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    近郊散歩の会 第十二回 大泉学園
      平成三十年四月二十八日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.05.11

     旧暦三月十三日。穀雨の次候「霜止出苗(しもやみてなえいづる)」。かなり暑くなりそうなので半袖にしたが、念のために羽織るものをリュックに詰めて出た。夜はまだ冷えるだろう。今日は弁当不要である。
     今回もあんみつ姫の企画で、集合は西武池袋線大泉駅だ。この駅には昔、石神井の辺りを計画した時、下見でちょっと寄ったことがある。結局コースからは外したのだが、その時は池袋経由で来た。今日は所沢経由にしたのは定期券が使えるからだ。それに意外なことに、この方が早いのだ。
     朝霞市や和光市、新座市と隣接していて間違いやすいが、ここは東京都練馬区である。練馬は昭和二十二年(一九四七)に板橋区から分離してできた区だ。かつては近郊農村地帯で沢庵漬け用の練馬大根の産地として有名だったが、もはや殆ど作られていない。

    練馬区は緑の多い閑静な住宅街であり、最低居住面積水準未満の世帯率は東京二十三区で最も低い。練馬区民の男性の平均寿命は八十一・二歳で全国で第五位、東京二十三区で第一位である。また刑法犯認知件数は、人口が六十万人以上のほぼ同規模の特別区の中で大田区に次いで少ない。人口は約七十万人で、二十三区中世田谷区に次いで多い。(ウィキペディア「練馬区」より)

     高級住宅街が多く住みやすい町だと言っているのだろう。二〇〇三年の東京商工リサーチの調べでは、成城、田園調布に次いで都内で三番目に社長が多かったが、今では順位はだいぶ落ちているらしい。
     だいぶ早く着いてしまったので南口の喫煙所で一服してから、北口の駅前デッキに設置されたアニメーションのブロンズ像を眺める。鉄腕アトム、メーテルと鉄郎(松本零士『銀河鉄道999』)。私はこの頃の松本零士にはあまり関心がなかった。松本零士は何と言っても『男おいどん』であるとは、いつもロダンと言っていることだ。
     ジョーもファイティングポーズで立っている。『あしたのジョー』は、高森朝雄(梶原一騎)の原作がちばてつやの絵で傑作になった。ライバル力石徹がジョーを破った直後にリングで倒れ、昭和四十五年(一九七〇)三月二十四日にはその告別式が執り行われた。葬儀委員長は寺山修司であるが、私にはさっぱり分らないことだった。そしてその一週間後、よど号ハイジャック事件が起こり、実行犯の赤軍派九人は「われわれは明日のジョーである」なんて寝言を言った。過剰な思い入れはヤバイと言うのが当時の私の結論で、あらゆるファナティックなものへの疑義と嫌悪が生まれた。
     ラムちゃん(高橋留美子『うる星やつら』)は椅子に腰かけ、長い足を持て余している。高橋留美子は新鮮だった。『うる星やつら』(『週刊少年サンデー』)は、当時流行っていたハチャメチャSFでもあったが、ほぼ同じ時期の昭和五十五年(一九八〇)、『メゾン一刻』で女性漫画家として初めて青年誌『ビッグコミックスピリッツ』に登場した。そしてこの頃からマンガのメインストリームはラブコメになった。あだち充『タッチ』(『週刊少年サンデー』)が連載を開始したのも昭和五十六年(一九八一)のことだ。時代が変わったのである。私がマンガから離れ始めたのはこの少し後だったが、それでも三十歳過ぎまでマンガを読んでいたのである。
     フェンス側の植え込みには昭和三十三年(一九五八)『白蛇伝』に始まる東映動画の歴史を語るパネルが並べられている。『白蛇伝』は少学校の映画鑑賞か何かで観たのではなかったかしら。三十八年のテレビアニアメ『鉄腕アトム』、『狼少年ケン』、四十年の『ジャングル大帝』以下現在まで続く。
     名付けて「ANIME GATEジャパン・アニメーション発祥の地」である。ここから十五分程の距離に東映東京撮影所(通称「大泉撮影所」)があるのに因むのだ。
     駅ビルの壁面には東映映画のポスターが無数に貼られている。高倉健の『網走番外地』や『昭和残侠伝』があるのは当然だが、東映ポルノ(池玲子や杉本美樹の女番長シリーズ)は珍しい。こんなもの誰も知らないのではないか。しかしポルノと言う言葉を定着させたのは東映で、歴史的には意義がある。それ以前はポルノグラフィー、ポーノなどとも表記していた。日活ロマンポルノはそれを継承したのである。
     東映ポルノはやくざ映画の影響下にあったから暴力とセックスが中心である。女番長をスケバンと読ませたのもこのシリーズが初めてのことだった。しかし池玲子や杉本美樹はセーラー服を着ていても、女子高生には絶対見えなかった。大奥物は敬遠していたが、このシリーズは多分、梅宮辰夫と山城新伍の『不良番長』シリーズと一緒に上映されていたから見ていた。多岐川裕美がヌードでデビューしたのも東映ポルノ『聖獣学園』で、こんな清楚な美人がポルノに出演するのかと驚いた。姫やスナフキンとは映画に関する教養が違い過ぎて、私には品がない。

     集まったのはあんみつ姫、ハイジ、マリー、若旦那夫妻(若女将は随分久し振りだ)、オクちゃん夫妻、ロダン、桃太郎、マリオ、スナフキン、ファーブル、ダンディ、ヤマチャン、蜻蛉。十五人は最近には珍しく多い。「若女将は足が悪いって聞いてたけど。」「大丈夫よ。」「引っ張り出してきたんですよ。」
     「半袖だね。」半袖は私とハイジだけだ。「若いからね。」「そうよ。」ロダンはめでたく定年退職を迎えた。「好きな落語にいつでも行けるのが良いですよ。ハッハッハ。」十時ちょっと過ぎまで待って出発する。
     「アレッ!」北口に出て信号待ちをしていると、ひっそりと千意さんが現れた。「どうしたの?」「ちょっと遅れたの。」「良く分かったね。」これで十六人になった。「大泉学園って、大学があるのかな?」「ないよ。」「ないわよね。」「西武が学園都市として開発したんじゃないかな。」念のためにウィキペディアを覗いてみる。 

     大泉学園町は、関東大震災以降の郊外住宅地への旺盛な需要に応えて、箱根土地会社が開発した学園都市の一つであり、一九二四年(大正十三年)から開発が始められた。これは、大学等の高等教育機関を誘致し街づくりの核とし、学園都市として開発する計画であった。
     核となる高等教育機関の誘致は失敗したものの一帯は引き続き高級分譲住宅地として開発され、その名残が大泉学園町という町名と碁盤の目に整理された区画に現れている。

     「一橋学園もそうだろう?」そこも小平学園として開発された町である。大泉学園町は百六十八万平方メートル、小平学園町は百七十万平方メートルを開発した。国立もそうだ。「昭和初期の新興住宅地の雰囲気だよね。」駅から伸びる道の感じがそうだ。田園調布や、東上線で言えばときわ台などにも雰囲気が似ている。
     「ちょっと梅干し屋さんに寄ります。紀州梅の専門なんです。」工場は和歌山県田辺で、その東京直営店の「梅の大谷」である。練馬区東大泉四丁目二十六番十八号。「南高梅は高いんだよね。」覗いてみると種類が豊富だ。塩分も二十パーセントから五パーセントまでいくつもある。パンフレットによれば十四種類だ。梅酒もある。梅干し三百グラムで千二百円程が平均的だろうか。
     一番安いのは三百円のつぶれ梅だ。容器を持って金を払おうとすると、「これはハチミツ入りですがよろしいですか?」と言われた。「それじゃダメだ。」「こちらが減塩になっています。」それを貰う。「蜻蛉がお土産を買うのは珍しいな。」梅干しは自分のためである。結構梅干し好きの人が多かった。店にとってはちょっとした特需であろうか。ファーブルはリュックを背負っていないので、買ったものは一時私のリュックに収めた。彼のショルダーバッグには高そうなカメラが収納されていて、それで一杯なのだ。「牧野富太郎の庭で花を撮らなくちゃいけないから。」
     「クロアゲハ?カラスアゲハでしょうか?」「クロですね。」私は同じものかと思っていた。自転車が頻りに歩道を走ってくるから危ない。当時は車がこんなに多くなると予想できなかったから、道幅は広くない。それにバスも多いから仕方がないか。それにしてもこの時期にアゲハは早過ぎないか。揚羽蝶、黒揚羽は夏の季語である。

     自転車を避ける歩道や黒揚羽  蜻蛉

     「ツツジが随分赤いね。」花は小さく濃いオレンジに近い。「たぶんキリシマツツジだと思うよ。」「九州の花です。」
     最初は北野神社だ。練馬区東大泉四丁目二十五番四号。長い参道に一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居と続いている。
     江戸時代初期に三十番神を祀って、土支田村の番神様と呼ばれていたと言う。三十番神信仰は一ヶ月三十日、三十柱の神々が毎日交代で社稷を守護するというものだ。最澄(伝教大師)が比叡山に祀ったのが最初で、後に法華宗が布教のために取り入れた。一日づつ全国の神を配するのだが、日蓮は伝教大師の選んだ神は間違っていると、改めて選び直したと言う。
     例えば、一日は熱田大明神、二日は諏訪大明神、三日は広田大明神、四日は気比大明神などである。神仏習合の信仰だから明治の神仏分離で禁止され、その代わりに北野天神を勧請したのだ。 神仏分離、神社合祀は日本の文化を滅ぼしたが、現在でも日本人の大多数は神仏混淆の世界で生きている。
     姫は本殿の裏に入って行く。「こんなところ行けるのか?」実は隣の大泉小学校との境が段丘崖になっているのを確認するためだった。「河岸段丘の突端なんです。」「なになに?それはちゃんと聞いておかなければ。」これはロダンの専門である。武蔵野台地東端になるだろう。小学校の校庭は随分低くなっている。
     そして白子川に出た。「白子川って?」「和光や成増の辺りを通ってるよ。」地図を確認すると、大泉井頭公園から北に流れ、ゆるやかにカーブして神社や小学校のすぐ北を流れている。そして和光市、成増を通って笹目橋付近で新河岸川に合流する。
     「白子は新羅なんだよ。」「ヘーッ。」「新座、志木、白子は全て新羅に由来するんだよ。」旧川越街道に白子宿(和光市白子)があり、おそらく渡来人による最初の開拓地であったと推測されている。『靴が鳴る』、『みどりのそよ風』などで知られる童謡作家の清水かつらがそこに住んでいた。
     水は澄んでいるがコンクリート護岸が施されている。「きれいだから清潔とは限りません。」「カモはいるかな?」いないんじゃないか。我が家の近所の池にはカモとコサギがいて、こころは「鳥さんの公園」と呼ぶ。

    ・・・・護岸整備に当っては、川底に土を残して自然な河床とし、生物の生息・育成環境に配慮するとともに、河川沿いの用地を幅広く確保できた区間では、地域の方々の意見を踏まえながら、人や生物にもやさしい緩傾斜護岸を整備し、良好な河川環境の創出に努めています。(東京都建設局「白子川」)
    http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/jimusho/yonken/koji2/shirako.html

     住宅地に入ると道はすぐに曲がって見通しが悪い。「この辺りが将校用の住宅地でした。」東大泉三丁目、大泉住宅共栄会。昭和十六年(一九四一)六月、陸軍予科士官学校が市ヶ谷から朝霞に移転した。東京ゴルフ倶楽部朝霞コースを接収した土地で、現在は自衛隊朝霞駐屯地になっている。これに伴ってこの辺りが将校用の住宅地として開発された。今ではお屋敷町になっている。
     士官学校は本科・予科共に市ヶ谷にあったが、本科は昭和十二年(一九三七)に座間に移転していた。そして市谷台には三宅坂から陸軍省・参謀本部・教育総監部・陸軍航空総監部が移転し帝国陸軍の中枢となるのである。
     「将校って言ったって、ピンからキリまであるからね。」「一番下は少尉だから。」住んでいたのは予科士官学校の教官であろうか。予科は二年間、三月の卒業時に上等兵となって原隊に所属し、半年の隊付を経て伍長から軍曹に昇格して十月に本科士官学校に進む。
     暑くなってきた。姫は各家の表札に注意を促す。「大泉名水会」のプレートが貼られているのだ。「井戸だろうね。」「河岸段丘だから湧水が多いんだよ。」「和光の辺りで湧水を見ましたよね。」旧川越街道の熊野神社の段丘崖だった。
     大泉名水会は、大泉三丁目の住民五百十八所帯(平成二十五年現在)に、地下百二十五メートルと、二百三十二メートルの深井戸で組み上げた水を供給する水道事業団体だった。会員が維持分担金を出す仕組みだ。

     大泉名水会の歴史は古く、昭和一六年、市ヶ谷にあった陸軍予科士官学校が朝霞に移転したとき、その職員のための住宅がこの地区に建設され、そこに水を供給するために作られたものです。現在この地区は将校住宅と呼ばれている。この水道施設は陸軍予科士官学校住宅協会という組織によって管理されていたが、戦後は大泉住宅共栄会・大泉共栄会水道部会による運営を経て、現在は大泉名水会が水道事業を運営しております。東京都の水道が敷設されたのが昭和四十八年、それよりも三十年余長い歴史を有しているのです。(大泉名水会http://www.oizumi-meisui.org/gaiyo.html)

     今の時代、五百世帯に井戸水を供給しているのは稀有なことだろう。勿論定期的に水質検査を行って基準をクリアしている。名水会では、世界一おいしい水に匹敵すると自慢して、その根拠を数値化している。なんでも1に近いほど旨いと言う。世界一はカナダ・ケベックが0.999で、大泉はそれに次ぐ0.997、鎌倉の水道が0.992、秦野の湧水(弘法の水)が0.991などと続き、東京の水道は0.969となっている。

     地質学者故橋本瓦先生(名水会)のお話によれば名水会の水のふるさとは次の通りです。
     秩父や奥多摩の山岳地帯に降った雨水は、地下深く浸透しながら新・旧多摩川水系と合流し、長い時間をかけて福生や村山あたりの地下深くに流れつきます。さらにその水はJR中央線の北側に広く分布している厚い礫層からなる帯水層に達し、そこを潤します。
     その上には厚い関東ローム層が堆積しているので、東京西部の平地に降った雨水はそこを通すことはできません。そのため礫層には、ろ過されながら長い時間をかけて流れついた水のみが蓄えられていることになります。大泉名水会の水は、地下二百三十二メートルの水量豊富な礫層から採取しております。
     名水会の水のふるさとは、秩父・奥多摩山塊ということなのです。(大泉名水会)

     道の角に荒れ果てた神社が建っている。朱の剥げた木造両部鳥居と小さな古びた堂があるだけで、名前を示すものがどこにもない。東大泉三丁目六十四番の辺りで、地図を見ても分らない。「住人が代わって氏子もいなくなったんでしょう。」
     元の道を戻って北豊島橋を渡って、学園通り(駅前からまっすぐ北に伸びた自動車道)に入る。「桜並木だね。」並木は三キロ続いているらしい。勿論今の季節だから桜は終わっている。バスがひっきりなしに通る。「ツツジが満開だね。」
     「ドッグカフェだってさ。」「犬がコーヒーを飲むのか?」犬を連れて入れるカフェということだろう。犬を抱いた有閑マダム(古い言葉!)たちが優雅にコーヒーを飲むのだ。犬はケモノ(毛物)であることの誇りを奪われ、必ず服を着せられているだろう。犬に服を着せる人間は嫌いだ。
     そんなことを考えていると、おかしなことを思い出してしまう。学生時代にアルバイトをしていた喫茶店には、山本麟一(東映の悪役俳優)の夫人が毎日プードルを抱いてやって来ていた。あの頃はまだ犬に服を着せる習慣はなかったのではないか。物静かなマダムだった。一度そのご主人と一緒に来店した時には驚いた。あの獰悪凶暴な巨漢がにこやかに笑っているのである。やくざ映画を知らない人はこんな名前も知らないだろうね。
     夫人といつも一緒の席に座るのは歌舞伎町のキャバレー「クインビー」の売れっ子、早苗さんだった。昼頃にいつも眠そうな顔をして頭にカーラーを巻いて来た。その犬がプードルだと言うのは彼女に教えて貰ったのだ。マスターが不在の時に、夫人からココアを注文されて動揺した。私はそんなものを作ったことがなかったから「不味い」と言われた。早苗さんにサンドイッチの注文をされた時にも、一所懸命作ったのに「不細工ね」と嘆かれた。ある時、新宿駅で黛ジュンに声を掛けられたと思った。早苗さんだった。大学四年の冬になっても就職がなかなか決まらずにいた時(そもそも私は就職活動を全くしていなかった)、「ずっと、このお店にいればいいじゃないの」とも言われた。

     道路を渡ると沖縄料理「島人」があり、店の前には不思議な木像が置かれている。知識が全くないのだが、太い擂り粉木のような形で、太い部分に人間の顔が彫られたものだ。頬にはワニが這っている。こんなものは見たことがないが、なんとなく東南アジアかアフリカのもののような気がする。
     そしてガスト大泉北園店に入る。十一時だ。「まだこんな時間なのに。」「十六人だから、この時間じゃないと入れないんですよ。」「皆さん、今朝は早起きしたでしょう?」姫は無理やり納得させる。元々ガストは低価格のファミリーレストランとしてスカイラークから分離した筈だが、土日はランチメニューがなく、ライスが別料金になっているから余り安くはない。
     十六人が三つの席に分れて座る。私の席ではロダン、ヤマチャン、ファーブルがスパゲッティにした。安いのは分っているが、つい先日五年振りに食べたばかりだから、暫くスパゲッティは食わなくてもよい。「ガストは初めて入ったね」と言う若旦那と若女将はミックスフライを選び、ご飯は二人で一皿にした。ヒレカツ、エビフライ、白身魚フライである。米寿の夫婦がミックスフライを選ぶのは珍しい。私は若鶏の竜田揚げ・おろしポン酢にライスとスープのセットをつけた。
     ビールはスーパードライだからファーブルは飲まない。「ちっとも羨ましくないよ。」奥の席にジョッキ二つとグラスビールが運ばれていくから、スナフキン、桃太郎、姫が注文したのだろう。誰かがステーキを注文したようだ。
     スパゲッティの三人は足りなくはなかったろうか。私は結構腹が膨れた。若旦那夫妻も残さず食べた。健啖である。「個別のお支払いはできませんので、テーブルでまとめてください。」メニューに表示されているのは税抜き価格だから、これが実に面倒なのだ。
     伝票には料理ごとに税込み価格が表示されていたので、なんとかテーブルでまとめた。ロダンが言う「明朗会計」にしたかったが、百五十円ほど余ってしまった。他の五人はちゃんと払ったと言うので、私が多すぎたか。「じゃ、残りは俺が貰っちゃうよ。」会計を済ませて店を出たのは十二時ちょっと前だ。

     道を戻って前田橋で白子川に出る。「もう真夏だね。」「それでも湿気がないから助かるよ。」「半袖が正解だった。」「日焼けに気をつけなくちゃいけないんだ。」もうシミやそばかすを気にする年でもない。
     十分程で小泉牧場に着いた。練馬区大泉学園町二丁目七番十六号。「こんな所にあるんだ?」ファーブルは北海道の牧場を知っているから、その落差に驚いているだろう。ここは二十三区内唯一の酪農牧場である。「大泉で小泉っていうのも面白いな。」道路の向かい側がアイスクリームの販売所になっているらしい。
     私たちの姿を見てオジサンが出てきて、「案内しますよ」と言ってくれた。「案内するほど広くないけどね。」小泉與七さん七十五歳である。「アイスクリームを。」姫はアイスクリームが目的だった。「後で私が対応します。」
     「ここは昭和十年に親父が始めたんです。親父は日大の獣医学部を出た獣医だったけどこの土地を買った。私は二代目。私はバカだから跡を継いだんです。知恵があったらマンションでも建てていましたよ。」成牛が四十頭、子牛が二十頭。「何人でやってるんですか?」「私と息子、それに実習生が二人。」「それは大変でしょう。」しかしファーブルに言わせると、この規模なら夫婦二人でできるらしい。
     三頭の牛が寝ているのは出産が近いからである。「当たり前だけど、ミルクが出るのは子供を産むからです。」そうだったか。乳牛は黙っていても年がら年中乳を出すのかと思っていたのは、無学であった。乳は子育てのために出る。当たり前の話だ。そのため計画的な人工授精と出産が繰り返されるのだ。

     春愁や練馬に眠る孕み牛  蜻蛉

     「餌はどうしてるんですか?」「USとカナダから入れてます。」北海道産は高価なこと、またロットが大きすぎてこの規模の牧場だと扱えないのだと言う。
     「あまり臭いがしませんね。」全くしないわけではないが、思った程ではない。民家との間に駐車場を作っているのもその対策のひとつらしい。「昔は、お前のうちは臭いって言われた。悔しくってね。親父の商売をバカにされたって思ったんですよ。」

     しかし、牧場経営を公害あつかいされて悩んでいたちょうどそのころ、学校関係者や地域の人々から牧場の見学や体験学習をしたいという話が来たそうです。そして、小泉さんは地元の大泉小学校の子供たちと交流を持つようになって、地域のひとたちと交流し、ふれあうことで畜産に対する理解が生まれ、この地域で生産を続けることができると思えてきたそうです。それに気付いた小泉さんは、牧場を見学できる場として整え、安全対策や衛生管理などについてもこれまで以上の取り組みを行い、多くの人たちが畜産とふれあえる場に小泉牧場を変えていきました。
    http://www.agriworld.or.jp/agriworld1/tikusan/bokuzyo/gaiyo.html

     今では、赤ん坊にこの臭いを嗅がせると花粉症の予防になると、子供を連れてくる親が多いそうだ。そんな話は初めて聞いた。科学的に証明されているのかどうかは分らないが、一歳までの間に、牛の糞に含まれるエンドトキシンを吸収すると、アレルギー体質になりにくくなる。ヨーロッパの牧場やモンゴルで動物に触れる機会が多い子供は花粉症になりにくい。十年前にNHKスペシャル「病の起源」(第六集アレルギー二億年目の免疫異変~」が放送したらしい。
     「それじゃ充分に空気を吸っておこう。」マリオがマスクを外そうとする。「もう遅いよ。」生まれてから一歳までの間が重要なのだ。今日はマリオと千意さんと姫がマスクをしている。ハイジは漸くマスクがとれたと言っているが、姫の方はイネ科の花粉が始まったらしい。
     「世の中が清潔になりすぎちゃったから免疫力も低下したんだよね。」過度の清潔症、過度の健康思想は体に良くない。そして社会的にも排除の論理に結び付きやすい。嫌煙権の主張を批判する積りはないが、私は何の根拠もなく、実はタバコによって免疫力が付いているのではないかと思っている。
     子牛が生まれて十数ヶ月経つと北海道の大牧場に預ける。「視察に行きました。大牧場だと機械的に後ろから搾乳するから、効率をあげるために断尾するんです。」「今でも断尾してる牧場がある?」

     牛体の汚れの原因のひとつに糞尿で汚れた通路や尿溝に落としたしっぽからの汚れの付着があげられます。牛体、特に乳房が汚れていると搾乳時の乳頭の清拭作業に時間がかかったり乳房炎の原因にもなります。しっぽからの汚れを少なくするためには断尾が効果的です。(根室農業改良普及センター北根室支所「Q3 断尾は実施したほうがよいの?」)

     断尾が必要だというのはこういう理屈である。しかし別の意見があり、ファーブルによればこれは大変なことである。「尾をゴムで縛って腐らせるんだよ。酷いよ。」

     しかし、飼育者にどのようなメリットがあったとしても、尾の切断は乳牛に苦痛と苦悩を与える行為です。
     尾を切断された牛の行動は慢性的な疼痛を感じていることを示しており、切断された尾の神経腫形成や術後感染のリスクも伴います。また「ハエを追い払う」というあたり前の行動ができなくなることに苦悩します。(中略)
     乳牛の尾の切断は、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、スイス、イギリスを含むいくつかの国で禁止されています。アメリカでは、カリフォルニア州、オハイオ州、ロードアイランド州で禁止が決定しています。カナダでも医学的に必要でない場合は行ってはならないとされています。
     オーストラリアのいくつかの州では、獣医師による処置以外は認められていません。
     しかし、残念ながら日本にはこのような規制がありません。(アニマルライツセンター)
    http://www.hopeforanimals.org/dairy-cow/466/

     牛にだって「人権」はあるぞと言うことだ。ファーブルは二十年も前に警鐘を鳴らしていることが、いまだに継続されていることに驚いているのだ。「根室管内数カ所のNOSAIの若手獣医さんには、数年前にも講習したことがあるのですが、影響がおよばなかったのですね。残念です。」要するに断尾は牛に対する虐待である。

     今飼養者にとって大切なことは、ウシもわれわれ人間と同じ動物だという認識をもつことではないでしょうか。われわれは、健康であれば少々のことがあっても病気になりにくい。健康を維持するためには、より良い環境を整備することも必要です。ウシの立場に立って、優しい愛情をもって、環境を整え、飼養に当たることによって、ウシは健康になり、生産性の向上につながるのではないかと考えます。(佐々木均「断尾が必要かどうか考えてみよう」『酪農ジャーナル』一九九八年三月)

     受精のために北海道に託した牛は十数ヶ月で妊娠すると戻ってきて、この牧場で産むのだそうだ。「難産だと、この外に出して産ませる。」「お産は獣医さんに頼むんですか?」「この辺の獣医はペットばっかりだから出来ない。資格なんかなくても度胸があればいいんです。難産だと近所の人に声を掛けて来て貰います。」
     獣医の数は全体としては充足しているのだが、産業動物を扱う医師が極端に不足しているのである。加計学園が獣医学部を作っても、おそらく殆どはペットの獣医になり、その分野では供給過剰に陥るのが目に見えている。「二十四時間体制だからね。」問題は充分な処遇である。獣医師の平均年収は五六百万円程度でしかないらしい。「年収五千万を保証するとか。」「そんなに要らないよ」とファーブルが笑う。しかし公益を維持し、人材を確保するためにはそのくらいは必要ではないか。例えば森林の育成維持、介護職への手当等も含めて、国として維持しなければならない仕事はいくらでもある。
     「牧場をやっていると三百六十五日休めない。これを見てください。」両手を開くと指が極端に曲がっている。「骨折しても医者にかかる訳にいかないんですよ。ギブスなんかされたら乳が絞れないから。」骨折した指がそのまま固まってしまったのだ。
     ファーブルは乳脂率がどうとか、北海道の牧場がどうとか、何やら専門的な質問をし、「詳しいですね」と不審がられる。後でこっそり、「酪農学園大学で教えてたなんて知られたら面倒だからね」と笑った。
     説明が一段落したところで、私以外はアイスクリームを買った。かなり固そうだ。「今日は暑いから美味しいね。」私は水筒のお茶を飲む。正確にはアイスミルクだから、アイスクリームよりコクはないらしい。日本アイスクリーム協会の定義では、乳固形分十五・〇%以上でうち乳脂肪分八・〇%以上がアイスクリーム、乳固形分十・〇%以上でうち乳脂肪分三・〇%以上がアイスミルクである。カップの蓋を見ると製造工場は日野にあった。「少し食べる?」とファーブルが訊いてくる。「要らない。」
     「私たちの仲間が出しているのが東京牛乳。見たことありますか?」「白いパッケージですよね。」ロダンは知っていると言うが私は見たことがない。東京都酪農業協同組合と多摩地区の酪農家及び協同乳業で共同開発した産地指定牛乳である。製造工場は西多摩郡日の出町。無添加無調整乳で一日の生産量は六千リットル。「東京牛乳ラスクも商標登録してるから、黙ってても金が入って来るんですよ。」
     「毎日牛乳を飲んでるんでしょう?それで元気なんですね。」「元気。そう、牛乳と酒は毎日欠かさない。」私は牛乳は殆ど飲まないが、酒は欠かさない。

     いろいろと有益な話を聞いた。「これからどこへ?」「四面塔稲荷です。あっ、その前に諏訪神社に行きます。」「それじゃすぐそこだ。道を渡って行きなさい。」礼を言って歩き出すとすぐに、大泉村役場跡に着いた。練馬区大泉学園町二丁目二番。

     旧大泉村役場跡は、練馬区大泉学園町にある史跡です。旧大泉村役場跡は、練馬区に編入される前にあった大泉村の役場があった場所です。大泉村は、新座郡小榑村(現、大泉学園町・西大泉・南大泉)と橋戸村(現、大泉町)が合併した榑橋村と北豊島郡石神井村大字土支田(現、東大泉)と新倉村長久保が合併して明治二十四年に成立、大正十一年当地に村役場が建設、大泉村が板橋区に編入された後も公共施設として利用されたいたものの、老朽化により昭和五十四年取り壊されたといいます。

     「ここが新座?」「違いますよ、解説をよく読んで下さい。かつては新座郡小榑村だったと言うのです。この辺は東京都と埼玉県の境で、いろいろ変遷したんですよ。」
     「新座郡って、この辺は足立郡とは違うんですかね。」ロダンの疑問に正しく答えられない。新座郡は和光市、朝霞市、新座市の全域に志木市と戸田市の一部、それに都内では練馬区東大泉、西東京市の保谷の大部分を含んでいた。元々は新羅郡、それが新座(にいくら)郡に改称したものだ。
     足立郡はほぼその北東地域だと思ってよい。足立区の全域、北区浮間、板橋区舟渡の一部、川口市、蕨市、上尾市(全域)、桶川市(全域)、北本市(全域)、北足立郡伊奈町、戸田市(大字重瀬を除く)、草加市(綾瀬川以西)、さいたま市(岩槻区を除く)、鴻巣市(大字荊原を除く元荒川以南)である。
     そして諏訪神社に入る。練馬区西大泉三丁目十三番。車道から少し入っただけで、木の生い茂る静かな空間になった。「涼しくて気持ちがいい。」「やっぱり神社には木がないとね。」「ビールの後にアイスを食べたから口の中がおかしい。」スナフキンは水筒を取り出した。
     切妻平入で、正面の唐破風の上に千木が取り付けられているのが珍しいと、オクちゃんが首を捻っている。裏手に回って本殿を見ていたロダンが、千木の外削ぎと内削ぎについて疑問を感じる。「縦は男、水平は女の神様じゃないんですか?」「私もそう思う」とマリオも答える。拝殿の千木は内削ぎ(水平に切られている)なのに、本殿の千木が外削ぎ(縦)になっているのだ。「あれは出雲大社がそうだと言うだけで、例外は一杯あるよ。」「エーッ、そうなんだ。」私が言うだけでは信頼性に欠けるので、ウィキペディアを引いておこう。

     神社建築の例としては、出雲大社を始めとした出雲諸社は、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしており、他の神社でもこれに倣うことが多い。また鰹木の数は、奇数は陽数・偶数は陰数とされ、それぞれ男神・女神の社に見られる。
     一方、伊勢神宮の場合、内宮の祭神天照坐皇大御神・外宮の祭神豊受大御神とともに主祭神が女神であるにもかかわらず、内宮では千木・鰹木が内削ぎ十本、外宮は外削ぎ九本である。同様に、別宮では、例えば内宮別宮の月讀宮・外宮別宮の月夜見宮は主祭神はともに同じ祭神である月讀尊(外宮別宮は「月夜見尊」と表記している)と男神であるが、祭神の男女を問わず内宮別宮は内削ぎで偶数の鰹木、外宮別宮は外削ぎで奇数の鰹木であり、摂社・末社・所管社も同様である。(「千木・鰹木」より)

     この神社も最初の北野神社と同じく、元は三十番神を祀る小榑(こぐれ)村の総鎮守だった。明治になってタケミナカタを勧請して諏訪神社としたのである。「諏訪大社って、一つじゃないんですね、上社とか下社とか春宮とか。」桃太郎は諏訪大社に行ったことがあるのだ。私はまだ行ったことがない。
     諏訪大社の祭神は勿論タケミナカタであるが、タケミカヅチに追われたタケミナカタがやって来る前は、ミシャグジ信仰の中心であったと言う説がある。ミシャグジの本体は良く分からないが、石神、塞ノ神などにも比定される。石神をシャグジと言うのは、この近くの石神井の地名によっても分るだろう。またシャモジ(シャクシ)を供える神社もそれに関連する筈だ。
     次は堤稲荷神社だ。練馬区西大泉五丁目一番。四面塔稲荷とも呼ばれ、交差点の標識が四面塔稲荷前になっている。この辺に四面の題目塔があったことによるらしいが、いまそれはない。題目とは南無妙法蓮華経の七字、あるいは妙法蓮華経の五字である。この辺は三十番神をはじめとして法華信仰が盛んだったようだ。
     石灯籠の台石には箒(熊手か?)を持った老人の姿が彫られている。何かの由来があるのだろうが知識がない。周辺の稲荷が明治の神社合祀で諏訪神社に吸収された際、堤村だけがそれを拒否して稲荷を残したと言われる。
     十五分程で新井山大乗院に着く。練馬区西大泉五丁目十七番五号。寺号は円福寺。日蓮宗である。門前に馬頭観音があった。「庚申塔はありませんね。」植え込みに囲まれた参道の奥に山門が建っている。宝暦二年(一七五二)に再建されたものだ。
     寺は永徳二年(一三八二)に没した日讃上人により創建されたと伝えられる。題経寺(柴又帝釈天)の分身とする帝釈天像が祀られ、鬼子母神も信仰されている。関宿藩久世大和守の祈願所ともなっていたのはどういう縁か分らない。本堂はコンクリートで再建されたものだ。鯉のぼりが浮かんでいる。

     「ちょっと寄って来る。」セブンイレブンで煙草を買って戻ると、みんなが待っている。結局ここでトイレ休憩になった「ここから三十分ほど歩きます。ちゃんと水分を補給してください。」。二時を回ったところだ。
     住所表示は下保谷三丁目だ。「保谷とか田無が西東京市なんてことになったんだね。」去年まで北海道にいたファーブルは驚くが、私だって初めて知った時には驚いたのだ。目の前を通る二五号線には大泉交通公園まで百九十メートルの標識が立っていて、これを百九十キロと読んだ人がいる。「北海道だってそんな標識はないよ。せいぜい二十キロとか。」
     桃太郎はワンダのTEACOFFEEなんて不思議なものを買ってきた。「それってなんだ?」「最近テレビで宣伝してるわよ」とマリーが言う。そのホームページに動画が載っていた。ビートたけし、神木隆之介、川栄李奈が登場する。ペットボトルの説明書きを読むと、カフェラテとほうじ茶をブレンドしたものらしい。「旨いのかい?」「あんまり。」
     実は私はカフェラテと言うものを飲んだことがない。カフェ・オレとは違うものだろうか。調べてみるといろいろ能書きを垂れる記事はあるが、要するに珈琲とミルクを混ぜたものである。それにほうじ茶か?私は頑迷固陋な保守主義者だから、コーヒーはコーヒーとして、ほうじ茶はほうじ茶として飲みたい。
     ロダンが買ってきたお茶のペットボトルがやたら大きい。「何ミリ?」「エーっと、六百三十ミリですね。」「なんだか中途半端なサイズだな。」
     姫は所々で立ち止まって、練馬の原風景を伝えようとする。住宅地の間に何か所か、生産緑地として残されている畑があるのだが、かつて練馬大根の本場だった面影はない。それに現在の練馬の主な生産物はキャベツである。練馬大根は確か三浦半島の方で僅かに生き延びているんじゃなかったか。記憶が曖昧だから、ウィキペディア「練馬大根」を確認しよう。

     昭和三〇年代、練馬区の都市化、及び収穫時の重労働のため、農家はキャベツ等に生産の主体を変更し始める。
     現在、練馬区ではほとんど生産されていない。十軒程の契約農家によって小規模な生産は続けられている。現在の主な生産地は、神奈川県、群馬県、千葉県などの関東地方であるが、青首大根に押されている。
     二〇一〇年代後半から、練馬大根の価値が評価され本家である練馬においても生産量が増加している。
     現在生産量が少ない理由として、収穫時の重労働がある。練馬大根の特徴が、首と下部は細く、中央が太いということがあり、収穫で練馬大根を引き抜く際、非常に力が必要である。ある調査によれば、練馬大根を引き抜くには、青首大根の数倍の力が必要であるという。その為、高齢の農家への負担が大きいという。
     神奈川県特産の三浦大根は、三浦半島の地元の大根と練馬大根の交雑種である。

     「生産緑地」の看板はあっても何も栽培していないところもある。「五十年だろう?」「三十年です。」生産緑地とは、市街化区域内の土地にあって、生産緑地地区制度の要件を満たしたうえで、管轄自治体より指定された区域のことである。固定資産税が一般農地並みになり、相続税の納税猶予の特典など優遇措置があるが、三十年間は農業生産を続けなければならない。何もなくただ芝生だけの空き地もある。「芝を売るんだよ。」
     白子川の井頭橋に出た。ここから白子川に沿って大泉井頭公園となっているのだ。「あそこで休憩しようよ。トイレもあるし。」この辺りが白子川の上流起点である。あちこちから水が涌いて出ているのだ。但しここから上流にも田無、保谷の辺りまで川は続いており(暗渠)、西東京市では新川と呼んでいる。
     大木が二本立っている。「井頭のヤナギ」である。「これがヤナギ?」枝垂れていないし、とにかく幹も、そこから伸びる枝も太い。マルバヤナギというものであった。葉は楕円形で鋸歯のある丸い托葉が付属しているらしい。ヤナギと書かれていなければ気付かなかった。知っていたのはオクちゃんと姫だけではないか。一本は子供が木登りしやすいように、横に曲がった幹から太い枝が何本も上に伸びている。

     上流側にあるマルバヤナギは、高さが約八・八メートル、幹の太さが約一・五メートルあります。下流側にあるマルバヤナギは、高さが約六・二メートル、幹の太さが約一・七メートルあります。(練馬区)

     「柳腰って子供の頃は分らなかったよ。」ヤマチャンが笑いながら大きな声を出す。私が子供の頃から色っぽい女性の形容だと知っていたのは、時代小説のお蔭である。しかしこんなに太いヤナギでは、そういう形容もできなくなってしまう。
     煎餅その他が配られる。「甘いものはダメなんでしたね」とオクちゃん夫人に恐縮そうな顔をさせては却って申し訳ない。桃太郎は今日もナツメヤシを持ってきた。「これで最後?」「まだあるんですよ。」若旦那夫妻は初めてだから珍しそうに食べている。
     二十分程休憩して川沿いに歩く。川は二面護岸。アヤメのような黄色い花が咲いている。「キショウブですね。明治の頃に入ってきた外来種です」とオクちゃんが断定する。白い花は「カ、カなんとか?」ミズバショウに少し似ている。「カラーですね。」オクちゃん夫人が答えてくれ、「カイウ(海芋)とも言いますね」と姫も言うので思い出した。サトイモ科。白い花のような部分は葉が変形したもので仏炎苞と呼ぶ。

     昔は、白子川の上流を保谷市から田無市までさかのぼることができました。かなり蛇行した川で、川沿いには井頭池をはじめ、多くの湧水池が見られました。昭和三十一年の耕地整理に伴い、川筋が直線化され、水害が社会問題とされた昭和四十三年以降、コンクリート護岸に改修がされました。流域の下水道が普及するにつれ、徐々に清い流れがよみがえりつつあります。井頭公園内では、川底から豊富な湧き水が出たため、魚巣をつくり、ショウブやカキツバタを植えました。今では、錦鯉やカルガモの姿を見ることができます。(練馬区)

     「あれはカワヂシャでしょうか?」姫がオクちゃんに訊いているが、何しろ小さい花だから私には見えない。漢字で書くと川萵苣。ゴマノハグサ科である。
     ビワに小さな実が生っている。白い花はシャリンバイ。「バイは梅に似てるからですが、梅ではありません。」バラ科シャリンバイ属。
     住宅地に入る。「車、車。」ヤマチャンの大声にみんなが驚く。狭い道を頻繁に車が通る。西武線を越えて少し行けば練馬区立牧野記念庭園だ。練馬区東大泉六丁目三十四番四号。三時を過ぎた頃だ。「今日のメインテーマだね。」入館は無料だ。「どうやって維持してるんだろうね。」練馬区の公費で運営しているのだ。このことだけで練馬区はエライ。

     牧野記念庭園は、世界的に著名な植物学者である牧野富太郎博士(一八六二年~一九五七年)が、大正十五年(一九二六年)から昭和三十二年(一九五七年)に死去するまでの約三十年間住んだ居宅と庭の跡です。昭和三十三年(一九五八年)に区立庭園となりました。
     園内には牧野博士が発見し、妻の名をとって命名したスエコザサをはじめ、日本で最大級のセンダイヤ(サクラ)、ヘラノキ、ダイオウマツなど三百種類以上の植物が成育しています。記念館では博士が採集した植物標本や、著書、顕微鏡などを展示しています。また博士の書斎が覆屋内おおいやないに保存、公開されています。

     入口に掲示されている花の見ごろは、百合の木、鈴蘭、浦島草、武蔵鐙、クリスマスローズ、大紫(躑躅)、餅躑躅、朴の木、鳴子百合、二人静。しかしこの表記にはちょっと疑問がある。牧野は、中国に産しない植物を漢字で書く理由はなく、カナで表記すべきだと言っていたのではなかったかしら。たとえばこんな具合だ。不思議なことに牧野の著書が一冊だけ手元にあった。

     元来百合とは中国の名であるから、これを昔からのように日本のユリに適用することはできないはずである。・・・・・
     百合と称するものはユリ属すなわちLilium属一種の特名であって汎称ではない。この種は中国の山野に生じていて・・・・・その生根は一度も日本へ来なく、私らはまだこれの実物を見たことがない。・・・・・
     従来日本の学者達は百合を邦産のササユリにあてているが、それは無論誤りであって、ササユリはけっして百合そのものではなく、元来このササユリは中国には産しないから当然中国の名のあるはずはないではないか。(牧野富太郎『植物一日一題』「百合とユリ」)

     最初は記念館に入って生涯を辿る。牧野は文久二年(一八六二)土佐国高岡郡佐川村の豪商の家に生まれ、昭和三十二年(一九五七)に死んだ。「江戸時代の人だったんですね。もっと新しい人かと思っていました。」
     明治維新が六歳の時で、九歳で寺子屋に入った。その後藩校の名教館に入り、学制発布に伴ってできた小学校には十二歳で入学したが一年で退学した。その後は一人で植物の収集に熱中したのである。
     従って正式な学歴は小学校中退しかなく、このことが、帝国大学の矢田部良、松村任三から徹底な嫌がらせを受けた理由のひとつである。明治十七年(一八八四)、植物学教室の助手になったが、東京帝国大学講師となったのは大正元年(一九一二)五十一歳の時である。そして昭和二年(一九二七)理学博士の号を受け、昭和十四年(一九三九)まで講師の職にあった。助教授にすらなれなかったのである。生涯に発見、命名した植物は千五百種以上、収集した標本は約四十万点に上る。
     同じような経歴では、牧野より八歳下の鳥居龍蔵も高等小学校中退で人類学に志した。坪井正五郎の人類学教室への出入りが認められ各地の調査を行った。東京帝国大学理科大学講師になったのは明治三十八年(一九〇五)、大正十年(一九二一)文学博士号を受け、十一年(一九二二)助教授、坪井の後の人類学教室主任になる。
     企画展示室では「世界へ向けて日本の固有植物」として、植物の絵が展示されている。「全部牧野が描いたのか?」「違うよ。」それぞれの絵には別の画家の名前がついている。おそらくこの庭園の中の植物を描いたものだろう。
     書室展示室に入ってみる。「お笑い芸人みたいだね。」若い頃の牧野富太郎が口を大きくあけて笑っている等身大の写真がおいてあって、一緒に記念撮影しろと書いてある。「学問は底の知れざる技芸也」の額がある。「庭に行こうか。」

     人間は生きているから食物を摂らねばならぬ、人間は裸だから衣物を着けねばならぬ。人間は風雨を防ぎ寒暑を凌がねばならぬから家を建てねばならぬので其処で始めて人間と植物との間に交渉があらねばならぬ必要が生じて来る。
       右の様に植物と人生とは実に離す事の出来ぬ密接な関係に置かれてある、人間は四囲の植物を征服していると言うだろうが、又之れと反対に植物は人間を征服していると謂える、そこで面白い事は植物は人間が居なくても少しも構わずに生活するが人間は植物が無くては生活の出来ぬ事である、そうすると植物と人間とを比べると人間の方が植物より弱虫であると謂えよう、つまり人間は植物に向うてオジギをせねばならぬ立場にある、衣食住は人間の必要欠くべからざるものだが、その人間の要求を満足させてくれるものは植物である。人間は植物を神様だと尊崇し礼拝しそれに感謝の真心を棒ぐべきである。(牧野富太郎『植物と人生』)

     庭園を歩いてみるが「見ごろ」とされたものはなかなか見つからない。それでも探せば多少はある。「あれがユリノキの花じゃないかしら。」遥か上の方に白い花が咲いているようだ。「ウワミズサクラだ。」これもかなり上の方で咲いているから分り難い。センダン。「栴檀は双葉より芳し。」「その栴檀とは違うんだ。」古名で「あふち」(楝)とも言う。双葉より芳しいのはビャクダンである。
     ナルコユリは小さくて細長い蕾のような花をいくつもつけている。フタリシズカは花がない。ヒトリシズカの方は一つだけ花の痕跡が見つかった。「こんなに近くで撮れるんなら、小っちゃいカメラでも良かった。」
     ムサシアブミは見つかったがウラシマソウが見つからない。「アブミって馬に乗る?」仏焔苞が巻いている形が鐙に見えるのだ。「テンナンショウ(天南星)だね。」ムサシアブミ、ウラシマソウ、マムシグサなどのサトイモ科の属である。
     そこに地図を片手にオクちゃん夫人とハイジが走ってきた。「これですよ、これ。」なるほど、さっき貰ったパンフレットの裏が庭園の地図になっていたのだ。ネームプレートがついていないが、ムサシアブミのすぐそばにあった。名の由来の釣り竿のようなものが伸びていないので気付かなかった。
     キツネノカミソリは季節外れだから勿論咲いていないが、森林公園で見たことがある。「赤い花なんだ。東上線の森林公園でも山野草がいっぱい見られるよ。」「行ってみたいな。」
     若女将はひとりでベンチに座っている。やはり疲れたのだろう。「だって八十八だもの。」ここまで歩いて来ただけでも偉大なことである。そこに若旦那が戻ってきた。「なんだ、ここにいたのか。」それにしても若旦那は元気だ。千意さんが蕗を分けてくれる。朝からリュックの上にピニール袋が覗いていたのは、これを入れていたのだ。
     四時まで十分程あるが、全員が集まったので庭を出る。入口の藤棚には花がない。「もう終わっちゃったのかな?」「今年は一斉に春が来たの。いろんな花が一斉に咲いてすぐに終わっちゃった」と千意さんが言う。
     大泉学園駅までは十分もかからない。南口で解散する。一万八千歩。きょうは歩幅が小さかったから十キロ弱だろう。

     「四時からやってる店があるんだよ。」スナフキンは事前に調べてきたのだ。厚岸と言う店はあるが、探しているのはそこではない。「地図だとこの辺なんだけどな。」そして線路際に回り込むとあった。地下に下りる店で「いなやん」である。しかし入口付近には何か荷物を置いている。スナフキンが偵察に行くと、その荷物を寄せて入ることができた。仕入れが遅くなったらしい。
     十人が席に着く。「最初は五百円セットだろうね」とマリオが言うので気が付いた。スーパードライ(または角ハイボール等)一杯に、小鉢(枝豆豆腐)と串揚げ三本が付くものだ。一杯目としては安い。「これにしようぜ。」ファーブルはハイボール、千意さんは自粛が続いていてウーロン茶、それ以外はスーパードライだ。
     突き出しはキャベツに塩昆布をまぶしたもの。「お変わりは自由です。」漬物にはキムチもついていた。私が苦手なものである。「焼酎のボトルがないんだ。ホッピーにするか。」マリオ、ファーブル、私は黒、スナフキン、ロダン、桃太郎は白にする。ヤマチャンはビールを続ける。
     店に入った時はマスター一人だったが、いつの間にか色白の若い衆が一人増えていた。「男だろう?」「女じゃないの?」私は絶対女性だと思った。「馬刺しも頼もうよ。」ホッピーの中を四杯飲んだろうか。お開きにしたのは七時。三時間もいたのは珍しい。三千円なり。
     「帰ろうか。」「まだ七時じゃないか、もう一軒行こう。」スナフキン、ファーブル、蜻蛉の三人がもう一軒を探す。「厚岸」は満席だった。名前は忘れたが小さな店が開いていた。入口に近いテーブルに男女六人、カウンターには五六十代の女性がひとり、私たちは奥のテーブルに着く。これでほぼ満席状態だ。冷奴は売り切れで、お薦めのさつま揚げを貰う。ヌル燗を飲んで一時間ほどでお開きにする。

    蜻蛉