文字サイズ

    近郊散歩の会 第二十三回 富士見市
       令和元年六月二十二日(土)

    投稿: 佐藤 眞人 氏 2019.07.08

     今回は急遽私が担当することになった。手持ちの材料は少ないから、昨年台風のために流れ、来年二月に予定していた企画を前倒しにすることにした。先週土曜日に晴れたら下見をしようと思ったのに生憎雨で、日曜日は孫が来たので動けなかった。結局下見は一年前にしたきりである。
     二週間前に梅雨入りしてから、天気は悪く蒸し暑い日が続いている。近所の家の庭にノウゼンカズラが咲いた。何を見てもそう思うが、この花も例年よりも早いだろう。  集合は東武東上線みずほ台駅だ。富士見市東みずほ台二丁目。みずほ台駅は昭和二年、東京から運び込まれた糞尿を下ろす水谷信号所として開業した。つまりこの辺りは典型的な近郊農村であった。池袋から約三十分程だから今では新しい住宅地も広がっているが、水田や畑も多く残っている。
     昭和三十一年(一九五八)、入間郡鶴瀬村、入間郡南畑村、北足立郡水谷村(旧入間郡水子村と針ヶ谷)が合併して富士見村となり、富士見町を経由して昭和四十七年に富士見市となった。人口は約十一万人。
     ややこしいのは隣接してふじみ野市があり、そしてふじみ野駅が富士見市にあることだ。おそらく地元の人間でなければこんなことは知らないだろう。ふじみ野市は平成十七年に上福岡市と入間郡大井町が合併してできた。人口約十一万二千人。当初は入間郡三芳町、大井町、上福岡市との合併協議がなされていたが、三芳町(人口三万八千人)が単独での市制を目指したため上手くいかなかった。志木市と川越市に挟まれた地域である。
     市の北東側半分は荒川と新河岸川が流れる低地で、南西側半分は台地である。北東側には水田が広がり、南西側に東武東上線沿線から発達した市街地があり、川越街道が通っている。今回はその北東部を歩く。以前ロダンが案内してくれた志木とは、柳瀬川を挟んで対岸になる。
     午前中に淑徳大学みずほ台図書館を見学することも考えた。かつて図書館は静謐でなければならない空間だったが、今では一変した。話し合いながら学習する空間として、文科省がラーニングコモンズというものを推奨している。その典型的な例が見られるのである。勿論アメリカ渡りの仕組みで、日本ではお茶の水大学やICUが先駆的に始めた。しかし大抵は単にお喋りできる空間としてしか学生には認識されない。特に淑徳の場合は周りに何もなく、授業の合間にちょっとどこかに出かけることができないので、暇を持て余す連中が図書館にやってきて、実に喧しい。
     私は時代遅れの人間だから、文科省推奨の、基礎的な知識の蓄積もないまま議論によって課題を解決すると言う「アクティブ・ラーニング」と言う方法を信じることができない。知識のない者がいくら発言しても、それは単なる思い付きでしかないだろう。
     しかし雨の降らないうちに難波田城まで辿り着いておきたいので、この計画は諦めた。梅雨の真っただ中で、昨日は成田や上尾で突発的な豪雨が発生している。今日の予報に雨雲はないが、午後は危ない。

     みずほ台駅に急行は止まらないと事前に案内している。池袋方面からは急行で志木まで来て、各駅停車または準急に乗り換えなければならない。少し早く着いて改札の外で待機していると、ベビーカーを押した中国人女性が何やら悩んでいる。声を掛けられた日本人女性も良く分っていない雰囲気なので、私も加わってみた。スマホで行き先をかざすのだが、地図を開いてもそれらしい場所がない。南口だと言うことだけは分ったので、南に降りるエレベーターを教えた。
     最初に現れたのは桃太郎だ。「今日はお弁当ですよね?」「下にコンビニがあるよ。」やがて次第に人が集まって来た。今日のメンバーはハイジ、あんみつ姫、マリー、スナフキン、ファーブル、ヤマチャン、桃太郎、蜻蛉の八人に決まった。たまたま昨日ネットでコース案に近い地図を見つけたのでプリントしてきた。「皆さんに地図を配りました。道を間違えれば連帯責任です。」「なんだ、それ?」「リーダー、責任放棄するの?」
     北口に降りる。「雨じゃなくて良かったね。」「分らないよ。リーダーの日頃の行いが影響するからな。」「それじゃダメだ。絶対に降るよ。」こんなに正しく生きている私を、みんな誤解している。
     りそな銀行の角を右に入り、瓦葺の天理教会に突き当たって左に曲がる。「こっちでいい筈なんだ。」スタートから間違える訳にはいかない。水谷小学校を過ぎ、ファミリーマートの横を右に入る。しかしなんとなくおかしい。曲がってすぐだった筈で、こんなに歩いた記憶はない。「間違えました。」「地図だと道路沿いに見えるけどな。」戻りかけると、今来た道と二又になった道があった。「そこだ。」ファミリーマートを通り過ぎてから曲がれば良かったのである。
     宝性寺。富士見市水子一九三五番。ネットを検索してもこの寺に関する情報はなく、宗派も何も分らないが、門を入った所に立つ笠付の六面石幢六地蔵を見るのが目的だ。寛文八年(一六六八)造立。「もう珍しくもなんでもなくなったけど、この六角形の石柱を石幢と呼ぶのです。」「そうですね、初めて見たときは驚きましたが、もう何度も見てますね。」
     その左には笠付の青面金剛像が立っている。延宝四年(一六七六)。「三猿が珍しいですよ」と姫に指摘されるまで気付かなかった。正面に並んでいるのではなく、左右側面と背面の下部に一匹づつ彫られているのだ。門前には文政十一年(一八二八)の六地蔵(但し中央に一回り大きい地蔵を含んで七体)が並ぶ。
     「水子っておかしな地名だな。」「川が近いから氾濫したんじゃないか?」私の推測は間違っていた。取り敢えず目についたのは以下の二つの説である。後で行く水宮神社のホームページにはこんなことが書いてある。

     昔、この村に住む生娘が何者かに犯され妊娠していることがわかりました。
     両親は大層嘆き、法師に願を掛けてもらったところ、不思議にもたちどころ水になってしまったという言い伝えがあり、ここから水子という地名となりました。
     古くから水子供養を行っている地でもあります。
     http://www.mizumiya-jinja.info/history.shtml

     これはしかし信じなくても良いだろうネ。いわゆる「水子」(生まれなかった胎児)を地名にするなんて考えられない。次の説がおそらく正解ではなかろうか。

     市内にも「谷」や「沢」の文字が付けられた地名が多くありますが、水子地域を見ても「神井戸」や「大井戸」など水の湧く場所には「井」「井戸」の語が付くことがあり、ほかにも「石井」「土井」など数多く認められます。こうした土地では湧水や川などの水が出る場所が近くにある場合が多いものです。「水子」という地名に〝水がある処〟という意味が含まれているのも、こうした周辺の地名からもうかがえます。(富士見市「市内の地名 水子・針ケ谷地区」)
     https://www.city.fujimi.saitama.jp/miru_tanoshimu/02midokoro/hujimihakkenn/2013-1127-1726-127.html

     ファミリーマートまで戻り、信号を渡ってそのまま二百メートル程行くと水子貝塚公園だ。富士見市水子二〇〇三番一号。駐車場から公園南口に入る。「蛇だ。」ちょうど公園から出ようとした女性の足がすくんでいる。「怖いんだもの。」一メートル以上もある蛇が、石垣の間にゆっくりと隠れようとしている。しかし今日の女性陣で蛇を怖がる人はいない。姫なんか蛇が大好きだ。私は蛇について全く無知だから何という蛇か分らない。「青大将だよ。」そうなのか。「全然危険じゃないから。」「昔は家の鼠を食うから大事にされたって聞いたよ。」

     ・・・・この蛇信仰には非常に実用的な理由によるものがある。それは蛇を野鼠の天敵として尊重し、崇め、稲・田圃・穀倉の守護神として信仰するに至るもので、・・・・・(吉野裕子『山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰』より)

     脱皮を繰り返すことから蛇は不死と再生のシンボルともなる。確か姫は蛇の皮を財布に入れていた筈だ。蛇は川の象徴であると同時に山の象徴でもあり、古代から信仰の対象になっている。吉野裕子によれば、青大将を山カガチと呼ぶように、蛇の古語はカカであり、更に本来はカである。吉野は、神とは蛇身(カミ)と同義語だと言う推理も可能だとまで言う。私たちにはお馴染みの宇賀神(人頭蛇身)のウガも蛇(カ)に由来する。また鏡餅は蛇がとぐろを巻いた姿を模したものである。しかしこんな話は当面の目的には全く関係なかった。

     水子貝塚は、縄文時代前期(約五千五百~六千五百年前)を代表する貝塚として、昭和四十四年、国の史跡に指定されました。その後、遺跡の保存と活用のため整備が行われ、平成六年、『縄文ふれあい広場 水子貝塚公園』として開園しました。
     敷地面積は約四万平方メートルで、当時のムラ全体がこの敷地内に含まれています。中央には芝生の広場が広がり、その周りを園路(全長五百八十二メートル)が巡り、その外側に縄文の森が復元されています。(富士見市「水子貝塚公園の施設概要」より)
    https://www.city.fujimi.saitama.jp/madoguchi_shisetsu/02shisetsu/shiryoukan/mizukokaiduka/2012-0130-1426-126.html

     この貝塚は大正六年(一九一七)に発見されて以来、数次の発掘によって全貌が明らかになった。敷地を囲む森には、コナラ、アラカシ、シラカシ、ガマズミ、クリ、クヌギ、アカシデ、ケヤキが植えられ、「縄文の森」と名付けられている。樹木の種類を私が判別できるわけはなく、パンフレットを見て書いているだけだ。
     広い芝生には茅葺で復元した竪穴住居が四つ並んでいる。「なかなかいいね。」「屋根はホントにこんな形だったのかな?」「形は推定だろうね。」柱を立てた穴は分るにしても、その柱が直立だったか、あるいは上の部分で纏めて円錐形にしたかは知りようがないのではないか。しかしこれはおろかな疑問だったかも知れない。掘り下げた壁面が直立してるのだから、柱も直立していたのである。「ただカヤの成分なんかは土の分析で分るんじゃないかな。」
     「登呂遺跡みたいだね。」登呂は弥生時代の水田と集落の遺跡だった筈だ。貝塚は縄文遺跡である(と言うことも実はそんなにはっきり知っていた訳ではない)。

     竪穴(縦穴)建物の屋根の軒先は地面付近まで下がることが多かったと推測され、外からは屋根しか見えなかったものと考えられる。屋根はアシやカヤなどの茎で葺いたことが多かったと思われるが、土葺、草葺の屋根も多かった。
     学校教科書などには、茅などで葺いた想像図が多く載るが、一九九〇年代以降は樹皮を敷いて土をかぶせた土葺(土屋根)で復元された竪穴住居遺跡も多い。これは発掘時の土壌・遺物分析で茅由来の物質が見つからなかったり、当時の地形・植生では茅の採取が難しいと推測されたりしたことによる。(ウィキペディアより)

     芝生の中に点々と、白く舗装された(陶片を敷き詰めた)場所があり、表面には円形模様が無数に散らばっている。「子どもには却って危ないな。」「貝をイメージしたのかな?」これは、この下に貝塚があることを示すものだった。「この辺は海だったのかな?」「縄文海進だろうね。」海進のピークは六千五百から六千年前と推定され、ちょうど縄文前期に相当する。
     「資料館に入ろう。」しかし私はまるで逆の方向に向ってしまう。方向音痴かも知れない。「あっちだよ。」回遊路の樹木の下を歩いて行けば資料館の隣に展示館があり、最初にそこに入る。「こっちじゃないの?」ファーブルや姫は資料館を指さす。「最初は展示館からにしよう。」

    第六回調査 平成三~五年(一九九一~一九九三)には整備事業に関わって展示館建設予定地の発掘調査、貝塚二ヶ所の発掘調査などを実施しました。展示館予定地からは縄文時代早期、前期後半、中期、古墳時代、平安時代の遺構が現れ、各時代にわたる遺跡であることがあらためて確認されました。貝塚の下からは竪穴住居跡三軒が現れ、埋葬された人骨と犬骨などが発見されました。貝塚が分層発掘され、ひとつの地点貝塚が数年間で堆積したことがわかりました。

     「なんだ、あれ?」部屋の真ん中は発掘時の竪穴を再現したもので、住居部分の真ん中に骸骨が寝ているのだ。三十代と推定される女性が手足を折り曲げた格好で発見されたのである。「昔は土葬だからね。」貝塚で見つかった人骨を、竪穴住居に置くのはいかがなものだろうか。これでは住居内で死んだ、あるいは住居に埋葬したと誤解されるのではないか。
     考古学をまともに勉強していないので、頼りにするのは一九八六年発行の『日本の古代』シリーズ(中央公論社)しかない。取り敢えず考古学界の最新動向を知るために北條芳隆編『考古学講義』(ちくま新書)と中橋孝博『日本人の起原』を買って来た。平成十二年(二〇〇〇)の藤村新一による旧石器捏造事件があって、考古学の信頼は地に落ちたが、その後は科学的な分析方法が進化して、かなりいろいろなことが分って来た。

     縄文人は、ムラの仲間が死亡すると、一体一体をわざわざ穴を掘って丁重に埋葬している。この風習は、神奈川県横須賀市平坂貝塚などのように縄文早期からすでにみられる。(中略)
     しかし埋葬の場所については、早期から前期前半までは各集落ごとに個別に埋葬されているが、前期後半から後期末にかけては、ストーンサークルや大型貝塚を伴うなどの特殊遺跡に集中的に埋葬される傾向がある。(後藤和民「縄文人の知恵と生活」『日本の古代4 縄文・弥生の生活』)

     周囲の壁面に貝塚の断面なども展示されているのは、大森貝塚でもお馴染みだ。縄文海進時の関東平野の地図も掲示されている。「こんなに海だったのか?」関東平野では約六千年前が海進のピークだったと考えられ、荒川沿いでは川越付近、江戸川沿いでは栗橋付近まで海だった。房総半島は殆ど島のようでもある。この海岸沿いに貝塚が発達した。

     一般に、縄文時代の貝塚は日本全国で約一一〇〇ヵ所あるといわれている。そのうち、約八〇〇ヵ所(七割強)が関東地方に集中し、なかでも千葉県下では五六〇ヵ所を数え、全国の約半数を占めている。(後藤和民・同書)

     貝塚が関東地方に集中するのは、縄文時代の東西の人口比によるものらしい。西日本が照葉樹林地帯、東日本が落葉広葉樹林地帯であったことが、その生活環境に大きく影響を与えた。

     各地で発見された遺跡の数から縄文時代の人口規模を算出した小山修三によると、八〇〇〇年前の縄文早期には全国で二万人に過ぎなかった人口が、前期には一〇万人余り、四〇〇〇年前の中期になると二六万人余りへと急増する。しかしその当時、近畿以西にはわずか一割にも満たない九五〇〇〇人しか住んでおらず、あとはすべて東日本に集中していたという。(中橋孝博『日本人の起原』)

     その中でも日本最大の貝塚は千葉市の加曾利貝塚である。私たちが子供の頃の教科書では、貝塚は一般に集落のゴミ捨て場だと考えられてきた。しかし集落の規模をはるかに越える貝塚の存在から、自家消費だけが目的ではなく、交易のための貝の加工場であったことが分ってきた。
     干貝は塩分摂取の重要な食物で、塩の少ない内陸地方と交易をしたのだ。交易の証拠として、例えば加曾利貝塚で発見された石鏃の原料となる黒曜石は伊豆、箱根、長野県和田峠のものだった。勾玉などの原料となるヒスイは糸魚川上流のものである。縄文時代に既にかなり広範囲にわたって交易が実行されていたのである。つまり単純な狩猟採集による自給自足生活ではなかった。
     更にクリやヒエ、マメ、ヒョウタン、エゴマ、ダイズ、アズキなどの栽培が、縄文時代前期末(六千~七千年前)に始まっていたことも分って来た。

     しかしながら、これらの植物栽培が即座に農耕社会の発生とはならずに、地域や時代の環境に応じて狩猟・採集・漁撈などと可変的かつ弾力的に組み合わされていたことに、縄文文化の独自性をみることができる。また、生業におけるこの多様な環境適応こそが一万年以上にもわたる安定・継続的な縄文文化を維持できた最大の要因とみなすことができるのでなかろうか。(中山誠二「縄文時代に農耕はあったのか」『考古学講義』)

     「縄文時代に既に水田があったんだよね。」縄文晩期後半とされる突帯文土器期に、北九州では水稲耕作が始まっていた。水田以前の縄文晩期には小規模な陸稲栽培も行われていたことが分っている。

     ところが最近、このことをもって、突帯文土器の時期を弥生時代に含めて考えようとする立場が少なくない。水稲農耕の存在とそれに伴う遺物の要素を弥生文化のメルクマールにすえてきた研究の過程を考えれば当然の帰結ともいえる。しかし仮に、将来そうなったとして、私はいまあえて縄文時代とする立場をとっている。時代や文化の区分は対象の総合的な理解にたってなされるべきであって、現状ではまだされだけの要素が整っているとは思えない。そればかりか、社会構造上の変化はむしろ現状の区分のほうが当をえているふしがあるからである。(寺沢薫「稲作技術と弥生の農業」『日本の古代4 縄文・弥生の生活』)

     時代区分の基準をどこに据えるかというのは結構難しい問題なのだ。「これが欲しい。」ファーブルが指すのはミュージアムグッズのネズミの飾りだ。しかしここには係員の姿が見えない。「資料館で売ってるんじゃないか?」ファーブルはネズミも含めた衛生動物を駆除する立場の筈だが、可愛らしいネズミも好きらしい。「それじゃ行こう。」
     隣の資料館には土器やその他の発掘物が展示されている。縄文時代の衣服を着てみよう、なんて麻の衣服を展示してある。麻で作ったのは間違いないだろうが、形は分らない。一番加工が簡単なのはワンピース型だと言う判断である。形が残らないものの復元は安易にすべきではないだろう。
     「岡本太郎が縄文土器に触発されたんだよな。」スナフキンはたぶん岡本太郎が好きなのだろう。私は「太陽の塔」以来、岡本が苦手だ。「火炎土器だろう?」ここには火焔土器はない。「ここは縄文前期だから装飾性が少ないんだな。」ムササビをモチーフにしたものがある。縄文時代と言っても一万年にも及ぶのである。時代や地域によって、その意匠は変わって行く。
     一時期、縄文時代を持ち上げるのが流行った。岡本太郎や梅原猛がそのイデオローグであったが、岡本や梅原の縄文時代に対する関心は学問的には何の裏付けもないもので、ただただ芸術的な感性によって主張された。
     縄文時代には戦争はなかったというのは現在の定説である。弥生人が齎した農耕によって、土地所有の観念が生まれ、貧富の差が発生したことから戦争は始まった。

     戦争とは、個人対個人の私闘ではない。集団と集団のぶつかりあいであり、ムラの存亡をかけた命がけの死闘である。もし戦争があったのであれば、そのような集団的な殺傷の痕跡がなければならないが、不思議なことに、そのような例は縄文時代のいかなる時期、いかなる地域にも一例だに見出せないのである。(後藤・同書)

     ファーブルはさっきのネズミを買おうと事務室に入って行った。結構時間がかかったのは、こんなものが売れるとは係員も思っていなかったからではないか。やっと在庫を見つけ出したようだ。「刊行物が充実してますね。エライ。」姫はミュージアムの資料が好きだ。何か買ったのかも知れない。「それじゃ行きましょう。」

     道路を渡ると、水光山不動院大應寺だ。富士見市水子一七六五番地、真言宗智山派。創建年代は不明だが開山の法印賢憲が天文十七年(一五四八)に死んだことが過去帳に記されていて、それ以前の創建であることは間違いないとされる。
     「ボケ封じだって。」新しい観音像が立っている。「それじゃ拝まなくちゃ。」長寿延命より、私たちにはそちらの方が大事なのだ。鐘楼門は享保四年(一七一九)の造立である。二階は回廊も含めて朱に塗られている。「珍しい」と感激する人もいるが、川越喜多院にも鐘楼門がある。「鐘を突くのに階段はどこかな?」「ここにある。」内側にあるのを桃太郎が見つけた。二階部分の床板はずれているのか、隙間が空いている。「地震でずれたんでしょうかね?」と姫も首を捻る。
     本堂は寛政元年(一七八九)に建てられたものを、平成二十一年(二〇〇九)に立て替えた。かなり立派な建物である。「水光山大應寺」の額は山岡鉄舟の文字だ。「立派じゃないか。」駐車場も含めて敷地はやたらに広い。桃太郎が御朱印を貰うのを待って出発する。
     隣が水宮神社だ。富士見市水子一七六二番地三号。「ずいぶん派手な神社ですね。」社殿は金ぴかの権現造りになっている。元々は京都聖護院を本山派とする修験寺であり、明治の神仏分離で修験道が禁止されて水宮神社と改称した。正式名称は魔訶山般若院水宮神社である。魔訶も般若も仏教の重要な観念であり、名称からして神仏習合を残している。
     明治になって決められた祭神はアマテラス、スサノヲ、コナハナサクヤ、ホムダワケ(応神)、オオクニヌシ、罔象女神(ミズハノメノカミ)である。
     修験道が禁止された理由の一つは、里山伏と呼ばれる存在にあった。藤沢周平『春秋山伏記』は、その存在をユーモラスに描いているのだが、要するに村に住み着いて加持祈祷を専らにする者である。明治五年の修験道廃止令の時には、全国に十七万人の里山伏がいたらしい。特に問題になったのは狐憑き退治と称する祈祷であろう。

     現在の日本において、「伝統仏教諸教団および新興の仏教系の教団を含めて、僧籍を持った者(僧侶)の数は二十二万人」と言われています。「なんだ、(当時の修験者の総数である)十七万人よりも、現在の僧侶の数のほうが多いじゃないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、現在の日本の人口が一億二千六百万人なのに対し、明治初期の総人口はたった三千三百万人。つまり、現在の約四分の一の人口の時代に、十七万人もの山伏がいたかと思うと、その数が並々ならぬ数であったことが容易に想像していただけると思います。
    (田中利典「愛・地球博」の『こころの再生・いのり』館シンポジウム『水・森・いのち』より)http://www.relnet.co.jp/expo/event_31riten.htm

     つまり山伏と言うものがいかに身近な存在だったかということだ。本山派は天台宗に、当山派は真言宗に強制的に改宗させられ、里山伏の殆どは還俗した。一部、ここのように神社を選択したものもあり、御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教等の教派神道に衣替えするものも出た。
     鳥居の代わりに冠木門が建っている。「ここに二宮金次郎が。」写真撮影用に顔の部分を刳り貫いた絵姿は、天皇皇后の積りらしい。「撮ってあげようか?」「恐れ多いわ。」金ぴかの社殿の前に座る神使はカエルだ。

     昔々、この地に、人間のように立って歩きたいと願う蛙がいました。
     そこで蛙は、熱心に願をかけ、二本足で歩けるよう祈りました。そしてついに願いが叶い歩けるようになったのです。
     しかし、立ってしまうと蛙の目は後ろになってしまい、うまく歩くことができません。蛙はもう一度願をかけ、元のように戻れるよう祈りました。
     「立って歩きたい」、「やっぱり元に戻してほしい」、ころころ心が変わる蛙に神様も怒ったのか、簡単には許しません。
     困り果てたころ、大日如来(不動明王)様が元に戻してくれました。戻った蛙は二度と立って歩きたいとは思いませんでした。
    http://www.mizumiya-jinja.info/guide.shtml

     御神水は溶岩を固めた山から蛇口を捻ると出てくる筈だ。私がやっても全く出てこないのに、ファーブルが捻ると簡単に水が出てくるのが面妖だ。平成十四年の水質検査で飲用に適すると判断されたと言う。
     七五三のような格好の男女児を連れた家族がお参りに来た。「季節が違うよね。」「これから外国に赴任するので、できる時期にやろうとしたんです」と姫が物語を思いつく。境内の片隅にビヨウヤナギが咲き残っている。

     雲行きが少し怪しくなってきた。「私の腹時計では十一時五分頃でしょうか?」十一時十分だ。雨が降り出す前に難波田城に入りたい。「どのくらい?」「三十分かな。」
     神社を出てすぐ橋がある筈だがない。「逆じゃないの?」ファーブルは正しい。「完全に間違いだね。」「そんなに自信たっぷりに言うなよ。」神社の前の道をそのまま行けば良いのに、信号を渡ってしまったのだ。方向が九十度違う。
     歩道が分れていないから車が通ると結構危ない。新河岸川を渡る橋は木染橋。かつて少し下流に渡しがあった。周囲の紅葉が川面に移るのが美しく、この辺りは木染と言われたと言う。二五四号(富士見川越道路)を渡り、次の難波田城公園南口の交差点を右に曲がる。
     右手は水田である。「随分成長してる」とファーブルが驚く。「鳩ケ谷の方じゃまだ短いんだ。」雨がぱらついて来たから急がねばならない。暫く行くと右手に小さなお堂が見えて来た。
     「あそこなんだ。」信号のところから、水田に食い込んで馬頭観音の祠が建っているのだ。舟形向背に合掌する三面二臂観音立像が浮き彫りにされた形だ。寛文十二年(一六七二)建立。「前耕地観音堂」と呼ばれている。「前耕地」はこの辺りの小字名だ。周辺は水田地帯で街道が通っているわけでもなく、そこに馬頭観音が祀られるのは珍しい。
     そこの信号を渡れば難波田城公園西口の駐車場である。富士見市下南畑五六八番地一号。本降りになって来たので移設された民家の見学等は後にして、取り敢えず四阿に入ることにする。数人がトイレに入った。「先に行っててよ。」橋を渡った土塁の上に四阿が建っているのだ。
     ショケラを持つ青面金剛を見る。水堀には蓮の花がいくつか咲いている。「いいですね、ハス。」姫はそう言うが、本格的に咲くにはまだ早いだろう一週間というところだろうか。行田の蓮を移植したものだった。四阿に他の客はいないからよかった。十一時五十分。「いいタイミングだったね。」

    難波田城(なんばたじょう)は、中世に富士見市を本拠に活躍した難波田氏の城館跡で、昭和三十六年、埼玉県旧跡に指定されました。荒川低地の一角に築かれた平城で、規模は五ヘクタール以上と推定されています。難波田城公園は、敷地面積約一万七千平方メートルの歴史公園で、この貴重な文化遺産を保存し活用することを目的にその一部を整備し、平成十二年にオープンしました。(富士見市「難波田城公園の施設概要」)
    https://www.city.fujimi.saitama.jp/madoguchi_shisetsu/02shisetsu/shiryoukan/nanbatajo/sisetu-gaiyou.html

     「弁当は久し振りだから、女房に頼み込んだよ。」このコースでは、途中に店がないのだ。こんな季節だから、念のために保冷バッグに保冷剤も入れて来た。桃太郎のように、コンビニでパンを買ってくるのが一番面倒がないのかも知れない。
     姫は小さなバッグから苦労して自家製のピクルスを取り出した。荷物が多いわりにバッグが小さすぎる。勧められても、しかし男はもう飯を食い終わっているから手が出ない。「ハイジ、箸が落ちたよ。」飯を食い終われば各種煎餅が配られる。「今日は煎餅が多いね。」「蜻蛉に気を使ってるんだ。」そんなに気を使って貰わなくても良い。

    「城跡ゾーン」は、発掘調査の成果と古城図を基に、戦国時代の難波田城の曲輪や水堀、土塁が復原されています。水堀には花菖蒲や水蓮などの湿性植物が植栽されており、四季折々の景観が楽しめます。また、コイやメダカ、ドジョウなどの水棲動物が生息しています。

     「難波田氏は村山党金子氏の流れなんだ。飯能の辺りに金子ってあるよね。」正確に言えば埼玉県入間市金子である。「東金子中学校に行ったことがあります。」村山党は青梅街道を歩いた私たちにはお馴染みだ。「本拠は武蔵村山とか東村山だよ。」

     金子氏(かねこし)は、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)を中心として近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた武蔵七党の村山党から派生した支族。桓武平氏の流れをくみ、武蔵国入間郡金子(現在の埼玉県入間市金子)を拠点にその周辺地域を領した。
     武蔵国多摩郡村山を領した平頼任が村山党の祖となり、その孫の家範が入間郡金子に住み金子を名乗ったのが始まりである。(ウィキペディア「金子氏」より)

     雨は一向にやまず、ますます激しくなっていくようだ。私の日頃の行いが試されているのだろうか。「取り敢えず資料館に入ろうよ。」展示室には板碑や富士見市に関する歴史史料が展示されている。上部と下部が欠損したのを修復した板碑は、日本最古と言う嘉吉元年(一四四一)の月待板碑だ。阿弥陀三尊の種子を刻んであり、「奉月待供養 嘉吉元年」とあるらしい。

     中世に造立された板碑のうち月待信仰によって作られたものは月待板碑と呼ばれる。関東地方の南部に約百四十基が分布し、ほとんどが青石塔婆である。十三仏や阿弥陀三尊、勢至菩薩などが刻まれ、日付では二十三日が多い。埼玉県富士見市の一四四一年(嘉吉元年)のものが最古であり、現在は難波田城資料館に展示されている。(ウィキペディア「月待塔」より)

     十九夜塔や二十三夜塔は良くお目にかかるのだが、月待信仰と言うのは実は私は良く分っていない。集落の娯楽の一種だと考えれば良いだろうか。

    特定の月齢の夜、人々が集まって月の出るのを待ち、祀(まつ)ること。十三夜、十五夜、十七夜、十九夜、二十三夜などが多いが、静岡県西部地方のように三日月を祀る所もある。毎月祀る例は少なく、正月、五月、九月の三回、あるいは正月、十一月の一定の月を祀る所が多い。月待は、組とか小字(こあざ)を単位とすることが多く、年齢によるもの、性別によるもの、あるいは特定の職業者だけの信仰者によるものなど、さまざまである。日を一日ずらして、男子の二十三夜に対し、女子だけ二十二夜に集まり、安産祈願を行う所もある。長野県では七月二十二日を「ニヤマチ」といい、七人ずつそろってするものだという。月待には安産祈願、病気平癒祈願など人にかかわるものが多いのも、月の満ち欠けが生命力に深いかかわりをもつと信じていたからであろう。[鎌田久子](『日本大百科全書ニッポニカ』)

     「東上線はやっぱりウンコ電車だったんだね。」東上線の歴史を展示したコーナーに、貨車の車両に肥桶を載せた模型が展示されているのだ。「こぼれなかったのかな?」江戸時代には新河岸川の舟運を利用したと思わる。

     鉄道による糞尿輸送がいつ始まったのかは、はっきりとは分かっていない。記録に残る限りでは、大阪電気軌道(現在の近鉄)が大正時代末から昭和初期頃まで輸送を行ったのが最古になる。またのちに合併して西武鉄道池袋線となる武蔵野鉄道や東武鉄道東上本線も同じく大正末期から昭和初期に輸送を行っていたことがあり、現在東武鉄道越生線になった越生鉄道も当初は輸送を行っていた。
     これらは都市の屎尿の下肥利用という、以前からの習慣を受け継いで行われたもので、貨車や電動貨車に肥桶を積み込んで輸送する程度のものであった。中身が汚物であるだけで、通常の貨物と扱い自体はそう変わるものではなかったのである。
     このようにささやかに行われていた糞尿輸送であったが、太平洋戦争が勃発すると事態が急変した。徴兵で労働力が不足し、さらに戦況の悪化により日本の物資がじり貧になり始めると、東京都区部などの大都市で屎尿汲み取りや運搬、投棄のためのトラックや船の運行が難しくなり、屎尿の処理が滞ってしまったのである。当時の東京都区部では、庭に穴を掘って埋めるという不衛生極まりない処置をとるところまで追い込まれていた。
     この事態を打開するために苦肉の策として考案されたのが、郊外へ向かう鉄道への糞尿輸送の委託であった。一九四四年四月、東京都は運輸通信省(のちの国鉄)と各民営鉄道会社に要請を行った。これに応じたのが合併前の旧西武鉄道・武蔵野鉄道で、専用設備と専用貨車を用意し、東京都の委託を受ける形で大規模な糞尿輸送を開始した。戦後には東武鉄道もこの委託による輸送に参加し、合併した西武鉄道とともに二社で輸送を続けていた。人々はこの糞尿輸送列車をからかい半分に「汚穢電車」、「黄金列車」と称していたが、一方沿線住民からは「汚い」「臭い」などと言われ、顰蹙を買っていた。(ウィキペディア「鉄道にとる糞尿輸送」)

     屎尿下水研究会のサイトに「農民日記『農民哀史』にみる屎尿の購買・運搬の実態」講話者:・池田修一」http://sinyoken.sakura.ne.jp/caffee/cayomo018.htm)がある。南畑村の農民運動家・澁谷定輔の日記から引いた記事がある。それによれば、昭和元年頃に肥樽一杯十二貫目(四十五キログラム)が十三銭五厘だった。昭和元年にはコーヒー一杯十銭、映画館入場料三十銭というから、かなり安い。屎尿を購入した澁谷は、自分の田畑に肥を撒いた後、樽をきれいに洗って鶴瀬駅に返した。みずほ台だけでなく、沿線の駅には屎尿取扱所が設けられていたのだ。
     東上線や西武線の沿線は東京に野菜を供給する巨大な後背地だったのであり、それが戦後すぐに新宿や池袋にヤミ市が発生する大きな要因だった。顰蹙を買ったとしても、戦中戦後の東京人が生き延びるためには必要だった。
     難波田氏の歴史コーナーが最も詳しいのは当たり前だ。村山頼家の子の家範が金子を名乗り、その子の高範がこの地を領して難波田氏を名乗った。その当時の地名は難波田だったが、災害が多いことと関係づけて、安永年間に南畑に改称した。その金子氏の他に、村山党の流れを汲むのは宮寺氏、山口氏、仙波氏等だ。宮寺、山口、仙波は所沢から川越にかけて、今でも地名に残っている。
     戦国時代の関東の城を示す地図が掲げられている。「こんなに城があったんだね。」ヤマチャンが驚く。関東の戦国時代は関東管領と鎌倉公方の抗争に始まり、扇谷上杉氏・山内上杉氏・古河公方の抗争へと移り、やがて後北条氏が台頭して旧勢力が駆逐されることになるのだが、そのために城が多いのである。北条氏が手を入れた城には今も石垣が残る名城が多い。
     「真田と北条の争った城は行ったな。」ヤマチャンが言うのは名胡桃城か。秀吉の喧嘩停止(ちょうじ)令を無視して、真田の城を北条氏が奪った事件である。「小田原攻めのきっかけになったんだよね。」中世の紛争は現場の当事者間での解決が基本であり、中央政権は関与しなかった。しかし豊臣政権は、領土紛争は私戦であると断じ、当事者間での紛争解決を一切禁じた。島津、北条が征伐の対象になったのはそのためだ。喧嘩停止令、惣無事令等一連の政策を豊臣平和令と呼ぶのは藤木久志師の提唱である。
     「菅谷館は行ったことがある。」「鉢形も行ったよね」確か田山花袋の碑があった筈だ。「練馬城は豊島園のところだよ。」「石神井城も行ったしね。」太田の金山城は北条氏が本格的な石垣造りを行っている。
     観応の擾乱(一三四九年~一三五二年)では、難波田氏は足利直義についた。「観応の擾乱って無茶苦茶なんだよ。」元々は足利直義と高師直の争いに由来するのだが、師直を支持した尊氏と、弟の直義が争い、尊氏の実子で直義の養子になった直冬が直義の側に着いた。時は南北朝争乱の真最中である。南朝、北朝それぞれが複雑に絡み合っておよそ三年に亘って抗争が続いた。室町幕府草創期の内乱である。島田俊和『観応の擾乱』(中公新書)が分りやすい。
     難波田氏は後に扇谷上杉氏に従った。関東管領上杉氏も、上州に本拠を置いた扇谷氏と、伊勢原に本拠を置いた山内氏との間で抗争が続いた。ここに古河公方が加わって、戦国前期の関東地方は実にややこしい。太田道灌は山内上杉氏の家宰として活躍したが、扇谷氏の謀略によって主君山内定正に殺された。大山街道を歩いて、伊勢原で道灌の墓は見ている。河越城、岩槻城などは、上州の扇谷氏に対する備えであった。しかし道灌を殺してしまった山内氏はやがて没落し、その間に後北条氏が台頭してくる。
     北条氏と上杉氏との間で戦われた松山城の攻防戦で、難波田重憲と北条方の山中主膳との間で和歌による問答が行われた。

    山中  「あしからじよかれとてこそ戦はめ なにか難波田の浦崩れ行く」
    難波田 「君おきてあだし心を我もたば 末の松山波もこえなん」

     喫煙所で煙草を吸っていると、スタッフの男性が一人やって来た。「この喫煙所も今月いっぱいで終わりなんですよ。全く。」「多額納税者なのにね。」
     「時々来る観光客が、石垣も天守閣もないのに、何故ここが城なのかと言うんですよ。」流行りの城ガールとかはそんなものだろう。「石垣とか天守閣なんて、城の長い歴史の中で、ほんの短い期間なんですけどね。」城と言えば天守閣を連想する人が多いのは事実だが、信長の安土城が採用するまで、櫓はあっても天守閣はなかった。石垣も安土城の少し前の天文年間(一五三二~一五五五)、六角氏の観音寺城で築かれたのを嚆矢とする。

    戦国期から江戸時代のはじめにかけて、城のかたちはさらに目まぐるしく変化します。そのなかでついに織田信長の安土城があらわれ、中世の城と近世の城とを分ける分水嶺をつくり出しました。(千田嘉博『戦国の城を歩く』)

     中世の城は土塁と堀跡、曲輪の形を見るべきものだが、素人が見てもその縄張り(設計図)は簡単には分らない。
     「難波田氏は江戸時代には旗本になって残りました。」明治維新後、一族の一部は北海道の屯田兵をなったと言う。「今でも難波田橋っていうのが残っています。」こういうことはパンフレットにも書いていない。
     「荒川と水田が防御になったんですよね。」ここは全くの平城である。「入間川の自然堤防でちょっと小高いんですが、周囲は泥田でした。馬は入って来られない。」忍城が石田三成軍に耐えたのも同じ理屈だ。「つい最近まで、この辺も全部田んぼでした。区画整理の時に遺構が見つかったんですよ。」
     煙草を吸い終わって中に戻ると、皆はビデオを見ていた。富士見市は昭和三十五年にはホウキモロコシの作付面積が県内一位となり、座敷箒が特産品として作られていた。現在ではホウキモロコシは栽培されていないが、ボランティアの手で難波田公園の敷地でホウキモロコシの栽培が試みられている。

     「どうする?歩き始めるかい。」「いいよ。市役所の辺りまで行って考えようか。」一時だ。受付で道を確認するとこの辺りの詳細な地図を渡してくれた。「民家も見たいですよね。」公園の半分は古民家ゾーンになっていて、旧鈴木家長屋門、旧大澤家、旧金子家住宅が移築復元されている。「あの中で飯を食べてもいいんだ。」子どもたちが座敷の中で飯を食っているようだ。「いい所じゃないですか。」雨のない時に、ゆっくり見学してもらおう。駐車場入り口のそばに「ちょっ蔵」と言う売店があって、そこを覗いてみると、地元の野菜のほかミュージアムグッズも売っている。
     一時十分。傘をさして地図を見ながら歩くのは結構難儀だ。今度は桃太郎が地図を見ながら先導してくれる。私が方向音痴だと悟ったのである。狭い道だ。「アマガエルが。」二センチ程の小さなアマガエルが側溝の石の上を跳ねている。「下見の時は?」「ここは通らなかったんだ。」不安だから大通りに戻ってかなり遠回りしたのである。「そこを左ですね。」自動車道を越えて少し行って右に曲がる。「あそこの寺かい?」そのようだ。
     川龍山興禅寺だ。富士見市下南畑七十四番地。曹洞宗。山門を潜って境内に入ったが、さて、ここでは何を見るのだったか。自分で計画しながらすっかり忘れている。案内文を確認して、そうだ、山門脇の丸彫り青面金剛だと思いだした。すぐに境内から出ると、遅れていた姫やハイジがその青面金剛の前にいた。その脇には戒壇石が立っている。
     「これは珍しいですね。」桃太郎もファーブルに「普通は浮彫ですよ」と説明する。合掌型で残念ながら上腕二本は折れてしまっているようだが、石を丸彫りしたのは珍しい。私は石神井周辺で一体見ただけだ(下石神井五丁目)。「邪鬼を踏んでますね。」「下の右手がショケラを持ってるみたいですね。」ショケラは首だけで体部分は欠けている。左手には鈴を持っているようだ。台座に三猿がいる。この台座、邪鬼、金剛が一つの石から彫り出されている。
     「お腹が膨らんでるのね」とハイジが笑う。優しく膨らんだ腹部は観音像にはよくあるが、憤怒相を基本にする金剛像には珍しいだろう。
     「境内には入らないんですか?」「入ってもいいよ。」特に見るべきものはない筈だ。実は後で調べると、この地で処刑された彰義隊残党の供養塔があったようだ。一応由緒を調べておこう。

     当山ハ、ソノ昔善福寺ト云ヒシガ、其ノ創立年代モ所属宗派モ不明ナリ。天文頃兵火罹リ廃墟セリ。後、慶長ノ頃、蓮光寺(川越市渋井)第八世明庵闘的和尚(寛政二年十二月遷化)来り再興シ、光禅寺ト称フ。元禄三年現本堂ヲ再建ス。興禅寺ト改称シ、爾来法燈連綿トシテ今二至ル(縁起)

     民家の庭には、花(実はガク)がやたらに密集したヤマボウシが咲いている。「こんなの初めて見るわ。」ヤマボウシの花は上を向いて咲く筈なのに、これは幹や枝葉を覆い隠すように全面に外側を向いて咲いているのだ。
     この辺の右側に煉瓦造りの水越門樋がある筈なのだが見つからない。下見の時には確かに見ているのに確認できないのは悔しい。明治三十七年開設の赤煉瓦の樋門である。水越門樋は上南畑、南畑新田地区の排水を新河岸川へ落すための樋管で、新河岸川が増水した時には、その洪水流が堤内地(住宅地の側)へ流入してくるのを防ぐ役目(逆流防止水門)を果たしていた。この周辺にはこの形の樋門がいくつか残っている。
     上南畑神社には寄らずに通り過ぎようとすると、「狛犬がカワイイ」と姫やハイジが言う。「入らないんですか?」「入ってもいいよ。」雨のせいで根性がなくなっている。富士見市上南畑二九五番地。「狛犬のお腹が細いのよね。」獅子山に乗る狛犬は昭和四年(一九二九)建立である。
     創建年代は未詳だが室町時代中期にはすでに祭祀されていたと言う。地名だけの神社名の場合、明治以降の改称の可能性が高い。案の定、元は水越明神社だった。明治四十一年の神社合祀で近隣の明石氷川(柿本人麻呂)・雷電・稲荷・蛇木(村の鎮守)・須賀(牛頭天王だろうネ)を合祀し、明治四十二年に上南畑神社と改称。
     ここで人麻呂が出てくるとは思わなかった。調べてみると川越氷川神社の境内に柿本人麻呂神社がある。人麻呂の子孫と称する綾部氏が奉斎したと言う。しかし人麻呂の生涯は謎に包まれていて、その子孫を称する一族がいるなんて知らなかった。人麻呂と言えば梅原猛『水底の歌』が人麻呂刑死説と、猿丸大夫と同一人物説を主張したが、学会では誰も相手にしなかった。哲学者が歴史を語る時、ややもすれば歴史研究に必須の地道な考証・厳密な史料批判が欠けるのである。
     その先にあるのが密樹山金蔵院だ。富士見市上南畑三〇二番地。真言宗智山派。慶長十五年建立。ここでは土塀と長屋門を見てもらう。「中は入らないんですか?」丁度法事が終わったようで、法事客がぞろぞろ出て来た。特に見るべきものはない筈だが、明治八年(一八七五)南畑小学校の前身になる徳明学校がこの寺で開かれている。
     その先を左に曲がり、信号を更に左に曲がる。県道三三四号になるようだ。新河岸川を渡る。「今朝渡った川だろう?」「あれは高速ですか?」「二五四号って書いてある。」「立体交差か。」川越街道のバイパスで、かつては富士見川越有料道路として料金を徴収していたが、抜け道が多いので私は利用したことがない。二〇〇九年八月から無料になった。  「ららぽーとがあるよ。」「こんなところに?」平成二十七年(二〇一五)四月に誕生したからつい最近である。「ららぽーとって有名かい?」ヤマチャンは知らないか。「有名ですよ。イオンモールみたいな商業施設です。」経営母体は三井不動産だ。三百三十九店舗が入っていると言う。昭和五十六年(一九八一)船橋ヘルスセンター跡地に「ららぽーと船橋ショッピングセンター」が開店したのが第一号店だった。当時千葉営業所勤務だったので、ららぽーと内の店舗の棚卸の応援に駆り出されたことがあった。
     「その先に文化会館があるから、そこで休憩しよう。」富士見市市民文化会館「きらり☆ふじみ」である。富士見市大字鶴馬一八〇三番地一号。今日は埼玉県立芸術総合高等学校(所沢市三ヶ島)舞台芸術科の第十八回公演が行われている。ホールの前のベンチに腰を下ろす。
     「喫茶室がある」とスナフキンが探しに行ったが、そんなものはなかった。「そこが空いた。」ちょっとした空間で、開演前の時間でおにぎりを食べる母親もいる。雨は一向にやみそうにもない。「もうバスにしようか?」この後は山崎公園(せせらぎ菖蒲園)に行こうと思っていたのだが、この雨では行っても仕方がないだろう。
     スナフキンが受付からバスの時刻表を貰って来た。隣の市役所前にバス停がある。「それじゃ行こう。」貰った時刻表では二時二十一分にある筈だが、バス停に着けばそんなものはない。「八分がある。」時刻表との関係は謎だが、鶴瀬行きがすぐに来た。十分程で鶴瀬駅に着いた。
     鶴瀬駅前で飲めそうな店はない。「朝霞台に行こう。」武蔵野線との乗換駅だからみんな便利な筈だ。やって来たのは新木場行き普通電車だ。「俺は毎日これで通勤してるんだよ。」「座れないでしょう?」「それが行きも帰りも座れるんだ。」ただ、一時間半も座りっぱなしだと腰が痛くなってくる。
     朝霞台に着き、ハイジは武蔵野線に乗って帰って行った。まだ三時だ。「あそこに行ってみようか」とファーブルが向かったが、前回(成田街道)の二次会で入った店は四時開店だった。駅前に戻ると、居酒屋があった。「もつ焼き 松」である。「営業中だよ。だけどモツは大丈夫?」「大丈夫です。」姫が大丈夫なら問題はない。「カツオのたたきが三百五十円だ。」「安いね。」
     ビールはスーパードライだからファーブルは飲めない、「だけど炭酸系が欲しい。」「それじゃチュウハイにすればいいよ。」「チュウハイって?」北海道にチュウハイはないのだろうか。「焼酎ハイボール。」七〇年代にはなかったと思う。八〇年代に大衆居酒屋チェーンが出現し、女性が気軽に居酒屋に来るようになって、この飲み方が生まれたのではなかったろうか。焼酎が普通に飲まれるようになったのはこれがきっかけだろう。
     焼酎の金黒が九百ミリで二千五百円のところ、二千円になっている。「安いじゃないか。」ヤマチャンと姫はビールで通し、他は焼酎に切り替える。カツオのたたきは、妻が時々生協で買う冷凍ものと同じ程度だった。「三百五十円だからね。」栃尾揚げと言うのは最近知った。厚揚げではなく分厚い油揚げなのだが、これが旨い。結局モツは食べなかった。金黒を二本空けてお開き。三千円也。
     外はまだ明るい。次は北海道の店に入る。「作文に書いてたけど、蜻蛉がホッピーを初めて飲んだのはこの店じゃないよ。」スナフキンに言われては私の勘違いだと思うしかない。「だけど、ホントに喧嘩するんだよ。参っちゃうよな。確か、相手は秋田の奴だった。」それは覚えていない。この店では日本酒にする。「俺はビールにしよう。」ファーブルは今日初めてのビールだ。二千円也。

    蜻蛉