平成二十一年五月二十三日(土)
葛和田渡船場(赤岩渡船)から妻沼聖天まで

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.5.27

 「明日は熊谷歩ぐンだべ、あど帰ったホいいよ」ケンジは優しい。「ンだって、俺がたは聖霊幼稚園の同級生だものな」「聖霊は俺、憧れであったども」ミツグが憧れたのは幼稚園ではなく聖霊高校の女学生であろう。あの頃、聖霊高校随一の美少女はジュンコさんだった(全くの独断である)。悔しいことに私は彼女の前では口も利けなかった。「聖霊だば、俺の家の近ぐだもの」クラリネット奏者のケンチャンが自慢にもならないことを口にする。それにしても秋田弁には濁音が多い。ダンディなら、日本語に濁音はありませんと言うところだろう。
 ところで秋田の(とりわけ横の会の)連中はどうしてこんなに酒を飲むのだろう。ミツグ、ケンちゃん、ケンジ、タイラ。飲み放題に釣られて、ビール、日本酒、紅白のワイン、ウィスキーを飲み、更にタイラお薦めの店に移動して今度は本格的に焼酎を飲んでいるのである。
 新巻鮭あるいは塩引きの鮭を秋田では「ボダッコ」と呼ぶ。それは何故か。ここにいる五人は分からない。酔った勢いでケンチャンが秋田のマサキに電話するが、流石のマサキもこれは知らない。謎である。
 実に他愛の無い話題であるが、こんな酒飲み連中に付き合っていては明日は到底歩けない。申し訳ないが先に失礼することにした。「セバな」「ヘバ」品川駅で山手線に乗りこんですぐで眠り込んでしまい、辛うじて池袋到着と同時に目を覚ました。森林公園行き最終の東上線でも運よく鶴ヶ島で目を覚ましたから助かったが、どうも酩酊が甚だしい。

 案の定、朝から脳味噌には靄がかかっている。太陽がまぶしい。熊谷駅集合。参加者は隊長、画伯、宗匠、中将・小町夫妻、ロダン、多言居士(一言居士から改称)、竹、ダンディ、ドクトル、瀬沼夫妻、若井夫妻、サッチー、オケイ、イトはん、伯爵夫人、私の十九人である。瀬沼夫人はずいぶん久しぶりだ。確か足を痛めていた筈だが、もうすっかり元気そうだ。
 「私たちは近いからね、朝ゆっくりだったよ」本庄小町と中将夫妻はほとんど地元の人と言っても良い位だ。オケイさんも珍しい。「私のこと書いちゃ駄目ですよ、危なくってしょうがないんだから」お姉さんはなんだかできるだけ私から遠ざかろうとしているようだ。
 多言居士はクーラーバッグの素材みたいな、アルミ箔で編んだような布を帽子に取り付け、首の後ろに垂らしている。「熱は通さないし、風は通るから涼しいんだよ」彼はこういうちょっとした便利グッズをたくさん持っていて、時々自慢するのがおかしい。
 「今日は真夏日になるようです」宗匠は水を含ませ気化熱で冷却する帽子をかぶっている。「それいいね、いくらしたんだい。千円じゃ買えないか」ドクトルは興味津々だ。「三千円以下だったら絶対買う」竹さんもつられて、「私も買うよ」と頷く。
 十時三十分発の葛和田行きバスに乗ったのは、私たちの他には二人だけだったから、今日の国際十王バスの売上に随分貢献している。料金四百円は高いという意見もあるが、稼働率から考えれば無理はないだろう。
 隊長から配られた地図を見ながら、ダンディは廃線になった東武鉄道熊谷線の道筋の確認に余念がない。どうやら国道四〇七号線と平行に、少し東側をまっすぐ北上する道が、それに相当するようだ。「それじゃこの道の少し東側を」地図が読めない私はまるで違うことを口走る。「違いますよ、今走っているのは、この北東に斜めに走る道ですからね」ロダンにもバカにされてしまった。
 「太田の中島飛行機から熊谷まで結ぶ筈だったんですよ。ところが川の手前で終わってしまって、太田までは結べなかったんです」ダンディが開いているのは宮脇俊三監修『鉄道廃線跡を歩く』の一冊だ。

東武熊谷線とは国鉄熊谷駅を起点とし熊谷市北部の妻沼町までの十・一キロメートルを結ぶ路線として運行されていました。地元では通称妻沼線と言われていました。
熊谷線の建設目的は群馬県太田市と小泉地区にある中島飛行機への人員輸送と資材輸送を目的として建設されました。軍からの建設要請もあって突貫工事で建設され着工から約一年経った昭和十八年(一九四三)十二月五日に熊谷~妻沼間が完成しました。その後、妻沼から先の区間も着工しましたが終戦をむかえました。その後、利根川を渡る部分の橋脚だけが完成したところで工事は中断し、結局開通することはありませんでした。
軍事輸送用として建設された熊谷線はモーターリゼーションの影響により旅客の減少を受け昭和五十八年(一九八三)五月三十一日をもって廃止されました。
妻沼と利根川を挟んだ西小泉側は川岸まで砂利採取用の仙石河岸貨物線が開業しており、川を挟んだ約二キロメートル弱の区間の建設を残すのみとなっていました。その貨物線も熊谷線より一足先の昭和五十一年(一九七六)に廃止になりました。
http://www.ogaemon.com/haisen/tobukumagaya-sen/tobukumagaya.html

 「残っている橋脚を見たいものですが」しかしそれは利根川の向こう岸だから、今日は無理ではないだろうか。水を張った田んぼの周りには黄色く色づいた麦畑が広がっている。「麦秋を季題に詠んでください」ドクトルが宗匠と私に宿題を出す。

 麦秋を貸切のごとバスは行き  眞人

 二人の客は途中で降りてしまい、私たちだけになったバスの正面からは、やがて土手が見えてきた。バスは土手の上から川岸の方まで入り込んで停車する。終点である。河川敷の西側では子どもたちがサッカーをしている。柱に黄色の大きな旗が取り付けられていて、隊長がこれを掲揚すれば向こう岸から船がやってくる仕掛けだ。ここは葛和田の渡船場である。
 渡し船!「料金はいくらなの」「無料です」「これは県道だからね」本庄小町が説明してくれるのだが、利根川は埼玉県と群馬県の県境を流れる。どちらの側の県道であるか。

 赤岩渡船は千代田町赤岩から利根川をはさんで向こう岸の埼玉県熊谷市葛和田を動力船で結んでいる、主要地方道(県道)熊谷・館林線上にあります。利根川広しといえども現在三つしか残っていない利根川を渡る橋のない公道の一つです。そのうち主要地方道はこの赤岩渡船だけで、年間数千人の人々に利用されています。(千代田町HP)

 つまりこの船は、妻沼の葛和田と邑楽郡千代田町赤岩を結ぶ水上道路なのであった。橋を架けるよりコストパフォーマンスが良いということなのだが、雨や雪のときは渡れないだろうね。案内板には、永禄年間(一五五八~一五六九)に上杉謙信が舟橋を架けて渡河したと記されている。利根川を渡ろうと思えば船を使うしかなかったわけで、何もここで謙信を持ち出す必要はないように思われるが、館林方面と武蔵国を結ぶ重要なルートであったということだろう。江戸時代になれば舟運の発達とともに、赤岩は坂東十六渡津のひとつとして栄えたと言う。
 すぐにやってきた船からは自転車のおじさんが一人だけ降りていった。渡し船と言っても櫓や櫂で漕ぐものでは勿論なく、ちゃんとエンジンで進む。船頭を含めて定員は二十二名である。ちょうど良かった。「久しぶりにカミさんが参加したから、定員オーバーだったらどうしようかって心配してた」瀬沼さんが笑う。川風が心地よい。珍しい経験に、みんな少しはしゃいでいるように見える。

 五月風利根の渡しの揺らめきて  眞人

 利根の川風袂に入れて。「多言居士がそんなのを歌ってましたが、あれは何ですか」ダンディの教養の範疇には浪花節は入らない。「たぶん、天保水滸伝ですよ」調べた結果、正しくこれは玉川勝太郎『天保水滸伝』、台本は正岡容である。

利根の川風袂に入れて 月に棹さす高瀬舟 
一目関の戸叩くは川の 水にせかれる水鶏鳥 
恋の八月大利根月夜 佐原囃子の音もさえ渡り

 笹川繁蔵と飯岡助五郎の喧嘩の舞台はもっと東の方になるが、ここにも登場する佐原がいつの間にか香取市になっているのだそうだ。「もう無茶苦茶ですよ」ダンディが嘆いているのも無理はない。佐原と言えば伊能忠敬を連想する。それが香取では、忠敬を尊敬してやまないロダンだって怒ってしまうに違いない。地名には人間的な感情が複雑に絡み合っていて、簡単に変えてしまうと歴史感覚が消滅してしまうのだ。「妻沼もそうです。熊谷市に合併して」平成の大合併については、私たちの仲間では批判が多い。
 およそ五百メートル弱(宗匠が確認すると四百二十メートルとの事)の川を無事に渡って向こう岸に着く。当初の隊長の計画にはなかったのだが、瀬沼さんが教えてくれたので荻野吟子に因む光恩寺を訪ねることになった。ここから五、六百メートルほどらしい。
 土手を越えて住宅地を歩いて行く。垣根から覗いている赤紫の花はプリンセス・ダイアナと言う。「テッセンの一種でしょ」オケイさんとイトはんがほぼ同時に声をかけると、中にいた家の人がそうだと答えてくれる。宗匠は「バラかと思った」と苦笑いをする。キンポウゲ科クレマチス属。先日等々力で見たブラシノキの赤い花もある。「あれは何」塀の中の畑にはピンクの花が咲き乱れている。「あれはね、ネバネバするのよ」「ハエトリナデシコって言いませんか」「そう、それよ」オケイサンと若井夫人の会話は私には謎である。
 少し道に迷いかけたが、近所の人に教えられてようやく到着すると、まず目につくのは長屋門である。これは荻野吟子生家から移築したもので、登録有形文化財になっている。傍らには吟子の立像が立つ。

  新緑や吟子の像の凛として  美佐矩
  新緑や白き荻野の長屋門   快歩

 珍しく画伯が句を捻った。まだ推敲中らしいが無断で掲載してしまう。これについての責任は全て筆者にあるので、不満があれば私に言って戴きたい。私は吟子についてはよく知らない。渡辺淳一が小説(『花埋み』)にしているそうだから、渡辺の愛読者であり、地元に近い本庄小町ならよく知っているだろう。
 吟子は、武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬村で名字帯刀を許された名主荻野綾三郎、嘉与の五女(第七子)として、嘉永四年(一八五一)に生まれた。なお、この幡羅は中世以前「ハラ」と呼ばれていたようで、渡来氏族秦氏に由来するもののようだ。慶応三年(一八六七)、北埼玉郡上川上村の名主の長男稲村貫一郎(後、足利銀行初代頭取)と結婚するが、夫から淋病をうつされて離婚した。その治療時の屈辱感から女医になることを志し、日本初の公許女医となるのである。
 明治八年(一八七五)、東京女子師範学校第一期生として入学、十二年には首席で卒業する。

軍医監で子爵の石黒忠悳に女医の必要性を解き、石黒を介して、典薬寮出身で侍医の高階経徳が経営する下谷練塀町(現在の秋葉原)の私立医学校・好寿院に特別に入学を許される。男子学生に混じり様々ないじめや苦労の艱難辛苦を舐めつつ三年間で優秀な成績で修了する。しかし、女性であることより、東京府に医術開業試験願を提出したが却下、翌年も同様であった。つづいて埼玉県にも提出したが同じ結果だった。
一八八四年(明治十七年)九月、 前期試験を他の女性三人と受験、吟子一人のみ合格。
一八八五年(明治十八年)三月、後期試験を受験し合格。同年五月、湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業。三十四歳にして、近代日本初の公許女医となる。
女医を志して十五年が経過していた。そのときすでに父はもとより、母も前月に他界していた。吟子のことは新聞や雑誌で「女医第一号」として大きく扱われる。診療所は、繁盛し場所が手狭なため、翌年下谷に移転する。

 隣は光恩寺の境内だ。と言うより境内の一角に長屋門を移設したと言うべきか。寺伝によれば、雄略天皇が穴穂宮のために全国に建立した九ケ寺のひとつである。しかし公式の仏教伝来は五三八年または五五二年であり、雄略天皇(四一八~四七九)の時代に寺院を建立したはずが無い。ただ相当古い由緒があるのは確かなようで、推古天皇三十三年(六二五)に開かれたとも主張している。赤岩山光恩寺。通称は赤岩不動尊である。

 のち、弘仁五年(八一四)弘法大師が密教弘通の場として再興開山したと伝えられている関東屈指の古刹です。その後元亮元年(一三二一年)(眞人注:これは「元亨」の間違い)後醍醐天皇の勅命によって、宇都宮公綱が奉行として、殿堂を再建、詔勅により「赤岩山光恩寺」と称して七百石の朱印を賜ったと伝えられています。慶安元年(一六四八年)徳川家光より寺領を賜り、山林諸役等を免除された、名実ともにこの地域を代表する寺院です。
 寺院の歴史は、幾度かの火災の歴史も含まれています。永享十二年結城合戦の時兵火により殿堂を消失したのをはじめとし、文政十三年(一八三〇年)落雷のため本堂、庫裏、仁王門まで消失、慶応二年(一八六六年)放火により堂宇を消失、現在の本堂は明治五年に再建されたものです。
 また、平成十年十一月二十日、全国五十九件の建造物を近代化遺産として国の登録文化財に選定するよう答申されたなかで、光恩寺では長屋門(江戸末期建築、木造寄棟造り八十二平方メートル、荻野吟子の長屋門参照)、庫裏(木造平屋建、四百平方メートル、江戸末期館林市の豪農の母屋として建築、一八八七年頃この地に移築)、客殿(明治時代後期建築、木造平屋建て六十二平方メートル)、石蔵(一九三三年建築、大谷石造り、二階建て四十平方メートル)の四つが選定される快挙となりました。(千代田町HP)

 真言宗の古刹だが、本堂から少し離れた阿弥陀堂に、なぜか阿弥陀三尊が鎮座している(実は私たちは見ていない。パンフレットで見たのである)。「不思議だよね」と宗匠に言ったのだが、真言密教と阿弥陀信仰は相容れないものと思っていた私は実に無学であった。ドクトルにも「奥州の中尊寺はどうなんだい」と聞かれて「あそこは正に浄土信仰の寺で」などと口走った私だが、あれは天台宗でありながら、やはり阿弥陀如来を本尊としているのである。

 高野山は弘法大師入定の聖地、弥勒菩薩の浄土と信仰されたことにより、高野浄土を求め極楽往生を願う多くの念仏修行者が高野山に集まり、大念仏集団が形成された。それは後に高野聖と呼ばれる聖集団となり、全国に高野浄土を知らしめることとなる。この阿弥陀信仰の形跡は近世にまで残っており、江戸期の高野山内寺院の本尊をみると五百三十ケ寺の内、約三十%までが阿弥陀如来像で他を圧しており、この時期の状況を端的に反映している。(中略)
 根来において新義真言宗を開いた覚鑁(一〇九五~一一四三)は、密教教学と阿弥陀信仰に徹した密教念仏者ともいわれ、密教の大日如来と浄土教の阿弥陀如来とは同体であるとし、さらに密厳浄土と極楽浄土とは同所と捉え融合をはかった。(中略)
 以上、高野山の浄土観を概括した通り、山岳霊場信仰、祖師信仰、入定信仰、弥勒信仰、阿弥陀浄土信仰など時代に即したいろいろな信仰が重なり合い、この世の浄土として信仰されてきた。中でも浄土教の及ぼした影響は絶大で、経済的危機から救ったのもある意味では、浄土教念仏修行者である高野聖たちの高野浄土の鼓吹、勧進に依るところであった。(高野山霊宝館「高野山と浄土展」解説)
 http://www.reihokan.or.jp/tenrankai/exhibition/kikaku/jyodoten.htm

 結局、密教と言うのは何でもありの世界になっているのだ。ただ引用文の最初のところで、弥勒信仰が高野聖を媒介にして、いきなり阿弥陀信仰に移行するのが実はちょっと納得できない。弥勒浄土と阿弥陀浄土だって本来別のものではないか。仏教の歴史は難しい。この辺を知るためには、中世の本覚思想というものを真面目に勉強しないといけないのだろう。
 もうひとつ珍しいのは地蔵尊の絵姿を刻んだ板碑だ。弘法大師爪引き地蔵と呼ばれている。高さ百五十九センチ、幅五十センチ、厚さ十八センチの大きなもので、文永八年(一二七一)の銘を持つというから相当早い時期のものであるが、勿論弘法大師とは関係ない。画像板碑では日本最古と言う。うっすらと地蔵の姿が判別できるが、写真に撮ってもよく映らないのが残念だ。
 私たちは横から境内に入ってしまったから、今度は山門から出なければならない。かなり長い参道で、かつては大きな寺だったことが納得できる。
 山門の前には、仁王像が並んで立っていて、「普通は門の中に入ってますよね」とロダンが不思議がる。確かに仁王門の造りではないから、この金剛力士だけ後から持ってきたものか。向って左が「阿」、右が「吽」形で、「逆じゃないの」と宗匠が指摘する。これは私には判定がつかない。一般的には向かって右に「阿」が位置しているようだが、逆の場合もよく見かけるからだ。
 その右脇に立つ「不許葷酒入山門」の石柱を見て、「ここは禅寺だったのか」と頷きながら多言居士が門を出てきた。これも禅宗寺院以外でも見たことはありそうで、私には判定できない。バチ当たりな人間は、これを「許されざれども、葷酒山門に入る」と勝手に読みかえてしまう。
 この石柱は「禁牌石」(キンバイセキ)、あるいは「戒壇石」というものらしい。こんな記事を見つけた。

(前略)禁牌石の他、禁葷酒の碑とか戒壇石との言い方もある一種の結界石(俗界との境界石)である。
そもそも禁牌石の「不許葷酒入山門」の文字の由来は、江戸初期日本に黄檗宗を伝え、開祖となった隠元禅師が門弟、修行者を戒めた法語の中に「本山及び諸山にて黄檗の法窟と称する者は葷酒を山門に入れ、仏の重戒を破るを許さず」からと言われる。全国的には天台宗寺院や律院に多少ある他、禅寺とは言ってもおおかたは曹洞宗と黄檗宗において見られるものであるという。(http://homepage2.nifty.com/GOMAME/2007/09/070911.htm)

 取り敢えず禅宗寺院だけのものでないことだけは確認できた。もう一度船に乗って妻沼に戻り、今度は荻野吟子記念館を目指す。「おなかが空いてきた。昼食はどこでとるのかな」画伯が空腹を訴えるのは珍しい。そう言えばもう十二時を過ぎている。
 土手に紫色の花が群がっているのを見れば、多言居士がクサフジであると教えてくれる。土手を下流に向かって暫く歩くと到着する。土手から降りる所には「川の駅」の幟がはためいている。記念館の脇に四阿とベンチが設置されているので、ここで弁当を広げるのだ。「今日はシートを敷かなくても大丈夫ですね」「催促する人もいないし」
 若井夫人が冷やしたゼリーを配ってくれ、サッチーはお得意の即席漬を出してくれる。彼女の漬物のポイントは胡麻油にあって、食欲をそそるのだ。いつものように人より早く食べ終わった私は記念館を覗いてみるが、電気が消してあり、管理人のおじさんが、「みなさんが揃ったら電気つけます」と言う。経費削減、あるいはエコに配慮しているのか、どちらが主目的であるかは分からない。その後に行ってみた本庄小町も同じことを言われたと隊長に報告する。「別に全員が見学するなんて、一言も言ってないのに」と隊長はややおかんむりだ。私がさっき、「全員十九名、後で来ます」と言ってしまったのだ。
 ここはさっき吟子のことを調べた時に出てきた、幡羅郡俵瀬村である。つまり荻野吟子生誕の地なのだ。光恩寺とは違って、ここにある吟子の像は胸像である。「なかなか美人だよね」よく観光地にある、人物像の顔の部分に穴が開いていて、本人になりきることができるもの(これは何と言うのか)が立てられている。

  凛烈の明治の女よ五月風  眞人

 記念館はさっきの長屋門を模した建物で、中には三田佳子が演じた時に(「命燃えて」という舞台らしい)身につけた衣装(服飾について知識がないから説明ができない)が展示されているが、吟子自身には何の関係もないと思う。吟子の手紙は(達筆だと思う)誰も読めない。本当に昔の人はこんな文字をよく読めたものだ。吟子に関する年表を見て、「私、吉岡弥生と混同してた」と言うのは本庄小町である。私はその名前も知らないから実に無学である。これは東京女子医専の創立者である。
 記念館の裏手は堤防からかなり広い空地をとっているのに、道路に面した正面駐車場が狭い。この空地は何に使うのだろうか。「スーパー堤防を作る計画があって、これだけのスペースを明けておかなくちゃならなかったんですよ。ところが結局予算がつかなくなって、勝手に使えって」おじさんが多少憤慨しながら説明してくれる。「最初から使えることが分かってたら、前の駐車場をもっと広げて立派にすることもできたんだ」
 ここで私は本日二本目のペットボトルを補給する。熱いからお茶の消費が早い。イトはんは凍らせてきたお茶を首筋に当てて気持ち良さそうだ。
 ここからは土手の上の長い舗装道を歩くのだ。右手はグライダーの練習場になっていて、プロペラ機に引っ張られたグライダーが飛んでいる。「どうやって、あれを外すんだろう」それとは別に大きなトラックの荷台に何かの機械が据えつけられ、そこから伸びるロープに引っ張られて急角度で上昇していくものもある。一定の場所に来ると、グライダーから落下傘のようなものが外され、トラックに巻き取られる。これはウィンチ曳航というものらしい。

ウインチ曳航は、グライダーに八百~千五百メートルほど伸ばした金属または化学繊維製のワイヤーロープを取り付け、これをエンジンまたは電動モーターにより動かされるウインチを使用して高速で巻き取る。それによりグライダーは急激に加速、上昇していく。最高高度(三百~六百メートルほど)に達したらグライダー側でフックをはずす。飛行機曳航は、グライダーにロープを取り付け、これを飛行機により牽引することで、飛行機の上昇とともにグライダーも上昇していく。一定高度(六百~九百メートルほど)になった時点で、グライダー側でフックをはずす。(ウィキペディア「グライダー」)

 グライダーが降りてくると、四五人がばらばら駆け寄って、先端にとりついてスタートラインまで押していく。あまり重くはなさそうだ。その連中が待機しているちょうどその前に停止する飛行機があれば、「あれは操縦が上手い」と素人の私たちは感心する。「降りるときはどうするんだろう」難しい質問である。

  炎天下歩く真上へグライダー  快歩

 ここは日本学生航空連盟の滑空場である。住所表示は、埼玉県熊谷市葛和田地先・利根川右岸である。やがて訓練所兼倉庫のような建物がみえ、そこで若い連中が機体の修理をしているようなので、土手を降りて見学に行く。なかなか親切な若者たちで、無知なおじさんやおばさんの質問に丁寧に答えてくれる。そもそも翼を取り外し、分解して運搬するのだということさえ私は初めて知るのである。こんなに簡単に分解できるなら、何かの弾みで空中でも簡単に分解してしまわないだろうかと心配になる。
 コックピットには操縦桿(これは高度を調節するものである)、ワイヤーを切り離すために引っ張るレバー、尾翼を左右に動かすペダル、それに計器。基本的にはこれだけの装置がある単純なものだ。座席は二つ。後部座席には教官が陣取る。
 「機体の重さはどれ位」「これで三百五十キロ位です」「ワイヤーは太いの」「ピアノ線みたいなものを四五本捩って」「ウィンチで曳航するときの角度は」「四十五度」
 このクラブ活動は実に金がかかるものだろうね。親は泣いているか。「ちゃんとアルバイトしてますから」それだけで足りるとは思えない。「あれは道楽者の遊びですよね」ロダンの言葉に、「私たちの会だって道楽と言えばそうよ」とオケイさんが応じている。
 それではこの道楽に実際どのくらいかかるものなのか。京都大学グライダー部の新入部員勧誘案内を見れば、二ヶ月に一回、一週間の合宿がある。食費、諸経費、フライト料込みで一日六千円から七千円、「一日アルバイトをすれば一日飛べる」というのが謳い文句である。(http://www.kusu.kyoto-u.ac.jp/~glider/sin/sin.htmlより)
 また日本航空協会によれば、ライセンス取得のために六十から百万円、クラブの会費が年に十万から十五万円(これによってクラブ所有のグライダーを操縦できるものか)、三十分の飛行で七千円から一万円程度である。冷静に考えて見ればゴルフよりも安いかもしれない。(http://www.aero.or.jp/koku_sports/guide/glider.htmより)

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。  (石川啄木「飛行機」より)

 借金まみれで地を這うように生きた啄木は飛行機に憧れたかもしれない。しかしジェットコースターでさえ苦手な私は、頼まれたってこんなものには近づこうとは思わない。そもそもこんな単純な装置が人を乗せて空を飛ぶこと自体が不思議である。
 また土手に戻る。広がって歩いていると前からも後ろからもレース用の自転車が走って来る。「危ないぞ、自転車が通るんだから」と偉そうに走って行く男がいる。そんなに自転車が偉いか。ちょっと憤慨しながら所々に立っている車止めを見ると、「利根川自転車道路」と書かれているのでがっかりする。そうか、ここは自転車様の通行する道であり、人間は歩いてはいけないのか。なんだか変だな。もう少し行けば今度はちゃんとした標識に「歩行者自転車道路」と書いてある。人間も自転車と同じ権利が保障されているのなら、「利根川自転車道路」の表示はすこしおかしいのではあるまいか。
 「右端を歩けばいいんだよ、一列になって」「だってお父さん、それじゃ話ができないんだもの」小町夫妻の会話に「そうよね、お話ができないのはイヤよね」とイトはんも大きく頷きながら道の真ん中に飛び出てくる。

 風薫る乙女らの声さざめきて  眞人

 思わず「乙女」と言ってしまったが、俳句はリアリズムである必要はないからね。土手の上の舗装の周りは草刈りしたばかりで、見るべきものがない。太陽に照らされ、ただまっすぐな道を歩くのは、今はやや苦行の様相を帯びてきた。「あそこに日陰があるじゃない。あれが私を呼んでるみたいなの」イトはんの懇望を受けてダンディが隊長に交渉した結果、ようやく隊長が休憩を宣言する。左に曲がる道の角がちょっとした森のようになっていて、土手の草むらに大きく陰を作っている。「これからは私のこと、日陰の女って呼んでください」今日の主役はイトはんであった。
 土手の上と木陰の下では確実に気温が数度は違って気持ちが良い。草むらに腰をおろして水分を補給すれば生き返る。
 立ち上がったサッチーが「何これ、変な虫がいた」と大声を出す。カナヘビじゃないか。虫の苦手な私だが、これは可愛いと思う。あんみつ姫なんか手づかみするからね。「青大将だって可愛いよ、ポケットに入れれば大人しくしてる」多言居士の言葉に、「イヤーね、男の人って」とイトはんが反応する。
 一息ついたあとは、土手を離れてほぼ西に向かって歩くのだ。「もう、ここからは平坦な道ですから」隊長の言葉にみんなが唖然とする。「えーっ、今までだって平坦でしたよ」平坦だが変化がない一本道だったので、気分的に飽きてきていたのである。
 道端に「太平記絵巻・女沼古戦場跡」の標柱が立っている。側面には斎藤実永・実季利根川の先陣」とある。どうやら斎藤実盛の子孫である。妻沼を昔はこう表記したものだろう。

 途中で近所の人に確認しながら、ほぼ真っ直ぐの道を歩いて行けば、大我井神社に辿りつく。本来は延喜式の式内社である白髭神社だったと推定されている。そこに実盛が聖天を祀ったため、それ以来江戸時代まで妻沼聖天と混祀されていたものだ。明治の神仏分離令で聖天の境内を分割して新たに社殿を建てた。元からのこの地方の鎮守である。大我井は古代の地名らしい。
 鳥居を潜ると小さな祠が並んでいて、「この末社はなにかな」と若井さんが首を捻っている。門神あるいは客神というものかも知れない。参道途中には蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」を正面にはめ込んだ石の前に、なにごとかを刻んだ小さな四角い石が並んでいる。「なんだ、これは近江八景のもじりじゃないですか」とダンディが指摘する。この地方の俳句連盟が、聖天晩鐘、大我井青嵐など新しく名所を集めて妻沼十景と称しているのだ。
 「蕪村のこの句は、ここのことですか」これだけを見ればロダンでなくてもそう思う。ところがそばに小さな案内板も埋め込まれてあって、それによれば、蕪村は十年間、北関東から奥羽を歴遊して、妻沼の事も詠んでいるのだ。それなら、それを石碑にすれば良いじゃないかと思うのは素人で、やはり有名な句でないと人は驚かないのである。

 雨洗ふ長井の衆の早苗かな  蕪村

 この辺りが中世の長井荘であった。長井の別当斎藤実盛と言う。本殿の前に立つ唐門は、もと若宮八幡宮の正門だったもので、明和七年(一七七二)に建てられたものである。大我井神社と合祀されたことで、この地に移された。
 拝殿の左手には富士塚がある。頂上に立つ「富士浅間大神」の石碑は富士に向かっているのだろうか。「今日はガスがかかって見えませんね」小さな塚だが、この頂上からだと拝殿の後ろの神明造の本殿が良く見える。
 石段を降りるときに「注意しなくちゃだめだよ」と若井さんが言ってるそばから、夫人がやはり、ちょっと踵をひっかけそうになる。イトはんはだいぶ疲れた様子で、「私は登るのを諦めたわ」と呟いている。

 境内を出ればすぐに妻沼聖天だ。日本三大聖天を称しているのがダンディの気に触る。私もつい最近「日本三大」なんていうものを調べてみたので少しおかしい。ウィキペディアによれば、まず待乳山聖天(浅草本龍院)、生駒聖天(生駒市、宝仙寺)は東西二大聖天として不動の位置を占める。もう一つの席をめぐって、各地の聖天が名乗りを上げているのだ。ここの妻沼聖天の他には、足柄聖天(静岡県小山町の足柄山聖天堂)、桑名聖天(三重県桑名市の大福田寺)、豊岡聖天(兵庫県豊岡市の東楽寺)とある。ところで聖天をどう読むか。「ショウテン」「ショウデン」日本語は濁りませんというのがいつものダンディの日本語論だ。ウィキペディア「妻沼聖天」ではショウデンと呼んでいるようだ。
 聖天は歓喜天とも言う。象頭人身、男女抱擁の姿をしているものが多い。もちろんインドの神(天)であるが、密教はヒンズー思想に深く影響を受けたものだから、こういうのをどんどん取り入れた。
 「ガネーシャだよ」と瀬沼さんが夫人に説明している。そうか、私は実に迂闊であった。ちょっと前に妻が、ガネーシャという象の神が幸せを齎すなんていう本(水野敬也『夢をかなえるゾウ』)を買ってきていたのだが、私はこれと聖天が結びつくなんて考えもしなかった。
 参道入り口の門柱には、右に「武蔵国妻沼郡」、左に「歓喜天霊場」とある。歓喜院長楽寺、高野山真言宗準別格本山である。

寺伝では治承三年(一一七九年)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後、建久八年(一一九七年)、良応僧都(斎藤別当実盛の次男である実長)が聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたという。(ウィキペディア「妻沼聖天」)

 最初の門は貴惣門である。高さ十八メートル、銅版葺き八脚門。嘉永四年竣工、安政二年(一八五五)頃完成したという。かなり立派だなと思うのも当然で、国の重要文化財になっている。両脇を守る四天王は誰だろうか。「持国天とか増長天とか」私は実にいい加減だが、宗匠は方角を確認しながら辞書を引く。このときは広目天かと思っていたのだが、後で調べてみると右が毘沙門天、左が持国天である。
 そこを潜って斎藤実盛像に対面する。「鏡を左手にして筆をもってるのは、髪を染めてるのね」若井夫人が的確に指摘する。倶利伽羅峠で敗れた平家の中で、実盛はただ一騎、奮闘するのである。

 落ち行く勢の中に、武蔵国の住人、長井の別当斎藤実盛は、存ずる旨ありければ、赤地の錦の直垂に、萌葱縅の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒をしめ、金作りの太刀を佩き、二十四さいたる切斑の矢負ひ、慈藤の弓持つて、連戦葦毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乗つたりけるが、味方の勢は落ち行けども、ただ一騎、返し合わせ返し合わせ防ぎ戦ふ。木曾殿の方より、手塚太郎進み出でて、「あなやさし、いかなる人にて渡らせ給へば、御方の御勢は皆落行き候ふに、ただ一騎残らせ給ひたるこそ優に覚へ候へ。の名乗らせ給へ」(『平家物語』)

 こうして手塚に討たれた実盛の首は木曾義仲の実見に及ぶのだが、斎藤実盛なら白髪である筈なのに、この黒髪はなぜかと義仲は不審に思う。呼びだされた樋口次郎兼光がこれに答える。

 「さ候へば、そのやうを申し上げんと仕り候ふが、余りにあはれに覚え候ひて、先ず不覚の涙のこぼれ候ひけるぞや。されば弓矢取は、いささかの所にても思出のことばをば、かねて使ひ置くべき事にて候ひけるぞや。斎藤別当、常は兼光に逢うて、物語し候ひしは、六十に余りて、軍の陣へ向はん時は、鬢髭を黒う染めて、若やがうと思ふなり。その故は、若殿ばらに争うて先を駆けんも、おとなげなし、又老武者とて人の侮らんも、くちをしかるべし、と申し候ひしが、実に染めて候ひけるぞや。洗はせて御覧候へ」と申しければ、木曾殿、「さもあるらん」とて、洗はせて御覧ずれば、白髪にこそなりにけれ。

 そばに唱歌「斎藤実盛」の歌詞が紹介されている。「知らないわ」「尋常小学校で習わなかったかな」「俺の時は国民学校」「私は国民学校は一年だけで終わりました」これだけのメンバーをそろえても、この歌を知っている人はいない。作詞作曲は不詳である。

年は老ゆとも、しかすがに
弓矢の名をば くたさじと
白き鬢鬚墨にそめ 若殿原と競ひつつ
武勇の誉を 末代まで
残しし君の 雄雄しさよ

 白髪染めからの連想か、年齢の話題が盛り上がる。「アラカンって知ってるかしら」「嵐寛寿郎」「それが違うのよ」若井夫人によれば、還暦前後の者のことを言うのだそうだ。「ちょうどそれじゃないか」隊長が私を見る。確かに私は五十八歳である。「あら、ずいぶん若いのね」このグループにいると、私、宗匠、ロダンはまだヒヨッコであるが、その私たちが実は鞍馬天狗であるとは思いもよらなかった。
 「もうお稲荷さん、終わってた」本庄小町が報告する。なんでも稲荷寿司が名物なのである。中門(甚五郎作と称している四脚門)を潜り、更に仁王門に到達する。「これが普通じゃないの」と宗匠が言う通り、ここの金剛力士は、向かって右が「阿」、左が「吽」の一般的な組み合わせだ。本殿は改修中だというので、見学はこの辺で終わる。

 参道を歩きながら多言居士がオコワのおにぎりを食べている。「おにぎりじゃないよ、饅頭だよ」瀬沼さんによれば、饅頭は贅沢なもので、かつて禁令が出た。そのため上にオコワを被せたものを作ったのだと言う。
 「この辺は朝まんじゅうに昼うどんというところです」要するに粉食文化の地である。ダンディに笑われてしまうが、私はコメがなければ駄目だな。ここで本日三本目のペットボトルを買う。
 宗匠に指差されて気がついたのだが、「千代枡」という割烹料理屋の前に田山花袋『残雪』の舞台になったという石碑が置いてある。宗匠が「知ってる」と聞いてくるが勿論知りません。だって花袋の小説なんてほんとうに読まないものね。
 バス停につけばもう太田からくるバスの時刻が迫っている。待機しているバスはそれより少し遅いのだが始発だから必ず座れる。そこから運転手が降りてきて、もうじき太田からのバスがくると親切に教えてくれるのだが、なかなか来ない。渋滞しているのかも知れない。やがて待機中のバスもスタンバイするので、私たちはそれに乗り込む。

  深々と座すバス窓へ麦の秋  快歩

 途中で女子高生が乗って来た停留所を何の気なしに見ていると、駐輪場が設置されているのである。これは珍しいんじゃないか。鉄道路線に縁のない地域では、バスの停留所が駅の役割をしなければならないのだ。宗匠は植物図鑑を取り出して今日の復習をしているから偉い。「最近、街路樹を調べてるんだ」そう言えば今日はヤマボウシを見たな。熊谷まで四百五十円也。
 熊谷駅で、若井夫妻は市内探検をすると言い、秩父線で帰る人、バスを利用する人と別れて私たちは高崎線に乗り込む。ドクトルは本来秩父線のほうが便利なのだが、私たちに付き合って大宮まで行く。
 今日は(と言うより、いつものことなのだが)「さくら水産」に決めていたのに、残念ながら満席で入れない。もう五時を過ぎているということは、私たちは出遅れてしまったのだ。いつも私たちは四時の開店を待ちかねるように入店するのだ。それなら「庄や」かな。
 ここで事件が発生する。サッチーがリュックを背負っていないことが判明したのだ。彼女のリュックは網棚に載ったまま勝手に上野駅に向かってしまった。そして正義の味方ロダンの活躍が始まる。「皆さんは庄やに行っててください。私は駅まで彼女と一緒に」冷たいようだが私たちは早くビールが飲みたい。サッチーのことはロダンにお任せして店に入る。隊長、ダンディ、画伯、ドクトル、宗匠、私。ビールの一杯が旨い。
 なかなか帰ってこないロダンから連絡が入ったのは、もう焼酎に入ってからだ。リュックは無事に上野駅で発見された。明日になると遺失物扱いで手続きが煩瑣になる。今日ならば身分を証明するものがあればすぐに引き取ることができる。ところがサッチーは身分を証明できず、ロダンの免許証が頼りである。「これから上野まで行って戻ってきますから」結局ロダンが帰ってきたのはそれから一時間もしてからだった。実にご苦労様であった。紛失に気づいたときからの手際の良さも含め、ここに勲一等の表彰をする。

眞人