平成二十一年七月二十五日(土) 安行

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.8.1

 梅雨明け宣言が出された後、却って梅雨空が戻ってきた。今週もほとんど晴れ間は見えず、二十二日の皆既日蝕の日も駄目だった。今世紀最大の不運は悪石島に行った連中ではないかと、碁聖のメールにもあった。中国、九州地方では豪雨のために大きな被害も出ている。つい二三日前の予報では今日も雨模様の筈だったが、何とか晴れた。湿度が相当高くて朝から暑い。汗が滲み出てくる
 武蔵野線東川口から埼玉高速鉄道に乗り換えるところで、ツカさんと一緒になり、電車に乗り込むとすぐにイッチャンが続いてきた。戸塚安行に集まったのは十三人である。男性は隊長、ダンディ、ドクトル、他言居士、竹、ツカさん、瀬沼、チイさん、モリオ、私。女性はイッチャン、サッチー、カズちゃん、伯爵夫人の四人。女性の参加者が少ないのは、明日のネイチャーウォークへの参加を予定しているからだろう。明日も参加すると言うダンディによれば、行田の蓮を見てから忍城に行くのだそうだ。しかしこの時期の行田は暑いだろうね。蓮を見るのであれば仕方がないのだが。
 「これ見てくださいよ」今日のダンディは黄色に緑で縁取ったシャツを着ていて、後ろを振り向けば十番の番号が付いている。「かつてのブラジル代表のユニフォームですよ、今では違っているけど」私はサッカーに昏いのでよく知らないが、十番はペレの背番号なのだそうだ。

安行の地名は、「新編武蔵風土記稿」によると、かつて、中田安斎入道安行という人の領地であったために、名づけられたとされている。この安行の地の植木栽培の起こりは、今から三百年余りの昔、承応年間の頃、吉田権之丞によって始まったと言われている。
 吉田権之丞の人となりについては、文献・その他の資料がないのではっきりとしていない。http://www.jurian.or.jp/from-angyo/angyo/shiseki_yoshida.html

 安行の地名は開発名主中田安行によると言うこと、安行の植木栽培は承応年間(一六五二~一六五五)に始まると言うことが分かる。中田安斎入道安行は室町時代中期の人とされている。それが開発名主として名を残しているなら、その時代までこの辺りは一面の原野であったと思われる。
 最初に向かうのは、戸塚安行駅から西の方に少し行った西福寺である。小さな公園にサンゴ樹が実をつけて立ち並んでいる。スイカズラ科ガマズミ属。実がサンゴの加工品に似ているというのであるが、そんなものは見たこともないのでよく分からない。むしろ小さな真珠をたくさんくっつけたような形に見える。そこから寺の境内に入る。補陀落山西福寺である。川口市西立野四二〇。

 西福寺は、真言宗豊山派の寺で、弘仁年間(八一〇~八二四)に弘法大師が国家鎮護のため創建したと伝えられる古刹である。寺内には、三重塔と観音堂がある。
 ここの三重塔は、三代将軍家光公の長女千代姫が奉建したもので、高さ約二十三メートルあり、県下では一番高い木造の建物である。棟札銘文によると、この塔は、元禄六年(一六九三)三月二七日に建立完成されたもので、かっては、櫓を組んで塔の頂上まで参詣者に登らせたときもあったが、現在では廃止されている。塔は、鉄製の釘を一本も使わず細工によって作り上げてあり、構造は方三間で、一層の天井から真上に一本の柱をたて、その柱から二層・三層の屋根に梁を渡しバランスをとって、風にも地震にも耐えるように工夫されている。一層の天井付近にある「蟇股(かえるまた)」には、十二支を表す動物の彫刻が刻まれ、方向を示している。
 また、入口正面にある観音堂には、西国、板東、秩父札所の百の観音像が安置され、この一堂を参詣すれば、百ヶ所の観音霊場を参詣したのと同じだけの功徳(御利益)があるとされ、春秋の行楽シーズンには、多くの参詣者で賑わうところである。
  昭和五八年三月  埼玉県 (案内板より)

 観音堂を覗き込むと、本尊の両脇に壁に、金色の観音像が無数に並んでいる。説明によれば本尊は如意輪観音、両脇に九十九体の観音を合わせて、百観音というのである。境内に寛永寺の石灯篭を見つけた。
 「今の寺の山号は補陀落山だろう」寺を出て竹藪の中の道を歩きながら、「補陀落山と植木等の関係如何に」ドクトルが不思議なことを言う。植木等の生家は確かに寺院ではあると思うが。「何ですかそれ」「ホンダラカホイホイって歌っているだろう、そのホンダラカって言うのがこの補陀落じゃないのかい」

ひとつ山越しゃ ホンダラダホイホイ
もひとつ越しても ホンダラダホイホイ
越しても越しても ホンダラダホイホイ
どうせこの世は ホンダラダホイホイ
だからみんなで ホンダラダホイホイ
ホンダラダ ホンダラダ ホンダラホダラダホイホイ(略)

 『ホンダラ行進曲』作詞は当時のクレージーキャッツではお馴染みの青島幸男だ。ドクトルがこんな歌を知っているとは驚いてしまう。補陀落はポータラカの音訳である。観音菩薩の住処であり、南方海上の浄土である。紀州熊野には補陀落渡海なんていう、悲惨な歴史がある。南方浄土を目指して小舟を繰り出し、二度と帰ってこない。即身成仏と言う、往生を目指す一種の自殺修行であり、また死に瀕した者を海に流す習俗でもあった。それと植木等が関係するかどうかは不明である。

 里山に汗を拭へばホンダラダ  眞人

 門の石柱に「安行植物園」と記された所に入り込んで行けば、奥まった家の門の前でご婦人が座りこんでいる。「ここは私の家です」確かにさっきの門のところには「私有地」であると注意書きはあった。しかし「植物園」と書かれていれば、結構いろんな人間が入り込むのではないか。「植物園っていうのは、うちの屋号なんですよ、植木屋です」到着したタクシーに彼女は乗り込んで、敷地を大きく回りこんで去っていった。「スゲー、広い屋敷だよ。金持ちだな」多言居士も呆れている。安行の植木は儲かるらしい。

 外環自動車道の下を潜る隧道には「赤芝中央横断ボックス」と掲げられている。コンクリートの向こうには竹林が広がっていて、そこから緑の中に入り込んでいく。赤山城址である。竹藪の方は保護のために柵が設けられていて入ることができない。それに沿って土を踏みしめて歩けば、緑の陰に入って心地よい。私たちは周辺部を歩いているのだが、要所々々に赤山陣屋の全体像と現在地を示す地図が設置されている。
 どうやら周囲を空濠で囲んであるのだが、実に広大なものだ。二万四千坪あるという。説明を見れば、本丸、二の丸などもあったようだ。但し城址というけれど、旗本に「城」はないのではないか。陣屋と言うのが正しいだろう。

 伊奈氏は、家康関東入国と共に鴻巣・小室領一万石を給され。熊蔵忠次以後十二代にわたって関東郡代職にあり、関八州の幕領を管轄し、貢税、水利、新田開発等にあたった。三代忠治の時に、赤山領として幕府から七千石を賜り、寛永六年(一六二九)に小室(現北足立郡伊奈町)から赤山の地に陣屋を移した。これが赤山城で、以来十代百六十三年間伊奈氏が居城したものである。(説明板より)

 七千石の旗本の陣屋としてはかなりの規模になる。これも関東郡代の権力の大きさを物語るだろう。

陣屋の中枢部には、表御門・裏御門・御家形・御役家・御的場といった施設があり、北川と西側は二重の堀で囲まれていた。外堀には水があり、内堀は空濠で、この内側には土塁が築かれていた。また東側には山王三社と家臣団屋敷、南側・西側にも家臣団屋敷があった。この屋敷は、堀の内に十七、外に四十一あり、その他に門番屋敷などもあった。屋敷の規模は一町前後のものが多かった。(埼玉県教育委員会・川口市教育委員会)

 伊奈氏については池田敏之氏(会長)「関東郡代伊奈氏の歴史調査レポート」を参考にさせてもらう。江戸博物館友の会で発表されたレポートである。
 伊奈氏の本貫の地は信濃国伊奈郡熊蔵であり、ここから伊奈氏の苗字を得た。家康に仕えて武州小室と鴻巣を領し、初代忠次、二代忠政ともに代官頭として功績を挙げた。しかし三代藩主忠勝が元和元年、九歳で没したことから断絶だけは免れたが、伊奈氏別家として小室領千百八十六石の旗本に落とされた。この小室伊奈氏は西伊奈とも称され、旗本としての家を存続させる。
 一方、初代忠次の次男である忠治は、伊奈本家の相続を認められ、本家三代として寛永十九年(一六四二)関東郡代の職を襲った。以降、百六十年に及んで、関東郡代の職は伊奈氏が世襲する。 江戸初期の河川改修の最大のものは利根川東遷事業であるが、伊奈氏の功績の多くは、この事業に関係しているようだ。伊奈氏の歴史を調べた会長の感想はこういう風のものである。

埼玉県はこの伊奈忠次をはじめ歴代の伊奈関東郡代の管理行政により発展したことが判明した。利根川、荒川その他県内に流れる諸川の治水工事、或いは見沼用水の如く農業灌漑用水と、治水の面でこの役所の果たした功績は著しい。(略)この伊奈氏は関東一円に大きな功績を残した偉人である。(略)静岡県、茨城県には伊奈神社が建立され、その業績と行政にいまだ感謝の念で祭礼を行い、神様として祭っている。しかるに一番の中心地であった埼玉県伊奈町小室、川口市赤山陣屋跡を見ると、県民はその歴史をどれだけ理解しているのか疑問に思う。(後略)

 ちょっと歩けば日枝神社につく。川口市赤山二一八。小さな神社だが、八幡、天神、山王の三神を合祀していて、これも伊奈氏ゆかりの社である。神社由来を示す立派な石の裏面には、「当所八幡宮者予祖父忠常寛文十三癸丑年(一六七三)○七日所執建立也云々」の文字が彫られている。忠常は伊奈氏五代、これを祖父と言っているのは七代忠順であろう。寛永の文字だけは読めたが、年号までははっきりしない。
 チイさんの手に蝶が止まって動かない。ウラギンシジミというらしい。いったん飛びあがっても、他の人間には近づかずにまたチイさんの手の甲に戻る。よほど彼の汗の匂いが好みに合うのか。「ちゅうちゅう吸ってます」「昨日のアルコールが残ってるんじゃないの」「蝶は尿の匂いなんかにも集まるんだよ」隊長の診断である。

 手の甲に汗吸ふ蝶の止まりたり  眞人

 「そろそろお腹がすきましたね。何しろ、朝、東川口から戸塚安行まで歩いたんですから」ダンディの催促に、「次の金剛寺で昼食です」と隊長が答えている。
 その金剛寺は近かった。川口市安行吉岡一三六一。まず、「安行八景植木の開祖金剛寺」の案内板に目が行くことになる。

 金剛寺は曹洞宗の寺で、明応五年(一四九六)に中田安斉入道安行が開基したと伝えられ、寺名も安行が金剛経を信奉していたことに由来している。
 この寺は、かつては僧侶修行道場の格式を持っていたが、現在では「お灸の寺」として広く知られている。
 ここの墓地には、「安行苗木開発の祖」として知られている吉田権之丞の墓がある。小松石で作られた舟形の墓石で、棹石の高さ六十七・五センチ、幅三十二センチで中央に観音立像が肉彫され、向かって左側に「元禄十六癸未年七月朔日」右側に法名の「蔭清禅定門」と刻まれている。
 吉田権之丞の人となりについては、文献等の資料がないのではっきりしないが、言い伝えによると、権之丞は、若いときから草花や盆栽に興味を持ち、珍しい草木を集めてこの地に栽培したところ、土質・風土が適合し、その生育がよかったので、これらの苗木の育成に当たったという。権之丞の子孫である吉田家は、現在も安行地域で植木業を営んでいる。
     昭和五十八年三月  埼玉県

 「曹洞宗とお灸にどんな関係があるんでしょうか」曹洞宗は只管打座であり、加持祈祷には無縁だと思い込んでいた私には分からない。
 山門は茅葺の四脚門、江戸時代初期の建築である。鐘楼の脇には大きな鬼瓦が置かれている。これは旧本堂にあったものらしい。その本堂の右手に東屋のようにベンチの上に屋根がかけられているところで弁当を広げる。
 食べ終わって四脚門を観察しているところにロダンから電話が入った。「夜は参加します」いまはまだ会社にいるようだ。今日は宗匠も桃太郎もいなくて淋しい反省会になりそうだったが、ロダンが来れば大丈夫だ。イッチャンが冷えたゼリーをくれる。嬉しい。

 南に下って慈林寺に入る。川口市安行慈林九五四。医王山慈林寺、宝厳院。真言宗智山派。隊長の配ってくれた地図には「慈林薬師」、私の持っている『でか字マップ埼玉』には「宝厳院」と表示されている。

略縁起によれば、当山は聖武天皇の勅願にて、行基の開創。本尊薬師如来は慈覚大師御作、学寺領は清和天皇、御再興は文徳天皇、ゆえに三勅願寺又は慈林寺というと伝えられている。明治以前は境内地三万六千三百平方メートル、三十石の御朱印地があり、今も当山百メートルの位置に「竜灯の池」更に南へ百メートルのところに「飛鳥」、東へ百五十メートルのところに「仁王橋」北へ百五十メートルのところに「北大門跡」などがある。当寺の南東側を法印前といい、西側の低地が堂下と言う地名である。また法印前より更に南東の地を赤井といい、慈林寺の閼伽水を汲む井戸の意号で「あかい」の呼び名が生まれたといわれている。その他「慈林」の地名と「慈林寺」が同じなど、寺と周辺地名のことからも、川口市内最古の名刹と言われる所以である。現存する建物は、昭和五十年落慶の大本堂やを含めて、昭和年代に建立したものばかりであり、この中で仁王門だけが徳川末期の文政八年(一八二五)の建築である。
http://www.ukima.info/meisho/kawaguti/houganin/hondo.htm

 私たちは裏口から入ったようで、講釈師がいたら何と言われるか。山門は石段を見下ろす位置に立つ仁王門である。外側には確かに阿吽の金剛力士像がたち、元禄五年(一六九二)江戸馬喰町の佛師市右衛門の作であると書かれた紙が画鋲で止められている。もうちょっとちゃんとした説明板を設置しても良いんじゃないか。
 境内の方から見れば、木彫りの風神雷神が鎮座する。これは珍しい。デザインはモダンだ。ガラスの中には黄ばんだ新聞の切り抜きが貼ってあり、仁王門に風神・雷神像がやってきた当時の記事が書かれている。ただ、切り取り方があまりうまくないから、年月日が分からないのが惜しい。

 その石段を降りて歩く。日が照りつけ暑い。二本目のペットボトルを仕入れる。とにかく植木屋や園芸農家の多い土地である。「どうしてこんなに植木屋さんが多いのかしら」悩む伯爵夫人に「それは安行だから」と隊長が答えている。
 三十分ほど歩くと、右側に興禅院参道という看板がたち、なにやらゆかしげな寺が見えるが、そのすぐ斜向かいが私たちの目的地の「埼玉県花と緑の振興センター」である。川口市安行一〇一五。

 当センターは、植木生産地として古くから有名な川口市安行に、昭和二八年に「植物見本園」として開園以来、植木・果樹などの生産出荷の指導、盆栽等の輸出振興、また緑化講座、電話相談などを通じ、県民の方の緑化に対する知識の向上等に努めています。
 園内には、豊富な種類のツバキ、ウメ、ツツジ等を始めとし、「コニファー園」,「花木園」,「カラーリーフ園」など、様々な樹木類を展示し、四季を通じて広く県民の皆様に楽しんでいただいております。

 入口に到着したところで、隊長の電話がなった。あんみつ姫が合流する予定なのである。すぐそばまで来ているらしいので、とにかく建物の中に入ってしまおう。中は涼しい。
 「逆に歩いてしまいましたよ」十分ほどで姫も到着し、二階のソファでのんびりしていると、もう外には出たくなくなってしまう。元気な人は外の植物を見ているようで、「トケイソウがあった」とサッチーが隊長に報告に来る。トケイソウなら前に一度見たことがある。
 「それでは出発しましょうか」隊長の声で、仕方なく外に出る。建物には緑の蔦を這わせてあり、その横に確かにトケイソウが咲いている。係員がヒョウタンボクがあると教えてくれるので、全員で鑑賞する。実は猛毒である。赤い実が二つ合着して瓢箪のような形になるそうだ。スイカズラ科。

 「興禅院に行きましょう」「いや、下見してないんだ」「だってすぐ向かい側ですよ」参道入り口には「埼玉県興禅院ふるさとの森」の看板が立つ。天文十五年(一五四六)建立、曹洞宗である。川口市安行領家四〇一。
 山門を潜ると線刻の観音(らしき)像の大きな石碑がたち、鬼瓦も置かれている。「巨樹が三本ありました」墓地の方に歩いていった瀬沼さんから報告があり、そちらに向かうと、確かに巨大なスダジイが立っている。「ドングリ落ちてませんか、服を着てるの」姫が探そうとするが、スダジイの周りはきれいに掃き清められていて、ドングリの姿はどこにもない。モリオが「富田家の墓」の説明板を見つけた。伊奈氏の家老職を務めた家筋だという。墓域には十六基の墓石があると書かれていても、石灯篭と紛らわしいものもあって、いくら数えても十六にならない。
 墓地から境内に戻り、右の奥に進めば裏は斜面になっていて、「開運招福弁才天」の幟が並ぶ中を谷底に降りていく。小さな祠にはガラスが嵌め込んであって、御神体が良く見える。とぐろを巻いた蛇である。宇賀神であろう。「蛇の皮を財布に入れておくと財運がつくんですよ。私も入れてます」姫の財布には蛇が入っているのである。
 草むらの方には赤い花が咲いていて、これは秋海棠だと姫が教えてくれる。シュウカイドウ科シュウカイドウ属。ヨウラクソウ(瓔珞草)とも言う。「外来種でしょう」瀬沼さんと姫が話しあっている。江戸時代初期にもたらされたもののようだ。
 キツネノカミソリが咲いている。去年の八月、森林公園で、この群落を探しながら道を間違えてしまった私だから、なんだか懐かしくなってしまう。古拙な感じの石仏には不動明王と記されている。確かに右手に剣を持っているが火焔がない。彫るのが面倒だったものか。脇には「なうまく・さまんだ・ばざらだん・かん」と真言が書かれている。「どういう意味だい」たぶん、不動明王の名前ではないだろうかと思ったが「分からない」と答える。そこから数メートルおきに、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩と十三仏がひっそりと草に隠れるように立っているのである。「私の守り本尊は大日如来ですよ」クリスチャンの姫がそんなことを言う。それなら卯年の私の本尊は文殊菩薩だ。ついでに昭和十三年、二十五年の寅年の人には虚空蔵菩薩だとも調べておこう。

  緑陰や草に隠れて仏たち  眞人

 こういう場所に来ると、信心のない私でもなんとなく気分が落ち着いてくる。「安行じゃないみたい」安行と言えばなんとなく平べったくて、植木屋ばかりがある町と思いこんでいた私たちは、安行に対して実に失礼であった。
 十三仏が終われば坂を登りきっていて、最後には千手観音が立つ。真言は「おん・ばざら・たらま・きりく・そわか」。やはりそれぞれの仏の名前であった。ついでだからウィキペディアを見ながら、いくつか書き留めておこう。たぶん絶対に覚えられない自信はある。

大日如来(光明真言)-オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラマニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン
大日如来(胎蔵界)-オン・アビラ・ウンケン
大日如来(金剛界)-オン・バサラ・ダトバン
阿弥陀如来-オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン
阿閦如来-オン・アキシュビヤ・ウン
薬師如来-オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ
釈迦如来-ノウマク・サンマンダ・ボダナン・バク

 別行動をとろうとしたサッチーを呼び戻して点呼をとる。「十三人、美女を追加して十四人」私は自信をもっていたのだが、「十五人だよ」と声がかかる。「また人数間違えたんですか。この頃数が数えられないんじゃないですか」とダンディが笑う。「このことはちゃんと自分で書いておいてください」そう言われては仕方がないので、ここで申告するのである。あとでメモを見ると、自分を勘定に入れていなかったのだ。
 また暑い町の中を歩くのである。途中で、本日三本目のお茶を補給する。竹さんの顔が赤い。モリオも鼻の頭が赤くなっている。私は今朝出がけに妻の日焼け止めクリームを塗ってきたから大丈夫じゃないかな。帽子を忘れてきた美女はタオルで顔を隠すようにしている。「今日はキャディさんです」伯爵夫人とイッチャン、カズちゃんは日傘を差した上に、長袖、手袋と日焼け対策は万全だが、これでは暑くて堪らないんじゃないか。「長袖のほうが涼しいんだ、アラブじゃみんなそうだろう」私はそういうことにまるで無知であった。カズちゃんの黒い帽子に飾られているヒマワリの花が可愛い。「可愛いのはヒマワリだけ?」もちろん本人も充分可愛い。
 到着したのは「川口緑化センター樹里安」、道の駅「川口・あんぎょう」である。別に何の目的もないが、中で涼んで時間調整をするのだ。水道の水を頭から被っている私を見て、カズちゃんが羨ましそうにしている。よくぞ男に生まれけり。チイさんが冷やしたゼリーを配給してくれる。「リュックに冷蔵庫を入れてあるんですよ」と言うのを見せてもらえば、クーラーバッグに、保冷剤を四個ほど入れてある。「ゼリーも凍らせてますから」だから、この時間になっても充分冷たいのである。
 三時を過ぎた頃に出発する。バスで帰ると言っていたサッチーだったが、停留所の場所が分からず(あるいは時間がうまく合わず)結局一緒に戸塚安行駅まで歩くことになった。暑さのせいでみんなの足どりが重い。
 ちょっと早すぎるのではないかと思ったのは私の勘違いで、埼玉高速鉄道、武蔵野線の運行間隔を考えればちょうど良い時間だった。東川口駅には、浦和レッズの赤いユニフォームを着こんだ若者たちがぞろぞろと歩いている。今夜七時から試合があるらしい。
 武蔵浦和の改札には、汗に塗れた私たちとはまるで違って涼しい顔のロダンが待っている。お馴染み「さくら水産」に入るのは、カズちゃん、あんみつ姫、隊長、ダンディ、ドクトル、ロダン、モリオ、チイさん、私の九人であった。

眞人