平成二十一年十一月二十八日(土) 鶴川・多摩丘陵

投稿:   佐藤 眞人 氏     2009.12.7

 小田急線鶴川駅北口集合である。里山ワンダリングの会としては珍しい遠出となった。隊長、ダンディ、ドクトル、コバさん、ツカさん、古道博士(鳥、樹木もさることながら、鎌倉古道について非常に詳しいので)、豪農、宗匠、ロダン、桃太郎、久しぶりの三四郎(背は小さいが喧嘩は誰にも負けない)、カズちゃん、伯爵夫人、山の大姉御、私の十五人になった。城連のお姉さま方の姿が見えないのは、明日のネイチャー・ウォークに備えているためだろう。
 初参加の山の大姉御はヒマラヤ山脈を踏破する女丈夫である。コバさんの誘いで参加してくれたが、果たして私たちのようなノンビリ歩く会に満足してくれるだろうか。姉御とコバさんは桃太郎の師匠だ。二人の師匠を前にして、今日の桃太郎はやや緊張気味である。
 ずいぶん久しぶりの三四郎は、伯爵夫人に「もう来ないかと思っていました」と恨み事を言われて、なにやら弁解している。同じ団地に住んでいるのに、私も実に久しぶりなのだ。
 集合したのは北口だが、私たちは線路の南へ行かなければならない。「それじゃ出発します」隊長の声でスタートする。しかし踏み切りを渡ると隊長がいない。「あれっ、どうしたのかしら」「踏切を渡るって言ってたよね」理由は不明だが、暫くして隊長はゆっくりと追いついてきた。「タイチョウフリョウですね」豪農の反応が素早い。
 すぐに川に出た。鶴見川である。「私は、鶴見でしか見たことがない」ダンディが苦笑いしている。私はそちらの方も歩いたことはないので知らない。

 鶴見川の源流は、東京都町田市の北部、多摩市との境に近い上小山田町にある多摩丘陵の谷戸群(低湿地)の一角、田中谷戸(標高約百七十メートル)の湧泉である。(中略)
 源流を発した鶴見川は、町田市鶴川で真光寺川と、神奈川県川崎市麻生区で麻生川と合流し、横浜市青葉区を縦断する。東名高速道路の下を抜けて、横浜市緑区と都筑区の境界に沿い、下末吉台地に挟まれた沖積低地の入り口付近である緑区中山町で恩田川と合流する。このあたりまで、鶴見川は谷本川(やもとがわ)とも呼ばれ、源流からおおむね南東に流れる。恩田川と合流した鶴見川は、利水の基準地点とされる落合橋付近から東流し、港北区新横浜付近で鳥山川と合流すると蛇行して北へ向かう。再び蛇行して東流すると、港北区綱島付近で早渕川と合流し、鶴見区駒岡付近で矢上川と合流する。鷹野大橋付近から左岸に川崎市幸区と接しながら、南東へゆるやかに蛇行し始め、治水の基準地点とされる末吉橋付近から鶴見区を貫き、同区末広町・大黒町の河口から東京湾に注ぐ。(ウィキペディア「鶴見川」)

 「ツル」は水流(つる)だとする説がある。鶴川、鶴見、鶴巻、みなそうだと言うのである。別に、本当に鶴に由来するのだという人もいる。
 この辺りは町田市、川崎市、横浜市が入り組んでいる地域だ。駅は町田市にあるが、もう住所表示は川崎市になっている。
 川沿いの道は狭く、すぐに住宅地になっている。つい先日教えてもらったばかりの皇帝ダリアが咲いている。ダンディの辞書によれば、木立ダリア、帝王ダリアとも言う。メキシコ原産の園芸種で、あんみつ姫が完全に無視した花である。「だけど、そんなこと言っていたら、そこいらじゅう外来種ですよ」古道博士は現実を冷静に受け止めている。
 「飛行機が」豪農が空を指差す。「見よ、今日もかの蒼空に飛行機の高く飛べるを」(啄木)。空が青い。高度はそれほどでもないようだ。ツカさんが「エンジェル・トランペット」と言うのはキダチチョウセンアサガオである。実は私はこの花があまり好きではない。青臭い香りがかなり強い。庭や玄関先に植えている人の気が知れない。それに、いつも俯いているのはどうしてか。空に向かおうと言う気力に欠ける。敢闘精神というものがないではないか。
 橋の下を覗き込むと鯉が何尾も泳いでいる。「あの鯉は食べられるのかな」「泥臭いんじゃないですか」そこに豪農が決定的な一言を断言する。「コイは食べるものではありません。恋するものです」豪農は詩人になった。
 「アオギリってあったかな」宗匠の疑問は、隊長の案内に書いてあるのに、ここまで、それらしい説明を聞いていないからだ。「もしかしたら、さっきの赤い実の」恐る恐る口にしてみるが、「あれはサンザシ査山子じゃないか」とあっさり否定された。実は私もピラカンサ(トキワサンザシ)だろうとは思っていたのだ。なんとなく躊躇っていたのは、イイギリからの連想で、似たような名前だからアオギリも赤い実をつけるに違いないと思い込んでいたのだ。
 ところで私はサンザシの花を知らない。「サンザシの花咲けばサンザシの花に似てあのひとの暖かな暖かな声がする」という舟木一夫の歌があるのだが。
 「下に降りてみましょう」隊長に続いて階段を降りて水辺に出ると、階段の下には花や鳥をかたどった石のレリーフが置かれているのだが、それが何なのかは分からない。
 隊長の目的は岩石であった。「滑るから気をつけて」と言いながら水辺に近寄っていく。「なんだ、石ですか」関心のあるのは、隊長、ドクトル、ロダンのみ。石灰岩か泥板石かが問題であるが、他の人間はまるで興味を持たない。「石を見るなら、椿姫やサッチーを呼ばなくちゃいけませんね」

  小春日や河原の石を品定め  眞人

 もう一度上に戻ると、すぐ先の精進場橋の袂にあるのがアオギリだと、隊長が教えてくれる。アオギリ科アオギリ属、青桐であるが、中国名では梧桐である。もちろん赤い実なんか生っていない。「翼のついた実」と言うのが隊長の説明だ。乾燥した袋が二つに開いたような形で、そこに小さな実がついている。川の方には、それがひらひらと蝶のように落ちていくのが見える。

  青桐の翼果とびゆく鶴見川 《快歩》

 日の光を反射して、小さなものがキラキラ飛び回っているのも見え、これはススキの種のようだ。向こう岸にはススキが広がっているのが見える。このところ宗匠はススキに凝っているようで、オギだとか区別にやかましい。
 隊長が下見の時に、この辺りでビヨウヤナギが咲いているのを見たというので期待していたのに、今日は見えない。残念であった。ビヨウヤナギは私の一番好きな花である。橋を渡って、鶴見川から離れる。
 五百メートルほど南に歩くと、見星山三輪院高蔵寺に着く。町田市三輪町一七三九。真言宗豊山派。開山は康安二年(一三六二)、開基は権大僧都法印定有と伝えられる。康安二年は北朝年号で、南朝では貞治元年となる。足利家代々の祈願寺として建立されたとも言うから北朝年号を採用するのは当然だ。山門前には、風神・雷神二体の像が立ち、石段を登ると仁王像が立っている。どちらも露天であるのが珍しい。

 高蔵寺
 しづかやと
 散葉眺めゐて
 梢の柿の
 つやつやし色

 植え込みの中の立て札だ。立て札には「白秋の詩」とされているのだが、これは短歌だろうか詩だろうか。ネット上では、北原白秋はこれを含めてこの寺で「七首」詠んだという記事が多いので、やはり短歌であろう。それならば心を静めてゆっくり読んでみる。区切りが悪いのではないか。試しに「高蔵寺・しづかやと散葉・眺めゐて・梢の柿の・つやつやし色」と読んでみれば、普通の短歌である。どうも感度が鈍くて困ってしまう。
 「シャクナゲが咲いてますよ」古道博士が声を出す。シャクナゲで有名な寺なのだが、季節はずれに咲いていなくても良いと思う。薄い紅が差す大きな花弁だ。

  風雷神見得切る陰に返り花  眞人

 植え込みの中に一本だけ咲いているマムシグサの花は初めて見る。トウモロコシの三分の一ほどを茎の上につけたようと言えば良いか。隊長はムクロジの実を拾って説明している。「羽子板の羽根に使うんだよ」それにサポニンが含まれているので、石鹸の代用にもなる。「おおっ、よく知ってるじゃないか」なに、この話は講釈師から散々聞かされているのだ。
 山門の石段を降りながら、「ここは鎌倉の長谷寺の末寺で」と隊長が言いかけると、すぐさまダンディから訂正が入る。「これだから関東の人は困る。豊山派の総本山は奈良県桜井の長谷寺です」関西に関係することに関しては特にダンディは厳密なのだ。秀吉に根来を追われた新義真言宗の僧侶が長谷寺に入山して、豊山派が形成されたのである。
 真言宗にはいくつも「派」があるのかと三四郎に聞かれて、私は新義真言の豊山派、智山派くらいしか知らないことが分かった。「確か、十六とか十八あったんじゃないかな」「そんなにあるの」しかたが無いので調べてみた。古義、新義合わせて真言宗十八本山と言うのがある。
 古義真言宗系では、高野山真言宗(金剛峯寺)、東寺真言宗(教王護国寺)、真言宗善通寺派(総本山・善通寺、大本山・随心院)、真言宗醍醐派(醍醐寺)、真言宗御室派(仁和寺)、真言宗大覚寺派(大覚寺)、真言宗泉涌寺派(泉涌寺)、真言宗山階派(勧修寺)、信貴山真言宗(朝護孫子寺)、真言宗中山寺派(中山寺)、真言三宝宗(清澄寺)、真言宗須磨寺派(須磨寺)。
 新義真言宗系では、真言宗智山派(智積院)、真言宗豊山派(長谷寺)、新義真言宗(根来寺)、  真言律宗に西大寺(総本山)、宝山寺(大本山)がある。
 空海が余りにも偉大であったため、その没後、高野山は全く停滞し腐敗した。この改革に立ち上がったのが覚鑁(興教大師)であるが、旧習墨守派の抵抗にあって、覚鑁の一党は高野山を降りて根来寺に拠った。これが新義真言の始めであり、高野山に残った方を古義とする。

 寺を出ると、農家の庭に大きな黄色いカボチャのようでもあり、蜜柑でもあるような実が生っている。「オニユズです」鬼である。デコボコした形は余り美しくはないが、何に使うのだろうか。宗匠の調べではジャムにするらしい。
 左の山側には地層が剥き出しになっていて、地質に関心のある三人は観察に忙しい。「オニオン構造が見える」何ですか。「タマネギだよ」ますます分からない。岩肌に、かなり目立つ窪みができていて、どうやらそれがタマネギの形に似ているということらしい。「オニオン構造」ではネット検索しても判明しない。「オニオンストラクチャー」から、こんな記事を見つけた。

 皿貝化石群層中に見られる現象で、輪切りにした玉ねぎの断面のような模様が地層表面に表れています。「オニオンストラクチャー」あるいは「玉ねぎ状風化」と呼ばれる現象で、周辺から中心に向かって同心円状に風化が進むことによってこのような模様が作られると考えられています
 http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/modules/master9/index.php?id=164

 「ここの地層から貝の化石や遺跡を勝手に発掘しないでください」という看板があるので、太古は海底にあったということだろうか。
 右側には竹薮が広がり、大伴家持「我が屋戸のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも」の立て札が立っている。このあたりは三輪である。大和国三輪の風景に似ているから名づけられたと言う。真偽は不明だ。
 枯葉を踏みながら山道を少し歩けば、崖の中腹には横穴墓の遺跡が見えてくる。白坂横穴古墳群。説明によれば七世紀頃の遺跡であるという。「古墳」と言っているが、「墳」は土を築き上げたものだから、正確には「横穴墓群」と言うべきだろう。階段を上がって中を見ることができる。もちろん、骨が見えるわけではない。

 この土地は、むかし沢山城のあったところで、白坂は「城坂」の意であるともいわれます。この白坂には古くから横穴墓が十基ちかく開口してあり、未開口のものを含めると十数基になります。
 昭和三十四年にそのうちの二基を発掘しましたが、内部には五センチから十センチぐらいの河原石が敷きつめられており、数体の遺骨、須恵器などが発見され、これらの横穴は七世紀ごろにつくられたものと推定されました。
 この地域は多摩丘陵のなかでも横穴墓群の集中しているところですが、白坂横穴墓は最も充実しているものの一つであると考えられます。町田市教育委員会

 私は、もしかしたら両墓制の一次処理的な墓であるかも知れないと思った。横穴が開いていれば、鳥葬、風葬による遺体処理が考えられるからだ。しかし、ウィキペディアに言ううように横穴墓が薄葬令以降に流行ったということになれば、少し話は違うようだ。もう少し勉強しなければちゃんとしたことは言えない。
 こんなことを考えているとなかなか出発できない。講釈師がいれば、「もう、行こうぜ」と声をかけるところだ。主人公がいないのは淋しい。
 しいが、代わりにダンディが声をかける。「行こう」
 落ち葉の感触がなんとも心地よい。沢谷戸自然公園は特に言及すべきところではない。やがて、椙山神社に到着する町田市三輪町一六一八。鳥居の額には「椙山大明神」と記されている。由緒には元慶元年(八七七)に勧請されたとある。

 奈良県桜井市大字三輪に在る大神神社の社史には、武蔵国の三輪神社(上下二社)に、ご祭神(大物主神)を贈られたと明記されているとの事、つまり、上三輪の熊野神社と、下三輪の椙山神社は、大和の国の三輪明神、大神神社の末社であることが確認されている。http://www.mrfujii.jp/walk/heritage/jinja/91sugiyama.htm

 「武相地区だけで七十二あるんですよ」古道博士は、そんなことまで簡単に口にする。そうか、多摩丘陵には鎌倉古道が何本も通っているというから、たぶん歩いたことがあるのだろう。「杉山」「椙山」を合わせて七十二あるのであるが、「椙」を名乗っているのはここだけだそうだ。「椙」は国字で、「杉」の文字があるのに、なぜわざわざ作ったものか分からない。辞書では色々説明されているが、基本的には同じ文字だと判断できるだろう。
 三輪神社の末社であれば、「三輪」あるいは「大神」を名乗るのではないだろうか。「椙山」と名づけられている由緒は不明らしい。調べてみると、小さな癖になかなか面白そうな神社である。

 さて、杉山神社の名前が初めて歴史上にあらわれるのは平安時代です。『続日本後記』承和五年(八三八)二月の条に「武蔵国都築郡の枌(杉)山神社が霊験あるをもって官弊に預かった」、同書・承和十五年(八四八)五月の条には「これまで位の無かった武蔵国の枌(杉)山名神が従五位下を授かった」とあります。また九百年代の始めに成立した『延喜式』神名帳に、武蔵国四十四座「都筑郡一座小杉山神社」と記載されています。つまり、現在の横浜市域内で唯一の式内社とされ、当時最も有力な神社であったことが分かります。
 では「杉山神社の本社はどこか、御祭神はだれか」昔から盛んに議論されてきましたが、未だに定説がありません。明らかなことは、杉山神社の分布が鶴見川・帷子川・大岡川の三水系、及び多摩川の右岸(川崎寄り)に限られていること、多摩川の左岸(東京寄り)地域は氷川神社が多いこと、杉山神社が数多く分布する旧都筑郡でありながら現在の旭区内には一社もなく他の神社の勢力が優勢であることなど、ごく一部に限られます。
 杉山神社の分布状況から「杉山の神」を奉斎する集団が、海を渡って江戸湾(東京湾)に入り、各河川を遡りながら開発を進めたのではないかと考えたくなりますが、それも推論の域を出ません。杉山神社についての研究はまだまだこれからです。(保土ヶ谷神明社HPより)http://www.shinmeisya.or.jp/rekisi/sugiyama_01.html

 ここで疑問が生じるのは年代の違いである。この記事では、八三八年に官幣を授かったとある。しかし、先に挙げた由緒では八八七年に三輪神社を勧請している。つまり、「枌(杉)山神社」のほうが先にあったのだ。三輪神社が来たのはその後のことになる。それは神社に箔をつけるためかもしれない。
 但し御神体の鏡には、寛文四年(一六六七)の銘があるという。それまでは御神体はなかったのか。以前の神体が破損してしまって(考えにくいが)作り直したということもあり得ないではない。しかし、それよりも山の杉自体が神体であったというのはどうだろうか。むしろ、そのほうが古体に適っているようにも思える。
 「御神体っていうのは鏡に決まっているのかい」ドクトルは石や地質の専門家であっても、神社には詳しくない。鏡に決まっているわけではない。確か、福沢諭吉が社の扉を開けて石ころを発見したことがあったはずだ。石に対する信仰は確実にあるので、石を御神体にしている神社はいくつもある。神の依り代である。なんだって良いのだ。こんなことばかり興味をもつものだから、自然観察主体の皆様に顰蹙を買うのである。
 拝殿正面の彫刻を眺めていると、唐獅子の他に、鼻の長い動物が左右に彫られていて、宗匠は「バク」であるという。「麒麟じゃないかな」私は象かもしれないとも思ったが、たぶん獏が正しいだろう。そもそも様々な動物の部分をつなぎ合わせて作られた動物である。体は熊、鼻は象、目は犀、尾は牛、脚は虎のそれをくみあわせた。神が動物を創造した際に、余った半端物を用いて獏を創造したためなのだ。鼻は象のものを採用しているから、顔だけ見れば似ていてもおかしくない。悪夢を食ってくれる聖獣である。

  人気なき里の社や神の留守 《快歩》

 なるほど、今日は旧暦十月十二日、神無月であった。「神の留守」という季語があるのだね。勉強になる。

  獏睨む鎮守の杜の落葉かな  眞人

 私のメモには、この辺りに『金槐集』と書きこんである。確かにダンディと実朝の話をしたようではあるが、さて、それは何であろう。「本棚にある筈だから調べてみますよ」と自分で言ったことまでは覚えている癖に、まるで記憶が蘇らないのが悔しい。
 すぐそばには、高蔵寺地蔵堂というのがある。椙山神社も含めて、この辺り一帯が高蔵寺の持分なのだ。ここにはトイレがあるので、暫し休憩する。
 更に五百メートルほど行けば長祐山妙福寺(日蓮宗)だ。町田市三輪八一一。階段を登ったところに立つ山門は「高麗門」であると説明される。それは何であるか。こういうことは宗匠に聞けば良い。「知ってる?」「知らない」私は建築様式がよく理解できていない。寺伝では嘉永七年(一八五四)頃の建造とされている。

柱の構造は、鏡柱二本と内側の控柱二本から構成されている。四本の柱は直立しており、二本の鏡柱上に冠木を渡して小さな切妻屋根を被せ、鏡柱と内側の控え柱の間にも小さな切妻屋根を被せる。慶長年間までは姫路城「への門」や名古屋城「本丸二の門」のように直接、冠木に屋根をかけていたが、江戸時代初期以降に、江戸城「外桜田門」の高麗門のように冠木の上に束が立てられ、小壁が立ち上がった姿のものが造られるようになった。神社や寺院の高麗門には建物の性質上、扉がないものが多い。(ウィキペディア「高麗門」)

 句碑「たかんなやけふを明日へと教へをり」の「たかんなや」の意味が分からない。ダンディは「カンナ(花)だろうか」と首をひねり、私は「多感なや」と読んでしまって意味が通じない。無学である。「たかんな」はタケノコの古名であり、夏の季語であった。
 ついでに作者である石川桂郎という俳人のことも初めて知った。石田波郷に師事し、後水原秋櫻子の「馬酔木」に参加している。『俳人風狂列伝』で読売文学賞を受けた人だ。昭和二十一年から鶴川村能ヶ谷(町田市)に住んだ。目に付いた句を少し記しておく。

  病む波郷われは道化て冬日中  石川桂郎
  柚子湯して妻とあそべるおもひかな
  裏がへる亀思ふべし鳴けるなり

 長い参道の途中を道路が横切っている。少し行けば延亨三年(一七四六)建築の鐘楼門に出会う。門を潜って本堂に向かう石畳は、本堂に対してやや斜めになっているのが、ロダンと豪農の不思議に思うところだ。「どうして」と聞かれても、私に分かる筈がない。本堂は方丈形式で、天明六年(一七八六)に改築されたものだ。「これは珍しいよ」と隊長やロダンが口を揃えるのは屋根の形だ。方丈形式で一番簡単な屋根の構造は四角推になるはずだが、正面の一部が飾り屋根のように別に作られているので、少し複雑な形になっている。
 「住職のことを方丈って言うよね。宗派が限られているみたいだけど」隊長が口を開く。本来方丈と言うのは一丈四方(ほぼ四畳半の大きさ)の小さな庵で、構造が簡単で建てやすい粗末な建物のことである。主に僧侶や隠遁者が住んだのは、鴨長明『方丈記』でも分かる。またこのことから、住職が生活する部屋を方丈と言うようになり、住職自身のことをも方丈と呼ぶようになるのである。日本語ではあからさまに名前を呼ばずに、その住居をもって呼び方にすることで敬意を表すことがある。殿様、お館様、いずれもそうである。ここまでは知っているのだが、さて、それが宗派によって異なるかどうか。こんな記事を見つけた。

 真宗・浄土真宗の場合:「御院さん」「和上(わじょう)」
 天台宗:和尚(かしょう) 
 真言宗:和尚(わじょう)・方丈さん
 日蓮宗:上人(しょうにん) 
 浄土宗:和尚(おしょう)・上人(しょうにん)
   臨済宗・曹洞宗:和尚(おしょう) のような呼称があります。
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1010890450?fr=rcmd_chie_detail

 しかし、これが正確かどうかは分からない。曹洞宗の方では方丈様と呼ぶと言う記事もある。基本的には、どの宗派であろうと直接呼びかける場合には、「ご住職」と呼べば波風が立たないようだ。
 本堂の左手には寛文十二年(一六七二)に池上本門寺から移築された祖師堂があり、右手には白塗りの低い土塀で囲まれた一角がある。爪先立ちで覗いてみれば、庭が造られている。
 境内には親子連れの団体が屯している。遠足ではないね。町内会あるいは子ども会の行事だろう。絵を描いているのかもしれないが、子供が絵を描くのになぜ親が同伴しているのかは分からない。

 境内の遊ぶ親子の小春かな 《快歩》

 ここで昼食となる。桃太郎が沢庵を出してくれる。「まさか、漬けたんじゃないよね」「自分で切った、自分で弁当箱に詰めた」大きさは実に不揃いだが旨い。豪農はリュックから大量の柚子を出す。「十五人だから、二つづつ」こんなものを背負ってきたのだから、豪農のリュックは重い筈だ。私は、いつ貰っても良いように、ビニール袋をちゃんと用意している。
 弁当を終って境内を少し歩いているとき、「あれは何」と大姉御が指をさす。本堂の向こうの方に見える高い木の枝の、途中になにか丸く、その木には相応しくないようなものが取りついているのである。「ヤドリギですよ」と宗匠は簡単に判定する。「英語じゃ何て言うのかな」とダンディが辞書を引く。「まさかパラサイトじゃないでしょうね」どうやら普通には、mistletoeと言うが、plant parasiteとも言うようだ。
 宿木といえば多くの種類があるのかと漠然と思っていたのだが(と言うよりも、宿木に対して特別な見解なんか私は持っていなかった)、ヤドリギ類というちゃんとした分類があるのだ。ウィキペディアによれば、ビャクダン目に属すビャクダン科・オオバヤドリギ科・ミソデンドロン科の寄生植物の総称である。

 寺を出て歩き始めると、「動物霊園反対」「動物火葬反対」「守ってきた里山」等と大書された看板が目に付く。すぐに「東京・宝塚動物霊園」の看板も見えてきた。「宝塚ですか」「こんなところに」「しかも動物霊園ですからね」つまり本社(というのだろうか)が宝塚にあり、宝塚動物霊園と名乗っていて、ここはその東京支店に相当する。他に奈良にも「分院」があるので、かなり大規模な霊園である。
 この辺から山道に入っていく。尾根道には落ち葉が敷き詰められている。下三輪玉田谷戸横穴墓群。穴の前には鉄柵が置かれているから中には当然入れない。

 多摩川南岸の多摩丘陵の台地縁には横穴の小群集が各所にみられる。これらをとくに「南武蔵式横穴」と名付けている。下三輪横穴もその一つであるが、内部壁面に彫刻があり貴重なものである。横穴は大体南に向かって四個相並んであり、左から第一号および第三号に彫刻が見られる。
 第一号横穴は羽子板状をなし、羨道と玄室との区別がなく、左の側壁の一部は関東大震災のとき剥離した。奥壁の高さは一二五・八センチあるが、ここに上代切妻式屋根を表現したと思われる彫刻が見られる。第三号墓には四柱式屋根を表現したと思われる彫刻があり、死者がなお現世にあるという古代人の未来観によるものではないかと考えられている。(東京都教育委員会)
 東京都教育委員会

 少し戻ってもとの道を進む。山道だから一列になる。三十分も歩いた頃、下りと左に曲がる道との分岐点で隊長が後続を待っている。左へ曲がる細道は柵で塞がれているから、当然真っ直ぐに行くのだろう。「ここを真っ直ぐ降りて行けば、女子短大があるんだよ」やはり鶴川女子短大をめがけて直進するのかと思えば、隊長は柵の脇から横道に入っていく。「えーっ、女子短大じゃないの」「今日は休みだろう」普段女子短大生に縁のない男どもは喧しい。しかし、こんなところが通れるとは、知らない人は誰も思わない。「二度と来られませんね」こういうところには結構慣れている筈のツカさんもため息をつく。狭い山道の両側には竹藪が広がる。
 落ち葉が敷き詰められた尾根道は踵に優しい。暫くして下り坂を行くと、いきなり田園風景が広がった。水車小屋がある。ハザ架けには稲藁が架けられている。「子どもの頃、鉄棒の代わりに遊んでました」カズちゃんの故郷はこんな場所だったのだろう。目の前には細長く穭田が広がり、その向こうの雑木林の紅葉が美しい。細長い田圃の両側は丘陵地帯になっているから、ここは谷戸と言ってよいのだろう。絵に描いたような田園風景だ。「わざわざ観光のためにやっているんじゃないか」とドクトルが言うように、作り上げたような景色に見える。
 狭い道には数百メートルにも亘って車が止められている。何かのイベントがあるのかもしれない。ここは寺家(じけ)ふるさと村である。横浜市青葉区寺家町、いつのまにか横浜市に入っていたのだった。「四季の家」という建物で休憩に入る。ここで説明を読んでみる。

昭和五十年代当時、開発が進んでいた横浜市の中にあって、ここ寺家町には多くの自然が残っていましたので、農業との調和を図っていく為に「ふるさと村」の冠がつけられました。「ふるさと村」は、公園や作られた施設と間違われますが、寺家町の人たちの生活の場であり、水田や畑では農作物の生産が行われています。生産された作物は地元で直売されています。また、梨やブドウの生産もされていますが、需要が多いため直売が主体となっています。(中略)
その地名の由来は、「寺領」であった地域、あるいは、「寺域」であった土地からきているといわれています。ここ寺家町がどちらに由来するのかは、はっきりしていません。
しかし、大正十一年に王禅寺に合併される前までは、寺家町の中心には古くから東円寺というお寺があったそうです。

 展示室には牛の草鞋やサンダワラ(棧俵)が展示されている。そのサンダワラには「これは何でしょう」という札が掛けられている。「私、知りませんでした」カズちゃんが知らない。私はつい最近覚えたばかりで、彼女の尊敬を受けてしまう。
 四季の家を出て、田圃を挟んで、さっき来た方向へ戻るように行く。やがて切通しに入ると、少し登り加減の道になる。もう役目を終えたはずの案山子が数体、まだ残っている。両側の崖には地層が露出しているからロダンが喜ぶ。隊長は「薄暗い」道だというが、それ程でもない。
 地層を見ながら歩いて行くと田圃にでる。田圃を挟んで向こうの道のほうに山門があって、田圃の中をこちらまで参道が続いている。その参道の両側に羅漢や菩薩などの石仏がずらりと並んでいる。可愛らしい地蔵は十二支因む動物を持っている。守り本尊なのであった。それぞれの横には、白字で格言(?)を書いた黒い柱が立っている。「私、この言葉が好きなんですよ」カズちゃんが注目するのは、「姿より香りに生きる花もある」であった。「知らぬ間にトゲあることを言うている」これは講釈師のために言っているのではあるまいか。「知らぬ間にではなく、知ってる癖にですよ」と誰かが反論する。

  短日や居ぬ人諭す羅漢像  眞人

 石仏の上には、わりに新しい小さな鐘が並んで吊るされていて、それぞれに寄進者の名前が彫られている。「結構音が良いですね」ツカさんが鐘を弾いている。曹洞宗、三輪山廣慶寺である。町田市三輪町一六〇九。また町田に戻ってきた。
 本堂に上がる石段の下の石柱には猫の置物が据えられている。上れば境内は狭い。元亀三年(一五七二)、川崎の円福寺二世最安慶初和尚により開創した。

 階段を下りて崖に沿って歩いて行くと、西谷戸横穴墓群がいくつも穴をあけている。そのまま切通しの道を歩いて行くと、坂を登りきった頃、いきなり新興住宅地に入り込んだ。三輪緑山住宅。左側には中層の団地、右側には一戸建て住宅が並んでいる。今までの風景とはまるで違うので少し戸惑ってしまう。
 歩道の家側に立つ木に「ヤマボウシ」の札が掛けられている。しかしこれはサネカズラの実ではないか。「名にし負はは逢坂山のさねかつら人に知られで来るよしもがな」である。どうやら、木にサネカズラの蔓が巻きついているのだが、紛らわしい。
 ロダンがホトトギスを教えられてとっくりと観察している。「あれっ、知らなかったの」私はわざと声を張り上げる。舗道の街路樹の脇に咲いているのは珍しいが、ホトトギスには、ここ数ヶ月何度もお目にかかっている。
 中央公園で少し休憩をとる。宗匠がチョコレートを配る。もちろん私は戴かない。さらにユリノキ公園に入り込んでいけば、そこには三輪南遺跡がある。住居跡と瓦窯跡が出土した。小さな古墳のように盛り上がったところが瓦窯跡である。
 住居跡には柱の穴の位置に、丸木の輪切り(バームクーヘンのような)を埋め込んであり、窯の入り口だと思える場所には、赤い煉瓦が敷かれている。瓦を焼く工人の住居と窯跡だと推測されている。

 なお、昭和五七年(一九八二)、ここ(岡上廃寺跡)から四百メートルほど離れた東京都町田市南三輪の遺跡群が調査され、その一つから瓦窯跡一基が発掘されました。その瓦窯の操業は、八世紀中葉前後と考えられています。時期的にみて、製品の多くは武蔵国分寺の創建瓦として供給されたのでしょうが、岡上廃寺跡や宮前区野川につくられた影向寺(ようごうじ)の瓦にも類似したものが焼かれていますので、これらの寺院にも一部供給されている可能性は十分に考えられます。(川崎市教育委員会)
 http://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/stop/dokuhon/t0710.htm

 そこから右に曲がりこんでいくと熊野神社に着く。最初に行った椙山神社と同じときに勧請されたということになっている。樹齢三百年というアカガシがある。「これが珍しいんだよ」隊長が触っているのは梛(なぎ)の木である。葉は、厚ぼったくで椿のようでもあるのだが、葉脈が縦に走って(説明が上手くないのだが、笹のように)いる。大姉御が引っ張ってみるが、葉はちぎれない。根元から取れてしまった。「スゴイ力」「そうじゃないわよ」確かに葉を途中でちぎるのは難しい。これは熊野新宮から種を分けてもらって育てたものだ。
 ナギの表記は梛または竹柏。マキ科の常緑樹である。高さは二十メートル程度に達する。熊野のナギについては、下記が分かりやすい。

 国の天然記念物に指定されている、熊野速玉大社の境内に立つ推定樹齢千年の梛の大樹。平安末期に熊野三山造営奉行を務めた平重盛の手植えと伝えられ、梛としては日本最大です。ナギは熊野権現の御神木で、その葉は、笠などにかざすことで魔除けとなり、帰りの道中を守護してくれるものと信じられていました。
 ナギはマキ科に属する針葉樹でありながら、広葉樹のような幅の広い葉をもつちょっと変わった樹木です。その葉は、縦に細い平行脈が多数あって、主脈がありません。その一風変わった構造のため、ナギの葉は、縦には簡単に裂くことができますが、横には枯れ葉であってもなかなかちぎることができません。
 葉の丈夫さからナギにはコゾウナカセ、チカラシバなどの別名があり、その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないようにと女性が葉を鏡の裏に入れる習俗があったそうです。http://www.mikumano.net/meguri/sinnagi.html

 本日の最後のコースは宝積寺だ。東光院と号す。新義真言ではあるが、現在は単立の寺院であると言う。ここは川崎氏麻生区岡上。いつの間に川崎に入っていた。

東光院。境内御朱印地、村の北にあり、新義真言宗、京都三宝院の末、岡上山宝積寺と号す、本堂十一間に七間東向、本尊不動立像長三尺許なるを安置す、開山開基を詳にせずと云へど、天正の頃まで十一代に及ぶといひ、又天正十九年の水帳にも載たれば、いづれ古き寺なることを知べし、大猷院殿(家光)より寺領十五石の御朱印を賜へり、
仁王門。堂の正面にあり、五間に二間半、
鐘楼。門を入て右の方にあり、近き頃鋳し鐘なるに似たれど、其鋳し年月をしるさず、
天神社。堂の右にあり、
疱瘡神社。これも同じ辺にあり、(『新編武蔵風土記稿』)

 ひとけのない静かな寺だ。私たちは長屋門から入ったが、実は二階建ての仁王門がある。ただ、こちらの方は、道路からは遮断されていて入ることができなかったのだ。二階には様々な仏像が安置されているようだが、よく見えない。門の内側には、左右に三体づつ、つまり六地蔵が鎮座している。
 この寺は紅葉が美しい。真っ赤な楓、黄色のイチョウ、常緑樹の緑。「今年の紅葉はここで極まりですよ」とロダンが感激する。「この赤がデジカメだとうまくでないんですよ」と桃太郎が残念そうに言う。
 「ここは本日休業なんでしょうか」寺に営業日と休業日とがあるものなのか知らないが、本当に静まり返った寺だ。

 鶴見川に戻れば、マガモが泳いでいる。一羽孤独に歩いているのはセキレイであるという。空を見ていた古道博士が飛行機を発見して、「あんまり高くないですね。高度一万フィートもないでしょう」と言う。驚いたロダンが指を折りながら一所懸命計算する。「フィート」は大雑把に言って「尺」と同じくらいである。つまり一万フィートは一万尺と考えれば、およそ三千三百メートルと言えば良いか。これが高いのか高くないのかなんて、私にはまるで判断がつかない。
 鶴川駅に戻ったのは三時である。宗匠の万歩計で一万九千歩である。しかしまだ早すぎる。運よく店が一軒開いていて、よく確認もせずに入ってみたが、銀蔵」という寿司屋である。参加者九人。「できるだけ安いやつで」桃太郎はちゃんと分かっていて、適当に注文を按配する「あれっ、ドクトルがいない」「さっきダンディと一緒に帰りましたよ」。二時間ほど飲んで、一人三千円也。初めから「さくら水産」並みの値段は期待していなかったが、まずまずであろう。
 しかしまだ六時である。この時間に帰るわけにはいかないではないか。「父は義のために」飲むのである。だって豪農と桃太郎が飲もうと言うのだ。嫌がる宗匠と、もうかなり酔いの回っているロダンを無理やり拉致して、新宿経由組は甲州街道沿いの「さくら水産」に入り込む。私は明日、画伯夫人の主催する「ド・レ・ミの会」のステージに立たなくてはならないのに、こんなに飲んで良いのだろうか。一瞬それが頭の中を過ぎったが、すぐに忘れて飲み続ける。(明日の結果がどうだったか、それはまた別の物語になる)

眞人