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    近郊散歩の会 第二十五回 北浦和
       令和元年九月二十八日(土)

    投稿: 佐藤 眞人 氏 2019.10.20

     最初に始まった江戸東京の会(私は「江戸東京季節を歩く会」と言っているのだが)から丸十四年経ち、十五年目に入った。つまり、私の拙い作文も十四年間続いたことになる。これだけ続けば少しは作文もましになるかと思うのだが、なかなか簡単ではない。相変わらず明晰、論理性に欠けている。

     しかし文章の最も基本的な機能は伝達である。筆者の言はんとする内容をはつきりと読者に伝へて誤解の余地がないこと、あるいは極めて少ないことが、文章には要求される。何よりもさきに要求される。(中略)
     ・・・・もしこの伝達といふ条件にかなひさへすれば、たとへ冗長だらうと、同じ言葉が何度も出てきて見苦しからうと、それで一応のところまあ通用するのである。――名文とは決して言へないにしても。逆にどんなに美辞麗句を並べ立て、歯切れがよくても、伝達の機能をおろそかにしてゐる文章は名文ではない。駄文である。いや、文章としての最低の資格が怪しいのだから、駄文ですらないと言ふのが正しいだらう。(丸谷才一『文章読本』)

     私の文章には丸谷の言う最低限の要件が欠けているようだ。林達夫の明晰、大岡昇平の論理に憧れているのに、自分の意図とは違って誤解や不快な思いをさせてしまうことがままあるようで、これは性格が歪んでいるせいではなく、文章が拙劣だということに尽きるのである。ご迷惑をかけた人たちにはお詫びすると同時に、改めて意識を明確にして書かなければならない。ただ私の作文が駄文であるのは能力の問題だから仕方がない。
     旧暦八月三十日。秋分の次候「蟄虫培戸(むしかくれてとをふさぐ)」。朝晩は空気もひんやりと秋めいて来たが、昼間、日が差してくるとまだ暑い。今日は一日中曇りの予報で、それ程暑くはならないだろうとは思うが、タオルをリュックに入れて来た。団地の我が家の階段の下にはヒガンバナが咲いている。
     曇り空だが鶴ヶ島駅に着く頃には汗が滲んでくる。タオルを引っ張り出そうとすると、リュックに入っていない。おかしい。確かに入れてきた筈なのに(帰宅して確認すると、通勤用のリュックに入っていた。間違えたのである)。仕方がないのでコンビニでハンカチを買って汗を拭う。
     今回はヤマチャンの企画で集合は北浦和駅だ。集まったのはハイジ、あんみつ姫、ノリリン、マリー、ハコサン、オクチャン、ダンディ、ロダン、蜻蛉。十人だった。
     「オクチャン、今日はお一人ですか?」「女房は明日、大事なイベントがあるんで、今日疲れてしまうといけないから。」久し振りのハコサンは、「私が参加した時はいつも十三人だったな」と言う。しかし今日はスナフキン、ファーブル、桃太郎、マリオが欠けている。
     東口に出てすぐに左の路地に入ると、ヤマチャンは歩いている人に声を掛けて道を確認する。大丈夫だろうか。少し歩けば廓信寺だ。浦和区北浦和三丁目十五番二十二号。浄土宗。この光景には何となく記憶があるぞ。「五年前に来ましたよ。私はそこの幼稚園に通ってました。」姫は寺が経営する厚徳幼稚園に通っていた。姫に先導されてこの辺りを歩いたのは五年前(平成二十六年八月)のことだ。「どの辺を歩いたの?」ヤマチャンが訊くと「北浦和から上尾まで」と応える。「上尾って随分遠いじゃない?」「違いました。与野まででした。」
     慶長十四年(一六〇九)、岩槻藩主高力清長の追善のため、家臣の中村弥右衛門吉照が創建した寺である。足立坂東三十三観音霊場の札所二番。門前に舟形青面金剛像が二基立っている。左の一基(元文三年)は中央左手にショケラを持ち、右(明和二年)は合掌型だ。元は中山道沿いにあったものを、道路拡幅のために昭和四十一年にここに移転した。
     境内には真っ赤なヒガンバナが咲いている。「巾着田に行ったことあるわ」とノリリンがマリーと笑いあう。巾着田には昔二度程行ったが、今でもあの頃の満開のヒガンバナが見えるだろうか。「幸手の権現堂堤のヒガンバナも見ましたよね。」「コスプレの連中がいた時だね。」たまたまコスプレの大会のようなものにぶつかったのだが、あの連中は実に不気味なものであった。
     元亨四年(一三二四)の板石塔婆はお堂の中に納められていた。綺麗な阿弥陀一尊種子(キリーク)板碑だ。墓地には小泉蘭斎(浦和宿本陣の郷学校教師)や、文久二年(一八六四)針ヶ谷一本杉の仇討で討たれた河西祐之助の墓がある筈だが、そこには寄らない。
     「カヤの木はどれ?」「あれかしら?」「あの一番大きな木ですね」とオクちゃんが確定する。浦和市の天然記念物に指定されるカヤである。「将棋盤や碁盤を作ります。」私もカヤの三寸盤の碁盤を持っている。那智の黒石、蛤石とセットを通販で買ったのだ。普通の五寸サイズのものよりは安かったとは言え私の棋力には不釣り合いに違いない。
     「天童だったかしら?」ハイジは将棋と言えば天童だと思い込んでいるようだ。「天童は将棋の駒の産地だよ。」天童は将棋の駒の九割を生産している。「駒はカヤじゃないの?」「黄楊だろうね。」藤井聡太の登場以来、将棋を知らない人の間でも、関心が広まっている。できれば囲碁の芝野虎丸(十九歳)や上野愛咲美ちゃん(十七歳)にも注目してほしい。
     この時点ではまだ結果が分っていないが、虎丸君は十月四日、張栩名人を破って史上最年少(十九歳)の名人になり九段に昇段する(三段当時、竜星戦で優勝して七段になる。名人戦挑戦者になって八段)。張栩は十年前に井山裕太(当時二十歳、最年少)に名人位を奪われ、今また芝野虎丸に負けたのである。愛咲美ちゃんは竜星戦直前に三段になったばかりで、九月二十三日、竜星戦決勝で一力遼八段(二十二歳。四段当時、名人戦リーグに入って七段になった)に敗れて準優勝に終ったが、もし優勝していれば七段に昇段できていた。これで藤沢里奈女流四冠(二十歳)も奮起するだろう。里奈ちゃんは藤沢秀行名誉棋聖(人格的には無茶苦茶な人であった)の孫である。因みに将棋の世界では男性棋士と女流棋士との間には越えがたい溝があるが、囲碁の世界では理論的に差がない。
     こうした若手輩出の背景にはAIの発達がある。私は将棋を知らないので生噛りの囲碁の知識で言うのだが、囲碁の世界では二〇一六年にAIのAlphaGoが韓国の李世乭(イ・セドル)を四対一で破った衝撃によって始まった。李世乭は二十一世紀初頭の世界最強棋士であった。それ以来、AI碁はこれまでの定石を覆す新定石を生み出すとともに、形成判断でもこれまでの見方を覆した。若手棋士はこのAIで学んでいるのである。
     AIと言うと、膨大な棋譜を覚えて統計的手法で最善手を選ぶのかと思っていたが、実は全く違うようなのだ。自分で学習し、私たちが覚えた定石と、場合によっては真逆の手を打つ。つまりこれまで人間が考えたことのないことをやるのだ。
     しかし今AIがもてはやされているが、早晩、人間の労働の大半はAIに置き換えられていくだろう。その時、人はどうやって生きていくのか。AIを操る人間と、操られる人間との間の差は劇的に広がるだろう。貧困層が劇的に拡大するのではないか。
     境内には脇から入ったので、三門を潜って外に出る。四天門形式の三門の境内側には、かつての三門の屋根を守った鬼瓦が置かれている。「普通は仁王様とかじゃないですか?鬼瓦は珍しい」とロダンが首を捻る。外に出ると門の外側に仁王像が立っていた。元和二年(一六一六)安房国の仏師の作である。三門は寄木造、朱漆。彫眼、差首。内刳りを施す。
     門前に「サツマイモの女王 紅赤の発祥地」の案内板が立っている。これも以前見ている。

    江戸時代以来、関東でサツマイモといえば川越で、「アカヅル」、「アオヅル」といういい品種を持っていた。
    ところが明治三十一年(一八九八)秋、浦和市北浦和(当時の木崎村針ヶ谷)で、それ以上のいもが発見された。
    発見者はここの農家の主婦、山田いち(一八六三~一九三八)だった。いちは皮が薄紅色の「八つ房」を作っていた。それを掘っていると皮の紅色がびっくりするほど濃く、あざやかで美しいいもがでてきた。八つ房が突然変異したもので、形も味もすばらしかったため大評判になった。
    いちの家の近くに、いちの甥で篤農家の吉岡三喜蔵(一八八五~一九三八)がいた。この新しいいもに惚れ込み、「紅赤」と命名、それを広めることを使命とし、懸命に働いた。
    そのため紅赤(俗称、金時)はたちまち関東一円に普及、「サツマイモの女王」とうたわれるようになった。川越いももむろん紅赤になり、その名声はますます上った。
    昭和六年(一九三一)、山田いちは財団法人、富民協会から「富民賞」を贈られた。それはわが国の農業の発展に貢献した人に贈られるもので、農業関係では最高の賞だった。
    今年、平成十年(一九九八)は紅赤発見から百年になる。さしもの紅赤も最近は新興の「ベニアズマ」に押されて振わなくなったが、このいもほど寿命の長かったものはない。そこで山田、吉岡両家の菩提寺で、紅赤発祥の地にある廓信寺の一角に、この功績案内板を設置することになった。
     平成十(一九九八)年九月吉日
         川越サツマイモ商品振興会
         川越いも友の会
         浦和市教育委員会
         廓信寺

     私はサツマイモを殆ど食わないから興味が湧かない。ただサツマイモが日本人の飢えを救って来たのは確かなことだ。皆はベニアズマが旨いと言いあっている。「甘いのよね。」「ホクホクしててね。」イモに限らず、よろず甘い品種が好まれるのは人間が軟弱になったせいであろうと、勝手に決めつけてしまう。
     私はこの案内に川越の団体が関係していることが面白かった。どうやらこの紅赤は栽培が難しく、埼玉県三芳町の三富新田でしか作られなかったらしいのだ。

     近年、川越市内でも栽培が復活した。改良品種の紅あずまと比べると収穫も三割ほど少なく、収穫時期も重なるため紅赤を栽培する農家は限られるが、熱のとおりが早く食感の良い紅赤はきんとんなど正月料理に欠かせない食材であり、「富の川越いも」(商標登録)として高級ブランド野菜となっている。「川越いも振興会」では優良系統選抜を行い、品質安定のための努力を続けている。
     人為的な品種改良をされた品種が大半の現在のサツマイモ栽培で、紅赤の占めるシェアは僅か数パーセントに過ぎない。しかしながら、サツマイモが飢饉食から、今日のようなおやつ・菓子の材料としての「美味しい野菜」としての位置づけを獲得する事となった明治以降の品種改良において、紅赤はその端緒となった品種である。そういった意味で日本農業史、食文化史においての足跡は大きい。(ウィキペデア「紅赤」より)

     ここからほぼ東にまっすぐ歩くと北浦和小学校の正門にぶつかる。浦和区北浦和二丁目十八番十三号。「中に入るけど、大丈夫でしょう。」正門を入ると正面に、高く伸ばした右手に鳩を止まらせた少女の像が立っている。「若い芽」(細野稔人)、ヤマチャンの目的はこれを見ることだった。昭和二十二年に開校した北浦和小学校の、開校四十周年記念に造られたシンボルだ。

     ぼくらはやがて日本の若い力 若い朝 若い世紀をつくるのだ。

     こういう言葉を目にするのは少し恥ずかしい。現在の日本のこのザマを見るがよい。資本主義は既に最末期の状況に入っているが、さりとて社会主義を選ぶわけにはいかない。統計局の予測では三十五年後には日本の人口は一億を切り、二一〇〇年には六千万人台に減少する。それに伴って貧困老人も増えるだろう。さっきも述べたが、AIというものによって、大半の人間は働く場を失い、若年労働者でも職に就けない層が増大するだろう。「若い世紀」は、私には想像できない。そしてそのことに私たちの世代は責任がある筈だが、私は何もできない。
     今日は何かのイベントの日なのか、数組の親子連れが何かを手にして遊んでいる。「それはなんですか?」「カードゲーム。」白と黒のカードで、ちょっと見ただけではどういうゲームかさっぱり分らない。娘は得意なようだが、父親は良く分っていない。父親はすぐに負けたようだ。
     傍にはベーゴマと、ブルーシートをかぶせたバケツが置いてある。オクちゃんが器用にベーゴマを回す。「上手いもんだね。」私はベーゴマはやったことがない。「昔はバイガイで作ってましたね。」バイガイとは巻貝の一種である。それに泥を詰めて重くしたのが始まりという。「全国じゃ、川口の工場だけが作ってるんですよね。」

     校舎を回り込んで北浦和公民館でトイレ休憩をとる。ここで浦和周辺の地図「浦和区文化の小径マップ」を手に入れた。かなり便利なもので、今日のコースは大体これで分かるようになっている。
     「この辺に三郎山跡っていうのがあるんですよ。山がある地形じゃないでしょう?平坦な土地なのに。」山があった形跡は全くなく、ただの住宅街である。ヤマチャンが連れて行ってくれたのは、マンションに囲まれた小さな公園だった。「針ヶ谷三山と天神山」と記した木目調のパネルが建てられ、案内板が設置されている。
     針ヶ谷三山とは三郎山、稲荷山、天王山を言う。そのうちの三郎山がこの辺一帯を指し、浦和郷一万石の代官・中村弥右衛門尉吉照(岩槻藩主高力清長の家臣)の陣屋があった。地名としては残っていないようだが、三郎山を名乗るマンションがいくつかあった。ヤマチャンの調べでは、戦国時代、岩槻太田氏の家臣である熊沢三郎左衛門忠勝の館に因んで名付けられた。

     岩付城主太田十郎氏房の家臣熊沢三郎左衛門忠勝の館があったとされる。氏房は北条氏政の子で太田氏資の養子として送り込まれたものだが、熊沢氏が北条氏から付けられた家臣なのか、太田氏の古くからの家臣なのかは詳らかでない。
     天正十八年(一五九〇)に北条氏が滅び、徳川家康が関東へ入国すると、徳川家臣の高力清長が岩付城主となり、浦和郷は清長の預かり領(蔵入地)となった。その代官として清長の家臣中村弥右衛門吉照が派遣され、忠勝の館が針ヶ谷陣屋として取り立てられた。忠勝は吉照とともに浦和郷統治に当たったとされる。
     吉照は元和八年(一六二二)に没し、代官職は忠勝が継いだとされる。陣屋は寛永年間(一六二四~四五)まで存続したと伝えられ、熊沢家は芝村(現在の川口市芝)へ移ったとされる。(埼玉県の城「針ヶ谷陣屋」) http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.harigaya.htm

     「山と言っても樹木の生えた所って言う意味でしょうね」と言うのがオクチャンの解読である。樹木の生えない低湿地と比べて、樹木の生い茂る高台を「山」と呼ぶのは一般的だと言う。針ヶ谷と言うからには谷戸だったのであろう。高台を崩して谷戸を埋めて平坦にしたのではなかろうか。案内板には針ヶ谷三社(稲荷社、金毘羅社、天満宮)の流造の小社が並ぶ写真も掲載されている。このうち、稲荷は北浦和小学校の場所にあって嬬恋稲荷と呼ばれていたようだ。
     後日、姫が送ってくれた資料「北浦和の歩みと街並みの変遷2――北浦和駅の開設と駅前の変化」に松本正一「北浦和発展史」(昭和四十九年)からの引用があるので、これを孫引きさせてもらう。

     今日の北浦和小学校の周辺の佇まいと、昔の妻恋稲荷山と称した頃の面影をそうぞうすることは殆ど不可能である。あの辺りに稲荷山時代を偲ばせる物は何一つなく、私が子供時代兵隊ごっこをして暴れ廻ったなつかしい古戦場を偲ぶよすがもないのは淋しい。
     稲荷山を中心にして、南方には天王山と称する高地があった。今の北浦和一丁目一四〇番から一五〇番の辺りである。その辺りには未開の原生林を思わせる大木が、うっそうとして昼尚暗いジャングル地帯であった。(中略)
     元来この土地は凸凹が極めて烈しく、中央部が高く東南と北川が低地で、高低の差が五米近くもあった。(略)
     斯うした状況下で私は曲面打開策として、学校用地の周辺の土地約五千坪の地均し小路の施行を決意して組合長に懇願した。(略)すなわち高地を削り取ることに依って生ずる、不要鎚一〇〇〇立米を以て、周辺の泥湿田を埋立てこれを畑に改造し、その費用を畑造成費として、周辺の湿田所有者に負担して貰うというのである。工事は順調に進み、間もなく凸凹の土地は坦々たる平地となり、手の付けられなかった湿田が、見違えるような立派な畑と化した。

     「この神社を見つけちゃったんですよ。」公園から百メートル程離れた住宅街の幼稚園だ。「ここですよ。」ダブル・グレース・キンダーガーデン(双恵幼稚園)である。浦和区針ヶ谷一丁目二十一番二十四号。ここは高台の面影が少し残っている。ヤマチャンはカトリックと言ったが、調べてみるとプロテスタントだ。
     Kindergarten、Kindergardenはドイツ語だと思うが、英語でもそう言うのか。昔子供の頃『キンダーブック』(フレーベル館)という幼児向けの雑誌があり、それはまだ続いている。

     十九世紀前半に活躍したドイツの幼児教育者、フリードリヒ・フレーベルが一八四〇年に設立した小学校に上がる前の幼児のための学校が最初の幼稚園である。幼稚園という語は、彼の作った学校の名前である Kindergarten(フレーベルの造語、「子供達の庭」、「子供の国」の意)を翻訳してできた。
     ドイツ以外の国々でも、フレーベルに敬意を表してドイツ語からの外来語としてのkindergarten、kindergardenという表現を使う。(ウィキペディア「幼稚園」より)

     閉ざされた門扉のすぐ内側に鳥居が建ち、園庭の奥に確かに三つの流造の小さな社が並んでいる。「不思議なんだよ。後で移設したのかな?」キリスト教の幼稚園がわざわざ鳥居や社を移設する筈がない。「この辺一帯の土地を買って、そのままにしてるんでしょうね。」
     正門から回り込んで園庭の横から眺めていると、確かに針ヶ谷三社である。その時、通用門からスーツ姿の背の高い美人が出てきた。「この幼稚園はいつ頃から?」「三年前に創立七十周年でした。」「昭和二十一年か?」かなり伝統がある。「見学はできませんか?」ヤマチャンの質問に、前もって連絡してくれれば平日なら大丈夫だと応える。「ただ今日はお休みで他に誰もいないので。」「分りました。有難うございます。」
     美人は通用門に鍵を掛けて出て行った。「きれいな先生ね。」孫の幼稚園の先生に、こんな美人はいない。こういう言い方はセクハラになるだろうか。幼稚園の先生は体力が勝負だから、私はいつもジャージ姿のイメージしかないのだ。
     十月五日に「ピーターパンとウェンデイのうんどうかい」と称する運動会が開かれるようだ。「こころの幼稚園も五日が運動会なんだ。」「こころちゃんは来年小学校?」「まだ。今は年中組だからね。」
     そのホームページを見ると、日本基督教団麹町教会の牧師だった松尾武が、東京大空襲で教会を焼失した。戦後浦和市に居住し、地元有力者の要請によって幼稚園を設立したのが昭和二十一年(一九四六)のことである。やがて昭和二十八年(一九五三)にはこの辺の高台を購入して双恵小学校・中学校を開設した。但し小学校・中学校は昭和三十八年(一九六三)に閉校となり、幼稚園だけが残っているようだ。松尾武はカルヴァン主義者であり、戦後の日本基督改革派教会の創立メンバーであった。また新改訳聖書の翻訳者のひとりでもあるから、かなり重要な人物だと思われる。
     但し聖書口語訳の試みは上手く言っているのだろうか。斎藤美奈子『読者は踊る』に、「汝、驚くなかれ。いまどきの清書の日本語訳(教会訳編)」という文章がある。それらの種類について、ウィキペディアを参考に抜き出してみる。

    『口語訳聖書』(新約一九五四年、完訳一九五五年)

    『新改訳聖書』(新約一九六五年、初版完訳一九七〇年、二版一九七八年、三版二〇〇三年。
     プロテスタント福音主義による。現在はいのちのことば社発行。松尾は新約翻訳の主任として「ガラテア人の手紙」を担当した。

    『新約聖書 共同訳』(一九七八年)
    カトリックとプロテスタントとの共同事業である。『新共同訳聖書』に先がけ、同訳者らが訳し、同協会が発行。これは完全に失敗だったと思う。まずイエス(プロテスタント系)、イエズス(カトリック系)と名前の表記が違うのだから。斎藤美奈子は「中間をとって『イエスス』にしてみる?まさねえ。」と笑ったが、実際にこの訳では「イエスス」になっていたらしい。

    『新共同訳聖書』(新約一九八七年、完訳一九八八年)
    共同訳の改定。『口語訳聖書』と同じ日本聖書協会が発行。ここで名前は「イエス」に統一された。

    『リビングバイブル』
    ケネス・テイラーによる英語版の翻訳理念を踏襲して日本人牧師の和訳した初版を「日本語版リビングバイブル改訂委員会」が改訂。分かりやすく心に響く日常語でつづられた、パラフレーズで動的等価な意訳であるが、改訂の際には原典に忠実な翻訳を特長とする『新改訳聖書』が参照されている。

    『現代訳聖書』(完訳一九八三年)
    『新改訳聖書』の旧約聖書『出エジプト記』『ヨシュア記』などの訳者尾山令仁による訳。注解書や解説書なしに読むだけですぐ分かる、パラフレーズで動的等価な意訳である。ちなみに、『創造主訳聖書』は本書の本文から創造主なる神を指す「神」ということばをすべて「創造主」に置換したものである。

    『聖書』(改訂訳一九八〇年)
    カトリック宣教師フェデリコ・バルバロとデル・コルの訳(一九六四年版)により講談社改訂版発行。

    『原文校訂による口語訳聖書』(完訳二〇〇二年)
    同じくカトリックのサンパウロ発行フランシスコ会聖書研究所訳註。

     これらの他に岩波文庫版(関根正雄訳「旧約」、塚本虎二訳「新約」)があり、更に文庫ではない「委員会訳」があり、私は関根訳の「創世記」「出エジプト記」「ヨブ記」だけを読んだ。他にも個人による訳があるが、林達夫がこんなことを言っている。

    ・・・・人はこんな比較をするさえ許しがたい冒涜と考えるかも知れませんが、『新約聖書』のスタイルなど原初的には甚だ田舎臭い方言訛りのもので、われわれは後世ローマ教会によってつくられたラテン語訳の伝統によって一種の荘重体としてこれを受取らされているから事が間違ってくるのです。かつて知名のある学者が冗談半分にこの心理的錯誤を是正しようとして、ギリシア・ローマ世界の教養ある人士の文章感覚が『新約聖書』の文体から感じ取られたところは、例えば『ヨハネ福音書』の冒頭の句「太初(はじめ)に言葉あり・・・・言は神なりき」を「はじめに言葉があったんし・・・・その言葉が神様だんし」と訳し直してみるとよくわかると言ったことがありました。お筆先の筆録のスタイルに甚だ似てくるというものです。(「邪教問答」)

     またまた余計なことを連想してしまったが、何もクリスチャンを貶めているのではない。私は初発の宗教意識がどんなものだったかに興味がある。たとえば蓮如による巨大な本願寺教団ができるもっと前、非僧非俗の愚禿親鸞と自称した時代の親鸞の教説は、都の貴族にとっては異様なものだったに違いない。
     もう一度戻って、北浦和小学校と公民館との間の道を行けば、県立浦和高等学校に出る。浦和区領家五丁目三番三号。「浦和高校の跡地は前に浦和で見たよね?」「あれは旧制浦和高校。ここは旧制浦和中学ですよ。」
     明治二十八年(一八九五)埼玉県第一尋常中学校として創立されたのを始めとするから、意外に古くない。明治十九年(一八八六)の第一次中学校令で、尋常中学校(修業年限五年)は各県一校の原則がたてられていたから、それより九年も遅いことになる。
     ヤマチャンの目的は、鉄柵から覗く案内版をみることだった。「柵で隠れてしまって読めないですね。」おかしな位置に立っているのだ。天王の山、大谷石、お地蔵様の文字は見え、文章は分断されて良く分らないが、何とか読んでみた。
     領家の付近には天王山があった。牛頭天王に因む名で針ヶ谷三山の一である。この案内板では、それが高校のラグビー場付近にあったと書いてある。ただこれは一つの説であり、その正確な場所は分っていないようだ。その天王山に沿って天王川が流れていた。
     浦和高校の校舎に沿って真っ直ぐ行く。十五分程で産業道路にでる。「これが有名な産業道路。」そんなことは、この辺の連中しか知らないだろう。川口と上尾を結ぶ道路である。社会保険診療報酬支払基金の前からバス通りを東に向かう。瀬ケ崎バス停の前に長屋門があった。木崎中学校向かいの路地を入れば東泉寺だ。天台宗、青柳山普光院と号す。浦和区瀬ヶ崎二丁目十五番三号。ヤマチャンが庫裡に声をかけ、トイレの入り口のカギを開けてもらった。下見の時に頼んであったのだ。しかしその前に隣の三嶋神社に入る。浦和区瀬ヶ崎二丁目十五番二十一号

     瀬ケ崎は、元来は木崎村の一部であったが、元禄三年(一六九〇)の検地帳に「瀬ケ崎村」と見えることから、そのころには既に分村していたものと思われる。
     この瀬ケ崎村の鎮守として祀られてきたのが当社である。創建は、口碑によれば、三島了然なる人が伊豆の三島より来て、中尾村の吉祥寺で修行した後、当地に青柳山東泉寺を建立して開山となり、更に後に伊豆の三島大社から分霊をその境内に勧請したという。その年代は明らかでないが、『風土記稿』には「天台宗、中尾村吉祥寺の末、青柳山普光院と號す、開山を玄性と云、寂年を傳へざれど、十四世圓海は享保三年正月九日寂すと云へば、玄性が時代も大抵推て知るべし、本尊は彌陀を安置せり」と記されており、あるいはこれに見える開山の玄性なる僧が、口碑にある三島了然なる人物に当たるのであろうか。また、同書に当社は東泉寺の境内社として「三島社。村の鎮守にて、第六天牛頭天王、天満宮を合祀せり」と載る。(『埼玉の神社』より)

       本殿の覆屋は屋根だけだから、小さな本殿がちゃんと見える。昼食はその隣の小さな公園で採る予定だが、その前に東泉寺に戻る。「木造の観音様がさいたま市の指定文化財なんですよ。」「普通は見せてくれないんじゃないの?」本堂を覗いていると、寺の奥さんが声を掛けて来た。「どうぞ、どうぞ、上がって頂戴。」「どこから?」「一時から法事だから丁度良かった。」今は十一時半だ。
     まさか本堂に上げて貰えるとは思わなかった。内陣の右端にどうやら木造らしい観音立像と、黒い不動像が立っている。「ちょっと待って、住職を呼ぶからね。」少し待って住職が出てきて説明してくれる。観音立像は江戸時代初期の作、一木造り、彫眼。像高一一六・五センチ。
     不動明王(足立百不動十四番)、如意輪観音(新秩父三十四観音)が、どちらも厨子の中にいる。薬師如来(足立北十二薬師)は薬師堂にいて、それぞれ決められた干支の年に開帳する。「四年に一回は何かの仏さまを御開帳します。」住職の話は余り面白くなかったが、その後の奥さんの話が面白い。
     岩屋弁財天と十五福神と言うのを初めて見る。おそらく十五童子と言うのが正しいのだろう。弁財天に仕える十五人の童子のことで、中央の弁財天を囲むように、印鑰(いんやく)・官帯・筆硯・金財・稲籾(とうちゅう)・計升(けいしょう)・飯櫃(はんき)・衣裳・蚕養・酒泉・愛敬・生命・従者・牛馬・船車の各童子が配されている。これに善財童子を加えて十六童子とすることもあるようだ。「江の島から勧請したんだけど、金色の波のように見えるでしょう?これが岩屋なの。」江戸時代中期のものらしい。
     隣の座敷には板碑(阿弥陀三尊)の拓本も飾られてある。実はこれが珍しい。種子ではなく、阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩のそれぞれの像容を刻んであるのだ。こういうもの初めてだ。「実に珍しいですね。」「後で現物を見て頂戴。」
     「本堂も古いでしょう?今どき珍しいけどね。」「大震災の時はどうでしたか?」「ちょっと動いたけど大丈夫。トイレを増設したから文化財の指定にならなかったの。」この寺の住職は歴代、駒込吉祥寺の住職を引退した人が勤めることになっている。「だから時々、吉祥寺の住職が来ると、うちの住職が上座に座ったそうです。」由緒のある寺なのだ。開創は天長六年(西暦八二九)である。
     奥さんと一緒に本堂を出て、路地の反対側の墓地に向かう。水子地蔵の隣の庚申塔は、日月、ショケラ、二鶏、武器がはっきりしたきれいな青面金剛だ。「邪鬼の顔が正面を向いてますね。」
     さっき拓本を見た阿弥陀三尊図像板碑もある。「石は秩父の方ですね。」「緑泥片岩。」さっきも言った通り珍しいものだ。

     この板石塔婆は、本尊の来迎阿弥陀三尊図像を線刻し、下部中央に「奉待供養逆修」「文明三年辛卯十一月廿三日」(一四七一)、その左右に二名ずつ四名の禅門号を刻みます。
     「待供養」とあるだけで、何を目的とした供養か記されていませんが、本尊が阿弥陀三尊であること、「十一月廿三日」の造立であること、四名の結集によること、また、民間信仰に関わる板石塔婆が数多く立てられた時期と重なることから、「月待供養」の板石塔婆と考えられます。(解説板より)

     「月待信仰の一つです。月待ってもっとありますよね。詳しい人、教えてください。」さっき「珍しい」と言ってしまったことで、よほど詳しいと思われてしまったようだが、そんなに知識がない。「二十九夜とか、十三夜とか。」
     隣の屋根に守られているのは徳本行者の「南無阿弥陀仏」名号碑だ。何度か見たことがある。「独特な書体なんだよね。」「髯文字です。」徳本行者(徳本上人)については、ウィキペディアを参照してもらおう。

     二十七歳のとき出家し、木食行を行った。各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖として知られていた。大戒を受戒しようと善導に願い梵網戒経を得、修道の徳により独学で念仏の奥義を悟ったといわれている。文化十一年(一八一四年)、江戸増上寺典海の要請により江戸小石川伝通院の一行院に住した。一行院では庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥女中で帰依する者が多かったという。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、その範囲は関東・北陸・近畿まで及んだ。「流行神」と称されるほどに熱狂的に支持され、諸大名からも崇敬を受けた。徳本の念仏は、木魚と鉦を激しくたたくという独特な念仏で徳本念仏と呼ばれた。

     菩提樹。インドのものではなく中国種のシナノキだ。高さ七メートル、根周り三・三六メートル。平成五年の台風で主幹部が倒壊したが、現在、孫生が生育中だそうだ。
     「薬師堂にも入って頂戴。」こんなに簡単に入れるものか。「だけど最初に外回りを見て頂戴。十二支の文字が付いてるでしょう?」屋根を支える一番上の壁に「子」の文字が見えた。「そうか、本堂の方が北なんだ。」「本堂は南を向いているの。」「干支の動物を彫ったのも良く見るよね。」
     中に入ると、奥さんは戸を開け広げる。風が心地よい。「そうでしょう?昼寝にいいのよ。」ホントにここで昼寝していた気分だ。壁の上部の四周には天女(飛天?)の絵が描かれている。「煤洗いをしたら出てきたの。真っ黒だったのよ。」色は薄れているが、それでもちゃんと分る。「絵師がどんな人だったかも分らないけど。」
     薬師如来は勿論見られないが、「これならいいよ」と十二神将の厨子のひとつを開けてくれる。六人いる。「頭に干支をつけてるでしょう?」なるほどこうなっているのか。十二神将は薬師如来を守護する護法善神である。宮毘羅 (くびら)、伐折羅 (ばさら)、迷企羅 (めきら)、安底羅 (あんてら)、頞儞羅 (あにら)、珊底羅 (さんてら)、因達 (陀) 羅 (いんだら)、波夷羅 (はいら)、摩虎羅 (まこら)、真達羅 (しんだら)、招杜羅 (しゃとら)、毘羯羅 (びから)。
     「こういうのもあるよ。」出してくれたのは、百万遍念仏に使う長大な数珠と算木である。実物を見るのは皆初めてだ。算木は三列に各十枚の板をセットしたものだ。ハイジもマリーも喜んで数珠を触る。
     「昔は諸国遍歴のお坊さんがここに何日も宿泊していたみたい。」なるほど、宿泊施設でもあったわけだ。「それに山岳宗教の、なんでしたか?」「修験ですか?」「そうそう。」
     最後は本堂の方に戻って歴代住職の墓所を見る。十二時を過ぎた。そろそろ腹が減って来た。「隣の公園で飯を食いましょう。」「トイレは開けておくからね。」「有難うございました。」実に有意義な時間であった。
     隣の公園に入った所で、友人のIから電話が入った。恩師藤木久志が今朝亡くなったとの報せだ。通夜は水曜、葬儀は木曜と言うが平日は行けないので、明日ご自宅に弔問することにして電話を切った。数年前から体調が悪く施設に入っていたのだが、訃報は急だった。あと一ヶ月で八十六歳になる直前である。最後に会ったのは三年前の鎌倉の中華料理屋だったろうか。師と呼び、弟子と称しているが、私は全く勉強しない学生だったから、ずっと後悔してきた。この会には全く関係ないが、作文では時々触れているのでその経歴をウィキペディアから引いておく。

    一九三三年、新潟県出身。一九五六年、新潟大学人文学部卒業。学部時代は井上鋭夫に師事した。一九六三年、東北大学大学院文学研究科博士課程修了。一九六六年から一九六八年まで群馬工業高等専門学校専任講師。一九六八年から一九六九年まで聖心女子大学文学部歴史社会学科専任講師。一九六九年から一九七二年まで同学部助教授。一九七二年から一九七五年まで立教大学文学部助教授。一九七五年から一九九九年まで同学部教授。一九七八年から一九八〇年まで立教大学史学科長。一九八五年から一九八七年まで立教大学大学院文学研究科史学専攻主任。一九八六年、「豊臣平和令と戦国社会」で東北大学文学博士。一九八八年から一九八九年まで立教大学史学会会長。一九九九年から二〇〇二年まで帝京大学教授。
    戦国時代の民衆史を専門とする民衆史観研究者であり、藤木の立教大時代の教え子に清水克行などがいる。また、護憲派としても運動していた。
    惣無事令をはじめとする「豊臣平和令」という概念を提唱し、織豊期の新しい歴史像を打ち出したことで有名である。


       師が立教に着任したのが私の三年生の時で、第一期ゼミ生ということになる。仲間も殆どまともに勉強しなかったが、毎年一度は集まる際に必ず参加してくれていた。人付き合いがあまり得意でない人で、私たちの他の年代からは怖い先生と見られていたようだ。
     最初の本は昭和五十年(一九七五)、小学館版『日本の歴史』第十五巻『織田・豊臣政権』で、今は講談社学術文庫『天下統一と朝鮮侵略・織田・豊臣政権の実像』として刊行されている。師も若かったのである。その「学術文庫版のまえがき」の冒頭を引いておく。

    ・・・・長い歳月を経ているが、私にとっては、初めての書き下ろしの作品であったから、まことに拙いながら、思い出の深い一冊である。当時の学界の生々しい空気をいっぱいにはらんだ、あふれるような使命感が懐かしい。(中略)
    ・・・・東アジア諸国と日本の関係が緊張の度を深めているいま、この作品の主題の一つである、秀吉の朝鮮侵略の実像を通じて、歴史問題についての読者の方々の理解を深めるよすがにしていただければ、という願いからである。

     張り紙には飲食禁止と書かれているが、ヤマチャンは事前に了解を取っていた。女性陣はベンチの辺りに、男性陣は日陰の広場にビニールシートを敷いて座った。食事が終わればいつものように煎餅や甘いものが配られる。「アレッ?」ロダンが取り出した菓子の袋は、さっき既にマリーが配ったものと同じだった。「同じじゃしょうがない。これは次回にします。」こういうこともあるのだ。
     出発は十二時五十分。「声を掛けた方がいいですよ。あんなに親切にしてもらったんだから。」姫の言葉でヤマチャンが庫裡に声を掛けたが反応がない。私は集会所に回ってみたがここにもいない。法事の準備で忙しいのだろう。「トイレの入り口だけ閉めていきましょう。」
     木崎中学校の東側から北に向かう。大東小学校の少し北の大東北児童公園の中に富士塚がある。大東の富士塚と言う。浦和区大東三丁目十七番。「あんみつ姫、山道だけど大丈夫ですか?」山道と言うほどではない。富士塚と言うにしては溶岩も何もない。「板碑もないですよね。」ロダンの言うように、普通の富士塚なら講中の石碑が置かれているだろう。ただ小山を築いて道を付けてあるだけだ。解説を見ても、富士塚の謂れが分らない。頂上には文化十四年(一八一七)の庚申塔が建っている。これもショケラを握ったきれいな青面金剛像だ。邪鬼は仰向けになって踏まれている。
     「ザクロの実が。」「カワイイ。」実がかなり大きくなってタマネギのようでもある。公園の下には赤山街道の案内板が建っている。「赤山街道って?」「伊奈氏の赤山陣屋(川口市)と越谷を経て松伏の杉浦陣屋を結ぶ街道だよ。」これも以前説明されていたと思う。
     道路の角に小さな石碑を見つけて姫が近寄る。「馬頭観音だ。」「交通量が多かったということですね。」つまり赤山街道の名残であろう。木の実幼稚園を過ぎると木崎の御室社だ。浦和区木崎五丁目十八番。境内の脇をすぐに道路が通っているのは、後の時代に通されたものではないか。参道の右手は林、左手は駐車場になっている。
     祭神はクシナダ姫だから、氷川女体社を勧請したものだろう。一の鳥居を過ぎると、おそらく朱の塗りが剥げて素木のように見える両部鳥居があった。社殿も素木の簡素なものだ。

     当地は荒川と芝川に挟まれた大宮台地上に位置する。中世には木崎郷に含まれ、江戸時代には木崎領に属した。慶安二、三年(一六四九~五〇)に作成された『田園簿』には木崎村と載るが、元禄三年(一六九〇)の検地では下木崎村と見えることから、この間に分村したのであろう。
     当社の創建は明らかではないが、江戸時代には三室明神社と称していた。東隣の三室地区には、古代の創建と伝わり、大宮の氷川神社の男体社に対し女体社と称される氷川女体社が鎮座する。同社には正慶二年(一三三三)以降に書き写された大般若経が伝わるが、この中には「御室大明神」「御室女躰」の文字がしばしば登場する。祭神も同じ奇稲田姫を祀ることから、当社はこの氷川女体社を勧請したものと思われる。(『埼玉県の神社』より)

     現在はオムロ社と呼ぶようだ。「公民館でトイレ休憩をしましょう。」ヤマチャンは路地の入り口に自信がないようで、たまたま通りかかった自転車のご婦人に声をかける。「こっちでいいですか?」間違いないと分ったのでヤマチャンはお礼を言って歩いていく。しかし最後尾になった姫と私がそのご婦人に呼び止められた。「どういう会なの?」カクカクシカジカ。「私も歩いてみたいと思ってたのよ。どこに連絡すればいいの?」取り敢えず私の名刺を渡して、第二、第四土曜日で気が向いたら連絡してくれと言って別れた。
     しかしみんなの姿はもう見えない。「こっちかしら?」姫と二人で途方に暮れていると、ヤマチャンが公民館から出て来てくれた。大東公民館。浦和区大東二丁目十三番十六号。トイレを借りて少し休憩する。明日何かのイベントがあるようで、様々な荷物が運び込まれてくる。働いているのはボランティアの人だろう。「埼玉は公民館運動が盛んなのよ」とハイジが言う。
     公民館を出ると三差路の角に小さな覆屋があり、石仏が四基並んでいた。左から右に向って大きくなっている。左端は如意輪観音、次は何だか分らないが真ん中で真二つに割れて修復したもの(阿弥陀如来の立像らしい。文政八年)、地蔵座像(正徳元年)、笠付の庚申供養塔(宝永三年)。ヤマチャンが下見の時に発見できなかった「辻の石塔」かも知れない。電柱の住所表示は大東二丁目四、木崎中学校から北に三百メートル程の場所である。少し離れた所には小さな堂があり、覗いてみると不動明王がいた。明王の下には矜羯羅、制多迦の二童子もちゃんといる。
     「さっきのところじゃないですか?」いつの間にか東泉寺の前に戻っていた。二時だ。「これから駒場緑地に向かいます。」ダンディ、ロダン、ハイジ、ノリリンは浦和の十人だから良く知っているが、私は全く不案内だ。
     赤く塗られた道に入る。「川だったんじゃないか?」「用水路、または排水路ですかね。」駒場緑道と言う。十分程歩いて緑道を離れると正面の森が駒場緑地だった。浦和区瀬ヶ崎五丁目。但しここは通り抜けるだけだ。
     蚕業道路に出る角に東浦和浄水場がある。浦和区駒場二丁目四番三号。「どこから取水してるんだろう?」水源は地下水だった。今どき井戸とは想像もしなかった。口径三〇〇ミリメートル×深度二五〇メートルが二井、口径三五〇ミリメートル×深度二五〇メートルが一井、一日に三千七百立方メートルの水を供給している。

    前身となる組織はそれより六十七年前の一九三四年(昭和九年)に浦和市、与野町、大宮町、三橋村、六辻村の共同で埼玉県南水道組合(のちに埼玉県南水道企業団)を立ち上げ、水道事業を行っていた(組合事務所は浦和浄水場)。この頃から後の浦和、大宮、与野の三市合併の原点となる「大埼玉市構想」があり、先に水道事業が統合した形である。
    当初は地下水を汲み上げ、浄水場を通して配水していたが、現在は主に大久保浄水場が荒川で取水した水、及び庄和浄水場が江戸川で取水した水を配水している。それに伴い浄水場から配水場への改修が行われた。現在でも南浦和浄水場等の浄水場は残っており、僅かながら地下水も配水している。(ウィキペディア「さいたま市水道局」より)

     その隣が蓮昌寺だ。浦和区駒場二丁目三番七号。日蓮宗、妙吟山実相院。開基二階堂公の鎧塚出土石凾(市指定文化財)があるのだが、どこにあるのか分らない。「あの塚じゃないの?」

    蓮昌寺は、小田原城主北条氏直公の家臣であった二階堂資朝夫妻により開創され、慶長十七年(一六一二)池上本門寺より実相院日清上人を迎え、開山されました。三世日観上人(慶長十年[一六〇五]寂)の代に山門、鐘楼堂、七面堂、守護神堂が建立され、天保十一年(一八四〇)十九世日真上人により本堂が再建されました。時代を経、今なお先師の遺志を継ぎ、歴代住職の丹精により寺観を保っています。昭和四十三年(一九六八)本堂修復ならびに書院・庫裏を改築、その他諸設備を整え、昭和四十七年(一九七二)寺観内外とも一新しました。資朝公開創当時の「ちょうなけずり」の林とけやきの大黒柱は、改修後も往時を偲んで使用されています。(蓮昌寺ホームページ)
    https://myoginzan.renshoji.nichiren-shu.jp/engi/engi.html

     見るべきものは余りなさそうで、すぐに外に出る。「そこは?」「駒場スタジアム。」元々は浦和レッズの本拠地だったらしい。今ではレッズの試合より、高校や女子の大会が開催される。
     そして青少年宇宙科学館に着いた。浦和区駒場二丁目三番四十五号。「子どもたちが小さい頃はよく連れてきましたよ。」ロダンは教育熱心な父親だった。私は自分の子どもをこんな場所に連れてこようなんて全く思わなかった。そもそも理科に弱いのは誰でも知っているだろう。
     「確か、ニュートンのリンゴの木がありましたよね。」玄関前にはニュートンのリンゴの木が立っていて、その周りを丸く彼岸花が囲んでいる。「小石川植物園にもありますね。」そう言われれば見たことがあるような気がする。そもそもニュートンのリンゴの木とは何か。あれはそもそも歴史的な事実だったのか。ウィキペディアによれば、そのリンゴはケントの花と呼ばれるようだ。

     ケントの花の起源は古く、一六二九年までさかのぼるといわれる。原産地はフランスと推定されている。この品種のリンゴは熟す時期がまちまちで、しかも熟した果実はすべて自然に落果する。よく知られているのは、一六六五年にこの品種のリンゴが落果するのを見たニュートンが万有引力を発見したという逸話である。
     ニュートンは一六六五年八月から一六六六年三月二十五日までと、一六六六年六月二十二日から一六六七年三月までの二回にわたってウールズソープ・マナーに滞在していた。彼はウールズソープ・マナーの果樹園に座って瞑想にふけっていた。そのときケントの花の樹上から、一個のリンゴが風もないのに落果してきたのが万有引力の発見の契機になったという。ニュートンと同時代の作家ウィリアム・ステュークリは、その著 Memoirs of Sir Isaac Newton's Life に、一七二六年四月十五日のニュートンとの会話としてこの逸話を記述している。ヴォルテールも、ニュートンの姪から聞いたとして同様の話を紹介している。ただし、この逸話についてはさまざまな解釈がなされており、実際のできごとであるかは不明とされている。
     万有引力発見の逸話に登場したリンゴの木は、一八一四年に老衰のために伐採されて現存しない。その原木で作られた椅子と余ったリンゴの材木は、英国王立協会と天文台が保存している。伐採以前に接ぎ木で増殖した苗木が、「ニュートンのリンゴの木」として世界各地で栽培されている。(ウィキペディア「ケントの花」より)

     日本には一九六四年にやって来たが、その苗木が高接病ウイルスに罹患していることが分った。但しこのウィルスは接ぎ木でしか感染しない。小石川植物園に隔離され、その間にウィルスの無毒化に成功したのだそうだ。ここにあるのは、その小石川植物園で増やしたものだ。
     中に入れば最初に目についたのがフーコーの振り子だ。フーコーとはレオン・フーコー(一八一九~一八六八)のことである。そしてこの振り子は地球の自転を検出するものだと言うことを、初めて知った。全く私は無学である。オクちゃん、ハコサン、ヤマチャン、ロダンにとっては問題にならない程の初歩的な知識に過ぎないだろう。
     いくつか展示を見てもあまりよく分らないので、休憩室に行くとみんな集まっている。熱心に見て回るのはやはりロダン、オクちゃん、ハコサンである。暫く休憩して外に出る。三時。

     「ここからは一路、北浦和に戻ります。」ダンディは草臥れたのだろう。バスで帰って行った。
     住宅地の中を歩く。「十五分位ですよ。」「これよ、モッコク。」民家の塀の上からモッコクの実が見える。ここ数ヶ月、ハイジはモッコクに執着している。結局三十分程歩いて北浦和に戻って来たのは三時半だ。およそ十キロという所である。北浦和なんて知っていると思っていたが、今日はなかなか充実したコースだった。ヤマチャンに感謝しなければいけない。
     駅前で挨拶が行われる。来月第二週は成田街道の五回目だ。「メールでも書きましたが、新京成の前原駅集合です。」(これは台風第十九号のお蔭で延期になった)。「第四週の近郊散歩も姫だよね?」「そうです。鎌倉を歩きます。」その鎌倉散策には私は残念ながら参加できない。今働いている大学が箱根駅伝予選会に出場するので、その応援に駆り出されているのだ。
     オクちゃんとハイジは帰って行った。「それじゃどこにしますか?」「そこの店がやってるよ。」「よく見てますね。」てけてけ北浦和店だ。ノリリンのカシスオレンジ以外は取り敢えずビールで乾杯。今日は結構汗をかいた。焼き鳥や博多水炊きの店らしいが、鶏は佐賀の人が食べない。いつものように漬物、サラダ。他に何を注文したか全く覚えていない。
     さてビールを一杯飲んだ後は何にするか。今日はスナフキンもファーブルもいないから、焼酎一本空けられるかどうか。ヤマチャンはビール専門だし、ハコサンもそんなには飲まないだろう。とすれば焼酎を飲むのは私とロダンしかいない。「五百ミリがあるからそれにしようか?」
     ハコサンとマリーも焼酎を少し飲んで五百ミリが丁度良かった。二時間でお開き。なんとなく皆疲れているようで、素直に帰ることになった。

    蜻蛉