番古い会社じゃないかな。」マリオが言うのは、工事現場に立てられた「飛鳥から未来へ 金剛組」の看板である。「寺社建築専門ですよ。宮大工の会社。」「有名ですよね。」私は知らなかった。「伝統芸能ですか?」ロダンが面白いことを言う。「そうじゃなくて、伝統技術」とマリオが苦笑いする。金剛組のホームページを覗いてみると、沿革は五七八年から始まるから驚く。

     聖徳太子の命を受けて、海のかなた百済の国から三人の工匠が日本に招かれました。このうちのひとりが、金剛組初代の金剛重光です。工匠たちは、日本最初の官寺である四天王寺の建立に携わりました。重光は、四天王寺が一応の完成をみた後もこの地に留まり、寺を護りつづけます。( http://www.kongogumi.co.jp/enkaku.html)

     この子孫(勿論血族に限らなくても良いのだが)が営々と続けてきたと言うのである。まず信じられないが、面白いから読んでみた。最初が五七八年、次の記事が五九三年、そして一気に一五七六年に飛んでしまう。石山合戦に巻き込まれて四天王寺が焼失し、その再建を担当した。年表に約千年の空白があるから、おそらくこの頃に、飛鳥時代に関係付ける系図を作ったのではないだろうか。
     四天王寺は大阪冬の陣でまた焼失し、幕府の命でこの再建を果たす。それ以来、四天王寺お抱えの宮大工であったが、明治の神仏分離で四天王寺は寺領を失い、それに関わっていた仕事も激減した。

     昭和に入っても、金剛組の苦難の道は続きます。
     第三十七代金剛治一は、無類の職人気質。今でいうところの営業活動などさらさら念頭になく、金剛組は極度に困窮。ついに、一九三二年(昭和七年)第三十七代はこれを祖先に詫びて先祖代々の墓前で自殺してしまいます。しかし、妻よしえが歴代初の女棟梁として第三十八代を継ぎ、東西に奔走して難をのがれました。折も折、一九三四年(昭和九年)、室戸台風のため四天王寺五重塔が倒壊。金剛組に再建の命が下っています。

     戦後はコンクリート工法の開発に当り、一般建築にも参入したが大手建設会社との価格競争で経営は悪化し、高松建設に経営権を譲渡してその傘下に入った。それが現在の新金剛組であり、寺社建築に限定した仕事をしているらしい。いずれにしろ、こうして宮大工の技術が継承されているのは嬉しいことだ。
     「真言宗なのに、どうして阿弥陀堂があるんだ?」阿弥陀如来は何も浄土宗、浄土真宗だけのものではないだろう。

     密教式の阿弥陀如来のうち、紅玻璃色阿弥陀如来と呼ばれるものは髷を高く結い上げて宝冠を戴き体色が赤いのが特徴である。主に真言宗で伝承される。 また宝冠阿弥陀如来というものもあり、こちらは天台宗の常行三昧の本尊として祀られる。紅玻璃色阿弥陀如来と同じく宝冠などの装身具を身につけ、金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩の四菩薩を眷属とする。(ウィキペディア「阿弥陀如来」より)

     調べてみると興教大師覚鑁が、大日如来と阿弥陀如来は同体異名だと言っているらしい。寺を出ようとしたとき、スナフキンが「辻学校だって」と気が付いた。解説板を読めば明治七年(一八七四)のことである。「明治五年の学制発布で、各地のお寺に小学校を作ったんだよ。」「いろんなお寺で見ますよね。」南浦和小学校の前身とされている。

     学制は学校の設立維持の経費を地方住民の負担、すなわち「民費」によることを原則とした。そのため小学校でも月額五〇銭(または二五銭)という当時としては高額の授業料を定めている。しかし当時の民衆の生活からみてこのような高額の授業料を徴収することはとうてい不可能であった。授業料の額は地方により学校によって異なっていたが、おおむね一銭から三銭程度であり、貧困家庭の児童には無料の場合も多かった。そのため小学校経費の主要な財源は学区内の各戸への賦課金(学区内集金)と学区内の寄附金にたよるほかはなかった。(文部科学省「学制百年史」)
    http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317582.htm

     学校を新しく建てようとすれば金がかかる。お寺は寺子屋の伝統があるから格好な場所だったのである。建前としては義務教育だったが、子供はまだ貴重な労働力でもある。また明治十一年の有業者一人当たりの年間所得は二十一円、小学校に月五十銭かかるとすれば年額六円となって、負担が大きすぎる。
     学制発布直後の明治六年の就学率は男児三十九・九パーセント、女児一五・一四パーセント、合計二八・一八パーセント。十一年でも男児五七・五九パーセント、女児二三・五一パーセント、合計四一・二六パーセントである。女児は男児の半分しか就学しなかった。男女とも九〇パーセント越えるのは明治末年のことである。
     もう一度さっきの遊歩道に戻る。暫く行くと笹目川に出た。「この川岸で食事にしようと思ったんだけど、ちょっと臭いがするから。すぐ先に公園があります。そこにしましょう。」早く飯にしたい。「ロダンは放流するのをみたことありますか?」「ないですね。」

     さいたま市南区の武蔵浦和駅や国道十七号の近く、武蔵野線の内側で、周囲の排水を水源として源を発し(かつては白幡沼を水源としていた[要出典])、ほぼまっすぐ南に流れて荒川に合流する。流水確保と水質浄化のため現在荒川から導水管を川沿いに敷設し内谷橋(南区内谷六丁目)のすぐ下流から放流している。 普段は最上流部約一キロは殆ど流れがなく、下流部も水が滞留し悪臭が発生しているが、大雨の直後などは国道十七号付近にある水門が開かれ、浦和区の高台などから集まった水が岸町緑道の地下を流れ一斉に流入することから、河川敷いっぱいに濁流が流れる。
     当初、水捌けの悪い低地帯であった現在の戸田市付近の農地改善のための大規模排水路の必要性から「中央排水路」として計画され、戸田市の笹目樋門で荒川に合流するまでの総延長約五キロ区間で整備された人工河川である。(ウィキペディア「笹目川」)

     水辺公園橋は三日月形のアーチのある木橋で、木材は全てボンゴシ(オクナ科の広葉樹)を使用している。平成八年(一九九六)に架けられた。川はコンクリートの護岸ではないから姫は喜ぶ。昔見た田舎の川のようだ。これは「笹目川のまるごと再生プロジェクト」の改修工事の結果である。

     生物にやさしい水辺にするとともに、水辺に近づきやすくすることで、五感で水辺を感じることができるようになりました。水辺に近づきやすくなりました。
     これまで垂直であった護岸の一部を撤去し、水際まで傾斜のある護岸にしました。また、川を囲っていたフェンスを撤去し、川がより身近な空間として感じられるようになりました。(戸田市広報)https://www.city.toda.saitama.jp/koho-toda/150901/pdf/04-05.pdf

     「いますね。」オオバンが二羽泳いでいた。全身真っ黒で、嘴と額だけが白い鳥だから私でも分る。「最近、オオバンを良く見るよね。」「埼玉県では絶滅寸前になってるんです。」それは知らなかった。
     橋を渡って埼京線・新幹線の高架下を潜る。「そこがロッテ球場です。」こんなところにロッテの球場があるなんて知らなかった。ロッテは千葉ではないかと思ったが、二軍のホームグランドなのだ。照明設備はない。ここから南西に二キロ程行けば荒川の河川敷にヤクルト戸田球場がある。
     「隣がロッテの工場です。だけど工場見学はやってないんですよ。」「見学できればお土産が貰えるのにね。」土日は休みなのだ。小中学生が対象で、大人のみの受付はしない。浦和工場で製造しているのはガーナミルクチョコ、パイの実、コアラのマーチ、クランキー、トッポ爽、モナ王、クーリッシュ、雪見だいふく等七十七品種である。コアラのマーチが試食でき、お土産にも貰えるらしい。「俺は貰うものなんかないよ。」「ガムはどうですか?」わざわざ貰う程でもないだろう。
     高架脇の公園に着いたのがちょうど十二時だ。ベンチの数は足りないから若者はビニールシートを広げる。「あれ、出してよ。」来年度の計画表である。桃太郎が来ていれば今日で完成できたのだが仕方がない。一ヶ所間違えてしまったが、あと二つ埋まれば完成になる。「川口近辺をマリーにもやって貰えば良いよ。」「どうかな?」「まんざらでもない顔をしてたよ。」ハイジがおやつを配ってくれる。姫は男梅を出した。
     「トイレはそこのお店の中にあります。」行ってみると高架下のフタバ図書GIGA武蔵浦和本店だった。フタバ図書は新刊書、新古書、ゲームソフト、レンタルビデオを扱う店で、書店売上高ランキングでは二〇一五年度に五位、二〇一六年度には十九位に落ちた。新刊書から手を引き始めているのだろう。古着も売っている。
     店内は細長く、トイレは一番奥にあった。通路のワゴンに五十円均一の文庫本が積まれているので覗きこむ。「巻数ものなんか、途中しかないんだぜ」とスナフキンは先に出て行った。もう少しだけ眺めて、やはり目ぼしいものはないと判断した。
     外に出ようとすると「入口専用」と書かれている。盗難防止のためだろうが、それでは出口はどこにあるのか。ちょっと躊躇してもう一度戻るとレジ脇から外に出られた。戻って報告するとスナフキンはエラク驚く。「エーッ、俺は何も考えずに出たぞ。開いてたんだ。」十二時四十五分に立ち上がる。

     七九号(朝霞蕨線)を越えると一乗院だ。南区内谷三丁目七番十三号。真言宗智山派。交差点の角の電話ボックスの脇と塀の外に地蔵が立っている。寺の創建年代等は不詳、天正年間(一五九三~一五九六)までは荒川付近にあり、堤防敷設の際に当地へ移転したと言う。
     門外の地蔵堂の前の青銅の地蔵は、右足を折り左足を垂らす半跏像だ。「珍しいですよね」と姫が言う。私もあまり見たことがない。紅殻色の仁王門が立派だ。

     一乗院仁王門は三間一戸の八脚門です。この門の特徴は、妻側から見てM型に二つの小さな棟(屋根の構造)が並び、その上に大屋根の棟がのっている点です。このような門の屋根形式を、三棟造りとよびます。部材に残る墨書から、明和五年(一七六八)の建立年及び大工、木挽の名が判明しています。妻側を中心に賑やかな絵様彫刻を凝らしてあり、江戸時代中期に各地で建てられた装飾性豊かな三棟造り仁王門の典型です。(掲示板)

     「明和五年?目黒行人坂の火事は何年でしたか?」「明和九年。迷惑年だよ。」「八百屋お七は?」「お七の放火はボヤで終わったんだ。」お七の一家が焼け出されて避難したのは、天和二年十二月(一六八三)駒込大円寺から出火した火事である。ここで吉三郎(あるいは生田庄之介、左兵衛とも)に一目惚れした。もう一度火事になればあの人に逢える。それがお七の放火の動機であるが、実は史実は殆どはっきりしていない。因みに明和の大火の火元になった目黒大円寺には、西運(お七の恋人吉三の後身とされる)の墓があり、お七地蔵も建てられている。
     しかし中に立つ仁王像にはがっかりしてしまう。時々こうした漫画風の表情をした金剛力士にお目にかかる。どうしものだろう。仁王門の裏側には割れた板碑がいくつも置かれている。本堂や鐘楼も立派だが、余り見るべきものがない。
     五百メートル程西に行けば内谷氷川神社だ。南区内谷二丁目二番十七号。民家の間の参道を抜ける。幟立ての石柱に嘉永三年とある。鳥居を潜ると池だ。「土師器や須恵器が出土したって書いてます。」「元々神社はその地域の祭祀の中心地に建てられたからね。色々出てくるよ。」

     当社の社前に「宝しょう池」と呼ばれる神池があり、ここに湧き出る清水は、古来日照りの際にも涸れることがなかったといわれる。この池から平安-鎌倉期のものと推定される土師器・須恵器が発見されているほか、境内から布目瓦が出土しており、当社の創建が古代までさかのぼりうる可能性を示唆する。いずれにしても当社はこの一帯の耕地を潤す水源に水神として祀られたことは想像に難くない。
     拝殿奥の覆屋には、桃山時代の建立とされる二社の同型同大の見世棚造りの本殿(県指定文化財)が並列し、それぞれ西宮・東宮と称して、西宮に男神(素戔嗚尊)、東宮に女神(稲田姫命)が祀られている。また二社に挟まれて中央には神輿を安置する。本社とされる一宮氷川社の古い祭祀形態と同様であるといわれている。(掲示板)

     「平安-鎌倉期のものと推定される土師器・須恵器」としているが、土師器・須恵器はもっと古く、古墳時代から平安時代と考えて良いのではないか。また布目瓦も一般的には平安末期までのものと考えられるだろう。木型から粘土を剥がしやすいように木型に布を敷いた。製造技術が未熟なためである。
     石橋を渡って境内に入る。説明に書かれている本殿は、覆堂ですっぽり隠されていて見ることが出来ない。イヌマキ。本殿の裏には安産の石がある。腰巻のように赤い布で巻いているのがおかしい。「こんなの初めて見たぞ」とスナフキンが笑う。
     「猫のあしあと」という寺社に特化したブログから、『埼玉の神社』の記事を孫引きしてみたい。(https://tesshow.jp/saitama/saitama/shrine_minami_uchiya.htmlより)

     当地を含む現浦和市南西部から戸田市西部にまたがる地域は、中世の佐々目郷に属し、「鶴岡八幡宮寺供僧次第」によると、正応六年(一二九三)から四回に分けて鎌倉の八幡宮に寄進された。

     この地域は鶴岡八幡宮の荘園だった。もう少し詳しく書けば、正応六年六月二十七日、幕府より佐々目郷の地頭職が鶴岡八幡宮に寄進され、更に建武二年に領家職が寄進され、郷全域が鶴岡八幡宮の荘園となったのである。

    『鶴岡事書日記』によれば、当郷の農民たちは鶴岡八幡宮に対して年貢減免を求める闘争を激しく展開している。応永元年(一三九四)十月二十二日、鶴岡八幡宮は当郷公文所に宛てて、今年は豊作であるにもかかわらず、農民たちが往古の例に背いて個別の検見を拒否しているため、年貢収納が減少していることを非難し、首謀者の名簿提出を命じている。翌二年七月十三日、鶴岡八幡宮は当郷政所に、悪党の追放と強訴を企てた百姓一五人の召喚を命じ、また、氷河宮の宮大夫(禰宜)に関する報告を求める指示を出している。これに見える「氷河宮」が当社と推定されている。恐らく、農民たちの強訴の企てと氷河宮の宮大夫のかかわりが問題とされたのであろう。更に、応永四年(一三九七)九月四日、鶴岡八幡宮は同宮の二五坊の供僧の一つである寂静坊の訴えを受けて、氷河宮の宮大夫の屋敷の事につき、子細を尋ね聞くため、当郷の一〇人の百姓を召し出すよう政所に命じている。ところが百姓たちは、この屋敷(畠)は往古から氷河宮の御神領でかつ祭料所であったことを主張し、この訴えを否定するのである。

     ここにあるのは、中世農村が荘園領主に対して不断に求めた減免闘争の例である。十四世紀は惣村が形成される頃であり、十五世紀に入ると惣村は一揆を結成するようになる。一揆とは一味同心すること、つまり村中が結束する謂いである。全国どこでも似たようなことが起きていた。文書は多く寺社(つまり領家の側)に残されているから、「悪党」とか「強訴」と書かれる。
     中世の法原理は、慣習法と先例主義である。新しいことは基本的には認められず、それならどう闘っていくか。実は、飢饉でどうしても年貢が納められない場合、その減免が認められる。いったん認められればそれが先例となって、平常の作柄でも先に減免された額が固定されるよう交渉するのである。そして往々それが通った。氷河宮の宮大夫は百姓たちのリーダーだったのでなかろうか。

     「あれ、何て読むんだ?」曲本(まげもと)だった。地名は知らなければ読めない。歩道脇には今年初めて見るオオイヌノフグリ。「可愛いわね。」
     四谷交差点の角にあるのが四谷観音堂だ。南区四谷三丁目七番。堂の屋根は宝形造り。左の地蔵堂には赤い服と帽子を纏った六地蔵。墓地の手前には、合掌型青面金剛が高い台座に載っている。左上方の手が握っているのは法輪ではなく五角形だ。これは見たことがないかも知れない。その右隣の傘を被った像は、台座に四国八十八箇所とあるから六部だろう。
     入口に稲荷堂があり、その裏の金網の傍に「水神」の石塔が立っていた。道標になっていて、「西 あき加せ 引又道」、側面に「南 坂下り わらび道まん はやせみち」と彫られているようだ。
     角を曲がれば田島通りだ。一ツ木通りから新大宮バイパスの田島団地まで。「サクラソウの田島でしょうか?」「あれはもうちょっと西だと思う。」サクラソウ自生地の田島ケ原は荒川の河川敷だった。見に行ったのはもう十年以上前になるだろう。その頃はまだ作文を書いていないので時期が特定できない。姫が「浦和倶楽部」と称して企画してくれたのだった。民家の白梅が満開だ。豪壮な門構えの家の表札は細淵。「この辺は細淵さんだらけですよ。」アセビが咲いている。
     そして廣田寺に入る。南区沼影六丁目三番十五号。かつては天台宗の寺院だったが、今は沼影観音堂があるだけだ。道路の入口に立つ地蔵には青い帽子と青いマフラーが巻き付けてある「なんだかねー。」
     境内は児童公園になっている。イヌマキが市の天然記念物に指定されている。「イヌマキとマキの違いは?」「以前、隊長が教えてくれましたね。何だったかしら。」イヌマキの樹皮は灰白色に近く、浅く細く剥がれる。コウヤマキは赤褐色で縦に長く剥がれる(ということらしい)。観音堂の裏は細淵家の墓所になっている。中央に建つ宝篋印塔が大きい。
     駅の方に歩き、細い路地を入ると長い塀が続いている。塀の軒瓦が一部波打っている。「震災の影響かな?」格調高い長屋門だ。これが細淵家住宅である。南区沼影一丁目。細淵家は笹目領沼影村名主であった。今でもこの家に住み、不動産業を営んでいるらしい。「この門は岩槻城から移築したと言われています。

     屋敷東辺に建ち、南北棟の切妻造、桟瓦葺で、南半を門口、北半を部屋とする。門口は出桁造で中央に扉を吊り北端に潜戸を設ける。欅材を用い、乳金具や八双金具等も多く、武家門の重厚感がある。岩槻城からの移築という伝承は、形式や細部から、信頼性が高い。(文化遺産オンライン)http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/185163

     今日は外から眺めるだけだが、内部を公開する時もあるらしい。ヤマチャンは下見の時に当主と会っている。「中には国宝があるらしいですよ。そう仰ってました。」国宝はないと思う。長屋門と同じく母屋も国の登録有形文化財に指定されている。

     震災後に建てられた上質な民家建築。木造平屋建,寄棟造,桟瓦葺で,四周に銅板葺の下屋を廻し,南面して建つ。平面は六間取を基本とした伝統的形式であるが,土間を小さく造る。欅の良材を多用し,構造的に強固に造り,座敷などの内部意匠も洗練されている。(文化遺産オンライン」http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/170562

     駐車場に露天で駐車しているBMW二台のナンバーはどちらも「・・・一」になっている。「庭の中にも。」これも一番のBMWだ。トラックは三三一一が二台。希望するナンバーの交付は抽選で決まる。但しナンバープレートは受注生産になるため、通常のナンバーより二千円程高い。
     「それじゃ駅に行きましょう。」五分程で武蔵浦和駅に着いた。昭和六十年の埼京線開通によって生まれた駅で、武蔵野線だけの時代にはなかった。「駅が出来たんで、ここにマンションを買ったんですよ。」それまで武蔵野線は一時間に一本しか走らない線だった。
     ここで解散する。一万八千歩、十キロ弱か。まだ三時になっていない。ダンディとハイジは帰っていった。

     反省会は「いちげん」に決めた。千意さんも参加すると言う。「でもお酒は飲まないから。」少し戻らなければならない。さっき通り過ぎる時に窓から覗いたが、かなり混んでいた。案の定、片付けのために十分ほど待たされて中に入った。洒落た店になっていて、どうも昔の「一源」とイメージが変わり過ぎて落ち着かない。なんだかつい最近(十月の南越谷)も同じことを思っていた。
     ビールはいつもの中ジョッキではなくメガジョッキだ。お薦めのメニューにそれしかなかったからだが、総合メニューに中ジョッキも書いてあった。それにしても大ジョッキは重い。「だけど昔のビアガーデンはこれだったよね。」マリオの言葉で、そうだったなと思い出した。
     運んできた店員に「持てますか?」と姫が訊くと、「二つが限度です」と応える。「これは飲みきれないね」とハコさんが困ったような顔をする。千意さんはコーラ(その後はウーロン茶)。
     将棋の藤井聡太の話題が出たので、囲碁の芝野虎丸のことも紹介した。十六歳でプロになり、二年で三段、そして昨年竜星戦のタイトルを獲得して一気に七段に昇った。十七歳八ヶ月。因みに井山裕太は中学一年でプロになり、阿含・桐山杯で優勝して四段から七段に昇っている。十六歳四ヶ月だった。
     芝野は更に十七歳九ヶ月で本因坊リーグ入り(井山が棋聖戦リーグ入りしたのが十七歳十ヶ月)、十七歳十一ヶ月で名人戦リーグ入りを果たし、いずれも最年少記録でトップ棋士になった。因みに棋聖・名人・本因坊の三タイトルを大三冠と呼び、このリーグのひとつにでも入ればトップ棋士と見做される。大三冠を同時に獲得したのは趙治勲と井山裕太しかいない。
     平成二十九年は最多勝利賞・最多対局賞・連勝賞を獲得している。まだ十八歳になったばかりだ。リーグを制して挑戦者になれば八段、タイトルを獲得すれば九段になる。井山はその規定によって最短で九段になったが、虎丸君はその最短記録を抜くかも知れない。世界で勝てる可能性を秘めているのだ。
     「それにしちゃ、有名じゃないな。」囲碁はまだまだ一般には知られていないのだ。焼酎は赤霧島を二本空けた。いつものように飲んで三千五百円。
     カラオケは混んでいて、三十分後になるという。「それじゃ別の店でちょっと飲もうか。」「いちげん」の隣の焼鳥屋まで戻って席に着いたのが十五分前だ。「これじゃ間に合わないよ。」予約した時間にいないとダメになるのではないか。慌てて店を出る。「ごめんね。」
     戻るとちょうど部屋が空いたところだった。姫、スナフキン、千意さん、ロダン、蜻蛉。ドリンクバーで飲み放題付きだが、やはり多少はアルコールが欲しい。「グラスワインがあるよ。」「それでいいよ。」姫はカシスオレンジを注文する。千意さんは禁酒を固く守る。
     千意さんの歌を聴くのも久し振りだ。歌っている途中、ロダンが大きな声で話しかけてくる。「『古城』は?」「三橋美智也。」「そうじゃなくて、そうだ『湖愁』だ。」「ロダン、うるさい。」二時間で千七百円。

    蜻蛉