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    近郊散歩の会 第十九回 与野七福神
        平成三十一年二月二十三日(土)

    投稿: 佐藤 眞人 氏 2019.03.14

     十一月の第十七回(スナフキン企画の日野)はゼミの同窓会のため、十二月の第十八回(千意さん企画の佐野)は軽い腰痛のために休んだ。第十九回は先月のロダン企画の深谷だったが、雪の予報のために中止になったから今回を第十九回とする。今月第二週の成田街道も雪で延期になったので歩くのは久し振りだ。
     数日前までは、気温が低く雨になる予報だったのに、今日になって雨の心配はなくなり、最高気温は十三度程になると変わった。暖かい日と寒い日が交互にやって来る。旧暦一月十九日、雨水の初候「土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)」。土脉を音で読めば「ドミャク」。土が脈打つように生きとし生けるものが動き出すということか。
     今日は一年半振りに会う宗匠の企画で、集合は埼京線北与野駅だ。さいたま市の区名と旧市名との関係は分り難い。大宮と浦和に挟まれて目立たないが、旧与野市は現在さいたま市中央区だと今回初めて認識した。北与野駅には降りた記憶がなく、埼京線だったか京浜東北線だったかもあやふやだった。それにしても中央区とは何という命名だろう。与野区では何故ダメだったのか。こうして歴史的地名がどんどん失われて行く。
     与野と名の付く駅は四つあり、北与野、与野本町、南与野が埼京線になる。そして紛らわしいことに、京浜東北線の与野駅は旧浦和市内(すぐ西が旧与野市下落合だが)に位置するのだ。つまり埼京線が開通するまで、旧与野市内には鉄道の駅がなかった。
     また与野の字面からして、中世の野与党に関係すると思い込んでいた(後でファーブルにそう説明してしまった)のは完全な記憶違いで、野与党の本貫の地は埼玉郡(加須)であった。久伊豆神社が分布するのは、その勢力範囲である。野与党は武蔵七党の一であり桓武平氏を名乗っているが、承平天慶の乱に登場する武蔵武芝の裔という説もある。

     与野という地名の由来は明らかではないが、「与」には「○と○の間」という意味があり、与野とは「台地と台地の間にある原野」と解釈される地形・立地条件説、労働力を提供する代わりに金品を出す「米納」、「余納」や一定の租税を賦課できない不安定な土地「余野」などの言葉からの転訛説など、いくつかの説がある。
     また、与野という地名が歴史資料に初めて表れたのは、正和三年(一三一四)に成立した『融通念佛縁起絵巻』で、その詞書に「与野郷」とあり、その名が当時遠く京都まで知られていたことがうかがえる。(埼玉観光国際協会「旧与野市の歴史」)
     https://www.stib.jp/mame/history_yono.shtml

     大宮に着く少し手前で、大崎駅の信号機故障の影響で、埼京線の川越から新宿までの直通はなくなったと車内放送があった。乗った電車は快速なので、最初から大宮で各駅停車に乗り換える予定だから問題ない。北与野は各駅停車しか止まらないのだ。九時四十二分発新宿行きに乗り換えると、既に座っていたマリーから声がかかった。
     席に着いた時マリーの携帯電話が鳴った。「今大宮です。どこなの?集合は北与野だからね」と笑いながら返事をしている。「誰?」「ファーブルからよ。新井宿にいるんだって。」それは来月のマリー企画のコースの集合場所である。何を勘違いしたのだろう。新井宿からだと埼玉高速鉄道、武蔵野線、埼京線を経由しなければならないから定刻に遅れるのは間違いない。
     大宮から北与野までは一駅だから三分で着いた。改札口にはヤマチャンが待機している。指示に従って西口の陽だまりの方に行くと、ロータリーの縁石に宗匠とダンディが腰を掛けている。やがてその他の人もやって来て、定刻までに集まったのは宗匠、あんみつ姫、ハイジ、マリー、ヤマチャン、ダンディ、オクちゃん(珍しく一人)、マリオ(サングラスをかけている)、桃太郎、蜻蛉の十人だ。ファーブルからは漸く東川口に着いたと連絡が入った。なんだか随分時間がかかっている。「先に出発してくれって言ってる。タクシーで追いかけるって。」「だけど場所が分らなくなるよ。」リーダーは到着まで待つと決めた。「二十分くらいかな?」

     ロータリーの真ん中には、青、空色、白の三角形を組み合わせたモザイク模様の大きな壁が設置されている。「ちょうど時間ですよ。」十時だ。三角形のひとつづつが徐々に花びらのように開き、赤いオープンカーに乗った男女が現れた。それを囲む円形は地球をイメージしている。「自由の女神。エッフェル塔。あれが日本ですね、富士山があります。」「音楽が良いね。俺は好きだよ。」ヤマチャンが感心していると、「『八十日間世界一周』よ」とハイジが教えてくれる。「Around the World」と言うらしい。私は映画音楽に関して殆ど無学であるが、それなら男女はフィリアス・フォッグとアウダになるだろう。
     「可愛いわね。」「だけど地元の住民は誰も足を止めないね。」「喜んでるのは他所者だけか?」十時から二十時まで毎正時に動く。それにしても何故北与野で『八十日間世界一周』なのかと不思議に思ったが、「自動車の街与野からくりモニュメント」の説明プレートに気付いた。映画は見ていないが、ジュール・ヴェルヌの小説ならば蒸気船と汽車が主要な移動手段で、一部は象に乗っていたのは覚えている。自動車は余り関係ないんじゃないか。「与野に大きな自動車会社があったのかな?」与野が自動車の街なんて全く知らなかった。
     与野と自動車の関係を知るためには、面倒だが自動車以前の歴史を遡らなければならない。宗匠が資料を出しながら説明してくれるところによれば、与野には鎌倉街道上道(かみつみち)と中道(なかつみち)を結ぶ「羽根倉道」が通り、室町時代には市場が開かれた。江戸時代には、甲州街道日野宿から岩槻を抜けて奥州街道に繋がる脇往還の町場となり、毎月四と九がつく日に開かれる六斎市で栄えたと言う。
     「羽根倉道」とは何か。桃太郎の疑問に「蜻蛉が調べてくれるよ」と宗匠が簡単に答えるので、何とか調べてみた。国道四六三号(埼大通り・浦所バイパス)が荒川を渡る橋が羽根倉橋だ。その辺りに寛文二年(一六六二)頃設立の河岸場・羽根倉河岸があり、羽根倉の渡しがあった。物資の集積、河川輸送の基地として重要だったから、これに繋がる道を羽根倉道と呼んだ。つまり本町通りを南に下り、庚申堂の二又を右に行けば国道に合流しやがて羽根倉河岸に出る。そうすれば所沢辺りで鎌倉街道上道につながるか。逆に北上して宮原を過ぎた辺りで旧中山道に、更に東に向かえば鎌倉街道中道(岩槻街道・奥州道)に合流するだろう。
     鎌倉街道の幹線に繋がる道は全て鎌倉街道と呼ばれたから、本町通り自体も鎌倉街道と呼ばれる。その辺が与野の中心部である。「浦和、大宮よりも戸数が多かった。」ウィキペディアによれば、明治二十年(一八八七)の記録で浦和町三千五百二十四人、大宮町二千八百六十人に対して、与野町は三千八百八十七人である。中山道の宿場より脇往還の宿場の方が栄えていたというのも珍しい。
     かつての交通の要衝が、鉄道敷設のために衰退するのはあらゆる地方都市に共通する問題である。鉄道は多く町はずれに通されたからだ。与野の場合には鉄道が逸れた分、その後の国道の敷設が大きく影響した。自動車との関係の始まりである。

     市場の町として栄えていた与野も、明治十六年高崎線が、ついで東北線が開通し、物資の流通形態が変化してくると、衰微の微候が表れてきた。そこで、地元の有志たちが与野駅開設運動を展開し、大正元年ついに与野駅が開設された。その後、昭和七年に省線電車(現京浜東北線)が開通し、昭和九年には九号国道(現国道一七号)が開通すると、商業・工業活動の中心は、本町通り周辺から上落合、下落合など東部地区に移っていった。九号国道沿いには新たにトラックボディ工場を始め、自動車の部品・修理工場、また販売店など自動車関連産業が多数進出し、昭和三〇年代には「自動車の街与野」といわれるようになった。(さいたま観光国際協会「旧与野市の歴史」)
     https://www.stib.jp/mame/history_yono.shtml

     旧与野市の大きな地図を前にして、西南のはずれに八王子の地名を見つけた姫が「これも宗教に関する地名ですよね」と反応する。「牛頭天王の八人の王子だよ。」牛頭天王は嫁取りのために竜宮に出向き、沙掲羅龍王の娘・頗梨采女を娶って八人の子を儲けた。竜宮に向かう旅の途中で蘇民将来と出合う物語は覚えているだろうか。茅の輪の起源説話でもある。八王子は天台密教、山王信仰と習合して八王子権現になる。その神社から生まれた地名である。東京都八王子も同じだ。
     日差しが暖かくなってきた。歩くと汗をかいてしまいそうで、セーターを脱いでリュックに収納した。それにしてもファーブルは遅い。二十五分着の電車を待ってヤマチャンが改札口に偵察に行ったが姿は見えない。漸く到着したのは三十八分だった。「東川口の駅員に訊いたら、京浜東北線って言われたんだ。だけど南浦和に下りて確認したら北与野ってないんだよ。ヒドイヨ。」「発音が悪かったんじゃないの?与野と聞き間違えたとか。」
     一度降りた武蔵野線を待って来たのだから十分は無駄にしている。「すみません。二十三日だから、てっきりそうだと思ってたんだ。」たまたま三月の第四週土曜日も二十三日なのだ。「大宮で蜻蛉に電話したのに全然出てくれない。マリーに連絡がついたから良かった。」着信履歴を確認すると確かにあった。電車の中や人混みを歩いていると電話が鳴っても気付かないことがある。
     これで十一人になり漸く出発する。オクチャンと姫がホソバ(細葉)ヒイラギナンテンを教えてくれる。ヒイラギナンテンはよく見るが、それとはまるで印象が違って確かに葉が細長い。言われなければヒイラギナンテンの仲間とは到底思えない。
     宗匠は住宅地の中に入って行く。道は狭いが区画整理したように真っ直ぐに通っている。小さなマンションや戸建てが密集している。「昔は田んぼだったんじゃないか?」「畑だね。」埼京線が開通して以後の開発だろう。
     「埼京線は三十年くらいかな?」「もっと新しいんじゃないか?」私が秋田から川越に転勤して来たのが昭和六十二年(一九八七)で、その時は新宿までは伸びていなかったような気がする。しかし正確には、池袋から川越までが開通したのが昭和六十年(一九八五)、新宿まで延伸したのが六十一年(一九八六)だから、どうも記憶は当てにならない。
     「ジンチョウゲだ。」赤い蕾はまだ開ききっていない。マンションの敷地には背の高いサボテンが生えている。「姫、これは何サボテン?」しかし姫はハイジと話に夢中になっていて、まるで見ていない。民家の玄関先には白い梅が儚げに咲いている。少しづつ春が近づいて来た。「暑くなってきたね。」「俺は冷や汗が止まらないよ。」ファーブルはまだ気にしている。
     十五分程歩いて上町氷川神社に着いた。さいたま市中央区本町東六丁目七番。上町の町名で分かるように、与野の町場は上町、中町、下町に三分され、その境界には地蔵と井戸が置かれたと言う。
     ここは本町通りの北端で、与野町と小村田村の境界に位置する。宝永五年(一七〇八)社殿再建の際に、神社の帰属をめぐり相論が起こった。神社には鎮守の森があって、そこには入会権の問題が絡むのである。最終的には双方の総鎮守とし、小村田の在林寺が預かることで決着した。
     鳥居を潜らず境内には横から入った。鳥居から拝殿、本殿に向かって境内地が扇を開いた形(要するに三角形)になるために扇の宮と呼ばれたと言う。西側にはイオンモールが見える。

     当社は、元は鎌倉街道であった与野本町通りの北端に、樹齢五百年余の欅や杉の大木に周まれて鎮座する。社地が鳥居から本殿に向かって扇子を開いたような形をしていることから、古来「扇の宮」と呼ばれている。
     『風土記稿』与野町の項には「氷川社 小村田村と当所の接地にて則両所の鎮守なり、社地扇子の形に似たるをもて、土人扇の宮と唱へり、小村田村在林寺持」と記されている。これに見える在林寺は氷川山と号する真言宗の寺院であった。(『埼玉の神社』)

     この神社は与野七福神の福禄寿を担当している。そもそも今日のコースは、ほぼ本町通り沿いにある与野七福神を巡ることになっている。七福神巡りは江戸最古と言われる谷中七福神、もっと古いと言う元祖山手七福神、文化年間に百花園の佐藤菊塢や文人によって考案された隅田川(向島)七福神の三つが作られたのが始まりである。信仰と言うより行楽、散策、物見遊山のコースとして考えられた。

    当時の三コースが、どれも江戸の庶民たちの生活領域である下町のテリトリー内にではなく、その外側の郊外地域に設定されていることに注目してみればよい。そこはいずれも、江戸っ子たちが行楽・遊興・墓参などの機会におとずれるヒンターランドであって、折々の季節に花をめで、田園風景を楽しみ、神仏の御利益をさずかってくえるためにレクリエーション・エリアであった。(長沢利明『江戸東京歳時記』)

     七福神は寺社の副業収入の機会にもなった。戦後各地で続々と作られるようになり、近年では御朱印ブームもあって町興しのためのスタンプラリーとして、至るところで目にするようになった。与野七福神も例外ではなく、町興しの観光の目玉として昭和五十九年(一九八四)に作られた。
     境内には高い台座に載った「市神」の石祠がある。市神は六斎市の守護神で、本町通りのもう少し南(本町東四丁目九番十一号)の商家の前に祀られていたと、宗匠が説明してくれる。

     市は交易を行う所であり、人々の生活と密接なつながりをもつ所である。この市の事業と、その場の安全を守護してくれるものと信じられている神。小さな祠(ほこら)や、市神を彫った石柱もあるが、古くは丸い石であったらしい。村の境、船着き場、橋のたもと、四つ辻(つじ)など、境界を示す場所に祀(まつ)られていることが多い。そのあり場所から、かつてそこで市が開かれていたことが推測される。市神の神名は、西日本ではえびす神とか厳島(いつくしま)神社の祭神、市杵島姫(いちきしまひめ)などが多いが、東日本では大国主命(おおくにぬしのみこと)などもあって、さまざまである。特定の祭日を決めている所は少ないが、正月の蔵(くら)開き・小正月などに、市神を祀り、一年の商運を占う所もある。市神は女性巫者(ふしゃ)イチと相通じ、女性神であるという伝承もある。[鎌田久子](『日本大百科全書(ニッポニカ)』)

     宗匠は六斎日の由来を調べて来ていた。元々は仏教の斎日で、月の八、十四、十五、二十三、二十九、三十日に殺生を禁じたものである。ところが与野の六斎市は四と九の日に開かれる。「この違いは何?」宗匠は日付の違いに悩んでいた。「元々は六斎日に由来したとしても、近隣の市がみんな同じ日だと困ってしまう。月に六回だけ踏襲して日をずらしたんだよ。」因みに浦和は二と七、大宮は五と九、岩槻は一と六、原町(上尾)は三と八の日に決まっていた。近隣の宿場を移動すれば毎日商売ができるのだ。
     市神の隣にあるのは庚申塔だと宗匠が言うが、台座だけで下に三猿がいるからそれと分る。青面金剛像が倒壊してしまったのだろう。享保四年の銘がある。右側面に「従是右 大宮道 奥州道」、左側面に「従是左川越道」とあり、道標だから神社の北側に置かれていたものだ。
     「神様のマンションみたい。」ファーブルが笑うのは、天神社、八幡社、権現社、神明社などを合祀した長屋の様な社殿だ。「神社合祀政策っていうのがあったんだよ。」「どうして?」「国による格付けと金の問題なんだ。そのために小さな神社を潰した。」「いつ頃でしたかね」とオクちゃんに訊かれて即答できないのが恥ずかしい。明治三十九年(一九〇六)の勅令だった。以前に調べたことがあるが、もう一度確認しておこう。

     神社合祀政策は一九〇六年(明治三十九年)の第一次西園寺内閣において、内務大臣・原敬によって出された勅令によって進められ、当初は地域の実情に合わせかなりの幅を持たせたものであった。だが、第二次桂内閣の内務大臣平田東助がこの訓令を強固に推し進めることを厳命したため、全国で一九一四年までに約二十万社あった神社の七万社が取り壊された。特に合祀政策が甚だしかったのは三重県で、県下全神社のおよそ九割が廃されることとなった。和歌山県や愛媛県もそれについで合祀政策が進められた。しかし、この政策を進めるのは知事の裁量に任されたため、その実行の程度は地域差が出るものとなり、京都府では一割程度ですんだ。
     この官僚的合理主義に基づいた神社合祀政策は、必ずしも氏子崇敬者の意に即して行なわれなかった。当然のことながら、生活集落と行政区画は一致するとは限らず、ところによっては合祀で氏神が居住地からはほど遠い場所に移されて、氏子が氏神参拝に行くことができなくなった地域もある。合祀を拒んだ神社もあったが、所によってはなかば強制的に合祀が行なわれた。(ウィキペディア「神社合祀」より)

     「南方熊楠が猛反対したんですよ。」「そうでしたね。鎮守の森は大事にしなくちゃいけないって。」破壊伐採されることによって失われる貴重な樹木や植物を、熊楠は徹底的に調査して弾劾した。柳田國男を経由して帝国大学理学部植物学科教授の松村任三に宛てた書簡が、柳田によって『南方二書』として印刷、関係者に配布された。その中の例を挙げれば、糸田猿神社の跡地について熊楠はこんなことを言っている。糸田猿神社は稲成村の稲荷社へ合祀され、跡地の木を一切残らず伐採されたのである。

     ・・・・今度は必ず神が帰り得ぬようにと、かくまで濫伐し、且つ石段を滅壊せしめ石灯籠その他を放棄せしむ。ゆえにこの地点のみ、回々教の婦女の前陰を見る如く全く無毛となり、風景を害するはなはだしきのみならず、土壌崩壊して、ジンバナ井と申し、近傍切っての名高き清浄井水を濁し、夏日は他村の無頼漢、穢多児などここに上り、村中の娘の行水を眺め下ろし、村民迷惑一方ならず、困って交通を遮断し、今に畑もなんにもならず弱りおる。

     公式な書簡であってもこんな風に書かずにはいられないのが熊楠流である。伐採された鎮守の森には、アストムム・シュブラツム、アーシリング・グラウカ(アオウツボホコリ)等の、従来この国には生存していないと思われた貴重な植物群が生息していた。いずれも熊楠が発見採取したものだ。

    熊楠のひたむきな情熱が次第に世論を動かし、一九一二年(明治四十五年)三月、県選出の衆議院議員中村啓次郎が本会議で合祀に関する反対質問を一時間余りもしたり、貴族院議員の徳川頼倫が努力したりして、大正に入ってからは、次第に不合理な神社合祀がされることはなくなり、約十年後の一九二〇年(大正九年)、貴族院で「神社合祀無益」と決議され終息した。(南方熊楠記念館「神社合祀反対運動」)
    http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/kumagusu/life/goushihantai

     今度は正面から出る。二の鳥居は石造明神型、一の鳥居は朱塗りの両部鳥居だ。八幡通りを越えると、長伝寺の参道入口に「史蹟 西澤曠野先生墓所」の大きな石碑が建っていた。参道沿いの民家の庭から紅梅が見え、薫りが漂ってくる。白梅だけだと少し寂しくて、紅梅が咲いていると気分が浮き立ってくるようだ。

     紅梅や見ぬ恋つくる玉すだれ  芭蕉

     芭蕉のイメージとは句の雰囲気が違うだろう。玉簾が降りていて室内を窺うことはできないが、紅梅の匂うような美女がいるに違いない。見たこともない女人を恋うのは平安貴族の伝統である。大西巨人は「うら若い近世男子の心情をさながら表現している」(『春秋の花』)と評した。当たり前のことだが、芭蕉にだって若い時分はあったのだ。

     紅梅やすだれに恋を見る芭蕉  蜻蛉

     浄土宗、貞樹山観智院長伝寺。さいたま市中央区本町東五丁目十三番十三号。門を閉ざす鉄の紋には、金色の三つ葉葵が輝いているから格が高い。寺の創建年代は不明だが、 川越の蓮聲寺(呑龍上人を祀る)の住職、源誉存応、後の観智国師(一五四七~一六二〇)が天正二年(一五七四)以来この寺に在住し、真言宗から浄土宗に改めた。観智国師はその後、増上寺十二世住職となって家康との関係を深めた。それがこの寺に三つ葉葵を許された理由である。
     本堂前の広い境内の真ん中に、高さ一・五メートル、直径三十センチ程の白い不思議なオブジェが立っている(生えているよう)のが謎だ。常香炉は四人の鬼が肩で支えている。
     墓地の入口には地蔵尊を見上げるように、一匹の猿が手を合わせている。姫が見つけて「珍しいですね」と喜ぶ。「下見の時には気付かなかった。」猿は山王信仰に由来するだろうと思うが、それが地蔵を拝むのはどういう理屈が分らない。
     そして西澤曠野の墓を見る。一画が西澤家の墓所になっていて、左端が「曠野西澤翁之墓」、右隣が「山口氏之墓」(曠野の夫人であろう)、一つ置いてその隣が「蘭陵西澤翁墓碣銘」(曠野の息子)である。私は西澤曠野について全く知らなかった。

     西沢曠野は、寛保三年(一七四三)本町に生まれました。
     江戸に出て、儒学者細井平州の門人となり、与野に帰郷後、家業のかたわら漢学塾を開き近在の子弟教育にあたりました。自らも儒教道徳を実践し、数々の徳行をおこないました。 性格は温厚篤実で、天明の大飢饉にあたっては私財をなげうって窮民救済にあたり、後世、「与野聖人」と慕われました。
     晩年の画からは、柔和な中にも強い意志を秘めた風貌と厳しい道徳実践者の姿がうかがわれます。文政四年(一八二一)七十九歳で没し長伝寺に葬られました。
       さいたま市教育委員会

     西澤家は農の傍ら質屋を営んでいたが、曠野が当主になるに及んで質屋を廃業し、証文を焼き捨て質草は全て持ち主に返したと言われる。それが近江聖人と呼ばれた中江藤樹のようだと評された。
     師の細井平州は折衷学派を代表する人物で、若い頃の上杉鷹山を教え、尾張藩や米沢藩に招かれた。その門からは上州新田郡の高山彦九郎、田原藩家老の鷹見星皐(渡邊崋山の師)、水戸藩の立原翠軒等が出た。折衷学派とは、朱子学、古学、陽明学等の先行する学派の長所を採用する。但し学派として統一的な思想がある訳ではなく、一人ひとりが独自の思想を形成したようだ。折衷派には井上金峨、井上蘭台、亀田鵬斎などがいる。
     江戸の儒学の本流は朱子学にあるのではない。朱子学を批判することで生み出された山鹿素行の古学、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学等の方が、近代思想につながっていく。そしてこれらのベースには陽明学があると中野三敏は言う。

     次は正円寺だ。さいたま市中央区本町西四丁目三番十五号。浄土宗、梅香山薫條院と号す。紅梅がきれいだ。ジンチョウゲはまだ緑の蕾が開いていない。驚くのは本堂前の巨大なドウダンツツジだ。地面から太い幹が何本も枝分かれして、樹高四メートル、枝張り東西五メートル、南北五・二メートルと言う。「植え込みでしか見ないから、こんなに大きなのは珍しいわ。」花が咲くにはまだ少し早い。宗匠の案内資料に「満天星つつじ」とあるのにオクちゃんが注目する。勿論間違いではないが、「満天星」だけでドウダンツツジと読むこともできる。
     桃山時代の様式を伝える「阿弥陀聖衆来迎図」があることになっている。本堂正面のガラス越しに覗いてみるが見えない。「見えないよ。」宗匠が調べた結果、どうやら入り口側の欄間に描かれているようだ。
     本町通りには蔵を構えた家が多い。宗匠の説明では、与野は川越より古い蔵の町だと言う。但しそれを観光向けに整備しているわけではないから、注意されなければ気付かないかも知れない。要するにこの辺が与野宿の中心であり、氷川神社の市神はこの辺りにあったのだ。

     近代初期には与野宿は近隣の浦和宿や大宮宿を越える繁栄を見せ、当時の大宮の住人は「大きな買い物は与野でする」などと言われた時代もあるという。しかし後に県庁所在地として発展した浦和町(→浦和市)や鉄道の結節点として発展した大宮町(→大宮市)が周囲の町村を合併しつつ拡大する一方で旧与野は両市に挟まれつつ永らく単一の自治体として独立を保ったものの、旧浦和や旧大宮よりも面積や人口や経済力などで劣っていたため、どうしても旧与野は旧浦和や旧大宮よりも知名度という観点で、あまり有名ではなかった。(ウィキペディア「与野市」)

     一山(いっさん)神社。さいたま市中央区本町東四丁目十番四号。与野七福神のエビスを祀っており、参道入口に目立つ看板には、諸説ある中で「イザナギとイザナミの三男・夷三郎とするのが一般的」と説明されている。これにはちょっと異論がある。
     エビスは蛭子(ヒルコ)である。イザナギとイザナミが最初に性交した時、女性の方から声を掛けたので不具の子が生まれた。それが海に流されたヒルコであり、海から漂着する渡来神である。また釣竿を持っているのはオオクニヌシの子のコトシロヌシとも習合したからだ。
     細長い参道の途中にロウバイが咲いていた。我が家の近所のロウバイはとっくに終わってしまったが、ここはまだ薫りも残っている。拝殿の彫刻は見事だ。「冬至の日に火渡りの行事が行われます。火中に柚子を投げ入れるので柚子祭とも言います。」参拝者は素足で燠火の上を歩くのである。クスノキとイチョウの大木が神木になっている。
     しかし祭神は何か、どこにも由緒などが見つからない。もしかしたら木曽御嶽講の一山講に関係するのではないか。練馬高野台の稲荷神社に一山社が祀られ、一山講が奉納した水盤があったのを思い出したのだ。調べてみると確かにそうで、嘉永四年(一八五一)御嶽講の先達である一山行者が亡くなった時、行者を偲んで講中によって創建された神社であった。しかし御嶽信仰の神社がエビスを祀るのは不思議だ。どうも与野の七福神は適当に配置されたのではないか。

     一山は俗名を治兵衛といい、相模国津久井郡の出身といわれ、壮年になって井原家(平八)の養子となった。信仰心厚く、やがて井原家の許しを得て、同家に近い円乗院で剃髪し、治兵衛は、数年間の修行の後、諸国で行者修行を積み、木曾御嶽山において木食行を重ね、普寛・一心の行法を感得し、深く御獄大神を尊信するに至った。かくして御嶽講の行者となった一山は、一心講の復興に努め、自らは一山講を興し、晩年、嶺村(現東京都大田区)(註:北嶺町御嶽神社か?)と当地に霊場を設け、ついに数万の信者を擁するまでにして、嘉永四年(一八五一)十二月二十日に没した。
     一山の没後、講祖「一山霊神」の高徳を敬慕する多数の講員は、与野町内にあった八幡社の境内に御嶽大神の一座を勧請して神社を建立し、行者名及び講社名を取って一山神社と称した。これが当社の創建であり、嘉永末年(一八五四)までには、社殿が建立されていたという。(『埼玉の神社』)

     参道途中の社務所で桃太郎が御朱印帳に押印して貰っているので、窓口の女性に念のために訊いてみた。「御祭神は?」「エート、イッサンオオカミとスクナヒコナ、あと誰だったかな。そうだ、八幡様です。」どうやらこの人は信者と言うわけではなさそうだ。御嶽信仰では普通、クニノトコタチ、オオナムチ(オオクニヌシ)、スクナヒコナを御嶽大神とする。一山大神は一山行者だろう。またこの地は八幡の境内地だったので、八幡に敬意を払っているのである。
     そろそろ腹が減ってきた。蔵を見ながら本町通りを南下する。宗匠は食事の前に与野御嶽神社を計画していたが、その前に昼飯休憩をすることになった。有難い。
     県立与野高校のところから曲がりこんで行けば与野公園だ。さいたま市中央区本町西一丁目。十二時だ。子供たちが遊んでいる場所を通り抜けてバラ園に出るが、何も咲いていない。「この季節じゃ無理ですよ。」「冬薔薇(そうび)っていうから多少は咲いているかと思った」と宗匠は言うが、もう冬ではないだろう。

     冬さうびかたくなに濃き黄色かな  かな女

     ハイジは長谷川かな女に縁のある人ではなかっただろうか。出発は一時と決め、女性三人とダンディ、オクちゃん、桃太郎がベンチに腰をおろし、残りはその後ろの芝生にビニールシートを敷いて座りこむ。

     弁当を芝に広げてうらうらと  蜻蛉

     食べ終わると桃太郎がバナナを取り出し、全員に一本づつ配ってくれる。「今バナナは安いからね。」女性陣からは煎餅が配られる。有難いことだ。ファーブルは札幌から昨夜帰って来たそうで、札幌土産の「白い恋人」を配る。
     時々風が強くなるが、それがなければ春の日差しが暖かい。しかしビニールシートに座り込んでいると腰が痛くなってくる。時間は充分あるので、ファーブルと一緒に背後の小山の階段を上ってみた。「なんだ、これ?」何もない。周囲に樹木が多いから見晴らしも良くない。この小山は何だろう。子供が階段を上って来る。単なる子供の遊び場なのだろうか。すりばち山と名付けられている。
     反対側の階段を降りると、そこに石碑が建っていた。「安政四年庚申二月、男彦五郎、同三治郎」。はて?「こっち側が正面だったよ。」ファーブルに言われて裏に回ると、「従寛政十二年庚申 安政四年庚申 富士登山五十八度 大願成就 澤田屋平左衛門」とある。講紋は「山英」。それならこの塚は富士塚だった。裏面の彦五郎、三治郎は平左衛門の息子だろう。寛政十二年は西暦一八〇〇年、安政四年は一八五八年。五十八年間に五十八回の富士登山である。ただ富士塚にしては溶岩のかけらもないのは少し気になる。
     池には銭洗弁天が祀られているようだが、そこには行かずに皆の元へ戻る。後で調べると、畠山重忠が太刀を洗ってご利益があったと言う伝説がある。畠山重忠の史跡は多く、武蔵嵐山の菅谷館、深谷市川本の史跡公園(生誕地)、恋ヶ窪(重忠の思い人夙妻が自害したという)等に行ったことがある。鎌倉街道だから畠山重忠が通ったのは間違いないだろう。と書きながらふと疑問に思った。嵐山の菅谷館なら鎌倉街道上道でそのまま鎌倉に通じる筈で、わざわざ脇往還を通る必要はない。この辺りまで勢力圏に入っていたということだろうか。

     少し早いが全員揃ったので、十二時五十分に出発する。御嶽神社に行くのかと思うと宗匠は逆に向かう。「寄らないのかな?」「後で行きます。」
     すぐ先の十七号バイパスに沿った空き地が駐車場になっていて、「足の神様 与野のごんげん」の看板が掲げられている。大国社である。さいたま市中央区与野本町西二丁目七番。足と権現の組み合わせで、私は子(ね)ノ権現かと思った。飯能の子ノ権現(天龍寺)が足腰の守護神として有名で、あそこには巨大な草鞋が吊るされている。しかし、そうではなかった。

     『明細帳』に「本社は先に権現と称すと云」と記されているように当社は古くから「権現様」と呼ばれ、文政七年(一八二四)ごろに描かれた「与野町並絵図」(柏計助家所蔵)にも、当社の杜のところに「ごんげん」の文字が書かれている。このことから考えると、『風土記稿』、与野町の項に「蔵王権現社」として載る社が当社のことと思われる。(『埼玉の神社』)

     蔵王権現は、役小角が吉野金峯山で修業中に示現したと言われる。要するに山岳信仰、修験道の神である。憤怒相で怒髪天を衝く。「権現」は神仏習合の名称のだから、明治の神仏分離で許されなくなり、大国社と改称したと言う。
     石造明神鳥居を潜って階段を上ると狭い敷地に祠が建っていた。直径十五六メートル、高さ二メートル程の小さな古墳である。祠の両脇には無数の奉納草鞋が吊るされている。何しろ狭いので、取り敢えず写真を撮ってすぐに下りる。「羽生結弦が多かったわね。」「そう、仙台からわざわざ、こんな田舎まで来たのかな?」マリーとヤマチャンが頻りに頷き合っているが、私は全く気付かなかった。「ファンが代わりに奉納したのかも知れないわね。」後で写真を確認すると確かに「仙台市 羽生結弦」というのが二組写っていた。
     そして与野御嶽神社に入る。さいたま市中央区本町西二丁目五番六号。「ミタケかオンタケか、難しいよ。」これは木曽のオンタケである。一心講の井原平八が創建した。さっきの一山神社に祀られた一山行者は、井原平八の養子で一心行者の弟子であった。

     本町東に鎮座する一山神社の由緒や信仰に見られるように、与野は江戸時代から木曾御嶽講の盛んな地域であった。とりわけ、与野の名主であった井原平八はその熱心な信者であり、御嶽講の四大講祖の一人である一心行者を支援すると共に、自らも御嶽講の先達として布教に努めた。更に、井原平八の養子の治兵衛は、後に御嶽講の行法を感得して一山と名乗る行者となり、御嶽講の四大講祖の一人として数万の信者を集め、没後は一山霊神として一山神社に祀られている。
     文政四年(一八二一)、幕府は御嶽講に禁圧を加え、一心は遠島に処せられた。やがて、尾張藩主の取り計らいによって、御嶽講は解禁され、井原平八も布教活動を再開するが、当社は、口碑によれば、この禁圧のために一旦は所払いとなった井原平八が、住民らの熱心な嘆願や御嶽講の解禁によって与野に戻ってから造った社であるという。
     したがって、『風土記稿』 には、当社についての記載はなく、恐らくは、井原家が社地を寄進して新たに一社を設けたものか、既に地内にあった何らかの社の祭神を改めて御嶽社としたものであろう。
     また、一説には当社は明治初年の創建といわれ、『明細帳』は、当社の由緒を「創立不詳。明治九年中再建。同十年五月天祖神社・大国社の境内を併せて公園と定めらる」と記している。その後、建物の老朽化が進んだため、昭和二十年代に改築が施された。(「埼玉の神社」より)

     七福神は弁才天を祀る。紅梅の香りが強い。「私は鼻が利かない。」それは気の毒なことだ。その足元にはそろそろ終わろうとしているスイセンも咲いている。境内には「御神の大井戸」と名付けられた鶴瓶式の井戸がある。平成二十六年に再現されたものだ。
     「さっきの休憩の時、天祖神社には行った?」「行ってない。」「それじゃ行きましょうか。」宗匠は与野公園の中に戻っていく。さっきの弁天池を通り過ぎると天祖神社だ。かつては神明社と呼ばれ、アマテラスを祀る神社だった。
     拝殿の前に真新しそうな寿老人の像が立っている。左横の社務所も新しい。「寿老人と福禄寿は元々同じ神なんだ。」「それ、聞いたことあります。」そうか、何度か言っているものね。
     本町通りに出て、通りの向かいにある見世蔵造りの蕎麦屋「中むら」を見る。元は材木商だった主人が開いた店だと言う。
     そこから南に少し行けば円乗院だ。さいたま市中央区本町西一丁目十三番十号。真言宗智山派。安養山西念寺。山門の右手にある多宝塔が外から見える。高さ三十メートルで、高野山金剛峰寺、根来寺に次いで日本で三番目の大きさだと言う。山門は仁王門だが、中に回ると、四天王が二体づつ立っている。「木彫りじゃないですよね、焼き物でしょうか?」素焼きのようだ。
     建久年間(一一九〇~一一九九)、畠山重忠が道場村(現桜区道場)に創建したものを、慶長年間に当地に移したと言う古刹である。
     山門入口に「撮影禁止」の注意書きがしてあるのが気に食わない。「ここは公園ではありません。見学するところではなく、祈りを捧げ仏さまを拝むところです」なんて、ちゃんちゃらおかしい。こういうエラソウにしている癖に、それではなぜ、与野七福神の大黒天を担当しているのか。最初にも書いたように、そもそも七福神巡りが観光目的でなくて何だろう。また大黒天を日本に招来したのは天台僧で、比叡山の台所に祀られたものである。おそらく七か所全て同じ作者が作ったかと思われる可愛らしい大黒の像は、新義真言の教義とは殆ど関係ない筈だ。立派な多宝塔だって、人に見てもらい、写真に撮ってもらうために建てたのではないのか。
     「マンサクだわ。」ハイジの指さす方を見ると今年初めて見るマンサクだった。「私も今年はじめてです。写真撮りたいけど。」「誰も見てないからいいんじゃないか?」私も写真を撮った。それにしても金がかかっていそうな寺だ。「檀家が良いんだろうね?」「金持ちが多いんだな。」

     金縷梅や撮影禁止に抗ひて  蜻蛉

     更に本町通りを下ると二又の角には庚申堂が建っているが、リーダーは立ち寄るそぶりも見せない。ここが氷川神社から南北一・五キロの本町通りの外れとなる。由来が良く分らないのだが、元禄三年の庚申塔が安置されているらしい。宿場の外れを守護するためかとも思われる。
     二又を右に行き、埼玉芸術劇場の横を過ぎれば円福寺だ。さいたま市中央区上峰四丁目七番二十八号。真言宗智山派。ここは布袋尊である。

     釈迦堂、釈迦は安阿弥の作なり。蓮台の裏に承和二年四月武州品川の海中より出現のよし彫りてありと云。脇士阿難迦葉の像は運慶の作なり。近き頃阿難の像を修造せし時、蓮台の中より当寺九世の僧盛惠が正徳四年記せし書を出す。某略に中古本多佐渡守此邊へ陣屋を構へ、堂宇を破却せしゆへ、再び営建するよしをいへり。(『新編武蔵風土記稿』)

     彩の国さいたま芸術劇場。さいたま市中央区上峰三丁目十五番一号。ここはトイレ休憩のために入るだけだ。「死んじゃったからね。」蜷川幸雄が芸術監督をしていたのだ。その後、シェイクスピア・シリーズは吉田鋼太郎を監督して続けられている。明日まで、その第三十四弾『ヘンリー五世』をやっているようだ。ヘンリー五世を松坂桃李、フランス皇太子を溝端淳平が演じる。
     与野西中学校前の塀際には、さいたま芸術劇場ゆかりの人物の手形レリーフが飾られている。蜷川幸雄、大竹しのぶ、阿部寛、吉田鋼太郎、安蘭ケイ他。宗匠が歩道の途中で立ち止まって、埋め込まれた四角いパネルをしげしげと見つめている。角度を変えると何かが見えるらしい。「シェイクスピアじゃないの?」なるほどそのように見える。
     更に歩けば、歩道の上のパネルには何かの文字が浮かんでくる。シェイクスピア名台詞集というもののようだ。「大きい文字は分るけど、小さなのが分らないね。」ネットで調べてみると三十数種類ある。
     「口説いているときの男は四月だけれど、結婚したら十二月。」(『お気に召すまま』)、「なるようになれ。荒れ狂う嵐の日にも時間はたつ。」(『マクベス』)、「どのくらいか言えるような愛は貧相なものだ。(『アントニーとクレオパトラ』)等である。翻訳は誰なのか。私が知っている翻訳は福田恒存、小田島雄志などだが、それとは違うだろう。調べた結果、蜷川幸雄は松岡和子訳を採用していので、これらはその翻訳であろう。無学だから初めて知る名前だ。

    松岡和子
    翻訳家、演劇評論家。東京大学大学院修士課程修了。一九九三年以来、シェイクスピアの全戯曲の翻訳に取り組み、本年亡くなった演出家・蜷川幸雄氏が芸術監督を務める彩の国さいたま芸術劇場の彩の国シェイクスピア・シリーズで翻訳を担当し、企画委員も務める。主な著書は『すべての季節のシェイクスピア』(筑摩書房)、『快読シェイクスピア』(ちくま文庫)等。翻訳も多数。シェイクスピアの訳書は、ちくま文庫からシェイクスピア全集として次々と出版されている。日本シェイクスピア協会会員、国際演劇評論家協会会員。
    (早稲田大学「シェイクスピアの翻訳を考える」より)https://www.waseda.jp/top/news/47611

     「昔、台詞を覚えようとしたんですけど、英語の台詞を覚えなくちゃダメなんですよね。それで挫折しました。」姫は英米人との会話を前提としていたのである。「シェイクスピアも写楽と同じで謎の人でした。」「写楽は完全に解明されたよ。」「そうでしたね。」写楽の正体は阿波藩お抱え能楽師の斎藤十郎兵衛であると、中野三敏が結論付けている。
     中学校の隣が天神社だ。さいたま市中央区鈴谷二丁目十二番一号。与野郷鈴谷村の鎮守である。宗匠の予定にはなかったが、どうせ時間は充分ある。「入ってみようよ。」社殿の前には紅白の枝垂れ梅が咲いている。白梅の方は若い枝が緑で、白とよく調和している。「入って良かったじゃない。」
     境内の隅には「稲垣田竜先生の碑」が建っている。鈴谷村下組の名主の家に生まれ、戸田流棒術を修めた後、高橋玄門斎の紋で一刀流免許を得た。その上で更に天文学を学ぶのだ。

     また文政三年のころから江戸の天文学者東武深川廣済舎の浅野北水について西洋流天文学を学び志筑忠雄の地動説に共鳴すると共に地展新図など数多くの貴重な天文暦学天体図などを書き残した。

     浅野北水の名も知らなかった。深川は何度か歩いているのに廣済舎にも触れたことがない。『デジタル版日本人名大辞典』では戸時代後期の戯作者で北斎に学んだ浮世絵師とある。また平阿が源内の弟子であるという記事も見つけたが、これでは天文学との関係が分らない。やっと探し当てたのが下記である。

     朝野北水とは、文化・文政期に日本各地を遊歴して、初等的な天文学を多くの人々に教授した啓蒙天学家である。天文・気象現象を身近なたとえで説明する、陰陽道などに基づく迷信を強く排撃する、自ら考案した星座早見盤のような図表を多用するなど、現代の天文教育の先覚者と呼んでもよい人物である。北水の著作は口述されたものが大部分のため、史料の内容を詳細に検討してみないと北水の著とわからないものも少なくない。しかし逆にこの点が却って、北水の著作を探索する面白さであるということもできる。
     一覧表にある『天象記聞』、『暦日早繰集』、『天象星名録』などは、よく知られた北水の著述である。それ以外に、内容から判断して、『天学龍淵先生記聞』、『天文初心抄』も北水の著作、または北水に関する著書と考えられる。特に、『天学龍淵先生記聞』は、従来知られていなかった北水の経歴を述べている点で貴重な史料である。(国立天文台三鷹図書室「江戸のモノづくり」文庫目録」より)http://library.nao.ac.jp/kichou/edo/edo.html

     「志筑忠雄の地動説」というのは、英国人ジョン・ケールの著書のオランダ語訳書を解訳した『暦象新書』に説かれたものである。田竜は文久元年(一八六一)七十二歳で死んだ。「当時としてはかなり長命でしょう?」それでも珍しい訳ではない。
     路地を歩いて、宗匠は白い塀にある黒い通用口から入る積りだ。「入れるかな?」おそるおそるノブを引くと開いた。変なところから入ったが、ここは鈴谷大堂だ。さいたま市中央区鈴谷八丁目四番二号。村民が独自で建てた阿弥陀堂で、そんなに大きな堂ではない。「六地蔵もいますね。」舟形光背に浮彫したもので、寛文七年の銘があると言う。ここは毘沙門天を担当している。

     鈴谷大堂は阿弥陀如来を安置して西方極楽浄土を模した村民持ちの佛堂で建立年は不明であるが六地蔵の銘文から江戸時代前期の寛文七年(一六六七年)には存在していたことがわかる。弘化二年(一八四五年)火災に遭い大堂が焼失してそのために鈴谷村の人々が寄附を出し合い嘉永二年(一八四九年)再建完成されたものと云われている。その後万延元年七月(一八六〇年)屋根替昭和四十七年には亜鉛メッキ銅板葺替(二回目)の屋根替えなど修復して今日に至りましたが老朽化が進み平成四年(一九九二年)八月本堂改築並に水屋新築佛像十躰の修復も行い同年十二月吉日落慶法要を営み完成致しました。(境内石碑より)

     次は妙行寺。さいたま市中央区鈴谷四丁目十五番二号。鎌倉時代中期に臨済宗建長寺派として創建されたが、応永十五年(一四〇八)下総中山法華経寺の日英上人によって日蓮宗に改宗した。
     本堂の裏手にモッコクがある。二本に分れた幹の片方はかなり傷んでいるようだ。「支えてやればいいのに。」「木は余り手を入れない方がいいんだよ。」高さ七メートル、幹周り三・五メートル。昭和二十五年に埼玉県天然記念物に指定されたときは、高さ十九メートルあったらしい。上の枝は切られてしまったのだ。樹齢推定六百年。
     宗匠の案内に従って、墓地の中をさまよう。鈴木荘丹はすぐに分った。勿論初めて知る名前だ。

     荘丹は、享保十七(一七三二)年、江戸の商家に生まれ、名は伊良俳号は荘丹・菜窓・荘郎・能静・石菖などです。荘丹は、門人二千人に及んだといわれる雪中庵三世・大島蓼太の門人で、蓼太の高弟で和漢に通じ、蓼太も一目置くほどの人物でした。寛政年間(一七八九から一八〇一)初頭に与野へ移り住み、定住してからは川田谷(桶川市)との間を往復する事が多くなり、中間地点の平方でも門人が多くいて、滞在する事も多くありました。いわば、平方は荘丹にとって俳諧活動の拠点の一つでした。(上尾市教育委員会「鈴木荘丹俳諧歌碑」)
     http://www.city.ageo.lg.jp/site/iinkai/064110111004.html

     何故、与野に移住して来たのか。門人の大木金右衛門(馬明)がいたこと、そして西澤曠野がいたことによると言う。八十四歳の長寿だった。墓石には次の句が記されている。

     秋の空こころ動かす風もなし  荘丹

     もう一人、さっ天神社で見た稲垣田竜の墓がなかなか見つからない。二手に分かれて探し私が諦めたころ、離れたところで宗匠たちが見つけてくれた。縦長の三角に近い墓石には、稲垣新右衛門正就・妻久米子の名が並んでいる。
     四阿には陶器の灰皿が置かれている。エライ。「改修工事の大工さんのためかも知れませんね。」それでもエライ。寺を出ようとしたとき、「見ないのか?」とファーブルに注意を受けた。塀際に正元二年(一二六〇)の板碑があったのだ。キリークがよく分る。頭部の山形、二条線も明らかな綺麗な阿弥陀一尊の板石塔婆である。「光明遍照 十方世界」「念仏衆生 摂取不捨」の文字もはっきり分る。ファーブルは初めて見る筈だから、「秩父の石なんだよ」と教える。緑泥片岩である。
     道を渡った金毘羅堂の駐車場の真ん中に大カヤが立っている。「スゴイね。」周囲は舗装され、カヤのある部分だけを土で残している。「コンクリートだと、塩分が浸み込むから良くないんですよ。」「ここはアスファルトだから大丈夫だと思うけど。」樹齢千年は想像を超えている。

     台地上に立地する妙行寺南側の金毘羅堂境内にあります。高さ二十一・五メートル、幹まわり七・二八メートル、根まわり十三・五メートル(昭和六十三年当時)。樹勢も旺盛で、風雪に耐えてきた太い幹と四方に張った枝振りからは、重厚ささえ感じられます。
     隣接する妙行寺の縁起では、平安時代中期の長元年間(一〇二八年から一〇三七年)に植えたものと伝えられ、室町時代の応永年間(一三九四年から一四二七年)には、既に関東随一の巨木として知られ、旅人のよき道標であったと伝えられています。また、鎌倉時代にこの木を神木として金毘羅天が祀られ、以来、榧木金毘羅として広く信仰の対象にもなりました。

     埼大通りを越え、南与野駅に着いたのは三時だ。公園と道路の境が曖昧で、道路に引いた白線は「止まれ」の文字を見て、「車はどこから来るんだ?」とファーブルが驚く。ここは車が進入できない場所なのだ。「公園ができた後、修正してないんだね」とマリオが断定した。宗匠の計画では六キロ程度の筈だったが、マリーの万歩計では九キロ程になった。久し振りに歩いたせいか、腰がやや重い。
     西口前はなんだかだだっ広い空間が開いていて、飲み屋は全くなさそうだ。「今日は反省会は失礼します。孫が来るんで。」孫には勝てない。マリオは大宮から上野東京ラインに乗ると言って、オクちゃんと一緒に大宮方面に向かう。残りは新宿方面に乗り、ダンディは中浦和で降りて行った。武蔵浦和でハイジと別れる。
     この時間にやっているのは「いちげん」しかないだろう。私は何となく高架の下だったように思いこんでいたが、違っていた。駅前の地図で確認して田島通を西に行く。「あそこだ。」「なんだ、ヤマチャンの時にも来たね。」店員の数が少ないようで片付けの間待たされたが、何とか席に着いた。この時間でも忙しいのである。
     ビールはスーパードライしかない。ファーブルは仕方がないので最初の一杯はホッピーにした。焼酎は一番安い「よかいち」を選んだが、この時間でこれが最後の一本だと言うのが不思議だ。漬物は七人に三皿、勿論そのうちの一皿はあんみつ姫が専用に抱え込む。
     「白血病って血液の癌なんだね、知らなかったよ。」それは迂闊ではあるまいか。池江璃花子のことであるが、私は夏目雅子の時にきちんと調べている。本田美奈子もそうだった。発祥の原因が解明されていない。若い才能のある美女をこうした病が襲うのは傷ましい。但し、若くなく才能もなく美女でもない人間にとっても同じことであることは、大急ぎで言っておかなければならない。
     焼酎二本目は一刻者の紫、これは初めて飲むが薫りが甘い。桃太郎は随分気に入ったようで、あっという間に空になり三本目も同じものを頼んだ。
     宗匠、ヤマチャン、桃太郎はここで帰り、残った四人は「丹波黒どり農場」に入って一時間ほど飲んだ。

    蜻蛉