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    近郊散歩の会 第二十二回 調布

    投稿: 佐藤 眞人 氏 2019.06.12

     旧暦四月二十一日。蚕起食桑。三十度を超える予報だ。今日はあんみつ姫の企画で、集合は京王線つつじヶ丘駅である。鶴ヶ島を八時十九分に出て、池袋・新宿を経由して京王線に乗り換える。京王線の乗り場が分り難いのは田舎者のせいだろう。武者小路実篤の記念館に行く予定なので、電車のお供には関川夏央『白樺たちの大正』を持ち込んだ。再確認のためである。
     つつじヶ丘には母の叔父(伯父でもあるが説明が面倒だ)の家があったので、二十年程前までは毎年正月に来ていた。東京在住の(我が家は埼玉だが)母方の一族が全員集合するのである。母は毎年、台湾粽と称するものを作って持参した。確か甲州街道の角に交番があってそこから右に行くのだったが、もう今では辿り着けないだろう。
     九時三十八分に着いた。ファーブルがタイ土産の煙草をくれた。銘柄は日本のMEVIUSだが、パッケージが過激だ。煙草を吸い続けていると、こんな病気になるという写真を掲載しているのである。それにしても北海道に行き、タイにも行き、忙しい男だ。「今日を入れて三連荘で歩くんだ。疲れちゃうよ。」スナフキンも忙しい。
     十時丁度の電車で桃太郎が現れ、今日の参加者は十人に決まった。あんみつ姫、マリー、ノリリン、マリオ、スナフキン、ファーブル、ヤマチャン、ロダン、桃太郎、蜻蛉である。日差しがきつく、既に暑い。

     南口に出て、路地を右に入る。左折の車を先に通したのだが、狭い道の前方に軽自動車が駐車していた。ハザードランプは点滅しているが運転手はいない。そのため車は前に進めない。駅から五分も離れていないのに、畑や雑木林が残っている。広い空き地はマンション建設予定地だ。「下見の時はこんな風になってなかったの。」
     角にあるのが金子稲荷神社だ。調布市西つつじヶ丘四丁目九番三号。境内は殆ど手入れされている気配がない。後ろの方でクラクションが鳴った。「業をにやしたんだね。」随分忍耐力のある人だった。
     江戸時代から存在していた神社だが、神社合祀政策によって金子厳島神社に合祀され、昭和十一年にこの場所に再建されたと言う。拝殿前の狐の像は、二体とも割れた後を修復したものだ。「もう少し上手く修復してほしいよな。」
     その隣が常楽院だ。調布市西つつじヶ丘四丁目九番一号。元は深大寺末の蓮蔵寺(廃寺)があった場所で、戦後、上野不忍池付近にあった寛永寺末の常楽院が移転してきたのである。天台宗。江戸六阿弥陀仏の第五番だ。大分前に、西ヶ原の無量寺で六阿弥陀仏の第三番を見たことがあって、覚えていた。行基が一本の木から一夜のうちに六体の阿弥陀仏を彫り上げ、それを六つの寺に安置したとされる。春秋の彼岸にお参りすれば利益があると信じられ、これを巡るコースが江戸時代中期に流行した。
     山門を入った正面に、『思い出のアルバム』の大きな歌碑が建っていた。「俺知ってる」とファーブルが冒頭部分を口ずさむ。姫もノリリンも思い出したようだ。「俺は学校で習ったよ」とヤマチャンは言うが私には記憶がない。それにしても静かな境内で大きな声を出してはまずいだろう。
     「学校で習った歌は全部覚えています。これは習っていません」と姫が断言する。「スゴイわね、その記憶力。」「NHKの『みんなのうた』じゃないの?」とマリーの言う。作詞は増子とし、作曲は本多鉄麿である。しかし私はこの歌に殆ど記憶がない(自宅に戻ってYouTubeで確認するとなんとなく聴いたことがあるようでもあった)。

     一九六一年に『幼児のためのリズミカルプレー』(フレーベル館)で発表された。その後幼稚園教材としてビクターレコードからレコード化され、保育の現場で歌われてきた。
     テレビ放送では、一九八〇年二月に『とびだせ! パンポロリン』で「思い出のアルバム」の曲名で放送。『パンポロリン』の当時のお姉さん役である日本コロムビア所属のアニメソング歌手・かおりくみこが、中井幹子とコロムビアゆりかご会と共に歌唱、編曲は小森昭宏が手掛け、放送の際のアニメ映像はひこねのりおが担当した。
     その翌一九八一年に『みんなのうた』で「おもいでのアルバム」の曲名で放送。歌唱はダーク・ダックスが担当、編曲は服部克久が手掛け、同番組のテレビ放送時のアニメ映像は鈴木康彦が担当した。(ウィキペディアより)

     一九六一年に私は小学四年生だから、保育の現場の歌は知らない。一九八〇年は私が結婚した時だから幼児番組を観ている筈がない。一歳違いのヤマチャンの学校で習ったと言う記憶は間違いだと考えて良いだろう。ファーブルはどこで知ったのだろう。幼稚園児が卒園するまでの季節を歌ったもので、卒園式に歌われるようだ。それなら息子たちが歌ったのを聞いたことがあるかも知れない。その歌碑がなぜこの寺にあるかと言えば、作曲の本多鉄麿(慈祐)がこの寺の住職を務めていたからだった。ついでだから一番の歌詞を掲げてみるか。

    いつのことだか思い出してごらん
    あんなことこんなこと あったでしょう
    うれしかったこと おもしろかったこと
    いつになっても わすれない

     屋根の棟瓦に光る紋にロダンが気付いた。「菊花紋ですよね?だけど何かついてる。」菊花の真ん中に三ツ星が浮かんでいるようで、これは見たことがない。
     寺を出て住宅地の中を歩くと、今年初めて見るヤマボウシが咲いている。「何の花?」「ヤマボウシ。」ヤマチャンは前回から花の名前を覚えようとしていて、メモを取る。「地味な花だな」とスナフキンは言うが、梅雨時の雨に濡れるヤマボウシは清楚で好きだ。「今年のヤマボウシは鼻が小さいんですよ。」時期的にまだ少し早いのではないか。
     「ハナミズキはこれからかい?」「ハナミズキが終わって、ヤマボウシが咲くんです。」「それじゃ実が生っている頃か?」ヤマチャンは無茶苦茶なことを言う。「実が生るのは秋ですよ。」それにしても時期的に少し早くはないだろうか。花(実は苞)はまだ少ない。
     「カシワバアジサイです。」葉が柏の葉に似ているのだ。真っ白な花が美しい。「その下のピンクの花は?」「これもアジサイの類だと思うけどね。」
     入間川分水路の取水口。地図を見ると、溢れた水はここから地下を西に向かって野川に吐き出す。「入間川って埼玉じゃないのか?」私も不思議に思ったが、私たちが知っている荒川水系の入間川とは別で、イリマガワともイルマガワとも読むらしい。深大寺の辺りに発して約五キロを流れて野川に合流する短い川だった。

     入間川(いるまがわ)は、東京都の主に調布市を流れる多摩川水系野川支流の一級河川。上流部は中仙川(なかせんがわ)と呼ばれている。
     行政上の正式な読みは「いるまがわ」であるが、流域の地名(町名)の「入間町」は「いりまちょう」(ウィキペデイアより)

     ここから川に沿って歩く。水は少ないが透明度は高い。ザクロの朱色の花が咲いている。「紅一点だよ。」「何それ?」「万緑叢中紅一点の由来になった花。一面の緑の中に、たったひとつ紅い花が咲いている。」王安石「柘榴詩」によると言われるが、実は王安石作というのは証明されていない。

     万緑叢中紅一点  動人春色不須多 (人を動かす春色は須く多かるべからず) 

     神明橋を渡って武者小路実篤記念館に着いたのは十時四十分頃だ。調布市若葉町一丁目八番三十号。初めて来るには結構分り難い場所だ。つつじヶ丘駅と仙川駅を底辺とする二等辺三角形の頂点になる。住宅地の中に、ここだけ広大な庭園を持っている。屋敷の見学は十一時からだと言うので、その前に記念館と庭を見ることになっている。入館料は二百円だ。「十一時五分まで見学してください。」
     実篤がここに住み着いたのは昭和三十年(一九五五)七十歳の時で、昭和五十一年(一九七六)九十一歳で亡くなるまで住んだ。実篤の死後、遺品ともに調布市に寄贈されて公園として整備された。
     「女房が酷かったんだよ。」私が言うのは、大正十一年(一九二二)に離婚した最初の妻・竹尾房子のことだ。高村智恵子と同じく「青踏」の同人である。日向(宮崎県児湯郡木城町)に開いた新しき村を混乱に陥れた一番の責任は、明らかに我がままで浮気性な房子にある。房子が村民の若い男と一緒になったとき、実篤はすでに恋愛関係にあった飯河安子と暮らすことができたが、房子との離婚は随分後になる。こういうことを私は関川の本で知った。展示している写真に安子はいるが房子はいない。
     「今でも新しき村があるんですね。知りませんでした。」姫はとてもステキなことのように思っているのだろう。大正七年(一九一八)に開かれた日向の村は昭和十四年(一九三九)ダム建設のために水没することになった。主力メンバーは日向を捨てて埼玉県毛呂山に移り、東の村と称して今に至っている。日向に残ったのは房子と杉山正雄である。昨年時点で日向には三人、毛呂山には八人が暮らしている。

     木城村のこの地は、高い山々に挟まれ、三方を川で囲まれた土地であったため、外部との行き来は舟に頼っていた。約二〇年後、その地形のゆえに、この地に発電所が建設されることとなり、村の土地の半分がダムの中に沈むことになった。
     一九三九年(昭和十四年)、埼玉県毛呂山町に新たな土地四千坪を得て、「東の村」として再出発することになり、宮崎県の村は、残った土地に二家族が住み、「日向新しき村」として現在もその活動を続けている。
     「東の村」の建設は、新しき村東京支部との協力のもと進められた。井戸が掘られ、住居が増えるに従って入村者も徐々に増えた。最初は自活を目的に米、麦、野菜を作り、乳牛も育てられた。(中略)
     一九七六年(昭和五十一年)武者小路実篤が死去。しかしその後も、村の生産活動、絵画や陶芸また毛呂山町主催のマラソンなどに参加するなど、多彩な活動が行われた。
     現在は村内生活者も少なくなり、また老齢化しているが、稲作、鶏卵、シイタケを中心に生産活動は続いている。
     さらに、現在村内に大規模な太陽光発電のパネルが設置されている。(一般財団法人新しき村「村の歴史」)http://atarashiki-mura.or.jp/rekishi/

     しかし新しき村は最初から失敗する運命に決まっていた。「有島武郎は?」「新しき村は最初から失敗を願うと皮肉っていた。有島自身は自分の農場を解放したけどね。」ファーブルは北海道の有島農場を知っている「あの時代はコミューンとか、そういうものが流行ったんだよ。」第一次大戦と第二次大戦の戦間期における世界的な動向である。ヨーロッパは第一次大戦で疲弊し、一方革命を経たロシアは脅威だった。そうしたものへの反応のひとつの形であったことは間違いない。有島自身は、革命が必然的で、その時に自分は生きている価値のない階級であると覚悟していた。

     今度出来てきた施行案は土地は皆のものであるとして小作株といふのを持たしてあるので、そのため公有になつても実際の状態は私有制度だといはれるのであります。忠告してくれる人はその小作株は一応買取つて了つてそれの転売をも防ぎ利益配当の不平等もなくするやうに――そして名実ともに公有にせよといつてくれるのであります。土地の利益と持株の利益とを別にして了ふことも必要と思つてゐますが、兎も角充分に案に付き練りました上で、農園の総会に提出したいと考へてゐるのです。農民自身が自身をトレインするものでもつと自由な共産的規約に致しておきたく思つてゐます。今迄に例がないのでクリエイトするより仕方ありません。この農場は共産農園と名付けることを望んだのでしたが共生農園といふ名になりました。
     私はこの共生農園の将来を決して楽観してゐない。それが四分八裂して遂に再び資本家の掌中に入ることは残念だが観念してゐる。武者小路氏の新しい村はともかく理解した人々の集まりだが私の農園は予備知識のない人々の集まりで而かも狼の如き資本家の中に存在するのであります。併し現在の状態では共産的精神は周囲がさうでない場合にその実行が結局不可能で自滅せねばならない、かく完全なプランの下でも駄目なものだ――この一つのプルーフを得る丈けで私は満足するものでこの将来がどうであるかといふことはエッセンシャルなことゝは思つてゐないものであります。(有島武郎「農場開放顛末」)

     形は様々だが、現状に満足できず自己改革としての修養や社会改造へと青年層を駆り立てる、不思議な熱病のようなものが時代を覆っていた。岡田虎二郎の『岡田式呼吸静座法』がベストセラーになるのは明治末年から大正にかけてであった。阿部次郎は大正三年に『三太郎の日記』を発表し、倉田百三は大正五年に『出家とその弟子』を発表した。宮沢賢治が毎日法華経の読経を始めるのが大正四年頃である。
     また柳田國男は高木敏雄とともに大正二年(一九一三)雑誌『郷土研究』を始めた。大正四年(一九一五)には、後に五一五事件に関係する橘孝三郎が「新しき村」に先駆けて、兄弟村農場を開いた。

     大正中期、第一次大戦の影響で日本が異常な好況に見舞われ大戦バブルの様相を呈したとき、生活向上と中等教育の普及とともに、市井の青年たちは自我拡大を強く意識した。彼らは何のために生きるか、どう生きるかを真剣に考え、生活の「改造」を模索した。それは月給取りという階層が全就業者の五パーセントを超えた大正七、八年頃に生じた現象で、たちまち巨大な何となって日本社会をおおった。青年たちは文学に生き方のヒントをさがし、指針をもとめようとしたのだが、そのうちの一部は「白樺」の熱心な読者となり、さらにそのうちの意志的な分子は「新しき村」に身を投じた。(関川夏央『白樺たちの大正』)

     雑誌『改造』の創刊が大正八年(一九一九)だったことも象徴的だ。知的分子の誕生の一方、「大衆」が生まれたのもこの時代だった。講談社の『少年倶楽部』が大正三年、『キング』が大正十三年に創刊されている。大衆の誕生によるヨーロッパ精神の危機について、オルテガが『大衆の反逆』を書いたのは昭和四年(一九二九)のことである。
     橋川文三はもう少し早い時期の明治三十年代に、日本人の精神構造に大きな変化が生じたのではないかと考えている。石川啄木『時代閉塞の現状』が書かれたのは明治四十三年(一九一〇)であった。

     たとえば、二十世紀に入ったばかりの日本が当面した諸問題のうち、もっとも重大なものとして、くりかえすようだが、やはり帝国主義の問題をあげざるをえない。それはすでに常識といってよいことがらであろうが、しかしその帝国主義という「二十世紀の怪物」に直面したときの日本人の態度が全体としてどういうものであったかという問いになると、すでに必ずしも明快に説明しにくいところがある。・・・・・
     何かがこの時期に巨大なかげりのようなものとして日本人の心の上を横切り、それ以前とは異なった精神状態に日本人をひき入れたのではなかろうかという印象を私はいだいている。精神的な大亀裂(シズム)に似たものがあったのではないか、そしてそれ以来、日本人はそのことに気づかないまま、不思議な欲望に次々と操られ始めたのではないだろうかというような感想である。(橋川文三『昭和維新史試論』)

     鹿野政直は、大本教を中心とした創唱宗教の拡大、青年団運動、大衆文学を取り上げ、その底流を探った。それは土俗的精神への回帰である。

     瞥見したこれらの事例は、それぞれの方向をとっての、歴史の断面にすぎないであろう。だが、それらはいずれも、未来がとざされた場合の、ないしとざされたと意識された場合の、さまざまの反応を示している。炯眼の作家夏目漱石が、作品『明暗』(一九一六年)で、上流階級への罵倒者・無籍者・朝鮮へのながれ者小林として形象化したような気分が弥漫しはじめ、紳士社会をおびやかしたといってもよい。いいかえれば、さまよいだした人心がどこへゆくかは、この時点ではまだ計測不能であった。だがいかなるかたちの〝改造〟をかという点では、明確な構想へと結晶しないままに、人心はたしかに、状況の打破へと大きく流れだしはじめた。(鹿野政直『大正デモクラシーの底流』)

     橋川も鹿野も、こうした現状打破へのメンタリティが、やがて昭和の国家主義に行き着いたとみているのだ。後に濱口雄幸首相を狙撃する佐郷谷留雄が、一時期兄と共に「新しき村」に入村しているのも象徴的だ。
     資本主義への反感、敵意が「近代批判」として表れた。「共同体」には、人によって様々な意見があるが、ナチスが国家共同体、民族共同体を標榜したことは忘れてはならない。
     「改造」を「改革」と読めば、小泉改革以来の日本と比べて現代の話であってもおかしくない。大正時代には大衆が「改造」を志し、現代日本ではお上によって「改革」がなされた違いだけだ。資本主義は既に臨界点を越え、民主主義が明らかに衆愚政治に堕した現在、私たちは「とざされた」と意識しないではいられない。ヨーロッパにおける「極右」政党の躍進、児童虐待、無差別殺人への衝動の背後にあるのは、出口の見えない閉塞感ではないだろうか。

     話が飛び過ぎた。耕作適地は既に先祖代々住む村人が押さえていたから、実篤が購入した土地は開墾もままならぬ荒れ果てた土地だった。「実篤の思想に感激した連中が集まったけど、大変な暮らしだったんだよ。」志願した村民に農業の経験のあるものはいなかった。つまり知識のないまま、「情熱」だけで動いても成果は上がらない。

     初期数年間の「新しき村」の食事の貧しさは、当時の農村・山村の一般的レベルからみてもはなはだしかった。・・・・・少し後、これも大正という時代の思潮を象徴するような精神修養と社会奉仕を旨とした団体「無我苑」の主催者で、一時河上肇に多大な影響を与えた伊藤證信が村を訪問した時、伊藤は「村の食事の貧しさだけは比類がない」といった。(関川『白樺たちの大正』)

     それでも毎月五の日は休み、そのほか村の創設記念日でロダンの生誕日の十月十四日、クリスマス、四月八日の釈迦生誕日、八月二十六日のトルストイ生誕日も休日にした。農繁期であっても休みは必ず取られたから、これでは農作業はできない。必死で働く者は疲れ果て、適当にやっている者は余力があるから夜に実篤の元に集まって芸術談義をした。結局、実篤の原稿料収入だけが頼りだった。
     実篤は金を稼ぐために原稿を書きなぐった。私も小学校から中学にかけて数冊読んだ。その結果、実篤はアホであると結論づけた。ジャガイモやカボチャの下手な絵を描き、下手な詩を添えた色紙はどれだけ売れたのだろう。「仲良きことは美しき哉」は誰でも知っている。

     ・・・・彼らはたいてい五〇年代末か六〇年代はじめに小学生であったとき、実篤の『真理先生』や『馬鹿一』をジュニア版文学全集かなにかで読まされて、なんてばかなことを書く大人がいるものだろうと思い、直哉の『小僧の神様』や『清兵衛と瓢箪』では、こんな話のどこがおもしろいのかわからないと嘆いた経験を持っていた。コドモとはいつの時代でもそういうものである。そして六〇年代とはそういう時代であった。(関川夏央『白樺たちの大正』あとがき)

     これはほとんど私の経験である。お陰で私は有島武郎以外の白樺派には縁がなかった。「これも知ってますよ」とロダンが言うのは「この道より我を生かす道なし この道を歩く」である。こういうものから私は相田みつをを連想する。その「詩」と称するものは単純な処世訓の垂れ流しに過ぎない。
     「『愛と死』も実篤なんですね?知りませんでした。」その映画のポスターが貼られている。ヒロインは栗原小巻、脚本は山田太一だが、昭和四十六年(一九七一)の時点で実篤の小説を映画化する感覚が分らない。当時の私は原則として東映任侠映画と寅さんとロマンポルノしか見ないことにしていたから勿論知らない(原則だから例外もあるけれど)。「『愛と死を見つめて』?」ロダン、それはなんぼ何でも違うだろう。例外的に私も見ているのは吉永小百合の映画だったからだろう。
     奥の図書室には白樺派の作家の著書や、雑誌『白樺』の復刻版等が並んでいる。女性司書(だろうと思う)が一人暇そうにしている。その隣の休憩室で冷たいお茶が飲めるのが有難い。展示室に戻って、「冷たいお茶が飲めるよ」と報告する。
     約束の時間少し前に外に出て一服した。敷地内ではなく、道路に出たのだ。敷地は道路で分断されているので、地下道を潜って五千坪と言われる庭に入る。鬱蒼とした林の中で、淀んだ池には錦鯉が泳いでいる。黄色のアヤメのような花(花菖蒲かカキツバタか)が咲いている。
     屋敷の方に行くと、オジサンとオネエサンが掃除をしている。「十人ですがいいですか?」オネエサンがオジサンに確認を取る。床の耐荷重の関係で十人を超えると一度には入れないのだそうだ。「床は全部木で組んでるんですが、今はそれを修理する職人がいないんですよ。子どもたちが飛び跳ねてもダメです。」「写真は良いですか?」「ダメです。」
     平屋の屋敷は客間、仕事部屋、居間の三部屋があるだけだ。部屋の中には入れないから入口から見渡すだけである。「文庫本がやたらにあるな。」「自分のばっかりだ。」角川、新潮文庫等の自著が複本で並べられている。「客に配ったんじゃないかな?」仕事部屋の椅子にはちゃんちゃんこが掛けられ、机の上には大きな硯や筆が並べられている。
     十分ほど見て外に出てテラスから屋敷の中を覗き込む。「ロダン岩だってさ。」机に置かれた石ころに「ロダン岩」と書かれているのだ。白樺の連中はオーギュスト・ロダンを敬愛していた。ロダンの名を日本中に知らしめたのは『白樺』の功績であろう。

     石河内の対岸、城と呼ばれる「新しき村」の建設地を大きく蛇行して囲む小丸川の姿は、河口まで二、三十キロしかない地点だというのに変化に富んでいた。河幅は「石を投げて届くか届かないほど」、つまり六、七十メートルと広く、浅瀬には大岩が点在している。それが百メートルもくだると蒼みがかった水の底さえ見えない深い淵となった。根元のくびれた半島の形をした村域を流れがめぐる千二百メートルほどのあいだに、浅瀬が四ヵ所、淵が五ヵ所もあった。もっとも東側、蛇行の突端部にあったひときわ大きな奇岩に、実篤は「ロダン岩」と命名した。(関川『白樺たちの大正』)

     この川に隔てられているため、物資の運送は困難を極めたのである。しかし私は実篤に同情的でないので、余り見るべきものない。
     そして庭に出る。池に泳いでいるのはコイではない。「ニジマスって書いてたよ。」ニジマスを飼う池は珍しい。

     昼食はバーミヤンだ。調布市西つつじケ丘 四丁目三十番七号。十二時少し前だがまだ空席は充分にある。案内された場所は八人席なので、隣の四人席にスナフキン、ファーブル、私。残り七人が八人席に分れて座った。
     「これがいいんじゃないか?」「エビチリとチンジャオロースか、ホイコーローか迷うね。」おかずの組み合わせを選べる弁当が値段も手ごろだ。「ビールのつまみにもいいよな。」しかしダメだった。「それはお持ち帰りだけになるんです。」なるほど、メニューにちゃんと書いてある。結局スナフキンとファーブルは野菜たっぷりタンメン(六百四十九円)、私は五目麺(六百九十九円)にした。そしてビールは一番搾りが四百五十円。
     向こうのテーブルでは桃太郎が相変わらずスマホのアプリでビールの割引を使っている。「それなら俺もダウンロードしている」とスナフキンが調べてみたが残念ながらバーミヤンの割引はなかった。桃太郎が使ったのは別のアプリで、スナフキンのスマホを借りて設定してくれた。これで割引になるのだが、一度注文してしまったから伝票の修正が必要になる。
     食べ終わって会計しようと思っても伝票修正がなかなかできない。スナフキンが再三催促して漸く修正できた。先に会計を済ませた桃太郎が、六十歳以上は五パーセント割引になると戻ってきた。私たちは全員それに該当する。しかし折角三人で釣り銭のないようにまとめたのに計算し直すのは面倒だ。「お釣りを分ければいいよ。」
     特に証明は必要なく、レジで申告するとプラチナパスポートと言うカードを渡される。すかいらーくグループの店でこれを提示すれば、いつでも割引になるのだ。使える店はバーミヤン、ジョナサン、夢庵、ステーキガスト、グラッチェガーデンズ、藍屋、chawan、かつ久である。十二時半に店を出る。

     ノリリンは片陰を求めて飛び跳ねる。それにしても暑い。姫が少し道に迷った。「京王線の北側に出たいんですけど。」「それじゃ向こうだよ。」畑の中の道を行き、京王線の踏切を割って甲州街道に出る。右に入る道に佐須街道の表示が見えた。柴崎駅入口を過ぎ、野川を越えると旧甲州街道との分岐になるが、私たちはそのまま国道を西に向かう。
     住所表示は国領になった。武蔵国の国衙領だったことに由来する地名だ。「高田純次がここで生まれたんだよ。」スナフキンはおかしなことを知っている。調べてみると確かに昭和二十二年一月、国領に生まれている。甲州街道布田五宿(国領宿・下布田宿・上布田宿・下石原宿・上石原宿)の最も江戸に近い宿である。宿と言っても本陣も脇本陣もない小さな宿場だ。五宿で問屋を分担するから、六日を勤めればよい、
     そして着いたのが国領神社だ。調布市国領町一丁目七番一号。一時二十分だから、昼飯の後五十分程歩いたことになる。
     神明鳥居だから神明社の系統だろうかと思ったが、元々は鎌倉時代から多摩川の畔にあった第六天社(第六天神を祀る)と神明社(スサノヲを祀る)が合祀されたのである。スサノヲを祀る神明社と言うのは珍しくないだろうか。
     多摩川の頻繁な洪水のために寛永十七年(一六四〇)に第六天は八雲小学校裏の都営住宅の辺に移転し、明治の神仏分離で国領神社と名乗った。第六天が神仏混淆の神だからである。同じ時に神明社は現在地に移転した。しかし戦後、都営住宅建築計画が持ち上がり、昭和三十八年(一九六三)国領神社をここに移して合併したのである。
     主祭神は神産巣日神(カミムスヒノカミ)、それに天照大御神(アマテラスオオミカミ)と建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)を配している。カミムスヒは出雲系の祖神だと説明する人もいる。
     それ程広くない境内に「千年乃藤」と名付けられたフジの巨木がある。「ホラ、上まで伸びてる。」藤棚の上に巨大な幹が突き抜けているのだ。解説を読むと、樹齢は千年ではなく四~五百年というところだ。

     以前は大人ふたかかえ以上の欅(ケヤキ)の木にからまり、現在の甲州街道の方まで延びて、藤の花を咲かし実を生らしていました。
     しかし、落雷のために枯れ、倒木の恐れが出てきたので、藤の木を保護するために欅の木の代わりに電柱を二本立て、鉄骨製の藤の棚を昭和四十七年四月に造りました。
     この藤の棚は、高さ約四メートル、面積約四百平方メートルあり、棚一面に藤の枝が広がっています。

     桃太郎はここでも御朱印を貰うために社務所に入って行った。もう随分溜まったことだろう。
     三鷹通りを越えて少し行けば、白い長い土塀が伸びている。「何だろう?」「民家じゃないよね。」塀は三百メートル程続き、布田天神前の交差点を右に曲がれば入口があった。大正寺だ。真言宗豊山派。調布市調布ヶ丘一丁目二十二番一号。

     この寺は、古くから布団小島分の上布田宿境にあった三栄山不動院寿福寺(新義真言宗)、下布田の紫雲山宝性寺(新義真言宗)、上布田の広福山常行院永(栄)法寺(新義真言宗)の三寺を合併し、大正四年創設されたものである。現本堂前に、大正四歳次乙卯三月一九日銘の三寺の碑に、その由来を記している。(『調布市百年史』)

     大正時代に創られたから大正寺と、お手軽な命名をしたのである。山門は竜宮門だ。一階部分が漆喰を固めた袴腰になった楼門である。「この門は黄檗宗でしたか?」ロダンは鴎外と太宰治の墓がある三鷹の禅林寺を思い出したのだろう。あそこは確かに黄檗宗で、門は竜宮門だった。しかし特に黄檗宗に限ったものでもない。
     何となく記憶があるようだったので記録をひっくり返すと、平成二十二年の十月に講釈師の案内で深大寺付近を歩いた時(江戸歩き番外編)に寄っていた。あの時は調布駅北口から天神通りで鬼太郎や猫娘の像を見ながら来たのである。
     表側には金剛力士。「阿吽が左右逆じゃないですか?」ロダンは細かいところを見ているが、向かって左が阿、右が吽形になっている。左右の別はどちらもあるのではなかろうか。内側には持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王が並ぶ。
     中門の前にはお掃除小僧が二人いる。私はこれの意味が分らなかったのだが、台座に「十難掃出」とあるので納得する。姫が引き戸を開けて中に入る。ひと気のない静かな境内だ。
     「あのお釈迦様は肋骨が浮き出ている。」叢の中で、煉瓦の台座に結跏趺坐するシャカは骨と皮だけになっている。「苦行してるんだな。」釈迦苦行像(断食像)は初めて見た。出家後六年間の断食を含めた苦行中の姿である。「ガンダーラ系にあるんですよ」と姫は詳しい。「即身仏を思い出しちゃったよ」と言うのはヤマチャンだ。しかし釈迦はその後、苦行は無益だと悟ることになるのだから、こういう像は本来仏教としてはいかがなものだろう。「涅槃像だね。」ヤマチャンは何を言うのかと思えば、その後ろに確かに寝釈迦があった。
     「おかしいですね。布田郷学校の碑がある筈なんですけど。」姫は首を捻るがそんなものは見当たらない。郷学校とはどこかで見た記憶があるがどこだったか思い出せない。仕方がないので布田天神に向かう。大正寺の塀が右に曲がる角から、天神の境内はまっすぐ伸びている。寺と反対側には大きなビルが見える。「何だろう?」「会社じゃないかな。」しかしこれは電気通信大学だった。
     布田天神社。調布市調布ヶ丘一丁目八番一号。布田五宿の総鎮守である。延喜式神名帳にある式内社で、元はスクナヒコナを祀ったが、文明年間に多摩川の大氾濫があって現在地移転した。その際に菅原道真を合祀したのである。
     法被を着た男たちが大勢集まって道を塞いでいる。何かの縁日だろうか。神楽殿では雅楽を演奏している。たまに聴く篳篥や笙の音色は素敵だ。「何かのお祭りですか?」「毎月二十五日が例祭なんです。」桃太郎は御朱印を貰いに行った。
     「ありましたよ。」姫、大正寺の墓地の入り口にある筈の布田郷学校の碑を探していたのである。さっきの大正寺の塀が曲がるところから、神社の東側が墓地であり、その入り口に碑が建っていた。三つの寺を合併したから、大正寺の敷地はやたらに広いのだ。実はこの碑も平成二十二年に見ているのだが、私の記憶は全く残っていなかった。

     布田郷学校は、発足するにあたり、原豊穰等五宿の有力者たちが中心となって、近隣の村々の協力を得て開校したものであるが、この郷学校は養豚所を経営することによって得た利益を学校の運営費にあて、授業料等一切とらなかったという特色のある学校であった。養豚所の経営不振から明治七年閉鎖し公立布田学校(現在の第一小学校の前身)となるまで、公立学校に代わる重要な役割を果たしてきた。(調布市教育委員会掲示より)

     「養豚場をやってたのか?」学費を無料にしたのが先駆的な試みだった。明治五年の学制では、小学校の授業料は月に五十銭であった。明治四年のかけ蕎麦の値段が五厘だった。これを駅の立ち食い蕎麦屋の三百円程度と比較すれば、五十銭は三万円となる。これでは負担できない。初期の就学率は三十パーセント程度にとどまっている。
     最初は生徒四十名で始まり、最盛期には二百名まで増加した。明治四年(一八七一)頃から全国で養豚が流行した。郷学校はその利益を当てにしたのだが、養豚経営は一種の投機現象となって破産者も多く出た。また明治六年(一八七三)には人口密集地における豚の飼育が禁止された。そして郷学校の養豚場も破綻する。

     しかし、布田郷学校の終わりはあっけなくやってくる。明治七年、ついに布田郷学校を支えていた郷学校種豚会社が破綻、布田郷学校も閉鎖となる。わずか三年余りの間であったが、混沌とした時代にあって地域の子どもたちの教育に果たした役割は果てしなく大きい。全国一律の初等教育機関尋常小学校の設立は明治十九年、尋常小学校の無償化は布田郷学校に遅れること三〇年、明治三十三年(一九〇〇年)のことであった。(豚が日本を救う?明治四年の教育ベンチャー「布田郷学校」)https://call-of-history.com/archives/3918

     公立の小学校が普及し始めたことも原因だったろう。骨董市は殆ど終わったようだ。「こんなものが売れるのか?」昔、秋田の子供が雪の積もった田んぼで遊んだような、小さなスキー板も何枚か置いてある。こんなものは今では誰も使わないだろう。
     電気通信大学の裏の道を行く。「電通大って地味だよな。」大正七年に開設した社団法人電信協会管理無線電信講習所が始まりである。今は情報理工学域として、Ⅰ類(情報系)、Ⅱ類(融合系)、Ⅲ類(理工系)と分かれていて,全体としてIT系なのだが何となく分りにくい。
     国立(旧二期校)なのに、同じ系統では私大の東京電機大学の方が有名だろう。「多摩地区は旧二期校が多いんだ。」東京学芸大学(小金井市)、一橋大学(国立市)、東京農工大学(府中市)、東京外国語大学(府中市)があり、電通大はこれらと単位互換を行っている。

     カトリック調布教会サレジオ神学院。調布市富士見町三丁目二十一番十二号。門を入ってすぐ目の前にある建物はチマッティ資料館である。私はサレジオ会については全く無知だから、とりあえずウィキペディアのお世話になってしまう。

     サレジオ会の日本での活動は、ラヴェンナ出身のカトリック司祭ヴィンチェンツォ・チマッティ神父(宣教師であり博士であり教育者)を団長とする宣教師団の宮崎への到着により、一九二六年に始まった。一九二八年に出版事業のためドンボスコ社を設立、一九三二年には高齢者と孤児のための宮崎救護院(後のカリタスの園)を開設。一九三三年には宮崎神学校(後の日向学院)、一九三四年には東京育英工芸学校(後のサレジオ工業高等専門学校)を創立。一九三七年のサレジオ会日本管区認可、宮崎カリタス修道女会創立を経て、一九四六年に戦災孤児救済のため中津ドン・ボスコ学園(後の中津ドン・ボスコ学園中学校)、東京サレジオ学園を開設。一九五〇年には大阪星光学院中学校・高等学校、また一九六〇年には目黒サレジオ中学校・高等学校(後のサレジオ学院中学校・高等学校)を創立し、特色ある中高一貫教育を行っている。(ウィキペディアより)

     しかし姫の目的は、ジュゼッペ・キアラ神父墓碑である。塔身の上の笠が、神父の帽子の形をしている。右に「貞享二乙丑」。中央に「入専浄真信士霊位」左に「七月二十五日」とある。解説によれば、「入専」はジュゼッペの当て字と思われる。
     フェレイラ神父(日本名は沢野忠庵)が日本で棄教したという報告はイエズス会に大きな衝撃を与えた。その真意を探り、信仰を回復すべく日本にやって来たが、寛永二〇年(一六四三)五月筑前国で捕らえられた。

     一行はマニラに逗留し、そこで追放された日本人から日本語を学び渡航の計画を練った。まずマストリーリ神父が単独で上陸したが、すぐ捕らえられ殉教した。他は、二グループに分かれた。まずルビノを団長とするグルー プが潜入し、彼らも殉教した。次に一六四三年六月二十七日、マルケス準管区長が指揮し、キアラも含まれていた第二グ ループが北九州の築前国宗像郡梶目 の大島に上陸した。すぐ捕まり長崎奉行所、また八月二十七日には江戸へ送られ、小伝馬町の牢屋に入られた。(サレジオ神学院 チマッティ資料館)

     激しい拷問の結果キアラは棄教し、小石川の山屋敷(キリシタン屋敷)に幽閉された。「蜻蛉は以前、キリシタン屋敷跡に行ってますよね。私は行けなかったんです。」平成二十二年十一月の第三十二回のことだ。
     キアラは岡本三右衛門の後家を妻とし、三右衛門の名を受け継いで十人扶持を受けたが、生涯山屋敷を出ることを許されず、約四十年後(一六八五年)に死んだ。
     小石川無量院に葬られたが、明治になって無量院墓地の整理のために谷中霊園に移され行方不明になっていた。それが昭和十八年になって雑司ヶ谷霊園で発見され、当時練馬にあったサレジオ学院に運ばれたのである。遠藤周作『沈黙』のロドリゴ神父のモデルとなった。

     踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ。(遠藤周作『沈黙』)

     遠藤周作はカトリック信者だったが、これはカトリックの教義からすれば異端であろう。偽装であっても信仰を否定すれば地獄に落ちるのがカトリックの教えである。しかし神は何故沈黙しているのか。十字架上のイエスも、エリ・エリ・ラマ・サバクタニ(神よ、神よ、何ゆえに我を見捨てたまいしや)と叫んだ。『沈黙』の神はカトリックの神と言うより親鸞の阿弥陀如来の匂いがした。

     よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人(親鸞)の仰せには、「兎毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。(『歎異抄』)

     たぶん私は『歎異抄』の後に『沈黙』を読んだのだ。「『沈黙』とか『海と毒薬』なんかと狐狸庵先生との落差が大きすぎてさ。」カトリシズムと日本人の精神風土とを問題にした遠藤と、狐狸庵先生として馬鹿話を繰り広げる遠藤と、その落差が私には分らなかった。「北杜夫と親しかったろう?」北杜夫のどくとるマンボウには羞恥心から来る韜晦が感じられたが、遠藤周作の狐狸庵先生は分らなかった。

     「それじゃ行きます。」「キョウチクトウだ。」白い花が咲いている、「早過ぎませんか?キョウチクトウって夏の花ですよね。」この花を見るたびに、私は佐藤紅緑の少女小説『夾竹桃の花咲けば』を思い出す。
     武蔵境通りの西側の住宅地の細い道を南に下る。テイカカズラ(姫がそう判断し、私もそうだと思った)も咲いている。「これもキョウチクトウかな?」さっき白い花を見たからと言って、白ならキョウチクトウではない。これはヤマボウシだ。それにキョウチクトウは一般には赤い花をつける。
     小さな公園で休憩する。二時四十分。水筒に入れてきたお茶がなくなり、自販機で水を補充する。ファーブルが、タイ土産の果物の飴を配る。「俺は一番好きなんだ」と言うが、私にはちょっと「不思議」と言うしかない味だ。
     駐車場の上に本堂があるような不思議な寺があった。長専寺(浄土真宗本願寺派)である。「行けるでしょうか?」姫は不安そうだが何とか行けそうだ。長専寺の門を開け中に入ると、「何か御用でしょうか?」と寺の女人に声を掛けられた。声に詰まったスナフキンが姫に助けを求める。「鬼太郎さんのお墓にお参りしたいのですが。」「それならウチじゃなくて、お隣のお寺です。ぐるっと回って行くんですが、今回だけ特別にこっちから行って下さい。帰りはちゃんとした道でお願いします。」しかし、「鬼太郎さんのお墓」というのがおかしい。水木しげるの墓と言わなければならないだろう。
     有難いような、イヤミを言われたような不思議な気分だ。隣の寺は同じ本願寺派の覚證寺だ。調布市富士見町一丁目三十五番五号。文禄三年(一五九四)浅草御坊の中に創建され、明暦の大火の後に八丁堀の海上を埋め立てた築地に移り、昭和四年には飛田給に移った。しかし昭和十九年、調布飛行場の整備に伴って長専寺とともに現在地に移った。
     本堂の前には法事のためだろう、仕出し屋の車が停まっている。「見つかるでしょうか?」姫は下見の時に探し出せなかったのだ。墓地に入るとすぐにスナフキンが見つけた。
     五輪塔を囲む玉垣の左門柱にねずみ男像と「水木しげる」の文字、右には鬼太郎像と「武良家」の文字。その玉垣の側面と裏面には水木作品の多くの登場人物が彫られているのだが、良く見えない。「猫娘は分りますよ。」地輪の裏面には「昭和六十二年 武良茂」とある。
     「死んだのはそんなに前だったっけ?」私もつい数年前だと思っていたが違っていたか。おかしいと思って調べてみたら、これは生前に建てた墓だった。亡くなったのは平成二十七年(二〇一五)十一月三十日、九十三歳だった。葬儀には平成天皇から祭粢料(香奠)が贈られた。知らなかったが、文化勲章受章者、文化功労者、国会議員経験者、大使経験者などに贈られるものだ。

     水木しげるが亡くなってちょうど半年。自宅の仏壇もようやく整ったので昨日、納骨をしました。三十年前に水木自身がデザインしたお墓。出来上がった時には自ら中に入って居心地を確かめていましたっけ・・・とうとうそこに入る時がきました。(水木プロダクション)

     漫画家には珍しく長寿の人で、九十歳を超えて新作を発表した。手塚治虫より六歳年上である。白土三平(手塚の四歳下)でさえ手塚の影響を受けたが、戦後の漫画家としてほとんど唯一手塚の影響を受けなかった。鬼太郎の原型『墓場鬼太郎』は実におどろおどろしい絵だったが、次第に親しみのある画風に変わって行った。実は鬼太郎は三人の作者がいる。
     最初は戦前に伊藤正美が紙芝居『ハカバキタロー(奇太郎)』を描いた。水木は伊藤の了解を得て引き継ぎ、名前を鬼太郎に改名した。それが兎月書房から出た貸本漫画『墓場鬼太郎』シリーズである。しかし三巻を出したところで兎月書房から原稿料が一切支払われなくなり、水木は長井勝一の三洋社(後の青林堂)に移る。ところが兎月書房は武内寛行に鬼太郎の続編を描かせ続けた。これが四巻以降十九巻まで続くのだから、かなりの人気があったとみて良い。一方水木は三洋社で『鬼太郎夜話』を描いたが余り売れず、また長井の入院もあって、自然消滅の形で中断した。昭和三十七年(一九六二)水木と兎月書房の間で漸く和解が成立し、武内版は打ち切られた。水木の鬼太郎が復活するのは、『悪魔くん』が昭和四十一年(一九六六)に『少年マガジン』に連載され、実写化されて以後である。
     私は『総員玉砕せよ』を代表とする水木の戦記物の読者だ。エッセーでは『娘に語るお父さんの戦記』、『水木しげるのラバウル戦記』等が面白い。ニューブリテン島での戦場体験は水木の生涯に大きな影響を与えた。
     本堂に戻ると仕出し屋の車はいなくなっていて、姫がカメラを構える。唐破風が美しい。「龍がいるね。」
     「ぐるっと回って」路地を出ると、電柱のあちこちに覚證寺案内板が取り付けられている。「こっちを来ればよかったんだ。」「だけど分らないわよね。」長専寺に入らずにそのまま真っすぐくれば良かったのだが、目の前に見えているのに、それを通り過ぎるのは難しい。
     甲州街道の手前の角が下石原八幡神社だ。調布市富士見町二丁目一番十一号。だだっ広い空き地が広がる境内で、草むらの方で親子連れが一組遊んでいる。三時二十分。

     「計画では郷土博物館に行くことになってるんですが、行きますか?」「行こうよ。」「リーダーが無理だって判断してるんだからな。」博物館はここから二十分程、折角行っても閉館時間になるかも知れないのだそうだ。「それじゃやめよう。」
     予定では京王多摩川駅で解散する筈だったが、調布駅に行くことに決まった。国道を二十分程歩いて調布駅入口を右に曲がる。「駅はどこ?」「あそこだよ。」まっすぐ行けば線路(あるいは駅舎)にぶつかる筈なのに、それが見えないのが不思議だ。無駄に広い広場に着いた。「駅はどこかな?」ファーブルの言葉で近くを眺めると、地下に降りる入口があった。広場の地下にあるのだ。こんな風になってしまったのか。

     京王線調布駅付近連続立体交差事業により、二〇一二年八月十九日に布田駅・国領駅とともに地下化され、京王線と相模原線の平面交差が解消された。
     地上駅舎の跡地には、駅ビル「トリエ京王調布」が建設され、二〇一七年九月二九日にオープンした。これに合わせて「映画のまち調布」をアピールするため、駅名標や案内表示が映画フィルムを模したものに交換された。(ウィキペディアより)

     調布は「映画のまち」であり、姫の計画でも最後は映画俳優の碑と調布映画発祥の碑が計画されて、いたのだ。

     調布市内には、日活調布撮影所、角川大映スタジオと、二ヶ所の大型撮影所があるほか、高津装飾美術株式会社、東映ラボ・テック株式会社、東京現像所など現在も数多くの映画・映像関連企業が集まっています。
     そのきっかけとなったのは、昭和八年に多摩川撮影所が作られたことから始まります。撮影所がこの地に作られた理由は、後に調布市長となり、「カツドウヤ市長」と呼ばれた本多嘉一郎の回想によると、「時代劇・現代劇どちらの撮影にもふさわしい自然環境やフィルムの現像に欠かせない良質な地下水があった。」とのことです。
     昭和三〇年代の日本映画全盛期には、大映、日活に加えて独立プロダクション系の株式会社調布映画撮影所(現多摩川二丁目あたり)の三ヶ所で映画が作成されるという活況を呈し、調布は「東洋のリウッド」にたとえられました。
     これを記念して、かつて大映撮影所の敷地内だった多摩川五丁目児童遊園の一画には、「映画俳優之碑」と「調布映画発祥の碑」が建てられています。

     「東洋のハリウッド」とは大仰なことである。姫は小林旭のファンだから、日活には思い入れがあるだろう。日活が輝いていた時代は、「昭和が明るかった頃」(関川夏央)であった。そして関川によれば、昭和が暗くなるのは一九六五年頃からであり、それは私の高校時代の感覚と同じだ。
     今日の歩数は一万八千歩。十キロ。三時四十分。「どこへ行くんですか?」調布ならどこかの店がやっているだろう。こういうのはスナフキンの嗅覚に任せれば良い。そして入って行ったのは金の蔵だ。参加者全員が反省会にも参加するのは初めてのことではないだろうか。飲み放題八百円である。
     ビールはスーパードライだから、ファーブルはハイボール、ノリリンはカシスオレンジを注文する。注文端末はスナフキンが操作する。二杯目からは焼酎(金黒)にするが、水割りは薄い。スナフキンとファーブルはロックを頼んで水割りに混ぜている。そういう方法があったか。しかしグラスが出てくる速度がやたらに早い。一杯のグラスが終わらないうちに次のグラスが出てくる。勿論スナフキンが注文しているのだ。ヤマチャンはビールを継続する。
     「忙しない。」「忙しすぎるわ。」「飲み放題ってこんなものなの?」「いつものようにボトルにしないんですか?」飲み放題にボトルはない。桃太郎は例のスマホのアプリで無料のつまみを見つけたが、飲み放題サービスとは併用できなかった。
     ノリリンがアイドルを目指し、警察官を志していたことが判明した。「絶対に合格したと思ったのに、落ちたんですよ。」アイドルと警察官とのギャップがおかしい。それから順番に自己紹介ということになったが、私には言うことがない。作文を読んで貰えば、何を考えている人間か分るだろう。「蜻蛉の号は何故ですか?」「ちあきなおみに『紅とんぼ』があるんだ。」「歌謡曲が好きなのよ」とマリーが言うから、「オハコは何ですか」と訊かれてしまう。はてなんだろう。
     忙しなく飲み、六時を過ぎてお開きにする。かなり飲んだ。ファーブルもロダンも帰って行き、姫、スナフキン、ヤマチャン、蜻蛉の四人がビッグエコーに入る。ヤマちゃんがカラオケに参加するのも久し振りだ。
     珍しく『霧笛が俺を呼んでいる』を歌ってみた。画面には本人が登場する。「これが赤木圭一郎か?」「ヤマちゃんは知らなかったのか?」「初めてだよ。その女性は?」「芦川いずみですよ。アッ、小百合ちゃんもいますよ。」昭和三十六年二月十四日、撮影所内でゴーカートを運転中、倉庫の鉄扉に激突した。アクセルとブレーキを踏み間違えたのである。二十一日、二十一歳で死んだ。吉永小百合はそれ以前、ロケで赤木の運転する車に同乗したことがあり、その運転はあまり上手くなかったと証言している。十六歳の吉永小百合は赤木圭一郎に淡い恋を抱いていたのではないかと関川夏央は推測している。

     一九六一年一月、石原裕次郎はスキー事故で複雑骨折し、二月には赤木圭一郎が死んだ。日活を支える男性スターの柱のうち二本が折れ、頼れるものは小林旭だけになった。そこで宍戸錠、二谷英明を急遽主演急に格上げし、スカウトしたばかりの「小僧」和田浩治をも加えて、小林昭とともに「ダイヤモンドライン』を結成して週替りで.主演作を提供する態勢をつくったのだが、宍戸錠は大衆向けにはややハイブラウすぎ、二谷英明は助演者たるとき自由に動けるタイプだった。和田浩治は、いくら外見が石原裕次郎に似ているとはいえ、十六歳ではコドモすぎてさっぱり客は入らなかった。(関川夏央『昭和が明るかった頃』)

     この時から日活は路線を変更せざるを得なくなったのである。「『さすらい』は歌わないんですか?」今日はその声が出る状態ではない。舟木一夫『ああ青春の胸の血は』をだれも知らないのが不思議だが、私がこの年齢になってこの歌を歌うのも不思議といえば言えるだろう。二時間歌ってお開き。

     翌週月曜日、に大学に行くと、金曜までは咲いていなかったキンシバイが盛りに咲き誇っていた。七階屋上庭園(喫煙所がある)にはビヨウヤナギも咲いているではないか。早速数人に教えたが、知っている者はいなかった。

    蜻蛉