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    平成二十二年十一月六日(土)晴れ  比企丘陵三十一キロ

    投稿:   佐藤 眞人 氏     2010.11.09

     日本スリーデーマーチに参加しようと、突然思い立ったのは三四日前だった。
     コースは五キロ、十キロ、二十キロ、三十キロ、五十キロに分かれている。来年は熊野古道を歩こうと思っているから、自分の体力を知っておく必要がある。ただ五十キロは余りにもきつそうだ。二十キロだって経験はないが、それに近い距離は歩いたことがあるから想像はつく。初めての挑戦としては三十キロが妥当ではないか。
     勿論三日も続けて参加できる筈がない。金曜日は会議があって休めないし、日曜に長距離を歩くと月曜が辛い。だから二日目の土曜日だけ参加することに決めた。ネットで検索してみると、事前申し込みは一ヶ月前に終わっている。その時ならば参加費千五百円(比企丘陵周辺の開催地住民は千円)だったのに、当日では二千円になる。たった一日で二千円も払うのか。吝嗇な私にとってはちょっと面白くない。
     三十キロコースのスタートは七時から八時までである。様子が分かっていればもう少しゆっくりしても良いのだが、初めてのことだから早めに着いておきたい。五時過ぎに起きて飯を食い、蜜柑一個と煎餅三枚をリュックに放り込んだ。こんなに早いと弁当を作って貰うのは期待できない。「頑張ってね」の声だけ背中に聞いて家を出た。外はまだ暗い。
     ローソンでお握りを買って電車に乗り込むと、同じような格好をしたオジサンたちが大勢いる。リュックにはゼッケンを貼りつけているから、ほとんどが昨日も歩いてきた人たちだろう。若い人の姿は余り見えない。東松山で降りて十分ほど歩いて、会場の松山第一小学校の校庭に着いたのが六時四十分だ。
     私の前で、四十代半ばだろうか威勢の良い人が五十キロコースを申し込んでいる。「もうアンカーも出発しちゃいましたよ。」係員の言葉に、「大丈夫、すぐに追い抜くから」と強気な物の言い方をする。五十キロコースは六時からのスタートになっているのだ。
     申込用紙に住所氏名年齢を記入し二千円を払うと、資料の入ったビニール袋と紙のゼッケンをくれた。袋には緑色の手袋、森永ミルクキャラメル、バッジ、公式プログラムその他の資料が入っている。後で会場の案内図をよく見れば、ゼッケン記入所もあるのに、私はそれに気づかないでボールペンで記入した。みんなちゃんとマジックペンで書いている。
     今日は第三十三回日本スリーデーマーチの二日目である。但し東松山で開催されるのは三十一回目、最初の二回は群馬県で行われていたらしい。

    日本スリーデーマーチは昭和五十三年(一九七八)に群馬県の新町で産声をあげた。きっかけは、その前年オランダのナイメーヘン市で開催された国際フォーデーマーチ(一九〇九年以来の伝統)に日本チームとして参加した仲間たちが、三十数カ国・三万人を超えるウォーカーがヨーロッパの田園地帯を歩くその素晴らしさに感動し、新町歩く会(当時)の提唱に応じて始めた。その後、第三回大会からは開催地を埼玉県東松山市へ移し、多くの人々に支えられ、いまでは世界トップクラスの国際ウォーキング大会へと成長してきた。(大会公式ホームページより抜粋)

     私たちの里山ワンダリングや江戸歩きとは格が違う、日本を代表する大会である。三日間のうちたった一日とはいえ、生まれてこのかた「日本」を冠する「世界トップクラス」の大会に出場するなんていうのは初めてのことだ。今ここにいるのは主に二十、三十キロの連中だろうが、大雑把に言って、ほぼ七割が私より年長者であろうか。子ども連れの人もいる。杖を突いた足元の覚束なさそうな老人もいるが、これはおそらく五キロか十キロの参加者だろう。
     ゼッケンには三日間のコースと居住地を記入することになっていて、背中を見れば三日間連続で三十キロに参加するひと、初日だけ五十キロ、残り二日間は三十キロというのも分かるようになっている。おかしいのは、第一日目の欄に「仕事」と書いているひとだ。地域では新潟、秋田、徳島から来ている人もいるし、「二十回目の参加です」なんてコメントを書いている人もいる。気合いが違う。軟弱な私がこれについていけるだろうか。
     不安材料はある。靴が二足とも底が磨り減っていることに気がついた。道が濡れていると滑ってしまうので、二週間前に買い換えたばかりだ。たまたま、どれでも二足で五千円というのを見つけたのである。まだ履いたこともない新品の靴で長距離を歩くべきではないのは常識だが、古い靴は捨ててしまったのだから仕方がない。まさかこの大会に参加するなんて思ってもいなかったのだ。取り敢えずバンドエイドを買っておいたから緊急の場合はそれでしのげるか。
     ステージ上には全国各地から集まってきた団体が幟をたて、その団体の代表たちや泉ゆかりという私の知らない歌手が挨拶を続けている。「行ってらっしゃい。」「頑張りましょう。」壮行会である。私たちはこれから出陣するのだ。
     ここは単なるスタート地点、ゴール地点というだけでなく、夕方五時まで各種イベントが行われる場所である。プログラムから拾えば、「フラッシュ・キッズ」「ウォーキングプラス」「ハンギングバスケット」「サッツ☆アイ」「バトントワリング」「キッズ☆ジョイ」「さくまひでゆきミニライブ」「泉ゆかり歌謡ショー」「よさこい陣屋まつり」「カントリーダンス」「JMLマスタウォーカー表彰式」と順番に行われる。私にはほとんど何のことか分からない。

     七時になってスタートゲートに並ぶと、「チェックシートを用意してください」と声がかかる。はて、チェックシートとは何であろうか。さっきのビニール袋に入っているだろうかと探してみるが見つからない。「それはどういうものでしょう」と近くにいた係員に尋ねると「地図はありませんか」と逆に聞かれてしまう。地図なら手に持っている。「これじゃなくて、もう少し小さいのがある筈ですが。」係員が袋の中をひっくり返して見つけてくれた。これなら、二十キロ以下のコース用の地図しか印刷していないから、さっきしまいこんで忘れていた。私が手にしていたのは、三十キロ、五十キロ兼用の大きな地図であった。
     ここでシールを貼って貰うのだ。あとは中間点とゴールで貰って、三枚揃えば完歩の証明になる。改めて地図を確認すると、三十キロコースの実際の距離は三十一キロになる。この一キロの違いが重要らしい。「三十一で認定してもらえるんだよ。」「別の大会じゃ実質二十七キロなのに三十キロ認定してくれた。」「あそこはいい加減だからな。」この人たちは全国の大会を渡り歩いて公式記録の認定を受け、その累積距離を競うのである。なにしろこの大会に参加すれば、国際マーチングリーグ、国際市民スポーツ連盟、オールジャパン・ウォーキングカップなど十一種の完歩認定が貰える。
     一昨年だったか、敏之会長が年間千キロだか千五百キロだかを歩いたと自慢していたのは、こういうことだったのだ。自分勝手に歩いても何の証明もない。公式に認定してもらう必要があるのだ。
     街中を抜けるまでは信号待ちはあるし、二十キロ参加の連中と一緒で大勢だからなかなか前に進まない。街を外れた辺りから漸く集団が分散してきた。
     程よく分散してはいるが、歩く速度はやはり里山の仲間とは違う。通勤で私が駅まで歩く程度の早さだから、たぶん時速五キロほどではないだろうか。
     のどかな里山の光景が続く。小学生か中学生の女の子三人組が騒ぎながら、走ったかと思えば後ろに下ったりしてペースが一定しない。その一人のリュックにウォーキング大会のバッジがいくつも貼りついているのに気がついたオジサンが「もう随分前から歩いているのかい」と尋ねると、彼女は「今十二歳なんですけど、幼稚園の年中のとき二十キロ歩いたのが最初です」と丁寧に応えている。「それは偉いね。」今回も「風の森狭山台みどり幼稚園」の園児が二十キロコースに参加している。
     市野川を越えたところで二十キロの連中は川沿いに別のコースに別れて行く。
     前にも来たことがある岩室観音の洞窟に入って中を覗いて見る。石仏は八十八体。四国八十八箇所に因むので、ここに来るだけで四国遍路路を全て巡ったと同じ功徳がある。崖にへばりつくように建っている楼門にも登ってみたかったがやめた。しかし、こんなことをするのは私だけだ。
     他の連中は脇見もせずにさっさと歩いていく。後で知ったのだが、この上の山が松山城跡である。
     ここからはすぐに吉見百穴に到着する。スリーデーマーチ参加者は無料で構内に入ることができる。ここは二キロ地点だ。「コロボックルの住居なんだよ」という声が聞こえる。ちょっと詳しいひとだろう。日本考古学(及び人類学)の黎明期、坪井正五郎は、この穴をコロボックルの住居であると言い張った。なにしろ帝国大学人類学教室の教授の言うことだから、信じた人も多いだろう。これは日本人の祖はコロボックルであると言う坪井の自説に基づくのだが、坪井の死後この説は完全に誤りだと結論づけられた。古墳時代の横穴墓である。
     「この洞窟は地下軍需工場の跡地です」という立札が建てられた穴だけを見る。中島飛行機の工場があったのだが、その工場を造る際に横穴墓が数十基破壊された。講釈師得意の演目だから、いれば絶対笑わせてくれただろう。仲間がいないと詰まらない。
     今年は紅葉が遅い。田圃の中の道を通って大沼、天神沼を過ぎる。やがて右手に息障院の看板が見えた。私はまだ寄ったことがないので、普段だったら必ず寄り道するところだが、我慢して真っすぐ歩く。誰も振り向きもしないのだから仕方がない。敢然と単独行動できるだけの度胸がないのである。ここは源範頼居館跡で、吉見御所と言われたところだ。修善寺で範頼の墓を見たことがあったと思いだした。
     鎌倉幕府草創期における源家一族の殺し合い、その結果としての滅亡の悲惨さは、日本史上稀に見るものだ。そしてその陰には常に北條政子の存在がある。
     最初の休憩が吉見観音(安楽寺)である。ここが九キロ地点、時刻は九時半である。だいぶ前のことだが、里山ワンダリング(ふるさとの道だったか)に遅れて参加した桃太郎は、駅からタクシーで乗り付けたことがあった。
     朝飯が早かったので少し空腹を感じて、お握りを一個食べた。本格的に休憩をとろうとしている人も多い。本当は境内をきちんと見学しておきたいところだが、先を急がなければならない。何か追い立てられてでもいるような気持が芽生えている。三重塔の裏を抜けてすぐに出発する。
     足は快調に動いている。新しい靴も問題なさそうだ。八丁湖に出たところで、ちょっと脇に外れてタバコを吸う。スタート以来一本目のタバコだ。池の南側を半周すると、水が少なくあちこちで湖底が露出している。「結構、広い池じゃないか。」「八丁って言うからね。」人造の溜池で、広さは五万二千平米である。以前、湖と沼と池の違いは何かなんて、ダンディや講釈師が話題にしたことがある。仲間と一緒なら、こういう話をしながら歩くことができるのに、今日の私は孤独である。

     天高く集団の中で一人なり  蜻蛉

     黒岩横穴墓群を左に見る。吉見百穴に比べて知名度は低いが、吉見町のホームページによれば、こちらの方が規模が大きいのである。ほとんど人の手が入っていないようだ。

    現在では、三十数基の横穴の存在が確認されているが、この一体の斜面には多数の横穴墓が埋蔵しており、国指定史跡である吉見百穴よりも大規模で良好に保存されていると云われている。その総数は五百基以上と推定される。

     ポンポン山方向とは別の山道に入って行く。ポンポン山も里山ワンダリングで行った所だ。五十キロコースはここから分岐して、更に大きく外側を廻り込むのだ。所々で道がぬかるんでいる。こんな坂道では踵が磨り減った靴では歩けなかった。新しい靴はしっかり地面を踏みしめる。
     住宅地に入ると道端で牛乳を売っているが私は買わない。やがて長い登り坂になってきた。結構きついじゃないか。しかしゼッケンに「ゆっくり、のんびり」と書いているひとに追い抜かれるとムッとしてしまう。負けてなるものか。私の心はだんだん狭くなってくる。
     かなりの距離を登った頃、「もうすぐ急な下りになりますから」と誘導員が教えてくれると、なるほど、すぐに下り坂になった。本当にこんなに登ってきたのかと思うほどで、空の下に遠く街並みが綺麗に見える。この急坂も結構長い。暑くなってきたのでジャンバーをリュックに放り込んだ。
     住宅地に入れば、ところどころで家の前に椅子を出して三四人の老人が「歓迎」の小旗を手に座っている。「頑張ってね。」「有難うございます。」ご苦労様と言う声も掛けられるが、別に他人のために歩いているのではない。自分勝手な趣味だから、なんだか面映くなってしまう。
     そろそろ中間地点ではないかと思った頃に休憩所があり、ここでトイレを済ます。しかしまだ中間ではなかった。「もう少し行くと梨がありますよ」と誘導員が声をかける。そこでは梨が食えるらしい。不思議なのは道の途中で一休みしている人を見かけないことだ。参加者は休憩所でしか休んではいけないのだろうか。

     汗を拭きながら二キロほど行くと平野市民活動センターに着いた。テーブルに係員が三人並んでいて、ここでチェックシートにシールを貼って貰う。このシールには三十の数字が入っているから、これが三十キロコースの証明になる。「ここが中間点ですか。」「あと十五キロですよ。」中間点とは言いながら、実は十六キロ地点だ。今は十時半だから、時速はほぼ五キロ弱というところだ。あの長い登り坂の割にペースは落ちていない。ただし公式マップ上には、九時十五分スタートの場合この地点の到着が十二時十分と記されている。これが標準タイムならば、二時間五十五分に比べて私は三十五分も遅かったということか。急がなければならない理由は何もないのだが、なんだか悔しくなってしまう。是が非でもタイムを競わせるように仕向けているのではないか。
     テーブルには、お茶、梨、梅干し、生姜が並べられていて、私は梨一切れと梅干を戴いた。靴を脱いで足にテープを貼っている人がいる。私はまだ大丈夫だ。喫煙所があるので一服する。ただしタバコを吸っているのは私の他にひとりだけだった。
     ここもすぐに切り上げて出発する。揃いのユニフォームを身につけた韓国人のグループが私を追い抜いて行った。
     大丈夫だとは思っていたのに、やがて腰が少し重くなってきた。左肩もリュックが食い込むように少し痛い。大して荷物が入っているわけではないのに、おかしなことだ。腿の付け根もちょっと張ってきたし、右足裏には肉刺ができたようだ。しかし七十歳ほどの外人が追い抜いていくので負けるわけにはいかない。大谷瓦窯跡なんていうのもちゃんと見ておきたいが、それでは外人に置き去りにされてしまう。

     比企の秋草木も知らず行軍し  蜻蛉

     次の休憩は二十キロ地点、大岡市民活動センターである。風車が回り、なぜか理由は分からないがオランダ風に造った建物だという。どこから来たのか、白人が軽蔑したように笑っているのを見ると、ナショナリズムが高揚してくるような気がする。良いじゃないか、所詮この国は模倣で生きているのである。スピーカーから演歌が鳴り響いているのは理由が分からない。
     かなり広い場所で大勢が座り込んで休憩している。「甘いのと辛いのがあります。」テントに並べば団子が貰えるということなのだが私は戴かない。右足の裏の肉刺が痛い。取り敢えず潰してバンドエイドを貼り、五分ほど休憩してすぐに出発する。
     目の前に、帽子に紅葉の枝をくっつけ、短パンの腰に黄色のジャンバーを括りつけた怪しい男が歩いている。これは何だろう。
     太股の内側の辺りが張ってきて、肉刺の痛みも強くなってきた。心配していた左足の踝も少し痛んでくる。これは十年ほど前にバカな行為をして踵を骨折した後遺症である。あれ以来、踝を中心に骨がやや変形しているから、無理し過ぎると痛みがでる。しかし残りは十キロを切った。地図を見ると、これから森林公園の中を突っ切ることになっていて、その中央入口が二十三キロ地点だ。
     あと少し頑張れば休憩できる。赤ん坊を背中に背負っている若夫婦を追い抜いた。こういう神経が自分でも不思議だ。足が痛ければゆっくり歩けば良いではないか。狭い歩道から無理に車道に出て追い越すことはない。
     山道に入って途中で二十キロコースと合流すると、合流してきた若い女性に、前を歩く紅葉男が声をかけている。「二十のほうは何が貰えたかい。」「お茶ばっかりでした。」「こっちはさ、梨とか団子とか。食べ過ぎちゃったよ。」なんだか講釈師みたいな人だ。途中で乗馬クラブの連中が休憩しているのに出会った。
     中央口に到着したのはちょうど十二時だ。二十三キロを五時間ということは、休憩を含めて平均時速は四・六キロになる。肉刺の痛みはあってもほぼ同じペースを維持している。今日は無料開放の日であった。芝生に座ってお握りを一個食べながら、公式プログラムを開いてみると、巻末に事前申込者の名簿がついている。たぶんいるだろうと思った通り、ちゃんと敏之会長の名前も載っている。今日も五十キロを歩いているのだろうか。喜寿を過ぎて元気なことだ。
     靴下を脱ぐと肉刺が大きくなっていたので、潰してバンドエイドを貼り直す。
     十分ほど休んで出発することにした。頭にはもう早くゴールにつくことだけしか浮かばない。寄り道もせず、案内に従ってただ南口を目指す。野草コース入口も素通りしてしまう。森林公園の開花期カレンダーによれば、今頃はホトトギス、リンドウ、リュウノウギクが見頃のようだ。
     分岐点で「二十キロの人はこっち、三十のひとはこっちです」と誘導員が教える。同じ南口を目指すのでも若干距離が違うと言うことらしい。なんとか南口に辿りつくと、ここで全てのコースの人が合流する。
     ここからの遊歩道が長い。五十キロコースを歩いてきた人がどんどん追い抜いていく。彼らは私よりも一時間早く出発しているのだが、その一時間で二十キロの差を解消してしまっている。ざっと計算してみると彼らの時速は七キロ強になる。見ていると歩き方がまるで違って、脇目もふらず、直角に曲げた両腕を振って大股で歩く。そして早い。これはもう競技である。背中のゼッケンを見れば、三日間五十キロを完歩しようとする人ばかりだ。対照的に十キロコースの人たちはのんびり歩いているから、足が痛い私でも追い抜いてしまう。
     森林公園駅まであと四キロ。もはや難行苦行である。肉刺の潰れた足裏の痛みが激しい。あと二キロ。学校行事で無理矢理駆り出されたのだろう。同じジャージ姿の高校生が、不貞腐れたように遊歩道一杯に広がっているから歩き難いこと夥しい。他人がいることなんかまるで気付かないのである。やっと森林公園駅に着いた。ここがゴールではないが、駅に向う人たちも少なくない。最後の数キロが我慢できずに諦めたのだろうか。
     駅前から左に曲がって東上線の踏切を渡り、住宅地に入れば路は狭い。誘導員が左に寄って歩けと指示するのに、高校生は聞く耳を持っていない。公式プログラムにはウォーキングマナー五ヶ条が載っているのだから、これを見せてやりたいが、今は教育的指導を行うだけの心理的な余裕がない。しかし、とにかくこの五ヶ条を記録しておく。

    一、 やあ!おはよう 明るい挨拶 さわやかに
    二、 信号で、あわてず あせらず待つ余裕
    三、 ひろがるな、参加者だけの道じゃない
    四、 自分のゴミ、自分の責任持ち帰り
    五、 歩かせて、いただく土地に感謝して

     踏切前で渋滞してきた。「一列になってください。」私の前には女子高校生の集団がいるから、追い越すこともできない。もうゴールは目の前なのになかなか前に進まない。今は一時十分、普通に行けばあと五分というところなのだが、この調子だと三十分を過ぎるだろう。

     やっとゴールに辿り着いたのは一時四十分だった。シールを貼って貰って完歩である。休憩を含んで合計六時間四十分で三十一キロを歩いたわけだから、平均時速は四・六キロ、休憩の合計が四十分として、歩いた速度は時速五キロになる。足の肉刺が痛い。
     たぶんペースが早過ぎるのだ。江戸の頃も普通の旅人は一日に三十キロを超える距離を歩いたが、夜明けとともに出発して日暮に旅籠に着く。だからちゃんと休憩をとりながら、ざっと十二時間ほどかけて歩くのが適切なのではないのだろうか。それを六時間ちょっとで来たのだから、無理し過ぎである。このペースで三日間続けて歩く人の足腰はどうなっているのだろう。
     まして五十キロを平均時速七キロ強で三日間歩くなんて、人間業ではないと私は断言してしまう。却って身体に悪いのではないか。
     「軽井沢ウォークに是非参加してください」とポストカードを配っている人がいる。別の人からは松山の(東松山ではない、四国)ポストカードも貰ったが、二〇〇九年秋放送スタート決定「NHKスペシャルドラマ坂の上の雲」なんて印刷してある。残り物だ。「向こうで林檎を配っています」とも言われたが、「向こう」は人がいっぱい並んでいて行く気がしない。
     会場は一杯で、休憩所の椅子は全て埋まっていて座ることもできない。通路に立ち止っているのも邪魔になるほどだ。三日間で延べ八万人以上が参加する大会である。恐らく三万人近くがこの会場に集まるのではないか。それにしては小学校の校庭は狭すぎる。
     しかしビールは飲まなければいけない。取り敢えず生ビール一杯三百五十円とメンチカツ百六十円を買って、立ったまま飲む。東松山と言えば焼鳥(実は焼き豚)しかないから、その屋台も随分でているが、みんな並んで待っているのだ。私は並びたくないから、誰も並んでいない店を探してメンチカツに出会ったのである。
     一杯飲み終わり、座れる場所がないのだからこれ以上いても仕方がない。淋しく帰ることにする。里山ワンダリングや江戸歩きの終わった後で、仲間と呑む酒はどんなに旨いものか。
     駅までの通りは「よさこい陣屋まつり」で賑わっている。私は生で見るのは初めてだ。この「よさこい」が全国各地で、今見るような形になったのはいつ頃からなのだろうと気になった。ウィキペディア「YOSAKOI」から抽出してみた。

    YOSAKOIは、高知県のよさこい祭りから端を発した、踊りを主体とする日本の祭の一形態である。九〇年代に札幌市のYOSAKOIソーラン祭りが成功したことにより、そのノウハウをもとに二〇〇〇年代にかけて各地に広がった。但し、地域本来の伝統文化とは無縁に組織されることもあり、祭というより創作ダンスのコンテストになっているところもある。
    「よさこい系」「YOSAKOI系」の祭は、以下のようなフォーマットを踏襲している。
    • 鳴り物:手に鳴子(なるこ)などを持って、鳴らしながら踊る。
    • 曲:地元の伝統民謡、又はご当地ソングを五分程度にアレンジ(ジャズダンス・ディスコ・ヒップホップ風が多い)した曲に合わせて踊る。
    • 衣装:おもに和風にアレンジされたデザインのチームオリジナルの衣装を着る。曲中の演出として連続早着替え(衣装チェンジ)等の工夫を凝らす団体も存在する。
    • 化粧:歌舞伎・日本舞踊・バレエ・等の舞台化粧や、そのアレンジ、フェースペインティング、等、各自で工夫する。
    • 演舞:各チームごとに独特の振り付け(ステージ形式、パレード形式)を織り交ぜた集団での踊り。

     派手な衣装に、歌舞伎の隈取りのような化粧の女性もいる。どうもね。私の感受性はこういうものに感動しない。よさこいなら土佐で、ソーラン節なら北海道で、阿波踊りなら徳島でこそ見てみたいと思う。それが文化というものではないのかしら。全国どこでもヨサコイやら阿波踊りが出てきてしまっては、そして、こういう集団のダンスを見せられては、なんだかね、と呟くしかない。因循と言わば言え。所詮私は若者文化についていけないのである。
     東松山駅に着くと、出口からはゼッケンつけた人たちが大勢降りてくる。彼らは森林公園で諦めたのではなかった。一駅分は電車を利用しても、ゴールでシールを貼って貰えば完歩したことになるか。
     鶴ヶ島駅でバスを待とうかとも思ったが、なかなか来そうもないのでなんとか家まで歩いた。帰宅して右足裏を見てみれば、肉刺の大きさは直径三センチに広がっている。左足の踝から甲にかけて痛む。腰が重い。駅までの往復、東松山駅から会場までの往復を考えれば、今日は三十五キロほども歩いたのである。
     本日の結論。いわゆる「ウォーキング」は私には向かないと分かった。ゆっくり余裕を持って歩くことが大事だ。それなのに周囲に負けまいとして、むきになってしまうからいけない。性格に問題がある。三十キロを歩くのなら私の実力では休憩を充分とって、十時間程度をかけるべきだろう。特に休憩は大事だ。熊野古道に臨むときは注意しなければならない。
     翌朝、左足の調子はまだ完全には戻っていないが、腰や筋肉にはそれほど影響はなかった。月曜には普通に戻るだろう。

     こう書いている最中、ドクトルからメールが入ってきた。私と同じ時、同じ三十キロコースを歩いていたのである。スタート時刻が少し遅かったようで、会えなかったのが残念だ。やはり足裏に肉刺を作ってしまったが、替えの靴下に履き替えたり、靴紐の調整をすることで対処したと言う。前もって教えて貰っておけば良かった。
     一方、桃太郎からは椎間板ヘルニアで動けないというメールも入ってきた。山登りに命を懸けようとしている桃太郎にとっては気の毒なことだ。
     来年、桃太郎が完治したら、ドクトルも含めて一緒に、もう少しペースを緩めて歩けば楽しいかも知れない。

    眞人