文字サイズ

    近郊散歩の会  第十三回 下館(茨城県筑西市)
      平成三十年五月二十五日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.06.12

     キャンパスの喫煙所のタチアオイが異様に大きくなってきた。大人の身長の二倍にもなる。ビヨウヤナギも咲いてきた。「これがビヨウヤナギ。」スタッフに教えると、「どういう字ですか?」と訊かれた。美央柳。ただ、初めて石神井川で見て感動したのは、雄蕊がもっと柔らかくて長く震えるような可憐な姿だった。最近見るのは、雄蕊が少し短いような気がする。

     君を見てびやうのやなぎ薫るごと 胸さわぎをばおぼえそめてき  北原白秋

     家の近所の栗畑では栗の花が咲き始め、生臭い風が漂ってきた。十五六本もある栗畑だが収穫するのを見たことがない。税金逃れのために栗の木を伐らないだけなのだろう。この臭いを嗅ぐと梅雨の鬱陶しさが思われる。もう梅雨も近い。
     旧暦四月十二日。小満の次候「紅花栄」。暑くなるかも知れないから、念のために着替えを持ってきた。
     今回は千意さんの企画で、彼はいつも遠いところを探し出してくる。下館なんて全く知識にないところだった。我が家からは二時間のコースで、鶴ヶ島を七時五十四分に出た。川越から大宮に出て、八時四十分の宇都宮線小山行きのホームでマリーとばったり会った。乗ること五十分、狭いボックス席で向かい合う男に気を使って足を伸ばせず、腰が痛くなってくる。小山に着いて座席から立ち上がると、少し離れた席のオクちゃんと目が合った。「気が付かなかった。」
     小山からはJR水戸線友部行に乗り換えるのだが、三分しかないから急がなければならない。階段はホームの南北に離れてある。「あっちかな?」進行方向前方の階段を上って水戸線のホームに降りると、電車はいない。「あっ、向こうだ。」階段を降りたところから少し離れた南側に停車している。南の階段から来ればよかったのである。
     車内は部活の高校生のために意外に混んでいて、いくつか車両を抜けて適当なところに座った。ハイジが既に腰かけていて、マリーが一緒になる。「これしかないですからね。」三十分に一本しかない路線だ。しかし来る筈のファーブルの姿が見えない。スナフキンは昨夜飲み過ぎている筈で、起きられたら来ると言っていたがどうだろう。
     車窓から黄金色になった麦畑が見える。麦秋である。と言えば、スナフキンなら小津安二郎監督の『麦秋』を連想するだろう。お馴染み原節子、笠智衆。ボックス席の向かいに座る男性は、私の隣にリュックを置き、自分はダランと横座りになっているから、私は足を伸ばせない。段々腰が痛くなってきた。
     水戸線には初めて乗ると思い込んでいたが、「結城には来ませんでしたか」とオクちゃんに訊かれて思い出した。小山から一つ目の結城には平成二十六年(二〇一四)十一月に、やはり千意さんの案内で来ているのだ。日記をひっくり返すと高倉健が死んだ時である。
     水戸線と言っても笠間市の友部駅が終点で、小山から約五十キロ。友部で常磐線に乗り換えると水戸までは十六・五キロある。しかし東京方面の人は水戸に行くのにわざわざ水戸線は使わない。常磐線でまっすぐ行くだろう。
     二十一分走って、九時五十四分に下館に到着した。隣の車両からスナフキン、その後ろから少し遅れてファーブルもやって来た。「不安だったよ、誰もいないんだもの。」下館は水戸線のほか関東鉄道常総線、真岡鉄道が乗り入れる、この地域の中心である。
     「どっちだろう?」北口と南口とあるが、千意さんの案内にはただ下館駅とあるだけだ。どっちだろうか。取り敢えずトイレを済ませていると、北口の改札に千意さんの姿が見えたらしい。「南口を見てこようか」とスナフキンが言ったのに、「大丈夫だろう」と答えてしまったが、オクちゃん夫人だけが何故か南口に行ってしまったことに気付かなかった。
     リーダーの千意さん、オクちゃん夫妻、ハイジ、マリー、スナフキン、ファーブル、蜻蛉の八人だ。「あんみつ姫、宗匠、ロダンからは事前に欠席のメールが来てました。以前この三人から欠席のメールが来た時、参加者は二人。だから今日も不安でしたが、大勢参加して戴いて有難うございます。」実は私も今日は参加者が少ないのではないかと思っていた。
     観光ガイドマップが配られた。「ここは筑西市なんだね。」「なんだか九州みたいだな。」筑後国からの連想だが、ここは筑波山の西と言うことか。地図を見ていると、「それはどこで貰えるんですか」と中年男性が訊いて来た。「向こうだけど、もう品切れ。」「それじゃちょっと見せてください。」美術館に行きたいらしい。
     東を流れる勤行川(五行川)と小貝川が市の南部で合流する。西は大谷川、そして市の最西部は鬼怒川が流れる。川に挟まれた地域だから、舟運で栄えた町だろうとはすぐに想像がつくが、ウィキペディアを引いてみる。

     「下館」の地名については諸説あるが、平安時代の九四〇年(天慶三年)に下野押領使の藤原秀郷(俵藤太)が平将門の乱平定のため、上館・中館・下館の三館を築いたことが、その始まりといわれている。平安晩期から鎌倉時代にかけては伊佐氏(常陸伊佐氏)の領地であった。室町時代の一四七八年(文明十年)頃に、下総・結城氏の家臣、水谷伊勢守勝氏によって下館城が築城される。その後水谷氏が結城家から独立、江戸時代には下館藩の城下町となり、水谷氏に代わって入封した松平頼重(徳川光圀の兄)により水戸城下にならった町割りが行われた。その後真岡木綿や結城紬などを扱う商業の町として発展、「関東の大阪」と呼ばれるまでになった。
     一八八九年(明治二十二年)の町制施行時に、城下の区域を以て真壁郡下館町が成立。明治から大正にかけ、下館駅に水戸鉄道(現JR水戸線)、真岡軽便線(現真岡鐵道真岡線)、常総鉄道(現関東鉄道常総線)が相次いで開業し、交通の要衝となった。一九五四年(昭和二十九年)、いわゆる昭和の大合併で五所村、中村、河間村、大田村、嘉田生崎村の周辺五村を編入して市制施行し下館市が誕生、のちに伊讃村、養蚕村、竹島村を編入した。
     平成の大合併では、二〇〇五年(平成十七年)に下館市は関城町、明野町、協和町との合併により筑西市となる。市内に「下館」のつく大字・小字名がなく、また新設もされなかったため、千年以上の歴史を持つ「下館」の地名はこれにより消滅することになった。(ウィキペデア「下館」より)

     ここは常陸国、同じ茨城県でも隣の結城は下総国である。それにしても「関東の大阪」と呼ばれたとは少し大袈裟ではなかろうか。ただ筑西市の名称はイヤダナ。下館市のままでどうしていけなかったのか。茨城県には猿島町と岩井市が合併した坂東市なんていう名称もある。こういう名付け方について、ロダンには申し訳ないが私は茨城県の感覚に違和感を覚える。
     駅舎二階の明り取りにはステンドグラスが嵌め込まれている。駅前には私たちと同じような格好をした連中が多く、ブロンズ像の前に大勢が集まっている。「なんだろう?」「蒸気の音が聞こえるね。」「SLに乗る人たちですよ。」
     土日祝日には、下館から茂木の間の真岡鉄道をSLが走るのだ。所有するSLは、C11とC12である。その他、気動車とディーゼル車、軌道モーターカーを持っていて、電車はない。列に並んでいるのは殆ど私たちと同世代の男女である。そんなに乗りたいものだろうか。
     「高校時代はSLに乗ってたよ。トンネルがあると真っ黒になった。」「ファーブルは汽車通学だったのかい?」「冬の間はね。それ以外は自転車だったけど。」羽越線新屋駅から牛島を経て秋田までか。路線図を見ると六キロになる。雪が積もると私も自転車はやめて、四十分歩いて通学していた。
     その連中の集まっている像は上半身裸の女性だ。近づいてみると、タイトルは「ジーンズ」、作者は佐藤忠良と台座に小さく彫ってある。この名前には記憶がある。「オリエさんのお父さんじゃなかったかしら?」ハイジも覚えていた。佐藤忠良のブロンズ像は関東各地の駅前に置かれているのでよく見かける。「どこかの駅でも見たよね。」「栗橋よ。」そうだった。
     しかし佐藤オリエと言っても、あまり知られていないようだ。舞台が中心でテレビにはあまり登場しないからだろう。「オリエさんは『若者たち』に出てたのよね。」私もそれ位しか知らないが、半世紀以上も前のフジテレビのドラマである。「佐藤忠良は良く娘をモデルにしたから、これもオリエかも知れない。」「全然似てないぞ。」
     昭和四十一年(一九六六)二月から九月まで放送したとき、たぶん秋田ではやっていなかった。東京に出て来てから、時々再放送を見ただけだったと思う。長男・田中邦衛、次男・橋本功、三男・山本圭、長女・佐藤オリエ、四男・松山省二の貧しい一家の物語である。この中で橋本功は平成十二年(二〇〇〇)、五十一歳で死んだ。山本圭も今では老いさらばえて全く面影がないが、インテリ青年の代表だった。
     主題歌は黒澤久雄のブロードサイド・フォーが歌って高校生の間に流行った。しかし歌自体は初期のフォークソング特有の、単純なコード進行で作られたものだった。

    君の行く道は 果てしなく遠い
    だのになぜ 
    歯を食いしばり
    君は行くのか そんなにしてまで(藤田敏雄作詞、佐藤勝作曲)

     こんな単純な歌を喜んで歌っていたのは、六十年代という時代のせいである。ベトナム戦争は泥沼化し、アメリカが勝つ目は既になくなっていたが、先が見通せなかった。既に各地の大学で授業料値上げ反対運動が展開され、全学連は複雑に分裂していた。そして日大全共闘が秋田明大を、東大全共闘が山本義隆を議長にして結成されるはこの二年後だった。日大の体質はあの当時と全く変わっていない。
     「下館は文化人が多いんです」と千意さんが説明する。筑西市教育委員会発行の「しもだて見どころ案内図」によればこんな具合だ。

     また江戸時代の与謝蕪村、明治から昭和へかけての板谷波山を始め、たくさんの文化人が下館をゆかりの地としています。それは現代でも文化勲章を受章した森田茂、オペラの中丸三千絵、版画の飯野農夫也、書家の浅香鉄心などすぐれた人材を輩出する土壌になっています。

     市役所の手前の魚民の辺り、セラミックミュージアムと言うモニュメントには、青木繁の「大穴牟知命」が焼き付けてある。「大国主だよ。」兄たちに騙されて死んだ大国主をキサガイヒメとウムギヒメの二人が乳で蘇生させる物語だ。「青木繁だったら、やっぱり房総のあれじゃないか?」「裏にあります。」裏に回れば確かに裸体の男たちが大きな鰹を下げて行進する絵だ。「海の幸」である。美術に疎い私でも青木繁と「海の幸」は知っている。「昭和の初期まで、ホントに、漁師はこんな風に素っ裸だったらしいんだ。」昭和十五年頃の木村伊兵衛の写真があり、色川大吉がこれに触れている。

     少年のころ、私は千葉県の銚子や九十九里浜に泊まりがけで行った。銚子では漁師たちが市内でふんどしもつけずに歩いているのに眩しいような思いをした。彼らはチンポの先だけを細い稲藁で、つつましくお飾りのようにしばっているだけで、他は文字どおり一糸もまとわない全裸であった。あわてて周りを見回しても誰もふり返ったりしていない。どうしたことかと思ったら、九十九里浜でも同じ全裸で漁師たちが船をひき出していたのである。(色川大吉『昭和史 世相篇』)

     色川はこれが素朴な風俗であったと見ているが、本当だろうか。ふんどしも許されない、人間以下に扱われた階層だったのではないかという疑いが消えない。
     青木繁は明治十五年(一八八二)福岡県久留米に生まれ、三十二年(一八九九)に上京して不同舎に入った。三十三年(一九〇〇)に東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝の指導を受ける。三十六年(一九〇三)には白馬会八回展で「神話画稿」が白馬会賞を受賞して一躍一流画家となっていた。天才であると自覚し、傲岸不遜であった。
     明治三十七年(一九〇四)、坂本繁二郎・森田恒友・福田たねとともに房州布良(千葉県館山市富崎地区)の漁師頭の小谷喜録宅に滞在してこの絵を描いた。坂本繁二郎とは同郷同年、森田恒友、福田たねは画塾「不同舎」の塾生として知り合った。
     たねは明治十八年(一八八五)栃木県芳賀郡水橋村(現・芳賀町)に生まれたから、平塚らいてふ、高村千恵子(明治十九年生まれ)の一歳上である。教師の家に生まれ、画家を目指して日光の五百城文哉に入門し、小杉未醒(放菴)と同門となり、三十六年(一九〇三)に上京して不同舎に入っていた。『青踏』の歴史に出て来てもおかしくないが、私は初めて知った。明治の女は行動的だった。『海の幸』で一人だけ正面を向いた白い顔が、たねだとされている。
     明治三十八年、房州布良で妊娠した福田たねと共に茨城県真壁郡伊讃村川島(現・筑西市)滞在中、男児が生まれた。生まれた子はたねの父の籍に入れられ、戸籍上はたねの末弟になった。それが福田蘭童である。と言っても知る人はもう少ないか。尺八の名手であり、『笛吹童子』や『紅孔雀』のテーマ曲(北村寿夫作詞)を作った。蘭童の本名は幸彦、「海の幸」に因むだろう。しかし、たね、蘭童と過ごしたのは僅かな日々で、青木は父の死で久留米に帰ったまま九州を放浪して明治四十四年(一九一一)に死んだ。
     その後たねは父の薦めで野尻長十郎と結婚して、その死後は画業を再開し昭和三十一年(一九六六)示現会展に七十歳で初入選すると、その後も毎年出品を続け、八十三歳まで生きるのである。青木繁二十八歳、たね八十三歳。
     蘭童は両親の顔も知らず育ち、母に再会したのは修学旅行で大津に行った時のことだった。「蘭童の息子がクレージーキャッツの、誰だっけ。」「石橋エータローだよ。」「エッ、そうなの?」
     駅の目の前に市役所があるのは珍しくないだろうか。実は駅前再開発の商業施設だった下館SPICAというビルである。当初の核テナントのサティ、マイカルが経営破綻した後、長崎屋やエコスを誘致したがやはり撤退。仕方がなく市役所が移ってきたのである。駅前は商売にならないのだ。
     まっすぐにゆるく登る坂は巽坂。城の南東に当たるのだろう。昔からの坂かと思えば明治二十二年に開通した道だった。街灯には「笑店街」のペナントが吊り下げられている。こういうのはどうなのだろうか。
     坂の途中に巽二十三夜尊。小さな堂と、その外に白い大きな地蔵と小さな地蔵が並んでいる。左に曲がれば妙西寺だ。曹洞宗。筑西市乙六五七番地。「住所が乙だって。」「珍しいな。」天正十四年(一五八六)、下館第六代城主水谷政村によって、下館台地南端の守りとして開かれた。
     寺を出ると狭い道路を挟んで、板谷波山をはじめとする板谷家の墓所がある。墓は「板谷波山・室玉蘭墓」である。
     板谷家は醤油醸造業を営む下館の名家であった。波山の名は筑波山に因む。「板谷波山の旧家は田端の文士村にあったよね。」「家は残ってたかしら?」「残ってなかったと思うよ。」田端文士村に残るものは殆どなかった。田端の旧居宅跡に立つ解説を掲げておこう。

     板谷波山(陶芸家 明治五~昭和三十八年)は明治三十六年、当時人家少なく故郷の筑波山を望むことのできる当地、田端五一二番地に(現・三―二十四)居を定めました。一年三か月の歳月を費やして、夫婦で三方倒焔式丸窯を築き、葆光(ほこう)彩磁など数多くの名作を生み出しました。
     昭和二十年、戦災により住居工房が全焼し、郷里に疎開しましたが、戦後再び田端に戻り、終生ここで暮らしました。
     波山は田端文士村の草分けとして、吉田三郎、香取秀真などの美術家をはじめ多くの芸術家たちと交流を深め、昭和二十八年には、秀真とともに、工芸界初の文化勲章を受章しました。

     そして加波山事件志士の墓は隣の高台の上に建っている。石段の前面の広い芝生の前に柵があるから入ってはいけないのだろう。しかし解説板は石段の前にある。エイヤっと芝生に入って説明を読む。「エーッ?」「いけないんじゃないの?」解説板を読むためにはそうせざるを得ず、これがダメだと言うなら理を尽くして説明する用意がある。
     細長い四本の石碑は富松正安、保多駒吉、玉水嘉一(以上下館)、平尾八十吉(栃木県)の墓碑である。「加波山事件って?」「自由民権運動だよね。」明治十七年(一八八四)、栃木県令の三島通庸の暗殺計画中、鯉沼九八郎が爆弾製造中に誤爆して露見。多数の自由党関係者が逮捕される中、十六名が加波山に立て籠って、「圧制政府転覆」「自由の魁」を掲げた。福島事件の残党も含まれており、三島通庸への恨みは深かった。
     平尾八十吉は警官隊と斬り合いになって死んだ。富松正安、保多駒吉は逮捕されて死刑、玉水嘉一は服役出所後九十一歳まで生きた。谷中霊園にも「加波山事件の墓」があり、そこには三浦文治、横山信六、小針重雄、琴田岩松の名が刻まれている。
     彼らの檄文を見つけたので引用しておく。

    抑も建國の要は衆庶平等の理を明らかにし各自天與の福利を均く享るにあり而して政府を置くの趣旨は人民天賦の自由と幸福とを扜護するにあり決して苛法を設け壓逆を施こすべきものにあらざるなり然而今日吾國の形勢を観察すれば外は條約未だ改まらず内は國會未だ開けず爲に奸臣政柄を弄し上聖天子を蔑如し下人民に對し収歛時なく餓莩道に横はるも之を檢するを知らず其惨状苟も志士仁人たるもの豈にこれ之を黙視するに忍びんや
    夫れ大厦の傾けるは一木の能く支ふる所にあらずと雖も奈何ぞ坐して其倒るゝを見るに忍びんや故に我々茲に革命の軍を茨城縣眞壁郡加波山上に擧げ以て自由の公敵たる専制政府を顚覆し而して完全なる自由立憲政體を造り出せんと欲す嗚呼三千七百万の同胞よ我黨と志を同ふし倶に大儀に應ずるは豈に正に志士仁人の本分にあらずや茲に檄を飛して天下兄弟に告ぐと云爾
     明治十七年九月廿三日
        茨城縣 富松正安 玉水嘉一 保多駒吉
     福島縣 杉浦吉副 三浦文治 五十川元吉 山口守太郎 天野市太郎 琴田岩松
     草野佐久馬 原利八 河野廣體 横山信六 小針重雄
     栃木縣 平尾八十吉
     愛知縣 小林篤太郎

     解説に「自由民権の魁」とあるのは、彼らの主張に基づくのだが事実とはちょっと違う。福島事件(明治十五年)、高田事件(明治十六年三月)、群馬事件(明治十七年五月)と自由党員による運動は過激化していくが、背景には松方デフレと増税による農村の極度の疲弊があった。西南戦争による極端なインフレを抑えるための政策だが、デフレによって米価は三分の一に下落したと言われる。体力のない農民は自作農から小作へ転落し、更に農地を手放して都市に流入し下層労働者となる。手放された農地は地主や高利貸しに集中し、一方では官有地の払い下げを受けた政商は財閥に転化していく。日本の資本主義はこうして生まれた。
     司馬遼太郎が幕末から明治にかけての開明派の行動を顕彰したとしても、その影響で苦しんだ人間がいたことを忘れてはいけない。それを思い出させるのは山田風太郎である。明治を描いて司馬遼太郎と山田風太郎は対照的であるが、私は風太郎に与すると決めている。
     山田風太郎『幻燈辻馬車』は、その最後に主人公の干潟干兵衛が加波山に赴くところで終わる。会津藩士だった干兵衛は、反政府の旗を掲げる若者たちに加担して加波山で死ぬことを覚悟しているのだ。
     そして明治十七年十月には民衆蜂起の最後の輝きともいうべき秩父事件が起きる。加波山事件を受けて自由党は解党しているから、秩父事件首謀者は困民党を名乗るのである。福島事件や加波山事件の連中は秩父困民党を貧農の一揆とバカにしたが、その辺に自由党の意識の限界があった。
     そこを過ぎると、民家の大谷石のブロック塀の前に「疾風 四式戦闘機」の碑が建てられていた。飛行第五十一戦隊の供養碑だった。

     飛行第五十一戦隊ハ昭和十九年四月山口県小月ニテ編成サレ 同年六月防府移駐 北九州邀撃作戦参加 同年十月比島クラーク基地ニ異動 台湾沖及ビ比島沖航空戦参加 同月末ネグロス島ヘ前進、レイテ沖航空戦参加 赫々タル武勲ニヨリ同年十一月十六日部隊感状ヲ授与サレ畏クモ上聞ニ達ス
     同年十二月戦力回復ノタメ 茨城県下館基地ニ集結尓後本土防空及ビ機動部隊攻撃ニ
     任ジツツ 第十八、第十九及ビ第五十七振部隊ノ特攻掩護ニ従事 昭和二十年八月十五日沖縄特攻作戦参加ノタメ九州へ転進中終戦ナリ 同年九月一日下館ニ於テ部隊解散ス

     県道に戻れば、大正か昭和初期かの二階建ての洋館が目についた。花赤堂菓子舗。明治十五年(一八八二)創業。筑西市甲八十四番地。「あんみつ姫がいれば絶対寄ってたよな。」
     通りの反対側には蔵造の中村美術サロンがある。筑西市甲四十六番地。白く塗りなおしたか新築か分らない二階建てと、大谷石の蔵が並んでいる。「無料だから下見の時に入ったら、延々と説明を受けて一時間。だから今日は寄りません。」「下見しておいてよかったね。」中村家が所蔵する美術品を公開しているのだ。
     門前に十三代兵左衛門を顕彰する解説板が立っている。中村家は元禄以前から穀物・木綿・酒・水油・真綿・煙草・茶などを商う大商人になり、町年寄や本陣を勤める名家であった。当主は代々、兵左衛門を名乗り、九代兵左衛門は蕪村と同時期に早野巴人の門下となって風篁と号した。その縁で結城時代の蕪村がしばしば滞在している。結城時代の蕪村については以前少し書いたことがある。

     蕪村の『新花摘』の呉春の挿絵六図は、挿絵五図の中村風篁邸での「阿満図」に続き、やはり下館中村風篁邸での「三老媼図」である。そして、ここに登場する人物は、「白河の城主松平大和守殿の家士に、秋本五兵衛といへる撃剣者」で、俳号は「酔月」といわれる翁である。原文では、次のように記されている。
     [この翁も風篁が家の奥の間にふしゐたりけるに、広縁の下にて老媼の三タ人(リ)ばかりつどひたるけはひ(注・様子)にて、よすがら(注・夜通し)つぶやく声す。何事をかたるにやと、耳そばだてうかゞひゐたるに、ひとつも聞とむべき事なし(注・聞きとめることができない)。たゞ夜いたくふけ行(ゆく)につけつゝ、あさましく(注・嘆かわしく)かなしく(注・心ひかれるように)おもはれて、夜明(あく)るまでえも(注・何とも)いねずありけるとぞ(眠ることもできずにいたということだ)。
     これまでに登場してきた、常磐潭北、結城の丈羽・晋我、そして、下館の風篁の妻・阿満というのは、若き日の蕪村にとっては、いずれも忘れ得ざる恩人と いっても差し支えない方々であろう(「蕪村の『新花摘』の挿絵周辺(その十一)」
     https://groups.google.com/forum/#!topic/haikai/Faic-kXZkxk)

     十八世紀の江戸文化は地方の素封家によって支えられた。蕪村にしても一茶にしても、彼ら地方の素封家の援助によって文人として生きることができたのである。
     中村家は十七世紀後半期には大和、摂津の繰綿を大坂、江戸を介して奥州にまで送る遠隔地商業を営み、数千両の取り引きを行っていた。
     九代兵左衛門の時代(享保期・十八世紀前半)には醤油醸造経営を主として、江戸に販売店をもうけた。その後、主業は周辺地域で集荷する 晒木綿の江戸問屋への買次業務に移り、十三代兵左衛門は下館藩の財政再建策をめぐって、二宮尊徳に深く傾倒した。当時、下館藩の負債は三万五千両に及んでいた。

     大町二丁目交差点には「甲」とある。「さっきが乙、ここが甲。丙もあるのかな?」「ヘーッ。」「なんだかイヤだな。」実は丙もある。甲乙丙の三地区は明治期の旧下館町にあたる。いわゆる旧市内である。旧市内と新市内と言うのは秋田でも区別された。旧市内は祭りに参加できる町であり、新市内は新来者の街である。私の父はサラリーマンとして新市内で家を持ったから、我が家は祭りに参加する資格はなかった。
     交差点を右に曲がれば左が下羽黒神社だ。筑西市甲三十七番。文明十三年(一四八一)下館城初代城主水谷(みずのや)勝氏が出羽三山から羽黒権現を勧請した。この前の道が羽黒坂、やはり明治になって切り開かれた道だった。
     毎年七月の下館祇園祭はこの神社の祭礼である。羽黒神社で祇園祭と言うのもなんだか変だ。元々の祭神はその名の通り羽黒権現だったが、現在ではオオクニヌシとタマヨリヒメを祀っている。平成四年に新調された二トンという大神輿が練り歩くと言う。
     拝殿はガラス戸で囲まれている。「ガラスは珍しいね。」境内社の愛宕神社の裏に回ると本殿は剥き出しで彫刻が見事だ。樹高二十五メートルの大ケヤキ。
     神社の隣の公園には下館音頭を舞う踊り子の像が立っていた。「下館音頭歌碑」である。「西條八十が作詞しました。」戦時中、早稲田の同級生で下館町長だった外池格次郎を頼って疎開した縁である。まだ詞のついていなかった中山晋平の曲に新しく詞を付けた。
     この東側が地域交流センターのアルテリオだ。筑西市丙三百七十二番地。「美術館に入りますか?下見の時には行ってないけど。」「せっかくだから入ろうか。」ここで地名の「丙」がでてきた。
     一階には見事な彫刻屋台が展示されている。「鹿沼でも彫刻屋台があったよね。」今市でも見た。日光街道沿いの富裕な町に特有なものだ。ここは日光街道からは逸れているが、富裕な町だから、東照宮建築に駆り出された職人が住み着いたのだ。
     私はここが美術館だと誤解して、無料は有り難いなんて思ってしまった。美術館は三階だった。入館料五百円は高いが、板谷波山記念館とセットになっているのだ。板谷波山、森田茂(洋画)、飯野農夫也(版画)、大久保婦久子(皮革工芸)などの作品が展示されている。
     企画展示はミック・イタヤの作品展だった。ローマ神話をモチーフにしたらしいものはあるが、現代アートは私には全く分らない。イタヤと言うからには波山の一族であろうか。本人は水戸の出身者だったが、父は下館出身だと言う。

    今展は二部構成となっており、第一部は「ミック・イタヤワールド」と題し、鮮烈なデビューを飾ったカセットマガジン『TRA(トラ)』(一九八二年創刊)を含む初期作品から、ミック・イタヤの作品世界の主軸となる流麗な線描で描かれた独特の神話世界と、ファッション、音楽シーン、商業デザインにおけるこれまでの代表作、そして最新作までを網羅し、展覧します。第二部は「茨城クラフアート」として、故郷である茨城の伝統工芸を独自のアレンジでアートに変貌させた作品を展示し、新しいライフスタイルを提案します。

     理解できないものを分ったような顔で見なければならないので、美術館は精神的に疲れる。外に出て角を北上すると、一階はコンクリート造りで、二階に古い和風建築を持ち上げたような造りの店があった。菓子處「たちかわ」。筑西市丙二百七十四番地。大正十二年の創業である。
     国道との田町交差点の右にも菓子屋「乙女家」があった。大正七年創業。筑西市甲九百三十四番地七。「この辺は菓子の老舗が多いね。」城下町だと言うこともあるだろう。
     通りを渡った所が板谷波山記念館だった。筑西市甲八百六十六番地一。ここが波山の生地である。庭に波山の胸像が立っている。「似てないんじゃない?」私は波山の肖像をきちんと見たことがないから判断がつかない。

     近代日本の陶芸界が生んだ不世出の陶芸家・板谷波山(一七八二~一九六三)。
     波山陶芸の特徴は、「皇帝の磁器」と称される中国官窯古陶磁の洗練された造形を骨格とし、そこに十九世紀末の西欧のアール・ヌーヴォースタイル、つまり優雅で官能的な装飾性を加えた、いわば東西の工芸様式を見事に融合させたところにあるだろう。
     完璧なまでに研ぎ澄まされた波山のうつわは、時を越えて神々しき光を放ち、みるものを静寂の世界に誘ってゆく。(板谷波山記念館)

     申し訳ないが陶磁器は全く不案内で、興味も持てない。田端の工房が復元されているのは興味深かった。ただ三方炊口倒焔式丸窯や轆轤台、各種道具類が置かれているのは珍しくて面白かった。

     一八八九年(明治二十二年)九月、十八歳の嘉七は東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科に入学し、岡倉覚三(天心)、高村光雲らの指導を受けた。一八九四年(明治二十七年)に東京美術学校を卒業した後、一八九六年(明治二十九年)、金沢の石川県工業学校に彫刻科の主任教諭として採用された。同校で陶芸の指導を担当するようになった嘉七は、このことをきっかけとしてようやく本格的に作陶に打ち込み始め、一八九八年(明治三十一年)もしくは翌一八九九年(明治三十二年)には最初の号である「勤川」を名乗り始めた。一九〇三年(明治三十六年)に工業学校の職を辞し、家族と共に上京した彼は、同年十一月、東京府北豊島郡滝野川村(現・東京都北区田端)に極めて粗末な住家と窯場小屋を築き、苦しい生活の中で作陶の研究に打ち込み始めた。一九〇六年(明治三十九年)四月、初窯を焼き上げて好成績を得る。号を「勤川」から終生用いることとなる「波山」に改めたのはこの頃であった。(ウィキペディア「板谷波山」より)

     若い学芸員に挨拶して外へ出ると蔵造の街並みになった。「壁を黒く塗っているのは、空襲の的になるのを防ぐっていうのは本当でしょうか?」その話は聞いたことがあるような気がするが真偽は分らない。確かなことは不明だが、どうやら白壁より黒漆喰の方が高級であると言うのが理由らしい。空襲を避けるためならすべての蔵を黒くする必要があるが、白壁の蔵も残っているのである。
     三階建てモルタル塗り、アールデコ調の洋館は荒川家住宅で、国の登録有形文化財になっている。その隣の二階建て見世蔵は荒川家の「荒七酒店」だ。この辺の街並みを少し整備すれば、河越や栃木市と比べても、それ程遜色ないのではないか。どうも筑西市は観光というものに重きを置いていないようだ。しかしそれはもしかしたら見識と言うものかも知れない。日本全国、観光ばかりを気にする町だらけだ。
     そして三峯神社に着いた。筑西市甲。狛犬は勿論オオカミである。境内の外れには薬師堂が建っている。ここは廃寺になった大徳寺の場所である。薬師堂は文明十年(一四七八)、下館初代城主水谷勝氏により創建された。現在の堂宇は元禄四年(一六九一)の再建である。
     千意さんの計画にはなかったが、立派な仁王門の寺があったのでちょっと寄ってみる。日蓮宗茨城県宗務所の看板を掲げるのは星宮寺(しょうぐうじ)だ。筑西市甲三七〇番地一。寺の名前はおそらく北斗妙見信仰に因むだろう。中に仁王立ちする金剛力士もマンガのようではなく本格的なものだ。ただしそんなに古くはない。
     五行川に出る。この川は栃木県さくら市の旧氏家町に源を発し、南に流れて小貝川へ合流する。

     往古鬼怒川は栃木県さくら市の旧氏家町付近を流れていた。江戸時代、徳川家康の命で利根川の流れを付け替えた際、利根川を鬼怒川に迎え入れるにあたり、鬼怒川の流路も変えて現在の形になる。以降も鬼怒川の水が伏流水となって氏家町の各所に湧き出ており、これが五行川をはじめ、大沼川・冷子川・井沼川などの水源となった。現在の五行川は、江戸時代に鬼怒川からの開削により作られた下野最大の用水「市の堀用水」の支流用水を主な水源としている。(ウィキペディア「五行川」より)

     坂を上った高台が八幡神社だ。下館城址の石碑が建っている。社殿は古びていて手入れも施されていない。渋谷伊予作の顕彰碑がある。下館城は、天慶三年(九四〇)、藤原秀郷(俵藤太)によって築かれたのが最初とされる。同時に上館(久下田城)、中館(伊佐城)が造られた。平将門への対抗措置である。

     文明十年(一四七八年)、水谷伊勢守勝氏が結城氏広から下館領を与えられ築城したのが、明治維新まで残った城郭の始まり。以後水谷氏の居城として戦国時代を経て、江戸時代初期の寛永十六年に水谷勝隆が備中国成羽藩へ転封。松平頼重が入封する。寛永十九年(一六四二年)の松平頼重転封後は一時天領となるが、井上正岑、黒田直邦などの支配を経て、石川総茂が二万石で入封。石川氏九代の治世が続き明治維新を迎えて、廃城となった。(ウィキペディア「下館城」より)

     渋谷伊予作はあまり有名ではないだろう。下館藩士であるが脱藩して吉村寅太郎の天誅組大和蜂起に参加して処刑された。最初からの参加者三十九人の一人である。「下館音頭」の第十番に登場する。
     千意さんはここで昼食にしようかと言ったが、思い直した。「城跡に行きましょう。」しかしここが本丸跡ではないのかしら。神社の南隣の小学校が二の丸跡である。歩き始めた千意さんは、「ちょっと勘違いしちゃった」とつぶやき、「川辺で食べましょう」と修正した。少し歩いて五行川に出た。
     十二時をちょっと過ぎた。対岸は桜堤、こちらはアジサイだ。この辺りは鮭が遡上する場所だった。「つまり放流するんだろうね。」観光ガイドによれば、二月下旬に稚魚の放流が行われ、五年後にそれが戻って来るのだ。弁当持参は三月の浦和以来だから久し振りだ。河川敷の叢にビニールシートを敷く。
     オクちゃん夫人手製の漬物が回される。旨い。ファーブルからはサンマのかば焼き缶詰の残りが回される。時折心地よい風が吹いて眠くなってくる。しかしビニールシートに座り続けていると腰が痛い。
     ファーブルは捕虫網を取り出した。「何を取るの?」「蠅でもいないかと思って。」「そこにいますよ」と千意さんが注意する。「取った。」クロバエ科キンバエ属のナントカだそうだ。胴が青く光っている。ハエの大先生に土産に持っていくのだと言う。「なんだ、こんなの、って言われるかも知れないけど。」「下館のハエってことが売りだね。」

     「それじゃ出発しましょう。」川には釣り人がポツンポツンといる。何が釣れるのだろうか。「川釣りの連中は孤独だよな。」そういうものなのかどうか、私には全く分らないが、仲間同士で群れているのは一人もいない。スイレンが少し咲き始めている。時期的には早くないだろうか。
     下館バイパスを越え、切通しの道を行くと、上に小さな石橋がかかっているのが見えた。「擬宝珠もついてるよ。」トンネルを潜って回り込むとその橋にでた。橋の手前に「国宝中館観音寺」の石柱が建っている。「国宝だってさ。」筑西市中舘四五六番地二。正式には施無畏山延命院観音寺と言う。天台宗。五行川西岸の台地である。
     本堂はかなり古い。「獅子の他に頭が出ているのは何ですか?」木鼻の彫刻だが、「多分、莫じゃないかと思います」と答えた。「夢を食う。」但し、象との区別は難しくて私は良く分っていない。
     格子で覆われた堂にあるのは伊達宮内大輔行朝公塔だ。

     興国四年(一三四三)奥州伊達郡赤館(福島県)にあった伊達行朝は、一族の旧地である伊佐城(下館市中舘)に入り南朝に組した。
     行朝は北畠親房をたすけ、関城、大宝城と相呼応し、尊氏の武将高師冬の軍と戦い、孤軍よく死守したがついに陥落し北朝方に降った後、行朝の供養塔が観音寺境内に建立された。(筑西市)

     解説の「筑西市」は新しく貼ってあるので、もとは「下館市」になっていただろう。伊達行朝は仙台伊達家の祖である。塔は笠付きの墓石型だが、文字は摩耗して殆ど読めない。ここが中館城(伊佐城)であった。
     墓地の脇か坂道に銅灯籠が並ぶ参道が伸びている。門を潜ると綺麗に整備された境内が広がっている。庭の中に「伊佐城跡」の大きな石碑が建っていた。隅にある宝篋印塔が珍しい。塔身部分が異常に長いのだ。
     下館藩主石川総管(ふさかね)の墓。最後の下館藩主で、慶応二年(一八六六)六月講武所奉行、同年八月若年寄兼陸軍奉行、翌年正月陸軍副総裁に累進した。維新後は下館藩知事。

     寺を出れば黄金色の麦畑が広がっている。麦の外側には蕎麦の白い小さな花が咲いている。「真ん中にも植えてるよ。」蕎麦はこんな風に植えるものだろうか。橋を渡ると、筑波山が近くに見える。そこから下りると、右手には田植えをしたばかりの水田が広がっている。
     車道から土手に上がる角に亀が死んでいた。「轢死だな。」土手を歩けば今度はモグラが死んでいる。「モグラじゃなく、トガリネズミだと思う。」齧歯類(ネズミ目)ではなく、系統的にはモグラやハリネズミと近縁のグループであるらしい。「これは自殺かな。」ウィキペディアによれば、小さい体にエネルギーを蓄えることができず、ひたすら餌を食い続けなければ数時間で餓死してしまう。それなら自殺ではなく餓死である。

     亀轢死鼠餓死する薄暑かな  蜻蛉

     桑の実が熟している。私は町の子だったから、こういうものは余り食べたことがない。みんなが食べるから食べてみた。意外に甘い。「指が真っ赤になっちゃった。」お茶を飲んで少し休憩を取る。「ここから三キロ程です。」今は二時ちょっと前だ。
     「ハイジは最近は俳句を作らないの?」「本を読めば読むほど難しくて、分らなくなっちゃうのよね。」季語に日本の情感を込めよと言う教えを読んでいるらしい。しかし季語は難しい上に、今では日常使わない言葉も含まれていて、それに情感を込めるなんてことはなかなかできない。要するに、国民全体に通ずる文化的教養と言うものがなくなってしまっているのだ。そういう時代に「季語」とは何であるか。
     『プレバト見てる?』見てはいるが、あの番組を観ていると、つくづく私は凡人だと思わざるを得ない。飛躍がなく、発想が陳腐なのである。「私はこんな句が好きなんだけど」ハイジが言うのは池田澄子の句である。

     じゃんけんで負けて蛍に生まれたの

     輪廻転生は全てじゃんけんで決まるのだ。現在私が人間であるのも、たまたまじゃんけんで勝ったからにすぎないと思えば、実に茫洋としてくる。池田澄子はこんな句も作っている。

     号泣やたくさん息を吸ってから

     ハイジは素敵な句を詠むのだから、季語に拘らず無季句を作ればよいのではないか。
     対岸の藪で、子供が笹竹を折っているようだ。釣り竿にするのだろうか。ウグイやオイカワ(コイ科)などが釣れるようだ。もう少し上流ではヤマベも釣れると言う。
     向こう岸の水車小屋のような建物の壁から水が噴き出している。橋を渡ったところで千意さんが悩み始めた。「下見の時は車だったから。」但し見覚えはありそうなので、そちらに進む。「ここから三キロです。」「さっきも三キロじゃなかった?」水車小屋の前には折本土地改良記念碑が建っていた。
     水田と麦畑の広がる関東平野をひたすら歩く。雷神社と久下田城跡に向かっているのだ。マリーがスマホを検索して、「ひぐちから真岡鉄道に乗れって出てくるのよ」と言う。「歩いていくやつなんかいないんだよな。」
     廃業したコンビニのオジサンに道を訊く。そして何もない駅前に出た。真岡鉄道ひぐち駅である。真岡鉄道で唯一、ひらがな表記の駅である。住所は樋口なのだから理由は分らない。ちょうど下館方面行の一両の電車がやって来たところだ。「ここでちょっと休憩しましょう。」駅舎はないがベンチがある。
     真岡鉄道は下館と茂木駅(栃木県芳賀郡茂木町)を結ぶ四十一・九キロの路線である。昭和六十三年(一九八八)四月にJR真岡線が廃止になり、第三セクターでの真岡線に転換した。
     「実はこの先に行っても何もないんです。説明があるだけ。どうしますか?」雷神社までは直線距離で一・五キロ程だろうか。なんだか皆疲れてしまったので、ここでやめにしようと決まった。実は曲がり角を一つ間違えたのだと、千意さんが告白する。
     「電車は何時頃?」「三十分後。」しかしコンビニも何もない。千意さんとスナフキンが場所を確認してコンビニに出発した。「あったら缶ビールも頼むよ。」ここまで一万九千歩だった。十一キロになったか。汗はかいたが湿気が少なく、適度な風にも恵まれた良い一日だった。
     「なかなか戻ってこないね。」「遠いんじゃないか?」十五分ほどして二人が袋を下げて戻って来た。「遠かったの?」「いや、トイレを済ませたりしたからさ。」スナフキンはスーパードライ、私とファーブルにはキリンを買ってきた。千意さんはハイボールを持っている。

     一万九千歩駅のベンチの缶ビール  蜻蛉

     やってきたのは一両だけの電車(?)である。ワンマン運転、後乗りで整理券を取り前降りで支払うバスの方式である。パスモやスイカは使えずに現金支払いだけになる。十五時八分出発、二駅で下館に着いた。電車の中で支払いを済ませて運転士に支払い証を貰い、JR入場のカードをタッチする。「水戸線は何時?」「三十分後だね。」「それじゃいったん外に出ようよ。」
     改札でカードを出して修正してもらう。「コンビニはあるかな?」しかし目の前の「さかなや道場」が開いている。「一本遅らせて、一時間だけここで飲もうよ。」オクちゃん夫妻とハイジは飲まないで帰ると言う。それではここでお別れして、千意さん、スナフキン、ファーブル、マリー、蜻蛉の五人が店に入った。
     ビールを飲み終わる。「お次は何を飲まれますか?」「電車の時間待ちだからあんまり飲めないんだ。」焼酎のお湯割りを一杯。それでこの店はお開き。
     水戸線で小山まで。千意さんは蓮田で降りて行った。大宮で降りて行くのは蕎麦居酒屋「えびす」である。もうビールは良いので最初から焼酎にする。天串がうまい。「この盛り合わせは前回も食べたよな。」ファーブルのリクエストで最後は蕎麦を食べてお開き。

    蜻蛉