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    近郊散歩の会 第十四回 「雨の茅ヶ崎」
      平成三十年六月二十三日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.07.11

     六月六日に梅雨入りして半月。毎日降り続ける訳ではなく、晴れれば暑く降れば寒い。このところ、毎日の寒暖差が激しくて体が疲れる。今日は旧暦五月十日、夏至の初候「乃東枯(なつかれくさかるる)」。午後から雨の予報が出ているので、今日は「雨の茅ヶ崎」を覚悟しなければならない。朝のテレビの天気予報では気温は二十五度、それならそんなに寒くはなさそうだ。(これが最高気温だから、気温はもっと下がると言うことに気付いていない。)
     集合はJR東海道線茅ヶ崎駅である。池袋から山手線に乗り、品川から東海道線に乗り換えて四十五分。二時間ちょっとのコースだった。一番安いのは副都心線で横浜を経由するコースなのだが、鶴ヶ島から手頃な時間になかった。集まったのはリーダーの桃太郎、マリー、マリオ、スナフキン、ファーブル、ロダン、ヤマチャン、蜻蛉の八人だ。「あんみつ姫は?」「クラス会じゃなかったかな。」
     茅ヶ崎駅には初めて降りる。「私も通過するだけで降りたことはなかったな。」横浜のマリオでさえそうなのだ。「でも近かったでしょう?」「そうそう。」マリオが一番近いかと思ったが、桃太郎も十五分ほどで来たらしい。
     「そこに観光案内所があるんですよ。」十時まで少し時間があるので行ってみると、おばさん(おねえさん)が一人いるだけだった。丸ごとトマトと言うジュースがあって、二百三十円と高いが試しに買ってみる。「蜻蛉が買うのは珍しいじゃないか。」「二日酔い?」そういう訳ではない。田辺茂一のCMは「お酒を飲んだその朝は」と言っていたがもう知る人はいないだろう。そもそも田辺茂一の名前は今でも知られているのだろうか。
     酒とは関係なく私はトマトもトマトジュースも好きなのだ。蓋を開けると口の周りにはトマトのこってりとしたものがついている。トマトを丸ごと潰したものだろう。「先に振らなくちゃダメなんだよ。」今からでは遅い。
     「茅ヶ崎だったら、ここは絶対行かなくちゃいけない」とスナフキンが言うので開高健記念館のパンフレットを貰う。開高健と茅ヶ崎なんて私は考えもしなかった。桃太郎の計画にはなかったが、後で寄ることに決まった。「茅ヶ崎ガイドマップ」は桃太郎に貰ってある。初めての土地だから全く土地勘がなくて、そもそも鎌倉、江の島、横浜、茅ヶ崎の位置関係が私は分っていない。
     桃太郎は「番号に名前を書いてよ」と昼食のメニューを配る。今日はシラスを食うので、予約している店には十一時頃に連絡を入れることになっているらしい。「生シラスが揚がっているかどうか、まだ分からないんですけどね。」この天候でシラスは揚がるのか。湘南御膳が二千六百八十円、茅ヶ崎御膳が二千三百八十円、名物シラス御膳が千五百円。その他の丼は千二百八十円だ。私はケチだから昼食に千五百円も払いたくない。やはり千二百八十円のコースから選ぶことにする。
     普通は生シラスを選ぶだろうが、私は釜揚げシラス丼にした。何となく、今日の気分では生シラスではないのだ。ファーブルはつい最近静岡で昼も夜もシラスを食ったので、今日は天婦羅にすると言う。昼も夜もシラスでは、それは飽きるだろう。それにシラスはそんなに特別に旨いものとは思わない。

     湘南海岸はここから南に一・五キロ程になるが、最初は北口に出る。「文教大学のバスがある」と誰かが気づいた。「埼玉にもあったよね。」「越谷にある。ここは情報系の新しい学部だよ。」文教大学は東武伊勢崎線の北越谷から歩いて十分程の元荒川沿いにある。「昔は別の名前だったろう?」「立正女子大だった。」立正大学とは直接の関係はないが、法華経に基づいて創立した立正裁縫女学校を源とする。東京都の学校群制度を推進した小尾乕雄が理事長を勤めていた。
     越谷には教育学部、人間科学部、文学部があって、埼玉県の教員採用試験では上位の成績を占めているはずだ。もう随分前のことだが、越谷の図書館には日配の残党だという事務長がいた。と言っても、それは何だと言われるだろう。日配とは日本出版配合のことである。戦時中の国策によって出版取次業界が統合してできた会社だ。日販、トーハン、中央社など戦後の取次はここから出たのである。
     茅ヶ崎(湘南キャンパス)は情報系だと思っていたが、情報学部の他に国際学部、健康栄養学部、経営学部がある。「新しいの?」情報学部が湘南に移転したのは一九八六年だった。私たちは「新しい」と思うが、もう三十年以上も経っているのだ。
     「この辺だと慶應SFC(湘南藤沢キャンパス)とか湘南工科大学(旧相模工科大学)があるな。最寄り駅は辻堂だけど。」スナフキンの昔の営業担当エリアだから詳しい。他には日大生物資源科学部、多摩大学(グローバルスタディ学部)などもあるが全て藤沢市内である。
     駅前通りには国木田独歩没後百十年の幟が翻り、茅ヶ崎ゆかりの人物の手形が設置されている。独歩の終焉については後で記すことになる。「温故知新」の手形は市川團十郎だった。調べてみると九世團十郎(明治三十六年没)で、明治三十年に高座郡松林村(現茅ヶ崎市)に別荘を構えた。「五代目尾上菊五郎、初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた」(ウィキペディア)というようなことを、ちょっと書いておいて貰わないと分らない。
     「こっちは野口なんとか。」「宇宙飛行士の野口聡一さんだわ。」茅ヶ崎市立浜須賀中学校、神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校の出身である。加山雄三の手形もあったらしいが気が付かなかった。加山が一歳九か月の時に上原謙が茅ヶ崎に転居したので、結婚するまでその実家に住んでいた。茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校、茅ヶ崎市立第一中学校を卒業した。
     茅ヶ崎なぎさロータリークラブが設置した茅ヶ崎手形ロードだが、何となく中途半端な印象だ。「幸手に、その年に活躍した人の手形がありますよね。」ロダンが言うが、私は見たことがあっただろうか。「あそこは所縁じゃなくて、活躍した人なんですけどね。」手形なら、浅草の「スターの広場」が一番充実しているのではないか。
     「国道一号線(東海道)には横断歩道がないんですよ。」車が優先だから人間は地下を潜らなければならない。地下はかなり広くて、地震の際の避難所になるかも知れない。しかし津波がきたらまずいだろうね。国道の角には寛永寺の石灯籠があるようだがそこは通らなかった。そのまま直進してイオンの前で左に曲がる。総合体育館はでバスケットの大会をやっているようだ。この時期だと高校総体の地区予選かな。
     飯島橋は千ノ川に架かる。その名称は茅ヶ崎の「チ」と関係あるのではないか。保健所前を左に曲がり、矢畑肥地力(やばたひじりき)の交差点を越える。「珍しい地名だね。」地力が肥えているのだ。「まさに農村地帯だったんだな。」「茅ヶ崎は宿場にもなってないんですよ。」何もなかっただろう。横浜だって何もない海岸沿いの寒村だったから開港所になったのだ。現在では茅ヶ崎に農村の面影は殆ど残らず、住宅地になってしまったらしい。曲がりくねった道が昔の農道のようだ。
     住宅地の中に入ると、長善寺(高野山真言宗)の隣が本社宮だ。茅ヶ崎市矢畑一四二番地。「ネットで調べても長善寺のことは分らないんですよ。」だから長善寺には寄らない。鳥居は稲台輪があるので稲荷鳥居の形だと思う。本社宮は長元六年(一〇三〇)の創建と言う。
     平忠常の乱を鎮圧するため東征した源頼義が、懐島郷矢畑村に京都の石清水八幡宮を勧請して懐島八幡宮を創建し、戦勝祈願を行ったことに始まる。但し平忠常討伐を命じられたのは頼義の父、頼信である。房総三ヶ国を舞台にしたこの戦いの後、坂東平氏の大半が頼信と主従関係を結び、河内源氏の坂東進出のきっかけになった。
     河内源氏は清和源氏のうち源満仲の三男の頼信から始まる系統を言う。東国に勢力を張ったために武家の源氏の棟梁の位置を獲得したのである。因みに満仲の嫡流である頼光(酒呑童子退治で知られる)の系統は多田源氏、次男頼親の系統は大和源氏と呼ばれる。
     次いで後三年の役の際に義家が懐島八幡宮に祈願して勝利した。義家が祈願したという神社は関東各地に残されている。「制圧された方の末裔としてはちょっとね。」ファーブルも蜻蛉も、東北の人間はどこかの時代に征服された(そして混血した)者の末裔である。東北は常に西の方から圧迫されてきた。そして義家は寛治三年(一〇八九)に隣郷の浜之郷に社領を寄進して鶴嶺八幡宮を創建し本社宮と改称した。以来矢畑村の鎮守として崇敬され天保年間(一八三〇~一八四四)に現在地の南隣に遷座、昭和二年(一九二七)に再度に現在地に遷座した。
     境内に入るとすぐに双体道祖神があった。神奈川県民は道祖神に異常な嗜好を持っているようで、大山街道でも神奈川県に入ってからは道祖神を多く見るようになっていた。矢畑村の鎮守で、境内にある社務所は矢畑自治会館になっている。
     そこから住宅地を三四百メートル歩いて鶴嶺八幡宮に着く。茅ヶ崎市浜之郷四六二番地。茅ヶ崎の総社である。さっきの本社宮と同じく八幡太郎義家の創建になる。関東では鶴岡八幡宮より古い八幡宮なのだ。
     私たちは極端な太鼓橋のところから参道に入ったが、前後に長い松並木の参道が続いている。八丁並木と言うから八百メートル以上になるわけだ。「八丁って?」「一丁は六十間だから百八メートルになるかな。」百八十センチ×六十の計算は合っているだろう。後北条氏滅亡後は荒廃していたが、三代将軍家光に七石の朱印地を与えられると同時に植えられた並木で、東海道まで続いている。しかしこの橋は殆ど人が渡ることを想定していないから、装飾の役割しかないようだ。「眼鏡橋っても言うよな。」眼鏡橋なら二つ欲しいところだ。
     参道の両脇には石灯籠が並んでいる。境内に入ると、ここにも道祖神があった。授り石、女護が石と女性保護の石が並ぶ。
     「八幡太郎お手植えのイチョウがあるんですよ。」桃太郎は調べてきた。八幡太郎が本当かどうかは分らないが、相当な巨木だ。根回り八・五メートル、目通り九メートル、樹高二十九メートル。これなら千年を超すと言われても信じてしまう。根元にはカワラケのかけらが落ちている。素焼の皿で直径三十センチほどの石にぶつけて割れると何かの御利益があるらしい。「近すぎるじゃないの。」「輪投げみたいなものだね。」大山でもこんなものを見た。
     拝殿は入母屋造り、銅板葺きで唐破風の向背がある。境内社の淡島神社には女人守護の幟がたち、隣には癌封じの石が置かれている。スナフキンはそれに気づかず「どこにあった?」と訊いてくる。「あそこだよ。」「それじゃ行かなくちゃ。」私以外は皆信心深い。それにしても石の好きな神社だ。
     「淡島神社って女性の神様なのかな。」淡島明神については、桃太郎の案内で下北沢周辺を歩いた時に触れている。一説に住吉神の妃であるとされることから、婦人病、安産、子育てなど女性にご利益がある。
     鉾宮神社の正体は良く分らないが、鉾と言うからにはアメノヌボコに関係しているのではないかとも思う。イザナギ、イザナミがこれで混沌とした海をかき回すと滴り落ちたしずくからオノゴロ島が生まれた。鶴嶺稲荷神社は勿論稲荷である。
     神木の槙は枯れて伐られたものを祀ってある。これは頼義の植えたもので、父が植えたものは枯れてしまい、息子の植えたイチョウは今も残るのだ。小鳩十羽ほどを従えた鳩の像もある。「何で、鳩が?」鳩は八幡神の神使だ。「ヘーッ、そうなんだ。」「だから鎌倉に鳩サブレがあるだろう?」「生シラスが揚がったそうです。」桃太郎は店と連絡を取っていた。
     七月の海の日の浜降祭には神輿が海に出るのだ。「夏だからいいよね。冬だったら大変だ。」「ハマコウ祭って、千葉県かと思うよ。」ハマコウ(浜田幸一)は木更津のやくざであるが、これはハマコウではなく、ハマオリと読むのだ。「そうか。」浜降祭は寒川町(勿論寒川神社のお膝元である)と茅ヶ崎市内の各神社の神輿が一斉に海に入り、そのあと地元町内を練り歩くというものである。
     神社を出ると住所は下町屋になった。「したまちか?」「そうじゃなくて、町屋の下なんじゃないか。かみしもある。」住宅地を歩いて東海道に出たところで、下町屋交差点の角にラーメン花月があった。「八王子みんみんラーメン」の幟が翻る。「八王子ラーメンって?」「玉ねぎが載ってるんだ。」八王子の「初富士」が発祥とされる。

    当初は地元でも知られていなかった八王子の刻みタマネギ入りラーメンを町おこしに使おうと、二〇〇三年に八王子市役所職員や地元大学生・千種康民(東京工科大学准教授)が八麺会を設立。後に「八王子ラーメン」と名づけ、町おこしに利用している。刻みタマネギ以外に醤油ベースのたれ、表面を覆う油脂を三大特徴とする八王子ラーメンを出す店は現在、市内に三十軒以上あるという。(ウィキペディア「八王子ラーメン」より)

     生の刻みタマネギを入れるのがミソなのだが、それだけで主張できるというのが不思議なことだ。「だけど、ここは花月のチェーンじゃないか。」スナフキンとロダンはラーメン屋に詳しい。私は全く分っていない。幟には昭和五十七年創業・八王子ラーメンの老舗「みんみんラーメン」監修とある。「みんみんラーメンも有名ですよね。」
     雨が落ちてきた。「午後まではもつかと思ってたのに。」東海道を西に歩くと神明社があったが、ここは桃太郎の目的ではないから寄らない。「神明社って?」「アマテラス。」街道沿いの民家の塀の中でノウゼンカズラが咲いている。もうそんな季節になったのか。このオレンジ色の花を見ると真夏の暑さが思われる。
     下町屋橋(小出川)のたもとには国指定旧相模川橋脚のモニュメントが建っている。しかし桃太郎は止まらずにどんどん歩いていく。「これじゃないのか?」ここにあるのは単なる看板だったようだ。少し行くと神奈川県衛生研究所脇の公園の一角に、直径五十センチほどの丸太が七八本立っていた。これが実際の跡地である。茅ヶ崎市下町屋一丁目。但し、地面から突き出ているのはレプリカで、本物はその下の地中に埋め戻してある。
     大正十二年(一九二三)の関東大震災で、液状化した地下から突然これが出現した。沼田頼輔の考証によって、建久九年(一一九八)稲毛重成が亡妻の供養のために架けた橋の橋脚と認定された。これに拠って国の指摘に指定され、更に関東大震災時の液状化現象を表すものとしても追加指定を受けている。稲毛氏は秩父平氏の流れである。

     以来、池の中で保存されてきたが、水上に露出した部分の材の腐食が進行したため、平成十三年(二〇〇一年)以降、茅ヶ崎市教育委員会による保存整備を前提とした学術目的の発掘調査がおこなわれた。
     以後、三回の内容確認調査によって、新発見の橋杭一本を含めヒノキ製の橋杭が計十本確認された。その配置は、二メートル間隔の三本一列の橋脚が十メートル間隔で四列に並んだものと推定される。橋杭となった木柱は、年輪年代測定によれば西暦一一二六年~一二六〇年の一時点に伐採されたヒノキ材と同定された。また、橋杭の周辺には地震による噴砂・噴礫の痕跡、鎌倉・南北朝期の横板・角柱・礫等を用いた土留のための遺構などが確認された。(ウィキペディアより)

     当時の写真が掲示されているのを見ると、泥田の中にいきなり出現したようだ。そして現在の流路とは違って、この辺りを相模川の旧水路が流れていたことも分るのだ。つまり現在の小出川はかつての相模川の痕跡になるのだろう。
     東海道を東に戻ると、鳥井戸橋(茅ヶ崎市下町屋二丁目)の左に大きな朱塗りの鳥居が見えてきた。さっきの鶴峰八幡の大鳥居で、松並木がここまで続いているのだ。「ここまで続いているんですか。すごいな、これは。」「この辺は何もなかったんだよ。」
     そして橋の袂に「南湖(なんご)の左富士之碑」が建っていた。東海道を下る人は富士を右に見る。「ここはクランクになってるんでよ。」ここは街道が北に向かうので、富士が左に見えるのだ。広重が描いた(「南湖の松原 左り不二」)ことで有名になった。「東海道線は真っ直ぐ行くから見えません。」南湖とは、ここから南側の相模湾までの地名である。今日の雨では富士は全く見えない。
     今日は寄らなかったが、実は大鳥居を潜った辺りに弁慶塚がある。建久九年(一一九八)十二月二十七日、稲毛重成が橋の落成供養を行った時に頼朝も参列し、そこに義経の亡霊が現れた。驚いた馬が棒立ちになって頼朝は落馬した。これが重症になって頼朝は一ヶ月後に死ぬ。頼朝が橋供養の帰途から体調を崩したのは史実と認められるが、世人は義経の祟りだと恐れ、怨霊を鎮めるために塚を築き弁慶塚と名付けたと言う。
     「ここからバスに乗ります。」途中でバスに乗るのは珍しいコースだ。橋を渡ったバス停でバスを待つ。「バスでどのくらい?」「五六分でしょうかね。歩くと結構あるんですよ。」地図を見ると一キロもなさそうだが、雨の中は余り歩きたくない。十分程待ってバスは来た。左富士通りをほぼ真っ直ぐに南下し、浜見平団地で降りる。「こんなところで?」シラスを食わせる店があるような場所には見えない。ピンクの夾竹桃が咲いている。これも夏の花で、今年初めて見る。
     少し歩くと南湖通りが国道一三四号線にぶつかる。なるほど海に沿った場所で、ここが今日の昼食どころだ。「快飛(かっとび)」。茅ヶ崎市柳島海岸十五番十二号。「快飛」と書いて「かっとび」とは、余りお目にかからない表記だ。
     十二時丁度だ。「観光バスも来てるよ。」思った以上に大きな店で、入口付近では何組もの客が順番を待っている。その連中が不思議そうな顔をしているのを尻目に、桃太郎が予約してくれているから私たちはすぐに二階の部屋に案内された。座敷だから靴は脱がなければならない。
     ここは網本北村水産直営の店で、朝水揚げしたシラスを生で提供するのだ。「いいなあ。だけど生シラスは午後一時を過ぎるとダメらしいですよ」と、昨日喫煙所でノノカちゃんが言っていた。大学の喫煙所で知り合った若い女性である。茅ヶ崎を歩いてシラスを食うと言ったら、「あたしも行きたい」と言ったのである。「あたしは食べたことないけど、江の島の人が言ってました。」それなら一緒に来るかと訊けば、年寄と歩くのはイヤだと言う。「だってコワいし。」何が怖いのか分らない。
     ビールはキリンの一番搾りだった。五百八十円。「良かった。」スーパードライが苦手なファーブルが安心するが、丼と合わせると二千円を超え,今日はかなり贅沢な昼食になる。「いいじゃないですか、滅多にないことなんだから。」
     それ程待たずに料理が運ばれてくるのは予約のお蔭だ。丼に醤油を垂らそうとすると、「刺身皿がありますよ」とロダンに注意を受けた。しかしワサビはないのだから、そのままシラスに直接醤油を垂らして良いだろう。「生シラスはダメなのか?」そういう訳ではないが、あのネットリした食感がなんとなく今日の気分ではない。「釜揚げだって、普段はなかなか食べられないよ。」普段食べられるのは精々シラス干しであろうか。確かに本場ものだと思えば旨い。
     「シラスは海から揚げたから塩味がついてるのかな?」ヤマチャンが訊いてくる。「生シラスは洗っているからね、海水のままってことはないんじゃないの。」「釜揚げは少し塩味がついているかも知れない。」「そうですか。」
     ヤマちゃんが注文したのは生シラスと釜揚げシラスの二色丼である。「味がついてますかね?」ヤマチャンはくどいね。釜揚げには微かに塩気があるかも知れない。桃太郎とマリオの搔き揚げには確かにシラスが入っているようだが、搔き揚げにしてしまえば味は余り分らないのではないか。
     「眼がイヤだな。」マリオがそんなに繊細だとは知らなかった。「だって、こんなに眼がいっぱいあるんですよ。」「あんみつ姫がいたら、やっぱりそう言うかも知れない。眼が怖いって。」「わがままな人なんだ。」ファーブルの天婦羅の量が多い。これも丼と同じ値段だった。「食べきれないよ」とエビの天婦羅が私に回ってくる。
     「シラスはイワシの子だろう?何イワシ?」「カタクチイワシ。」しかしウィキペディアによれば、カタクチイワシに限らず「マイワシ・イカナゴ・ウナギ・アユ・ニシンなど、体に色素がなく白い稚魚の総称」である。

     塩茹でして加工されるものがほとんどだが、水分含有量の違いで区別され、茹で上げ後水きり程度で製品となるものが釜揚げと呼ばれ八十五パーセント前後の水分含有量となる。五十~六十パーセント程度に乾燥されたものが白す干、二十五~三十五パーセント程度まで乾燥させたものがちりめん、それ以外の加工方法として畳いわしという海苔を作るような方法でシラスを板状に乾燥させたものがあり、これは水分含有量十五パーセント程度となる。(ウィキペディア「シラス」より)

     「シラウオは?」「あれはシロウオ。」私はシラスもシラウオも同じだと思っていたから無学である。シラウオはキュウリウオ目シラウオ科、シロウオはスズキ目ハゼ科で、いずれも食用にするのは成魚であった。
     食べ終わってから、「なんだか、味がしなかったよ」とヤマチャンがボソッと言う。さっきから言っていたのは「味がない」と言うことだったのか。「醤油があったじゃないの。」「気付かなかったよ。こういう味なのかと思った。」ヤマチャンは私の隣に座っているのだ。生シラスと釜揚げシラスの二色丼を醤油なしで食ったのだから、折角のシラスもたぶん不味かったと思う。
     ビールを注文した人にはお茶の茶碗がない。お茶が飲みたい。スナフキンが「あがりちょうだい」と注文した。「客があがりって言うのは下品だって知らないか?」「店の符丁だから?」要するに正しい日本語ではない。寿司屋で最初に「あがり」を頼むやつがいる。何を考えているのか。お茶をくださいと言えば良いのだ。
     「あとさ、オアイソっていうやつ。」勘定してくださいと言えば良いのである。
     こんなことを私は山口瞳に教えられた。「よく覚えてるな。江分利満シリーズは読んだけど、そんなことは忘れてしまったよ。」似たような意味で、私は斎藤緑雨のこの言葉も肝に銘じている。

     汝士分の面目をおもはば、かの流行語(流行りことば)をいふを耳にすとも、決して口にする勿れとは、わが物の師の堅く誡めたまへる所なり(斎藤緑雨『おぼえ帳』)

     山口が直木賞を貰ったのが『江分利満氏の優雅な生活』、次作が『江分利満氏の華麗な生活』で、私はどちらかと言えば『華麗な生活』の方が好きだった。山口瞳は昭和元年の生まれ、私の父が一年早い大正十四年生まれで(丸谷才一、三島由紀夫も同じ)、『華麗な生活』には戦中派の心情がモロに滲むのである。「城山三郎が昭和二年、藤沢周平や吉村昭と一緒だよ。」
     そこにお茶のポットだけが持ってこられた。「そうじゃなくて、湯飲みがないんですよ。」暫く経ってやっとほうじ茶の入った湯飲みが出てきた。
     伝票人表示されている金額は本体価で計算が面倒だ。「十パーセントになったら計算しやすいかもね。」「そういう問題ではないよ。」手計算しようとすると、スナフキンがスマホで計算してくれた。二千八円八十銭。これが切り捨てになるか切り上げになるか。十二時五十四分。

     雨はさっきより大分激しくなっているようだ。レインカバーを持っていない私は、取り敢えずリュックをビニールの風呂敷で覆った。スナフキン、ファーブル、ヤマチャンはカッパとレインパンツを着ける。マリオもビニールの合羽を着こんでいるが、私とロダンは何もない。濡れるかも知れないから着替えは持ってきたが、長袖は持ってこなかった。暑くなると思い込んでいたのだ。「寒くなるって言ってたじゃないの。」最初にも書いたように、私は最高気温二十五度を信じていたのだ。
     「海が見えますね。」国道の歩道橋を渡って海岸沿いの道路に出る。雨の茅ヶ崎。こんな日に歩くのは誰もいないだろう思えば、一人だけ私たちを追いぬいていく男がいる。彼は何を考えて歩いているのだろうか。サーフィンをやっている連中もいる。波はかなり高い。あの連中は雨なんか関係ないだろう。「釣りをしてるよ。」「こんな日に釣れるかね。」「キスだろうね。あるいはメゴチかな。」自転車にサーフィンを括り付けて走る人がいる。「ああいう器具も埼玉じゃ売ってないね。」私は初めて見た。
     「これは?」「ハマユウの花だね。」「ハマユウコっていたよね。」浜木綿子である。三代目市川猿之助(後の二代目市川猿翁)との間に香川照之を儲けたが、猿之助が藤間紫の元に去ったため離婚して照之を育てた。横須賀市、三浦市、真鶴町では、これを市や町の花に指定している。ヒガンバナ科。
     海の家の建築現場にやって来た。「この時期に手直ししないとダメなんだよな。」やがてCの形のオブジェにたどり着いた。「サザンの記念碑です。」「サザンならS じゃないのか。」ここはサザンビーチ、オブジェは茅ヶ崎サザンCと名付けられている。「Cって、何だい?」「茅ヶ崎のCです。」その真ん中から遠くに烏帽子岩が見える。二人でCの右側に立つと円が完成するので、縁結びの御利益になると言う。人はそんなにご利益が欲しいものだろうか。

     梅雨寒や縁を結ぶと烏帽子岩  蜻蛉

     「インスタ映えっていうやつかい?」インスタグラムをやっている者は一人もいない筈だが言葉だけは知っているのだ。しかしそれは要するに何なのか。写真を公開して見ず知らずの他人と共有したいとは、どんな衝動に拠るのか私にはさっぱり分らない。「ファーブルが新種のハエを発見した時に命名する。インスタ蠅。」今日のマリオは絶好調ではあるまいか。
     桑田佳祐の実家が茅ヶ崎市南湖にあり、サザン・オールスターズの名はそれに由来する。「サウザンって書いてある。」普通はサザンと読む筈だ。『愛しのエリー』なんか良い歌だったとは思うが、日本語をわざと英語風に発音するのが私はダメだ。
     「原由子の実家が関内駅前にあるんだ。天ぷら屋だよ。」「良く知ってるね。」私はそもそも由子と言う名前も知らなかった。雨はやまない。車止めが烏帽子岩の形をしている。「江の島も見えるよ。」ここは湘南海岸である。

     君がため瀟湘湖南の少女(おとめ)らは われと遊ばずなりにけるかも  吉井勇

     相模の南なら相南と書くべきところ湘南と表記するのは、この歌にもあるように洞庭湖のある「瀟湘湖南」から採られたからだ。元々は鎌倉の禅宗寺院が、海と山のある鎌倉の地を瀟湘湖南に準えたものだが、今では藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、大磯町、二宮町辺りを言うのだろう。

     江戸期に大磯発祥の命名とされる「湘南」は、明治期に政治結社名や合併村名に用いられた。当時、相模川以西地域が湘南、相模川以東地域は湘東または新湘南という認識だった。明治期の「湘南」は、山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域に限られていたと考えられる。
     明治維新により、当時西欧で流行していた海水浴保養が日本にも流入し、適した保養地として逗子や葉山、鎌倉、藤沢など相模湾沿岸が注目されて別荘地となり、湘南文化が芽生える。
     一八九七年、赤坂から逗子に転居した徳冨蘆花が逗子の自然を國民新聞に『湘南歳余』として紹介する。翌一八九八年、元日から大晦日までの日記を『湘南雑筆』として編纂して随筆集『自然と人生』(一九〇〇年)を出版する。これを端緒に「湘南」は、当初の相模川西岸から、相模湾沿岸一帯を表すように変化する。(ウィキペディア「湘南」より)

     いったん海岸を離れ、国道の歩道橋を渡って茅ヶ崎公園に入ると、土手の上に独歩追憶碑が建っていた。ネットを調べてみると、碑文には「永劫の海に落ちてゆく 世世代代の人の流れが 僕の前に横はって居る」とある筈だが読めない。そもそもこの典拠が分らない。ここは結核療養所(サナトリウム)の南湖病院の跡地であり、つまり独歩終焉の地であった。
     「病気?」「結核だよ。」独歩は自然主義の旗手と目されたが、数え三十八歳で死んだ。「有名になってから二年だってさ。」「あの当時、結核に罹ったら必ず死んだんだ。」そのほとんどが貧困による栄養不足と劣悪な住環境による。二葉亭四迷、樋口一葉、斎藤緑雨、石川啄木と名前を数えてみるがキリがない。
     独歩がいなければ田山花袋もいなかったかも知れない。無名の修業時代からの親友である。独歩は天才を自任し、それをまばゆい思いで見つめる花袋は凡人を自任していた。

     何処まで本当だかわからない、こういう風にTは時々思った。Kの話は上手で、軽快で、すっきりとしていて、どんな話をしてもすぐ人をその中に引張込む。友人同士五、六人集まった席でも、Kはいつでも話の中心を握る。サアクルの中の帝王になる。傍で聞いているTも、始めの中は面白く引張られて行くが、後には余りに図に乗った形が憎くなる。従ってその話も半分は好加減のような感じがする。「先生、またやってるな、また人を魅しているな。先生、あれで女の歓心を得るんだな。」こんな風にTは思った。
     そのくせ、TはKの本当の心持、純な心持、泣く時にはほろほろと涙をこぼすというような心持を尊敬している。またTが感心するようなことをKはよく口にする。宗教と人生、恋愛と死、そういう話題にかけては、Kは独特の深い信仰と瞑想とを持っている。クリスチャンだから、それでああいう風な話が旨いんだと打消しても、それでもTはいつも感心させられる。(田山花袋『東京の三十年』「KとT」)

     K(国木田独歩)とT(田山花袋)は同い年だった。花袋が初めて渋谷道玄坂の独歩の家を訪れた時、独歩はカレーライスをご馳走した。と言っても、炊いた飯を皿に盛り、カレー粉を混ぜ込んだだけのものである。そして花袋は柳田國男もその家に連れていき、独歩に紹介した。花袋と柳田は桂園派の松浦辰男の門下である。三浦雅士『青春の終焉』によれば、桂園派の感受性は文部省唱歌に流れ近代日本人の感受性を決定した。
     「三鷹駅前にも独歩の碑があるよな。」北口に『山林に自由存す』の詩碑がある。スナフキンの案内で玉川上水を歩いた時には桜橋付近で『武蔵野』の冒頭を記した碑を見つけた。独歩は二葉亭四迷訳『あひびき』に深く影響を受け、『武蔵野』を書いた。それまで雑木林に美を見る感受性は日本人にはなかったが、それを定着させたのは独歩の功績である。浪漫主義から自然主義への転換期を生き、自然主義派の棟梁と目された。しかし雨の中である、それについては後で書こうと思う。
     国道に戻って東に進む。雨はやまない。バス停でマリオが止まった。「もう限界、バスで帰ります。」マリオは元々雨の中を散歩するのは嫌いな人なのだ。少し歩くとバスが行った。「マリオが乗ってたわよ。」
     更に一キロほど歩いて菱沼海岸の交差点を曲がるとラチエン通りとある。どうも、湘南の地名の付け方は独特だ。この名はドイツ人貿易商のルドルフ・ラチエンが、昭和十一年(あるいは七年)から住んだ別荘があったことに由来する。またラチエンがこの道筋に桜並木を作ったことから桜道とも呼ばれるそうだ。
     「そんなに行くと通り過ぎちゃうかもしれませんよ。」「もうちょっとでバス停がある筈なんだ。」「こんな道をバスが通るんですか?」確かに狭い道だがコミュニティバスが走るのだ。そして開高健記念館に着いた。茅ヶ崎市東海岸南六丁目六番六十四号。「最初にバス時刻を見ようよ。」「一時間に一本で、次は二時三十五分。」「それじゃ二十分もないな。その次は?」「三時三十七分。」「それにしよう。」
     「茅ヶ崎ゆかりの人物館」と共通で三百円だ。中に入ると、背の高い白髪の男性と、それより少し若い女性が待機していた。まずトイレを使って部屋に戻ると、皆は開高健のインタビュー映像を見ている。
     晩年は太り過ぎたが、映像の中の開高健はまだそれ程ではない。四十歳代だろうか。赤ワインを自分で注ぎながら、時々タバコを吸って、まあ良く喋る。「原稿を読んでるのかな?」そんなことはない。「やっぱり関西人だな。小田実もこんな感じだった。」小田実はもう少し早口でドモリ勝ちだったけれど。戦争も釣りも全て日常性からの飛躍であり、芸術家にとって重要なことなのだ。己を芸術家と断言できるだけ自信満々である。私は多分、この辺の感覚が合わなかったのだ。芸術家にとっての非日常はこんな風だった。

     五分後。  とつぜん木洩れ陽の斑点と独特の白熱と汗の匂いにみちた森のなかで銃音がひびいた。マシン・ガンと、ライフル銃と、カービン銃である。正面と右から浴びせてきたのだ。ドドドドドッというすさまじい連発音にまじって、ピシッ、バチッ、チュンッ!・・・・・・という単発音がひびいた。ラスがパッとしゃがんだ。そのお尻のかげに私はとびこんだ。それから肘で這って倒木のかげへころがりこんだ。鉄兜をおさえ、右に左に枯葉の上を転げ回った。(中略)
     ・・・・・あとでジャングルで集結したとき、私は三〇名ほどの負傷兵を見た。あたりはぼろぎれと血の氾濫であった。彼らは肩をぬかれ、腿に穴があき、鼻を削られ、尻をそがれ、顎をくだかれていた。しかし、誰一人として呻くものもなく、悶えるものもなかった。血の池のなかで彼らはたったり、しゃがんだりし、ただびっくりしたようなまじまじと眼をみはって木や空を眺めていた。そしてひっそりと死んだ。(中略)
     沼地をこえようとしたとき、さいごのライフル銃と自動銃のすさまじい掃射が私たちの背を襲った。私の直後、秋元キャパの真横を走っていたベトナムの大尉が右肩に、貫通銃創を受けて倒れた。私はバグを捨てて走った。(『開高健『ベトナム戦記』』

     ここは開高健が昭和四十九年(一九七四)から平成元年(一九八九)に五十九歳で死ぬまで住んで家である。「娘は自殺したんだよ。」私はそれを知らなかった。平成六年(一九九四)四十二歳で鉄道自殺している。一人残された妻で詩人の牧羊子は平成十二年(二〇〇〇)に死んだ。開高健は妻や娘から逃れるために、あんなにも頻繁に海外に出かけていたのだとは、谷沢永一の証言である。谷沢は開高の親友であるが、牧羊子とは仲が悪かった。
     隣の部屋の棚には膨大な著書が収められ、床の隅にはウィスキーやワインの空き瓶が並べてある。「サントリーにいたんだよね。」元々、牧羊子が勤めていた縁による。牧羊子は大正十二年(一九二三)生まれだから開高健とは七歳も違う。開高健が二十一歳の時、羊子が妊娠したので結婚した。その二年後、育児に専念するために羊子が退職し、その後任として開高が宣伝部に採用された。
     「だけど角瓶がないですね。」桃太郎が気付いた。確かにそうだ。だるるま(オールド)やロイヤルはあるが角瓶がない。「それは拙いんじゃないの。」サントリーのウィスキー事業は当初から試行錯誤による累積赤字を重ねてきたが、昭和十二年に売り出された角の成功によって、サントリーの経営基盤が盤石になったのである。「それは気が付きませんでした。今度置いておきます。」
     ホワイトがないのは仕方がないか。二級酒だからね。わが学生時代はサントリー・ホワイト(八百円)ばかりだった。たまにはブラックニッカも飲んだが、これを置く店は少なかった。角瓶は千四百五十円、オールドは千九百円、ブルジョアの酒である。あの時代、安いのはサントリー・レッドかハイニッカで(五百円かな)、このクラスは余り飲まなかったが、どちらかと言えば私はハイニッカ党だった。それよりもっと安いオーシャン(三百円)と言うものもあったが、これは一度でやめた。不味いのである。ここに記すのは全て七百二十ミリリットルの価格だ。
     トリスは柳原良平のアンクルトリスの絵だけを知っていて、酒自体は記憶にない。現在のウィスキー事情は良く分らない。輸入ウィスキーは極端に安くなったし、角もブラックニッカも、昔とは味が違うのだ。飲みやすくなったかも知れない。 
     昭和三十三年(一九五八)『裸の王様』で芥川賞を受賞する直前から作家としての内職が忙しくなり、後任を募集した。当時は寿屋で、サントリーに社名を変更したのは昭和五十八年(一九六三)である。そこに応募したのが山口瞳である。

     私は、編集者時代の仲間の紹介状と、規定の書類をもって、当時、中央区の茅場町にあった寿屋東京支店を訪れた。
     「コーヒーでも飲もやないか」
     開高は、日本経済新聞社の裏側にある喫茶店へ私を連れていった。
     おどろいたことに、開高は、採用する側の人間と入社希望の男と言う関係ではなしに、いきなり、久しぶりで会った友達同士という感じで話しだした。
     『洋酒天獄』の成りたちや編集方針や、会社の仕組みや、自分の勤務状況などについて話してくれた。
     当然のことのように、小説の話にもなった。開高は推理小説をよく読んでいた。早口で、ときどきこちらの耳が痛くなるような大きな声を出すことがあった。そのときの開高は痩せていて、体操の選手のような引き締まった体つきで、まことに鋭い感じだった。気勢は大いにあがっていたが、ふいに黙りこんでしまうようなこともあった。そういう時期だったのだろう。たとえていえば、恍惚と不安が訪れようとしているような――。(山口瞳『青雲の志』)

     開高健は昭和五年、山口瞳は元年の生まれである。但しこの編集部員募集は開高が会社の承諾を得ぬままに勝手にやったことだったので、山口の正式入社までは結構時間がかかった。開高の芥川賞受賞が決まって、会社としても本格的に後任を採用しなければならなかった。
     サントリーを辞めた後も開高はサントリーの広告に関係した。柳原良平もいた。日本人の酒に対する態度は彼らサントリー宣伝部によって養われたと言っても良い。『洋酒天国』のアンソロジーを持っていた筈だが、これも見当たらない。
     その隣は書斎だが入ることはできずガラスを隔てて見るだけだ。「さっきのインタビューはここでやってたんだ。」大きな魚の剥製が壁に架けられている。「イトウかな?」「幻の?」「あれはピラニアじゃないの?」「ルアーも大きいよな。」
     私は良い読者ではないが『私の釣魚大全』と『叫びと囁き』を何故か買っていた。『輝ける闇』と『裸の王様』は文庫本で読んだ筈だが見つからない。「俺は『オーパ!』のシリーズは全部読んだ。」そこまでの関心はなかったね。思い出したから『叫びと囁き』を出してみると、『過去と未来の国々』『ベトナム戦記』などが収録されている。どちらも別々に読んでいる筈なので、どうしてこの本を買ったのか分らない。
     谷沢永一との関係も解説にあるが、この名前を知っている人は余りないのではないだろうか。「谷沢はスゴイんだよ。」「そうなの?」開高とは旧制天王寺中学の一年上で、同人誌の仲間であった。同じ仲間に向井敏がいるが、彼についてまで触れると長くなり過ぎる。谷沢は厳密な書誌学的研究を基に、世に埋もれた名著を顕彰し、一方では愚劣な本や安易な編集の全集本を徹底的に糾弾して読書界に恐慌を巻き起こした。その恐るべき書評は『紙つぶて(全)』にまとめられているが、開高に関しては殆ど批評を放棄し、開高自身の小説を引用するに止まっている。

    『見た・揺れた・笑われた』(角川文庫)に収める短編「太った」のモデルは「彼」が開高健で「私」が谷沢、篇中の「私」は「彼」への視座に言い及んで曰く、「こういう気持ちを持つ私は彼の作品について批評家にはなれないと思っている。少女歌手に拍手する一人の少女とおなじ心理しか私は持っていない。おそらく私は一人の作家を遠くから眺めているではないのだ。じっさい、芥川賞をもらってから以後の彼のさまざまな作品について私は彼になにひとつとしてまともな感想を手紙に書いて送ったことがないのである」。(谷沢永一『紙つぶて(全)』)

     庭も立派だが雨だから行けない。「それじゃ、隣に行こうか。」隣が茅ヶ崎ゆかりの人物館である。団体客が入っている。どうやら二十人程の団体が二組に分かれて、ここにいるのが後半組のようだ。一室は企画展「没後一一〇年 国木田独歩 茅ヶ崎ですごした最後の一四一日」である。

       停車場を下りて、昔の宿場の名残の残っている町を通って、それから汽車の踏切を越えると、ポプラで囲まれた小学校があった。松原がそこにも此処にも見えて、富士の白雪が寒く日にかがやき渡った。
     半は松原、半は畠、処々に瀟洒な別荘や藁葺屋根やあ漁師の家や、そういうもののある中をうねうね曲って通じている路を、私は度々通って行った。
     国木田君は、明治四十二年の二月から、相模の茅ヶ崎の南湖院にその病を養っていた。
     私は何とも入れない感慨に撲たれながらその道を通っていった。折角世にその才を認められたかれ、新規運の唯中に立っているかれ、『独歩集』『運命』が版に版をかさねるようになったかれ、そのかれがこうして不治の病にかかろうとは! 私は一番深く国木田君と爾汝相許した仲なので、それを思うと悲痛の涙に咽ばずにはいられなかった。(田山花袋『東京の三十年』「独歩の死」)

     花袋が初めて見舞ったとき、病室には独歩夫人と、独歩最後の愛人の「お君さん」と言う看護婦が、かわるがわる看病をしていた。

    ・・・・お君さんが最後まで垂死のかれを看病したということだけでも――それは夫人との意地の争いであったかも知れないが――私はお君さんの愛がかれの上にあったということを思わずにはいられない。お信さんのような女に苦しんだ彼が、最後の床に、そういう女性を引つけていたということは、むしろかれの生涯を芸術的に色彩づけたことではないか。(花袋・同)

     ここに登場する「お信さん」は佐々城信子、有島武郎『或る女』のモデルである。熱烈な恋愛によって駆け落ちし、蘇峰の媒酌で結婚したものの結婚生活は短期間で破綻した。それが独歩を生涯苦しめた。真山青果は独歩の病床を頻繁に訪れて、死に至るまでその状況を逐次読売新聞に投稿した。独歩はスターだった。青果は独歩の記事によって世に出ようと野心を抱いていたから、花袋は面白くない。
     「結核療養所は清瀬が有名だよね。」清瀬の方は国立だが、独歩が入院した南湖院は私立で、しかもかなりの規模だったと言うのを初めて知った。

    医師高田畊安によって一八九九年九月に開院し、「東洋一」のサナトリウムと称せられたが、一九四五年五月に海軍に全面接収されて解散となった。盛時は東京の医学生のほとんどが卒業必修単位の如くに見学に訪れたという。名称は地名の南湖(ナンゴ)に拠るが、濁音を嫌った高田畊安によって「ナンコイン」と称された。場所は現在の茅ヶ崎市南湖六丁目の県立茅ヶ崎西浜高校や老人ホーム太陽の郷のあたりが比定される。敷地は当初は五千五百六十八坪、最盛期の昭和十年代には計五万坪余もあったという。建坪は四千五百坪、病室は百五十八室。(ウィキペディア「南湖院」より)

     今でも建物が国登録有形文化財として残っている。雨でなければ見ておきたいところだった。大手拓次、八木重吉などがここで亡くなった。その他に療養生活を送った中には落合直文、佐藤惣之助、坪田譲二、中里介山などがいる。
     「独歩って、大したことないだろう?」現代の基準で見るとそう見えるかも知れない。現代日本語で小説を書くと言うことが始まってまだ間もない時代だ。しかし『武蔵野』は名作だと思う。但し近世農民が営々と作り上げた武蔵野の雑木林を前にして「山林に自由存す」と言うのは少しおかしかったろう。
     隣の部屋は茅ヶ崎ゆかりの人物で、「ゆかりの百人」とか「三百人」とかが小冊子になっている。その「ゆかり」の度合いがおかしい。伊藤野枝は、平塚らいてうの姉の見舞いに訪れたという只一点でここに取り上げられる。林達夫は茅ヶ崎ではなく鵠沼だったか。大岡昇平は成城に居を構える前は大磯に住んでいたから少し違う。SF作家でサックス奏者の広瀬正(『マイナス・ゼロ』は傑作)が茅ヶ崎に住んでいた。
     「城山三郎が余り取り上げられてないな。」スナフキンはそれが不満だ。「城山三郎は茅ヶ崎に長く住んでたんだ。」スナフキンは詳しい。「ここに住んで岡崎の大学まで教えに行ってたんだよ。」城山三郎の本は父の本棚にかなりあって、自分では買わないが少しは読んでいる。「俺はかなり読んだな。」スナフキンの読書量には今更驚かない。
     伝記小説と経済小説が本領だが、秋田の中学生が最初に読んだのは『重役養成計画』なんていうユーモア小説だった。一番感心したのは、浜口雄幸を描いた『男子の本懐』だろうか。「俺も一冊だけ熟読したよ。題名は忘れちゃったけど。」熟読した本のタイトルを忘れるのはヤマちゃんらしいか。
     「昭和二年生まれで、吉村昭、藤沢周平とおんなじ。」スナフキンはさっきも言っていた。志願して海軍に入隊したと言う。「少年兵ですか?」昭和二十年には既に徴兵年齢が繰り下げられているから少年兵ではないが、私は城山の経歴には殆ど関心がなかった。

     愛知県名古屋市中区生まれ。名古屋市立名古屋商業学校(現:名古屋市立名古屋商業高等学校)を経て一九四五年(昭和二十年)、愛知県立工業専門学校(現:名古屋工業大学)に入学。理工系学生であったため徴兵猶予になるも大日本帝国海軍に志願入隊。海軍特別幹部練習生として特攻隊である伏龍部隊に配属になり訓練中に終戦を迎えた。一九四六年(昭和二十一年)、東京産業大学(現:一橋大学)予科入学、一九五二年(昭和二十七年)、改名された一橋大学(山田雄三ゼミナール)を卒業。卒業論文は「ケインズ革命の一考察」。大学在学中に洗礼を受ける。
     父が病気になったため帰郷し、岡崎市にあった愛知学芸大学(現:愛知教育大学)商業科文部教官助手に就任。担当は景気論と経済原論。後に同大学文部教官専任講師。この間金城学院大学にも出講。一九五四年(昭和二十九年)、丸山薫の紹介で、永田正男、宇佐美道雄、国司通、岩崎宗治と月一回の読書会「クレトス」を始める。名古屋の「近代批評」の同人に加わる。一九五五年(昭和三十年)、一橋大学経済研究所に出張。一九五七年(昭和三十二年)三月、名古屋市千種区の城山八幡宮(末森城址)付近に転居、同十二月神奈川県茅ヶ崎市に転居。(ウィキペディア「城山三郎」より)

     見るべきものはもうなくなって、バスの時間までのんびりする。バス時刻の少し前に出ると、係員が外まで来て見送ってくれる。
     バスは記念館側と斜向かいと二つある。循環バスでどちらに乗ってもよさそうだ。「こっちが三十五分、あっちは三十七分だよ。」路線図を見ていたマリーが、「三十五分のバスがどこかで回ってきて三十七分になるみたい」と判断した。
     バスの座席は十三であった。コミュニティバスだから、住宅地の中の狭い道をかなり遠回りしていく。茅ヶ崎に着いたのは四時頃だった。一万七千歩。バスを使った割には意外に歩いている。「結構疲れちゃったよ。」珍しくファーアブルが苦笑いする。雨の海岸が効いているのだ。
     「今日はどこにする?」東京方面に向かえばどこでもよいが、桃太郎はどうだろうか。それでも大船に決まった。「前に行った店があるよ。」東海道線に乗ると結構混んでいる。皆は一緒の席に並んだが私だけがちょっと離れた優先席になった。
     座ってすぐに、熱い目で私を見つめている美少女の視線に気づいた。女子高校生である。眼があった瞬間、彼女は私に微笑んだ。そして普通の少女と一緒に立ち上がってやって来た。恋はこうして生まれるかも知れない。
     「あちらの方たちとお仲間ですよね。どうぞ、向こうに座ってください。」「そんな、いいですよ。」美少女がにこやかに微笑むので余り遠慮もできない。「それじゃ、有難う。」彼女たちはドア付近に立つ。
     仲間とはぐれた孤独な老人への憐憫であった。しかし憐憫は愛に似たものである。Pity is akin to loveを「可哀そうだたあ惚れたってことよ」と、漱石『三四郎』の与次郎は翻訳した。ついでに思い出したが、「月がとっても綺麗ですね」はI love you の謂いである。
     折角私が感慨に耽っているのに、ヤマチャンは「どこの学校?」と無遠慮に訊く。「日大藤沢です。」日大と聞けばこのところ余り印象が良くないが、日大藤沢高校は良い学校である。中高一貫で、生物資源科学部に併設されていた。
     大船に着き、入った店は串揚屋だった。「前に山の帰りに入ったんだ。」最近この手の店が増えてきた。ビールはキリンの一番搾り。「こういう店はボトルがないんだよ。ホッピーでいいか。」ヤマチャンはビールをお替りした。「ドリンクのラストオーダーになります。」ラストオーダー?余りにも早過ぎないか。まだ一杯飲んだばかりだ。しかしどうやら早い時間帯の割引タイムの時間だったらしい。「そんなの書いてたか?」「全く気付いてないね。」ホッピーは対象にならず、ヤマチャンがビールを追加した。
     今注文したばかりだから、ヤマチャンの前にはビールのジョッキが二つ並んでいる。気が付くとロダンのグラスがヤケに泡立っている。ビールにホッピーを注いでたのだ。「なんで、こんなに泡が?」「それは俺のビールだよ。」「もう酔ってるんじゃないの?」
     私の隣の壁際の狭い席に若い女性がやって来た。「ここでいいですか?」「どうぞどうぞ。」「アレッ、さっきいたよね。」注文を取っていたアルバイトの子だ。休憩で食事をとりたいのだが場所がない。「アルバイト?」「大学生なんです。」「鎌倉女子大?」「そうです。」やっぱりね。大船撮影所の跡地にできた大学であるとは、スナフキンに教えられていた「子ども教育?」「家政科です。」
     学部構成までは知らなかった。「俺は理事長に会ったことがあるよ。」「エーッ、そうなんですか?」私たちをどういう集団だと思っているだろう。「家庭科の先生になりたいんですよね。お父さんもお母さんも先生なんで。」そういう個人情報を、初めて会ったオジサンたちに漏らしてはいけない。「オジサンじゃなくて、爺さんだろう?」しかし、家庭科の教師と言うのは需要があるのだろうか。
     「今日は沖縄の日なんですよ。」ロダンが言ってくれたから思い出した。そうなのだ。六月二十三日を忘れてしまっては日本人として申し訳ないが、私はすっかり忘れていた。ファーブルがちゃんと覚えているのは、その名前が今村均大将に由来するからだろう。
     しかし六月二十三日は沖縄県が指定する記念日であって、日本国が特に指定している訳ではない。勿論、六月二十三日だけが沖縄の悲劇を象徴する訳ではない。米軍は昭和二十年四月一日から沖縄上陸を開始したのであって、全沖縄県民の犠牲の上に日本国民の現在がある。
     ホッピーのナカの追加が四杯目になっただろうか。「一杯づつ注文するよりボトルを入れた方が二倍お得です。」特選宝焼酎であった。宝焼酎を単独で飲むことはないが、ホッピーには甲類でなければ合わないのだ。これを一本空けてお開き。

     この日の雨が、関東甲信地方の今年の梅雨の最後の雨になった。翌日からは三十度を超える暑さが続き、六月二十九日、気象庁は関東甲信の梅雨明けを宣言したのだ。六月中に梅雨が明けるのは初めてのことである。今年の夏は長そうだ。
     しかし列島全体を見れば梅雨前線は関東だけを避ける形で、九州から西日本、北陸、東北、北海道にかけて停滞している。そして、この三四日の雨は例を見ない記録的な大雨となって、広範囲に大きな被害を齎した。全貌はまだ不明だが、百人を超える犠牲者が出た。

    蜻蛉