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    近郊散歩の会 第二十回 新井宿
        平成三十一年三月二十三日(土)

    投稿: 佐藤 眞人 氏 2019.04.06

     平成も残り少なくなって来た。なにしろ一八六八年の明治改元以降、天皇生存中の改元は初めてのことだから世間は大騒ぎである。一世一元と定められた元号は天皇位継承に因り、その法的根拠は昭和五十四年(一九七九)六月に公布施行された元号法にある。但し強制使用はどこにも規定されていない。理屈としては廃止すべきであろうと思いながら、実は私は元号に愛着がある。元号は確かに西暦換算が面倒臭いが、西暦では感じ取れない時代の雰囲気が付き纏うのだ。と言っても昭和は長過ぎて一つの時代の雰囲気というわけにはいかないが、「戦前」「戦後」が実は元号のように使われていたのではなかったろうか。
     旧暦二月二十七日。春分の初候「雀始巣(すずめはじめてすくう)」。二十一日の木曜に墓参りをする積りだったが、妻に急に仕事が入ってしまったので明日に持ち越した。大学の喫煙所の花壇では紫の五弁花(ツルニチニチソウだと思う)が盛りに咲いている。昨日は二十度を超える温かさだったが夜から冷え込んできて、今日は最高でも十度位にしかならない予報だ。寒暖差が激しい。
     今日はマリーが初めてリーダーを担当する。新井宿と聞いて知る人は少ないだろう。私だって数年前まで知らなかった。鳩ケ谷と隣接する川口市の大字で、安行と並んで花卉の産地である。新井宿村は元禄の頃、日光御成道の東が新井宿村、西が西新井宿村として分離した。新井宿村百四十二石は新井又六郎知行から伊奈氏領に移り、西新井宿村百三十四石は旗本荒川又六郎の知行とされた。
     明治二十二年(一八八九)の町村制施行によって、両村は近隣の村と一緒に神根村に編成され、昭和十五年(一九四〇)には川口市に合併された。またこの辺り、足立郡赤山領・南部領・見沼領等の大宮台地は防水・防腐剤・塗料として重宝される渋柿の産地で、赤山渋と呼ばれた。
     武蔵野線の東川口駅で降りるとロダンも降りてきた。ロダンは令兄の急逝で大変な思いをしたが、少しは気持ちも落ち着いたようだ。但しまだまだやらなければいけない面倒なことは沢山ある筈だ。無理しないでほしい。埼玉高速鉄道は荒川の下を潜るので地下のかなり深い所を通っている。そこに向う階段でファーブルも一緒になった。南北線に乗り入れているから都内に行くには便利だが、運賃が高い。日本一高いと言われるのは、要するに利用客が少ないからだ。当初は岩槻を経由して蓮田まで延伸する筈だったのに浦和美園以北が全く未着手で、サッカーファン以外には日中は殆ど利用されない。始めて気付いたが、路線の愛称は埼玉スタジアム線であった。
     この鉄道が開通するまで、この地域に鉄道は通っていないと私は思い込んでいたが、それは間違いだった。大正十三年(一九二四)から昭和十三年(一九三八)にかけて僅かな間、蓮田から岩槻を経由して神根まで武州鉄道が通っていたのである。埼玉高速鉄道とは逆に、東京方面は赤羽までの延伸計画が頓挫し、地元にとって余り便利ではない。北の方も総武鉄道(東武野田線)が開通すると、貨客はそちらに流れて商売にならず結局廃業した。日光御成道として栄えた鳩ケ谷地域も鉄道から見放され、その後長く陸の孤島状態が続くのである。今でも浦和美園と岩槻の間は路線バスを使うしかないが、中間にある目白大学が長期休暇に入ると、朝晩でも一時間に一本しか走らない。実に不便なのだ。
     「浦和美園にURの団地が建つんですよ。そうなれば利用客が増えて料金も安くなる筈ですよ。」ロダンがこんなことを知っているのは現役時代の仕事の関係である。確かに浦和美園駅周辺は新しいマンションがいくつも建っている。しかしURは賃貸の空き家を埋めるのに苦労しているのだ。新規に大規模団地を建てて良いものなのか。それに空き家問題が大きくクローズアップされている現在、無暗に新築の団地を造るのはいかがなものか。私の住む団地も例外ではなく、子供たちの世代が出て行き高齢者ばかりになってしまった。若い世代がいないから、今年団地から小学校に上がった子供は二人だけだった。管理組合業務の外注化も検討課題に上っており、自治会の存続も危うい。
     新井宿駅に着くと、改札口の外でマリーが一人しょんぼり待っている。定刻十五分前だが、出足が少し遅いかも知れない。「今回は大丈夫だった?」「先月予行演習したからね。」ファーブルはまだ先月の間違いを言われる。「リーダーデビューおめでとう」とハイジがマリーに笑いかける。
     「眼の前の電車に乗ったら逆に行っちゃったんだ」とスナフキンが苦笑いしながらやって来た。桃太郎の目の痣は言われなければ気付かない程度に回復している。「マリオが怪しいな。」ナス型(ティアドロップ)の濃いサングラスにマスク姿は、見ようによっては確かに怪しい。花粉症対策だろう。ロダンも大きなマスクを着けている。ハコサンも久し振りだ。「最近は二キロも歩いてない」と不安そうな声を出す。
     マリー、あんみつ姫、ハイジ、ハコサン、マリオ、スナフキン、ファーブル、ロダン、ヤマチャン、桃太郎、蜻蛉。それにマリーの友人が初めて参加した。大柄な女性で、春めいた白っぽい上着を着ている。名前の音読みからエーリッヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』を連想した(私はケストナーを尊敬しているのだ)が、点子ちゃんはチビであり、イメージが違い過ぎる。「字は違うけど私も同じ名前なの。」ハイジは以前ノンチャンと呼んでいたが、同じものは使えない。安直だがノリリンにしてしまおう。「同い年なのよ。」「それじゃ姫も一緒だ。」「年齢のことは普通言わないんじゃないのか?」「秘密のない会だからね。」これで十二人だ。

     「新井宿って宿場だったんだろうか?」ハコサンがいつものように重々しい口調で疑問を口にする。「岩槻街道の宿場だったんだと思う」と言ってしまったのは早とちりだった。岩槻街道(日光御成道)の宿場は南から岩淵、川口、鳩ケ谷、大門、岩槻と続き、幸手で日光街道と合流する。新井宿はない。宿場でもないのに「宿」と名付けた理由は分らない。かつては奥州街道、鎌倉街道中道であり、古い時代に宿駅があったのかも知れない。
     鳩ケ谷宿の少し北に位置していることから、鳩ケ谷宿の助郷(すけごう)役を負っていた。助郷は宿場の近隣農村に課せられた人馬提供の夫役である。運賃は通常の半額しか支払われず、食事代や宿泊代も自弁だからかなりの負担を強いられた。
     宿場の最も重要な役割は、公用旅客の荷物を次の宿場へ送り届けることにある。これが人馬継立であるが、街道の往来が盛んになると宿場が用意した人馬の数では賄いきれない。そのため近隣農村から徴発したのである。特に将軍の日光社参の際には大量の人馬が徴発されたし、将軍の鷹狩り等の際にも徴発された。

     江戸時代、幕府が諸街道の宿駅の継立てを援助、補充させるため、宿場周辺の農村に課した夫役。交通需要の増大につれ、宿場常備の人馬 (御定人馬) では不足のため、この臨時の人馬徴発が行われ、助郷制度として恒常化した。人馬提供の単位をなした村も、この課役自体も、ともに助郷といい、定助郷 (定時課される基本的な夫役。元禄七〈一六九四〉年東海道、中山道に設けられたのに始る。これに対し、定助郷の人馬が不足したとき、臨時に 百石二人二匹の割で人馬を提供させたのを大助郷といったが、享保 十〈一七二五〉年定助郷に算入)、加助郷、増助郷、代助郷などがあった。最初、助郷村の範囲は宿の周囲二~三里であったが、次第に十里以上にも拡大され、人馬提供が不可能の場合、金銭で代納し、一種の租税となった。(『ブリタニカ国際大百科事典』助郷)

     駅前の通り(赤山街道越谷道)を東に少し行くと、「摂政宮殿下御小憩所の碑」が建っていた。大正十一年(一九二二)三月二十六日、後の昭和天皇が越谷の鴨場に遊んだ際に休憩した場所である。越谷の鴨場とは明治四十一年(一九〇八)に造られた宮内庁の管理する埼玉鴨場のことだ。越谷はネギの産地でもあり、鴨葱鍋を売り物にする飲み屋が多い。
     摂政宮は当時二十一歳、騎乗姿の写真が残っている。前年十一月に摂政に就任してまだ半年経っていない。「休憩したくらいで碑を建てるか?」何しろ現人神となることが約束された人物だから、当時は大変なことだったのである。この碑は昭和十五年の神根村・川口町合併記念として建てられたものらしい。

     偶々御道筋たる赤山街道御通過のみぎり、当村の赤山の地において御下馬あらせられ、小時御休憩の光栄を賜り、奉迎奉拝の村民等ひとしく恐懼感激措くところを知らず。すなわち碑を建て永く聖蹟を記念し奉る。

     赤山街道とは、赤山陣屋と松伏の杉浦陣屋を結ぶ道である。赤山陣屋跡は首都高速川口線によって分断されてしまった。初代関東代官頭の伊奈忠次は小室・鴻巣一万石を領し足立郡小室(現・伊奈町)に屋敷を構えた。伊奈町の名は、信州伊那出身の伊奈氏によることは今更言うまでもない。
     忠次の死後、小室領と関東代官の職は嫡男の忠政が継ぎ、次男の忠治は別家を建て、赤山七千石を領し寛永六年(一六二九)に赤山陣屋を築いた。しかし忠政が三十五歳で死んだため、小室の所領は忠政の嫡男忠勝が継いだが、関東代官の職は忠治に渡された。以後、忠治の系統が赤山陣屋に拠って関東代官を世襲し、寛政四年(一七九二)に伊奈氏が改易されるまで、およそ百六十年間に亘って続いた。杉浦陣屋は伊奈氏の配下杉浦五郎右衛門定政が拝領した陣屋だ。
     首都高速川口線の手前は江川運動広場になっている。土手の端に、繋がれた提灯が大量に置かれている。桜祭りの準備だった。ソメイヨシノは数輪開いているようで、あと一週間というところだろうか。ピンクの桜はヒカンザクラ(カンヒザクラ)の一種だろう。
     テニスコートを抜けると、ロダンが三角点の木柱表示に気付いた。これを見てしまったからには、ロダンはどうしても説明しなければならない。何度も聞いている筈なのに、私の頭にはちっとも蓄積されない。そもそも三角点とは何かが分っていないのだ。この脇にある、円形のコンクリート板の下に、花崗岩の標石が納められているのだそうだ。コンクリート板は四分の一程のところで割れていて、持ち上げられそうな気がする。「ダメですよ、開けちゃ。」「お堂の観音扉はいいけど。」

     三角測量などによってその位置が決められた地表の点。国土の精密な地形図を作成するためには、地球上での位置(経度、緯度、高さ)のわかった点が対象となる地域内に適当な密度で設置されている必要がある。三角点の第一の役割は地図作成のために位置の基準を与えることである。このほか、近年では三角点の位置を繰返し測量により求め、その位置変化のようすから地殻の変形を検知するなど地震予知の分野にも役立てられている。三角点の標識としては、ふつう石柱を地面に埋めたもの(標石)が用いられている。(『世界大百科事典』)

     白いジンチョウゲが満開だ。「白もいいわね。」濃いピンクの八重の花が枝を覆うようにギッシリと密集しているのは何だろう。「カンヒザクラでしょうか?」「サクラは枝にこんな風にならないよね。」「モモかアンズかも知れません。」紫のゼニアオイも咲いている。前回も書いたが梅雨時から夏にかけて咲く花である。
     民家の庭には夏みかんのような実が鈴なりになっている。「取らせてくれればいいのにな。」隣家の駐車場にはみ出ているが、駐車場は公道ではない。夏みかんにしては色が濃いような気がする。「あそこの家にもあるよ。」「酸っぱいだけならいいけど、渋いのがあるからね。」
     そして源長寺に着いた。川口市赤山一二八五番。浄土宗だ。伊奈氏の菩提寺で赤山陣屋の南端に当たっている。伊奈氏全盛時代には相当な規模の寺だっただろう。しかし伊奈氏の改易と共に寺は荒廃した。「源長寺の由来と沿革」碑には、その惨状と復興するまでの努力の跡が綿々と記されている。

     当、源長寺は関東郡代・伊奈半十郎忠治が居城に近い赤山の地にあった古寺を再興して伊奈家の菩提寺として創建し、両親の法名から周光山勝林院源長寺と寺号を定め、両親の菩提寺である鴻巣勝願寺の惣蓮社円譽不残上人を特請し、開山として迎えた。ときに元和四年(一六一八)であった。(中略)
     しかし、広大な寺領をもち権勢を誇り続けてきた源長寺にも漸く濃い翳りが出始めた。大檀那・伊奈氏の十代忠尊のときに失意の退陣を余儀なくされ、代々の所領は没収され赤山の館は解体を強いられて伊奈氏の経済的失調が決定的となった。(中略)
     江戸中期以降明治にかけて源長寺は重大な時期を迎えたときに二十一世忻譽大念は寺外で没した(明治十八年)。この頃、鐘楼堂をはじめ寺宝の多くを失い、加えて多くの離檀者があって窮状は加速して源長寺の暗黒時代となった。広大な寺領も一部の者に次第に蚕食され、境内に隣接した土地を残して多くの寺領を失ってしまった。僅かに残った二町歩余の農地も終戦後の農地解放の政令に従いすべてを手放し、境内墓地の寺域約一町歩が残ったに過ぎなかった。(中略)
     現住廣譽定海、仏縁をもって昭和十三年(一九三八)二十四代の法灯を継いでも当時は十数戸の檀家、正に少祿微檀。僅かに残った茅葺き一棟も十坪余に過ぎず、寺としての外観体裁はなく、辛うじて雨露を凌ぐのみで廣譽が常駐して本尊に給仕するには大きな決意が求められた。廣譽は土地の古老に伝承を聞き古書から盛時を偲びつつ教壇生活を続けて密かに時機の到来を待った。
     昭和四十七年退職入寺した廣譽は寺運の再興、伽藍の再建を発願決意した。荒蕪地同然の寺域を墓地として造成分譲し広く有縁の檀越を募り大方の効力を得ることを方策として樹てる。幸いにして機運円熟し仏天の加護をうけて着工し、父祖以来の宿願、本堂、庫裡の新築、境内の植栽整備も同時に進行して昭和六十三年(一九八八)五月十五日全檀信徒参集して浄土宗三上人の遠忌正当の記念法要に併せ落慶のおつとめが盛大に厳修され住職廣譽の生涯の大吉祥日となり、永年の悲願成就を泉下の諸霊に慶びの報告をした。

     ここにも「関東郡代」の文字があるが、関東郡代は伊奈氏改易後に定められた職制で、伊奈氏在任中は関東代官であった。「そうだったんですか?」「郡代と代官の違いは?」
     伊奈忠次が関東代官頭に任ぜられたのは、家康の江戸入府と期を同じくしている。大久保長安(武蔵国八王子横山)、長谷川長綱(相模国浦賀)、彦坂元正(相模国岡津)が共に代官頭に任ぜられ、当時の関東の幕府領(天領)およそ百~百二十万石を四人で分割支配したのである。一人当たり三十万石とすれば並みの大名より遥かに権力は大きい。伊奈忠次の支配範囲は武蔵から下総、常陸に及んだと思われる。しかし慶長九年(一六〇四)に長谷川長綱が病死、慶長十一年(一六〇六)に彦坂元正が失脚、大久保長安が慶長十八年(一六一三)に死んでから、伊奈氏だけが残った。
     忠次は代官頭だったが、その後忠治の系統が世襲した職名は、おそらく関東代官だったと思われる。はじめは勘定奉行支配であったが、後に老中支配に変わり権限は強化されたようだ。伊奈氏改易の後、新たに関東郡代の職制が新設された。後世の伊奈氏が、最初から郡代であったかのように装飾したのであろう。
     改易されたとはいえ、江戸時代初期の関東で歴代伊奈氏の果たした功績は偉大である。中でも最も重要なのは、利根川と荒川を分離し利根川東遷を実現したことだろう。その他、治水の跡を示す備前堀、備前渠や備前堤(備前守忠次に由来する)は各地に残っているし、数十万石に上る新田開発も手掛けた。その菩提寺がとにかく再興されたのは良かった。武蔵国の住人は伊奈氏と井澤弥惣兵衛の名前を忘れてはならない。
     涅槃仏がある。その横にある説明は単に釈迦入滅のことを書いているので特に読まなくても良いだろう。珍しいのは損傷のないきれいな板碑が十基以上並べてあることだ。全て阿弥陀一尊だと思われる。頭部の山形、二条の線、種子(しゅじ)のキリークを説明したが、初めての人は納得できただろうか。石は秩父・長瀞の緑泥片岩で、その色から青石塔婆とも呼ばれる。供養塔として鎌倉時代から室町時代前期に盛んに造られたが、戦国期になると見られなくなる。
     青面金剛に踏みつけられた邪鬼の顔が正面を向いているのはそれ程多くない。「俺はこっちの地蔵の顔の方が面白い」とスナフキンはおかしなものに興味を持った。「なんだかいじけてるみたいじゃないか。」
     古い形の五輪塔が並ぶ一角が、四代忠克以降の伊奈氏歴代の墓所である。中央に大型の五輪塔が二基、左右に小さなものが数基。古いというのは空輪の形なのだ。新しいものは宝珠のような形だが、おそらく石工の技術が未熟だったために、饅頭の上に角をくっつけたようになっているからだ。因みに薄板で作る卒塔婆は五輪塔を簡略化したものだ。
     「これをア・ビ・ラ・ウン・ケンって読むんだ。」「それって真言宗?」「真言宗じゃなくて、真言だよ。」真言はマントラとも言う。凡人の理解できない摩訶不思議な発音によって、有難い呪文と思わせるのだ。

     【阿毘羅吽欠あびらうんきゃん】真言密教における胎蔵界大日如来の真言。「あびらうんけん」とも読む。サンスクリット語ア・ビ・ラ・フーム・カンavira hm. kham.の音写。五字からなるので五字明(ごじみょう)、五字呪(ごじじゅ)ともいう。真言密教では大日如来を宇宙の本体そのものとし、大日如来を胎蔵法では「あびらうんきゃん」、金剛界では「ばざらだどばん」の各真言をもって示す。このうち五字明は宇宙の本体を構成する五要素の象徴である地水火風空の五大を総合的にまとめたものであり、この真言を誦(じゅ)し続けることにより、宇宙の本体たる大日如来と一体となることができるとする。[小野塚幾澄](『日本大百科全書ニッポニカ』)

     宇宙を構成する根本元素として、紀元前五世紀の前後にインド人は四大(地水火風)を考えた。同じ頃ギリシアでもエンペドクレスが「火」「空気」「水」「地」の四元素を考えたから、根本にある発想は同じであろう。ギリシアではアリストテレスがエーテルを加えて五元素とした。インド仏教は後に「空」の概念を生み出し、それを付け加えて五大(密教では五輪と言う)とした。「色即是空」の空であり、元素ではない。更に「識」を加えて六大とする説も現れた。似たようなものに中国の五行(木火土金水)がある。
     因みに五大は方角と色を持つことになっている。地は黄(あるいは金色)で中心、水は白で西、火は赤で南、風は黒で北、空は青で東。この色を縦縞にした幕を五色幕と呼ぶ。また、色と方角の関係は中国にも伝播した。五行は移り変わるものでもあるから季節にもなる。木(青龍・春・東)、火(朱雀・夏・南)、土(黄・中央=季節の変わり目)、金(白虎・秋・西)、水(玄武・冬・北)である。ここから青春、朱夏、白秋、玄冬も生まれた。
     「伊奈氏のお墓はどこかでも見たよ。」伊奈町小室の願成寺で伊奈熊蔵忠勝(小室領伊奈家第三代)、鴻巣の勝願寺で伊奈忠次・忠政(忠次の嫡男・二代)・忠治(忠次の次男で別家初代・関東代官)の墓を見ている。
     「この字は何て読むのかな?」ファーブルが疑問に思うのは「武刕」の「刕」である。以前にもどこかで説明した積りだが、彼にはまだ説明していなかった。「武州だよ。」「州」はリットウ「刂」を三つ並べた形で、刀を三つ重ねるのと意味は同じだ。つまり「刕」は「州」の異体字だと説明してしまったが、「州」が中洲の象形で、「刕」は「裂く」の意味であるなら元々は違う文字である。日本特有の使用法だろう。単独では殆ど出現しないが、石碑では武刕、甲刕、上刕等の国名としてよく使われる。
     竹林は黄色くなっていて、なんだか寒々しい気配が漂ってくる。竹の秋である。植木屋の畑のような場所に入ると、ここでもさっきのアンズと思われる花が真っ盛りだ。

     累代の栄枯の跡や竹の秋  蜻蛉

     県道一〇五号線(日光御成道)に出ると、子日(ねのひ)神社(川口市新井宿一五五番)と氷川神社(川口市西新井宿三五二番)が道を挟んで向かい合わせになっている。先にも書いたように、街道の東が新井宿、西側が西新井宿であり、それぞれの鎮守である。
     最初は子日神社に入る。素木の両部鳥居の額は「鎮守子日宮」とある。「足の神様なのよ。」解説を読むと、一般に旧暦十月最初の「子日」に収穫祭が行われる。それが一般的とは知らなかったが、それが社名の由来ではないかと言う。但し足の神になったのは、子ノ権現に関係づけたからだと思う。祭神がオオナムチ(オオクニヌシ)とされているのは明治以降のことではないか。ネズミはオオクニヌシと縁が深い。
     狛犬は溶岩の上に立っている。「これも富士山から持ってきたのかな?」溶岩はその辺に転がっているものではないから、たぶんそうなのだろう。左右の溶岩にはそれぞれ一文字を掘った石が嵌め込まれている。「何て読む?」「奉献じゃないか?」向かって右が奉、左が献である。
     小さな拝殿には草鞋が吊るされている。「スリッパでもいいの?」足に履くものなら何でもいいのだろう。「与野の大国社(与野の権現)には羽生弓弦の名前の奉納草鞋があったじゃないか。」「そうだった。」あそこに比べれば草鞋の数は少ない。他の地域には知られていないのだ。桃太郎はお賽銭を投げ込んで丁寧に拝む。
     何重にも縄が巻き付けられているのは御神木だろうか。「身代わりなんとか、みたいなものかな?」「そうかも知れませんね。身代わり地蔵。」
     「ショケラがいましたよ。」姫の声で庚申塔を見る。表面は苔生してやや緑がかってはいるが、彫のきれいな剣人六手形(中央左手にショケラ、右手に剣を持つ)の青面金剛だ。「寛政三年だ。」「寛政の改革ですね。何年頃?」「一八〇〇年頃だね。」私の把握は大雑把すぎる。正確に言えば一七九一年であった。伊奈氏が改易される前の年である。宝永・正徳・享保・元文・寛保・延享・寛延・宝暦・明和・安永・天明・寛政と続く十八世紀が、江戸文化の最盛期であるとは中野三敏の強く主張するところだ。「こっちは文政だ。」文字庚申塔である。その他にも数基あり、いずれにも新しい花が供えられている。
     隣の多宝院(真言宗豊山派)は無住で小さな本堂があるだけだ。宝蔵寺の子院でかつては子日権現の別当寺だったが、廃寺になったようだ。空き地になった所に上野寛永寺の石灯籠がポツンと建っている。「そうですね、東叡山とありますから。」「奉献上石灯籠一基 東叡山 厳有院殿奠前」とあるので、四代将軍家綱の霊廟にあったものだ。国立博物館東博庭園と道を隔てて厳有院殿霊廟勅額門が残っているから、あの辺りに建っていたものだろう。家康と家光は日光に、秀忠は増上寺に葬られたから、寛永寺に葬られた将軍の最初である。
     「戦災で焼けた寛永寺再建のために石灯籠を売り出したんだ。」東叡山寛永寺は実に広大な敷地を有していた。「上野の山全体がそうですからね」と姫が補足する。戊辰戦争で大きな被害を受け、敷地の大部分は上野公園となった。
     残された部分も関東大震災と東京大空襲で甚大な被害を受けた。戦後、再建のために全国の寺に寄付を募り、そのお礼として石灯籠を配ったのである。要するに売ったと同じことだ。現在、寛永寺と名付けられているのは、川越喜多院の本地堂を明治十二年に大慈院の跡に移したものである。
     「増上寺の場合は、西武が持って行ったんだ。」「増上寺の敷地もスゴク広かったんですよ。」芝公園の全域がそうだし、将軍霊廟は戦後西武が買い占めて東京プリンスホテルやザ・プリンスパークタワー東京を建てた。そこにあった石灯籠約千基は所沢(現西武ドームの辺り)に山積みされていたが、主に西武線沿線の寺が買い取った。

     道を渡ろうとしても車の列がなかなか途切れない。そこにオジサンが現れて車を止めてくれた。宝蔵寺の葬儀に参列する車のための交通整理をしていたようだ。
     氷川神社に入る。川口市西新井宿三五二番地。元禄年間に新井宿村が二つに分離した時、子日権現と同時に創建されたと推定されている。石造明神鳥居、素木の両部鳥居が並んでいる。両部鳥居の扁額には唐破風を載せ、周囲に龍の彫刻を施してある。これは珍しいのではないだろうか。

    文化三年(一八〇六)の『日光御成道分間延絵図』を見ると、街道の西側に西新井村の鎮守氷川明神と別当宝蔵寺、東側に新井宿村の鎮守子聖権現(現子日神社)と別当多宝院という形で、両村の社寺が街道を挟み対面して描かれている。また、両社の鳥居の傍らには高札が立ち、街道を往来した人々が足を止めた所であったことがわかる。
    文久元年(一八六一)に本殿が改築され、同三年(一八六三)には拝殿が改築されたと伝えられる。(『埼玉の神社』)

     明治の神社合祀政策によって子日権現、雲井社・比叡社・飯縄社・稲荷社・姥神社が合祀された。神社合祀政策の無茶苦茶については、前回の与野編に書いた。昭和二十三年になって、子日神社が独立して復興したのである。
     本殿は覆殿の隙間からちゃんと見ることができる。「こうやって隙間が空いているのはいいですよね。」
     隣の宝蔵寺(真言宗豊山派)は葬儀の最中のようで入るのは遠慮した。永正十五年銘二十一仏庚申待供養板碑があるらしいが、おそらく境内に入っても見ることはできないのではないだろうか。二十一仏というのを初めて聞くので、ここに引用しておく。

     当板碑は、永正十五年(一五一八)十一月の銘が刻されており、宝蔵寺末寺の多宝院より出土しました。庚申信仰により造立された板碑で、その特色は、本尊として二十一の仏・菩薩を刻んでいることです。
     この仏、菩薩は、比叡山麓の日吉大社を総本山とする有力社殿山王二十一社の本地仏であり、これらへの信仰を二十一仏信仰と呼んでいます。本地仏とは、神仏習合思想において、神道の神の本来の姿が仏であることを意味しています。
     このような二十一仏板碑の分布は武蔵国と下総国との境界地帯に限定されており、本市域はその西端に当たっています。そして、山王の神使が「猿」であることと、庚申の「申」が結びつき、二十一仏を本尊とした庚申待板碑が当該地域に分布しているのです。当板碑は本市域の持つ地域性を如実に示している貴重な歴史資料です。(川口市教育委員会掲示より)

     山王二十一社とは日吉大社の本社・摂社・末社で、上社(大宮・二宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮)、中社(牛御子・大行事・新行事・早尾・下八王子・王子宮・聖女)、下社(小禅師・山未・気比・岩滝・剣宮・大宮竈殿・二宮竈殿)のことである。その本地仏を一々書いてもどうせすぐに忘れてしまうから、大宮(大比叡)の釈迦如来、二宮(小比叡)の薬師如来だけを書いておこう。
     星野昌治「神道の板碑」(『板碑の総合研究』所収)によれば、二十一仏板碑の総数は四十五基であり、最も古い永正十五年の宝蔵寺のものから七十四年間に、埼玉・茨城・東京・千葉だけで造立されていると言う。珍しいものなのだ。
     「クジラ幕、ゲイ幕ですか?」黒と白の縦縞の幕を張った小屋(?)があるのだ。たぶん弔問の受付のための小屋だろう。クジラマクと読む。「キリスト教のお葬式の時にもありました」と姫は不思議そうに言う。
     調べてみると仏教に限らず神道でも使うと言うので、キリスト教で使ってもおかしくなさそうだ。元々、江戸時代の葬儀では、幕は白単色だった。喪服も白か浅葱色で、黒の喪服を使うようになったのは明治になって西洋の礼服が普及してからである。日本では大久保利通の葬儀の際に、政府高官が大礼服を身に着けたことから黒喪服が広まったと言う。
     宮中や出雲大社などでは鯨幕を慶事にも使う。鯨幕を葬儀に使うようになったのは、昭和初期の葬儀社の工夫らしい。葬儀の際の様々な儀式の殆どは歴史的に古いものではない。一部の連中が頻りに口にする「伝統」とは、精々こんなものである。

     グリーンセンターへ一・三キロの標識を眺めながら竹林を抜けると、雑木林と空き地に挟まれた細い坂道の向こうに竹の下グリーントンネルが見えた。国道一二二号線(岩槻街道)を潜る歩行者専用トンネルだ。「夜は通れないわね。」「心霊スポットなのよ。」トンネルの壁に侍の顔が浮かび上がるという都市伝説があり、侍トンネルとも呼ばれるらしい。「ゾクゾクしちゃうわ。」ノリリンは単純に寒いだけかも知れない。トンネル内部の壁は悪戯描きを防ぐために緑に塗られている。それがグリーントンネルの謂れだろうか。

     心霊を隧道にみて春寒し  蜻蛉

     トンネルを抜けると、国道の擁壁脇のユキヤナギがきれいだ。「これは桜じゃないか?」白い桜が咲いている。但し緑の若葉が出ているのでソメイヨシノではなく、オオシマザクラらしい。「この葉で桜餅を包むんです。」姫の言葉に「桜餅に二種類ありますよね」とノリリンが応じる。私は桜餅なんか食わないので知らないが、関東(長命寺)では餡を円形の皮で包み、関西(道明寺)ではおはぎのように丸くするのだそうだ。
     「日本原産のサクラの野生種は九種類あるんですよ」と姫が教えてくれる。調べてみるとヤマザクラ、オオヤマザクラ、カスミザクラ、オオシマザクラ、エドヒガン、チョウジザクラ、マメザクラ、タカネザクラ、ミヤマザクラ、カンヒザクラの九種である。
     ソメイヨシノはゲノム解析によって、エドヒガンとオオシマザクラ(正しくはオオシマザクラとヤマザクラの交雑)から生まれた品種である。そして全国に見られるソメイヨシノは、遺伝子的には最初に生まれた一本からのクローンだと結論付けられている。つまり接ぎ木や挿し木によって増えたのだ。染井村で作られたとされているが、それが精々百年のうちに日本全国に広まったということが不思議だ。但し、この最初の一本が人為的に作られたものではなく自然に生まれたとする説もある。
     「最初は吉野桜の名前で売り出したんですよね。それが吉野からクレームが付いて今の名前になりました。」いくらサラクの名所にあやかると言っても吉野桜はヤマザクラだから、その名を付けるのはまずいだろう。明治三十三年(一九〇〇)にソメイヨシノに改名した。

     染井吉野が数多く植えられた理由として、次のように推測しています。まず染井吉野が、江戸の終わりから明治にかけ、人々に認められた。葉の出る前に花が開き、華やかな感じが新鮮に思われたのではないでしょうか。次に人々の需要に応えるだけの生産があった(=供給が可能だった)という点です。また、染井吉野を売り込んだプロモーターがいたのかもしれません。ちなみに記念植樹の機会は、大正天皇、昭和天皇ご成婚記念、また廃藩による城跡へのさくらの植樹などです。(日本さくらの会)

     真っ赤なボケを栽培している畑に出た。「名前が可哀そうね。」通りに出るとシモクレンが咲いていた。「今年初めて見るよ。」「私も今年初だわ。」時期が早過ぎないだろうか。我が家の近所ではまだ全く咲く気配がない。

     川口市立医療センターがあった。川口市西新井宿一八〇番。元は川口市民病院である。「大きいですね。越谷の市立病院はこんなに大きくないですよ。」立体駐車場も大きい。「越谷は人口三十万なんだけど、川口はどのくらいなの?」「六十万。」「スゴイですね。」自分の住む市の人口を把握しているのがスゴイと私は思う。それでは川越市はといえば、三十五万であった。越谷と余り変わらないのが不思議だ。
     ついでだから埼玉県の市町村の人口ランキングを調べてみた。一位はさいたま市の百二十八万、二位が川口の五十九万五千、三位が川越の三十五万、四位が所沢の三十四万四千、五位が越谷の三十三万九千である。以下、草加、春日部、上尾が二十万人台で続く。

     診療科数二十九科五百三十九床を有し、地域の基幹病院としてプライマリ・ケアから高度専門医療まで広範な医療を展開しています。日本医療機能評価機構の認定施設であり、さらにエイズ診療協力医療機関及び基幹災害医療センターにも県より指定されています。

     その脇を通り、川口グリーンセンターへは東門から入る。川口市新井宿七〇〇番地。こんなに大きかっただろうか。実は私は、千意さんが案内してくれた安行の花と緑の振興センターと勘違いしていた。入場料は三百十円である。「十円が半端だな。」「年寄割引はないのか?」ない。川口市民で六十八歳以上なら無料だ。「川口に職場があってもダメなのかな?」そういう制度があったとしても、ファーブルはまだ年齢制限にひっかかる。年間パスポートは千五十円だから一年に四回来れば元が取れる。
     ピンクの桜が満開だ。小さなSLが展示されている。「これが走るんですよ。」その通り、線路が巡らされている。地元のマリーとノリリンはどんどん先を歩いていく。ユキヤナギ。「これはヒュウガかな?」トサミズキかヒュウガミズキか、その正確な判別はできないが、取り敢えず口にしてみた。「そうね、ヒュウガミズキだわ。」
     「蜻蛉に植物の名前を教えられる時代が来るなんて夢にも思わなかったよ。」高校時代の私だって夢想もしなかった。しかし人は変わるのである。レンギョウの黄色が鮮やかだ。芝生にはシバザクラ。見上げればサンシュユ。春真っ盛りである。しかしそれにしては寒い。春は名のみの風の寒さや。シランはまだ咲いていない。
     「植物の名前をカタカナで書くのは政府の指示なのよね?」ハイジは国家が決めたと思っているのだ。カタカナで表記するのは厳密を要する学術的な場合であり、一般日常では漢字で構わない。但し漢字名はそもそも中国のものであり、日本原産のものは必ずしもそれと同じではない。牧野富太郎が例に挙げているのは百合とユリの場合である。

     元来百合とは中国の名であるから、これを昔からのように日本のユリに適用することは出来ないはずである。そしてそれを昔の深江輔仁の『本草和名』にあるように百合を和名由里(ユリ)、また源順の『倭名類聚鈔』にあるように同じく百合を和名由里(ユリ)としているのは共に間違っているといっても誰も異存はないはずだ。
     百合と称するものはユリ属すなわち Lilium 属一種の特名であって汎称ではない。この種は中国の山野に生じていて茎は直立し、葉は他に比べてひろく、花は白色で側に向ってひらいている。今ここに呉其濬の『植物名実図考』にある図を転載してその形状を示そう。その生根は一度も日本へ来なく、私等はまだこれの実物を見たことがない。しかしもしこれに和名を下すならば、私はそれをシナシロユリ(支那白ユリ)といいたい。もっと典雅な名にしたければ白雪ユリといっても悪くはあるまい。すなわち百合はこのシナユリ一名白雪ユリの新和名に対する中国名で Lilium sp.(種名未詳)である。繰り返していうが、こんなわけであるから「百合」というのは前記の通りユリの総名、すなわち The general name for all lilies ではない。
     従来日本の学者達は百合を邦産のササユリにあてているが、それは無論誤りであって、ササユリはけっして百合そのものではなく、元来このササユリは中国には産しないから当然中国の名のあるはずはないではないか。(牧野富太郎「百合とユリ」『植物一日一題』)

     つまり中国にないものを漢字で書くのは間違いだと言っているのだが、あくまでも学術的厳密性の問題なのだ。
     ハイジの言う「政府の指示」の典拠を探すと、昭和二十一年の内閣訓令第七号「当用漢字表」の「使用に関する注意」に、「ホ 動植物の名称は、かな書きにする。」とあった。しかし当用漢字表は天下の悪法であった。そもそも漢字を廃止しようとするGHQの思惑に阿って、漢字廃止までの間の当面、使用する文字を制限したものだ。日本人は膨大な漢字を覚えるために精力を使い果たし、創造的な能力が枯渇してしまうとする、全く学問的な裏付けのない妄想によるのである。既に現在は廃止されているから法的な根拠はなくなっている筈だ。
     ところで私は当用漢字と共に、活用が無茶苦茶で論理的な整合性に欠け例外規定の多すぎる現代仮名遣いが、日本文化の継続性を滅ぼしたと思っている。例えば、オ列長音は「う」と表記するのが原則だが、おおかみ、こおり等「お」と表記する場合がある。これは「歴史的仮名遣いでオ列の仮名に「ほ」又は「を」が続くものであって,オ列の長音として発音される」(「現代仮名遣い」内閣告示第一号)ので、「お」を使うと説明される。歴史的仮名遣いでは「おほかみ」「こをり」なので、それを知らなければ現代仮名遣いを正確に書けないことになる。また表音主義を言い、地面「じめん」、地震(じしん)としながら、鼻血は「はなぢ」とする。全く整合性がとれていないのだ。この点に関して、私は完全な保守主義者である。
     中野三敏は和本リテラシーの復権を言い続けているが、江戸の和本は愚か、たかだか七十年前の小説でさえ、原文では読めなくしてしまったのは、実に無残なことなのだ。丸谷才一のように最後まで現代仮名遣いを許さなかった作家もいるけれど。

     「通りますよ。」SLではなく新幹線のようなものが走ってきた。乗っている子供たちが手を振る。「電気で動いてるのかな?」そうだと思う。かなり広い公園だ。東京ドーム三個分の広さである。「ホントに寒くなって来たわ。」「温室に行きましょうか。」
     蘭の温室に入るとメガネが曇る。「カトレアのように派手な人、スズランのように愛らしく」(舟木一夫『花咲く乙女たち』)を歌うのに、私はカトレアが蘭であることも知らなかった。大きな胡蝶蘭がある。「これで三十万くらいかな?」「五十万はするだろう。」その他知らない花が沢山ある。腹が減ってきた。
     外に出れば山野草園だ。キクザキイチゲ、ヒゴスミレ、アツバスミレ、ムラサキハナナ(ハナダイコン)。壁面を沿って落ちてくる滝と噴水は壮観だが、今日は寒すぎる。さざれ石もある。園内で見られる野鳥の掲示板にはカラスもいる。「カラスも野鳥か?」当然そうだろう。ハシブトガラスはおでこが出っ張っている。ハシボソガラスは出っ張りがない。「ハシブトはカーッて鳴くんです。ハシボソはガーッです。」それは知らなかった。「ハシブトとハシボソは交雑するんですか?」ヤマチャンがファーブルに無茶な質問をしている。「しないですよ。」
     やっと食事だ。十二時。パーゴラ(ロダンが指摘するのではじめて知った)の下のベンチ四台に三人づつ腰かける。今日のおにぎりは大きい。妻が何か間違えたのかも知れない。ファーブルから稲荷寿司が回されてくるが、私はそんなに食えない。桃太郎が一つ貰った。
     芝生の方にカラスが集まっている。ビニールシートが風に舞っているが重しを載せているのか、飛んでは行かない。カラスはその中の何かをつついては樹木の方に帰っていく。「弁当を突いてるんだ。」「荷物をおいたまま、どこに行ったんだろう?」ヤマチャンはカラスに向かって大声を上げるが、カラスが悪いのではない。それにしても昔は、カラスだってこんなに嫌われてはいなかった筈だ。『七つの子』、『カラスの赤ちゃん』なんていう童謡もあったではないか。
     二十分も経ったろうか。「アッ、何?」、「キャーッ」中学生か高校生の女の子三人が戻って来たのだ。「食べられちゃった」と嘆く声が聞こえる。「チョー最悪。」お前たちが悪い。この経験が身に沁みれば少しは賢くなるだろうか。
     十二時四十分に立ち上がる。黄色のスイセンもきれいだ。「あれは?カラーかな。」「ミズバショウだ。」ミズバショウがこの時期に咲くのか。「夏が来れば思い出す」花ではないのだろうか。
     再び温室に入る。サボテン園には不思議なサボテンが一杯だ。ローマエビ、ハクセンコマチ(毛だらけの芋虫のよう)、ハクジュマル(毛の生えた玉子のよう)等。サボテンは不気味だ。
     その部屋を出て水生温室に回れば、池にはスイレンが咲いている。「水連は葉に切れ込みがあって水に潜る。ハスは切れ込みがないから沈まない。」一つ覚えの知識を披露すると、「それだけじゃありません」と姫が補足する。「ハスの花は真ん中にハチスがあるんですよ。スイレンにはありません。」
     熱帯温室もなんだか不気味だ。色がどぎついものが多くて神経が疲れる。私は神経が細いのである。コエビソウ(ホントに海老そっくり)、ベニヒモノキ(濃いピンクが紐状に垂れている)、アメリカシャガ(日本のシャガよりきれいだと思う)等。
     バードセンターにはクジャク二羽と、キンケイ、ギンケイが一羽づついるだけだ。「キンケイがきれいね。」「私はギンケイの方がきれいだと思う。」美醜は人それぞれの感覚である。檻の上は隙間が空いていて、そこから十羽程のスズメが飛び降りては飛んでいく。餌を漁っていくのだ。それにしてもスズメは久し振りに見たような気がする。

     子雀や孔雀の餌を盗み食ひ  蜻蛉

     「クジャクって食えるのかな?」「キジ科だからね。」ただ孔雀はカラスと同じく悪食だから、肉は不味いのではなかろうか。そもそも食おうとする者がいるとは思えない。しかしこれは私が知らないだけだった。八重山では、離島のリゾート施設から脱出したクジャクが繁殖しすぎて農産物を荒らすために駆除している。その駆除した肉を食用として活用できないか、せめて弾丸の費用に充てたいと、地元猟友会がレストランと共同で調理方法を考案した。石垣島でも駆除したクジャクの肉を食うと言うから、沖縄ではクジャクの繁殖に困っているのである。

     県道三四号線を行き神根浄水場から左に曲がれば妙蔵寺(日蓮宗)だ。川口市安行領根岸一八〇九番地。見沼代用水をまたいで妙蔵寺橋が架かっている。くすんだ朱の欄干には擬宝珠も載っていて、寺と反対側には立派な山門から綺麗な参道が続いている。山門は仁王門。「立派な寺じゃないか。」境内は傾斜地になっていて、植え込みも綺麗に手を入れている。延文三年(一三五八)池上本門寺三世日輪の開山になる。

    本門寺の御歴代は開山・日蓮大聖人、第二世が六老僧の一人日朗上人ですから、わが日蓮宗がさかんに教勢を拡張せんとする時代の突端に、当山は開かれたことになります。
    当時、戸塚村立山の城主、小見山左衛門義次が日輪上人の教化に帰伏し、陣屋の守護のために堂宇を建立したのがその由来です。開山日輪上人は日朗上人の直弟子で、日朗上人から池上本門寺、鎌倉・比企谷妙本寺の両本山をまかされました。時は南北朝期の最中、足利尊氏の没した年です。

     マリーは庚申塔を数基収納した覆屋に入っていく。「これって、珍しいですよね。」姫が言うのは、中央左手にショケラを握り、右手には剣ではない何かを持った青面金剛だ。「独鈷でしょうか?」なんとなく鈴のようでもある。これは初めて見る。
     日蓮の銅像は、大きな石を組み上げた上に立っている。「大丈夫かな?」昭和五十六年、日蓮聖人七百遠忌報恩事業の一つとして建てられた銅像だ。
     見沼代用水東縁に沿った道は「緑のヘルシー道路」と名付けられている。新井宿から行田市大字須加までの五十六・五キロの道だ。「見沼代用水路やその支線用水路の改修により生み出された土地や管理道路を有効に利用して設置された、自転車・歩行者・農耕車の専用道路」(埼玉県)である。その一部がふれあい歩道になっている。
     水量は少なく、しかもゴミが目立つ汚い川だ。川の反対側の斜面からは樹木の根が剥き出しになり、いつ崩れてもおかしくない状態になっている。「コサギだ。」その声が聞こえたのか、コサギは飛んで電線に止まった。電線にとまるコサギは初めて見る。
     くらしの工芸木風堂kippudoの前で休憩する。川口市安行領根岸二二四四番地三号。無垢の木で家を建て、オーダーメイドの家具や小物を作る会社である。「ここに来たことあるわ。」ノリリンの話では木工の体験ができるのだ。店頭の大きな甕にミモザアカシアの枝が活けてある。こんな風に見るのは初めてだ。ホームページを見ると、仕事なのか趣味なのか良く分らない。

     自然がすべて  そんな思いで店を開き八年になりました。なんで木なのか・・・人は植物、特に木を使い木に生かされてきた。無垢の木で家を数件建てた、飽きることはない、益々魅かれる。趣味なのか道楽なのか仕事なのか?何度も言われた。どんな言われ方をされても楽しい。毎日、家に帰ると癒される、充足、満足度が高い。木は裏切らない、喋らない。人は怒る、喋る。木は自然のままが良い、なるべく塗装しない、磨けば光る。割れても、反っても、燃やしても、腐っても自然のままが良い。自分も見習っているが反省だけ残る。そんな思いでこれからも続けます。(「木風堂とは」)http://kippudo.jp/about/

     そしてまたグリーンセンターの脇に戻って来た。「ぐるぐる回ってたのか。」新井宿駅に戻ったのは三時だ。一万八千歩。十キロ弱であろうか。「私は一万六千歩よ。」ノリリンは足が長いのである。スナフキンが来月の案内(高尾駅北口集合)。をし、姫は成田街道第三回(小野越え駅集合)の案内をして解散だ。
     この辺に飲み屋はないだろう。「東川口に行こう。」ノリリンはバスで帰ると別れて行った。残りは埼玉高速鉄道に乗り込んだ。
     東川口に着くと、どうした訳かノリリンが一緒に降りてきた。「バスがなかったんです。」一時間に一本しかないのだ。「それじゃついでに飲みに行く?」誘ってみたが断られた。「彼女は飲まないのよ。」ハイジは武蔵野線に乗り換える。その代わりハコサンが珍しく参加した。ここからは近いからね。
     スナフキンとファーブルは脇目も振らずに和民に向かったが、開店は四時でまだ三十分以上ある。「さっき女の子が客引きしてたな。」最初は無視して通り過ぎたのだが、それしかないのだから仕方がない。高清水の前掛けを着けている。「この時間にやってるのはウチだけなんですよ。それに最初の一杯は無料になります。」
     武蔵野線に沿って行く。「そこの串揚げ屋の隣です。」串揚げ屋は串カツ葵である。「田中屋じゃないんだ。」その隣が串処兼よし総本店だ。「駅から結構あるから客引きしてるんだね。あんまり来ないだろう?」「いつも予約でいっぱいです。」
     「ここは磯丸水産があった所じゃないですか」と姫が気付いた。そう言えばそうかも知れない。この店は平成二十七年の開店だ。ビールはプレミアムモルツだ。「無料はイッパイだよね。」マリオの発音は沢山を意味しているが、勿論それは笑って却下される。
     いつもの通りお新香盛り合わせを注文すると、刻み沢庵、酢漬け生姜(いわゆるガリ)、キュウリのQちゃんがでてきた。「これがお新香?」私思うに「お新香」は「新」の字が示すように浅漬けを言うのではないか。沢庵(嫌いなわけではない、好きだけれど)のようなものまで「お新香」と言うのは抵抗がある。「キムチが出てきた店もあったね」とマリオが思い出す。浅漬け、古漬けひっくるめて漬物を総称するなら、私は秋田で言うガッコ(雅香)を推奨したい。
     焼酎は一刻者。「おつまみはちょっと高めですね」と姫が指摘する。この店では焼き鳥やもつ煮込みを頼むのが常道だろうが、ヤマチャンは焼き鳥が食えない。「これはなんだい?」壁に貼ったメニューを見ると、目玉焼き三個から十個が四百八十円となっている。「ウズラだったりして。」「そんなことないだろう。」「スーパーでは一個十円だから」とマリオは言う。それは安すぎないだろうか。二十円としても、十個で四百八十円なら店は充分に利益がある。これで三個を注文するバカはいないだろう。暫くして出てきたのは確かに十個の目玉焼きだった。これを切り分けるのである。
     ハコサンから箱根駅伝出場の話を訊くと、陸上部ではなくアマレス部で、たまたま駆り出されて走ったのだそうだ。「何位だったんですか?」「十四位。」それでも専門家でもないのに完走したのは大したものである。実はこれがハコサン命名の由来だった。年齢を確認して、「それじゃ私の一回り上だ」とマリオが喜ぶ。
     ファーブルは新宿で教え子と会うと言うので、三千円を置いて少し早めに出て行った。その後も少し飲んで、一人二千円は安かった。焼酎二本を空けても、安いつまみしか注文しなかったのだ。後でファーブルに千円返さなければならない。忘れてしまうといけないのでここに記録しておく。
     まだ六時なので、姫、マリー、スナフキン、蜻蛉はカラオケに回った。

     四月一日、新元号「令和」が発表された。「令」は第一義には法であり、使役の助動詞でもあるから一瞬違和感を覚えたが、令嬢、令名等の用例もあることを考えれば許容できるか。無学の故に令月と言う言葉を知らなかったし、万葉集に漢文の序文があることも初めて知った。
     政府は、『万葉集』中の「梅花の歌三十二首」の序文「初春の令月、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す」を出典としたと説明した。しかし当時は中華先進文明の摂取と模倣の時期である。序文の作者は『懐風藻』に漢詩作品が採録される大伴旅人とされるが、それであれば猶更、中華文明への憧憬が溢れているだろう。
     案の定、岩波書店編集部が『新日本古典文学大系』の注釈を引いて、『文選』の張衡「帰田賦」を踏まえているとツイートした。
     

    新元号「令和」の出典、万葉集「初春の令月、気淑しく風和らぐ」ですが、『文選』の句を踏まえていることが、 新日本古典文学大系『萬葉集(一)』の補注に指摘されています。
    「令月」は「仲春令月、時和し気清らかなり」(後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五)」とある。

     同じことをロバート・キャンベルも指摘し、「文選「仲春令月、時和気清」(張衡「帰田賦」)へのオマージュを含めてナイスチョイス」と言っている。典拠が万葉集だと言われれば、専門家なら必ず「大系」本を確認するだろう。考案者とされる中西進がこれに気付かない筈はない。しかしこの情報はネットでは見られても、新聞テレビでは一切報道されない。
     「帰田賦」は 仲春令月 時和気清 原隰鬱茂 百草滋栄
     「万葉集」は 初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
     だからダメだと言っているのではない。漢字を使う限り、その源流は漢籍に行きつくのは当たり前のことなのだ。おそらく後に新古今で頂点に達する「本歌取り」が、この当時から芽生えていたということではなかろうか。それは単なる模倣ではなく「本歌」へのリスペクトである。
     少し時代は下るが、「香炉峰の雪いかならむ」と中宮定子に問われた清少納言が簾を上げさせたように、何につけ漢詩の名句を即座に思い出すことが教養であった。

    雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子まゐりて、炭櫃に火おこして、物語などして集まり候ふに、「少納言よ、香炉峰の雪いかならん」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせ給ふ。人々も「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。なほこの宮の人にはさべきなめり」と言ふ。(『枕草子』第二九九段)

     それでも安倍内閣は「歴史上初めて、国書を典拠とする」と胸を張り、「わが国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書」を誇る。何故そこまで「国書」に拘らなければいけないのか。
     張衡は後漢の人。世界最初の水力渾天儀、水時計、世界初の地震感知計等を発明した。大史令を勤めその後は尚書になったが、順帝の政治に不満を抱き、職を辞して郷里に帰った。「帰田賦」はその時の詩である。

    蜻蛉