平成二十一年六月六日(土)  竹寺

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.6.7

 小雨模様である。今日は「里山」番外編で、精進料理を食べるのが目的だ。九時十分飯能駅集合というのはいつもより大分早い。「昼飯食べるためだけにしちゃ、随分早く出てきちゃいました」春日部太郎は七時前に家を出た。私も七時三十九分鶴ヶ島発だから似たようなものだ。
 中沢行きバスは九時三十分に出る。私たちの他にもう一つ、やはり竹寺を目指すらしい高齢者中心の団体が乗り込むと満席になった。ダンディ、隊長、桃太郎、私は最後部に陣取ったが、その団体の中のひとりだけ若い女性が座れないでいる。車掌が「後ろに詰めてください」と催促するので、私とダンディの間に入ってもらった。「私が交代するわよ」とマルちゃんが言いだしたが、すぐに「あっ、若い方がいいのか」と自分で納得して元に戻る。
 ところで車掌が乗り込んでいるのは珍しい。山行きのためにこのバスを何度も利用している桃太郎は「いつもはいません」と断言する。今日はバスの乗り方も良く分からない高齢者が中心であり、それを予測したバス会社が急遽、車掌を配置したものか。私たちの仲間は問題ないが、向こうのグループの中にはカードの使い方が分からない人が何人もいて、それに対して車掌が丁寧に教えていた。
 東飯能で、キヨシさん夫妻と椿姫の三人が乗り込んできた。私と桃太郎が立ち上がるのは当然だが、折角隣に座っていた女性も一緒に立ちあがって席を譲ってくれた。今日の乗客の中で最年少であるのを自覚しているのだろう。
 バスの中でマルちゃんが、参加できなかった野川(四月)と葛和田の渡し(五月)のことを聞いてくる。今朝隊長が、もう終わってしまった案内文を配っていたのだ。野川では「花こんなに一杯見たの、良かったわねー」と羨ましそうにする。「だけど雨が無茶苦茶句で」「近藤勇の墓はどうだった」葛和田の渡しについては、「今度お父さんと行かなくちゃ」と言う。過ぎたものでも、案内があればこうして役に立つのである。隊長は偉い。私の作文も、もしかしてそんな役に立つならばと、ささやかな願いをこめて、私は拙い文章を綴っているのである(嘘である)。
 バスは対向車が来てもすれ違えないと思える狭い道を、かなりのスピードで走って行く。およそ四十分で終点に着いた。料金は五百十円也。雨は止まない。本日の参加者は、隊長、ダンディ、桃太郎(岳人、春日部太郎)、私、キヨシさん夫妻、チロリン、クルリン、マルちゃん、イッチャン、シノッチ、椿姫(お姉さん)の十二人である。
 里山歩きベテランの女性やキヨシさんは準備が良い。大した降りではないが完全防備の雨具を身につける。ただチロリンの防水ズボンはちょっと長すぎはしないか。裾を引き摺るようだ。その中でダンディはキリル文字を染め抜いたティーシャツ一枚だけである。「だって、椿姫に見せるために着てきたんですからね」
 私たちがこうして準備している間に、向こうのグループには竹寺からの迎えの車がやってきた。七八人いたようだが、ワンボックスカーに全員納まって、走り去る。

 私たちはこれから五十分程の登りを歩くのだ。周囲の緑が雨に濡れて光っているのが美しい。クルリンが阿修羅展を見に行ったと話してくれる。「感激したわ」そうなのです。私も仏像を見て自分が感動するとは思わなかった。阿修羅だけでなく、それぞれの表情が豊かで、奈良時代の男の子はこんなに凛々しかったのか、日本人もまんざら捨てたものではないと思ったものだ。椿姫は半跏思惟像が好きだと言う。どうも私とは教養が違いすぎる。
 所々の枝には黄色い実が生っていて、みんな手を伸ばしてそれを口にする。モミジイチゴ(バラ科キイチゴ属)である。私は子供のころだってこんなものを食べたことはないのだが、キヨシさん夫人が勧めるので口にしてみると結構甘い。赤い実はヘビイチゴ(バラ科ヘビイチゴ属)。「あれは不味いの、パサパサして」「そうかな、私は旨いと思いましたよ」マルちゃんは高級料理しか食べないから、こんなものはだめなのだ。ダンディは戦後の食糧難の時期の記憶だろうか。キヨシさん夫人が「何でも経験だから」と口にして、「味がないのね」と納得している。「でもパサパサしてない、水っぽい」「それは雨に濡れているからでしょう」
 赤い茎に二枚の白い花弁を下向きに、その上に斑点のある小さな花弁が三枚ついて咲いているのはユキノシタである。
 山道を登りながら私には初めての珍しい花を見る。しかしガクアジサイのように見える白い花は、隊長の鑑定でガクウツギ(ユキノシタ科)であることが分かれば、それなら軽井沢でも教えてもらっていたのをすっかり忘れている。ついでにガクアジサイもユキノシタ科なのである。
 釣鐘のような形の赤紫の花はハンショウヅル(半鐘蔓)キンポウゲ科センニンソウ属。ハナイカダ(ミズキ科)も見える。「ハナイカダって言うと、私は川一面に桜の花びらが散って下って行くのしか知らない」そう言うのはダンディである。今私たちが見ているのは、葉を船に見立て、その真ん中にいきなり出現する花を船頭と見るのである。こんなに大量のハナイカダは初めてだ。
 車で登っていたグループは、こんな景色を見ることができないのだ。なんだか自慢したくなってしまう。あんみつ姫だって来ていたら喜んだんじゃないか。
 「竹寺まで五分」の標識があった。ただし、その下に「車で」と書かれている。距離は一・五キロメートル。そろそろ雨も止んだようだ。
 「これ知ってるかい」と隊長が指さしたのは葉の一部が白く変化しているものだ。半夏生かな。「似てるけどね。これはマタタビだよ」マタタビ科マタタビ属の落葉蔓性木本である。ハンゲショウのほうはドクダミ科の草本である。木か草かの違いで覚えればよいか。「猫が好きなのは何故」「花じゃ無くて、実を食べると酔うのよね」クルリンはマタタビに詳しかった。
 キツネアザミ(キク科キツネアザミ属)。「キツネってつくのは大概毒があるんだけど、これは毒じゃない」実は私は普通のアザミと区別がつかない。
 先頭と後方との間が次第に開いてきた。「さっき五分って書いてたのは何だったんだろう」キヨシさんは、「車で」という文字を見落としていたらしい。それでもやっと、「竹寺まで五百メートル」の標識まで辿りついた。バスの停留所があって、八王子行きの表示が書かれている。これから行く竹寺の本名が八王子だと、さっきダンディに聞いたばかりだった。元気になったキヨシさん夫妻とマルちゃんは先頭にたって登って行く。
 やがて竹林が見えてきた。まっすぐ行けば駐車場に出るが、「徒歩の方」用の入口は、獣道の入口のようになっている。先頭の三人は先に行き、私は後続を待ち、そろったところで竹林を抜けていく。「雨かしら?」そうではなく、風で濡れた竹の葉が落ちてくるのであった。

山道や六根清浄竹の秋  眞人

 竹寺の境内に入り込んだのは十一時十分頃だ。食事は十一時半に予約しているので、先に本尊を見なければならない。
 竹で作られた鳥居が五基並んでいる中を通る。この鳥居を見て「珍しいですね。初めてだわ」椿姫が感動する。観音堂の脇を通って行くと前方の鳥居には茅の輪が設けられている。鳥居は稚児柱が取り付けられた両部鳥居型で、額には「天王山」と書かれている。
 バスで一緒だったグループは、食事を終えてから回ってきたのだろう。茅の輪を潜って降りてくる。「これ踏んでもいいのかしら」普通は踏まないのではあるまいか。しかし、パンフレットには茅の輪を踏んでいる写真が掲載されている。こういうことは宗匠がいれば分かる筈だが、残念ながら私たちだけでは判断がつかない。八の字を書くように三回回るのが本式だが、参道一杯に鳥居が立てられている位置からして、八の字を書くのはちょっと無理だ。そして牛頭天王本殿に到着する。屋根は茅葺である。
 今年は丑年だから十二年に一度の開帳の年に当たる。本殿の扉は開け放たれているから、中に入って良く見ることができる。右手に鉞、左手に策を持った、黒い像が牛頭天王であり、その後ろに控えている八人の小さな像は八王子である。正面には護摩壇が設置されていて、いかにも密教の雰囲気が漂っている。
 さて牛頭天王とは何か。一般的には中世の密教時代に異国からやってきて、スサノオと習合したと考えられている。本来疫病を齎す神であったが、これが疫病消去、除災招福の神に変じた。牛頭天王を主神とする最も有名な神社は京都祇園神社であろう。その「祇園牛頭天王縁起」を、山本ひろ子『中世の異神』から抜き書きしてみる。

 須弥山の半腹に豊饒国という国があった。一人の太子がいたが、七歳にして身長は七尺五寸、頭頂には三尺の牛頭・三尺の赤い角があった。
 妃を迎えるため竜宮に出かける途中、日が暮れたので「巨端長者」に宿を求めたが断られた。蘇民将来は貧しい家なのでいったんは辞退するが、天王には新しい茅の席を用意してもてなした。
 竜宮に達した天王はここで八王子(七男一女)を設け、帰国する途中でまた蘇民将来の家を宿所とした。後、天王は八万四千の眷属を率いて「巨端長者」を滅ぼそうとするのだが、そのとき、巨端の家には将来の娘がいる。なんとか娘だけは助けてほしいという将来の願いに、「茅の輪を作って赤い絹に包み、蘇民将来の娘と書いた札を娘の腰に付けさせよ。そうすれば災難から免れるだろう」と指示した。そして、巨端長者の一族を殲滅したのである。
 また、同じ山本の本が紹介する備後国「疫隅の国社」縁起(鎌倉初期と推定)では、この主人公が牛頭天王ではなく武答神であり、同じように蘇民将来の家に泊まり、茅の輪の守りを授けた上で、「我はスサノオの神である」と名乗るのである。
 正体はよく分からないが、中世密教がしきりに招来した異国の神の一つであり、密教と習合して広まったものだ。本来はインドの神であろうが、スサノオと習合したことによって、新羅の神であるとも考えられた。

 蘇民将来伝説と茅の輪由来が登場するのである。そしてこの竹寺は明治の神仏分離令を辛くも逃れ、現在に至るまで神仏混淆を維持している珍しいところなのだ。正式には医王山薬寿院八王子であり、天台宗に属す。パンフレットに書かれている縁起によれば、慈覚大師円仁の開基になる。こんなことは信じなくても良いが、古くから山岳信仰の中心地であったことは間違いないだろう。

天安元年丑年、慈覚大師東国巡修の折、疫病流行し患者の多きを憐れみて、当山を道場として大護摩の秘法を修し、一切の障難を除き、疫病を降伏し病患を除かしめん事を誓い、一刀三礼して尊像を造り、世の人を救い後世に遣し給へり。

 本尊は牛頭天王、本地仏を薬師如来とする。神仏習合を残す東日本唯一の道場であると言う。
 廃仏毀釈の運動は明治になって突然起こったことではない。国学イデオロギーによる神道ナショナリズムのお蔭で、江戸時代後期から各地で散発的には起こっていた。それを国家的規模で断行したのが慶応四年の「神仏分離令」や明治三年の「大教詔書」である。これによって各地の仏像が破壊され、神社と寺院は分離された。竹寺の場合、おそらく明治の役人がこんな片田舎の山奥まで出張してこなかったのが幸いした。
 山を見下ろす場所には木彫りのトーテムポールのようなものが、半分焦げたまま立っている。「トーテムポールじゃないですね」桃太郎の指摘で良く見れば、高い木の中ほどには、牛頭人身の像が腰かけた形で彫られており、その他にも何か分からない動物の像も刻まれている。「あの動物は熊かしら」「狐じゃないの」焼け焦げているのは本堂が平成十二年に焼失した跡だ。

 本殿の正面には塔婆が建てられ、五色の紐が結ばれている。この紐にさわれば天王との縁が結ばれ、「結縁の証」がもらえるのだ。「貰えるんじゃありません。買うんですよ」確かに三百円と書かれている。私は当然買わない。そのために紐にも触らないことになった。
 雲板(と言うのだろうか)が鳴らされているから、食事の用意ができたようだ。本坊に上がって一部屋に案内される。客はいくつかの部屋に分かれているが、私たちの部屋には他に羽村から来た夫婦(?)、吉祥寺から来た老親と娘(?)が同席する。
 ごく少量の料理が盛りつけられた器は全て竹で作られている。それぞれの器は花の枝で飾られ、短冊が置かれている。「男の人には足りないよね」たったこれだけで三千円ということはあるまいね。マルちゃんは以前、六千円のコースを食べたらしい。取り敢えず立ち上がって、料理の写真を撮る。
 誰も箸をつけないのがイッチャンには不安で、「まだ駄目なのかしら」とシノッチに囁いている。隣の部屋からは坊さんの声が聞こえるので、それを待たなければいけないのではないか。私はただ昼飯を食べる程度に思ってきたのだが、これは住職の法話を聞きながら「精進料理を食べる会」という、実は厳かな宗教的な(?)会合なのであった。
 ようやく坊さんが現れ、「平野さん御一行はどちらから」とまずわれわれの身分を確認する。「埼玉県のあちこちです」「そうですか」別にそれ以上の詮索はない。羽村とか吉祥寺と言うのが分かったのはこのためだ。法話と言っても大したことはないが、神仏習合の基礎知識から始めて、それぞれの料理の素材、飾られた花や短冊を説明してくれるのだ。
 やがて五十センチほどの竹筒が二本運び込まれ、「有難いお湯、薬湯です。ぜひお飲みください」と言って、私の小さな竹製の猪口に注いでくれる。「それじゃ、これを回していただいて」全員に注ぎ終わったところで坊さんは退席する。
 薬湯ね。ようするにヌル燗の酒である。全員に回せば五十センチの竹筒はすぐに空になる。二本追加。ただし容量は五十センチの見かけほどではない。せいぜい二合入りというところだろう。一本八百円也。

  走り梅雨精進忘れ昼の酒  眞人

 料理も少しづつ追加される。器が追加されるたびに坊さんが現れ、また説明してくれる。全部は覚えていないができるだけ記録しておこう。天麩羅は柿、桜、モミジ、タンポポの葉などである。衣が厚いので、葉の味は良く分からない。蕨の煮付け、蕗の薹の佃煮、破竹を輪切りにしたもの、花梨の甘露煮、正体不明の白和え、ツリガネニンジンの何か。箸は細い竹を何の細工もせずに割ったものだから、食べにくい。たぶん、時間をかけてゆっくり食べるように、わざと食べにくい箸にしてあるのだ。最後に五目寿司と茶蕎麦。三千円コースでは十品ある筈だから、記憶に残っていないものもあることになる。
 分量は少ないが、いつもは五分ほどで食べ終わってしまう私にしてみれば、異常に長い時間をかけたことになる。そのせいだろうか、わりに満足感がある。ただ、今日の精進料理に豆腐料理がなかったのが少し残念だ。「白和えがありましたけどね」桃太郎はちゃんと知っているが、私は白和えなんて豆腐ではないと思う。
 チロリンはそれでも全部食べられずに少し残している。それをダンディが貰っているのだが、「ちゃんと食べないと大きくなれないよ」と私が言えば、「もう今更大きくなんかならなくていいよ」と答が返ってくる。
 私たちに縁のない六千円コースは二十品である。食べきれないかも知れない。隣の部屋から聞こえてくるのは、私たちの部屋に来た坊さんとは違う声で、話も長いようだ。料金が倍になるだけ坊さんの話も長い。もしかしたら、向こうの方が偉い坊さん(住職?)だろうか。
 器に添えられた花は、ヤマボウシ、テイカカズラ(キョウチクトウ科)、薄紫の奇麗なコアジサイ、スイカズラ、ウツギ(ウノハナ)、ハナイカダ。スイカズラ(忍冬とも)は実に甘い香りが漂う。語源の「吸い葛」通りだと言うことが良く分かる。コアジサイはそのまま挿木にすれば根付くと言う。イッチャンがほしそうなので進呈する。「他の花はどこでも見られるけど、これはちょっと珍しいの」花を持ち帰る人のため、ビニール袋も用意されているのだ。「器は持っていかないでくださいね」と坊さんが注意する。
 私はテイカカズラのことは知らなかったが、能「定家」に由来する。式子内親王を忘れられなかった定家が、死後、葛となって内親王の墓に絡みついたというものである。

 短冊は全部記録しておこう。

五月山卯の花月夜ホトトギス聞けども飽かずまた鳴かずかも
うぐひすの声を間近に野立の座  上林?草庵
山かけて万緑しばる竹眼鏡  秋元不死男
鶯の鳴き散らすらん春の花いつしか君と手折りかざさむ
いにしへの七の賢しき人共も欲りせしものは酒にあるらし

 最後の歌は竹林の七賢人にかこつけてはいるが、我ら愚人のためのものであろう。
 それではそろそろ良い時間だ。隊長の最初の案では、隊長はここでサヨナラ、歩きたい人のためには第一案(子の権現コース)、第二案(豆口峠コース)が用意されていた。しかし全員が、折角ここまできて歩かないで帰るのはいやだと言うので、第二案が採用された。「隊長は帰って良いですよ」私はわざと意地悪を言ってみるが、しかしこれでは隊長も一人でサヨナラするわけにはいかない。
 「クルリンが心配だったんですよ」里山にはあまり参加しないクルリンを気づかったのだと言うが実はそうではないと私は睨んでいる。本日の企画者である椿姫は山歩きは苦手だ。ここで帰ると言うであろう。彼女を一人帰してはいけない、だから自分もここで帰ることにする。それが隊長の思惑だったのではないか。その彼女が歩くと言うのである。隊長としても一人淋しく帰ることはできない。

   今度は桃太郎が先導する。「だって顔が赤くちゃリーダーにはなれないんですよ」と隊長が言うと、「全然赤くない」とお姉さんが指摘する。いつもの日焼けした顔に変化はない。

  琅玕の竹玲瓏と冬に入る   西本一都

 竹林に句碑が立っていた。「琅玕ってなんでしたか」ダンディが首を捻るが私も分からない。日頃日本語の衰退を嘆いている割には、二人とも大したことはない。「知らないままだと気持ち悪いから」とダンディが早速辞書を引く。ダンディは広辞苑を調べたが、私はウィキペディアを引いてみよう。「翡翠」の項に出てくる。

十八世紀(清の時代)以降、ミャンマーから硬玉が輸入されるようになると、鮮やかな緑のものが好まれるようになった。そのなかでも高品質のものは琅玕と呼ばれ珍重されることになった。台北故宮博物院にある有名な白菜の彫刻は硬玉製である。
琅玕は中国語で青々とした美しい竹を意味し、英語ではインペリアルジェイドと呼ばれる。これは西太后が熱狂的な収集家であったことに由来するとされる。

 竹寺の名に相応しく、竹を詠んだ句碑が多い。この寺はまた奥武蔵俳句寺とも称しているのだ。

竹寺の竹の時雨に会ひ申す   松原地蔵尊
今年竹渓流ひびきやすきかな  秋元不死男
たもとはる竹の鳥居や竹の秋  鈴木白祇
竹寺は薬師の浄土風光る    中谷孝雄

 牛頭天王本殿を見下ろす位置は海抜四百九十メートルである。薄紫のホタルブクロ(キキョウ科)に見惚れて桃太郎が道を町を間違えそうになり、「こっちこっち」と隊長から声がかかる。ここがら山道に入って行く。
 尾根伝いにやや登り気味の山道を歩いて行くと、土を踏みしめる感触が心地よい。白いコアジサイが目につく。さっき嘱託に出たのは薄青が綺麗だったが、この辺ではあの色は余り見えない。どうやら、最初は淡い青で、次第に白色に変化していくもののようだ。ガクアジサイのような装飾花はなく、細かな花が密集している。
 「ミミズか」と言う声が聞こえるが、平べったくて、オレンジがかった黄色に変な黒い模様で、二十センチほどの虫は、ミミズである筈がない。私はミミズに詳しい者ではないが、これはヒルの類ではないか。「ヒルはこんなに大きくないよ」チロリンはあくまでミミズにしたそうだが、私が検索してみたところでは、これはヤツワクガビルというものではないだろうか。以下のページに、ミミズを丸のみしている姿が載っているが、そっくりだと思う。
 http://homepage3.nifty.com/nininsankyaku/yama/y020.htm

また特に大きなものには、ヤツワクガビルがいる。全長は伸びると50cmを越え、全身は鮮やかな黄色に黒の縦スジがある。湿った陸上に住み、これまた40cmにも達するシーボルトミミズなどの大型ミミズを丸飲みにする。(ウィキペディア「ヒル」)

 四十分も歩いただろうか。先導していた桃太郎が「ここです」と待っている峠には「神送り場」の看板が立っている。

峠は隣の村との連絡路であると共に、そこはふつう村境であることが多い。峠の近くには神送り場というところがあった。むかし悪い流行病などがはやると、村人たちは、夜中大ぜいで鐘や太鼓をたたいてここに駆け登り、頂上で疫病神を追い払うという習わしがあった。環境庁・埼玉県

 「隣の村は良い迷惑よね」「向こうも同じことしたんじゃないの」神送りというのは初めて聞くが、村境や橋の袂に、こちら側に疫病などが入り込まないよう、塞の神(文字通り、さえぎるのである)や道祖神を祀る習俗は全国にある。この神によって結界を巡らすのである。
 ここからは林の中のかなり急な斜面を降りていくことになる。隊長の案内では、「下り車道三十分」となっていたのだが、なかなか車道は現れてこない。根っこが露出していて、雨に濡れているから滑りやすい。ここに来て椿姫が山が苦手なことがはっきり証明された。「お姉さん、お手をどうぞ」
 要所々々で手を取って慎重に降りて行く。大分降りたところで気がついた。「歩幅を小さくすれば良いんですよ」「もっと早く言ってくれなくちゃ」キャーキャー言いながら、それでも全員無事に下界に到着したのは結構なことであった。
 「キヨシさん、お茶を頂戴」先頭に位置している夫人から、後方のキヨシさんに声がかかる。手渡しでリレーするが「違うのよ、黒いの」「それなら、そっちに入っているよ」「あら、そうだったわ」残念ながら魔法瓶はもう一度手渡しで戻された。
 漸く車道に出て、少し下って行けばもうすぐ目の前が国際興業バスの名栗車庫である。先に到着した隊長が運転手に頼んでくれたのだろう。少し遅れ気味の人も含めて全員が乗り込むのを確認して、バスは出発する。
 今度は朝のコースよりも長いのは当たり前で、名栗は本来飯能ではない。明治には秩父郡名栗村、大正十年に入間郡になり、つい最近の平成の大合併で飯能市に吸収された。つまりここは秩父である。料金は六百円。
 バスを降りて駅前で解散する。反省が必要ない人たちはお茶を飲みに行く。まだ四時には間があるが、「昼からやってるよ」という隊長の言葉で、反省すべき連中は銅版屋という居酒屋に入る。椿姫も今日はきちんと反省しなければならない。ビールの後、「折角来たんだから地元の酒を」というダンディの言葉で、ダンデイ、桃太郎、私は天覧山を飲み、途中でそれがなくなってしまったので、秩父なんとかという酒に切り替える。
 いつもよりは早めに終わると、隊長はいきなり松屋に入り込むのでここでお別れだ。桃太郎はいつものように金太郎に会うため、池袋までの特急券を買い込む。ダンディとお姉さんは新秋津経由、私は本川越へとそれぞれの道を行く。

眞人