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    近郊散歩の会 第十六回 小金井 ~武蔵野の面影を訪ねて~
        平成三十年十月二十七日(土)

    投稿: 佐藤 眞人 氏 2018.11.09

     安田純平記者が三年四ヶ月ぶりに解放され、またぞろ例の「自己責任論」が顔を出し始めた。ネット上だけでなく、テレビで芸能人たちがエラソウに議論する。知識も見識もない芸能人に好き勝手に喋らせるやり方は、いつ頃から始まったのだったろうか。
     旧暦九月十九日。「霜降」の初候「霜始降」。明け方まで雨が残ったが、家を出るときには止んでいた。ここ一週間、天気予報は二転三転したが、なんとか天気は持ちそうだ。
     今回はあんみつ姫の企画で、集合場所はJR中央線東小金井駅北口だ。北朝霞駅のホームで待っていると「むさしの号」が来たので初めて乗ってみた。大宮と八王子を結ぶ変則路線で、西国分寺は通らずに迂回して立川まで行ってしまう。そのまま立川まで行く手もあったが、新小平で降りて次の武蔵野線を待つことにした。少し暑くなったのでジャンバーを脱いでリュックにしまう。西国分寺で降りて中央線のホームに出ると目の前にファーブルが立っていた。「カッパは止めて折り畳み傘だけにしたよ。」「俺も傘だけ。」三駅目で東小金井に着く。
     「北口って言っても改札は同じなんだね。」高架のホームを降りて改札を出れば左が北口、右が南口になっている。あんみつ姫、オクちゃん夫妻、ハイジ、ツカサン、スナフキン、ファーブル、桃太郎、蜻蛉の九人が集まった。ロダンは風邪の具合がよくないようで、今回も欠席である。オクちゃん夫妻はいつも仲が良い。「今日は遠かったでしょう?」「二時間はかからなかったけど。でも新宿まで一本で出てこられるので。」スナフキンとファーブルには地元と言って良い。ツカサンは四月の「青梅街道」第九回以来だ。
     「駅は新しくなったんですかね?」私もこの駅に下りたのは初めてだから、昔のことは分らない。「中央線が高架になったからでしょう。」三鷹・立川間の高架工事は八年前に完成したが、それから暫くは駅舎や周辺の整備に時間がかかった筈だ。

     北口に出て、中央線を左に見て西に向かう。「ここにもコメダ珈琲があるな。」コメダはここ数年で随分増えた。緑町交差点で都道二四七号線(府中・小金井線)を斜めに越えるのが地蔵通りだ。細い路地が多く交差する住宅地だ。左手の路地の向こうには中央線の高架が見える。「踏切がないからいいですよね」とツカサンが言う。高架化以前は開かずの踏切が多数あり、武蔵小金井駅前では一時間に五十九分も閉ざされていたなんて、とんでもない踏切もあったのだ。
     「これは?」姫が通り過ぎた角に、コンクリートブロックを積み重ねた庚申塔の祠があった。「話しながら歩いてると行き過ぎちゃうんですよ」と姫が慌てて戻ってくる。笠付きの合掌型青面金剛で宝暦元年(一七五一)の銘がある。石は砂岩だろう。日月、邪鬼、三猿ははっきりしていて、それほど風化は進んでいないが二鶏は良く見えない。
     文字は全く読めないが、「右府中道 ひだり きよとみち」とあるらしい。オクちゃんが、どの方向かと考えているが、四十メートル離れた場所にあったものを道路拡幅工事のためにここに移したもので、その時に向きも変えたのではなかろうか。ほぼ東西に走る道で、府中は概ね南にあると言って良い。あるいは右に進んで府中街道に出ろと言うことかもしれない。そこから南に向かえば府中に出る。
     「『きよと』って京都のことでしょうか?」それは余りに遠すぎる。「清戸じゃないですか?確かそういう地名がありますよ。」「清瀬の方じゃないか?」スナフキンの勘が当たっていた。武蔵国多摩郡清戸は現在の清瀬市である。明治の町村制施行に当たって、清戸と柳瀬川から一字づつとって清瀬としたのである。庚申塔の隣には西国・坂東・秩父回国記念碑もある。
     すぐ先の大嶽神社の鳥居脇にあるのが寛政六年(一七九四)の地蔵だ。小金井市緑町一丁目三番。「結構新しいんじゃないの?」右側に立つのは顔がふっくらしていて新しい。左にある頬の少しこけた地蔵が寛政のものだ。解説によれば、小金井村下山谷(現・緑町)の念仏講四十六名、願主清水浅右衛門、鴨下佐吾兵衛によって建てられた。寛政地蔵の台座に「大山」の文字だけが見える。「右ふちう 左大山道」とあるらしい。大山道は至る所にあるから珍しくはない。練馬や田無方面から大山へ向かう道だ。両方とも新しい花が供えられている。
     隣の大嶽神社は小さな神社だ。戦時中、下山谷の隣組が、火難盗難除けのために西多摩の大嶽神社から勧請したという。三多摩は中島飛行機をはじめとして軍需工場の多い地域だったから、空襲対策だったか。小さいながら社殿には鰹木六本、内削ぎの千木もついている。これは、千葉県茂原の日本青年館分館の農村修練道場にあった廃祠を移設したと言う。
     西多摩の大嶽神社とは檜原村にあり、秩父三峰、武蔵御岳と共にオオカミ信仰の拠点でもある。日本青年館が田澤義鋪(よしはる)の主催になるというのは言うまでもないだろう。このすぐ近くの緑町三丁目には、その別館で農村指導者養成のための浴恩館があって、田澤の盟友下村湖人が所長を勤めた。社殿を移設したのはその縁かも知れない。浴恩館公園で、あんみつ姫は『次郎物語』のテーマソングを歌っていたが、その歌はハイジもマリーも知らなかった。

     姫は竹林と屋敷林の間の、車一台がやっと通れるだけの狭い道に入って行く。目的は大久保家の柿の木なのだが、小金井市緑町五丁目にその家はあっても柿は見えなかった。目通り一・五メートル、根周り二・四メートルの禅寺丸柿だと言う。禅寺丸柿は川崎市麻生区原産で、大山街道や町田を歩いた時に知った。
     「それじゃ戻ります。」あちこちの民家に橙色になった柿の実が生っている。「誰も採らないんだよね。」「年寄りばかりだから収穫ができなくなったんじゃないか?」「うちの近所の空き地で柿が一杯生ってるけど、誰も採らないうちに落ちちゃうんですよ。」桃太郎はその柿が欲しいのだが、他人の敷地だから入れない。「だって買えば二百円ですよ。」「頼んで採らせて貰ったら?」「だけど所有者が分らない。」それではダメだろう。
     「うちの近所じゃ、栗畑がそうだね。三十年来、収穫してるのを見たことがない。無駄に落ちているだけなんだ。」「勿体ない、採ってくれば?」金網で仕切られていて入れないのだ。「税金対策だな。」
     「栗の毬がはじけて実が見えることを、笑むって言いませんか?」オクちゃん夫人に訊かれて答えられない。夫人は私のことを誤解しているのである。調べてみると「栗笑む」あるいは「笑み栗」という言葉があり、季語にもなっている。
     大通りに出ると、右手前から流れて来た仙川がこの交差点で暗渠になっている。地図を見ると、暗渠はこの辺りから小金井街道を渡って小金井郵便局の辺りまで続く。「三光院はスナフキンの時に寄っているので、今回は行きません。」三光院は山岡鉄舟に由来する尼寺で、精進料理を出す。
     小金井街道との交差点には、マンションに沿った細長い敷地に大松木下之稲荷大明神があった。小金井市本町三丁目八番。「スナフキンの時にも寄ってますけど、通り道なので。」私はすっかり忘れていた。「一緒に下見したじゃないか?」浴恩館や江戸東京たてもの園は記憶があるのだが、この神社は欠落している。「スナフキンがやったのはいつでしたか?」「十年近く前じゃないかな。」「初めて江戸歩きの企画をしたんだよ。江戸東京たてもの園で碁聖が輪回しをしてただろう?講釈師は女湯に傘を忘れるし。」平成二十一年(二〇〇九)十一月のことで、あの頃、碁聖は元気だった。
     記録をひっくり返してみたが、この神社については大したことは書いていない。印象が薄かったのだ。あの時は武蔵小金井駅から小金井街道をまっすぐ歩いて来たのである。狭い境内に寛政四年(一七九二)の笠付庚申塔が建っている。合掌型のきれいなもので、日月、邪鬼、三猿、金剛の持つ武器もはっきりしている。ただ笠の黒さに比べて塔身がわりに白いのが不思議だ。武州多摩郡府中領小金井村上山谷講中。享和二年(一八〇二)の石灯籠には「榛名大権現・大山大権現」とある。
     交差点を渡ってまっすぐ行くと、民家の玄関先の植木の前で姫とハイジの足が止まった。「ソヨゴですよ。」サクランボのような赤い実が生っている。親切にも枝に名札のような紙をぶら下げているのがおかしい。園芸店で買ってきて植えたばかりのものかも知れない。ソヨゴなんて私は初めて聞く。モチノキ科モチノキ属。

    風に戦(そよ)いで葉が特徴的な音を立てる様が由来とされ、「戦」と表記される。常緑樹で冬でも葉が青々と茂っていることから「冬青」の表記も見られる。「冬青」は常緑樹全般にあてはまるため区別するために「具柄冬青」とも表記される。(ウィキペディア「ソヨゴ」より)

     常緑樹だと言うのに、一部の葉が黄変しているのが不思議だ。「こっちもそうじゃないかな?」実の形は似ているが、さっき見たのは下にぶら下がっているのに、こっちは上を向いている。
     稲穂神社前から北に歩くと、交差点の角に大日尊の小さな祠があった。格子戸から覗いてみるがよく見えない。開くんじゃないだろうか。戸を揺すってみたが開かない。「ダメですよ、勝手に開けちゃ。」仕方がないので格子の隙間からカメラを差し込んだ。画面を確認すると、舟形浮彫の坐像で穏やかな顔をしている。これが大日如来か。
     その脇が山王窪築樋だ。玉川上水の分水路で小金井分水と言う。土手を築いてその上を通したと言う説明が良く分らない。私たちは土手の上に立っているのだろう。ここに樋があったのか。柵で仕切られ、樹木に遮られているためよく見えないが、水路の様なものが見える。あれは仙川だろうか、それとも樋の跡だろうか。山王窪を千川が流れ、それと立体交差する様に樋を通したのであった。
     山王稲穂神社。小金井市本町五丁目四十一番三十六号。なぜか姫は境内に入らない。「疱瘡の神様ですよ。カサモリですね。」山王がなぜ疱瘡なのだろう。「山王で稲荷って珍しいよね。」「元々が稲荷で、山王は後から持ってきたのかも知れない。」しかし、桃太郎も私も文字をちゃんと読んでいない。稲荷ではなく稲穂であった。七五三の親子が二組、参拝して写真を撮っている。

    承応三年(一六五四年)五百石の開墾に当り、新田の守護神として江戸麹町山王宮より勧請創祀す。(由緒)

     この辺は武蔵野の原野を切り開いた新田だった。江戸時代以前に神社を建てるような住民がいた場所ではない。手水舎の龍の周りは金網で囲ってある。社殿は権現造りの立派なものだ。境内社には、姫が言っていた疱瘡神社(祭神はオオナムチとスクナビコナ)と稲荷神社があった。

     「皆さん、今日の朝ご飯は早かったでしょう?」まだ十一時を過ぎたばかりだが、姫の予定はすぐ近くのガストで昼食をとることだ。小金井市本町五丁目三十三番十七号。
     桃太郎はクーポン券の綴りを取り出して、ビールが半額になる券を探し出した。スゴイね。どうしてこんなに持っているのだろう。ツカサンはスマホの画面を操作して、「これにしよう」とミックスグリルを選んだ。「それ、何ですか?」「半額になるんですよ。コマーシャルであるでしょう?貴様っていうやつ。」「あれか。」最近よく出てくる千鳥(大悟とノブ)と言うチンピラ風のコンビだ。「スマートニュースのクーポンチャンネルって言うんです。」ツカサンの年齢でスマホを使いこなしているのは珍しい。「俺も以前はダウンロードしてたけど、使わないから消しちゃった」とスナフキンが悔しがる。
     スマホを使えない人間は生きていけない時代になった。また政府はキャッシュレスなら消費税を軽減すると言っている。なぜキャッシュレス化を進めなければならないのか、私には理解できない。頑迷固陋の私は電子マネーと言うものに根本的な疑いを持っていて、現金一括払いが一番エライと信じているのである。
     ツカサンは、ご飯は付けずに料理だけにした。「お腹がいっぱいになっちゃうからね。」ガストのメニューは一見安そうに見えるが、ご飯とみそ汁は別料金だから意外に高くなる。私とファーブルはヒレカツ丼にした。ご飯ものでは一番安そうだ。オクちゃん夫妻とハイジはオムライス。スナフキンは「オムライスは旨いけど、ビールに合わないんだ」とタンメンにした。姫は鶏におろしを掛けたもの、桃太郎はスパゲティを選ぶ。
     最初に出されたビールを見て「アレッ、足りないんじゃないの?」と桃太郎が声を上げた。「これでいいんだよ。」スーパードライだからファーブルは飲まない。桃太郎、スナフキン、蜻蛉でジョッキは三つ。姫はグラスビールだ。「お支払いは一括でお願いします。」グラスビールの半分が桃太郎のジョッキに注ぎ足され、鶏の一切れもスパゲティの皿に載せられた。
     一時間近くのんびりして、全員から集金する。かなり面倒かと思ったが、伝票には単品ごとに税込み価格が記載されているのでまだ良かった。無事に支払いは完了し、十二時五分に出発する。

     朝は結構冷え込んでいたが、かなり暑くなってきた。ヤマボウシの実が赤い。「カワイイわね。」濃いピンクで、表面にゴルフボールのような凹凸がある。「ヤマボウシってどういう字だっけ?」「山法師よ。」「山法師の頭巾に見立てたんだ。真ん中の丸い花が法師の頭になる。」「あら、そういう意味だったの?」
     街路樹のエンジュがたくさんの実をぶら下げている。「エンジュってどういう字だい?」「円に・・・・」「違う、カイだよ。キヘンに鬼。」「村山槐多の?」「そう。」姫は村山槐多を知っていたのか。学生時代、『村山槐多全集』(一冊本で五千円だったと思う)を買っては見たが、その詩は私にはさっぱり分からなかった。この本に手を出したのは、夭折した詩人の列伝を書いた松永伍一『荘厳なる詩祭』を読んだからだ。当時、寮で同室だったエーチャンが自分の大学の図書館司書に、友人がこの本を読んでいると話したところ、それを読む人は自閉症になりやすいから注意しろと言われた。
     「確か、槐と書く木がもうひとつあったんじゃないかな。そうだ、サイカチだ。」「そうなんですか?」「石鹸になるのよね。」記憶があっているかどうか念のために調べてみると、樹木のサイカチは皂莢または梍と書いて、槐と書く例は見つからなかった。しかし、どういうわけか槐をサイカチと読ませる苗字があるのだ。
     「どうして三本なのかしら?」オクちゃん夫人の疑問に、「中国の大臣が」と言いかけると、オクちゃんは流石に「周の三公だ」と知っていた。

     周においては、太師、太傅、太保の三官職が三公と呼ばれていた。周では宮廷の庭に槐の木が植えられ、三公は政務の際に槐に向かって座す定めであったため、三槐とも雅称される。(ウィキペディア「三公」より)

     「トケイソウよね?」ハイジの言葉で花を見たが、盛りを過ぎたトケイソウはこんな風になるのか。私はトケイソウを見ると「応援団がチャッチャッチャ」という猥褻な絵描き歌を思い出してしまうが、今見ているのは毛糸を無造作に丸めたような格好だ。
     次は東京学芸大学だ。小金井市貫井北町四丁目一番一号。「東横線に学芸大学駅がありますよね?」「移転したのは随分前だよ。」調べてみると小金井に移転してきたのは昭和二十九年のことだった。
     「都立大駅もそうだよ。」駅名を変えることはこれからもなさそうだ。首都大学東京は大学名を都立大学に戻すことを決定した。正しい決定であろう。石原慎太郎が決めた首都大学東京では、それがどんな大学なのか誰も分らないのである。ほかに武蔵工業大学が改称した東京都市大学も意味不明な名称だ。文系学部ができたから工業大学では具合が悪いのは分るが、もう少し工夫があっても良かっただろう。キャンパスの場所を見れば「都市」とは言えないと思うが、こちらは名称変更の動きはなさそうだ。
     東京学芸大学は東京第一師範学校(旧青山師範と東京府女子師範)、第二師範学校(豊島師範)、第三師範学校(大泉師範)、東京青年師範学校(青年学校教員養成所)が合併してできた大学である。戦後、各地につくられた新制国立大学には、師範学校を母体にした学芸学部が造られたが、その大半は教育学部に名称を変えた。学芸大学の場合、既に東京教育大学(旧東京高等師範)が存在したため、大学名は「学芸」のまま、学部名を教育学部に変更した。
     それにしても、ここが陸軍技術研究所跡地だったなんて、姫に教えられなければ知ることもなかった。市営競技場、市立第二小学校、第一中学校等などもその跡地になる。三多摩の武蔵野台地は中島飛行機を始めとした軍需工業地帯である。畑の他見るべき産業のなかったこの辺は、昭和初期のこの軍需工場によって近代工業を知った。

     一九四二年(昭和十七年)十月、陸軍兵器機関の整理統合が実施され、陸軍兵器行政本部が設置された。それに伴い陸軍技術本部が廃止され、その隷下の第一から第九研究所が第一から第九陸軍技術研究所となり、陸軍兵器行政本部に属することとなった。
     一九四三年(昭和十八年)六月、第五・第七・第九の各陸軍技術研究所と第四陸軍航空技術研究所の電波兵器研究部門を統合し、多摩陸軍技術研究所が新設された。
     一九四五年(昭和二十年)五月、陸軍大臣に直隷していた各所長は陸軍航空本部長の隷下となった。(ウィキペディア)

     多摩陸軍研究所は小金井市から小平市に跨る広大な敷地(七十万坪と言われる)を強制買収して造られたもので、銃器、火砲、弾薬、通信兵器等の研究に当たった。しかし大した成果は挙げられなかっただろう。昭和十七年六月のミッドウェー海戦での敗北、八月の連合軍のガダルカナル上陸、二次に亘ったソロモン海戦も敗北し、既に制海制空権は失われていた。仮に新兵器ができたとしても輸送の手段がない。
     「ケヤキの碑がある筈なんですが、下見の時は発見できませんでした。」戦時中に強制買収された地主が屋敷林を偲んで、昭和五十七年に「けやきの碑」を建てたと言う。グランド門から構内に入ると広い松並木がまっすぐ伸びている。
     「広いキャンパスですよね。」付属施設を含めて約三十五ヘクタールある。東京都内のキャンパスの広さを調べてみると、東大本郷キャンパスの五十四ヘクタール、首都大学東京大沢キャンパスの四十二・八ヘクタール、東京農工大学府中キャンパスの三十・五ヘクタールなどが広いところだ。
     少し歩いてみたがやはり碑は発見できず、元に戻る。東門からも覗いてみたが、もう構内には入らない。調べてみると体育館裏にあったようなので、もう少し行けばよかったかも知れない。
     新小金井街道で中央線を越え、連雀通りとの交差点にかかると小金井警察署があった。「免許の書き換えはここに来たような気がする。」「立派な警察ですよね。」随分大きな警察署で、小金井市と国分寺市を管掌するから、国分寺市に移住してきたファーブルが書き換えに来るのは理屈があっている。
     新小金井街道をそのまままっすぐ行けば滄浪泉園だ。小金井市貫井南町三丁目二番二十八号。入園料は一般百円だが、六十歳以上は五十円となる。六十歳を基準にするのは珍しい。「六十歳未満の人はいませんよね。」江戸歩きが始まって十三年、最初のふるさと歩道自然散策会からなら二十年近くも経った。まだみんな若かった。

     滄浪泉園は、明治・大正期に三井銀行等の役員、外交官、衆議院議員など歴任、活躍した波多野承五郎氏(雅号・古渓)により、武蔵野の特徴的な地形である「はけ」とその湧水を巧みに取り入れた庭園を持つ別荘として利用されて来ました。
     その名の由来は、大正八年、この庭に遊んだ犬養毅(雅号 ・木堂)元首相によって、友人古渓のために名付けられたもので、「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭」との意味を持っています。
     入口前にある石の門標の文字は、 木堂翁自らの筆によるもので、波多野氏の雅遊の友であった篆刻家足立疇邨によって刻まれたもので、萬成と呼ばれる大きな赤御影石が使われています。(中略)
     滄浪泉園は、古代多摩川が、次第に南西に移って行った途中で作った、最も古い段丘の一つに位置しており、この斜面は地形学上国分寺崖線と呼ばれ、立川市の北東から世田谷区の野毛町まで続いています。崖下の砂礫層からは豊かな地下水が湧き出て、それを一般に「はけ」と呼んでいます。(滄浪泉園のパンフレットから)

     ロダンがいたら喜んだだろう。水琴窟からはか細い音が聞こえてくるが、竹筒を耳に宛てればもっと幽玄な音が響く。黄色のツワブキが咲いている。

     石蕗の花水琴窟をひつそりと  蜻蛉

     「滑らないように気を付けて。」不揃いな石を組み合わせた石段を下りると、下は池を回遊する庭園になっている。「水が湧いてるね。」「きれいだよな。」東京の名湧水五十七選とされている。武蔵野は湧水に恵まれた土地である。
     回遊路の途中には台座だけになった馬頭観音、おだんご地蔵、鼻かけ地蔵がある。「鼻かけはまずいんじゃないの?」「変な遊びはするなって言ってるんだよ。」どうやら蚊に食われたようだ。十月の末だと言うのにまだ蚊がいる。この季節の蚊は「哀れ蚊」と呼び、人を刺す力も残っていないと言われるのだが、これは非科学的だろうか。

     「秋まで生き残されている蚊を哀蚊と言うのじゃ。蚊燻は焚ぬもの。不憫の故にな。」(太宰治『葉』)

     「夏は暑すぎて活躍できなかったんですよ」とオクちゃん夫人が微笑む。桃太郎がリュックの中から貴重品袋のようなものを取り出した。中には傷絆創膏や薬が入っている。二週間前の講釈師の事故を考えればこういう準備は大事である。その中にムヒが入っていた。「俺にも貸してくれよ。」蚊に食われたのは私だけではなかった。
     「こんなところがあるんだね」とファーブルが驚いている。「俺は、この道はしょっちゅう通ってるのに入ったことがなかった」とスナフキンも言う。
     警察署前に戻って今度は連雀通りを東に向かう。この通りをまっすぐ東に行けば三鷹市下連雀に着くから、そこから来た通り名であろう。三鷹の連雀地名は明暦の大火の後、神田連雀町から移り住んだ住民による。ところで、連雀とは行商人が背負う背負子のことだ。元は「連尺」と書いたが、行商人が渡り鳥のように見えることから連雀と書かれるようになったのだ。
     「そこに工業高校があるんだ。」表札には多摩科学技術高等学校と小金井工業高等学校が並んでいる。「名前を変えたけど、まだ工業の生徒がいるからじゃないか?」それにしてはおかしい。実は小金井工業は定時制で、同じ校舎を二つの学校が共用しているのだ。科学技術高校の創設と同時に、小金井工業は全日制を廃止した。
     ハナミズキの並木が真っ赤だ。この時期のハナミズキは真っ赤な葉と真っ赤な実が美しい。小金井街道を越えた所で姫が迷いだした。「この辺なんですよ。」「住所は?」「本町一丁目七番です。」住宅地の細長い三角の地形だ。スナフキンはそのまま真っすぐ偵察に行く。残った者は狭い道を左に回り込んで街道の方に戻る。「向かいは一丁目八番だから、やっぱりこの一角だよね。」すると菊屋文具店の隣にあった。「あったよ。」「一つ前で曲がれば良かったんですね。」
     黄金の井である。小金井市本町一丁目七番六号。笠付き六面六地蔵の境内で、地下百メートルの水を汲み上げている。日用のために利用するには菊屋文具店に五百円を払って登録しなければいけないが、試飲のための一杯だけは無料で飲める。蛇口から水を出して飲んでみる。「旨い」と言ってみたが、実はよく分らない。ポンプ式の井戸の手押しをオクちゃん夫人が動かしてみるが水は出ない。「呼び水を入れないとダメでしょうね。」蛇口の方は水質検査を通っているので飲めるが、ポンプの方は飲んではいけない。
     「幡随院には行きません。長兵衛に関係するかもしれないと思ったんですけど、関係ないようですから。」ということで今日は行かないが、念のために調べてみた。慶長八年(一六〇三)、神田駿河台に創建した浄土宗の寺院である。元和三年(一六一七)の神田川掘削によって下谷池之端に移転して、四十余りの学寮を有して檀林として栄えた。その後明暦三年(一六五七)の振袖火事、天和二年(一六八二)のお七火事、明和九年(一七九二)の目黒行人坂火事などで被災して移転を繰り返した。関東大震災、昭和二年の自焼火事などの後、昭和十五年(一九四〇)に小金井市前原町に移転してきた。この寺が浅草にあった頃、唐津藩士の子である塚本伊太郎は江戸にやってきて、その門前町に住んで人入稼業を営んだ。それが幡随院の名乗りの由来だという説がある。
     前原坂上交差点は五差路だ。今日のコースにはないが、この坂を南に下って行くと霊園通りとの三叉路(前原坂下)に、観応の擾乱で戦われた武蔵野合戦の舞台の一つ、金井原の古戦場の碑がある筈だ。観応の擾乱は足利尊氏と高師直に対して、尊氏の弟直義、及び尊氏の実子で直義の養子となった直冬が対立し、そこに南北朝が入り乱れて争った実にややこしい戦争である。去年、亀田俊和『観応の擾乱』(中公新書)が出た。
     金井原で勝利したのは上野で旗揚げした新田義興だったが、その後鎌倉に入ろうとして矢口の渡しで謀殺された。大田区に新田神社があるのはその義興を祀ったものだ。それを知ったのは、昨年の八月に姫の案内で昭和散歩をして矢口渡駅を通った時だから、私は何も知らなかった。
     戦乱は長期化し、地域も広範に及んだから各地にその跡地はあるだろうが、ここで注目したいのは、「金井原」の地名である。一般に小金井の地名由来には黄金のような湧水を挙げるが、金井原を由来とする説もある。
     「その辺に慶応の工学部があったんだよ。今はマンションになったけどな。」約六ヘクタールの敷地だったようだ。スナフキンによれば、慶應はこの地を売却した資金で湘南にキャンパス(慶応SFC)を新設した。「工学部の前身は藤原工業大学だよ。」それは私も知っている。慶應に寄贈する前提で、藤原銀次郎が私財を投じて創った大学で、昭和十九年に慶応に寄贈されて工学部となった。
     最初は日吉に置かれたが、日吉キャンパスは空襲で焼失し、残された建物も戦後は米軍に接収された。工学部は目黒、川崎と移った後に、昭和二十四年に横河電機製作所の工場跡地だった小金井に移って来たのである。そして工学部は昭和四十七年(一九七二)日吉に移転した。

     小金井街道を南に下りて、左の路地に曲がるところに「西の台遺蹟B地点」の解説板があった。武蔵小金井駅南口の再開発のための調査で、旧石器時代の生活跡が発見された。段丘崖から湧き出る豊富な水によって、古くから人が住み着いたのである。
     その路地は金蔵院の坂だ。坂道を大きく右に回るように下れば金蔵院(真言宗豊山派)だ。小金井市中町四丁目十三番二十五号。山門は修理中のようで、職人が脚立に立って作業している。

     金蔵院の正確な開山時期は不明ですが、永禄年間当時の住職である堯存(ぎょうそん)が一五六六年(永禄九年)に遷化したとの記録が残っており、それ以前の開山だと推察され、小金井市で現存する最古の寺院だといわれています。
     金蔵院は国分寺崖線(通称〝はけ〟)のすぐ下に位置しています。このはけ下の一帯は湧水に恵まれていることから、古くから人々が定住していたといわれ、小金井発祥の地とされています。
     また明治六年、この地に小金井最初の公立学校「尚絅学舎」(明治八年に小金井小学校と改称)が設立され、明治三十四年に現在地(本町一丁目)に移転するまで小学校として利用されていました。
     そしてその後は、大正十一年まで小金井村役場としても使われていました。(「金蔵院概要」より)http://konzoin.com/

     「ちゃんと鰐口もありますね。盗まれるからしまっておくお寺が多いんですけど。」「鰐口を盗む?」「なんでも盗っていくんですよ。」境内には開星稲荷が祀られている。「開星って珍しいですよね。」ケヤキとムクは樹齢四百年を超える。
     寺の東側から伸びる道が「はけの道」とされている。連雀通りの南側を平行に走る道で、ここが崖線になっているのが良く分る。「ハケってどういう字?」ファーブルに訊かれるだろうと思って、大岡昇平『武蔵野夫人』を持ってきた。「これだよ。」大岡は「峡」の文字を使っている。

     土地の人はなぜそこが「はけ」と呼ばれるかを知らない。「はけ」の荻野長作といえば、この辺の農家に多い荻野姓でも、一段と古い家とされているが、人々は単にその長作の家のある高みが「はけ」なのだと思っている。
     ・・・・「はけ」とは「鼻」の訛だとか、「端」の意味だとかいう人もあるが、どうやら「はけ」はすなわち、「峡」にほかならず、長作の家よりはむしろ、その西から道に流れ出る水を遡って斜面深く喰い込んだ、ひとつの窪地を指すものらしい。(『武蔵野夫人』)

     しかし昭和五十七年(一九八二)に小説の舞台を歩くと言うテレビ企画の中で、大岡はこの説を微妙に訂正している。

     「はけ」を「峡」と使ったのは、柳田国男の著書によったが、本当は大森の「八景坂」など高く出張ったところのこと、出張ったところがあれば、そのとなりは入りこんでいて、この斜面には関東ローム層と砂礫層の間から水が涌きます。水がテーマなので、その伏線の地形学的「よた」です、ともいえず、フィクションです、と答う。・・・・・
     富永家から東は風致地区に指定されていて、マンションやプレハブは建たず、ほぼ昔のままの木の多い斜面の形を保っている。その下の道が「はけの道」と呼ばれているとは、驚きであった。(大岡昇平『成城だより』一九八二年十一月一日)

     どうやら「峡」は余り当てにならない。柳田国男は「はけ」はアイヌ語の「パケ(端)」だと考えた。
     旧谷口家のオニイタヤは、解説板はあるが見ることができない。広大な屋敷に人は住んでいず、庭も荒れ放題になっている。オニイタヤとは、ムクロジ科カエデ属のイタヤカエデの類らしい。
     反対側の叢には「小金井は はけの森とキンヒバリの里」の立て札が建っている。キンヒバリなんて知らないから鳥の一種かと思ったが、オクちゃんが「カンタンとは違うんでしょうか?」と言うので虫だと分る。コオロギ科の昆虫である。但し普通のコオロギと違って春から夏にかけて鳴くらしい。
     塀から覗くピラカンサスが真っ赤だ。小金井市立第二中学校のグランドの向かいに小さな地蔵堂があった。ブロック塀の角を利用した祠だ。地蔵堂自体は珍しくもないのだが、一握りのコメを入れたビニール袋がいくつもぶら下げられているのが面白い。神社に米を備えるのは見た記憶があるが、地蔵に供えるのは初めて見た。
     ファーブルは中学校の塀に何かを見つけたようで、私たちが通り過ぎた後もじっくりと観察している。暫くして追い付いた。「何があった?」「蜘蛛。」私は見なくて良かった。
     はけの森美術館は休館だ。小金井市中町一丁目十一番三号。ここは中村研一が自宅に建てた美術館で、小金井市に寄贈された後、裏の湧水地を含めて「はけの森美術館」と名付けたのである。正式名称は「中村研一記念小金井市立はけの森美術館」である。無学だから中村研一の名前を知らない。大正から昭和にかけて、帝展や日展などを中心に作品を発表し近代洋画壇の重鎮として活躍したらしい。空襲で東京・代々木のアトリエを焼失してから小金井に移り住み、終生この地で作品を描き続けた。
     カフェだけはやっているようで、庭の中に入ることができる。「下見の時には閉まっていて入れなかったんですよ。」中は崖線に沿った森である。池にはきれいな水が涌いている。「これ、石臼?」石畳の間に丸い石臼が置かれていた。スナフキンとヨッシーが竹林の間の石段を登っていく。後をついて行くと、後ろから「適当に戻ってきてくださいね」と姫の注意が聞こえる。かなり長く続く石段を登りつめると、外の道路に出てしまった。サザンカが咲いている。また戻らなければならない。
     美術館の向かいから南に向かって「はけの小路」という細い道がある。野川に注ぐ水路に沿っているのだろうが、今日はそちらには行かないらしい。なんとなく雰囲気のよい道なので残念だったが、姫には計画というものがある。

     山茶花のひとひら零るはけの水  蜻蛉

     少し行くと左側の門扉が閉ざされている家に「富永三郎」の表札があった。そうか、姫が「『武蔵野夫人』の舞台」とした目的はこれだったのだ。たぶん今日のメンバーで知っているのは姫とスナフキンと私だけだろう。知らない人は何が面白いのかと不思議に思うに違いない。大岡昇平は、私が強い影響を受けた何人かの一人ではあるが、ここに来たことはなかった。
     今は誰も住んでいないようだ。その脇の坂がムジナ坂で、石段を上がると富永三郎家と接してもう一軒「とみなが」家があった。下の家が三郎(作曲家)なら、上の家には次郎(美術評論家)が住んでいた筈だ。次郎の死後はその長男が住んだ。
     戦後、大岡は俘虜収容所から帰還して兵庫県明石の親戚に厄介になった後、昭和二十三年一月に家族と共に上京して富永次郎宅に寄寓した。成城高校で同級生になって以来の友人である。この家に住んでハケを散策したことが『武蔵野夫人』を生んだ。富永家の雰囲気は『武蔵野夫人』のこんな描写に現れているだろうか。

     ・・・・大正の末停年で官を退くまでに、すでに相当の産を作っていたが、退職後も縁故をたどって静岡県のある私鉄の重役に収まり、二年の間にさらに産を殖やすと、あらかじめ別荘として建ててあった「はけ」の家に引っ込んでしまった。こうして彼の生涯はある程度の幸福に達していた。ただ子供運はよくなかった。同じ静岡県の士族からもらった妻の民子との間に、二男一女が生れたが、男はいずれも早道し、末娘の道子だけしか残らなかった。……
     ・・・・彼女はそのかわり早くから八歳年上の長兄の俊一に熱中した。俊一はなぜか父親の衒学的シニスムに反抗し、若くからフランスの近代文学、ことにランボオに心酔して坊ちゃん風の漂浪の生活を送った。彼は丈が高く、小さな卵形の顔が長い首の上にちょこんと載って美しかった。彼の言葉は彼女にとって金科玉条で、自分の生活の細目に到るまで何でも彼の指図を仰ぎ、盆幕に方々からもらう小遣いもみんな彼に送ってしまった。その兄が乱暴な生活のため肺を病んで二十四歳で死ぬと、今度は次兄の慶次が熱中の対象になった。彼は作曲家希望で少年の時からピアノを弾いた。

     家族構成はフィクションであるが、父の謙治は鉄道省の官吏から青梅鉄道株式会社の社長になり、大正十二年に退職した。美術、音楽、文学に溢れた家であったことは間違いない。「長兄の俊一」には二十四歳で夭折した富永太郎の面影がある。
     

     富永は大正十五年に小金井に越した。うちはその前から建っていたんだけれども、兄貴の太郎が、寝たきりだったので引っ越せなかったんだ。富永太郎が死んだのは、大正十四年十一月。十二月におれは転校して成城学園へ入って、そこで次郎と同級になった。それで富ヶ谷の家の書斎なんかも見ていたんだけれども、そのつぎの年の夏に一家は小金井に越したんだ。
     富永のうちは武蔵境と小金井の間にあったんだけれども、『武蔵野夫人』では舞台を小金井と国分寺のあいだに移した。そうしたらそこにもまた「はけ」というところがあっていまではそこが『武蔵野夫人』の場所ということになっている。けれども、「はけ」というのは斜面にはどこにもある地名なんだ。(大岡昇平・埴谷雄高『二つの同時代史』)

     『武蔵野夫人』に絞るなら大岡昇平と富永次郎のことだけ書けば良いのだが、そういう訳にはいかない。小林秀雄、中原中也、大岡昇平たちの神話的とも言うべき文学修業時代は、全て富永太郎が発端であり、それに触れないではいられないのだ。
     富永太郎は府立一中以来の小林秀雄の親友であった。一高に進んだ小林とは違って高校は二高に進学したが、人妻に失恋して退学せざるを得なくなった。一高を受験するも失敗して東京外語仏語科に入学したが、不眠と神経衰弱で出席日数が足らず落第した。この頃、油絵と、ボードレールの翻訳をしながら詩作を始めている。上海を放浪して帰国した後、京都に泊まって冨倉徳次郎と飲んだ際、中原中也が同席した。
     冨倉は二高に入学した時は太郎の同級生、当時は京都帝大国文科在学中で立命館中学の臨時の国語教師をしていた。そこに山口県立中学を落第して、落第生でも引き受ける立命館中学に転校してきていた中原中也がいた。既にダダイストを自称し、三歳年上の長谷川泰子と同棲している不良中学生である。国語の試験に答を書かずに詩を書いたことがあって、冨倉は中原を詩人として認め、太郎に紹介したのである。既に結核を発症していた太郎は一旦は東京に戻ったがすぐにまた京都に戻る。府立一中と二高で太郎と同級だった正岡忠三郎(子規の妹の律の養子)も京都帝大に在学していたから、中原は毎日のように年上の三人と会って対等の口を利いて付き合い、時には喧嘩した。

     夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正十四年の十一月に死んだ、懐かしく思ふ。(中原中也「詩的履歴書」)

     随分そっけない書き方だが、これが中原だから仕方がない。中原には自分しか見えていないのだ。

     とまれダダイスト或いはダダさんが、中原の綽名であって、ダダの資格で彼は五歳年上の大学生たちから愛されもし、敬遠されもしたのである。ダダの名において、彼の主張は耳を傾けられた。中原は無論それが不満であって、いろいろ言い換えた。それが十三年後期の彼の思想詩と思われる。
     富永太郎や冨倉徳次郎氏は、当時の中原とは比較にならない教養を持っていた。中原が富永から学んだのは「仏国詩人等の存在」どころの騒ぎではない。詩語の使い方から、文学史、文学青年の交際作法、要するに詩人になり方について、あらゆることを学んだのである。もっともそれを少しも学んだとは思わず、それら土台の上に、一生自分の独創性と信じるものを追求して行ったのが、彼の個性だったのだが。(大岡昇平『朝の歌』)

     結核が悪化して東京に帰ると、太郎は同人誌「青銅時代」、そこから分かれた「山繭」に詩を発表して好評を得た。「山繭」は大正十三年十二月、石丸重治、木村庄三郎、永井龍男、小林秀雄、富永太郎、笠原健治郎、河上徹太郎、上島謹太によって創刊された。
     太郎の「成功」を耳にした中原はいても立ってもいられなくなり、大正十四年に泰子を伴って上京する。泰子はもともとマキノ・プロの女優志願者で、関東大震災のため撮影所と共に京都に行っていたのだから、上京したい気持ちは同じだった。大学予科に入学すれば立命館は四年修了の証書を出すと言ってくれたが、早稲田からは受験するなら四年修了証明を出せと言われた。日大も受験してみたが結局ダメだった。
     しかし受験は親に対する口実で中原の目的は小林に会うことであり、上京してすぐに小林を訪ねていく。知り合えば連日連夜、時をおかずに訪問し続けるのが中原で、すぐに小林の交友圏内の連中とも知り合うことになる。そして中原も「山繭」の同人になった。
     太郎は医師の忠告を無視して、小林、中原と街を飲み歩いた。「思へば、私は彼の夭折を随分助けた」(『ランボオⅡ』)と小林は後に語った。

     彼の詩の衰弱と倦怠とが、ランボオの生気で染色されるのを、僕は見て取つたが、彼が、その為に肺患の肉体の刻々の破滅を賭けてゐた事は見えなかつた。その種の視覚を、ランボオは僕から奪つてゐた様に思はれる。或る夏の午後であつた。僕は富永の病床を訪れた。彼は腹這ひになつて食事をしてゐたが、蓬髪を揺つて、こちらを振り向いて笑つた時、僕はゾツとした。熱で上気した子供の様な顔と凡そ異様な対照で、眼の周りに、眼鏡でもかけた様な黒い隈取りが見えた。死相、と僕は咄嗟に思つた。だが、この強い印象は一瞬に過ぎ去つて了つた。何故だろう。何故、僕は、死が、殆ど足音を立てて、彼に近寄つてゐるのに、想ひを致なかつたのだろう。今になつて、僕はそれを訝るのである。(小林「ランボオⅢ」)

     小林もまたランボオと言う「事件」の真っただ中で、自分のことしか見ようとしていなかった。その年十一月、太郎は死んだ。その時、小林は盲腸炎の手術で別の病院に入院していた。そこに泰子が見舞いに来ていたのが事件の発端になった。十一月下旬、泰子は中原を捨てて小林の許に走った。但し中原が泰子を小林の家まで送って行ったのである。

     私は中原との関係を一種の悪縁であつたと思つてゐる。大学時代、初めて中原に会つた当時、私は何もかも予感してゐた様な気がしてならぬ。尤も、誰も、青年期の心に堪へた経験は、後になつてから、そんな風に思ひ出したがるものだ。中原に会つて間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合ふことによつても協力する)奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌はしい出来事が、私と中原の間を目茶苦茶にした。言ふまでもなく、中原に関する思ひ出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白といふ才能も思ひ出という創作も信ずる気になれない。(小林「中原中也の思ひ出」)

     大岡は生前の太郎に会ってはいないが、弟の次郎の家で『山繭』のバックナンバーを読んでいた。太郎の死後に家蔵版として出された『富永太郎詩集』(村井康男編集)が決定的だった。フランス象徴詩に目覚めたのである。もともと大岡に文学の手ほどきをしたのは従兄の大岡洋吉(一高で小林と同学年)だったが、洋吉にフランス象徴詩の趣味はなかった。
     そして昭和三年、十九歳の時、成城高校の教師村井康男(太郎の親友)の紹介で二十六歳の小林秀雄にフランス語を習い始めた。小林の家には泰子が同居していて、泰子に棄てられた筈の中原が頻繁に訪ねて来たから、大岡は小林と中原によって文学と同時に人生を鍛えられた。
     戦前の大岡は批評と翻訳をいくつか発表しただけで、まだ作家と呼ばれるべき存在ではなかった。大岡が作家になるにはフィリピン戦線と俘虜の経験が必要だった。フィリピン山中で立哨していると、大岡の胸に中原中也の「夕照」の一説が浮かび上がった。

    丘々は、胸に手を当て
    退けり。
    落陽は、慈愛の色の
    金のいろ。

    原に草、
    鄙唄(ひなうた)うたい
    山に樹々、
    老いてつましき心ばせ。

    かかる折しも我ありぬ
    少児に踏まれし
    貝の肉。

    かかるおりしも剛直の、
    さあれゆかしきあきらめよ
    腕拱みながら歩み去る。

     なぜか、この第二連だけが思い浮かばなかった。大岡に『俘虜記』を書かせたのは小林だが、復員した直後から、大岡は中原中也と富永太郎の伝記作者を志していた。

     大正十五年十一月「山繭」は富永の追悼一周年記念号を出し、十七歳の私自身、これら晦渋の散文の解読に苦心した記憶がある。この時期に富永の散文に魅了されたことが、いわば私の一生を決定したといえるので、私自身の青春をたしかめるためにも、中原中也と共に、富永太郎の生涯を検討する必要があるのだ。(大岡『朝の歌』)

     伝記作成の目的はほぼ達成された筈だが、全集に関しては違っていた。角川版の『中原中也全集』(私が上京後初めて買ったもの)は当時としては「完璧な」名編集と評されたが、富永太郎全集は結局完成しなかった。『成城だよりに』には、今年こそ富永太郎全集を完成したいと言う希望を毎年のように記したが、余りにも凝り性だったことに加えて、好奇心旺盛で読む本が多すぎたこと、また書くべき仕事も多かった。最後の作品『堺港攘夷始末』も未刊に終っている。
     三浦雅士『青春の終焉』は、「富永太郎、中原中也という詩人が文学史に残ったのは、ひとえに大岡昇平の功績だといって必ずしも誤りではない」と言う。私は太郎の詩が分らないが、それなら中也は分るのかと問われればそれも心許ない。折角富永家に来たのだから、太郎の散文詩「秋の悲嘆」を引いてみるか。ボードレール風と言えるだろう。

     私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。
     私はたゞ微かに煙を挙げる私のパイプによつてのみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅(あかゞね)色の空を蓋ふ公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさんは埃も立てずに土塀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。
     私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習ひであつた……
     夕暮、私は立ち去つたかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状体に触れることがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか? 私はあまりに硬い、あまりに透明な秋の空気を憎まうか?
     繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジオグノミー)をさへ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。

     ここから鍵型に曲がって連雀通りに出る手前の角が、ホームセンターのケイヨーデイツーの駐車場だ。小金井市中町一丁目十三番二十四号。ここは鴨下製糸工場跡地である。多摩地域で養蚕が盛んだったのは言うまでもない。日本のシルクロードの一部でもある。従って製糸工場も多く創られた。多摩地区最大の西川製糸(昭島市)は明治二十六年創業で、昭島市内には数軒の製糸工場が創業された。小金井では明治三十四年(一九〇一)創業の鴨下製糸工場が最古である。姫の調査では、創業当初は小金井分水の水力を利用したと言う。
     鴨下家は小金井の名家である。午前中に寄った大嶽神社の地蔵にも、鴨下佐吾兵衛の名があった。祖先ははっきりしないが武田遺臣ではなかろうか。
     連雀通りを越えて北に歩く。地蔵堂には笠付庚申塔(合掌型青面金剛)と地蔵が二体収まっている。かつては連雀通りにあったものが、道路拡幅のためにここに移されたのである。
     そして東京農工大学小金井キャンパスに着いた。小金井市中町二丁目二十四番十六号。姫の案内資料には「繊維博物館」と書かれているが、塀に取り付けられたプレートは「科学博物館」である。名称を変えたのだ。
     この大学についてほとんど知るところがなかった。「国立だけど、なんとなく印象が薄いんだよな」とスナフキンも言う。駅伝はじめ各種スポーツによって、東京農大の方が有名だろう。
     この工学部キャンパスは前身の一つである東京繊維専門学校だった。遡れば、明治七年の内務省勧業寮内藤新宿出張所が始まりで、農商務省蚕病試験場、蚕業試験場などを経て、大正三年に東京高等蚕糸学校、昭和十九年に東京繊維専門学校として続いて来たのである。これが繊維学部から工学部に変わる。
     府中キャンパスの方は内務省樹木試験場に始まり、明治十五年に農務省東京山林学校、明治二十三年に帝国大学農科大学乙科に編入されたものの、昭和十年に東京高等農林学校として独立した。これが農学部になる。
     従って博物館の展示は蚕糸技術に関わるものが中心である。機械類は貴重なものなのだろうが、説明が不足している。「ちゃんとした学芸員がいないんじゃないかな?」
     遠藤章氏の部屋がある。スタチンの発見者で開発者である。「スタチンって?」「紅麹って書いてある。」そうではなく、スタチンはコレステロールを下げる薬であった。由利の人で秋田市立高校を卒業、秋田県名誉県民になった人物であるが全く知らなかった。「市立高校って?」「今の県立中央高校だよね。」「ホントかな?」ファーブルも疑わしそうにする。秋田市立高校ではなく県立秋田高校ではないかと思ったのだ。スナフキンが検索して、確かに市立高校(現・中央高校)だと確認できた。市立高校をバカにしていた訳ではないが、やや軽く見過ぎていた。
     遠藤章はコレステロール低下剤「スタチン」の発見者であり開発者である。三共によって開発途上、発ガン性を疑われて中断したこともあったが、米国メルク社が発ガン性のないことを立証した。二〇〇六年日本国際賞、二〇〇八年ラスカー賞(ラスカー・ドゥベーキー臨床医学研究賞)を受賞。二〇一一年文化功労者。二〇一七年ガードナー国際賞(カナダ)を受賞している。
     ミシン、ジャカード付き絹織機、ドビー付き絹織機、阪本式管替自働織機等々。一通り繊維技術関係の展示を見学した後は、別室の特別展「放送技術のこれまでと将来』に移る。「8Kは御覧になったことがありますか?」「愛宕山のNHKで見たね。」ハイジが特に真剣に観ていただろう。しかしその画面はあんまりくっきりし過ぎていて、神経が疲れるようだ。「こんな大きな画面を見るには、相当広い部屋じゃないとダメだよ。」
     緑の背景に緑の背景に緑の布を持った実験をしている。モニターには別の画面が映っている。「どうぞ、体験してみませんか?」「桃太郎、やってみてよ。」クロマキー合成という技術である。特定の色を透明にし、そこに別の画面を嵌め込むのだが、私にはその理屈は全く分らない。「普通は青じゃないんですか?」「青か緑ですね。」

     博物館を出て栗山公園で休憩だ。小金井市中町二丁目二十一番。三時半。今日は余り休憩する時間がなかった。曲がりくねった滑り台で子供たちが遊んでいる。ここで煎餅やナッツが配られる。「サクラが咲いてるな。季節外れか?」「十月桜でしょうかね」とツカサンが言う。十月桜は春と秋の二回咲くサクラである。春の花に比べて色が薄いように見える。
     少し離れた所に御栗林跡の解説があった。これはこんな所ではなく、さっきの公園にあった方が良いだろう。

     押立村名主平右衛門が、自ら開発した押立新田(小金井市東町)の一部の三万六百坪を幕府に献上したのは元文のころ(一七三六~四一)であった。
     ここに幕府は「御栗林」として数千本の栗木を植え付け、周囲を土手と防風林で囲み、南側に用水路を引いた。
     川崎平右衛門の事績を記した高翁家録などによると、収穫した栗実のうち精選した二千粒余を幕府に献上し、残りの大部分は新田の人々に分配された。飢饉に苦しむ人々に食料の足しとなるし、余れば江戸で売って金も稼げるだろうと考えたからであった。また御栗林として献上すれば年貢の面で優遇されることもあるだろうと才覚も働いたという。
     御栗林の栽培や管理は、付近の十ケ所の新田(下小金井、関野、梶野、丼口、野崎、大沢、境、関前、上保谷、田無)に任され、嘉永五年(一八五二)に大規模な補修が行われ明治維新まで続いた。
     この地域の十ケ新田栗林の字名となり昭和三十四年の町名変更まで残った。また、栗の栽培技術は周辺にも広がり、小金井地域は栗の特産地となり、関野栗(五郎兵衛栗)、貫井栗などと呼ばれた。(ウィキペディア)

     川崎平右衛門定孝の名は小金井桜の植樹に関連して覚えている。「小金井桜の父」とも呼ばれる人物だ。元禄七年(一六九四)押立村(現府中市)の名主の家に生まれた。享保の改革によって開拓された武蔵野新田の経営は必ずしも順調ではなく、その立て直しのため抜擢されて新田の経営に当たった。その間に治水事業、貧民救済などに力を尽くし、旗本に登用された。明和四年(一七六七)には勘定吟味役、諸国銀山奉行に昇任。翌明和五年に死んだ。
     「東小金井駅開設記念碑」がマロンホールの前に立っている。小金井市東町三丁目七番二十一号。こういうものは、普通は駅前にあるのではないか。東小金井駅は民間の資金で造られた駅であった。銅像は宮崎金吉である。「それって誰だい?」

     ・・・・その上大正十五年武蔵小金井駅の開設以来 本市東部地区一帯は 同駅と武蔵境駅との谷間的存在となり 眼前に鉄道を見ながら鉄道に恵まれずして今日に至ったのだ  ところがここ十幾年来急激な大東京の膨張により当地区の住宅化が日増しに盛況を呈するに至ったので 地元有志は 今こそと新駅の設置を早急最重要の大課題として強力な運動を展開すべく立ち上がった。
     ・・・・事ここに至っては 我らはさらに奮起して対策を講じる必要に迫られ 百方苦心画策の末 我らもまた経済的方途をもってこの難関の打開に当たらねばならぬ覚悟を固め 改めて新駅設置協力会を樹立して会長に宮崎金吉氏を選任 (一)新駅用地二~三千坪の土地提供と (二)建設資金壱億円以上の拠出という二大方策を立て即刻これを実行に移した 
     ・・・・さて ここに特筆すべきは 前記協力会長宮崎金吉氏の功労である 氏はこの難関重畳の中に身を挺して東奔西走 その労苦と活躍とは実に筆紙の尽し難いものであった  時に孤立無援の苦境に立ち 時には健康を害するなど労苦の連続であったが よく初一念を貫徹して この大事業を成功に導いた原動力となった その功績記してもつて後人に伝えるべく特に一筆を加えることとする

     マロンホールとは何か。中に入ってみたが別に何かを展示しているわけではない。公民館のようなものであった。東小金井駅に戻ったところで本日は一万七千歩、十キロとなった。姫はロダンに代わって来月の江戸歩きの予定(立川駅集合)を、スナフキンは近郊散歩の会の予定(高幡不動駅集合)を伝達する。
     「さて、どうする?」「そこがやってるじゃないか。」目の前のさかなや道場だ。ちょうど四時だ。姫、スナフキン、桃太郎、ファーブル、蜻蛉。ビールはスーパードライしかないので、ファーブルは最初から焼酎にする。一刻者である。「刺身を頼もうぜ?」三点盛り。「二切れにしますか、三切れにしますか?」なんだかわからないが三切れにした。どうやら同じ厚さのものを二枚に切るか、三枚に切るかということらしい。一刻者を追加して二時間でお開き。
     まだ六時だ。「もう一軒行こうか?」何という店だったかまるで思い出せないが、ここでは日本酒を飲んだ。

    蜻蛉