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    近郊散歩の会 第二十四回 和光・新座・朝霞(妙音沢の湧水)
       令和元年七月二十七日(土)

    投稿: 佐藤 眞人 氏 2019.08.13

     日韓関係は憎悪と報復の連鎖により泥沼状態と化した。両国政府に出口戦略があるとは到底思えず、結局トランプ流を模倣して右往左往しているだけだ。文在寅も安倍晋三もトランプの仲介を待っているのだろうが、それは無理というものだ。
     そんな中での参議院議員選挙は投票率四十八・八パーセントだった。驚くのはN国党なんていう泡沫政党が、百万票近い得票で議席を獲得したことだ。最初意味が分らなかったが、NHKから国民を守る党であった。選挙直後に日本維新の会を除名された丸山穂高を入党させ、渡辺喜美と統一会派を組んだ。統一会派の名称は「みんなの党」である。笑えないマンガでしかないが、笑っているだけでは終わらないだろう。日本の「民主主義」はこの程度なのである。
     この他にも「労働の解放をめざす労働者党」、「安楽死制度を考える会」なんて言うものもある。それにしても山本太郎のれいわ新選組が重度身障者二人を当選させたのには驚いた。こんなやり方があったとは誰も考えもしなかったろう。実効性は分らないが、手法としての革新性に驚いたのである。しかしこれもポピュリズムの懸念がある。
     そして既成野党のダメさ加減もはっきりした。こんなに細かく分裂していては安倍政権打倒どころではない。三十二の一人区で野党統一候補を出したものの当選は十人に終った。枝野も玉木も志位も山本太郎に秋波を送っている。結局、反安倍勢力が共産党も含めて一つの政党にまとまるしか手立ては残されていないのではないか。たとえ野合と言われても良い。それが実現すれば私も投票に行くだろう。

     今年は梅雨が長かった。漸く三四日前から雨が止んで暑くなり梅雨は終わったかと思ったが、週末には台風の影響で大雨が予想され、梅雨明け宣言は持ち越された。台風自体が関東に上陸する恐れはないが、その東の雲が大雨をもたらすと言うのである。しかし昨夜、今回担当のロダンから何があっても決行するというメールが来た。大丈夫かな。夜の間ずっと雨音がかなり高く続いていて心配したが、起きたときには殆ど止んでいた。ロダンの人徳である。
     旧暦六月二十五日。大暑の初候「桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)」。城西大学に行く裏道に、あの薄紫の花が咲いているだろうか。
     集合は東武東上線の和光市駅である。通勤定期の範囲内だから今日は交通費がかからない。しかし朝から蒸し暑い。集まったのは、ここ二回欠席して久し振りのロダン、ダンディ、スナフキン、ファーブル、ヤマチャン、桃太郎、ハイジ、あんみつ姫、蜻蛉の九人だ。
     「桃太郎は大丈夫なの?」御母堂を亡くしたばかりで忙しいのではないか。「大丈夫。大体終わったから。」ロダンも様々な雑事がまだ残っている筈だ。ファーブルと桃太郎はコンビニに弁当を買いに行った。
     「朝霞台から川越方面かと思ってました。」「ここは東上線と有楽町線が通ってるんですか?」「副都心線も通るよ。」有楽町線は新木場まで、副都心線なら東横線を経由して元町・中華街まで行けるのだ。
     しかし和光市駅は乗り換えで通過するだけで降りたことは余りない。南口から二五四号に出れば理化学研究所や本田の中央研究所(大昔、営業で行っていた)、税務大学校、自衛隊朝霞駐屯地などがあるが、北側の台地には何もないと言って良い。
     北口に出て妙蓮寺通りを行けばすぐに高速の上に出る。「これが高速?」「関越かな?」私は地図が読めないのかも知れない。「外環だよ。」六百メートル程行くと新倉ふるさと民家園だ。和光市下新倉二丁目三十三番一号。「前に来たことあるんじゃないの?」確かに記憶がある。記録をひっくり返すと、平成二十六年七月、成増から白子を通って和光市駅まで歩いた時に立ち寄っていた。

     新倉ふるさと民家園は、和光市指定文化財「旧冨岡家住宅」の移築復元後、平成十八年六月十七日に開園しました。
     この旧冨岡家住宅は、およそ三百年前に創建されたと推定され、埼玉県内で最古の部類に入る歴史的価値の高い建造物です。東京外郭環状道路建設に際し、解体を余儀なくされましたが、所有者の冨岡氏から部材の寄付の申入れがあり、市は旧冨岡家住宅を移築復元しました。
     現在は、新倉ふるさと民家園として一般公開しています。
     民家園の敷地はおよそ二千平方メートル(約六百坪)です。園内には茅葺き屋根を持つ「旧冨岡家住宅」をはじめ、潜り門・納屋風管理棟・蔵風ポンプ室等の建造物と、畑・池などがあります。(和光市「新倉ふるさと民家園概要」)

     「ホオズキですね。珍しい。」入口に吊るしてあるホオズキの袋は乾燥して葉脈が網のようになっている。子供の頃には、中身を取り出して風船のようにするのが流行っていたが、私はどうしてもできず、必ず破ってしまった。土間に入ると囲炉裏に薪を燃やしている。この暑さでも防虫と萱の強化のために必要なのだ。しかし土間の入り口に立てば風が心地よい。
     ロダンはここで解説を頼んでいた。解説してくれるのは和光市古民家愛好会のT氏である。「和光市との共同で、管理は私たち愛好会のメンバーが担当しています。若い人はいません。年寄りばかりです。」それはそうだろう。メンバーは二十数人いる。本人は七十九歳と言う。背筋がピンとした人である。しかし話が長い。もう一人の年寄りも同席しているが、こちらは何もしない。途中で若い外国人がやって来たが、だれも応対しないので姫が代わりに話しかけている。
     一部改築した部分があるため、国の文化財に指定されなかったのがT氏は悔しい。しかし自慢もある。「石原さとみが来ました。メトロのコマーシャルです。」石原さとみと一緒に写真に写ったのだ。十五分程あまり関係ない話が続いた後、漸く本題に入ってくれた。「年寄りだから本題に入るまでウォーミングアップが必要なんだよ。」
     母屋は茅葺寄棟造り。桁行九間一尺、梁間約五間、棟高二十七尺、床面積四十六坪。土間に面して座敷(三間四方の板の間)と勝手が並び、その奥にオク(十畳の畳間で長押付き)、デイ(出居。十畳、丸竹天井)、玄関(五畳)がある。「玄関は役人が来た時だけ使います。普段は出入りできません。」その玄関には子供用の学習机とおもちゃが置かれているようだ。座敷の端の奥行きの浅い板壁はオシイタと呼び、床の間の原型である。
     「こういう場所はあちこちにありますが、どこでも触ってはダメと書いてます。ここは、何に触っても結構です。」柱には蛤刃の手斧で削った跡があると言う。何もしないオジサンが手斧を取り出した。石臼を実際に回してみたのは初めての経験だった。外人も手を出す。冷たいお茶を提供してくれるのが有難い。「紙コップじゃなくてお茶碗と言うのが良いですね。」
     茅葺の屋根棟にはアヤメが植えられている。「殺風景にならないように植えてみました。」そういうものか。庭にはピンクのキョウチクトウが咲いている。「これはガマですか?」茶色の穂を付けている。ガマは普通水辺に生えると思うのだが、この辺りは地下一メートルも掘れば水が出ると言うので、それが良いのだろうか。ガマと言えば因幡の白兎を連想してしまうのが年寄りの悪い癖で、こんな常識も今では誰も知らないだろう。石原和三郎作詞・田村虎蔵作曲『大黒様』、文部省唱歌、尋常小学校第二学年であるが、この歌を示す必要はないだろう。

    ここに大穴牟遅神、その兎に教へ告りたまひしく、「今 すみやかにこの水門に往き、水をもちて汝が身を洗ひて、すなはちその水門の蒲黄(かまのはな)を取りて、敷き散らして、その上に輾転べば、汝が身本の膚の如、必ずいえむ」とのりたまひき。故(かれ)、教への如せしに、その身本の如くになりき。(『古事記』)

     大穴牟遅(オオナムチ)は大国主の別名である。また葦原醜男、大物主などとも呼ばれるが、要するに各地の神を一身に象徴しているのだ。それにしてもガマには本当にそんな効果があるのか。あったのである。古事記の時代にガマの薬用効果が知られていたのだ。古代人の知恵もバカにできない。

    花粉には、イソラムネチン、α-ティファステローム、β-シトステロール、ブドウ糖などの成分が含まれる。花粉は生薬としては「蒲黄」(ほおう)と呼ばれる。内服すると利尿作用、通経作用があるとされる。中国南朝の陶弘景注『神農本草経』、唐代の孫思邈著『備急千金要方』には、蒲黄が止血や傷損(すり傷)に効くとある(ウィキペディア「ガマ」より)

     庭の一隅には鶴瓶井戸が復元してある。管理棟の前には、コマ、ベーゴマ、ケンダマ、タケトンボ、羽子板等が並べてある。「これは竹馬みたいなやつ?」竹を輪切りにして紐を通したのはポックリと呼ぶのではなかったろうか。「ヤマチャン、佐賀でもベーゴマはあった?」「佐賀にはなかったね。」秋田にもなかったのはファーブルにも確認済だ。すると関西や関東が中心だったろうか。私は小学四年で熊谷に来て初めて見た。

     「それじゃ行きましょう。」四十分程いたろうか。外に出ると、向かいの少し高くなった空き地に何かの石仏があった。正体は分らない。その隣に小さな祠もあるのだが、中の仏の正体も分らない。
     「新倉は元々、新座(にいくら)なんだよ。そして新座は新羅だった。」こんなことはファーブルは知らないだろう。「そうなの?」現在の和光市、志木市、朝霞市、新座市はかつての新座郡に当たる。

     旧仮名遣いでの読みはにひくら。はじめ新羅郡(しらぎぐん、しらぎのこおり)として設けられ、字を新座郡(しらぎぐん、しらぎのこおり)と改めてから、その字に引きずられてにいくらの読みが正式となったと考えられる。時代によっては志楽・志楽木・志羅木(しらぎ)、志木(しき)、新倉(にいくら)などとも表記し、にいざと読まれたこともある。(中略)
     天平宝字二年(七五八年)八月二十四日に、朝廷は帰化新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を武蔵国の空いた場所に移した。これが新羅郡の始まりという。(ウィキペディア「新座郡」)より)

     和光市は、かつての上新倉村、下新倉村、白子村が合併してできた北足立郡大和町である。昭和四十五年(一九七〇)市制施行時に大和市を名乗ろうとしたが、既に神奈川県に大和市があったため、和光市となった。白子の熊野神社、滝龍寺不動の辺りでは湧水を見た。この「白子」も新羅の転訛で、かつては新座郡の中心だったと推定されている。
     だらだらと上る道で汗が出てくる。駅前に戻って隧道を潜って南口に出る。「向こうと全然雰囲気が違うね。」街になったのである。「なんだか雲が黒くなってきたな。」駅前通りから和光郵便局の向かいの路地「うけら庵通り」に入る。少し雨が落ちてきたが、この程度なら汗ばんだ肌に心地よい。
     「ここです。」ロダンが立ち止まったのは朮庵跡である。和光市本町十六番。朮は古くはうけら、後におけらと言うようになったらしい。キク科オケラ属の多年草で、生薬として用いられる。また京都八坂神社の白朮(おけら)祭も有名だ。

    わが背子をあどかも云はむ武蔵野の うけらが花の時なきものを
    恋しけば袖も振らむを武蔵野の うけらが花の色に出(づ)なゆめ 
    齊可潟(あせかがた)潮干のゆたに思へらば うけらが花の色に出めやも

     万葉集にあるのは、十四巻「東歌」にある詠み人知らずの歌である。古くから武蔵野は朮の自生地として有名だったようだ。また加藤千蔭もこの花を詠み、家集を「うけらが花」と名付けた。

     武蔵野や花数ならぬうけらさへ 摘まるゝ世にもあひにけるかな

     加藤千蔭(一七三五~一八〇八)については深川清澄の村田春海(一七四六~一八一一)の墓でちょっと触れた。賀茂真淵門下で春海と並び称された俊秀である。また書では千蔭流を創始した。中島歌子が千蔭流だったので、樋口一葉も必然的に千蔭流を書いた。
     それは余計なことだが、こうした歌に因んで、天明の頃(一七八一~一七八九)、鈴木家六代目松蔭が建てた庵の名にしたのである。本来は墓守堂だったが、大田南畝(一七四九~一八二三)、北川眞顔など当時の著名な文人墨客が集まって詩歌の会などを催したと言う。太田南畝については今更言うまでもないが、北川眞顔のことは全く調べられなかった。
     現在の建物は平成元年(一九八九)に鈴木家の当主が再建したもので、六畳二間が集会所として使われている。鈴木家のことも調べがつかない。おそらく新倉村の大名主だったろうと想像するだけだ。
     樹齢二百年の大イチョウの脇には石仏が並んでいる。馬頭観音や墓石に混じって、卵塔の中央を丸く窪ませた石がある。「何のために?」分らない。奥は鈴木家の墓地だ。

     「日が照って来たよ。」日が照れば暑い。旧川越街道を越え、二五四号を渡って公園通りを南に進む。両側はURの西大和団地だ。「左に見える建物は?学校じゃないよな。」「理研だと思う。」和光市広沢二丁目一番。「あれも理研だったろう?絶対ありますって。」「小保方さんね。」一時はリケジョの星と騒がれた。
     あの問題は今では、バカな女のしでかしたチャチなコメディだと記憶されていいるだろう。しかし、そこには短期間で成果を上げなければ研究費を打ち切られる、職を失う、そのためには論文を量産しなければならないと言う、現在の科学研究の場に構造的に潜む危機がある。
     ハゲタカジャーナルというのを聞いたことがあるだろうか。勿論ファーブルは知っているだろう。学術雑誌に論文が採用されるためには厳密な査読を受けなければならない。それでは若手研究者はいつまでたっても論文が雑誌に掲載されない。その心理に付け込んで、投稿料を支払えば無審査で掲載するという、つまり投稿料の取得だけを目的としたジャーナルが出現しているのだ。
     つい最近では英国のScience Impact社のImpactと言う雑誌が、投稿料二十万円で雑誌に掲載すると、日本向けに大量にメール攻勢をかけて来た形跡がある。ネットを検索すると、結構有名な大学の研究者でもこれに引っかかっているのだ。その発表の場がハゲタカジャーナルだと認定されれば、その業績は全く評価されないだろう。研究者としての信用も失墜する。それでもハゲタカジャーナルは後を絶たない。
     「今でもサイクロトロンはあるのかな?」「ありますよ。仁科センターにあります。」ロダンは毎年四月の公開日に仁科センターを見学している。

     わが国では理研の仁科芳雄が国内初(世界で二番目)のサイクロトロン(一九三七)を建造してわが国における原子核物理、核化学、放射線生物の開拓的研究をスタートさせました。このサイクロトロンによって製造したナトリウム24、リン32というRIがはじめて生物の代謝研究(一九四〇)に用いられました。
     第一号サイクロトロン以来、理研は六台のサイクロトロンを建造してきました。サイクロトロン建造技術はまさに理研のお家芸となっています。
     現在仁科センターでは第五号目のリングサイクロトロンRRC、六号目のAVFサイクロトロン、七号サイクロトロンfRC、八号サイクロトロンIRC、九号サイクロトロンSRC等が稼働しています。(理化学研究所仁科加速器科学研究センター)
     https://www.nishina.riken.jp/about/history.html

     そもそもサイクロトロンが何か私には分っていないのだが、粒子を高速に飛ばすための加速器だという。仁科芳雄は今更言うまでもなく、日本の原爆開発の責任者であった。
     太平洋戦争の敗北は日本の科学の敗北だった、戦争中の日本に科学研究の自由がなかったことが敗因だったという論調は今でも生きているのではないか。それに対して山本義隆が、実は戦争中程、科学者が自由に研究できた環境はなかったと批判している。

     戦後、一九五一(S二六)年に日本学術会議の学問・思想の自由保障委員会が全国の研究者にアンケートを出し、過去数十年間で学問の自由がもっとも実現していたのはいつかと問うたのにたいして、戦争中という回答がもっとも多かったのである。大部分の理工系の学者は、研究費が潤沢であるかぎりで、科学動員による戦時下の科学技術ブームに満足していたのである。
     戦前から多くの科学者と親交のあった科学評論家・松原宏遠の書には、戦時下での物理学者について、「眼を物理学界にむけると、何としたことか、ここだけはきわめて明るく、なかでも(理研における)仁科芳雄を総帥とする理論物理学の若手たちは、いわゆる冬の時代の日本にありながら、自由に溌剌として研究にいそしんでいるのが印象的でした」とある(松原、一九六六)。実際にも理研はしばしば「科学者の自由な楽園」と語られてきた。しかしその「自由」は、理研指導部の戦争への全面協力によって保障されていたのである。(山本義隆『近代日本一五〇年――科学が医術総力戦体制の破綻』)

     仁科自身、アメリカには遅れた悔しさはあっても、原爆開発に対しでは戦後になっても否定的でなかった。そしてそれは仁科だけではない。

     原爆製造に始まった原子力開発にたいするこのような肯定的な評価と楽観的な見通しは、仁科にかぎったことではない。一九四六(S二一)年一一月に、「科学振興による日本の復興」という当時の思潮にのって科学雑誌『科学圏』が創刊された。その創刊号の特集が「アメリカ科学の展望」であり、その「編輯後記」に「コペルニクス的転回以上の一大革命である原子力時代をもたらしたアメリカの科学は、人類史上に人類平和の理想を高くかかげた」とある。多くの物理学者は、原爆に体現された巨大なエネルギーの「解放」を「近代科学の精華」と受け止め、戦後世界人おける進歩のシンボルと見なしていたのである。(山本)

     自然科学は人文社会科学の批判的検討を経なければ、どこまでも暴走していくだろう。文科系の人間は数式や科学的用語を前にすると、無条件でひれ伏してしまうが、対等に立ち向かわなければならない。国が文科系学問を縮小しようとするのは理由がある。
     「自衛隊は?」「もうちょっと西の方だね。」そして埼玉県営和光樹林公園に入った。和光市広沢三番地内。十一時四十分。キャンプ・ドレイク(旧米軍朝霞キャンプ)の一部を使った、約二十ヘクタールの広大な公園である。南は練馬区大泉学園、西は朝霞市と接している。

     キャンプ・ドレイク(英: CAMP DRAKE)は、埼玉県の和光市・朝霞市・新座市、東京都練馬区にまたがる、アメリカ陸軍第八軍団隷下部隊や第一騎兵師団(ウィリアム・チェイス将軍)が駐屯していた基地の名称である。旧米軍朝霞(あさか)キャンプ。施設番号はFAC 3048。
     キャンプは「キャンプ・ノース(英: CAMP North)」「キャンプ・サウス(英: CAMP South)」から成る南北二つのエリアで構成されている。基地面積は約四・五平方キロ。一部地域を除き返還済みである。なおドレイクとは、一九四五年(昭和二十年)マニラの戦いにて戦死した同騎兵師団大佐であったロイス・A・ドレイクに因む。(ウィキペディア「キャンプ・ドレイク」より)

     「昭和記念公園みたいだな。」あそこも立川基地の跡地だ。もう真夏の空で、白い雲が流れていく。「雲の流れるのが早いよ。」「向こうにアズマヤがありますから。」樹林公園と言っても広大な敷地の舗装された道を歩くのだ。ロダンはドンドン歩いていく。暑い。広すぎる。アズマヤはまだか。
     しばらく歩いて漸く四阿に辿り着いた。「パンだけだと味気ないよ。」コンビニで買ったパンを食いながらファーブルがこぼす。所詮パンは代用食である。おにぎりに勝るものはない。こう暑いと弁当の傷みが気になるが、保冷バッグに保冷剤も入れて来たから大丈夫だった。飯が終われば飴、煎餅が配られる。水筒が空になったので、自動販売機でお茶を補充する。
     すぐそばにはバーベキュー場があった。この暑い中でバーベキューなんか考えられない。食材持ち込みで大人一人千円である。「高いじゃないか。」テーブルの貸し賃があるんだろう?」料金にはテーブルコンロ、椅子、炭、網、アルミプレートなどが含まれている。
     十二時半に出発する。公園の南側は練馬区の大泉中央公園になっている。練馬区大泉学園町九丁目。つまりこの道路が東京都と埼玉県の県境になるのだ。「大泉学園って前にいかなかったかな?牧場のあったとこ。」「行ったよ。」去年の四月のことだが、大泉学園駅はここから直線距離で三キロ程ある。
     「右は何だい?」「自衛隊だ。」正式には陸上自衛隊朝霞駐屯地である。「女性だ。珍しいね。」正門には女性自衛官が銃を持って歩哨に立っている。「写真は拙いよね。」「当然、防犯カメラ作動してるだろうね?」「怪しい老人の集団だって思ってるよ。」

     ・・・・・駐屯地の敷地は東京都練馬区、埼玉県朝霞市、和光市及び新座市の一都一県、一特別区三市にまたがって所在している。東京都練馬区にかかるのは東部方面総監部庁舎及び正門部分のみだが、自衛隊の駐屯地の住所は駐屯地司令部がある場所によって判別されるため、陸上自衛隊公式サイトなどに記載されている便宜上の住所は「東京都練馬区大泉学園町」、国有財産情報では「東京都練馬区大泉学園町無番地」として登録されている。なお、地図上では「東京都練馬区大泉学園町九丁目四番」に当たる。(ウィキペディア「朝霞駐屯地」より)

     「あれが振武台碑です。」ロダンが指さし、姫が柵からカメラを差し込んで撮影しようとする。「危ないよ。」柵の上には電気が通っているのだ。ここは陸軍予科士官学校があった場所だ。日中戦争の拡大に伴い、将校の育成のために生徒を大幅に増やしたことから市ヶ谷台が手狭になった。昭和十六年(一九四一)九月に移転してきて振武台と称した。

     予科士官学校に在校した生徒は、陸軍幼年学校の卒業生、満十六歳から十九歳までの採用試験合格者や同じく試験に合格した下士官などで、一九四一年から終戦時まで一万五千名もの生徒が学んでいた。また、中国、タイ、モンゴル、フィリピン、インドなどの留学生なども入校している。(ウィキペディア「陸軍予科士官学校」)

     予科を二年で卒業すると士官候補生(階級は上等兵)となり、半年間の隊付きの間に伍長から軍曹に昇進して本科に進む。本科の修業年限は一年十ヶ月。卒業と同時に見習士官(階級は曹長)となって、数ヶ月の隊付きの後に少尉に任官する。
     これが正規のコースだが、別に高等教育機関の卒業生を幹部候補生とするお手軽コースがあった。甲種幹部候補生は一年で少尉任官、乙種幹部候補生(オチカン)は下士官(軍曹、伍長)に任官する。前線最も損耗が多かったのはこのクラスだったから、正規のコースを待ってはいられなかったのである。
     「市ヶ谷には入れないんでしょう?」「入れますよ。見学ツァーに申し込めば。」ロダンはそんなところにも行っているのだ。「極東国際軍事裁判法廷でしたからね。」インターネットで防衛省「市ヶ谷台ツァー」に申し込む方式のようだ。「市ヶ谷の三島事件は私が高校一年の時だったな。生物の授業だった。」「ロダンは二年生だよ。」私が大学一年の十一月である。
     歩道の所々にエコ・スタックと言うものが設置されている。枯草を積み重ねて、堆肥を作るようなものかと思った。しかし看板には「こんちゅうたちのすみかです」と書かれている。藁くずや枝や石ころを積み上げて、昆虫などの小動物が生息しやすいようにするものらしい。
     道路の左は大泉学園桜小学校、中学校が並んでいる。埼玉県新座防災基地の角から南大通り渡れば新座市だ。栄小学校が何かの行事なのか、叫ぶような喧しい歌声が聞こえてくる。「最近の歌は分らないわね。」「詩とリズムがあってないし。」我々は時代に乗り遅れた人たちなのだ。
     そのまま真っすぐ栄緑道に入る。と言っても公園である。元は川だったように、微妙に曲がりくねった道だ。左は新座総合技術高校。緑道を抜ければ市場坂通りになる。
     信号から左斜めに行く道はサンライズストリートと名付けられている。「洒落た名前じゃないか。」「朝日が当たるのかな?」「ハウスじゃなくて良かったね。」ファーブルは『朝日のあたる家』を連想したのだろうか。The House of the Rising Sun。私たちの世代はボブ・ディランやアニマルズで覚えたが、ちあきなおみの日本語バージョン(浅川マキ詩)が良い。

    私が着いたのは ニューオーリンズの
    朝日楼という名の 女郎屋だった

     しかしその道ではなく、ロダンは真っ直ぐ行く。右は市営霊園外周の崖になっていて、植え込みの葉の一部を短く刈って何かの文字を示している。
     「目黒川です。」「こんなところを目黒川?」「違うよ、黒目川。」「アッ、失礼しました。」市場坂橋から下に降りて行く。雑木林の間から覗き込むと、これが東京と埼玉の境にあると思えない。「等々力渓谷を思い出しますね。」新座市栄一丁目。
     「涼しくなったね。」黒目川に沿った林の中をせせらぎが流れていて気持ちがいい。妙音沢である。日本の名水百選に選定されている。「平成の名水って飲めるんじゃないの?」「いくらきれいでも、この水は飲めません。」せせらぎの音が妙なる琵琶の音のようであると言うのが、妙音沢の由来である。新座市内の方台寺に残る『妙音沢物語』には、琵琶法師が弁才天に秘曲を授かったと言う伝説が語られていると言う。

     市の南部、黒目川沿いの急斜面の雑木林内に湧き出ている妙音沢。環境省が所管する「平成の名水百選」に選定されている清流です。黒目川に注ぐまでの流れは百メートルほどで、そこにはきれいな水にしか生息しないプラナリア、サワガニ、ヘビトンボなどが見られ、貴重な植物も数多く自生しています。(新座市産業観光協会)

     妙音沢旗桜の案内板がある。サクラの新種が発見されたのである。雄蕊が変形した旗弁があり、そのため花弁が二重についているように見えると言う。そこから木道を通って上って行く。崖の下の部分を金網で覆って石を詰め込んであるのは、土砂崩れを防止するためだ。上には住宅が見える。この下から水が湧き出ているが、生活排水が混入している恐れがあるから飲んではいけない。
     それでも澄んだ水に手を差し入れると水が冷たい。ロダンの案内によれば、六万年から三万年前に荒川が形成した河岸段丘である。比高差は十八メートルと言う。水温は年間通じて十六度から十八度。冷たい訳だ。
     更にせせらぎに沿って木道を進めば水が涌き出る場所に着いた。毎分一トンの水が涌くと言うからかなりの水量だ。「三島の湧水は良かったわね。」規模は比べ物にならないが、水が湧き出ているのを見るのは気持ちがいい。羽根の黒い蜻蛉はハグロトンボか。高校生らしい女の子二人がいて、一人だけが熱心に観察している。一人は全く興味なさそうな顔をしている。お付き合いでついて来たのだろう。
     「春にはカタクリも見られます。」姫はその季節に来たことがあるらしい。「それじゃ行きましょう。」清冽なせせらぎと涼やかな林間。ここに来ただけでも今日の目的は達成した。「この時期だから来たかったんですよ。暑い日に、この中の涼しさを実感してもらいたかったので。」ロダンの考えは正しい。
     しかし道路に戻るとやはり暑い。今度は黒目川沿いの遊歩道を北に向かう。黒目川は「小平霊園」内の湧水に始まり、東久留米市、埼玉県新座市、朝霞市を流れ朝霞市大字根岸新座市内を経て新河岸川へ合流する。かつては久留米川、来目川とも表記された。湧水が多く「水を汲める」、あるいは湧水によって「土が黒めの肥沃な地」に由来するとの説がある。
     「あれは鮎?」「あんなに大きくないよ。」「鯉だね。」土手には「コロガシ禁止」の立て札があった。なんだ、それ?「誰かを転ばしちゃダメってことか?」「それはないでしょう。」「友釣りじゃないんだよ。だけどこんな川でアユが釣れるか?」スナフキンは釣りも詳しい。釣り糸に掛け針を複数付けて、川底を転がすようにすると鮎が大量に引っかかる。それをコロガシと言う。埼玉南部漁業協同組合規則にはこう書いてある。

     この漁場区域内で使用できる漁具・漁法は、さで網(まち網を含む。以下同じ。)、四つ手網、投網、やす突及び釣りに限る。
     釣りについては、組合が定めて公示した漁具・漁法以外の漁具・漁法を使用して遊漁をしてはならない。

     この暑さで姫はかなり疲れているようで、遅れがちになってきた。「まだでしょうか?四時半まではとても歩けません。」ロダンの計画では朝霞駅到着が十六時三十分とあったのだ。「三時頃には終わると思います。すぐそこにアズマヤがありますから休憩しましょう。」畑中黒目川公園で休憩する。新座市畑中二丁目十七番十五号。一時五十一分。四阿ではなかったが、パーゴラの上を黒い網のようなもので覆っているので、日陰になっている。ホタル観賞会のポスターが貼ってある。
     スナフキンのシャツからは塩が吹いている。川の向こうに大きなビルが見える。屋上にボーリングのピンを載せたラウンドワンである。「ボーリング場かい?」「若い子たちがはしゃいでるコマーシャルがあるじゃない。」ゴールデンボンバーとかいう連中だったか。「ゲームなんかもあるんだろう?」私には縁のない場所だ。
     「昔、初めてボーリングした時の点数が三十点だった。」投げる球がほとんどガーターになるのだから仕方がない。「時々そういう奴がいるんだよな。」中山律子がアイドル(!)だった時代である。その後、二三回やったが、九十点が最高だった。そもそも私はボールを扱う競技には向いていない。「ビール飲みたい。」「ホントだね。」
     二十分程休憩して姫も少し復活した。二五四号を越え旧川越街道に入れば、住所表示は膝折(ひざおり)になった。川越街道膝折宿である。「鶴ヶ島には脚折がある。」馬の膝が折れたと言うのは俗説である。ヒザ、ヒジ、スネなど、どちらも急な坂道を意味するようだ。
     「ロダンは元気だね。」一人でどんどん先を歩いていく。ひざおり通りに入って末無川交差点から曲がると、膝折市民センター・ひざおり児童館だ。朝霞市膝折町一丁目七番四十号。二時半。朝霞市の名は朝香宮鳩彦王に由来する。元は北足立郡膝折村だったが、昭和七年(一九三二)、世田谷区駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部のゴルフ場が膝折に移転してきたのをきっかけに、町制施行にあたって倶楽部の名誉会長だった朝香宮の名前を貰った。但し朝香をそのまま名乗るのは畏れ多く、文字を変えたのである。但しそのゴルフ場は昭和十五年(一九四〇)に陸軍予科士官学校用地として接収されたから、僅か八年しかもたなかった。
     中では子供たちが六七人遊んでいる。他に行くところがないかと言いたいところだが、この暑さだから仕方がないか。給水機の水が冷たい。昼に買ったお茶がなくなったので、水筒にこの水を補充する。ハイジも私と同じことをした。
     後は朝霞駅に向かうだけだ。ビールの自販機を探したがない。「コカコーラばっかりだな。」「アサヒもあるよ。」カルピスはアサヒ飲料に吸収されていた。「子どもの頃、カルピスの薄いのってガッカリしましたよね。」カルピスは大正八年(一九一九)七月に発売されているからちょうど百年である。「カルピスウォーターは企画してから随分時間がかかったんだ。」ファーブルもおかしなことを知っている。「沈殿しないようにするのが難しかった。」

     同社の商品ラインナップの中核を成すカルピスは濃縮されている原液が瓶詰めされている商品である。従って、飲用時には希釈する手間がかかってしまう。この原液を単純に水で希釈しただけの飲料は、時間経過により粒子の凝集・沈澱などの劣化が生じるため、一九一九年以来濃縮タイプのみ発売され、その後も一九七三年に炭酸飲料タイプ(カルピスソーダ)が発売されているのみであった。
     その後の技術進歩により、粒子径を濃縮タイプの約八分の一に細かくし、鮮度保持のため窒素ガスを封入することにより炭酸飲料ではない、本品の商品化が実現した。
     発売開始時のCMのキャッチコピーは「遅くなってごめん」。(ウィキペディア「カルピスウォーター」より)

     「駅はどの辺?」「真っ直ぐだよ。」「あの信号の辺りか?」まだかなりある。漸く駅舎が見えて来た。「華の舞がある。」「入る?」「駅前で解散してからだよ。」朝霞駅に着いたのは三時をちょっと過ぎたところだ。一万九千歩。十一キロはロダンの計画通りである。ダンディとハイジは帰って行った。
     そして華の舞に入る。取り敢えずトイレでシャツを脱ぐと、二の腕から下が真っ赤に日焼けしていた。着替えると気持ち良い。そしてビールが旨い。突き出しはチャーシュウ。「珍しいね。」「余ったんじゃないか。」一人二枚づつだろうか。しかしそれにしては足りない。「こっちはそれより多いよ。」四人に六枚、三人に八枚がだされていたのだ。
     ファーブルが男全員にビールの追加を注文した。二杯飲むのは珍しいが今日はそれが旨い。「今日は昼間飲まなかったからね。」八月第二週は、いつも姫が番外編を企画してくれるのだが、なんだか体調があまり良くないと言う。無理をし過ぎなのだ。少しは休まないといけない。「それじゃ八月はなしということで。」
     ロダンがスマホに学生時代のグループ写真を取り込んでいた。「これがロダン?」長髪である。しかも痩せているから背が高く見える。「これが女房。」「可愛いじゃない。」愛妻は二歳違いというから姫と同い年である。
     「蜻蛉も長髪だったって、マリーが言ってました。」そういう時代だった。「今だって後ろや横は伸ばせるんじゃないの?」桃太郎は無茶苦茶なことを言う。「伸ばしてどうするの?ちょんまげにするのか。」「月代剃らなくても良いですよね。」姫も無茶苦茶である。
     焼酎を二本空けてここはお開きにしたがまだ物足りない。「朝霞台に行こう。」「エッ、ここは違うのか?」「ここは朝霞、朝霞台は一駅隣だよ。」私以外は武蔵野線を使う筈だから、そちらの方が便利だろう。明日はオープンキャンパスで出勤なのにそんなに飲んで良いのだろうか。
     駅の南口に出てすぐ間違いに気付いた。東上線北朝霞駅の向こうに行かなければならない。ファーブルは勝手知ったる道だからどんどん先に行く。三回続けて同じ店に入るのも珍しい。通されたのは掘り炬燵形式の座敷だ。ヤマチャンと姫はビール、私とファーブルはホッピーの黒、スナフカインとロダンはホッピーの白にした。

    蜻蛉