平成二十一年十月二十四日(土)高麗

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.11.2

 川越線的場駅八時五十六分発。東飯能駅九時三十一分着だが、笠幡で三分ほど上り電車を待ち合わせ、更に高麗川では十六分も待たされたから、走っている時間と止まっている時間はあまり変わらない。正味十五六分の距離だった。東飯能で西武線のホームに回ると恩田さんがいる。「随分遠いんじゃないですか」「鴻巣から熊谷、寄居経由と言う方法もあるけど、この電車が好きなんですよ」ローカルの単線が好きらしい。
 後ろから腕をやわらかく掴まれたので振り返れば、久しぶりのチョウコさんだ。初めて保護者(和尚)の同伴なしでやってきた。「和尚に叱られるんじゃないの」「内緒です」なにしろ和尚にとっては大事な娘同然で、自分がいないときに、胡乱な男どもが何をするか分からないと、頭が禿げそうになるくらい心配しているのだ。その和尚は、靭帯切断からの回復がやや遅れ気味で、夕方の反省会だけ参加する筈だ。西武池袋線は九時四十五分に出発して、四十九分に高麗駅に到着した。
 改札を出ればもうずいぶん集まっている。隊長、長老、皆川さん、ダンディ、講釈師、コバさん、恩田さん、瀬沼さん、チイさん、宗匠、桃太郎、私、マルちゃん、シノッチ、伊野さん、阿部さん、カズちゃん、チョウコさん、計十八人である。
 里山には久しぶりに参加した桃太郎の顔を見て、「おかしいな、私の記録では毎回参加していることになってる」と宗匠が出欠表を見ながら首を捻る。「それって、江戸歩きじゃないですか」このところ、桃太郎はコバさんと一緒に山に行っているほうが多いのだ。
 「これさ、お昼に食べてよ」マルちゃんが大きな包みを渡してくれる。「田舎の柿なのよ」「秋田の」「ううん、伊勢よ」
 日本の南方海上に台風が近づいていて、その影響で前線が雲を発生させている。明日は雨になりそうだが、今日は山道を歩くには良さそうな陽気だ。

 駅前にコンビニエンス・ストアはないが、そのかわり真っ赤に塗られた大きな柱が一対立っている。七八メートルほどの高さで、天辺には目を釣りあがらせ歯をむき出しにした顔が彫られ、柱本体には白い文字で「天下大将軍」「地下女将軍」と書かれている。「儒教の国では男尊女卑かと思ってましたが、ちゃんと夫婦で立っているんですね」ダンディが感心する。トーテムポールのようでもあるが、これは将軍標と呼ばれるものだ。境界標であるというから、塞の神、道祖神と同じようなものか。

 天下大将軍・地下女将軍と男女の標が対になったものである。朝鮮語でジャングンピョ(将軍標)というが、別の表現ではチャンスン(長生)ともいう。「竿頭に鳥が止まった神竿をソッテ、人面を彫った神木をチャンスン(長木+生)という。鳥は天地を往来して神の使いをすると信じられて神格化され、神木には人面を彫って人格神化した。」(『図説韓国の歴史』河出書房新社)という。
 日本における将軍標は、埼玉県日高市の高麗神社のものが有名である。同じく日高市の聖天院、西武池袋線高麗駅前にもある。
 さらに東京都西多摩郡日の出町の東光院妙見宮にもある。妙見宮例大祭(五月三日)には韓国舞踊が奉納される。(ウィキペディア「将軍標」)

 韓国からの観光客を当てにしたように、駅前にハングル文字の案内を掲げ、こういうものがシンボルのように立っている「高麗」とはどういうところであろうか。

 七一六年、朝廷が駿河など七ヶ国に居住していた旧高句麗の遺民一七九九人を武蔵国に移したことにより高麗郡として設置されたのが最初である。
 設置時の郡域は現在の日高市と飯能市の一部であり、律令制下では小郡に分類されていた。『倭名類聚抄』には高麗郷(現在の日高市高麗本郷付近)・上総郷(現在の飯能市北東部)の二郷の名が記されている。郷名から高麗郷には旧高句麗の遺民が、上総郷には上総国からの移民が配置されたものと考えられている。
 中世以降郡域が東側の入間郡・比企郡方面に拡大し、江戸時代には鶴ヶ島市・日高市全域および川越市・飯能市・狭山市・入間市を含む地域となり、入間川が入間郡との境界となっていた。(ウィキペディア「高麗郡」)

 高句麗が唐・新羅連合軍に滅ぼされたのが六六八年であり、その遺民が大量に日本に渡ってきた。高麗郡に移されたのは甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野の七ケ国にいた高麗人、一七九九人とされている。原文を読んでいないのでなんとも言えないが、当時の記録では人数ではなく戸数を示すことの方が多い。仮にそうだとすれば、この人数にはおそらく奴婢下人などは含まれていないのではないか。家人を含めて一戸五人とすれば一万弱、一戸十人とすれば二万もの人がやってきたと考えてもおかしくない。これだけの人数が、武蔵野の原野開拓に当たったのである。(かなり当てヅッポウな推測なので、読者は軽々に信じてはならない)
 先ほどの記事で挙げられていた「将軍標」のある日高の三箇所は、この駅も含めて今日行くはずだが、もうひとつ西多摩郡日の出町の東光院妙見宮というのは、百済系渡来民による創建のようだ。そちらは天武天皇十三年(六八五)というから、高麗より古い。

 歩き始めるとすぐに後ろから小学生の一団が追い抜いていく。「日和田山に行くんでしょう」私たちは登らないから途中で別れることになるだろう。
 屋根を被せた台の高札場跡。「台」というのは村の名前のようだ。正徳元年の日付をもつ切支丹禁制の御触書が書かれているのは、勿論本物ではなく復元であろう。ハングルを併記した説明板がある。
 海舟筆になる筆塚は、新井家十一代新井丈右衛門定孝寛斎翁を顕彰する石碑である。水天の碑(天保十年)。最初から史跡が続く。水天があるならば、水が出たのだ。案の定すぐに高麗川が見える。「魚が上ってくるんだよ」と講釈師が言うのは、鹿台堰魚道である。赤い欄干に金の擬宝珠を載せた鹿台橋を渡る。

 垣根に山茶花が目立つのは何の不思議もない。しかし、この季節に赤い躑躅があちこちに咲いているのが奇妙だ。「百合も咲いてるよ」講釈師が指差すほうには、確かに白百合が一本、淋しそうに咲いている。
 民家の庭先でなんとも不思議な植物を並べて売っている。今おばさんが畑から切ってきたばかりだ。ピーマンをもっと三角にして、太い方に耳をつけたような形で、色はレモンに似ている。それが太い茎についているのだ。「フォックス・フェイスだよ」活花に使うのだと講釈師がのたまう。彼の守備範囲は活花にまで及ぶのか。「初めて見ました」カズちゃんが感動する。「花屋さんに売ってるわよ」マルちゃんが言うのだが、「うちの田舎じゃ花屋さんでも見たことがありません」と首を捻る。別名ツノナス「角茄子」とも言う。ナス科だが、毒があるらしいので飽くまでも観賞用のものである。
 「トビが飛んでいます」鳥を発見して双眼鏡を覗いていた瀬沼さんが確認する。講釈師も「トンビだよ」と何度も口にする。いつも思うのだが、鳥を観察する人の目はどうなっているのだろう。ほとんど羽根を動かさずに円を描くように回っている。

紅葉もとんびも出づる高麗の道 《快歩》

 ところが、ここから講釈師の話がずれていく。「マントみたいな奴をトンビって言うんだ」そこに行きますか。私の連想が及ぶのは精々三橋美智也くらいだから、発想が貧弱か。「インパネスとも言います」ダンディが知っているのは当然だ。日本語では二重回しとも言う。「それはどういうものですか」「金田一耕助が着ていたじゃないか」やっと阿部さんが思い出す。「それでは、貫一が羽織っているのは何ですか」熱海の海岸を思い出す阿部さんも珍しいひとだ。「一高生ですからね。学生服にマントです」「高下駄履いてるんだ」
 「青リンゴの香りがするんですよ」阿部さんが枝に手を伸ばして青い葉を千切ってみせる。なるほど、言われてみれば確かにそうだ。全員が真似をして葉の匂いを嗅いでみる。これはハナズオウであるという。花が咲いていないと私はさっぱり分からない。「私、初めて聞きました」チョウコさんに、赤紫の花だと教えたが「白いのもありますよ」と恩田さんが言う。そうなのか。色の名前になっているのだから、蘇芳はあくまでも赤紫であって欲しい。マメ科ジャケツイバラ亜科、またはジャケツイバラ科である。
 オトコヨウゾメという不思議な名前を初めて聞く。スイカズラ科ガマズミ属。男莢迷と書く。なんでも、ガマズミと違って食えないから「男」をつけたというのだが、よく分からない。それなら女は食えるのかしら。赤い実である。
 花弁だか蕊だか分からない、二センチほどの、白い毛糸のようなものが数十本も伸びている花はコウヤボウキであると恩田さんが教えてくれる。高野箒なのだそうだ。キク科コウヤボウキ属。高野山では、この茎を束ねて箒の材料としたということである。
 ムラサキカタバミもあちこちに固まって咲いている。この花は花季がずいぶん長いね、と宗匠に話しかけると、「イモカタバミだよ」と返事が返ってくる。私はムラサキカタバミとイモカタバミの区別がよく分かっていない。
 赤い実をつけているのは(秋の樹木はみんな赤い実をつけているけれど)ヒヨドリジョウゴである。「あっ、そうか」と口にしたものの、教えてもらわなければまた見ても区別ができない。樹木ではなくナス科ナス属の多年生草本であった。

 ようやく聖天院に辿りついた。正式には高麗山聖天院勝楽寺。元法相宗、後に真言宗智山派となる。

 聖天院は、高句麗から渡来した高麗王若光の菩提寺として高麗川の左岸に建立された寺である。寺伝によれば、若光に従っていた僧の勝楽が、若光の冥福を祈るためにその念持仏だった聖天歓喜仏を本尊とする寺院を建立しようとした。だが、完成をみないで天平宝字三年(七五一)に没してしまったので、その後弟子の聖雲(若光の第三子)らが、勝楽の遺志を受け継ぎ一寺を建立した。それが高麗山聖天院勝楽寺である。聖天歓喜仏を本尊として祀ったことから、聖天院の名で広く知られている。
 http://www.bell.jp/pancho/travel/saitama/shodenin.htm

 道路脇の将軍標(石柱)から入るとすぐに立派な山門がある。天保三年(一八三二)建立と言い、雷門と書かれた大きな提灯が吊るされている。隊長は将軍標の辺りで立ち止って動かないが、門の右手には王廟があるので、そちらに向かう。高麗王若光の霊廟だ。廟の中には、厚さ様々な石が七段積み重ねられていて、これは朝鮮様式の多重石塔という墓石の形式である。霊廟の前にちょうど狛犬が位置するように、石の羊が二頭、頭を垂れている。日本ではあまり見かけないもので、中国や朝鮮半島では羊を鎮魂獣とする風習があったのかも知れない。
 脇に「高麗若光王陵・大韓民国国務総理金鐘泌」なる黒御影石の碑が立ち、裏面には「檀紀四千三百三十三年 施主尹炳道」と書かれている。
 「檀紀って何でしょう」ダンディが知らない。「確か神話上の国で、檀氏朝鮮っていうのがあったと記憶しています」「調べてください」それで調べた。
 檀君という神話上の人物がいる。天帝と熊の化身である女性との間にできた子で、朝鮮を創始した。その建国は西暦紀元前二千三百三十三年ということになっており、それを紀元としたのが「檀紀」である。

 『三国遺事』が引用する「朝鮮古記」によれば、桓因(桓因は帝釈天の別名である)の庶子である桓雄が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を三つ与え、桓雄は太伯山(現在の白頭山または妙香山)の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら三千人の部下とともに降り、そこに神市という国をおこし、人間の地を三百六十年余り治めた。
 その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜二十個をあたえ、これを食べて百日の間、太陽の光を見なければ人間になれるだろうと言った。
 虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は二十一日目に女の姿「熊女」になった。しかし、配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。
 檀君は、堯帝が即位した五十年後に平壌城に遷都し朝鮮と号した。以後千五百年間朝鮮を統治したが、周の武王が朝鮮の地に殷の王族である箕子を封じたので、檀君は山に隠れて山の神になった。千九百八歳で亡くなったという。(ウィキペディア「檀君朝鮮」より)

 何しろ三皇五帝の堯と同時代なのである。中国最古の王朝として、実在性が証明されていない夏王朝でさえ、その建国は紀元前二十一世紀とされている。それよりも古いのだから、日本の「紀元は二千六百年」なんかとても比較にならない。「白髪三千丈」は中国人のオハコかと思っていたが、朝鮮民族もなかなか負けてはいない。北朝鮮ではこれを実在の人物であると主張しているらしい。どうもね。

山寺は新義真言ほととぎす   虚子

 雷門から石段を登って中門の前に立つと、これから先は三百円が必要だと書かれているので、私たちは入れない。どうやら丘陵を利用して上のほうに本堂や阿弥陀堂、鐘楼などがあるようだ。
 本当は三百円を出しても見学した方が良かったというのは、後で思ったことだった。別の機会に来てみることにする。文応二年(一二六二)の銅鐘。在日韓国民族無縁仏供養塔は、日本支配三十六年間を象徴して三十六段になっているそうだ。他にも檀君、広開土王、若光などの石像があるらしい。
 ここはそれだけで終わって次に向かう。チイさんが新聞の切り抜きを取り出して、「意味が分からないんですよ」と阿部さんに訊いている。渡辺一夫『イタヤカエデはなぜ自ら幹を枯らすのか―樹木の個性と生き残り戦略』(築地書館)という本の広告なのだが、これが不思議だと言う。阿部さんもそんなことは知らない。「なんでしょう、分からないわ。ただのカエデではなく、イタヤカエデが問題なんですね」種を守るために個体を犠牲にするのは自然界ではよくある話だが、このイタヤカエデのことは分からない。大体、私はイタヤカエデというのがどんな樹木なのか知らないのだから話にならない。謎は、チイさんが本を読んでから解説してもらおう。
 少し歩いて高麗神社に着けば、赤ん坊を抱いた正装の家族が何組も、鳥居や本殿を背に写真を撮っている。七五三だ。この行事は秋ならば、適当な日に勝手にやっても良いのだろうか。(我が家の息子たちのときはどうしたのだったか)何も知らないから、こんなこともウィキペディアのお世話にならなければならない。それによれば、本来は旧暦十一月十五日の行事であるが、太陽暦の採用以後、新暦でも良いようになったらしい。しかし、今日は新暦十月二十四日、旧暦では九月七日である。どちらの条件にも当てはまらない。謎である。いずれにしても、この行事の本来の趣旨はこういうことである。

 近世までの日本は、現在の開発途上国と同様の状況(栄養不足・健康への知識不足・貧困など)が原因で乳幼児が成人するまでの生存率はきわめて低く、その様な事から乳幼児の生存を祝う節目として定着した。男児が女児よりも早く祝うのは後継者としての意味合いもあるが、医療技術が発達する現代までは女児よりも男児の生存率が低かったためである。
 また、三歳=言葉、五歳=知恵、七歳=歯を神から授かる事を感謝とする地方や、三歳、五歳、七歳は子供の厄として、七五三を一種の厄祓としている地方もある。(ウィキペディア「七五三」)

 この神社は高麗王若光を祀っている。若光は高句麗の副使として滞在中に祖国滅亡にあって、帰国することができなくなった。最初は神奈川県大磯町高麗に住んでいたらしい。だから、大磯にも高麗神社(社号を変えて今は高来神社)がある。高麗郡創設に当たって大領(郡司)に任ぜられ、このときに「王(こにきし)」の姓を下賜された。だから、高麗の国の王と言うわけではない。
 境内に入る前に、先ず樹木の観察をしなければいけない。ニシキギ、マユミ。マユミの実は、なんだか薄ぼけたピンクだが、「これが割れると中から赤い実がでるんだよ」と隊長に教えられる。つまりこれは種を包む果皮であった。ニシキギもマユミもニシキギ科ニシキギ属である。ニシキギの枝には翼というものがあるのだと宗匠が納得している。

ニシキギの翼広げて高麗神社 《快歩》

 「こっちからが角度が良いよ」講釈師に呼ばれていくと、駐車場に将軍標がちょうどカメラに収めやすい位置に立っている。この将軍標は顔が大きくて、柱全体の四割ほどを占めている。
 「あれ、十月桜でしょう」と伊野さんが指差す方を見れば、白い花びらが疎らに咲いているのは、確かに桜である。先月、野田でも見たような気がする。
 モッコクというものもある。私は初めて聞く名前だ。地面には実が散乱していて、殻が割れた中から赤い実が見える。「モッコクは庭木の王様」宗匠の言葉にマルちゃんが反応する。「どうして」「姿が美しいから」「それじゃ、お父さんに教えなくちゃ。家には王様がいるって」ツバキ科の常緑樹である。漢字では木斛と書く。
 「なんだよ、早く行かないのか」だんだん講釈師がシビレを切らしてきた。さっきまで随分静かだったが、やっと彼らしくなってきた。「だって、あいつがいないからさ」ロダンがいなくて淋しいと告白しているのである。
 参道の樹木には、「献木」の立て札がいくつも立ち、それに韓国も含めた大勢の政治家の名前が書かれている。「親父もいたろう」「お祖父さんですよ」これは鳩山一郎のことであった。こんな田舎の神社に何故こんなにと思うのだが、濱口雄幸、若槻禮次郎、斎藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎がここに参拝してから総理大臣になったそうで、そのため出世明神とも呼ばれている。「我々には関係ないですね」とダンディが独りで納得している。知らなかったのは私だけで、全国的にも有名な神社なのだろう。
 朝鮮王朝最後の世子となった李王垠、方子夫妻の名も見える。李方子は皇族梨本宮守正王の第一女である。いわば政略結婚の犠牲者だが、晩年まで日韓友好に力を尽くした。私は、本田節子 『朝鮮王朝最後の皇太子妃』を読んだだけだが、なかなか立派な女性である。
 「高句麗って、韓国よりもむしろ北朝鮮に近いんじゃないですか」桃太郎は地図を連想して、当然のことを口にする。私は朝鮮史をまともに勉強していないが、満州から朝鮮半島北半部を支配した国である。扶余族、つまりツングース系で、朝鮮族というよりも満州族に近いのかも知れない。
 因みに、ウィキペディア「高句麗」によれば、二三十年ほど前から中国の歴史学界では、高句麗史は中国史に属するという見解が出され、韓国歴史学界の反対を受けているという。中国側の言い分では、歴代中国の政権に服属してきたからだと言うことらしいのだが、それなら邪馬台国だって中国史の一部になってしまう。そもそも近代の国民国家とは全く異なる古代世界を、現代の理屈で切り分けてみても仕方がない。日本も含めて東アジア世界というひとまとまりで理解しなければならないのである。

 ベンチを並べた休憩所で弁当をとる。マルちゃんに貰ったものの他にも、皆川さんが柿をくれた。カズちゃんは炊き込みご飯(糯米だからオコワというのかも知れない)をたくさん作ってきてくれた。これだけでおなかが一杯で、これなら弁当を持ってこなくてもよかったんじゃないか。豪農は茹でた落花生を持参した。これはつい最近どこかで食べた。なにやら芋を食っているような感じであった。他にもクッキーやチョコレートがいつの間にか出てくる。いつもながら有難いことである。
 食後は、奥のほうにある高麗家住宅に回る。高麗家は八世紀以来連綿として高麗神社の宮司として続いている家柄で、現在の当主は五十九代目になるそうだ。高句麗時代を計算に入れれば、天皇家より古いかもしれない。
 「チャングムの家があるじゃないか」講釈師は韓流ドラマが好きだ。ちょうど私には分からない何か韓国のドラマのポスターが貼られていて、彼はずっと眺めている。建物は茅葺の入母屋造り、部屋が五つと土間がある。「昔住んでいた家と似てます。我が家は曲り家で、牛も一緒にいたりしたんですけどね」と言うのは遠野の姫だ。
 「そろそろニックネームをつけましょうよ」と桃太郎が笑っている。「遠野のカッパ姫はいかがであろう」「却下。ゼッタイに、イヤですからね」ニックネームはなかなか難しい。ザシキワラシ、オシラ様。私の連想は南部から離れられず、次第におかしな方に向かっていく。これでは魅力的なチョウコさんには相応しくない。ダンディに考えてもらおうか。

 まだ全行程の三分の一も歩いていない。先は長い。カワセミ街道という表示を見て、Jゴルフ鶴ヶ島(私は鶴ヶ島カントリーの名前で覚えていた)のフェンスに沿って曲がりこむ。右の山側には川が流れている。「ここは鶴ヶ島ですか」住所は日高市である。道路は綺麗に舗装されているが、車は全く通らない。「ゴルフ客が朝晩使うだけですよ」瀬沼さんの言葉に、「そのためだけに、こんな綺麗な道路が必要なんですか」と阿部さんが驚く(憤慨する)。
 「これってタムラソウですか」桃太郎は油断がならない。私の知らない単語をちゃんと知っている。だが残念なことに阿部さんの鑑定ではアキノタムラソウであった。シソ科アキギリ属。ごく薄い紫色の細い花が伸びている。「そうか、普通のタムラソウっていうのは、薊みたいなやつですよね」そういうものらしいが、そっちのほうはキク科である。形もまるで違うのに類似の名を持つのは何故だろう。
 山道に入れば、要所々々に将軍標が立っている。道標になっているのだ。「これ、なんですか」チョウコさんが見つけたのは、その赤い頭のちょっと下の部分が熊の爪にでも引っかかれたように剥がれているところだ。「熊がいるかもしれません」瀬沼さんは冷静である。熊は絶滅危惧種だそうだが、里に降りてくれば人間にも熊にとっても、互いに不幸なことになる。「ずいぶん道が整備されていますよ」彼はこの辺りにとても詳しいのだ。
 「ヤマカガシだ」小さな蛇が車に轢かれたような形で死んでいる。「意外に小さいわね」二十センチほどだろうか。「一目で、ヤマカガシと判定するのがすごい」チョウコさんは目を背ける。カズちゃんも苦手のようだ。

 山道を登って白銀平に着く。ただし最後の階段がきつそうで、講釈師の意見で長老はその下で待つことにした。しかし登り始めればたいした階段ではない。これならちょっと頑張れば登れたのではないだろうか。「そうよね、折角きたんだもの」シノッチも盛んに言うが、講釈師は「ダメだ、かなりきつそうだったから」と自分の判断に自信を持っている。
 シロガネダイラと読む。アセビの白い花が岩肌を飾ることから名づけられたと説明される。「あれっ、富士山はもう過ぎたんですか」阿部さんが不思議がるが、さっき分岐点があったので、後で寄ることになるのだろう。あいにくの曇天で、景色もあまり見えない。晴れていれば遠くの山がちゃんと見えるはずだ。標高百九十五メートル。
 少し戻って、将軍標に富士山方面と記されている細い道に入り込む。申し訳ないが、長老にはまたこの分岐点で待機してもらうことになる。「富士登山隊です」標高二百二十一・二メートルであっても、富士の名を背負う山である。
 先週から少し腰の具合の良くない私にはちょっときつい。こんな場所ではやはり杖が欲しい。「軟弱ですよ」という声がダンディからかかる。しかし宗匠はどこかで拾った木の枝を付きながら歩いているじゃないか。「腰には農業が一番です」春先には腰の不調を訴えていたチイさんが、今では農作業のお蔭ですっかり完治したのだそうだ。しかし私には農業はできない。
 「スクワットが良い」宗匠は自らの経験で主張し、コバさんは蹲踞が良いという。みんな腰では苦労しているのだ。そう言えばこの頃隊長は腰の痛みを口にしないね。完治したのだろうか。
 最後の階段(と隊長は言っていたが)は「階段」というものではない。土留とでも言うべきものではないだろうか。段差が極端に高くて疲れる。長老はここでも少し手前で待ってもらうことになった。「足の短い人はダメだな」講釈師がカズちゃんを見ながら悪口を言う。カズちゃんは蹴飛ばす振りをする。講釈師もやっと本領を発揮してきた。
 「俺だって、心を鬼にして言ってるんだ。ライオンは子供を谷に突き落とすだろう。それに耐えて丈夫な子供に育つ」今更育たなくても良いのだが。「耐えられなくて脱退した奴もいる。ここにいるのはみんな、耐えてきたやつばっかりだよ。俺は戸塚ヨットスクールの校長だ」漸く山頂にたどり着くと浅間神社が祀られている。半年ほど蟄居していたチョウコさんも息を切らせている。
 登りよりも下りが難しい。いつものように駆け下りようとしたカズちゃんに、「危ないからゆっくり」と言いかけた途端に尻餅をついている。「このことは書かないでくださいね」しかし報道は厳正でなければならない。「喋りながらだと危ないから黙って歩くんだ」そう言っている講釈師自身が、人一倍何かを喋りながら先頭を進んでいく。

 平地に降りてから不思議な場所にたどり着いた。石垣を積み上げたところに山根六角塔婆というものが立っているのだ。山根というのは、この辺が山根村であることを示す。私は初めて見たのだが、板碑を六枚、組み合わせているもので、その上にはやはり六角の板石が載せてある。一枚欠けているのが惜しい。種子は読めないから推測だが、六枚なら、六地蔵か六観音か。毛呂山町役場によれば貞和二年(一三四六)の建立である。
 すぐそばには宿谷地蔵尊が祠に安置されている。寛文十二年(一六七三)、宿谷重本が建立した。宿谷氏は児玉党の出身であると言われ、多波目城(坂戸)に拠っていたという説がある。

カンタンの夢の如きか高麗の郷 《快歩》

 私は不注意だから、宗匠のこんな句を見てがっかりしてしまう。コオロギが鳴いていたのか。
 毛呂山総合公園でトイレ休憩を取る。館内は土足厳禁だが、伊野さんはうっかり靴のまま入ってしまったらしい。靴を脱ぐのが面倒な人は外のトイレを利用した。明日はマラソン大会があるようで、巨大なバルーンに一所懸命空気を入れている親子がいる。
 住吉四所神社。「何か忘れてしまったけれど、群生していた植物を見たことがあります」瀬沼さんの言葉で講釈師も思い出す。「金子さんのとき(ふるさと歩道自然散策会)だよ。足を踏み入れるなって言われて」たぶん七八年も前のことではないだろうか、その頃の私は真面目な会員ではなかったから、来てはいないと思う。しかしよく憶えているものだ。「頭の中に映像が浮かぶひとがいるんですよ。講釈師の頭はそれですね」ダンディの意見である。
 ところで住吉四所と言うのは何であろうか。上方のことで知らないものの無いはずのダンディも首を捻っている。そもそも住吉大社は、住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)と息長足姫命(神宮皇后)を祀る。つまりこの四柱が四所ではあるまいか。(自信はない)
 実はもともとは単に住吉神社だったのである。応神天皇の頃(二七〇~三一〇)、摂津から勧請したと伝えられるが、その当時ここはまだ高麗郡にもなっていない。つまり人の住まない原野であるから、この年代は採用しない。明治四十年に、字内薬畝愛宕神社、祭神軻過突智命を合祀して、社号を住吉四所と改めた。(毛呂山町教育委員会『毛呂山町神社と寺院』より)
 八高線の踏切を渡る。「わっ、線路が真っ直ぐに」伊野さんが歓声を上げる。ただ一本の軌道が本当に真っ直ぐ続いている。ただ見るだけなら一本のレールは単純で良いが、実際に乗ってみると単線というのは実にまだろっこしいものだ。

一本のレール伸びたり芒原  眞人

 田圃の中の道を歩いていると、猛烈な臭気が漂ってきた。「牛舎でしょうか、豚舎でしょうか」「牛はこんな匂いをしません」南部曲がり家で牛と暮らしていた姫が断言する。「豚って清潔好きだって聞いたんだけど」宗匠が言うのは私も聞いたことがある。清潔好きな豚が、こんな臭いの中で生きているのだろうか。
 「こっちから行けますよ」と瀬沼さんが声を掛ける。田圃を突っ切って、ちょっとした崖を上るのだ。稲を刈り取った後から緑の芽が生えている。穭田(ひつじだ)と呼ぶ。

穭田にけだもの臭ふ曇り空  眞人

 稲藁を乾燥させるために、円錐状にまとめた形はなんと呼ぶのだろう。カズちゃんが頻りに思い出そうとするが出てこない。質問されても、私は町で育ったから分からない。「掛けるのもありますよね」稲を掛けるものをハザと言うのは知っているのだけれど。
 「危険なので回り道をしろ」という標識はあるが、それほど危険な場所でもない。登り切ると、そこが新しき村である。「ちっとも新しくないですね」というのは桃太郎だ。廃村だと言われても納得してしまうだろう。

 私は実篤の誇大妄想には同情しない性質で、新しき村住民に対しても、実篤に騙されて苦労した「お人よし」ではなかろうかと、失礼なことを考えてしまう。実篤だって実質六年で村から離れているのだ。原始共産主義をユートピアとして夢見ても、現代で生き延びられるはずがない。「ヤマギシ会みたいなものでしょう」コバさんが批評する。
 ただし、この時代に同じような共同体を構想した人がいる。実篤とは別の形で有島武郎も悩んでいた。この村に関する私の知識は、関川夏央『白樺たちの大正』によるのだが、それによれば、今では単なる右翼に分類されてしまう橘孝三郎の愛郷塾の前身もこの頃に発足している。周作人(魯迅の弟)の紹介で、後に中国革命を担う人たちの間にも、新しき村の思想が広まったと言う。そういう時代だった。
 しかし、そもそも豊饒な土地を農民が手放すはずもなく、地元が見捨てていた貧しい場所を漸く手に入れて開いた新しき村である。最初に入村したメンバーの中には、農業経験者は一人もいなかった。これで、農業で自立しようなんて寝言を言っても、農民に叱られてしまうだけだろう。結局は実篤が書き殴った原稿料や印税をつぎ込んでも、生きていくだけで容易でない。日本の中でも最も貧しい村が「新しき村」であった。
 もともと大正七年(一九一八)に宮崎県児湯郡木城町に開村したが、ダム建設のあおりで水没が決まったため、昭和十四年には大半の者が村を離れて一部が東の村(ここ)に移転し、日向新しき村は二人だけで存続した。つまり分裂したのだ。日向に残ったのは、我侭な女王然とした振る舞いを続けてきた房子夫人と、その愛人杉山正雄(後に正式に結婚し、実篤の夫婦養子として入籍、武者小路を名乗る)だけだった。青鞜社の「新しい女」であった武者小路房子は、杉山に先立たれて尚平成になって死ぬまで、人の訪れも稀な日向の地で過ごすのである。
 売店では野菜を売っていて、その中にカズちゃんが乾燥茄子を見つけて買っている。茄子の干物なんて聞いたこともないし、旨いものであるという気がしない。貧しさが生んだ最低限の知恵の産物ではないだろうか。
 鶏舎には鶏が狭苦しい中に詰め込まれている。今では、この程度の規模の養鶏ではとても商売にはならないだろうが、この養鶏の成功のお蔭で、新しき村は漸く自活できるようになった。昭和三十三年(一九五八)のことである。林にはシイタケ栽培場もある。
 美術館は入館料二百円だが私たちは入らない。実篤が書き散らした、かぼちゃや茄子の絵を見ても仕方がない。

農業が主体で、採卵養鶏・椎茸・稲作・野菜が四本柱です。ほかに、季節ごとに筍・茶・梅・ゆず・ぎんなん・柿などを収穫・販売しています。土壌改良剤としての鶏糞も販売しています。加工品としては、梅干・梅サワー・ゆで卵・竹炭などがあります。村の売店で販売しているほかに、出荷しているものもあります。
http://www.atarashiki-mura.or.jp/mura-no-shoukai/index.html

 「出荷しているものもある」という表現を見れば、販売の主体は村内の売店であるということだろうか。たまには物好きが訪ねてくるとしても、この売店でそれほどの販売量があるとは思えない。現に今だって、私たちのほかに外来者の姿は数人しか見当たらない。出版物だってそれほどの売上があるとは思えない。村外会員の寄付も大きいのではないだろうか。
 村のホームページによれば、現在村で生活している人は十二世帯、十七人。土地は十ヘクタールである。一人当たりの生活費は、税金を含めて平均すれば年間百二十万円強だという。村の趣旨からして、この「生活費」はすなわち個人の収入と考えて良いのではないか。休日や労働時間によっても異なるが、大雑把に計算すれば、時給五百円程度と言うことになる筈だ。いまどき高校生でも、こんな仕事にはつかない。
 日向の方には、三世帯五人が五・五ヘクタールの土地で暮らしている。

 最後は武州長瀬駅を目指して住宅地の中を歩くだけだ。この辺は高台になっていて、坂道の途中には割りに新しそうな住宅が並んでいるが、商店らしきものが見えない。「買い物が大変なんじゃないの」「坂道だしね」二十分ほど歩いてやっと駅についた。宗匠の万歩計では二万三千歩であった。
 隊長の当初の計画では三時解散のところ、一時間ほどずれ込んで、今は四時だ。ちょうど良いじゃないか。「だけど、さくら水産には出遅れたかもしれない」宗匠が変な心配をする。
 今日は川越のさくら水産である。珍しくダンディは参加せずに帰ってしまった。川越駅で和尚と合流し、カズちゃん、チョウコさんを含めて九人は、ちゃんとさくら水産の座敷に上がりこむことが出来たのである。いつものように桃太郎が手際よく注文を取り仕切り、時間が過ぎていく。

 二時間ほど楽しんで、帰る頃には雨になっていた。和尚の麗しい奥方が鶴ヶ島駅にわざわざ車で迎えに来てくれた。感謝。

眞人