平成二十一年六月二十七日(土)  東村山

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.6.30

 梅雨の晴れ間で今日は猛暑が予想されている。
 東村山駅には初めて降りた。この辺の地理には弱くて、所沢の隣の駅だなんてまるで気付かなかった。猛暑だと言うのに久しぶりの人も含めて参加者が多い。
 隊長、画伯、宗匠、小澤、ロダン、多言居士、コバさん(久しぶり)、チイさん、長老、瀬沼夫妻、ダンディ、ドクトル、講釈師(久しぶり)、皆川(久しぶり)、ヤマちゃん(久しぶり)、阿部、イッちゃん、チロリン、クルリン、サッチー、ノリコさん(久しぶり)、シノッチ、高橋、マルちゃん、カズちゃん、イトはん、堀内(久しぶり)、伯爵夫人、七條、それに私。合計三十一人である。これは記録ではないかと思ったが、しかし惜しいね。去年の三月、密厳院から菩提樹池まで歩いた時が三十二人であった。今回はそれに次ぐ。
 ところが、私と宗匠は別々にチェックしていたくせに、それぞれ誰かを漏らして隊長には三十人と申告してしまった。今日は久しぶりの堀内さんと阿部さんが揃っているから、植物観察会の趣になるだろう。春日部の桃太郎は八ヶ岳に向かい、あんみつ姫は子供対象のイベントに駆り出されたため、事前に欠席届が提出されている。
 隊長からは本日のコース地図と日食に関する資料が配布された。当然、日食についての講義があるだろうと思ったのに、「だって面倒くさくなっちゃって」とこれには触れないままスタートした。
 「東村山の東はなんでしょうかね」ダンディが聞いてくる。これは私も気になっていたので事前に調べてきた。「村山っていう村の東部に位置するからのようです」「東松山なんかとは違うんですね。それなら西村山っていうのもあるんでしょうか」詳しいことは下記を見てもらおう。

一八八九年四月一日の町村制施行の際に、北多摩郡野口村・廻田村・大岱村・久米川村・南秋津村が合併して東村山村(ひがしむらやまむら)となった。村名は、この一帯を村山郷といい、村域がその東部にあったことによるものである(山形県村山市や同じ東京都にある武蔵村山市との同名回避ではなく、東久留米市や埼玉県東松山市と命名の由来が異なる)
一九四二年四月一日に東村山町(ひがしむらやままち)、一九六四年四月一日に東村山市となった。(ウィキペディア「東村山市」)

 駅西口から出発して住宅地を抜けていく。民家の庭先に花が多く、何かを発見するたびに列が止まる。私の好きなビヨウヤナギはもう盛りを過ぎてしまって、花弁がやや萎れかけている。ユウゲショウ(夕化粧、アカバナ科)、赤紫というか濃いピンク色のハエトリナデシコ(蠅取撫子、ナデシコ科)を見ると、ノリコさんは「ムシトリソウとか言いませんか」と尋ねてくる。質問の相手が違うのだが、すぐそばに他言居士がいて、「そうとも言うけど、ハエトリナデシコが正式」と答えてくれる。
 弁天橋(前川)は朱色の欄干に金色の擬宝珠をつけた小さな太鼓橋である。

  紫陽花や朱の欄干の金擬宝珠  眞人

 それを渡ると弁天池公園に出る。赤い鳥居の奥には小さな祠が祀ってある。出世弁財天女宮。「若い人は是非お参りしてください」ダンディが笑うが、「俺はもう終わってます」「私もそろそろ諦めました」と「若い」連中は意気地がない。「若い」と言ってもそれぞれ会社では定年を数年後に控えた高齢者なのだ。小さな池にはスイレンの花が浮かんでいる。「未草だよね」「そう」このところ、私の知識は宗匠とほぼ同じ程度になっているんじゃないか。

 弁天の池の濁りに未草  眞人

 ここから西に二三百メートル程歩く間にも、民家の庭先に様々な花を見る。「コエビソウだよ、海老の尻尾みたいだろう」講釈師が指したのは、塀の上からはみだしている、色も海老茶のような植物である。キツネノマゴ科。この海老茶色の薄片を重ね合わせたような穂は、花ではなく苞である。苞とは何であろう。基礎知識がないから困ってしまう。

苞(ほう)とは、植物用語の一つで、花や花序の下部にあって、つぼみを包んでいた葉のことをいう。苞葉ともいう。また個々の苞を苞片という。
多くの場合、普通の葉より小さくて緑色をしたものである。しかし、花弁(「花びら」のこと)や萼に見えるような植物もある。逆に葉としてよく発達し、本当の葉の方が退化している例もある。(ウィキペディア「苞」)

 カシワバアジサイ。「葉っぱが柏みたいじゃないか」紫陽花は本当に種類が多くて難しい。「アジサイはアジサイでいいの、難しいことは言わなくていいよ」マルちゃんが断言する。
 濃い臙脂色の花はボタンクサギ(牡丹臭木、クマツヅラ科)。「志木で見たね」「そうだっけ」宗匠も意外に記憶力が弱いのではないか。確か阿部さんに教えてもらった筈だ。「あっ、この臙脂のやつか」どうやら違うものを見ていたようだ。
 隊長は八坂神社の鳥居には目もくれない。これは当然、牛頭天王社だったろうと思われる。牛頭天王社が明治の神仏分離で名前を変えた時、京都祇園の八坂神社にあやかったり、須賀神社となったりしているのは御馴染である。私たちの目的はすぐそこに隣接する正福寺だが、おそらくこの寺に付属していたものであろう。立派な山門から中に入る。臨済宗建長寺派、金剛山正福寺である。

 創建年代については不詳であるが、鎌倉時代中期に鎌倉の建長寺僧石渓心月の開山により創建されたと伝えられ、開基については執権北条時頼とする説と北条時宗とする説がある。
 室町時代の応永十四年(一四〇七)建立とされる地蔵堂は、建造物として東京都内で唯一国宝の指定を受けている。(ウィキペディア「正福寺」)

 この辺りは鎌倉街道上道(かみつみち)に位置するらしい。それなら、ここでもウィキペディアのお世話になってみると、こんなルートらしい。
 

鎌倉時代に編まれた「宴曲抄」の中の歌謡「善光寺修行」には、鎌倉街道の地名が織りこまれている。
由比の浜(鎌倉市由比ヶ浜)~常葉山(鎌倉市大仏坂北西の常葉)~村岡(藤沢市宮前を中心とした付近)~柄沢(藤沢市柄沢付近)~飯田(横浜市泉区上飯田町・下飯田町付近)~井出の沢(町田市本町田)~小山田の里(町田市小野路町)~霞ノ関(多摩市関戸)~恋が窪(国分寺市の東恋ヶ窪及び西恋ヶ窪)~久米川(東村山市と所沢市との境付近)~武蔵野(所沢市一帯の地域)~堀兼(狭山市堀兼)~三ツ木(狭山市三ツ木) ~入間川(狭山市を流れる入間川で右岸に宿があった)~苦林(毛呂山町越辺川南岸の苦林宿)~大蔵(嵐山町大蔵)~槻川(嵐山町菅谷の南を流れる川で都幾川と合流する) ~比企が原(嵐山町菅谷周辺)~奈良梨(小川町の市野川岸の奈良梨)~荒川(寄居町の荒川)~見馴川(児玉町を流れる現在の小山川)~見馴の渡(見馴川の渡)~児玉(児玉町児玉)~雉が岡(児玉町八幡山)~鏑川(藤岡市と高崎市の境を流れる)~山名(高崎市山名町)~倉賀野(高崎市倉賀野町)~衣沢(高崎市寺尾町)~指出(高崎市石原町付近)~豊岡(高崎市の上・中・下豊岡町)~板鼻(安中市板鼻)~松井田(松井田町)

 後になって知ることになるから後悔する。最初から知っていれば、瀬沼さんに質問することだってできたはずなのだ。やはり事前調査は必要です。
 宗匠にも教えられる。国宝である地蔵堂の建築については見るべきポイントがある筈だが、私は建造物に疎くて、何を見たら良いのか分からない。宗匠は事前に調べてきているから、その資料を見せてくれる。鎌倉円覚寺舎利殿と同じく唐様の代表的建築である。反りの強い屋根、正面の桟唐戸、花頭窓、弓形欄間、粽柱、貫、禅宗様木鼻、扇垂木(裳階部分は平行垂木)、縦板壁、虹梁大瓶束式の妻飾。
 仁和寺の法師のことは笑えないのだ。何事にも先達はあらまほしい。単語だけを見ても良く分からない。円覚寺にそっくりだというのなら、円覚寺の説明も参照してみよう。

 入母屋造、杮(こけら)葺き。一見二階建てに見えるが一重裳階(もこし)付きである。この建物は、組物(屋根の出を支える構造材)を密に配した形式(「詰組」という)、軒裏の垂木(たるき)を平行でなく扇形に配する形式(扇垂木という)、柱・梁などの形状、花頭窓(上部がアーチ状にカーブした窓)や桟唐戸(さんからど、縦横に桟をはめた扉)の使用など、細部は典型的な禅宗様になる。(ウィキペディア「円覚寺」)

 「もともと茅葺だったのをコケラ葺きに変えたんですよ」ダンディもちゃんと事前に資料を読んできているから偉い。コケラというのは、サワラや杉などを一寸から二寸ほどに薄く裂いた板のことである。「柿」と書くが、実はカキとコケラはちょっと違う。旁の「市」を五画で書けばカキ、四画(縦棒を貫く)で書けばコケラだ。パソコン上ではまず区別がつかない(と言うより、コケラの文字がない)
 地蔵堂の脇には、十二三センチほどの小さな地蔵が夥しく並んでいる。「削りやすいように杉を使ってるんだね」多言居士が確認する。
 貞和の板碑が収められた小さな堂には金網が張られている。その隙間からカメラを差し込むと、全体像が写らない。説明によれば高さ二百八十五センチ、中央部分の幅五十五センチは、都内最大の板碑である。貞和五年(一三四九)の銘をもつ。蓮花の上に彫られている種子はバク(釈迦)であるが、私はキリーク(阿弥陀)かと思ってしまった。梵字は難しい。江戸時代には橋の代りに使われていたらしいのだが、その割には種子も綺麗に残っている。板碑は鎌倉期に盛んに作られて、戦国時代後期にはもう見られない。おそらく坂東武士の信仰形態がそこにあるのだが、江戸時代にはそんなものは忘れられてしまった。だから手頃な建材として、橋桁や橋に転用されたり、破壊されたりした。橋として使われたものが、こんなに種子を明らかに残しているのは珍しいだろう。

 「右端だけが形が違うのよ、どうしてかしら」クルリンが見ているのは不動明王だ。如来、菩薩が並ぶ十三仏の中でただひとつだけ不動明王がいるから、形が違うのは当然なのだ。右端の不動明王から順に十三体の仏が並んでいる。これは新しい。
 不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、これで十人。これに閻魔王を中心とする十王がそれぞれが対応している。さらに阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩を加えて十三仏となる。「文殊は俺の守護神なんだよ」多言居士が言う。文殊の台座には卯年と書かれている。「ウサギですか」「いや、丑年だよ」丑年なら虚空蔵菩薩の筈だ。文殊は私の方に縁があることになる。
 「ここにもあるよ」宗匠が指さすのは寛永寺の石灯篭だ。所沢や飯能近辺のお寺でよく見かける。こうして寺院に保存されているのは運が良いのである。堤康次郎の西武によって破壊されてしまった灯籠はどれだけあるか分からない。
 池には蓮の花が咲き、菩提樹の実がなっている。「蓮とスイレンを知らない人がいました」とダンディが笑う方向を見ればヤマちゃんであった。「ハスってレンコンのことですか」レンコンは文字通り蓮根と書くからね。その違いについて、花の形状、葉の切れ込みを私が講義する。

ぱっくんと仏を待つか蓮の花 《快歩》
唐様の地蔵堂あり蓮の花  眞人

 タイサンボク(泰山木)の花が咲く。「アメリカから持ってきたんだよ」講釈師は何でも知っている。「それにしちゃ、名前が中国風だよね」モクレン科モクレン属。確かに北アメリカ産だ。芳香を嗅げと花のついている枝を引っ張ってくれる。「英語で何って言うのかな」ダンディはすぐに調べて「Evergreen magnoliaでした」と教えてくれる。エヴァーグリーン。「いつも若々しい皆様のようですね」私もたまにはお世辞を言うのである。

 鉄人の如き人あり夏の花  眞人
 匂ひたつ泰山木や石塔婆  眞人

 すぐそばに、シモクレンが咲いているのをチイさんが見つけた。「今頃でしたっけ」「いや普通はとっくに終わってますよね」
 善行橋(北川)を渡ると北山公園に入る。池にはカメラを据え付けて待機している人も多い。「カワセミがくるんだよ」ここは菖蒲園になっていて、色とりどりの花菖蒲が咲いている。観光客が多い。公園の北側にはすぐ西武鉄道西武園線が通っている。その向こうの山側が八国山緑地だ。花を見ながらここで少しのんびりする。

それぞれのカメラを前に花菖蒲 《快歩》

 ガクアジサイを前にして講釈師が小さな声で私を呼ぶ。「これは花じゃないんだよ」それなら私だって知っている。ガクである。「ロダンに試してみようぜ、絶対知らないと思う」呼ばれたロダンは、しかし講釈師の期待に反してちゃんと知っている。「間違えたら笑ってやろうと思ってたのに」「それって虐めじゃないですか、もう」講釈師は久しぶりにロダンに会うので嬉しくて仕方がないのだ。

 御馴染の口喧嘩にも額の花  眞人

 菖蒲園を抜ける辺りは体験農園になっているのだが、そこには何か分からない新興宗教らしい名前のテントが張ってある。水を張った水田では、機械を使わず、全くの手作業で田植えをしているようだ。「米は難しいんですよ」戦中戦後の食糧難の時期、ダンディ家では様々な食料を作ってみた。野菜は大丈夫だったが、米だけはできなかったという。
 西武線に沿うように西に向かえば「八国山たいけんの里」である。八国山とはなんであろう。頂上から上野・ 下野・ 常陸・ 安房・ 相模・ 駿河・ 信濃・ 甲斐 の八国が見渡せるというのである。標高八十九・四メートル。たぶん今では八国も見えないと思う。
 まだ十一時半だが「だって、この先には適当な場所がないんだから」という隊長の説明で、早目の昼食となる。珍しく講釈師が最初にビニールシートを広げる。「俺だってちゃんと持ってるんだ。あっ、長老は出さなくていいよ、画伯の広い奴があるから」自分のものも他人のものも関係ない。
 いつものようにサッチーとイトはん、マルちゃんからは漬物、伯爵夫人からは土産物の昆布(乾燥させて小さくちぎってあるもの)などが提供される。食事を終えればリンゴ、お菓子、飴、チョコレートの山である。
 ここでペットボトルのお茶がなくなり、水道水を補給する。頭から水をかぶると生き返る。
 食事を終えて建物の中に入ると、そこには出土した考古学資料を展示している。私は考古学はあまり得意ではないのだが、学芸員が説明してくれるので聞かない訳にはいかない。漆、オニグルミの殻、貝、木杭などが縄文時代のものとは思えない状態で保存されている。これは、地下の湧水に浸されていたため、守られていたのである。

 下宅部遺跡は、東京都東村山市多摩湖町四丁目三・四番地およびその周辺に所在します。地形的には、北に狭山丘陵、南に北川(後川)が流れる、丘陵部分から低地部分に位置する遺跡です。遺跡の周辺は、東村山市N0.2、日向北、中の割、鍛冶谷ッ遺跡といった市内でも有数の遺跡に囲まれた場所でもあります。
 今までの調査で、縄文時代後・晩期(約四千~三千年前)と古墳時代(約千四百年前)、奈良・平安時代(約千二百年前~)の遺構・遺物が数多く発見されました。
 特に縄文時代では、当時の川の流れ跡から、木材を組み合わせた施設や多量の縄文土器や石器、丸木舟未製品や丸木弓・飾り弓、木製容器、編み物などの木製品、当時の食生活や自然環境を物語るシカ・イノシシの骨やトチノキ・クルミなどの植物が大量に出土しました。
 また、奈良・平安時代では、瓦塔と呼ばれる瓦質の五重塔の屋根の破片が出土しました。この破片は、一九三四年に下宅部遺跡の北西約二百五十メートルからほぼ完全な形で出土した瓦塔(東京国立博物館所蔵)と接合しました。さらに、刀や斧、鋤先などの鉄製品、文字や記号の書かれた墨書土器、曲げ物や馬鍬、櫛などの木製品がまとまって出土した、杭などの構造物を伴う池状遺構も発見されました。
 このように、下宅部遺跡は、通常の遺跡ではきわめて残りづらい木の道具や施設などが数多く残されていたことから、得られる情報も多く、当時の生活や自然環境などを具体的に復元することのできる貴重な遺跡です。(東村山ふるさと歴史館)

 学芸員の説明では、出土した貝はハマグリなど海のものが多い。「この辺りは縄文時代でも海ではありませんから」「石鏃の黒曜石はどこからか分かっていますか」「分析の結果、八ヶ岳のものでした」つまり交易があったのである。
 オニグルミ、トチなどの木の実が主食であった。「どうやって食べたんでしょう、粉にしたんですか」「そうだと思います」笊のようなものに入れて水に漬かった状態で発見されたのは、おそらくアク抜きのための作業場であったらしい。鹿、猪の骨。漆塗りの木製品や、漆を掻いたと思われる土器片がある。漆の朱色が今でも確認できる。
 「弥生時代のものだけが一つも発見されないのです」生活圏が変わったのであろう。なかなか面白い学習であった。外に出て、「勉強してきたよ」と宗匠とヤマちゃんに自慢する。

 ここを出て少し行くと、団地の手前のちょっとした公園が「下宅部遺跡はっけんのもり」になっている。石を敷き詰めた細流があるだけのものだが、実は、ここは発掘を止めて埋め戻したところなのだ。将来、更に考古学的な研究方法が発達し、出土遺物が完全に保管できるような体制になるまで、自然のまま、保存しようというのである。隣の都営団地の部分は、既に発掘を終えた部分になる。
 この辺りで人数を確認すると「おい、三十一人いるよ。三十人じゃなかったのか」と声がかかる。「数え間違いじゃないの」「ちゃんといるよ」私と宗匠が慌ててメモを確認すると、確かにチェック漏れが見つかった。恥ずかしい話である。
 ヒヨドリジョウゴの花を見て足が止まる。秋になると赤い実を付けるのであるが、記録を調べると、一昨年の九月、高坂から笛吹峠を歩いた時に見ている。花は初めてだ。七條さんが一所懸命カメラを構えているが、風で揺れてなかなかシャッターを押すチャンスがとれないでいる。私が枝を抑えてなんとか撮影は成功したらしい。「図鑑とおんなじでした」私と同じように、赤い実だけは見ていて、いつか花を見てみたいと思っていたのだそうだ。白い五弁花の真ん中に、黒くて短い筒のようなものがあり(これが雄蕊)、その先端から細い針(雌蕊)が飛び出している。花は反り返っているものが多い。ナス科ナス属。
 だんだん列が伸びて、先頭と後方では相当な開きが出来てきた。曲がり角ではロダンが待機して誘導してくれるのだが、講釈師はそれにも文句をつける。「待ってなくていいんだよ。遅れる奴は置いて行けば良いんだから。歩けない奴は参加しちゃダメだ」これはいつもの口癖だから知っている人間は無視する。
 里山道を歩いて行くと、小さな墓地に出た。これは小町という一族の墓地らしい。宝筐印塔が二基あるのは、旧廻田村の名家富田家の供養塔だ。「珍しいものなの」寺院では珍しくもなんともないが、こういう里の中にある墓地で見るのは確かに珍しい。
 そこから山道に入って行く。一列にならなければ歩けない細い道だが、土の感触が気持ち良い。しかし暑い。だんだん口数が少なくなっていくのが分かる。「あれなに」「毒キノコだよ」「ミサワダケ」
 広い道路に出れば、「赤坂の庚申塔」があったらしいが、気付かなかった。西武多摩湖線のトンネルを抜ければ狭山公園だ。ここで少し休憩をとる。
 チイさんが冷えたサクランボを出してくれる。ひとり一個づつだが、冷えた感触が口の中で蕩けていく。今日のチイさんの帽子は、首筋に布を垂らすもので、「アラビア人みたいだ」とダンディに評される。
 堤防を登れば、多摩湖が広がる。正式名称は村山貯水池である。「貯水池がこんなに無防備で良いの」ヤマちゃんはテロリストが毒を流す可能性を考える。

多摩湖の正式名称は、村山上貯水池・下貯水池で、二つの湖に分かれています。村山上貯水池は、大正十三(一九二四)年三月三十一日に竣工し貯水量三千三百二十一立方メートル、村山下貯水池は、昭和二(一九二七)年三月三十一日に竣工し貯水量一万二千百四十八立方メートルです。
一方、多摩湖のそばには、うりふたつな狭山湖があります。狭山湖の正式名称は、山口貯水池で、昭和九(一九三四年三月に竣工し貯水量二万六百四十九立方メートルです。(多摩湖の歴史)

 「前に来たことあるわ、カメさんのとき」堀内さんが思い出す。「あれ、二三年前かしら、ナイトハイクで」それならば、私が踵を骨折して参加できなかったときではないか。調べてみれば、平成十六年八月、ふるさとの道自然散策会「ナイトハイク in 狭山丘陵」というテーマでのことである。
 「今でも痛みますか」阿部さんが心配そうに尋ねてくれる。同情を引くために、私は多少大袈裟に言ってみる。「今でも痛いんですよ。左足の片足立ちがうまくできない。ほら」「ちゃんとサポーターとかテーピングしなくちゃ、若くないんですからね」私もそう思うが、ついつい忘れてしまう。「そうだよね」と言いながらタバコに火を付ける。「こんな空気の良いところで。困った人ですね」私は阿部センセイに叱られてしまうのである。

  叱責も優しき湖の夏日かな  眞人

 「しばらくです」と声を掛けられ振り向くと、長靴を履いたツカさんがいた。「どうしたんですか」なんでも鳥の調査を頼まれて、いままで調査していたらしい。自転車で来たらしいから、反省会へ誘うのは無理だろう。
 合歓の花が咲いている。「いい匂いがするんだ」本当かな。ロダンも一緒に嗅いでみるが、それほどのものとは思えない。ネム、またはネブとも言う。芭蕉はネブと言った。

 象潟や雨に西施がねぶの花  芭蕉

 「他の花に遅れて、五六月頃にやっと目を覚まして芽吹くんです。だから眠ってるって」こんな記事を見つけたから、センセイの話は正しい。

眠る木のイメージは、夜になると葉を閉じてしまうことから来ているが、実はこれが春の芽吹きも頗る遅いのだ。他の植物がとっくに葉を伸ばしせ始めた5月の初旬にようやく新芽を覗かせるといった具合で、毎夜の規則的睡眠運動と同時に、季節的には御寝坊さんでもあるわけだ。http://manyo.web.infoseek.co.jp/nebu.htm

合歓咲くや話は弾む中空へ 《快歩》

 小さな池では釣りをしている男がいる。「釣りは禁止って書いてあるよ」コバさんと囁く。池と沼、湖の違いは何であるかという議論になったらしく、ダンディが辞書を引いて、池は人工であると結論を出す。「沼には河童がいる」と主張するのは講釈師だ。
 駅に向かいながらロダンが人数を数えているのは、全員揃っているかどうかという問題ではなかった。「反省会の人数を数えてるんでしょう」ダンディの推理が当たっていた。
 宗匠によれば本日の行程は約一万三千歩であった。それなら八キロも歩いていない。確かに休憩が多くてそれほど歩いた実感はないが、なにしろ暑さのせいで、体全体がだるさを感じている。早くビールを補給しなければならない。

 武蔵大和駅は小さな駅だ。「戦艦をふたつ並べたみたいだ」ダンディの言葉に、ノリコさんが「生まれてないから分かりません」と笑っている。西武鉄道多摩湖線。もともとは村山貯水池駅として発足したらしい。そのときはちょっと八坂よりだったものを、昭和十一年に現在地に移転したとき、この駅名を採用した。大和は北多摩郡大和村に由来し、それに武蔵国を被せたのである。
 戦艦武蔵が起工されたのは昭和十三年、戦艦大和はその前年の十二年起工だから、別にこの戦艦にあやかったという訳ではないようだ。駅前で隊長の校長訓示で解散する。西武鉄道の支線は分かりにくくて困ってしまうのだが、大半の人は同じ方向に行くのである。終点小平駅で西武新宿線に乗り換え、所沢で下車する。まだ三時をちょっと過ぎたところだ。「こんな時間に大丈夫でしょうか」「百味」ならやっている筈だ。案の定、店につけばこの時間だと言うのに既に客はかなり入っている。「日本は平和ですな」というのがコバさんの意見である。
 反省会の参加者は十二人の筈だが、なぜか私は十三人と数えてしまった。どうも今日は勘定がうまくできない。隊長、画伯、ダンディ、多言居士、コバさん、ドクトル、チイさん、宗匠、ヤマちゃん、ロダン、私に紅一点のカズちゃん。楽しく飲んで二千四百円也。
 しかしこれで終わってもまだ五時である。チイさんがカラオケに行きたいと言うなら行かなければならないではないか。嫌がる宗匠を無理に誘って、隊長、宗匠、チイさん、ロダン、ヤマちゃん、カズちゃん、私。二時間歌って全て五千四百円也。これは何かの間違いではあるまいか。ドリンク二杯飲んでいるのである。ひとり八百円にもならないのはおかしい。「早く出ましょう」チイさんの声で、私たちは逃げるように店を出る。

眞人