平成二十一年九月二十六日(土) 野田

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.10.3

 川越で画伯と出会った。「早いですね」「ちょっと遠いからね」大宮で東武野田線のホームに入ると瀬沼さんがいる。柏行きに乗り込むが、この路線は各駅停車しかないようで、野田市までは四十五分ほどかかる。途中で半分寝てしまった。
 隊長、画伯、ダンディ、講釈師、ドクトル、多言居士、大川さん、竹さん、瀬沼さん、チイさん、モリオ、宗匠、ロダン、本庄小町と中将夫妻、阿部さん、カズちゃん、私。十八人中、女性は三人だけだ。明日の巨樹巡りやネイチャー・ウォークに備えて、体力を温存しようとしている女性が多いらしい。他言居士は首の周りをムチ打ち症治療のための防具で固めている。「神経が障るんだよ」ムチ打ち症ではないらしいが、そんな状態でも参加するのはスゴイ。
 朝ちゃんと飯は食べてきたのに、なんだか腹が減ってしまって、駅前のコンビニを覗いてみると内装工事中だ。周りには他に店のようなものは何もない。野田市駅と言うからには、市の中心部ではないかと思うが、駅の周りがこんなに閑散としていて野田市は大丈夫なのだろうか。仕方がないので、腹に溜まるとは思えないが駅売店で梅干しを買った。

 「野田は枝豆の町なんだよ」今日の仲間では一番近い藤の牛島駅から乗って来た多言居士だから、野田については一言も二言もありそうだ。野田は醤油の町とだけしか私の頭にはない。それでは調べなくてはいけない。いくつかネットを検索してみると、確かに、野田市は二〇〇二年に枝豆出荷量日本一を記録している。
 その枝豆に関して野田市は様々な試みを行った。
 「えだまめ体操」というものがある。「若いうちから生活習慣病予防に取り組むきっかけにしよう」というもので、豆の収穫の動作などを取り入れたユニークな体操だそうだ。「収穫の動作」。私は枝豆を収穫したことがないので想像するしかないのだが、なにか、根っこから引っ張るような動きであろうか。
 更に「まめなのだ」というものを知っていれば、野田検定一級に合格するかもしれない。「まめなのだ」というのは酒の名前なのだ。「野田商工会議所まちづくり協議会」によれば、「野田の枝豆を使ったリキュール」であり、甘口の白ワインのようなものらしい。こういう面白いことをやっているのなら、もっと宣伝しても良いと思う。それともこれを宣伝すれば、醤油の町のアイデンティティが崩れてしまうというのだろうか。
 こういうことは、きちんと考えなければいけない。枝豆は大豆の子どもである。枝豆業界が大きくなりすぎると、世界中の大豆が、ちゃんと成長する前に刈り取られて、醤油の原料になるべき肝心の大豆がなくなってしまう。ついには醤油が生産できない事態にまで発展しかねないのだ。つまり枝豆は醤油の敵である。野田はあくまでも醤油なのだ。「まめなのだ」ではないとキッコーマンは考える。キッコーマンの意向に逆らって野田市が存在できる筈がない。二〇〇二年に日本一を記録した枝豆も、だからそれ以後、日本一にはなっていない。宣伝もしないのだ。この推理はいかがであろうか。それとも知らないのは私だけで、ちゃんと宣伝しているのかしら。
 とにかく初めての町なので、とりあえず概要を押さえておきたい。今では関宿と合併して範囲は広がったが、関宿は古くから河川交通の要衝である。ここでは合併以前の野田に絞ってみよう。

 野田は江戸時代以前の記録に乏しいが、小規模な遺跡が点在しており、古くから開かれていた土地であることがわかる。古代の遺跡としては野田貝塚、山崎貝塚などが残っており、中規模の集落があったとみられている。
 中世の遺跡としては、後三年の役で活躍した鎌倉権五郎の居城や、古河公方の重臣・野田右馬助の居城があったと伝えられている。ただし遺構は発見されていない。また尾崎には、鎌倉幕府の有力な御家人だった野本家定の城館と伝えられる、比較的規模の大きい城館跡も残っている。木野崎には、国人の一色数馬の城館跡が残っており、豊臣秀吉の派遣した軍との戦いがあったと伝えられている。
 徳川家康の江戸入府後には、岡部長盛の居城が山崎に築かれ、のちに堤台に移ったと伝えられている。これらの遺構や伝承はある程度残っているものの、記録が少ないため中世の情報はわからないことが多い。
 野田は江戸時代に入るとやや記録が増える。これは、大消費地となった江戸に出荷する醤油産業が興り、恵まれた水運を利用して、醤油の一大ブランド地として栄えていったためとされる。陸上交通として、日光東往還が通されたため、山崎宿・中里宿などの宿場も興った。(ウィキペディア「野田市」)

 要するに江戸時代以前には特筆すべきことのない、地味な集落であった。醤油産業こそが野田市の存在理由であったのである。
 そして私たちが最初に目指したのも、やはり「ものしり醤油館」であった。野田市野田一一〇。キッコーマン野田工場内にある。入口で手をアルコール消毒して館内に入る。
 見学は自由だが、十時五十分には売店の場所に戻るようにという隊長の指示である。最初は十五分程のビデオを見ることから始まる。私は(そして大部分のひとが)醤油の原料は大豆ばかりと思いこんでいたが、実は大豆と小麦をほぼ同量使っているのである。「搾りカスはどうするのかしら」阿部さんの疑問に、「肥料じゃないかな」と竹さんが答えている。
 カフェでは、小さな豆腐を試食することができる。と思ったのは実は私の勘違いで、三種類の醤油の味比べをするのが本来の趣旨であった。趣旨も弁えず、豆腐の容器にそのまま一種類の醤油をかけて食べ終わってしまって後悔しても、豆腐は一人ひとつだけしか取ってはいけない。刺身皿のような小さな容器に豆腐を三等分に分けて、醤油をかけるのが作法である。ただ、慌て者は私だけではなかったから、少し安心する。
 奥の方では百五十円のうどんも扱っていて、朝から空腹の私は食べてみたかったが、それでは時間に遅れてしまう。断念して戻ると、正面のコースも見てくるようにと案内の女性に指示される。あと五分しかないが、小町、画伯と一緒に急いで順路を進む。
 ここはさっきビデオでみた圧搾行程をガラス窓から見るのである。モロミを入れる布が機械で自動的に広げられている場面であった。ちょうど窓の手前に、搾りかすを十センチ角ほどの板状にしたものが容器に入れられている。取り出してみると、当たり前のことだが醤油の匂いがきつい。空腹の余り口に入れそうになると、小町が慌てて止める。「食べてはいけない」と書かれてある。動物の飼料やボイラーの燃料にされるのだそうだ。肥料ではなかったが、滓と言えども、かなりの塩分量だろう。これを飼料として与えられた動物は高血圧の心配はないのだろうか。
 「阿部さんに教えなくちゃ」小町は忘れないように「飼料、ボイラー。飼料、ボイラー」と何度も復唱しながら走る。
 急いでさっきの場所に戻ると、十八人全員が戻ったことを確認して、案内の女性が醤油を渡してくれる。特撰丸大豆醤油、百五十ミリリットル入りである。「前はもっと貰ったような気がする」宗匠は三度目だそうだ。経済状況の悪化であろうか。「いや前の時は、JRか何かのツアーだったから」
 これで見学は無終了した。売店で私は蒸し饅頭、百五十円也を購入する。当たり前のことだが醤油を買う人が多い。
 ところが、出口に行こうとした私たちとは反対に、隊長をはじめとする半数は、さっきの圧搾行程の方に向かっていく。「あれっ」集合時間は何のためだったのだろう。仕方がないので、外にでて庭を眺める。青い朝顔が美しい。「ヒガンバナも咲いてるよ」と講釈師が私を誘う。赤が鮮やかなヒガンバナの一群だ。小さな蒸しパンは三個入り、一個をモリオにやって、二つは私が食べた。甘辛のタレはあまり得意ではないが、この際やむを得ない。「もう食べちゃったんですか」阿部さんの目が丸くなる。

 蒸しパンを頬張る庭に彼岸花 眞人

 漸く全員が集まって「ものしり醤油館」を後にする。街路灯が独特なのを指摘したのはロダンだったか。鈍感な私は言われるまで気付かない。上に蒸気機関車の形に切り抜いた鉄板が飾られているのだ。「昔、人力鉄道が走っていたんだよ」なんでも知っている他言居士の話だが、「人力鉄道」とは何であろう。「トロッコみたいなものですか」「そう」そんなことを言っているとすぐに標柱が立っている。

 「明治四十四年(一九一一)当時野田・柏間に県営軽便鉄道が開通、その頃の野田町駅があったところである。(後略)

 建設費の県債は二十万円で野田醤油醸造組合が引き受けた。「軽便」とはいっても、常磐線柏駅で貨物乗り入れをするためには、鉄道院と同じ軌道幅でなければならず、一〇六七ミリの軌道によって実現した。
 やがて、大正十二年、北総鉄道(船橋・柏間)の開通と合わせて、県営鉄道が払い下げられ、野田・船橋間がつながった。北総鉄道は後に総武鉄道となり、やがて東武鉄道に吸収される。東武野田線の前身である。
 しかしこれでは多言居士の言う「人力鉄道」のようではない。調べてみると本当にあったのである。他言居士は実に古いことを知っている。但し、「人車鉄道」または「人車軌道」と呼んだらしい。

かって野田には人車鉄道がそれなりの役目を果たしており、これを探訪の切り口にいたしました。右スケッチ(醸造家、茂木勇右衛門、画)を見ますと車両の構造はトロッコの様な簡単なもので醤油などの貨物専用軌道として各醸造蔵より江戸川河岸へと明治三十三年から大正十四年廃止までの二十五年の間、江戸川舟運で東京方面へ醤油物流ルートが確保されていたのです。http://www12.ocn.ne.jp/~kyubun/noda.htm

 この記事に添えられた絵を見ると、鉄道と言うよりも、レールの上で大八車を押しているようなイメージである。更に詳しく見てみると、こういうものは全国各地にあったようだ。燃料よりも人件費の方が安い。究極のエコカーと言えないこともないが、人間がいかに安い労働力で消耗品のように使われていたか、ということである。

人車鉄道は、現在の東武鉄道野田線野田市駅付近と、江戸川の間の周辺で営業していました。当時町内の十業者近くで結成していた、野田醤油醸造組合により開業して、醤油樽を平板を敷いた無がい貨車の上に載せ、醤油屋者と呼ばれた力に自信のある男たちが貨車を押していました。千葉県営鉄道が開業するまでは、各醤油醸造所から醤油樽を江戸川の上河岸・下河岸へ運び船積みされて行きましたが、鉄道が開通すると醤油樽は鉄道輸送される様になり、そしてトラック輸送が本格化する頃、野田人車鉄道は消えて行きました。http://kippu.takara-bune.net/nodazinsyatetsudo.htm

 琴欧州のポスターをカズちゃんが振り返りながら確認している。よほど熱心なファンのようだ。「だって男前なんだもの」彼女は美男に弱いのである。
 信号を曲がり本町通りに入ったところで、通りの向こう側に土蔵そのものを本殿にしている珍しい神社が見える。しかし隊長は目もくれない。須賀神社の文字だけを遠目で確認する。
 隊長の目的は興風会館であった。なんとなく古い銀行のような建物だ。「銀行ですか」「そうじゃない」

 野田市の茂木・髙梨の醤油醸造家は、事業発展のため大正六年合同して野田醤油株式会社を設立されました。また、これを支援する経営者団体として組織されたのが、合名会社千秋社(現在の株式会社千秋社)です。
 茂木・髙梨一族は、約三百にわたって醤油の醸造を生業としてきましたが、事業の拡張とともに「これまでの発展も地域社会の援助のおかげであり、会社はこれに報いるような努力をすべきである。」という考えが経営者陣に広まり、「野田の土地柄を大切にしながら、今後の街の発展のために新風を興そう。」と、昭和三年十一月、ご大典記念に千秋社からの寄付によって財団法人興風会を設立しました。翌四年には会館が竣工し、以来、興風会は社会教化事業の推進を主たる目的として活動しています。(興風会HP)

 醤油業界重鎮の社交倶楽部のようなものではないかと疑った私は根性が悪い。この会館は、講演会や講習会を始め、展覧会、映画会、相談会が開かれ、地域に密着した施設として親しまれてきたという。建築に関して良く判定できないので引用する。

 正面ファザードは厳格なルネッサンス的左右対称の構成であるが、住民に親しまれる施設に相応しく、威圧的なところは感じられない。玄関はゆったりとしたロマネスク風半円アーチで構成され、落ち着いた雰囲気を作り出している。目を上方に向けると、小振りな正方形や半円アーチの窓、さらに丸窓が設けられ、愛らしささえ感じられる。中央部がやや全面に張り出し、塔屋となっているが、そこでは段状のモチーフが繰り返され、強い印象を与えている。その形態は奥に行くほど低くなる側面の構成にも影響を与えているようである。
 http://www.chiba-muse.or.jp/SCIENCE/kenzo/pages/250.html

 二階に上がると、ドアを開けっ放したホールから詩吟が聞こえる。市民会館のように使われているようで、大会に備えたリハーサルの真っ最中らしい。そこで私たちが(実はごく限定された人間が)大声を出しているものだから、気の小さな私は気が気ではない。会場の中で係員のような男たちが動き始めたのをシオに、早々に退散する。
 ただ気になったのは、ホールの入口に掲げられていた「民風作興」の額である。「風」の文字が読めなかったが、古典にありそうな熟語ではないね。なんとなく怪しげではないだろうか。この言葉を追いかけてみると、こんなものに出くわした。

國民精神作興ニ關スル詔書
朕惟フニ國家興隆ノ本ハ國民精神ノ剛健ニ在リ之ヲ涵養シ之ヲ振作シテ以テ國本ヲ固クサセルヘカラス(中略)是ヲ以テ先帝意ヲ教育ニ留メサセラレ國體ニ基キ淵源ニ遡リ皇祖皇宗ノ遺訓ヲ掲ケテ其ノ大綱ヲ昭示シタマヒ後又臣民ニ詔シテ忠實勤儉ヲ勸メ信義ノ訓ヲ申ネテ荒怠ノ誡ヲ垂レタマヘリ是レ皆道徳ヲ尊重シテ國民精神ヲ涵養振作スル所以ノ洪謨ニ非サルナシ爾来趨向一定シテ効果大ニ著レ以テ國家ノ興隆ヲ致セリ朕即位以來夙夜兢兢トシテ常ニ紹述ヲ思ヒシニ俄ニ災變ニ遭ヒテ憂悚交〟至レリ
輓近學術益々開ケ人智日ニ進ム然レトモ浮華放縦ノ習漸ク萌シ輕佻詭激ノ風モ亦生ス今ニ及ヒテ時弊ヲ革メスムハ或ハ前緒ヲ失墜セムコトヲ恐ル況ヤ今次ノ災禍甚大ニシテ文化ノ紹復國力ノ振興ハ皆國民ノ精神ニ待ツヲヤ是レ實ニ上下協戮振作更張ノ道ハ他ナシ先帝ノ聖訓ニ恪遵シテ其効ヲ擧クルニ在ルノミ宣ク教育ノ淵源ヲ祟ヒテ智徳ノ竝進ヲ努メ綱紀ヲ粛正シ風俗ヲ匡勵シ浮華放縦を斥ケテ質實剛健ニ趨キ輕佻詭激ヲ矯メテ醇厚中正ニ歸シ人倫ヲ明ニシテ新和ヲ致シ公徳ヲ守リテ秩序ヲ保チ責任ヲ重シ節制ヲ尚ヒ忠孝義勇ノ美ヲ揚け博愛共存ノ誼ヲ篤クシ入リテハ恭儉勤敏業ニ服シ産ヲ治メ出テテハ一己ノ利害ニ偏セスシテ力ヲ公益世務ニ竭シ以テ國家ノ興隆ト民族ノ安榮社會ノ福祉トヲ圖ルヘシ朕ハ臣民ノ協翼ニ頼リテ彌々國本ヲ固クシ以テ大業ヲ恢弘セムコトヲ冀フ爾臣民其レ之ヲ勉メヨ
  御名御璽
大正十二年十一月十日

 関東大震災後の詔書である。大災害は、「浮華放縦ノ習漸ク萌シ輕佻詭激ノ風モ亦生」じたためであり、「今ニ及ヒテ時弊ヲ革メスムハ或ハ前緒ヲ失墜セムコトヲ恐ル」のである。これを受け、一月の帝国議会における清浦圭吾首相の施政方針演説で、「民風の作興」という言葉が出てくる。

嚢に喚發せられたる大詔の御趣旨を奉體いたしまして適當の方法を講じ、鋭意思想の善導に努むると共に、苟も安寧秩序を紊り國憲に反するが如き言動を敢てする者あるに於ては、嚴重に之が取締をなす考であります、今回新たに神祇に關する特別官衙を設置し、神社行政の刷新を圖らむと致しますのも、一に我國體の精華たる敬神尊祖の美徳を奨めて、健全なる民風の作興を期せんとする趣旨に外ならぬのであります

 これが地方改良運動のスローガンになり、やがては後の国民精神総動員へと繋がっていく。大正デモクラシーと呼ばれた脆弱な「民主主義」が、昭和初期のエログロナンセンスを経て、一挙に翼賛体制に入って行く、その道筋がどうやら掴めてくるようだ。「安寧秩序を紊り國憲に反するが如き言動を敢てする者」に対する弾圧の根拠は、ここにある。

 通りは昔の街道なのだろう、文化遺跡のような建物に加えて、古い造りの商店が並んでいて、観光する者にはなかなか珍しい風景もあるのだが、シャッターを締め切った店も多い。人通りは少ない。雰囲気は栃木の町にも似ているが、向こうはもっと頑張っている。「この道が流山街道だよ」と多言居士が教えてくれる。

  秋風や醤油の町は音もなく  眞人

 旧野田商誘銀行は、大正十五年竣工である。「商誘」は「醤油」の語呂合わせだ。太平洋戦争中、千葉銀行に合併し、昭和四十四年まで千葉銀行野田支店として営業したが、現在では千秋社の資産となっている。千秋社は、上の興風会のところでも登場しているが、キッコーマングループの一員で、今は公園管理などを行う会社のようだ。この町ではキッコーマンに関係しないものを探すのが難しい。
 東京ベイ信用金庫なんてものがある。「合併したんですかね」これはもともと市川信用金庫であった。平成六年に城東信用金庫と合併して、現在の名前になった。それに、後でダンディが思い出したのだが、この地は小津安二郎に縁があるらしいのだ。監督の妹がキノエネ醤油の山下家に嫁いだことで、小津と野田の縁が生まれた。昭和二十一年に復員後、二十七年に鎌倉に転居するまで野田に住んだのであるが、その場所がここだったと言う。
 しかし場所が少しおかしいような気がする。野田散策マップ(さっき興風会館でダンディがもらってくれた)では、本町通りから西にはいったあたりにキノエネ醤油があり、「小津安二郎監督ゆかりの会社」とは書かれているが、この信用金庫の辺りには何も書いていない。戦後の混乱期ではあっても、メインストリートに住んだというのは、ちょっと違うのではないだろうか。当時の住所は野田町清水一六三。もう今の地図では調べようがないが、現在の地図で「清水」ならば、もう少し北の方になっている。

 右を見ると参道のような道が続いていて、門柱の両脇には一メートル半ほどの幅で赤煉瓦の古い塀が残されている。右側には焼け焦げたような煉瓦に接する柱に「野田市立中央小学校」の看板が掲げられ、左の門のところは煉瓦が剥落しているようだ。小町が「不思議だ、不思議だ」と連発する。
 調べてみるとこの小学校は新築移転しているようで、これは旧校舎時代の名残のようだ。現在の正門はこの通りの一本東側にあるようで、ここは裏門になってしまったのだろうか。ただ地図を確認すれば、この道は小学校裏の塀のところで行き止まりになっていているようでもある。
 漬物の老舗「板倉」(享保二年創業)を通り過ぎると、向こうに愛宕神社の鳥居が見えてきた。野田市野田七二五―一。本殿はなかなか立派なもので、境内から六段程の石段が拝殿に続いている。
 狛犬は青銅製のようだ。「あの石段を間垣平九郎が」とロダンは自身の命名の由来になった愛宕山の冗談を口にする。
 ダンディが推測するように、京都愛宕神社を勧請したものだ。祭神は迦具土命。イザナミのホトを焼いて生まれてきた火の神である。転じて火伏せの神になる。建物については、とりあえず以下の通り。

 現在の社殿は、文化十年(一八一三)に再起工し、文政七年(一八二四)に再建されたといわれています。社殿様式は、権現造りで木造銅板葺です。
 愛宕神社本殿の彫刻は「匠の里」と呼ばれる花輪村(現在の群馬県東村)出身の二代目石原常八の作です。常八は、当時かなりの腕利きで、関東一円にその作品を残しています。意匠や技術に優れた江戸時代後期の典型的作品です。

 権現造りという形式であると説明されても良く分からない。仕方がないから、御馴染のウィキペディアに頼ってしまう。

 本殿と拝殿の二棟を一体化し、間に「石の間(いしのま)」と呼ばれる一段低い建物を設けているのが特徴。
 権現造の発祥は大津市坂本の日吉東照宮(一六三四年建立の社殿)とされる。その起源は仏寺の開山堂(相の間で祠堂と礼堂を結ぶ)が起源とされるが、その基は八幡造と言われている。(ウィキペディア「権現造」)

 入母屋造りの三間社、正面千鳥破風付、軒唐破風付、向背一間、銅瓦葺。そこらじゅうに透かし彫りが施されているという。「あの千木は伊勢神宮と同じですよ」ロダンがこんなことを知っているのだ。「女の神様なんだ」講釈師が言うのは、千木の先端が水平にカットされているかららしい(宗匠に教えられた)。へーっ、と私は思う。伊勢神宮ならアマテラスだから女神と言って良いだろうが、迦具土命が女神だとは初耳である。
 中を覗いてみると菰樽が積み上げられている。野田の地酒「紫小町」である。「小町がありますよ」ダンディの言葉で嬉しそうに本庄小町が覗きこむ。

  本殿へ醤油のかをり秋の風 《快歩》

 「あそこに芭蕉の碑がある」講釈師に連れられて行くと確かに句碑がある。これが議論の対象になったのは、左から四行の縦書きになっているからだ。日本語表記で縦書き左からというのはあり得ない。無学なものが作ったのではないかという悪口は別にして、句はこういうものである。

  百年の気色を庭の落葉かな  はせを

 万葉仮名を普通の表記にしてみた。実際には「百年の気し幾を庭能落葉可那」である。説明を見れば、文政十一年(一八二八)に建てられた野田で三番目に古い句碑であるという。その頃に、こんな文字の書き方をしたのかしら。
 神社の隣には西光院(真言宗豊山派)が接している。「神仏習合ですね」ロダンもこういうことを言うのである。おそらく愛宕神社の別当寺だったのだろう。
 嘉永七年の庚申塔は、角柱に「庚申塔」の文字、下に三猿。他には駒形の板碑に青面金剛の文字と二鶏、台座に三猿を彫ったもの。三面六臂の金剛像など、石仏も多い。

 やがて長い壁が見えてきた。最初の門には「市民会館」の額が掲げられているが、ここから入るのではない。塀に沿って歩けば、今度は「宏文苑」の額が掲げられた門に着く。塀の下部は板張り、上半分は紅殻塗りの壁で瓦葺きである。源氏塀というものかな。郷土博物館、市民会館の入り口である。中に入り、とりあえず庭園に入り込み昼食をとる。
 先日チイ豪農が分けてくれた生姜は、カズちゃんによって旨い漬物に変身していた。気のいい彼女は自分の分を確保し忘れていたので、容器が帰って来た時にはもう空っぽになっている。ホントに遠慮というものを知らないだ。食事が終われば豪農はまたもや生姜、柚子を出して分配してくれる。
 食後は博物館を見学する。建物の設計は山田守、昭和三十四年の竣工になる。山田守は日本武道館、京都タワーの設計者である。校倉式のような外観で、中に入れば中二階は壁に沿った回廊のようになっている。その階段の下で、係員が二人で資料を配ってくれる。
 隊長はこの博物館見学でここはおしまいと考えていたようだが、茂木佐邸を忘れてはいけない。「だって折角きたんだもの。ここに寄らなかったら価値がないよ」小町が玄関先で粘っていると、中からガイドさんが、五分でも十分でも見て行けと言ってくれる。「それじゃ十分と言うことで」。
 玄関の式台は銀杏の一枚板で、大正十三年の建築当時、家全体で二十万円したうち、この板だけで一万円だったという。まず二十万円と言う価値はどの程度であったろうか。「おおよそ二十億円でしょう」とダンディが簡単に言うから、それを検証してみよう。
 当時の大学卒の初任給は五十円である。仮に当時の五十円を現在の貨幣価値で二十万円としてみれば、まず四千倍になる。家全体では現在の価格で八億円、板一枚が四千万円ということだ。しかしその頃の大学卒業生は、女中を雇って一戸建てに住めたのである。実際の感覚ではその二倍以上になるだろう。とすれば、ダンディの言う二十億というのも、それほどおかしな数字ではない。
 柱はタガヤサン(鉄刀木)。東南アジアから取り寄せた。氷で冷やす木製の冷蔵庫、シャワー付きの風呂、水洗トイレなどの最先端の生活様式は勿論だが、照明や猫目障子(普通の雪見障子ならば上下に開くものが、ここでは左右に開く)、手造りのガラス。もうただただ圧倒されるだけだ。
 「ちょっと待ってくださいね」十分と時間を区切られたガイドは大急ぎで何かを取りに行く。持ってきたのは、庭を眺める位置の小部屋に静かに座る吉永小百合の写真だった。「この部屋で撮影したんですよ」確かに写真そのままの部屋である。「私たちガイドは、撮影の間中に入ることができなくて、実に残念でした」私も残念だ。
 それならば、小百合さんの代りに小町に同じ姿勢で座ってもらったが、これではどうだろう。「体型が違いすぎるよ」と中将はニベもない。
 隊長も「もっと時間かけてください」と次第に興味をもってきた。台所の地下収蔵庫、五衛門風呂。「お風呂が二つもあるんですね」阿部さんが感心する。おそらく五衛門風呂の方は使用人が使ったのではないだろうか、主人家族はシャワー付きの風呂を使う。
 戦前の資産家はケタが違う。「茂木佐」とは茂木佐平次の略である。代々同じ名前を襲名したから屋号のようなものだ。佐平次家は、茂木(モギと読む。モテギではない)本家七左衛門家の初代の次男が分家独立したもので、天明七年(一七八二)から醤油醸造業を始めた。亀甲萬は茂木佐の商標である。屋根の合掌部分には亀の形の透かし彫りが取り付けられている。「六角の甲羅だから、六社合併ですかね」「いや、たしか八社の合併でしたよ」
 それでは野田の醤油の歴史を追いかけなければならない。

永禄年間に飯田市郎兵衛が甲斐武田氏に溜醤油(たまりじょうゆ)を納め、「川中島御用溜醤油」と称したのが最古とされる。一六六一年(寛文元年)に上花輪村名主であった髙梨兵左衛門が醤油醸造を開始し、翌年に茂木佐平治が味噌製造を開始した(茂木はその後醤油製造も手がける)。
その後江戸の人口の増加とともに野田の醤油醸造は拡大する。 一八〇〇年代中頃には、髙梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醤油の指定を受ける。
一八八七年(明治二十年)に「野田醤油醸造組合」が結成された。一九一七年(大正六年)には茂木一族と髙梨一族の八家合同による「野田醤油株式会社」が設立され、これが後にキッコーマン株式会社となった。『亀甲萬』は茂木佐平治家が使っていたものである。このときに野田の醤油醸造業者のほとんどが合流しているが、キノエネ醤油のように別の道を選んだ醸造者もあった。(ウィキペディア「野田の醤油醸造業」)

 大豆と小麦の生産地を後背地に持っていたこと、塩は行徳から江戸川を通ってすぐに調達できたことが野田の醤油醸造の基盤であるが、利根川、江戸川の河川舟運がその成長を大きく支えた。
 ところで醤油の国内流通量は、二〇〇〇年で二千三百億円という記事を見つけた。業界の規模として意外に小さい。海外での流通も増えているのだが、それでもこの金額が倍になる程ではないようだ。出版業界よりはるかに小さいではないか。この業界に千六百ほどのメーカーが存在する。その中で、キッコーマンのシェアは二十七パーセントでダントツの第一位。以下、ヤマサの十パーセント、ヒゲタの五パーセントと続く。
 「亀甲萬は亀甲山香取神社から採ったと書いてありますよ」とダンディが本を開いてくれる。神社にそんな山号があるのだろうか。変だなと思いながら下の記事を見てやや納得した。山号ではなかった。

関東地方を中心として全国に分社の香取神社がある。神宮の位置する山はその形状から亀甲山と呼ばれている。 香取の神は『日本書紀』神代紀一書において葦原中国の平定に先立って天の悪神(天津甕星)を誅する神「斎主神」(古語拾遺には経津主神)とされている。(ウィキペディア「香取神宮」)

 香取神社は下総香取が総社で、主に利根川、江戸川沿いに広がった。野田で信仰されるのは当たり前のことだ。親切に案内をしてくれたガイドは須賀田さんである。門を出れば、そこはさっき通り過ぎた「市民会館」の額を掲げた門であった。すぐそこにキッコーマンの道場があると言うので行ってみると、建物内部は改修工事中である。春風館道場である。
 その向かいに長く続く黒塀は、茂木本家の邸宅である。もう何と言えば良いか分からない。こっちの本家は美術館をつくっている。「大名屋敷だね」ドクトルが一人で頷いている。
 「あれ、さっき通ったかな」宗匠に言われて気がついた。蒸気機関車の街路灯だ。信号の向こうには、いつの間にかさっきの須賀神社があるではないか。つまり、私たちは茂木一族の敷地の周りを、ほぼ二時間かけてようやく一周してきたのである。
 隊長は神社の脇の道を黙々と入って行く。私は土蔵造りの社を撮影しただけだが、宗匠は境内に入り込んでゆっくり見学している。西の方に歩いて行けば香取神社だ。
 上花輪歴史館(高梨氏庭園)は改修工事のために入れない。「この間もはいれなかった」ダンディがボヤいているが、工事は平成十九年から平成二十二年までかかるのである。「それじゃ仕方がない」ここも長い黒塀に囲まれた広大な敷地をもっているようだ。門の両脇から覗く白い萩が美しい。

 白萩の顔覗かせる冠木門 《快歩》

 斜め向かいには煉瓦造りの建物がある。綺麗に刈られた緑の植え込みと芝に立つ赤い建物がきれいだ。野田市上花輪五五五。昭和七年竣工、現在でも現役で稼働しているキッコーマン野田工場・製造第三部・煉瓦蔵である。中に入って二階に上がると、ガラスの向こうに巨大な円形の穴がいくつもあいていて、モロミが詰まっているのが見える。杉の樽が埋め込んであるのだ。「蓋はいらないんですか」「天井から自然に菌が降るようになってるの」講釈師はここでも詳しい。
 もう一度外にでたところで、「お父さんと写真撮ってちょうだい」と小町がダンディに頼んでいる。赤煉瓦を背景にした二人の写真は年賀状にするそうだ。それにしても、いつも仲の良い夫婦である。
 講釈師が何か悪口を言ったらしく、カズちゃんが怒っている。「蹴飛ばしちゃいなさい」「殴っても良い」彼女は真面目すぎるのである。講釈師の悪口にまともに反応していては、ロダンなんか一日中怒っていなくてはならない。「好きな女の子にちょっと意地悪する。小学生と同じですよ」すると大川さんが真面目な顔で、「そうそう、男には一般的にそう言う傾向がある」と言いだした。一般的、そうかなあ。小学生や中学生ならいざ知らず、七十歳を超えた男性としては、充分に特殊な性格であると私は思う。

 やがて江戸川の土手に出る。ときどき、ヘルメットを被った自転車が通り過ぎるのは、サイクリングロードになっているからだ。「あれ、なんだい」土手の下に、白壁に黒瓦の、城郭のような建物が見える。これもキッコーマンである。御用蔵と言う。
 紀元二千六百年記念事業として建てられた。宮内省御用達の醤油の醸造を目的としたものだが、そのためだけなら、堀を巡らした城郭のような形にする必要があったとは思えない。野田はキッコーマンの城下町であると宣言するような建物だ。それにしても、こんなに大規模な工場を必要とするほど、宮中では醤油の消費量が多かったのか。高血圧だらけになっていたかもしれない。
 叢に虫の声を聞いた宗匠は(私はまるで気付いていないのだが)ちゃんと句を詠んでいる。

 御用蔵見下ろしてをり鉦叩 《快歩》

 午後になってから随分気温が上がったようで、土手の上は暑い。それに目的が見えないのが辛い。なんだか気分的に疲れてくる。画伯も竹さんもしきりに頭の汗を拭っている。こういう日には帽子は邪魔になるのだが、日焼けは防がなければならない。
 「阿部さん、腕にストッキング穿いてる」講釈師がまたおかしなことを言い出した。ストッキングねエ。日焼け防止のための装備であるが、片面が黒布で、片面がネット状になっているのである。「網目模様に日焼けしたりしてね」何と言うものか私は知らない。昔なら手甲であろうか。江戸川沿いの街道を、野田から関宿に向かって急ぐ女性を想像してみる。「姐さん、何をそんなに急いでいなさる」

 秋の日や手甲脚絆で急ぐ美女  眞人

 長い堤防を降り、江戸川スーパー堤防の公園で小休止する。「荻野吟子の生家のところもスーパー堤防だった」と小町も良く憶えている。
 歩き出すと岩名古墳に着く。七世紀頃の豪族の墓と推定されている。こんもりした円墳で、階段を上ると、コンクリートで仕切られたところから、横穴式の石室が見えるようになっている。遅れてやってきたカズちゃんが、「穴があるんですか」と言うのがおかしいと皆が笑う。「墓ですよ」「豪農のね」「それじゃ私も墓をつくるときは考えなくちゃいけない」ちょっと離れたところには小さな小屋があり、蔵王大権現と彫られた石碑が置かれている。
 ここからは座生川に沿って歩く。ザオウと読む。「どういう意味でしょうか」ダンディの疑問に「座生沼っていうのがあったの」と多言居士が教えてくれる。「そうじゃなくて、意味が知りたいんですが」これはネットを検索したが分からない。
 周囲には新興住宅地が広がっている。「どのくらいかな、三千万?」「いや、そんなにしないでしょう」「二千万」他人の家の価格を想像してもしようがない。ただ、この辺りは駅からも離れていて、東京通勤圏としてはあまり流行らないだろう。それにこの辺りはもともと沼を含む水田地帯で、江戸川改修と堤防工事によって宅地化したところだそうだ。私自身はあまり住みたい場所ではない。

 「あの森だよ」そう言われても清水公園は遠かった。途中で豪農が冷えた葡萄を出してくれるのが嬉しい。公園に入る前に、対岸の野道を歩く。
 菊のような小さな黄色い花を見つけて、「これは珍しい、この辺にしかいない」と多言居士が言う。しかし阿部さんは知らない。「そんなに珍しいものですか」「そう、だけど名前を度忘れしちゃって」阿部さんが知らない花を私が知る必要はない。
 清水公園。明治二七年(一八九四)四月三日に開園、株式会社千秋社の経営になる。民営の公園というのは珍しいのではないだろうか。園内にあるフィールドアスレチックは日本最大級であり、また、世界初の噴水迷路もあるということだ。ただし、そういう場所は入場料が必要だから、私たちは勿論行かない。

 キンモクセイの香りが甘い。「もう咲いてるの、早いんじゃない」と私が言えば、宗匠は「近所でまだ咲かないかと思っていた」と言う。私はもう少し寒くなってから咲くのかと思っていたのだが、私の言うことだから信用できない。「葉が少し色づいている」園内の樹木を見てチイさんが指をさす。

 木犀の香る行く手に仁王門  眞人

 公園との境もなく、いきなり寺の本堂が見えてくる。「算額がある筈です」ダンディは椿姫に教えられたらしい。慈光山金乗院(真言宗豊山派)である。応永五年(一三九八)開山というから、相当な古刹である。そもそもこの公園自体が、金乗院の寺域だったのだ。
 確かに山門脇には「野田市文化財・算額」の標柱が立っている。その説明を見れば、安政六年(一八五九)、渡辺元五郎他六名の門人によって奉納されたという。本堂では何かの法事の最中らしいから、あまり覗きこんでも悪い。境内を見回してもそれらしいものは見えないから中にしまってあるのだろう。
 「我々も何か問題を作って奉納しよう」科学者ドクトルの言葉だが、私には到底無理なことだ。
 境内を横から出て、売店脇のベンチで休もうとすると、「仁王門を見てきたかい」と講釈師が注意を促してくれる。そうだった。さっき遠目でちらっと眺めたままだ。仁王門は二階建てで、その前に弘法大師像が立っている。戻って来ると、売店ではみんながソフトクリームを口にしている。私はお茶を補給する。
 桜並木を通って駅に向かう。「この桜は有名なんだよ」講釈師も瀬沼さんも何度も来ているらしい。しかし、弁当屋のシャッターは下ろされているし、店もあまりない。桜の季節しか人は来ないのではないか。途中、野田貝塚(清水貝塚)の横を通る。
 清水公園駅前も何もない。小さなビスの窓ガラスに「テナント募集」の張り紙を見て、モリオと笑ってしまう。本日、宗匠の万歩計で一万九千歩であった。

 今日の反省会は大宮だ。勝手を知る路地に迷わず入り込んで行けば、モリオが「慣れてるな」と驚く。四時開店の店に四時半は少し出遅れかも知れない。宗匠と「大丈夫だろうか」と話しながら行けば、今回は大丈夫であった。前回、サッチーのリュック紛失事件のあった時には五時を回っていて、満席で入れなかったのだ。明日から北海道に行くと言う隊長は途中で退席したが、残る九人は最後まで粛々と反省するのであった。一人二千円也。

眞人