文字サイズ

    近郊散歩の会 第十五回  浦和
        平成三十年九月二十一日(土)

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2018.10.08

     秋はいきなりやって来た。極端に短かった梅雨を取り戻そうとするのか、九月中旬以降、毎日のように雨が降っている。その少し前までは猛烈な暑さが続いていたのだが、気温も三十度を超える日は一日だけだったろうか。特に昨日は寒かった。ヒガンバナが咲き、ハナミズキの実が赤くなった。キンモクセイも薫ってくる。
     今回はヤマちゃんの企画で浦和を歩く。浦和はハイジ、ロダン、ダンディの地元である。つい先日は三島までかなりの遠出だったが、今日はゆっくり家を出た。久し振りに弁当持参である。「近場だから早く帰ってくるのかしら?」それは関係ない。近ければ遅くまで飲んでも大丈夫と言う判断もある。家から鶴ヶ島駅までは細かい雨が降っていた。
     JR浦和駅集合。改札を出ると、仲間と談笑している髪の長い女性の後ろ姿が見えた。どこのお嬢さんだろう、誰かが誘った新人だろうかと思ったら椿姫だった。随分久し振りではないか。一時体調を崩していたようだがすっかり元気そうだ。
     ヤマチャン、椿姫、あんみつ姫、ハイジ、マリー、オクチャン夫妻、ダンディ、スナフキン、ロダン、桃太郎、蜻蛉の十二人である。「ファーブルは来ないのかな?」念のためにメールを確認すると、急用ができたので欠席すると連絡が入っていた。
     「三島は楽しかったようですね」とオクちゃんが笑いかけてくる。オクちゃんも東海道踏破の途中、柿田川には寄ったことがあると言う。柿田川の湧水の量と勢いは圧倒的だった。「楽寿園には行けませんでしたが。」

     雨は止んでいても曇り空だ。西口からコルソ(ショッピングセンター)の中を抜け、さくら草通りに入る。長男がこの近くの極安式場で結婚式を挙げたから、懐かしい場所でもある。ヤマチャンの調べでは、さくら草通りは全国九番目の「歩行者専用ショッピングモール」として昭和五十七年にできたそうだ。自動車の入らない商店街である。「どうしてここがサクラソウ通りって言うのか、俺は知らないんだけど。」企画者のヤマチャンが知らないのか。「サクラソウは浦和市の花でした。」「埼玉県の花ですよ。」
     あんみつ姫の案内で、田島ヶ原のサクラソウ自生地を見たのはいつのことだったろうか。まだ作文を書くことがなかった頃だから十年以上も前のことだ。田島は今ではさいたま市桜区となって、区の花にサクラソウを決めている。因みに浦和区はニチニチソウだ。私は未だに「さいたま市」の名称に馴染めない。
     旧中山道にぶつかり左に南下する。暫く歩けば住友生命ビルがある。「ここに浦和営業所があったんだ。」その中に小さな課を作ったのだが、川越営業所と合併して増員もあり、指扇、日進と移ったから、ここに通ったのは一年に満たない。その頃は駅と営業所を往復するだけで、町を観察しようなんていう気は全くなかった。
     街道沿いには昔ながらの木造二階建ての店屋が二三軒残っている。そして調(ツキ)神社に着く。縣社延喜式内調神社。さいたま市浦和区岸町三丁目十七番二十五号。
     「私、ツキノミヤだとばかり思ってました。ツキジンジャが本当なんですか?」神社仏閣には殆ど興味のない椿姫がダンディに訊いている。「通称と正式名称でしょう。」おそらく「神社」と普通に呼ぶようになったのは明治以降のことだろう。江戸時代はツキノミヤあるいはツキヨミノミヤと呼んでいた筈だ。
     祭神はアマテラス、トヨウケビメ、スサノヲである。アマテラス(伊勢神宮内宮)、トヨウケビメ(外宮)が一緒に祀られるのは分るが、そこにスサノヲを加えたのは何故だろう。スサノヲは高天原で散々非行の限りを尽くし、そのためにアマテラスは天の岩屋に隠れるのである。素人考えで言うのだが、最初はアマテラスとトヨウケの二柱だけだったのではないか。しかし武蔵国では氷川神社のスサノヲを無視することができず、後から祀ったものかとも思われる。
     しかしこの三柱を祭神と定めたのは明治以降のことではないか。『江戸名所図会』では祭神をツキヨミとする。

    調の神社 浦和の駅より三町ばかりこなた、岸村といふにあり。社は街道より右に立たせたまふ。いま、世に月読の宮二十三夜と称せり。・・・・・社の向拝に掲くる「調神社」の額は、松平信定朝臣(信綱の四男)の筆跡なり。
    祭神 月読命一坐、本地勢至菩薩。(『江戸名所図会』)

     また「『武蔵国風土記』に曰く・・・・・・祭るところ瀬織津比咩なり。」とも記している。セオリツヒメは謎の女神である。治水神とするもの、アマテラスの荒魂とするもの、宇治の橋姫とするもの、熊野権現であるとするものなどの説がある。
     ハイジやロダンには普段の散歩コースだが、初めての人が驚くのは、狛犬の代わりに太ったウサギが鎮座していることだ。「あら、珍しいわね。」「調」を「ツキ」と読むことから、月待信仰・二十三夜と関連付けられ月の宮、月待の宮、月読大明神とも呼ばれた。そこから月のウサギを連想したのである。手水舎で水を吐き出すのもウサギだ。その他あちこちにウサギの彫刻がある。
     月のウサギに関する伝説は世界各地にある。インドから中国、日本にかけて仏教説話で語られるのは、死にかけた老人の食料とするため、自ら火に身を投じたウサギである。老人は実は帝釈天の化身であり、ウサギの捨身慈悲行を憐れんで月に昇らせた。月のウサギの周りに黒い影があるのは、身が燃えたときの煙である。同様の説話は仏教には関係のないアステカでも語られる。
     「コマウサギって言うのかしら?」ウィキペディア「調神社」にも「狛ウサギ」と書かれているがこれは誤りだ。狛犬はあっても、コマウサギとは呼ばない。狛犬はコマの犬ではなく、コマイヌという想像上の霊獣である。だから狛犬以外の動物にコマをつけて呼ぶのは正しくない。神使、あるいは眷属と呼べば良いか。
     「調がどうしてツキなんでしょうか?」。租庸調があるように、調は税で「ミツギ」の訓がある。「調」だけでミツギ、「御調」でもミツギと読む。辞書によれば古くは「ミツキ」と読んだ。「ミ」は接頭辞と考えれば、本来は「ツキ」である。

    由緒 略記  当社は天照大御神、豊宇気姫命、素戔鳴尊の三柱を祭神とする延喜式内の古社にして古くより朝廷及び武門の崇敬篤く調宮縁起によれば第九代開化天皇乙酉三月所祭奉幣の社として創建され第十代崇神天皇の勅命により神宮斎主倭姫命が参向此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられ武総野の初穂米調集納蒼運搬所と定めらる。倭姫命の御伝により御倉より調物斎清の為め当社に搬入する妨げと為、鳥居、門を取拂はれたる事が起因となり現今に到る。

     開化天皇の時代に創祀されたと言うのは信じなくても良い。綏靖から開化までは古事記、日本書紀とも事績の記述がないため欠史八代と呼ぶ。まず実在ではないとされているからだ。
     崇神天皇(第一代とする説あり)の時、武総野の初穂米や調物の集積所になったと言うが、本当か。武総野とは武蔵・上総・下総・上野・下野のことだと思われるが、上総から都までなら海上で三浦半島に渡って東海道を行く道がある。上野・下野にしても、東山道(中山道)を利用するならわざわざ浦和を経由する理由が見当たらない。但し、上野・下野から武蔵国府(府中)に至る東山道武蔵路と言う道があったらしい。これは毛の国(上野・下野)と武蔵国がほぼ一体であったことを意味するのだろうか。古代史は私には分らないことが多すぎる。
     私はこの「調」は「租庸調」の調だろうと疑いもしなかったのだが、そもそも租庸調は律令制の税制である。崇神天皇はそれよりかなり古いのだ。尤も律令制ができる以前から、現地首長に対する税(貢物)は存在していなければならず、ミツキ、あるいはミツギと呼んでいたとすれば、後世になってそれに「調」の文字を宛てたと考えられる。
     しかしそんなややこしいことを考えず、単純に崇神天皇を忘れて、創建を律令制以後に求めれば良いのかも知れない。こちらの方が現実的か。
     倭姫命(ヤマトヒメノミコト)参向もまず嘘であろう。倭姫命は朝廷にあって祟りをなすアマテラスの霊(八咫鏡)を安置する場所を求めて大和、丹波、紀伊、近江、伊賀等各地をさすらい、ついに伊勢に奉戴したとされる巫女である。遥か武蔵国までやって来る暇はない。後に武蔵国にやって来るのは倭姫命の甥にあたるヤマトタケルである。これが史実ではないと、わざわざ言うまでもないだろうね。
     倭姫命の流浪の行程は、伊勢神宮外宮の神官である度会行忠の撰になる『倭姫命世記』に詳述されているが、これは偽書である。仏教に対抗して神道を理論化するため仏教の理論構造を借りながら、神道五部書等(いずれも奈良時代に作成されたとする)多くの偽書を作成した。
     調物の運搬を妨げないよう鳥居や門を取り払ったとされる。実は最初から造られなかったのではないか。鳥居も門も神域と俗界とを遮る結界である。つまり本来、神を祀る場所ではなかったことを意味している。神楽殿正面には白犬を描いた大きな絵馬が飾られている。

     東側に隣接する調(ツキノミヤ)公園では骨董市の真最中で、かなりの人出で賑わっている。「毎月第四土曜日にあるんですよ」とロダンが教えてくれる。骨董だけでなく、反物や古着も出ている。ヤマチャンは何かの碑を探しているが見つからない。「ある筈なんだよ?」「何の碑?」「なんだか分からない。」それでは捜しようがない。

      秋彼岸骨董市に迷ひこみ  蜻蛉

     ところで、この地の住所は岸町である。この辺に大きな川があり、その岸辺だったからと言うのが通説だが、一説に古代の吉士(キシ)によると言う。

    『新撰姓氏録』によると、応神天皇のころ百済から渡来したものの中に、調連(つきのむらじ)とよばれる一族がいたことがみえ、『日本書紀』欽明天皇二十三年条には、調吉士伊企儺の壮烈な戦死の記事がある。その一族が足立郡に移住して調神社を祀ったということも考えられる。その場合、岸村の名称はその身分を示す吉士(きし)の名称から生まれたとも考えられる。賀美郡(児玉郡)に今城を冠した式内社が三社あるが、これは渡来人をさすものではないかとされるのも参考になる。(『浦和市史 通史編Ⅰ』)
    https://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/36861120.htmlから孫引き。

     吉士は渡来人を表す称号から氏または姓になったようで、調吉士は百済人努理使主(ぬりのおみ)を祖とする。調吉士伊企儺は、任那日本府再興のための新羅征討軍に加わり、捕虜となって殺された人物とされる。これによれば、調神社の由来も岸町の由来も一挙に解決するのだが、すぐさま信用する訳にはいかない。この記事も、「考えられる」「考えられる」だけで証拠がないし、他の史実に抵触しない合理的な説明かどうか分らないのだ。但し新座・志木は新羅に由来するので、この近辺に渡来人が多くいたことは間違いない。
     調神社にまつわる謎の一つに、池(今は存在しない)に魚を放つと片目になるという伝説があった。片目の神に由来すると思われるが、それなら天目一箇神かも知れない。多くは目が一つで足が一本の姿を取るのだが、谷川健一『青銅の神の足跡』や『白鳥伝説』によれば金属精錬に関わる集団の存在を示す。片目になるのはフイゴの熱でやられるのだし、片足になるのはタタラを踏む重労働で痛めるためだ。
     浦和の隣の川口市は鋳物の町である。その始まりは平将門の乱時代、鎌倉時代、南北朝時代と主に三つの説があるが、荒川水系では砂鉄が採れたのである。それなら古代に金属精錬に携わる集団がいたとしてもおかしくない。

     道路に出ると何かの実が生っている木があった。「何かしら?」「ナツメですね。」言われればその形をしているがまだ青い。「食えるのかい?」「食べられますよ。」私もこの会で食ったことがある。どこだったか忘れたが、雨の中でチロリンが枝からもぎ取ってくれたのではなかったろうか。「カラスウリを食った人もいたね。」「旨いのか?」「まずい、と思う。」人間が食うものではない。
     ザクロの実が赤い。長い白壁の塀は何だろう?屋根付きの白壁で寺院の塀に似ているが寺ではなさそうだ。「ホテルでしょうかね?お寺じゃなさそうだし。」意外なことに、ここはさいたま市立高砂小学校だった。さいたま市浦和区岸町四丁目一番二十九号。軒丸瓦の紋は何かとロダンが悩む。「徽章かな。」
     門は冠木門。その傍らに立札があり、文字は半分消えかかっているが「創立明治四年」と記されているのが珍しい。「学制は何年?」とオクちゃんも疑問をもったようだ。「明治五年ですよ。確か芝の辺でも明治四年創立の小学校跡を見ました。」増上寺御成門東側の芝公園の一角に、「仮小学校」の碑があったのだ。学制発布を前に、東京府では寺院の中に六つの仮小学校を作ったのである。
     高砂小学校の沿革を見れば、明治四年(一八七一)玉蔵院内に浦和郷学校が作られたのを創立とする。つまり前身は郷学校だった。

    郷校、郷学所、郷学校ともいう。江戸時代から明治初期にかけ存在した教育機関の一つで、藩校に準じた藩士の子弟を対象としたものと、庶民を対象としたものとの二種がある。前者は藩校を簡易化したもので領内の僻地、飛地、大藩の重臣の知行地などに多く設立され、後者は手習所的なものから 十八世紀の大坂の懐徳堂などのような大規模かつ高等なものまである。江戸時代末期から明治初年にかけて、百数十校が設置された。いずれも読み書き、習字、算術が中心であった。明治の郷学は町村ないし町村組合の経営が多く、近代公立小学校への先駆になった。明治五 (一八七二) 年の学制発布以後、小・中学校へ改組されたものが多い。(ブリタニカ国際百科事典「郷学」)

     珍しいことではなかったのだ。翌年の学制発布によって、北足立郡浦和第一番小学校と改称した。つまり浦和で最も古い小学校である。太平洋戦争中の国民学校令では浦和第一国民学校となり、戦後は浦和市立高砂小学校と改称した。
     白壁は昭和六十年(一九八五)三月、「浦和市制五〇周年」を記念して建てられた「真砂塀」であり、同時に尋常高等小学校当時の門柱を復元した「高砂門」も造られたのである。白壁は創立当初の寺院の雰囲気なのだろう。こういう復元は素敵だと思う。
     駅裏の飲み屋街の路地に入り込むと、マンホールの蓋のデザインに注目が集まった。「これって、さっきの瓦の模様と同じですよ。」「そうか、それなら浦和市のしるしだ。」高砂小学校の瓦の紋も、浦和市章なのだ。排水溝の蓋はサクラソウになっている。「この辺で飲めるんじゃないか?」小さな店ばかりだし、余り早い時間だと店は開いていないだろう。
     県庁通りから埼玉会館の角を曲がると、空き地の前に「浦和一女発祥の地」碑が建っていて、茶色の大理石(?)でできたオブジェには「望みはわきて限りなく」と彫られている。「浦和一女女子高校?」「浦和第一高等女学校、今は浦和第一女子高等学校。」石井桃子は高等女学校時代の卒業生である。「埼玉県じゃ女子の一番なんですよ。」埼玉県の古い県立高校は今でも男女別学で、男子は浦和、女子は浦和一女と決まっている。

     明治三十三年(一九〇〇)、私立埼玉女学校を引き継ぐ形で、埼玉県高等女学校が設立されました。その目的は、女子教育の普及と女子教員の育成を図ることにありました。
     翌三十四年、新設埼玉県女子師範学校に併置され、同年、埼玉県立浦和高等女学校と改称し、県下唯一の高等女学校として女子教育の中核を担うことになりました。
     その後、女子生徒の進学率の増加にともない、四十四年には女子師範学校から分離独立しました。明治・大正期の女子教育では、女性は社会常識を備えた「良妻賢母」として、家庭に入ることが目標とされていました。昭和に入り、女性としての理想を持ち、自立を目指そうとする傾向が現れてきますが、日本は戦争の時代に向かいます。
     昭和十六年、埼玉県立浦和第一高等女学校となり、やがて終戦を迎えました。
     昭和二十三年、新制高等学校として、埼玉県立浦和第一女子高等学校と改称されました。教育においては男女平等のもとで個人の自由・個性・能力などが重視されるようになり、本校の卒業生は社会の様々な分野で活躍するようになりました。(沿革)

     「二女、三女もあるかい?」聞いたことがない。あるサイトの今年の入学試験の偏差値(こんな言葉は嫌いだが)では浦和一女は七十一とされる。ついでに埼玉県の高校を今年の偏差値だけで順番づけると、早稲田本庄、慶應志木、県立大宮、県立浦和、開智(私は知らなかった)、県立浦和一女と続いている。浦和が一番ではなかった。昔は、県立なら浦和、川越、熊谷の順だった筈で、時代は変わっているのである。
     「ここは何があったのかしら?」地元のハイジも忘れているが県立浦和図書館があったのだ。どこかに移転したのではなく、もはや存在しない。県立文書館の片隅に熊谷図書館浦和分室として辛うじて残っているが、資料があるわけではない。かつては浦和、川越、熊谷、久喜の四館が分担収書をしており、中でも浦和が中央図書館の位置を占めていた。そして川越図書館もなくなって、残っているのは久喜と熊谷だけなのだ。そういえば久喜を歩いて図書館の外観を見たことがある。
     しかし県庁所在地に県立図書館がないというのは埼玉県として恥ずかしくないのか。そんなことは今の官僚に言っても無駄か。平気で文書を改竄し、あったことをなかったことにする国である。本来、県立図書館と文書館は一体となって基本資料を収集保管しなければならない。
     ところで、隣接する埼玉会館は、昭和四十一年(一九六六)に前川國男の設計で改築されたものだ。小金井公園内の江戸東京たてもの園で、前川の自邸を見た人は覚えているだろうか。紀伊國屋書店新宿本店も前川の設計だ。
     街路樹の大きなハナミズキには、赤い実が鈴なりに生っている。「こんなにいっぱいあるのは珍しいわね。」
     玉蔵院地蔵堂。浦和市仲町二丁目十三番二十二号。安永九年(一七八〇)に建立された三間四方の堂である。入口の車止めの脇に猫が寝ている。「生きてたのね?」置物ではなかった。
     「あれはなんて言うのかしら?」オクちゃん夫人が私を連れて行ったのは本堂の裏だ。「あの大屋根の両側にあるの。」「あれは、エーット。」にわかに単語が出てこない。要するにシャチホコに代表されるものである。「シビでしょうか?」「そうです。シビです。最近言葉が出てこなくなってしまって。」鴟尾である。魚が跳び上がって水面上に尾を出した形は火除けの呪いと考えられている。
     参道は道路で分断され、向こうに山門が見える。「横から入ったんだよ。」講釈師がいたらまた罵倒されていただろう。 結構車が通るので危ない。なんとか道を渡ると右側には紅殻色の鐘楼、山門の外の料亭の壁際に弘法大師像が立っている。玉蔵院は真言宗豊山派。さいたま市浦和区仲町二丁目十三番二十二号。枝垂桜が有名だ。

    伝承によれば平安時代初期に空海により創建されたという。戦国時代に醍醐寺三宝院の直末寺となった。また、学僧印融が来て中興した。一五九一年に徳川家康が十石の寺領を寄進。江戸時代に長谷寺の移転寺として出世。(ウィキペディア)

     市民会館うらわでトイレ休憩だ。浦和区仲町二丁目十番二十二号。ロビーには中学生とその親らしい二人連れが何組かいる。「何があるのかな?推薦入試?」ヤマチャンは考えているが、特に入試とかそういうことではないようだ。レストランもあって、「昼飯はここでも良かったな」とスナフキンが言う。
     ホールでは「親守詩(おやもりうた)埼玉大会」の準備の最中だ。開会は午後からなので、これに参加しようとする親子ではあるまいか。親守詩なんて聞いたこともなかったが、子守に対して親守と言うか。それなら介護であろうか。埼玉大会と言うからには全国大会があるのだろう。
     何か胡散臭い。「なんだ、それ?新興宗教じゃないのか?」しかしそう言ったスナフキンがスマホを検索した結果、実行委員会主催、毎日新聞社共催、文科省も後援していると分かった。「意外に真面目な会だったよ。」
     しかし毎日新聞社と文科省の名前で簡単に信じてはいけない。内閣府、総務省ほか各種教育団体、日本青年会議所、モラロジー研究所等も後援しているのだが、全国大会公式サイトを見ると、胡散臭いと感じた直観は間違っていなかった。

     親守詩は、髙橋史朗氏(親学推進協会理事長)の「子守唄は親から子へだが、その逆に親への報恩感謝の思いを表現する試みもあってよいのではないか」という思いをきっかけに、二〇〇四年に愛媛県松山市で生まれました。
     松山青年会議所の募集の下、松山市内の小中学校、一般から多数の応募があり、応募作品は二〇〇六年「親守詩を詩おう!詩(うた)って出来る親孝行」という小冊子にまとめられました。
     その後、香川県親守詩実行委員会がこれを継承。「親守詩-子から親へエッセイ・俳句作品集」を毎年発行しています。
     二〇一二年に八重山青年会議所、東京青年会議所、気仙沼青年会議所に広がり、東日本大震災の被災地から東京に避難している方々を招待して、被災地とテレビ中継で結んで、親守詩を表彰するイベントが六本木ヒルズアリーナで開催されました。
     また、TOSSが子供が詠んだ句に対して、親が詩を返すタイプの親守詩を考案。各県や学校で実践。保育所、幼稚園、一般にも広がり、二〇一二年七月に埼玉県大会、八月に兵庫県大会、十月に山口県大会、長野県大会、大阪大会を実施。
     「親守唄」とは異なり、俳句、和歌、エッセイ、を含む「親守詩」であることが特徴です。http://oyamoriuta-zenkoku.jp/

     親はそれほどまでに、子供からの「報恩感謝」を願っているのだろうか。だとすればかなり不気味である。これを毎日新聞社が共催しているのだ。実はこれは「親学」推進運動の一環なのだ。子育てのためには親も学ばなければならないと当たり前のことを言っているようだが、こんなトンデモナイものを知らなかったのは迂闊であった。
     髙橋史朗は成長の家青年部の出身、日本会議の役員で、「新しい歴史教科書をつくる会」の副会長、埼玉県の教育委員長も勤めた。これが各自治体や教育委員会にかなり深く浸透しているようなのだ。平成二十四年(二〇一二)には、安倍晋三を会長、鳩山由紀夫を顧問として超党派の国会議員による「親学推進議員連盟」が発足している。
     著書は多数あるが、『脳科学から見た日本の伝統的子育て 発達障害は予防、改善できる』、『物語で伝える教育勅語 親子で学ぶ十二の大切なこと』、『「慰安婦」謀略戦に立ち向かえ! 日本の子供たちを誰が守るのか?』のタイトルを見ただけで分ってしまう。
     またTOSS(Teacher's Organization of Skill Sharing)とは、向山洋一の提唱する教育技術法則化運動である。「伝統的価値観に基いた子育て」を取り戻せと主張する。その向山も親学推進協会の顧問である。と言うより、両者は一体なのだ。江戸しぐさ(江戸時代にそんなものはないと、現在では完全に否定されている)を奨励するなど、学術的に根拠のない説を積極的に取り入れる。
     「江戸しぐさ」の嘘について書くと長くなりすぎるので簡単にするが、例えば狭い路地ですれ違う時の「傘かしげ」、混んでいる乗り物の中での「こぶし腰うかせ」など、江戸商人の身に着いた動作である。何故それがなくなったかと言えば、明治政府が江戸商人の秘密結社を弾圧するため、江戸商人を大量虐殺したからだというトンデモ説が主張される。提唱者は江戸しぐさ伝承者を自称する芝三光(小林和雄)、それに弟子入りして普及活動をしているのは越川禮子という人物であるらしい。私は全く知りません。
     そもそも彼等の言う「伝統的価値観に基づいた子育ての伝統」とはいつの時代を言うのだろう。身分制度に縛られた江戸時代に均一な子育てがあった筈はない。武家、商家、農家そして職人の家それぞれで子育ての実質は異なっていただろう。
     明治以降も、社会階層や貧富の度合いで子育てのあり方は様々だった。貧しい家の子供は幼い頃から奉公に出され、あるいは口減らしのため、また借金のかたに売られていった。間引きは例外的なことではなかったし、養子や里子も珍しい事例ではない。樋口一葉『たけくらべ』は明治の子供を生き生きと描いたが、真如は僧侶になるように、美登利は遊女になるように、正太郎は金貸しになるように育てられ、鳶の頭の子の長吉は、やがて大人になったら吉原に登楼して花魁を抱くことを夢見ている。
     この状態は昭和戦前期まで続くのであり、これらのどこに「伝統的な価値観に基づく子育て」があるだろう。安倍晋三輩の好きな「日本の伝統」とは、日本国憲法が制定される以前の日本は素晴らしかったという、具体的史実に基づかない彼らの幻想に過ぎないのだ。
     「親学」が第一に挙げるのは、子供は母乳で育てなければならない、粉ミルクは使うな、というものだ。母乳の出ない母親はたくさんいる。様々な理由で母親に育てられない子供もいる。また完全母乳では特にビタミンDが不足しがちになるのは現代医学の常識である。
     彼らの言う「伝統的価値観に基づく子育て」を受けなかった例が身近にあった。私の母方の祖父(母の叔父で養父)は、実の母親の乳の出が悪く生まれてすぐに里子に出された。そして兄三人が中等学校を卒業しているのに、ひとりだけ尋常小学校卒業と同時に奉公に出た。父親が官吏を非職になり生活が苦しかったからだ。また私の母は幼時に父に死に別れ、生活困難なため家族は親戚の厄介になったが、姉妹弟のなかで一人だけ叔父の家に引き取られた。つまり母親の愛情を少なくしか受けなかった。自転車屋の丁稚から出発して小なりと言えども秋田県の運輸業界で名をなした祖父は、親戚の中で苦難に陥ったものがいれば親身になって世話をした。人としての尊敬すべき品性を保っていたと思う。身内自慢は慎むべきだろうが、母も親戚はもとより周囲の人に頼られ敬愛された。
     また発達障害は家庭教育で予防できると主張する。彼らの説では、発達障害児は親の愛情不足から生まれるのだ。発達障害児を持つ母親の心をどれ程傷つけただろう。流石にこんな説は学術的根拠がまるでないと批判されたが、最近の杉田水脈の発言に真っ直ぐ連なる発想であり、自民党が提出を目論んでいる家庭教育支援法の背景にはこの動きがある。
     しかし学術の側から批判しても普通の人は学術書を読まないから、その耳に届かず、こんなトンデモナイ似非科学が蔓延っていく。人文社会科学への国民の関心が薄れていく中で、歴史修正主義者は子供やその親たちを抱き込んで勢力を拡大し続けているのだ。埼玉県の教育委員にはその関係者が二人も入っていて、特に危ない。
     問題は、こうした似非科学に基づくトンデモ説の蔓延をどう防げば良いかということだが、これについては学術の側の怠慢も指摘しなければならない。相手にする価値もないし、その暇もないと専門家は思うが、しかし批判が目に見えてこないから彼らは増長する。毎日新聞も朝日新聞も、親守詩を大々的に後援しているのだ。そして人は、真偽より耳にやさしい、大声で語られる言葉を信じようとする。この国はとんでもないことになっているのだ。
     ちくま新書でお手軽なので、下記を紹介しておく。親学と江戸しぐさが中心だが、目配りはもっと広いので参考になる。

     親学およびその歴史的根拠としての「江戸しぐさ」は、第二次以降の安倍政権の文教政策と密接に結びついている。安倍晋三自身が親学の支持者であることはすでに述べてきたとおりである。しかし、自民党以外の政党にまで親学支持者がいる以上、政権交代はかならずしも親学推進の終焉を意味するわけではない。大手メディアの対応に見られるように親学や「江戸しぐさ」は安倍政権に批判的な勢力までとりこんでしまいかねない代物なのである。
     いかなる政権であろうと、教育現場に明白な虚偽を持ち込んでいいわけはない。親学や「江戸しぐさ」の問題は政権批判に矮小化されるべきではない。それは私たちが次世代のためにいかなる教育環境を整えられるかの試金石の一つである。(原田実『オカルト化する日本の教育: 江戸しぐさと親学にひそむナショナリズム』) 

     ロビーで少し休憩していったん外に出る。「昼食はここに戻ってきますから。」道を渡って向かいの浦和ロイヤルパインズホテルに入る。ここは旧市役所跡地であった。「三階に美術館があるんですよ。」ブライダルコーナーを、リュックを背負った不審者の団体が通り抜ける。エスカレーターで三階に上がったが、ここからは行けない。「二階に戻って向こうのエレベーターから三階に上って下さい。」
     「有料だから美術館には入らないけどね。」入る予定のない美術館にどうして行くのだろう。エレベーターからウェディングドレスの花嫁が介添えと一緒に降りてきた。こういう所でやる結婚式は高いだろうね。
     やっと美術館に辿り着いた。「こんなところに美術館があるなんて知らなかったわ。」今日は中学校、高校生徒の作品展で、入場は無料だった。それなら入ろう。私が感心したのは高校生の書である。隷書があれば、流麗な仮名文字もある。高校生がこんなものを書くのか。「スゴイじゃないの。」「大したもんだよな。」
     スナフキンが感心したのは細密な線画だ。「あれに似てるじゃないか?」よく見ると馬の顔があったりする幻想的なものだ。「シャガール?」「そう。」別の入口から入り直せば、武蔵野美大、埼玉大、聖徳大学が小中学校と連携したプロジェクトによる、小学生の作品展だ。「聖徳って千葉だよな。」「松戸だよ。」
     別室は情報センターになっていて、ここは年中無料で開放しているらしい。どうやらヤマチャンは無料のこの部屋だけ入る予定をたてていたのだ。上品な女性が受付に座っている。「ここは何ですか?女房に、今日どこに行ったか説明しないといけないから教えてください。」ロダンは、今日のコースを逐一愛妻に報告するのである。「ここは浦和市立美術館でした。常設のコーナーがないので、この部屋を情報発信のためのコーナーにしたのです。」
     ドアの左には仕掛け絵本、突き当りの書架にはうらわ美術館の展示図録の他、全国各地の図録が集められている。二ヶ月程前、私はこの十倍程の仕掛け絵本を、段ボールから出して棚に収める仕事をした。ここにあるものは、その時に見たものばかりだ。展覧会図録も含めて、こうしてみると武蔵野美術大学図書館のコレクションの規模がいかに大きいかが分る。

     晴れた空が青くなった。市役所通りを西に向かう。詰襟、学生帽の二人の男子を浮き彫りにした碑が建っている。さいたま市浦和区常盤四丁目十一番八号。「ここに浦中ありき。」旧制浦和中学、現在の浦和高校の跡地であった。浦和中学は明治二十八年(一八九五)開校。「意外に遅いんだね。」「そうお?早いんじゃないの。」私が遅いと言ったのは秋田高校の明治六年と比べるからだ。
     敷地の道路側には太陽光発電システムのパネルが設置されている。最大発電電力十キロワット、発電パネル面積八十平方メートル。この奥の建物は知事公館だった。「埼玉県知事は誰だっけ?」「上田清司。」「多選のやつだよな。」上田は現在四期目だ。「自分で多選を禁じてたのにな。」上田もまた「新しい歴史教科書をつくる会」の会員であり、高橋史朗を教育委員に推薦した張本人である。
     「土屋っていたろう。娘が不祥事を起こした。」「前の前だわね。」言われて思い出した。随分前のことだが、政治資金管理団体で一億円の記載漏れが発覚し、長女の市川桃子が逮捕され、土屋義彦は辞職した。なんだか、ろくでもない奴らばかりではないか。
     さいたま市役所前交差点で一七号線を横断すると、市役所の前に埼玉県師範学校跡地の碑が建っている。赤い大きな岩(赤色角岩)が据えられて。浦和区仲町四丁目三番十三号。その岩を回り込んで敷地内に入れば、「埼玉サッカー発祥の地」の碑があった。選手二人がボールを争っている姿だ。「肘で相手を邪魔するのは反則にはならないんですか?」「意図的じゃなきゃ、いいんじゃないかな。」私はサッカーに詳しくないから分らない。それにしても浦和には発祥の地がやたらに多い。
     「埼玉サッカーって何だ?」サッカーの発祥地はイングランドの筈だが、それ以外に「埼玉サッカー」という何か別のものがあったのかと読めないこともない。しかしそうではない。日本でサッカーが始まったのはいつか分らないが、埼玉県では、この地で始まったというのである。明治四十一年(一九〇八)、埼玉師範学校に蹴球部が創設され、生徒にサッカーを教えたのが起源とされているのだ。これは早いのか遅いのか。

     ルーツ校東京高等師範学校で始まったサッカーは、同校が中等教員養成機関であったことから、まず師範学校に普及する。師範学校には師範学校附属小学校があり、師範学校からその附属小学校にも普及する。師範学校附属小学校は地域の有力中学進学校であることが多く、師範学校附属小学校OBが中学校に進学して中学校で蹴球部を作る例が見られる。(略)
     東京高師がYCACに初勝利した一九〇八(明治四十一)年から東京高師蹴球部OBによる師範学校、中学校へのサッカー普及が活発化する。師範学校で最も早くサッカーを始めたのが青山師範で一九〇六(明治三十九)年、青山師範が東京高師と日本最初の対校戦を行ったのが一九〇七(明治四〇)年である。(日本サッカー通史の試み⑥⑦より)
    http://fukuju3.cocolog-nifty.com/footbook/2011/05/post-0cfc.html

     「浦和レッズがあるからさ、埼玉県はサッカーに力を入れてるんだろう。」「日本人選手の最高は、やっぱり釜本だろう」とスナフキンが断言する。「釜本ってまだ生きてましたっけ?」「生きてるよ。」私はサッカーに詳しくないので論評ができない。勿論、釜本の名前はしっているが、仕方がないのでちょっと調べてみた。

     日本サッカーリーグでは、二五一試合出場し、通算二〇二得点(歴代一位)、通算七十九アシスト(歴代一位)を記録。得点王七回、アシスト王三回、年間優秀十一人賞十四回、日本年間最優秀選手賞七回受賞(歴代一位)と傑出した活躍を見せた。また、サッカー日本代表として国際Aマッチ七十六試合七十五得点(総通算二三一試合百五十三得点)を記録し、一九六八年メキシコオリンピックでは、アジア人初の得点王となった。二〇〇五年第一回日本サッカー殿堂入り。
     日本サッカー協会やRec.Sport.Soccer Statistics Foundation (RSSSF) の認めるサッカー日本代表の男子の単独最多得点記録保持者(七十五得点)であり、国際サッカー連盟 (FIFA) でも二〇一四年時点では最多得点記録保持者(八〇得点)としている。(ウィキペディア「釜本邦茂」より)

     キンモクセイが香ってくる。「キンじゃない、これは銀ですよ。」オクちゃんの言葉で近づいて花を見ると、確かに花の色は薄い黄色(本来は白またはアイボリーと言う)で、キンモクセイのオレンジ色とは明らかに違う。知らなかったが、単にモクセイと言えばギンモクセイのことで、その変種がキンモクセイである。「流山で千葉師範発祥の地を見ましたね。」千葉師範は明治四年(一八七二)の創立だから最も古い。埼玉師範は明治六年になる。
     少し先のカトリック浦和教会の敷地には、「キリシタン灯籠」が置かれている。浦和区常盤六丁目四番十二号。灯籠の竿の下部に、いかにも司祭らしいマントを着た人物像が浮き彫りにされているのだ。この形の灯籠は目黒の大聖院、大鳥神社ほか何か所かで見ている。「そんなに多いの?」「多くはないけど、この会では寺院の境内で何回か見てますよ」と姫が補足してくれる。私も五六年ほど前まではそれを疑っていなかった。しかし、キリシタン灯籠と言うものはない、これは織部灯篭だと言わなければならない。「エッ、そうなの?」人物に見えるのは地蔵菩薩である。
     日欧交渉史やキリシタン史研究で名高い松田毅一(ルイス・フロイス『日本史』の完訳者)の結論である。このことはいつだったかの作文でも書いているのだが、皆さん忘れているようだ。
     松田によれば、織部灯篭は近世初期から愛用され、その使用は全国各地の茶室、庭園、寺院等に分布していて、竿石上部が横にふくらみを持ち、下部に人像が刻まれている点が特徴だ。つまりこれは織部灯籠である。キリシタン灯籠と言われだしたのは大正時代で、それも一人の人物が言い触らしたことが広まった。一目で見てキリシタンを連想させるとすれば、江戸時代に見逃される筈がなく、桂離宮や南禅寺ほか人目につく様々な場所に残っている訳がない。

     ・・・・・・そのようなことが言われだしたのは、大正の終わりからで、こういう謬説が広まりだしたのは昭和の初年です。
     その頃の権威者、姉崎正治先生や新村出先生は、このことについて何も書いていらっしゃいません。おそらく先生方は、くだらぬことを言っていると、その種のことが新聞に載ったり騒がれたとしても笑っておられたと思うのです。ところが、専門の学者たちが、それはキリシタンと関係がないと断定なさらなかったために、そういうものを持っている方とか見た方が続々と出てくるし、石屋もまたよく売れるためか、ますますつくるということもあって、いわゆる「キリシタン灯籠」なるものが無数にあって、キリシタン史の研究を続けてきた私は、ただただ嘆くほかありません。(松田毅一『南蛮太閤記』)

     ここにも、虚偽説の広がりと学術側の対応の問題がある。中世史家の呉座勇一が、世間に流布する様々な「陰謀論」を徹底的に批判する『陰謀の日本中世史』(角川新書)を出した。出版社の惹句は、「トンデモ説やフェイクニュースが溢れる世の中で騙されないために。陰謀論の法則まで明らかにする、必読の歴史入門書!」である。こうしたものがもっと出てこなければならない。
     陰謀論は話が単純化され、分かりやすく、しかも面白いので信じやすい。しかし錯綜した歴史や現実を前にして、余りに「分かりやすい」解説は危ない。日本中世史に限らず、ユダヤ人の陰謀、GHQの陰謀、フリーメーソンの陰謀などに騙されないように。
     「それじゃ戻りましょう。だけど、全員が座れるかな?大会の参加者が飯を食ってるかも知れない。」「この辺ならお店はいくらでもあるから分散すればいいじゃないですか?」「ン?」ロダンは何を言っているのだろう。「今日は弁当持参だよ。」「アレッ?」弁当持参は久し振りだからロダンはうっかりしたのである。「案内に書いてあっただろう。」ロダンは市民開館の中のレストランで食うものだと思い込んでいたらしい。
     丁度弁当屋の前だからここで買えば良い。しかしメニューが気に入らなかったのか、ロダンは向かいのコンビニに向かった。「場所は分ってますから先に行っててください。」
     十二時二十五分だ。「空いてる、空いてる。」市民会館に戻ればロビーの丸テーブルが二つ空いている。ハイジは一人で長椅子に座ったが、無理やり丸テーブルに呼んだ。ちょっと狭いが椅子をずらせば囲むことができる。ロダンはスパゲティのようなものを買ってきた。「蜻蛉とスナフキンはやっぱり愛妻弁当なのね。」「弁当は久し振りだからさ、ずいぶん前から女房に言ってたよ。」私もそうだ。
     すぐそばの入口付近で何かの作業が始まった。午後一時から始まる落語会の受付である。「邪魔になりそうだね。」丁度全員が食べ終わった所なので、席を移動する。「お菓子配っていいかしら?」ハイジがくれたのはピザ風味の煎餅だった。一時に出発だ。

     外に出ると、ちょうどやって来た女性が私たちを見て首をかしげている。「アラッ?」「アレッ、イトハンじゃないの。」珍しや、二三年振りに会うイトハンであった。「暇だからね、市民会館で何かイベントでもやってないかと思って来たのよ。」彼女も浦和の住人である。「一緒について行こうかしら?」「どうぞ、どうぞ、大歓迎ですよ。」「嬉しい。それなら三次会でも四次会でも最後まで付き合っちゃうわ。どうせ暇だから。」一時体調を崩して、退会すると言って連絡が途絶えていたのだが、すっかり元気そうだ。
     次は常盤公園だ。浦和区常盤一丁目八番。ヤマチャンはここで昼食をとることも考えていたのだが、雨上がりでは濡れているし、蚊もいるからと市民会館にしたのである。正解だった。途端に蚊に刺されたようで肘が痒い。椿姫も肘を擦っている。「痒くなければいくら刺しても構わないんだけどな。」空はすっかり晴れあがり、暑くなってきた。
     ここはだいぶ前にも来ている。丸太の上で男児が本を開き、ぬいぐるみを抱えた女の子が寄り添う像だ。その横には長沼以山の像のレリーフがある。「童話碑」だ。「どんな作品を書いたのかな?」オクちゃんが興味深そうに見ているが、作家としてよりも、童話の口演を幼児教育に取り入れた人物らしい。浦和幼稚園の創立者である。
     「その灯籠は、鞍馬灯籠かな?」三島で見た鞍馬灯籠にそっくりの形をしている。ただ、鞍馬灯篭と言うのは形式ではなく、使われる石による名称だと思う。「だけど、三島の奴はもっと赤かったよ。」石のことになれば椿姫の出番である。ロダンと一緒に観察しながら、「石英が入ってるわね、何とかもあるわ」と専門用語を駆使して説明しようとするが、二人以外には猫に小判だ。
     住宅地の道を曲がればすぐに慈恵稲荷だ。浦和区常盤一丁目五番九号。石碑の上部に富士を描き、その下に文字庚申塔がある。側面には「富士山・大山・引又」とあり、富士講、大山講の記念碑も兼ねていた。引又が志木であることは、以前ロダンの案内で志木を歩いているので分っている。ただ富士講や大山講と庚申塔を組み合わせたものは余り見ないだろう。
     「稲荷神社の神様はキツネなの?」「そうではありません。」たまたま解説板にある「倉稲魂」の文字を差して、「ウカノミタマ」だと説明する。「もう一つ別の表記もあるんだけど」と言いながら、その文字がなかなか出てこない。倉稲魂は日本書紀の表記で、古事記では宇迦之御魂と表記される。「ウカノミタマー?聞いたこともなかったわ。」
     「ウカは食物、穀物を意味する。伊勢神宮外宮はトヨウケビメ、このウケもウカと同じ。」「伊勢神宮なんて知らないもの。ヘーッ、そうなの。」「伏見大社に行ったこともないのに、稲荷を語っちゃだめだよ。」関西の人が言うが私は無視する。「どうしてキツネがいるの?」キツネの古語はケツである。「ケツーッ?」「そのケが今言ったウカ、ウケのカ行と共通するのです。」音が通じるものには同じ霊が宿ると日本人は信じた。穀物を食い荒らすネズミを捕食することも、穀物神としての稲荷神の使いに相応しかった。「今日聞いたことを、帰ったらちゃんと記録しておかなくっちゃ。」
     参道には流造の古い石祠が建ち、「浦和宿二七市場跡」の解説が施されている。毎月二と七のつく日に市が立った。月に六回開かれるから六斎市である。「御免毎月二七市場定抗」(天正十八年七月)がある。

     宿場町としては規模の小さい浦和宿であったが、市場としては戦国時代からの歴史があり、毎月の二と七の日には「六斎市」が立って賑わいを見せていた(二七の市)。浦和宿上町の人々が祀った慈恵稲荷神社の鳥居を中心として南北二町(約〇・二キロ)の範囲が市場であったといわれており、当該地はさいたま市の史跡として登録されている。市神や定杭を残す市場跡は全国的に珍しく、近世商業史を知る貴重な史跡となっている。市は昭和初期までは続いていた。(ウィキペディア「浦和宿」より)

     現在の常盤は浦和宿の上町に相当する、宿場の中心であった。「常盤は高級住宅街だよね。」「そうよ、関東大震災後に文化人が移住してきたのね。」画家が多く移住してきたので、「浦和画家」とも呼ばれた。昼前に行ったうらわ美術館は、それら画家の作品を収集することから始まったのである。
     隣は成就院だ。真言宗豊山派。さいたま市浦和区常盤一丁目四番二十三号。

     成就院の創建年代は不詳ながら、新編武蔵風土記稿には「玉蔵院末にて、本尊弥陀を安ず」とあります。慈恵稲荷社によると「明治四年に一旦廃寺になったが、平成二年に復興」したといいます。北足立八十八ヵ所霊場八十七番です。(「猫の足あと」

     灯籠の火袋に相当する部分に六面六地蔵、これが対になっている。西国・坂東・秩父巡拝記念の石碑もある。「これって、みんな観音様なの?」「そうです。」西国三十三か所、坂東三十三か所、秩父三十四か所を合わせて百観音と呼ぶ。墓地を覗いてみると、中山道までマンションに囲まれた細長い墓地で、塀際にヒガンバナが並んでいる。
     中山道に出る角に、女性が立膝で地面にカボチャを置き、サツマイモを三本握っている像があった。市場を象徴しているのだろう。「サツマイモだと葉っぱの形が違うんじゃないかしら。」椿姫の疑問にオクちゃんも同意する。「サツマイモの葉は、こんなに切れ込んでいません。」早速スナフキンがスマホで検索すると、確かに二人の言う通りだった。像の作成者は植物に詳しくなかったのだろう。
     その横には「市場通り」の碑があった。小粒の紫の実がたくさんなっているのはコムラサキだろうか。「オシロイバナは今の季節かい?」「そうだろうね。」
     浦和宿本陣跡の解説プレートがあるのは仲町公園だ。中に入れば明治天皇行在所の大きな石碑が圧倒している。明治元年(一八六八)と明治三年(一八七一)に、明治天皇が大宮氷川神社に行幸した際の行在所となったのである。関東にやって来た天皇は、氷川の神に礼を尽くさなければならなかったのだ。
     天保十四年(一八四三)の調べで、浦和宿は町並み十町四十二間、宿内人口千二百三十人。宿内家数二七三軒(うち、本陣一軒、脇本陣三軒、旅籠十五軒、問屋場一軒、高札場一、自身番所一の小さな宿である。旅籠が十五軒しかないことから分るように、中山道を旅して浦和に宿泊する者は少なかった。「和宮だって桶川の次は板橋に泊まったんだよね。」「休憩したけどね。」
     本陣の星野権兵衛家の敷地は千二百坪、母屋は二百十坪、他に表門、土蔵、番所、物置などがあった。明治以降は没落したよぅで、表門は大間木の熊野家に移設されたが、それ以外はすべて失われた。
     また中山道に戻って来た。「なんだか、近いところをぐるぐる回ってるね。」南下すると、右側に須原屋書店がある。浦和区仲町二丁目三番三十号。「埼玉県で最も古い書店なんだ。」「そうなのか?」以前どこかで書いた筈だが、須原屋と言えば江戸の版元の名門である。その流れを汲むかと思っていたが、直接の関係はない。
     須原屋茂兵衛は元禄から明治三十九年まで九代続いた後、没落した。暖簾分けした須原屋市兵衛(平賀源内や杉田玄白の著書を出版)も文政の頃、三代で消滅している。同じ須原屋茂兵衛から暖簾分けした中に、浅草茅町の須原屋伊八があった。こちらについては詳細が分らないが、明治九年(一八九七)に伊八の貸店舗が浦和にあって、そこで営業を開始したのが、浦和の須原屋書店である。名称を譲り受けたのだ。
     似たようなケースに蔦屋(カルチャー・コンビニエンス・クラブ)がある。写楽を生み出した蔦屋重三郎の流れを汲むと誤解してはいけない。昭和五十八年(一九八三)に大阪で創業した時、勝手に名を借りただけである。コンビニエンス、お手軽に買えるものは文化ではない。
     「蒲焼の並みが千九百円だった。安いんじゃないか。」ウナギの山崎屋の値段表を見ていると、「特上は五千円よ」と椿姫が確認する。「有名店ですよ」とロダンが教えてくれる。ヤマチャンが通行人を捕まえて道を尋ねている。そして急に左に曲がったので、ロダンは危うくそのまま真っ直ぐ行きそうになった。「こっちだよ。」
     商店街は狭い通りだが人が多い。「アレッ、ツバキ姫はいるかな?」先に行ったのだろうか。しかし先頭はかなり先を歩いていて、通行人に妨げられてよく見えない。そこに電話が鳴った。椿姫だ。「どこにいるの?」「auの所。」「すぐに救出に向かいます。」彼女がいたのは私たちが曲がった角である。「ちょっとお店屋さんを覗いてたら、いなくなっちゃうんだもの。」
     もう一度戻れば、皆はイトーヨーカ堂の前で待っていた。「携帯があるから便利だよな。」「昔だったら絶対出会えなかった。」迷子になった者はそのまま人攫いに攫われ、サーカスに売られてしまうのだ。
     JRの高架下を潜る。「昔は地下道だったんですよ、高架になってこうなりました。」ロダンが解説する。「何差路かな?」「五差路だね。」すぐに大善院が見つかった。浦和区東仲町九番三。天台宗。「浦和のお不動」と呼ばれる。頭の架けた青面金剛、「庚」の文字が欠けた庚申塔を見て境内に入る。
     本尊は行基作と言われる大聖不動明王だ。役行者と二鬼木像が浦和市の雄系文化財に指定されている。「見られないんでしょう?」「年に一回とか御開帳するんじゃないですか。」ここでもギンモクセイが強く薫ってくる。「全然、匂わない。」「嗅覚の衰えはボケの始まり。」
     ここから住宅地の中を少し歩く。「あれじゃないでしょうか?」巨木があるというのだ。延命寺。浦和区本太一丁目四十二番二号。「何の木ですか?」「ムクですね。」樹木のことはオクちゃんに訊けばよい。樹齢四百年と言う。墓地入口には慈母観音、その足元に六地蔵、如意輪観音。
     本太観音堂。浦和区本太二丁目二十三番五号。瑞岸寺の跡とあるが、現在は無住で延命寺が管理しているようだ。境内の隅に聖観音、青面金剛、地蔵が並んでいる。
     次は本太氷川神社だ。浦和区本太四丁目三番三十三号。鳥居扁額に「元府址(もとふと)」と書かれていることから、国府の出先機関があったという説があり、「本太」地名由来になる。武蔵国は広い。国府は府中にあったが、各地に出先機関がなければ税の徴収も難しかったろう。
     東側の朱塗りの銅鳥居を入った。次は北側の拝殿に向かって石造鳥居、朱塗りの両部鳥居が並んでいる。社殿の左奥の隅には旧本殿が残されている。一間社流見世棚造、厚板葺。桁行一・二三メートル、奥行一メートル。慶安三年(一六五一)の造営だと言うが、木はそれほど古くは感じられない。「旧本殿って?」「新しくしたから、古いのをここに移設したんだよ。」
     「慶安三年は?」ロダンが悩んでいる。「家光が死んで、慶安四年には由比正雪の事件が起きるんだ。」「そうだった、由比正雪ですよね。」賽銭箱の前には銀色の狼のミニチュアが置かれている。「これが狼?精悍な感じがないな。」末社合祀殿に、天屋根命、宇賀之御魂命、伊弉册命、伊弉冉命、健速須佐之男命の境内社を祀ってある。
     「氷川神社って大宮にあるでしょう?」「氷川神社の総元締めですよ。」「桶川にもあるのよ。そしてここも氷川神社でしょう?」「各地の氷川は大宮の氷川神社を勧請したんです。」「勧請?」「霊を分けてもらった。」「支店みたいなものかしら。」「それでいいです。」
     「こっちは大黒様でしょ?鯛をもってるのは?」恵比寿と大黒が上を向いて微笑んでいる石像だ。「この真ん中の字が読めないんだよ。」ヤマチャンが指すのは石柱の文字である。「以じゃないかな。恵澤以安民。恵沢以て民を安んず。」読みがおかしいだろうか。

     二時四十分。本太公民館でトイレ休憩をとる。浦和区本太四丁目三番二十三号。ヤマチャンが事前に頼んでくれていたのだ。ロビーの椅子は四人ほどしか座れない。「そっちに」と言って受付の女性が鍵を持ってきた。教室のような部屋は開いているが予約が入っているらしい。鍵はなかなか開かない。鍵を何度か回してやっと開いたのは印刷室であった。「ここで休憩してください。」
     折り畳み椅子も出せば十一人が座れた。ダンディと椿姫はロビーの椅子で話し込んでいるらしい。「煩いでしょうか?」ドアが開いて女性が訊いてくる。隣の部屋でオカリナの練習をするというグループの代表だ。「大丈夫ですよ。」オカリナは難しいのだろうか。余り上手くは聞こえない。
     「何の曲だろう?」「見上げてごらん夜の星を。」永六輔作詞、いずみたく作曲。「九ちゃんです。あの事故から三十三年経ったんですね。」坂本九、四十三歳だった。十五分程休憩して外に出る。
     長屋門のある豪邸があった。「石井さんだ。」隣の家も石井さん。「こちもだよ。」並ぶ四五軒全てが石井さんだった。「ここは蔵があるよ。」この辺りの名主の一族だろう。屋敷内に松原観音堂を造っている。
     国道四六三号線を渡ると三角稲荷神社だ。さいたま市浦和区本太三丁目二十七番一号。

     浦和の旧本太(もとぶと)村(現、さいたま市浦和区本太)の北部一帯に、古くから住む石井家と石塚家両家が、京都伏見稲荷大社から勧請し、氏神として祀った社を三角稲荷神社という。『埼玉の神社』によれば、《社名の「三角」は境内地が三角形の土地だから》だという。

     「さっきの石井さんがそうなんだ。」石井一族の中で本太五丁目石井重貞家は屋号を「堀の内」と言うそうだ。それなら城(館)を構えた土豪ではなかったろうか。戦国時代は武士であろう。

     本太堀の内は、浦和総合運動場南東隅から交差点を挟んだはす向かいの一画にあります。道路に面して宅地化された内側に、堀の内の中心とされるお宅があります。家は新しく建て直されたようですが、南西隅に小さな社が祀られています。また、このお宅の前で少し落ち込む地形になっており、本太堀の内は南側の谷戸に望む小規模な崖端の城館であったと推測されます。(埼玉県の城「本太堀の内」)
    http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.motobuto.htm

     神社の北側の石井利昭家は屋号を「松原大尽」と言い、この神社の世話人になっていると言う。それならさっきの観音堂の家かも知れない。倉庫のような社殿で小さな神社なのに、石造と朱塗り木造の明神鳥居が二基も建っている。「それじゃ駅に戻りましょう。」三時十五分だ。
     十五分ほどで浦和駅に着く。一万八千歩。十キロだ。「意外に歩いたね。」浦和は大体知っている積りだったが、ヤマチャンのおかげで意外に知らない所を回ることができた。オクちゃん夫妻、ダンディ、ハイジとはここで別れる。
     「どこにする?まだ四時前だからな。」「そこが開いてるよ。」華の舞だ。椿姫、イトハンも参加してくれる。最初のビールが旨い。イトハンと椿姫はウーロン茶だ。「今日は水を三リットル飲んだからお腹が一杯なのよ。」椿姫は水を飲みすぎではないだろうか。水分は摂る必要があるが、飲みすぎは却って体に悪いと思う。
     百円ライターを忘れてきた椿姫は紙マッチで火をつけようとするが、湿っていて火がつかない。「今時、紙マッチは珍しいね。」「ホテルで貰ったのよ。変なホテルじゃないですよ。」私のライターが活躍する。
     それにしても、アルコールも飲まないのによく笑う。声が大きい。焼酎が三本空になったところでお開き。まだ帰る時間ではないね。「どうする?飲むか、歌うか。」「カラオケかな。」桃太郎はここで帰って行った。調子が悪いのだろうか。そういえば今日の桃太郎は口数が少なったかも知れない。
     知っている店ではなかったが、「ビッグエコーの会員カードはありますか?」と訊かれた。提携しているらしい。それなら持っている。椿姫とカラオケを一緒にするのは初めてのことだ。
     イトハンは歌謡曲に目覚めたらしい。以前は全く知らないし歌えないと言っていたのに、裕次郎の曲をスナフキンとデュエットする。二年経てば変わるのである。「図書館で裕次郎とか小林旭ばっかり借りてくるのよ。他に借りる人はいないから、どんどん借りてくれって煩いの。」椿姫はカンツォーネを朗々と歌う。勿論イタリア語だ。あんみつ姫は中国語の歌を清楚に歌う。『夜來香』は二人のデュエットだ。  ヤマチャンは『別れの一本杉』を歌う。スナフキンとロダンは今日は少し遠慮しているのだろうか。椿姫がスナフキンとデュエットしている『東京ナイトクラブ』の二番になって、私がスナフキンのマイクを取り上げた。「アッ、アニキがいやらしいことしてる」とロダンがマリーに言うのが聞こえた。私の腕が椿姫の背中に回っている。私は『黄昏のビギン』、『硝子のジョニー』、『あゝ青春の胸の血は』(年甲斐もないネ)、『恋人をさがそう』。
     「最後はこれを合唱しよう。」ヤマチャンの提案は『若者たち』だった。この歌はちょっと恥ずかしい。岡林信康『友よ』もそうだが、六〇年代末のフォークは余りにもナイーブで(素朴すぎて、つまり未熟で)、なんだかむず痒くなってくる。ただ、私がフォークを歌っていたのはその時代に間違いはないので、それ以後の四畳半フォークからニューミュージックに至るものは、私の歌ではなかった。藤圭子の登場以来、私の関心は演歌に向かった。藤圭子、森進一、青江三奈である。

     来年の江戸歩きの担当を決めた。来年一月の私までは決まっているので、その後の一年である。これまでは阿弥陀くじで決めていたが、今回は自己申告制によった。早いもの勝ちである。
     三月(あんみつ姫)、五月(桃太郎)、七月(ロダン)、九月(スナフキン)、十一月(蜻蛉)、一月(ヤマチャン)である。

    蜻蛉