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    近郊散歩の会 第十一回 古河
         平成三十年三月二十四日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.04.10

     旧暦二月八日。春分の初候「雀始巣」。二十一日の彼岸の中日には思いがけず雪が降った。午前中は雨で墓参の最中は酷く寒く、帰り道は大粒の雪になりちょっと緊張した。翌日からは気温が上がって、ソメイヨシノも一気に開いてきた。ツバキ、モクレン、レンギョウ、サンシュユ、ユキヤナギ、叢にはオオイヌノフグリ、ホトケノザ、ヒメオドリコソウ、スミレ。春爛漫である。
     古河は元々オクチャンの企画だったが、体調が思わしくなく準備が整わないということで、あんみつ姫がピンチヒッターを勤めることになった。古河は日光街道の途中で立ち寄っているからお馴染みだ。城下町特有の鍵手の道や古い店屋が残る町である。
     集合は宇都宮線古河駅だ。あんみつ姫とは改札で一緒になったが、まだ他には来ていないので、外に出て一服して戻る。東口では「駅からハイキング」の受付をしている。別に「古河まくらがの里花桃ウォーク」というのもやっているから、似たような格好をした連中が多い。
     そして集まったのは、あんみつ姫、ハイジ、マリー、オクチャン、マリオ、千意さん、スナフキン、桃太郎、蜻蛉の九人だ。「イヤー、遠かったな。」横浜のマリオは三時間近くかかったとぼやく。「桃太郎も結構かかったんじゃないの?」「七時頃かな。」「おんなじだ。」私は八時十分の鶴ヶ島発で出てきた。
     「お昼の予約を取ります。メニューから選んでください。ちょっとお高いんですけどネ。」うなぎ料理がメインの、やや高級な店を姫は予約していた。メニューを見て私は一番安い地鶏親子丼九百八十円にした。三人が選ぶ。「小松丼がお薦めじゃないか、店の名前がついているし。」千二百八十円だったか、これが三人。その他、ロースカツ重、ロースカツ膳等。「それじゃ、お店に連絡をします。」
     姫が電話をしている間にオクチャンから報告があった。検査の結果、当面は何もすることがない、家にいても気が滅入るだけだから参加したと言う。心配していたが腹の痛みも消えたと言うし、歩けるのだから大丈夫だろう。ロダンの手術は無事終了しているが、術後まだ日が経っていないのでお休みである。

     西口の万葉歌碑の脇に立つ桃が満開でピンクが鮮やかだ。古河は三月二十日から四月五日まで桃祭りの最中である。元々オクチャンはこれに合わせて企画したのだ。「二週間前に下見に来た時は全然咲いていなかったんです。不安でしたよ」と姫が安心したように言う。

     逢はずして行かば惜しけむ真久良我の 許我漕ぐ船に君も逢はぬかも 
     真久良我の許我の渡の韓楫の 音高しもな寝なへ児ゆゑに 

     「真久良我の許我」は「まくらがの古河」である。「まくらが」は古河の枕詞で、古河周辺のことを言ったものらしい。枕詞には本来意味があった筈なのだが、万葉集の頃には分らなくなっていた。古河の渡は渡良瀬川の渡しである。利根川、渡良瀬川から太日川(江戸川)を抜ければ江戸湾に出る。古河は古代から北関東の要衝の地であった。
     本町二丁目交差点から日光街道に出る。「大勢来るね。」前方から子供も含めた長い列がやって来る。駅ハイなのか桃ウォークなのか分らないが、牛乳パックで造った帽子をかぶった人がいるのは理由が分らない。
     「八万石最中だってさ。」昭和初年創業の釜屋商店である。古河市中央町二丁目二番六号。古河名物、第二十回全国菓子大博覧会で金賞を受賞したものらしい。「行田は十万石饅頭だったね。」城下町で売られる饅頭や最中には最もありふれたネーミングだ。「あっちは十六万石最中だぜ。」こちらは昭和三十六年創業の桂月堂。古河市本町二丁目七番三十二号。「八万石最中を二つセットにしてる。」「そんなことないだろう。違う店じゃないか。」
     土井利里が肥前唐津から古河に二度目に転封された宝暦十二年(一七六二)には七万石で、後に八万石に加増されたから、八万石には理由がある。
     しかし元々寛永十年(一六三三)、土井利勝が最初に古河に入封したときは十六万石だった。それが子孫の暗愚や無嗣子などの理由で七万石まで減知され、天和元年(一六八一)には志摩鳥羽へ転封された。随って十六万石にも理由はある。八万よりは十六万の方が景気が良いか。
     陽明堂の前には古河城御茶屋口の石柱が立つ。古河市中央町三丁目六番一号。これは記憶がある。将軍の日光社参の際に茶屋が設けられたのが命名の由来だ。将軍が古河城に入る御成道の入り口に当っていた。この向かいから西に向かえば、後で行く宗願寺に出る。
     脇道を眺めると、民家の塀から伸びるレンギョウの黄色、桃のピンクが鮮やかだ。鮒甘露煮「ぬた屋」の看板が大きい。「あそこで甘露煮を買ったね。」講釈師お薦めの店だった。「今日は寄らないの?」「買いたい人は後で行きます。」
     「松並木のある日光街道」の立札の場所には、細い松が二本立っているだけで、並木の面影は全くない。「失われた景観を惜しみ、その歴史が未来に語り継がれることを願い、ここに松の植樹をおこないました」と書かれている。
     「これはシデコブシですね。」ややピンクがかっている。「シデって何だ?」「花弁がこういうふうに細く割れているんだよ。」どうも私は説明が上手くない。シデは幣あるいは紙垂である。玉串や注連縄などにつけて垂らす紙のことだ。コブシはモクレンに比べて花弁が薄い。
     「パンを食いながら来るぜ。」「なんだろう。」四五人の若い男女がかなり大きなパンを頬張りながらやって来る。モノを食いながら外を歩くものではないと、昔教えられなかったか。暫く行くとパン屋があった。「美よしの」。古河市本町三丁目二番十七号。「ここで買ったんだな。」外観は余りパン屋らしくない洒落た建物だが、店の外まで甘い香が漂ってくる。「姫は見向きもしないな。」「和菓子しか目に入らないんだと思うよ。」コッペパンが売りの店である。

     ジャム、ピーナツ、セサミクリーム(白ごま)、自家製あん、チョコレート、バター(各種バターのお付けあわせもできます)・・・ご注文をいただいてからお付けしています。
     時折りお客様から「明日も食べられますか?」とのご質問をいただきますが、「美よしののコッペパンは今日中にお召し上がり下さい。明日になりますと硬くなり風味もなくなります。」と、お応えしています。これは余計な添加物を使用しないで作っているからで、美よしののコッペパンは体に安全でどちら様にも安心して食べていただけるパンなのです。

     台町の三叉路で日光街道は左に分れる。この道は歩いている筈なのに全く記憶に残っていない。「いつ来たんだったかな。」「四五年前ですよ。」調べて見ると「日光街道」の第八回(平成二十六年十月)栗橋から古河までの後半、第九回(十二月)古河から野木までのコースの午前中に古河市内を歩いたのだ。今日のコースのいくつかはその二回で立ち寄っているので、暇と関心のある人はその時の作文を参照して貰えば良い。書いた本人の記憶が曖昧なのは困ったものだ。
     浄善寺は浄土真宗大谷派。古河市原町二丁目五番。奥に銅葺屋根の本堂が見え、手前には綺麗に刈られた松が立っている。大イチョウは推定樹齢三百三十年だ。「これはスモモですね。」白い花を私はサクラかと思ったが、オクチャンが鑑定した。白い花の隙間から緑の葉が見え隠れし、清楚な感じがする。「スモモモモモモモモノウチ。」「スモモは食えるのか?」「食えると思う。」ソメイヨシノはまだ見かけない。東京や埼玉より少し遅いのだ。
     「史蹟 祭礼道 原町口」。石碑の「祭」の冠部と「礼」の上部で割れたものを補修してある。文字は「東京帝国大学教授文学博士藤懸静也」である。「帝大の博士がどうしてこんな所に。」ウィキペディアを引くと、藤懸静也は古河藩国家老の家に生まれた。母方の曽祖父が鷹見泉石である。美術史の研究家で、古河の郷土史や史跡保存に尽くした。
     「祭礼道って、どこの祭礼でしょうか?」オクチャンは古河には詳しい筈だが知らないようだ。私も知らない。後で調べると、雀神社(宮前町)の例祭であった。旧古河町の総鎮守で、「雀」は「鎮め」の転訛だと考えられる。祭礼の人出が日光道中の旅行者とトラブルになるのを避けるためにバイパスを作ったらしい。雀神社にはやはり第九回の時に立ち寄った。
     その神社裏のゴルフ場を見下ろす土手には「田中正造翁遺徳之賛碑」が建っていた。ゴルフ場の向うは渡良瀬遊水地、つまり旧谷中村である。渡良瀬と聞けば必ず田中正造を思い出す。古河を散策する人には是非寄って貰いたい場所だ。そして旧谷中村墓地跡の蕭条とした光景も忘れられない。
     田中正造は大正二年(一九一三)九月、佐野の支援者の庭田清四郎宅で死んだ。財産は全て公害反対運動で使い果たし、残された信玄袋には書きかけの原稿、新約聖書、鼻紙、川海苔、小石三個]、日記三冊、帝国憲法とマタイ伝の合本が入っていただけだった。屋敷と田畑はそれ以前に旗川村小中農教会に寄付していたから、文字通りの無一文だった。足尾銅山の問題に一生を捧げた田中正造は近代日本の偉人である。
     石碑の脇には木製の小さな巣箱のようなものが置かれている。「なんだろう?」開けてみれば記念スタンプが入っていた。講釈師やチロリンがいれば必ずスタンプを押すのだが、今日は誰も押さない。今日はこの後、同じものを何度も見かけることになる。
      向こうから同じ帽子をかぶったウォーキングの連中が大勢やって来る。狭い歩道ですれ違うのは面倒だと思ったが、彼らは目の前の古河第二高等学校に入って行く。古河市幸町十九番十八号。トイレ休憩の場所に指定されているのだ。
     「ここに一里塚があるんです。」第八回の時は校門が閉ざされていて、金網越しに眺めただけだった。「二高って元は女子高かな?」古河高女の後身で、昭和二十四年に共学になっている。
     入っても良いかどうか姫がガードマンに訊いても、そもそも一里塚があることを知らない。「たぶん大丈夫じゃないでしょうか。」「いいから入っちゃおうぜ。」校庭の一番奥に小さな塚があって二本のエノキが植えてある。ここが日光道中の一里塚だ。塚の脇に木の標柱が立っているのだが、表面はかすれて何も見えない。裏に回ると、「日光道中 江戸より十」、その下は土に埋もれている。「十里?そんなことはないだろう。」「もっとあるよな。」日本橋から十六里だった。
     校門を出て街道に戻る。道路の向こうの歩道には、十メートル程に亘ってレンギョウが咲いている。高校を過ぎようとした時、校庭の金網を通して一里塚の裏側に何かの石碑が見えた。オクちゃんと一緒に確認すると「熊沢蕃山先生墓所」である。先に行った姫に熊沢蕃山だと報告すると「知りませんでした」と言うので、一緒にもう一度見に行った。「こんなところにお墓が?」

    贈正四位
      熊沢蕃山先生墓所
     勝鹿村大堤鮭延寺墓地
     右へ約十町踏切ヲ越シテ又右へ

     「道標だったんですね。」墓ではなく、約百メートル先の鮭延寺(けいえんじ)への道標だった。紀元二千六百年(昭和十五年)、蕃山二百五十年祭の記念として古河高女同窓会が建てたものである。「有名な人ですか?」「有名だよ。」熊沢蕃山は元和五年(一六一九)に京都で生まれ、元禄四年(一六九一)古河で死んだ。
     中江藤樹の門下で陽明学者である。近江聖人と呼ばれた中江藤樹は伊予大洲藩を辞して(辞職は認められず脱藩した)ひたすら親孝行に専念したが、蕃山は財政家として池田光政に重用された。岡山藩の財政立て直しと治水事業に貢献して大番頭三千石にまで登った。参勤交代と兵農分離に否定的で、これは幕府法制の基本だから林羅山や保科正之などの朱子学派からは危険思想と看做され、岡山藩を離れざるを得なくなった。参勤交代を批判したのは、それが藩の財政を圧迫させるからである。仁政を施すには藩に充分な財政基盤がなければならない。
     陽明学の知行合一は何よりも実践を重んじる。大塩平八郎から吉田松陰、佐久間象山等の系譜を辿れば、日本における変革思想の源流とも言えるのだ。但し明治以降の近代陽明学は、国民道徳涵養のための上からの精神運動に変質していく。その代表的イデオローグは三宅雪嶺だった。現代の陽明学者では自民党や財界の「精神的指導者」だった平岡正篤が挙げられる。
     蕃山はその後各地を転々としたが、『大学或問』が幕府批判だと咎められ、六十九歳で古河藩に預けられた。建前としては城内での蟄居謹慎だが、治水技術が認められた。藩士に教授することもあり、藩内を自由に歩き回ることも出来た。
     道の角には石段を設け、その上に十九夜塔が建っていた。上部の円形に如意輪観音のレリーフ、その下に十九夜とある。「日光街道沿いにはこれが多いよね。」「随分見ましたよ。」十九夜講は子安講でもある。
     三五四号が斜めに交差している角がトモエ乳業だ。「さっきの牛乳パックはこれじゃないか?」「地元の牛乳だね。」調べてみると、トモエ乳業には日本で唯一の牛乳博物館(古河市下辺見)があるらしい。
     国道脇の空き地には紫色のヒメオドリコソウが群生している。国道を横断して暫く行くと、和風レストラン「小松園」だ。古河市鴻巣七百二十番。「なんだか料亭みたいじゃないの。」「スゴイ、御一行様って書いてある。」「ついに我々も料亭に入れる身分になったね」と千意さんが笑う。「ちょっと早いですが、ここでお昼にします。」十一時十五分。十人入れる部屋に案内された。

    季節ごとに厳選された旬のうなぎ。
    お米は埼玉県北川辺産の自家精米。
    北海道産の日高昆布と鰹節を使ったお吸い物。
    まぼろしの豚肉「奥久慈ポーク」。
    選び抜かれた素材を使って、ベテラン職人が珠玉の一品を作りだしています。

     これが店の「こだわり」である。うなぎと豚にこだわっているのに、私が注文したのは地鶏だった。「誰もうなぎを注文しなかったね。」生ビール中ジョッキが五百八十円。「いいだろう?」飲むのはマリオ、スナフキン、桃太郎、蜻蛉だ。「私はグラスビールを」と姫は四百円のグラスを選んだ。
     カツ重が最初に出てきた。「久し振りにこってりした味が美味しい。」普段、オクチャンは塩分を抑えられているのだ。「親子丼の方。」ハイジとマリー。もう一つある。「蜻蛉じゃないの?」「俺は地鶏の何とかだよ。」「これがそうよ。」小松丼は豪勢だった。エビのてんぷら、カツ、親子などが丼一杯に詰め込まれている。親子丼はボリュームもあり、なかなか旨かった。
     「カツを分けても良いですか?」姫はスナフキンと桃太郎にカツを分ける。「蜻蛉は早いな、もう食っちゃったのか。暇そうだから分けてやるよ。」スナフキンの分のカツは私が貰った。「なんだか、歩くのがイヤになっちゃったな。」「私はここで食べただけでも今日の収穫」と千意さんが喜んでいる。

     十二時に店を出て、角を右に曲がる。「開発センターがあるよ。」「そこの会社だな。」向いの会社は三桜工業だ。自動車部品を作る会社である。「R&Dって何の意味でしょうか?」「Research and Developmentだよ。」研究開発である。
     暑くなってきたのでジャンバーをリュックにしまう。その先が鴻巣香取神社だ。古河市鴻巣七四三番地。何もない空き地の真ん中にコンクリートの参道を造り、古い石造の一の鳥居、真新しい二の鳥居が建っているだけだ。社殿は新築である。新築記念碑は去年の七月になっているからできたばかりだ。氏子の寄付額は百万円の四人から五万円まで。右横の集会所が立派だ。
     「鴻巣って、どうしてここに?」「ここは鴻巣村です」とオクチャンが応える。「鴻巣って埼玉県だとばっかり思ってたわ。」中山道鴻巣宿は「近郊散歩の会」第三回(二十九年六月)で歩いているし、鴻巣と言えば埼玉県鴻巣市しか知らなかった。
     埼玉県鴻巣の地名は高の州、あるいは国府の州によるという説があるが、ここはどうなのだろうか。『角川日本地名大辞典』を見ると、「室町期から見える地名。下総国下河辺荘のうち。」とあるだけで由来は分らない。吉田東伍『大日本地名辞書』にも由来は記されず、ただ下野国とされているのが気にかかる。古河藩領は、下総国北西部、隣接する下野国南部、武蔵国北東部に跨っているので、かなりややこしい。また常陸国那珂郡にも鴻巣の地名があるから、結構一般的な地名なのだろう。境内に、合掌型の青面金剛が二基建っている。下総国葛飾郡の下が読めない。
     突き当りを右に曲がって、適当なところを左に曲がれば古河総合公園の入口だ。参道のような真っ直ぐの道の両側は、桃見物の車で道が渋滞している。両側の駐車場は既に満杯ではないだろうか。桃祭りは古河市最大のイベントかも知れないが、こういう所に車で来ては苦労するのが目に見えている。
     「メリナ・メルクーリの小経」の石碑が建っている。ALLEE MELINA MERCOURI 。「知ってますか?『日曜日はダメよ』とか。」姫が洋画に詳しいのは知っているが、スナフキンは「知ってるよ」とすぐに応える。スナフキンは邦画の人かと思っていた。ギリシアの女優だった。
     ウィキペディアによればメリナ・メルクーリはパパドプロス軍事独裁政権に反対して国籍を剥奪された。独裁政権が崩壊して帰国し、一九七四年の民主化後は一九八一年から一九八九年にかけてアンドレアス・パパンドレウ内閣の文化大臣を務めた。考えてみると、私は現代ギリシアのことは殆ど知らない。そして彼女に因んで「文化景観保護と管理に関するメリナ・メルクーリ国際賞」が設置され、古河総合公園が二〇〇三年に受賞しているのだ。

    世界の主要な文化景観保護と保護活動促進に貢献した優れた活動を表彰する。統合された保護と持続可能な開発の先駆者であったメリナ・メルクーリ(ギリシャの著名な女優であり文化大臣)の名を取り、一九九七年に設置。(文部科学省・日本ユネスコ国内委員会)
    http://www.mext.go.jp/unesco/001/2006/06090501.htm

     実際に彼女がどういう活動をしたのかは良く分らない。大英博物館に、ギリシャのパルテノン・フリーズの返還を求めたとは知ることが出来た。パルテノン・フリーズとは、神殿の柱上部を飾っていた浮彫彫刻群である。十九世紀初頭、在オスマン帝国イギリス大使のエルギン伯爵(第七代トマス・ブルース)がオスマン・トルコの許可を得て削り取って持ち出したもので、イギリスではエルギン・マーブルと呼ばれている。しかし大英博物館は返還を拒否したまま現在に至っている。文化遺産の流出と返還要求は日本にとっても他人事ではない。韓国は朝鮮半島から流出(略奪)した文化財の返還を日本に要求し続け、長期間に亘って困難な問題となっている。

    古河総合公園の受賞は、「東京近郊にあり開発圧力に耐えた」との総括評価のほか、「消滅沼(御所沼)の復元による自然と文化の再生」、「自然と人間との多様な接触を表現したデザイン」、「四季折々の自然に親しむ市民の営み」の三点が高く評価されたものです。(古河市「ユネスコ:メリナ・メルクーリ国際賞」)
    https://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/lifetop/soshiki/toshi/7/2337.html

     「最初は古民家に行きます。」賑やかな方から少し離れて行くと「鴻巣の一本榎」が立っている。旧飛田家住宅は茅葺の曲屋だ。曲り屋、曲り家等とも表記するが、母屋と厩舎がL字型に接続する。北国に多く見られる様式で、中でも南部の曲り家が有名だろう。この家は国の重要文化財で、久慈郡金砂郷村から移築されたものだ。「うちの実家にも厩舎がありましたよ。」「どこ?」「猪苗代です。」やはり北国だ。
     生垣を隔てて隣接する旧中山家はもう少し大きい。田辺村の組頭を務めた旧家である。「ハリが立派だよね。」「松ですね。」「今ならいくら位するか見当もつかない。」白いジンチョウゲの香が強い。
     そして着いたのが史跡古河公方館址である。

     ここは旧御所沼につきでた半島の中ごろで、鴻巣御所とも呼ばれていました。
     成氏が鎌倉から古河にうつった康正元年(一四五五年)で、二年後の長禄元年(一四五七年)下川辺氏の築城した古河城を修築して、ここに移りました。
     それから後、古河公方、成氏、政氏、高基、晴氏、義氏に至る。百二十余年の間、古河は、関東一円に重要な位置を占めている。ここにあった館も義氏の一人も娘、氏姫の時までありました。http://www.kogayamadaya.com/asuda.htm#gosyo

     「関東公方もいますよね。どっちがエライのかな?」「関東公方は一旦上杉氏に滅ぼされたんだ。再興してから古河に移ったんだよ。」それでは歴史のお浚いしておこう。戦国前期について、特に関東の状況については高校の日本史では殆ど触れられることがないだろう。ただ最近、呉座勇一『応仁の乱』(中公新書)がベストセラーになり、亀田俊和『観応の擾乱』(中公新書)も結構売れたから、時代への関心は高まっているかも知れない。
     関東公方は、京都の将軍から関東の支配を任された地位である。元々は尊氏が京都にいて、関東は直義に任せていた例を踏襲したものだ。足利尊氏の四男、基氏を初代とする。そしてその補佐役として上杉家が関東管領に任命された。
     しかし関東公方は次第に独立色を強め、京都の将軍と対立するようになってくる。そして四代持氏は関東管領上杉憲実とも対立し、六代将軍足利義教が持氏討伐を命じた永享十年(一四三八)の永享の乱で敗北して自害した。これによって鎌倉府は滅亡し関東公方はなくなったのである。
     持氏の遺児を擁して結城氏を中心に関東の国人が幕府と戦ったのが、永享十二年(一四四〇)の結城合戦である。以前にも何度か記しているが、馬琴『南総里見八犬伝』はここから始まる。健闘空しく幕府軍に敗れ、持氏の遺児春王丸、安王丸は殺され、永寿王丸(後の足利成氏)だけが助けられた。
     嘉吉元年(一四四一)将軍足利義教の暗殺をきっかけに、その首謀者赤松満祐が討たれ(嘉吉の乱)ると、将軍の権威は衰え山名・細川を中心とした守護大名勢力の力が増大してくる。その流れの中で鎌倉府再興が認められ、文安六年(一四四九)足利成氏は関東公方に就いた。しかし上杉氏との対立は収まらず、享徳の乱の結果、享徳四年(一四五五)成氏は鎌倉を放棄して古河に本拠を構えた。これが古河公方の始まりである。
     そしてここから関東の戦国時代が始まる。上杉本流で上州から越後に勢力を張る山内上杉家、相模・武蔵を中心として大田道灌を擁する扇谷上杉家、下野・下総・常陸を押さえる古河公方の三派鼎立、そして群小の在地武士団の離合集散の時代である。後北条氏が関東全域を制圧するまで、この対立構造は続いていく。
     周囲には土塁や空堀があるようだが、私たちは中世城郭の地形に詳しくない。少し行くと古河公方足利義氏の墓所がある。ここは徳源院跡である。足利義氏開基の寺だが江戸時代後期には無住となり、明治四年に廃寺となった。
     義氏の墓は墓所のはずれの塚になっていて、その隣に子孫が建立した「古河公方義氏公墳墓標石(大正十五年)」が建つ。立派な宝篋印塔は義親(義氏の娘・氏姫の子)のものだ。少し小型の石灯籠のような形の石塔は、火袋に相当する辺りの周囲に六地蔵を浮き彫りにした石幢だ。地蔵の部分だけが何故か黒く塗られている。「七地蔵ですか?」オクチャンに指摘されて数えてみると確かに七体あって、解説にもそう書いてあった。しかし仏教に七地蔵はありえない筈で、これは珍しい。六地蔵に何かの仏を加えたものかも知れない。
     「義氏は最後の古河公方でしたね。」後北条氏の関東支配が決定的となったとき、天正十一年(一五八三)第五代義氏が嗣子を残さず死ぬと古河公方は自動的に消滅した。但し館には義氏の娘の氏姫が引き続き住んだ。
     池の向こうが桃園、左が公園で、この池が堀の役割をしていたのだろう。公園では気球を上げようとしている。桃園に入る。「三十分後に、そこの橋のところに集合しましょう。それまで自由散策とします。」
     こんなにたくさんの桃の花を見るのは初めてだ。濃いピンク、それよりももっと赤い花、白もある。「カンバクですね。寒い白。」オクチャンが鑑定する。ハナモモの園芸種である。「白桃とも言いますね。」「こっちは源平、まだ余り開いてませんね。」矢口・源平・寿星桃・寒白・菊桃の五品種、約千五百本の花桃が植えてある。矢口が一番多いようだ。初代藩主土井利勝が領内に桃を植えたことに由来する祭だという。
     若杉鳥子と長塚節の歌碑がある。二つの碑が手をつなぐような格好で並んでいる。若杉鳥子の名前は、第九回で歩いた時に初めて知ったのだから、私は無学であった。横山町一丁目のうなぎ料理「武蔵屋」の向かいに鳥子の文学碑が立っている。「豪商のお妾さんの娘なんだ。」そして芸者置屋の養女になった。貧困とは無縁な筈だったがプロレタリア文学派に属する。詳しくは以前書いているので、それを参照してくれれば良い。「鳥子の写真だけ見て、長塚節は恋をしたんだよ。」

     花桃や見ぬ恋告げて逝きし人  蜻蛉

     節は横瀬夜雨の家で鳥子の写真を見て一目惚れしたのである。写真を借り出してなかなか返さず、夜雨に返却を迫られると写真の代わりに歌を渡した。鳥子はそれを夜雨から知らされる。
     夜雨は二人を引き合わせることも考えたが、節の病状が思わしくなく結局二人は出会うことがなかった。その一年後、鳥子は板倉勝忠と結婚する。節は大正四年(一九一五)三十七歳で死んだ。

    まくらがの古河の桃の木ふゝめるをいまだ見ねどもわれこひにけり 長塚節
    紅のしたてりにほふもゝの樹の立ちたる姿おもかげに見ゆ     同
    み歌われなき家の文筥に忘られてあり身は人の妻         若杉鳥子
    まくらがの古河の白桃咲かむ日を待たずて君はかくれたまへり   同

     横瀬夜雨の名前を知っている人もいないだろう。「横瀬夜雨はセムシだった。」「珍しい言葉を聞くね。今はいないだろう。」佝僂病で歩行も満足に出来ずに小学校を中退したが、独学で詩人となった人である。俳句の富田木歩にも似ているが、雰囲気はもっと明るい。浪漫的な民謡調の詩が全国の少女たちの人気を得た。河井醉茗の主催した雑誌『女子文壇』の選者として文学志望の少女の投稿作品を添削し、その常連に鳥子もいた。後に結婚もして子供も儲け、五十六歳まで生きた。後年、夜雨の家を訪ねた鳥子の回想からも、夜雨の生活が安定していていたことは分る。

     私が故郷の街から筑波山を見て過ごした月日は随分と永いことだった。
     その麓には筑波根詩人といわれている横瀬夜雨氏がいた。故長塚節氏がいた。
     そこから五六里の距離にある故郷枕香の里(古名)の青年間にも文学熱が盛んだった。私もいつかそのお仲間に入って詩や歌を作るようになった。そしてその頃河井醉茗氏の主宰していた女子文壇に投書していた。それを機会に横瀬氏から幼稚な汚い原稿を添削して戴いたり、質疑に対して通信教授をして戴いた。その頃夜雨氏には多くの女のお弟子があった。女子文壇は今の文壇に多くの女性作家を送った。その頃の文壇には、自然主義の運動が勃興していた――私はそうした少女時代の追想に耽りながら、結城の街から自動車に揺られていた。(中略)
     小さい百合子さんが喫驚した顔をして私を見つめていた。
     南向きの縁側近くに師の机は据えてあった。洋傘を縁側へ置いて障子をさっと開けた時、まず私の瞳を射たものは、正面の仏壇の夥しい累々とした位牌だった。金色に光っていた。古い先祖代々のであろう。(中略)
     百合子ちゃんへおみやげの折紙を出して上げると、百合子ちゃんは真面目くさってそれを開け初めた。開けて見てさも心から嬉しそうに、
     「けっけっけ!」と笑った。
     私はそんなに悦んで貰った事がない。私はそれだけで今日の訪問にすっかり満足を感じた。どんな御馳走よりも賛辞よりも、その子供の、「けっけっけ!」という笑い声の純真さに打たれた。
     絲子さんという姉さんの方の子が学校から帰ってくる。姉妹で折紙の奪い合いを始める。 奥さんも帰って来られた。私は初対面だった。質実な素朴な、心の細やかそうな、そして勝ち気らしい印象を受けた。
     師は昔を懐かしそうにぽつりぽつりと話し出される。今は詩人としてよりも地主として接していられる当面の問題について色々話して下さる。私は時計を気にしいしい時間を過ごした。日の暮れない中に故郷へ帰ろうと思うからだった。(若杉鳥子『旧師の家』)

     「長塚節なんて読んだことないな。」私も読んでいない。青空文庫で『土』を読んでみようとしたが途中で放り出した。「教科書に載ってたか?」「どうだったかな。」長塚節は『ホトトギス』の写生文で出発した作家である。漱石の粘り強い要請によって『朝日新聞』に『土』を連載した。明治末年の貧農の、陰惨で希望のかけらもない生活を執拗に描いた作品である。節自身は大地主の家に生まれたから、これはその小作の一家の実際を観察研究してできた。
     何度も堕胎しながら無理な行商で破傷風を病んで死んだお品。貧苦の果てに盗癖がついてしまう夫の勘次。倉庫番が務まらなくなって家に戻ってきた舅の卯平。勘次と卯平との感情的対立。

     「土」ははじめのうち、確かに好評であった。寒い空っ風に吹かれてお品が豆腐の荷物を担いで長い道を歩いて来るところなど、暗く、くどく、わびしい描写であるが、それだけに迫力があり、生きることの苦渋を先ず読者に飲ませるかのような強い印象があった。
     しかし、それと同じような、べた押しの描写が茨城県の方言を混ぜて続くと、読者から、くどい、面白くない、退屈で平板だ、という苦情が編輯部に殺到した。
     ・・・・それに応じて社内でも、営業部を主として、編輯からも、何とかして「土」の書き方を変えさせるか、早く切り上げるかさせてくれ、という催促が森田草平のところへ集まった。この連載ものは、はじめは三十回ほどの約束であった。それで終わらないので、森田は七、八十回になれば終わると思っていたところが、秋になっても一向に終る気配がなかった。
     ・・・・その森田を救ったのが主筆の池辺三山であった。三山は「あれはしっかりしたものだ、構わず続けろ」と森田に言った。
     三山のこの言葉によって「土」は書き続けられた。「土」は明治四十三年の六月からその年の暮まで、漱石の病気の間じゅう柿つづけられ、読者のすべてに飽かれながら、ただ作者の激しい熱意と努力によって支えられてつづいた。(伊藤整『日本文壇史』)

     ここに森田草平が出てくるのは、漱石が修善寺の大患で倒れたため、文芸欄を任されていたからだ。
     「スミレがいっぱい。」「スミレは種類が多すぎて。」「これはタチツボスミレじゃないかな。」私はそれしか知らないのだ。「これはカタバミですかね?形が似てるようだけど。」黄色い小さな花を指さして桃太郎がオクチャンに尋ねる。「やっぱりカタバミでしょうね。」黄色のカタバミは珍しい。
     定刻になり集合場所に集まった辺りで、四人の甲冑隊がやってきた。「忍城にもいましたよね。」最近の流行である。烏帽子をつけた女性の写真を撮ると、女性は刀を抜いて見せる。「蜻蛉は女性が好きなんだ。」「スニーカーだぜ。」ジーパンの上に脛当て装着している。「女性はTシャツだからな。」折角甲冑を着用しているのなら、その辺もきちんとした方が良いのではないか。「本物は重いんですよね。三十キロとか四十キロ。」彼らが身につけているのは軽量のプラスチック製であろう。今は甲冑コスプレの通販サイトまである。
     「桃むすめ」というのもいて、スナフキンと桃太郎が写真を撮る。古河市観光協会によれば、オーディションによって四人程選ばれる。申し込み資格は十八歳以上(高校生は除く)未婚・既婚は問わず、任期二年である。イベント参加の際には一万円の日当が支払われる。公園の方を眺めると、周囲ぐるりと出店が並び、人だかりがしている。「花より団子だね。」

     「それじゃ出発しましょう。」公園の西側の裏から出ると、そこにバスが停まっていた。「ここに停まるんだね。」
     北に三百メートル程行くと香取神社だ。古河市牧野地四百三十四番。境内の樹木が全て切られて空き地になった所に、朱塗りの両部鳥居が建ち、紅殻色の社殿があるだけだ。「どうして木を切っちゃうんでしょうね。」「鎮守の森は大事にしなくちゃいけないのに。」南方熊楠が神社合祀に反対したのが正にその理由だ。
     合掌型の青面金剛像がある。浅間大神・小御嶽・石尊の石碑もあり、「アッ、小御嶽」とオクチャンが喜んでいる。石尊は言うまでもなく大山の神である。神社を出て裏に回ると十九夜塔があった。敷地を巡る金網の、その部分だけが切り取られているのが面白い。
     永仙院(ようぜんいん)跡。古河市桜町一二八番地。正しくは永僊院と書く。石の左の門柱には「永仙院遺蹟」、右の門柱には「三喜翁墓・永僊院参道」とあって、五十センチ幅程の狭い参道が伸びている。その奥には墓地があるだけで堂も何もない。

    江戸時代後期に書かれた『許我志』・『古河志』によれば、成氏から義氏までの歴代古河公方の位牌が置かれ、公方家が寄付した足利尊氏の偃月刀(ナギナタ)もあったが、貧窮のため売り払われたという。『古河志』では、徳源院・松月院とともに、古河の「足利開基三ヵ院」と称されていたと紹介されている。江戸時代後期は無住持の状態が続き、明治四年には廃寺となって、栃木市藤岡町蛭沼・山王寺に合併された。(ウィキペディア「永仙院」)

     「赤穂浪士の娘の墓だってさ。」小さな一対の墓石と野仏のような石の脇に、壊れかけた立札にワープロで作った紙が貼ってある。吉田忠左衛門兼亮の長女「さん」と、その夫で本多家家臣の伊藤十郎大夫治興の墓である。「娘さんですか?」「娘のさん。」討ち入りの時、吉田忠左衛門は六十三歳、娘のさんは二十三歳だった。墓にはユキヤナギとレンギョウが供えてある。
     田代三喜は知らない名前だ。ホントに知らないことが多すぎてイヤになってしまう。ウィキペディアによれば医聖と呼ばれたと言う。入間郡越生に生まれた人である。明に渡って医学を学び、永正六年(一五〇九)二代古河公方政氏に招聘されて古河に住んだ。曲直瀬道三(やはり医聖と呼ばれた)を後継者として指導した。
     国道三五四号線から住宅地に入る。「トサかヒュウガか?」「トサミズキですね。」今年初めて見る。「房に花がいっぱいついているのがトサです。」私は逆に覚えていた。梅も咲いている。「これはトウダイグサかな?」「そうよ。でも私たちってレベルが高くなったわね。」ハイジが言う。「だって、二十年前は、ヒメオドリコソウもホトケノザも区別つかなかったのよ。」私もそうだ。里山ワンダリングのお蔭である。
     子の権現境内には関係者が集まり、「甘酒をどうぞ」と呼び込みをしている。ウォーキング大会の休憩場所なのだろう。テーブルと椅子が設えてある。姫は素通りする積りだったようだが、折角なので寄ってみる。古河市長谷町二番十四号。
     「足腰を守る神様ですから、お参りしていってください。」集会所のような建物とブロック塀の間の五十センチもない通路を入って、集会所の裏に回れば子の権現の本殿があった。厨子の上段には黒い仏像が鎮座し、下段には鏡が置かれている。社殿の側面には草鞋、鉄の草鞋がぶら下げられている。
     「子の権現の本社はどこですか?」オクチャンの質問に、「飯能の方です」と返ってきた。「なるほど、吾野のあそこですか。」飯能の天龍寺から勧請して、長谷寺境内に祀ったのが始まりであった。しかし長谷寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になったため、長谷の足軽組三十七名が連名で現在地に移したと言う。
     「権現」名は明治の神仏分離で禁じられ、現在は子ノ神社と称しているが、一般に子ノ神社と言えば大国主(大黒)を祀る。大国主の使いがネズミ(子)なのだ。但しここは天龍寺からの勧請だから「子ノ聖」に因むだろう。飯能天龍寺の縁起を見ておこうか。

    当山は、延喜十一年(九一一)六月十三日、子ノ聖が初めてこの地に十一面観音をお祀りし、天龍寺を創建されたことに始まります。その後、弟子の恵聖上人が子ノ聖を大権現と崇め、子ノ聖大権現社を建立されました。 現在の和歌山県天野の地に生まれた子ノ聖は、生来才知するどく仏教に通じ、生誕が子年子月子日子刻であったため人々に子ノ日丸と呼ばれ、長じては各地行脚の後当山を開かれました。聖は昇天の折、「我、化縁につきぬれば寂光の本土に帰るべし。然れども、この山に跡を垂れて永く衆生を守らん。我登山の折、魔火のため腰と足を傷め悩めることあり。故に腰より下を病める者、一心に祈らば、その験を得せしめん。」と誓いをたてられました。以来、足腰守護の神仏として信仰されています。(子ノ権現天龍寺「縁起」)
    http://nenogongen.jp/ne01_engi.html

     皆は甘酒を振舞って貰うが私は勿論要らない。「甘くない酒なら貰いたいな。」「私もそう言おうと思った」とマリオが笑う。「椅子に座ってください」と言われたが誰も座らない。「アレッ、姫は?」姫は五十メートルほど先で佇んでいる。「甘酒だよ。」「すぐ先が博物館ですから、そこで休憩しようと思ってたんです。」それでも甘酒の紙コップを貰う。「熱くて飲み干せないわ。」結局紙コップを片手に歩き始めた。

     鷹見泉石記念館はすぐ先だった。古河市中央町三丁目中一番二号。見覚えのある光景だ。この屋敷は、弘化三年(一八四六)理由は分らないが、鷹見泉石が隠居を命ぜられてからの住まいである。古河に来るまで、私は鷹見泉石のことをよく知らなかった。古河藩家老であり、蘭学者であり、稀代の地図収集家であった。渡邊崋山とも深い交友があり、崋山はその肖像を描いた。当寺最先端の知識人である。藩主土井利位が『雪華図説』をまとめるには、泉石の相当な指導と援助があった筈だ。
     玄関脇の「可事軒」と名づけられた小部屋に雛壇が飾られている。「三人官女、五人囃子でしょう。その下の三人は何?」桃太郎は難しいことを訊いてくる。お雛様に関して私が知っていることは殆どない。調べて見ると仕丁(衛士)である。
     「これは左大臣、右大臣。」「違うよ、左近の桜、右近の橘だから近衛の大将だね。」右近の橘なのに、橘が向かって右に置かれているのはおかしい。尤も男雛が現代風に右(向かって左)にいるのと同じことか。何度も言っていることだが、天子は南面する。東(日の昇る方)が左手に当るので、右(日の沈む方)より左が上位とされるのだ。

     城下町左右違つて雛の壇  蜻蛉

     私の言ったのとは違って、一般には随身として、左大臣、右大臣と称しているようだ。しかし官僚トップの左右大臣が弓を背負う訳はないではないか。武器を持って天皇を守護するのは近衛府の役である。紫宸殿の東側に左近衛府、西側に右近衛府が陣を敷く。そこに橘と桜が植えられていたのだ。
     楓樹の古木が立っている。市の指定文化財で、朝通り過ぎた「八万石最中」の釜屋ではこの名前の菓子を売っている。

    樹高九・八メートル、周囲一・一メートル。マンサク科フウ属の落葉喬木で、原産国は中国。古代中国において天子の居所に植えられた樹木であるということを知った八代将軍吉宗がはじめて輸入させ、江戸城と日光東照宮、上野寛永寺に植えたと伝えられる。
    当地に植えられた経緯は不明であるが、鷹見泉石は天保十五年(一八四四)に清の蘇氏から「楓所」の号を揮毫されていることから、当時すでに泉石家の庭木であったと思われる。

     庭から回ると、座敷に置かれた雛壇はさっきより小さく、三仕丁がいない。更に回り込むと、今度の部屋の雛壇は、最下段に庶民が並び、随身の場所には左に老人、右に女性が立っている。なんだか変だな。
     奥原晴湖の画室には寄らない。鷹見泉石の姪に当たる南画家だが、私は絵は良く分からない。彼女についても以前書いてある。
     「それじゃ歴史博物館に入りましょう。」古河市中央町三丁目十番五十六号。ここは古河城の諏訪曲輪の跡である。古河城は渡良瀬川の東岸にあったが、河川改修によって今や河川敷の下に埋もれてしまっているのだ。枝垂れ桜が美しい。
     「年寄割引はないのかな?」それはないが、入館料は通常四百円のところ桃祭りのために三百円になっている。渡邊崋山画の鷹見泉石像を見ながら展示室に入る。知的で意思の強そうな顔である。「蛮社の獄でも危なかったんだよ。藩主の土井利位がかばった。」この肖像画の制作時期について、大日本印刷の『artscape』二〇一八年三月十五日号に次の記事が載っていた。

     《鷹見泉石像》は、天保八(一八三七)年四月十五日に制作した、と崋山は絵の落款に記している。また鷹見家の言い伝えとして、縁戚にあたる日本美術史学者の藤懸静也(ふじかけしずや、一八八一~一九五八)氏は、「大塩平八郎の乱の平定後、江戸に帰った泉石が、藩主の菩提寺である浅草誓願寺へ代参した際に崋山の家を訪れ、〝良き折なれば〟と泉石が言い、正装姿の泉石を崋山が写生した」と伝えている。
     ところが、日本南画を専門とする美術史家、吉澤忠(よしざわちゅう、一九〇九~一九八八)氏によると、『鷹見泉石日記』には四月十五日は江戸幕府に対する反乱「大塩平八郎の乱」(一八三七)の鎮圧とその後の処置に忙しく、大坂城代を務めていた藩主の土井利位(としつら)に従い、泉石はまだ大坂に滞在していたと記されており、さらに不思議なことは、崋山の肖像画の多くは丹念なスケッチをしたうえで初めて一幅の絵を仕上げているが、この《鷹見泉石像》には一点もスケッチが残されていない。
     日比野氏は、崋山が一八三九(天保十)年に「蛮社の獄」に連座して捕えられたことと、それまで長年泉石の家に通い、泉石をスケッチしてきたことを考え合わせても、まだ一八三七(天保八)年に《鷹見泉石像》は完成しておらず、一八四一(天保十二)年蟄居中に仕上げ、泉石にも影響が及ばないよう逮捕前の制作日を書き入れたと推測している。泉石との親密さを慮った崋山がスケッチを処分したとも考えられる。内外の緊張が高まった幕末のこの時期、当局の目をはぐらかすため《鷹見泉石像》の制作日は仮の日付けとしたのかもしれない。《鷹見泉石像》の制作年をめぐって、日比野氏は一九九五年五月二十七日「第五十八回美術史学会全国大会(大阪大学)」で発表した。
    http://artscape.jp/study/art-achive/10088519_1985.html

     私もこれまでの通説の通り、浅草誓願寺への代参の時というのを信じていて第九回にもそう書いたのだが、これは新しい発見だった。
     泉石の業績、交友関係が一覧される。「この名前を見るだけでもスゴイですね。」泉石自身が優れた蘭学者であり、例えば川路聖謨、江川英龍、渡辺崋山、桂川甫周、箕作省吾、司馬江漢、谷文晁、高島秋帆、大黒屋光太夫、足立左内、潁川君平、中山作三郎、オランダ商館長のスチュルレル(Johan Willem de Sturler)等と交友した。オランダの地図を自身で和訳したものなど地図、地理書が多く展示されている。
     次の部屋は古河の歴史、次が奥原晴湖、河鍋暁齊などの部屋。適当に見て文学館に回ることにする。オクチャンとハイジは文学館には行かず、博物館を堪能したいと言う。
     文学館は博物館に隣接している。大正の雰囲気を醸す二階建ての洋館で、一階が文学館、二階がイタリアンのレストランだ。「この二階で食事する筈だったんだよね。」第九回の時、ここに入ってみたが予約で満席だったのだ。
     文学館も通常二百円のところ百五十円になっていた。サロンにはグランドピアノが置かれている。ここではまず蓄音機を聴かなければならない。イギリスのE・M・ジーンが一九三〇年頃に作成した蓄音機「EMGマークXb」という代物である。SPレコードを手回しの蓄音機で聴くのだ。針は竹である。今回は『エリーゼのために』だった。前回来た時にはビゼー『カルメン』を聴いた。「あの時はオカチャンが感激してましたよね。」
     和田芳恵コーナーも二度目だ。女性ではないと、念を押す必要があるだろうか。しかし一般に知られている名前ではない。「和田芳恵ってどういう人ですか?」生涯の殆どを編集者として貧窮のうちに暮らした。樋口一葉研究の第一者であり、昭和三十一年(一九五六)『一葉の日記』で、幸田文『流れる』とともに日本芸術院賞を受賞し、ようやく借金の一部の返済に充てることができた。
     晩年は私小説で読売文学賞を得てからやっと生活が安定した。受賞歴を挙げると、昭和三十八年(一九六三)『塵の中』で下半期の直木賞、昭和五十年(一九七五)『接木の台』で読売文学賞、五十二年(一九七七)『暗い流れ』で日本文学大賞、五十三年(一九七八)「雪女」で川端康成文学賞を受賞した。
     「市川に住んでたろう?荷風とも交流があった。」スナフキンは自身の企画で市川を案内したからその時に調べた筈だ。ただ和田が市川に住んでいたのは昭和十年から二十四年までの間だ。若い頃には正岡容と共に同人誌を出していた。
     「『暗い流れ』は自伝小説なんだけど、エロ小説みたいだよ。」和田自身の幼年期から青年期にかけてのvita sexualisである。新潮社の日本文学大賞を受賞した作品で、和田の小説はこれしか読んでいない。何と言っても本領は一葉研究であり、その最高傑作は『一葉の日記』だと私は思う。樋口一葉の日記は、世間で考えられているような「日記」ではなく、長編私小説なのだと、和田は結論付けた。

     だから、一葉の日記は、日記という形体を借りた、長編の私小説と云えるだろう。
     そして、「若葉かげ」には、徒然草の影響が、もっとも強い。
     一葉の日記は、日件録ではなく、私小説だから、当然書かれなければならない事柄や、また現れなければならない人物が書かれずにしまったとも考えられる。そして、これは、一葉という小説家が、外界から投入される種々雑多な事実を、作家的な手腕で、取捨按配し、自分の心理の流れを追いつめてみた表現であろう。
     だから、一葉の日記にあらわれる人物の名は、モデルと考えた方がよい。そう思わなければ、この日記の秘密を決して解くことにはならない。 

     何度も一葉の家を訪問していた島崎藤村は刊行された日記を読んで、自分が登場しないことを訝った。馬場孤蝶は登場して何故自分が登場しないのか、自分は一葉に嫌われていたのだろうかと悔しい思いをしたのである。しかし事情は、和田の言う通りだったろう。
     永井路子は骨太の歴史小説を書いた。ただその小説は殆ど読んでいないので、「日光街道」第九回にはその母の永井智子のことを書いた。
     「蜻蛉も作家を目指してたんですか?」千意さんがおかしなことを訊いてくる。私は十八歳で自分には才能がないと見極めた。創造力というものが全く欠けているのである。それに観察力がないから描写ができない。精々、仲間内でこんな作文を読んで貰う程度の文章力しかないのだ。
     第二展示室は東京社の鷹見久太郎が編集した『コドモノクニ』のコーナーだ。久太郎は泉石の曾孫である。雑誌は大正十一年(一九二二)から昭和十九年(一九四四)まで東京社から刊行され、童画というジャンルを確立した。「日本のフレーベル」と呼ばれた倉橋惣三の幼児教育思想に、モダニズムを掛け合わせた雑誌である。
     東京社は国木田独歩の独歩社を引き継いで、久太郎、窪田空穂、島田義三が設立した出版社である。『婦人画報』、『少年少女智識画報』、『皇族画報』、『婦人界』、『少女画報』、『日本幼年』などの雑誌を出した。
     画家の代表は武井武雄だろう(と言うより私はそれしか知らない)。「絵に出てくる子供たちは山の手の坊ちゃん、お嬢ちゃんだね。」子供はみんな靴下と靴を履いている。下駄の子供は一人もいない。これは山の手の中流階級の子供たちである。大正の童心主義はこの階層を対象にしていたのだ。
     「それじゃ出発しましょうか。オクチャンとハイジは外で待ってますから。」外に出たところに二人がやって来た。

     「行きたいですか?」「行きたい。」桃太郎は「ぬた屋」で甘露煮を買わなくてはならない。「鯉の甘露煮はお正月以外に食べないわ。」「鯉じゃないよ、フナでしょう。」なんぼなんでも、鯉は甘露煮にはしないだろう。「そこ行ってすぐだよ。」
     明治三十年創業の店である。古河市中央町三丁目八番五号。工場の前は関所のような冠木門で閉ざされている。店も黒格子を巡らした風格のある建物だ。鮒の甘露煮は古河が発祥だと言う。私は正月でも食べない。「結構高かった」と桃太郎が店から出てきた。「贈答用と家庭用があった。」「入れ物が違うんでしょうね。」「箱で高くするんだよ。」
     甘露煮と佃煮とはどう違うか。甘露煮は砂糖と水飴を大量に使ってカラメル様に仕上げたものである。だから私は食べない。佃煮は醤油と味醂で煮詰めたものである。だから甘過ぎなければ食べられる。
     もう一度博物館の前に戻って右に回りこむ。「あそこが長谷観音だ。」「日本三大長谷観音って言ってますよね。鎌倉と奈良くらいしか知らないな。」桃太郎はしきりに首を捻る。「言ったもの勝ちだからね。」「日光街道」第八回でその辺りは調べた筈なのに記憶が飛んでいる。今日は寄らないが、子の権現のところでも書いたように、明治になって廃寺になり、大正三年(一九一四)に再興した寺である。境内は狭かったと思う。
     明応二年(一四九三)初代古河公足利成氏が鎌倉の長谷寺から十一面観音を勧請したのが始まりである。伝承では、大和の長谷観音は楠の元木、鎌倉の長谷観音は中木、古河の長谷観音は末木と、同じ一本の楠から彫り上げたとされる。
     信号を右に曲がれば、古河第一小学校の北側の道路沿いに鷹見泉石出生地の碑が建っているのだ。Jan Hendrik Daperのサインが彫られている。ヤン・ヘンドリック・ダップルと読み、泉石がオランダ商館長から贈られた名である。花押の代わりに署名として用いた。
     向いの宗顕寺(浄土真宗本願寺派)には和田芳恵の墓がある。古河市中央町二丁目八番三十号。なんとなく記憶がある積りで墓地に入ってみたが、記憶違いであった。「ここには来てませんよ」と姫に言われてしまった。
     姫が坊守さん(真宗寺院では住職の奥さんをこう呼ぶ)に声をかけてくれたのが良かった。和田芳恵夫人の従姉妹だと言う。和田の写真、和田自筆の「私の墓」という原稿を見せてくれる。「ご供養だから飴を持って行ってよ。」一粒かと思ったら、箱から取り出した袋入りのものを全員にくれるのだ。大胆な人だ。天然葉緑素入りの飴である。「普通じゃ売ってないからね。それじゃお墓に行こうかね。」
     「古河には何年くらい住んでたんですか?」「住んでないよ。お寺には時々来て原稿を書いてたけどね。」どうやら勘違いをしていたらしい。「それじゃ、土浦短大にも東京から通ってたんですか?」「そうだよ。」
     五十八歳で直木賞を受賞したものの原稿依頼は殆どない。生活にも困る中、丁度新設の土浦短大(現つくば国際短期大学)から国文科専任教授の口がかかった。設置基準を満たすための教授一人が足りなかったのである。開学してみると国文科の定員四十名に対し、入学希望者は十名しかいない。和田は往復四時間かけて通勤し、国語表現法等を教えた。和田は病身だったから通勤は大変だっただろう。
     和田芳恵は昭和五十二年(一九七七)十月五日、大田区上池台の自宅で死んだ。七十一歳。和田の苔生した墓石には「寂」、夫人(静子)の墓には「静」と彫ってある。「寂は和田の字だよ。」和田の法名は顕眞院釋芳恵、妻は百華院釋尼清静。
     「お線香をあげていいでしょうか?」姫が桜の香の線香を持参していたのだ。「どうぞどうぞ」と言って坊守さんは戻って行った。随分短い線香で、アロマ線香と言うやつかも知れない。火は私のライターで点ける。
     以前にも書いたことだが、ネットで前田愛を検索すると女優や声優が最初に現れて、わが敬愛する前田愛(『幻景の明治』、『近代日本の文学空間』、『近代読者の成立』、『樋口一葉の世界』等)になかなか行き着けない。その点、和田芳恵には同姓同名の女優や歌手がいないのが幸いだ。
     「歌手でいたよな。榊原ヨシエか。」スナフキンの記憶がおかしい。「榊原はイクエちゃんでしょ。柏原芳恵ですよ。」「本名はカシハラなんですよ。芸名はカシワバラだけど。」姫は不思議なことを知っていて、「良く知ってるわねエ」とハイジも驚いてしまう。「どんな歌があったっけ。」「紅茶のおいしい喫茶店・・・・『ハロー・グッバイ』。」「『春なのに』も有名だわね。」
     「いつ頃だったかな。小柳ルミ子なんかの時代か?」「全然違うね。小柳ルミ子は天地真理と一緒。我々の同世代だよ。」「皇太子がヨシエちゃんのファンなんですよ。」皇太子は昭和三十五年(一九六〇)生まれ、柏原芳恵は四十年(一九六五)生まれである。なんだか和田芳恵から随分離れてしまった。

     「もう三時半ですね。正定寺と隆岩寺は割愛します。」住宅地の中を行けば、田中医院のある三角地の角に「史蹟古河城追手跡」の石柱が立っている。古河市錦町。面影はまるでないが、鍵手や行き止まりの道が多いのが城下町の特徴だろうか。解説を読んでいた桃太郎が、「大手門と同じなんですね」と気付いた。大手門と追手門が同じだとは私も知らなかった。

     城の大手(正面)にあたり、敵の正面に攻めかかる軍政(追手)を配置することから、城の正門(表門)のことを大手門とか追手門と呼んでいた。
     当該地の北に位置する東西方面の大通りを境に、北側は武家屋敷となっており(片町)、南側は城の堀と五間(約九メートル)ほどの高さの土塁が構築されており、追手門に入るには堀にかかる橋を渡った。堀の水深は二尺(約六十センチ)、堀幅は七間(約十三メートル)とも一六間(約三十メートル)ともいう。
     門は第一・第二門からなり、その間に枡形(正方形)の空間をもうけた形態であった。まず切妻屋根に、おそらく竪桟張りであったかと思われる扉をもった高麗門(第一の門)を入ると、そこは土塁で囲まれた枡形の空間で、右手にいかにも城門らしく豪壮な造りの第二門があった。その第二の門は櫓門と呼ばれるもので、土塁と土塁の間に渡櫓を渡して、下を門とし上を櫓(矢倉)とする形式であった。
     門の創建は、慶長年間(一五九六~一六一五)の松平(戸田)康長のときであったという。

     少し寒くなってきたので再びジャンバーを着込む。県道九号線を渡って住宅地に入ると記憶が蘇って来た。塀をそこだけ引っ込めて、「水戸勤王志士殉難の地」が建っている。「ロダンがいれば喜んだよね。」「裏に榊原ほかの名前が彫ってある。」家老榊原新左衛門以下十七人切腹、寺社役梶清次衛門以下十二人が斬罪にされた場所である。刑場があったのだろう。筑波山に籠もった天狗党のとばっちりを受けたのである。とにかく幕末の水戸藩は無茶苦茶であった。
     尊攘派(天狗党)と佐幕派(諸生党)とが抗争し、筑波に立て籠もった天狗党を鎮圧するため幕府軍もやって来た。水戸藩主慶篤の名代として、松平大炊頭頼徳軍も水戸に入ろうとした。藩内の抗争であれば、藩主名代の力で対立を抑えることができると簡単に考えていたのである。
     しかし水戸を押えていた佐幕派に入国を拒否され、あまつさえ銃撃を受けた。藩主名代の自分が砲撃されるとは松平頼徳にとっては全く想像もしない事態で、やむなく那珂湊に陣を敷いた。成行き上、天狗党と共同で佐幕派及び幕府軍に敵対することになってしまったのである。
     しかしこれが反幕行為だと認定され、頼徳はあっさり恭順してしまう。命令者が降りてしまったからには仕方がないので榊原も幕府に投降した。おそらく生命保証の密約はあったにも関わらず、一党は佐倉藩、高崎藩、関宿藩に預けられた後、罪に処せられた。
     天狗党を中心にした水戸藩の悲劇については吉村昭も良いが、山田風太郎『魔群の通過――天狗党叙事詩』がお薦めだ。武田耕雲斎の子が回想する形式をとっているが、燃え上がるような理想が憎悪とテロルに転化していく情念のあり方、つまり革命運動の典型を描いている。
     百メートル程離れて、東片町自治会館のある鉄火稲荷の境内隅には「古河藩盈科堂及教武所趾」の石柱がある。古河市大手町四番十九号。享保九年(一七二四)、肥前国唐津藩主の土井利実により唐津城内に創設されたのが始めである。孟子の「流水為物也、不盈科不行、君子之志於道也、不成章不達」から命名された。「盈」は満たす、「科」は窪みを意味すると言う。解釈を見つけたので引いておく。

    流れる水というものはその特質として、波の谷を満たさないと前に進まないものだ。同じく君子が道を志すにおいても、少しずつ目標の区切りを立てて前に進んでいかないと、上達しないだろう。(『孟子を読む』「盡心章句上」)
    http://sorai.s502.xrea.com/website/mencius/mencius13-24.html

     宝暦十二年(一七六二)、土井利里が古河に移封となった際に盈科堂も移転した。当初は古河城内の桜町にあったが、安政六年(一八五九)、追手門前の古河城下片町に校舎を新築・移設した。
     四時になった。江戸町通りを東に向かい、永井路子旧宅は素通りする。古河市中央町二丁目六番五十二号。「時間があったら是非来てください。」父が死に母が再婚したため、大伯父の養女となって育った家である。文学館の分館になっている。母の智子と菅原明朗が、戦争末期に偏奇館を焼け出された荷風を助けて明石、岡山を転々としたことは第九回に書いた。
     篆刻美術館には寄らない。そのまま少し行けば、IT人材開発センターのビルの陰に河鍋暁斎生誕の地碑が建っている。古河市中央二丁目三番五十号。暁斎は天保二年(一八三一)、古河藩士河鍋記右衛門の次男として生まれたが、翌年には家族ともども江戸に移転しているから、本人に古河の記憶はない。父親が江戸の定火消の株を買ったのである。
     「記念美術館に行きましたね。」その時に、ギョウサイではなくキョウサイと読むのだと教えられた。ハイジは行ってなかったろうか。それなら住所を記しておこう。蕨市南町四丁目三六番四号。暁斎の曾孫が運営する美術館である。「谷中墓地でお墓も見てますからね。」
     「あそこにも甘露煮の店があるよ。」田村屋西口店である。古河市中央町一丁目一番八号。「食べ比べたら良いんじゃないの?」冗談の積りだったが、桃太郎は本当に店に入っていった。

    田村家の祖先が伝統ある「郷土料理」を研究・改良し、独特の製法で明治時代初期「古河名物・鮒甘露煮」として世に問うたところ、東京をはじめ全国各地で好評をいただき四代百有余年、今日まで製造販売しております。

     「ぬた屋」より古い。「値段は変わらないけど、こんなに買っちゃって俺はどうすんだろう。また酒が増えちゃうよ。」「ご飯のおかずだっていいのよ。」
     本町二丁目交差点を左に曲がった次の角の古物商の脇に本陣跡の石碑が建っている。「今日は植え込みがきれいに刈られているからちゃんと見えますね。」そこに自転車のオジサンが帰ってきた。「面白いよ、覗いて行ってよ。」おじさんから声がかかる。「朝会ったオジサンじゃないか?」どうやらそうらしい。「電話ボックスも商品か?」値段がついている。「どこに置くんだ?」「家の中で電話ルームにする。」「そんなことするか?」その向かいが高札場跡だ。
     そして駅で解散する。四時二十分。二万歩、十二キロだ。オクチャンとハイジは駅の中に消えていった。
     残った連中は、スナフキンが推奨する「世界一」と称する純米吟醸酒の店に行くのだ。「十分くらいだよ」とスナフキンがスマホの地図を片手に歩き出す。しかし十分では着かない。何度か道を曲がる。「小学校のそばだと思うんですが」と姫も不安そうな声を出す。「疲れちゃったわよ」とマリーがぼやく。
     「また甘露煮の店がある。」野村甘露煮店である。「甘露煮の店はみんな立派だね。」桃太郎も流石に三軒目には入らない。八幡神社を回り込むとやっとあった。青木酒造である。古河市本町二丁目十五番十一号。建物は白漆喰の見せ蔵造りだ。赤煉瓦の塀の内側にはやはり赤煉瓦の煙突が聳えている。電話八番。軒丸瓦にヤマキの紋がある。
     酒の銘柄は「御慶事」である。普通に読めばギョケイジかと思うが、ここではゴケイジとなっている。その純米吟醸酒がIWC二〇一六年SAKE部門で最高位を獲得したのである。IWCとはInternational Wine Challenge、毎年四月にロンドンで開催される大会だ。その日本酒部門は、つまり日本酒を海外に売り込むために設けられたのだろう。外国人の嗜好に合わせた酒だから、おそらくワイン風だろうと想像はつく。

     青木酒造は天保二年(一八三一年)十一代将軍家斉の時代に、茨城県西部渡良瀬川と利根川の交わる古河に創業しました。現在では古河唯一の地酒を造る酒屋として、小規模ながらも家族で営み、代々受け継いできた土地や伝統を守っています。
     清酒御慶事は三代目当主が大正天皇御成婚の折、皇室の繁栄と日本の国のますますの隆盛への願いを込めて「最高のよろこびごと」という意味で「御慶事」と命名したのです。
     古河で唯一の地酒として地元をはじめ、広く愛飲されております。
     酒造りを通して、杜氏の技術や日本酒文化を後世に伝えていくことはもちろん、私たちが誇る茨城の自然の恵みを、もっと多くの方々に感じて頂きたいと考えています。
    http://aokishuzou.co.jp/gokeiji/

     店に入ると、オバサンとオバアサンが一人の客の接待をしているので、店頭の酒を眺める。袋吊り斗瓶取りというのは一升瓶で一万二千円だ。純米大吟醸が一升で一万円、全国新酒鑑評会金賞受賞酒は八千円。まさかこんなもの買うのではあるまいね。しかしスナフキンが探しているのはここにないようだ。漸く客が出て行ったので、スナフキンがコピーを見せて訊いた。「今ちょっと切れてますね。」「アッ、今入荷したところです。持ってきますから」とオバアサンが外から運んできた。
     正確には「御慶事 純米吟醸酒 ひたち錦」、ひたち錦は茨城県のブランド米である。これが世界一になった酒だ。四合瓶で本体価千七百円也。「一升瓶もありますが。」それは持って帰れないだろう。スナフキン、姫、桃太郎、マリオが買った。
     「俺は普通の酒が好きなんだ。純米吟醸は苦手。」「面倒臭いヤツだな。」普段家で飲むのは紙パック入り二リットル九百円程度の酒である。これで充分旨いと思うのに、秋田に行くと、「紙パック?それって酒か」とバカにされてしまう。しかし昔を思いだせば良い。三四十年前、私たちはどんな酒を飲んでいたことか。それと比べれば今の酒はどんなものでも旨くなった。
     「その先の古い家の脇の細い道を真っ直ぐ。」駅までの近道を教えて貰うと、さっきは随分回り道をしたことが分った。「二万三千歩くらいになったんじゃないか。」宇都宮線に乗る。千意さんは蓮田で降りて行った。残り六人が大宮で降りる。

     「今日はどうする?」昔はさくら水産に決まっていたが、もう何年も行っていない。「庄屋もイマイチだしな。」「甘太郎に行こうか。」「スナフキンは良く知ってますね。」秋田料理の店の客引きがしつこくまとわり着いてくるが無視する。
     目指すビルに入りエレベーターを降りると、私たちに続いて女子高生の集団が降りてきた。みな制服姿だ。「女子高生が居酒屋に?」不思議な光景だ。「団体席の横になりますがよろしいですか?」団体とは女子高生だろうか。「違います。」取り合えず席に着き、煩かったらすぐに出ようと決めた。その後で団体席にやってきたのは男子高校生らしい団体だった。まさか酒は飲まないだろうね。
     一刻者は一升瓶しか置いていない。そんなには飲まないだろう。「ボトルキープもできますが。」次にいつ来るか分らない。「四合瓶は?」結局「芋日和」にした。つまみの種類が余り多くない。こんな店だったろうか。それ程煩くはないが、焼酎一本でお開きにした。マリオはここで別れる。
     「別の店に行こうよ。」「はなの舞がある筈なんだ」とスナフキン、姫が言うのでそちらに向かうが店はない。「変わってしまったわ。」
     脇のすずらん通りに入ると「蕎麦酒場ゑびや」が目に入った。「ここにしよう。」串天と蕎麦の店である。ここではホッピーにした。串の盛り合わせに春菊の天ぷら、蕎麦掻。「それはナスですか?」食べてみると鯵だった。旨い。安くて手頃な店であった。スナフキンも「ここ覚えておこうぜ」と言うので住所も書いておこう。さいたま市大宮区大門町一丁目二十番五十八号。

    蜻蛉