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    近郊散歩の会 第二十一回 「多摩森林科学園」と駒木野の小仏川遊歩道
        平成三十一年四月二十七日(土)

    投稿: 佐藤 眞人 氏 2019.05.03

     テレビは連日、令和まであと何日とカウントダウンを始め、天皇皇后の昔の映像を見せ続けている。年越しのイベントのようであるが、この機会に、本当は天皇制について真剣に考えなければならないのだ。
     平和と民主主義に対する天皇夫妻の強い思いと真摯な行動は尊敬に値する。しかしここ数年露わになったのはその意思に対する、保守を自任する連中の批判である。在位中、靖国神社に一度も参拝しなかった今上は、「保守」「右派」にとって許すべからざる存在なのだ。しかし天皇を批判する保守、右派とは何だろう。伊藤智永『「平成の天皇」論』から、保守を自任する何人かの発言を拾ってみる。

     天皇はやたらと出歩いたり、国民と相互理解を深める務めなど必要ない。それで象徴天皇の機能が失われたとしても、天皇の存在自体が重要だ。(渡部昇一)
     天皇が象徴であるのは、天皇家が日本国民の永世の象徴でもあるからで、万世一系の天子が代々続くことは、民族の命が続く象徴でもあるからだ。各地で国民の思いに触れる旅とは、自分で拡大解釈した責務であり、それを果たせなくなるから元気なうちに引き継がせたいという望みは異例の発言だ。・・・・世襲制に能力主義的価値観を持ち込むことになる。(平川祐弘)
     両陛下は、可能なかぎり、皇居奥深くにおられることを第一とし、国民の前にお出ましになられないことである。(加地伸行)
     陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん?どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう?(略)はっきり言えば、今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ。(靖国神社宮司・小堀邦夫)

     「万世一系」がフィクションであることは歴史学の常識であるが、今はそれを言うのではない。彼らの発言には人間的なるものへの敬意も共感もない。天皇という「機関」、天皇の政治的利用しか関心がないとしか思えないのだ。基本的な人権を奪われたまま皇居の奥深くに隠れ、ただ生きていろと言うのは人間の条件を無視している。これが現代の保守や右派を称する者たちの正体である。ここで林達夫の文章を思い出しても良い。

     日本史を学んで著しく目につく一事は、天皇の「尊厳」の前に最もうやうやしく額づくべきはずの側近者グループが、いつの世にも例外なく、いちばん不逞で、いちばん冒涜的なことであります。ほとんど傍若無人なこともしばしば見受けられるが、少なくとも慇懃無礼であることを常とする。(林達夫「反語的精神」)

     昭和二十一年(一九四六)に発表されたものであるが、全く事情は変わっていない。天皇制を考える上で最も重要なことは、憲法で保障される基本的な人権(職業選択の自由、移転の自由、表現の自由等)を奪われた特別な家族の存在を必要としていることだ。そういう存在を認めて良いのかという問題である。
     今上天皇と皇后は人としての品性に於いて、おそらく史上最高無二の君主であった。今後、これほどまでに国民の共感を呼ぶ天皇は出現しないだろう。しかし女性天皇あるいは女系天皇を認めなければ、天皇制は遠くない将来必ず破綻する。天皇も皇室典範の改正を望んでいた筈だが、これもまた安倍晋三を代表とする自称保守派の反対で真面目な議論の俎上にさえ載らない。安倍晋三は実は天皇制の消滅を願っているのではないか。
     左翼の腰が砕けて久しいが、真正の保守の姿も見えなくなった。私はどこに向かえば良いのだろう。
     歴史を振り返れば、公武合体を願う孝明天皇が最も信頼したのは会津の松平容保であり、最も嫌ったのは薩長であった。そして孝明天皇の死には毒殺の疑いが消えない。その真偽は別にしても、その噂が囁かれるほど、孝明天皇と薩長との関係は悪かったということだ。安倍は勿論、岸信介を尊敬する長州人である。

     大久保利通は西郷隆盛に宛てた書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言し、岩倉具視は「国内諸派の対立の根幹は天皇にある」と暗に示唆して、「孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行って朝廷の求心力を回復せよ」と記している。
     こうした中で一八六六年十月八日(慶応二年八月三十日)には、天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、その後薩摩藩の要請を受けた内大臣・近衛忠房が天皇が下した二十二卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている(ウィキペディアより)

     日本人は本当に天皇を必要としているのか。お祭り騒ぎで終わっては何も解決しない。改めて平成二十八年八月八日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を読み直してみた。明晰でなお心情溢れる美しい言葉だ。私は自身を含めて、この今上の思いに相応しい国民がどれだけいるだろうかと疑問を感じてしまうのだ。

     (前略)私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行おこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。(略)
     始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。
     国民の理解を得られることを、切に願っています。

     旧暦三月二十三日。穀雨の次候「霜止出苗(しもやみてなえいづる)」。世間は十連休と言っているが、私は九連休の初日だ。昨日は四月末とは思えない雨の降る寒い日だった。連休明けからはクールビズが始まるのに、この気温はどうしたことだろう。雨は止む筈だが念のために折り畳み傘を持参した。
     少し余裕をもって家を出たのに、川越市で快速に乗ったために志木で乗り換えるのをうっかりして、和光市まで行ってしまった。快速は朝霞台には止まらないのである。慌ててホームを変えると下りはすぐにやって来た。二駅で朝霞台に戻り、武蔵野線に回った。予定より少し遅れたが何とか間に合う範囲だ。西国分寺で高尾行きに乗り換える。高尾に着いたのは定刻の十五分前だった。
     北口改札を出るともうかなりの人が集まっていて、私が一番遅かったようだ。平成最後の近郊散歩の会はスナフキンの担当である。ハイジ、あんみつ姫、マリー、マリオ、ロダン、ヤマチャン、桃太郎、蜻蛉の九人が集まった。「家を出る時、かなり降ってたんですよ。こんな日に歩くのかって言われちゃいました。」参加者がそれほど多くないのはこのためだ。鶴ヶ島では止んでいたが、駅舎を出ると小雨になっている。
     高尾駅に下りるのは、平成二十九年十一月の第七回「武蔵陵墓地から旧甲州街道・八王子を歩く」以来だ。あの時は武蔵陵から東に向かったのだ。甲州街道を渡り高尾街道(八王子・あきる野線)に入る。
     南浅川を越えると、「廿里」の地名標識が現れた。「これでトドリなんて読めないよな。」あの時も同じ疑問をもって調べている。秩父へ十里、鎌倉へ十里。十十里と書けばトドリの読みも納得できるだろう。戸取山(原)に由来する地名だ。「古戦場なんだよ。」

     後北条氏の本拠・小田原城攻撃に向かう武田信玄率いる甲州勢二万は碓氷峠を越え、北条方の支城を攻撃しながら南下し、滝山城の北、拝島に陣を敷いた。一方、武田軍の別動隊で岩殿城主・小山田信茂隊一千は小仏峠から侵入した。これに対し、北条氏照は、家臣の横地監物、中山勘解由、布施出羽守ら二千の兵を派遣し、一五六九年(永禄十二年)十月一日、廿里防塁跡で小山田軍を迎撃したが、待ち伏せの奇計を謀った小山田隊に敗北を喫したとされる。この後、武田軍により、滝山城は三の丸まで攻め込まれたが、かろうじて落城は免れた。北条方は小仏峠からの侵入を予想しておらず、意表をつかれたという。また、加住丘陵を利用した滝山城は南からの攻撃に弱点があることが明らかとなり、小仏峠を睨んだ強力な防衛拠点の構築を急ぎ、急峻な深沢山に八王子城を築き、本拠を滝山城から移転したという。(ウィキペディアより)

     その戸取山が現在の多摩森林科学園になっている。八王子市廿里町一八三三番八十一号。前回はここを通り過ぎて武蔵陵に入ったのだが、あの時から機会があれば来てみたいと思っていた。

     多摩森林科学園は、一九二一年(大正十年)二月に宮内省帝室林野管理局林業試験場として発足し、二〇一一年で九十周年となりました。(中絡)
     その後、「分室」、「実験林」と名称は変わりながらも研究を続け、一九八八年(昭和六十三年)に「多摩森林科学園」となりました。いまのような形で一般公開を始めたのは、一九九二年(平成四年)です。
     現在は我が国最大の森林・林業・木材産業に係わる研究機関である国立研究開発法人 森林研究・整備機構 森林総合研究所の支所の一つとして、都市近郊林が有する多面的機能を発揮させるための管理・利用技術の開発や、動植物の多様性保全・生態系の役割解明、サクラの遺伝資源に関する研究などを行っています。
     また、森林総合研究所が蓄積してきた研究成果を基に、広く国民の皆様に森林・林業・木材産業についての理解を深めていただくための普及・広報活動を行うとともに、園内の樹木園・試験林・サクラ保存林などを活用して、研究資料の提供や研鑽の場としても大きな役割を果たしています。
     園内の森林は、江戸時代には幕府直轄地であり、明治以降には御料林として公的に管理・保護されてきたため、薪炭林として利用されるようなコナラの二次林は少なく、逆に、この地方に潜在的にあったと考えられる、モミやスダジイなどの常緑樹が多く見られる、という特徴があります。

     土手に咲く赤紫や白、ピンクのツツジが満開だ。「根津もいいわよね。」「根津神社は金をとりますよね。」「ツツジの時だけね。」「昔はその時期でも無料だったのよ。」ハイジは無料の時代を知っていた。館林のツツジもかなりなものだ。そう言えば妻は、越生のツツジを見に行くと言っていた。知らなかったが五大尊公園が名所らしい。
     入園料は四百円だ。但しこれは四月だけで、他の季節は三百円である。「年寄り割引は?」「ないよ。」入園料を支払うときは必ずこの問答が繰り返される。スナフキンは何度も下見を重ねたので年間パスポート(千二百円)を買ったと言う。「四回で元が取れるからな。」
     ここではサクラの遺伝子を保存するため、全国の約五百種に及ぶサクラを育てている。「この時期だから桜は余り見られないんだけどね。」スナフキンはそれを気にしているが、ソメイヨシノは終わっても、八重桜はまだ多少は見られるのではないか。

     多摩森林科学園のサクラ保存林は、サクラの名木や栽培品種の最大級のコレクションで、貴重な遺伝的資源です。しかし、江戸時代にさかのぼる伝統的な栽培品種は、異名同種や同名異種など多くの混乱を抱えています。そこで、形態調査や文献調査、遺伝子分析などから、正確な識別手法の確立に取り組んでいます。また、適切な管理手法について検討し、サクラ類の保全と将来の活用を目指す研究を進めています。

     最初は森の科学館に入る。木造二階建て九百十四平方メートル。できるだけ金属を使わず、木材を組み合わせて造った建物で、これ自体も展示物なのだ。ツキノワグマ、アライグマ、タヌキ、キツネ等の剥製、様々な樹木の幹が陳列されている。ムササビの骨格標本が面白い。
     「これは寒天かな?」相変わらずヤマチャンは面白いことを言う。桜の花をアクリルの立方体に閉じ込めてある。図書館のカードボックスかと思った抽斗には各種の種が収納されている。「カードボックスってことないだろう。」確かに図書館の目録カードはもう少し小さい。しかし今の図書館員にもこんなことを知っているのはいないだろう。
     熱心にひとつづつ中を確認しているのは若い男だ。「貰っちゃダメなんだろうな?」ダメと書いてある。但し種類の違う松ぼっくりを二三個づつビニール袋に詰めたものは無料で貰える。「こころちゃんに良いんじゃないの?」それでは三袋程貰って行こうか。「こっちの方がいいですよ。」喜ぶだろうか。
     裏の出口を出ると、林の前には池が広がっている。静かな森の中の雰囲気だ。「水がきれいだね。」おそらく湧水ではないだろうか。「こういう所にはカワセミが来るんじゃないかな?」「今それを言ってたんだよ。」すぐそばにカワセミを描いた看板が立っている。「ヤマチャンの声が大きいから鳥も寄ってこない。」少し雨が降って来た。
     「セリバヒエンソウだ。」「キエンソウ?」「ヒエン、飛燕だよ。」芹葉飛燕草。キンポウゲ科ヒエンソウ属。「蜻蛉、スゴイじゃないの。」「これしか知らないんじゃない?」空色の可憐な姿が以前から好きな花だ。明治の頃に渡来したものだと言う。
     道はなだらかな上り坂になっている。「里山の雰囲気だね。」タチツボスミレ。「スミレの種類は多すぎて。」「スミレだけで図鑑ができるんですよ。」私に分るのはタチツボスミレしかない。薄紫の小さな五弁花はヤマルリソウ(山瑠璃草)だ。ムラサキ科ルリソウ属。
     黄色の花はウマノアシガタ(キンポウゲ科キンポウゲ属)というものである。直径約三センチほどの可憐な五弁花で、根の際に生える葉が三分裂した形が馬の蹄に似ているのだそうだ。あるいは花の形が蹄につける馬沓のようだと言う説もあるようだ。一般にはキンポウゲと言い、金鳳花、毛茛と書く。
     キランソウ(金瘡小草)は薄紫の小さな花だ。シソ科キランソウ属。カキドオシ(シソ科カキドオシ属)。「茎が四角なんだよね。」昔教えて貰った記憶があるので茎を触ってみた。「そうです。シソ科の特徴ですね。」今日は久し振りに植物観察会になってきた。シロヤマブキの花も良い。
     道は少しづつ上っていく。「この位の坂道がいいですね。」「ハイキングだね。」「それってヤマブキか?」「エッ?」それらしい花は咲いていない。スナフキンが言うのは山蕗だったようだ。確かに蕗である。
     ノコンギク(野紺菊)は勿論花は咲いておらず、看板で名前を確認するだけだ。「昔、野菊って言ってバカにされました。野菊は総称だって。」姫にもそういう時代があったのだ。ノコンギクとかヨメナなどを総称して野菊と言う筈だと、確か市川で「野菊の墓文学碑」を見たときに教えられた記憶がある。
     「俺はノカンゾウが好きなんだ。」ヤマチャンはそれを畑に植えているらしい。勿論まだ花の季節ではない。野萱草。ユリ科ワスレグサ属。オレンジ色の花で、私はワスレグサの名が好きだ。立原道造に「萱草(わすれぐさ)に寄す」がある。マメ科にもカンゾウ(甘草)があるが、これは別物である。
     「フタリシズカだよ。」スナフキンが今日はやたらに詳しい。ハイジが取り出した山野草の図鑑と同じものをスナフキンもバッグから取り出した。私も別の図鑑を持っているが、重くて持ち歩くのに不便だからリュックに入っていない。二人静。センリョウ科チャラン属。「どれがふたり?」「葉っぱの付け根に二本立ってるだろう。」「そこに三本立ってる。三人静?」「三本でもフタリシズカだよ。」まだ白い花は開いていず、地味だから見つけにくい。能に『二人静』があり、静御前とその亡霊の舞姿に譬えたと言う。能は門外漢なので『日本大百科全書ニッポニカ』の記事を引用する。

     能の曲目。三番目物。古い作品とされるが、作者不明。観世、金春、金剛、喜多の四流現行曲。吉野山の神職(ワキ)は、女(ツレ)に正月の神事に供える若菜を摘みにやらせる。そこへ一人の女(前シテ)が呼びかけ、写経の供養を依頼して消える。驚いて報告する菜摘み女に静の霊がのりうつり、蔵から昔の舞の装束を出させて着る。そのとき「菜摘みの女と思ふなよ」と呼びかけつつ、同装の静自身の亡霊(後シテ)が現れて二人で舞う。義経の吉野落ちの苦難、頼朝の前で舞をまったつらさを語り、義経への尽きぬ慕情を訴え、回向を願って霊は離れていく。能面で視野のほとんどを失っている役者が、影に形の添うごとく一糸乱れずそろって舞うところにねらいがあり、技術的にむずかしい能である。[増田正造]

     所々に見る白い花はクサイチゴの類ではなかろうか。「蜻蛉はクサイチゴが得意ですね。」城西大学へ行く裏道の神社の脇に毎年咲いていたのである。「ボンヤリしちゃう」とマリオが笑うのはセンボンヤリ(千本槍)だ。キク科センボンヤリ属。これだって野菊と言えないことはないだろう。
     小さな細長い筒状の花が二つづつ下を向いているのはアマドコロ(甘野老)かと考えたが、スナフキンとハイジがナルコユリ(鳴子百合)と確定した。キジカクシ科アマドコロ属(またはナルコユリ属)。アマドコロより葉が細長いのが特徴だ。イヌサフラン科チゴユリ属のホウチャクソウ(宝鐸草)にも似ているが、後で図鑑を調べると葉の形が違った。
     かなり登ってきた。「谷が深いよ。落ちたら死んじゃう。」「死にはしないと思うけど。」八重桜もまだ残っている。「新緑がいいですね。」「晴れてればもっと良かった。」「いやいや、この濡れた感じが良いんですよ。心が洗われる。」ロダン得意の言葉だ。「緑のグラデーションが素敵なのよね。」
     「海抜二百メートル。」ロダンのスマホが教えているがホントだろうか。「たぶん気圧から判断してるんだろうけど、気圧は湿度でも変化するんですよ」と桃太郎が言えば、「GPSで位置を確認してるんだよ」とヤマチャンが言う。高尾駅の海抜が百七十一メートルであることを思えば、もう少し高いのではあるまいか。
     ジロボウエンゴサク(次郎坊延胡索)の立て札があっても、実物はない。「これかな?」桃太郎が指したのムラサキケマン(紫華鬘)だ。「筒状の花は似てるけどね。」ケシ科キケマン属。「華鬘は仏堂の装飾ですよ」と姫から補足が入る(実は後で写真を確認したところ、これはジロボウエンゴサクだったようだ。ムラサキケマンにしては色が薄いのだ。桃太郎には大変失礼してしまった)。
     米粒のような小さな白い花が密集しているのは、コゴメウツギ(小米空木)である。バラ科コゴメウツギ属。「ウツギは種類が多くて良く分らないんだ。」幹が空洞なら何でもウツギ(空木)だから、種類も多いのは当たり前か。アジサイ科に多いのではなかったか。単にウツギと言えば、アジサイ科ウツギ属のウノハナのことだ。
     「ホトケノザか?」これはヒメオドリコソウ(姫踊子草)だ。妻も先日間違えていた。珍しいものではなく、ホトケノザと一緒に早春の畑や空き地に群生する。葉が何重にも重なっているのがドレスのようだと思っていたのだが、実は命名の由来は違うらしい。今見ているのに花はついていないが、小さな花が上から見ると放射状に咲くのが、踊り子が並んでいるように見えると言うのだ。
     シソ科オドリコソウ属は本物のオドリコソウと同じなのだが、見た目は随分違う。「以前オドリコソウを見たのはどこだったでしょうか?」「野川の野草園だったんじゃないかな。」「そうでしたね。」
     斜面にはコデマリも咲いていた。十一時四十分。「腹が減って来たよ。」ちょっと離れたところで谷に向ってウワミズザクラ(上溝桜)も咲いている。バラ科ウワミズザクラ属。知らなければ絶対にサクラとは思わないだろう。白いブラシがぶら下がっているような形なのだ。私は二度しか見ていない。「あれも実がなるのかな?」若い花穂と未熟の実を塩漬にした杏仁子(あんにんご)と言うものがあるらしい。黒く熟した実は果実酒にする。
     「やっぱりヤブレガサ(破れ傘)だよ。」スナフキンが図鑑と見比べて確定した。キク科ヤブレガサ属。もっとボロボロになったようなイメージを持っていたが、これは立派な形に開いている。スナフキンも事前に見て半信半疑でいたのだ。芽出しの頃に傘をすぼめた形で立っているのを見たことがある。
     マタタビ(木天蓼)。ハンゲショウ(半夏生)のように葉が白変する。「ホントに猫が好きなのかな?」「匂いが好きなんですよ。ホントにじゃれつきます。」「外国の猫も同じかな?」「同じだと思います。」

     効果に個体差はあるものの、ネコ科の動物は揮発性のマタタビラクトンと総称される臭気物質イリドミルメシン、アクチニジン、プレゴンなどに恍惚を感じることで知られており、イエネコがマタタビに強い反応を示すさまから「猫に木天蓼」ということわざが生まれた。ライオンやトラなどネコ科の大型動物もイエネコ同様マタタビの臭気に特有の反応を示す。なおマタタビ以外にも、同様にネコ科の動物に恍惚感を与える植物としてイヌハッカがある。(ウィキペディアより)

     「これがキンランだよ」とスナフキンが指をさす。これは珍しい。金蘭。ラン科キンラン属。一本の茎から黄色い蕾が七つ出ている。前に、キンランとギンランを見たのはどこだったろう。

     元々、日本ではありふれた和ランの一種であったが、一九九〇年代ころから急激に数を減らし、一九九七年に絶滅危惧II類 (VU)(環境省レッドリスト)として掲載された。また、各地の都府県のレッドデータブックでも指定されている。
     同属の白花のギンラン(学名:C. erecta)も同じような場所で同時期に開花するが、近年は雑木林の放置による遷移の進行や開発、それに野生ランブームにかかわる乱獲などによってどちらも減少しているので、並んで咲いているのを見る機会も減りつつある。(ウィキペディアより)

     紐のような花がぶら下がっているのをキブシ(木五倍子)みたいだと思ったが、幹にぶら下げた札を見ればアラカシ(粗樫)だった。ブナ科コナラ属。どんぐりになる木だ。
     「これはアジサイだよね。」花はまだだが、さすがにヤマチャンもこれは知っている。枝にはナンバーを記した白い布が何枚も付けられている。「これはなんだい?」「ゾウムシの調査をしてるんだ。」スナフキンは詳しい。何度も下見をしているのだ。この辺りのことはファーブルがいれば教えてくれただろう。今日は札幌に行っている。たぶん今日は秋田出身者と飲むことになっている筈だ。
     下りに入った。崖の斜面の岩から細い枝が一本出ているのが不思議だ。「成長したら岩を破壊して自分も倒れちゃうんじゃないか?」「これは砂岩ですか?」ロダンの鑑定では砂岩である。「大昔は海だから。」
     「ハナイカダだ。」花筏。これも久し振りに見る。「何がイカダ?」「葉の真ん中に小さな花がついている。船に人が乗っているように見えるんだ。」「そうか。」実に不思議な花である。ハナイカダ科ハナイカダ属。別名に嫁の涙とも言う。ところで桜の花びらが川を流れる様子も花筏と言う。俳句では良く使う季語だ。

     花とは、本来は一つの枝の先端に生殖用の葉が集まったものであり、芽の出来る位置に作られる。従って通常は葉に花が付くことはない。この植物の場合、進化的には花序は葉腋から出たもので、その軸が葉の主脈と癒合したためにこの形になったと考えられる。(ウィキペディアより)

     雨は降ったりやんだりを繰り返す。「今日は一日中こんな具合か。」ガクアジサイが花をつけ始めていると思ったのはヤブデマリ(藪手毬)だった。スイカズラ科ガマズミ属。ヤハズエンドウ(矢筈豌豆)はマメ科ソラマメ属。普通にはカラスノエンドウ(烏野豌豆)と呼ばれるものだ。
     「それじゃ昼飯に向かいましょう。」サクラは大半終っていたが、山野草を見るには最適な時期だったのではないか。天気の良い日、弁当持参で一日歩いても楽しいだろう。

     山を下りたのが十二時半だ。「元号って天皇陛下が変わるたびに変えるんですか?」数学の先生も少しは歴史を知っていても良いのではないだろうか。「一世一元は明治以後。それ以前は、火事とか地震、大事件があったりしても変えたんだ。」安政七年(一八六〇)三月三日に井伊直弼が暗殺され(公式には病死)、三月十八日には万延に改元した。「おめでたいことがあっても変えました。」秩父で発見された銅が献上されたから和銅、白い雉が献上されたから白雉など。
     「日本だけのもの?」漢の武帝によって始められたと伝える。中華文明圏の朝鮮やベトナムでも用いられたが今では日本だけに残っている。しかし「ほかでも使ってますよ」と姫が言う。姫は皇紀とかイスラム暦を想定したのかも知れないが、これは元号とは別物だ。
     「万葉集って漢文で書いてるんだね、知らなかったよ。」「令和」の典拠とされる漢文は、たまたま「梅花の歌三十二首」の序文として書かれたもので、『文選』の張衡「帰田賦」からの借用であることは前回も書いた。日本で作られた漢文が漢籍を典拠とするのは常識である。
     万葉集全体は和歌(短歌だけでなく長歌、旋頭歌なども含む)で占められているから漢文ではないが、日本語を表記するための文字がないので漢字を借りた。「万葉仮名だよ。」こんな具合だ。

     銀母 金母玉母 奈爾世武爾 麻佐礼留多可良 古爾斯迦米夜母
     しろがねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも

     古くは鎌倉時代から、漢字渡来以前に日本固有の文字があったという主張がなされたことがある。主に神道家の主張で神代文字と呼ばれた。江戸時代には平田篤胤も神代文字の存在を肯定したが、貝原益軒、太宰春台、賀茂真淵などが批判した。昭和初期に流行した天津教の竹内文書は、狩野亨吉によって徹底的に批判し尽くされた。現代でも超古代史と称するトンデモ本にしばしば登場する。根拠として示されるのは全て偽書である。
     「万葉集を朝鮮語で読み解くっていうのもありましたよね。女性の研究者何人かが。」藤村由加のペンネームだったかな。李寧煕もいる。しかし現在の国語学、国文学、歴史学の世界でまともに相手にする研究者はいない。渡来人が多く存在していたから、朝鮮語由来の単語は沢山ある。しかし万葉集全体を見れば、その大半が日本語の常識で解読できるのであり、わざわざ朝鮮語を持ってこなくても良い。
     昔、動物行動学の竹内久美子が進化論に下ネタをこじつけて流行ったように、時々トンデモ本がひどく流行る時がある。注意が必要だ。梅原猛の日本古代史に関する著作も、私はトンデモ本だと思っている。

     高尾街道の街路樹に大ぶりの八重の花が咲いている。「ウコンかしら?」ハイジの言葉に「中央が赤いからちょっと違うかも」と姫が言い淀む。幹に括り付けられた札を見ると御衣黄桜だった。「こっちにウコンがある。」欝金桜だ。ぱっと見には区別がつかない。「憂鬱を連想しちゃうよね。」この字は難しくて絶対に手書きでは書けない。鬱が本字で、欝が俗字だ。気が塞ぐと言う意味もあるが、第一義には物事の盛んな様子を言うようだ。ショウガ科の多年草で、その根茎から採った染料を言う。鬱金は、金色が凝り固まっていると言う意味だろうか。
     ウコンザクラは淡い黄色で、桜の種類の中で唯一黄色の花をつける。「ウコンってカレーに入ってる?」「そうです。ターメリックですよ。」カレーに色を付ける染料である。ギョイコウザクラは淡緑色で、次第に中央が赤くなる。
     駅前交差点に着くと、スナフキンは甲州街道の方へ偵察に行き、マリーや姫たちは駅の方に向かう。私、マリオ、ヤマチャンは交差点で待機する。「なかなか、戻って来ないね。」漸くスナフキンの姿が見え、手を振るとOKの身振りをする。駅前に行った連中を呼び戻して甲州街道を西に行く。
     スナフキンが選んだのはダイコクヤというイタリアンの店だ。他にも店がありそうな場所でイタリアンを選択するのは珍しいが、姫とマリーが付き合った下見の時に入ったらしい。「旨かったからさ。」入口付近の四人席に男四人、奥の二人席にハイジとマリー、カウンターに姫と桃太郎と私が座る。
     なかなかメニューが出てこない。「メニューは?」と催促して漸く出て来た。忙しいのだろう。「俺はカレーにしよう。」桃太郎も同じものにした。ピュアモルツとカレーで千三百五十円。あんみつ姫もビールを頼む。「ジョッキじゃなくてグラスって言ってましたけど、大きいですよね。」やはりカレーが一番早い。暫くして出て来た姫のハンバーグに載せた大根おろしは白いままだ。「味は付いているんでしょうか?」その質問で初めてタレ(ポン酢?)が出された。ご飯の大半は桃太郎の皿に移される。
     「これって牛筋ですよね」と桃太郎が確認する。「そうだと思う。」牛筋カレーなんて初めてだ。私は家で作るジャガイモたっぷりのカレーが一番だと思うのだが、これも旨かった。皿を下げに来た女性店員に「美味しかった」と声を掛けると嬉しそうに微笑んだ。「どこの山に行って来たんですか?」「森林科学館。」

     店を出たのは一時四十分だ。姫はここで別れる。午後のコースは川沿いの足場の悪い道になるので、雨模様のこの日は膝の悪い姫には危ない。「旦那様に早く帰るって言ってきたんです。」
     西に向かい中央線のガードを潜ると、その下の浅川に架かるのは両界橋だ。「面白い名前だな。」高尾町と浅川町との境を示すらしい。西浅川の交差点で国道から逸れて右の分岐に入る。これが旧甲州街道だ。「新選組もここを通ったんだ。」車がすれ違えるだけの道幅しかなく、知らなければこれが本街道とは気づかないだろう。
     「警官がいる。何かな?」傘のお蔭で私には見えないが、ヤマチャンは警官に異常に反応することがある。何かトラウマがあるか。少し行くと小さな駐在所があり、丁度パトカーが出て行ったところだ。
     高尾駒木野公園の民家に入る。八王子市裏高尾町二六八番一号。「住所が裏高尾だよ。」明治二十二年(一八八九)四月の町村制では神奈川県南多摩郡浅川村大字上長房であった。昭和三十四年に八王子市に編入され、翌年、上長房の一部が裏高尾町になった。

     昭和二年に開院された小林医院(後に小林病院に改名、駒木野病院に改組)の院長の自宅として、昭和七年頃に平屋建てを建築され、数年後の昭和十五年頃に東隣に二階建てを建築して合一した戦前の日本家屋です。昭和四十九年頃の一時期には、内科の裏高尾診療所を住居兼用で開院していました。
     この家屋と土地は、平成二十一年三月に「既存施設を極力残して利用してほしい」という意向とともに八王子市に寄贈され、家屋は外観を残したままトイレ等の一部を改修しました。周囲には、枯山水や露地、池泉回遊式の本格的な日本庭園を整備し、平成二十四年四月に「高尾駒木野庭園」として開園しました。(施設概要)

     入館は無料だが、「取り敢えずこれを買ってよ」とスナフキンに言われるまま、『小仏川遊歩道の散策マップ春夏編』と『花の散策・春編』各百円を購入する。「駒木野・野草を守る会の運営資金になるんだよ。」この後歩く遊歩道は、この守る会が一所懸命整備しているのだ。手描きの図鑑が後で随分役に立つことになる。
     縁側から綺麗に手入れをされた庭が見える。しかしそんなに広い訳ではなく、ちょっとした金持ちの庭だと思ったのは無学のせいである。実は後で隣接する広い庭も見ることになるのだが、この時は知らなかった。「あそこに見えるのが病院か?」かなり大きな病院である。精神科の専門病院だ。小さな部屋には銅像が置かれていた。「小林先生よ。」部屋の中に銅像を置くのも珍しい。
     「それじゃ行こうぜ。」旧街道の雰囲気を残す建物が二三軒あるが、他には余り面影がない。「この道真っ直ぐ行くと、豆腐屋がありますよね?」桃太郎は以前この辺を歩いた記憶があるらしい。「蜻蛉も来たでしょう?」私は全く記憶がない。地図を見るとかなり先に峰雄豆腐店がある。「いつ来たんだったかな?」桃太郎はしばらく悩んでいたが、ネイチャーウォークの時だと後で思い出した。ネイチャーウォークは埼玉県生態系保護協会の主催する自然散策会で、私は参加したことがない。
     民家の塀の上から薄紫のフジがきれいに垂れ下がっている。「モッコウバラも咲いてますね。」我が家の近所でもこの花が増えて来た。川は流れていないが駒木野橋の記念碑が建っている。
     その隣の小さな公園が小仏関跡だ。八王子市裏高尾町四一九。正式には駒木野関所である。勿論建物が残っている筈もなく、手形を置いたと言う手形石、手をついたという手付き石だけが残っている。

     江戸時代、甲州道中でもっとも堅固と言われた関所です。
     天正年間(天正元年(一五七三年)から文禄元年(一五九二年))に北条氏照が武蔵国と相模国境の要衝として小仏峠の頂上に築いたのがはじまりと言われ、その後麓に下ろされ、更に北条氏滅亡後の天正十八年(一五九〇年)に関東に入った徳川家康によって、現在地に移設され整備されたといわれています。
     江戸時代の絵図によると、関所には東西に門が設けられ、敷地の北側に番所が設けられていました。東門の外には川が流れ、駒木野橋が架けられていました。関所周辺には竹矢来が組まれ、川底も深くして通行人の往来を規制していました。
     関所の警備は一時三人だったこともありますが、概ね四人体制で専従の関守が置かれていました。関守達は関所付近に屋敷地を貰い、江戸との繋がりも深く、地域の文化を担う文化人でもありました。(中略)
     明治二十一年(一八八八年)に甲州街道は小仏峠を通る道から、現在の大垂水を越える道へ路線変更されました。その後旧道を保存しようという気運が高まり、関所跡は昭和三年に国の史跡に指定されました。
     現在は旧道の面影を残し、また梅の名所としても知られ、ハイキングの人たちで賑わいます。(八王子市)

     定番の関守を勤めたのは川村文助、小野崎松次、佐藤庄太夫、落合貞蔵の四人である。甲州道中で最も堅固な関と言う割には、四人体制の警備では大したことはなかったのではないか。入り鉄砲と出女を取り締まるのが任務で、女性でも入るものは自由だった。
     大木を縦に二つ割りした標柱には「甲州街道駒木野宿」とある。ここからが駒木野宿に入る。日本橋から十二里。総戸数七十数戸の小さな集落だ。宿場の長さ十町(千百メートル)で本陣一軒、脇本陣一軒、問屋三軒、旅籠十二軒があった。問屋業務は小仏宿と分担で、月の後半を担当した。
     少し先には甲州街道念珠坂の石碑と地蔵、いくつかの石碑が並んでいる。今は殆ど坂を感じることもないが、かつては急坂だったのではないか。念仏を唱えながら歩いたのである。「山に入ってきたようだね。」しかし右手には中央自動車道が走り、前方に圏央道とのジャンクションが見える。「あのために山を削ったんだ。」
     「圏央道ができて便利になったんだよ。」「まだ運転してるんですか?」最近たびたび高齢者の運転事故が話題になるが、マリオはまだ若い。ヤマチャンの質問はちと失礼であろう。「だってボクはまだ七十一だよ。免許を返納したらゴルフに行けなくなっちゃう。」
     左に小仏川が見えるようになった。道端にはシャガ(著莪)が群生している。「きれいな花よね。」川に面した側に、古い平屋の木造建物がある。江戸時代には「ふじや新兵衛」という旅籠だった。軒下に講中を示す参詣札が無数に掲げられている。蛇滝口で水行をする講があったらしい。高尾山薬王院(真言宗智山派)の水行道場である。

     その向かいに「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」の案内石碑が建っていた。スナフキンは民家の間を抜け、畑の間の狭い道を中央線の方に向って歩いていく。坂を上ると慰霊碑があった。黒御影の慰霊碑の前に、茶色い自然石の「戦災死者供養塔」が建っていて、ペットボトルやワンカップが供えられている。
     昭和二十年(一九四五)八月五日正午過ぎ、米軍の戦闘機複数が、満員状態の列車に機銃掃射を加えたのである。死者五十二名、負傷者百三十三名。但し五十二名は氏名が判明する人だけで、実際は六十五名以上だとも言う。乗客の大半は山梨方面に疎開に向かう人たちだった。
     「あと十日で終戦なのに。」「十四日の空襲もあった。小田原でも見ただろう?」「土崎もそうだよ。」土崎とは秋田市土崎湊である。二百五十人以上が死に、父の実家も空襲で焼かれた。日本政府がポツダム宣言を受諾するのは知っていたにも関わらず、最後まで空襲を続けたのである。
     この辺りに工場などはなく、明らかに面白半分で行われた攻撃だった。「余った銃弾を捨てていったんだよ。」それもあるだろう。機関車と二両目はトンネル内に入ったものの、三両目から後ろは無防備なまま銃撃に晒された。「機関車を守るためだったんじゃないかな?」おそらくそうだろう。

     湯の花トンネルは、浅川町の荒井地摺指地区の間に、北の山から張り出している通称「猪の鼻」と呼ばれる山すそに掘られている全長百六十二メートルの短いトンネルです。四一九列車は、小仏関所跡の北側を通ってこのトンネルに向かっているところで、八王子駅の方から追いかけらるようにして来たP51に発見されたのでした。P51は高尾山から蛇滝付近で右旋回して急降下し、進行中の列車に対し南側から銃撃をあびせたのです。
     まずねらわれたのは機関車で、このために四一九列車は機関車と客車一両半がトンネルに入ったところで止まってしまいました。機関車は煙を出したが、炎上するようなことはなかったといいます。そして、P51はくり返しトンネルの外の客車に銃撃を加えた。二両目は一度銃撃を受けたものの、その後はトンネル内へ入ってしまったから無事だったのです。しかし、三両目はくり返し銃撃にさらされといわれています。トンネル内の二両目と外の三両目は悲劇の分かれ目だったようです。
     戦闘機が見えたとき、すぐ窓を閉めるように車内放送が流れましたが、満員の声にかき消され、うまく伝わらなかったようです。乗客は銃撃の合間に窓やドアからわれ先に車外に飛び出し、列車のかげ、畑の中、山の雑木林、線路の下を流れている谷川などへかくれたのでした。
     P51が飛び去り、山あいに夏の喧騒が戻った時、四一九列車の車内には荷物が散乱し、血しぶきや肉片が飛び散り、床には死者がころがるなどすさまじい光景が広がっていた。車外で撃たれた人もいたのでした。
    (高尾通信)https://www.takaopress.net/mame2-21.html

     「すぐそこにトンネルが見えるんだ。」中央線の線路に出ると左前方に確かに上下線のトンネルが二つ見える。但し当時は単線で、現在の上りのトンネルがそれだったらしい。
     広島、長崎への原爆投下、三月十日の東京大空襲を始めとする日本全土への空襲は、一般市民に対する卑劣な無差別大量殺戮であり、アウシュビッツと並ぶ大犯罪である。特に機銃掃射は人間を殺傷する目的であり、明らかに殺人罪である。しかし平和に対する罪、人道に対する罪を掲げた極東国際軍事裁判は、この大罪について一言も語らなかった。裁判が勝者による報復であったことを示すものだ。
     これは日本軍が大陸や南方戦線で犯した罪を忘れることではない。罪は平等に裁かれなければならず、両方ともきちんと記憶されなければならないのである。おそらくアメリカ人の大半はこんなことは知らないのではないか。

     米軍の銃撃ありき著莪の花  蜻蛉

     蛇滝口バス停の辺りに「上行講」の石碑が建っている。圏央道の下の高尾梅の郷まちの広場でトイレ休憩をとる。腰を下ろす場所はない。「この周辺は梅林が多いんだ。」

     旧甲州街道と小仏川に沿って、点在している梅林と梅の木を総称して「高尾梅郷」と呼ばれています。
     東から順に、遊歩道梅林・関所梅林・天神梅林・荒井梅林・湯の花梅林・するさし梅林・木下沢梅林・小仏梅林があります。(八王子市「高尾梅郷」)

     高尾山道の道標が立っている。「ここからも行けるのね。」そこから左に曲がると、蛇滝口水行道場入口の立て看板がある。「老人ホームがあるんだ。」特別養護老人ホーム「清明園」と養護老人ホーム「浅川ホーム」がある。ヤマチャンが特養についてハイジに色々質問しているが、こういうことはロダンが詳しいかも知れない。
     草むらを抜けて小仏川の対岸に渡る。水が澄んでいる。ここからが遊歩道になり、ここにもシャガが群生している。ウィキペディアによれば、「三倍体のため種子が発生しない。このことから日本に存在する全てのシャガは同一の遺伝子を持ち、またその分布の広がりは人為的に行われたと考えることができる」とされる。
     「マムシグサだよ。花は終わってるけど。」スナフキンが指さす。色が地味だから指摘されなければ私には見つけられなかった。「テンナンショウ(天南星)だね。サトイモの仲間。」「この下に芋ができるのかい?」但し有毒なものもあるらしい。マムシグサ(蝮草)、ミミガタテンナンショウ(耳形天南星)、ムサシアブアミ(武蔵鐙)等、テンナンショウ属は結構区別が難しい。ウラシマソウ(浦島草)もこの仲間だった。
     渦巻き状になったゼンマイがあった。「あれは、それが開いた形?」「そうだね。」梅林が広がっている。高尾天満宮の石碑を過ぎた辺りでニリンソウ(二輪草)を見つけた。「これだよ。」「良く見つけたわね。」「どれがニリン?」「白い花が二輪咲いてるだろう。」特段珍しい訳ではないが、見つけると嬉しい。キンポウゲ科イチリンソウ属。
     スナフキンがトウダイグサ(燈台草)じゃないかと言ったのは、似ているがちょっと違う。「この辺に燈台があるのかい?」「ネコノメソウ(猫目草)じゃないか。」トウダイグサは街中の道端でも時々見かけるが、ネコノメソウは珍しい。私が見るのはたぶん二度目だろうか。調べてみると十年前に秩父の岩根山で見ていた。正確にはヤマネコノメソウである。ユキノシタ科ネコノメソウ属。
     「私たち、レベルが上がったわね。昔はタンポポとチューリップしか知らなかったのに。」「スナフキンも蜻蛉もスゴイね。俺も覚えなくちゃいけないな。」「ヤマチャンは元々理科系なんだから大丈夫だろう?」「植物は昔から興味がなかったからね。」
     「これは何かしら?」ハイジが見つけたのは白い花を下に向けたものだ。「葉っぱが春菊に似てるのよね。」花はわりに大きめだ。マリーがスマホに向かって「葉っぱは春菊、白い花」と呼び掛けても正解が出てこない。しかし、スマホはこんなことができるのか。後でハイジが図鑑を調べてイチリンソウであることが分った。こんなに大きかったか。雨のために花をすぼめて下を向いていただけなのだ。ニリンソウと同じくキンポウゲ科イチリンソウ属だ。
     所々、足場が悪くなる。「滑らないように。」確かに姫には無理な道だ。「ラショウモンカズラ(羅生門葛)だ」とスナフキンが指さす。今日の彼はどうしちゃったのだろう。紫の筒状の花だ。シソ科ラショウモンカズラ属。これも雨で花を閉じているから筒状に見えるので、開けば唇形になるらしい。渡辺の綱に斬られた鬼女の腕に似ていると言うのが命名の由来だ。
     「オドリコソウ(踊子草)だ。」これもスナフキンが見つけてくれた。そうか、スナフキンはまだ老眼になっていないのだ。シソ科オドリコソウ属。あんみつ姫は不気味な形と言っていたが、私は妖艶だと思う。十年程前に野川で見たきりだと思い込んでいたが、その前に栃木の大平山でも見ていた。

     小仏の絲雨に浮かぶや踊子草  蜻蛉

     「それは何スミレ?」紫の小さな花を見ればスミレではない。形は明らかにツルニチニチソウ(蔓日々草)だ。キョウチクトウ科ツルニチニチソウ属。「普通はもっと大きいけど、やっぱりツルニチニチソウよね」とハイジも言う通り、大学の喫煙所の花壇で見るものより余程小さい。
     フジの大木から薄紫の花が垂れている。「その紫はダイコンの花?」「『だいこんの花』はロダンが好きな奴。」「栗原小巻が出てくるのよね。」私もそう思っていた(ドラマは見ていない)が、調べてみるとそのドラマ(向田邦子脚本)には栗原小巻は出ていない。栗原小巻と竹脇無我が出演するのは『二人の世界』と『三人家族』だった。ロダンのカラオケのレパートリーである。
     「これはハナダイコン。」「ムラサキハナナ(紫花菜)、ショカツサイ(諸葛菜)。」「オオアラセイトウ(大紫羅欄花)。」「そうとも言うの?」アブラナ科オオアラセイトウ属。中国北部では若い葉を野菜として食べる。そのため諸葛孔明が救荒作物として普及したと言う伝説に繋がる。
     遊歩道が終わり、住宅地に出てきた。山野草好きにはたまらない場所であった。野草を守る会の活動に感謝しなければならない。三時四十五分。

     駒木野庭園に戻って来た。「さっきは屋敷の方から見たんだね。」二つの池を巡る回遊路になっていて、きれいな水の中には錦鯉が泳ぐ。屋敷との間には盆栽が並べてある。「一つ百万円か?」盆栽はさっぱり分らない。
     屋敷の路地に水琴窟があるので見に行く。玉石を重ねた所に柄杓で水をかけると微かな音が響いてくる。「聞こえる?」ハイジは二度程水をかけて確認した。ヤマチャンは聞こえなかったらしい。「こっちでやってみてよ。」「聞こえた。どういう仕掛けになってるんですか?」「甕を埋めてるんだ。」庭は枯山水になっている。「鳥の声が聞こえる。」ホーホケケキョ。今年初めて聞くウグイスだ。
     庭を出て歩き始めると煉瓦造りの隧道がある。中央線を潜る隧道のようだ。「歩行者専用だね。」これは、近代遺産ではないだろうか。「何か説明を置いてくれるといいんだよ。」八王子・上野原間に鉄道が敷設されたのが明治三十四年(一九〇一)だから、その当時に造られたものではないだろうか。

     古煉瓦隧道に落つ穀雨かな  蜻蛉

     「ウツギの種類だと思うけど。」ハイジが悩む。「花は梅の形かしら。」「梅ですよ、確かに。」それなら分った。「バイカウツギね。」さっき買った『花の散策・春編』にあった。
     「セリバヒエンソウね」とハイジが指さしたのは違った。「ジロボウエンゴサクじゃないか。ムラサキケマンに似てるでしょう?」次郎坊延胡索。随分前に狭山丘陵を歩いて教えて貰った花だ。午前中の山の上では立て札だけで見られなかった。「これの大きいのが太郎坊」と桃太郎が言うが、そういうものはない。ケシ科キケマン属。ただ花が青く、後で図鑑を見るとヤマエンゴサクだったらしい。次郎坊の花はピンクに近いのだ。花は難しい。
     「これは?」民家の塀の前に植えているのはシラン(紫蘭)だ。ラン科シラン属。これを植える家は多い。

     高尾駅に戻ったのは四時十分だ。一日中振ったりやんだりしたが、大した雨でなかったのは良かった。こんなに山野草を見たのは随分久し振りで、やはりたまには良いものだ。かつての里山ワンダリングの会に戻ったようだ。一万八千歩。
     来月第二週の江戸歩きは桃太郎の担当だが、まだ案内が来ていない。「パソコンが壊れちゃって。」「取り敢えず集合は?」「保土ヶ谷。横須賀線だから間違えないで下さい。」「連休明けまでにはパソコン直して送ってよ。」
     「八王子にしよう。」二十一分発の東京行きに乗り込む。ハイジは飲まない人だからそのまま乗って行った。「私は途中で失礼しますよ。」マリオはその後の予定があるので六時頃に帰ると言う。
     八王子に降り、「あそこでいいだろう?」とマリーに確認してスナフキンが入った店は結構混んでいる。「六時から予約が入ってるので、それまでなら。」一時間半あれば良いだろう。「私はちょうど良かった。」案内されて六人が席に着いた。マリオ、スナフキン、ヤマチャン、ロダン、マリー、蜻蛉である。「アレッ、桃太郎は?」「帰ったよ。明日栃木に行くのに何も準備してないからって。」「パソコンも修理しなくちゃいけないしな。」
     ビールを注文した後、スナフキンが飲み放題千円と言うのを見つけた。「今からでもいいかな?」「このビールは入りません。だけど今はサービスタイムですよ。」六時までは酒が安くなっていて、ビールは二百九十円、酎ハイは百円、レモンハイは二百円、日本酒二合徳利は三百円である。これなら飲み放題にする必要はない。キュウリの一本付け、キャベツのサラダ、パリパリ餃子。
     ビールの後、お湯割りはサービスメニューにないので百円の酎ハイにしてみたが薄くて冷たい。今日は暖かいのが飲みたい気分だ。「俺は日本酒にしていいかな?」ヤマチャンは焼酎より日本酒の方が好きらしい。熱燗を頼んで私、スナフキンもそれに切り替える。「六杯で空になる。」二合徳利とはいっても正味一合五勺だろう。「タンパク質が足りないよ。」「刺身を食おうか?」刺身五品盛り。
     スナフキンは、「今度は差別問題関連の地を歩きたいけどいいかな」と意見を求めてくる。良いのではないか。「浅草弾左衛門とか?」「それもある。」但し東日本では西日本程、差別を意識することが少ない。「島崎藤村の『夜明け前』じゃなくて。」「『破戒』だよ。」しかし穢多・非人と呼ばれる差別の根源はどこから来たのか、実は問題は難しいのだ。
     丁度今、赤坂憲雄『漂泊の精神史 柳田國男の発生』を読み返しているところで、彼の関心と偶然一致した。柳田は、渡来人の裔で芸能や諸職をもって漂泊した者を考え、サンカや木地師を追った。かつて漂泊していた者たちが定住を決意した時、既に村々には耕作適地がなく、村はずれの貧しい土地に追いやられて差別されたと言う。
     網野善彦は、天皇や貴族に由来する由緒書をもって諸国を往返した「道々の輩」に源流を求めた。しかし中世には自由の民であり天皇権力の衰退とともに差別が発生したことを強調し過ぎた。この辺が網野史学のウィークポイントだが、この主張は隆慶一郎に大きく影響し、『影武者徳川家康』や『吉原御免状』等の傑作に造形された。
     しかしスナフキンが指摘するように白山信仰との関り、ひいては神人(じにん)等の神に仕えた者との関りも考えなければならない。神と深く関わる職業が差別の対象になったのは確かなことで、日本の差別は天皇との関係を抜きにしては考えられない。柳田はこの問題を回避したのである。
     「岡林信康の『チューリップのアップリケ』ですね。」ロダンはこういうことなら詳しい。主人公の父親は靴職人だ。歴史的に皮革を扱う職人は差別された。この歌は民放連の「要注意歌謡曲指定制度」によって放送禁止歌に指定された。岡林には、やはり放送禁止歌の『手紙』もある。「部落に生まれたそのことの、どこが悪い何が違う」の歌詞がひっかかった。『友よ』は何故だろう。私自身はこの歌が苦手だが、放送禁止にする理由は見つからない。もはや岡林の存在自体が嫌われたと思うしかないだろう。
     ついでに放送禁止歌を調べてみた。赤い鳥の『竹田の子守歌』が放送禁止になったのは、竹田と言う地名が問題だったらしい。『五木の子守歌』は「おどま勧進勧進」の勧進(乞食の意味)が忌避された。ジャックスの『からっぽの世界』は、「僕おしになっちゃった」の「唖」が差別用語か。美輪明宏の『ヨイトマケの唄』は、土方やヨイトマケが嫌われただろう。ピーター・ポール&マリーの『パフ』は意外だった。私がギターのアルペジオ(分散和音)を覚えた歌だが、童謡ではないのか。
     差別、放送禁止用語、反戦など理由は様々だろうが、実に恣意的な指定だと言わざるを得ない。要注意歌謡曲指定制度は昭和五十八年(一九八三)に廃止され、指定後五年間有効という期限が終わった昭和六十二年(一九八七)から六十三年頃にこれらの指定はなくなった。
     つい三十年前まで表現の自由なんてなかったのである。と言いながら、今でも放送禁止用語というやつが生きていることに気が付いた。法的に規定されたものではないが、業界内の自主規制と言う言葉狩りは放っておくと際限なく広がって行く。この種の禁止用語は、ワープロの辞書でも変換対象にならない。
     六時まで飲んで一人二千円。まだ六時だ。「もう一軒いいだろう?」ロダン、ヤマチャン、マリーも帰り、スナフキンと二人で別の店に入る。

     四月三十日に今上は退位して上皇になり、五月一日には新天皇が即位した。世間は予想通りのお祭り騒ぎになった。引っ掛かるのは上皇后の称号だ。皇太后という称号があるではないか。皇嗣殿下の称号も違和感がある。皇太弟で何故悪いのか。皇位継承順位からすれば、歴史的には皇太子でも構わない。日本の伝統を盛んに言い立てる連中が、こういう所で日本語の伝統を無視して新語を造る。

    蜻蛉